「WTWオンラインエッセイ」


【第1巻内容】

年の初めに」
幸福の王子と格差社会」
超常現象」
「NHK新会長」
「経団連新会長」
「都知事選」
「大雪と都知事選」
「NHK会長と経営委員」
「大きさの尺度」
「国のための人か、人のための国か」
「汚染国家」
「NHKの経営委員と料金不払い」
「311に思う」
「ミッドウェー海戦」
「車内の携帯通話」
「予算委員会」
「真実を求めて」
「残業代ゼロ」
「中国はいつまた何故仮想敵国になったのか」
「廃炉への道」
「老化ということ」
「新自由民権運動の勧め」
「通訳だけの責任ではない」
「尊厳死の議論」
「奈落にご招待」
「貧しい人に冷酷な社会」
「憲法原論」
「資本主義以後の世界」
「世界経済の多様性」
「報道姿勢」
「科学への興味」
「個と人生」
「個とチーム」
「議員が多過ぎる」



「年の初めに」2014/1/2

総務大臣が靖国に参拝した。今世界で何が起きているのかも分っていない人間に大臣は無理である。戦争の記憶すらない若い大臣は、秘密保護法でも一役買っていた。もはや政党の名前から自由と民主の二語を取り去るべき時である。経済と民主主義を引き替えにする国民も国民である。

そして年頭に当たり、安倍総理に一言。旧総理官邸の霊の現象におびえておられるが、2.26で命を落としたのは、幹部の軍人ではなく、為政者や権力者に虐げられた国民の為に蜂起して処刑された兵士達である。一体貴方は靖国に参拝して誰に祈っておられるのだろう。貴方の祖父、岸元首相を含む権力者、戦争を推進した戦犯の人達に対してではないのか。
我々団塊直前の世代や、団塊世代は戦後の民主教育の恩恵に浴してきた。具体的に何を教わったわけではないが、小学校から大学まで、日本は国民が主役の国だという理念だけは一貫していたように思う。今また道徳教育などを持ち出す時代錯誤の人達がいる。彼らが、正義感も、平等の精神も、自由の理念もない国民を大量生産し始めたら、向かう先はファシズムしかないではないか。安倍、新藤両氏の口から最も聞きたくない、しかもふさわしくない言葉こそが平和の二文字である。

自分だけがエリートだと思い上がり、二言目には考えない国民が悪いと言いつつ、その考えない国民に悪乗りしている人達がいる。いま日本を支え、或いは今後の日本を支えてゆくべき、現在の40-50代の人達の心のどこかに潜む、自分に都合の良い国家主義への傾斜。それこそが歴史に学ぶことを意図的に避けてきた日本を、もう一度危険な縁に追いやる最大の要因ではないかと思う。日本人の敵は、日本人の心の中にある。私はその事実に抗議し続けたい。しかもそう感じているのは、決して私一人独りではないと信じている



「幸福の王子と格差社会」 2014/1/12

日本の存在感をアピールしたい首相が、取ってつけたようにアフリカを訪問した。それも安全な国だけである。でもその実態はばらまきとパフォーマンスにしか思えないものだった。これだけ政府専用機を使い倒して、一体いくら費用が掛かっているのだろう。しかも喜々として専用機から降りる姿を見ていると、かつてこれほど首相職を楽しんだ、幸せな首相が居ただろうかと思わざるを得ない。本来は重くて辛い職務のはずなのに、その苦渋も責任感もこの人からは全く感じられない。そのときそのときに、内容は無いが耳ざわりがよく、もっともらしい答弁させしていれば、物事は進んでゆく。これでは首相職も堪えられない。いまや首相というよりは、日本国初代大統領の感さえある。過去の首相はたった一つの法案を通すために職を賭してきた。

確かにいつも苦虫をかみつぶしたような顔をしているよりは、トップはいつもにこにこしていてくれた方が印象もいいだろう。下々も気持ちが安らかでいられるのかもしれない。国民はとにかく安心したい。しかし今は安心出来る、或いは安心していて良いような状況に日本があるとは、到底思えないのである。

今年は日本がついにローカルなテロと無縁でいられない、動乱の年になるかもしれないと考えている。世界中を見ていると、格差がある国では何処でも、大衆の不満が暴発を始めている。日本の国民は元来我慢強いし、おとなしい。それが為政者のつけ込むところとなり、権力者が国を私物化してきたわけだが、それにしても我慢にも限度はある。貧しくても格差が小さければ、皆で我慢して上を目指そうということにもなる。しかし若い人は就職さえままならないというのに、かたや使い切れないほどの報酬を得ている階層がいる。しかも(これが一番問題だが)与党の政治の方向は、恵まれた階層に厚く、生活の厳しい階層は一層辛くなる方向に進んでいるとしか思えない。もし安倍首相に少しでも物を考える力が残っていれば、日本を本当に平和な国にするのには、格差の是正が必要だということに気がつくはずだ。民の竈を賑わせ、人心に安定を与えるのがまつりごとではないのか。

国のおかれた厳しさ、問題から眼を背け、311や原発、国民の重税感も意に介しているようには到底思えない安倍首相。内閣府のブレインにいくら支えられようとも、そのブレインも畢竟、不完全な人間の集まりに過ぎない。早晩、その分析にも企画にも説明にも、矛盾やほころびが出て来るのは避けられまい。一方で大衆は凡庸かも知れないが、数は比較にならない。内閣府の天下が何時までも続くとは思えない理由がそこにある。

幸福の王子という童話があり、貧しい者のために全てを与えた銅像の話である。全身に貼ってあった金の板を、次々に貧しい者達に与え、ついには眼にはまっていたサファイアさえツバメに託し、持てる全てを失い、みすぼらしく誰からも顧みられなくなった。それでもおそらく王子は幸せだったのではないか。かたや幸福の絶頂にあるかの如き首相。最後に神が天国に迎えるのはどちらだろう。



「超常現象」 2014/1/24

超常現象の99%は科学的な説明がつく、即ち偽物であって、それを引いても、どうしても現代の科学では説明のつかない現象が残ると言われている。即ち現象は確かに起きているのに、それが何故だか分らないというものである。超常現象にはこれまで二つのアプローチしかなかった。そんな現象は実は起きていない、即ち錯覚か、もしくは人為的なトリックだというもの。より始末に困るのが、それは宗教的な力に基づくというもので、それもやはり短絡的な見方であることは点では同じである。両者ともそこで思考停止に陥ってしまうという点でも共通している。でも現代ではそのどちらでもないアプローチが地道に進んでいる。即ち現象をありのままに受け止めて、それが如何なる力の作用で起きているのかを理詰めで、科学的に追求するという立場である。

超常現象は、誰しも一度は経験していると思う。ただ他人に言わないだけである。私の経験でも一回や二回ではない。でも説明がつかないので、錯覚や一時の気の迷いで片付けており、それでも心の底に一抹の疑問が残ってしまう。一方で、超常現象を奇跡のように言い立てて、金を搾り取る悪質な宗教団体がある。でも超常現象は、教祖の力ではなくて、実は誰にでも潜在的に備わっている力が原因かもしれないのだ。

NHKの超常現象の番組で、科学者が興味深い実験を紹介していた。多くの人間が集まる場所に、乱数発生器を置く。そして多数の人が関心を持つイベントの時刻になると、乱数の発生パターンに一斉に変化が起きるというものである。

私も、人は死ねばそれまで、後には何も残らず、無論あの世もないと思ってはいる。私の自我の外に物理的な世界が存在し、それは自分が消滅した後でも存在し続けることが紛れもない事実だと思ってもいる。但し自分の意識と時間との関係については、未だに納得出来る説明が出来ていない。今のところ一番納得出来るものは、インド哲学のブラフマンの考え方だ。

説明のつかない事には謙虚で、またその解明の努力を続けてきたからこそ、現代の科学、化学、医学があるその中には量子の振る舞いのように常識を越えた世界もある。未知の現象だからと言って、単に切り捨てるのではなく、むしろ持てる科学力を総動員してもでもその解明に挑むことが、科学者に課せられた使命ではないだろうか。ニュートンは自分の前に未知の大海が広がっていると言った。意識というものが解明されて、初めて私達は人間というものを本当に理解することが出来るのではないか。



「NHK新会長」 2014/1/24

NHKの新会長に籾井(もみい)が就任した。その記者会見の席上で、彼は、政府が右と言えば右を向く、政府の意向に従うのは当たり前だと言い切った。これは彼がメディアの基本的な役割すら理解していない事を如実に示している。まずBBCに行って、放送メディアがどういうものであるかの教えを請うべきだ。今回の人事は明らかに安倍首相の判断だろう。

仮に官僚出身者なら、基本的にIQが高いので、これほどおかしな事は言い出さないだろう。しかも自ら進んで、従軍慰安婦問題に関する発言を行い、国際紛争の種さえまこうとしている。政府の代弁者を自ら宣言するような人を、何故国民が身銭を切って雇わねばならないのか。何故視聴者による審査がないのか。経営手腕が仮に必要だとしても、有能な経営者なら他にいくらでもいるだろう。文化や歴史に関する高い教養が無ければ、この要職は勤まるものではない。外国の要人と話す時に、どんな言葉がその口をついて出るかと思うと、ぞっとする。

経団連の会長と同じグループの出身であることも気になる。経営と制作の境目を踏み越えかねない人物のおかげで、NHKの職員と日本の国民には、冬の時代が訪れるだろう。本件は安倍氏の個人的な好みの問題で済ますわけにはいかない。なぜならその影には政権による世論操作の意図が見えるからだ。過去50年で、これほど露骨なジャーナリズムへの挑戦があっただろうか。トップとしての資質に大いに問題ありと考えざるを得ない。

追記)早速、NHKラジオの職員が、都知事選に関連して、有識者が原発の経済効果の話をしようとしたら、原稿を全部出させてチェックしたいと言い出し、大学の先生を怒らせたという事件が起きた。今時信じられないような検閲だ。ならば首相が原発再稼働派の立候補者を押す発言を報道するのもおかしいということになる。中立、公平性を欠くことになるからだ。トップからの指示か、現場の判断かは今のところ不明だが、仮にトップの反動的な思想傾向の影響だとすれば、それがこうも早くも組織の末端にまで現れていることに、驚きを禁じ得ない。



「経団連新会長」 2014/1/31

経団連新会長は開口一番、原発発再稼働を要求した。前任者と同じ化学畑だからかどうかは分らないが、少なくも前任者の超保守的で、(少なくも私には)尊敬出来かねる品格も、そのまま引き継いだかのようだ。業界としては目先で安い電力が必要だろうから、再稼働の発言に驚きはしないが、それより問題なのは、日本のエネルギーの未来を考えることさえ放棄しているような、視野の狭さである。先の見えない経営者ほど始末に困るものはない。この調子では日本の産業界の将来も心配だ。なお米倉氏は、在任中にご自分が成し遂げたと思う事を列挙して説明して頂きたい。とんと庶民には聞こえてこなかったので。

あれだけ大騒ぎした徳洲会事件が、静かに幕を引かれようとしている。自民が嫌うイノセだけを追い出せばそれで済むのか。これだけ黒に近い灰色の背景があるのに、何のおとがめも無いとなれば、それこそ検察特捜部の資質を問われることになる。逆の意味での国策捜査である。それとも捜査を止めようとする現政権には、石原に何か大きな借りでもあるのだろうか。いまや国民が頼れるものは司法による正義しかないのにである。



「都知事選」 2014/2/5

ちょっと早いのだが、今年の流行語に「愚弄」と「もっともらしさ」を挙げたいと思う。愚弄は新万能細胞で有名になった。でもいま愚弄されているのはネイチャー誌ではなく、他ならぬ日本の国民である。もっともらしさの方は、安倍政権に源流がある。国民が自衛するためにはそのもっともらしい説明の裏にある本音と真実を、自力で見抜かねばならない。ところが時々ぽろりと出る本音でさえ、メディアの配慮ですぐにもみ消されてしまう状態なので、これを一般の人に望むのは難しい。その結果、大勢に押し流されてしまうのだ。

都知事選挙が迫って来た。桝添一位、細川二位、宇都宮三位は衆目の一致するところだろう。個人的には原発・五輪推進派の桝添よりは細川の方がましだとは思うが、二位と三位を足しても多分一位には届かないだろう。戦術的には一票でも多く細川に集めて奇跡の逆転を狙いたい所だ。でも今回の選挙では考え方を変えた。勝てない事が分かっている候補でも、自分と同じ考えの候補者に投票することに決めたのである。それが民主主義の王道だと信じるに至ったからである。便宜的に投票した候補が負けたら目もあてられないではないか。自分の信念に従って行動する。それこそが市民の政治に対する(正確な)意思表示に他ならないのである。読者の皆さんもどうか自分の良心に従って投票して頂きたい。どうしても投票したい候補者がいなければ、その時は、投票所に行かないのではなく、白票を投じて欲しい。なぜならそれも記録として残るからである。

グレーゾーンが法整備の対象になった。攻撃される前の先制攻撃という意味らしい。いよいよ専守防衛から一歩を踏み出そうとしている。気軽に議論する問題ではないはずなのに、安倍首相のお気軽な調子の論調には脅威さえ感じる。こんな事はこれまでの自民党政権では無かった。秘密保護法以降、防衛省は急速に力をつけ、影響力を増している。同時に国民に遠慮しなくなってきているようにも感じられる。軍事力に内在する根本的な問題は、軍事力がいつも常に国民の味方だという保証がない所にある。命令を下すトップの価値観でどうにでもなるということは、いつ何時、その銃口が国民に向けられないとは限らないという事を意味している。安倍首相が好き放題やって失脚して去った後でも、軍事力は残る。暴力装置と言っただけで座を追われた閣僚がいたことが信じられないくらいである。



「NHK会長と経営委員」 2014/2/6

脱原発の意見のラジオ放送中止には、やはり籾井会長が関与していたようだ。言論の自由への明らかな干渉である。自分の顔には自分で責任を持たねばならない、年齢を重ねると品格が顔に現れるというのは本当らしい。発言を取り消しても人格や思想が変わる訳ではなかろう。また百田委員の他にもう一人のNHKの経営委員、長谷川教授が、朝日新聞に殴り込んだ右翼活動家を礼賛した事が問題になった。安倍首相の右翼思想はご自分の信念かもしれないが、人を見る目もその程度では、そのとばっちりで迷惑するのは国民である。愚かな宰相が選ぶ愚かな人達が国民に迷惑を掛けているというのは言い過ぎだろうか。維新とみんなが責任野党で、民主が無責任野党というレッテルの貼り方も幼児的に過ぎるように思われる。

目先の景気=それさえ失速気味で東証の下げ幅はついに2200円、アベノミクス以前の水準に戻った、に気を取られ、国民が日本を超保守の人達の手に委ねてしまえば、徴兵されるであろう未来の子供達はたまったものではあるまい。なお一昨日のNHKの朝ドラでは、甲子園に行く子供を、こともあろうに勝って来るぞと勇ましくの軍歌で送っていた。報道こそされないが、NHKに対する批判や反感は日に日に高まっている。WTWが結局このまま泣かず飛ばずで終わってしまったとしても、必ずや第二、第三のWTWが現れるだろう。なぜなら人間の根源的な要求、事実を国民の目線でありのままに見たいという欲求を、完全に押さえつけることなど出来はしないからである。

いわゆるリベラルな言論人にとって、これからますます冬の時代が来ることになるが、それでも意見を言い続けることは大事である。一般国民は、日本が危険な方向に猛進していることさえ、気がついていないようだが、それには主要メディアが必要な情報を与えていないという背景が考えられるのである。



「大雪と都知事選」 2014/2/10

週末の豪雪。積雪40cmの我が家では近隣の大学を通して、アルバイトの学生さんをお願いし、一緒に作業してなんとか除雪した。日中の気温が上がったことも幸いした。後で地域内を見回ってみると、対応には相当差があり、幸い私達の近隣は結束力が強くて、共用部分などでも、力を合わせて雪掻きをした。色々事情はあるだろうが、区画によっては自宅の車庫の前さえ手つかずというお宅もないではなかった。現代なので、隣組的な意識を期待する事は出来ない。一方で人や車が通れない、或いは通りにくいという動かしがたい現実も残る。戦前とは異なる形で、コミュニティの意識を持ち、少しずつ譲歩し合うことで何か解決方法が見つかると信じている。本件では家人からはさんざんお節介だと言われたが、車が近くの道でスタックして近所に迷惑をかけた去年の経験に懲りているので、FF車のスタッドレスタイヤにチェーンをつけて出動した。坂の多い地域なので、それでも進めない場所があった。市に話をしても、公道といってもバス通りしか除雪しない(しかもそれさえやっていない)という返事だった。これで高額の住民税かよと、NY駐在時代の現地の自治体の対応(スカースデール)と比較して、暗澹たる気持ちになった。転倒して怪我をした人が、地方自治体を相手に集団訴訟でも起こさない限り、目が覚めないのかもしれない。何でもかんでも住民の自己責任。それが日本の行政の姿だとすれば残念と言わざるを得ない。

投票日が大雪だという事は以前から分かっていたので、何故事前投票をもっと勧めなかったのだろう。しかし今更の様に思うのは、民主が一度でも政権を取ったというのは奇跡的な出来事=小沢がいなければ出来なかった、であって、その貴重な機会を、鳩山、管、仙石、とりわけ官僚との付き方も知らない野田が、俺が俺がで、滅茶苦茶にしたことが悔やまれてならない。これで当分リベラルな政権の時代は来ないだろうし、その間に日本の右傾化がどんどん進むことは間違いない。良識のある日本国民には大きな宿題が課せられたと思う。それは市場だけが決める、金銭欲しか動機付けのない、考えることを放棄した日本に、リベラルで道理の分かる強い野党を育てることである。それしか日本を破滅から救う、合法的な方法はないと信じている。なお民主が手を挙げるのなら、党首の若返りは必須の条件だと思う。



「大きさの尺度」 2014/2/19

納得できない、腑に落ちないという言葉がある。私が念願の理科系に進めなかった最大の理由が数学である。いわゆる数IIくらいまでは納得して理解出来ていたものが、数III、即ち微積分がどうしても感覚的に納得する事が出来ず、そこで理解が止まってしまったからである。どこまでも線を細分化して、それをつなげれば滑らかな曲線になるという説明で引っ掛かってしまったのだ。ということはその曲線を拡大して見れば、やはりカクカクした線が見えて来る訳ではないか。だから根本的に滑らかな線とは違うだろうというのが私の疑問だった。

ところで同じように今最も感覚がついてゆけない分野が、天文学と量子力学の分野だ。これらを感覚で納得する事はほぼ不可能である。最近、その理由に思い至った。それはそのサイズにある。或いはスケール=尺度と言い換えても良い。私達が直感的に理解出来る長さは、手で触って凹凸の分る0.1mmくらいから、長いところでは飛行機で移動しても、せいぜい数千キロ。肉眼で認識出来るのは高所から見た時の10kmくらいだろう。今は人工衛星があるから、地球の大きさも実感出来るようになった。それでもせいぜい3万kmの世界である。

しかし現代科学が扱っているのはそんなレベルの話ではない。量子力学が扱っているのはゼロが30個も並ぶ分母分の1ミリの世界であり、天文学が現実に扱っているのは100億光年も遠くの天体である。しかもこの宇宙の他にも、泡の様に無数の宇宙が生まれては消えていると言われているのだ。仮に太陽の隣の恒星が10光年先にあったとしても、今人間が持っている科学技術では到達出来ない。極微の世界も、極大の世界も、その間のごく狭い範囲、いわば地球の表面にしがみついて生きているバクテリアのような大きさの私達にとっては、直感的に理解する事は無理なのである。時間の感覚としても、文化を持つ生物種としてはせいぜい1万年、種としても百万年くらいの短い時間の幅で存続しているに過ぎない。かたや恐竜は何億年も繁栄したのにである。

即ち私達が生まれて、そして死んで行くこの現実の世界は、距離的にも時間的にも、感覚としては非常に限られた、とても狭い範囲だということが現実としてある。これまで宇宙には水が豊富と思われていなかった。実はこれこそ天文学者の最大の愚かな勘違いだったのだが、実は水はふんだんに存在しているのである。地球のような惑星があって、人類のような生命が誕生したのは奇跡だと言われてきた。でも今は月や火星は元より、宇宙には一杯水がある事が分かり、しかもそれが利用可能な液体の状態で存在出来る惑星も沢山見つかっている。即ち、生命の誕生が決して奇跡や偶然ではないという理解が定着しつつあるのである。

ならば中には文明を持つ生命もあるだろうし、その中には宇宙空間の距離の問題を解決した種族があるかもしれない。それらがUFOに乗って地球に来ているのかもしれない。
私は自分で目撃しているので、UFOの存在は信じているものの、未だに科学的にその存在が証明されたとは考えてはいない。生命の発生の時期は、恒星の誕生の時期に関係するので、当然のように10億年単位で異なっており、文明が発生しても、すれ違うことが容易に考えられる。

極微の世界でも似た様な事がある。宇宙は11次元で、4を引いた残りの次元は素粒子の中に小さく折りたたまれている等という説明を聞いても、到底我々凡人の理解の及ぶところではない。まして極微の世界では時間さえ不連続と言われている。過去、未来、或は同時という概念さえ意味をもたない世界がそこにある。

そこでは無から有が生じる。空間は無ではない(ならば何もない本当の空間はなんと呼ぶのか)等、我々が感覚を依存しているニュートン力学の世界とは異なる世界が、広がっているのである。宇宙空間は、いつかはせめてその一部でも征服出来るかもしれないが、量子力学の世界に、人間が行くことだけは絶対に出来ないだろう。

ここで言いたい事は、人間より大きな存在として宇宙空間を想像することは出来るが、量子力学が支配する極微の世界でも、実は果てなく小さい方向に広がっているのかもしれないと予想しているという事である。大きい方にも、小さい方にも、無限に広がっているのが個の世界なのではないか。それが私の、空間と時間と物質についての素人科学者の印象なのである。

時間と距離の尺度は、いかなる理解も、想像も超えている。しかしそれらが実在していることは科学的に証明されてもいるのである。但しそれは数式によってである。ではその極微や極大の世界と、我々はどう付き合えば良いのか。天才物理学者達はドヤ顔で縷々難解な理論を述べるものの、我々がそれをどう理解すれば良いのかは示してくれない。おそらく今そのヒントを示せるのは、科学者ではなく、科学理論と矛盾しない形での、哲学だろうと思う。しかも超ミクロの世界については、人間の意識の力が何らかの影響を持つ可能性もあるのではとないかと勝手に憶測している。

空間の大きさの問題をひとまずおいて、時間について考察してみよう。人間の時間軸で見れば、地球の歴史40億年という時間は理解も感覚も超えてはいるものの、立場と尺度を変えれば、ただ一瞬の出来事かもしれないのだ。まして人類の歴史も、人一人の一生も、更に短い時間の瞬間的な自然現象なのかもしれない。時間そのものも川の流れのように連続したものではなく、瞬間の積み重ねである可能性もある。逆に量子が存在し得る極度に短い時間も、それを感じる意識から見た時には無限に長い時間かもしれない。時間と空間と、その尺度のあり方、人間とその意識がそれにどう向き合えば良いのか、それこそが現代の哲学が取り組むべき課題だと思われる。哲学は精神の科学かもしれないが、自然科学の発展についてゆく努力を惜しむと、自らの存在理由を失う恐れもあるのではないかと思っている。



「国のための人か、人のための国か」2014/2/26

自動車で歩道に突っ込んで無差別テロをしようとした自暴自棄の人間がいた。人は社会的動物だと言われる。その言葉の冷たい響きを、私は認めたくないが、間は社会との関係、すなわち他との関係の在り方で、豊かな人生を送ることも出来れば、極端な場合、他人や自分を死に追いやることもあるのが現実である。孤立した個人を救済することは社会の安全にもつながる。今こそ社会と個人のあるべき関係を考えるべき時期なのではないか。但し安倍政権の国家主義は、それとは違うようだ。国家を個人より優先するものであり、そこから今一番必要とされる助け合いの気持ちを感じ取ることはできない。国に奉仕せよと居丈高に叫ぶ前に、自分から進んで守りたくなる国にすることが大前提であろう。美しい国をと叫んだ人が、今度は率先して醜い国にしようとしてはいないだろうか。



「汚染国家」2014/2/27

福島の汚染水。政府も全く関心はなさそうだ。五輪招致で安倍首相が世界に公言した約束=日本は汚染の心配はない、はその他の彼の言葉と同様、その場しのぎだったのだろうか。嘘も方便とは、今の官邸のためにある言葉なのかもしれないと思う。官邸に集うエリート諸君に言いたい。自分たちは頭が良いつもりかもしれないが、嘘は必ずつじつまが合わなくなる。それは嘘の持つ避けがたい本質=論理矛盾、なのだ。貴方たちが軽視している国民にも、いずれその嘘が分かる時が来る。その時に何が起きるか。革命は起きない。元々が大人しい国民だからだ。しかし与党は選挙に負けて、議員は権力を失う。木から落ちた猿以下である。官邸の人事も一掃されることになるのだ。その時に、国民はあなた方がしたこと、しなかったことを鮮明に思い出すに違いない。



「NHKの経営委員と料金不払い」2014/3/2

日本人はゴミの分別にも真面目である。これだけは米国人には無理だろう。ましてティッシュの箱を解体するだけでなく、口のビニールを内側から器用にはがすなど、絶対にできないし、やらないだろう。それと同じで、会長がいかに胡散臭い人物で、経営委員がいかに如何わしくても、きちんきちんとNHKの視聴料を払う人が日本人の大半ではないだろうか。 今朝の朝日新聞が、一面で安倍首相の足取りの検証を始めた。初回は教科書検定だが、最近もっとも目につくのは、今更言うまでもなくマスコミへのあからさまな干渉である。独特の歴史観(修正主義)を持つ首相が、自ら直接選んだ長谷川委員には、NHKが偏向しているので4カ月、料金の支払いを拒否したという経歴もある。経営委員自らがそういう経歴を問題にされないのであれば、一般市民が同じことをしても許されるはずではないか。全視聴者が4か月支払いを拒んだら、間違いなくNHKは倒産するで。但し長谷川委員が嫌う偏向と、私たちが嫌う偏向では、意味が全く逆であるが。



「311に思う」2014/3/6

また3月11日がやってくる。なのに、原発再稼働の動きが活発化している。誰が再稼働させたいのか。無論それは産業界であり、産業界を支える所轄官庁であり、産業界に金を貸している銀行である。生涯損益を計算すると、決して化石燃料よりコストが低い訳ではない原発。でも短期で見て、少しでも電気代が安くなれば目先の発電コストが下げられる。競争は日々の戦いであり、50年先の日本より、1年先の企業の競争力の方が切実なのだ。銀行は銀行で、メーカーだけではなく電力会社への直接の貸し付けもある。特に原発の事故で採算が悪化している東電には膨大な復興費用を貸し付けている。絶対につぶれてもらっては困るのだ。原発の電気をバンバン使って収益を改善して、利息を払って貰いたい。福島の場合は設計も古ければ、安全対策も不十分だった。同じ東北でも、設計の新しい女川原発では311でも何も起きなかった。即ち設計が新しい原発なら、311クラスの揺れや津波なら耐えられるということではないのか…。巨大な設備は国家的な資産であり、官民で膨大な投資をしておいて、それをむざむざ捨てろというのか…。そんな重大なことを誰が判断できるというのか…。殆ど問題がない設備なら、稼働させてこその設備だろう…。というように、稼働させたい理屈ならいくらでも考えつく。反対する理由はただ一つ、万が一にでもまた事故が起きて、放射能が漏れ出したら、経済的に国が破綻する。なぜなら住むところも、物を作ったり、消費したりする場所も無くなるからである。言うなれば国が無くなる。ただそれだけのことなのだ。

そこでまず銀行に言いたい。原発にこれほど大きなリスクがある事が予め分かっていたら、多分融資はしなかったのではないか。しかし融資は行われ、しかも想定外の問題が起きてしまった。100年に一度の天災だから予測はできないし、天災だから誰の責任でもないと言いたいかもしれない。だから起きなかったことにしよう、見なかったことにしようと言えるのか。しかもその融資のリスクは、国民を含む日本全体が負うべきだという論理にどうしてなるのだろう。融資のリスクは、融資した金融機関が取るべきものである。なぜなら利益も彼らが取るからである。しかも何故か破たんすれば政府が助けてくれる。外国の銀行に比べて被害が少なかったとはいえ、リーマンショックでリストラがあったという話も聞いていない。原発再稼働という形で、これまでよりさらに大きなリスクを国民に背負わせることで、自分たちの経営判断のミスと、その結果の融資の不良資産化のリスクを肩代わりさせようというのなら、それはいささか身勝手な発想ではないか。

次に政府と所轄官庁に申し上げたい。311の問題が何であったかを思い出してほしい。それは「想定外」ということだったはずである。311の津波は10m。でも南海トラフ地震ではこれが34mと予想されている。ここで一番危ない点は、ならば34mに備えればいいのだろうという話にすり替わることである。それでさえも「想定内」であることに変わりはないのである。何が起きるか予測できないから「想定外」なのだ。「想定外」が実際に起きるものだという危機意識を持つことこそ、311の最も重要な教訓なのである。34mに備えれば「想定外」に対応したことにはならない。また壁のような堤防を作ればいいというのも「想定内」だ。実際に巨大な堤防でさえ決壊しているからである。「想定外」に備えるということは、どんな手を打ってくるのか分からない自然を相手に、どうやって出し抜くかの知恵を絞ることに他ならない。最も実際的な対策としては、情報が素早く伝わる体制作りと、すぐに避難できる避難所を設けることだと思う。

また最近では、放射線に関する報道が極度に減っている。放射能に関する情報不足の状況は、それ自体が大きなリスクである。何の根拠もないのに、線量が下がっているような、あるいは放射能には重大な危険性がないかのような幻想に、国民が知らず知らずのうちに誘導されている可能性がある。(2016/2/16、自称環境大臣なる素人のトンデモナイ発言が耳新しい)

想定だけでみても、静岡の原発が被災したら、東名も新幹線も止まり、東海地方の生産は停止する。日本の経済活動が半身不随になる。富士山が噴火すれば、首都圏への降灰から、やはり日本経済に大きな打撃が出る。311の時の交通渋滞や、計画停電の比ではない。雪なら解けるが、火山灰はそうもいかない。除雪すらできない都政が、何かできるとは想像もできない。灰の捨て場所さえない。

最後に日本をリードするエリートたちに言いたい。それは視点を広く、長く持ってほしいということである。目先1−2年程度の数字合わせだけではなく、10年後にはどうする、100年後にはどうなるのかを考えて、今年の計画を立ててほしいのである。とりわけ官邸のエリート達の近視眼的な見方が心配である。日本を軍国主義、産業本位の国にしたとしても、10年と持たない(何故なら選挙があるから)ということがどうして分からないのだろう。それとも一度独裁政治体制を作ってしまえば後はそれが続くとでも思っているのだろうか。独裁が永続しないことは歴史が証明している。なぜなら独裁と革命はセットだからだ。一流の大学を出て、官民の中枢にいて、歴史から学ぶことも出来ずに、その程度の見通ししか持てないというのでは、いささか情けないではないか。ここは一つ、過剰な自信=傲慢さ、を一旦捨てて、ひょっとしたら自分は間違っているかもしれないと思える人こそ、リーダー足り得る、本当に優れた人だと思うが如何であろうか。



「ミッドウェー海戦」2014/3/19

3/18放映のNHKBS歴史館「ミッドウェー海戦」は全国民が見るべき番組だと思った。真珠湾攻撃に成功(?)した6ヶ月後、山本司令長官率いる連合艦隊がミッドウェーの米軍基地を攻撃すべく空母4隻で出撃し、その悉くを失った戦いである。素人考えでも、真珠湾で撃ち漏らした空母を叩くことが主目的だと思うのに、なぜか敵空母の捜索さえ充分には行なわれていなかった。作戦の失敗は未経験の空母戦(見えない敵と戦う事が求められる)ということと、海軍の暗号が米国に解読されて、作戦を読まれていたこと、南雲中将の兵装交換の判断が誤ったことが原因とされているが、どうもそれだけで済まされるものではないようだ。海軍は真珠湾攻撃の前にも作戦の図上シミュレーションを行なっていて、空母を失うという結論が出たので作戦を練り直している。そしてミッドウェー作戦のシミュレーションでも、空母二隻を失うという結論が出たのに、参謀長が条件の数字をその場で変えて、小破に留め、既定の作戦ありきの判断が下されたとのことである。問題は山本がその場にいてそれを黙認したにある。索敵で見逃した敵空母の攻撃を突然受けて、そのまま陸上攻撃用の兵装で出撃すべきなのに、実戦経験の乏しい南雲が90分も掛かる装備変換を命じて、その間の僅か10分間の急降下爆撃で全滅したのである。

米国なら作戦が失敗したら更迭が当たり前だ。日本軍では、陸軍の暴走や非道が良く取り上げられるが、ならば海軍は賞賛されるようなものだったのかと言えば、必ずしもそうではなかったのではないか。海軍の上層部は海軍兵学校出身の一握りのエリートが実権を握っていたと言われる。山本も、南雲も、ミッドウェーの責任を問われることはなかった。この海戦で何が問題かと言えば、その後の扱いである。すなわち国民はおろか、天皇にまで敗戦の事実が伏せられ、沈没した空母があたかも存在するかのような報告がなされていたことにある。嘘をつくことに、良心のとがめもなければ、軍人が持つべきプライドも感じられない。新聞がそれを知っていたかどうかは分からないが、少なくも敗戦の記事を書けば売れないので、軍部の嘘をむしろ喜んで喧伝していた様子も見受けられる。そして軍部も、新聞も、自分で情報を隠蔽していながら、戦争を国民のせいに転嫁してきたのではないか。そこに当時の無責任体質を垣間見ることが出来る。海軍がその後も敗戦を重ねた真の理由は、自己満足と自己欺瞞にあったのではないか。そうであるならば、想定外の状況はむしろ自ら招いていたということになる。

その当時から今でも続いていることがある。それは国の政策を決めている階層の無責任体質(無誤謬というあり得ない前提に立っている)である。当番組中で田原が指摘したように、第二次大戦は未だに総括されていない。つい3年前にも同じような事を我々は経験した。それは震災に伴う原発事故である。3年経った今でも、想定外の一言(ミッドウェーと同じ)で未だに総括らしい総括はなされていない。原発推進派の勢いが僅かに鈍った程度である。しかし今後、現場の作業経験者から被爆の症状が出ることも間違いない。でもその情報が国民の目に触れる事は多分ないだろう。秘密情報保護法が政府に都合の悪い情報を隠蔽するのに一役買うからである。

この海戦が示唆する最も危険な事は、戦いに敗れたこと自体ではなく、その事実を隠蔽し、責任を回避したことにある。戦後70年を経た今でさえ、そのような傾向が国の体質として温存され、連綿と引き継がれてきていることにこそ、現在と近未来の日本の、真の危機が潜んでいると思わざるを得ない。その時々に自分達だけに都合の良い判断をして、後でそれが間違っていたと分かっても、責任を問われる事がないことを意味しているからである。



「車内の携帯通話」2014/3/28

車内での携帯使用は悪とされる。私も注意されたことがある。でも手短かな連絡のどこがいけないのだろう。緊急連絡に使えなければ携帯を持つ意味がない。携帯通話をとがめる人達から感じ取れるのは、戦時中に軍部を批判する者を、非国民とののしった人達と同じ狭量さだ。自分が通話していなくても、私がそういう場面に出くわすと、必ずうるさいのはお前の方だと言うことにしている。逆上した相手が手でも出してくれればこちらの思うつぼで、警察に突き出す口実ができる。電車もバスも車内を無音運転にするか、もしくは公衆電話をつけるべきではないか。6p以内に近づけない限り、ペースメーカーにも影響はない。そうでないとペースメーカーをつけている人は携帯は持てないということになる。携帯で大声で長話をする人達には、携帯のマナー以前に公衆道徳の問題がある。他人への迷惑を最小限度に留めるという意識があるかないかが問題なのである。



「予算委員会」 2014/4/1

3月31日午後の予算委員会を録画して、結局全部見てしまった。民主党の長妻、岡田、原口各氏の質問に、総理が答弁。ノンフィクションもここまで来ると、迫真のドラマである。国民の生活にそのまま影響するテーマなので、リアリティもひとしおだ。そして感じたことは、多分読者の皆さんとはちょっと違うと思う。

本論に入る前に、まず自分の恥を白状しなければならない。私はサラリーマンの現役時代、国内政治には殆ど関心がなかった。無論投票には行ったが、事前にろくに調査もせず、その場限りで投票先を決めていた。政治に本当に関心を持ち始めたのは退職後であり、要するに考える時間が出来たからである。

今までは国会中継も退屈きわまりない茶番劇としか思っていなかった。では何故昨日になって、(生まれて初めて)トコトン国会中継につきあう気になったのか。それは質問と答弁の一言一句を漏らさずに、しかも、発言者の感情の動きや、歴史的背景を含む全てを理解出来るようになったからである。日本の政治の現在の姿を正しく見極めることが出来るようになるまで煮、実に数十年の歳月を要したということ。それはひとえに自らの不明と不勉強に拠るものであることは、今更申し上げる迄もない。そこで考えたことは、私達より若い世代に同じような理解力を要求するのも、やはり無理があるのではないかということである。
長妻の質問で一番心に響いたのは、秘密情報保護法などで、ある空気が醸成されて、それがいつしか予想もしていなかったような、飛んでもない方向に発展するかもしれないという指摘だった。

基本的に安倍首相に対する評価が変わった訳ではない。タカ派の体質、その場限りの答弁も変化はない。しかし、今回新たに感じたことは、安倍首相に存在感が出てきたことだ。そしてその存在感は、その根拠が如何なるものにもせよ、彼の自信から生まれていると思う。石原が都知事に選ばれたのは、その右翼的な思考傾向の故ではないだろう。自信を持って都政を導くだろうという都民の期待感があったからに違いあるまい。実行力ではなく、その見せかけの自信に都民は投票したのだ。同じようなカリスマ性を、安倍首相が今や身にまとい始めている。しかもそれは、国と国民にとって、非情に危険なことだと言わざるを得ないのである。

長妻議員が、自民党の憲法草案は、国を縛るべき憲法が国民を縛ろうとしていると指摘したところ、安倍首相は気色ばんでそれはデマだと言い返した。なぜなら…という冷静な説明はせずに、単にキレタのである。その感情的な反発は、国民を縛るつもりは無いからだと取れなくもないが、単に痛いところを突かれて興奮した結果と見る事も出来るのである。

この問題は、国民を縛るつもりはないかもしれないという根拠のない期待感を国民に抱かせる雰囲気が出来上がりつつあるということなのだ。即ち、国の発展と国民の繁栄を心から望んでいるのだという振りを、首相自身も信じ込んでいて、不戦の誓いを含めて、いかにも平和主義が本物であるかのように見せる演出力を身につけたことが大問題なのである。
しかし少しでも冷静に安倍首相の過去の答弁を分析すれば、その国家主義的な観点も、説明に筋の通らないことも、少しも変わってはいない事に気が付くのである。化石燃料の輸入に多額を払っている、だから原発の再稼働が必要だ。世界一厳格な安全基準を設けている、だから原発は安全だ。その説明の何処に国民の意志に対する配慮があると言えるのだろうか。あるのは業界に対する配慮だけなのである。問題は言葉で半句、態度や価値観がどういうものかということなのだ。

国民は化石燃料の輸入が増えている事に文句は言っていない。文句を言っているのは経団連と、銀行である。彼らの組織票だけで自民が選ばれたのなら分る。しかし安倍首相の言い分をそのまま借りれば、民主の決められない政治に嫌気がさした「国民」が自民党を選んだということになる。そこで既に矛盾が生じている。国民の意思を忖度していないのに、自分は民意から全権を託されたと主張しているからである。

また首相が格差の是正はやる気が無いとハッキリ言ったも同然である。企業を富ませ、給与を引き上げることで、自助を進める。福祉に代表される共助、公助は子育て支援だけ。これは競争と富国強兵の企業の理屈をそのまま国政に持ち込んだだけだ。国民は自分の力で生きよ、国はそれを統制すれば良いという、まさに国民を縛る国になろうとしているのだ。
国民がそれに気づこうと気づくまいと、国を危険な方向に押し進める、しかも極めて強い力が存在している。安倍首相の価値観も大きいが、それを担ぐ人達(多くが権力層)の価値観でもある。そこにあるのは個の論理ではなく組織の論理である。組織の論理は、突き詰めれば利益の為には戦争もためらわない。その毒まんじゅうにせっせとアイシング(砂糖がけ)し、その実像に自分でも気がついていない人、即ち日本の現代史72年間で最も危険、かつ影響力のある首相が他ならぬ安倍首相である。その強力な体制の前に、なすすべも無くたたずんでいるのが現在の日本の国民の姿であり、更に若い年齢層に至っては、その危険性すら認識出来ずにいるのである。

論戦の終盤で、籾井と安倍を、紳士的に追い詰めた原口の手腕には感銘を受けた。このときだけは、安倍首相もやや青ざめた表情になった。籾井の説明は、私心を出すべき場では無かったことを反省しているというだけのものだった。自分の考え方が間違っていたとは一言も言っていないのである。予想通り、身の振り方を考え直すそぶりは全くなかった。公共放送の役割は良く理解していると、取ってつけたように語ってみせただけだった。なぜなら人間の価値観や信条は一夜で変わるものではないからだ。間違いなく、今回は居座るつもりでしょうが、それでも今度不祥事があればタダでは済まないという雰囲気を作り出したのは原口の功績であろう。

一番大事な事は、数年すれば選挙が行われ、安倍氏が続投するとは限らないという点である。今、安倍首相がいくら口約束をしたとしても、それが次政権で守られるという保証はどこにもない。拡大解釈の余地をわざと残した法律だけが残る。安倍首相が、仮に高潔な人物で、約束を守る意図があるとしても、それは何の保証にもなりはしないということなのである。



「真実を求めて」2014/4/24

デフレからの脱却にあれだけ功績のあった浜田参与は一言も語ろうとしない。どこにいるのかさえ分からない。安倍政権を持ち上げる、官僚出身の黒田総裁だけが目立っている。ここにも安部政権の自分の都合を優先の(経済を冷静に見る目とはほど遠い)、偏った価値観が見え隠れしている。今日申し上げることは、国民が相手にしているのは極めて優秀な(しかも偏向した)官邸や行政や民間組織のスタッフだということだ。彼らは非常に手強い相手である。なぜならエリートの集団だからだ。ここでは個々の政治家は問題ではない。彼らには行政のノウハウはなく、国を運営する実質的な力はないからである。

安部政権になってからのNHKは、籾井が会長職を汚すようになる以前から、政権よりに大きく傾いていた。しかもそれをなるべく国民に分からないように、巧妙な仕掛けを使ってである。前会長の更迭こそ、組織を挙げて問題視しなければならないのに、それについては何もなかった。現在でもNHKには報道機関としての良心くらいは残っているだろうと期待する事自体がとても危険な状況にある。一般大衆としては、それと気づかぬうちに、事実から目をそらされている可能性が高いのである。

我々一般国民の「敵」はそういう、随所に散らばる、「普通の」しかも優秀なスタッフなのだ。彼らはいわゆる青年将校ではない。なぜなら決起した青年将校達には、日本の虐げられた国民と共感する義憤があった。財閥と結びついた、腐敗した軍の上層部への反発があった。一方で現代の青年将校達が目指すのは、現体制下でのより豊かな国と、自らの権力であって、国民の幸福そのものではない。確かに日本を強く、良くしたいと言う気持ちは間違いなく持っている事だろう。そこまで疑う根拠はない。でもそれが彼らの「善意」であるが故に、一層始末が悪いのである。誤った正義ほど始末に困るものはない。なぜなら彼らが意図しているのは、支配層の権力をより強め、そこに富が集中するような形での国の発展だからである。そして自分達もその勝ち組に加わる事が、暗黙の前提になっている事も否定出来ないのではないだろうか。

米国ではそれが我々の常識と少々異なる判断であっても、国民の意志が政治や外交に反映される。しかるに日本では、国民の意思がそのまま政治に反映されることは殆どない。民意がどこにあるかさえ分からない事がしばしばである。投票率の低下もあって、選挙が反映するものは、ピンポイントでの、選挙時の相対多数のムードだ。いったん選挙が終われば、後はご承知の通りである。政党が内部の権力闘争だけで政策を動かし始め、そこには民意の入り込む余地など全くない。政治家と行政が、したい放題を尽くすことになる。果たしてこのような状態を民主主義の政治体制と言ってしまっていいのだろうか。私は、国民の一人一人が、より政治に積極的に関わる事でしか、日本を根本的に良くする方法はないと思われる。
私は自分が他人より優れていると思った事はない。実際に会えば分かるが、風采の冴えないしょぼくれたジジイに過ぎない。そんな凡人にも、今の政治や社会の進む方向が、平和主義でも、民主主義でも、福祉でも、平等でも、果ては自由でさえない事が分かるのは、新聞や放送局の説明を鵜呑みにせず、意地の悪い見方をしてきたからである。

誰にでもそれがはっきり分かるのは、海外に滞在したときである。何故ならそこでは日本では当たり前の(自粛を含めた)メディアに対するバイアスがないからである。自分が今まで乗ってきた日本丸という船が、傍から見れば、実際にはどれだけ傾いていたかを客観的に見ることが出来る。そういう意味で、私をNYに駐在させてくれた元副会長には感謝しても感謝し過ぎる事はないと思っている。企業人として成功しなかったことは、一重に自らの不徳の致すところだが、それよりも私の人生にとって最も大事なものを与えてくれた。それは外から日本と世界を客観的に見る機会である。そしてその習慣を身につける事で、何が真実かに注意を払うようになった。残り少ない人生であっても、いつも真実を知っていたい。結果的に何も変えられなくても、せめて死ぬときは正気でいたい。バリア・フリーよりも、バイアス・フリーの人生を送りたいと願っているのである。

私は無名の一市民でしかない。だから私の言葉に耳を傾けてくれる人は、私と個人的な接点のあったほんの一握りの方々だろう。それでも、私を通じて、日本という国が実際には今いかなる状況にあるのかに関心を持ち、ディアの報道を鵜呑みにせずに、少しでも疑って掛かる人が増えてくれれば、これに勝る達成感はない。10万人の通りすがりの人より、立ち止まってくれる100人の人達に分かってもらえることの方が重要なのである。なぜならそういう自分の足で立つ人達が、情報や批判の輪を広げてくれル事が期待出来るからである。そうした、自分の眼で見て、自分の頭で考える人達が、男女を問わず、やがて頭一つ抜きん出て、日本の将来を支える土台になってくれることは、むしろ自明の理であるように思われる。他人や場の雰囲気に流されるだけの人達が、日本を支えてゆけるとは、誰しも思わないだろう。

私のように毎日相当な時間をメディアの報道の比較と分析に使う余裕は、一般の方々にはないと思う。私も報道の訓練を受けたプロでもないし、筆が立つ論者でもない。そこでお願いしたいのは、時々BSで報道されている海外のニュース番組を見て欲しいということである。国の行く末や自分の人生を見極める時に、必要になる情報は、今自分がいかなる状況に置かれているかを、なるべく客観的に知ることだからだ。しかもそれは個人の人生だけでなく、ビジネスや行政にとっても、必要かつ有効なことなのである。



「残業代ゼロ」2014/4/23

安倍首相のこの提案は経団連あたりの意向を汲んだものかどうか分からないが、これ以上、労働者から搾取してどうするつもりか。それなくても被雇用者は弱い立場にある。しかも労組も労働法も、今は殆ど宛てにはならない。今読み進んでいる経済書と哲学書の要点を近いうちにご紹介する予定だが、資本主義は、資本を持てる者を豊かにする方向だけに働くイデオロギーだとされている。安部首相は政治の頂点に立つという自分の立場を全く理解しておられないようだ。経営者の傀儡だと言われて返す言葉があるだろうか。競争力を強化するということは、残業代を削って、優秀な人材に回すだけでは解決しない。そういうやり方で日本と日本の企業が伸びてきたわけではないのである。欧米型のビジネススク−ルも結構だが、そこで学ぶ理論の一体どれくらいが実際に役立っているのだろう。大事なのは起業の発想だけであって、そのための環境を作るのは政府の仕事だ。



「中国はいつまた何故仮想敵国になったのか」2014/4/20

中国を仮想敵国と決めつけてしまうことが果たして民意なのだろうか。米中の間に立つことが本来の、また世界=特にASEANが求めている役割ではないのか。世界平和を心から願うのなら、軍備拡張で競争=取敢えず米軍を担ぐ、という筋書きではなく、中国の国民に働きかけて民主化を推進すべきではないのか。

政権には、自分は秀才だと勘違いしている人達が集まっているだけではないのかもしれない。目先に控えている外交の次のステップを見ればそれが分かる。即ち集団的自衛権の問題である。米国は中国が覇権を握ることを避けたい。太平洋で中国がのさばる等許されることではない。しかし中国の近くにいくら韓国があっても、所詮は政治でも経済でも弱い国に過ぎない。それだけで中国の太平洋進出を押さえることは出来ない。ここに日本の出番がある。

かつてナカソネが、日本は浮沈空母です、ご自由にお使い下さいとレーガンに差し出したといういきさつがある。戦時中は米国を悩ませた国でもある。これを使わない手はない。しかも自国の軍事力で中国の進出を食い止めてくれれば、防衛予算も助かる。集団的自衛権は、日本が米中の力のせめぎ合いのまっただ中に入って、米国の代わりに盾になるという仕掛けであることは子どもにでも分かるだろう。しかもいざ有事には、日本は自力で自国の領土を守る義務があるという論法が使えるのである。権力側は巧妙にマスコミをコントロールし、そういう論点での記事にならないよう細心の注意を払っているように感じられる。メディアが中国への憎しみをあおると言う論調に統一されていることに、何故不自然さを感じないのか不思議である。

日本が地政学的に考えるべきは、米国と一体化することではなく=多分米国自身がそれを遠慮したいだろう、世界平和をどうやれば実現出来るかである。なのに米国をくすぐり、おだて、あたかも自国を守ってくれる国際平和維持軍のように色づけしようとするのはいったい何故なのだろう。

それは、実は米国の為でさえなく、国内の既得権の人達が、自分たちの利権を維持したいという思惑があるからではないのだろうか。即ち米中の対立を自分達の為に利用しようとする人達がいないと断言出来るのか。世界平和に貢献したいという気持ちが少しでもあるのなら、まずは米中以外の国の賛同を得る努力が必要だ。そのためには日本が自国の利益の亡者ではない事を示す必要がある。



「廃炉への道」2014/4/21

4/20夜9時のNHKスペシャル。廃炉への道はある意味で力作だった。東電とメーカーの努力を肯定的に取り上げたのは、かつてない試みであり、批判するだけでは問題が解決しないので、こういうアプローチを否定はしないものの、色づけが全くなかったのかと言えば、やはりそこは気になる。放射能の恐怖と原発の危険性を、廃炉作業だけに絞ったことで、結果的に安部政権と会長に配慮した事になってはいないか。

廃炉には30-40年を要し、費用は一基で2兆円。福島ではそれが3基ある。事故は起こさなくても、日本中にある50基の原発が、いずれ寿命を迎えるとすれば、廃炉費用だけで日本の経済は破綻する。原発が経済的なエネルギー等とどうして言えるのか。

今回は使用済み燃料を取り出すだけでなく、保存容器が破壊され、溶けた核燃料=高放射能の残滓(デブリ)が飛び散っている。まず穴をふさいで、防護の水を満たしてからでないと作業が出来ない。しかもどこが壊れているのかは、余りに線量が高くて人間が入って確認することが出来ない。新しいロボットを開発するところから始めねばならない。線量の多さは監視ロボットが送ってくる画像が白い点で一杯になっていることからも明白だ。恐ろしい映像である。場所によって線量は1時間4400ミリsv。人間が耐えられるのは1年間で1ミリであり、一時間で1sv=1000ミリあれば死亡する。4400ミリなら即死だ。

こういう番組を放映するということは、政権も会長も番組制作に反対しなかったからだという見方もあるかもしれない。でも果たしてそう単純なことなのか。テーマの扱い方に以前とは違う温度差を感じるのは私だけなのか。だいいち東電とメーカーが相当協力しなければ、こうした番組の制作は不可能だ。NHKが偏向していると官邸が騒いだから、今の価値観にも教養にも問題のある会長に代わった(変えさせられた)。そこまで考えておかないと、番組を冷静に判断する事は出来ない。私の場合、NHKの番組で、国民の視点を忘れないミズノンの登場しない原発の番組は、それだけでも、そのまま信用は出来ない。

全知全能を傾けて国民をだまし、手なづけ、黙らせようとする安部政権と官邸という存在がある。彼らは到底個人で立ち向かえる相手ではありません。でも一人一人は小さな声でも、それが集まれば、全体に届く声になる。まさかこの番組からそこまで考えを巡らせる(悪く言えば勘ぐる)人間がいるとはNHKの制作陣も予想はしていなかったかもしれない。むしろ制作陣としては許される範囲内で精一杯やったのだという気持ちを持っているかもしれない。

私には廃炉を見届けるだけの人生の残りはない。おそらく大半の国民がそうだろう。でも私も、間接的ではあっても、原発の建設を許し、その電力の恩恵を享受してきた。今私に出来ること。それは決して自分も無関係ではなく、そういう政権や組織や企業の暴走を許してきた状況に荷担してきたという意識をしっかり持つことでしかないのである。小泉を批判する人達もいる。でも同じような反省と良心の痛みを感じないとすれば、それは日本国民である以前に、人間としての資質そのものに問題があるということになりはしないだろうか。



「老化ということ」2014/4/26

週一で一緒に卓球を楽しんでいるご近所の70代の知人は、60代と70代では全然違う、後期高齢者という区分はそれなりに意味のあるものだと良く話している。確かに私も60代の前半は、さほど年齢を意識することはなかった。10m歩くだけでプールに入ったようになる、香港の熱い夏でさえ応えはしなかったし、60代の後半に入った当初は、日課のようにアーチェリーもやっていた。だが昨年熱中症で倒れたのを契機に、身体的な無理が利かないことに、嫌でも気がつくようになった。いま70歳を目前にして、もう若くはないというように、意識を180度変えないといけないのではないかと思い始めている。

現代医学はありがたいもので、医者にせっせと通った結果、今まであきらめていた様々な症状が改善され、以前よりむしろ不安と不満の少ない生活を送る事が出来るようになった。しかしそのためには、日に10種類の薬を服用する必要がある。中で一番多いのは血圧関係の薬である。

2か月ほど前に糖尿病予備軍と医者から言われ、一念発起でダイエットを始めた。昼食を抜くという、工夫も何もない単純な方法だが、これが結構きつい。ひもじさに耐えるということは、かなり強い意志を必要とする。ダイエットは気持ちが強くない人には無理だということが分かる。1と月半で、やっと1キロ減量しただけだ。僅かな成果ですが、効果は顕著で、ベルトの穴が一つ移動し、階段を上がるのが楽になった。ダイエットは薬を飲む必要がないので、皆様にもお勧めしたいものの、食べる事しか楽しみのない老人にはつらい仕打ちとなる。でも必ず見返りはある。

物忘れが酷くなり、運動で無理が利かなくなるという事もあるが、老いを痛感するのはむしろ鏡を見る時だ。皮膚がたるみ、しみやイボが増えてきた。髪も白く、薄くなってきた。結構頻繁に皮膚科に通って手当はしているものの、いつも思うのはコピー機のことである。原文をコピーし、そのコピーのコピーを繰り返していると、だんだん文字が薄れ、形が崩れてくる。それと同じ事が体内で、自分の細胞でも起きているのだろう。

福岡伸一によれば、我々の細胞も3-6か月で全部入れ替わると言う。即ちDNAをコピーした細胞に置き換わるわけで、その時に当然のようにコピーのエラーも発生するだろう。皮膚細胞のコピーのエラーがしみやイボだろうと思う。再生産が設計図通りには行かなくなるということだ。

高齢者は年齢がもたらす限界があることを自ら認識することに意味がある。気持ちが若くても、体力がついてこなければ、やりたいことも出来ない。いつまでも長生きしたいとは思わないにしても、その時までは、まともな精神とその入れ物=肉体でいたい。そのためにもiPS細胞の研究成果が待たれる。その一方で、どうやればうまく老いていけるのかを、真剣に考えるべき時期に来ているのだと思っている。



「新自由民権運動の勧め」2014/4/25

私は国民による国民の為の、しかも宗教色のない自由な新聞社が必要だと感じている。資金があれば自分で設立したいくらいだ。そんな事を公表すれば、直ちに有形・無形の圧力が掛かる事だろう。幸いというか、不幸にしてその為の資金もなければ共に働く人材もいない。政府と権力者が一番恐れているのが冷静でリベラルな国民であることは間違いようもない。右傾化したNHKの報道でさえ「偏向」と決めつけるくらい、自らが偏向した政府と官邸なのだ。その結果、政府よりの報道しか、公共メディアが取り上げないのだから、国民は政府が偏向していることさえ知るすべがないということになる。

オバマの歓迎式典の中継を見た。儀仗隊の指揮官がやたらにサーベルを振り回すのも気になったが、閣僚の紹介が問題だ。なんと石原の子供が二名も出ていた。これでは徳洲会の訴追などあってなきがごときだ。幕引きで終わることは確実である。既に関係者の一部に判決が出ていて、罰金40万円。何十億もの金を動かす人達には痛くも痒くもないだろう。米国でこんな処分は考えられない。収監が当然である。関係者には悪い事をしたという感覚が極めて希薄である。猪瀬も、辞職でみそぎは終りということにしたいのだろう。そんな政治の倫理観に欠けた人(達)が都政を牛耳っていたことこそ、大きな問題なのである。

政治がかつてないほどに腐敗しているというのに、それをもみ消そうとする動きが感じられる。独裁は必ず腐敗するという歴史の証明が、今また現在の日本で繰り返されようとしている。国民や都民をコケにする状況の中で、国民に出来る事は殆どない。石原が早く天寿を全うするように願うことくらいしかないのである。現代の日本には同じ安部でも、世直しの為には安倍晴明の方が必要なのかもしれない。

お互いのチェック・アンド・バランスで民主主義を保証しなければならない政権と検察とメディアが、全く同じ方向を向いてお互いに支え合っているのだから、これは恐るべき民主主義への脅威である。戦後70年で最も危険な状態と言っても過言ではない。維新等(中:当時はおおさか維新はなかった)という、革新とは名ばかりの右傾化した組織よりも、本当に必要なものは、国民の側に立つ草の根の平成の自由民権運動だと思う。



「通訳だけの責任ではない」2014/4/28

琉球新報が愕然とするような記事を載せた。それは「オバマ、首相に尖閣の平和的解決を要求」という記事である。なんという政府、なんというマスコミ、そして低レベルの通訳。日本のメディアが、共同声明として米国が軍事的に日本を守るという報道一色だったことを想起して頂きたい。偏向した報道、悪質なマスコミ操作だ。我々はそれと気づかされずに話し合いによる平和ではなく、軍事力を背景にした対立の世界に引きずられてゆくらしい。しかも日本では、選挙制度が民主主義の担保として機能する保証が全くといって良いほどにないのである。私は首相がにこやかにどこでも顔を見せ、危険な雰囲気を醸し出さないように側近が万全を期しており、その結果一見平和に見える今の日本こそが、戦後でも最も危険な状況だと判断している。

そしてこれが大事なことだが、敢えて衆愚とは言わないにしても、また日本人には根強い保守志向があることに言及はしないにしても、比較的多数の得票で当選した議員や政権が、自分たちの偏狭な価値観で、一時的にせよ国を好きなように出来るという理屈には、少なくも有識者と名乗る以上は、決して正当性を与えてはならないという事である。

次に始まるのは財務担当機関による金融の管理であり、また10%への消費増税が既定の路線になるだろう。官僚機構が、かつてない大きな力を持つようになるだろう。しかも安倍政権が終わってもその支配力は続くだろう。着々と、しかも国民が気づかない形で事態は進展しているのである。それが杞憂であれば良いと心の底から願っている。そしてそのままその状態が進むと=政権の交代がないと、やがては、正義も平等も自由さえもない時代が来るだろう。そこで利益を受け、生き残れるのは政権に歩調を合わせて、権力にへつらう者だけになる。それは資本=金だけが正義の、闇の世界に違いない。

トレンドをウォッチしてきた結果がまさかこうなるとは、私も始めた時には思ってもみなかった。なんという憂鬱な社会の未来像である事か。そして権力者が使うのは古くからある姑息な手段、即ち、その場限りの言い訳と嘘である。せめて選挙の時には思い出して欲しい。今投票しようとしている相手とその政党が、これまで何を語り、そこに嘘がなかったかどうかを。



「尊厳死の議論」2014/4/29

さすがに本件は軽々しく論じるべきテーマではない。されど高齢者の人口が増加し、PPKへの希求が高まる時に、避けて通ることも出来ない問題であろう。朝食で食卓に着き、頬杖をついた途端に他界されたという実例を最近、知人経由で聞いた。でも皆が皆そういう訳にもいかないだろう。いま問題意識のある人、というより、むしろない人にこそ、読んで欲しいのが、楢山節考である。姥捨てがテーマだが、身体の丈夫なおばあさんがいて、ついに年齢制限のその日が来る。息子は背負って泣きながら山を登るが、その時初雪が舞う。老母はそれをとても喜ぶ。なぜなら楽に逝けるからである。寿命は長いほど良い。完全な健康体なら、人間の寿命は200歳までと言われている。いくら長寿でも健全でない生活は困ると誰しも思うだろう。今願うべきは、尊厳死ではなく、むしろ健康でいられる期間をなるべく伸ばす事と、高齢者が増えてもちゃんと回る社会と経済の仕組みを作る事であろう。楽に逝ける方法を考えるのはその後の話なのかもしれない。



「奈落にご招待」2014/5/8

国全体(行政機関を含む)が反対意見を封じつつ、一斉に同じ価値観を持ち、同じ方向を向いて疾走を続ける。これは戦前と酷似した状況ではないのか。違うのはより巧妙になり、刺激的な表現は一切避け、言葉の上ではいかにも常識的な判断であるかのように装っていることである。一見民主的で、一見平和的。この見せかけの穏やかさこそが安倍政権の強力な武器であり、国民にとって最も厄介かつ剣呑な状況なのである。

政治家が暴走しても、行政機関は冷静に(しかも国民目線で)対応するという、以前のあるべき姿は、今はどこにも見られない。むしろ今を千載一隅の好機と見なして、省益と権限の拡大に努めているのではないか。核廃棄物の処分場はどこにでもあると某省は言い出した。あたかも日本の地下にはいつ動いてもおかしくないプレートなどは存在していないかのようである。どんなIQとEQの人が作業部会のメンバーなのだろうと、つい思わざるを得ない。

即ち暴走しているのは、どうやら保守的な政治家だけではないということだ。政官あげての暴走を、官邸が後押しして、報道機関の自由闊達な批判を牽制する。最近、政府に批判的な論者を、報道機関で見かけることがめっきり少なくなった。今はラジオくらいしかないのではないか。TVのニュースショウでは、新聞社のオーナーが自らの価値観で選んだとしか思えない、出身も選択基準も良く分からない若手や年配の芸人達が、にわか仕立てのコメンテーターとして、政権の提灯を掲げている。そうした芸人ジャーナリストは掃いて捨てるほどいるのに、筋の通った真のジャーナリスト、言論人は一握りもいない。

いまや大震災も、原発事故も、存在しなかったかのようである。見えない圧政と呼ばずして、一体なんと呼んだら良いのだろう。私には見当もつかない。

いま一番必要でまたすぐにでも出来ることは、国民一人一人がデジタルツールを活用して、小さい声を上げ、いわば一人一人が自らの主張と価値観で、ジャーナリストやコメンテーターになり、そういう小川を集めて、広い川にすることである。WTWもそんな小川の一本にでもなれればと思う。

それが何の得になるのか。米国型資本主義の環境で育ってきた、若年層がそういう疑問を持つかもしれない。それはこの世の中には金より大事な、というより金では買えないものがあるからなのだ。それは命と自由である。但し正義ではない。正義等というものは、国や時代でいかようにも変化し、とらえどころがないものだからである。

言い方を変えれば、私には意味のよく分からない国益の為に、祖国と自分の子孫を地獄に追いやる勇気などないということなのである。



「貧しい人に冷酷な社会」2014/5/15

日本を含む経済大国の政府に共通する面がある。それは貧しい者から奪うことに、何の罪悪感も抵抗感もないことだ。ますますヒューマニズムから遠ざかる、肥大化し、怪物化する資本主義。そこに見直しの気運も出てきた。何のための経済システムかと言う原点に立ち返れば誰にでもその必要性は理解出来るだろう。最近の海難事故や、炭鉱の事故を挙げるまでもなく、利益優先で安全を軽視する傾向も。同じような現代資本主義=とそれを支える政権、の持つ暗い側面と言えるのではないか。



「憲法原論」2014/5/17

今、政官財挙げて安倍政権の後押しとおこぼれに狂奔している。これは一部には、安倍新内閣は一回限りだろうから、千載一遇の機会なのでという見方がある。しかし本当にそうだろうか。剣呑な思想を砂糖がけし、言葉の上では穏やかさと常識を装いつつ、長期安定政権を意図しているのではないか。そして政権が日本の精神的基盤を破壊し、その結果、日本は滅茶苦茶になるのではないか。何しろ前言は翻すためにあり、数字をいじり、嘘を吐くことを何とも思わず、正直と自由の概念のない権力だとすれば、日本が悪くならない方がおかしい。欲が深いだけの軍国主義・国家主義の国の再来が目前にある。右向け右に従う国民だけではないことを示す為に、早く平成の自由民権運動を。

小室直樹の「日本人の為の憲法原論」という本を読んでいるが、これが実に分りやすく、読みやすい本である。中学生でも完全に理解出来る内容だ。憲法の成り立ちは、リバイアサン(怪物)たる国家権力を抑制するために作られたという背景の説明も分りやすい。読み手の思想傾向に関わらず、誰にでも有益な本になっている。今こそ国民が読むべき本である。



「資本主義以後の世界」2014/5/22

2012年の発行だが、中谷巌の「資本主義以後の世界」を読んでいる。リーマン後の世界の経済の混乱を喝破しており、以下は冒頭部分のポイントである。

【資本主義の三つの根源的欠陥】
1)グローバル資本の国境を越えた移動が世界経済を不安定化する。急激かつ、巨額の資本流出入がバブルと崩壊を生み出し、絶えざる金融危機を生起させる。
2)資本主義の目的はあくなき資本の自己増殖である。自然の搾取が不可欠で、環境破壊を加速させる。
3)グローバル競争の結果、富の偏在、所得格差の拡大が起きる。中流階級が消失し、二極化現象が起き、社会の荒廃をもたらす。
放っておけば必ず暴走する怪物である国家権力を抑制する為に憲法があるように、暴走する資本主義の、牛を殺さずに角を矯める方法はないものか。それこそが現代世界の最大の課題ではないだろうか。私は経済学を含む社会科学が、自然科学に比べて、実は未だに発達の余地を残しているのではないかという疑念を持っている。



「世界経済の多様性」2014/5/23

スタンフォードの名誉教授、青木昌彦氏は日経に寄稿した論文の中で以下の様に述べている。

包括的な国際協定や単一ルールの強制だけで、ポスト経済危機に対処する事は出来ない。人間的要素に基づく多様化の時代における市場競争は、量より質の競争となる。多様化、多極化の世界では相互依存の重要性が一段と高まる。
新たな世界経済のコンセプトを考えるときに、多様性を前提にすることには、大きな意味があると思う。



「報道姿勢」2014/5/27

昨日の報道で二件、気になったことがある。AKBの襲撃事件の報道姿勢は明らかにおかしい。会場のセキュリティに重大な瑕疵があり、AKB運営団体のイベント開催方法がずさんだったのに、警察のコメントを紹介しただけである。主催者の責任を問う姿勢は見られなかった。予期せぬ災難だったという見方でだ。そもそもAKBという企画そのものが、いわば少女を食い物にするような歪んだ側面がある(朝ドラあまちゃんでも揶揄されていた通り)のに、その上にこの不祥事だ。主催者から、子どもを預けている、被害者の家族への謝罪の言葉もなかった。商品を大事にする気持ちすら感じられない。社会的背景として、日本が欧米並に個人テロが始まっている(加州でも乱射事件があったばかり)のに、NHKは社会病理についての指摘も警告もしない。しかもその社会的背景には、若者の収入差別と閉塞感があるが、それについても一切の言及はない。

NHKの報道の偏向姿勢は、中国機の異常接近についても言えることである。私には中国側の言い分の方が正しいように思われる。中ロの合同演習の近くを、航空自衛隊機が飛び回っていれば、スクランブルをかけられるのはむしろ当たり前だ。無論日本の領空内の話でもない。自衛隊の勇み足で、一歩踏み込んでしまったので、それを相手から指摘される前に、手を振り上げてみせたというのが真相ではないのか。そしてNHKは、政府の言い分だけが正しいという報道を繰り返すだけ。報道機関に最も必要な客観的な報道姿勢が感じられない。秘密保護法や、政府の放送局人事への介入もあり、報道を額面通りに信用する事は次第に難しくなっている。でもいくらこう書いても、NHKの不勉強な諸君には理解されないだろうから、私がお手本を書いてみた。心して読んでほしい。

NHKの表現「中国機が異常接近した事で、政府が抗議声明を出しました」
訂正済の表現「公海上での中国機と自衛隊機の異常接近により、地域の緊張が一層高まる恐れがあります」
皆様も、どうか多角的に情報に接して、メディア(と政権)に意図的に誘導される事のないよう、御注意頂きたい。何故か読売や日経では1-2割も数字が違うのだが、少なくも国民の半数以上が、原発の再稼働にも、憲法の解釈変更にも、秘密保護法にも、集団的自衛権にも反対しているのである。



「科学への興味」2014/5/28

私は幼いころ、科学者になりたいと思っていた。当時の科学者というと、鉄腕アトムのお茶の水博士だが、むしろ天馬博士の方がよりストイックな科学者のイメージだった。結論から言って、微積の壁と不勉強が重なって、私の夢は実現とはほど遠いものだった。第二志望の新聞記者も、せめてカメラマンでもと思ったが、一流経済紙は最終選考で落ち、事件現場の事を考えると、自分の蚤の心臓ではそれ以上は無理だと断念した。トドのつまりがフツーのサラリーマンの人生(コンピューター・メーカーのシステム・エンジニア)を、歩む事になった。

この世とお別れする時、麻雀で言えば下駄を履く時に、果たして自分の人生が満足のゆくものであったかどうかを思い返す(その時間があればだが)ことになるのだろう。映画スパイダーマンによれば、プライドを保って死ねるかどうかが大切だそうだ。セルフ・リスペクトできるかどうか、私にはその自信は全くない。意図せぬ人生を歩み、かといってその分野で成功した訳でもない。無論そこでまた努力と才能の不足があったことまでは否定しないにしてもである。出世した訳でも、何かを成した訳でも、何かを残した訳でも、社会に貢献できた訳でもない。苦い後悔の内に逝くことは、多分間違いない。

私は科学を職業にすることは出来なかったが、科学に関する興味迄失った訳ではない。電気に関する知識も、化学に関する知識もなく、その上不器用なのに、何かを作りたいという気持ちだけは人並みにあったらしく、小さい頃から物作りに関心があった。今から思えば危険な実験だが、子ども時代には、薬局で買ってきた粉末の薬品を調合して、個体燃料のロケットを作ったり(機体がアルミだったので、飛ぶ前に溶けてしまったが)、光電素子を使った侵入検知装置(一応トランジスターで増幅)や嘘発見器も試作した。そのごく初期の作品で、小学生の工作で作った電光掲示板は、たまたま見学に来ていた外国人視察団にはかなり受けたこともある。

その種の工作で便利なのが秋葉原のラジオ街である。秋葉原にはそれこそ毎週の様に通っていた。しかし都心から遠い地域に住むようになってからは、100円の部品を買いに、1000円の電車賃を使ってアキバに出掛ける気にはなれない。かといって近所のホームセンターには電気部品は置いていない。そこで試してみたのが、電子部品のネット通販だが、数百円の配送料が掛かるので、まとめ買いでないと勧められない。

私はこの歳になっても、未だに玩具やゲームの類に目がない。トイザラスで時々新しいゲームを見つけては仕入れて来る。孫に遊ばせるというのは口実で、自分で遊ぶのが目的である。但し多くはすぐに飽きてしまう。最近はまったのが、スポンジの弾丸を圧搾空気で発射する玩具の銃で、吸盤のついた弾丸を使えば数m先の的に面白いように当たるというもの。今探しているのは電子式の迷路ゲームだが、市販されている製品がないので、上記のネット通販で部品を手配して、自作を始めた。(注:2年後に500円で市販されたので購入した。緊張感より焦燥感が強く、余り面白くなかった。自作機の方が面白かった)。恥ずかしいことに、私は回路図が読めない。だから半田付けくらいは出来ても、アンプやラジオを自作した事はない。但しPCの場合はレゴ・ブロックのようなものなので、自作はそれほど難しくなく、10台近く自作した。

ねじ類を含めて、電気部品、電子部品には今でも強い愛着を覚える。今回は小さいブザーをまとめて買いましたが、一つとして同じ音程、同じ音量のものがないのは、さすがアナログの世界と、感慨を新たにした。いつの間にか溜まったねじ類は、今やケースを持ち上げるのも面倒な程になった。

ここで話を戻すが、トップ・ギアという自動車の番組で、F1レーサーのミハイル・シューマッハ(英語読みだとマイケル・シューマッカ)がクセ者の司会者の質問に答えて、人生は後悔の連続だし、やり直したいことは山ほどある、と言っていた。そして誰しも身に覚えがあるだろうとつけ加えていた。無論、私も充分に身に覚えがある。



「個と人生」2014/5/28

今回は以前も言及した超常現象の話の補足から始まる。タケシが司会するおちゃらけ番組ではなく、ネッシーからUFOに至る様々な超常現象を、科学的に解き明かすというNHKの番組である。結論から言えば、その多くは科学的には根拠が薄弱な現象だという説明になるので、見てもあまり得るもののない番組ではあるのだが、中に一つだけ注目に値する放送があった。それは、人が沢山集める荒野でのイベントに、乱数発生器を複数設置しておいたところ、多くの人が関心を集中する時間帯に、乱数に明確な偏りが現れたというものである。 乱数発生のメカニズムは、突き詰めて言えば量子の振る舞いに基づいており、これは人間の意識が量子に影響を与えたと考えるのが自然だろうと述べていた。

同じような研究はこれまでも行われており、この研究結果で何が凄いかというと、911である。911のテロ攻撃の映像をTVで見た人たちの意識が揺らいで、乱数発生器の数字に影響が出た。これは分からないでもない。ところが問題はそのピークが事件発生後では無く、事件発生前に始まっていたというものである。大勢の人間が意識を集中すると、物理的な影響力になるというこの実験は、現時点では科学的な説明が出来ない。但しアプローチとしては、事実は小説より奇なりが当たり前の極微の世界、即ち量子力学の世界なら、説明できるのではないかとNHKの番組では述べていた。

およそ人間の感覚や意識という分野は、万能に見える科学にも未知の領域であり、科学より哲学の領域の様に思われる。テレパシー、予知、透視なども、人間の精神活動に深く関わる、未知の潜在能力の分野であるように思われる。東洋医学で言う気の世界も、意識や精神と関わりがあるような感じがしている。気で岩石や水は動かせなくても、意識のある動物、特に人間には、実際に物理的な力になり得ると思われなくもないからだ。意志のある者同士の、意識の相互作用という見方をすれば、超常現象の多くが説明可能になるのではないかと、素人的に憶測している次第である。

ところで私は死後の世界があるとは思っていない。過去に去った人達との再会がかなうとも思わない。人間は誰に教わらなくても、死を恐れる。それは個にとって、死が全ての終焉であることを本能的に知っているからだと思う。臨死体験も、極限状態に置かれた脳の化学的な反応と思われる。死んでしまえば、自分と言う個の存在はそれまである。虚しい事、この上もない話だ。他との関係も、経験も思い出も業績も、全てが無に帰する。

しかし、全てが無になるとしても、人生が夢だとは思わないし、自分と自分を取り巻く世界が幻影だとも思えない。それは、世界が自分個人の想像を超えた複雑な様相を呈しており、また自分の予想を超えたダイナミックな変化を続けているからだ。即ち振り返ったら世界がなかったというような認識論は、いささか自己中過ぎる見解であり、無理があると思っている。であるならば世界の中で生きている自分という存在の意味は一体何なのだろう。

この世に生を与えられ、幼い頃、突然自我の存在に気がつく。即ち初めて意識を持つ。しかし意識にとって実在するのは現在と言う瞬間だけである。意識は現在という時間軸でしか作用出来ないというより、そもそも存在し得ないのである。それは意識が脳のある時点での瞬間的な電気的な状態である(でしかない)と言う見方に立つと、なんとなく理解出来る。いわば意識は保存が効かない。それが故に、残念なことに、死も現在でしか起こりえないのである。死ぬのは誰にとっても、明日ではなくて、今なのである。

4次元、或はそれ以上の次元のある悠久の宇宙において、現在という極端に短い時間軸でしか存在を許されない人間(とその意識)。そんなはかない存在であっても、自分と他者への働きかけを、諦めずに本能的に続けているのは、意識を持つ存在野宿命であると考えられる。そこに大きく影響するものは、過去の記憶と、未来への展望だ。過去の記憶と、過去の自分の行動の積み重ねである現在の自己を肯定し、未来に期待し、よりよく現在を生きたいと願う。それこそが、いやそれだけが、人生を意味のある、或いは価値あるものにする唯一の手段だと思わざるを得ない。言い換えると、人間と動物を隔てる大きな違いが、自己の意識のあるなしだと思うのである。

そうなれば、いきおい人間は、自らの生き方に誠実にならざるを得ない。無駄に出来る時間など、一秒たりとも無いのである。人生を意味あらしめるには、逃避もごまかしも、役には立たない。この見方は宗教とは関係がない。死ねばそれまで、死後の世界はないというのは、実存主義の前提だからである。



「個とチーム」2014/5/28

社会については、吉井理人のメジャーリーグの本からヒントを得た。「最初からチームであることを強調するのが日本の組織論であるが、メジャーでは個人の上にチームがあると言うのが基本的な考え方であり、自然発生的に生じるチームの和を重視する」。この一文に、個と組織の関係が凝縮されているように感じる。まず個(社員、職員)があって、組織の中で個が全力を尽くすことが大前提。その活動の上に、和があるというものだ。最初からチームワークありきで、譲歩しあったり、バランスばかり重視していれば、組織の効率は下がる可能性もある。無暗に競争をさせよと言っている訳ではない。個人が全力を尽くせということだ。そしてこういうコンセプトの組織なら、全員が駄目でも、一人の力で組織が立ち直る場合があるかもしれないではないか

国と企業では個と組織の関係が異なる。企業の場合は、サービスや製品を提供し、適正な利潤を得るという目的の為に企業があり、企業を維持発展させる為に必要なパワーとして、企業が個を雇い入れる、即ち雇用契約を結ぶ。だから期待する機能が発揮できない場合は、解雇する権利を企業は原則的に持つことになる。機能が明確に規定されていて、そこで個が力を尽くすことで、企業が発展するのである。しかしこれが行政単位、たとえば国の場合は、個と組織の関係は全く異なる。個々、或いは家族単位で幸福を追求する個人がいる。その個が集まって、共生する仕組みを作る。それが国である。即ち国民を守る為の国であり、法律なのだ。この仕組みの維持運営費として、国民は税金を納める義務を負うことになる。経済のシステムも、広義のインフラということが出来る、だから国民の幸福から遊離して、金融システムが自身の為に暴走するなどは、あってはならないことなのだ。即ち目的のための共同体である企業と、個人が生きてゆく為の国では、成り立ちも目的も、個と全体の関わり方も異なるのである。それ故に、最大多数の最大幸福という根本的な目的を忘れた国家は、最早国家ですらないのである。



「議員が多過ぎる」2014/5/29

500人も議員がいれば、個々の議員の顔や活動を、良く知ることは不可能だ。議員の活動の情報に国民がアクセスしたり、全体の傾向を分析するシステムが用意されている訳でもなさそうだ。議場で多数決により政策が決定されるときに、判断基準がロジカルで冷静な議論とは限らないだろう。むしろ場の雰囲気や、空気で決めていることも少なくないと思う。しかも人数が多いほど、その傾向は強まるだろう。個々の議員の顔がぼやけて、全体的なムードが議場を支配することになる。重要な案件は事前の政党内部の議論で決まる場合も多いだろう。それさえもなく、政権が一方的に決めて、党の議員は反対するどころか、議論さえ封じられている場合も考えられル。安倍独裁政権下の自民党などがその顕著な例ではないだろうか。即ち国会での議論は体裁を整えているだけとも考えられるのである。であるならば、民主主義の運営方法は未だ不完全と言わざるを得ない。議員の数を減らし、後日検証可能なように全記録を残し、選良による冷静な議論をベースに議決を行う。そういう精度に改善出来ないものか。政治家がホットでも、官僚がいつもクールというバランスが望ましい。民主主義が衆愚政治だと喝破した先人達への言訳が見つからない今日この頃である。

ところで昨日の「個と人生」のエッセイで人生と個人の話を書いたが、自己中を肯定したわけではない。世界は個から始まるということと、自分を見失うことなく、有意義で密度の高い人生を送ることが重要だと申し上げている。自らの意識にどっぷり埋没して、他を顧みる余裕のない自己中は自分に捕らわれているだけで、精神の自由は無い。自分に捕らわれず、意識を自分の外に拡大する生き方こそ、真に自由な生き方だろう。本当に満足感のある人生は、自分に執着することなく、他者からの圧力や強制によらずに、自発的に自分以外の者や物の為に生きた時ではないだろうか。






トップページへ