「WTWオンラインエッセイ」

【第2巻内容】

「行政官たちよ」
「TVの新潮流」
「トニー賞授賞式」
「カジノ法案」
「サマワの語られざる悲劇」
「論理の綻びを取り繕う」
「拝啓、総理大臣閣下」
「イスラムは対岸の火事ではない」
「財政はどうなっているのか」
「麻薬がらみの犯罪には厳罰を」
「いま出来ることは何か」
「違法薬物と取締り、そしてその先」
「中間層がいなくなる日」
「アマチュアの出番はあるか」
「集団的自衛権」
「私とスポーツ」
「与党はどう動く」
「茹で蛙」
「未熟な中国、懲りない日本」
「高齢者と運転」
「その強欲が徒となる」
「受けたい授業とMC」
「麻薬汚染列島」
「W杯決勝戦」
「川内原発、何が合格?何で合格?」
「内田樹のブログから、集団的自衛権」
「武器輸出三原則」
「児童の貧困率」
「地方紙に注目」
「格差社会と言う不幸、から」
「リコーの配置転換」
「丸山真男」
「岡田武史監督」
「ドネツク情勢」
「闇鍋と首相専用機」
「炎熱の日とゴジラ」
「積極的平和主義の欺瞞」
「中国の蛮行」
「石破の身の振り方」
「お金に色をつけよう」 
「IMFの余計なお世話」 
「動的平衡、ダイアロ−グ、から」 
「集団的自衛権に国民の反対多数」 
「中国の軍拡」 
「ヒロシマから69年」 
「笹井氏の死」
「ヒロシマの祈念式典」
「世論調査のまやかし
「お笑い議員」
「中国の覇権主義」 



「行政官たちよ」2014/6/6

私は日本の官僚機構について、皆様とは若干違った経験を有していると思う。これは前職で、官民プロジェクトの手伝いをしたことと無関係ではない。無論それ以前にも、国際物流を生業としていたので、関係省庁とのコンタクトはあった。但し前職の若手行政官とのおつきあいから感じた事は、一線で働く人達は、熱意と理想に燃えているという実感だ。

そういう人達が昇格して国の行政の中枢を担って行くのであれば、日本も大丈夫だという印象を得た。だから私は今でもお役人を信じる気持ちを持つことが出来るのだ。これはある意味、幸せな事だと思う。但しここからは憶測だが、そういう人達でも出世の階段を登り始めると、上に行けば行くほど、省益を意識せざるを得なくなるのではないだろうか。若い理想論だけではどうにもならない局面というものもあるに違いない。即ち嫌でも政治的な判断をしなければならなくなる。それは個人の問題ではなく、どんな人でも、その場に置けばそうなる宿命かもしれない。

そこを改善するには、官僚制度そのものを見直すしかない。しかもこれは、あらゆる組織が根源的に内包している問題でもある。即ち組織が依って立つ目的の達成より、組織そのもの存続、拡大が優先するという状況のことである。本来は目標あっての組織であり、企業なら製品やサービスを社会に供給するために存在している。それは従業員の為(行政機関なら官僚の為)ではないのである。

行政の長は政権が任命するものの、建前上は国民が指名し、業務を委託するという型式だ。但し実務担当の人事は国民が関与出来ないところで決まる。もとより国民には、誰が適任かなど分りようもないので、事務レベルのトップ人事は関係省庁と政権の間で決まるのが実態だろう。即ち、直接行政に影響を及ぼすのは、国民の意志というよりは、政権の意志の方が強いということになる。

省益とは別に、各省庁には、これまでの行政の経験から、政策を改善したいという希望もあるはずだ。即ちその機関としての理念や理想がある。それをその時の政権が許す範囲で進めたいと思うのは当然かもしれない。

私が皆さんと少し見方が異なるのは、現在の官僚機構が、安倍政権にべったりくっついて、完全にその意のままに動いているとは思わないという点だ。安倍首相が次々に繰り出す政策は、彼と官邸が考え出したものとは思えない。またその政策の全てが省益の為とも思えない。その中には、以前私が接してきたエリート行政官の夢と理想が息づいている事を私は感じるのである。

私は幸運な事に、次官級から、現場の担当者に至るまで、未だに嫌なお役人に出会った事がない。それでも中には、万人がこれは問題だと認める人も多分居ることだろう。でもそういう人を見分けるリトマス試験紙がある。それはこう尋ねるだけで良いのだ。「貴方は明日の日本を信じますか」と。端的に明日を信じると答える人は、現状を肯定し、既得権に寄りかかり、時の政権におもねるだけの、ギリシャの役人と同じだろう。明日の日本を信じるがゆえに、今のままではいけない、何とかしたいと考えるのが在るべき姿なのだ。明日を信じないという答もまた不正解である。正しい答えは、「私は日本と日本人を信じているが、もっと良い日本を私達が作って行かねばならない。やるべき事は山のようにある」なのだ。そして一番大事な事は、視線線を政権にでも自省庁にでもなく、いつも国民に合わせていることだ。だって日本人とは国民そのものことなのだから。国民の為に働くこと、それが即ち省庁の本来の目的を達成することであり、省庁の存在理由でもあるからである。

ところで私は金融機関の事を良く言わない。それでも日本の金融機関は、欧米の銀行の様にグリーディーになりふり構わず利益を追求し、高額報酬をむさぼるという印象はあまりない。そんな地道な経営のおかげでリーマンショックの日本経済への波及を最小限度に食い止める事も出来た。それと上記の公務員の姿勢に共通するものが誠実さではないか。日本のメーカーの社員にも共通する、そんな日本人の優れた特質こそ、日本を支えてきたし、また支えてゆくべき、欧米人には少ない特性だと信じている。

私は日本人を信じており、また自分が日本人であることを誇りに思う。でもそれは、保守政権や権力者層、既得権層が、徴兵制を視野に、自分達に都合の良いように作り上げている日本や日本人の勝手なイメージとは全く別ものなのだ。



「TVの新潮流」2014/6/14

最近、量販店のTV売り場に行かれた事がおありだろうか。鳴り物入りだった3DTVも竜頭蛇尾。ブームになることもなく、ソフトも主流にはなっていない。レンタルビデオ店でもソフトは揃っていない。最近の映画館では、ヒット作品は3Dと2Dで同時上映され、何故か3D版は吹き替えで上映されることが多い。それゆえ私はいつも2Dで見ている。3Dに見慣れたからというより、効果が度肝を抜くような物ではない=ある意味、それだけ自然、だからだ。2Dでことさら不便を感じた事はない。今どれくらい3D受像器が普及しているのか分らないが、今のような方向性では、いくら機器が安くなっても、近い将来、全てのソフトや受像器が3Dに置き換わるとは到底思えない。多分最大の理由が、専用の眼鏡を掛けなければならないことだろう。

以前私が使っていたシャープのスマホでは、3Dで画像が表示され、しかも眼鏡は不要だった。だから眼鏡を使わない3Dも原理的は可能なのだ。但し視聴位置は限定される。ということは、これ以上の3Dの普及は多分あり得ない。私はジョブスは優秀な技術者だったとは思わない。不世出のCEOだったとは思う。経営は詰まるところ哲学である。

特定の一時点で会社を比較しても意味はない。従業員は代るからだ。しかし短期間のおつきあいでも、会社の雰囲気くらいは分かる。私が強い印象を受けた会社が3つある。それはホンダとパナとトヨタである。担当者が持つひたむきな情熱、枠組に捕らわれない自由な発想、そして良識とマナー。他社や他者を一方的に排斥するのではなく、理が通ることなら、何でも受け入れようとする柔軟さと謙虚さが彼らにはあった。出井以降のソニーの経営陣に、果たしてそういう素質が充分に備わっていたと言い切れるだろうか。

新技術、新製品の将来を見極めるためには、休日も返上し、不眠不休で働かねばならない。経営者に決まった勤務時間など有るはずもない。週7日、一日24時間は当たり前なのだ。中途半端な形で経営に関わっても、うまく行くはずがない。

身も蓋もない言い方をすれば、夢も希望も覚悟もない会社から、優秀な技術者が次々に逃げ出して行った。でもそれは平井だけの責任ではない。前任のストリンガーは米国人の友人で固めた取り巻きの中で、世間から隔絶して裸の王様状態だった。その点では今の日本の首相も似たような状況かもしれない。ストリンガーを後継者に指名した出井は、大賀の理念を引き継ぐ事さえしなかった。今のソニーの凋落は、一言で言って人災である。

話が飛んでしまった。今回言いたかったのは、TV受像器の枠の幅が狭くなったということなのだ。TVは次第に一枚の四角いガラス板に近づいてきている。枠が目立たなくなる事がそれほど重要かとお尋ねか。私は重要だと思う。なぜなら、最終的に枠のないTVが出来たら、それを複数枚組み合わせることで、自由な大きさのTVが家庭で設置出来るからである。そしてその時に初めて、4Kの技術が真価を発揮することになるだろう。



「トニー賞授賞式」2014/6/15

WOWOWでトニー賞の授賞式を見た。舞台芸術が対象で、司会はヒュー・ジャックマンです。同時通訳が下手なので聞きづらく、無い方がましなくらいだが、後日字幕版も放映されるだろう。しかし会場の熱気はアカデミー賞どころではない。こういうイベントでは司会の役が大きいのは言うまでも無く、ジャックマンは歌えて踊れるので適任だ。もう一つ大きな要素は、同じ舞台なので、ヒット作品をいとも簡単にステージで再現出来る事だ。これでは盛り上がらない方がおかしいくらいだ。日本では米国の舞台劇やミュージカルがそのままの形で公演されることは少なく、日本人が演じる舞台だけである。正直本物とは言いがたい面があり、また舞台そのものが今一つ敷居の高いものがある。ますます映像が刺激的になり、しかも台詞に品がなくなる映画がエンターテイメントの全てではないのである。ステージの文化も、日本にもっと普及出来ないものかと思う。



「カジノ法案」2014/6/19

こんな愚劣な法案が本当に必要なのか。競馬も競輪も宝くじも、国民には気晴らし以外に百害あって一利もない。賭博は本質的にゼロサムですらない。安倍政権下の国民は、職は保証されず、収入は抑えられ、税金と介護保険等の負担金は増えるばかり。そこへカジノなのか。それでなくても熱しやすい国民性。生活をかけた自暴自棄の者達が多数出ることは火を見るより明らかだ。賭場はなけなしの持ち金を巻き上げる為の仕組みである。それを依存症で済ませるとは、上から目線も甚だしい。それでも寺銭ほしさに政府は賭場を開こうとしているようだ。実はたった一つだけ方法がないこともない。それは会員になる条件として、年収1億以上、資産10億以上の証明書を要求することです。賭博が大衆の娯楽と考えるほどには、まだ欧米の遊びの精神が日本では育っていない。気楽に遊んで、ちょっと得をして、ちょっと損した、それでも楽しかったという文化は、未だ日本人の精神風土にはないのである。賭博と言えば、そこに有るのは一攫千金狙いの張り詰めた熱い射幸心=働かずに稼ぎたい、だけなのだ。理念なき安倍首相は、江戸時代の悪代官と変わるところがない。まさに越後屋、おぬしも悪よのう、ところで賭場の上がりはどうなっておるのか、なのである。



「サマワの語られざる悲劇」2014/6/19

6/18のテレ東の番組が、イラクのサマワに派遣した自衛隊員を取材していた。合計1万人を派遣、21名が負傷し、帰国後、28名が自殺。隊長経験者の談では、現地では砲撃も受けており、僅かの物音にも過敏になる日々が続き、帰国してからも緊張が解けずに、国内なのに銃を手離そうとしなかった隊員の話も出た。いろいろあったことは全部隠していたとも述べていた。現地で負傷した隊員の一人は、全て国が面倒を見るから安心して行けと言われたのに、負傷してから1年間、対応がなく、結局障害者の認定を受けて退職したと言っていた。

彼は、アナウンサーのインタビューに答えて、集団的自衛権には大反対だと言っており、自分のような犠牲者をこれ以上出したくないと語っていた。当時、小泉政権で自衛隊の派遣から撤収まで担当した政務官も、いまのように責任の所在がはっきりしないような集団的自衛権を行使する事には反対だと述べており、もしイラクの時に集団的自衛権が行使されていたら、100人は死んでいただろうと言っていた。

ブッシュの仕掛けた湾岸戦争が、フセインの圧政はともかく、大量破破壊兵器があるとの前提条件が根拠のないものであり。結局は米国石油資本による利権が目的だったのでないかという疑いが濃厚だ。

私はこのTV番組を見て、少し安心した。安倍首相の嘘で固めた説明(戦闘地域には絶対に派遣しない等々)を、ジャーナリズムとしては失格なNHKのように右から左に流さずに、疑問を感じて正面から立ち向かうメディアが未だ残っていたことに、救われる思いをしたからである。

安倍首相は、何がどう動いて、何が起きてもおかしくないような法案と政策を、どんどん積み上げておきながら、その一方で、国民に対しては大丈夫だ、大丈夫だと繰り返すばかり。それで納得する国民だけだと思うところに、首相と官邸の限界がある。



「論理の綻びを取り繕う」2014/6/22

日本人MLBファンの夢。田中、岩隈、黒田、ダル、松坂を一つのチームにして先発で回すこと。無論押さえは田澤、上原。NHKの解説で田口が言っていた。

私事だが、地域で写真展を計画しており、自分が撮りためた20年分の画像(CD/DVDで200枚)の整理を始めた。画像は軽く1万枚を超えており、分類するのに丸々3日掛かった。どんなに良い写真やビデオ映像があっても、分類されていなければ使えず、使えなければ無いのと同じだ。全部HDDに入れたのは、取り出すのが速いからだ。ところで20年分の画像なら、HDDは500GB有れば充分だという事も分かった。但しHDDには寿命があるので、必ず予備機を用意されることをお勧めする。HDD同士のコピーだけでも9時間掛かった。

ところで安倍政権の特徴は取り繕う事にある。その場を凌ぐには有効というより、それしか方法はない。いかに秀才揃いの官邸でも、論理の矛盾まではいかんともしがたい。発言内容を良く見ると、つじつまが合っていないことに気が付く。しかも前言を翻しているのに、その説明すらない。これを見破るのはいとも簡単だ。継続して見守るだけで良い。誰にでもできる。国民が騙されないようにする為には、長い目、即ちトレンドで理解することが大切でなのである。



「拝啓、総理大臣閣下」2014/6/25

日々お元気にお過ごしのご様子ですね。その活躍ぶりがNHKで報道されない日はありません。ところで私から見ると、閣下くらい国民の事を気にしない首相は初めてです。誰かの回し者なのか、それとも誇大妄想なのでしょうか。それともその両方なのか。週刊誌によれば、第三の矢は、原発と軍備とカジノであって、欧州訪問も軍事関係の企業を連れての大名旅行とか。たしか閣下は成長戦略にはタブーも聖域もないと言い切っておられました。財閥と軍閥政府が支配する国家というのは、日本国民がそう遠くない昔に見たような記憶があります。デジャヴです。経団連の米倉前会長が、そういう支配体制作りに一役も二役も買っていたことでしょう。政権や財界のある程度の保守傾向は仕方ないにしても、想像力の欠如したリーダーは災害以外のないものでもありません。最近、閣下はブッシュ・ジュニアと似てきたような感じがしています。その特異な価値観で日本を破滅に追いやる前に、早めに有終の美を飾って頂く訳にはいかないものか。私は貴方とシンタローのシンシンコンビがチョー苦手です。なぜなら貴方達の理想は、時代錯誤の富国強兵の妄想にしか、私には思えないからです。一方で経団連の会長人事もやり直して欲しい。何で凋落の化学畑からばかり選ぶのかも分らない。経団連で名を馳せた人達は、トヨタ、キャノンなど、経営者としても立派な人達でした。米倉さん、貴方はどうでしたか。私は貴方の名前は経団連の会長になるまで全く知りません。そして、現在の状態。出井がストリンガーを選んだのと同じ事にならない事を願っているのです。



「イスラムは対岸の火事ではない」2014/6/25

政府は中小企業への優遇策を廃止するとか。最近まで起業を後押しとか言っていなかっただろうか。現政権は、とにかく大企業と既得権優先。富裕層が一番多いのが米国で、次は日本だそうだ。格差社会、低福祉国家、富裕層の増収、中間層の消滅。誰にでも容易に想像がつく近い将来の日本の姿である。それが有るべき日本の姿なのだろうか。私は権力者層が富国強兵のために、危険な橋を渡ろうとしているように思えてならない。人間は貧しさには耐えられても、格差には我慢が出来ない。イスラムで今起きていることが、対岸の火事だと思っているとしたら、それは余りにも想像力が不足していると言わざるを得ないのである。



「財政はどうなっているのか」2014/6/26

財政が悪化し、日銀が国債を買い支えているからなんとか保っているというのが私の理解である。そこで財務大臣にお尋ねしたい。消費税を上げるときの説明は、国の財政赤字がどうにもならないところまで来ているからという説明だった。しかも安倍首相は、増税を押し通すためだけに、増税分は全部福祉に回す=それも本当はおかしい、と言いつつ、蓋を開けてみれば、福祉にはむしろ厳しくなっている。逆に予定にはなかった防衛予算の増額や過大なODAに税金が流れている。首相も大阪市長と同じような三百代言におなりになったのか。一体今の日本の財政はどうなっているのか。私はこれだけ政府が放漫な税の使い方をしていれば、国の財政状況が改善するとは到底思えないのである。



「麻薬がらみの犯罪には厳罰を」2014/6/26

脱法ハーブ。何故麻薬と言わないのか。日本が麻薬に汚染されている事を認めたくないのだろう。名前はともかく効果は麻薬のそれと同じだ。しかも麻薬を吸って運転して人を殺傷する事件は今回だけではない。死刑や終身刑の適用も視野に入れた、飲酒運転以上の厳罰が必要であろう。厳しいと言われるかもしれないが、そんなものを摂取して運転するのは危ないということを承知の上でハンドルを握るのだから、最早過失ではない。


「いま出来ることは何か」2014/6/26

今の一党独裁の日本の政治状況の閉塞感に、やり切れない思いを抱いている人は少なくないだろう。しかも私達が今出来る事は無い。残念だが。自民党が好き勝手に振る舞っているのも、しばらく国政選挙が無いということと、首相が国会を解散することは考えられないからである。ではこのままずるずると富国強兵の国家主義の方向に引きずられて行ってしまうのか。しかもそれは大多数の国民の意志ではないのにも関わらずである。この問題の本質は、富国強兵を願う人は、現在40-50代の、いわば日本を支えている人達だという所にある。そうした中堅層は、景気に最も敏感な階層でもある。

但しことは自民党=平家、が楽観するほど単純なものではないと私は考えている。何故なら、まだ反戦のDNAを色濃く持っている日本人=蟄居の頼朝、は大勢残っており、しかも20-30代でも、新しい反戦思想を持つ人達が出てきているからだ。そういう反体制の潜在的な力が、あるスレッショルドを越えると大きく動き始めて、社会の大きなうねりになる事は間違いないと思う。今のこの時期は、不満を蓄え、組織作りを考え、世論を醸成し、反撃の準備を整える時期なのだ。決して諦めてはならないのである。

自民党の超保守政権は、その慢心故に、必ず大きな失敗を犯すだろう。程度の低い議員や関係者の、過激でお粗末な発言が増えていることでも明らかだ。上層部から致命的な失言が飛び出すのは時間の問題である。何故なら本音はいくら言い繕っても、所詮隠しようがないからだ。実は今でも首相回りでは、相当に危ない話が飛び交っているのに、メディアが自粛して、それを報道していないだけだと思われる。だからもっと週刊誌を読む必要があると思う。

今後も、日本のメディアは報道を自粛し、内閣も秘密保護法で隠蔽を図るだろうが、ネットの時代に人の口に戸など立てられる訳がないのである。まず外紙がそれを取り上げ、次に日本国民の知るところとなり、それきっかけで国民の不満と怒りが爆発することになるだろう。



「違法薬物と取締り、そしてその先」2014/6/27

池袋西口の暴走男の逮捕シーンを民放で見ましたが、容疑者のよだれを流した不様さに眼を背けたくなった。まともな人間なら麻薬には手は出さない。次にはひらめきが欲しい飛鳥のようなアーチストやスポーツ選手。そして面白半分の若者から日本中に広がるのだろう。費用は一回分で3千-6千円だそうだ。決して安い金額ではないし、習慣性もあるだろう。麻薬密売組織に対する当局の本腰の姿勢が、今一番必要とされている。商売の自由が優先などというのは虚言である。国民の安全が優先だ。まさに生活安全課の仕事である。違法薬物は闇社会の資金源にもなっているはず。私は最近の建設労働者の不足が、彼らの更なる収益の機会を作り出しているのではないか、そしてその為に議員との結びつきを強化しているのではないかと危惧している。それはどの国でも起きる、一党独裁の負の側面である。そういう状況の中で、カジノが公認されれば日本の文化の荒廃は一層進むことになる。以前バック・トゥー・ザ・フューチャーという映画があり、その第二作では、主人公の住む街が、悪童のなれの果てのボスが支配する犯罪都市になっていたというシーンがある。日本も、そういうボスが支配する、弱者が虐げられ、犯罪が多発する国に向かって、一直線に進んでいるかのようである。



「中間層がいなくなる日」2014/6/27

私は日本の階層が、ますます二分化の様相を濃くしていると見ている。言い方を変えると、中間層が、そのどちらかを選ばねばならなくなってきている。頑張ってセレブに入るか、それとも大衆に落ち込むか。セレブと大衆の違い。そこには文化と教養で見えない線がありそうだ。セレブはレベルの高い文化に接し、入手するだけの経済的な余裕と、それを楽しめる素養を身につけている。審美眼も無く、商品の金額的価値だけを自慢するのは単なる成金であり、セレブとは言えない。一方で(私を含む)大衆は、メディア(と秋元や吉本)が与える(或は垂れ流す)大衆文化を文化と教養だと思い込んでいる。収入は低くても、志と審美眼くらいは高く保てないものか。維新の志士たちも、生活は楽ではなかったはずだ。要はプライドの問題である。望ましいことは、いま米国で取り沙汰されているような中間層の後退を食い止めることだ。その目的の為には大衆の多くを中間層に引上げる必要がある。その為にも収入の平準化が必要だ。中間層が何故必要かというと、西欧の歴史で見ても、中間層こそが、文化や科学技術や政治革新の担い手だからである。



「アマチュアの出番はあるか」2014/6/28

高橋源一郎が、6/26の朝日の朝刊に寄稿した記事を読んで愕然とした。タブーとされる皇室の問題を取り上げながら、皇室に対する敬愛の情を失うことなく、右傾化した社会の歪んだ価値観を活写したからだ。最後は皇太子をなんだと思っているというヤジに近い記者の質問に、人間だと答えたホリエモンの言葉で締めくくっている。こうした文章と批評のプロの作家がいると、私などのアマチュアの出番は殆どない。一方で、知名度だけに頼って、内容のない書物を乱売する芸人や芸能人とは一緒にされたくもない。未だそこまで落ちぶれてはいない。言葉即思想であり、理念であり、観念である。その部分でアマチュアはまずプロには敵わない。無論文章表現力もである。ものの見方の深さと多様性の違いもある。自らの未熟さを恥じ入るばかりである。

ならばWTW(=私)は、潔く撤収して、これ以上皆様に迷惑を掛けない方が良いのか。いえいえ、残念ながらそうは問屋が卸さないのだ。読者を安心させることが目的ではない。私には私のやり方がある。現場の人間として、外国との長い付合いと、内外のメディアを半世紀に渡って読み続けてきたという経験を持つ者は、それほど多くはないだろう。またいわゆる海外通は、その殆どが企業や組織の高位の人達が多く、私のように市井の庶民の視点ではない。理に走った、浮き世離れしたご高説は、私とは無縁である。WTWは生活密着が大前提だからだ。

ところで、政府はODAで海外の軍隊を支援するという突拍子もない案を出してきた(昨日の朝日の朝刊のトップ記事)。私は根拠無き官僚批判を好まない。私が正体が掴みにくいと感じている外務省でさえ、大使や公使や参事官に優れた人達がいるだろう。それでもなお、今の外務省OBの官邸での暴走ぶりはいかがなものか。かつて親しくして頂いた参事官から聞いた言葉がある。それは今の日本にいちばん必要なものは安全保障=防衛力、だというものだった。戦前の例を引くまでもなく、軍事力が背景にあるのと無いのとでは、外交交渉が全く違ってくると言われる。強い日本が外務省の究極の願いであることは容易に想像出来る。

それでもなお、そういう言わば両手を縛られた状態でも、何とか国のために力を尽くしてくれる姿にこそ、国民が信頼を寄せることのできる、尊いものがあるとは思わないだろうか。軍事力を使わないことを前提に交渉しなければならないのが、日本の宿命だとしたら、むしろ外務省の存在は一層輝かしいものになるのではないか。それは膨大な設備を既に持っており、災害さえなければ、何十年も稼働出来るはずの原発を見捨て、100年先を考えて効率の悪い再生エネルギーへ方向転換を図る人達についても言えることではないか。敢えて困難に挑む姿にこそ、日本人の本当の良さがあるのではないか。そのように思われてならないのである。



「集団的自衛権」2014/7/3

集団的自衛権は、自民党タカ派の悲願であった自衛隊の海外派遣と、米国への軍事支援、即ち武力行使への道を開くものである。米国の傘の下で、傘の先っぽを支えることが、唯一の日本の安全保障の具体的な形であるという判断をした人達は、それが国の為であり、良かれと思ってやっているのだろう。でもそれと引き替えに失ったものは余りにも大きいのだ。それは民主主義の理念の否定の上に成り立ったものだからである。

閣僚と外務官僚は、自分達は正しいという信念を抱いておられるようだが、その根拠は何なのか。それが未だに私には分からない。議会での説明も議論も殆ど無く、最初から結論ありきだった。どうせ国民に説明しても、所詮は烏合の衆、大所高所の観点は大衆には分るまい。説明する時間が惜しいし、秘密保護法もあるとでも言いたいのだろうか。

安倍首相の最悪の側面は、これだけ多くの国民が、あらゆる形で反対の意見を表明しているのに、それを一顧だにしなかったことである。民意を無視するだけでなく、政権は選挙の結果であり(首相を国民が選べないと言う事をお忘れか)、国民が白紙委任したとまで言い切った。これが為政者の暴走でないとすれば、一体何を暴走と呼べば良いのだろう。今回の集団的自衛権の最大の問題、それはその具体的な文言よりも、政権が自由に憲法を解釈できるという悪しき前例を作ってしまった事にある。防衛省は閣議決定を受けて直ちに法案提出の準備に入った。単なる内閣の決定では留まらずに、それが具体的な法律になる。これだけ省庁にとって都合の良い内閣は見たことがない。

これは日本の政治制度が、今やないに等しい民主主義や議会政治を実現する手段として正常に機能していないことを意味している。その結果、今我々の眼前にあるのは、一党独裁どころか一人の独裁である。しかもそのトップに立つ人物が、外国から危険人物と見なされている。戦後政治で最大の危機的な状況なのである。

幸い、国民の意見が完全に封鎖された訳ではない。リベラルな新聞や、ネットで未だに真の有識者の見解を読むことが出来る。しかし個人的な意見や、せいぜい社説で取り上げる程度であって、組織的な動きに結びつくには至っていない。反対デモの取り上げ方も控えめだ。政官財どころか、それに報道機関まで加わって、全方向からの国民の包囲網が形作られつつある。

検察も、徳洲会を始め、これだけ多額の金が政治資金として動いているのが明確なのに、そのどれも摘発する気はなさそうだ。気にくわない政治家なら重箱の隅を突くが、保守系ならお目こぼしなのか。それで検察の正義が全うできるのだろうか。

政権は好き勝手にやっていながら、それを国民には知られないように全力を尽くしている。そういう状況で、次の政策がどのようなものになるのかは考えたくもない。中央集権で一層肥大化した行政機関が権威を持ち、国民を治める大きな政府。それがまずおかしい。そういう政府は米国では通用しない。政官財の権力層にとって、国民は支配し、収奪する対象で(即ち主権などは無く)、労働力や兵力として存在するだけなのか。それは最早、憲法の全否定である。

そろそろ個々の国民が立つべき時に来ていると思う。そうしないと、やがて取り返しのつかない事態になる。私がタカ派の首相なら、次に着手するのは、秘密警察の復活だ。多分その名称は、取締り権限のある内閣調査局とでもするのだろう。安倍首相の独裁と暴走を阻止するには、まず自民党内部で反安倍派閥を、国民が育てることだ。自民党を否定する前に、とにかく安倍首相を退陣させることだ。そしてその為には事実と自由な意見を、国の隅々に伝えることの出来る国民の為のメディアを自分達の責任と金で作ることが必要なのである。そして当面、誰にでも出来そうな事は、無理せず長続きできる、市民の平和行進を復活させることだ。いかに警察でも、道路を国民が歩くことまでは禁止出来ないだろう。



「私とスポーツ」2014/7/4

くだらないクイズを一つ。シングルスとダブルスの試合で、コートの大きさが変わらないものは何か。答は卓球である。異なるのはテニスとバドミントン。バドミントンはシングルスとダブルスでは、幅だけでなく、サービスコートの前後の長さまで異なるので、一層複雑。コートにはこれでもかと線が引かれている。テニスと共に卓球もルーツは英国。中国ではないので御注意を。昨年、熱中症にやられてアーチェリーを中断してからは、スポーツらしいものと言えば卓球だけになってしまった。ちなみにアーチェリー協会の会長はなんと安倍首相閣下である。でも閣下が自身でアーチェリーを楽しんでいる姿は、残念ながら拝見したことはない。

米国駐在時代にテニスにも挑戦したことはあるが、学生時代の軟式のクセがどうしても抜けずに結局断念した。在米当時はゴルフがメイン、サブが射撃(ライフル)だった。社会人の現役時代は殆どゴルフだけだった。ゴルフはプレーにも、道具にも費用が掛かるし、なにより大変なのがゴルフ場との往復の運転。特に帰路の運転は鬼門。それでも長年ゴルフに親しめたことは、当時の上司だった副会長のお陰である。ゴルフがスポーツかという議論はよく耳にしますが、無論スポーツである。しかもいちばんマナーに厳しいスポーツだ。ただコースを歩けば良いというものではなく、日々の練習も欠かせない。

私は最近の悲惨で刹那的、自虐的な犯罪の報道に接する度に、犯人達はスポーツをしていたのだろうかと考える。精神の健全さを保つ上で、スポーツの果たす役割は大きい。スポーツは相手との闘いである以前に己との闘いがある。ストレス発散の最善の形でもある。精神と肉体の双方を鍛錬できるいちばん手軽かつ有効な手段である。最近では暑さもあって、週一の卓球と散歩以外には、もっぱら見る方に回っている。MLBの試合観戦が多く、これが結構試合時間が長い上に、しかも日本人選手がどこかで毎日試合に出ているので、相当の時間を観戦に費やしていることになる。

ところで今回はウィンブルドンの話題だ。実は余り興味が無かったので、今朝(早朝)のマレー対ディミトロフの準々決勝が最初の観戦である。マレーが地元出身という事もあって、ロイヤルボックスにはチャールス皇太子夫妻の姿も見られた。他に有名人では映画俳優のヒュー・グラントなども。接戦という事もあってセンターコートの盛り上がりは尋常ではない。男子のプレーで有難いのは、ウイリアムズの試合等で耳にする奇声がないことだ。悲鳴はテニスの品格にはふさわしくない。ところでファーストサーブの速度は200キロを超える。それこそ眼にも止まらない。プロでさえ返すのが精一杯。ここでラインを割ったかどうかは重要なので、ラインごとに線審がつく。5人ずつ両側の壁際にずらりと並ぶ。機械判定(チャレンジ)もあるので、そこまで必要かどうかは疑問だが。

野球でも投球の速度は160キロに達する。アマではかすることも出来まい。当たりどころが悪ければ重傷だ。野球の試合は、私は7回で充分だと思うし、ゴルフだって18ホールもいらないと思う。卓球では11球で勝敗が付くが、実力が違えばあっと言う間だ。テニスは1セット5球でも、セット数が多い。体力的には大変だと思う。余程強い相手同士なら別だが、卓球でヘタルという事は余りない。体力という点では、ひっきりなしに全力疾走していなければならない、サッカーとバスケが一番大変だ。

ところで雑学をもう一つ。何故テニスではカウントを0,15,30と数えるのか。これは時計から来ているそうだ。即ち1時間の1/4。では何故その次が40かというと、それは45が言いにくいからだそうだ。フィフティーンだって充分に言いにくいと思うから、0、1、2、3で良いと私は思う。ところで準々決勝は昨年の王者マレー(英国人の優勝は77年ぶり)がブルガリアのディミトロフにストレートで敗れ、英王室もがっかりだった。



「与党はどう動く」2014/7/7

与党も野党も、国民の存在や、その意志とは無関係に、党独自の価値観で動いている。今の日本で機能しているのは、権力者の為の政治構造である。おそらく首相が次に着手するのは石破下ろしだろう。彼の地位を脅かすのは、石破だけだ。ナンバー2を潰しておくのは、権力闘争でよくある構図である。老害の読売でも似たことがあった。でもそうやってなりふり構わず造った安定権力の先に待っているのはマンネリと腐敗だ。秋に内閣を改造して、ハト派の閣僚を追放し、名実共にアドルフ安倍政権が基盤を確立するのかもしれない。ワイマール憲法を骨抜きにした総統に似てきた。次に安倍氏が取りかかるのは軍事力の一層の強化と、民主主義の骨抜きだろう。東条内閣の亡霊が見え隠れする日本の姿である。

戦前のドイツと共通するのは、今の日本を帝国主義に向けて推進しているのが、安倍一人ではないという事である。彼を利用している、或いは結果的にその国家主義の恩恵を受けている人達全員の責任なのである。いま日本で再放映されるべき映画は、ニュルンベルグ裁判をおいて他にないのではないか。また最近の日本のノブレスにはオブリージュが欠如しているとしか思えない。この方々は私利私欲で動いているわけではないと国民の前で断言できるのだろうか。

ついでに言わせて貰うと、安倍首相はエコノミー症候群とは無縁のようだ。たまには民間機で移動するか、せめて自衛隊機を使ってみてはいかが。いつも予備機が一緒に飛ぶのだから、莫大な費用が掛かっている。安倍首相には行政のトップとしての経済観念が欠落しているとしか思えない。民主主義の何たるかを理解していないという点を含めて、石原と共通する点が多い。



「茹で蛙」2014/7/9

維新は、旧来の野党、特に民主党に嫌気がさした国民が選択し、拡大した政党=みんなの党も含む、なのに、その出自を忘れた迷走と暴走ぶりは目に余るものがある。国民不在は与党だけではないということだろう。与野党共に、国民の意向に注意を払うつもりは露ほども感じられない。民主主義国の国会議員にあるまじき傲慢不遜さこそが、今の日本の政治の暴走を招いた真の要因ではないのか。

私は、いまの日本国民は井の中の蛙であると共に、茹で蛙でもあると思っている。茹で蛙というのは、少しずつ温められると、蛙がそれに気がつかずにやがては茹でられてしまうことを意味している。いま国民をじっくり茹でているのは、安倍政権とそれを支える政官財だ。。首相のその場限りの耳あたりが良いだけの言葉の数々=まさに御為ごかし、に騙されているようでは、誰にでも分るトレンド=例えば高校生の徴兵への不安、にさえ気が付かないうちに、お陀仏という事態にもなりかねない。

私のライフワークが決まった。どうすれば、冷静でロジカルで、しかも自らにも厳しい世論=これは世の中の雰囲気とは違うものです、を喚起出来るかを考えることである。子孫の生命が掛かっていることでもあり、命を掛けて悔いのない命題である。私は体力にも知力にも財力にも恵まれているとは言えない、市井の一市民に過ぎない。それでも、というよりそれだからこそ、一切の制約なしに、おかしいと思うことは自由に発言できるし、この2年ほどはその傾向を一層強めてきた。なお私が国民と言うときは公務員も含んでいる。現在の日本の、世論が反映されない政治は、到底民主政治と呼ぶには値しないものだと思う。



「未熟な中国、懲りない日本」2014/7/10

中国は、軍国主義だったから原爆を落とされても当たり前だと言いたいのだろうか。しかし無差別爆撃で亡くなったのは民間人である。中国外務省は広島に行って見たことはあるのか。原爆を含む、米国の無差別、無慈悲な爆撃でどれだけの人命が失われたと思っているのだろうか。そもそも中国では軍人でさえ、前線の熾烈な闘いと悲惨な敗北を経験していないのではないか。日本には消耗戦の結果としての、辛い敗戦の経験がある。だからこそ戦争の非経験者が押し進めようとしている集団的自衛権に、我々団塊の世代が中心になって反対しているのだ。安倍政権は、自衛のための戦闘を容認すると言いつつも、戦闘があれば勝つことだけを前提にしている。しかし戦争には必ず敗者があり、敗者には敵、味方を問わず、悲惨な結果が待ち構えている。日本は負ければどうなるかを身にしみて分っている筈なのに、安倍内閣とその支持者達にはそれが分っていないようだ。戦争はハリウッド映画やアニメのようにはいかない。話を戻して、中国外務省の発言には核兵器を使うことを容認する危険な思想を感じる。できてもやらない。それが重要な点である。日本がその気になれば30分で核兵器を開発できるといわれる。またその原材料は世界を壊滅できるくらいある。中国に最も必要なのは核兵器で恫喝する、国威発揚の稚拙な戦術でなく、人権意識と民主主義の体制であって、それがない国は、図体が大きいだけの発展途上国に過ぎない。一党独裁の国が核兵器を持つのは大変危険だと言わざるを得ないのである。



「高齢者と運転」2014/7/10

今回は高齢者と交通事故の話題である。7/8のNHKのクロ−ズアップ現代が、高齢者ドライバーの交通事故の増加を取上げていた。私も来年は70なので立派な(と言うより年齢以外は余り立派ではない)高齢者だ。今は、実年齢は10歳引いて考えるくらいで良いと言われているが、それにしても年齢を重ねれば、それなりに認識能力も反射能力も確実に劣化している筈だ。

番組で冒頭に取上げていたのは、最近旭川で起きた交差点の事故である。原因は高齢女性の右折が適切でなかったという説明だ。番組にけちをつけるつもりはないにしても、これは明らかにおかしい。 事故の状況は、交差点で右折待ちしていた女性の前の車が右折をしたので、それに続いて右折しようとした女性の車に、交差点に高速で入ってきた対向車が衝突したというものだ。司法は直進車が優先なのだから、右折車が悪いという杓子定規な判断を下したものと想像される。

亡くなられた方には申し訳ないが、私が学んだ当時の交通法規では、あくまで交差点では先入車が優先の筈だ。直進車が迫っている直前に無理に割り込んだという場合は無論別ですが、どこうにもどけない状況で、直進車が速度を落とさずに突っ込んでくれば、これは直進車が悪い。明らかに安全運転義務違反である。直進車の無理な交差点進入を容認する司法判断なら、逆に交通事故を助長する可能性さえある。但し無理だったのか、それともそれさえ意識しない無頓着だったのかの判別は難しいものがある。しかし前方に障害物を認めたら、自分に責任があろうがなかろうが、とにかく止まるのが、移動手段を操縦する者の義務であって、運転の鉄則だ。環七と甲州街道の大原交差点で、行き交うトラックの間を縫って右折するという場合とは異なる状況だったと理解している。

私が申し上げたい事は、以前にもまして無理な運転をする「若い」人達も増えているという実態だ。それは車に限ったことではなく、スマホで音楽を聞きながら赤信号の横断歩道をゆっくり渡る人達、携帯で通話しながら運転する人達=耳に何かが触れていると注意力が大きく削がれる、或いは電車やスーパーでのマナーなど、むしろ最近の、他人には無関心で、思いやりも配慮もない世間一般の風潮と無関係ではないと思う。そこで、そういう無頓着な人達の間で安全運転を継続するにはどうしたら良いのかを考えてみたい。

最近、大きな交差点では、右折専用の信号が付くようになり、より安全になりつつある。しかし前に申し上げた如く、いくら自分で(但し自分なりに)安全運転を心がけ、交通規則を守ろうとしても、無理な運転をするドライバーに遭遇する機会をゼロには出来ない。では自分と他人の命を交通事故から守るにはどうしたら良いのか。しかも都心に住んでいる訳ではないので、免許返納などという安易で、不便な方法は取れないとしてである。

以下は個人的な提案である。
1)交通警察の話を聞く。
2)次回自動車を買うときは衝突防止装置付きの車を選ぶ。
 さらに、雪道や雨に強い、4輪駆動車を選ぶ。
3)車載録画装置を取り付ける。
4)自分の運転技術に欠陥や落とし穴ないかの検査を受け、運転の再講習を受ける。
5)タイヤやブレーキ等の保安装置の点検、保守を欠かさない。
6)絶対にスピード違反をしない。これは反射神経が衰えている可能性が高いから。
7)夜間や雨天など、視界が悪いとき、また体調が悪い時は運転を控える。
8)視力検査、視野検査を定期的に行う。
9)気分が高揚したり、沈んだ時、或いは怒りに燃えているときは 運転を控える、或いは代ってもらう。
10)保険では万全を期する。
11)同乗者がいれば、4つの目で状況を確認する。
12)交差点など、注意力が必要な場所ではおしゃべりも控える。
13)あやふやな気持ちでハンドルを握るのはやめる。言い換えると、いつも確信を持って運転する。
14)全ての交差点で、脇から自動車や自転車が出て来ることを想定して運転する。
15)後続の車がいかにクラクションをならそうとも、自分の判断を優先する。あおられて、うっかり飛び出して事故を起こしても、後続の車は決して責任は取ってはくれない。

高齢者の事故の大半が交差点の事故であり、これは法規を理解していない可能性に加えて、右折した先の横断歩道の状況まで事前にきちんと把握する能力が低下している事に起因している。またもう一つ心配なのは、これからHVやEVが増えるでしょうが、殆ど音を出さないので、歩行者が接近に気が付かないことである。最近のガソリン車もかなり音が静かなので、運転者が、歩行者は車の存在に気が付いている筈だ等という勝手な思い込みで運転するのは非常に危険である。またペダルの踏み間違いで接触事故を起こすようなら、免許は返した方が良い(或いは停止)。また高齢者向けの費用の掛からない(それこそ地方自治体の補助で)実技の随時講習をドライビング・スク−ルで実施して欲しい。事故を起こす前に、自分の運転の問題点に気づくことが最も大切な点である。

全員に言えることだが、運連免許を与える前に、運転者にはすぐに逆上したり、周囲に無頓着な性質があるかどうかを免許の特記事項にして欲しい。そういう人が事故を起こしたら、点数も倍にすべきである。運転には不向きなのに運転しているからである。譲り合う事を知らない運転者を路上に放つのは、犯罪者を解き放つのと結果的には変わらない。譲り合いの精神だけは、運転免許の講習で、これでもかというほど、叩き込んで頂きたい。そうすれば事故は激減するはずだ。

具 体的な方策もある。それは米国では習慣になっているが、信号のない交差点では、一台ごとに交互に行き交うべしという規則である。正に譲り合いそのものである。

違法ドラッグを服用して運転して他人を殺傷するのは高齢者ではない。携帯を使いながら運転するのも若年層が多いと思う。高齢者イコ−ル危険運転者と決めつけるのは短絡的である。運転不適格者が危険なのである。年齢より、判断力と操作能力が判断基準であるべきであって、一番大事なことは遵法精神があるかどうかである。それがない者には、免許が在ろうがなかろうが、ハンドルを握る資格はないのである。



「その強欲が徒となる」2014/7/11

安倍政権には、米国にとっては日本より中国が重要だという事が何故分らないのだろう。米国にとって、日本は中国の覇権が太平洋に及ぶ時に、歯止めになってくれれば助かるくらいの存在なのだ。だから日本は軍事大国になる必要はないのであって、侮れない存在になることが重要なのだ。しかもそれは軍備増強や、米国の手下になる事によってではなく、独自の文化や経済力や平和主義で十分可能なはずなのである。



「受けたい授業とMC」2014/7/11

民放も、番組の全てが捨てたものでもない。NTVにはダッシュ村という健全番組があるし、TBSには以前、学校に行こうという視聴者参加の優良番組があった。今でも続いている、NTVの世界一受けたい授業は、目玉講師がデンジローなので、以前は良く見ていたが、MCのクリームシチュウが、年上のゲストを捕まえては暴言を吐くようになってからは、全く見る気がしなくなった。このコンビの暴走を不快に思う視聴者もいるということに思い至らないことが、この番組のMCと制作者の限界なのだろう。彼らに限らず、最近の若手芸人や歌手出身のMC達の思い上がりと、傲慢さには、本人のお粗末な品性を見せつけられる思いがして、思わずチャンネルを切替えてしまう。同じ歌手のグループでも、賞味期限を過ぎて、まだ画面を占領し続けている人達もいる。私はタケシ・サンマ・タモリの中年三人組(三馬鹿大将と言ってもいい)の中では、引き際を心得ていたタモリが別格だと思う。安倍首相が最終回前に、いいともに割り込むように出演した時も、冷静にシニカルに対応していた。タレントもタレントだが、それを安く使おうとする局も局である。知性と品格を備えたMCを、それなりの費用で起用することが、結局は局の為になるということを、経営者は理解すべきである。

話が飛んだが、今回はMC=マスター・オブ・セレモニー、要するに司会者、の話ではなく、受けたい授業の話題だ。かなり以前に出演した高齢のゲストが、面白い事を言っていた。それは、江戸時代からこういう言い伝えがある、それは寝る前に飲む水を宝水、朝起きて飲む水を命水と言っていたというものだ。但しこれには諸説あって、共に宝水、または命水と呼ぶという説もある。いずれにせよ、これから暑い夏を迎え、皆様にも是非、この習慣をお勧めしたい。但しコップ一杯以上は止めた方が良さそうだ。夜起きた時にも飲むことをお忘れ無く。寝酒、朝酒では、伝説になるのも時間の問題だろう。あの人は豪快な人でしたな、太く短く生きた人でした、チーン。



「麻薬汚染列島」2014/7/13

自分がその時だけ気持ちが良ければ、何をやっても構わないという事にはならない。そんなに麻薬をやりたければ無人島に行けば良いのだ。社会との断絶と、精神世界の荒廃がここまで進んだ日本のどこが美しいのか。日本人の精神力=我慢する力を含む、と知性=歴史や芸術をまともに理解する力を含む、が今ほど弱体化している時期はないように思われる。もし昔からそうだったら戦後の復興など出来はしなかっただろう。加えて今のような一部の特権階級しか余裕のある暮らしが出来ないような社会に、果たして明るい未来はあるのだろうか。取締りだけでなく、格差の是正=貧困からの自由、も同時に進めない限り、麻薬に起因する事故も犯罪も減らないかもしれない。



「W杯決勝戦」2014/7/15

W杯の優勝決定戦は、結局最後まで見てしまった。お陰でその日は一睡もできなかった。ひと言で言ってレベルが違うと思った。メッシには何度もあつらえたような機会があったのに、その機会を有効に使えなかったことがアルゼンチンの敗因だろう。オフサイドも厳密だった。しかし両チームの無駄のない動き、調和の取れたチームワークは、流れもスム−ズで、見ていても気持ちが良かった。見苦しい反則もなかった。日本はチームワークが良くても、途中でバテバテが目立つので、基礎体力の差なのかもしれない。未だ未だ奥が深い世界のようである。



「川内原発、何が合格?何で合格?」2014/7/16

NHKの朝のニュースでも指摘していたが、災害発生時の地域ぐるみの対策ではなく、住民の避難計画もなし。また対策なるものも、冷却用の海水タンクを高さ10mの薄い壁で覆っただけの代物。それで津波対策なのだそうだ。その外側の自称防波堤も、たかだか3mの高さ。避難区域も10kmから30kmになっただけ、欧米ならは80kmは必要とされるだろう。一体これをもって、どう住民に安心せよと言えるのか。こんな調子でどんどん規制委員会から許可を垂れ流された日には、国民はおちおち寝てもいられまい。百歩譲っても、最低限度、県内の全住民の投票が大前提だろう。



「内田樹のブログから、集団的自衛権」2014/7/17

7月1日安倍は彼の政府は憲法九条を「再解釈」することで、憲法が「永遠」に放棄したはずの「武力による威嚇または武力の行使」は可能であると宣言して、過去二世代にわたる憲法解釈を覆した。この動きは1960年代以来の大きな抗議デモを引き起こし、世論調査でも市民の不同意は高い率を示している。(中略)ドイツと日本にかかわる先週のニュースは「目覚まし時計」の鳴動である。アメリカ政府は緊急の問題と、本当に根本的な問題をしっかり識別しなければならない。アメリカ政府が日本、ドイツとの伝統的な戦後パートナーシップについて再考するを怠れば、われわれは遠からず独裁主義的日本(authoritarian Japan)とアメリカにきっぱり背を向けたドイツに遭遇することになるだろう。それは二十世紀の最大の遺産が破壊されたということを意味している。
(寸評:米国の学者の意見の紹介の一部だ。私が気になるのは、日本では反対運動がまるであって無きがごとしの報道に終始していることである。こんな体たらくで、どうやって日本のメディアを信頼せよと言えるのだろう)



「武器輸出三原則」2014/7/17

若い世代は、現在の日本の危険な状況が分っているのだろうか。日本には世界の最先端技術があるし、最高精度の部品を作る力もある。その気になれば、最高レベルの武器を開発するなどたやすいことなのだ。無論核兵器でさえも。でもそれはやらないという事で、世界から平和国家として評価されてきたのである。武器を開発中の国から見れば、日本の技術は喉から手が出るほど欲しい。小惑星と間を往復出来る技術など、どの国にもあるものではない。集団的自衛権等の拡大解釈で、憲法9条による戦争の歯止めが事実上外されようとしている。武器三原則も骨抜きにされつつある。今の日本は、表では国民の安全と幸福の為と言っていても、根本的なところでとんでもない方向に進もうとしていると私は確信している。最早平和主義でさえ、唯のお題目に過ぎない。是非ともその現実を直視して頂きたい。企業が金儲けをしたいだけなら、いくらでも民生用途があるはずだ。



「児童の貧困率」2014/7/17

日本で児童の貧困率が16%を超えたとのことだ。児童が貧困という事は、つまるところ親が貧困だという事だ。子供に人並みの教育も受けさせられないとなると、次世代ではもっと格差が開くという事を意味している。今読んでいる、村上龍の経済の随筆に、面白い記述があった。それは競争社会と弱肉強食とは違うというものだ。とりわけ戦争も、戦後も経験していない方たちに申し上げたいのは、絶対に自分は勝ち組から滑り落ちることはないという自信があろうとも、それは幻想に過ぎないということなのだ。人間には自分が思うほどの差はないのである。だからいつでも立場が逆転する可能性があるということなのだ。分かり易い例で言えば、これまで自分が馬鹿にしていた相手が、いかなる理由かは分からないが、突然自分の上司になり、自分は自分で役員から疎まれて左遷されるという事態だ。何より米国型資本主義(金融資本主義)が、現代資本主義の唯一の選択であるという固定観念だけでは、今後の先の見えない世界を生き抜く事は無理だと、私は思う。何故ならその限界がもはやはっきりと見えてきているからなのだ。



「地方紙に注目」2014/7/18

今私は地方紙に注目している。全国紙の政府の顔色を伺う卑屈さがなく、住民の生の声が聞けるからである。


「格差社会と言う不幸、から」2014/7/19

430頁の本を20行でまとめるのはそもそも無理である。機会があったら是非ともオリジナルの本を手にとって頂きたい。どこまで要約出来るか分らないが、そこはダメ元で、とにかく挑戦するっきゃなさそうだ。

「格差社会と言う不幸」 神保哲生、宮台真司 春秋社 2009年
・(前書きから)経済成長があれば全てウマくいくというのが竹中平蔵氏の図式。グローバル化は放っておくと経済と社会の連動を途切れさせてしまう。経済回って社会回らずの状態が帰結される。経済さえ回ればは、完全な虚構。底辺が拡大すると、底辺同士のつぶし合いも起きる。多くの失業者がいるのと、少ない失業者と多くの非正規雇用者がいるのとどちらが良いのかは、政策パッケージ全体で考えるべき問題。重要だが議論されない問題は、貧乏が貧困に直結しているようなヒドイ社会に、我々が生きているという事実である。国民一人当たりのGDPは高いのに、自殺率は英国の3倍。公的支出に占める教育費の割合は欧米が5%なのに、日本は3.5%。現行世代が次世代の育成をこれ程気遣わない国はない。一日の就業時間は欧米より3時間も多い。その結果、社会参加の機会が削られ、社会成員は互いに切り離され、人々は社会的に孤立する。

・(本文から)日本社会は特定の集団への所属を意味するボンドが濃密で、人を集団外の誰かにつなげていくブリッジという緩い社会関係が弱い。ホームレスを支援している湯浅さんが言っていたが、声を上げても、政府も企業も変わるとは限らないけれど、声を上げないと絶対に変わらない。政府には社会的な公正さを追求する責務がある。格差という言葉だけでは、その結果、下の方がどんな状態になっているのかピンとこない。問題は格差より貧困にある。



「リコーの配置転換」2014/7/20

追い出し部屋で悪名を馳せた会社である。そもそも人員過剰というのは、経営者の見込み違いなのだから、経営者の責任だ。とは言え、業績がいつまでも伸びるという保証もまた無いわけで、そこで新製品開発や競争力の強化、販路の拡大が必要になるわけだが、それもいわば経営者の責任であろう。



「丸山真男」2014/7/20

顧客名簿が高額で売買されている。今や宣伝はラジオやTV、新聞、車内の吊り広告の時代ではない。これだけ国民に浸透したネットを使わない手はない。個々の消費者に直接情報を届ける手段でもある。いわば新手のダイレクトメールだ。宣伝する側が、喉から手が出るほど欲しいのがアドレス帳。これは明らかにネット社会の負の側面である。ネット社会がどうあるべきかを考えるという私のライフワークの宿題は膨らむばかりだ。

民主主義を生涯考え続けた知の巨人、丸山真男に注目が集まっている。そこには政官財の裏方に堕さなかった時代の東大=逸材を育てる、の良心が感じられる。民主主義というものは世界のどこにもない、将来もないだろう、あるのは民主化だけだと丸山は説いている。一等兵で迎えた終戦で、丸山が見たのは自発的な集団がわき上がるような国民の熱気だった。疑いもなくそれこそが日本の戦後の復興を支えたエネルギーだったろう。彼はそこに戦後の民主主義の原点を見ている。大正時代にも日本には民主主義を追求する自由な空気が溢れていた。しかしそれも戦争に飲み込まれてゆく。非国民という疑いを掛けられれば問答無用、投獄は無論、ろくな裁判手続きも経ずに殺されるという、思想の国家統制の暗黒時代。国粋主義者が民主主義を力で押さえ込む社会。どこか見た様な(或いは現に見ている)光景ではないだろうか。リベラルというとすぐに左翼と思うかも知れない。しかしリベラルという言葉は民主主義と同義だったのだ。丸山は多数者支配という日本の民主主義の伝統を、少数者の権利というところから民主主義を組み替えていこうとした…。

以上はEテレが7/19に放映した、日本の戦後史証言プロジェクト、日本人は何を目指してきたのか、からの抜粋に、自分なりの解釈を施したものである。こういう番組を作り続けている限りNHKも捨てたものではないのだが…。



「岡田武史監督」2014/7/21

時々TV番組で得た知識、情報をご紹介しており、皆が見ているものを、今更私が取上げてもしようが無いという見方もあるだろう。しかし毎朝録画番組を選択するために番組表を見て思うのは、この全部を見ている人はいないだろうということだ。だから、見ていない人には新しい知識、見た人には別の見方ということでご了解頂ければと思う。

今回ご紹介するのは昨夜のBS TBSの「みんな子供だった」という番組で、岡田武史監督の3回目である。司会は倉本聰だ。同監督の最盛期には、何故か私(WTW)が街で本人に間違われるという事が2-3回あった。面影がどこか似ていたのだろう。だから嬉しいという類の話ではない。彼もイケメンで通っている訳ではない。しかしこの番組で本人が言っていたが、有名になるのも考え物のようだ。脅迫電話はじゃんじゃん掛かる、毒入りと書いた食品が届く、パトカーが常時家の前で警備に当たるという騒ぎだったようだ。これではテロまがいの行為であり、匿名だといかに人間が卑劣になれるのかと呆れるばかりである。

今回は岡田監督の語録の紹介で、以下はその要約である。
「世界ではジャージの監督も多い。羽織袴を着て勝てるなら着ます」
「W杯では三浦カズを切った。それから3年、口をきいてもらえなかった。選手を切るというのは監督の仕事であり、嫌われることを恐れたら仕事は出来ない。情を入れないで、力だけで判断した。その当時、確かにカズは調子が悪かった。監督は沈没船の船長みたいなもので、一隻しかない救命ボートに乗せる人間を選ばなければならない。その時は私心を入れたかどうかだけを何度も自分に問うた。私心がなければいつか分ってもらえると無理矢理自分に言い聞かせるしかない。フランスでのゲームの翌年に日本・韓国のW杯共同開催が決まっており、一度もW杯に出たことのない国が主催国になったことはなく、日本がその不名誉な国の第一号になりそうだった。負けるわけにはいかなかった」
「人間の歴史は5千年、人生は70-80年、サッカーの試合はたった90分。たいしたことはない。だから悔いがないように全力を尽くせ」
「師事している禅宗の僧に言われた言葉がある。手に持ったものを一度離さないと、次のものは握れない=過去の栄光にしがみつくな。一日一度は人や仏壇に頭を下げよ。部屋の掃除をせよ。掃除とは心を掃くことだ」
「船という土台がしっかりしていないのに、帆を広げ過ぎたら、船は転覆する」



「ドネツク情勢」2014/7/24

ドネツクで親ロ派がウクライナ軍機を撃墜した。マレーシア航空機の誤射という悲劇が起きたばかりなのに、しかも同じミサイルを使ってである。前回は間違ったから、今回は間違えずにとでも言いたいのだろうか。これでは国際世論は親ロ派の主張などは絶対に見向きもしなくなるだろう。

こういうときに非武装、平和主義の国でなければ停戦の斡旋も出来ない。日本は米国寄りの判断しか出来ないように自らの手を自分で縛ってしまったようなものだ。武力に頼らない、対話による解決を提案出来なくなったという事は、集団的自衛権の代償としては余りに大きい。私には、日本が憲法9条の国でなくなった事が、未だに信じられない。それも安倍首相を含む、戦争を知らない人達の、底が浅く、覚悟の足りない判断によってである。

私が今、素手で立ち向かっているものは、特定の個人よりも、その個人個人が体現している、世代を超えた国粋主義・国家主義の流れである。安倍政権を後押ししている人達には戦争と戦後の体験がないとしか思えない。しかし国というのは、こうも簡単に自国が経験した悲劇を忘れ去ることが出来るものなのか。戦後世代の歴史認識の浅さにも驚かされる。百田も籾井も、一度戦地に行ってみてはどうか。

脱法ハーブという名称がやっと危険ドラッグに変わった。ついでに覚醒剤の方も変えて頂きたい。違法(或いは危険)薬物(或いは毒物)ではいかがか。



「闇鍋と首相専用機」2014/7/25

安倍首相が理念無き商魂の道を選んだのなら、むしろそれに徹した方が、少なくとも分りやすい。お為ごかしに平和とか国民と言わずに、言葉面だけの理念や理想も口にしないほうがましなのかもしれない。そもそも従来から自民党の理念は目先の利益優先のはずです。今は、首相のナショナリズムと、省庁の省益と、業界の市場拡大の思惑とがごちゃごちゃになっていて、誰が見てもよく分らないつぎはぎだらけになっている。

何でもかんでも、鍋に投げ込む闇鍋状態なら、中に毒キノコが混じっていても少しもおかしくはない。ていうか、実際混じっている。それはいずれ、日本人の国際的信用の失墜、日本経済の破綻と言う形で現れるおそれがある。鉄の三角形で問題が起きると、いつも最後のツケを払うのは、もの言わぬ国民である。しかも権力階層が自分達の不手際を一切棚に上げて=例えば原発、しかも助けてくれた国民に感謝したという話を聞いたこともない。民は働かすべし、文句を云わしむべからず。それが自民党のモットーらしい。

ここで逆説的な表現を御許し頂きたい。自分が偉いと勘違いしている方々にこの際ご進言申し上げたい。それは究極の財政改善手段である。国債をデフォルトにして、紙くずにしてしまうことがそれだ。これで一気に国民からの、一人当たり700万の借金がちゃらにできる。安倍政権が大盤振る舞いで使ってきた国の借金も零だ。国民はその分の資産を一気に失う事になるが、でもそれがどうだというのだろう。これまで何百年もの間、為政者が日本の国民相手に何度も繰り返してきたことではないか。時には資産ばかりか、お国の為と称して、命まで提供させてきたではないか。

首相が何度も海外に出掛けるその根性は見上げたものかもしれないが、費用はどうなっているのだろう。誰を連れて行っているのか。国民には渡航の詳細を知る権利がある。第一、首相だからと言って、どこに行って、何を約束しても構わないという事にはならない。ご自分のポケットマネーで渡航するのなら何も言わないが。



「炎熱の日とゴジラ」2014/7/26

昨日はまさに炎熱の一日だった。私は70年近い人生で、これ程の殺人的な暑さを経験した事がない。熱目の風呂に浸っているという感じだ。一度真夏に香港を訪れた事があり、10m歩くだけ全身びしょ濡れになったが、それでも今の日本よりは湿気が少なかったように思う。屋外は時折風が吹くだけ未だましで、問題は屋内、それも二階部分だ。熱だまりが出来ているのが体感出来る。去年熱中症にやられて救急車のお世話になった時も、二階で冷房を絞って寝ていた時だった。今思えば当然だと思う。今年は冷房を惜しまず、水分補給や血流改善薬で万全を期している。それでも一歩外に出るときは、この炎熱下では、何時どこで倒れてもおかしくないという覚悟が必要だ。今震災が来たら、停電で冷房が使えなくなって、熱射病で多くの人が命を落とす恐れがある。

台風も史上最強を更新、昨冬の大雪、竜巻、落雷、大粒の雹、土砂崩れ、道路の冠水など、自然の猛威は激しさを増すばかり。疫病も、エボラ出血熱で医師が罹患した。今、私の脳裏をよぎるのは終末思想という言葉である。私はまさか自分が生きている間に、この世の終わりを予感するような状況を経験するとは思いもしなかった。これは311を新宿で経験した事とも関係がある。来たるべき自然災害の最たるものが首都直下型或いは南海トラフ地震である。確率70%というのは、ほぼ間違いなく起きるということだ。しかしその時期が問題であって、少しでも手がかりや、見当がつけられれば、随分と心構えが違う。そこで、私は勝手に自分で時期を想定することにした。それは11月7日を挟む1週間です。実はこのデータは余り信憑性の高くないTV番組で予言していたものである。それでも何もないよりはましだと思ったからである。それまでは自由に外出もし、基本的に普段通りの生活をする。しかし11月の声を聞いたら、食料、水、燃料の備蓄を心掛け、旅行には出掛けない。人間四六時中緊張感を保つ事は出来ないので、こうしてメリハリをつけようというハラなのである。

ところで昨日、映画ゴジラを見た。見たには見たが、いつも早起きしているので睡魔に勝てず、肝心のクライマックスシーンは見逃した。それでもこれまでで、最も巨大で強力なゴジラだ。これもお約束通り善玉である。悪役は、同じフィリピンの洞窟に休眠していたカマキリ型の巨大昆虫。ゴジラが長さ300mで、カマキリは身長90m。それなりのパニック映画には仕上がっていて、全ての怪獣映画がそうであるように、人間の主人公達は、渡辺謙を含めて、間近で呆然と見守るだけ。なお冒頭のシーンは、日本の原発が何者かに破壊され、メルトダウンが起きて立ち入り禁止になるというリアルな想定だ。ハワイが津波に襲われるシーンもある。但し、どうしても見ておくべき映画かというと、それはビミョーというところだ。ところで多分ゴジラの英語名はどなたも書けないのではないか。それはgodzillaである。これは個人的な意見だが、最初にgodが付くところに注目して欲しい。



「積極的平和主義の欺瞞」2014/7/27

積極的平和主義という言葉は止めて頂きたい。そのどこが平和主義なのか。最早出来の悪い冗談でしかない。自衛の為の戦闘で武器を使うなと言っているのではない。こと軍事活動では、恣意的な拡大解釈は絶対に許されないということなのだ。軍事行動は人命に直接関わるからである。日本政府は満州事変を忘れたのか。現にウクライナではミサイルの誤射だって起きている。とにかく引き金はギリギリまで引かない事が大前提だ。武道の経験のない者には、止めどころが分らない。それが怖い。寸止めが効かないからだ。今の安倍政権がまさにそうだ。またそういう連中に限って、いざ戦闘となるとびびって最初に逃げ出すのは、歴史それも日本の現代史が証明している通りである。



「中国の蛮行」2014/7/30

中国新疆で暴徒数十人を射殺。いくら暴動を起こそうとも、自動小銃に斧では所詮勝ち目はない。これはテロなのか、それとも抵抗運動なのか。中国政府は宥和政策ではなく、徹底した弾圧が正義だと言うつもりなのか。しかも漢民族はレアアース等を一方的に収奪している。そんな理不尽が何時までも続けられると思っているとすれば、歴史からは何も学んでいないということになる。人間は理不尽な差別や圧政に、そうそういつまでも耐えられるようには出来ていない。革命の歴史がそれを証明している。今中国は内乱の入り口にいるのに、それが全く分っていない。内乱が革命に発展するのは、被支配者の側に理があるからだ。電気も来ない人達がいるかと思えば、海外で膨大な蓄財をし、自前のサッカーチームを持つ富豪もいる。ひと言で言えば、果てしなき欲望と、理念なき統制国家の姿だ。政府は国民に何を約束しているのか。豊かで、格差が有り、しかも精神の自由のない国か。それはどこか他の国でも見たような気もする。原稿を棒読みしているだけの某首相を拝見する度に、内容のない空疎な言葉の羅列にしか聞こえないのは私だけだろうか。誰が書いた原稿にせよ、本音をそのまま書いているわけではない以上、そのうちに必ず矛盾が露呈する。私はその時が来るのを待っている。某首相の背後で、頭が良いと思い込み、傲慢に振る舞い続ける人達が、その時にどんな顔をするのだろう。


 
「石破の身の振り方」 2014/7/30

内閣改造で幹事長の交代があるという。安倍首相にとっては最大の政敵、目の上のこぶに、念願の引導を言い渡すことが出来る機会である。政権内部に留め、しかも役職に就けることで反政府の発言も出来ないようにする。いわば体の良い左遷。これで独裁体制の完成である。日本の民主主義の夜明けならぬ、夕闇の到来だ。それはどんなものなのか。一切の批判を許さない社会。要は戦中と同じだ。石破は無役になるのが正解である、批判勢力を束ねるという大事な仕事があるからだ。その方が安倍首相も全体をまとめやすくなるので得策ではないか。次の総裁を狙う絶好の位置にいることを自覚すべきである。

おまけの毎日新聞の川柳。
「明白な危険」というが誰決める。
これに私が下の句をつけた。
決めるは戦争好きな人。



「お金に色をつけよう」 2014/7/31

 経済システムにとって紙幣(貨幣)は欠かすことの出来ない価値の交換媒体である。この紙切れ(または金属片)を人間が必要以上に求めるが故に、数え切れない多くのトラブルと悲劇を産んで来た。たかが…されど…という決まり文句が、これほど当てはまるものは他にそう多くない。

そこで、不可能は承知の上で、私はお金に色を付けると良いと思う。勤労者が働いて得た収入と、年金収入は青い色にしておく。それ以外の、役員の賞与や、利息、配当、競馬や宝くじの賞金、まして麻薬取引等の違法収入は、これまで通り(白)。無論一枚一枚の経済的な価値は変わらないが、受け取る方が独自の判断をする余地を残す。例えば、白い方の紙幣の価値は半分に評価し、倍額で申し受ける。今のように持てる者だけに有利な格差社会のシステムでは、そうでもしなければ公平感が保てない。

今栄華を誇っている高額所得者達に申し上げたい。資本主義の見直しの気運が高まっている。しかも現在のシステムで得をしている者は全体の1%のみ。残り99%は恩恵には浴しておらず、むしろ1%の恩恵を増やすことに貢献させられている。でも楽をして儲ける時代はそう長くは続かない。今の経済システム、特に金融資本主義と、民主主義は、相容れないものだという現実から未来永劫目を逸らしてはいられないからだ。



「IMFの余計なお世話」 2014/8/1

IMFの勧告。消費税10%が不可欠な訳がない。法人税を減税する余裕があるのにである。これくらい内政干渉の勧告もなかろう。まさに安倍政権の筋書き通り。IMFには日本政府は超多額な出資をしており、その代わりとして、ナンバー2のポジションを得ている。それがどれほどの地位と権限を意味するのかは知らないが、ある意味で国際的な天下り先と言える。無論財務省のである。そのIMFが保守政権や財務省に有利な勧告をするのはむしろ当然である。財務省は政府の暴走を監視すべき立場なのに、今や政官一体の感さえある。財政状況を改善するには、消費税を上げる前に、垂れ流しに近い安倍政権の支出を締め、過去最高の貿易赤字の対策を考えるなど、真面目に、また正々堂々と、財政の専門家の立場で立ち向かうべきなのに、その気配は感じられない。

また日本がこれ以上無理に成長すべき理由も見当たらない。それより、雇用回復と国民の可処分所得の増加を図ることで経済全体を上向かせることが急務である。個人消費がGDPの多くの割合を占めている事は広く知られている事だ。私が日頃からIMFを嫌っているのには、それなりの理由がある。マンネリと硬直。しかも専門知識に疑問を感じる時さえある。前専務理事の下半身スキャンダル、現専務理事の選挙時の不正疑惑など、ダークな話題にも事欠かない。



「動的平衡、ダイアロ−グ、から」 2014/8/1

福岡伸一は動的平衡の理論で、日本を代表する生物学者になった。動的平衡、動的平衡2に続いて出版されたのが「動的平衡、ダイアロ−グ」である。学者や著名人との対談集で、動的平衡の理論が随所に散りばめられている。さすがに一流の知識人は、考える事も言う事も違うと感心すると共に、自分がいかに人生を無駄に使ってきたかという痛惜の思いと、しかも勉強する時間は残り少ないことを実感する。

話を本(元ではない)に戻して、インフレーション理論の佐藤勝彦を始め、どの対談も面白いのだが、今回はその中から二人を紹介したい。最初は「銃・病原菌・鉄」を書いたジャレド・ダイアモンドだ。テーマは高齢化。どんな民族でも常態的に食料事情が厳しかったので、働けない高齢者はお荷物になる。だから移動の時等に置き去りにされる事が多かった。姥捨ては決して珍しい風習ではなかったという。あるインディアンの種族では、身体の弱った年寄りに僅かな食料と水を残し、それでも移動する部族に追いついて来たものは受け入れたとある。

一方でこういう話もある。それは平均寿命が40歳というニューギニアの村をダイアモンドが訪ねた時の事である。食べられる植物を尋ねた時に、フンギケンギの後だけ食べる、というものがあったそうだ。なんのことか良く分らないので質問すると、よぼよぼの老婆に聞けという。すると、フンギケンギとはサイクロンの事で、サイクロンで畑が全滅したら(やむなく)食べる植物のことだったのだ。それまでは食べてはいけないものだったのだ。最後にこの村をサイクロンが襲ったのは60年前。だからサイクロンを生き抜いたこの老婆にしか、その知識はなかったのである。

今はネットに様々な情報があるので、高齢者の生き字引としての価値は減ってきている。それでも高齢者はその年齢までサバイバルに成功した人達なので、その経験が役に立つはずだ。東北の津波の時のてんでんこ等もそうした知識の一つだろう。そのサバイバル術も、現代社会にあっては、単にどの草が食えるか食えないかというようなものではなくて、企業や社会でどう生きぬくのか、行政とどう付合うのか、医者のかかり方から家庭内騒動の治め方に至るまで、より幅広いものとなって、若い世代にとって価値のあるものになるに違いない。

もう一つ、同じ対談から、閉経の話題。閉経になれば女性は用済みだと言った元知事がいたが、彼は何も分っていない(=馬鹿)。高齢になればなるほど出産で命を失う危険性が高まる。だから命を守るために閉経があるのだそうだ。またその後は使える時間が増えるので、子どもや孫の世話が出来ると述べている。

二人目は芸術人類学研究所所長の鶴巻真弓氏だ。ケルトの渦巻きを取上げており、一つの渦は求心力が極まった瞬間に即座に遠心力へと反転させられ、次第に回転する力となり、継続的変化がもたらされると説明している。福岡がその文様は、生命の動的平衡そのものと述べている。貝も生まれた時は小さいナメクジのような形をしているが、一定の角度で殻を作り始め、それが長さと角度を増やしてゆき、やがて殻が完成するのだそうだ。またこれは巻き貝に限ったことではなくて、基本の角度が広いとあわびのような形になるとのこと。いずれの場合も貝殻の基本は渦巻きなのだそうである。



「集団的自衛権に国民の反対多数」 2014/8/3

他国の戦争に参加する政策で国民の理解を得ることは無理である。日本国民は戦争が嫌いだという事が分らないほど、現政権は欲ボケしているのだろうか。官界も財界も、経済発展と引き替えなら、政権のどんな横車にも目をつぶるということか。安易で覚悟の足りない企業は、どんな大企業でも、いずれ国際競争に敗れて消え去ることになる。これまで生き残ってきた真の優良企業は、政府など宛にしないから、サバイバルしてきたのだ。財閥系企業の再興による経済復興などは旧態依然、戦前そのままである。そのどこに新たなビジネスチャンスがあるというのだろう。アベノミクスが最初から小僧的な矛盾を内包しているのだから、うまく行くはずはないのである。



「中国の軍拡」 2014/8/4

中国が核弾頭の数を増やしている。中国のファシズムと帝国主義が世界の脅威になる日が来るとは想像していなかった。一国が軍拡を始めると、それを理由に他の国も防衛強化に動き出す。終わりなきエスカレーションの繰り返しだ。一触即発の機会も飛躍的に増大する。だから最初の一歩を踏み出さないようにすることがとても大事なのだ。タイなど、事実上の軍事政権国家も出てきている。こんな事で世界平和は本当に大丈夫なのか。私が一人で騒いでいる訳ではない。少しでも想像力があり、人間らしい感情を備えた人なら同じ懸念を共有して貰えると信じている。見識と常識のある評論家が次々に排除され、頭の軽くて硬い(チタン製の脳)小説家達が大きな顔をする右よりの世相。その中で、まともな一人が高橋源一郎だ。ところで自民党の女性議員は要注意だ。女性だから平和主義とは限らず、ソフトな外見を装いつつ実は強硬なタカ派なのだから、始末に負えない。



「ヒロシマから69年」 2014/8/6

ヒロシマから69年(筆者と同年)。今朝の天声人語で、エノラ・ゲイの機長が残した言葉を取上げている。広島や長崎の人ではなく日本という国と戦った、だから多くの米兵を救ったことになった投下は正しかったと。米国側の目は原爆投下や空爆を、爆撃機の高度から見る。天声人語は命に向けたむごさを鳥の目でなく虫の目で見たいと説く。米国の詭弁に近い論理を最近どこかで見たような気がする。即ち、そこには安倍首相の、集団的自衛権、秘密保護法に通じるものがありはしないか。全体(主義)の論理が優先し、個々の国民の存在も、虫の視点もない。そこでは自分が全体(日本)だという危険な思い込みさえ感じられる。今度は日本が、相手の痛みを理解しない、尊大な加害者になる可能性を示唆している。それにしても広島は遠いので、8時からの記念式典はTVで見るだけである。ケネディ大使も出席予定。



「笹井氏の死」 2014/8/6

STAP細胞の小保方氏の上司、笹井氏が自ら命を絶った。追い詰められての事だ。真面目な科学者で、しかも彼はES細胞の目への応用における第一人者だった。日本の生物科学界としては悔やみきれないだろう。STAP細胞の騒動は、近来まれにみる科学界での醜い出来事だった。なぜ醜いかというと、科学的な真実より、手続き面や組織の論理が優先されたからだ。人と人の争いや、地位や組織を守ろうとする動きが、真実の追究より優先されてはいなかったと言い切れるか。今やSTAP細胞はなかったという事が暗黙の前提になってしまっている。しかし笹井氏と小保方氏を追い詰めた人達(はっきり名前を出して欲しい)は、STAP細胞の存在が証明されたら、一体どのように責任を取るつもりなのだろう。失われた命が戻ってくるのだろうか。それともそれでさえ、小保方氏の責任だと言うつもりなのだろうか。STAP細胞は欺瞞だという前提から始まる科学研究(や検証)にどれほどの意味があるのだろう。有るのか無いのか分らない、未知なものを相手にするから科学研究なのだ。

同種の形式論を、文系の分野でも展開する向きがある。文系では誰にも明白な真実というものを具体的に示すことが難しいだけに、一層面倒だ。しかし自分以外の誰かがこう言った、だからこうあるべきだというような話を延々と展開されても、拝聴する方としては時間が惜しい。自分自身が何に重きを置き、どうしたいのかの意志表示を先にして欲しい。飾り立てた箱で中身を隠し、言葉面だけで言いくるめようとするのは、安倍政権だけに任せておけば良いのである。



「ヒロシマの祈念式典」 2014/8/7

昨日の祈念式典の広島市長の宣言は分りやすかった。しかし国のトップに立つ、安倍首相は、核兵器を持たないと言っただけで、戦後生まれのこの首相の口からは、不戦の誓いはついに聞かれなかった。集団的自衛権にともかくも言及したNHKは一応評価されるべきだろう。私は電車の車中や職場でも、8:15に黙祷する習慣をつけることの方が、被爆者の悲惨な写真を見せるよりも大事だと思う。21万人が原爆で亡くなった。死者を悼むのは当然であろう。そして戦争を知らない子ども達は、この日がどういう日かを尋ねるだろう。その時に、大人達がきちんと説明出来なければ、日本人としておかしいのである。



「世論調査のまやかし」 2014/8/9

議会で相対的多数を占める自民党は、事実上如何なる政策でもごり押しが可能で、また事実そのように振る舞っている。しかも新聞は与党が強引に議案を押し通してしているのに、あたかも議会で議論が尽くされた結果であるかのように報道し、殆ど批判をしない。10年前とは趣が随分違う。そもそも独裁体制と民主主義は対極の存在だ。そういう政権が唯一警戒しているのが世論である。そして国民の方で注意しなければならない事は、保守系の新聞を含むメディアが独自に行う世論調査である。サンプル数が少ない上に、いくら無作為と言おうとも、対象が当該新聞の読者や、当該TV放送の視聴者なら、保守的な傾向の結果になるのは分かりきったことだ。それをあたかも国民の総意であるかのように報道するのは、ジャーナリズムの本懐を忘れ、政権に顔を向けた悪質な世論操作である。政党色のない世論調査でなければ信用出来ないというシンプルな原則から始めたい。ちなみにNHKは、政権に対する配慮が過剰なメディアである。



「お笑い議員」 2014/8/11

お笑い芸人(ついでに女子アナも)が議員になると、まずロクな事はない。古くはコロンビア・トップ(参院議員)、横山ノック(参院議員、大阪府知事)、青島幸夫(東京都知事)など。見方によっては石原慎太郎(東京都知事、衆院議員)もブラックなお笑い芸人と言えないこともない。最近ではタケシ軍団のそのまんま東(宮城県知事)がいた。一番組で3-500万取るというタケシは、自民党なら担ぎ出したいところだろうが、議員になれば間違いなく失敗するだろう。それが分かっているから立候補しない。基礎的な教養に不安があるし、言いたいことを黙っていることが出来そうもない。但し、私はその中で、自分だけは特別だと思わないサンマだけは結構いけるのではないか、それも橋下などより遙かにましな政治家になるのでないかとちょっと思っている。但しあくまで無責任な個人的な意見である。



「中国の覇権主義」 2014/8/14

まず現実を冷静に認識しよう。中国が覇権を拡大するのをどう止めさせるのかを考えたい。中国を民主化して4分割するのがベストである。そのために、中国の国民に民主化を働きかけたい。同時に軍事政権を除くアジアの各国に連携を呼び掛けよう。人権委員会を始め、国連も活用したい。その時、日本が軍事力を背景にすれば、絶対に交渉がうまくいかない。小さい国は日本に軍事的な支援を期待するかもしれない。その結果日本の軍需産業が栄えれば、保守政権や業界は万々歳かも知れないが、それが日本と世界に高いリスクをもたらす事ぐらい、子供にでも分かる理屈だ。力に力で、武器に武器で対抗すれば、待っているのは果てしなき軍拡競争しかない。日本は30分で核爆弾が出来る。その技術力だけで充分抑止力になるのだ。無論実際には作らないが、外交の暗黙の切り札くらいにはなるだろう。平和維持の理念がない限り、外国の賛同を得ることは出来ない。それが理解出来ずに、近視眼的に安易に集団的自衛権を持ち出すような政治家の頭の悪さには、ただただ呆れるばかりである。






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