「WTWオンラインエッセイ」


【第3巻内容】

「WTWの存在意義」
「アベノミクスの問題点」
「アベノミクスと暮らしの行方から」  
「ネット社会とどう付き合うべきか」
「戦後の総括と集団的自衛権」
「一人は万人の為に、万人は一人の為に(もしくは国家と国民)」
「特定秘密保護法」




「WTWの存在意義」2014/9/25-2015/1/27  2015/2/20改訂

米国では既に、400以上のネット報道機関が活動しており、若い起業家がそれを運営している。新聞記者のスピンオフもある。その中には、自分で取材して記事を書くのではなく、情報をなかば自動的に蒐集し分類し、関連の映像をつけて配信しているネット・メディアもある。

彼らの目的は、読者がスマホの画面で手軽に情報を見ることが出来るようにすることである。確かに通勤途上、電車の中で(歩きながらではなく)、スマホの画面を指で操作しながら、何が起きているかを一覧出来れば間違いなく便利だろう。顧客が知っていることを、自分が知らなければ、営業活動にならない。重役が出勤途上の車の中で新聞を読むのに似たようなものだ。これはサラリーマンか否かとを問わず、社会人の活動にとって情報がいかに重要かを示している。このWTWにも、携帯で見られるようにして欲しいという要求が出されたことがある。しかし改めて画面編集をするまでもなく、ネットにつながれば、WTWもそのまま読むことが可能である。なぜなら文字が主体の情報だからだ。

数年前にWTWを読んで頂いていた複数の方から感想を頂戴した事がある。興味深いことは、その理由は二つに分かれた。一つは(WTWが紹介する)記事そのものに興味を持って頂いた人達であり、当時は未だ新聞社や通信社がネットで記事を配信する前だったので、私が配達直後の複数の紙の新聞を読んで、こんな記事があったと、概要や見出しを紹介するだけでも、自分で情報を探す手間が省けると思って頂く方がいたということだ。

更に当時から十数年遡ったNY駐在当時は、速報性もあった。なぜなら日本で入手出来る英字新聞は数が少ない上に、日本で印刷しても読者に届くには本国より1日から、物によっては1週間も掛かっていたからだ。私がこういう記事があったというだけの報告でも、日本での新聞やTVの報道より、半日から1日早かったのだ。NYには日本の新聞社から駐在員が派遣されていたが、私が彼らより若干有利だったのは、英文を読んだり、聞いたりすることに、抵抗感がなかったことである。失礼を顧みずに申し上げれば、当時の日本の新聞記者の、語学力と国際センスは、今ほどは高くなかった。だから彼らの報告よりも、私の情報の方が幾分早かったのである。但し今ではプロの新聞記者と張り合うなどは全く考えられない。

というよりは、ネットと衛星放送の発達で、オリジナルの情報がそのまま、同時通訳で日本でもリアル・タイムで視聴できるようになっているからだ。語学も普及した。蛇足だが、当時ワシントン支局長だったNHKの手嶋龍一さんとも、現地でお会いしたことがある。もうひとつ私が有利だったのは、当時はPCがそれほど普及しておらず、ワープロがメインで、しかも私はそのワープロの扱いにかなり習熟していたからである。またデータを日本に送る時も、当時まだ24時間サービスにもなっていなかったEメールを使い始めており、NIFTYの当時の社長とも親しくさせて頂いた。

ワープロがファックスより有利だったのは、電子データ(後で編集できる)で送ることが出来たからである。一方新聞記者はプロなので、独自取材もすれば記事も書く、本来素人が記者の真似事をしても、到底競争出来るような相手ではない。
WTWのもう一つの読者は、記事なんてどうせ新聞を見れば分るし、私が書くコメントが(独断と偏見ではあっても)他にはないものなので、それだけを読んで頂いたという方である。これは顔見知りだからという面が強かったと思う。知らない人のコメントなど、誰も読んでくれない。

そこでこの章の本題であるが、この二つの要素こそ、ジャーナリズムの本質だと私は考えている。客観的な情報伝達と、分析や解説である。しかも後者には独自性(オリジナリティ)が要求される。常識的でなく、良く言えば個性的、即ち少々変わっていることも必要だった。

記事を書くために、記者は血のにじむ努力を重ねている。現地に飛び、インタビューをし、資料を読み、分析し、記事にまとめる。まさに努力と汗と(時には命懸けの)リスクの結晶だ。だからその記事を自分が書いたかのように公開する権利はない。あくまで引用するくらいである。また引用するときには引用先を明記することは最低限のマナーでもある。ならば記事を紹介する側としての、いわば編集者による付加価値とは一体何なのだろう。

それは選択眼に尽きる。当該出来事や記事が今の世界にとって重要か、重要なら何故重要なのかを説明できなければならない。いわば選択の動機が、そのまま付加価値なのである。だからネット・メディアは、情報を単に右から左に流すだけであってはならないのである。そこにはまず情報選択の理由と価値判断が前提になっていなければならない。そうでないと、ただのコピペで終わってしまう。記事の引用に際しても、肯定的な記事だけでなく、反論の為に記事を引用する場合もある。ネット・メディアの編集者は記者を後押しすることもあり、牽制する場合もある。記事を評価し、記者を鼓舞し、或いは疑問を提起する。ネット・メディアの大きな役割のひとつは、記者と読者の間にあるという基本的な立場から、メディアの情報や見解をチェックし、読者に代わってメディアに注文をつけることである。逆に埋もれた情報に、読者の関心や注意を喚起することもあるだろう。ち選択と評価、それがネット・メディアとの依って立つ存在理由なのである。

WTWと記者の立場が決定的に異なるのは、WTWがメディアの経営方針とは無関係なので、世間の政治や経済の力関係に左右されない、即ち間接的ではあっても、いかなる制約も受けずに、政治や行政を批判出来る立場にあるということだ。フリーな記者なら、サラリーマン記者と違って、制約も少ないだろう。だからサラリーマン記者が望んでも得られない言論と批判の自由という立場を、自ら放棄し、自らの信念と良心に従った責任ある行動、発言をしないのであれば、その瞬間からネット・メディアは自らの存在理由を失うことになる。ネット・メディアの使命は、様々な情報を集め、比較検討し、出来れば裏付けを取って、一体この世界で何が起きており、それをどう理解すれば良いのかを総合的に判断し、自らの意見を添えて世の中に提示する事に他ならない。特定の読者というよりは国民の為の情報補完機関でなければならない。しかもフリーの記者と異なり、一分野に特化していないので、より高いジェネラルな視点を持ち得る。その立場から、市民意識と一般常識で物事を判断することが出来る。これが記者と読者の間に立つという意味なのである。即ち専門家と一般人の橋渡しの役割を務めるのである。

それは、選択と評価が総合的、一般的であることが重要であり、政治、経済、社会のすべての分野に広く浅く目を配っていなければならないということを意味している。不断の緊張状態にあり、片時も油断は出来ない。雑誌の場合、複数の記者の記事を掲載するので、常に編集者は記者とは違う立場から記事や掲載内容を判断できなければならない。総合的な判断の上に立って、雑誌の方向性の舵を切るのである。そこのところまで、最近の若いネット・メディアが理解しているのかどうかまでは、私も知り得ない。但しネット・メディアとその編集者には、記者以上の、見識と理念と信念が要求されるということだけは確かである。

(追記)
いずれ、また間違いなく、私もこの世とおさらばする日が来るだろう。その後でも、私と同じように情報と向き合う人たちが現れて、その人個人の価値観と意志に基づいて、情報の蒐集と解釈に取り組んでくれれば、私はうれしい。そうなれば情報と見解の多様性が同時に担保される事にもなるので、特定の価値観に押し流されることなく、社会もあるべき方向に進んでくれるのではないか。それが世話になった世間への恩返しでもあり、遺言でもある。

(2014/10/2追記)
ネット社会の怖さという問題は、私がライフワークとして取り組みたいテーマの一つである。例えば、ある個人が匿名で、科学的根拠も事実の裏付けもない直情的、感情的な批判を行えば、それでも批判と言えるのか、それとも単なる誹謗中傷なのかという問題だ。根拠なき批判はジャーナリズムの観点からは明らかに反則行為だ。行き過ぎれば反社会的行為であり、名誉毀損である。意見を述べる者には、それなりの覚悟が必要だと思う。その端的なものが実名での発言だ。意見を述べることは信用のスクを伴う。しかしどこまで調査出来るかとは、一般人としては労力と費用の面で、限界があると思う。結局、容易に入手できる新聞、雑誌、TV、ネットに頼らざるを得ないのが現状である。なので、様々な情報や意見を持つ人同士の情報交換と意見交換が有効な手段となる。そこにこそ、私が志向するネット民主主義の萌芽があると、私は信じているのである。我々が知らなかった情報を提供してくれる読者もいる。限られた情報で、自分だけが正しいと思い込んでしまうことは、自分にとって危険なことなのだ。一方で情報も無いし分析する力も無い民衆でも、直感的に分る善悪がある。その判断を切り捨てることも、またできない相談である。この問題は奥が深い。

一方で、限られた情報環境の中でも、自浄作用は必ずしも不可能ではないと考えられる。それはWTWの方法論でもあるのだが、我々には優れた情報収集能力も、裏付けを取り、比較する時間も手段も無いが、それでも時間軸を長く取って、世の中の動きを見ていれば、ごくありきたりの情報源しかなくとも、自ずと見えて傾向や動向がある。それが大事であり、しかもそこには真実があるということなのである。個々の事件をその場限りで捉えず、現象を長い目で見ること。そうすれば全体像が見えてくるのだ。

話を戻すと、いかに稚拙な文章であっても実名で発表する。一方で、名前は出したくはないが、言いたいことはあるという人もいるだろう。皆が皆、自分をさらけ出す勇気を持っている訳ではない。それを強制する事も出来ない。世論調査では記名を強制していないし、そもそも選挙自体が無記名だ。この匿名性と実名性のバランスをどう取れば、理想的な民主主義につながるのか、有益な意見の交換や集約に昇華出来るのかが、ネット時代の大きな課題なのである。匿名性は、卑劣な中傷につながりやすく、読むに堪えない罵倒がネットにあふれる間接的な原因になる。といって実名を強要するのは検閲行為になりかねない。結果、民衆の本音を正しく把握できない可能性もある。民衆が口を閉ざしてしまうからだ。物言わぬ大衆にも意見はある。本件については皆様方からの御意見、御指摘を頂戴できればありがたいと思う。

なおWTWのオピニオンの投稿については、ご本人の意思とは関係なく、編集部で一方的に匿名にさせて頂いている。実はどの方も私にとっては大切な友人、知人で、人間的にも信頼している方々なのだが、議論は議論として、情報とロジックだけで判断し、討論を展開しないと、現状把握の効率が落ちるからである。定の時点での意見だけで、その人の人格の全面的な否定や肯定につながってはいけない。間違いを訂正する機会は誰にでも必要なのだ。

どういう価値観を根拠に何を主張したいのか、どういう社会が望ましく、またそれをどうすれば作れると思っているのかを、重視したいと思っている。冷静で、ポジティブな議論がどうすれば実現出来るのかは、人類永遠のテーマかもしれない。私も一生学生、一生勉強という謙虚な気持ちを忘れないようにしたいと思う。民主主義の基本はまず相手の意見を聞くことから始まるからである。

(2015/1/27追記)
WTWの40年の歴史の中で、このWTWが最も良く読まれた時期が2回ある。最初はまだウェブには掲載せず、社内の掲示板に掲載していた頃で、社員の2000人に読まれた。個人的意見の色彩が強いと判断されたことと、アクセス数の増加でネットがパンクしそうになったことで、ネット管理者から掲載をやめるよう指示があり、短命で終わった。なぜ人気があったかというと、外国紙を読んで、その中から企業に重要と思われる情報を紹介していたことと、独自の分析をしていたからである。当時の日本は情報鎖国ともいうべき時代で、外国の情報は入手が困難だったからだろうと思う。

二度目に良く読まれたのはウェブ版になってから、それも311の直後だった。国民は情報に飢えているのに、それが十分ではなく、マスコミの情報は政府の(しかも遅い)公式見解を繰り返すだけだったからである。しかし、ドイツのシュピーゲル紙はいち早く福島の放射能の汚染マップを発表していた。私はネットを駆け回って、有識者の意見などをいち早く紹介することに努めた。それは自分の身を守るために情報が必要だったからでもある。

この二つの経験から、私は既存の枠組みに囚われない第4のメディアの必要性を強く感じた。しかもそれが日本では未だ脆弱な民主主義を、より強固なものに育ててゆく上で、大事な役割を果たし得ることに気が付いた。WTWは個人の勉強目的や、趣味で運営している訳ではない。もしそうなら40年も休みなしに続けることは不可能である。ある使命感のもとに継続されているのである。実はこの数年で、二回だけ休んだ日があり、それは病気(めまい)で倒れた日と、紹介に値する記事が全くなかった日(これは非常に珍しい)である。

このTwに限らず、ネット上で発信を続けているグループや個人のミニコミが依って立つ存在理由は、権力者寄りの報道に傾きがちな大手の新聞、TV局の報道以外にも情報源が存在すること、また政府の見解以外の見方が存在することを、国民に知らしめることにある。言い換えれば、情報の多様性の保証です。多様な情報と意見が存在するということは、言論と表現の自由を意味しており、それは民主主義の根幹を支える社会的な条件が整っているということを意味している。閉鎖的な情報空間に国民を閉じ込めて、世論を誘導するのは専制国家の常とう手段である。でもこのネット空間が広がる時代にあっては、そういう意図を持ったとしても、それは結局、無駄なあがきになるだろう。なぜなら人の口に戸は立てられないからで、それはネットの時代になっても変わらないからである。

一方で自由な情報空間を、個人が使う時に当たっては、最低限度のマナーが必要である。しかもそれは政府や行政機関が作ったルールではなく、あくまで自主的なルールでなければならない。中でも誹謗中傷(侮辱を含む)は、自由を悪用した毒キノコのような存在であり、それに負けるようなことがあってはならない。ネット上の悪意に対抗する為には、論理的な思考が武器になる。馬鹿、死ね、などという稚拙な罵倒が多数押し寄せたとしても、それらは論理的な説明が裏付けとしてある訳ではない。なんで馬鹿なのかと問い返せば、筋違いの攻撃をしかけてきた者は、言葉に詰まらざるを得ないのである。感情や空気に押し流され、時代が無責任な風潮に巻き込まれないようにするためにも、論理的な思考と冷静さが必要であり、それは決してネット上だけの問題ではないのである。

私は自分が中立だと思った事はない。その一方で、自分が少数者の意見だと思った事もない。自分と同じように感じ、同じように考える人たちが、少なからずいると信じている。そういう言わば同志が、一人でも増えることを心から願ってWTWを続けている。
 
私はNHKのいう報道の中立性というものは信じない。NHKはむしろ政権よりではないかという問題は一旦措くにしても、中立的でありたいという気持ちは否定しない。NHKに限らず、真面目に働いている公務員の多くが、政党や思想、信教から中立でありたいと願いつつ仕事をしていることだろう。但し、それは事実上無理な注文であり、何故なら中立の人間というものは存在しないからである。それよりは、中立はあり得ないという自覚を強く持つことの方が、結果的に遥かに道を誤らずに済む為に重要となる。何が本当に(特に時代を超えて)中立かは神にしか分からないことなのである。

我々のような不完全極まりない人間にできることは、自分(と自分の所属する組織)が中立であろうと努力する(いわば神になろうとする)ことではなくて、逆に多様な意見を持つ、大衆の一人でしかないという謙虚な気持ちを持つことなのだ。ここで英米の例を挙げる。BBCは、国民というよりは、市民意識に根差した視点を堅持している。それは王権に対抗して市民権を確立したという民主主義の歴史もあるからだろう。かたや米国では、良識の府とされるニューヨークタイムズが、社説で自社の価値観に沿った知事や議員の候補を応援している。中立を謳う日本の新聞なら考えられない。そういうことが認められるのは、市民(=個人)が、それぞれが異なる意見を持つ個々の社会的な存在であり、彼らが相互に話し合い、理解しあい、譲り合うことでしか、民主主義は実現できないという、民主主義の根本原理を、メディアも市民も理解しているからなのだ。

さまざまな意見が表明され、それが議論され、その過程を通じて、国民が自身の持つべき意見を選び取り、練り上げてゆく。それが民主主義にとって、欠くべからざるプロセスなのである。それも、人間が不完全な生き物だという前提があるからで、それゆえ、自社が完全であることを前提にした、NHKの中立性などは空論であり、思い上がりに過ぎないのである。



「アベノミクスの問題点」 2014/7/24-2015/2/17 (2015/2/24追記)

ビル・クリントンはモニカ・ルインスキーとの下半身問題で、大統領としての品位を疑われたにも関わらず、それでも支持率が下がることなく、今でも歴代大統領の中で高い人気を誇っている。ヒラリーが成らぬ堪忍するが堪忍をしてくれたという事情もあるが、国民から見た場合の理由は極めて単純である。それは経済政策がうまくいったからなのだ。アベノミクスをひと言で言えば、安倍首相の経済政策ということであり、レーガノミクスも同じである。但しクリントノミクスという言葉は聞いた事がないので、ミクスという言葉にさほどの意味はないと思われる。ちょっと格好をつけてみせたというところだろう。

当初の安倍首相の経済政策の目標は、これ以上ないほど単純明快だった。それはリーマン・ショック以降の長い年月に及ぶデフレからの脱却だった。デフレについては竹中平蔵の経済政策も無関係とは思えず、同氏が最近また色々と発言しているのを見ると、この人の辞書には反省という言葉はないかのようである。では何故約1年という短期間で安倍政権が景気を上向かせることが出来たのか。それは一にも二にも人材の登用が鍵だった。即ちエール大の浜田宏一教授を内閣参与にしたことである。これが日本経済の起爆薬になったのだ。
浜田教授は、その著書で教え子である白川前日銀総裁の政策を厳しく批判している。無論、白川も全く何もしなかった訳ではなく、金利もほぼゼロになっていた。しかしその政策はごく常識的な範囲内に留まっており、凡庸な策では、疲弊しきった日本経済を浮上させるには十分ではなかったのだ。白川の本当の問題は、自らの凡庸さに気が付かず(これは彼を持ち上げた海外のメディアにも責任がある)、出来る事はやっていると開き直ったことである。

最初に安倍政権が意図したことは円安への誘導だ。円高ではいくら輸出企業が輸出を増やしても、手取りは減るばかり。しかもそれが国力に比例しているわけではない。日本という国は堅実な国だ、多額の財政赤字も、国債を日本の真面目な国民(や企業)が買い支えている間は大丈夫だろうという思惑だけで、いわば他の国が相対的に余りにも不安定で見通しのきかない状態だったから、消去法で円が買われていただけなのだ。それにしても1ドル70円台なんてどう考えてもおかしい。そこには、いずれ円安に揺り戻すバネの力が、既に潜在していたと言えるのかもしれない。1ドル79円が100円になれば2割の業績の改善だ。いかなる経営努力をもってしても、1割のコストダウンですら難しい。2割も改善すれば、業績が良くならない方がむしろ不思議なくらい。要は為替の問題を軽視していたか、或いは諦めていた事に問題があったということになる。無論白川も円の買い入れもやっていた。しかしそれも毎回市場に先回りされて、効果を上げることは出来なかった。即ち白川総裁がやったことは、後手後手だったということだ。為替の問題を回避するため、既に大手企業は海外に生産拠点を移していた。だから直接2割売上が増えたという事にはならない。

もう一つの問題は、経済の血液ともいうべきお金が市中で充分に回っていなかった事である。杓子定規の金融政策で膠着状態になっていた金融に、より流動性を持たせ、企業がもっと気軽に金を借りて、設備投資に使って貰うように誘導する必要があった。しかしデフレ不況に311が追い打ちを掛け、企業は自力で生き残る為に、こつこつ稼いだ利益を全部内部留保で貯め込み、従業員にも企業投資にも回していなかった。従業員から見れば、可処分所得が増えないのに、消費税や介護保険料などで、支出だけが増えるという追い打ち状態だった。企業としては、震災や原発事故の経験もあって、信用出来るのは自分だけ、まして政府など信用していない。そういう時に、何が起きても困らないようにという慎重さがあったのだろう。いくら金利を下げても、企業は銀行から金を借りようとはせず、日本企業は頭を引っ込めた亀の様な状態にあった。だから日銀が銀行にお金を低金利でいくら融資しても、銀行から先にはお金が回っていかなかった。借りたくない者に、無理に貸すことは出来ない。しかも日本の銀行には貸し剥がしの前科があったのだ。

では企業がお金を借りてでも積極的に投資をしたくなるような企業環境を、どうすれば実現出来るのか。日本企業の製品や、サービスの質が劣るとは思えない。実需が増えないから投資しないのだ。でもそれは先行投資でなない。何故先行投資しないのかと言えば、それは日本の経営者が自信を失っていたからだ。市場に自信が持てなかった。だから受け身の守りの姿勢に入ってしまっていた。誰か(多分政府)が、自信を持って、大丈夫だ、市場は縮んではいない、消費も必ず上向くと断言して、企業の背中を押してやる必要があったのだ。

それをやったのが、浜田教授と黒田新総裁だ。黒田総裁は日銀による国債の無制限買い上げという禁じ手を使った。当時日銀のメンバーが誰もそれに反対しなかったのは、それほどデフレがヤバい状況になっており、白川総裁の、きれいごとで自らの手は汚さず、しかも効果のない政策では限界だという共通認識があったからだろう。FRBの手法にヒントを得たのだろうが、この禁じ手は究極の手段であり、そこに込められたメッセージこそ重要だったのだ。それは日銀が、言い換えれば国が、景気回復の為にはいかなる手段も厭わないというメッセージだったからである。

今やこれ以上景気を刺激する策はもう残ってはいない。しかも日本国はそろそろ、その後の事を考えねばならない時期に来ている。広げた傘は、いずれ閉じなければならない。さもないと大量に印刷した紙幣がインフレを引き起こす。そしてインフレの兆候が見えたら、もう一度浜田教授の手を借りるしかない。既に世界的規模で、株式投資は言うまでも無く、不動産を中心にバブルまたはインフレの兆候が見えてきているのである。

安倍首相は三本の矢という、何が言いたいのか良く分らないコンセプトを打ち出した。どうしても何か言いたいのなら、せめて三本の柱と言うべきだろう。矢は飛んで行って戻っては来ないからだ。矢は放てば飛び去り、後には何も残らない。日本経済はやや中だるみになってきており、しかも4本目の矢(柱)なるものは、出たり消えたりで正体も不明なら、方向も定まっていない。安倍首相が取り組むべきは、時代錯誤の国家主義への懐古趣味に浸ることではなく、低成長でいいから、日本経済が安定成長を続けられる仕組みを考えることにある。

(追記15/2/20)
現時点で上記のコメントを見直してみても、大きな間違いはないように感じた。但し上記のコメントから半年経った今、大きな違いは、企業が体質を改善して力を付け、単なる金融緩和以上に実態経済が上向いていることである。一方で元から余り内容が無かったアベノミクスがお題目に過ぎなくなってきている。しかもそこに黒田総裁が二発目のバズーカを放つという暴挙に出たので、金融バブル=カネ余り、の懸念が一層濃厚になってきている。私は右傾化し、国家主義で、国民の気持ちを意に介さない安倍首相を、我が国のリーダーと認めるつもりは毛頭ないけれど、浜田参与と、彼と、黒田総裁が長年続いたデフレ・マインドの改善に果たした役割まで否定するつもりはないのである。

(追記2014/11/1)
背筋が凍るような黒田バズーカ発言だ。本来、政治と経済は別物でなければならない。かつて日銀の権限は強大で、独自路線を好き勝手に進んでいた。やがてそれは国民の生活から次第に遊離してゆき、独自の、しかも虚構の雲の上の世界を構築していた。日銀の権威は、日本企業の努力による、日本の信用の上に成り立っていたのに、日銀は地上の世界の事などどうでも良かったとしか思えない。長年続くデフレに、危機感を持たず、これという手を打ってこなかったのがその証拠である。そしてもっと悪いことは、金融政策の結果にさえ責任を感じていなかったように見えることである。

そこに安倍・黒田コンビで政策の大転換を行った。これは誰がなんと言おうと快挙であった。但し白川日銀に最初にメスを入れたのは彼の恩師の浜田教授だ。ともかく、それで円安になって、輸出企業の業績が好転した。これは企業の業績を改善させる最も手っ取り早い方法であった。でもそれは、企業の経営が改善された訳でも、開発や販売が劇的に良くなったからでもない。いわば為替差益に寄りかかった、カンフル注射で元気になったようなものである。しかも黒田自ら言っていたように、この禁じ手の政策を取り入れた時は、少なくもこれが非常手段だという意識は確かにあっただろう。しかし非常手段は、非常手段であるが故に繰り返し使うものであってはならないのである。

今回、何故株価が上がったかとすれば、それはリスク資金投入への期待感が高まったからだと言われる。最近の株の値上がりを心地よく思う向きも多いかもしれない。しかし問題なのは乱高下である。私にはこれが、行き場を失った投資資金(金余り)が市場をうろうろしている姿にしか見えない。実際には復興にも、福祉にも、給与にも、更には設備投資にさえ還元されておらず、一部の人や組織の余剰資金が利幅だけを求めて、市場にあふれている。素人判断を承知で言わせて貰えば、金は十分に市場にある。問題はそれが有効に使われていないことにある。即ち実需を背景にしていないことこそが大問題なのだ。実需については、確かEUでも問題にされていたと思う。

非常手段は何回も使えば効果もなくなるし、なにより弊害の方が大きくなる。もはやカンフル注射でなく、違法ドラッグのようなものだ。習慣性を持ち、やがて人格ならぬ、日本とその国民を破壊してしまうかもしれない。今までは余り気にしなかった、というより見ない振りをしてきたが、行き過ぎたインフレがにわかに現実味を帯びてきた。そこで待つのは国民生活の破滅でしかない。

日銀は独自の金融政策を持たねばならない。政権の人気取り、ましてや消費増税の片棒を担ぐことに存在価値を見いだしてはならないのである。何故なら、日銀は財務省の下部機関ではないからだ。米FRBは景気が回復しているかどうかを慎重に判断し、確信を得た段階で、緩和の継続中止に舵を切った。これが正常な金融政策である。

非常手段を繰り返すことに違和感を感じないとしたら神経が余程おかしい。極端に楽観的なのか、または鈍感なのか。この件で一つだけプラスの面があるとすれば、政権が景気が良くないということを公式に認めたので、消費再増税を実施する言訳を失ったということだ。少なくも時期は先延ばしにしなければ筋が通らない。今株価が上がったのは黒田バズーカの二発目があったからであって、経済が良くなったからではない。そこを騙されないようにしなければならない。このまま再増税を実施したらもはや狂気の沙汰である。

時期が符合することから考え得るもう一つの可能性は、米国が量的緩和の中止政策を公表したことだ。これで世界の景気が冷え込む可能性が出てきた。だから日本にその分頑張ってくれという、裏のストーリ−も考えられる。もし仮にこの憶測が当たっているとすれば、米国が健全な方向に進むために、日本には不健全な道を歩めと言っているようなものだ。

安倍政権に退陣してもらうこと。もはやそれは国民が自分達の生命(集団的自衛権、秘密保護法)、財産(年金のギャンブルとインフレ)を守るために、いまや避けて通れない選択になってきていると思う。但し、気をつけなければならないことは、逆に安倍首相が、自ら国会を解散して、再度相対的多数の議席を確保し、その後で数々の危ない政策を強行しようとすることだ。そこには主権在民の認識は全くない。見えるのは権力者が自分達の権益や既得権を温存したいというレベルの低い野心だけである。

黒田は、消費増税によるマイナス効果には対処出来る(する)が、増税しないリスク(国債の事らしい。国力ではなく)には対処出来ない(即ちしない)と言い放った。日銀は金融政策を論じれば良いのである。私は黒田の登用がショック療法で、非常手段であった事を考えると、今その任務は終わった、本当にお疲れ様でしたと申し上げるべき時期に来ていると思う。今、思い切って日銀の総裁を交代させられるような国なら、日本にも未来がある。ついでに言えば、今の日本に一番必要なものは、民衆から沸き上がる21世紀型の民主主義運動であろう。

現代の日本が、そして世界が、その平和のためにも、最も必要としているのは、行き過ぎた資本主義を修正出来る、天才的な経済学者である。

(追記 2014/12/6)
安倍政権の言い分は、企業の業績が良くなれば、従業員の給与も上がるはず。だから国民の生活も楽になるという、風が吹けば桶屋が儲かるの論理だ。肝心の企業は、安倍政権を支持はしても、その存続や経済政策を100%信用している訳ではない。また歴代政府を信用せず、自社の判断で我が道を来たからこそ、日本の企業は潰れずに来られたのだ。だから輸出が増えて、株価が上がっても、内部留保を増やし、そうやすやすと従業員に還元しようとはしないのである。

しかも企業は設備投資にさえ慎重である。それも当たり前であって、なぜなら需要が増えていないから、設備投資する理由がないからなのだ。では需要、特に内需を増やすにはどうすればいいのか。無論、政府は賃金上昇について、いろいろな刺激策を講じていると反論するだろう。ではなぜそうした施策が功を奏していないのか。

それは一言で言えば、政治の軸足が企業側にあるからなのだ。国民の生活を政府が支えてくれるという安心感もなければ、雇用形態は派遣が大半で、いつ解雇されても文句は言えないと言う環境下で、どうやって安心して支出を増やすことが出来るだろうか。安倍政権には、日本は大企業ありき、大企業だけが国を支えているという偏った解釈しかないのではないか。安倍政権にとっては、中小企業も国民も、あくまで大企業の下請けか、その労働力に過ぎないという位置づけとしか思えない。アベノミクスには国民の視点がなく、しかもそれが安倍政権の経済政策がまともに機能していない最大の原因なのである。

株価が上がったのは実体経済が良くなったからではなく、日銀が自ら禁じ手と言っていた金融のカンフル注射を二回も打ったからだ。これは重大なことであって、いわば好況を演出しているだけなのだす。見せかけの繁栄であって、その先にはバブルとその崩壊、ついでにスーパーインフレの落とし穴が待ち構えている。国債のデフォルトを懸念する声も出始めた。このまま安倍・黒田に任せたら、日本は破綻して、漂流を始めないとも限らない。その時は、また国民の貯蓄に頼ろうというのだろうか。でもその時には、肝心の国民の貯蓄は紙切れ同然になっているかもしれない。こうした為政者の(注:株価依存の)姿勢のどこに、政治の理念や経済の思想があるというのか。

今日本に一番必要なことは、アベノミクスの継続ではない。それを直ちに辞めさせることだ。金が全てで、目先のことしか考えられない人達が国を操縦しているという構図の修正である。

アベノミクスが根本から間違っているというのが言い過ぎなら、少なくもそれが国民のための経済政策ではないことだけは断言出来ると思う。皮肉なことに、今回の選挙で自民が圧勝する(後注:不幸なことにこの予言が当たって圧勝した)と、初めてそこで企業が安心して、給与を上げるかもしれないという一抹の可能性がある(後注:この予言も当たった)。でもそれはあくまで企業側が決めること。今国民が注意を払うべきは、政権が企業の鼻息をうかがうような現在の政治体制の下で、将来どんなことが起きるのかということだ。

その予測に先立ち、昭和初期の富国強兵政策が、結局戦争に国民を巻き込んだことを忘れてはならない。未熟な資本主義が、搾取だけを目的に暴走した当時の記憶をもう一度辿る必要がある。今のような体制下で、国の軍事力(よく言えば安全保障)を背景に、侵略的な企業が安心して世界で暗躍(良く言えば活躍)するという体制なら、大戦から何も学習した庫にはならない。アジアの各国も、収奪的な資本主義には反発するだろう。そもそも今の米国がその最も悪い見本である。米国の資本主義が世界にもたらしたものはなんであったのか。それはリーマン・ショックであり、イスラム国だったのである。

同時に、安倍政権が国民にしたことは何だったのだろう。福祉を削減し、税金を増やした。派遣雇用が増えても、雇用増とは言えない。それは季節労働者が増えたのと同じことだからだ。逆に安倍政権が企業に与えたものは何か。名目の景気と、いつでも解雇出来る安価な労働力。しかも今の体制が持続し、憲法を自由に改悪出来るとなれば、国民は国を守る兵力として利用できる。国民は日本的な資本主義を守るための捨て石になれと言われているようなものだ。

国民がこれ以上、権力層に搾取されないようにするにはどうすればいいのだろう。言論を活発にすること、広域で緩い民主主義の草の根の組織を考えること、そしてなにより大事なことは、国民の一人一人が、昭和史を勉強し直して、権力というものがどのように振る舞うものであるかを再認識することである。人類全体が幸福になるような経済システムをどうすれば実現出来るのかを、真剣に考えることである。

今私たちは、ワイマール憲法を骨抜きにしたナチス政権時代のドイツ国民と同じ道を、この選挙を通じて辿ろうとしている。それなのに、なぜか日本の野党の政治家の誰一人として、それを指摘しようとしない。そんなことはさすがに起きはしないだろうと、たかを括っているのかもしれない。そういう先の読めない与野党の議員達に日本を任せているのかと思うと、背筋が寒くなる。与党優勢下の選挙で、せめて今国民にできることは、言い古された言葉だが、政党より人物で選ぶという事しかない。それでも国民の一人一人が、変革の炎を心の片隅で燃やし続けていれば、いつか日本が国民の為の国になるように変えられるだろうと信じたい。希望まで捨ててしまったら、本当におしまいだからである。

ところで産経新聞である。今回の衆院選で自民が圧倒的という同新聞の報道ほど迷惑なものはない。これは情勢調査を踏まえたものとなっているが、同社の主観で脚色されていないと言い切れないだろう。なぜなら他の報道機関ではそのような形では報道していない。情報源は異なるにせよ、与野党均衡が望ましいという意見が多かった。これはメディアを使った、間接的な世論操作である。


「アベノミクスとくらしのゆくえ」から 岩波ブックレット 山家悠紀夫著
2014年10月発行

…まず、「第一の矢 大胆な金融政策」は、日本銀行に民間金融機関への資金供給を増大させ、それによって民間の手持ち資金量(企業や個人が持っているお金の総量)を増大させる政策です。ということは、日本経済の長期停滞の背景には、お金不足があると安倍首柏は見ているのでしょう。民間の手持ちのお金が少ないから投資や消費ができないと考えている、ということになります。

経済学には、このような主張をする学派があります。マネタリズム(貨幣数量説)と呼ばれる学派です。次に、「第二の矢 機動的な財政政策」についてです。その内容をみますと「積極的な財政支出」とでも呼ぶべきものです。要するに公共事業を増やす政策です。

この政策の背景にある考えは、日本経済は供給力に比べて需要が不足しており、だから、経済が停滞している、したがって公共事業を増やすなどの財政政策で需要を増やせばよい、というものです。この政策を支える経済学はケインズ経済学です。「第二の矢」の政策は、ケインス経済学を踏まえての政策であり、日本経済の長期停滞は需要不足によるものだと理解した上での政策ということになります…

そして「第三の矢:民間投資を喚起する成長戦略」についてです。この政策は、金融財政政策、税制政策、規制緩和政策などの政策を総動員して、民間企業の投資を増大させようという政策です。企業の投資環境を改善して投資を増大させれば問題は解決に向かうーこう考えているわけです。

こうした政策を主張する経済学は、サプライサイド経済学と呼ばれる経済学の一派です。一方、企業の投資環境を改善する方法として規制緩和が最も大切だというアベノミクス「第三の矢」の内容に注目しますと、それは新自由主義経済学と呼ばれる経済学派の主張を受けたものです。

こうして見ますと、要するに、あらゆる経済学が混在しているのです。アベノミクスならぬ「アベノミックス」というのでしょうか。こうした経済政策・思想の混在がアベノミクスの第二の特徴であると言えそうです…。

…ここでしばらくアベノミクスからは離れて考えましょう。なぜ、日本経済は1998年から失速し、低迷状態に陥ったのでしょうか。

それを考えるためには、あと二つの統計を見た方がよさそうです。同じ国民所得統計の中の国内民間需要の統計と、雇用者報酬の統計がそれです。 一見して明らかですが、この二つの統計の動きは国内総生産の統計の動きとよく似ています。すなわち、1990年から97年までは右上がりで、それが98年からは右下がりとなっています。

この三つの統計の関連は、次のように考えるのが自然でしょう。
@雇用者報酬が、何らかの理由で1998から下がり始めた。
Aそれを受けて国内の民間需要(家計の消費支出、住宅建設がその80%程度を占めます)が、1998年から減り始めた。「無い袖は振れぬ」というわけです。
B結果として、国内総生産も、1998年から減り始めた…。

…なぜ、1998年からなのか、そしてなぜ日本だけなのか、と問題を絞ってみますと、自ずからその答えが浮かび上がってきます。世間では日本経済の長期停滞や賃金下落の原因を、90年代初頭のバブル破裂、あるいは、同じく90年代初めから著しく進み始めた経済のグローバル化などに求める見方が多いようです。ところが、98年から日本だけという事実に沿って考えますと、7、8年前のバブル破裂にその答えを求めるのは大雑把にすぎますし、全地球規模で、90年代初めから著しく進行しはじめた経済のグローバリゼーションに、その答えを求めるのも強引すぎます。答えは、96〜98年以降の日本の経済政策に求めるべきではないか、ということになります。

私の想定している答えは、日本の賃金が1998年以降低下傾向になっているのは「構造改革」政策に原因があるということです。
1996年から97年にかけての橋本内閣の「構造改革」政策、少し間を置いて、2001年から09年にかけての、小泉内閣、第一次安倍内閣、福田内閣、麻生内閣の「構造改革」政策、それらの政策が、日本経済を「賃金が上がらない構造」に「改革」してしまったと考えるのです。
1997年以降、景気が良くなっても、そして企業が儲かるようになっても、賃金は上がらなくなったという「事実」については、すでに政府の白書も認めていることです。2007年版の『経済財政白書』、12年版の『労働経済白書』がそれです。1997年を境にして日本経済の構造が変わった事実をここに見ることができます。

もちろん、この図を載せているのは政府の白書ですから、こうした変化を示しても、その変化が「構造改革」政策の結果であるとは記述していません。

しかし、他に何の原因があると言うのでしょう。労働者派遣法の改正その他の政府の規制緩和政策(「構造改革」政策)が、賃金の上がらない(むしろ下がる)日本経済をつくり出した、その結果として、98年以降の長期停滞がある、と私は見ます。

ここで、アベノミクスの話に戻りますと、アベノミクスはこうした現実に目を向けていません。仰々しく「三本の矢」を放つと言っても、一つも長期停滞の本当の原因を射抜く矢を放とうとはしていません。現状認識を見誤った「的外れの矢」すなわち「的外れの政策」が、アベノミクスの第三の特徴と言えそうです。

…賃金が上がらなくなったことと「構造改革」がどう関係しているのか、以下の四つが考えられます。

@「構造改革」政策の下、景気が悪くなり、競争も激しくなって企業経営がきわめて厳しくなったこと。 このため、企業は一段とコスト削減(特に賃金コストの削減)に努めるようになりました。
A「改革」政策として行われた労働規制の緩和、特に労働者派遣法の規制緩和が、企業の貰金コスト引き下げを可能にしたこと 企業は派遣労働などの活用によって賃金コストを下げることが可能になりました。派遣労働の活用は、同時に、正社員の賃金引き上げを抑制することにもなりました。
B「改革」政策として行われた資本規制の緩和で会社合併などがやりやすくなったこと。企業がもうかっていてもそれだけでは安心できず、誰が経営してもこれ以上の収益をあげることができないという状況にまで経営努力しないと、企業は合併(併合、あるいは乗っ取り)されてしまいかねない状況になったのです。
C「改革」思想が広まったこと 企業は株主のためにあり、収益を極大化しなければならない、そのことを重要視して経営を行うべきである、との「構造改革」思想が広まりました。経営者は、恥じることなく、ためらうことなく、堂々と胸を張って、首切りをし、賃金コストを切り下げることになったのです。
以上のことが重なりあって、「構造改革」政策の下、日本経済は「賃金の上がらない構造」に改革されてしまったのだと考えられます。

加えて第五の要因として、こうした流れに、まず第一に抵抗すべきは労働組合だと思うのですが、その労働組合の抵抗力の弱さ(企業別組合が中心である日本の労働組合は、企業経営が危機であるという訴えの下では、抵抗力を弱められてしまった)ということがあったと思われます。この要因だけは「構造改革」とは関係の薄いことなのですが…。

…あと一つ、最後になりましたが、最も大切なアベノミクスの特徴(第四の特徴)を指摘しておきましょう。それは、人々の暮らし、とりわけ厳しい状況にある人々の暮らしを良くするという視点もしくは目標がまったく入っていない、ということです。

先に見てきましたが、安倍内閣が発足直後に発表した「緊急経済対策」で掲げていた目標は「日本経済の再生」でした。そのために「三本の矢」を放ち、そして日本経済を成長させ、「強い経済」にする、というのです。

安倍首相は、「我が国にとって最大かつ喫緊の課題は、経済の再生です」と述べました。その危機とは、@「日本経済の危機」、A東日本大震災からの複興が進んでいない「復興の危機」、B「外交・安全保障の危機」、C「教育の危機」でした。このうち、人々の暮らしに多少なりとも関連しているのは「復興の危機」ぐらいです。

危機と言うなら「人々の暮らしの危機」を数え上げ、その危機打開の政策を打ち出すべきだと思うのです。

安倍内閣発足前後の人々の暮らしを見ますと、一年間働いても年収が200万円以下という、いわゆるワーキング・プアの人々が1000万人を超えています。不安定な非正規職員という形で働いている人が1900万人(全体の37%)となっており、今も増え続けています。また、政府が実施している調査(「国民生活基礎調査」)で見ますと、「生活が苦しい」と訴える世帯の比率が全体の60%に達しています。

こうした、二、三の統計を見るだけでも、多くの人々の暮らしが「危機」的状況にあるのは明らかです。政府としては当然何らかの手を打つべきでしょう。「日本経済の再生」ももとより重要な課題かもしれませんが、それ以上に、多くの人々の「暮らしの再生」こそ重要な課題です。

ところが、アベノミクスには、そうした暮らしの危機を危機として捉える視点も姿勢も、まったく欠けています。アベノミクスの第四の特徴、ないしは最大の欠陥と言えます。

第二に、規制緩和について見ます。「岩盤のような規制」とは、すなわち、「労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たす」ための労働条件、その「最低の基準」を定めた労働基準法などの労働関係法による規制のことです。また、日本の社会保障の基幹の一つである国民皆保険制度を守り、さらに発展させるための規制のことでもあります。人々の生活の安全、安心を守るための食品衛生に関する規制や医薬品の製造・販売に関する規制などであり、良好な住環境を守るための建築・都市計画関連の規制などでもあります。

こうした人々の暮らしを守る規制を「岩盤規制」と呼び、これを自ら「ドリル」を振るって打ち壊すと宣言しているのが、「第三の矢」の中でも特別の矢ともいうべき「規制緩和の矢」です。

労働関係の規制緩和の案については先に見ました。要するに、企業が、何の制約もなく、企業の思うがままに(安い賃金で、長時間)人を働かせることができるように、そして不要になったら自由に(時に、若干の金銭を添えることによって)首を切ることができるようにと、そういう方向に向けての規制緩和を行うということです。法にはずれた行為を行っているブラック企業をブラックでない合法企業にする政策であり、法による規制の枠をそこまで広げていこうとする政策といってもいいでしょう。

…その手間を省きー区域を限ってではありますが、一挙に実施しようとしているのが「国家戦略特区」です。安倍内閣の発足時には「国家戦略特区」の構想はありませんでした。「特区」については、それ以前からの小泉政権による「構造改革特区」というのもあります。ところが、間もなく安倍首相は「国家戦略特区」の設置へと方向転換します。そのきっかけをつくったのは、「再興戦略」の策定を行っていた「産業競争力会議」(首相を議長とし、財界人を主力メンバーとする会議)の議員であった竹中平蔵氏です(大学教授の肩書きでメンバーになっていますが、大手人材派遣会社パソナの取締役会長でもあります)。産業競争力会議の第六回会合で、竹中氏が「アベノミクス戦略特区」の設置を提言したのです。そして、以降その提言に沿ってことはトントン拍子に運び、法の制定、特区の指定へと進んできました。

「国家戦略特区」は、それまでの「国際戦略特区」などとは違いがあります。それまでは、地方が申請して国が認めるという形で成立していた特区を、首相の主導で、すなわち国の意思で決めることにしたのです…。

…安倍内閣としては、「第二の矢」を止めるわけにはいきません。止めたらたちまちにして景気が失速することが起こりかねないからです。

そこで期待は「第三の矢」ということになります。「第三の矢」が期待通りに経済を成長させ、「第一の矢」「第二の矢」を止めても大丈夫という状況をつくり出してくれたら、というのが安倍首相の思いということでしょう。

ところが、「第三の矢」は、いわば「毒の矢」です。日本の経済社会を、そして人々の暮らしを破壊してしまいます。加えて、日本経済の成長にも効かない、安倍首相の期待は空しい期待に終わると見るわけですが、肝心の安倍首相にはその認識がありません。認識がないままに「第三の矢」を矢継ぎ早に放ってくる、ドリルを振るって「岩盤規制」を壊しにかかるーこれからの展開はそう予想され、とても危険です…。

…では、このような最悪の展開を止めるたには、どうすればよいでしょうか。

まずは、「第三の矢」の政策のそれぞれに異議を唱え、その実施を阻んでいくことが必要でしょう。法人減税をさせない、規制緩和をさせず「岩盤規制」を守り抜く、TPP交渉から撤退させる、原子力発電所を再稼働させない、など課題は多岐にわたります。

同時に、日本経済が長期停滞に陥っており、人々の暮らしが厳しいものになっているのは事実ですから、こうした状況からの脱出の道―アベノミクスではない道―を見つけ出していくことも必要です。

このうち前者については、すでに多くの人が、様々な場所で、理論的に、そして現場をふまえて異議申し立てを行っています。そうした運動が力を増し、一つ一つ、成果をかちとっていくことが必要です。野党勢力が脆弱化している政治状況では、安倍首相の暴走を止めるためには市民の声が重要です。無関心こそが、安倍政権の暴走を後押しすることになります。

後者については、誰が、どのようにして実施に移すかという、きわめて困難な問題はありますが、一つの道を指し示すことは可能です。

…長期停滞から日本経済を脱出させるには賃金を上昇させることがカギとなります。

では、どうしたら賃金を上昇させることができるでしょうか。労働組合や労働者の個人個人が力を発揮するというのは、現実的には答えにならない感もありますが、こうした視点に立って現状で何ができるかを見直していくことが、まずは必要なことだと思います…。


(追記2015/2/17)
14年GDPゼロ成長、増税後に個人消費戻らず。GDPは予想下回ったのに株高。何が起きているかは明白である。余剰流動資産=しかも保有しているのは一般庶民ではない、が行き場をなくして株価を押し上げる構図だ。実体経済が伴っていない。ということは資産バブルということだ。このままではいつかはじけて日本経済は大混乱。国債も暴落。しわ寄せはまた国民へ。なぜ今、あぶく銭をつかもうとせずに、設備や公共に投資を振り向けないのか。しかもGDP減を大きく取り上げない、朝日以外のメディアの、政権への「過度な」気配りと、報道の責任放棄も気になる。日経は、10-12月は実質増加だと書く始末である。



「ネット社会とどう付き合うべきか」 2014/7/25 (2015/2/21改訂)

我々は自分で好むと好まざるとに関わらず、インターネットが主要な情報インフラである社会に住んでいる。むしろ、いつの間にか否応なく放り込まれてしまったと言った方が正しいのかもしれない。PCとネットが普及する以前は、高価なPCを準備し、高い(しかも低速の)通信料を払い、これまた高額のソフトを買い、あまつさえPCの使い方や、とりわけキーボード入力に習熟するという高いハードルを、一念発起で乗り越える必要があった。しかもサイトも、ネットのサービスもそれほど多くなかった。インフラは一般的、かつ広く使われないと存在価値がない。今でさえ、PCは使わずに、連絡は電話と手紙という人がいる。でもネットは今や最大の情報インフラに成長し、ビジネスや行政でも必須のツールになっている。無視しようとしても出来ない存在になってしまったのである。

PCが普及するきっかけは、いわゆるマン・マシン・インターフェースの改善だった。特にOSのグラフィカルなデザインと、マウス入力の進化が決め手になった。それが可能になった背景には、膨大なメモリ容量と高い処理能力を可能にする、PCの性能向上と低価格化があった。いわゆるムーアの法則が機能していた時代だったからこそ、それが可能だったのだ。私はコンピュータを使うことが仕事(SE)だったので、少なくもその動作原理や概念を理解する機会があった。多くの人にとっては、コンピュータは今でもただのブラックボックスだろうと思う。しかしコンピュータの動作原理など知らなくても、スマホの画面を指でなぞるだけで、ネット情報にアクセス出来、メールの送受信が出来るようになったのだ。

そこで今回のテーマである。誰にでもIT(情報通信)技術が手軽に使えるようになった。それで皆がハッピーになったと断言してもいいのかどうかである。確かにツールは進歩した。でもその使い方は、効果は、ルールや作法、いうなればネットを正しく、快適に利用できるインフラは整っていると言えるのか。マナー一つ取ってみても、私から見れば、むしろPC通信しか無かった時代の方が、遙かにマナーに注意を払っていたと思う。私達は、通信の内容が保存され、印刷されるものであることを、良く知っていた。何故なら伝えるべき内容があるからこそ、通信文を作成したのであって、電子メールはそれを伝達する手段(の一つ)弐過ぎなかったからだ。だからTKS(ありがとう)やBI(さようなら)のような短縮形の表現も生まれた。

電子情報を扱う環境自体が大きく変化した。自分がそうだとは言わないが、情報通信機器(具体的にはコンピューター)の原理と取扱いに習熟し、伝える内容(いわばコンテンツ)の制作に長けた情報のプロの手から、何も知らない、分からない、また気を遣うことも少ない、情報アマチュアの手に情報機器とインフラが、いうなれば使用手引書もないままに、ぽんと渡たされたようなものだ。携帯電話の代わりに、友達同士でメールをやりとりし、その時の気分を不特定多数に、言い方は悪いが、垂れ流す事が出来るようになった(なってしまった)。電子メールという基本機能は変わらないまでも、SNSやツイッターという新手のインフラの登場も一役買っている。以前と違うのは、それに画像や映像が付けられるようになったことだ。

使用手引書も、交通規則もないままにネットにアクセスし、気儘な発信が始まったことで、世界はどのように変化したのか。報道の専門家ではない個人の自由な情報や意見の発信が始まり、世界の出来事が瞬時に地球の裏側に届くようになった。しかもハードや通信インフラの性能の向上で、映像による生々しい情報がリアルタイムで伝達されるようになった。情報量の拡大はプラスの効果だが、一方マイナスの効果は、新しい玩具を手にした人達が、使い方も良く分らないままに、滅茶苦茶な使い方をするようになったことだ。ネット炎上やISの宣伝がその悪い例である。援助交際等というものもある。匿名で発信出来る仕組みから、知能程度を疑うような、感情的で幼稚な表現と、誹謗中傷がネット上に溢れるようになった。無論そこには犯罪目的の利用もあることだろう。プロバイダーが一応チェックしていることにはなっているが、限界があるので、事実上は無法地帯だ。人質の殺害映像など、本当は絶対に載せてはならない、プロバイダーが削除すべき映像なのだ。

しかし通信というものの基本概念は、昔のテレックスやその後のシンプルなPC通信の時代と全く変わってはいないのである。様々な機能が付加されたと言っても、即ち伝えたい内容が先にあって、それをいかに正確に、速く、効率よく伝えるかが究極の目的であり、、そのための手段がネットと端末だということだ。

そういう高速の通信インフラであるが、通信機能のあるべき姿、あるいは正しい使い方がなされていないというケースの増加から、実は全く別の懸念が生じている。それは、私が一番警戒しているネットの規制に名を借りた、言論と表根の自由の弾圧である。こういう時代にあって、政府が一番警戒しなければならないものは、ネット上での政府への批判だろう。なぜならそういう情報や意見は、あっという間に膨大な数の国民や、それさえ超えて世界中に広がるからだ。批判的な指摘を反論せずに放置すれば、政権の命取りになりかねない場合もあるだろう。少なくも現政権はそこのところは熟知しているようだ。だから国民は民主主義を守るためにも、ネットの自由と独立を死守しなければならないのである。

時の権力にネットの懐に手を入れさせないためにも、ネットを使うものは、自分なりのマナーを守りつつ、有効に使う必要がある。ネットの状況を放置できないなどという理由から、政府が取り締まりを始めたら、事態は最悪である。政権だけに都合の良い権限の行使を阻むためにも、利用者の自粛と常識が求められているのだ。

気分的な表現が横行し、メールを出して返事がないと落ち込む。或いはメールで相手を傷つけようとする悪意と敵意のやりとり。ここまでくると、メールの問題以前の、対話のマナーや人間性の問題だ。人として、あるべき配慮、思いやり、礼儀、自制心、道徳心の問題なのである。無論、そこでは文章作成能力や、言葉の表現能力も問題になるだろう。極端な表現をすれば、言葉の正しい使い方と会話の作法さえわきまえることが出来ない精神的に貧しい人間だということを、自ら好んで宣伝しているようなものなのだ。

Eメールはあくまで意志伝達の一手段に過ぎない。それを効果的な道具と使うのか、言葉を使う凶器にするのかは、使う者次第なのだ。自転車だって心得違いの人が乗れば立派な凶器になる。言葉を操る者は、ニュアンスまで含めた言葉の意味を熟知していなければならない。言葉は正しく使ってこそ、意志を正確に伝える道具足り得る。ネット・インフラ、そして言葉、その双方が、ともに意志や情報を伝えるためのツールに過ぎないということを理解することから、初めて私たちは、あるべきネットとの付き合い方を、むしろ本能的に理解できるのである。また同じ道具ではあっても、機械を使うということと、言葉を使うということは、全く別の、いわば次元が異なる行為なのだ。機械の操作だけなら、サルにでも出来る場合がある。言葉を使うとなると、そうはいかない。まず考えをまとめて、相手にそれを伝えたいという明確で強い意志を持つ必要がある。それはネットとコンテンツの違いと言ってもいいのかもしれない。


「戦後の総括と集団的自衛権 」2014/7/27-12/17 (2015/2/22訂正)

間もなく原爆投下の日、そして終戦(敗戦)記念日がやってくる。ところで、私は川柳が好きで、毎日と朝日の川柳を良く見ている。寸鉄人を刺す庶民の感覚は侮る事ができない。最近の傑作に、多数なら国民投票やってみろというのがあった。一方で、戦犯は勝った国には何故いないというものもあった。日本は太平洋戦争で完膚なき迄に負け、日本の大都市は焼け野原になった。軍属・民間人を含めて300万人が亡くなったのだ。

しかもその膨大な犠牲が、必要な犠牲であったのかどうかも判然としない。むしろ無駄な死ではなかったのか。そこに最大の問題があります。日本に正義はあったのか、それともなかったのか。戦勝国が日本を一方的に裁いたのだ。だから戦勝国の正義しかなかったという反論も根強い。南京虐殺がなかったという説さえある。

総括と呼べる様なものではないが、何度も様々な形で議論が行われてきた。結果、大勢としては、戦争が長引き、無駄な犠牲者が多数出た背景には、軍部が、時には天皇の意志に逆らってまで、或いは作戦での敗北を(天皇に)隠してまで、自らの権力を死守しようとした、理不尽で観念的な意図があったからだという解釈が定説である。

無理を承知で横車を通し、兵力面と兵站面で限界に来ており、ついに本土決戦、1億玉砕まで言い出した。無理の上に無理を重ねて破綻し、来たるべくして来た破局であった。大本営には消耗しきった現場の将兵を支援する力さえ失っていたのに、それを認めようとはしなかった。大本営のメンツの為に、死ななくても良い兵士達が、無駄に死んでいったのだ。和睦や和平は全く念頭にはなかった。和平交渉などという言葉を口にする者は、誰彼なく、直ちに軍に射殺されていたことだろう。固定観念が、暗雲のように日本全土を覆い、日本人の心と身体を支配していた。だからこそ、敗戦で心のよりどころ=価値観とアイデンテティ、を失った多くの日本人が腑抜けのようになってしまったのである。

負けた相手が米国でなくて、スターリンが支配するソ連だったらと思うと、身の毛のよだつ思いだ。平和憲法も第九条もなかった。国土も住民も蹂躙されていた。但し官僚組織だけは、生き残っていたかもしれない。一旦戦争を始めた以上は、勝つまで戦う。負けたらそれまで。でもこの状況は、現在世界中で起きている、果てしのない地域紛争でも変わりはない。落としどころを考えずに、反射的、かつ情緒的に始まった戦闘は、留まることなく、無関係の人達を次々に巻き込み、戦火は拡大の一途を辿っている。一度始めたら止められないという、戦争の持つ宿命が最大の問題なのだ。

かつて米国はベトナムで泥沼の闘いを経験した。だから湾岸戦争では充分準備していた。退き時を決めるには、戦争に明確な目的と正義があることが前提である。具体的な目的がなければ、多国籍軍を組織する事も出来ない。

日本の集団的自衛権が困るのは、目的が曖昧で、大義名分も正義も明確ではない事だ。日本が急にやる気を出して、アジアで世界の警察の役割を担いまっせと手を上げたのなら、むしろ未だしも分かり易い。そうでないとすれば、集団的自衛権は、ただ米国の正義だけが、日本に取っての正義だと宣言しているのと同じことである。そのどこに世界平和への精神が存在しているというのか。戦闘に加わり、発砲して相手を殺す以上、明確で、誰にでも納得できる理屈が必要だ。言うなれば正当化である。しかし集団的自衛権にはそれが決定的に不足している。

もう一つ大事な事は、第二次大戦に向かって日本が突き進んだ時に、国民の熱狂(フィーバー)が背景にあった事だ。それは国民自身が感じるべき大きな責任である。戦争を是認する内閣を選び、それに大きな権限を与えた。世論は行け行けドンドンだった。まさにナチスと同じ現象が日本でも起きていたのである。

私に分らない事は、大本営は、国民が死に絶え、全土が焼け野原になった国で、何をしようとしていたのかである。自分達が支配し、奉仕させたい国民は最早残っていないのに。戦後史証言プロジェクトと言う番組の中で、歴史作家の故司馬遼太郎が言っていた言葉がある。終戦当時、本土決戦に備えて栃木にいた戦車部隊に配属されていた当時22歳の司馬が、本部から来た士官から聞いた説明がそれだ。それは首都進撃の邪魔になるようなら、逃げてくる民衆を轢き殺してでも進めというものだった。

ここで180度見方を変えてみよう。仮に300万の犠牲を出して、それでも米国に勝つ、というより日本の領土を防衛する事に成功し、対等の終戦条約を締結できたとしよう。その後、日本が果たしていかなる道を歩んだのかを想像してみる。軍部は同じ権力を維持しただろう。なぜなら引き分けに持ち込んだから、それは決して負けた訳ではない。また当時進めていた原爆の研究も続いていただろう。そしてアジアの盟主、強い日本の為に国民が一丸となって復興と富国強兵の為に働いていたかもしれない。でもそういう国家主義の専制国家の下で、果たして日本国民は幸せだっただろうか。国家主義者達が一番嫌う表現だろうが、結局日本は負けて良かったのではないのか。それも米国に負けたということが、結果オーライにつながったと考えられないだろうか。

集団的自衛権を肯定した人達は、日本の敗戦という余りにも悲惨な歴史から、何故敢えて目を逸らそうとするのか。文科省に至っては歴史の記述を書き換えることさえ辞さない構えだ。それほど戦前の専制国家体制が恋しいのなら、そういう国(北朝鮮やシリアなど)に移住することを考えてはどうか。百歩譲って、それが日本を強い国にしたいという願望であるのなら、むしろ主義主張をしっかり持って、外国と対等に渡り会える人材を育成する方が有効だろう。それは文科省の教育方針とは真っ向から対立する方針かもしれないが、国力は詰まるところ国民=人、の力なのだ。銃やミサイルがいくらあっても、国を支える人達がいなければ、国などはないも同然。日本が世界で評価されているのは、国民の文化レベルが高く、良識と教養と人格を備えているからなのである。文科省は国民の足を引くことにしか関心がないように思えるのだ。

私は愚昧なトップが率いている日本の現状を深く憂慮している。一番剣呑なことは、事実や、本音や、批判的意見から、国民を遮断しようとする言論統制の傾向にある。言論の自由こそが、一部の熱狂的国家主義者や、彼らが引き起こす戦争から、日本を守る最後の砦なのだ。それが分かっているから彼らは集団的自衛権と秘密保護法をセットにしているのである。日本を守るには、自分から戦争を仕掛ける機会が無いように、早めに紛争の芽を摘んでおくことと、言論の自由の確保が絶対に必要なのである。

(追記 2014/10/2)
私は昭和20年、敗戦の年に生まれた。団塊の世代、即ちべービーブーマーはその翌年なので、ほぼ団塊と同じ世代である。だから私にも団塊世代にも戦争の記憶はない。それでも、もの心がついた3−4歳の頃、住んでいた練馬には未だ空襲でがれきと化した工場が残っていた。命や財産を失った、戦争の直接の被害者は、我々の親と、祖父母の世代である。

来年は終戦から70年。大きな節目であり、大戦の総括は避けて通れない。しかし私達はあまりにも昭和史に疎すぎる。戦争の記憶を子供達に伝えるべきだという議論がある。しかし戦後の苦しい生活こそ経験したものの、私達団塊の世代は、自分の子供や孫に伝えるべき、自らの戦争体験を持ち合わせていない。ならば戦後70年を経て、戦争の記憶が消え去るままにしておいても良いのだろうか。

実体験こそなくても、私達には戦争を語り継ぐ義務がある。なぜなら私達の親の世代が家族を亡くし、自由のない悲惨な生活を強いられ、財産を失ったという実体験を持つからだ。大規模な災害なら、最近の出来事として東日本大震災がある。日本中で、来たるべき震災に備え、耐震構造にする、避難方法を考える、防災訓練をし、インフラを見直している。膨大な費用と労力を厭わない努力だ。それも一重に悲劇を繰り返したくないからだ。一方、戦争は犠牲者の数で自然災害と比較にならない。日本でも大戦で300万人もの人達が亡くなった。ならばそれを繰り返したくないと思うのが当然ではないか。戦争の犠牲は膨大で、しかもそれは人間の知性と工夫と努力次第で避けられるからだ。

現首相は、我々より10歳若い。戦争の悲惨な記憶からもその分だけ遠いだろう。しかも我々のように間接的な、戦争の被害を蒙ったようにも見えない。我々の親の世代の、戦時中の、専制政治の閉塞感の記憶も持ち合わせてはいないだろう。彼の祖父が戦時中の商工大臣だった、即ち為政者に一人だったという特殊事情もあるだろう。そして今や、自民党政権内で、国を軍事力で守るのが何故悪いという空気が出来つつある。これまでなら、自民党内部にも、超保守派の言い分を抑制するリベラルなパワーが存在した。しかし今はそれが脆弱化しており、党内部での思想的な均衡が失われている。大政翼賛会の雰囲気を感じ取っているのは私だけではないのである。

タカ派の人達の言い分は極めて明快だ。個人より国が大事。でもそこで犠牲になる個人はタカ派の彼らではないという前提に立っている。国と言いながら、その国は個人個人の国民の集合体でさえないのである。

私達が自分の親達の負の記憶を引き継ぐとしている理由は、権力者の自己中の論理に引きずられて、我々の子孫を戦争の災禍に巻き込ませない為である。それだけが、平和を望んでもそれを得られなかった困難な時代に、我々を育ててくれた親の世代に対する、たった一つの恩返しでもある。

戦争におけるメディアの責任を問うBSTBSの番組で興味深い発言があった。それは特攻帰りの先生が生徒に言った言葉である。信用してはいけないものが3つある。一つは国家、裏切る時は徹底的に国民を裏切る。二番目は新聞(メディア)。全く責任を取らない。三番目は教師だという話である。これは戦争直後のことだが、今でもそれが通用することに恐ろしさを覚える。戦後、読売は社説で、過去を云々するのはやめようと書いた。読売にはそれを言う資格があるとは思えない。国民をあおったという意味で同罪の朝日は、それでも一応反省はしたのである。NHKでは、会長や経営委員をはじめとして、歴史修正主義者達が権力と一体になる様相を呈している。こういうことは海外では余り例のないことだ。それは外国が日本を危険視する理由にもなっているのである。

ビデオリリースされた、山田洋次の「小さなおうち」は、過激な表現は一切ないが、同氏の確固とした反戦思想が背景にある事が誰にでも分かる。終盤部分で大戦を振り返って米倉斉加年(よねくらまさかね=急逝、冥福をお祈りしたい)の言葉がある。戦時中とは、日本の国民が不本意な事を強いられた時代だったというものだ。無論戦争が本意だった人も中にはいたかもしれないが、そうでない人の方が圧倒的に多かったという事実まで否定してしまったら、それは戦争を美化して、歴史を歪めることになるだろう。

国民から自由を奪う数々の法律が、国家総動員法から作られた。その結果、住民が相互に監視密告するシステム迄出来た。思想の自由など全くなく、政府や軍の批判を口にするだけで、憲兵に一方的に逮捕されるという暗黒の時代だった。でも天皇の意向さえ無視した陸軍の暴走にいかなる正義があったというのか。批判する者、立ちふさがる者さえいなければ、人間は好きなように振る舞う生き物だという事を、われわれは多大な犠牲を払って歴史から学んだのである。

毎日新聞の川柳には毎日眼を通しているが、先日、毎日にしては一風変わった川柳があった。それは「お祈りで領土守れた国は無い」というものです。作者は、だから軍備や集団的自衛権が必要だと言いたいのかもしれない。そういう気持ちが全く間違っていると決めつけるつもりはない。でも私に言わせれば、それこそが安易で、しかも最も危険な発想だということだ。何故戦わずして国を守るという最善の方法を考えようとはしないのだろう。武力が強い国が、世界を思いのままにする姿があるべき国際世界の姿だと、この川柳の作者はいいやいのだろうか。より多くの地球市民の自発的な同意を得た者が真の勝利者なのである。その為にはどうすれば良いのかを考えることが、国際政治と外交のあるべき姿ではなかろうか。

ではどのように私達は歴史から学べば良いのだろうか。結局は書物しかない。TVの対談は時間が短い。限られた時間の中で、なんとか結論をこじつけてしまうこともないとは言えない。だいいち論者の選択いかんで、いかようにもムードは演出出来る。そこが感情に訴えるTVの恐ろしさだ。結局、冷静に判断するには書物しかない。しかも一方的な立場で書かれたものでは、全体像が掴みにくい。そこで私がお勧めするのは、半藤一利と加藤陽子の「昭和史裁判」文藝春秋社である。対談なので読みやすい上に、議論が文献に基づいていて正確さを期している。なにより、半藤が戦争責任者に厳しく、それを加藤が弁護するという形式を取っているので、異なる価値観で昭和史を理解する上で役に立つ。団塊の世代として、死ぬまでに読むべき本の一冊だと思う。

(追記2014/12/17)
私は2015年に70歳になる。それほど身体が丈夫ではなく、心身ともにいつもなんらかの不安を抱えていた身としては、よくぞここまで生きてきたという感じだ。しかも2回の海外駐在まで経験出来たことは、人生で善戦したほうだろうと思う。ビジネスマンとしては成功したとは言いがたい企業人生だったし、退職してからは、残りの人生をどう生きるべきかで悩んでもいた。本当にごく最近になって、ようやく目標が決まった。それは残り少ない余生を憲法を守るために捧げるべきだと気がついたからである。

私は昭和20年生まれで、人生の大半を昭和の世で生きてきた。今の若者は全員平成生まれということになる。三丁目の夕日と言う西岸(さいがん)良平の漫画が、3回も映画化されてヒットしたのは、昭和という時代が、貧しいながらも皆が同じ想いで、明日の希望に向かって努力していた時代だったからだ。ちなみにこれを撮影した山崎監督は、ドラえもんも監督しており、今やヒューマニズムの観点から最も注目に値する監督である。永遠のゼロ(但し映画のほう)も彼の作品である。山田洋二の反戦主義を継ぐのは山崎氏しかいなさそうだ。

私にとって昭和と平成という二つの時代が持つ意味には極めて大きいものがある。まず言いたい事は、昭和は、決して三丁目の夕日のような、のどかな時代ではなかったということだ。それは岸・佐藤両首相を初めとする、戦前の価値観と体制に引き戻そうとする政治家と、それを支える政官財が、学生、主婦、教師を含む国民の平和活動とのせめぎ合った時代であり、それが死者まで出した安保騒動に発展するという動乱の時代でもあったからだ。しかも決して少なくはなかったスキャンダルの殆どが、政治と財界の癒着と腐敗が原因だった。安保についても、国民から反対の声がわき上がり、憲法を否定する法案だと指摘された。今の集団的自衛権と同じ状況だった。自民党が強権を振るったという点でも似ている。何故か与野党の誰もが、当時と現在を比較しようとはしない。

ちなみに安倍首相は戦後レジュームを否定しており、だから改憲が必要だと訴えている。今更20年前に言われた、最早戦後ではないなどという観念を持ち出すことに、どういう意味があるのか分からない。米国に隷従するなと言いたいのか。ならば集団的自衛権は全くおかしい。

自民党一強支配は今に始まったことではない。それでも、日本が銃弾を撃たず、撃たれずに、ここまで平和を守ってこれたのは、社会の批判力が機能しており、政治家が少しでもおかしなことをしたら、メディアを含む誰かが黙ってはいなかったからだ。今はその批判力が極端に弱体化している。というより、資金力や権力のある者が勝つという資本主義の原理を駆使して、リベラルな言論が暗黙の内に抑圧されている。その背景にとして、極端な表現や環境変化を好まないという、悪く言えば小市民的な国民の感情や価値観も影響しているだろう。但しその傾向は今に始まったことではなく、それは古今東西、一般市民が持つ共通の傾向でもある。だからいくら国民のせいにしても問題は解決しない。どうすれば基本保守指向の国民の重い腰を上げさせられのかを考えなければならない。具体的には有識者とジャーナリズムがもっと頑張らないといけない。議場で直接国民の代わりに戦うべきは、それが本来の仕事である野党の政治家である。いまの野党に人気がないのは、本気で国民の為に戦う意欲も気概も感じられないからだ。

以前なら、自民党の政治家が、政治家として今ほど堕落(これははっきり言わせて頂く)しておらず、理想が高く、自浄作用もあった。いろいろ批判はあるが、私は福田元首相(息子の方)を評価している。自民党の政治家だが、政治家が持つべき矜持と美学があった。責任感が強く、出処進退が見事だった。最近では中国とのトップ会談を演出した。これはタイミングだけで政権を手にしただけなのに、権力を私的な目的と価値観に使おうとする政治家(達)とは決定的に異なる点である。自分は戦場に行く気などは全くないのに、戦争を肯定する人とも違う。

一方、官僚についてはかつて世界での評価が高く、その有能ぶりには米国も警戒感を隠そうとしない時代もあった。私はその当時にNYに駐在しており、エリート官僚とも若干のおつきあいのあった関係で、官僚の優秀さを目の当たりにすることが出来た。しかし民主政権時代の反抗的姿勢で、結局何処を向いて仕事をしているのか、分からなくなったこともある。行政官は自分たちに都合の良い政権下でしか働かないのかという素朴な印象を国民に与えてしまった事は将来に禍根を残すことになるだろう。官僚は自分達で独自の価値観と住みやすい組織を形成し、その中で自らの組織の維持発展を最優先にしているのではないかという疑念が生じた。私は、行政機関がその時々の政権の意向に振り回されることのない信念を持つことが大事だと思っている。でもそれが、自分たちの組織が何より大事だなどという、次元の低い信念であっては困るのだ。なぜなら、それで組織が肥大化すると、ついには不要な組織になってしまいかねないからである。国鉄しかり、郵政しかり、農協しかり。もっと高い理念を掲げてほしい。しかもその存在理由は、あくまで国民へのサービスの提供機関でなければならない。国民が生活を安全かつスムーズに進めて、その結果、国が発展してゆくことこそが省庁の存在理由であり、そこで必要な、許認可や実務を含む仕事を委託されているという考え方である。私は公僕という言葉は嫌いだ。公務員は決してしもべではない。自分の仕事に誇りを持つ、使命感に燃えた一個の人間であり市民なのだ。特に現場の公務員は、そういう意識で日々業務に臨んでいることを私は信じている。

いまは政治家の言葉が、額面通りに信用出来ない時代だ。首相を含めて、世界での日本の政治家の評価が決して高くはないことを、もっと素直に反省すべきなのである。それは日本の政治家の理想と理念が、世界の信頼を得ていないということを意味している。地球市民の心には届かない代物なのだ。言葉がちがうということもあって、彼らは言葉には余り重きを置かない。どんな価値基準で、実際にどう判断して、いかに行動するのかを見ているのである。

話を昭和と平成に戻す。ある時代に住んで、ああ、こんな人もいるんだとか、同じ時代に生きていて幸せだったと思うことが、たまにある。私の場合それは平成天皇、皇后両陛下である。私のブルガリア駐在時代に、たまたま当時の皇太子ご夫妻に、現地でお目に掛かる機会があった。お言葉も頂戴した。お二人のお人柄には非の打ち所が無いと思う。人間的過ぎる他の国の王室とは大きく異なり、にじみ出るような人格と品格をお持ちである。公務が本当の意味で公務なのだ。日本が敗戦を経験したという経緯があるにしても、日本が平和主義を70年間貫くときに、国民の精神的支柱として、両陛下がどれだけ大きな役割を果たされ、また努力と貢献をされたかを思う時に、気が遠くなるほどである。ノーベル平和賞がいくつあっても足りはしない。私達は通常、皇室の存在を余り意識しないで生活しているが、今ほど両陛下がおられることを有り難くまた心強く思った時代はない。国の未来に不安が広がる時代にあって、私達は平成天皇両陛下という、願っても得られない、貴重な宝を持っているのである。世界に誇るべき、いや世界が誇るべき存在なのだ。それは両陛下が、政治的な理念やイデオロギーを超えて、人類が共通に持つ、根源的な平和への願いを象徴されているからなのである。



「一人は万人の為に、万人は一人の為に(もしくは国家と国民)」2014/9/2 
(2015/2/21加筆訂正)

TVドラマの、「のだめカンタービレ」の中で、指揮者千秋(玉木宏)がのだめ=野田恵(上野樹里)に言う台詞がる。それは「楽譜の中に、無駄な音は一つもない」というものだ。無数の音符のひとつひとつに、それがそこに存在すべき理由がある。しかも、そのひとつでも欠けたら曲そのものが成立しない。私は楽器のひとつも満足には演奏出来ないし、まして楽譜を読むことも出来ないが、この言葉の意味くらいは分る。

しかも、そこには社会のあり方に関する非常に重要なメッセ−ジが込められている。一つの音符は曲全体の為に。それは、一人は万人の為にと同じ意味だ。でも音楽と社会では少し違う。社会では万人は一人の為にと続くのだが、音楽ではそういう関係はない。但し個が重要であるということは同じだ。即ち個それぞれに正当な役割もしくは、存在理由があるからである。この二つの表現の違いは微妙でも、その意味は大きく異なる。役割には代わり=代役、があるが、存在自体に代わりはないからだ。前者は全体主義者、国家主義者の人達の考え方である。即ち個々の国民は交代が可能であって、一つが駄目になれば他で補充すれば良いという思想だ。そこにあるのは個の消滅である。だから大事なものは全体であり、全体が個に優先する。国の為に国民が尽くすのは、もっと言えば全体の為に個人が犠牲を払うのは当たり前という考え方でなる。しかし個が全体の為に滅私奉公しなければならない理由は、少なくも犠牲になる個人が納得出来るような形で説明された事はなかった。特攻隊での説明は、形を変えた強制であり、いうなれば自発性の強制だったのである。

我々一人一人は個そのものである。誰も他人の人生を、例え強くそれを望んだにしても、代わることは出来ない。一人一人が自分自身の人生を独りで生き、独りで死んでゆくのである。警察官が犯罪者の凶刃により、不幸にも命を落とす事があるかもしれない。その場合はおそらく同じ所属の他の警察官が捜査を引き継ぐことになる。経理担当の社員が定年退職すれば、若手がその後を引き継ぐだろう。公職或いは職業人としての個であれば、雇用者から見れば交代が可能だ。しかし命を落とした警察官の、夫としての、或いは父親としての彼に代わる個はないのである。

本来、個が集まって国を作ってゆくのが民主主義だが、国家主義では発想が逆になる。私達が生まれた時には、既に日本という国家があって、誕生とほぼ同時に、日本人としての権利と義務が与えられる。現象として見れば、ある国家で、国民が一人増えたということだ。ではこういう事を想定してみよう。例えば豪州とかカナダに、日本国民が一斉に移住してしまった場合を考えてみる。その後の、もぬけの殻となった日本列島を、日本と呼べるのかどうかだ。確かに議事堂や、都庁や、スカイツリーはそのまま残っているだろう。首相や閣僚は残っているかも知れない。その結果、正体不明の国家主権なるものも残っているかもしれない。でも国民がいなくなった日本列島を、果たして日本と呼べるだろうか。窮余の一策で、足りなくなった分を、移民で補充するという姑息な方法で帳尻を合わせたとする。それを果たして日本と呼んでもいいのだろうか。

国家のありようを間違えると、上記のような奇妙な現象が現れる。国民のいない国家だ。それは、一人は万人の為に、だけの国家である。国は、国民となるべき人達が集まって合議の上で、自発的(ボランタリー)に、かつ自主的に作り出した集団組織であって、憲法は、そういう組織を、正しく運用するための基本的なルールだと私は理解している。萱野稔人の「国家とは何か」によれば、国家とは、実態はよくわかないし、場合によっては国境さえ曖昧ではあっても、対外的、対内的に暴力の行使が許される存在だとしている。そういう意味で、今は一線から外れたが、民主党の仙谷が、自衛隊を評して暴力装置と言った指摘は正しかったのだ。軍隊こそ誰が考えても究極の暴力であろう。国家は武力で戦争することが出来るし、死刑制度で国民の命を奪うこともできる。暴力の行使、またはその可能性を示すことが国家の本質だと言うのである。また部族が対立した古代社会でも、それらを束ねる存在さえあれば、国家足り得た。だから国民より先に国家があったと述べている。卑弥呼が統治していた古代日本もそれだ。

しかしこの学術的な意味の国家とは別に、少なくも近代国家と呼びうる国は、先に述べた我々の理解とそう大きく違うものではない。歴史から見ると、近代国家は英国やフランスの革命により再構成された時から始まったということも言える。即ちそれまでは、王と、王から見ればいくらでも取り換えのきく、農民や兵士で形作る国家と、近代国家は明らかに異なるものだ。近代国家は資本主義と共産主義とを問わず=但し独裁体制を除く、個人が集まって組織(全体)を作ったのであって、その逆ではない。後から成員に加わった若い国民の立場からすれば、既にあるものに、否応なく自動的に組み込まれたという事になるが、それがいかに与えられた国家であっても、一旦は組み込まれた個人が、その他の個人に働きかけることで、国を変えることが出来る可能性があるという点で、中世の国家や、専制国家とは決定的に異なるのである。専制国家と近代国家の余りに大きな差がそこにはある。後から加わったものにとって、自分が生まれた国は自ら作り上げた国ではないが、自分がその国で平等な権利を享受できず、尊重もされないとなれば、そこに帰属する意味はないので、出てゆく自由がなければならない。即ち近代国家の成り立ちや存在理由を考えると、主権は国という枠組みにあるのではなく、個々の国民の側にあるということになる。それが主権在民だ。

一方で個にこだわるあまり、個を尊重するというよりも、むしろ自分を特別視すれば、他をないがしろにして犯罪に至る場合もある。他人が自分と同じ、肉体と精神を備えた人格であるということが理解出来ないが故の凶行である。最近でも、殺人というものがいかなるものか、一度試してみたくて凶行に及んだという事件が何件も起きている。そこにあるのは、自分(という個)と他人(という個)は、全く別のものだという勝手な思い込みだ。他人を殺めても、自分は痛みさえ感じない。当たり前だ。神経も意識も繋がってはいないからだ。何故そういう社会病理現象が起きるかというと、他人である個が、自分と同じ存在だという想像力が欠如しているからだ。何故想像できないかというと接点がない、というより接点を持とうとしないからである。何故接点を持てないのか。それは親や他人に無視された、或いは迫害された経験がある場合もあるかもしれない。また仕返しは必ずしも殺人である必要はない。相手は殺しても良い存在だと思う背景には、個の存在の認識にゆがみが生じているからだ。それを助長しているのが、パターン化したキャラを作り出す、映画やビデオゲームである。そこに登場するキャラは、幻影であって生身の存在ではない。日頃から生身の人間と接していないと、人間とはどういう存在かの基本的な理解が失われてしまう。その結果の犯罪である。TVゲームの中では何度でも生き返る。現物はそうはいかない。しかも人間性を失った自分自身が、間違った固定観念に囚われ、魂を失った幻影に変身してしまっているのだ。ゆえに私は幼児や小児にビデオゲームを与えるのは反対だ。自分も他人も、同じ価値を持ち、存在理由と自分自身の世界を持つ、交代できないかけがえのない存在だ。それが想像出来ないと、他人は利用するもの、不要になれば廃棄するものになる。それは国家主義者の価値観と同じものである。

今や国は国民が作っている組織であることと、個人個人が他には代えがたい価値を持っている事への認識が、国家レベルで希薄になってきているように感じる。その現象は、政治の世界だけでなく、社会全体で起きている。格差や弱肉強食が世の習いのようになってしまっている。現政権は、集団的自衛権では、自分達をいつでも銃を発砲する側として想定しているように思われる。撃たれて死ぬのは敵であって、自国民も、いわんや自分ではない。しかし、いざ戦闘が始まれば、敵の弾丸は容赦なく、自分達の身体にも食い込んで来る。苦痛や恐怖は敵でも味方でも同じなのだ。しかもそれを実感した時はもう遅いのである。それも他国民が自国民や自分と同じような存在だという前提に立とうしないからなのである。

国家主義の人達は、国民は国の為に尽くすべきもので、個人の権利や幸福よりも、公共(国)の利益が優先されるべきものだと考えている。ならば1000人の悪人と1人の善人で構成される国があったとしよう。その時どちらを拘束すればいいのか。個と全体の関係は、私ふぜいが拙い文章で論破し、結論を提示出来るような底の浅いテーマではない。でも保守的な憲法改正論者が提示するような国家と国民の姿は、どうしても私にはなじめない。そこには国家の基盤となる、個々の生身の国民の姿はなく、取り替え可能な、顔のない勤労者、納税者の姿しか見えないからだ。そうした考え方からは、個人である国民が能動的に他人や組織と関わり、対話しつつ意見をまとめ上げ、連携して組織や国を作り、動かしてゆくという、民主主義国の本来の姿を垣間見ることは出来ないのである。

意思も主体性も持たない、だから顔の見えない個が、いくら大勢集まってみても、民主的な国家が出来上がるという事にはならないのではないか。しかも実はそれこそが今の日本の政治状況を象徴しているのではないか。国民の半数以上が政治に無関心ということは、その人達は主体性を放棄し、権力者からというよりも、国として見た場合、いつでも取り換えの効く、労働力に過ぎなくなっているのではないか。

いま日本の全体主義への傾斜や、非人間的な犯罪の増加を防ぐ為に、我々が出来ること、またしなければならないことは、決してこ難しいことではなく、誰にでも出来ることだと思う。それはまず、家庭で、自己と他人との関係をしっかり教えることである。この世に共に生きている者同士のダイナミックなコミュニケーションである。これは学校の道徳の時間で教わるようなものではない。むしろ授業以外の場の方が大事である。また国策の道徳教育で教える内容は、断定は出来ない迄も、民主主義の観点からは、むしろ全く逆方向にある可能性が高い。人間教育の基礎は、自我が確立した親が、人生をいかに生きるべきかを、身を以て、子どもに伝えることである。そこには社会で生きてゆく上で最低限必要なマナーも含まれるだろう。もう一つ、そしてこれは授業でも教えられると思うのは、議論(ディベート)の習慣である。これは自己主張を通じて、強い精神力を養う機会であり、他人と意見を交換し、自己と他人の正常な関係を心の内に育成することでもある。それらが民主主義の基本的な手法だと思う。自己と他との健康的で柔軟で強靱な関係が打ち立てられれば、孤独に苛まれた荒んだ虚無的な精神による不毛な犯罪も減少するだろうし、またそれに立ち向かう者にも力がつくであろう。議論の習慣で、まやかしのロジックを見抜き、虚偽を論破する力も身につくだろう。いまこそ個と集団、自己と他の関係という根本的な問題に、正面から向き合うべき時だと考えているのである。



「特定秘密保護法」 2014/10/2-12/10

内閣府のHPによれば、特定秘密の保護に関する法律とは、我が国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものの保護に関し、必要な事項を定めるものとのことである。またこの法律は、特定秘密の漏えいを防止し、国と国民の安全を確保することを目的としているとのことだ。

NHKの番組によれば、2014年の年末に施行されるこの法律は、3省庁の官僚が2年掛かりで練った力作だそうだ。この法律では自国の安全保障に関わる重大な(国家)秘密(機密)を漏洩した者に10年以下の懲役が科せられる。刑罰としてはかなり重い。関係省庁は防衛情報の防衛省、外交情報の外務省、テロ情報の警察庁の3省庁である。国家の安全保障と直接関係のない他省庁は当面関係がなく、また処罰対象も原案では公務員だけだった。即ち国家の機密情報を扱い、それに触れる事の出来る人達であり、それだけなら省庁の身内が情報を外部に出すのを防止したい、お膝元から情報がダダ漏れするのは困るからだという受け取り方も出来る。

ところがそこでは留まらなかった。警察庁がゴネたのだ。まず対象を秘密情報を知り得る公務員全体に拡大した。その結果、国会議員や裁判官に範囲が拡大され、更には公務員から情報を得るべくそそのかした(古書蒼然な表現)民間人も含まれることとなった。なんとしても(国家)秘密を守りたいという熱意は感じられるものの、情報を知りたい国民の視点は完璧な迄に除外された。国家の情報は、国民に知らせる必要は無い。コントロールは自分達に任せろというのだろうか。でも世代が変われば、残るのは法律だけ。いかようにも解釈され、どのようにでも運用可能な法律だけが残ったら、立法当時の付帯条件や約束など吹き飛んでしまい、何が起きてもおかしくないのである。

ある日、貴方の家のドアをドンドンと叩く音で目が覚める。何事かと思って外に出ると、逮捕状を持った刑事が貴方に任意同行を告げる。国家機密とは知らずにネットに載せた写真が問題視されたのである。いくら弁解しても情報を開示したという事実は残る。しかも、機密かどうかを決めるのは貴方ではない。警察庁だ。貴方は旅行に行って、無人島の写真を撮っただけなのだが、実はそこには自衛隊のレーダー基地があったのだ。今その写真を良く見ると、かすかにアンテナが映っているので分かる。弁解の余地はない。ブログで最近政府の批判を続けていたことも、検事の心証を悪くしたようだ。反国家的存在と見なされたのである。そして有罪になれば10年は決して短い年月ではない。家族も路頭に迷うだろう。

明らかにされた情報の23の例(上記概要の別表に記載されています)を見ると、数こそ多いが、明らかに防衛に関係のあるもので、素人考えでも無理からぬと思われる。それでも自由な解釈の余地は残されている。例えば特定有害活動とは何を指すのか。そこには政府を批判する活動も含まれるのではないか。また国際社会の平和と安全に関わる情報となると、いくらでも拡大解釈が可能だ。その結果、何を秘密情報とするかについては、恣意的な運用が可能な余地があると言って良い。

米国の場合は秘密情報を監督する独立した組織があり、対象にした情報の8割が公開されていると言われる。しかも組織の成員は各省庁から転籍したスタッフで、元の組織に戻る事が無いので、調査の独立性が担保されているとのことだ。ところが日本の組織の場合、監視組織のスタッフを誰がどのように選ぶかが判然としない上に、監視組織に情報公開を命令する権限を持たせるかどうかについても、勧告が出来る程度であって、実際上の権限はないらしい。米国の場合は、国民が情報公開の調査の要求を出すことができるが、日本の場合、そのプロセスは認められていないようだ。最初からこの組織は有名無実にしたいという意図が見え見えなのである。だから日本の秘密監視組織には、お役人の経験者だけでなく、民間の弁護士を入れること、またこの組織を通じて、国民が情報公開の請求を行えることを条件にすべきだと思う。

最初はスパイ防止法だった秘密保護法が、一人歩きを始めて、政府や省庁に都合の悪い情報を秘匿する隠れ蓑に使われるようなら、憲法と民主主義への重大な挑戦である。しかも、セットになっている監視組織に、国民が納得出来るような監視・調査・公開指示の機能を期待する事ができいとなれば、国民の権利を誰がどう守るというのだろうか。

沖縄の基地問題を取上げるまでもなく、外務省をはじめ、本来国民に開示されねばならない秘密が、これまでもいくつも秘匿されてきたというのに、その上で、更に60年も公開の義務がなくなるとすることが何を意味するのか、国民の権利を守るメディアや政党は、身体を張ってこの法案に反対し続ける義務があると思う。

(追記2014/12/10)
希代の悪法、秘密保護法が本日施行される。ことは情報の隠蔽という生やさしいものではない。安倍政権得意の拡大解釈で、公務員、ひいては国民全体の思想統制にまで規制の網が広がる可能性が高い。思想犯と、それを取り締まる秘密警察の復活である。何を大げさなと言われるかもしれない。では安倍政権の年内解散を予言した余勢で、もう一つ予言しよう。それはこれから、というか、既に始まっていることだが、メディアへの圧力の強化だ。まず朝日が社長を交代させられた。毒にも薬にも、というより箸にも棒にも掛からない(ように見える)人材を据えて、日本の代表的なジャーナリズムを骨抜きにしようとしている。公共放送のNHKは、とっくに政権と財界の息の掛かった、曰く付きの人物がトップに居座っている。

次に狙うのはおそらく毎日/TBSだろう。リベラルな言論や発言は許しがたしという訳だ。批判的なジャーナリズムは次々に骨抜きにしたい。その次の標的は、安倍政権だけでなく保守派全体が警戒するネット情報への規制だろう。公序良俗に反するという一方的な解釈で、思想的、政治的な個人的発言を、ツィッター、SNS、ブログから、プロバイダーに「自主的に」削除させる。警察も司法も行政の仲間。厚労省の女性事務官や小沢への痛烈な仕打ちを、私は未だに忘れることが出来ない。物覚えが悪い代わりに、一度覚えたことは忘れられないのだ。結局取り締まる側が間違っていたことがと分かり、関係者の一部が退いたものの、組織が解体された訳ではなく、身分保障に守られて、組織とその価値観は今も健在である。

世の中には保守的、あるいは右翼的な理念や思想があり、それを完全否定は出来ない。そレを否定すれば、今度はこちらが思想統制派になってしまうからだ。私が安倍首相を危険視し、嫌う真の理由は、個人としての本人でもなければ、その理念でさえない。それはもっとシンプルな理由。即ち、嘘をつくからだ。嘘と言って悪ければ、その場限りのとってつけたような説明と言ってもいい。なぜそういう政治的手法を取るのかと言えば、それは正論では自分の意見を説得できないことを、自ら分かっているからではないのか。本人が正論ではないと思っていることを、私たちがどうして正しいと信じることが出来るだろう。

国民に説明しても分かってもらえないから、受け入れ易い表現で話しているだけだと言うかもしれない。ということは、国民が受け入れないことが分かっていて、なおも自分の価値観を押し通したいだけだという見方も出来る。首相閣下や閣僚に、思い上がりがないと断言できるだろうか。

そういう誤解の証拠を一つ。政策についてのTVの街頭インタビューで、市民に意見を問うた時に、政権に批判的な意見ばかり出たので、殿はご機嫌斜めだった。それを見た取り巻き(某副幹事長)が、テレ朝に、自粛要請の手紙を書き送った。首相に間違いはない、間違っているのは批判する市民の方だと言いたいのだろう。町を行き交う市民も、首相閣下も、等しく価値のある個人である。安倍氏は、そういう普通の人間の1人として、特別な役割を担っただけなのである。

しかしこの点で安倍首相だけを非難しても始まらない。日本の権力の中枢部にいる人達(順当に出世していれば、その多くが40-50代)の多くが、自分だけは特別の存在だと思い込んでいる節があるからだ。即ち自分達は特別だという、一種のエリート意識と平衡感覚の欠如が、結果的に日本全体のバランスを片方に傾かせ、日本を偏った方向に推し進めているように思われてならない。これは規模こそ大きいが、自己中の構図そのものでもある。しかも自己中は必ず他の自己中とぶつかる。それが宿命だからである。

そこでもう一つの警告である。バランスを欠いた姿勢には揺り戻しが伴う。アラブの春が良い例だ。一度傾いた秤には必ず元に戻ろうとするイナーシャが働く。しかもそういう変動には犠牲がつきものだ。それは生命の場合もあれば、財産の場合もある。そういう変動に際して、犠牲を出さないようにすることこそ、政治本来の役割なのだ。巻き添えを食う国民はたまったものではないからである。そして日本経済が見せかけのインフレから国債暴落、やがて大恐慌へという方向に進まないようにするためにも、経済の仕組みそのものを考え直すことが必要なのである。






トップページへ