「WTWオンラインエッセイ」


【第4巻内容】

「心の闇とどう向き合うのか」
「人質事件の経緯と総括」
「21世紀の資本論」
「白紙委任の怖さ」



「心の闇とどう向き合うのか」 2014/10/2(2015/2/21訂正)

誰しも心の中に悪魔や鬼の一匹や二匹は飼っている。聖人君子が一人もいないとまでは言わないが、大多数は私を含めてごく普通の人達(悪と善の中間の存在)だろう。心の中の悪と共に生き、それをどう手なずけ、外に出て暴れないようにするかで誰しも苦労しているのだ。憎みたい、傷つけたい、嘘を言いたい、騙したい、死にたい。自分の本能の欲望のままに行動したいのも、人生に絶望するのも、同じくネガティブな感情である。しかも逆境に置かれれば置かれるほど、悪魔のささやきも抗しがたいものになる。しかし皆が皆、それを完全に押さえ込めるほど強い精神力を持っているわけでもない。そこでは宗教が役に立つ場合もあれば役に立たない場合もある。

しかし自分の中の悪魔に対抗する手段がないわけではない。意志の力で押さえるだけでなく、人生の見方や価値観を変えるのだ。それには思いやりや良心や理想という善の芽を育てる事が最も有効な方法となる。大なり小なり心が病んでいる者にとって、周囲の愛情と思いやりが、良心の花を咲かせ為の不可欠な要素である。愛情の何たるかを知らないで育った者を世に出すということは、他人の痛みが分からない者を野に放つということを意味している。最近の若い親たちは、子どもと友達になるだけで、親としての正しい愛情の示し方も、しつけの仕方も知らないように思われる。それは将来世界を引き継ぐ世代が、愛情を受けることも、与えることも知らないで、世に出ることを意味している。

もう一つは子ども時代の過ごし方の問題だ。40年前のファミコン全盛時代から私が警告してきたことだが、ひと言で言えば友達と遊ばない、或いは遊べない若者の心には、闇と異常性が育ちやすいということだ。何十年にも及ぶ、TVゲーム全盛時代のツケが今、現実世界に姿を現してきている。自分と同じように生きている者への、異常なまでの無関心。共感と倫理観の喪失。要するに人間らしさの欠如である。

最近判決が出たアキバの殺傷事件、そしてドラッグの蔓延。試しに人を殺してみたかったという、人間とは思えない犯罪の動機。そこには子どもの頃から培ってきたはずの人間的な感情や人間同士のきずなというものが感じられない。またもう一つ言えることは、犯罪に手を染めた彼らは、決して強い人間ではなくて、社会的には弱者で、そしてなにより孤独だったということだ。家庭環境に起因する場合も多いが、心理的に孤立していたことだけは共通している。精神的に苦境にある彼らを助けてくれる者、話を聞いてくれる相手がいなかったのである。

いま何が必要かははっきりしている。それは他との接触と交流の再建である。話し合い、分かち合い、励まし合い、時には口論する相手が居るのと居ないのとでは、人生が天地ほど違う。話し合えれば、同じ悩みを共有する者と出合う機会もあるだろう。どうすれば心の闇と戦えるかのヒントが得られるかもしれない。教師や牧師や僧侶がそれを教えてくれるかも知れない。他との接触を自分から絶ってしまったら、その機会さえなくなる。私は宗教の中では包容力の広い仏教に、その可能性があるのではないかと思っている。キリスト教の愛の思想も役に立ちそうだ。但し仏教系に限らないが、新興宗教や、ましてカルト教団などは論外である。いわゆる新興宗教は教祖による金もうけと権力が目的なので、逆に信者の心に闇を植えつけてしまいかねないからである。

普段の生活の一コマにも、小さな悪、或いは小さな闇を見ることが出来る。スマホで音楽を聴きながら平然と赤信号の歩道を渡る若者、信号を無視する自転車。自己中、マナー違反。周囲への配慮がゼロ。最近の暴走事故や異常犯罪の犯人と基本的に同じ無頓着さと無感動。自分の中に閉じこもってしまえば、他人の存在は影と同じことだ。自分にとっては実体のない存在なのだから、彼らがどうなろうと知ったことではないのである。命を持つ実体が、TVゲームのキャラと同じになってしまうのだ。

だから子ども時代をどう過ごすかはとても大事なのだ。外で皆と遊び、もみ合って、身体の痛みを知る。他人が自分と同じ人間であることを実感する。一方、集団の中でも流されずに、自分の主張を言えるくせも身につく。自己と他を正しく区別して認識する力、実感する力、それが最も大切なのである。

人間には生まれながらの勝ち組も、負け組もない。だから皆が人生の勝ち組になることだって不可能ではない。残忍な犯罪に手を染める人達は、凶暴で凶悪というよりは、自己中心的で虚無的な人達が多い。人生に価値を見失った者達だ。だからいかに悪事を重ねても満足する事がない。金が目的ではなく、心の空白を埋めることが目的だからだ。心が空っぽだからこそ、そこに悪魔が住みつくスペースが出来る。心を空疎にしないためには、生きる目的を持つことが不可欠である。ではどのように生きがいを見つければ良いのか。それは子どもだけでなく、次世代の教育に直接責任のある、親と大人達の問題でもある。

心の闇と戦う、極めて具体的な方法がある。それは自分を救う為に、自分から一歩を踏み出すことだ。こちらから一歩を踏み出せば、相手も同じように応じてくれる。だからまず自分から踏み出すことが大事なのだ。そして一歩を踏み出したその瞬間から、そこには孤独で不安で不満な人間はもはや存在せず、自己と、自分の外の世界が繋がっている人間がいるのである。

但し、では社会的な環境が、犯罪と全く関係がないかと言えば、そうではない。最近立て続けに起きている、国内の殺傷事件の原因が、経済的格差や社会の価値観の変化など外的な要因は極めて大きく、それを放置してきた政治や行政には少なからぬ責任がある。しかも最大の問題点は、政治も行政もそれを自分の問題として認識してこなかったことだ。こういう悲惨な事件(被害者も加害者も被害者)の背景には、放置されてきた貧困の問題も大きく影響している。

クールジャパンだと胸を張る日本のアニメや、米国ならハリウッドの映像が、暴力を礼賛し、正義や許容より、破壊と復讐を示唆している。これは20年以上前なら、殆ど見られなかった現象だ。サブカルチャーの暗黒面である。だから子供たちを、過度な暴力シーン、過剰な刺激から遠ざけることも大事なことだ。そしてなすべきこと、してはいけないことを子供に、きちんと教えることが、親の大事な役割なのだ。

NHKのクローズアップ現代で、最近の少年少女の残忍な犯罪の背景に愛着障害があると指摘していた。少年院にいる少年少女の多数にもその影響が見られるという。それは子供時代に親から受けた虐待やネグレクトが原因である。またこの番組から気がついたのは、最近町で見かける若い親たちに共通する振る舞いだ。ぞんざいな言葉付きで子供をしかりとばす。あるいは無関心ともいえる態度で走り回る子供を放置する。それは親が子供に甘えているとも言えるし、若い親たちが、自分の子供との適切な距離感を判断し、それを保つことが出来ない事を意味しているとも言える。今必要なこと、それは戸惑っている、或は自己中な親たちに、子育ての正しい指針を与えることである。実はそれが出来るのは親の親達なのだが。



「人質事件の経緯と総括」2014/10/14-2015/2/22

ついに日本でも、イスラム国に参加しようとする者が出てきた。こうなると公安は大忙しだ。昔で言えば赤軍派というところか。

しかしこの世界の動きの背景には、格差を生み、それを助長する社会・経済のシステムがあることを忘れる訳にはいかない。資本主義が機能不全を起こし、効果的な修正が行われないうちに、異なる価値観が台頭してきたのだ。これは日本の優等生たる官民のエリートには想像もつかないものかもしれない。これが最も困るのは、活動が暴力的であると共に、他の存在に関して極めて不寛容、即ち共存を認めないものであることだ。それでもその動きを侮ることはできない。言い換えれば、我々は、かつて経験したことのない、残忍さを背景にした異質な革命運動を目撃しているのかもしれないのだ。既得権階層、富裕層、支配層が、貧困層の苦境を見て見ぬ振りをしている間に、被支配層の怒りは蓄積されていたのである。イスラム国は、虐げられた世界中の貧しい人達の、怒りの発露の象徴かもしれない。そしてそれがより大規模な運動の発端になる可能性もあるということを認識しておかないと、政治や経済の舵取りで、大きなミスを犯す恐れがある。但し、日本では若者の怒りが、右傾化や、ネトウヨや、ヘイトスピーチという別の形を取って現れている可能性もある。しかも状況の分析力や民主主義の理解が、中国の学生に及ばない場合、感情的なだけで、見当違いの犯人探しや魔女狩りなどに発展する恐れもあるので要注意だ。

(追記2015/1/21)
イスラム国に2名の邦人が拉致された。なんで、そんなところに行ったのかとか、加えて、なぜ安倍首相は、あえてこの時期を選んで、イスラエルと合意するなど過激派を刺激するような行動を取ったのかを、今さら論じても仕方がない。イスラム国は金の問題ではないとさえ言っている。すべては平和ボケした、日本人(とりわけ某首相)の危機意識の欠如がなせる結果です。いわば後の祭りであって、今は全力を挙げて2名を救出する方法を考えなければならない。

ここで大事なことは、全力を尽くす(これが日本の政治家とお役人は苦手だ)ことと、あらゆる選択肢を検討することだ。日本は紛争当事国ではないので、捕虜がいない。だから捕虜交換はできない。でも外国(米国とは限らない)の協力を仰いで、武力で奪還する方法も選択肢から外してはならない。極端な話、それが自衛隊の空挺部隊でも良い。集団的自衛権ではなく、個別的自衛権だし、しかも戦闘行為でさえなく、救出行為なので、311と同じである。

そして一番大事なことは、こちらに交渉のカードがないとは思わないことである。即ち最初から諦めないことだ。首相はすでに逃げ腰で、早々に日本に逃げ戻った。200億円払えば、それで彼らは武器を買う。その武器でまた誘拐もし、無関係な市民も殺すだろう。しかも世界中で日本人の誘拐が始まる。以前似たような事例があり、犠牲者も出ているが、そのたびに政府が巨額を払ったという話も聞いていない。安倍首相は苦渋の決断を迫られているのだが、その緊迫感が十分に感じられない。まずご自分の立場を正しく理解した上で、正面から事態に立ち向かって頂きたい。

テロリストとは交渉しないのが、欧米の建前だ。それで押し切れればこんなに楽なことはない。判断を放棄できるからだ。でもそうなれば間違いなく、人質は殺される。むろん悪いのは身代金を払わない日本ではなく、誘拐したイスラム国のほうだ。しかもこれはジハードなどというものではなく、単なる犯罪行為である。憎まれるべきはイスラム国であって、日本政府ではない。そんな事は百も承知の上で、それでも人質に万一のことがあった後で、果たして安倍首相は安眠出来るのだろうか。結果はどうであれ、ベストを尽くさなければ後悔が残る。それだけは確かである。

いかなる(理不尽な)条件を突きつけられようとも、交渉の窓口を設定することが大前提だ。そもそも200億円払えというが、誰にどのように払えばよいのか。相手がイスラム国の責任者だという証拠がどこにあるのか。この金額になると、紙幣だろうが金塊だろうが、トラック一台で運ぶのも無理だ。輸送や引き渡しはどうするのか。交渉しなければならない要素はたくさん残っている。その過程の中でいかようにも調整する事が可能なのである。さらに言えば、こういう巨額になれば、払った後でも追跡する手段があるはずだ。そして最も大事なことは、一定の金額を払うにしても、人質が解放されてから払うことだ。逆は絶対にダメである。

繰りかえしになるが、とにかく交渉を始めることだ。相手は話の分かる連中ではない。イエスかノーか、支払か死だというかもしれない。安部首相はよく映画をご覧になるようなので、映画を例にとると、トム・ハンクスが主演し、ソマリアの海賊に拉致された船長の作品があった。船長には交渉のカードはない。極限まで追い詰められ、しかし最後まで希望は捨てなかった。ちなみにこの映画は実話である。

相手は失うものがないので、ダメ元で来るだろう。こうなると首相を含む日本の政治家や、お役人達の手に負える問題ではない。お坊ちゃん、お嬢ちゃんの出る幕ではない。安倍首相に出来ることはオバマに頼んで交渉のプロを派遣して貰うことではないのか。身代金を払っても捕虜が戻るという保証はないうえに、こういう交渉に、日本人は慣れていないからである。必要なことはお互いが交渉の席に着くことであり、すべてはそこから始まる。

(追記2015/1/23)
NHKTVによれば、間もなくISから声明が出ることが伝えられたとのことだ。昨年末に人質の家族に20億円という要求が来ている。安倍首相が今回の、米国に顔を向けた意味不明の中東訪問=日本もテロに向き合っているという姿勢を見せたかっただけではないかと思う、で140億円を難民の支援でポンと出すと言ったので、金額が吊り上がったのだ。物理的に不可能な金額だから、ISも全額払うなどは初めから期待していないと思う。全額負担はあり得ないという事実をまず我々自身が認識する必要がある。もっと言えば決して払ってはならない。

日本の政府やメディアが大騒ぎしてくれればくれるほど、ISには宣伝になる。だから交渉が絶対に必要になる。まずISに交渉の場につくことを強く、それも安倍首相の口から呼び掛ける必要がある。安倍首相にしてもこれが万が一の時の保険になる。ただし遠吠えではダメで、ISに直接語り掛ける姿勢が必要だ。しかも人質を理由もなく殺めたら、米国に総攻撃の口実を与えることになる事を指摘したほうが良い。それくらいはISも分かっているはずだ。だから72時間の期限は延長される可能性が高い。宣伝が目的なら、交渉は長引くことになる。殺してしまえば元も子もないからだ。

記者は特ダネがあるという嘘に騙されてISの首都に入った。それは日本人の戦闘員がいるという情報だった。本人も覚悟して行っており、何があっても全ては自分の責任だと述べている映像が残されている。だからといって見殺しにして良いということにはならない。金儲けや、物見遊山で行った訳ではない。取材の自由は、言論の自由の前提でもある。

外国に仲介を頼んだら、どこの国でも同情はしてくれるでしょうが、できることは限られる。中では聖職者に頼むという選択肢が一番有効なのではないか。大事なことは、救出のために万全の努力をするということであって、それは決してテロに屈したことにはならない。体裁や口先でなく、どこまで真剣に事態に向き合うかなのだ。またそれしか問題解決の方法もないのである。もうひとつは武力による救出だが、自衛隊には訓練も実績も不足している。第一居場所が特定されていない。ISもそれは承知しているだろう。自衛隊の救出作戦は、最初からISの選択肢には入っていないと思われる。ただしそういう選択肢もあることを公表することは、交渉上、必ずしも不利ではないと思う。少なくも日本が事態を深刻に捉えていることは示せると思う。

ISは、米国がISに対する武力行使の予算を可決したこともあって、追い詰められてきている。金と人気の挽回の両方が必要になってきている。そこに飛んで火に入る夏の虫を演じたのが安倍首相である。念仏でも唱えるように、テロは許されない、平和的な解決を望むという説明だけ繰り返し、仮に悲劇的な結末にでもなれば、政権への信頼は根底から覆る。決まり文句を聞きたくないのは、ISだけではないのである。これが安倍政権と官邸の危機であることを理解した上で、根性を見せて頂きたい。何でも金さえばらまきゃいいだろという与党と官邸の姿勢が、今回の事態を招いたことについての反省が必要だ。だから戦争を可能にしろとか、集団的自衛権を認めろと言っているのではない。現政権に人間性が欠如していることが問題であって、いわば今回の問題の遠因もそこにある=ムスリムの気持ちも考えも理解していない、と申し上げたいのである。

追記:残念だが、ISの狂気は想像以上で、人質は惨殺された。

(追記2015/1/26)
湯川さんが殺害されたとの報道があった。でも殺される理由はない。麻生大臣は、身代金は払わないと言明したようだが、今はそれを言うタイミングではない。あらゆる選択肢を必死に探すべきであって、原則論で決めつければ問題が解決する訳ではない。相手が理不尽であり、犯罪者であることはとっくに分かっていることだ。お前たちが悪いのだから、人質を返すべきだといくら建前を繰り返しても、問題の現実的な解決にはならないのである。こちらが代案を持たなければ交渉はできない。苦しい状況の中でも何とか策を考えなければならない。その必死さが政府と外務省にあったのかどうか。確かに深夜まで大使館に詰めていたかもしれないが、それだけなら誰にでもできる。それより、最初から選択肢を絞っていたのではないか。即ち必死に交渉するつもりはなかったのでないかという疑念が拭い切れない。麻生大臣の不用意な発言がそれを暗示しているように思われる。麻生大臣は人質の家族の身になって考えたことがあるのだろうか。私なら、オバマに電話して、原則はわかるが、水面下で身代金の交渉をするので、見て見ぬふりをしてくれと頼む。なぜなら、国民を見殺しにするのは、為政者のすることではないからだ。犠牲者が出たから、今後米国と日本は一丸となってイスラム国と戦う。その大義名分が出来たとでも言いたいのだろうか。ますますテロとの戦いに決意を固めた悲劇の宰相というポーズを取りたいのだろうか。それより先に、殺された湯川さんのお父さんの所に自ら出向いて、お詫し、慰めるのが先決だろう。イスラム国となるべく戦闘はしないで、混乱を収める選択肢をなぜ考えようとしないのか。それこそが日本がとるべき、また世界が日本に期待する役割ではないのか。このままいけば、ベトナム戦争の二の舞だ。双方で犠牲者が増えるだけである。少なくも国民は平和的解決を求めるデモを実施すべきだ。これはもう対岸の火事ではない。威勢の良いことを言って、戦闘をあおる人間に限って、いざとなれば最初に逃げ出すものだ。それは歴史が証明している。ヨルダンとの交渉で後藤さんを無事奪還する。それしか政府が名誉を挽回する方法はいまのところ思いつかない。

更に追記1:二人の人質はすでに昨年から拉致されたことが政府にも分かっていたのに、今回の身代金要求まで、政府は何もしなかったと、朝日新聞の1/26のオピニオンで、中東の専門家常岡氏が述べている。誰がどのように判断し、どのような行動を取ったのか、特に外務省を中心に政府は情報を公開すべきである。と言ってもお得意の秘密保護法を楯にとって、絶対情報は出してこないだろう。安倍首相の努力のお蔭で、日本は民主主義とは真逆の国なろうとしている。

更に追記2:米国は反政府勢力との交渉なら仕方がないとまで譲歩したのに、安倍首相にはその意図は伝わらなかった。というよりはそれを無視したのである。


(追記2015/1/27)
日本政府は全面的にヨルダンに寄りかかるべきではない。それは解放への選択肢のひとつに過ぎないと考えるべきだ。このままで仮に不幸な結果になった時、それはヨルダンの判断の結果であって、日本は何も出来なかったと割り切るつもりなのだろうか。日本が対峙しているのは非道なISであって、ヨルダンではない。なんでもかでも、外国に寄りかかるという国のどこに美しさがあると言うのだろう。日本は直接ISに働きかけ、直接交渉の道を拓くべきなのだ。チャネルがなければネットで語りければ良い。自力で何とかするという発想はなぜ出てこないのか。昨年夏(!)の拉致以降の政府の対応に、私は真剣さを感じることが出来ない。本当に努力しているときには、力が足らず申し訳ないという答えが返ってくるはずなのだ。政府からは人質が無残に殺されたその哀悼の気持ちさえ、未だに十分には感じられない。怒りとは別に、悲しみの気持ちがなければ人間ではない。こうなってもなお、ご迷惑をお掛けしたと謝る犠牲者のけなげな父親がただただ気の毒である

(追記2015/2/1)
今朝の5時頃に後藤さんを殺害した画像が流された。安倍首相がテロ戦争に参加を決定したことが間違いだと名指しでメッセージを出した。しかも日本人を手当たり次第に殺すとも言っている。今回の人質殺害事件を、済んでしまったことは仕方がない、これからはテロとの戦いを一層強化するという単純な結論だけで片付けるのは危険である。なぜなら今までの政府の対処法では、同じことがまた起きる可能性があるからだ。

ISは安倍首相が悪いと言っているが、むろん悪いのはISだ。しかし、首相は今朝の記者会見で、テロリストを決して許さないと言い切ったが、それを今言うべき時期ではないだろう。ISは宣伝としてそういうリアクションを待っているのであって、興奮すればするほど相手の思うつぼなのだ。だから現段階で、ISが悪いのだから手段を選ばず殲滅すべし、復讐は果たされねばならないという方向に直接的に動くことも、また間違いなのである。ISの安倍首相への攻撃は確かに理不尽だが、それに刺激されて、日本を「積極的平和主義」の名目で巻き込むことは、最悪のシナリオである。

今首相が発言すべきは「悲劇が起きてしまいました。しかし今大事なことは我々が冷静さを失わずに、今何をすれば良いかを真剣に考えることです」という言葉なのだ。自分が興奮して(あるいはそういう演出をして)どうなるというのか。怒っているのは全国民なのである。いまさら首相が怒りを露わにしても仕方が無かろう。それに湯川さんも殺されている。いま大事なことは後藤さんと湯川さんの死を一国民の立場で共に悲しむこと、そしてISに両氏の遺体を丁重に日本側に返すことを強く要求することではないのか。

ISの残虐さと非道は徹底的に糾弾されなければならない。だからと言って、救出に苦慮したと自ら言っている政府の、信用し難い行動がすべて正当化されることになるとも思えない。未だに目的と時期の正当性が理解出来ない首相の中東欧州訪問の時には、すでに政府は後藤さん達がとらわれていることを知っており、しかも救出は全く進んでいなかった(救出が進んでいなかったことは首相自ら認めているし、作戦を実行する気があったのかどうかさえ疑わしい)のに、なぜ首相(作文は外務省)は、あえて訪欧で対テロ国家支援を口にしたのか。テロに立ち向かう国を支援するという行為は間違いではないが、それを敢えて文中で強調したのは何故か。だからこそ、身代金要求の後の首相の、人道支援のためだという説明には少なからぬ齟齬と違和感を感じるのだ。しかも身代金要求が捕虜交換に切り代わった後で、ヨルダンに人質解放の責任を負わせて、頼りきるという戦術が正しかったのかどうかという問題も残るのである。

見通しの甘さと、よく言えば国威発揚、悪く言えば特定の個人の存在感の宣伝のおかげで、死ななくてもいい人質が死んだのではないのか。絶対に政府も外務省も自分たちが間違っていたとは言わないだろうし、努力をしたと言うだろう。でもその努力なるものには、最初から限度が設けられていたのではないか。人命尊重のためにあらゆる選択肢を、必死になって検討したとは到底思えない。もしそうではないとおっしゃりたいのであれば、それを自ら詳細に説明して頂きたい。民主主義国日本の我々国民にはそれを伺う権利があるはずだ。とにかく解放されてほしいと全国民が願っていた人質が殺されたのだ。まずその事実から逃げずに、正面から向き合わなければおかしいだろう。

仮にの話だが、総論賛成(=国家を守る)、各論反対(=個々の国民を守るのは別の話)という欺瞞が日本の政治の特質だとすれば、これから日本がどうなるか、底知れぬ恐怖を感じる。重ねて言うが、政府は怒りを表明する前に、救出に失敗したという事実に向き合うべきだ。なぜ失敗したのかの反省が行われない、同じミスを将来繰り返すことになるからだ。

間違っても、これで日本人も対テロ戦争で、自らの血を流しました、身代金の要求には屈しませんでしたと、なかば自慢気にオバマに報告するなどという事があってはならないのである。今回の中東の財政的な「人道支援」も、首相がオバマを訪問する際の手土産のつもりだったのではないかと疑いたくなる。最後の最後まで平和的な解決を目指すという態度こそが、限りない軍事行動のエスカレートと、無用な人命の消耗戦に参加し、多数の一般市民の犠牲者を出さない為の唯一最善の方法なのだ。救出の望みもなく、テロの恐怖に最後まで耐えた後藤さんこそ、私たちのヒーローなのだ。国民栄誉賞に値する。

亡くなられた後藤さんも、決して日本とテロ集団が、終わりなき戦いに突入することなど、望んではいなかった。ご本人もシリアの国民を嫌わないでほしいと言っていた。今我々国民は、某政府がこれを好機のように考えて、軍事的(あるいは国防の名のもとに)暴走を始めないよう、厳重に監視する必要がある。それこそが後藤さんの死を無駄にしない方法なのである。

(追記2015/2/2)
イスラム国よ。我々は不幸なことに、国を正しく導く能力が充分とは思えないトップと、外交の何たるかを理解していない外交担当部門を抱えている。しかしそれは私たち自身の不幸であり、問題であって、イスラム国からとやかく言われる筋合いではない。もしイスラム国が、少なくも後藤さんだけでも解放していたら、多少の大義名分は残り、まだしも国民の中にはイスラム国の主張に、少しは耳を傾ける者もいたかもしれない。しかしその唯一の機会を、血に飢えた君たちは自分から投げ捨てた。君たちは、日本国民を次々に殺すと宣言し、脅した。でもその一言で、自らの不勉強さ、愚かさを世界に公表したも同然なのである。

金にならないと思ったので、宣伝材料として日本人ジャーナリストを殺した。そのどこに宗教的な正義が存在すると言うのか。そもそも君たちの中に、後藤さんのように死を覚悟して他のために身を投じるような人間がいるのだろうか。彼は銃さえ持っていなかった。卑劣な君たちは、素手で敵に向かう勇気さえないクズである。一般市民と言えども、むざむざと無抵抗で殺される人ばかりではない。中には武器をもって抵抗する者も出てくる。私はそういう人達を支援したい。そしていずれ今抑圧されている人たちも反旗を翻す時が来るに違いない。それは民衆を抑圧することなど出来ないことだからだ。イスラム国、そして独裁者たちの最大の敵は民衆そのもの、それも世界中の自由な市民が相手なのである。

見せしめで殺せば、日本国民がみな縮み上がるとでも思ったのなら、それは日本人の歴史を知らないということだ。日本は古くはモンゴル、最近では中国やロシアや米国など、イスラム国では到底歯が立たないような大国と戦火を交えた経験がある。実際に戦ったのは軍人で、しかも政府が自ら種をまいた場合もしばしばであったが、その戦いで勝利したこともある。少なくもそう簡単に屈する相手でないことだけは、ほかならぬ戦った国(それも大国)が一番良く知っている。だから日本を挑発し、敵に回すのはやめた方がいいのである。

首相は人命救出では派遣しなかったのに、今にもイスラム国と米国の戦いに自衛隊を投入せんばかりの勢いだ。ただし、はっきり言っておきたいが、それは国民の総意ではない。復讐が戦争のきっかけになってはならない。そうなると戦争に歯止めがなくなってしまう。空気に流され、やっちまえとこぶしを振り上げるのは、軍部が政治を支配していた第二次大戦前ならいざ知らず、今ではありえない。イスラム国が、日本国民にとって本当に迷惑なのは、深く考えず、しかも激しやすい首相を言葉で刺激(挑発)したことにある。これが大迷惑なのだ。安倍首相個人の価値観は、日本国民の意思ではないことをまずはっきりさせておきたい。

その上で、一国民というより、一市民として私は自分の考えを述べたい。しかもそれが、多くの人たちが理解してくれるであろうことを信じている。まずイスラム国の残虐非道さを非難する。かといって銃の脅しに屈する気は毛頭ない。黙って殺されるつもりも全くない。ついでに言えばそれはイスラム国に限らず、(自国の軍隊を含めて)あらゆる国の、武器と武力による服従の要求に屈しないということである。イスラム国は、平和を愛し、しかも容易に屈服することをこころよしとしない日本の国民全体を敵に回してしまったのであり、それに気が付かないほど愚かだということなのだ。それは安倍首相を名指しでなじることとは全く次元が異なる問題なのだ。首相はいずれ代わるし、またそうでなければ困るが、国民は日本国民であり続けることに変わりはない。日本の国民は今回のISの仕打ちを絶対に忘れない。だから政治家を相手にすることと、国民を相手にすることは全く違うのである。

朝生というTV番組で、イスラム国は若者の新興宗教のようなもので、容易に宗旨替えはしないだろうと言っていた。でも私の解釈は違う。一言でいえば、イスラム国では(しいたげられた)若者たちがうっぷんのはけ口として銃を振り回して殺傷を繰り返しているだけではないのか。私はそういううっぷんが積み重さなる背景には西欧文明、就中、資本主義の暴走があると考える者の一人ではあるが、一方でイスラム国の主張は、イスラム教でさえないと考える。我々日本人は、土着の、あるいは外来の、いわゆる新興宗教に何度も苦しめられてきた。サリン事件もそのひとつだ。特定の信仰が邪教だという判断根拠は、まず金が目的であること、またその使い方が私利私欲にあること、そして(特に他の)人間性と人権を無視・抑圧することである。そこには在来の普遍的な宗教が持つ自己犠牲の精神はない。もしイスラム国の主張が邪教でないというのなら、麻薬漬けにした若者や女子供の代わりに、屈強な指導者自らが体に爆弾を巻いてみよ。自分だけに都合のよい理屈をいくら振り回わしても、それは最終的には全員からそっぽを向かれる運命にあるのだ。

私たちは血で血に、銃で銃に対抗はしない。そうすれば、自分たちがイスラム国と同じレベルに下がってしまうからだ。我々がなすべきことは、まず今回の誘拐殺害事件が何故起きて、どうすれば防げたかを詳細に分析することだ。これは同種の事件を将来起こさないために必須の作業である。大戦の総括も出来ていない国でそれが出来るかどうかという問題は残るが、でもそれを避けて通るわけにはいかない。次に、イスラム国に対して、遺体と実行犯の身柄を日本に引き渡すよう強く要求したい。後者は国際法廷にかけるためである。
(後注:ジハードジョンは米国の空爆で死亡した)

一方で、在外邦人を保護するための最善の方策を講じるべきだと思う。各大使館には自衛隊の精鋭をそれぞれ何人か配置したい。世界は、残念ながら他人を信じて丸腰で歩き回っても安全な場所ではない。理念的理想論ではなく、現実的な立場で考えるべきなのである。テロリストにやすやすとビジネスマンやその家族が捕らえられるようでは、分かり切った危険になぜ準備しないのか、平和ボケかと世界中から非難されるだろう。いかなる問題でも、自分が当事者の立場で考えれば解はおのずと出てくるはずなのである。

ここで最も注意しなければならないことは、この事件を政府の軍備拡張、集団的自衛権の行使範囲の拡大の口実にさせてはならないということだ。盧溝橋の事件も、口実は戦争の抑制(!)と、国益の保護だった。我々は今回の事件で要求するのは、国益でも、それを守るための戦争でもなく、人権を自由を守る為の国際的な正義なのだ。このプロセスは現代の国際社会にあっては不可欠な手続きであって、その段階を飛ばそうとするから、私は自国の政府を信用できないのである。今のままなら首相の私闘で終わってしまいかねないし、ましてや仕返しなどであってはならないのだ。もう一つ大事なことは、私たちはアラブやイスラム教徒と対峙しているのではないということだ。むしろ国際テロをやめさせるためには、彼らの力を積極的に借りることが必要なのだ。そして言いたいのは、相手がイスラム国といえども殲滅することが目的であってはならないということだ。彼らに武器による支配とテロ行為をやめさせることが最終の目的なのだ。

それにしても彼らの資金はどこから来ているのだろう。まずはそれを絶ち、武器を与えないことが必要なのだ。弾丸が無ければ、銃だって役には立たない。それとも、そこでも、裏に大国の思惑が働いているとでもいうのだろうか。確かにテロ行為を非難しない大国があることは以前から気になっていることである。

本稿の最後に言いたいことは、いやな世の中になったものだということ以上に、その根底には格差の問題があるという事だ。即ち世界の平和を心から望むのであれが、格差を是正することに真剣に取り組む必要があるということなのである。それとも、日本の権力層は、今のままでいい、富裕層は私的な軍隊を雇えばいいという不毛な世界をお望みなのだろうか。

それから安倍首相は何より先に、直ちに自ら二人の遺族のもとに馳せ参じて弔辞を述べてほしいと思う。小心な首相にそれができるかどうか、少なからず心配であるが、真摯に解放の努力を続けたのであれば、遺族に恥じることなく、それができるはずである。

(追記2015/2/3)
官房長官の身代金は用意せずという発言には絶句させられた。よくもこういう時(国民が後藤さん達の死を嘆いている時)にそんな無神経な発言ができるものである。百歩譲っても、詳細は申し上げられないでいいではないか。なぜそこまで外国、特に米国に良い顔をすることだけを考えるのか。今回の発言がテロには屈しないという政府の強い姿勢を内外に示し、英米と歩調を合わせることになるとでも思ったのだろうか。今回の悲劇を政治宣伝(悪く言えば英米に媚を売る)に使おうという意図が、袈裟の下の鎧のように透けて見えてはいないだろうか。

以前から菅長官の血の通わない答弁には違和感を覚えてきた。この際だから、はっきり言わせて貰うが、官房長官としては、野田政権の藤村長官(ドラエモン氏)の方が人間的には遥かに上だったと思う。そもそも今回の日本政府の対応が万全かと言えば、とてもそうは思えない。昨年の誘拐からほぼ何もしていなかったことを、この発言も明確に裏付けていると思う。麻生大臣の発言こそ、政府の本音だったのだろう。即ち手を尽くしたという話とは完全に矛盾している。しいて言えば可能な手段だけを検討していたということではないか。しかもその可能性でさえ、自ら選択肢を狭めていたのだから、可能な手段はゼロに近く、結局それは何も検討していなかったのと同じことなのである。したことと言えば、外国に助けを求めたことだけではなかったか。

これまでの私の分析が、大筋で的外れではなかったことを喜ぶ気持ちには到底なれない。政府への失望あるのみである。大使館で徹夜して疲れたと言っていればそれで人質が返って来る訳ではない。きれいごとの国会答弁だけでなく、もっと真剣に個々の国民の命を考える習慣を身に着けて頂くわけにはいかないものか。首相より前に、官房長官の交代が必要かどうかはさておいても、少なくも、長官の答弁が安倍政権の印象を良くしているようには思えない。おそらく個人としては別の顔を持っておられるのかもしれないが、少なくも公人として考えた時に、この人に決定的に不足しているのは、聞く方(=国民)の身になって考える力です。まさに国民不在の安倍政治を代表する閣僚のように私には思えないのである。

イスラム国を責めたい気持ちはみな同じであろう。でも政府が救出に失敗したという言葉は、どこからも聞かれなかった。自分からそんな事は絶対に言わないにしても、メディアの本件の扱い方も判で押したようなものだった。関係者の心労まで否定するつもりはないにしても、沈痛な「面持ち」を百回繰り返すより、一粒の涙の方が説得力がある。後藤さんには渡航をやめるよう3回警告したなどと今更のように言われてもどうしようもないのである。それはもはや言い訳に過ぎないからだ。どこまで国民に寄り添えるかが問われているのである。私は今回の事件では、やはり敢えて政府に猛省を求めたい。

ところで、今世界で起きている紛争や事件を考えると、それはつまるところ、富む者と貧しいもの、支配する者とされる者、いわば二つの階級の間の闘争であって、そこに武器による殺戮が関与している構図のように思われる。タリバンを評して、突き詰めれば貧しい孤児だと言った専門家もいる。政府がどちらの側についているかはおそらく言うまでもないだろう。なぜなら首相はピケティの考え方を結果的に否定しているからだ。格差の存在を認めないのである。更には資本格差が、経済発展に必要だとまで言ったのである。テロとの戦いを宣言する前に、テロリストが生まれる背景を分析するという作業が欠かせないのに、安倍政権は英米の後追いに狂奔するばかりで、根本的な問題解決には関心がなさそうだ。そしてそれは、アプリオリ(無条件)に市場型経済、西欧型資本主義の信奉者(というより奴隷と言うべきかも)を目指しているからではないだろうか。

(追記2015/2/5)
参院予算委員会での人質事件の質疑は、細野議員の舌鋒鋭く、見ごたえのあるものだった。今回は大塚議員に始まり、民主党は善戦していると言って良いと思う。何より、国会で未だに民主主義が機能していることにほっとするものを感じた。また自分がいささか言い過ぎかと思いつつも、止むにやまれず、書き連ねてきたことが、一老人のたわごとではなかったことにも安堵した。毒舌の私だって、常に100%確信があって発言しているわけではないし、カンと経験と推測で判断することも多いのである。小さなヒントを積み上げて、その裏にある、真意やトレンドを判断しているのであって、大きな兆候なら、国民がすぐに気が付くのである。そういう兆候が出ないよう、見せないよう、政府もメディアも力を尽くしている。だからパーフェクトな裏付けを要求されても困ることがある。

一昨日の共産党の質問を聞きのがしたのは残念だった。首相をはじめ閣僚は型にはまった、無難な、しかし答にならない答を繰り返すのみだった。しかもしどろもどろだった。そういうつかみどころのない答からでも、ひとつはっきりしたことがある。昨年からイスラム国に人質が捕まっていたことを、選挙に気を取られていた首相が知っていたのかいなかったのかの押し問答で、その事実を曖昧にしようと頑張った挙句、首相が何と言ったかである。人質がイスラム国に捕えられていたことをはっきり認識したのは、1月20日に動画が流れた時だったと言ったのである。ならばそれまで政府としては対策の取りようがなかったはずであり、だからで官邸に対策本部を作って問題解決に努力していたという話は作り話だということになる。本気で救出する気はなかったということでもある。そこで、こういう時期にお願いしてはいけないことは分かりますが、亡くなられたお二人の遺族には、いずれ政府がどのように対応したのかを公表して頂きたいと思う。紳士的な人たちなので、決して政府の悪口は言わないと思うが、こういう危機に政府がどう動くかを知っておくことは、国民にとってとても大事なことなのである。

邦人が誘拐され身代金を要求されていたのに、これという関心を払わずに無意味な選挙に奔走していた政権の実像が浮かび上がったのである。人質救出で成果がなかった原因のひとつが政府の無作為だと私は断定して良いと思う。だからこそ、閣僚の哀悼の言葉もそらぞらしく響く。本当に後藤さん達の非業の死を悲しんでいるのは国民だけのようだ。今回もまた嘘つき内閣だったのだろうか。ほかにどんな嘘があるかとお尋ねか。最近では衆院選の目的があるではないか。

今いちばん危ないのは、首相の言動に触発された警察の動きである。今後、特にアラブ系の人たちの人権を無視した、手荒い捜査が始まる可能性がある。警察国家の再来の可能性である(後注:幸いこの予想は外れたようである、但しいまのところは)。アラブを擁護する者、ひいては少しでも政府の批判をする者に官憲の疑惑の目が向けられるだろう。私も自由な口がきけなくなるかもしれない。事実上の秘密警察が復活することになるかもしれないのである。すべての強引な施策や行政の行為が、対テロ戦の美名のもとに正当化されるだろう。安倍首相の国家主義が=人命救助さえする気がなかったのに、一層推し進められるだろう。ますます戦時中に似てきている。ただし今回弾圧する相手は朝鮮の人ではなく、仮想敵国も鬼畜米英ではない。でも危機感をあおって、紛争に国を引きずり込むという手法は全く同じである(後注:これはテロ対策ではなく、北朝鮮のミサイル発射の時に如何なく発揮された)。

首相からは、ついに、紛争を平和的に解決するという言葉は出なかった。しかしながら我々には首相の戦争ごっこに付き合う気も、その余裕もないのである。政府は人命の危機の時でも何もしてくれないことがはっきりしたので、自衛の手段を考えなければならなくなった。その中には外国に居住地を移すという選択もあるだろう。但し戦火の可能性が迫ってきた時に、最初に逃げ出すのは、経済的な余裕のある富裕層だろう。

しかしなぜ米軍は終戦時に軍需大臣だった岸元首相を獄に留め置かなかったのか。命を奪う必要はないが、戦犯であるという明白な評価が必要だったのではないか。そういう岸氏の怨念が日本を今現在、危険な方向に引きずっている。むろん今の米国には日本が隷属すれば大歓迎だろう。首相の右傾化傾向も。それが直接的に米国の利害に反しなければ見て見ぬふりをするに違いあるまい。彼らだって理念より自国の利益が大事なのだ。米国は憲法は作ってくれたが、そのたったひとつの間違いで、今やそれが体現してきた平和主義が水泡に帰そうとしているのである。

(追記2014/2/6)
NHKの2/5の朝7時のニュースで、イスラム国に拉致されている米国人ジャーナリストの両親が、政府に対して人質との交渉を絶対にしないという政府の方針に抗議しているという映像が紹介された。これは政権よりのNHKとしては快挙だと思う。安倍政権の対応が正しかったのか、朝日新聞も一面で分析を始めている(後注:結局この責任追及は途中で腰砕けで終わって現在に至っている)

ところで、また子供の殺傷事件である。私には犯人の気持ちが理解できない。最近では人を殺したいとずっと思っていたという女子学生もいた。かたや秋葉原の大量殺人の犯人には死刑の判決が確定した。裁判が長すぎたし、判決が出たから被害者が帰ってくるわけでもない。自殺したいのなら他人を巻き添えにするなと言いたい。刃物の規制には限界があると思うので、精神学会や宗教界が、この社会の病理現象に真剣に取り組む必要があると思う。(後注:本件については本巻初掲の、心の闇とどう向きあうのか、もご一読願いたい)

私は散々TVで聞かされたこともあって、最近では安倍首相が何をどういうか予め分かるようになった。独特の言い回しも含め、自分で答弁を作文できる。例えば、よく使う「理解を得るために丁寧な説明を続けたい」という言葉だが、その真意は残念ながら「分かって貰えるまで根気よく説明するので、それを聞いてほしい」というものではなくて、「もうやることが決まっているのに、グダグダ言うから、説明に余計な時間を掛かっているのだ。ありがたく思ってほしい」というものである。ゆえにTV報道で長々とした演説を拝聴する必要もない。予め答弁の中身が分かっているからだ。ところで首相がやけに熱心なテロとの戦いについてであるが、首相と私では見解が異なる。日本では何年も前から国内でテロ事件が多発しているのに、なぜか政府はそれを看過し、これという対策を講じてはこなかったと私は理解している。上記オピニオンの「心の闇」の章を参考にして頂きたいが、個人による無差別殺傷事件は、日本人の心の中の闇(悪魔、或は悪意、或は被害者意識)がなせる業である。自暴自棄と空疎な心が無抵抗の者に刃物を向けているのである。それは将来に希望が持てないからなのだ。人を傷つけることへの病的な関心があるのかもしれない。これらの犯罪は主義主張を通すための暴力や、金目当ての殺傷と異なるが、理性の歯止めがないという意味で一層始末が悪い。そこにはイスラム国に通じる狂気がある。しかし社会が作り出す暗部であるという意味では、共通するものがある。

ともに社会的背景、特に経済的な格差、貧困と教育機会の不均等という、社会的な悪循環が影響しているとみなすことが可能である。富裕層・高学歴層に肩入れしている政府は、その事実を見て見ぬふりらしい。日本国内でも、既に広義の意味でのテロなら始まっているのかもしれないのである。「世界第三次大戦」は、国同士ではなく、階級間の闘争という全く別の形を取ると思われるので、これはそう容易に決着はつかないだろう。即ち国同士の国際的な争ではなく、国内での内戦や内乱の形を取る事になるからである。しかもイスラム国を含む、過激派には失うものがないので、手段を選ばず、紛争の泥沼化が予想されるのである。

民主主義が原則の現代世界にあっては、選挙による平和的な政権移行が前提であって、革命で無関係な者の血を流す必要はないはずだ。しかし民主主義と選挙制度が正しく機能していればの話である。少数意見はもとより、多数の民意さえ反映されない、権力者のための国になっているという要素さえ考えられる。今のままでは、出来るだけ多くの人命の損傷を与えることだけが目的の、これ以上はないような不毛な消耗戦に突入する可能性が高い。これは世界規模でのベトナム戦争の再現なのだ。

仮にイスラム国を武力で制圧できたとしても、後に何が残るのか。虚しさだけではないか。そして格差という社会的な背景がそのままなら、また第二、第三のイスラム国が出てくるだけのことである。やっと翻訳が店頭に並び始めたピケティに関心が集まっているのにも、それなりの理由がある。その国民の気持ちを、安倍政権は理解しようとさえしていない。テロの背景を狂気だけで片付けてしまう、頭の構造のシンプルな日米のトップが、テロの真の原因から目を背けていることこそが、テロの真の原因なのである。

こういう時に重要な意味を持つ国連だが、「無能」な事務総長には何も期待できない。彼は韓国が世界にもたらした人的災害であると言って差し支えない。他には中国がWHOにもたらしたマーガレット・チャンがおり、フランスがIMFにもたらしたラガルドとその前任者がいる。いずれもそのポジションに必要な力量も信念も十分とは思えないような人たちであって、公的な使命感より個人の権威を優先する傾向がある(後注:ラガルドは再選に立候補している。まさに老害)。それらは一言で言えば、公的組織の権威主義と既得権、守旧の態度がもたらした世界レベルでの人災なのである。

(追記2015/2/7)
山本太郎が、テロ非難決議を退席し、それを民主党の議員が糾弾した。安倍政権のしていることがあるべきテロ対策だと言うのなら、私だって退席していただろう。表だって反対は出来ない、したくないとなれば退席するしかないではないか。今回の人質事件での安倍政権の対応は決してほめられたものではない。それは予算委員会の質疑を聞いているだけでも、誰にでも分るものだった。的確、或は正直とはかけ離れた、紋切り型で、答にならない答を何度も繰り返すだけだった。それは苦しい答弁の外務大臣でさえ、自分の言葉を信じていないことを暗示していた。

救出できなかったことに対する謝罪と後悔の言葉は一言もない。ひたすら加害者のイスラム国を非難、攻撃するだけだった。過ちは認めない、自分たちには全く責任がない、それでもタカ派で立ち向かう方針に間違いはなく、結果は仕方がないと言いたいようだった。でも政府の救出の努力が十分だったと思わない国民が多数いると思われる。米国でさえ、人質の解放の手段については批判の声があり、それを米国のメディアが取り上げている。ここが、民主主義とそれに基づく市民意識が確立し、ジャーナリズムがまともに機能している米国と、日本の大きな違いである。

安倍政権には犠牲者を悼む気持ちさえ十分にあるようには思えない。後藤さんの奥さんに、首相から弔問があったかと尋ねたドイツのジャーナリストがおり、それは無かったという答を聞いて絶句したという話が伝わっている。制止を振り切って渡航した方が悪いと高言することに抵抗感のない高村議員、身代金を払うつもりなど全くなかったと言った麻生議員。そうした首相、閣僚のどこに犠牲者を悼む気持ちがあるというのだろうか。ここではっきり言っておきたい。高村、麻生両氏の名前はすぐに忘れ去られるだろう。でも後藤さんとその平和への願いは、心ある国民の記憶として長く残るだろうという事だ。歴史がどちらが正しいかを証明するだろう。一方で、安倍首相はむしろ国民の記憶に長く残るに違いない。今後より一層極端な政治家が出て来ないとは断言できないにしても、民主主義とは対極の、専制政治を志した稀有な政治家としてである。

安倍政権が国会答弁で繰り返していた国と国民の安全という美辞麗句ではなく、実際に政府が何を考え、どう行動したかを正しく認識し評価する姿勢が、今の国民にとって、自分たちの生命と財産を守るためにも求められている。それとも今の政権のやり方に全面的に賛成し、同調しない者は皆国賊だとでも言うのだろうか。人質の誘拐に何の対応もせず、それも出来ないからではなくて、選挙を優先して放置しておきながら、いざ犠牲者が出れば、その機会を自分の価値観の都合のいいように、臆面もなく利用しようとしているとすれば、それこそが反国家的、反国民的行為ではないのか。そういう政権がテロ非難決議という、誰も反対できない形で、政府への同調を強要しているのだと考えられるのである。

平和主義を掲げる日本であればこそ、なぜ血を流さない形での紛争解決を志向しないのか。それが出来るのは日本だけなのだ。またそうすることが後藤さんの遺志にも沿うことになる。それなのに、なにがなんでも米国との共同軍事行動を前提にした政治の進め方こそ、間違っているのではないか。誰にも反対出来ないムードを作るというのは、衆院選での、消費増税延期と言う訳の分らない理由(廃止ではないのに)でも取った見え透いた戦術であり、そういう手段を何度も使うところに、政治の欺瞞を感じざるを得ないのである。

あくまで強気の姿勢でテロ掃討作戦に加わりたいのであれば、真剣に人質救出に努力すべきだったのではないか。本当に政府が全力を尽くしたと国民が納得していれば、その時こそ、多少強気の姿勢を取ったとしても、国民は理解するだろう。骨惜しみをしておいて、良いところだけ取ろうとするからうまくいかないのである。

行政官の中には、これまでの政治体制(民主党政権や、ねじれ体制)では何事も決まらず、廃案になる法案も多かったと、お嘆きの向きもあるだろう。だからと言って独裁体制を容認する方に安易に走るのはいかがなものか。それはワンマン企業では意思決定が速いというだけのことであって、その意思決定が正しいかどうかは、また別の問題だからだ。より冷静で正しい判断は合議制によるものであり、むしろその手続きを早める方法を考えることが先決なのだ。審議に時間が掛かり、政策の推進に抵抗があればあるほど、その政策の正当性が担保されることになる。すんなり通らないことこそが、民主主義が機能しているという保証なのだ。そこで体制は変えずに、いかに審議や議論を深く、しかも迅速にできるかを考えることが重要であって、安易に独裁体制を容認すれば将来に禍根を残すことになる。国民の無関心と政権への全権委任、そこから何が生じるかは戦前のドイツを見れば一目瞭然である。神でもない身で、全知全能の人間などはいないからである。

小沢一郎は今の議会を評して、大政翼賛会だと言った。大政翼賛会は戦争に突き進んだ時の日本の政治体制だったが、おそらく山本太郎を糾弾した議員は、その意味さえ分かっていないのではないか。どんなことにでも全員が賛成しなければならないのなら、それは議会政治でもなければ、民主主義でもない。予算委員会の民主党の議員の質問が、その半数は聞くだけ時間が無駄だったことも敢えて言っておきたい。このような不勉強な議員を飼っておく余裕が、日本にあるとは思えない。

(追記2014/2/8)
外務省による、記者の旅券取り上げは暴挙である。しかも問題のツケを国民に回すといういつものパターンでもある。今回の事件で、情報収集さえ出来なかった外務省が果たした役割は決してほめられたものではないのに、事件が起きたのは渡航者自身が悪いと言わんばかりである。また読売新聞に至っては世間が政府の対応を支持しているとまで公言している。でもそれは後藤さんの死を悼む、国民感情とはかけ離れた世論操作であり、読売独自の見解である。それは更にテロと対決してゆくという決議からさえかけ離れている。私は政府と外務省の、救出の努力が足りなかったことを批判しているのであって、渡航を止めなかったことを批判しているのではない。このようなこじつけの理由で、行政が平気で強権を使うことの方が遥かに問題は大きい。

細田派から派生した安倍支持派の議員数はいまや84名。3桁が目前。それが意味することの恐ろしさに、国民は一刻も早く気が付いてほしい。一党どころか、一人の独裁体制が急速に進んでいる。そういう政権が独断で決めた尺度に従う事だけしか認めないとなれば、もはやそこには民主主義が存在できる余地などない。基本的人権の抑圧の最初の一歩と言えないことさえない。それを一部の保守系、というより右傾化したメディア(産経、読売)が応援するという構図である。

反省も弔意もない政権と外務省の、問題のすり替えと、子供じみた開き直り。かくして日本全体が戦前と同じような、偏向した熱狂状態に突き進んでゆくのだろうか。 一方で、今回の渡航を黙認した結果、また人質に取られでもしたら外務省がボロクソに言われるのではという気持ちも理解できなくはない。ようは外務省の民主主義のとらえ方と価値観が、国民のそれと乖離しているところに問題があるのだ。自由や正義や人権のために命を賭すという気持ちや行為は、保守的な行政機関や、保守的なメディアには理解できないのかもしれない。

ついでに言えば、イスラム国に対する武力行使も、それが無関係な人命を救うためなら止むを得ないという面を全否定はしない。でもそれは今の自民党の翼賛議員のように、万歳するようなものであってはならない。必要最小限度で、しかも真に人命を救うために、やむを得ない時だけ、議会の承認の元で使うべき暴力装置であり、大っぴらに礼賛するようなものではないのである。

首相の言うように、人道主義を徹底していれば、ここまで問題は紛糾しなかったと思う。軍事活動の後方支援と言う「本音」を「オバマにアピールするために」漏らした。だからその瞬間に、政府の建前が一気に吹き飛んでしまったのだ。本音を漏らしたのは、状況判断さえ十分に出来ていなかった、或はしようとさえしなかった外務省の明らかなフライイングである。外務省が旅券取り上げのような過剰反応をするのも、そういう脛の傷があるからではないか。

(追記2014/2/9)
旅券返納しなければ逮捕。理不尽と強権発動。空港で出国を止めて、相手国に入国拒否を要請すれば済む話である。外務省は恥の上塗りになっていることにどうして気が付かないのか。こういう場合、私が記者なら旅券を返さずに、留置場に入り、弁護士を立てて国と争い、その経緯を全部公開するだろう。そうすれば政府と外務省が必死になって隠そうとしている今回の事件の真相も少しは見えてくるかもしれない。こういう書き方をすると、すぐに売国奴だとかテロ賛同者とかのレッテルを貼ろうとする者も出てきそうだ。そうなるとリベラル派を一緒くたにアカ呼ばわりしたマッカーシーと何ら変わるところがない。一言で言えば、それこそが戦前の日本のファシズムそのものなのである。

外務省が記者の命を守るというのは言い訳であって、後難を恐れただけであり、力づくで国民に言うことをきかせたかっただけではないのか。そこには外交の理念も哲学も感じられない。それに今のような、なしくずしと臭いものにふたの対応=自民党の常套手段、では来るべき問題に確たる対策を講じることが出来るとは到底思えないん。形だけの怒り(悲しみは最初からないに等しい)で、問題を客観的に分析し、かつその解決と防止策に冷静に、真剣に取り組んでいるようには(少なくも私には)思えない。今のままなら建前と総論だけで終わってしまう可能性が高いし、現に政府の関心はもはや別の方向に向いていて、この機会に乗じて憲法改悪などを目論んでいる始末である。

何故私が政府と安倍首相が人質解放に熱心でなかったと思うかというと、それは国会答弁で、政府が1月20日に初めてイスラム国が人質を取られていること認識し、しかも首相がヨルダン訪問時にそれを知っていたかどうかについて口を濁したからだ。さすがにそれを知っていながら刺激的な発言をしたとは考えたくないが、それが全く無いとも言い切れない。公的には絶対にそれを認めたくないという気持ちは分かる。なぜなら状況を知りつつ発言したとなれば、自分と国の発揚を優先して、自国民を見殺しにしたことになるからだ。その後、高村議員が事件は「政府の」制止を振り切って渡航した本人の蛮勇だ(だから政府に責任はない)という、遺族の気持ちを逆なでするような発言を唐突に行い、外務省が慌てて記者の旅券を取り上げたのも、同じ路線上の筋書きだろう。体制派の読売新聞が、この政府判断を持ち上げ、また取ってつけたような世論調査まで掲載した。さすがに保守系新聞の代表的存在に恥じない(従ってジャーナリズムとしては最低の)行為であった。いわばこれ以上はない子供じみた政官(および報道機関)の茶番劇が、今国民の眼前で繰り広げられているのである。

事実は、おそらく情報は閣僚も首相もつかんでいた。悪意の懈怠があったかどうかは分からないが、少なくも事態を重大視しておらず、等閑視していたことが最悪の事態を招いたというところではないか。事前から情報を得ていた当局は(それがどこか、誰かは分からない)、米国の方針もあるので身代金は払えないし、交渉していることも公に出来ないという押し問答を、どこかで繰り返していたのではないかと(個人的に)推測している。

私が自民党の閣僚なら、利用価値があるから当面従ってはいるが、なんて手のかかる首相だろうと思うに違いない。今回の事件では、心にもない発言をしなければならなかったように見える岸田大臣が、逆に気の毒に思えたほどだ。

そこでいまさらだが、安倍政権と与党に申し上げたい。軸足を権力層、富裕層から国民の側に踏みかえて頂きたいということだ。急に変更は出来ないし、その気も多分ないだろうから。ならばせめて片方の足くらい国民の側に置いてみてはどうか。いまのように両足ともに権力側に置いておくと、いざこけた時に助かりようがないですぞ。

今の日本の進む先にあるものは、格差が一層拡大し、少数の者が権力を握り、賄賂かごますりで権力にすり寄る者しか生き残れない、能力も金もない者は使い捨てにされる社会である。一般市民は労働力か兵士としてでしか生きる方法のない社会だ。そこには教育の機会均等さえない。それは中国と米国(と北朝鮮)の悪いところだけを集めたような国だ。資本主義の悪夢の世界が、ほかならぬ日本で実現されることを私は危惧しているのである。

そんな暗黒の社会が日本に到来しないように踏みとどまるためには、国民一人一人が意見を言う機会を持ち、その機会を活用するしかないのである。

(追記2014/2/10)
旅券返納の続きだが、どうも世間ではことの重大性が理解されていないようだ。外務省は一度振り上げた手は下ろさない。それが渡航者の為ではなく、自分可愛さのように思えるから、承服できないのだ。後藤さん達は自己責任だと言い切った以上は、今後も自己責任で行くべきだろう。しかも出入国管理段階で、渡航阻止の緻密で丁寧な対応をすれば済むことなのに、なぜそういうきめ細かい血の通った対応をしないのか。私も何十年となく旅券のお世話になってきたが、昔は北朝鮮を含む紛争国への渡航を禁止する記載があったことを覚えている。一方、記者は渡航禁止国への申請を出して断られたら、そこで諦めるべきなのである。何かあったら、国民がどう感じるかを何故想像できないのか。それでもなお密航してでも渡航してしまったら、その後は本当に自己責任だ。現地の大使館だって、渡航の事実も分からなければ手の打ちようがない。後藤さんの場合も渡航を三度止めたという。それが事実なら、渡航が阻止できなかったことで、国民は外務省を責めたりはしない。だから今回の事件も、止めたが渡航したという説明だけ十分であって、蛮勇だとなんだとか言うのは高村氏の余計な個人的な感想であり、しかもそれを言うべき状況でもない。その後の旅券没収騒ぎは、過剰反応というよりは、むしろ誤った反応だ。

この事件での国民の外務省への不満は、事件発生後の対応にある。情報収集にも、解放の努力にも熱心だったと思えないし、それは首相も同じだ。しかもイスラム国を刺激するような不用意(あるいは意図的)な演説まで用意した。そこにしかるべき外交のセンスがあるようには思えない。しかも悲劇的な結末以後の対応では、将来の誘拐防止の深慮も、これという工夫も見られない。そういう人たちに国の外交を委ねているのかと思うと不安でならない。

敢えて言えば、旅券の没収は問題のすり替えだ。国民から渡航の自由を取り上げるということが、どれほど重大なことか気が付いていない。それとも、それを承知の上で、何かと理由をつけて、自分の体裁や都合のために、不可侵であるべき人権に平気で手を伸ばしているのだろうか。万が一そうなら、重大な人権侵害であり、憲法違反だ。しかも一層危険なことは、安倍首相のこれまでに明確になった思考と行動のパターンから見て、これを前例として、政府が憲法無視の傾向をエスカレートさせる可能性が極めて高いということだ。

国民の安全のためなら何をしても、国家は許されると言いたいのだろうか。そこから国民の生命と財産を守るためなら戦争も辞さないという理屈は目と鼻の先にある。

とにかく今回の事件の政府と担当省庁の開き直りが諸悪の根源だ。取ってつけたような言い訳を繰り返すことで、自分がしたこと(というよりしなかったこと)への忸怩たる思いが手に取るように見えてくる。何故堂々と反省、謝罪しないのか。そうすれば一気に国民のわだかまりは解消する。嘘をついている、隠しているという思いが拭いきれないことこそが問題なのだ。米国への気配りを国民の生命より優先したとしか思えない。しかも未だ問題が終わった訳ではない。何度でも言うが、今回の事件で官邸と外務省は、事実と経緯の詳細を国民にはっきり説明する義務がある。早速予想通り秘密保護法を持ち出してきたが、秘密にすることは国益を害し、国民の不安と疑惑を増大させるだけなのだ。戦後70年も経つというのに、旧態依然のお上意識をふりかざし、民は恐れ入れば良いと言いたのか。

(追記2014/2/21)
人質事件はまだ終わっていないことが分かった。昨日の予算委員会で、辻元議員が、首相の年末年始の予定を公開した。連日ゴルフと観劇。これを見るだけでも、(夫妻の)人質事件への関心も緊張感もまるでなかったことが誰の目にも分かる。安倍氏の答はつかさつかさ(司々?)に任せている(確か竹下元首相が使った意味不明の言葉)ので、自分は重要な判断だけしている、だから身代金を払わないというのは自分の判断だと開き直った。ならばむしろ全部任せてしまったほうが、まだしも人質の命が助かるチャンスがあった。この機会を政治的に利用しようという損得勘定だけが働いて介入した結果、それまで進んでいた民間レベルの解放交渉を自分でぶち壊してしまった。無関心どころか妨害である。そういう価値観や政治姿勢のどこに、国民の命を心配する気持ちがあるというのか。デフレ脱却の後押しをしたという良いイメージが少しでも残っているうちに、早く退陣して欲しい。さもないと戦後最悪の首相のレッテルを付けたまま、悪名だけを後世に残すことになるだろう。今の安倍氏に最も欠けているものは、そのうわべだけの言葉とは裏腹に、平和と安全への強い願いなのだ。

ちなみに、その後でNHKの籾井会長が再登場したが、民主党議員からもっと速く歩いてくれという注文が出た時に、思わず甘利大臣が失笑するという場面もあった。籾井会長を選んだのは誰かという点と、解任の権利が経営委員会にあるという点を、経営委員長は懸命に逃げようとしていた。更に民主党の議員は、籾井の言動を一切報道しないNHKの報道姿勢も批判した。民主主義がこの国では行われていないことを示したのである。

(追記2015/2/22)
リビアでもイスラム国の連続爆破。テロに立ち向かうことが大事なのではなく、テロを直ちにやめさせることが一番大事なのだ。それが安倍首相やオバマの感覚では、ただやっちまえのように聞こえるのはなぜか。自分はひるんでいないと「後ろ」で虚勢を張っているだけなのか。本当に心ある人たち=例えば後藤さん、は最初からひるんでなどおらず、この事態を何とかしようと命を張って努力してきたのだ。金額の交渉の余地はないと日本政府もイスラム国も言っているが、交渉のテーブルに着かせるということはそれとは別の問題である。しかも金額は当初はそれほど多くはなかった。それを安倍首相と外務省が割り込み、しかも余計な宣言などの軽挙妄動で、金額を引き上げる結果となった。解放交渉の途中で、絶対に言ってはならないこと、身代金は絶対に払わない=払わせないと言ったのだから、意図的に見殺しにしたも同然なのにである。日本がなすべきことは、シリアで内戦状態にある双方が、相手の主張を聞く場を設けるよう、国連と米国に働きかけることだ。日本だけにそれが出来たのだ。しかもそれは未だに可能だと思う。そこから仕切りなおさないと、無差別な殺し合いという最悪の結果が際限なく続く。もし後藤さん達が解放されていたら、状態はここまで悪くなってはいなかっただろう。その後の数百人の無駄な犠牲もなかっただろう。官邸のスタッフには今世界で何が起きているのかが、実は全く理解できていないのではないか。この事件は、物事を深く考える習慣のない人たちを政治や権力の場に置くことが、どんな結果を招くかの悪しき実例なのかもしれない。



「21世紀の資本論」 2014/9/2-2015/2/22

トマ・ピケティの「21世紀の資本論」が評判を呼んでおり、「資本主義では資本が一部の手に集まる。しかもそれが相続されるので、格差は一層拡大する」という部分だけが一人歩きを始めている。でも700頁もある著書で、本当にそれだけしか述べていないのだろうか。翻訳が出るのはいつになるか分からない状況(後注:12/9に発行された。題名は21世紀の資本)だが、既に英文の要約版が何種類か出版されているので、その中から一冊を選んで通読した。その感想を述べたいと思う。

但し私の要約が正しいとは限らないので、関心のある方は下記の原典を参照願いたい(後注:原本の翻訳が出版され、ピケティの6回の講義が放映され、日本でも講演会が行われた)
“An Executive Summary of Thomas Piketty’s Capital in the Twenty-First Centuryから”

(以下引用)
・富(wealth)のソース(源)は二つである。一つは遺産相続で、もう一つは所得(income)である。所得は二つに分類される。労働によるものと、資本から得られるものである。それらは労働で得られる給与や賞与等の報酬と、資本から得られる賃貸料、配当、利息、収益、特許料などである。

・資本の一部は新規事業の為に使われる。故に資本は経済成長にとって重要な条件である。しかしながら、資本の集積が著しく高いレベルに達し、しかもそれが、より少数の手に集中することになれば、そこに深刻な格差が生じるのは避けがたいことである。

・1970-1980年代に、最も富が公平に分配されている先進国とされていた北欧でさえ、10%の富裕層が国家の富の50-60%を所有していた。2010年代に近づくにつれ、多くの欧州諸国では10%の富裕層が国の富の60%を所有している。衝撃的な事実は、これらの国々の半数の国民が、実質的に何も所有していないという点だ。50%の貧困層が所有するのは富の10%以下で、一般的に5%以下である。米国では富裕層が72%を所有し、貧困層は2%だ。

・労働には様々な職種があり、それぞれに給与体系は異なる。しかもその差は非常に大きい。給与の差の最も少ない北欧でさえ、10%の高額所得者が給与総額の20%を得ていた。欧州の先進国では、トップ層が25-30%、米国では35%である。そして大多数を占めるボトム層は、その日、その日を暮らしてゆけるだけの収入しか得られていない。その結果、資本に投資するような余裕など残ってはいない。だから人口の50%は、事実上何の資本も所有していない。

・資本に投じる金額が大きいほど、より多くの収益を上げることが容易になる。ここから格差が生まれる。最初に入手する資産は持ち家であろう。より多額の資金を持つ者は、不動産以外にも投資ができるようになる。本当の富は基本的に金融資産と事業資産であると、ピケティも述べている。即ち、金融資産の方が、不動産より利益率が高い。言い換えれば、資本に回せる金額が大きければ大きいほど、稼げる利益も大きいということだ。

・大きな金額を動かせれば動かせるほど、より有能な資産運用の専門家を雇うことができる。ポートフォリオの運用でも、規模の経済効果が期待できる。また余裕があればあるほど、リスクに耐えられる。こうしたメカニズムが自動的に、資本の分配における極端な相違を導く。

・第一次大戦後、英独仏米はかなりの増税を行い、しかも累進課税にした。所得税だけでなく、相続税も増税された。増税に加えて紙幣が増刷された。マネーサプライの増加がインフレを招いた。政府の借金は日々価値を下げる紙幣で返却された。政府はインフレの影響を緩和するために、不動産の賃貸料を抑制し始めた。これが不動産の価格の上昇を抑えた。

・1929年の株式の暴落で、多くの人が自由市場と、個人の資本所有制度に疑問を持ち始めた。その結果、先進国の政府は資本収益への課税を強化し、自由な市場を規制することとなった。また個人の資産を買い上げることにした。この3つの政策の中でも、米国では特に前二者の政策が採用された。欧州では後二者だった。この3つの政策の結果、個人資本の量と重要性が減っていったのである。

・両大戦間の期間は格差が大幅に減った。しかし平等な社会への、漸進的で摩擦の無い移行が実現した訳ではない。あったのは戦争であって、調和の取れた民主的な、あるいは経済的な理性ではなかった。大恐慌の前に資本は充分に集積度が高くなっていたので、個人資本はこの恐慌の影響を乗り切ることができた。

・しかしながら、トップ層の資本保有率は大幅な減少を余儀なくされ、仏では戦前に90%だったものが、第二次大戦後は60−70%になった。英国でも90%から60-65%になった。米国では80%が45%になった。富裕層が失った富の大部分は、新たに形成された中間層の手に渡った。それは所得階層の40%を占める中間の階層であって、そこに富裕層の富の10%が移動した。総人口の半数を占める貧困階層には渡らなかった。貧困階層が持つ富は全体の5%でしかない。中間層は人口のほぼ半数を占めており、彼らは資本の獲得に努め、その結果、実際に国の富の1/4から1/3を自らのものとする事になった。

・中間層が台頭した理由の一つは、旧来の富が削られて行く過程で、収入に占める労働の報酬の割合が増加した事である。最も富裕な階層でさえ、相続した遺産に依存するのを止めて、報酬の高い労働を目指した。更に累進課税が、戦後も継続され、しかも富裕層が払う税金で戦費を賄う必要がなくなったので、それを社会的サービス、即ち健康保険、教育、年金、失業保険などに当てるようになった。それらの追加的社会サービスは、紛れもなく、平均以下の所得の国民の生活を改善した。しかしながら、資本の再分配では中間層が有利だった。何故なら中間層の方が所得が多いからである。

・戦後の30年は特別な時期だったとピケティは述べている。欧州が米国に追いついて肩を並べた後、両者は共にグローバルな技術のフロンティアになった。そして発展の速度は比較的、遅いものとなった。これはフロンティア経済の特徴である。しかしながら、米国も欧州も、経済成長の鈍化を不可避なものとは考えずに、それが市場介入や、高い税率、業界の独占の結果であると言い始めた。

・製品とサービスの市場の自由化、金融市場の規制緩和と資本の移動の自由化は、世界中に影響を与えた。大恐慌の記憶は薄れた。1970年代のスタグレーションが、戦後のケインズ主義の限界を示すことになった。戦後の復興が終わり、経済成長が鈍化するにつれ、国の役割を無制限に拡大する事に疑問が投げかけられた。規制緩和の動きが始まった。

・市場の自由化に加え、米英は累進課税を切り下げた。一方で、仏と英は国有企業の民営化に舵を切った。市場の自由化と公共施設の売却は、民間資本を飛躍的に増大させた。累進課税が削減されたので、資本はトップ層に集中するようになった。それが1980年代に資本の配当と、格差を共に増大させることになった。加えて、米国を中心として給与の格差が顕著になり始めた。それが資本の保有における不公平を引き起した。資本はトップ層に集積されるという性質を持っているので、今後も資本保有の格差が増大を続けるだろう。これは、累進課税が強化されない限り、中間層が次第に蒸発することを意味している。

・給与における差と、資本の集積における差が正当化されたにしても、トップ層に資本が集中し、それが相続されることで、相続遺産が資本を支配し、結果的に社会を支配するようになることを考えれば、公平性が主要な問題になってくるのは当然の成り行きである。

・資本が富を作り出すので、政府は資本が国に流れ込むよう誘致する。その為には資本に掛かる税金を引き下げようとするだろう。資本が国境を越えて逃げ出さないようにするためにも、政府は資本にかける税金を下げざるを得ない。しかも資本収益に対して累進課税を適用しようとすれば、国際的な協力が不可欠となる。しかしどの国でも等しく資本の収益に累進課税を適用するのは難しい。ピケティも資本にグローバルな課税を行うのはユートピアの理想だと述べている。

・格差の拡大が引き起こす政治的緊張が、国を保護主義や資本管理や、国家主義に向かわせると、ピケティは指摘する。しかもそれらの政策が効果を上げることは滅多にない。逆に国内の不満を助長し、国際間の緊張を高める結果になると言う。多くの人々は、かつて所得税を拒否したように、資本税も拒否するだろう。しかし資本税の方が遙かに危険性は少ないのである。もし資本に国際的な課税が導入されたら、ピケティは各国の債務の返済に使われるべきだと言っている。

(引用終わり)

(以下、分析と感想)
この要約書がピケティの著作の趣旨を正しく反映しているとすれば、また私の引用が当を得ているとすれば、私の分析と感想は以下の通りである。

1.資本は詰まるところ、遺産か収益から生まれる。そこから生活費や居住用の不動産を除いた余剰分が資本として投資される。この場合の資本は、株券や債権、事業用資産である。ここまでは、少なくとも分かりやすい説明ではある。しかしこの本では資産(asset)という表現を取らないので、収入の余剰分即資本ということになってしまい、逆に分かり難い。ワンクッション置くべきだと思う。即ち事業用資産という見方だ。資本主義社会だから、資本(capital)を主役として論じているのだろうが、冒頭に資本とは何かをより具体的に示さない限り、読者は最後まで、資本のぼやっとした概念だけで終わってしまう恐れがある。

2.資本がごく一般的に、土地・金・設備のようなものだとすれば、それは確かに拡大再生産に不可欠なものだ。しかし資本家は単に利益を追求する為だけに、資本を投下する訳ではないというのも定説である。これは重要なポイントで、1%でも利益率が高い方が良いというのは、金融市場では言える事ではあっても、財やサービスの生産者という立場で考えた時、それだけで生産活動を説明できる訳ではない。生産者の社会的存在理由が説明されないと、実際の経済活動から理論が遊離することになる。

3.一番大きな問題は、格差が問題ではなく、正当化されるかどうかが問題だと原著者(もしくは上記の要約書の著者)が述べていても、何をもってそれを正当にするのかが明らかではないことだ。もっと言えば、どのくらいの格差なら、容認の範囲なのかが示されていない。

4.私は、著者が言うような正当化が問題ではなく、やはり格差そのものが問題だと考える。戦後の日本。焼け野原からの復興の時期。国民は全てを失い、等しく貧しく、しかも等しく懸命に復交に全力を尽くした。駐留軍が地主制度を廃止、農地を解放したことなどから、格差も減っていた。そこには国民の今のような不公平感はなかった。但しこれには占領軍の民主化政策が大きな役割を果たしていたと思う。ピケティの論法では、資本の持つ本来的な性質を、格差をもたらす避けがたいものとして、アプリオリに認めていると同時に、政府の政策、特に税制がこれをある程度コントロール出来るとしている。無論その論旨を受け入れないわけではないが、その他のファクターを全て省略する(或いは原典にはあるが、要約書では省略したのかも)のは無理があるのではないか。私は経済の専門家ではないが、ミクロとマクロの両面からのアプローチがやはり必要ではないかと思う。

5.とは言いつつも、ピケティの累進課税案は、やはりかなり有効な方法だろうと思う。何もしなければ、資本は一層蓄積し、また少数の個人に集中する。やがて、そのあまりの不均衡が取り返しのつかない事態を招く。だから今の内に何とかしなければ、平等などとほど遠い世界になってしまう。仮にそれが原典の趣旨であるならば、私には、それを否定する理由は今のところ見当たらないのである。

6.(この部分は後日加筆したもの)経済というシステムは人間が集団で生活をしてゆく上で、採取や生産、そして分配という作業を効率良く行う為に考え出された人為的なシステムだと考えられる。だから人類が死に絶えれば経済もなくなる。先に人間とその生活があって、それを支えるのが経済だから、人間が経済システムの欠陥で不利益や不幸を被ることがあれば、それは本末転倒ということになる。経済の為の経済ではない。そしてシステムを見直さなければならない。経済ありきではないのだ。上記の書物から、私は独自に現代資本主義の限界を感じた。現代経済の問題は、人間が作り出したシステムに人間が翻弄されているように思われる。なので、極端な表現だが、今の資本主義は、一度ご破算で願いましてをやる必要があると思う。

(追記2014/2/15)
Eテレの、トマ・ピケティの6回に及ぶ白熱教室が終わった。その最終回だけを取り上げる。まず発展途上国で貧富の差が大きいのは、資産の再配分が未だ安定していないからだと言っている。これは重要なことを示唆している。何故なら経済的な格差が大きいのは、税収のあり方と使い方が未熟だということを示しているからだ。その前提は、税金というシステムが、資産の再配分という大きな枠割を果たしている(果たすべきである)事を示している。安倍政権が飲むべき苦いクスリである。なお私は資産を所得と言い替えても意味は通じるように思うが、本稿では番組のオリジナリティーを尊重して、資産の再分配と言う言葉に統一している。

無論、税金の用途は福祉だけではなく、インフラもあれば各種の公共サービスもあるだろう。しかし年金や医療や教育という形で、資産の再配分が行われると理解すると、税金の持つべき意味が分かるように思う。更にそこでは、国と言う無機的な枠組みよりも、そこで暮らしている、また税金も納めている国民の存在が強く浮かび上がるのである。そして二言目には福祉の負担が大きくて大変だという自民党の言い分が、見当違いであることも分かってくる。

税金という仕組みが正常に機能することは、格差を解消するための大きな要素だということになる。米国で医療コストが増大しているという話題もある。しかしここで注意すべきは、医療サービスを受ける側の国民にとってサービスが増大しているからなのか、それともサービスを提供する側の収入が増えているからなのかに注意する必要があるということだ。また仏では高度な教育サービスを国が用意しているが、そのサービスを受けられるのは結局富裕層だとも述べている。それ以前の教育段階でしかるべき投資をしておかないと、そこまで行けないのだ。

税による格差減少の具体的な手段として累進課税があるが、その目的は税収を増やすことではなくて、経済的な格差が急激に上昇するのを避けるためだと述べている。ファミリーは代を重ねるごとに、相続で保有資産が増えてゆく。それが経済格差の大きな理由であって、それゆえに欧州では格差が広がってきた。今や歴史の浅い米国でもそれが起き始めていると言う。米国社会の特徴は労働収入の差が大きいことだ。しかし米国の企業の役員たちが、その巨額報酬に見合っただけの生産性向上を企業にもたらしているかどうかは疑問だと指摘している。



「白紙委任の怖さ」2014/10/2 (15/2/22訂正)

現代社会の問題点を端的に表現すれば、それは自ら考える事を放棄し、既成概念に疑問を懐くこと無く、規制の権威に全てお任せする人達が増えた事だ。それが政権が好き勝手に振る舞っていられる最大の理由である。権力の無制限な行使を肯定する人達の説明は、選挙で選ばれたのだから「当然」だというものだ。丸山真男に言わせれば、民主主義は既に存在しているものではなく、常に成すものである。白紙全権委任なら、それはもはや有権者によるいかなるチェックもない、完全無欠の「独裁政治」だ。独裁は、仮に為政者が善意の王様で、善政を心がけたにしても、必ず腐敗し、大勢の国民に迷惑を掛けた挙句、崩壊する運命にある。

現状を憂える人達の口先に出かかっているのに、それを飲み込んでいる言葉が、衆愚政治である。これは民主主義では絶対に口にしてはならない言葉だ。衆愚政治でも民主主義に違いないからだ。でも、本心では多くの人たちが衆愚だと感じており、しかも保守系の人達でさえそうなのである。

当面、自分の生活さえ守られれば、他人の不都合には目をつぶる。自分で考えたり、現状に疑問を懐いたりする事を、自ら放棄する。しかも保守系のメディアが、もっともな建前だけを報道し、真実や本当の意図を国民の眼から隠すことに、一役も二役も買っているとすれば、国民だけを責めるのは酷であろう。他人の苦労も不遇も、見て見ないふりさえをしていれば、実際にはないものと感じることが出来るからである。

想像力というのは、今他人に起きていることは、いずれ自分にも起きるかも知れないと考える事が出来る能力である。いかに自分がうまく社内や行政組織の中で立ち回り、社長や局長の覚えがめでたくても、今のポジションが将来も自分の為に確保される保証はない。引っ張ってくれる人が失脚すれば、明日は首になり、派遣で食って行くことになるかもしれない。来年は会社そのものがなくなるかもしれない。

現状肯定は楽ちんだ。時流に乗ってさえいれば心地良いし、反対する必要は愚か、積極的に賛成の手を挙げる必要さえない。反対しなければ、それは賛成票とみなされる。現状に逆らい始めると、疲れるし、友達はいなくなるし、経済的にも不利になる。それでも、たまには新聞が伝える世間の出来事や、政権の政策に、素朴な疑問を投げ掛けてみてはどうだろう。そういう時には、1-2年というような短期的な繁栄や目先の利益より、もっと長期の、出来れば人生全体の観点から、世間と自分を見直してみれば、今何をすれば良いのかが、もう少し明確に見えてくるだろう。

今の世相の特徴。それは他人に対する無関心、そしてその結果としての、自分の未来に関する無関心である。民主主義が既にあると思うのは幻想だ。今ここにある自分が、それを求め続けない限り、民主主義はいつでも国民の手からするりと逃げて行ってしまうのである。






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