「WTWオンラインエッセイ」
【第5巻内容】
「メディアは自粛するな」
「憲法について」
「経済と宇沢弘文」
「政治の暴走」
「メディアは自粛するな」2014/10/2 (2015/2/22改訂)
小学館が鳥取県にかつ枝さんのキャラで謝罪した。しかし小学館は謝罪すべきではない。誰のどんな意見を載せようとも、基本的にそれは表現と出版の自由である。言論の自由より、公共の利益を優先させようという動きが鮮明になりつつある。これはニューライトならぬ、ニューファシズムの台頭だ。自治体がキャラを使わないとした根拠自体、県民の立場というよりは、体裁だけを気にした判断のように思える。鳥取だけが戦中戦後、県民が惨めな思いをしなかったという訳でもないだろう。
かつ江さんを、鳥取が全国に発信することが、どれほど意味があるかを、何故理解しようとしないのだろう。私は最初にこの話を聞いた時に、こういうキャラにライトを当てる事が出来るとは、鳥取とはなんて懐の深い県だろうと思った。他の県では出来ないし、フナッシーのようなアホキャラを何百人集めてもなし得ないことだからだ。全国に平和を訴えるというキャラなんてそうざらにはない。誇りにしても良い事だと思う。
ところで漫画と言えば、福島原発をまじめな立場で取り上げた「美味しんぼ」がさんざん叩かれようだ。実態より風評被害を気にする人達が背後にいるようだ。そこでは論理のすり替えが行われた。原発の事故の原因となった設計や建造、立地のミスや、それを擁護してきた人達が悪いのではなく、自然災害で起きてしまったことは仕方が無い、むしろその後で、その事故を声高に言い立てる人達や、関係者を非難する人達の存在こそ問題だという立場だ。政府と東電の対策を、第三者が邪魔しないで欲しいと。でもそこは大きい者、強い者なら例え加害者であっても、逆らいたくないという思惑が感じられる。被害者は他ならぬ自分達なのに。追い込まれると、弱い人間は、不満の矛先を強い者には向けず、言いやすい人にぶつける傾向がある。情けないとしか言いようがない。いったいどちらが県民の本当の味方だと思っているのだろうか。
大きな権力が絡む事件を相手にする時は、被害者が加害者側に付くという場合を、予め想定した上で立ち向かわないと、助けるつもりが足を引っ張られるということになりかねない。今回の騒動は、政府と東電にとっては、願ってもないことだろう。県民自らが、原発批判の意見に反感を抱くという状況だからだ。それでも出版社は決して屈してはならない。完全に本末転倒であり、悪いのは批評する側ではなく、事故の原因を作った側なのだ。被害者は誰を責めるべきかの目標を見誤ってはならない。
今ほど秘密保護法が代表する、言論統制の傾向が明確になってきている時期はない。その具体的な現象が上記の二つの記事である。ここで巧妙なのは、言論統制が、メディアの自粛という形で現れている事なのだ。如何なる行政指導が行われているのか、部外者たる我々には知るよしもないが、少なくも為政者に都合の悪い情報が制限されていることくらいは、容易に推測できる。リベラルな論者の登壇回数も2−3年前に比べて格段に減っている。
(追記2014/12/1)
自民党が選挙の報道に介入している。萩生田議員が、報道の公平を指図した申し入れなどを出した。これは明白な報道の自由への干渉である。首相が不快感を示したら何でもその通りにしなければならないのか。これで秘密保護法の本音も知れようというものである。それにNHKは既に政権よりの報道ばかりくりかえしているではないか。萩生田議員は八王子市民の代表かもしれないが、日本の民主政治にとっては大きな汚点と言っても差し支えないと思う。
報道機関にも価値観と意見がある。NYタイムズは知事選や議会選で、支持者を決め、論戦を張っている。報道機関が自社の意見を持つのは自由だ。報道の自由がなくなったから、戦争も起きたのだ。
安倍首相が期待している意見ではなかったから、それは市民の声ではないと言いたいのだろう。もし安倍首相が自分への賛成意見を集めたいのであれば、財界に問えば良いのである。市井の国民に自分が広く支持されていると思い込みたい気持ちは分らないでもないが、実際はかなり不人気だという現実に直面して、自身が反省すべきなのに、意見を言う市民の方が悪いと言わんばかりだ。人の意見を聞く気はない、状況判断も自分では出来ない、そういう人だからこそ、数々の悪法も、何も考えずに決めてきたのではないか。
いま、矢内原事件を取り上げた中央公論社の「言論弾圧」という本を読んでいる。矢内原を始め、東大には錚々たる人材が揃っていた。日本思想史の中枢を占めるに足る人材で、その多くは政権を批判して排除された。彼らの理念や根性は、自民党の多くの政治家とは全く違う。何かと批判される東大だが、やはり知的水準で日本を代表し、思想を背負って立つだけの力があった。ここで言いたいのは、最低限度の知力と教養は、政治家といえども、いや政治家だからこそ必要だということなのだ。
ところで、11/28深夜のテレ朝の「朝まで生TV」(深夜なので録画で視聴)は、アベノミクスと総選挙の特集だった。維新の藤巻が経済で熱弁を振るっていた。ところでその冒頭、司会の田原が、自民党の萩生田議員がTV局にばらまいた、公平な報道要求の文書を取り上げて、朝生がかつて偏った対応をしたとその文書の中で書かれているが、そんな事はしていないと断言していた。出席した野党の議員は、言論の自由への介入であり、非常識で話にならないと口々に追求し、自民党の武見議員ですら、自民党は言論の自由を尊重していると言わざるを得なくなった。今や安倍晋三氏は、民主主義や議会政治とは異なる、自分だけの世界に住んでいる裸の王様のようである。
私が第一巻から読んでいる漫画「美味しんぼ」の最新刊が、昨年12月15日にやっと出た。その111巻からの紹介である。私は昨年の5月に、問題視された被爆と鼻血の関係を扱った週刊ビッグコミックスピリッツを買おうとしたのですが、既に売り切れだった。だから単行本になるのをずっと待っていたのである。
いつものように結論から言うと、日本の現状を心配する、心ある日本人はすべからくこの本を読むべきだ。実態は、我々がTVや新聞から受け取っている情報以上に深刻だとしか考えられない。
32頁…日本にはチェルノブイリと違って汚染図がない。だから復興計画も立てられない。
57頁…住民組織で汚染マップを作っているところがあるが、そうしなければならないのは、公的機関が積極的でないからだ。
73頁…5.2ミリシーベルトで立ち入り禁止なのに一般の基準が年間20ミリシーベルト(それまでは1ミリ)だなんて訳が分からない。
74頁…イランやインドで線量の高い地域に暮らしていても、発がんリスクが高くないから、基準値は問題でないという人がいるが、何故世界でも例外的な土地を引き合いに出してくるのか。何千年も住んでいる内に放射線に強い人達だけが生き延びた可能性だってあるだろう。
90頁…福島は小規模な核戦争のあった地域だと考えると分かりやすい。
92頁…ロシアでは旧冷戦時代に、核戦争や原発事故が起きたらどうすればよいかを学校で教えていた。中学2年の教科書では30頁もあった。その知識が福島で被災したロシア人教師の避難行動の役に立った。原発事故が起きたら、とにかく風から逃げろと教わった。
100頁…周囲の思惑を恐れ、空気の圧力に屈して言いたいことも言わない。それが日本人の本質なら悲しい。
103頁…2010年に文科省が配布した小学校用の副読本がある、それが「わくわく原子力ランド」で、中学校用は「チャレンジ、原子力ワールド」だった。
112頁…原発安全神話が壊れたから、今度は放射線安全神話をつくる気だ…。
(注:まさに丸川環境相のしていることがそれである)
261頁…震災前の政府に基準に従えば、住んではいけないところに多くの人が住んでいる。それが福島の真実です。
264頁…除染は危険だし、きりが無い。緊急避難的意味はあっても、福島をもとどおりにするのは難しい。
266頁…土地の復興が福島の復興ではない。
287頁の海原雄山の言葉…福島に住んでいる人達の心を傷つけるから、住むことの危険性については言葉を控えるのが良識とされる。だがそれは偽善だろう。低線量の放射線は安全性が保証出来ない。国と東電は福島の人達を安全な場所に移す義務がある。私は一人の人間として、福島の人達に、国と東電の保証のもとで、危ないところから逃げる勇気を持ってほしいと言いたいのだ。
論争が起き、結局小学館が膝を屈した(しかしこの単行本が出てくれた)鼻血の問題ですが、以下のように描かれている。即ち、実際に現場で働いた人に疲労感や鼻血の症状があった。専門家の見解では、それは被爆の影響だという。目や呼吸器の毛細血管細胞の80%は水分だが、その水の分子が放射線で分離されてOHやH2O2になる事が原因という診断だ。従って発がん性の問題とはまた別の、有害な影響もあるということになる。
福島の問題を取り上げるときに、いつも思い浮かぶ言葉がある。それはゴア元副大統領が言った、不都合な真実という言葉だ。日本の権力層、即ち政官財にとって、フクシマの存在こそが、いかに目を背けようとしても、眼前から絶対に消えてくれない、不都合な真実なのではないか。
「憲法について」 2014/10/29-2015/3/28
内田樹の「憲法の空語を充たすために」の前書きからのご紹介である。
…みなさん、こんにちは。内田樹です。
このブックレットは2014年5月3日の憲法記念日に神戸市で行われた兵庫県憲法会議主催の集会で行った講演に加筆したものです。
この講演のあと、予想通り、安倍晋三政権は閣議決定によって歴代政権が維持してきた「集団的自衛権は行使しない」という方針を転換し、海外派兵への道を開きました。日本の平和主義を放棄するという歴史的決断を首相個人の私的諮問機関からの答申を受けて、自公両党の与党協議による調停だけで下したのです。
国のかたちの根幹にかかわる政策の変更に立法府がまったく関与していない、つまり国民の意思が徴されないという異常な事態にもかかわらず、国民の側からはつよい拒否反応は見られません。讀賣新聞やNHKは内閣の方針に賛意をあきらかにしており、民主制を否定するような手続上の重大な瑕疵についても何も論評していません。
もちろん市民の側からは反対の意思表示がなされていますが、大手メディアの支援を受けた内閣が支持率40%台を維持している以上、市民の議会外からの批判が内閣の方針を動かすことは全く期待できないというのが現状です。
日本の民主制がこれほど脆弱であったこと、憲法がこれほど軽んじられていることに多くの人は驚倒しています。なぜ、日本の民主制はこれほど脆いのか、なぜ戦後70年にわたった日本の平和と繁栄を下支えしてきた憲法を人々はこれほど侮り、憎むのか。
私は護憲の立場にあるものとして、日本の民主制と憲法の本質的脆弱性について深く考えるべきときが来ていると考えています。私たちの国の民主制と平和憲法はこれほどまでに弱いものであった。わずか二回の選挙で連立与党が立法府の機能を事実上停止させ、行政府が決定した事項を「諮問」するだけの装置に変えてしまった。
立法府が機能不全に陥り、行政府が立法府の機能を代行する状態のことを「独裁」と言います。日本はいま民主制から独裁制に移行しつつある。有権者はそれをぼんやり見ている。ぼんやり見ているどころか、それを「好ましいことだ」と思っている人間が国民の半数近くに上っている。
独裁によって受益する見込みがある人たち(与党政治家、官僚、財界人)がこれを歓迎することは理解できます。でも、独裁によって受益する可能性がまったく見込めない有権者たちがそれでもなお独裁を歓迎するのはどのような根拠によるのか。ワイマール共和国の末期、ヒトラーへの全権委任についての国民投票では89.9%が賛成票を投じました。第三共和政の末期、フランスの国民議会議員の85%はペタン元帥への全権委任に賛成票を投じました。なぜ、ドイツやフランスの市民たちは自国を近い将来破滅に導く指導者にこれほどの権限を気前よく委譲したのか。これは久しく「歴史の問題」でした。歴史の専門家が考えればいいことであって、一般市民とはかかわりのないこと、遠いよその国でおきた「不可解な事件」でした。でも、今は違います。このまま進めば、いずれどこかの国の歴史の教科書に「このとき日本の有権者は国民の基本的人権を制約し、70年守ってきた平和主義を放棄しようとする政治勢力の独裁をなすところもなく傍観し、それどころか半数近くの国民はそれを歓迎したのである」と書かれることになるかもしれない。
でも、そのような切迫した危機感が日本国民にはまだ見ることができません。たぶんあまりにも長きにわたって平和と繁栄に慣れ切ってしまったためでしょう。「たいしたことは起こるはずがない」と高をくくっているのです。どうしてこれほど危機感が希薄なのか。それは国民のほとんどが「株式会社のサラリーマン」のものの見方を深く内面化してしまったせいだと私は思っています。なぜサラリーマンは独裁に違和感を持たないのか。その問いの答えは、株式会社の従業員たちが日頃慣れ親しみ、ついに骨の髄までしみ込んだ「有限責任」感覚のうちに求めることができるのではないか、というのが私のここでの仮説です。
…公務員には憲法九九条に規定された憲法尊重擁護義務が課されています。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と99条には明記されている。憲法遵守義務が課せられているのは公務員だけです。一般国民には憲法遵守義務は課せられていません。というのは、当たり前な話ですが、憲法を制定したのは日本国民であるということになっているからです。憲法を定めた日本国民が公務員に対して「憲法を守るように」と命じているわけです。その公務員が日本国民であるわれわれが開催した護憲集会について「政治的中立性がない」と判断したということは、理論的には公務員でありながら憲法尊重擁護義務を拒絶したということになる。これはよく考えると憲政史上の一大事件なわけです。
でも、問題はそのことにあるのではありません。これが公務員が公然と憲法尊重擁護義務を放棄したという政治史上の一大事件であるにもかかわらず、それがまったく問題になっていないこと、それが問題なのです。
それほどまでに憲法が軽んじられているのです。憲法がこれほど軽んじられていることに日本国民がさしたる危機感を覚えていない。僕はそこに憲法をめぐる最大の問題があると思っています…。
(追記2014/12/19)
私はことあるごとに安倍首相に苦言を呈してきた。個人攻撃は、ネットで情報を発信し、意見を述べようとする者にとって、いや全ての発言者が慎まなければならない行為である。根拠のない誹謗中傷をしてはならない。一方で政治家や有名人は、一般人よりも多くの、或いは強い批判にさらされることを覚悟しなければならない。それは知名度が高いからであり、公人という要素を強く持ち、さらには政治家については、国民の一人一人が注文をつけ、あるいは意見を言っても良い相手であるからだ。国民の意見を聞くことが、重要な仕事の一部なのだ。大勢を相手にするという意味で、著名人も同じ立場にある。一方で評価し、意見を言う側の民衆にも、最低限、守らなければならないマナーがある。罵倒を浴びせれば、その場の自分の気持ちは晴れるかもしれないが、相手は傷つくだけで恨みだけが残る。一層自分の殻に閉じこもろうとする。その結果相互理解が遠のくのである。誹謗中傷は根拠がないだけでなく、問題解決の手段にもならないのだ。議論を通じて、理を尽くして説得し、少しでも今の態度を変えて貰う。それが民主主義の基本なのだ。だから銃と権力で有無を言わさずに政治権力に従わせ、一切の批判を許さない近隣諸国や、ISは民主主義とは対極にある。そういう国に、いま日本も向かおうとしている。だから私は強く安倍政権に抵抗しているのである。
一方で安部首相は私利私欲の為に動いているようには見えない。日本という国家の為に必要なことだという信念の下に行動しているように見える。しかしまだしも私利私欲の為に動いてくれた方が国民にとっては害が少ないのだ。かつて手塚治虫が、初期の作品の中で言った言葉がある。それは『間違った正義ほど恐ろしいものはない』という言葉だ。それはISを見ていれば分かる。彼らの場合そこに私利私欲までついてくるので、一層厄介だ。安部首相の場合、私利私欲はないにしても、自分の理想を実現したいという強い野心がある。その気持ちまで否定はできない。人間は皆そうだからだ。しかし安倍首相の場合は、重大な問題が二つある。
一つは表現のすり替えだ。自分の本音を率直に言えば国民は強く反発するだろう。だから表現をマイルドにどころか、むしろ本音とは180度違う言葉で説明する。いわば自分に都合の良い表現で装飾し、論理をすり替えている。それはその言葉に『嘘』が混じっているという事を意味している。嘘をつく人をどうして信用出来ようか。なぜその発言が本音でないと言えるのか。それはごく稀ではあるが、官邸の目の届かない場所で、うっかり彼が漏らした言葉が、メディアで取り上げられることがあるからだ。制約のない場所で言う言葉の方が本音により近いと思うのは当然だ。公の場で語る言葉の方が、慎重に寝られているのも、また当然だろう。かつて些細な言葉尻を捕らえられて、辞任に追い込まれた政治家が大勢いた。その誰よりも過激なことを述べながら、何故か首相は今の地位を維持している。それは日本の政治システムのどこかが間違っているのではないかと思わせるに十分である。かたや、そこには権力層に留まらず、一般の国民にとっても、一種の打算が働いていることも考えられる。安倍首相に国家主義の超保守の思想傾向があることは否定できないにしても、今のところ他に選択肢がないからしようがないという一般民衆の空気がそれである。それは読売の世論調査の結果が、数字で示している通りだ。即ち消去法で選択された結果が今の政権だということになる。
もう一つはより重要で、政治家の資質として決定的な欠陥である。それは彼の視点から政治家として最も重要な視点が欠落していることだ。少数意見どころか、『大多数の』国民の意見すら耳を傾けようとしない姿勢のことである。特に最近では、少しでも批判されると、直ぐにキレルようになってきた。人間は楯突くとまずい相手には滅多に切れたりしない。という事は、安倍首相は、国民は自分がキレても良い相手だと思っているということになる。かつてこれほどまでに自分の価値観に固執し、それを押し通そうとし、そしてそのためには手段さえ選ばなかった首相がいただろうか。仮に政権の中央にあって、民意を一顧だにしない、理解力、判断力、寛容さ、特に共感力と忍耐力に疑念を抱かざるを得ないような人物が絶大な権力を振るっているとしたら、誰しも背筋に寒いものを覚えるのではなかろうか。
そういう独裁政治から国民が身を守る為に、三権分立がある。衆院で与党が2/3を占めるに至った、今回の選挙は自民圧勝というより、野党が議席を失ったという見方が正しい。国民が自民党を熱烈歓迎しているかのような表現をするメディアにも問題がある。小沢が言う、大政翼賛会だ。そういう歪んだ政治体制で、国民が最後に頼るのは憲法をバックボーンにした司法の力しかない。憲法で身を守るしかないのである。その憲法を自民党は意のままにしようとしている。いま国民が声を上げなければ、権力層が後押しする、この動きを押しとどめることはできない。しかも、私がこのサイトを立ち上げた目的、即ち日本のメディアを鵜呑みにしてはならない、即ち日本のジャーナリズムには遅れた側面があるという問題がある。日本のメディアは必ずしも民主主義の擁護者ではないのだ。選挙報道で分かるように、いともあっさりと政権にすり寄る。或いは政府の意向に従う。なぜならそれは彼らがジャーナリストである前にサラリーマンであるからだ。でも彼らはそこで既に矛盾している。なぜなら新聞を全部政府が買い上げている訳ではなく、読者は国民だからである。新聞社の経営に影響があるのは顧客だけではないだろう。広告を掲載する企業もあるからだ。でも一番大事な顧客=国民を置き忘れて、政府の意向で右往左往している。言いたいことは、マスコミはあてにならない、だから国民は自分の身は自分で守らなければならないということなのだ。
今日は立憲デモクラシーの会の『私たちは政治の暴走を許すのか』という小冊子の一部を紹介したい。この小冊子は、内田樹も重視している。今回はその前書き部分である。
安倍晋三首相は、戦後日本の民主主義と平和主義を転換することを最大のテーマとして、2012年末に政権に復帰して以来、さまざまな試みを繰り返してきた。最初の動きは、2013年の春ににわかに議論された、改正手続きを定めた意法九六条の改正であった。衆参両院のそれぞれでの三分の二以上の多数によって改憲を発議するという現在の手続きを改めて、単純過半数によって発議できるようにするという提案であった。安倍首相は、民意を直接、憲法改正に反映させることが必要だと主張した。
これに対して、立憲政治への挑戦に危機感を持つ憲法学者、政治学者が集まって、「九六条の会」が結成された。そして、単純過半数による改憲発議が、民意の伸張ではなく、憲法秩序の破壊につながりかねない危険性を持つことを論じた。この議論は世論を喚起し、九六条改正は憲法改正に向けた「裏口入学」だという認識が広がった。こうして、安倍肯相は九六条改正を断念するに至った。
2014年に入ると、安倍首相は憲法九条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にしたいという意欲を明らかにした。他国への攻撃を自国に対する攻撃とみなして被攻撃国とともにこれに反撃するという集団的自衛権の行使は、従来憲法九条の下で行使できないという見解を歴代の政府は固持してきた。安部首相は閣議決定によってこの憲法解釈を変更するという方向を明らかにした。
集団的自衛権の行使容認は、事実上の憲法改正に等しい重大な政策転換である。…「九六条の会」を担った学者を中心に、人文科学、自然科学の学者を広く集めて、閣議決定による憲法解釈変更に反対する「立憲デモクラシーの会」が結成された。…立憲主義とは形式的には憲法にのっとって政治を動かすという原理を意味する。実質的には、単純な多数決による支配を抑制することこそ、立憲主義の要諦である。民主政治では、治者と被治者の一致が理想とされる。被治者の意思を表現する際には、被治者が多様であり、意見が食い違う以上、多数決原理が不可避となる。しかし、民主政治は単なる多数決による支配とは異なる。多数者の意思は、しばしば感情や偏見によって動かされ、多様性や寛容など民主政治の基礎となる価値を破壊することがある。その実例は、ドイツにおけるナチスの支配やアメリカにおけるマッカーシズムなど、歴史上多数存在する。
民主政治(デモクラシー)が健全に作用するためには、多数の意思を吟味する仕組みを組み込むことが不可欠である。立憲主義とは、多数者といえども侵害できない価値や領域を確定し、それらを取り扱う際に厳格な手続きを規定するという政治体制の原理である。多数者の意思によってデモクラシーが破壊されることを防ぐために、立憲主義とデモクラシーが結びつくことが必要なのである…。
(追記2014/12/20)
自分の意見を(しかもほぼ同じ内容を)いくら声高に言い立ててみても、ああ、またあいつが同じようなことをほざいているのかで、終わってしまうことだろう。また情報発信を、メルマガのプッシュ型から、サイト閲覧のプル型に変更してからは、とりわけ保守的な思考傾向の読者には、私の意見はほぼ全く伝わっていないと思う。また数少ない理解者は、逆にそんなことはもう分かっていると仰るかもしれない。
それでもWTWが指摘しなければならない、日本を動かしているトレンドとして否定出来ないことは、政府による言論統制の影である。リベラルなメディアに偏向というレッテルを貼る動きがあり(以前は偏向と言えば右傾化のことだった。なんという様変わりである事か)、より強いイメージのある国家主義と全体主義への意識の流れが実在しており、それが安倍晋三氏個人の特異な見方に留まるものとは到底思えないところに現代の不気味さがある。安部首相を支持する政官財の存在も大きい。彼らは、景気と引き替えに、安倍首相の個人的嗜好を容認した。それは是々非々の姿勢とは異なる。経済を活性化してくれたので、ご褒美に坊やに玩具の戦車を買ってあげたようなものなのだ。しかhし本当は戦車ではなく消防車(防災)かクレーン車(産業振興)の方がましだったのだ。
言い方を変えれば、安倍政権を積極支持はしないまでも、暴走を大目に見るというムードが政官財にある。苦言を一切言わないことでもそれは明らかだ。昔は経団連ですらもっと理念というものを持っていた。311の時に、血の通ったことをしたようには思えない米倉会長以降の経団連は、理念なき圧力団体になり下がったのではないか。奥田、御手洗の時代とは雲泥の差である。こういう政官財の、利益最優先で自己中の風潮が、いかに大変な結果を招くのかを、世間は全く理解していないように思われる。その上、警鐘を鳴らすことが本来の仕事である日本のメディアの大半が、本来の機能を放棄し、政府の機関紙に成り下がったかの観さえある。
安倍政権という御神輿を担いでいるのが、国の中枢を担う政官財なのだから、国民も大変である。ムードに押し流されて、面倒だから委細お任せになってしまったら、近い将来、こんなはずではなかったのにと(多分その時は政官財でさえも)後悔することは今更のようにWTWが予言するまでもない。そういう誰も納得しない極限の状況を回避するためには、国民の一人一人が自分自身の確固とした考えを身につける必要がある。その大前提が勉強、というより現状の理解だ。今更のように、小難しい本を沢山読まなきゃいかんと言っているわけではない。まずは朝日新聞のコラムでもいいから、政府とは違う見方があることを読み取って欲しい。安倍晋三氏の見方は決して唯一絶対ではなく、事実多数でさえない。私は世の中にはもっとリベラルな考えを持つ人が大勢いるということを紹介することで、日本が反省のない国家主義の国に逆戻りするのではなく、これまでの平和への努力の積み重ねの上に立って、むしろさらに前進して、個人の権利と自由が保障される、本当の民主主義の国に近づくことを願っているのである。それが私という個人の、民主主義の為の戦い方なのだ。
国民を取り巻く環境は厳しく、一刻の猶予もない。しかも国民は生きてゆくために必死で、気持ちにも時間にも余裕がない。そういう時に、『私達は政治の暴走を許すのか』という小冊子は、分かりやすく、論理的な説明で状況を理解でき、しかも本棚の邪魔にもならないと思う。
今回はその中から、名大の愛敬(あいきょう)教授の論文の一部をご紹介する。
…立憲主義という政治原理の淵源は、中世ヨーロッパの教会統治理論に求められるとの理解があることも承知している。ともあれ、確認しておくべき点は次の二点である。
第一に、中世立憲主義であれ、近代立憲主義であれ、立憲主義という政治原理の核心は「権力の制約」であること、第二に、立憲主義を「人類普遍の原理」として憲法の不可欠の構成要素としたのは、市民革命を経て形成された近代民主主義国家であったことである。第二の点について、フランス人権宣言が、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と定めていたことが有名である。
もちろん、「権力の制約」といっても、まだ多義性は残る。たとえば戦前、美濃部達吉が立憲主義を論じたとき、彼の念頭にあったのは、議会・立法による行政権の統制という問題であった。しかし、第二次世界大戦後、とりわけ1989年以降の東欧の体制変革以降、グローバルなレベルで立憲主義に関するある種の共通理解が成立しつつある。「人権価値の擁護を眼目とし、硬性憲法による立法権への拘束を裁判的方法によって確保する」という共通の方向性である。すなわち、民衆の支配、多数者支配としての民主主義によって正当化される政治権力であっても、法的・制度的に制限されなければならないという考え方である。
…聴衆を前にして講演をする際、私の最初の発言は決まって、次のようなものである。
「私は憲法を論じるにあたり、次のことを自明の前提としています。私たちの社会は、スターリン体制下のソ連やフセイン政権下のイラク、あるいは、金一族が支配する北朝鮮とは、根本的に異なる政治原理に基づいているということです」。ここでの「自明の前提」とは、立憲デモクラシーのことである。 どのような社会が立憲デモクラシーを必要とするのかを考えるうえで、憲法学者の長谷部恭男の議論を参照するのが有用である。長谷部によれば、「立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念である」…。長谷部の定義から、立憲主義を必要とする社会には、次の二つの前提条件があることがわかる。第一に、価値観を異にする諸個人が存在することである。第二に、それにもかかわらず、彼らが共に生きることに利益を感じて、共に生きる覚悟をしていることである…。
(追記2015/1/31)
私は今、語り部になれればいいがと願っている。本来ならこういうテーマに関する語り部は、実際に戦争を経験した人たちにこそふさわしい仕事なのだが、いかんせん経験者の高齢化が進んでおり、次々に鬼籍に入られている。でも誰かが、次の世代に戦争の悲惨さを語り継がなければならない。しかも欧米ではどうなっているのか知らないが、少なくも日本では政治や行政機関から独立した形で、戦争の記憶が継承されているシステムが存在しているようには思えない。大阪の記念館でさえ、右傾化で展示が変えられようとしている。
私は昭和20年、終戦の年に生まれた。だから当然戦争の記憶はない。いわゆる満州からの引揚者で、父親が日本でゼロから出発し、一サラリーマンとして、家族を養い、私を育ててくれた。だから戦後の貧しさはを肌で知っている。しかも重要なことは、当時の日本人の貧しさは、戦争の直接の結果だったということだ。なぜそう断言できるのかというと、私の祖父は満鉄の要職に在り、当時は苦労のない生活をしていたからである。そして我が一族は敗戦で全てを失ったのである。
両親や祖母が、繰り返して言っていたこと。それは戦争だけは二度とごめんだという言葉だった。私はその言葉を後世に伝えることが、親の恩に報いる道だと思っている。またそれは、自分の子供や孫たちに、理不尽で悲惨な思いをさせない点にも、必要なことだと信じている。
今の40-50代の人たちは、幼いころに高度成長期が始まっているので、私たち及び私たちの親の世代が経験したような生活の苦労というものには縁がないだろう。それこそ三丁目の夕日のような生活の記憶もないに違いない。そういう世代が今の日本をどう考えているのだろうか。今の日本は中韓が理不尽な振る舞いをし、侮辱的な発言をしても、なにも言い返せない国であり、言いたいことも言えない萎縮した国のように思っているのではないだろうか。即ち世界の大国であるにも関わらず、それにふさわしい影響力を持っていない国。それは軍事力の背景が足りないからだと。また日本をここまで発展させたのは、日本人の勤勉さと、米国型の資本主義のお蔭であって、いまそれを変える必要がどこにあるのかとも。
私が語り部になりたいと言うのは、この戦中派世代と、戦後の繁栄しか知らないポスト戦後派世代の間に立って、政権の都合による一方的な変更や、閣議決定のような都合のいい解釈から独立した、市民から見た日本の現代史を、切れ目なく紡いでゆく必要性を感じるからである。
今回の私の教科書は岩波ブックレットの664番、井上ひさし、梅原猛、大江健三郎らによる、「憲法9条、未来をひらく」である。この本は、同じシリーズの「私たちは政治の暴走を許すのか」とともに、国民が一度は目を通すべき書物だと思う。
なお紹介に入る前に一言だけ付け加えると、この本は左翼的、教条主義的な本ではない。9条を守るべきだという結論は同じでも、その理由は千差万別だ。中には戦争行為を否定しない意見さえある。心にとめておいて頂きたいことは、意見の多様性が、ここでは担保されているということだ。それに比べ、9条を否定し、改憲を叫ぶ人たちの論法のなんと貧しく、偏狭なことか。リベラルということは多様性も保証しているのだ。他を認めるのがリベラル、自分と違う意見は一切認めないのが、国家主義の人たちと言ったら言い過ぎだろうか。
本書は薄い本だが、その全文を紹介するスペースはない。そこでいつものように、自分が気になった部分だけの紹介となる。なので、これも毎回申し上げているように、どうか機会を見て、本書を直接読んで頂くことを、強くお勧めする次第である。
私が自ら語り部になりたいという理由がもう一つある。それは、いまの若者が本も新聞も読まなくなり、情報の大部分をネットに依存しているという話を聞いているからだ。WTWもスマホでご覧頂ける。そして私にはネットで情報発信を続けてきた40年の経験がある。
ここで最も大事なことは、戦争体験者の80-90代の人たちと、40-50代の(いわば若い世代)との中間に位置する世代の私たち(60-70代)がしなければならないことは、若い人たちが理解しやすいような形で、先輩たちの気持ちを伝えることだということである。いうなれば意識の翻訳の作業だ。それこそが両世代の考え方の相違を理解できる、私たちでなければできないことであって、架け橋の役割なのだ。Bridge over the troubled waterという歌がありますが、Bridge over the generationsこそが私たちの使命なのである。
【三木睦子】
…三木睦子でございます。もう今年88歳のおばあさんでございまして、9人で始めた九条の会でも最年長者でございます。九人が九人とも、一所懸命、必死になって、日本の平和のために働いてきました。そしていままさにその平和の根幹にかかわる憲法九条の問題がもちあがってきて、これは何とかせねばならない、と燃えたぎる心の中の血を、文字通り燃え立たせているわけでございます。
…皆さん一所懸命、日本の国のために、平和のために、そして自分たちの子どもや孫や曾孫のために日本を平和にしていかなければいけない、そう思って集まってきてくだすったのでございましょう。私のようなおばあさんにしてみると、こんなに若い方たちが大勢、私どものような年寄りの言うことも、ちょっとは聞く耳を持とうと考えていてくださるということだけでも、嬉しいことでございます。
戦争を経てきた私どもにしてみれば、どうしても戦争を知らない若い人たちに、何とかして、そのことを伝えたいのです。怖い思いをしないで、世界中平和に暮らしていこうじゃないかということを、皆さんに申し上げたい。つらい思いをしてきたからこそ、苦しい思いをしてきたからこそ、そうやって、みんなに話をしていきたい。戦後に生まれた若い人たちがこんなに大勢いるこの国では、どうしても古い戦争のつらさ、苦しさを語らなければいけないという気持ちを私は持っております。
どうか皆さん、あの忌わしい戦争を、「私がしたんじゃないから」「自分のせいじゃないから」と言い捨てないでください。つらいことですけれども、私たちの先祖があの戦争をしたのです。
ですからその償いのためにも、日本は軍隊を持たない静かな平和な国になっています、ということを世界に向かって言い続けてほしいのです。戦争を経てきた私たち、本当に苦しい戦争を経てきた私たちに言えることは、どうしても戦争は拒否していかなければいけないのだ、ということでございます。皆さん一人ひとりに説いて、戦争しないで済むように、みんなが納得して平和を選ぶように、説き続けたいのです…。
【鶴見俊介】
… 幕末に土佐から漕ぎ出して仲間と共に難破した14歳の漁師、万次郎は無人島に打ち上げられ、やがて米国船に助けられて米国東部まで連れて行かれました。そこで英語と桶のつくり方を学び、日本に戻る計画を練りました。その計画の実行途上、グアムまで辿りついてから、万次郎が命の恩人ホイットフィールド船長に送った手紙が残っています。
その手紙は「Dear Friend(親愛なる友よ)」と始まります。それには理由がありました。船長が自宅のあるフェアヘブンに万次郎を連れて帰り、滞在させていたとき、船長は日曜日に万次郎を教会に連れて行きました。が、教会は有色人種を受け入れません。そこで船長は、そこの教会員であることをやめ、もう一つの教会に連れて行きました。船長はそこでも断られて、三つ目の教会に行ってようやく受け入れられ、家族ぐるみ、その第三の教会の会員になりました。この経験が万次郎の中に深く浸透して、「Dear Friend」という呼びかけにまでつながるのです。この思い出は、万次郎に、命の恩人といえども、船長は、その前に奴隷のようにひれ伏すことを喜ばないのだということを、しっかりと教えました。
これは日米安保のあるべき姿です。いま私たちの国が米国と結んでいる日米安保条約は、その姿とはずいぶん違います。米国大統領が口を開くと、日本の総理大臣は、すぐさま結論を察して「イエス」「イエス」と言います。同じ「Dear Friend」にしても、その中身はずいぶん違います。
この安保条約は、江戸時代の人で大学を出ていない万次郎とホイットフィールド船長との間に結ばれた安全保障とは、かけ離れた性格のものです…。
…日本の名のある大新聞が、いずれも協力してひた隠しにしたノモンハンにおける日本陸軍の敗北は、日米戦争へと、負けると決まった道を開きました。果たして新聞記者は、明治・大正よりも、昭和に入ってから見識を持つようになったでしょうか。私はそう信じません。
…人間はほかの動物と違って、同じ種のものを殲滅戦に追い込みます。これからも、さまさまな理屈をつけて。この特徴を投げ捨てることが、私たち人間にできるでしょうか…。
【津地久枝】
…「郵政民営化選挙」などと本質をすりかえた小泉純一郎氏の路線にマスコミは乗った。新聞その他のマスコミ、とくにテレビの選挙特番に出てくる人たちの小泉首相の代理人めいた発言は聞くに耐えない。まだ憲法が保障している「言論の自由」はある。しかし体制派に反論すると、威丈高に声高に否認もしくは発言を封ずる、それが普通のこととしてまかり通ろうとしている。
さらには、世論調査の小泉支持率があがっていると報じられる。こんなひどい総選挙があっていいのかと思うが、事態は悪い方へ過熱するばかりのようだ。
有明の会の、三木睦子さんほかの話を聞いていると、ここには心の平安があるとしみじみ感じる。淡々として、ユーモラスに、それぞれの人がこれからの生き方を語っている…。声高でもなく、ここにこそ、わたしたちがよって立つべき「大地」がある、そう感じた。強調される雑音のなかにいると、聞くべき声が耳に入りにくくなる。世の「大勢」となろうとしている考え方に道理があるようにさえ感じられてくる。
日米関係不変、それが最大前提としてあり、そのために邪魔になった憲法を変えようとする。とくに交戦権と軍隊をもつことを永久放棄した九条が標的なのだ…。
吉永小百合さんがつづける原爆詩の朗読に対して、「乙女の祈り」で平和は守れないという揶揄を公言する人がある。なんと言われようと、はずかしめられようと、己の信じる生き方を自然体でつらぬくことに意味がある…。
…イラクで息子を戦死させた母のシンディ・シーハンは、ブッシュ大統領の自宅農場前で面会を求めて座りこみをした。同調参加者は次第にふえ、歌手ジョーン・バエズの姿もあった。
9月24日、ワシントンで開かれる反戦集会に参加するため、シンディはバスツアーでワシントンへ向かうという。残念だが、わたしたちの過去には、軍隊や国に対してこういうたたかいをした例はない。愛する者をなぜ戦場へ送ったのかという胸を引きさかれるような悔いと自責とが、戦後の女性たちの平和願望のつよい土台になった。この60年、憲法を守る後楯として、母や妻たちの痛切な思いがあった…。
【加藤 周一】
…昨年の初夏・憲法九条のために日本国民に呼びかけたのはわずか九人。今年の夏、東京.有明コロシアムで開いた講演会に参加して下さった方はほとんど一万人。呼びかけに賛同して各地につくられた「会」は3000になりました。このことは九条を支持する意思をもちながら、その意見を明示する機会を持たなかった人口が、いかに大きかったかを、反映しているでしょう。
しかし議会のなかでは、大政党と圧倒的多数の代議土たちが改憲を推進しています。それに対して大きな報道機関は、TVも日刊の全国紙も、はっきりした護憲の立場をとっていません。
…戦争とは何でしょうか。辞書によれば「武力による国家問の闘争」広辞苑です。また同じ辞書は、平和を単に戦争のない状態ではなく、「戦争がなくて世が安穏であること」としています。この定義は簡単で明瞭なようにみえますが、必ずしもそうではありません。正規軍による主権国家間の闘争はあきらかに戦争ですが、一方の当事者が正規軍でない武装集団で、他方が正規軍である場合も戦争ではないでしょうか。
その主体が国家ではない非正規軍(または「パルティザン」、または「テロリスト」なと)と、その主体が国家である正規軍が、あるときには小規模に、あるときには大規模に、ゲリラ戦を戦う場合が、20世紀には多くなりました(大がかりな例は、中国大陸での日本軍対中国側抗日統一戦線、ヴィエトナムの米軍対抵抗する現地軍民)。それを便宜上「戦争」とよぶとすれば、20世紀の後半には、戦争の主要な形態が、国家対国家、正規軍対正規軍の戦 いから、国家対民族、正規軍対人民のなかに分散した武装集団の闘争に移って来たようにみえます。そういう戦いに共通しているのは、ほとんど常に強大な正規軍の側の敗北です。新しい型の戦争は、そもそも地域紛争の解決に武力が有効な手段でないことを示唆しているのではないでしょうか…。
…1930年代に中国の東北部に駐留していた関東軍の参謀たちは、軍事力で東北部の全体を制圧し、そこに日本の傀備政権を作ろうと画策していました。しかし軍事行動を起こすための口実がない。不幸にして、現地の中国人たちは駐在する日本人を脅したり、日本の既得権を侵したりしてくれない。そこで待ちきれなくなった関東軍は、みずから満鉄(南満州鉄道)の線路を爆破し、それを中国人の反日活動であるかのように繕い、大規模な15年戦争を始める口実としました。その時の民政党内閣は、「満州事変」の不拡大方針を宣言します。しかし関東軍はそれを無視し、野党の政友会は関東軍を支持して、「満州事変」は「在満同胞の保護と既得権益の保護とを基調とする自衛権の発動に他ならず」としました。新聞もその線に従って報道したのです。
日本国民が事の真相を知るのは、敗戦以後のことです。戦争を防ぐためには、戦争目的を否定しなければなりません。名目的目的を見破り、実質的目的の誘いに抵抗することが必要です。名目的戦争目的の中でも殊に見破り難いのは、まさに自衛権の発動に他ならないのです。集団的自衛権についても自衛権の魅力に変わりはありません。
第三に注意すべき名目は、いわゆる「人道的介入」です。戦争当事者でない第三者が予想される、または進行中である大量殺人や極端な人権の侵害に対し、それを防止または中止させるために、当事国の意志に反しても武力で介入する場合です。ヒトラーとその支持者たちがユダヤ人を焼く煙が毎日家から見える。それを黙って見ているか、それともやめさせるためになんらかの手を打つか。しかし打つ手はひとつしかないという状況において起こったのが第二次世界大戦です…。
この問題については、多くの意見があり、多くの議論があります。私自身には客観的な理論的結論がありません。しかし黙って見ていることに堪えられなくなれば、おそらく戦争を支持するでしょう。支持の仕方は状況によるでしょうが、戦争そのものを否定はできないだろう、と思います。したがって私は絶対的平和主義者ではありません。他人が絶対的平和主義者であることを決して非難しないだろう相対的平和主義者です。だから私は日本社会が良心的徴兵拒否を許容し、死刑を廃止し、憲法の九条を変えないことを望みます。
戦争を廃するには、名目上の目的ばかりでなく、実質的な目的を不当とするか、その目的が正当ならば、それを平和的手段によって達成できると主張しなければなりません。実質的な目的の追求は戦争の原因でもあります。原因を除かなければ、その結果を否定することはできません…。
【奥平康弘】
…改憲勢力は「集団的自衛権コンセプト」を露わにすることが、対米従属という政策的事実を憲法上承認することになるのではないか、そうすると多くの市民が反感を抱くのではないか、と恐れています。ですから、アメリカと結びついた防衛力、という印象を抱かせないために、ただ単に「自衛のための実力」とか「自衛のための軍客力」というように、事態をあいまいなままにしておこうという配慮がみられます。しかし、注意しなければなりません。ひとたび、「自衛のため」という文言を押し込んでしまうことができたら、後で、そこには他国と集団的に結びついた防衛も含まれるのだ、と居直ることは見え透いています。
また、九条第一項はそのままにするというのだから、平和主義条項はそのまま生き残るだろう、と考えさせようとする向きも見られます。しかし、ごまかされてはなりません。第一項は、第二項があってはじめて、憲法上の宣言として意味があるのです。第二項を欠いた第一項は、もぬけのから同然なのです。
いま、「集団的自衛権」という言葉を出しました。これは、もともとアメリカ独特の思惑にもとづいた、その意味でうさんくさいコンセプトなのです。特に顕著に90年代後半以降、米国防総省あたりがもっぱら日本向けにさかんにこのコンセプトを発信しはじめたのです。…憲法改正を待つまでもなく、アメリカと一緒になって軍事行動に出るのに、何の妨げがあろうか、ないではないか、といわんはかりです…。
アメリカは、現在の日本のスタンス、つまり、対米従属という事実を当然の前提としています。ですから、集団的自衛権の行使によって、米軍の後方支援をすることはごくごく当たり前のことだ、と思い込んでいます。しかし、集団的自衛権という言葉、あるいはコンセプトは、矛ともなりうるのだということを忘れているようです。日本が、アメリカと、ではなく、たとえは中国との間で集団的自衛権を行使し、アメリカと対時する、ということも、そのコンセプトから言って十分にありうるわけです。もちろん、日本は憲法九条がある以上、との国とも戦争をしない国です。ですから、どこの国に対しても、どの国と結んでも、集団的自衛権を行使してはならないのです…。
【大江健三郎】
…私は次のような文章を書きました。
このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集同自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。
集団自決をひきおこすことになった島を再訪しようとして拒まれた旧守備隊長に、おまえはなにをしにきたのだ、と問いかける沖縄の声のひきだした答が、「英霊をとむらいにきました」というものであったこと、抗議の列をすりぬけて、星条旗をつけた米民間船に乗った旧守備隊長が、ついに渡嘉敷島にいたり花束を置いていったという報道をグラフ誌に見出す。
…直接の聞き取りの記録である『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)によりますと、渡嘉敷島の住民の、ある集団に、それまでにすでに32発の手溜弾が与えられていた…。
【井上ひさし】
あんな時代に戻りたいのか
…60年前、昭和20(1945)年の日本人の平均寿命をご存知でしょうか。男性は23.7歳です。女性が32.3歳。つまり昭和20年は、日本男子は平均して24歳まで生きられなかったのです。なぜそんなに極端に平均寿命が下がったかといいますと、戦地でたくさん亡くなる方があり、それから内地も戦地以上の戦地になっていたからです。三月の東京大空襲では一晩で10万人が亡くなられた。それから、広島では一日で9万人、その年のうちに14万人。長崎でも、その日のうちに7万人、その年のうちに12万人が、亡くなられました。それから、お母さんたちが栄養不足のまま赤ちゃんが生まれ、お乳がちゃんと出なかったり、病気になっても薬がなかったりで、赤ちゃんも次々に死んでいく。そういう年でした。戦争はすでに先が見えていたのだけれど、指導者たちが国体護持(明治憲法第一条)にこだわって戦争を延はしている間に大変な数の入か亡くなって、そして平均寿命を下げた。そういう時代でした。
先ほども触れましたが、たとえば八月六日の広島を考えてみましょう。亡くなった方はその年だけで14万といいましたが、広島の被爆者は14万人、同じ数です。その被爆者の方たちが大変な量の手記を残してくださっています。一説では25000点の手記が広島市立中央図書館に保存されているそうです。私も、その氷山の一角ですが、読ませていただきました。
その中に、たとえばこんな手記がありました。これは若いお嬢さんですけれども、自分も被爆して逃げる途中に後ろから声がかかった。振り向くと、家が燃えている。その二階で若いお母さんが赤ん坊を抱いて、「赤ん坊を受け取ってください。私は助からないけれど、この子を助けたいので、あなた受け取って」と叫んでいる。被爆して逃げていた若い娘さんが、一瞬戸惑う。受け止められるだろうか。自分は怪我をしているし、自信がない。けれど近くに交番があって、そこにおまわりさん、それから兵隊さんも時々そこに常駐している。そこで、「いま、おまわりさんか兵隊さんを呼んできます」と言ってその場を離れ、実は二度と戻れなかった。
この方は今日まで60年間、そのことだけを考えて生きていらっしゃるんですね。あの時、自分はあの赤ちゃんを助けられたのではないか、自分はあの場から逃げたのではないか、と。私たちから見ると、その方にしても大変な被爆をなさっているわけですから、助けられたはずがない。ですが、あのとき、助けられたかもしれないのに助けられなかった、という思いをずっと抱えながら、60年間生きていらっしゃる方がおいでになるわけです。そしてそういう事件が無数に起きていた。でも、ある人たちは、その時代が正しい、その時代から愛国心が出てくるという。出てくるわけがないと思うのですが、そういうふうに主張する人が大勢ふえてきました。
実例を申し上げますと、昭和21(1947)年7月26日、兼石績さんという方が中国でBC級の裁判を受けて死刑になりました。この方は山口県出身で、海軍の横須賀通信学校の高等科を卒業した海軍人尉で、当時41歳の方でした。この方の遺言を紹介します。
「東亜の和平、中日親善について将来必ず一致することを信じて、従容として死に就く」。「私は中華民国広東省広州市第一監獄北高地に於いて散ってゆく。家族は、時期がくれば、ここに来て手向けを乞う」。この方がどういう罪に問われたのか、私はいま調べている最中ですが、この海軍大尉は、自分は裁判で死んでいくのだけれども、やがて中国と日本が仲良く手を携えていく日が来るだろう。それで遺族に対して、祈るならいつかここへ来てほしい。ここで祈ってほしい、といっているわけですね。ですから、この方は靖国神社へは行っていない。
藤原彰さんの『餓死した英霊たち』(青木書店、2001年)の中に、第二次世界大戦での軍人・軍属の死者230万のうち、約六割のおよそ140万人が餓死であった、との記述があります。つまり日本の兵隊さんも実は六割までが、戦わずして、食べ物がなくて死んでいったのだ、と。 こういう時代を正しいという人がいます。こういう時代に戻そうという人がいるのです。こういう時代が素晴らしい、これこそが日本なのだという方がいる。
…餓死した人たちは、みんな捕虜になってはいけないと言うので死んでいったのだ、と…。
私は、「平和を守ろう」「憲法を守ろう」と言うときに何か言葉が空転するような気がして仕方がありません。そこで、「平和」という言葉を「日常」に言い換えたらどうかと考えています。あまりにも使われすぎて、言葉としての力を失ってしまっているのです。
そこで、いろいろな言い換えをしなければいけないのですが、私はこれを「日常」に言い換えています。つまり「平和を守る」「憲法を守る」というのは、「私たちのいま続いている日常を守ることだ」と言い直すようにしています。
友達と会う。会ってビールを飲む。家族と旅行へ出かける。いろいろお喋りして楽しく過ごす。勉強する。すべてこれ日常ですが、これができなくなる。そういうことを防ぐために、私たちは自分たちの日常生活を守るために頑張っていく。その日常の先に子ともたちや孫たちがいて、その人たちが次の時代を受け取っていくのだ、と考えています。
自分の目に入る範囲でいろいろな世界の動きを見ておりますと、国家権力をますます強くして、主導権争いをしている、そういうレベルの層もあります。それから、多国籍企業といいますか、お金が国境を超えてどんどん広がっていって、世界をたった一つのマーケットにする、そういう動きももちろんあります。ただ、私たち普通の人間の心の中に、自分の運命を国家や企業に決められてはかなわないという意識が、やはり生まれてきているということも確かです。
広島市長の秋葉忠利さんからうかがった話です。
アメリカには人口三万以上の都市が1200ばかりあって、その市長さんたちが全米市長会議というのをつくっている。そこの事務局が昨年(2004年)の一月に、その1200人ほどの市長さんに「核兵器についての考え方として、あなたは、この四つのうちのとれを選びますか」という四択のアンケートを出しました。一番が「核兵器はアメリカだけが持つ」。二番は「核兵器はアメリカと、そのお友達の国が持つ」。三番は「核兵器については現状でいくしか仕方がない」。四番目は「アメリカといえとも核兵器を持ってはいけない」。返ってきたアンケートを見て事務局の方々がびっくりしたことに、そのうちの68%、つまりほほ三分の二の市長さんが四番目にマルをつけている。
ですから、魯迅の名言の一つに、「日本人は悪い、と言ってはいけない。日本人の中に、ひどいのもいるけれども、素晴らしい人もいる。中国人をいい、と言ってはいけない。中国人の中にもひどい人間もいるし、素晴らしい人もいる。だから、「日本は」とか「中国は」と言ってはいけない」というのがありますが、たしかに一口に「アメリカは」と言ってはいけない…。
(追記2015/3/27)
今日は再び憲法九条の問題である。今回も岩波ブックレットの論文の引用だが、要約だけでもかなりの長さだ。それでも是非ともこの機会に基本理念だけでも理解して頂き、憲法問題理解の参考の一助にして頂けたらと願っている。
「憲法九条は私たちの安全保障です」岩波ブックレット2015/1/8から
キムヨンホ氏の提言。
【市民の声と政府施策の乖離】
憲法九条と集団的自衛権行使容認は単なる日本国内の法的問題ではなく、東アジアと密接な関わりを押っている東アジア全体の問題である。
…私は十年前、偶然に「九条の会」創立記念講演会に聴衆のひとりとして参加した。あの時はホテルオークラのホールに約千人以上の市民や知識人が集まり立錐の余地もなかった。加藤周一先生、大江健三郎先生など呼びかけ人の講演があったが、その真摯かつ熱い雰囲気に感動して、日本の平和憲法は少しも揺らぐことがなく持続すると確信した。そしてこの講演会については間違いなく新聞やテレビに、おそらくヘッドラインとともにあげられると予想した。
…ところが翌朝の新聞に記事がなかった。辛うじてある新聞の一番後ろの社会面に小さく出ていた。ショックであった。
…今日の民主主義は、市民の声と新聞の記事と政府の反応との間に大きなギャップを抱えている。Voting Democracyは投票を通じて主権の委任を受けるが、小選挙区制の金権選挙、縁故主義、ポビュリズム、そして野党が分裂すれば野党支持層の総計は多くても与党が当選する事態などにより、一強多弱の寡頭政権が成立して市民の意思を代弁することができなくなる、いわば代議の危機に陥ることになる。そうなれば、投票で当選した代議士は誰の影響を受けるか。その背後に時々「ビッグブラザー」が登場する。この場合、代議士は市民の意思よりビッグブラザーの意思を代弁する傾向が強い。
問題はマスコミさえ企業メディア的な性格を持ち、市民の声より寡頭政権の意思を代弁するようになることである。市民は企業メディアに徐々に閉じこめられ、影響を受けながら操られる状況に陥る。民主主義は到るところでこのような落とし穴に陥る。
…日本では企業メディアを越え、市民メディアが求められている。日本では市民革命で政権を打倒した体験がない。この体験がない場合、政府が市民の声を聞く姿勢が異なり、市民の政府に対する姿勢も異なる。また二大政党制ではないので、政権を持続的かつ安定的に交代させた経験がほとんどなく、政策に対する主権者の立場からの代案もなくなり、市民の声と政府の政策とのギャップはより大きくなるしかない。
…今日、日本で平和憲法を支持する世論が高く、その結果、集団的自衛権の行使容認に反対する世論が強いのにもかかわらず、日本政府が平和憲法と矛盾する集団的自衛権の行使を閣議決定で容認し、上位の平和憲法を無力化・形骸化させるという異常な現象が起きた。
【平和憲法は東アジアの共有資産】
ここでは、平和憲法九条を東アジア的文脈から考察してみたい。平和憲法は日本軍国主義の侵略史に対する連合国側の要求であり、日本自らの反省と責任の産物という性格とともに戦後日本と東アジアとの新しい関係樹立と交流協力のための国際的約束という性格を持っている。戦後西ヨーロッパにおいてはドイツの徹底的な反省と軽武装化及びNATO体制によって平和と協力が可能であったように、東アジアにおいては日本の反省と平和憲法、そしてアメリカ主導の安保秩序によって平和と協力が可能であった。戦後日本の市民社会は平和憲法体制を堅固に守り抜き、その結果、東アジアとの交流協力が深まり拡がった。
欧米では概して市民革命の後、市民社会を基盤として産業化が展開される傾向が強かったが、東アジアでは概して国家主義を基調として高度産業化が展開されながら中産層が形成された。中産層を中心として徐々に市民社会が発展し、市民社会が成熟しながら国家主義ないし民族主義を卒業する様相が現れている。今日の東アジアは日本に続いて韓国、台湾、タイ、インドネシア、中国などで、次々と高度産業化が展開され、その結果、東アジアには約六億の中産層が形成されている。また、ほぼ二十億近くのネティズンが暮らしている。
…東アジアは漢字文化圏、あるいは儒教文化圏、仏教文化圏という伝統的共通性を越えて貿易と投資の域内化という経済統合の段階にきており、すでにASEAN共同体の形成が近づいている。
…「眠れる獅子であった中国」だけが目覚めたのではなく、本当に眠っていたもっと偉大なる実体、シビル・アジアというライオンが目覚めようとしている。今や西洋化という一世紀半にわたった長いトンネルを抜けて、シビル・アジアという新しい風景が見え始めようとしている。ここまで来られたことには日本の平和憲法の役割が大きかった。平和憲法はアジアの平和と発展に大きく寄与した点において東アジアの共有資産であるといえるし、そうした点からノーベル平和賞を受賞するに値する。東アジアからみて、我々は平和憲法にノーベル平和賞を授与することを支持する。受賞の主体を誰にするかの問題には法的な考慮も必要であるが、これはあくまでも精神的、あるいは運動史の次元から推進されるだけに、絶え間ない憲法改定の試みの中でこれを堅く守り抜いてきた憲法守護の市民運動側が受賞の主体になってしかるべきであり、その点では「九条の会」が適切であると思う。
【敵対的相互依存の悪循環メカニズムを超えて】
…中国は150年余にわたった「屈辱の世紀」を経て、眠れる獅子が目を覚ましたように立ち上がっているが、それが覇権主義に向かわないようにするためには、過去の日本の覇権主義の遺産を清算することが非常に重要である。
…しかし、安倍政権は正反対の方向に向かった。「日本を取り戻す」という安倍政権のキャッチコピーは、我々が乗り越えようとする過去をむしろ肯定し美化する歴史修正主義の立場から、我々がこれほどまでに守ろうとしている平和憲法体制を克服の対象とみなす憲法改定論として現れている。
…このごろ世界的な注目を浴びているトマ・ピケティは『21世紀の資本』で「過去が未来を支配する」という原理を実証的に説明しているが、安倍首相の行動は過去に対する認識が現在と未来を支配する現象をリアルタイムで見せている。その結果として中国、韓国などとの歴史の衝突をもたらし、それが領土ナショナリズムの対立を柱として全般的なナショナリズムとナショナリズムとの間の対立をあおり、日本と中国との間には安保ナショナリズム、ひいては覇権主義対覇権主義という敵対的関係が形成されてしまった。 これと前後して尖閣列島(釣魚島)問題が起きた。
国家間の紛争はある一方にその責任を転嫁しにくいほど、相対化される傾向があるが、冷静な観察者の間では日本政府の突発的な国有化措置が事態の決定的なきっかけになったとみているのが事実である。それは当時、駐中国日本大使の丹羽宇一郎さんがこの日本政府の措置に激烈に抗議し警告した事実にもよく現れていると思う。この措置に対応して中国側の激しい反発と武力示威があり、また日本の反撃があって中国側の再反撃があるという悪循環の過程で互いの領土ナショナリズムが衝突し、エスカレートしながら急激に危機が拡大深化した。
我々はこれを「敵対的相互依存の悪循環メカニズム」と呼んでいる。安倍政権としては習近平政権という敵が必要であったのであり、習近平政権としては安倍政権という敵が必要であった。外部の敵との敵対関係を利用して国内のナショナリズムを高め、保守化を強めてリベラルの挑戦を弱化させ、その結果として国家は帝国化し、市民は臣民化あるいは国民に回帰する危険に陥る。
…日本の市民は、丸山眞男先生の指摘のように、市民が市民の権利を譲った代わりに臣民化されて得られる、他民族に対する特権を享有したことへの郷愁があり、臣民化の誘惑に弱い。したがって国家と市民との妥協の可能性が生じる。 日本で今起こっているヘイトスビーチの洪水、嫌韓・嫌中の本や雑誌の氾濫、ナチズムをも連想させる在特会の街頭行進、非文明的な風潮がアジアの最先進国である日本で言論・集会の自由という名目で横行していることは特異な歴史的風景である。これを安倍政権の影の部隊と見る向きもあるが、最近安倍政権の閣僚がヘイトスビーチの主導者たちとともに撮った写真があらわれて、やはり根拠のある噂であるかなと思わざるをえない。
ドイツのメルケル首相が痛烈に指摘したように、ナチズムはヒトラー一味だけの責任ではなく知識人を含めた市民の責任であるが、日本もまったく同じであったと思う
日本は中国との戦争の危険に直面して「安保か、憲法九条か」という二者択一の構図に市民を閉じこめて集団的自衛権に対する支持率を引き上げようとしている。習近平政権もまた安倍政権という外部の敵を活用し、中国ナショナリズムを高揚させながら穏健なハト派が後退し、強硬なタカ派が中心になって対外覇権主義的な動きを強化しながら軍拡に拍車をかけ、政府中心の動員体制を強化している。その結果、国内の広範な民主化要求や政府に対する様々な批判的動きが抑圧され弱化している。
…二十世紀初頭、日露戦争で日本が勝利した後、日英同盟体制が支配した時代に、束アジアに手を出す脅威的な国家は存在しなかった。中国とロシアは革命前夜の混乱の中にあり、国家の存立自体が揺らぐ状況であった。したがって、他の強大国による植民地化が進んで日本にとって大きな脅威となるのを防ぐために、日本は領土拡張に先手を打ったのだという論理には全く根拠がない。当時、日本が侵略主義に進まなかったら、アジアはあれほどの極端な破壊と戦争と恨みの大陸へと化さず、平和な協力体制が形成され、日本は真の盟主になったはずである。
…戦後にも東アジアの和解と統合の機会があった。特に冷戦後、再び世界的に歴史和解の潮流が起きて東アジアにおける貿易、投資の統合が急ピッチに展開された時、日本は過去の日本の覇権主義の影を拭い去って、歴史和解とともに東アジアの韓国、台湾など民主国家及び中国のハト派と提携して中国国内を説得し、東アジアの平和民主統合のイニシアチブを取る機会があった。ところが安倍政権に至って、正反対の歴史修正主義/領土ナショナリズム/集団的自衛権の行使容認/日米軍事同盟強化による対中国対決体制の強化/中国の強硬なタカ派の全面的浮上と新覇権主義的路線の復活などで、東アジアは百年前のサラエボの銃声がいつ聞かれてもおかしくない状況になってしまった。日本は再び、東アジアの平和と統合を破壊した責任から自由ではなくなった。
【東アジア市民の連帯をてことして】
…国民が安保危機対応体制に加わることは国家の論理であって、市民の論理ではない。市民同士は対立したり敵対したりする期由がない。市民の論理に立って市民と国家との関係を再鯛整し、Voicing Democracyの方にもっと近付かなければならない。
…市民あるいは国民と乖離した政府と政府との間に幾多の国際制度の連携/協議機構があるように、市民社会と市民社会との間、またはNGOとNGOとの間にも固い連帯関係が形成されてこそ政府と市民の関係における再調整のための均衡が成り立つ。
このような文脈から我々は「東アジア市民平和会議」を構成することを提議する。この市民平和会議は「東アジア市民平和憲章」の制定を第一次課題とすべきである。東アジア市民平和憲章には、アジア市民の平和意識がアジアの戦争不安を解消するてこになる基本理念を盛り込むべきである。従来、国によって形成されて国家のために展開された国際法の世界において市民の関与は限定的かつ間接的であった。しかし国際化が深まり、シビル・アジアが進展すれば市民が国を経由せず、世界やアジアに密接に結ばれる。こうしてアジア問題に対して国を経由せずに関与したり、あるいは国を補完して参加する状況になり、そして市民とアジアとにおける基本関係の理念定立が重要になった。
…今のところ市民不在のアジアになっている。それが危機のアジアへと帰結している。今日、もっとも重要な課題は市民参加のアジアであり、それがシビル・アジアに至る近道である。
…アジア共同の歴史の立場から各国の歴史を見ることが童視されなければならない。日本の過去の侵略や戦争の歴史清算の課題は避けられない間魍であろう。
…ASEAN平和憲章はすでに2007年に公表されている。東アジア平和憲章は結局「東アジア平和憲法」を目指すべきであり、東アジア平和憲法の基礎の一つはアジア共有資産の一つである日本平和憲法である。
「九条の会」発足十周年を迎えて、東アジアも九条というアジア共有の資産を大切に守りたいと願っている。そのために、市民不在のアジアから市民参加のアジアに向かう初めての歩みとして「東アジア市民平和会議」を構築し、その最初の課題として「東アジア市民平和憲章」の制定を重ねて提唱したい。
(追記2015/3/28)
今日も岩波ブックレット「憲法九条は私たちの安全保障です」からの引用の続きである。昨日と同じように長いが、読み易い文章になっている。最初は阪田雅裕氏の寄稿からだが、ここで重要なことは集団的自衛権と国際法の関係である。今回この論文を紹介するのは、お互いに相手を決めつけ合っていたら、意味のある議論にはならないからであって、共通の土俵に立つ必要があるからだ。私が危惧するのは、集団的自衛権を半ば強引に推し進めている議員たち自身が、実は何も理解できていないのではないかということだ。
…そこで、集団的自衛権とはなにか、ということになります。集団的自衛権―たいへんもっともらしく、また難しい言葉のように聞こえますが、じつは簡単なことです。
日本以外の第三国であるA国とB国が戦争をはじめた、ということが議論の前提になります。おそらく、どちらかが正しくない戦争であり、どちらかが正当防衛の戦争ということでしょう。 一般に、戦争というものは双方に言い分があるもので、どちらが正しいとはただちに言えない場合が多い。どちらかが一方的に悪いという時には、たとえば湾岸戦争時のイラクのように、「平和に対して脅威を与える国」であると国連の安全保障理事会(安保理)が認定し、これに基づいていわゆる多国籍軍が編成されて、国際社会全体でその「平和に対して脅威を与えた国」をやっつけるということになります。
ふつうの戦争、たとえばフォークランド紛争のように、A国とB国がなんらかのきっかけで戦闘をはじめたという時には、必ずしも国際社会全体としては、どちらが悪いとは断定しません。
そうしたなかで「集団的自衛権を行使する」というのは、自国の判断で、そのA国、B国、いずれか一方の側に立って戦争に加わる、ということを意味するにすぎません。A国の側に立てば、A国を守るための防衛権ですし、B国とともに戦うということであれば、B国のための防衛権ということになります。ですから、「集団的自衛権」というよりは「他国防衛権」とか「友好国防衛権」という方が分かりやすいと思います。
…今の国際法では原則として、戦争は違法とされています。
安保理決議に基づくものを除くと、国際法で許される戦争は、集団的自衛権の行使しかありません。自分の国が攻められた時にこれを排除する、いわゆる個別的自衛権、正当防衛権というものは古くから認められていますが、1928年に不戦条約(戦争放棄に関する条約)が締結されてからは、それ以外の戦争は原則として違法とされています。
そのような流れのなかで、国連憲章では、個別的自衛権と並列する形で集団的自衛権の行使が認められました。一部の人は、個別的自衛権も集団的自衛権も同じような自然権であるといった主張をしますが、十九世紀のころから認められている正当防衛権、個別的自衛権にくらべると、集団的自衛権はたいへんあたらしい概念であって、とても自然権、国際憤習法上醸成されてきたような権利とは言えないと思います。
私はよく「集団的自衛権は魔法の言葉だ」と言うのですが、今の国際法のもとでは、集団的自衛権と言わない限り、どの国も、自分の国とは関係のない第三国間の戦争に加わることは許されない。反対に、集団的自衛権と言いさえすれば、外国でのどんな戦争にもかかわることが認められるわけです。
集団的自衛権という言葉だけを聞くと、弱い国、小さい国がいくつかまとまって強国、大国に対抗する手段のように聞こえますが、戦後実際に集団的自衛権が行使された実例をみると、例外なく、大国が小国での、或は小国間の戦争に介入するための大義として掲げられてきました。
旧ソ連、アメリカ、NATO謂国―みんなそうですね。
…現在は、どの国であっても、集団的自衛権を掲げないと戦争ができませんし、わが国もこれが行使できるということは、とりもなおさず日本はふつうの国だ、日本の自衛隊もほかの国の軍隊と変わらないのだ、ということを意味することになります。(編者注:まさにそのようなことを安倍首相や菅長官が言っています)
安倍政権の安保法制懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)の報告書では、「わが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性」のある場合にかぎって、いわば必要最小限度の範囲内で集団的自衛権の行使をするのだ、と述べられています。つまり、「集団的自衛権と一口で言ってもなんでもやるということではなく、歯止めはあるのだ」といったご提言です。
…しかし、これまでの政府が言ってきたのは、外国から武力攻撃を受ける、つまり現実に国民の生命や財産、国家そのものの存立が実力によって脅かされているという状況のもとで、実力でこれを守ること、外国の侵害を排除するために自衛隊が必要晟小限度の実力行使をすることは許されるのだ、ということなのです。
それに対して、集団的自衛権は、わが国は部外者であるという状態のなかで、第三国間で始まった戦争のどちら側に加担していくかという議論ですから、その「必要最小限度」というのは、個別的自衛のための「必要最小限度」と言うのとはまったく質が違うものなのです。
…集団的自衛権は、相手側が日本に対して攻撃を仕掛けていない、そのような状況下で行使するものです。
A国とB国が戦っているが、A国もB国もわが国に対して攻撃を加えていない、ですから何もしない限りは日本は第三者、局外者でありつづけることができる。もちろん、そのこと自体がよいことかどうかという問題は別途あると思います。A国なりB国なりどちらかと、もし日本が密接な利害関係を有しているのであれば、その国に味方してともに戦うべきではないかという、政策論としての議論はあるかと思いますが、そのことを別にすれば、とりあえずA国とB国の戦争は日本にとって直接関係のないことです。
それが、「B国の側に立って集団的自衛権の行使をします」と言ったとたんに、「日本はA国の敵になる」ということになります。おそらくA国に対して日本は、国家として宣戦を布告する必要も出てくるでしょう。A国は、それまでは国際法上目本の領土を攻撃するなどということは許されるはずもなかったのが、日本が集団的自衛権を行使したとたんに、A国は仁保に対して武力攻撃することが認められることになるわけです。
そのようなことが、日本の安全を守るためにどうして必要なのかということが、私には理解ができません。むしろ「飛んで火に入る夏の虫」、「火中の栗を拾う」と首いますか、戦火のなかにみずから進んで身を投ずるわけですから、わが国にも火の粉が降りかかってくる、それを呼び寄せる行為です。したがってこれは、国民にも相当の覚悟がいることだと思うのです。
…憲法は、けっして不磨の大典ではありません。第九十六条にはその改正手続きが明記されています。法律は、毎年百本以上も国会に提案されていますが、そのほとんどは、今ある法律の一部を改正するというものです。どうしてそのようなことをするのかというと、あたらしい時代状況に対応するため、つまり時代遅れになった規定を削除したり、あるいはその一部を改正したりということが必要になるからです。
それは法治国家として至極当たり前のことです。法律の規定はそのまま放置しておいて、政府が時代に合うように適宜解釈して運用しなさい、などということは誰も言いませんし、そういうことが許されたのでは、法治国家として成り立ちません。
憲法が制定されてから七十年近く経ちます。蒋代が変わり、日本の国際的な地位も大きく変化しています。そうしたなかで、もし現在の憲法の規定が今の日本にふさわしくないということであれば、この九十六条に則って改正をする、というのは法治国家として当然のことです。しかしそれは、国民が判断することです。いうまでもなく、憲法は統治権の行使を縛るルール、それなのにこれを守るべき主体である政府が、これまで数十年もの間、みずからが主張しつづけてきた解釈を時代が変わったからといって勝手に変えてしまう、しかも九条をどう読んでも導き出せないような解釈にするというのでは、憲法の憲法としての意味がなくなってしまいます。
… 解釈の変更といいますが、さきほど述べたとおり、集団的自衛権の行使ができるということは、日本もふつうに戦争ができる国になるということなのです。それはつまり、憲法九条はあってもなくても同じ、法規範としてなにも意味を持たないものになる、ということと同義です。
…国民の同意を得る、これが政治の王遭であって、いわば裏口入学とも言うべき解釈改意は、立憲主義の原点に照らしても許されない暴挙であるといわざるを得ません。
私のメッセージは以上ですが、この問題を最後に決めるのはやはり国民の声だと思っています。
ぜひ、みなさんも、大いなる関心を持ってこの問題を見守っていただき、また、周りの方々にこの問題の重要性をご自身の言葉で訴えていっていただきたいと、切に願っています。
…ところで以下はWTWの私見だが、安倍政権の本音はとても分かりやすいと思っている。安倍首相と言えども、米国が世界中で展開しているすべての戦争の先頭に立ち、米国の先兵として戦いたいとは思っていないだろう。でも中国が武装大国として強大化し、しかも覇権をちらつかせている現状にあって、日本の政治家と外交行政機関の国際関係の認識力や外交能力がほぼゼロだと言う事は脇に置いても、自国を自分の力だけでは守り切れないという危機感は否定のしようもない。本来なら一朝ことあれば、個別的自衛権に加えて、多国籍軍で守ってもらうべきだが、手っ取り早いのは、日本に既に基地のある米軍に頼ることだ。既に日本は事実上米国の51番目の州と同じようなものであり、日本国内の基地もハワイやグアムの基地と同じようなものだ。であるならば、むしろ地位協定で米国の軍属を保護する必要もないくらいなのである。
日本は相当な経済的負担をしてきたのに、米国からはたびたび苦情が出ている。即ち軍事力を持ちながら、実際の戦闘は皆米国任せ。血を流すのが米国人だけというのは納得できないというものだ。米国は身を捨てて遠い東アジアの安全を守ってやっているのだから、もっと協力すべきではないかというものである。ペルシャ湾を守るのがそれに相当するというのは、相当に無理があるし、それは日本やアジアの為ではなく、米国の利害の為だと私は思う。
そこで自衛隊を米軍の傘下に置きたいが、そこで何が障害かと言えば、それこそが憲法九条なのだ。しかも安倍政権の集団的自衛権は、米国の戦争はいつも正しい戦争という大前提に立っている。でも必ずしもそうではないことは、ベトナムやアフガンで既に証明されている。湾岸戦争だって米国の石油資本の為の戦争だった。その証明として、戦後いち早くイラクの石油の利権をメジャーが獲得している。逆にアサド政権を放置したことでISの暴挙につながった。即ち米国も政策では大きな間違いを犯してきたということなのである。一方的に依存すべき相手ではない。安倍政権は、そういう米国の負担を一部でも背負って、同盟国としての立場を強化したい、それだけが日本の具体的な安全保障だと言う。でもそのココロは、やはり米国には寄りかかりたい。でもそれを続けるには無理がある、米国からも不満の声が出ている。ならば自衛隊に少し働いてもらおう。その代わり制服組の権限も少し強化してやろう。それだけではないのか。その気持ちのどこに、独立国としてのプライドと責任感があるというのだろう。自分達の都合優先という自民党の体質は変わっていない。
米国や米軍を支援する方法には、軍事力以外にいくらでもある。特に技術力では日本は世界に冠たる実力がある。それでも憲法九条の解釈を変更する方が遥かに手っ取り早い。でも政府の決定なるものが、いかにこれまで大きなミスを、しかも欲がらみで犯してきたことか。経済政策然り、原発政策然り。それなのに安倍首相は自分が手にした(我が軍)を実際に使って見たくて仕方がないらしい。
そういう政権が自らの判断だけで他国の戦争に加担すれば、何が起きるのかは目に見えている。最初に防空施設に逃げ込むのは政治家と高級官僚だ。実際に敵と戦うのは自衛隊と市民である。しかもそれは市民が選んだ戦争ではない。その状況の、どこが大戦前と違うと言うのだろう。
今の政府が糾弾されるべきは、大多数の国民の意志を無視しているからだ。この項の最後に、上掲の資料から、澤地久枝氏の一文を紹介する。
…こうした武力的な小競り合いがあった時、「自衛のための措置だ」と言って自衛隊を投入して、小さな火花だけだったものから戦争の態勢に持っていこうとする。ひいては集団的自衛権が必要だという雰囲気をつくりだす。それが今の安倍内閣の姿勢であると、私は思います。 安倍さんは、最初に内閣総理大臣になった時に、「わが内閣のうちに憲法を変える」とはっきり言いました。そもそも、自由民主党は党是(党の決まり)に「憲法を変える」という項目を掲げています。
ところで、最近の自治体の選挙では、投票率が40パーセントを切っているところが多くあります。私は最近の、多くの有権者が棄権する選挙に意味があるだろうかと思います。私たちはもっと早くに、たとえば「50パーセントを割った選挙は無効である」というような決まりを持つべきだったと思っています。
これはいわば、私たちの意思です。政治あるいは内閣というものは、国民=有権者の信託によって成立しているわけですから、有権者が意思を示せば、それに従わざるを得ないのです…。
「経済と宇沢弘文」 2014/11/13
10/30のNHKのクローズアップ現代では、86歳で先頃亡くなった宇沢弘文を取り上げていた。「経済とは単に富を求めるものではない」、「経済とは現実の人間を幸せにするものでなければならない」、この言葉は一見当たり前のようだが、それが当たり前ではなくなってきていることに大きな問題がある。それどころか、それは間違いだと言わんばかりの人達もいる。小泉政権の経済担当の経済学者も、自由競争を強調していた。その結果についての反省は愚か、今でも自説を主張し続けている。デフレが彼一人の責任ではないにしても、その後の鉄面皮ぶりと、宇沢氏との余りの違いには愕然とする思いだ。豊富な知識を持つようになると、理に走って、根本にある人間を忘れがちだ。原発が悪い例である。ひとたび被害を受ければひとたまりもない弱い人間の存在を無視しているからだ。理屈に酔い、理念を忘れる人達なのである。
いま資本主義への反省の風潮が世界中で広がっているというのに、なぜかその勢いが日本では弱い。でもこれまでそうであったように、経済は良く分らないから政官学にお任せでは、決して日本は良くならない。分らないなりに向き合っていかなければならない時代に我々は生きているのである。一つだけ理解して頂きたい言葉があるだ。それは「過度の競争が格差を生む」という言葉だ。この言葉が、資本主義のひずみを端的に表現している。競争を排除したらどうなるかは、特に我々日本人は嫌というほど目にして(させられて)きた。国鉄、農協、NTT、そして小泉政権を国民が支持した契機となった郵政改革。無論東電もその一つである。自民党の一党支配に、国民も一度は背を向けた。競争がない組織は間違いなく腐敗し堕落する。それは歴史が証明している。自民党が支えてきた老害とも言うべき既得権体質に挑んだという意味で、小泉政権の果たした役割は決して小さいものではない。でもそういう政権を支持したのは、より公平で幸せな世の中を願う国民の素朴な気持ちであったことは理解出来ていないようだ。そこに人間性における宇沢氏との天地の違いを感じるのである。
21世紀の(世界の)目標は、ニュールネッサンスだと思う。人間性を取り戻し、回復することだ。最近の世界の動乱も、抑圧され収奪されてきた人達が、ネガティブな形で蜂起し、あがいているという見方も出来る。暴動や暴走も、今様の百姓一揆だと思うと納得出来る面がある。どうか21世紀が、人間性を取り戻すきっかけの世紀になるように。しかもそれはただ口を開けて待っていては実現しない。結果的に間違っていようが、不勉強だろうが、一歩前に出て自分の意見を言うこと。それが何よりも重要であって、意見を言わなければ、自分の間違いに気づく事も出来ないのである。
「政治の暴走」 2014/12/27-12/28
秘密保護法の指定が開始され、選挙後の政権と行政の暴走は予想以上の速度で始まった。選挙の余勢を駆っての暴政である。総選挙で議席を減らした事実には触れず、国民が政権を信任したという都合の良いように解釈である。安倍政権が、これだけ多くの人が選挙を棄権したというのに、国民の民意をこれまで以上に無視して、好き勝手を始めれば、日本には民主主義の暗黒時代が訪れる。経済さえも崩壊する。しかも結果の責任を取るつもりがあるとも思えない。最近のGDPの悪化にも、反省や釈明の弁は全くなかった。ちなみに、アベノミクスを支持している竹中平蔵は、デフレと格差社会の種まきの張本人でありながら反省の色が全く感じられない。この人が日本経済に深く関わるとろくな事にはならない。
それでもなぜ与党が勝利したのか(自民の圧勝ではんし。このところを間違えないで頂きたい)。それは他の政党が自民党以下だったからだ。選択肢がなかったからなのだ。枝野幹事長はそういう国民の残念な思いを真剣に受け止めているようには到底思えない。だから10議席しか増えなかった。公明も共産も同じくらい議席は増やしているのに。自民から議席を奪うのでなければそれは勝利とは呼べない。試しに民主が独自路線を行くべきか野党連合で行くべきかを、直接国民に問うてみるが良い。枝野・岡田の肥大化した思い込みが、一人よがりに過ぎないことが分かるだろう。再度申上げる。連合の為の政党など、国民は必要としていない。それでも代表選では、複数が立候補することもあって、組織票のない細野は負けるだろう。即ち日本を悪くしているのは自民党だけではないということだ。間接的に民主党が一役も二役も買っている。海江田時代の民主党は政権にとって、願ってもない存在だった。党首の性格のせいで、マイルドで突っ込みが甘い、というより殆どやる気も感じられず、それでも何かはやっているというジェスチャーをするので、民主主義の議会政治が機能しているかに演出出来たからです。自民と民主。この両党には共通の特徴がある。それは民意の不在である。
そういう人達の施策を信用しろと言う方が無理だ。国民は自分を自分で守らなければ生きていけない時代になってきている。自衛の為には、政権の思惑や主張に逆張りで対抗するしかない。そういう意味で、いま私が注目しているのは日銀の動きだ。最早打つ手がないネタ切れの状態だからだ。私が総裁なら、引責辞任を覚悟で引き締めを予告する。世界の信用を勝ち取り、国債の暴落を防ぐために今最も必要な施策だからである。週間ダイヤモンドはバブルを予言しているが、市民の実感としてインフレの傾向が顕著に表れてきている。日銀が景気過熱を予知出来ないようなら、それは無能だということだ。政権と異なる観点から経済を見る気がないとしたら、存在理由さえない。検察を含めた政官の新たな癒着の構図が、結果的に日本に破滅をもたらすことになるのかもしれない。これからの日銀の問題は、何かをする事ではなくて、逆に何もしないことなのだ。何もしない点では白川氏も同じだった。但し間違ってもこれ以上の景気刺激策は御法度だ。そんな事をすれば、ハイパーインフレから恐慌を引き起こしかねない。今の日銀にとっていちばん大事なことは、国の信用の維持なのである。
(追記2014/12/28)
・有権者には情報がない。
今回の総選挙で、候補者に関する情報が足りないことは事実だと思う。私は警察が選挙違反を盾にして介入をしようとも、ボランティアによる政党に偏らない投票促進の活動や、政治への関心を高める運動があってしかるべきだと思う。しかもそれこそが、日本を本当の民主主義の国に導く、非暴力でかつ効率の最も高い手段ではないかと思う。投票しましょうと勧める活動や、候補者の情報を提供する活動に違法性があるとは思えない。むしろそれを否定し、有形無形の圧力を掛けることこそ民主主義と憲法の否定行為だろう。
・自衛隊の海外派兵を恒久法制化する動き
自国の領土の枠を超えると自ら宣言しているのだから、自衛隊どころか国防軍でさえない。戦争を知らない若い首相が、なんたる悪法を、強引に推し進めていることか。地域で話し合ったら、高齢者が多いこともあってほぼ全員が戦争反対、安倍政権否定だった。その次の世代、即ち50代になると、戦時中は無論、戦後の厳しい時代の記憶さえ無いので、全く違った感覚だという話である。天声人語ではないが、記憶は風化する。大戦も311でさえも。ところが最後に生き残るのは、逆に記憶を大事にした人達なのだ。例えば、先祖がここから先は津波が来るから住まないようにと伝え、海岸から遠くなるので生活には不便でも、それを守った人達は、311の津波から助かった。目先の利益を欲深く追求するのではなく、100年後、1000年後の日本を考える。それが政治の役割ではないか。そういう観点から見たときに、果たして自衛隊の海外派兵がどういう意味を持つのか、首相は深く考えた事があるのだろうか。
・特定秘密の指定開始
いわゆる軍事機密は仕方がない。しかし外交に秘密があってはならない。なぜなら政府や行政機関は、国民から付託されて外交に臨んでいるのであって、国民が全権を白紙委任しているわけではないからだ。国民には自国と外国の関係で、何が起きているのかを知る権利がある。国というのは即ち国民である。TPP交渉では、何と何をトレードオフにしているのかさえ国民にはさっぱり分からない秘密交渉になっている。怪しいことだらけなのだ。だから外交の中身は、一定期間後=それもなるべく早い機会に、必ず公開されるべきである。そうでないと、時の担当者は相手国に何を言っても、約束してもかまわず、それが理由で裁かれることもないということを意味する。調印された合意という紙の上での結論しか残らない。それが何故合意されたのかさえ分からない。それでは民主主義とは到底呼べない。
(追記2014/12/29)
時事放談で、野中広務が今年の重大事の二番目に集団的自衛権を挙げていた。彼は常々集団的自衛権の閣議決定を安倍首相の暴挙、議会政治の否定だと批判しており、この時も言葉が詰まって一時支離滅裂になるくらいだった。またTBSの日曜の朝の番組で、寺島実郎が、有権者の半分が棄権した衆院選を振り返り、有権者の17%の投票で、2/3の議席が決まる今の選挙のあり方に疑問を提起していた。国民の多数の支持のない政権が、好きなように法律を決める。政治と財界の癒着は今更言うまでも無いが、立法と行政の区別が曖昧で、司法さえ政治になびく。メディアにも有形無形の圧力を掛けて骨抜きにする。即ち事実上民主主義とは名ばかりの社会に私達は住んでいるのではないだろうか。
見方を変えて、自分が首相だとしたら、どう考えるのかを想像してみた。国のオバマ、ロシアのプーチン、中国の習近平。彼らと対等に渡り合える世界の重要人物になりたいと思わないだろうか。存在感を示し、強い発言力を持ちたいとは思わないだろうか。そのために必要なものは国力に見合った軍事力であり、しかもそれは必要に応じて行使出来る武力でなければならない。国民の気持ちに全く無関心なのに、繰り返すのは、国民の理解を求めるという判で押した一言だけ。それは理解が得られていないからだろう。野心だけは旺盛な誰かが権力を拡大するために手っ取り早い方法として思いついたのが集団的自衛権の閣議決定ではないのか。もし私の仮説が事実であったなら、冗談で済ませられるような事態ではない。ところで安部首相は、間違ってもちょび髭だけは生やさない方が良い。余りに似合いすぎて、国民が一斉に引くことは請け合いだからだ。
(追記)
ところで2014年の紅白歌合戦では、桑田佳祐がちょび髭をつけて登場、裸の王様という歌を披露した。NHK会長も真っ青だったろう。有難うサザン。48などと違って、君達こそ本当の国民的歌手だ。