「WTWオンラインエッセイ」
【第6巻内容】
「脱グローバル論」
「幸せとは何か」
「ワーキングプア」
「資本主義の終焉」
「集団化」
「原作者の手を離れた永遠のゼロ」
「アベノミクスの検証」
「政権が恣意的に憲法を変えることは許されない」
「改憲の意図」
「文民統制の骨抜き」
「アカデミー賞から」
「伏魔殿」
「政府の価値観」
「鳩山元首相」
「ユーモア、人間性、想像力」
「脱グローバル論」 2015/1/1
「脱グローバル論」内田樹他 講談社 2013年から、
前書きから… 今、私たちの時代はグローバリズムの時代です。世界は急速にフラット化し、国民国家のもろもろの「障壁」(国境線、通貨、言語、食文化、生活習慣などなど)が融解し、商品、資本、人間、情報があらゆる「ボーダー」を通り越して、超高速で自由自在に行き来しています。このままグローバル化が進行すれば、遠からず国民国家という旧来の政治単位そのものが「グローバル化への抵抗勢力」として解体されることになるでしょう。国民国家解体の動きはもうだいぶ前から始まっていました。
医療・教育・行政・司法に対する「改革」の動きがそれです。これらの制度は「国民の生身の生活を守る」ためのものです。怪我をしたり、病気をしたり、老いたり、幼かったり、無知であったり、自分の力では自分を守ることができないほど貧しかったり、非力であったりする人を「デフォルト(初期設定)」として、そのような人たちが自尊感情を持ち、文化的で快適な生活を営めるように気づかうための制度です。ですから、これらの制度は「弱者ベース」で設計されています。当然、それで「儲かる」ということは本質的にありえません。基本「持ち出し」です。効率的であることもないし、生産性も高くない。
でも、この20年ほどの「構造改革・規制緩和」の流れというのは、こういう国民国家が「弱者」のために担保してきた諸制度を「無駄づかい」で非効率的だとそしるものでした。できるだけ民営化して、それで金が儲かるシステムに設計し直せという要求がなされました。その要求に応えられない制度は「市場のニーズ」がないのであるから、淘汰されるべきだ、と。
社会制度の適否の判断は「市場に委ねるべきだ」というこの考え方には政治家も財界人もメディアも賛同しました。社会制度を「弱者ベース」から「強者ベース」に書き替える動きに多くの国民が喜々として同意署名したのです。
それがとりあえず日本における「グローバル化」の実質だったと思います。社会的弱者たちを守ってきた「ローカルな障壁」を突き崩し、すべてを「市場」に委ねようとする。
その結果、医療がまず危機に陥り、続いて教育が崩れ、司法と行政が不可逆的な劣化過程に入りました。現在もそれは進行中です。この大規模な社会制度の再編を通じて健常者のための医療、強者のための教育、権力者に仕えるための司法と行政以外のものは淘汰されつつあります。驚くべきことは、この「勝ったものが総取りする」というルール変更に、(それによってますます収奪されるだけの)弱者たちが熱狂的な賛同の拍手を送っていることです。国民自身が国民国家の解体に同意している。市民たち自身が市民社会の空洞化に賛同している。弱者たち自身が「弱者を守る制度」の非効率性と低生産性をなじっている。倒錯的な風景です…。
中島氏のコメントから…その杜会の中に組み込まれていれば、何らかのおこぼれがずっと回ってくる。それによって再配分がなされ、みんなが生きていける。そんな形で日本型の杜会はやってきました。 しかし、これが大きく崩壊してきたのが90年代でした。雇用が流動化しーいろんな形で意図的に潰していった面もありますがー日本型の経営というものが崩壊し、そして、社会保障システムも潰れていきました。非正規の労働者が大量に出現し、これまでの日本型のシステムではカバーできないような問題を抱えた領域がたくさん生まれてきました。この領域をどう埋めていくか、どうやって制度やシステムを再整備していくのかが、これからおそらく非常に重要な課題になってくるだろうと私は思っています。そうした時に、まだ競争社会、あるいはグローバル化に適応する社会という方向でやっていくのか、それとも、行政と社会が手を結び、一体となって、何らかの受け皿を作っていくような社会を目指すのか。つまり、新しいコミュニティのあり方を模索し、みんなに居場所や出番のある社会(トポスのある杜会)を作っていくのか。
内田氏のコメントから…じゃあどうやってこの(日中の)鏡像的な競争関係から離脱するか。結論から言えば、どっちかが変わるしかない。で、変わるチャンスがあるのは日本の方なんです。中国は今まさにグローバル化しつつあり、それを成功体験として生きている。そういう国に向かって、「グローバル化を止めなさい」とは言えません。言っても聞かないし、競争関係から離れることができるとすれば、われわれ日本人の方です。日本人が、世界を埋め尽くしているグローバル資本主義とグローバリズムの価値観から一歩先に離脱する。ポストグローバル社会への移行プロセスに踏み出す。それによって中国人と欲望の対象をずらしていく。領域国家としての国境や資源の「囲い込み」についての考え方をずらしてゆく。それは日本人が先んじてやるしかない。そうしない限り、このフリクションは絶対に解決しません。もちろん、両国民が口を揃えて「寸土も譲らず」とヒステリックにわめき立てて日中戦争を始めるというソリューションもありますし、本気でそんなことを考えている人もいるようですけれど、そんなことが起きたら両国ともに深い傷を負うことになるし、東アジア全体の地域秩序が収拾のつかない混乱のうちに落ち込むことになる…。
「幸せとは何か」 2014/12/12
総選挙を目前にし、ノーベル平和賞のスピーチを聞いて、幸福とは何かを改めて考えた。私なりの結論としては、それは他の為に生きることだと思い至った。無論私のような菲才の人間には達し得ない境地だが、自分の為に生きるという事は、わかりやすく言えば自己中のことだ。もっと言えば自分のためなら他を犠牲にしてもという考え方だ。資本主義の本質が利益至上主義、即ち自己中心主義であることが原因である。
マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べたことは、キリスト教の倫理、特にその勤勉な生き方が、資本主義の発展に貢献したという意味だと理解している。しかし現在の米国の自由市場主義が格差をいやが上にも広げている姿からは、少なくもそこにいかなる倫理観も正当性も見て取ることは出来ない。翻って無償の行為の典型は、子供を育てる母親の姿に見ることが出来る。なんの代償を求める訳でもない。そこにはひたすら献身があるだけである。
今世界が最も必要としていることは、ただ一つ、資本家と、労働者とに関わらず、また公務員と民間企業に関わらず、自らの為に活動することを離れて、他(顧客や国民)の為に活動することだ。そこにこそ、閉塞感に満ちた現代の個人の精神生活と社会活動の活路、突破口があると思われる。
ところで貢献される側はともかく、貢献する側に幸せはあるのだろうか。私はそこにこそ至上の幸福感があると信じる。最近ご近所でお年寄りが亡くなり、看取った方から、「自分の人生には何も良いことなどなかった」と言って去っていかれたと聞いた。それこそが最悪の人生ではないか。そんな死に方、いや生き方は絶対にしてはならないのである。
昨日ご紹介したコラムで、豊かさが幸福だと言った経済の専門家がおり、私はそれを批判した。物質的な豊さの追求こそが、格差を生む原動力だからである。幸福はむしろ公平な環境の中にある。皆が貧しいのは耐えられる。でも格差があれば、いかに自分に巨万の富があろうとも、上の上を見て、常に飢餓感に悩まされる。だから永遠に幸福にはなれない。格差を解消するように動く時、即ち与える時にこそ、幸福がもたらされるのだ。
私が長男の名前を決めたとき、漢字を一字変えたが、他人に公平で、自分も他から公平に扱われるようにという願いもあった。他人に公平という観念は、自分も公平に扱われたいという願望であり、共に他人の幸せを願うということでもある。
人間は一人では絶対に生きられない。経済システムも多数が助け合って生きてゆく姿を前提にしている。今の資本主義はそういう原始的な経済システムの概念から大きく乖離しており、それが世界の諸悪の根源にもなっている。しかし、だから原始共産主義に戻れと言っている訳ではない。現状より、もっと良いやり方があるはずだと思う。
話を個人のレベルに戻そう。与えるということで分かりやすい例が、オスカー・ワイルドの幸福の王子だ。貧しい者のために身につけていた宝石を全て与えた銅像の幸福の王子。残ったのはみすぼらしい銅像だけ。それでも一番幸せだったのは与えた側の王子自身だったのではないか。銅像に寿命があるのかどうかは分からないが、王子が死ぬときに、王子は誰からも何も与えられなかったのに、いわば良いことなど何もなかったのに、自分が不幸せだったとは決して言わなかったと思うのである。
私達が死ぬときに一番望ましい言葉は、未だすることが残っているのに…である。そうでなければ、力は及ばなかったが自分としては精一杯やった、かもしれない。そこには自分への執着はなく、自分に対する哀れみもない。死ぬ時でも前のめりなのだ。だからこそ、その個の死な不幸な死ではないのである。またそういう言葉であれば、残された者に生きる勇気を与えてくれるのだ。
「ワーキングプア」2015/1/6
労働環境について、新聞報道で私達が知るのは、派遣が増えて正規雇用が減っていることくらいだが、実は雇用が飛んでもないことになっていることが下記の本を読むと分かる。ついでに言えば労働組合の堕落ぶりもである。政府の御用経済学者の、専門家としての資質さえ疑われるような発言を昨日御紹介したが、本書をご一読頂くと、何故私が安倍政権に怒りを燃やしているかをご理解頂けると思う。それは生存権がおびやかされているからなのだ。この本自体は、2009年の出版だが、状況は改善されるどころか、ますます悪化している。今回は引用が長いので、少し読みづらく感じるかもしれない。それでも本文よりは短いので、しばしのご辛抱を御願いしたい。
岩波ブックレット「脱貧困への政治」から 雨宮・中島・宮本・山口・湯浅共著
…非正規と正規の対立を超えて-磯能不全のセーフティーネット
私が今回の派遣切りの問題で気になっているのは、実は正社員の問題です。非正規の人たちを雇用の調整弁として使うということは、別にいまに始まったことではありません。ずっと昔からありました。だけど、いままではそれにまともに異を唱えてこなかった。正社員の人たちもいわば黙認してきた面があったわけです。
このときの理屈は次のようなものではないでしょうか。
例えば出稼ぎに来ている労働者や、親元に住んでいるフリーター、あるいは夫のいる主婦パート。そういう人たちは、仕事を切られたり、雇用の調整弁として使われて、かわいそうだけれど、生活できなくなるわけではない。生活を支えてくれる家族や生活手段が他にある人たちなのだ。
他方、自分たちは、家族(主婦パートや学生アルバイトを含む)を養わねばならない。だから、自分たちが仕事を失ったら一家全員、路頭に迷ってしまう。非正規とは責任が違うのだ。自分たちの仕事はその責任に見合うだけのものなのだ。そのような感覚で、正規社員は非正規の問題をあまり重視してこなかったのではないかと思います。
この10年間で非正規の人がおよそ600万人増えました。現在は、そのなかで初めての本格的な不況です。そのとき、またいままでと同じように、「あの人たちはしようがない」といって非正規を切りますか、正社員はそれを黙って見ていますか、ということです。私はそれが気になってしようがないのです。
この1〜2年で明らかになったのは、夫婦とも非正規の共働きでギリギリの生活を送っている人たちがいるということです。非正規雇用の収入で家計を支えている。あるいは年老いた両親の年金がわずかなため、非正規で働く自分の給料を家に入れることで生活を支えている、そういった人たちがかなりいます。ワーキングプアの問題です。
そして正社員は、新自由主義的な風潮のなかで「既得権益」として批判され、「日本の正規雇用者は守られすぎている」と叩かれている。非正規雇用の問題を黙認していたら、同じような問題を自分たちに突きつけられてしまっているというのが現状なのではないでしょうか。
このような現状で、企業の責任はきわめて大きいのですが、一方で政治の責任も大きい。
セーフティーネットという概念がありますが、これは三層の構造になっています。一段目の雇用の領域でうまくいかなくても、二段目の社会保険のネット、さらに三段目の公的扶助というネットが受け止める。こういう重層的な構造が本来のセーフティーネットのあり方です。憲法25条で、われわれは生存権を保障されているわけですが、現実には、この最低ラインを下回る人たちが大勢出てきている。セーフティーネットが機能していないのです…。
…ここまでの話ならば、貧困問題は、「この人たちはかわいそうだから、なんとかしてあげましょう」ということになるのですが、ここで終わらないのが貧困問題の難しいところです。
この人たちも当然、生きようとする。そのときどうするのか。雇用は支えてくれない、公的なネットも利いていない。セーフティーネットからはじかれた状態で生きている人たちの少なくない数をその家族が支えていますが、家族が支える力もいまは弱まってきています。フリーター第一世代ももう40歳になる頃ですから、その親世代はすでに労働市場から撤退している年齢です。
いつまでも子どもたちの面倒をみる余裕があるわけではないでしょう。
すると、彼らは家庭の外に出てきます。それでも生きていこうとすると、結局、働くしかないのです。三層のいちばん上の雇用の領域に戻っていくわけです。
「なんだ、働けるのだったらいいではないか」という話かというと、そうではない。このとき、どういう労働者になって戻ってくるかを考えて欲しい。
彼らは、今月の家賃が払えない、住むところがない、今日明日食べるものもない、という状態で労働市場に戻ってくるのです。とにかく今日明日のお金が必要だから「どんな低賃金でも働く」、「どんな条件でも呑む」、「どんなに話と違う現場でも行く」、「今日明日食える仕事をください」という労働者です。
これを私は「NOと言えない労働者」だと言っています。
すると、どういうことが起こるか。雇う側も当然、そんなに安く働く人がいくらでもいるという紙になります。労働市場がガタガタと壊れていく。
これが、先ほどの、正社員たちが非正規の人たちを軽視していたら、その声がテコとなって利用され、自分たちの首を絞めるという貧困スパイラルの問題です。そして正社員の低処遇化、成果主義化を進めていく圧力になります。問題は、常に自分たちに跳ね返ってくるのです。
非正規・正規という分け方ではなく、雇用全体をしっかり守ることが、ひいては自分たちの利益にも適うということを正規雇用の人たちは自覚し、問題を立てていく必要があります。
正規と非正規の表面的な対立は、問題の本質を見えなくしてしまい、一部の経営者だけを利する結果につながっていきます。こういった点を、労働組合のナショナルセンター、連合(日本労働組合総連合会)や全国労働組合総連合がどう捉え、動くのか。非正規の問題を黙認すれば、結果的に墓穴を掘ることになる。ここが非常に重要なポイントです。
いま、あらわになってきている貧困の問題というのは、もともと野宿の問題に内包されていた。
野宿者の存在は、「炭鉱のカナリア」的な面がありました。野宿の人が目の前で寝ているわけですから「目に見える貧困」です。これは日本社会へ警鐘を鳴らす存在です。
日本社会はずっとそれを見逃してきた。そのメッセージを受け止め損ねてきた。「なんだか変わったやつらがいるな」、「公園を占拠されてはこっちが迷惑」などと語ってきたのです。この警告をもう少し早く受け止められていたならば、日本はいま、このような状態にはなっていなかったかもしれないと思うのです…。
…社会の形がどう変わったのか。
日本社会はかつて提灯型社会と言われた。中間層が分厚くて、上下の格差が小さい、そういう社会です。経営者と平社員の間も収入、報酬がそんなに開いていない、そういう社会。もちろん当時も貧困層は存在しました。
ところがいまの日本は、提灯のような形をした風船を横からギューッとプレスするように潰した形になっています。横から押さえつけるので、縦長の楕円になる。
このような圧力がかかると、下が出っ張ってきますから、貧困層が増えてきます。けれど、貧困層が増えてくる社会というのは、貧困層だけが増えるわけではない。横からプレスしているから、真ん中が細くなっていきます。同時に中間層が弱まっていくわけです。
そして上も出っ張っていきますから、富裕層が増えてくる。いま純金融資産を一億円以上持っている富裕層は150万人。一方、生活保護を受けている人が157万人ですから、ほぼ見合っている。その数は年々、5%ずつ増えていくと言われており、縦長に伸びていきます。 これをさらに横からプレスし統けたらどうなるかというと、最後は破裂してしまう。破裂する直前の形は、真ん中が細く上と下が膨らんだ、ヒョウタンの形になります。アメリカ型社会がこのような形と言われています。中間層が弱くて、上下に二極化された社会です。
このままプレスし続けなければ日本はグローバル競争に生き残れない、と言われてきた。その大本であるアメリカがあのような状態になっている。プレスを本当に続けていていいのか、という問題に多くの人たちが気づき始めました。
この先どうするのか、潰す力をもう一度強めるのか、がいま、問われています。
あるいは元の形に戻していくのか。
貧困ラインの下が増えたという部分だけを議論していたら、問題の本質は見えません。「最近の若い人、だらしないのかな」、「ガッツが足らないのかな」、「コミュニケーションがとれないのかな」といったように、貧困に陥っている人たちの資質の問題に還元していくことになってしまうからです。けれど、社会の形を見れば、問題は構造的なものであって、どのような圧力が問題の根源に存在するかがわかってくる。貧困層の個人的な資質の問題ではなく、構造の問題だということが理解できると思います…。
…そうすると、みなギリギリで働くようになる。もう走るように働かないといけなくなる。このように、きつい状態が拡大していく。スピードアップでハードルは上がっていきますので、他の人と同じペースでテキパキ動けない人が出てくるだろうと思います。
そういう人は、最終的には解雇されてしまうわけですが、しかしその前に、同僚のいじめにあって辞めるだろうなと思うのです。「あんたがモタモタしているから、いつまでたっても終わらないじゃないか、全体のせいにされるじゃないか」と言われて、職場からはじかれていく。
労働市場が、暮らしが厳しくなってくるなかで、余裕も失われていきますから、そんなことが起ってくる。では、この人たちは労働市場からはじかれたときに、セーフティーネットで支えられるかというと、そうはならない。この人たちは、次にこう言われるわけです。「あなた、働けないのですか、働けないわけではないのでしょう、だったら働きなさいよ、ぜいたく言うんじゃないよ、選ばなければいくらでも仕事はあるのだから」と。こうやって、貧困者は量産されていく。
そして、この人たちは「NOと言えない労働者」になり、悪循環が加速する。だから、この連鎖を断たなければいけないのです。「この人たちはかわいそうだから、なんとかしてあげましょう」というような話では、問題の解決は難しい。この構造に目を向けなければならない。
そのためには、私たちが声を挙げていく必要があります。やはり、行政にはきちんと憲法や法律を守ってもらう。おかしなことに対してはおかしいと言う。誤った政策に対してはしっかりと批判をして修正させる。それがやはり、私たちの責任だと思うのです。
いままで私たちは、ずっとそれをあきらめてきた。不況だからしようがないのだとあきらめてきた。「このままでは企業が潰れるけど、いいの?」と言われて、非正規を増やすのはしようがないのだと許してきた。
「しようがない、しようがない」
「国はいま借金漬けだから、社会保障費を削るしかない」と言われて、それも許してきた。
「しようがない、しようがない」
そうやっているうちに、どんどん生きづらい世の中になってきた。
日本全体において、まともな生き方ができない社会になりつつある。そのことが、不安の連鎖をおこし、安定した環境をさらに破壊していく。
急激な少子化が進んでいるのも自然現象ではなく、様々な人為的な要因がからんでいます。
「しようがない、しようがない」で、あきらめて、あきらめて、子どもを産み、育てられる社会もあきらめますか、と私は問いたい。そうなったら、日本はもう社会の体をなさない。
「しようがない、しようがない」はもうやめましょう。
私たちが果たさなければいけない責任、それは市民としての責任です。「自己責任」という圧力を、貧困層にかけている場合ではないのです…。
「資本主義の終焉」 2015/1/27-2/12
水野和夫の最近の名著「資本主義の終焉と歴史の危機」から、自分なりに気になった個所を紹介したい。但し、私の紹介には、不十分な解釈や、本質を伝えていない可能性が少なからずあると思うので、ぜひ店頭で本書を手に取って頂くことをお勧めする。極めて読みやすい本である。
冒頭で前書きを紹介しますが、ここには筆者の危機感が込められている。部分的な紹介というにはいささか長すぎるが、読んで飽きるということはないと確信している。
…資本主義の死期が近づいているのではないか。
その理由は本書全体を通じて明らかにしていくつもりですが、端的に言うならば、もはや地球上のどこにもフロンティアが残されていないからです。
資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステムです。
「アフリカのグローバリゼーション」が叫ばれている現在、地理的な市場拡大は最終局面に入っていると言っていいでしょう。もう地理的なフロンティアは残っていません。
また金融・資本市場を見ても、各国の証券取引所は株式の高速取引化を進め、百万分の一秒、あるいは一億分の一秒で取引ができるようなシステム投資をして競争しています。
このことは、「電子・金融空間」のなかでも、時間を切り刻み、一億分の一秒単位で投資しなければ利潤をあげることができないことを示しているのです。
日本を筆頭にアメリカやユーロ圏でも政策金利はおおむねゼロ、10年国債利回りも超低金利となり、いよいよその資本の自己増殖が不可能になってきている。
つまり、「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなってきているのです。資本主義を資本が自己増殖するプロセスであると捉えれば、そのプロセスである資本主義が終わりに近づきつつあることがわかります。
さらにもっと重要な点は、中間層が資本主義を支持する理由がなくなってきていることです。自分を貧困層に落としてしまうかもしれない資本主義を維持しようというインセンティブがもはや生じないのです。こうした現実を直視するならば、資本主義が遠くない将来に終わりを迎えることは、必然的な出来事だとさえ言えるはずです。
資本主義の終わりの始まり。この「歴史の危機」から目をそらし、対症療法にすぎない政策を打ち続ける国は、この先、大きな痛手を負うはずです。
…政界にしろ、ビジネス界にしろ、ほとんどの人々は「資本主義が終わる」、あるいは「近代が終わる」などとは夢にも思っていないようです。その証拠に、アメリカをはじめどの先進国も経済成長をいまだ追い求め、企業は利潤を追求し続けています。
近代とは経済的に見れば、成長と同義語です。資本主義は「成長」をもっとも効率的におこなうシステムですが、その環境や基盤を近代国家が整えていったのです。
私が資本主義の終焉を指摘することで警鐘を鳴らしたいのは、こうした「成長教」にしがみつき続けることが、かえって大勢の人々を不幸にしてしまい、その結果、近代国家の基盤を危うくさせてしまうからです。
もはや利潤をあげる空間がないところで無理やり利潤を追求すれば、そのしわ寄せは格差や貧困という形をとって弱者に集中します。そして本書を通じて説明するように、現代の弱者は、圧倒的多数の中間層が没落する形となって現れるのです。
…世界の余剰マネーを「電子・金融空間」に呼び込み、その過程でITバブルや住宅バブルが起こりました。アメリカは世界中のマネーをウォール街に集中させることで、途方もない金融資産をつくり出したのです。
…しかし、アメリカの金融帝国化は、決して中間層を豊かにすることはなく、むしろ格差拡大を推し進めてきました。この金融市場の拡大を後押ししたのが、新自由主義だったからです。
新自由主義とは、政府よりも市場のほうが正しい資本配分ができるという市場原理主義の考え方であり、アメリカでは「レーガノミクス」に始まりました。
…資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、資本側のリターンを増やしますから富む者がより富み、貧しい者がより貧しくなっていくのは当然です。これはつまり中間層のための成長を放棄することにほかなりません。
…「資本のための資本主義」が民主主義を破壊する
こうした国境の内側で格差を広げることも厭わない「資本のための資本主義」は、民主主義も同時に破壊することになります。民主主義は価値観を同じくする中間層の存在があってはじめて機能するのであり、多くの人の所得が減少する中間層の没落は、民主主義の基盤を破壊することにほかならないからです。
…近代では個々人が主役となったことで、ある特定の人が情報を独占することは許されなくなりました。国家も情報を独占することは許されないのです。
そういった意味でスノーデン事件はおそらく21世紀の大問題に発展すると思います。
情報は誰のものか、という議論は、中世から近代への移行期だった「長い16世紀」においてラテン語を独占していたローマ・カトリックと俗語(ドイツ語や英語)でしか情報を伝えられないプロテスタントのたたかいだったのです。結果はもちろんプロテスタントの勝利に終わったのですが、情報を独占する側が常に敗者となるのが歴史の教訓です。
この観点からみてもスノーデン事件が問いかけているのは民主国家の危機なのです。
…賞味期限切れになった量的緩和政策
民主国家の危機という意味では、リーマン・ショック以降のベン・バーナンキFRB前議長による量的緩和政策も、その文脈で捉えることができます。マネーの膨張は中間層を置き去りにし、富裕層のみを豊かにするバブルを醸成するものだからです。
…バブル崩壊は結局、バブル期に伸びた成長分を打ち消す信用収縮をもたらします。その信用収縮を回復させるために、再び「成長」を目指して金融緩和や財政出動といった政策を総動員する。つまり、過剰な金融緩和と財政出動をおこない、そのマネーがまた投機マネーとなってバブルを引き起こす。先進国の国内市場や海外市場はもはや飽和状態に達しているため、資産や金融でバブルを起こすことでしか成長できなくなったということです。
こうして、バブルの生成と崩壊が繰り返されていくのです。
バーナンキFRB前議長が述べたように、「犬の尻尾(金融経済)が頭(実物経済)を振り回す」時代です。そして、サマーズ元財務長官の言葉を繰り返せば、「バブルは三年に一度生成し、弾ける」というわけです。
そして今また、欧米でも日本でも同じようなバブルの生成と破裂が繰り返されようとしています。
私にはこうした動向は、脱成長の時代に逆行する悪あがきのようにしか思えないのです。
…「地理的・物的空間」に投資をしてもそれに見合うだけのリターンを得ることができなくなった。
つまり、ある一定期間(たとえば工場であれば10年、店舗であれば30年)資本を投下し、投下した分以上に利潤を得ていくという資本主義のシステム自体が限界に突き当たったのです。
そのことを端的に示すのが、資本の利潤率とほぼ一致する長期利子率(10年ものなどの長期国債の利回り)の低下です。そして現在、日本とドイツは、17世紀初頭のイタリア・ジェノヴァ以来の超低金利時代、すなわち21世紀の「利子率革命」を経験しています。
…構造改革や積極財政では近代の危機は乗り越えられない。
以上見たように、量的緩和政策は実物経済に反映されず、資産価格を上昇させてバブルをもたらすだけです。一方、公共投資を増やす積極財政政策は、過剰設備を維持するために固定資本減耗を一層膨らますことになります。
そしてこのふたつの経済政策はどちらも雇用者の賃金を犠牲にすることになります。量的緩和のあとバブルが崩壊すれば、企業リストラと称して急激な賃金引き下げや大量失業を招きますし、積極財政のあと景気回復すると、先ほど説明したように、固定資本減耗と営業余剰を合わせた増加額が、付加価値の増加を上回ってしまい、賃金が抑制されることになるからです。
… 既存のシステムはこれ以上「膨張」できないために機能不全に陥っています。それにもかかわらず、既存のシステムを強化したところで新しい「空間」は見つかりません。改革者の意に反して、既存のシステムの寿命を縮め、時代の歯車をいっそう早回しすることになります。
我々はもう少し歴史から学ぶべきです。
…より遠くへ、より合理的に、を行動原理とした近代資本主義とは異なるシステムを構築しなければなりません。
…前進するための「脱成長」
では、成長を求めない脱近代システムをつくるためにはどうすればいいのでしょうか。
中世から近代への転換時に、ホップズ、デカルト、ニュートンらがいたように、現代の知性を総動員する必要があると思います。
ただ、少なくとも新しい制度設計ができ上がるまで、私たちは「破滅」を回避しなければなりません。そのためには、当面、資本主義の「強欲」と「過剰」にブレーキをかけることに専念する必要があります。
…日本もアメリカも膨大な国家債務を抱えていますが、それは成長を過剰に追い求めた結果なのです。
一国の財政状況には、そのときどきの経済・社会構造が既存のシステムに適合しているかどうかが集約的に表れています。巨額の債務を恒常的に抱え込んでいるということは、すでに日本の経済・社会構造が資本主義システムには不適合であることの証です。
(追記2015/2/12)
以前ご紹介した水野和夫の「資本主義の終焉と歴史の危機」からもう一文ご紹介する。
(126頁)…「長い16世紀」のスペイン帝国が戦争を繰り返したのは、当時、社会のシステムが転換しようとしているにもかかわらず、過去のシステムを強化してなんとかしのごうとしたからです。たとえばフェリペ四世のもと実権を握ったオリバーレスは1622年に中央集権的王政の実現、すなわち帝国システムの強化を企図して大構造改革を断行しましたが、それも大失敗に終わりました。
既存のシステム(当時は帝国システム)が機能不全に陥っているとき、既存システムを維持・強化しようとすれば失敗するのは明らかです。以降、スペインは歴史の表舞台からは姿を消していきます。
ひるがえって現在の日本も、インフレ目標政策(第一の矢)、公共投資(第二の矢)、そして法人税の減税や規制緩和(第三の矢)など総動員して、なんとか近代システム(成長)を維持・強化しようとやっきですが、その過程で中間層の没落が始まっているのです。
いえ、日本に限らず、先進国全体の経済政策を見ても、スペイン帝国が戦争に適進したものの、結局、財政破綻を免れることができなかった道筋によく似ているように思うのです。つまりアベノミクスの積極的財政政策は資本ストックを一層過剰にするだけなのです。 スペインは中世の領土拡大モデルをそのまま強化したあげく、財政破綻に陥りました。同様に、現在の先進国は、成長信仰をそのまま強化したあげく、財政危機に陥っています。 成長を信奉する限り、それは近代システムの枠内にとどまっており、近代システムが機能不全に陥っているときにそれを強化する成長戦略はどのような構造改革であっても、近代の危機を乗り越えることはできません。
このような袋小路に陥ってしまうのは、いまだに「成長がすべての怪我を癒す」という近代資本主義の価値観に引きずられているからです。しかし、成長に期待をかければかけるほど、すなわち資本が前進しようとすればするほど、雇用を犠牲にするのです。グローバリゼーションがもたらす資源価格の高騰によって、先進国は実物経済から高い利潤をあげることはできない。その現実から目をそらして、なお過去の成長イデオロギーにすがりついたまま猛進すれば、日本の中間層はこぞって没落せざるをえません…。
「集団化」2015/2/13
安倍首相は施政方針演説で、農政を初め、かつてない改革を断行する、日本には再び経済的な繁栄が訪れるとぶち上げた。一方で消費増税は行う、憲法改正に向かって突き進むとも。それが国のためだ、国民のためだと言われれば、首相がそれを信じて、そう言うのなら、任せておけば良いと思う人も少なからず出るだろう。だって戦争は嫌だし、日本を戦争に引きずり込むような酷いこと(暴走)までは、いくら国家主義者で鷹派だといってもしないだろう。二言目には国と国民の平和を守ると言っているのだ…。しかし、それは政権に好意的な(というより批判的でない)人たちの思い込みである可能性が高い。なぜなら、政権の説明通りなら、安全、安心で豊かな日本が向こうからやってくることになるが、そんなことはどんな政権だって約束できないことで、論理的にもおかしい。出来ることはそこに向かって努力することくらいだ。
安倍首相の言うことには、確かに意志は感じられても、理論的な裏付けがない。経済一つとってみても、金融政策に無理に無理を重ね、またろくな経済のアドバイザーさえいない現状では、安倍政権であるがゆえに、危険な方向に進む可能性が高い。本来誰も出来ない約束を、安倍首相は出来ると言っているだけなのかもしれないのだ。
安倍首相はこうも言っている。「行き過ぎた格差是正は経済の活力を奪う」と。これはピケティへの反論として言われたものだが、この説明を聞くと、今の日本には格差がない、だから是正すれば行き過ぎるというロジックに行き着く。生活にあえいでいる派遣労働者は一人もいないかのようだ。自分の都合の悪いことからは目を背けようとする国の代表。だから桑田佳祐に裸の王様だと言われてしまうのである。
今回は朝日新聞2月11日のオピニオンからふたつ紹介する。私のような偽物ではない、本当のオピニオンである。
映画監督 森達也氏
著書に「すべての戦争は自衛意識から始まる」。
…オウム真理教の事件でも、まずは「卑劣な殺人集団だ、許せない」など宣言しなければ話ができない、そんな空気がありました。 大きな事件の後には、正義と邪悪の二分化が進む。だからこそ、自分は多くの人と同じ正義の側だとの前提を担保したい。そうした気持ちが強くなります。
今の日本の右傾化や保守化を指摘する人は多いけれど、僕から見れば少し違う。正しくは「集団化」です。集団つまり「群れ」。群れはイワシやカモを見ればわかるように、全員が同じ方向に動く。
違う動きをする個体は排斥したくなる。そして共通の敵を求め始める。つまり疑似的な右傾化であり保守化です。
…不安と恐怖を持ったとき、人は一人でいることが怖くなる。多くの人と連帯して、多数派に身を置きたいとの気持ちが強くなる。こうして集団化が加速します。
群れの中にいると、方向や速度がわからなくなる。周囲がすべて同じ方向に同じ速度で動くから。だから暴走が始まっても気づかない。そして大きな過ちを犯す。
ここにメディアの大きな使命があります。政治や社会が一つの方向に走りだしたとき、その動きを相対化するための視点を提示することです。でも特に今回、それがほとんど見えてこない。
多くの人は「テロに屈しない」という。言葉自体は正しい。でも、そもそも「テロ」とは何か。交渉はテロに屈することなのか。そんな疑問を政府にぶつけるべきです。「テロに屈するな」が硬直しています。その帰結として一切の交渉をしなかったのなら、2人を見殺しにしたことと同じです。
今回の件では、政権は判断を間違えたと僕は思います。でも批判や追及が弱い。集団化が加速しているから、多数派と違う視点を出したら、社会の異物としてたたかれる。部数や視聴率も低下する。たしかにそれは予測できます。
メディアも営利企業です。市場.原理にあらがうことは難しい。でも今は、あえて火中の栗を拾ってください。たたかれてください。罵倒されながら声をあげてください。朝日だけじゃない。全メディアに言いたい。集団化と暴走を押しとどめる可能性を持つのはメディアです。それを放棄したら、かつてアジア太平洋戦争に進んだ時の状況を繰り返すことになる。 「イスラム国」の行為に対して「人間が行うとは思えない」的な言説を口にする人がいます。人間観があまりに浅い。彼らも同じ人間です。ホロコーストにしても文化大革命にしてもルワンダの虐殺にしても、加害の主体は人間です。人間はそうした存在です。だからこそ交渉の意昧はあった。そうした理性が「テロに屈するな」のフレーズに圧倒される。利敵行為だとの罵声に萎縮する。こうして選択肢を自ら狭めている。
違う視点を提示すれば、 「イスラム国」を擁護するのか、などとたたかれるでしょう。誰も擁護などしていない。でもそうした圧力に屈して自粛してしまう。それはまさしく、かつての大日本帝国の姿であり、9・11後に集団化が加速した米国の論理です。米国はイラクに侵攻してフセイン体制を崩壊させ、結果として「イスラム国」誕生につながった。このとき日本は米国を強く支持したことを忘れてはいけません。同じ連鎖が続きます。
多数派とは異なる視点を提示すること。それはメディアの重要な役割です。
フリージャーナリスト 土井敏邦氏
主な著書に「占領と民衆-パレスチナ」。
…テレビも新聞も日本人の生死に関する報道で埋め尽くされたことに、私は強い違和感を覚えます。過去にも紛争地で日本人が巻き込まれるたびに似た報道が繰り返されました。2004年にイラクで高遠菜穂子さんらが人質となり、07年にはビルマ(現ミャンマー)の民衆デモを取材していた長井健司さん、12年にはシリアを取材中の山本美香さんが殺され、メディアはその報道一色になりました。
報道が日本人の生死で埋め尽くされると、肝心の現地の表情が伝えられなくなります。内戦に巻き込まれて苦しむシリアの女性や子どもも、寒さと飢えに苦しむ何十万人というシリア人避難民のことはどこかへ行ってしまった…
積極的平和主義を唱える安倍晋三首相は、イスラエルの首相と握手をして「テロとの戦い」を宣言した。しかし「テロ」とは何か。私は去年夏、イスラエルが「テロとの戦い」を大義名分に猛攻撃をかけたガザ地区にいました。 F16戦闘機や戦車など最先端の武器が投入され、2100人のパレスチナ人が殺されました。1460人は一般住民で子供が520人、女性が260人です。現地のパレスチナ人は私に「これは国家によるテロだ」と語りました。
そのイスラエルの首相と「テロ対策」で連携する安倍首相と日本を、パレスチナ人などアラブ世界の人々はどう見るでしょうか。それは、現場の空気に触れてはじめて実感できることです。
自民党の高村正彦副総裁は、後藤さんの行動は政府の3度の警告を無視した「蛮勇」だと非難しています。しかし政府の警告に従っているばかりでは「伝えられない事実を伝える」仕事はできません。悪の権化と伝えられる「イスラム国」。その支配下にある数百万の住民はどう生きているのか、支配者をどう見ているのか。それは今後の「イスラム国」の行方を知る上で重要な鍵であり、将来の中東の政治地図を占う上で不可欠です。現在は危険で困難ですが、それを伝えられるのは現湯へ行くジャーナリストです。
メディアが日本人報道一色になり、被害者を英雄や聖人にしたり、一転して誹謗中傷したりという形で視聴率や部数を稼ぐような報道をくりひろげている一方で、ジャーナリズムの危機が迫っているのです。私たちフリーにとっても大手メディアにとっても、安易な自主規制や萎縮はジャーナリズムの自殺行為になりかねません。
「原作者の手を離れた永遠のゼロ」2015/2/16 (追加2/19)
今日は愛国について語ろうと思う。きっかけは小説「永遠のゼロ」のTVドラマだ。
安倍首相が望んでいる日本の姿は、豊かなだけでなく、強い日本だと思う。未だ明確に強いという言葉を使ってはいないが、そう思っていることは誰にでも分かる。経済大国日本に欠けているのは(彼から見れば)その経済的規模に相応しい存在感であり、国際的な地位と威厳と発言権であり、外国からの尊敬であり、翻って国を代表する自分への尊崇の念だろう。政治家として世界史に名を残したい、岸元首相が出来なかった富国強兵国家を実現したいということかもしれない。もはや彼の心の中では、自分と日本が同一の存在になっているのだろう。日本即ち安倍晋三である。だから彼にとって、この美しい国日本を愛さない国民がいるなどは、到底信じ難いことであって、またそんな人間がいるとすれば、それは日本を侮辱し否定する非国民であって、売国奴に他ならないということになるのだろう。
なぜいま愛国の問題を取り上げるのかというと、「永遠のゼロ」がTVドラマ化されたからだ。私は何年も前に小説を読んで推薦書にした。映画も見た。その後でNHKの経営委員になった作者の百田が暴言を繰り返した後でも、作品は、作家とは別のものだと割り切っていた。百田が経営委員になったのも、安倍首相がこの小説を読んで感動したから(映画も見たと伝えられる)であって、これは最近では最も深刻な皮肉の一つと言える。というのは、この小説は、二つの正反対な捉え方が可能であって、おそらく作者と首相の見方は同じであり、それと私を含む多くの国民の見方とは真逆だからである。
私には、もはやこの作品は作者の手を離れて、一人歩き、或は独り立ちしているように思われる。この小説の映画には、作者の価値観が未だ色濃く残っているが、TVドラマの方には、読者側の価値観が強く影響しているように思われる。具体的に言えば、反戦がテーマではあっても、それよりも国の為に命を捧げたことが尊い(そこから靖国問題への安易な解釈に結びつく)というのが百田と首相の見方であり、人の命が一番大事だというのが私を含む多くの解釈だからだ。国を守るために戦うのが、どこが悪いというのが首相と百田の、何のための戦争かという大本の理念さえ考えようとしない開き直った見方だ。でも私を含む大多数はそうは考えていない。命が大事だ、だから戦争はするなというものである。この理解の違いには実は天地の違いがある。それは後藤さん殺害事件での、政府(=国)と、国民の反応の違いを見れば一目瞭然なのである。
作品の長さも質も、役者の演技という面から見ても、TVドラマの方が遥かに上である。主人公、宮部久蔵を知る高齢者の回顧のシーンに登場する脇役達も、これだけ渾身の演技は並のTVドラマでは見られるものではない。俳優たちの演技はもはや演技のレベルを超えている。私が二言目には戦争に向かうなと百回言うよりも、このドラマを一回見てもらうほうが、よほど説得力がある。三日目の最終回の最後部分では、もはや涙をこらえることができなかった。虚構ではあるが、生きたくても生きる事が許されない、主人公の宮部のつらい気持ちが見る者の胸に迫る。役者という仕事は、想像力と人間に関する深い洞察がなければ出来るものではない。主役としても、映画の岡田准一よりドラマの向井理の方が遥かに存在感がある。この小説を読む者、それを演じる者全てが、偶然のように生まれたこの小説から何を学ぶか。そこで人生観と人間の価値を問われている。
安倍首相の解釈によれば、万人の為の個人はあっても、個人の為の万人は存在していないかのようだ。しかもどうもその万人でさえも、全国民というより一部のエリートや特権階層を意味しているのではないかと強く思わせるものがある。
ここで本論に戻ると、安倍首相に、国とは何かという質問をしたらどんな答えが返ってくるのだろうか。国民の一部のためだなどとは決して言わないだろう。でもその時、彼の脳裏に浮かぶ平均的な国民像というのは、健康で安全な中産階級の姿ではないのか。でも私たち市井の一庶民でさえ、実際にはそれが絵空事でしかなく、世間を動かしているのは、実に多様な考えを持つ、雑多な人間たちであって、それゆえさまざまな事件が起きているということを知っている。安倍首相の理念の中にはそういう多様性を容認する懐の広さも気持ちの余裕も感じられない。子供は絵に描いたような子供であり、主婦は主婦、サラリーマンは勤労者、といった既成概念の下にパターンを決めて整理しようとする。そこに、顔のない多数は存在しても、個の存在する余地はないのだ。
もうひとつ彼にとって国とは何なのだろう。国というものは、私にとっては雑多な人間たちの集合体だが、彼の頭の中では、それは国民の集合体を超えた何かであるように思われる。それは個人を超越した組織であり、枠組なのかもしれない。だからこそ、憲法改悪案で、国民は国に奉仕すべき存在だという、憲法の精神とは正反対の表現さえ盛り込まれようとしているのではないか。憲法の精神を理解しようとしない身勝手さが、その国家観には明瞭に表れているように思われてならないのである。何故彼らは憲法をその成り立ちから勉強しようとしないのか。自分たちが変えようというのだから、内容や目的を完全に理解していなければ出来ないはずであろう。そういう不勉強な人たちに憲法に触る資格があるとは到底思えない。
安倍首相を含む改憲派の人たちが二言目に言う愛国心とはいったい何なのだろう。それは国民を超越した枠組みへの忠誠心を指しているとしか思えない。そうでないと、改憲論と論旨が一致しない。即ち国民を縛るなんらかの枠組み(昔風に言えば国体の護持)のことではないのか。これは以前にも書いた事だが、例えば、何らかの災害で全国民が居なくなった日本列島を考えてみよう。一人残った安倍首相が「国破れて山河あり」とつぶやくかどうかは知りようもない。仮に日本人全員がアラスカにでも移住(火星でもいいが)してしまった後でも、果たしてそう言えるのか。そこにあるのは空っぽの島であり、彼の定義で言えば、そのような4つの無人島でも国ということになるのだろうか。なぜなら美しい山河はそのまま残っているのだから。
愛国という言葉で思い出すのは天才的な作家、三島由紀夫だ。結局彼を最後まで支配していたのは巨大な虚無であったという分析もある。彼に当時賛同しながら自決には参加せず、その後都知事になり国粋主義を主張した作家がいた。しかし真の愛国主義は、実体のない国家を愛し、そのために命を捨てることではない。私は「永遠のゼロ」をそのように読み取っている。この小説は、いわば米国が用意した日本国憲法が、その後独り歩きを始めたようなものだ。真の愛国主義は愛国民主義なのであって、そこに気が付いていれば、三島も虚無感のうちに死ぬこともなかったのではないかと思うのである。
今まで虚構でなければ伝えられない真実があるという言葉を、そのまま信用したことはない。真実、或は事実以上に、虚構が説得力を持ち得るとは信じられないからだ。映画で言えばタイタニックは事実をベースにした虚構であり、物語として見ごたえのある作品に仕上がっている。でもそれが純愛以上の何かを伝えている訳ではない。しかし3部作のTVドラマ「永遠のゼロ」は違った。私は映画やドラマを見て泣くことはない。でも今回だけは駄目だった。第三部では、子供のように泣いたのである。生きたくても生きられなかった時代、他の為に自分の命を投げ出すことを強要された時代。そんな時代に自分が置かれたら、どのように感じ、どのように生き、あるいは死んだだろう。
ドラマを見て感動して、それで終わっていたら、意味のある真実を見出すことは出来ない。ドラマが我々に提示した「真実」に気付き、我々がそれに誠実に向き合うことで、初めて作品が命を宿すのである。我々観客こそが、このドラマの、最も重要な関係者なのだ。人の命をどうやって守っていけばよいのか。日本が戦争に巻き込まれないようにするには一体どうすれば良いのか。世界の随所で起きている紛争をやめさせて、市民の犠牲者が出ない様にするにはどうすれば良いのか。理不尽な戦闘と、無意味であろうが有意義であろうが、とにかく生命の損失を避ける方法はなにかを真剣になって考えなければならないのだ。これは原作者でさえ意図していなかった効果である。原作者から独り立ちした作品を、自分の解釈で昇華させることに成功したドラマの制作者が、ドラマに込めた意図こそが、この作品で最も重要な部分なのである。
小説と映画は、戦争を美化する部分を色濃く残しており、TVドラマでは最後まで戦争否定の姿勢を貫いている。その違いは、エンディングでもはっきりと表れており、特攻機で突っ込む時の、岡田准一(映画)と向井理(ドラマ)の表情の違いを見れば一目瞭然です。笑って死ぬなどあり得ないのだ。
DVDが出ているので、心ある読者は是非見て頂きたい。私が百万言を尽くすより、実際に見て頂くことで、命の大切さをご理解頂けると思う。戦後70年の長きに渡り、我々が平和の裡に生きてきたことが意味すること。それは戦争で亡くなった300万の国民の切実な願いが実を結んだということであり、またそれを我々同世代に生きる者が、子孫に伝えていかねばならないということでもある。大それたことの出来ない我々一般市民に出来ることは、記憶を風化させず、二度と戦火に巻き込まれない様に、戦争の身勝手さと悲惨さを次の世代に申し送ることでしかないのだ。
今の40-50代には戦争の記憶はない。戦時中に生まれた私にも、むろん戦争の記憶などない。でも戦争を語り次ぐことは、我々が、戦争の犠牲になった我々の親や祖父母に対して出来る今やただ一つの親孝行でもある。外国では戦争を分析し、反省するシステムがある。なのになぜか日本にはそれがない。それを指摘されると、地位や経済的理由で都合の悪い人たちや、その子孫がいるのだろう。でもそんな事では、日本を将来の戦火から守ることは出来ない。戦争の原因と対策を明確にし、同じ過ちを二度と繰り返さない様に国民が国家を厳重に監視する。そしてその役割の多くは憲法が担っているのだ。憲法の精神を守ることは、300万の戦争犠牲者に対する、我々の義務なのである。
戦後70年にわたり、戦禍にも会わず、平和な日本を生きてきた私たちに出来ることは、戦禍の思い出を語り継ぐだけでなく、戦禍の種を放置しないこと、すなわち戦禍の種を平気でまき散らす人たちを見過ごさないことだ。それが本当の積極的平和主義だと思う。
「アベノミクスの検証」2015/2/25-2/26
自分の良心だけに忠実に、良くないものは良くないと言えるのが、フリー・ライターの強みであり、この右傾化した社会(ネトウヨに首相がエールを送るような社会)にあっては、最高の精神的贅沢でもある。
安全を理由に、国民の生活や言動への締め付けが日々強まり、国民の精神に枠をはめようという政治の動きが感じられる。そこには二つの欺瞞(すなわちウソ)がある。一部特権階級の権利や利権を守るための政策や方針なのに、絶対にそう言わないことが一つ。もう一つは、今の政治体制では、国民を守るどころか、戦禍に投げ込みかねない、即ち守れないし、守る気もないということだ。自衛隊の海外派兵(と戦闘)を可能にする為に、政府は全力を挙げている。でもそれは特定の目的、即ちPKOではなく、米軍による米軍の戦闘を直接支援するためのものだ。そこには米国はいつも正しいという暗黙の大前提がある。でも本当にそうだろうか。米軍の軍事行動は、南米やベトナムで問題がなかったか。アフガン、イラクではどうか。
また今回の人質事件でも、既に存在しているはずの特殊部隊は動こうとしなかった。身代金は金額の問題もあったので払えかったというところまで百歩を譲っても(それでも交渉を拒否する理由にはならない)、救出作戦も最初から放棄していたとなると、意図的な見殺しだ。それが国民を守る政府なのか。人質事件の最中にゴルフに明け暮れる首相を信頼せよと言っても、無理だということが何故お分かりにはならないのか。国民は事実上、自分で自分を守るしかなく、しかも皮肉なことに最初に身を守るべき相手(敵)は政治の暴力なのである。
安全の問題をもう少し突っ込むと、国レベルだけでなく、市民レベルでも問題がある事に気が付く。危険が迫っていることが分かっていたのに、市民が頼る警察は犠牲者が出るまで何もしてくれていない。それも一件や二件ではなく、ほぼ毎回がそうなのだ。しかも呆れたことに警察官が誘拐まで企てた。後者の事件で一番気になるのは報道の姿勢だ。警察を批判せず、警察庁も謝罪していない。従来ならこんな事件が起きれば、警察庁長官は辞表を出していただろう。私は個人としての警察官は信頼しているが、組織の責任は別だ。政府とメディアの関係を見るにつけ、メディアが権力の飼い犬に堕してしまっているという疑惑が拭いきれない。せめてWTWに出来ることは、政府に都合の悪い記事を握り潰させないことでしかない。
メディアの自粛ムードへの懸念が強まっているとロイターが報じた。それはぞっとするような雰囲気だと述べている。政権を後押しするのならまだ分かる。ほめてもいいし、けなしてもいい。メディア自身が固有の価値観から逃れられないからだ。一番悪いのは何も言わないことだ。見て似ぬふりをしたドイツの国民にもホロコーストの責任があるとしたニュールンベルグ裁判を思い起こして頂きたい。いつのまに日本は警察国家になったのだろう。そのうち秘密警察も復活するのだろうか。太平洋戦争を後押しした当時の日本のメディアと、たいして体質は変わっていないのではないか。彼らは結局、大戦からジャーナリズムの何たるかを学習していないということになるのだろうか。
安倍首相の歴史修正主義に内外から懸念と時事通信が報じている。集団的自衛権での後方支援が、前方支援=米軍の盾、になるのは単に時間の問題だ。しかもそうなれば米国が関係する紛争国では、日本が美しい国どころか、うす汚い国と見なされるのは時間の問題だ。ISは先手を打った。日本は平和主義だからこそ美しい国なのだ。太平洋戦争の原因が侵略だと絶対に認めたくないという理由もはっきり分かる。なぜならいまや別の形で、アジアで再現させようとしているからだ。違いは、組む相手がドイツではなく米国だという点だ。
米国帝国主義の手先という言い方で古ければ、米国型資本主義=とそれに基づく日本企業、の先兵なのだ。米国の自由主義、金融資本経済が、既に行き詰まっており、世界中に迷惑をかけている。何という時代錯誤。かつて未熟な日本の資本主義が、財閥の形を取って、どれだけ国と国民に迷惑をかけたのかを、思い出してみるべきなのである。まさに今、我々はそのデジャブの最中にあるのだ。
そこまでいけば、もはや平和憲法とも無縁の世界だ。しかもそれを無意識でやっている訳ではない。気が付いていて、敢えてその方向に日本を引きずっていこうとしているのだから、安倍政権は明らかに確信犯なのである。
公務員年金運用、国内株式投資3倍増とのこと。GPIFでも同じだが、利潤を狙っているのではないから、年金資金では分散投資が鉄則である。利益よりは間違いなく安全だ。しかも実際に給付の削減も始まっている。投機資金にするのなら配当がなければ、その分の特別配当がなければおかしい。景気回復で自分が良い顔をしたそのリスク=ツケ、は国民に回るのだ。年金の株への傾斜はギャンブルだと専門家も指摘している。一方で、今のような異常な金融緩和を持続すれば、インフルが起きることもほぼ間違いない。日本の国債も危険だ。となればドルが強い間は米国債でも買うしかないのだろうか。
少なくも黒田総裁だけでも早く正気に立ち戻って欲しい。日銀には国債を山ほど買わせ、年金資金には株を買わせる。そうやって日本経済を支えている間に、企業が、と言っても競争力のある大企業だけが、業績を回復し、その結果従業員の給与が上がる、というあまりにも古典的な経済学の理屈です。それは風が吹けば桶屋が儲かるという理屈に近い。なぜなら各段階のどの要素一つを取ってみても、あなた任せで、しかもいつ何時変わるか分からない不安定な要素だからだ。しかも大企業の従業員だけが国民ではない。だから今のような大企業だけを念頭にした政策では、国民の間で所得格差が拡大するのは当たり前なのだ。大企業の従業員はその身分保障を含めて、中小企業のそれとは全く違うのである。
大企業が次々に好業績を発表しているのは、企業努力によるものが多いと言われているものの、気になるのは消費マインドに改善が見られないことだ。消費者の財布のひもは相変わらず堅く、特に中小企業の経営が苦しいという状況も変わっていない。その辺は単に報道されていないだけではないか。一方で今春は大企業ではベアが実現しそうなので=但し決してびっくりするような額ではない、夏に向けて消費が上向く可能性が皆無ではない(後注:結局消費は上向かなかった)。
株価に支えられた経済が何故危ないのかというと、株は下がるからだ。またもう一つ気になるのは、企業努力はむろん大変結構だが、新製品や新サービスによる新市場の開拓が進んだようには思えないことだ。即ち実体より、勢いだけが先行しているように思えることだ。だからこそ、安倍政権に乗っかって、政官財一体となってアジアその他の新市場に切り込みたいという気持ちがあるのかもしれない。そして企業の海外進出の後押しをするために、国防力の強化を図るというのであれば、あまりにも前近代的な発想ではないか。
一方で、アベノミクスは危険だが、その一時的な成果を軽んじるつもりもない。成果があったのは劇薬を用いたからだ。その唯一最大の功績は、企業に安心感を与えたことだ。デフレマインドで萎縮していた経営者のマインドに安心感を与えた。これは大きかったと思う。だからこそ、安倍政権が今一番やらねばならないことは財政の健全化だ。アベノミクスは既に目的を果たしている。でもそれは政権が依って立つ政官財の意向に逆らうことになるので、絶対にやりたくはないだろう。でもそれが出来たら日本が世界経済の手本となって、国の信用度が高まり、国債も株価も安定するのだが。
但し世界が日本経済をどう見ているかというと景気後退期にあると見ている=フィナンシャルタイムのルービン元長官の寄稿。それはそうだ。GDPが予想を下回っているのだから。またルービンは、金融資本主義が政治のモラル・ハザードを引き起こすとも述べている。
「政権が恣意的に憲法を変えることは許されない」 2015/3/5-3/10
所ジョージの「ニッポンの出番」という番組に、米国の包丁職人カーター氏が登場(二度目)。若者から、何故刀鍛冶にならないのかと尋ねられてこう答えた。包丁を買ってもらって1週間後に電話して感想を聞くと、朝昼晩使っている、料理が楽しくなったと言われる。刀ならどういう答えが返ると思うかと言っていた。またものづくりほど楽しいことはない。目の前に自分が作ったものが残るからだとも。メーカーの原点を教えられる思いだ、もうひとつ、米国まで来てくれれば、刃物の作り方の基礎を無料で教えるが、そのためには旅費や滞在費は自分で負担してほしい。他人のお金で学んだことは身につかないとも言っていた。
NHKの「ザ・プロファイラー」のポル・ポトの番組も重要な意味があった。一面から見れば、(特に格差容認派にとって)極端な平等主義や、悪しき共産主義が招いた結果という事になるだろう。しかし問題の本質は政治の理念ではなく圧政にあるのだ。200万人を大虐殺したのは、国全体が強制収容所になったからだ。ポル・ポトは国民が密告しあい、殺しあうように仕向けた。ポル・ポトは自分の勉強が出来ないことへの劣等感から、エリートと知識人を憎み、次々に処刑してゆき、ついには医者さえいなくなった。すべてが強制であり秘密主義だった。最悪だったのは、病死するまで自分が悪いことをしていると意識がなかったことだ。自己陶酔である。批判を許さないこと、知識人を排除すること(NHKの会長に教養があるようには到底思えない)、自己陶酔、という3つの要素は、どこかの国の政府の現状にも共通しているような気がする。今の日本の政治に決定的に欠けているのは、実は本当の知性なのかもしれない。それなのに一部御用経済学者のような理屈の為の理屈で横車を押し通し、それが知性と混同されてしまっているのではないか。政治も外交も経済も、すべてが浅知恵の限界的な状況になっており、それが人質事件でも表面化し、いうなれば官邸の思考能力の限界が露呈したのではないか。無論私の指摘には明確な証拠がある訳ではない。だから私は国会では政治家同士だけでなく学者も議論すべきだと思う。もう一つポル・ポトの独裁が問題なのは、目的の為に手段を選ばない(人の命を何とも思わない)ことである。知識人を抹殺してしまったので、子供に思想を植え付けようとした。カンボジアから学ぶべきは、いかなる政治思想(および宗教理念)の下であっても、自由と人権、これだけは絶対に政権に手をつけさせてはならないということだ。そして独裁は絶対的に悪だということである。独裁者を育てるのは周囲のイエスマンなのだ。
「改憲の意図」2015/ 3/7
昨日の参院予算委員会で、逢坂議員の質問に答えて、安倍首相は、自分は首相として憲法を守る義務があるが、現憲法が占領期間中の短い期間で作られたことと、時代の変化に合わない部分が出てきているので改正する必要があると言い切った。自分には、憲法を自分の価値観に合うように書き換える権利があるとでも言いたいのだろうか。
しかも集団的自衛権では、日本が武力攻撃を受けない場合でも、武力行使出来るようにしたいという。存立危機事態という訳の分らない表現で、一体どんな状況を想定しているのか皆目分からない。日本はもはや平和でも、自由でもなくなりつつある。市民が行動を起こすべき時期が近づいているのだろうか。国民が権利も義務も放棄したが故に、独裁者や軍部の言いなりになった、戦前のドイツや日本と全く同じ状況になりつつあるのかもしれない。言論と集会の自由への干渉が始まっている。集団的自衛権の拡大解釈という、平和憲法にとってかつてない危機的な状況なのに、TVも新聞も公明の見解だけを淡々と伝えるのみ。野党の意見も街の声も伝えようとはしない。そのどこに報道と言論の自由があるというのだろう。
「文民統制の骨抜き」2016/3/8
自衛隊の文民統制骨抜きなど、今の日本では、以前なら信じられないようなことが次々に起きている。しかも一切の反対運動なしにである。あるいは反対の意見も運動もあるが、それを報道させない圧力が働いているのかもしれない。いったい誰がどんな意図で日本を軍国主義の国にしようとしているだろう。しかも嘘に嘘を重ねて、国民を欺き、マスコミの口を封じてまで。
言論と集会の自由を事実上統制することで、次第に世間が堅苦しく、狭苦しく、住みにくくなってきている。テロの温床は格差だから、今のままなら絶対にテロは減らないのに、安倍首相もオバマもそのことには決してふれようとしない。2.26事件で日本の経済構造を正しく理解できなかった青年将校が、高橋是清を暗殺した理由の一つも農村の経済格差だった。高橋を暗殺しても格差はなくならないことが彼らには分かっていなかった。最近再放映された「オリンピックの身代金」というTVドラマでも、フィクションであれ、犯人の動機はやはり格差だった。
今の日本と米国は米国型資本主義の奴隷と言っても良いのではないか。資本主義では、自分だけが得をして、他人が損をして、差益を享受する立場に自分を置くことが最終目的だから、絶対に格差はなくならない。勝ち組になることが前提であって、勝ち組になれないのは本人の努力が足りないからだということになるのだ。既得権者は世襲財産に守られている。金が全てだが、少なくもそれは日本国民が願っているような国の姿だとは思えない。
格差容認という言葉は、差別する側の人たちの自己正当化にしか聞こえない。格差容認思想が危険なのは、平等の否定が前提だからだ。やがてそれは基本的人権の否定に発展するだろう。軍国主義がその最たるものである。しかも規則を作る自分たちはリーダーであって、いわば人に指図する側だ。人権を否定する相手は、他ならぬ国民である。格差容認(というより格差奨励)が諸悪の根源であって、それは詰まるところ、民主主義そのものを否定していることに他ならない。どこかの国の政府のように。
安倍首相、経団連の米倉前会長、NHKの籾井現会長に共通する要素がある。それは他人を思いやる感情の欠如である。口を開けば出るのは自分の権力の誇示だけだ。人間は強くなければ生きていけないが、やさしくなければ生きる資格がないという言葉を、彼らも一度くらいは聞いたことがあるはずだ。人を愛し、思いやる気持ちのない者は、本来人の上に立つ資格などないのである。安倍政権は、ピケティが指摘しているように、社会の不公平やひずみを正していくことが、政治の大きな役割であることを正しく理解しているのだろうか。
「アカデミー賞から」2016/3/9
今日の巻頭言は、アカデミー賞授賞式でのアカデミー協会長の言葉だ。「…映画芸術科学アカデミーは映画の力をたたえます。映画は人々の精神をつなぐ普遍的な言語です。世界中の目が私たちに注がれているので、映画製作にかかわる私たちには責任があります。その責任とは、いかなる言葉も沈黙を強要されることがないように保証する責任であり、相異なる意見=オピオンも、個人的なあるいは専門的な攻撃の恐怖なしに分かち合う=シェア、ことを保証する責任です。そして表現の自由を守ることが私たちの責任なのです…」。
昨日=日曜の早朝の時事放談で片山善博が言った。「ホルムズ海峡が閉鎖されたら日本人の生活がパニックになる、だから武力攻撃を受けなくても、自衛隊は武力を行使できると安倍首相は言う。しかしペルシャ湾から石油が来なくても日本が滅びる訳ではない。この理屈はいつか日本が来た道でもある。集団的自衛権を閣議決定した後で、ゴルフボールを6インチ、また6インチと動かすようなもので、ルールに歯止めが利かなくなっている」。
また藤井裕久も言った。「集団的自衛権を日本は二度経験している。最初は明治時代の日英同盟で仮想敵はロシアだった。二度目は日独伊で、仮想敵は米国だった。そしていずれも実際に戦争になった。今回は日米の協定だが、仮想敵は中国。本当に中国と戦争をするつもりなのか。しかも集団的自衛権では、日本と全く関係のない、米国への攻撃でも、日本は参加しなければならない。集団的自衛権には絶対に反対である」
ところで昨日は国会前などで多数の国民が反原発の集会を行った。皆さんその事実を知っていただろうか。報道したのは時事と毎日だけ。NHKについては言うだけ無駄である。
メルケルが来日して脱原発を安倍首相に説くことになっているのに、一切の報道がない。…どころかNHKは官邸の発表をおうむ返しするだけ。一体日本のメディアは、どこまでジャーナリズムとしての責任を放棄すれば気が済むのやら。
「伏魔殿」2015/3/11
メルケルの脱原発の講演を、しぶしぶ日本のメディアも報道した。この時期にメルケルが来たことを、多分安倍政権以外の全ての人なら理解出来たと思う。まさかテロ対策で連携しましょうとか、ウクライナ支援で協力しましょうと言うためにわざわざ来た(NHKの報道はそういう姿勢。だから国策放送局です)訳ではない事は、誰の目にも明らかだ。しかも米議会での安倍首相の演説が国家主義的な皇国史観になることが予め分かっている。その場で、とんでもない発言でもされたら、中国などアジア各国を刺激することになってしまい、危ない均衡の上で成り立っているアジアの情勢を、一層危険な方向に押しやることになりかねないからだ。安倍首相の過激な言動に自由主義世界は神経を尖らしている。
それでなくても自由主義世界はISやウクライナ、イラン、イスラエル、北朝鮮等、厄介な問題を山ほど抱え込んでおり、この上、中国との摩擦など全く望んではいない。皮肉なことに中国自身でさえそれを避けたいと思って、融和姿勢を打ち出している。それが独りで跳ね上がっている某首相と取り巻きには全く分かっていないようだ。右傾化著しい北岡伸一でさえ、最近急に方向転換したのもそういう空気を読んだからだろう。
私は日本をここまで悪くしたのは、他ならぬ官邸の責任だと思う。その正体は国民の目から巧妙に隠されている。政治が国民にオープンであり、補佐官制度のある米国とは異なる政治の実相だ。誰しも、首相が独りですべての答弁や演説を作成しているとは思わない。迅速に動いてくれて、文章作成で大きなミスを出さないブレーンがいればこそ、安倍内閣が機能しているのだ。しかし実際に働いている人たちの素性も思想傾向も、一切は国民の目からは隠されている。彼らが公務員ならば、そんなことが許される訳がない。では何故ここまで秘密が保持できるのかと言えば、それは彼らが公務員の立場を離れて、安倍首相の私兵に組み込まれているからだと思わざるを得ないのである。それとも、もはや首相の手さえ離れた治外法権だとでも言うのだろうか。
絶対的な権力を持つ官邸が相手では、メディアもうかつに手は出せない。ブレーンの正体を暴露などしたらどんな後難があるか分かったものではない。未成年犯罪者の実名を出すのとは次元が違う。国策の心臓部に手を入れる様なものだ。そのようにして秘密組織が出来上がり、その組織が独自の路線を持ち、暗躍する余地が生まれ、その結果として、政権の暴走が始まることになる。それはその行動にチェックが掛けられないからなのだ。誰も姿が見えない相手と戦うことは出来ない。もっと言えば、安倍首相は官邸の傀儡になっている可能性さえある。日本を危険な方向に引きずっているのは、事実上この得体のしれない組織かもしれない。もし日本を今のような危険な暴走から救う道があるとすれば、それはたった一つ、官邸を国民の眼の前にオープンにすることだろう。
こうした政治形態が、民主主義と整合性を持つとは、私には信じられない。日本版MI6の検討が進んでいます。その次は国内向けのMI5なのか。英国では違うかもしれないが、日本ではそれが秘密警察としての機能を果たす可能性が高い。何が日本の今の政治で問題かと言えば、枝葉末節の政治資金規正法などではなく、まさにこの政治の秘密主義にあるのだ。だから秘密保護法は際限もなく拡大解釈されることになるだろう。公益の為の権利の制限は、何故か分からないがここには適用されないようである。
秘密主義がまかり通るのも、一点に権力が集中しているからである。批判する者がいなくなれば、なんだって出来てしまう。秘密主義と独裁。これほど民主主義からかけ離れた政治形態は考えられない。ヒットラー、スターリン、毛沢東、ポルポト、金正日、アサド、皆そうだった。
「政府の価値観」 2015/3/12-3/16」
昨日のNHKの特番で、仮設住宅(四畳半一間!)で、家に帰れる日を待っていたのに、目途がつかずに自宅は荒れ放題。そのうちに夫は病死、妻は自らその後を追ったという事例が紹介された。胸がふさがれる思いだった。この被災者の姿のどこに復興があるというだろう。それなのにやれ五輪だ、原発再稼働だと浮かれる政権の担当者たちは、もはや同じ人間とは思えない。
昨夜のテレ朝の報道番組で、仏の核廃棄物処理施設の様子を紹介していた。処理の部屋には過去誰も入ったことはなく、何故なら線量が余りに高いので、入れば即死するからだ。それでも日本の有識者や、自民党議員は、原発の再稼働を主張するのだろうか。いかにそれが巨大な施設であっても、過去の過ちは過ちであって、自分に都合の良い理屈をつけて正当化しても、それで一転して安全なものになる訳ではない。原発は、と言うより、核を使うあらゆる技術や装置や道具は、放射能の処理と中和の方法が見つからない限り、使ってはならないのだ。だから少なくも今は、災いをもたらす悪魔の火なのである。一旦制御不能になれば、人命に危険が及び、また復旧に廃棄以上の費用が掛かり、その上復興のめどさえ容易には立たなくなるという事実を、我々日本人はフクシマの苦い経験から学んだはずなのだ。首相を含めて、原発再稼働を声高に唱える人たちは、原発は間違っていないと言っているのに等しい。でも世の中に完全に制御出来るものなど一つもない。なぜなら人間は不完全だからだ。しかも制御できなくなった時の被害は甚大である。日本は全国に核爆弾を50個抱えているようなものだ。それが原爆と違うのは、燃焼速度が遅いので、いわば爆発に長い時間が掛かるというだけのことなのである。
「鳩山元首相」2015/3/13
鳩山元首相。旅券没収なら移住と。
これは鳩山のささやかな勝利だ。なんでもかんでも政府の見方と価値観に従わなければ処分(または逮捕)するというのなら、戦時中の軍部や特高とどこが違うというのか。すぐに逮捕すると言って、拳銃をバンバン撃つ、漫画「おそ松くん」に登場する目玉のつながった警官と同じだ。今や安倍政権のあからさまな民主主義否定の姿勢は、狂気のレベルに達したかのようでもある。政府の保護の実態と本音が本当はどんなものかを、我々国民は人質事件の政府の対応で、いやと言うほど思い知らされたのである。国の体裁が先、国民の命は二の次だったのだ。現政府の保護下にある方が、国民にとってみれば、遥かに剣呑なことである。なぜならそれは将来、「国を守るために」国が国民を兵士に駆り出すことを意味しているからだ。それも戦時中と同じ使われ方、即ち消耗品としてである。
復興の状態を見れば一目瞭然。大震災から4年も経つというのに半分も進んではいない。予算すら消化されていない。国民はただ黙って政府のいいなりになっていれば、それでいいのであって、政府に不都合なことを言い、少しでもはみ出せば厳しく罰する。その姿勢のどこに、憲法の精神と、国民の基本的な人権の尊重があるというのだろう。
いま日本はかつてない未曾有の政治的な災害の渦中にある。そしてサラリーマン・メディアは、その実態を国民の眼から覆っている。自由主義の国家としては最悪の構図だ。安倍首相は自分が皇帝にでもなったおつもりなのかもしれなが、日本に元首は二人はいらない。
ひとつだけはっきり言えることがある。それは国民が安倍首相の考え方を否定している間は、日本は民主主義が正常に機能している国として、世界も認めるだろうが、安倍首相の思い通りになる国だと言う事になれば、一転して世界は疑惑の目で日本を見るようになるだろうということだ。そうなると帝国主義の再来を懸念して、ミサイルの標的をそれとなく日本に向け始めるだろうということだ。
ちなみに枝野議員には即刻自民党に移籍して貰いたい。衆院選で民主が他の野党に惨敗したのに、全く責任を感じていないようだ。しかもその結果、同議員の右傾化がより先鋭になるというおまけまでついてしまった。
自分に厳しくなれない政治家(昔は自民党議員でさえ矜持と責任感があった)を置いておく余裕など、今の日本にはない。だから本当は、信じられないくらい自分に甘い自民党の閣僚や議員たち(含む枝野議員)には、本当は辞職して貰いたいくらいなのである。
「ユーモア、人間性、想像力」2015/3/16
私がWTWで書く内容は、現政権への批判が多い。それは「ものごとを深く考える人なら」誰が考えても、政権がナショナリズムに偏向しており、しかも国民の意志も、憲法の精神も尊重する気がないという、民主主義国とは到底思えない状態にあるからだ。しかも、他の人たちも同じようなことを言ったり書いたりしている。そこで今日は、他ではあまりお目に掛からないであろう事を書いてみたい。それは私が持っている三つのソフトである。
最初は小説だ。昭和51年刊行の中公文庫、ジェローム・ジェローム著、「ボートの三人男」という文庫本である。英国流の渋いユーモアが満載で、似たような傾向の本としては、ウッドハウスの「従僕ジーヴズ」シリーズがあるが、こちらの方が格調が高い。しかもこの作家は英国史の造詣も深く、ただのお笑いで終わっていない。英国人の国民性を彷彿とさせる。まだお読みになっていない方には、一読をお勧めしたい。英国ユーモアの原点でもある。
二つ目はエッセイだ。これも昭和51年に出た、朝日新聞社の、「深代惇郎の天声人語」である。天声人語を書かせたら、深代の前に深代なく、深代の後に深代なし。時勢を冷静に見極め、出来事の本質を理解し、過去と比較し、未来を洞察する。時勢に押し流されず、かといって感情的に反応する訳でもない。腰を据えて時勢に対処している。その見方には常に民衆への慈愛と共感に満ちている。文章の品格からして、現在の天声人語とは決定的に違う。もし将来、自分がエッセイを書くようなことがあれば、かくありたいと思うような文章だ。深代の天声人語は続編も出版されている。エッセイが感動を与えられるとしたら、この一冊を措いて他にはあるまい。
三つ目はTV番組の録画である。スティーブ・ジョブスの1995年のインタビューは長らく失われたと思われていたのだが最近テープが見つかり、wowowが放映した。新しいコンセプトの製品を世に出すという事が、どれだけ重要な意味があるかを再認識させられる。一度製品化されれば、販売を増やすのは営業とマーケティングの仕事かもしれない。でもそれはメーカーの本質ではない。存在理由はあくまでモノづくり(Production)だ。私はたまたま、ジョブスを追い出した後のジョン・スカリー(元ペプシコ社長)がCEOをしていた時期に、NYで駐在し、新聞で報道されるその経営のひどさに呆れたことがある。その後、同じようなケースとして、技術者でない人たちが、ソニーを蹂躙して滅茶苦茶にしてゆくのを苦々しい気持ちで見ていた。まさに既視感(デジャブ)だった。
ジョブスを批判する人も多いが、そういう人達もこのインタビューは見てほしい。過度に気負う訳でもなく、自分を宣伝するでもなく、気取らない、率直な話し方で、ものづくりの理念を明確に説明している。インタービューアーがお粗末なので、愚かで失礼な質問が出るが、それでも頓着はしていない。ジョブスは即答せず、しばらく考えてから、しかし20年後の今でも完全に通用する答を出している。やはり天才だ。当時NeXT社を率いていたジョブスは、このインタビューの翌年、スカリーに政治的に追い出されたアップルに戻り、奇跡の立て直しを行い、米国で最も時価総額の高い企業に変貌させた。ジョブスは映画にもなったが、こちらは本物だから、迫力が違う。
そこで今日は、インタビューの中から、一つだけジョブスが語ったエピソードを紹介したい。「…ある人が、動物の中で最もエネルギー効率の良いものは何かを比較してみたことがある。人間は全体で下から1/3くらいのところにいることが分かった。トップ、即ち最もエネルギー効率の良い動物はコンドルだった。ところが賢明なことに、別の者が、自転車に乗った人間で比較し直してみた。その結果、自転車に乗った人間は、コンドルを遥かにしのぐダントツ一位だった。人間は弱い動物だが、道具を使うことが出来る。コンピュータもこうした道具であり,人間の能力を飛躍的に増大させるものなのだ…」
また彼は、パソコンが果たした大きな役割はコミュニケーションであり、今後10年(1995年起点)で、最も大きな変化は、ウェブによってもたらされるだろうと指摘している。ちなみに彼がアップルUで最も注意を払った機能はユーザーインタフェイスだった。当時は誰もマウスを重視せず、その低価格化にも関心がなかったと述べている。そしてiPhoneで、このインターフェイスは、指先での操作に発展する訳だが、ジョブスがマン・マシン・インターフェイス(一言で言えば使いやすさ)に拘ってくれたおかげで、世界中の人間がその便利さを体感しているのである。
以上の私の三つの知的な財産は、ジャンルは全く違うけれど、人間が社会で生きてゆく上で、大事な3つの要素を示唆している。それらはユーモア、人間性、そして創造力である。