「WTWオンラインエッセイ」


【第7巻内容】


「大戦の総轄」
「時代の空気」
「生と死と」
「人類2.0」
「アイ・アム・ノット・アベ」
「金融危機への対応」
「米国の信託統治国日本」
「合祀について」
「ミニ松陰」
「中選挙区制が日本を救う」



「大戦の総轄」2015/3/22-24

時代の空気というものについて2回に分けてお話したい。時代の空気と言うと、よく引き合いに出されるのが、戦時中のそれである。日本は戦争一色。欲しがりません、勝つまでは。日本の現状を批判する者は非国民なので投獄の上拷問。獄中死も珍しくなかった。隣組は軍部の密告組織。戦況が悪化し、敗色濃い日本における軍部の独裁(天皇の命令さえ無視)により、勝つことより玉砕を志向するような歪んだ自暴自棄の空気が日本中を覆っていた。追い詰められた空気は、生きて捕まるくらいなら死んだ方がましと、戦闘員でもない民間人が口にするほどのものとなった。当然の如く、そこには明るさも笑いも存在する余地はない。戦時下特有の悲壮感と閉そく感。それが時代の空気だった。どの国でも戦争はしていたが、外国では未だ空気には若干の余裕が存在していた。でも日本ではそれが皆無だった。それは何故なのか。

当然今は戦時下ではない。それでも私は戦時中と共通した雰囲気が、今という時代の空気のどこかに漂っているのを感じる。例えば、安倍首相これ以上はないほど肩に力がはいっているように感じられる。しかしブッシュ(ジュニア)でさえ、皮肉を言われても、冗談で返す余裕があった。無論私はブッシュが優れた大統領だったなどと言うつもりは毛頭ない。安倍首相は気が小さい人だと以前から言われてきたが、もしそうであるのなら、それは一国の代表としては危険な要素であろう。ヒットラーも気が小さかった。そういう人たちは、追い詰められると切れるし、極限状態で判断を間違いやすい。だから気の小さい人に大きな権限を与えるのは、その国の国民が、自分で自分の首を絞めているのと変わらない。今様に言えば、そういう人選は国としてリスクが大きいのだ。

話を戻そう。まなじりを決して大戦で戦った結果、日本がどんな負け方をしたのか。それなのに、日本の政府も国民も、その戦争の総括さえしようとはしない。それこそが大問題なのだ。総ざんげなどという、その場しのぎの責任転嫁の言葉を持ち出すつもりなど毛頭ない。感情的な要素はこの際どうでも良いのだ。300万人の国民を殺した戦争の原因が何であって、どうすればその悲劇を避け得たのか。仮に当時の国際状況ではほかに選択肢がなかったと言うのなら、今後同じような時に、どうすれば日本は戦争を回避できるのか。そもそもなぜ重要な総括が70年も行われずに来たのか。反省したくない、反省すると都合が悪い誰かが生存していたからだろうか。

しかし今こそ、悲劇を繰り返さないというテーゼの元に、大戦が徹底系に、政治学的に、経済学的に、地政学的に、科学的に、心理学的に分析されなければならない。それこそが敗戦70年目の最重要な仕事である。極端な話、厳密に分析した結果、日本軍の取った行動は正しかった、或は止むを得なかったというのなら、それはそれでもいいのである。でもその作業は、時の政権に都合の良い理屈や、感情論、形式論で脚色されてはならない。そのためにも、国民の代わりに、大規模な第三者機関が、ありとあらゆる文書や証言、そして物的証拠の裏付けを元に、徹底的に調査と分析を行い、何千ページ、何万ページに及ぶ徹底的な報告書を(国民の為に)作成しなければならないのである。しかもその結果は、世界に公開され、世界中で審査と検証が可能になっていなければならない。

いま日本が取り組まなければならないものは、おもてなしの五輪などではない。そんなものは一時的に景気を底上げしただけで終わる、一過性のイベントに過ぎない。今日本が税金を使ってでも取り組まなければならないことは大戦の総轄なのである。その分析結果こそが、二度と日本が無駄な戦争を起こさず、外国の戦争にも巻き込まれない、唯一の保険になるのである。ひとたび戦火に日本が巻き込まれれば、五輪の経済効果など一瞬で吹き飛んでしまう。戦争をしないことが経済でも大事なのだ。一部大企業では武器の製造と販売に期待感が高まっている。でも一度戦火が起きれば、その代償は武器の製造販売で得た利益が吹き飛ぶだけでは済まされない。損得勘定から見ても、武力の使用は絶対に割に合わないのである。

国会で、安倍政権は何時でも、自衛隊が自国の防衛の枠を超えて武力行使が出来るように法律を変えた。政権が、憲法を自由に解釈できるという悪しき前例まで作ってしまった。立件主義への重大な裏切りであり、国民への背任行為である。ならば一層のこと、大戦の総轄は、覚悟も見識も足りない国の代表が、間違った方向に突っ走ることを押しとどめるための、ただ一つの歯止めとなる。小説「永遠のゼロ」だけが第二次大戦の姿ではない。それはフィクションであり、実態は我々戦争を体験していない世代が想像もできないほど厳しいものである。首相の70年談話が問題になっているが、談話は総括とは別ものである。なぜなら首相談話は、一政権のその時だけの見解に過ぎないからだ。大戦の総轄は、現代史の編纂であり、後世に語り継ぐことを前提にした蓄積なのだ。何が戦争を引き起こし、またその結果、どんなことが現実に起きたのかを知ること。それが日本が平和国家であり続けるために、最も重要なことなのである。



「時代の空気」2015/3/24

ある時代の中に身を置いて、皆と一緒に流されているときに、自分がいる時代の空気を感じ取ることは難しい。戦前と現代との比較も、後世に身を置いているからこそ出来ることかもしれないのだ。その時代の雰囲気が、その時代としてふさわしいと思えば、空気を読む必要はない。では何故空気を読めと私が言うのか。それは、逆説として、仮にこれまでの各時代に来た人々が、時代の空気に流されずに、自分の目と耳で時代の空気を正しく読み取っていたなら、時代と歴史に殺された人々の数はもっと少なかったのではないか。戦争をやめさせることは出来ないまでも、少なくも国民がいち早く自分の身を守ることくらいは出来たのではないかと思うからである。情報から遮断され、本当の理由も知らされずに、事情が理解できないままに、むざむざ殺されていった、いやそれどころか、自分で自分の命を、しかも喜んで絶っていった、多くの人たちがいる。知性のある人間である以上、そんな無残で無念な死に方をしてはならないのだ。なるべく多くの人が、時代の空気を読み取り、来るべき時代への予兆である不安を共有すること、それしか日本が来るべき災厄から逃れる道はないと確信している。

では空気とは何か。またその違いとは何か。でもそれを戦前と比較する必要はない。5年前の日本がどうであったかを思い出すだけで十分なのである。今より経済状態は悪く、デフレの最中だったが、政治はより透明だった。政治家の主張も信念も理解しやすかった。責任感もあったし、何より言動が一致していた。言い張ればそれで通るという、子供じみた茶番が国会でまかり通るような、常軌を逸した日本ではなかったのである。メディアの情報は今ほど偏向せず、ジャーナリストには職業的良心があった。

3年前と比べても、空気には違いがある。震災の直後で、復興への呼びかけと、原発への反省があった。反原発のデモの様子も詳細に報じられていた。震災の4年後の今、復興は半分も進んでいないのに、政府は復興の責任を感じているようには思えない。復興がどうせまた掛け声で終わるだろうと思うのは私だけではない。限られた土木建築の工数で、オリンピックを優先し、復興が後回しにされるのも目に見えている。もう一つの例としては、現地では大騒ぎになっているのに殆ど報道されない、普天間の工事がある。以上は具体的な施策の問題でもある。時代の空気としては、もう二つ挙げられる。それは自粛という名前の報道管制と、民意の無視である。

それでは、何故、民意を一切頓着することなく、強硬な法案がやすやすと国会を通過してしまうのか。また国会であれほど、矛盾や不正、不正直を追及されているのに、文科相やNHK会長が、辞任もしないで済んでいるのか。それは安倍政権が擁護しているからである。政治権力が一極に集中しているから、無理無体や横車が通るのだ。そして安倍首相が独裁力を振るうことが出来るのは、それをそれほど危険視してない、世間や時代の空気があるからなのである。

時代の空気には一種の心地よさがあるのかもしれない。今の日本は、そこそこ平和であり、格差はあっても、なんとか生活は出来る。清潔で安全で、外国がうらやむ国だ。現状の何が不満で、なぜ将来が不安だなどと言うのか。だからゼネストなどは起きないのである。また時代の空気に安住する結果、それと知らされないまま、引きずられてゆく。引きずる安倍首相も悪いが、「黙って」危ない方向に引きずられていく国民にも問題がある。そこにこそ、現代の空気にも、戦中のそれと同じようなきな臭さを感じるのだ。安倍政権の政策を、積極的に肯定はしない者でも、積極的に反対しない。その結果、政府の政策を容認、或は黙認している「ように見える」こと、即ち容認する「空気」が、日本の危ない現状を正当化しているのである。

そして何故そんな空気が醸成されるのかと言えば、それは、最低限の報道はしても、現象を分析し、批判し、キャンペーンを展開するべきジャーナリズムが正しく機能していないからなのだ。安倍首相に対しては、とりわけ無批判の傾向が強い。どのメディアも、安倍首相を正面から批判しようとはしない。結果、誰も何も批判しないのだから、やりたい放題になる。

時代の空気として、政府が意図的に作り出すものの他に、その時代の国民に共通する価値観としての空気がある。記憶し、比較する習慣がないことがその時代の空気を作り出す。現状はいつでも過去より良く、(このまま放置しても)未来は現在より良くなるに違いないという根拠のない期待感を持つようになる。そしてそれは自分から現状を変革する必要はないという言い訳にも使われる。現状を否定するというのは、ネガティブな発想であって、だから居心地は宜しくない。問題を抱えれば、それを解決しなければならないというプレッシャーとエネルギーが必要になり、だから疲れる。その結果、時代の空気は基本的にぬるま湯の現状肯定になる。船が一方向に傾きかけていることを薄々感じてはいても、その傾斜が日に日に強まり、ついには元に戻れなくなるほど傾いて、ついには日本丸が転覆する。そうした眼には見えない国民を金縛りにするものが時代の空気である。そういう空気の存在が、戦中と現在が酷似していると私が考える理由である。

まさか戦後70年を経て、戦後と同じ歳の自分が、民主主義を論じなければならなくなるとは思ってもいなかった。アンジェリーナ・ジョリーが、旧日本軍の残酷さをテーマにした映画を作り、世界50カ国で公開されてヒットしたという話がある。しかしその反日的な内容から、日本では手を出す配給会社がいないとも伝えられている。反日映画と言うだけのくくりなら、これまでも日本兵を悪者にした映画は山のように作られてきたではないか。トーンがやわらいできたのは「硫黄島からの手紙」くらいからだろう。ではなんで今、この時期にアンジーの映画だけを忌避するのか。ここでの疑念は、何故それが「今」なのかという点である。これは事実上の言論統制に等しい。映画の善悪、出来不出来を判断するのは、映画会社でもなければ、配給元やメディア、いわんや時の政府ではなく、最終的に観客だと考えている。とにかく情報は全公開が原則である。スピルバーグも日本の捕虜収容所の惨状を「太陽の帝国」で描いたが、この作品は劇場でまともに公開されていたではないか。

ご承知の如く、新聞社や放送局の世論調査は誤差が多く、数字が一致することはまずない。それでも2015/3/23の読売新聞の世論調査は酷すぎた。憲法改正に賛成が51%、集団的自衛権に賛成が53%。これは日経を含む他のメディアの世論調査とは、あまりにもかけ離れた数字だった。仮に数字を操作しなかったとすれば、理由は容易に想像できる。それは読売の読者だけを対象にした調査だからであろう。新聞社にはカラーがあり、読売は言うまでもなく保守的で、産経はさらにその傾向が極端だ。無論読者も保守層だろう。そうなら、逆にこの数字はむしろ小さすぎるのかもしれない。保守系メディアの牙城でさえ、やっと政権の判断を支持する人たちの(しかもアンケートに答えるという人達が、新聞社に好意的な人たちだということを勘案すればなおのこと)、政権のごり押しの政策への賛成が、やっと半数に届くか届かない数字に留まったという事の方が、重要かもしれないのだ。

但し私は新聞社が独自の価値観を持つことを否定しない。何故なら、完全に中立な報道というものはあり得ないからだ。それは人間自体が不完全だからである。宗教の観念で最も大事なものがここにある。即ち人間は完全ではない。まして神ではないという前提である。だから人間は謙虚でなければならない。まして自分が全知全能だなどと思ってはならない。ところが独裁者にはそういう意識が殆どない。他人の弱さや痛みを理解する能力も欠けている。

不完全な人間が集まって国家を作る以上、相互の議論で欠かせない。そうやって不完全な人間同士が意見や知恵を出し合いながら、不完全さを補い、少しでも正しい判断に辿りつこうと努力しているのである。このプロセスこそが、人類が考え出した叡智なのだ。国会での討論もその手続きの一つだ。だからこそ議論は公開し、多くの眼で再検証できるようにしておかなければならないのである。

情報公開は、独裁者が、好きなように国を操ろうとするときには最も邪魔な仕組であり、その情報を国民に伝えるメディアもまた彼らには迷惑な存在となる。そういう見方をすれば、安倍首相のしていることはとても分かり易い。秘密保護法のきな臭さはまさにこの点にあるし、公共放送で都合の悪い情報が止められている理由も分かろうというものである。

それぞれに価値観も主張も違う新聞が、互いに意見を戦わせることは、民主主義にとって望ましいことである。しかしこれが日本では殆ど機能していない。新聞社同士が批判しあうという歴史が短い上に、読者の側も、複数の新聞を読んで比較するという習慣がないからである。メディアが寡占状態(一度購読紙を決めたら、一般家庭ではまず変更はない)でありう、それは役所の管理の眼が届きやすいということでもある。読売新聞の東京の新社屋の完成式に安倍首相自らがお祝いに駆けつけるような国がどこにあるだろう。報道が四番目の権力として機能している米国ではこんなことは到底考えられない。しかも政権には極めて都合の悪いこの報道は、ネットのごく一部でしか報道されず、私も偶然目にしただけである。

政権に最も批判的な朝日と毎日(というよりTBS)にはあからさまな干渉=嫌がらせが始まった。報道の重箱の隅をつつき、朝日の社長に責任を取らせて交代に追い込んだ。TBSには謝罪を求めた。首相が自分で任命しているのに、それを絶対に認めようとはしない、NHKの籾井会長が、あれだけ問題を起こして、報道機関の責任者としては全く不適格であることがはっきりしているのに、そちらは半ば強引に続投させている。

一方でメディアの有識者にも問題がある。池上人気には私はやや批判的なのだ。それは池上が朝日とことを構えたからではなくて、彼が一つの権威になってきたからだ。彼は決して国民の意見を代表している訳ではないのであって、あくまで専門家としての自らの価値観の上に立って、池上「個人」の考えを述べているのである。彼は一時、勉強の為にTV出演をやめると言っていた。それは謙虚な態度だと私は思った。ところが結局出演を続けた。そういう些細な嘘でも、言論人ならば好ましいことではないのである。今の日本に必要な者は権威者ではなくて、国民の声がきちんと世間に届く仕組みなのだ。

意に沿わない報道機関にはあからさまな攻撃を加え、一方で自分が選んだNHKの問題会長は、無理矢理続投させる。これが政権による明確なメディアへの干渉、即ち民主主義の否定でなくてなんだというのか。意図的に時代の空気を作っているのは安倍政権だという見方が出て来ても、少しもおかしくない状況なのだ。

読売の読者数が圧倒的に多いのは、同社の保守的な価値観や社風を好む国民がいるからだと、そしてそれも間接的ではあれ、世論の表現だと言う人がいるかもしれない。でもメディアの寡占状態が、日本の空気が偏向する原因の一つになっている事実だけは、指摘しておきたい。選択肢の少ないメディアが、日本を危うい状況に引きずる要因となっていないと断言できないのではないか。

報道機関は自らの意見を持ち、社説やコラムでも実際に新聞社としての意見を述べている。ニューヨーク・タイムズも政党の支持を表明する。でも報道機関である以上(即ち宣伝機関でない以上)、少なくとも事実や数字には忠実でなければならない。それがジャーナリズムが最低限度守らなければならないルールである。まして日本人には複数の報道を比較するという習慣がないのだから、少なくも報道機関は自らの主張とは別として、事実や数字には正直でなければならない。その姿勢が、読売とNHKの世論調査には欠けているとしか思えない。それはもはや公私混同なのである。

最近、評論家達が、日本人が次第に偏狭になってきていると指摘している。安倍内閣の閣僚の主張は、ごく一部を除いて、金太郎あめみたいなものだ。この理念と思考の偏狭さが、世間の閉そく感、或は偏狭さと無縁ではないだろう。メディアの寡占が進み、多様性が失われてきていることが、政治の偏狭さを助長している。今地方紙が重要なのは、報道の多様性を拡大する手立てであるからだ。大手でない都市のメディアも、自粛という訳の分からない手段を使って、世間を覆う空気のみならず、世界の傾向や動向さえも、国民の眼からは見えにくくしているのだ。

政治と報道の両面で、真実から締め出されて、なお自分たちが正気を保ってゆくためには、国民はどうすればいいのか。それは情報源を他に求めることだ。アラブの春も、きっかけはネットの情報だった。今私たちは世界中から情報を集める体制を、自ら構築する必要性に迫られている。政治でもそうだが、情報についても大手メディアに「お任せ」では自分の身は守れない。そのためには、最低限度の語学力も必要になるだろう。詰まるところ、権力者が意図的に作った時代の空気の嘘を見抜き、その裏にある真実を理解するためには、多様な情報入手の手段と、人並みの分析能力は必要ということだ。好むと好まざるとに関わらず、私たちはそういう時代に暮らしているのだという認識がまずは必要である。江戸時代迄遡る精神的な「鎖国状態」を捨てて、外国と情報や意見を自由にやり取りできる能力とインフラ造りが、自分の国の民主主義を維持してゆく上でも必要になっている。

日本の保守的なメディアの、いわゆる「世論調査」によれば、保守政権を支持する有権者の方が優勢という事になっている。しかしメディアと、その世論調査自体が信用できない。しかも国民には自分で世論調査をする手段がない。従って保守優勢という空気が意図的に作られたものだという証明さえも出来ないのである。しかし同時にリベラルな思考の持ち主が多数いることも、直感的に感じているはずだ。それは他社の「世論調査」の数字でも明らかなのだ。そういう事情に気が付く意識の高い人達であれば、圧力に屈することなく、自分達と国を守ってゆく為には、外国のリベラルな人たちとの連携も可能であろう。そもそも安倍首相とオバマ大統領の関係だけが、日本と米国の関係の全てではない。むしろ国民同士の連携と協力関係こそが、真の両国の関係となる。またそれは日本と中国の間でも言えることだ。そういう草の根レベルでの連帯だけが、日本や世界を金融資本主義という名の格差助長体制と、それがもたらす世界規模での惨禍から世界市民を守るただ一つの方法だと、私は信じている。



「生と死と」2015/3/26-27

今回は政治家の話ではない。それよりもっと個人的で、しかも誰も逃れることが出来ない、生と死のテーマだ。私にそういう重いテーマを取り上げる資格があるかどうかは、この際問わないで頂きたい。死を回避できない(モータルな)人間の一人として、私にとってさえ個人的に最大の関心事なのだ。但し多くの人たちは、切実にそれを意識しながらも、何故かと問い、深く考える機会のないままに、この世を去ってゆくのではないかと思う。

最初に生物学的な死について考えてみよう。では生物学的な死とは何を意味するのか。それは割合はっきりしている。生命体が生命活動(生存活動)を停止することだ。では生命体とは何か。まず細胞レベルでそれを考えてみる。生物が生きているという事は、細胞が分裂と増殖と死滅を繰り返し、福岡伸一の言う動的平衡を維持している状態だと理解される。個々の細胞は生成してから3月ほど活動し、その役目を終えて、次の細胞に置き換えられてゆく。そこではDNAをはじめとした情報が引き継がれるので、細胞が交代しても、生命がそれ以前と同じ個体として認識され、存在を続けることが出来るのだ。個々の細胞にはおそらく意志も個性もないだろう。でもそれが集まっている生命体には個性がある。3か月前のあなたと、現在のあなたでは、物理的な意味では全く別物だ。それでも別人になったような感じがしないのは、記憶と特性が引き継がれているからなのである。細胞が3か月ごとに一斉に入れ替われば、さすがに自分でもそれに気づくに違いない。ドカンとショックがあるかもしれないし、めまいに襲われるかもしれない。しかしありがたいことに、その変化は順番に徐々に起きている。

細胞の寿命が3か月としても、細胞が無限に分裂と増殖を繰り返せば生命は長続きするのに、何故そうはならないのか。それが可能なら、生命の寿命も無限である。しかし三つの理由でそれは不可能だ。一つには、細胞に時限装置=自殺機能、が組み込まれていることだ。この装置が壊れて、増殖が止まらなくなると、細胞の暴走となって、がんになる。もうひとつは細胞が自分自身のコピーを作る時に、どうしてもエラーが発生することだ。書類は、何回もコピーを繰り返していると印字が薄れて、やがては判読出来なくなる。それは情報が欠落するからである。細胞でも同じことが起きている。しかも伝えられるべき情報の量は半端ではない。一個の細胞の中で折り畳まれているDNAの長さは2mもある。それを完全に、かつ正確にコピーするなど、確率的に言っても難しい。だから細胞もいつまでもオリジナルのままではいられない。老化はまさに細胞のコピー・エラーの累積の結果なのである。完全な形でオリジナルの細胞のコピーを、それも抑制された形で、無限に繰り返せるようなプロセスは未だ発見されていない。それが出来れば永遠の命が可能になる。唯一iPS細胞が、他の細胞から、様々な細胞を作り出すことが出来るようになるので、可能性を秘めているが、それを人間全体の細胞の置き換えに使えるかどうかは未知の問題であるとともに、そのプロセスは天文学的に複雑なものとなるだろう。それは事実上不可能だという事だ。

iPS細胞で部分的にパッチを当てながら、少なくも今より延命ができたとしても、やがて脳は記憶で一杯になり、脳として機能しなくなる。そもそも人間の精神が長く単調な人生に耐えられないだろう。何も考えない、感じない、植物人間として生きている場合を人生と呼ぶかどうかは議論のあるところだ。人間らしく生きることを人生と定義すれば、細胞のコピー活動だけに注目して、生と死を定義するのには無理がある。今のまま医学が進歩すれば、病気への対策、細胞修復の技術で、人間の平均寿命は200歳に達すると言われている。でもそれが現在より長いからと言っても、人生が有限であることに変わりはない。いつか必ず来る死に、覚悟だけはしておかねばならない。ここで改めて言っておきたいことは、老化と死は別物だということである。生病老死と言うけれど、4番目はそれ以前の3つとは決定的に違う。そこに生と死の違いのヒントがあるように思われる。

細胞は一斉に死ぬ訳ではないので、細胞の死イコール生物の死ではない。では生物の死とは何か。それは生命の動的平衡が保てなくなり、生物の中枢の機能が停止することだろう。死という大事件が肉体に起きるときは、細胞全体が強制的に機能停止させられることを意味している。それは多くの場合、細胞が生きてゆく上で必要な酸素や栄養を運ぶ血液が来なくなることで引き起こされる。即ち心臓の鼓動が停止する時だ。しかし人工心臓で血流が維持される場合もある。そういう場合でも、脳がそれまでのように働かなくなる、というより思考が停止する、いわゆる脳死になれば、それを肉体の死と見なすのが、一般的な定義であろう。

では肉体を住まいとしている精神の側から見た場合、死とはどんな現象なのだろう。事故や病気で肉体が死に瀕している時は苦痛を伴う。肉体は本能的に死を恐れる。それは肉体としての個の辛い瞬間である。では精神にとっての死とはいかなる状態か。それは脳に血液が回らなくなることで起きる意識障害の形で訪れるだろう。即ち意識を失う、即ち無意識になることだ。であるならば、貧血で一時的に意識を失ったり、睡眠時も、精神としては死んでいるのと同じことかもしれない。良く言われるのは、死とは夢のない眠りだというものだ。だから意識を失うという事は初めての経験でもないし、二度と目覚めないという恐怖感さえなければ、精神と意識にとって耐え難いものではないかもしれない。

でも実際はおそらくそうではない。睡眠と死は決定的に違うはずだ。自分が死ぬと分かったときに、もう二度と目覚めることはないし、家族とも会うことも話すこともない、永遠の別れがあり、自分はこの世から去って無に帰するという、喪失感と虚無感、悲しみがあるはずだ。単に意識を失うという事とは異なる心理状態だと想像される。但し事故の場合は、そういう感情に満たされている余裕さえなく、一瞬で無意識の世界に押しやられてしまうのかも知れない。

臨死体験というものがある。たまたま今週、NHKBSで立花隆の臨死体験の番組を再放送していた。ご覧になった方もあるだろう。死の(実際には仮死)後で、幽体が肉体を離脱し、病室の上の方から自分を見下ろしていた。眼も明けていられないほどまばゆい光に包まれ、やがて花園に着いた。そこでは先立った家族が待っていた。他の例では、生前に会ったこともない人が待っており、息を吹き返した後で調べたら、それは遠い親戚だった等々、様々な事例が報告されている。しかも何冊も本が出るほど多くの事例がある。日本なら丹波哲郎の大霊界もある。そういう多くの証言が、嘘や勘違いでないのなら、死後の世界や天国が、本当に存在していると結論づけても良いのだろうか。

この点について、最近の科学的な分析を待つまでもなく、私のような素人にでも分かることがある。それは死亡した後でも、爪やひげが伸びるという生理的な現象です。すべての細胞が、心臓が止まった時点で、一斉に活動を止める訳ではない。酸素や栄養が残っている間は、活動が続く。同じことが脳についても言えるのではないか。血流が止まっても、どのくらいの時間かは分からないが、一定の時間、脳は働き続け、そこでイメージが脳の中で形作られ続けている可能性がある。

では肉体が活動を終える前の残像が、臨死体験そのものなのか。肯定論者は、幽体が離脱したと考えない限り説明がつかない例があると言う。立花は脳が暴走し、誤動作するのが原因だと説明する。でもそれでは不思議な一致は説明できない。一方、死の瞬間に体重が21グラム軽くなるという説もある。即ちそれが魂の重さだという訳だ。でもその数字は余りにも微妙で、魂が実在することの物理的な証拠としてはいささか弱い。

私は立花とは別の仮説を立てている。それは死に臨んで、脳が暴走し妄想を持つのではなく、その持てる力をフルに発揮するからではないかというものだ。平たく言えば火事場の馬鹿力みたいなものだ。その中には、いわゆる第6感のような超能力も含まれるのではないか。人間の脳は、1/10しか使われていないという。もし脳の能力が全開になったら、何が起きるかは誰にも分からないのである。

人間には五感を超える何かがあるらしいことは、科学的にも分ってきている。911以前から今も続いている、米国での統計の実験がある。それは乱数発生器を世界各地に配置し、それらが発生する乱数の変化を集計するシステムであり、世界的な大事件が起きると、乱数の分布に顕著な偏りが生じるというものだ。それだけなら、911のように世界中の人間が動揺するような事件が起きれば、大勢の人たちの脳波も変化し、それが統計の数値にも影響を与える場合も理解出来る。しかしこの実験で特筆すべきは、事件が起きた直後から変化が起きるのではなく、事件が起きる「前」から乱数には変化が生じているということだ。それは多くの人たちに、一人一人では僅かではあっても、予知能力があると考えない限り説明がつかないのである。

脳には未知の能力が秘められている。その可能性は否定できない、というか否定してはならない。そしてフツーの人達は、死に瀕して始めて、その全能力が解放されるのではないか。だから自分の死期を予知したり、他の魂との交信も起きるのではないかというのが私なりの仮説なのである。

そこで脳に未知の能力があったとして、しかもそれが臨死体験の原因だとして、それと魂の死がどういう関係があるのだろう。私は、魂というのは結局、主として脳内の電気信号の動的平衡ではないかと思う。だから電気信号を伝え、保存する仕組み=コンピューターとしての肉体、が消滅すれば、それが維持している電気信号もやはり消えざるを得ないのではないか。信号が消えること。それが精神と魂の物理的な死の意味なのではないか。身も蓋もない言い方になるが、臨死体験があったにしても、やはり死ねばそれまでだろうと思うのだ。

だから死んでも天国には行かないし、天国での再会もない。あの世がないからだ、仮にあったとしてそこに行くつく自分がもはや存在しないのである。無論現時点ではあの世があるとも、ないとも断定は出来ない。あってくれたら良いとは思う。でもない覚悟をしておいた方が良い。なぜならその方がより良く生きられるからなのだ。そういう覚悟で人生を素面で、真剣にまた大切に生きていかないと、この世に生を受けた価値がないのである。ゆえに無駄にしても良い人生も、無駄にしても良い時間も無いのである。またそれほど大事な人生だからこそ、決して他人の人生を踏みにじったり、まして中断する=命を奪う、ことなどがあってはならないのだ。たかが電気信号に過ぎない魂であっても、それが存在している、またかつて存在したという「事実」まで否定することは出来ない。そんなかすかな電気信号が、宇宙の仕組みまで明らかにしてきたのである。

私たちは、生きている間に一歩でも先に進まねばならない。なぜなら私たち(の知性)が少しでも先に進めば、私たちの子孫はそれより更に先まで進むからだ。思索と技術が進歩することで、より安全で快適で長く、しかも有意義な人生が可能になるのである。そしていつの日か、耐用年数の短い肉体に代わる、精神の入れ物が発明されるかもしれない。その時、初めて私たちは不死を語ることができるようになるだろう。

でも今のところ、私たちは心身ともに死=消滅を免れる事は出来ない。無論原子や分子は残っても、それはもはや自分ではない。では限りある人生をどういう価値観の下に生きれば良いのか。あの世の存在が宗教の前提であるのは、死に行く人間の肉体の苦痛や、精神の恐怖から、人間を救い、安らかに逝かせるための、人間が考案した方法なのかもしれない。無論それでも、それがないよりは数等ましだ。でも中にはその説明では納得しない者もいるだろう。では納得できない者は、絶望の内に死んでゆくしかないのだろうか。

私の学生時代は実存主義華やかなりし頃だった。まず自分(というより自分の意識)、の存在を認識する。そしてそれがどんな自分であっても、存在を肯定する。自分がこの世にあるのは46億年の地球の歴史の、一瞬の偶然かもしれない。でもだからと言ってその生に意味がないことにはならない。自分の存在には何らかの意味があるはずだ、それは何かと自分に問い続けるのである。死ねばそれまで。それは仕方がない。だからといって、自分と魂の存在を否定する理由にはならない。それが、弱い生物でしかない我々が、寿命を超えて生き続ける、即ち死を乗り越える唯一の方法なのだ。即ち死の恐怖に負けずに、どんな環境にあっても、残りの人生がどんなに少なくても、ひたすら前向きに生きてゆく。それが死という究極の悪に打ち勝つことになる。別の見方をすれば、死ぬのは一瞬だ。その一瞬の為に、長い人生をおびえて暮らしてはならない。即ち死には意味はなく、生にこそ意味がある。私は、現代のような、形式と集団と物質的な繁栄だけを重視する、いびつな資本主義の時代にあって、カミユやサルトルなどの実存主義が、もう一度見直されるべきだと考えている。そして、彼らが言うように、自分という個を大事にし、また死を恐れない姿勢だけが、死を克服する道だと信じているのである。…とはいえ、私も人一倍気の小さい人間だ。死に直面したときは、苦痛と恐怖に打ちひしがれるだろう。でもせめて強がりを言いながら逝きたいとは思っている。



「人類2.0」 2015/3/30−31

今回は人類(人間)2.0の話だ。2.0とはセカンド・ジェネレーションという意味である。前回「生と死と」で申し上げたことの中で、繰り返しておきたいことがある。それは突然の事故死でもなければ、本人には死期は予感出来る可能性が高いということだ。そうした予感は、死に近づいて、脳が活性化するからではないかと、私は憶測している。ボケが進んだ老人でも、死期が近づくと覚醒することがある。脳が活性化して、一時的に意識が戻る。私の父は元々口数の少ない人で、大腿骨骨折で入院してからは、殆どしゃべることはなかったのに、肺炎で亡くなる数日前は、急に昔の思い出話を、はっきりした口調で語ったのである。

もう一つは、親しい人が死ぬときは親族に分かるという、テレパシーである。私は父親の場合を含めて、これを何回か経験している。但しこれは自分が予感したのではなく、自分は電波を受けるラジオの方で、電波を出したのは臨死体験中の人だったのではないか。それは具体的にどういう感覚かというと、前触れのない強い不安感として現れる。そういう時は、私は必ず時刻を確認するようにしている。死の間際に脳の働きが活発になり、それにより強く発信された信号が、空間を超えて家族の元に届くのではないかと思う。肉体でも脳でも、極限の状態に置かれると、普段は使っていない能力が目覚めるのではないか。だから将来、緊急時でない普段の時でも、そういう能力が使えるようになれば、人類の能力は飛躍的に高まるのではないかとも考えられる。その時が人類にとっての第二世代になるだろう。

私はどちらかと言えば神経が敏感な方で、気配は感じ取りますが、幸い未だ幽霊にお目に掛かったことはない。元来、気が小さいので、うかつにそんなものを見たら腰を抜かすに違いない。しかし気配を感じるというのは、決して自分だけの特殊な能力ではないと思う。先史時代、人間が生きて行く上で、むしろそれは必須の能力だったのではないか。人間とその祖先には、爪も牙も、速い脚や空飛ぶ翼もなく、恐竜や猛獣からは、ひたすら隠れて生きてゆく弱い動物でしかなかった。そういう動物にとって、直感や予知能力は生きてゆく上で極めて有効な能力だったのではないか。むしろそのような第六感を発達させた者だけが生き延びてこれたのではないか。中でも、未だ開発されていないというよりは、文明の発達で失われた能力として、予知能力とテレパシーという、種が生き残るうえで有効な能力があったのではないか。多い少ないは別にして、その痕跡が現在でも多くの人に基本的に備わっているのではないかというのが、私の仮説である。その能力は、多分古代のシャーマン(呪術師)などには、強く備わっていたのではないかと推測されるのである。

身体能力で見劣りのする人類が、最終的に地上を支配するに至ったのは、他の動物と比べて各段に比率の大きい脳のおかげである。状況を分析し、理解し、計算し、推理して、生き残る算段をする。或は食物を得るために工夫を凝らす。言葉を考案して、経験を書き残し、知識を蓄積し、後世に伝え、文明を形成する。即ち人間の特徴と強みは、その卓越した脳の力にあると言えるのだ。

脳の9割は使われていないと言われる。であればこそ、脳には未知の能力が存在する余地がある。しかしその未知の能力が具体的にどんな能力であるのか、詳しいことは分からない。テレパシーなのか、千里眼なのか、念動力なのか、予知能力なのか。従って21世紀の人類の大きな課題は、まやかしでなく真面目に、天賦の脳の機能を見極め、それを解放し、人間の未知の能力を開花させることだと思う。それが実現できた時に、人類が2.0の段階に進むのだろう。人類2.0の世界が徐々に始まっていると考える人もいる。SFで言えば、それは幼年期の終わり、即ち人類のバージョン1.0の時代の終わりを意味する。

話は少し違うが、例えば肉体が傷ついて死に至る、いわば事故や犯罪による不慮の死がある。でもその時も、脳がフルに活動して、痛みを感じない様にしてくれるという説がある。だから大けがでも苦痛が少ない。これも有難い脳の働きだろう。

ところで、天体観測の技術の発達で、惑星を持つ恒星が続々と発見され、太陽系が特殊な存在ではないことが次第に分かってきた。しかも、恒星の光度の変化や、軌道のブレなどから予測した結果でなくて、惑星の姿を実際に捉えた写真もある。そもそも恒星が回転するガス円盤から形成されるという事実から、同時に惑星が生成されるのはむしろ当たり前の現象なのだ。また水が宇宙では決して珍しい物質でないことも分かっている。乾ききった火星でさえ、地中には今でも大量の水が存在していることが探査機で発見されている。

或る恒星系で惑星が形成されても、惑星の恒星からの距離が、水が液体で存在できる距離でないと生命は育たないと言われている。しかし恒星系はそれこそ星の数ほどもあるので、丁度良い距離に惑星を持つ恒星系も一つや二つではないはずだ。現にハビタブル・ゾーンに岩石型の惑星を持つ恒星系が見つかっている。

であるならば、今の宇宙は知的生命であふれていても良いはずだが、実際にはそうなっていない。その理由は、(いたとしても)知的生命体同士が出会う機会が、時間的或は空間的制約により、極めて少ないと考えられるからだ。時間軸で言えば、宇宙の歴史には137億年の幅があり、空間となれば、それこそ見当もつかないほど離れている。近くの隣人などというものではなく、遠い隣人ばかりなのだ。そしてこれから説明するように、人類が誕生(発生)したというのは、やはりそれほどありふれたことでもなさそうだ。

太陽に寿命があることは分かっているので、その時は地球も太陽に飲み込まれて、人類も消滅することは誰にでも予測できる。それは、他の恒星を見ていれば分かる。銀河の中で星が生まれ、そして死んでゆく。太陽の寿命はざっと100億年。今はその半分くらいのところまで来ている。恒星の多くは死ぬときに超新星爆発をして、さまざまな元素を放出するので、その元素からまた生命が生まれる。しかし超新星が爆発する前にも、そこには惑星があり、知的生命が存在していたかもしれないのだ。

知的生命体同士の出会いを妨げている最大の障碍は、二つの惑星を隔てる距離である。太陽系に一番近い恒星は、ケンタウルス座のアルファ星で、惑星があることも分かっている。但しその惑星は、恒星に近い位置にあるので、水は液体では存在できないらしい。但し未発見の惑星があって、生命体がいる可能性もないわけではない。このアルファ・ケンタウリは25000年後には太陽に3光年まで近づくと言われている。宇宙規模では、殆どゼロに等しい3光年だが、それでもその距離はとてつもなく大きい。約9兆キロ。時速6万キロで疾走し、太陽系から出て行ったボイジャーでさえ片道1万7千年かかる距離なのだ。

実際に接近遭遇が出来なくても良い、3年掛かっても会話が出来れば良いと割り切ったにしても、それでも私は、やはり人類は現時点では、近隣の宇宙では一人ぼっちだと思う。その根拠は、SETIなどの努力にも関わらず、彼らから未だにいかなる有意の信号も届いて来ないからである。

宇宙と恒星の成り立ちを考えると、知的生命体を人類だけに限定しなければならない理由はありません。時間軸(時代の違い)や空間軸(離れていること)を考慮しなければ、人類のような、あるいは人類以上の文明を持つ知的生命体は存在しただろうし、将来も存在するだろう。なぜなら生命が偶然(あるいは神)による存在だと信ずるべき根拠がないからだ。但しこれまで書いてきたように、二者の出会いとなると話は別なのだ。要は確率の問題なのである。

話は変わって、私はUFOの存在を確信している。自分でも目撃しているが、数あるUFO映像の中には明らかに作り物でないものが含まれている。旅客機の機長の間でもこの話題はタブーで、目撃しても記録は残さず、退職してから初めて話すという話を聞いた。だから現象そのものは確かに存在するのだが、科学的には説明がつかないのである。

UFOはどうやら時空を自在に移動できるらしい。重力も操れるらしい。そうでなければあんな急加速と急減速で宇宙人の体がもつわけがない。それでも超絶した科学力さえあれば不可能ではないのかもしれない。それでも私はUFOが宇宙人の乗り物だとは思えない。なぜなら不条理があるからだ。これは幽霊にも共通する。例えば幽霊の不条理とはこういう事だ。毎日何万人もの人が亡くなっているのに、皆が皆、幽霊になって再現するという事を聞いたことはない。犯罪現場だから必ず幽霊が出るということでもない。霊が現れたり、写真に写ったとしても、その「霊」が何のために現れるのか説明がつかない。自分がかつてこの世に存在したことを認めて貰いたいのか、無念の気持ちを伝えたいのか。ならばそういう分かりにくい方法でなく、別の伝え方があるだろう。例えば夢に現れてメーッセージを伝えるなどである。それなのに、頭だけだったり、肩に置いた手だけでは、こちらではさっぱり意味が分からない。即ちやっていることに論理性が感じられない。それがUFOにも言える。即ち、目的も意味も分からない不条理な存在だということだ。

目的があって、手段がある。これが常識であって、理性的な行動の原則でもある。それを因果律と言い換えても良い。UFOの出現や消滅、或はその間の移動方法は、常軌を逸している。要するにやることが滅茶苦茶なのだ。隠す事が可能なら、なんでわざわざ光る物体として人前に、しかも最近では人の集まる場所に、これ見よがしに現れる必要があるのか。それくらいなら積極的に通信を送ってくれば良いだろう。UFOという存在が不条理であることから、それを操っているものが知的な生命体ではなく、余りにも異質な損じアである可能性が高い。ようはETの様な友好的な友達でもなければ、話して分かる相手でもないという事だ。百歩譲って、空飛ぶ円盤の中に何かがいたとしても、その場合は、おそらく我々のようなロジカルな存在とは無縁な何かであるか可能性が高い。実態のない電気信号だけかもしれない。即ちUFOはこの宇宙のものではなく、異なる次元や異なる宇宙(=例えばあの世)のものかもしれないと思わざるを得ないのである。

知的生命体は、偶然の産物ではなく、奇跡でもないと私は申し上げた。それは銀河も恒星も無数に存在するからだ。確率が少なくても母数が大きければ、存在する確率は高まる。それでもなお、私たちがいかに限られた確率の中から、特に選ばれた存在であるかを知っておくことは我々が人生を考える上で、無駄ではないと思う。

太陽系が生まれて46億年。あと同じくらいの年月、太陽は輝き続けるだろうと言われている。でも、それは最長の場合であって、そんなに長く人類は存続できない。動物の一つの種が何億年も栄えるという事はなく、むしろ別の種に進化するか、天変地異で滅亡する可能性の方が高い。太陽が膨張する頃、地球に未だ生物がいたとしても、それは人間ではないだろう。

人類が第四間氷期というこの時代にあって、宇宙で一人ぼっちである可能性が高いと、私が思う理由が、もう一つある。それは人間という生命形態が、かなり珍しい存在である可能性があるからだ。それはこういう観点で説明できる。即ち、地球の46億年の歴史の中で、生命の爆発的発生が起きたのが4億5千万年前のカンブリア期だ。しかしアミノ酸から最初の単細胞生物が生まれたのは地球創世期、即ち45億年前。当時冷えはじめた地球は全部が水に、即ち海に覆われていた。その後さまざまな地殻の変動があり、原初の大陸パンゲアが誕生する。原初の浅い海中で発生した最初の生命体は、なかなか進化しなかった。そこで要した時間がなんと30億年。それは30億年海が続かないと細胞が生物に進化しないということを意味している。そんなに長いこと海が存在してくれたおかげで、人間も生まれる事が出来たのである。

地球よりサイズの小さい火星も、最初は海に覆われていた。しかしあっという間に乾いて海がなくなってしまい、生物が進化する時間的な余裕がなかった。だから将来火星探検で化石が発見されるかどうかは大変疑わしいと思う。30億年もの長い期間、海が存在出来るような特殊な環境でないと知的生命は生まれない。では何故地球の海が、火星のようにプレートの沈み込みでマントルに全部引き込まれずに済んだのかというと、それはマグマの一大ブルームが起きたからだと説明されている。即ち、地球がハビタブル・ゾーンにあり、海が長く存在出来た特殊な惑星であったからこそ、人間という極めて高度な生物が発生したのであって、その偶然が起きる為には、46億年という恒星の平均寿命の半分もの膨大な時間が必要だったのだ。だからこそ、人類の様な生命体は、宇宙のどこででも簡単に見つかるようなものではないのである。

人類2.0の続きだ。人間は考える葦だという言葉がある。葦は弱い植物だが、考えることが出来れば、偉大な存在になり得る。似たような例を、日本を代表する天文学者から伺ったことがある。それは、人間ははかない存在だが、それでも宇宙の仕組みを解き明かしたというものだ。

弱く小さい人間が、これまでに解き明かしてきた宇宙の真理や最新の科学に思いをはせるとき、私が驚かされるのは、それがカバーする領域の広さと、物理的なスケールである。21世紀の今なら、狭い空間での1年弱の旅さえ我慢できれば、火星まで行くことが、現実に可能になってきている。それでも、最も近い他の恒星系までは3光年離れており、それは瞬間移動の方法がない限り、事実上到達不可能な距離だ。仮にワームホールか何かで、空間をショートカット出来るようになるとしても、その移動には莫大なエネルギーが必要になるだろうし、地球の近くでそんなエネルギーを手に入れられるとは思えない。一番近い恒星でさえ到達できないのに、天の川銀河を横断したり、アンドロメダ星雲に行くなどは、あり得ないことなのだ。

それでも天文学の議論では、3光年などは取るに足りない距離なのだ。宇宙のスケールと、我々が住んでいる世界との違いはハンパではないのである。恒星系(含む惑星)や銀河が存在するためには、元々図体がでかいのだから、それなりの空間や距離が必要になる。それらに比べれば、人間が生きてゆくのは、ごくちっぽけな環境だ。人間と宇宙では、物差しの尺度が違うのである。それでも人間はその制約を超えようと、必死に力を振り絞っているのである。

ブラックホールもかつては想像の産物だったが、観測の結果、実際に存在することが分かった。でも重力が無限大の世界をどうしたら想像できるのか。しかも事象の地平線(要するに境界線)に近づくにつれ、時間が遅くなり、やがて止まってしまうという。無論それは観測者から見た場合だが、それにしても時間が止まるとはどういう事なのか。巨大なスケールで起きる現象は、人間の想像力を超えている。

一方で、似たような関係が身近にある。それは人体と細胞の関係だ。細胞は顕微鏡で見ないと分からないくらい小さい。それが何千億も集まって人体を形作り、その中で個々の細胞が活動することで、人間を生かしている。細胞は人間のことなど意識してはいないだろう。ひたすら自分の短い人生で、役割をせっせと果たして死んでゆくだけだ。人間と宇宙の関係と違うのは、気付くと気付かずとに関わらず、そこに相互依存の関係があることだ。

しかし、それが細胞のレベルを超えて、原子の世界に至ると、その世界もまた想像力が吹き飛ぶ異質なものである。それが量子力学の世界である。

人間は細胞で出来ている。細胞は分子で出来ている。分子は原子で出来ている、原子は原子核と電子で出来ている。原子核は陽子(ハドロンの仲間)と中性子で出来ている。ハドロンはクオークで出来ている。クオークは色や匂いやスピンなどで何種類かに分類される。そこまでで、当面、物質の細分化は終わる。今では原子なら顕微鏡で見えるようになった。計算で素粒子の存在を予言し、粒子加速器の実験でそれを実証する。量子論はただの仮説ではなく、科学的な事実である。ヒッグス粒子も発見されている。

最近では、クオークは粒子ではなく、振動する微細な輪(閉じたものと開いたもの)だという超弦理論が優勢だ。振動数の違いが素粒子の違いだというのである。

私は専門家ではないので、量子力学を詳しく説明する事は出来ない。でも素人ながらも、このサイズの違い、即ち宇宙、人間、量子という大きさの違いが気になる。宇宙は10の何十乗もの世界。かたや量子力学は10のマイナス30乗の世界。酸素の原子核の大きさは1000億分の1ミリ。宇宙の大きさが想像を超えるように、素粒子の小ささも、想像をはるかに超える。時間でさえ、分母にゼロが30も並ぶような細分化された世界では、不連続になると言われている。ということは、存在と非存在が繰り返されているということになるので、我々も点滅を繰り返すネオンのような存在なのかも知れない。

限界まで分解された極微の世界では、我々が生活している世界の常識も法則も通用しない。私たちは原子を、原子核を回る電子という、太陽系のような構造として学んできた。しかし現代科学が、旧来の知識と違うのは、電子と原子核の間隔が、素粒子のサイズと比べれば桁違いに大きいということだ。原子の構造は、いわば隙間だらけのスカスカだということである。だからこそ、白色矮星などで、巨大な重力で圧縮された物質の重さが、角砂糖ひとつの大きさで数万トンなどという事も起こり得る。また電子は惑星のように、軌道をめぐる粒子でもない。どこに存在する決められない雲のような存在なのだ。原子核を中心として、飛び飛びの値を取る軌道の場所だけは決まっているが、そのどこに電子があるかは特定できない。それは見るまで分からないなどという生易しいものではない。ある確率で存在するとしか言えない。というよりどこにでも同時に存在しているというのである。だからそれは波の性質を持つ。二つのスリットがあれば、それを一個の電子が同時に通過する。確率的に存在するなどは、人間の実生活のスケールでは起こりえない。というより実は起きているのだが、無視できるほどに小さいということなのだ。これが極めて大雑把な不確定性理論である。

今後最も大きなテーマになると思われるのは、場の理論である。真空は我々から見れば、何もない空っぽの空間だが、量子力学ではそうは見ない。粒子が生まれては消える、煮え立つような、エネルギーに満ちた場所なのだ。真空のエネルギーはビッグバンに先立つインフレーションの根拠にもなっている。何もないのに、何かがある。これもまた常識では理解しがたい世界だ。

なぜ何もない空間から素粒子が出現できるのか。物質不滅の法則はどこに行ったのか。突然発生しても直後に消えるのだから、帳尻はあっていると科学者は言う。要するになかったことにするというわけだ。そんないい加減な事でいいのかと思うが、およそ極微の世界ではなんでもありらしい。

ところで真空の宇宙空間でも、場というものは存在している。身近なところでは電磁場がある。その中にコイルを置けば、コイルの電線に電流が流れるのだから、確かに場は存在している。私は場の解明が、今後ダークエネルギーなどの解明のカギにもなると思っている。長い前置きになったが、ここでやっと人類2.0が関わってくる。

人間の意識というものの実体は、脳内の微弱な電流の流れが作る場の変化であり、電流が作る情報ネットワークだと私は考えている。だから時々刻々変化もするし、信号がない状態が睡眠もしくは死であり、要するに無意識の状態だ。パソコンが演算結果をメモリーに蓄えるように、人間の脳もネットワークの情報処理の結果を、電荷の形で脳の記憶領域に蓄える。だから脳の活動が停止すれば、意識も記憶も共に失われる。それが人間の死=脳死、であるのだろう。実際には睡眠中でも、脳は一部活動している。でも覚醒中のように脳全域にわたる広範囲な情報交換活動ではない。

しかし、死んでしまえばおしまいという身も蓋もない現実に、場の理論がひとつの救い、或は意識が肉体の限界を超える可能性を示唆している。人間の意識は、微弱電流の脳内活動であり、情報のネットワークかもしれないが、それであるがゆえに、場にも影響を及ぼす可能性があるからである。意識が与える場の変化は、重力と同じように、あるいは同時に生成された一組の素粒子間の情報のように、瞬時に伝わる可能性がある。そして、この共通の場に接続している他の人間の意識にも影響を及ぼすのではないか。いわば、未だ正体の良く分からない場を媒介にした意識の相互通信ネットワークこそ、予感やテレパシー、或は共感の実態なのではないかということなのだ。

人間の存在を、意識という観点で捉え直すことが、人間が、自分の手が及ばない極大の宇宙や、極小の量子世界という、いわばスケールの障壁を超えて、より意味のある存在、即ち人類2.0になることにつながると考えている。



「アイ・アム・ノット・アベ」2015/3/31

菅官房長官が、古賀茂明が「アイ・アム・ノット・アベ」とTVで言ったことに腹を立てて、テレ朝の社長にねじ込んだという情報がある。
安倍政権の番頭が、なりふり構わずメディアに圧力を掛けるのはいかがなものか。裏を返せばそれだけマスコミの力を恐れてもいるのかもしれない。「アイ・アム・ノット・アベ」は、後藤さんを解放せよと、現地の人たちがキャンペーンをしてくれた時に使われたスローガンである。古賀が発明した訳でも、初めて使った訳でもない。しかも人質事件の当時、首相閣下はゴルフ三昧に明け暮れていたと言われているのである。国の代表としての面目は丸つぶれである。後藤さんを解放させることには殆ど関心がなかったと言われても仕方がない。

私は報道関係者でも、知名人でもないが、ひとつだけ確実に予言出来ることがある。前回、日比谷で1万人規模で行われた反安倍政権のデモが、次に行われる時はもっと多くの国民が集まるということだ。そして、そこでは「アイ・アム・ノット・アベ」のシュプレヒコールが響き渡ることだろう。番頭がいかにメディアに圧力を掛けようとも、そのシュプレヒコールは全国に広がってゆくだろう。私も「アイ・アム・ア・ヒューマン、アイ・アム・ノット・アベ」の言葉と、ちょび髭を付けた某首相の似顔絵を描いたプラカードを用意して、次のデモに備えようと思っている。

3/30の朝日の朝刊は、一面で、日米安保法制の文案は米軍が作成したものをそのまま使っていると報じた。安倍首相は、どうぞお使いくださいと自衛隊を米国に差し出したのである。このどこに独立国としてのプライドと、主権在民の精神があると言うのだろうか。それが国民への裏切りと売国の行為でなくて何だと言うのだろう。

それに、ここまで絶大な権力を振っている、というより、理屈にもならない屁理屈で横車を押し通している菅長官。私たちはこれまでも、そしていまでも、あなたの事は良く知らない。あなたは一体何者で、どこでどんな生き方をしてきたのか。



「金融危機への対応」2015/4/6

今日は岩波ブックレット、伊藤正直著「金融危機は再びやってくる」2012年11月刊の紹介である。来るべき金融バブルの崩壊に備えて、金融危機のおさらいに役立てば幸いである。ドルが基軸通貨になっていることを指摘する論文で、行き過ぎた市場原理主義に警鐘を鳴らしている。

…サブプライムローンは当時のアメリカ金融機関融資残高のわずか数%に過ぎませんでした。ですからサブプライムローンの延滞率が上がり、貸し倒れ債権が増大したとしても、金融機関への打撃は、本来はそれほど大きくなかったはずです。

…住宅ローンの不良債権化が、アメリカの中核的金融機関の破綻、さらには世界的な金融危機につながったのは、アメリカの金融革命、金融自由化を背景とした証券化商品の乱造があったためです。

この時期、アメリカの金融機関は、住宅ローンを組み込んだ証券、例えば、RMBS(住宅ローン担保証券)や、このRMBSをさらに組み込んだ仕組み債の一種であるCDO、ABCPなどを次々に組成し、これを世界中に売りまくっていました。住宅ローンの不良債権化が、こうした証券化商品の暴落につながったのです。

日本でも、これより単純ですが、これと似た金融商品がバブル期に大量に売り出され、バブル崩壊とともに、不良資産となって大きな問題を引き起こしました。「営業特金(特定金銭信託)」とか「ファントラ(ファンド・トラスト)」と呼ばれた金融商品がそれです。当時の法律では本当は適法ではなかったのですが、預託者に利回り保証をしたうえで、一任運用という形で資金運用をしていました。この「営業特金」や「ファントラ」は、バブル崩壊後、運用していた株や債券の価格が暴落し、次々に元本割れを起こしていったのです。

…1995年には、日本のバブル崩壊後にもかかわらず、一ドル79円75銭を記録しました。ドルの価値は、この40年間で四分の一以下にまで落ち込んだのです。ドルは、長期的には、円に対してだけではなく、大部分の主要通貨に対しても安くなっています。このことは、「アメリカが基軸国としての役割を果たす力を失ったことを示している」かのようにみえます。しかし、他方、世界各国のドル保有高は、減るどころか、逆に増大しました。

様々なリスクが発生し、そのリスクをヘッジ(回避)し、カバーするために、あるいは、逆にリスクをとって儲けるために、デリバティブ(金融派生商品)などが頻繁に利用されるようになったのです。 そこで使用される通貨の第一はドルです。実際、貿易やそれ以外の経常的な取引で必要なマネーは、世界を合計しても一年間で約8兆ドルといわれているのに、毎日の取引マネーは2兆ドルから5兆ドル、年間累計では900兆ドル以上に達しているのです。実体経済が必要とするマネーの100倍ものマネーが世界を飛び交っており、その筆頭がドルなのです。変動相場制というシステムや金融のグローバル化が、このようにドル保有の増大をもたらしたといえましょう。

こうして、世界中をドルが駆けめぐるようになると、ドルは、取引通貨、決済通貨としてだけでなく基準通貨としても以前より大きな地位を占めるようになりました。

…「アメリカは基軸国としての役割を果たす力を決して失ってはいない」ようにみえます。

どちらが真実なのでしょうか。両者を見比べるならば、長期的には、持続的に価値を下げ続けている通貨が、短期的には、最も低コストで効率的で安全な通貨となっていることがわかります。

ここに、現在の国際金融システムの最大の問題が存在するのであり、国際金融不安を引き起こす根因があるのです。変動相場制の下でのリスク・ヘッジとリスク・テイクの両面からのドル需要の増大、この結果として堆積してくる膨大な過剰ドル、この過剰ドルの運用先を求めての新しい投資対象の開発と資本自由化要求、その過程から生じてくる金融システムの国際的、一国的不安定性の増大。このような連鎖は、金融グローバル化という形で現れてきます。そしてそれを生みだしているのは、国際金融システムの動態とそのコアとしての基軸通貨の弱化なのです。

…トリクルダウン、即ち大企業が初発的利益を得たとして、その余滴が雨だれのように中小企業や社会的下層にも落ちていって、全体として豊かになっていくという考え方です。この考え方を採っていたのは、アメリカ財務省、IMF・世界銀行などの国際機関、多国籍銀行などで、この見方に対しては、当然ながら、これまで厳しい批判がなされてきました。

…現在進行しているグローバル化は先進国及び先進国企業による形を変えた植民地支配である、という点は、ほぼ共有されているようです。グローバル化が進むことによって、地域経済が破壊され、自立的な地域経済循環が分断され、先進国経済と線で結ばれることによって社会秩序が崩壊していく。豊かな者と貧しい者の格差が広がり、貧困が増加し、最終的には難民が多数発生し、暴力や自然破壊によって社会そのものが壊されていく。したがって、必要なことは、グローバル化の勢いをとにかく力ずくでもいいから止めることだ、というのです。

しかし、この両者のどちらにも立たない主張も存在します。問題はグローバリゼーションそのものにあるのではなくそれをどのように進めるのかにあり、経済と社会についての特定の観念によってつくられた偏狭な思考パターン、すなわちワシントン・コンセンサスに見られるような偏狭な見方が事態を悪化させている、といった主張です。この主張の代表者は、かつて世界銀行(WB)の副総裁であり、2001年に「情報の経済学」についての功績でノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツです。

彼は、「(グローバル化は)イデオロギーの問題ではなく、経済発展の中で不可避的に進行していくものである。多国籍企業の個別的な強欲だけがグローバル化を促進しているのではない。システムそのものが、そういう段階に発展していくのだ」と把握します。

…こうして、グローバル化の進行のなかで、世界の実体経済が必要とするマネーをはるかに超えるマネーが供給されるようになりました。そして、その過程で、供給されたマネーが容易に資本に転化するようなメカニズムが作られました。

…アングロ・サクソン的新自由主義は、一般的には、1970年代後半になって登場したといわれています。1979年からのサッチャリズム、1981年からのレーガノミックスがその代表で、そこでの政策体系は、それまでのケインズ主義的な総需要管理政策を全面的に否定するものでした。すなわち、
・「大きな政府」を否定して政府の経済過程への介入を最小限にする
・企業の競争条件を強めて効率的な企業経営を実現する
・所得再分配政策や累進税制を改めて企業の財務体質を強化する
・規制緩和を推進して市場の透明性を高める
・民営化を通じて民間経済の活性化を達成する
・需要サイドではなく供給サイドを重視する
・自由貿易や資本移動の自由を促進する
企業や個人の自由を最も重視する自由主義、市場原理主義型の新自由主義がここで登場したのであり、これを支えたのが、ハイエク、フリードマン、ルーカスなどの戦後シカゴ学派の経済理論でした。

…権上によれば、ファシズムや社会主義に対抗する形で登場した20世紀前半の新自由主義には、四つの構成要素があったといいます。第一に、個人の自由は価格メカニズムが機能する自由な市場経済のもとにおいてのみ保障され得る、第二に、市場が有効かつ安定的に機能するには法律・制度の枠組みが必要である、第三に、価格の変動を介して不断に調整される市場経済に現実の社会が常に適応出来るわけではないので、市場経済と社会の間の緊張や軋轢を緩和するために適切な政策的措置を講ずることは有用である、第四に、経済.社会領域への公権力の介入は、特定の形態の介入および一定の量的範囲内の介入については容認できるし必要でもある。

そもそも、市場原理主義的新自由主義は、ロック、ベンサム、スミスという安定的世界が相互に整合性をもって体系化されている安定した世界をもっていません。20世紀中葉における、ケインズ、フォード、ベバリッジの世界ももっていません。1970年代に、反福祉国家、反ケインズ的総需要管理政策、経済学の反革命を掲げて登場した否定的反対物です。

…近代資本主義が持っていた価値概念の体系性が失われていくなかで、自由、平等、友愛、民主主義といった諸規範がトレードオフの関係に立った時、経済主体の自由を最優先する形で政策実践を行うものとしてしか規定できないのです。体系的な規範による歯止めがない以上、市場原理主義的新自由主義が暴走するのは、ある意味で当然といわなくてはなりません。

…これまでみてきたように、金融危機は、1970年代以降の国際金融システムの不安定性と、80年代以降の経済グローバル化の急速な進展を背景に発現しました。その根源にあるのは、基軸通貨ドルへの信認の弱体化です。そうであるとすれば、基軸通貨の安定が達成されない限り、あるいは新しい基軸通貨が構築されない限り、金融危機はこれからも繰り返し発生せざるをえないでしょう。もう少しはっきり言えば、ドル価値の下落とドル・バランスの増大の両者を同時解決するようなシステム改革なしには、金融危機はこれからも再発せざるをえないということです。

…また、グローバル化の動きは不可逆的であって、これを逆戻りさせることは1930年代のブロック経済の再来という悪夢をもたらします。とすれば、当面、危機対処策、危機克服策として採りうる手段・手法は、かなり限定されることになります。

危機対処策、危機克服策は、短期的・危機対応的なものと長期中的なものとに分けて考える必要があります。前者について必要なことは、一国主義・二国間主義への傾斜を防止することでしょう。

…1970年代以降の一連の金融危機においては、危機の激化や波及を防ぐために、様々な一国的な対応策がとられてきました。金融危機の深度に対応して、預金封鎖、銀行休業にはじまり、救済融資、公的資金の投入、国有化等々です。当面の措置としては、それらは必要なものであり、また、限定的に有効であったかもしれません。しかし、問題の根源が、国際金融システムの側、基軸通貨の側にあるとするならば、こうした一国的対応で問題が解決するとはとても思えません。こうした内向きの対応を防いで、マルチな会議をメインに、二国間協議をサブに、国際政策協調を維持していく必要があります。

第二は、国際機関やその提起する政策への信認を回復することです。かつてのIMFコンディショナリティーは、その内容が著しくイデオロギー的であっただけでなく、手法も一律・機械的でした。現在、このことはIMF自身が認めるようになりました。そして、IMFやWB、BCBSやFSBが自己改革していくことも必要でしょう。(後注:既得権に拘って、再任したラガルドにそういう意図があるとは到底思えない)

第三は、地域間の協力・連携体制の強化です。ヨーロッパでは、欧州金融安定基金の資金基盤の強化が喫緊の課題となっていますし、アジアでも、2012年5月には、ASEANと日中韓(ASEANプラス3)の財務相・中央銀行総裁会議において、金融危機に直面した国に外貨を融通する制度の資金枠を2400億ドル(約19兆円)に倍増することが合意されました。アジア経済の安全網強化での各国合意がなりたったのであり、日本は中国(香港含む)とともに参加国最大の768億ドル(約6兆円)の拠出を表明しました。こうした努力が不断になされる必要があります。

…グローバル化が危機の国際的伝染の範囲と速度を著しく大きくしている以上、すぐにでも対症療法ができる条件を作っておくことは、危機の不必要な激発化、国際化を防ぐためにも不可欠でしょう。

しかし、もう少し長いスパンで考えた場合は、どのような形で安定的な国際金融システムを再構築するかが不可欠な課題となります。この場合、重要なことは、市場原理主義的新自由主義にどう向き合うかです。これを標榜する巨大金融機関、巨大企業のもたらすモラル崩壊と無法化は、今や黙視できない度合いに達しているように思われます。市場経済を守りつつ、この災厄を防止するためには、国際金融システムや国際機関を、きちんとした国際公共財として機能するようにすることが大切です。国際金融システムの機能において、何らかの形の基軸通貨が不可欠であるとすれば、それを直ちに実現することは極めて困難であるかもしれません。しかし、市場原理主義的新自由主義の暴走を抑えること、検討されている金融規制改革に古典的自由主義がもっていた健全性、すなわち「公共社会の力」による「正義という徳性」の行使という健全性を埋め込んでいくことは可能なはずです。

どのような市場経済を目指すのかをめぐって、現在、私たちは、世紀を超えた歴史的岐路に立っているといえましょう。



「米国の信託統治国日本」2015/4/7

普天間の件で、仲井眞前知事は、それが沖縄にとって止むを得ない策だと思って決断したのかもしれない。高村議員も、集団的自衛権は日本を守るために必要だと信じて進めているのかもしれない。二人とも良かれと思ってやっていることかもしれない。でもこの二人、そしてそれをまとめている菅長官に欠けているものは、国民がどう思っているかという、民意への配慮である。国民に反対の声があるのは承知している。でも衆院選挙を通じて自民党が国民に政治を付託されている。そして政策は日本にとって正しいと信じているので、何とか成立させたい。いかにそう主張しようとも、それでもなお、国民には自分の運命を自分で決める権利がある。それが出来なかったからこそ、戦争が起き、それが泥沼化して300万人が死んだのだ。しかも戦前は(そして今でも)、メディアは、その本文を忘れて、国民視点には立たずに、政権や軍部の肩を持っている。国民には、敗色が濃いという事実さえ伏せられていた。今の安倍政権の姿勢と、戦争中の内閣や軍部の姿勢はそっくりだと、私は思う。

日本にとって(というより国体なる得体のしれないものを守るために)選択肢がないからという理由で、国民に不必要な犠牲を強いる道を選んだのだ。しかも戦争に責任がある人たちが、戦後政権を担う(岸内閣)というおかしな事まで起きた。300万の国民を殺した悲劇を二度と繰り返してはならない。何よりそれが大前提だ。(国を守るためであっても)国民を犠牲にはしない事が鉄則である。だから政治を政権が好きなようにさせないために、平和憲法が出来たのだ。戦後日本は米国の属国として利用され続けてきた。今や米国型金融資本主義や、市場原理主義の圧力から、日本でも米国のような貧富の差が拡大している。貧困層が紛れもなく増大しているのである。これのどこが美しい国、豊かな国なのだろう。以前あれだけ活発だった労組さえ、既得権の組織に堕しており、労働者の権利を守るために機能しているようには思えない。

米国が戦後、日本に(偶然)与えた唯一のプレゼントが、他ならぬ平和憲法なのだ。しかも同じような憲法は日本だけではない。なぜなら日本の憲法が、その直前に決まった国連憲章をお手本にしているからであり、それゆえに世界中に日本の平和憲法の兄弟がいるのである。戦前、まともな憲法がなかったから、日本は大戦に突き進んで行った。平和憲法があるというのは、世界で特殊な例ではなく、むしろごく当たり前の国家の姿なのである。日本の憲法だけが非現実的で異質なものであるかのように言い募る自民党の、不勉強で浅薄な議員たち(含む安倍首相)の神経は、私は到底理解出来ないのである。

憲法が、日本が外国で一発の銃弾も撃てない様にしたがために、日本は経済的に繁栄出来た。保守派議員というより、親米派議員は、米国が軍事的に日本を守ってくれたからだと言う。でも米国が正義や善意で動く国でないことは、嫌というほど実例がある。ベトナム、中東、南米等、枚挙にいとまがない。日本は不沈空母として、太平洋の米国の反対側で、自由主義の防波堤を担っている。だから米国は太平洋で派遣を維持しているのだ。いわばギブ・アンド・テイクの関係であり、日本が一方的に卑下したり、隷従したりする必要があるとは思えない。高村の集団的自衛権は、その隷従を一歩も二歩も進めるものだ。彼の論法は極めて明快である。即ち日本は自力では自分の国を(中国など軍事力の強大な国の脅威から)守れない。だから安全保障で米国に頼らざるを得ない。そこでは米国の意向もあるし、出来るだけの軍事協力をするのはむしろ当然ではないかという理屈である。そしてその時に邪魔になるのが憲法9条だ。だから米国自身が矛盾しているのだ。あなた方がくれた憲法が武装放棄、戦争放棄をうたっているのに、何故日本に軍事協力を求めるのか。

田中角栄、小沢一郎をはじめ、米国に正面から楯突く政治家は、国内の親米派の政治家や官僚を使い、ありとあらゆる(不正手段を含む)手段で潰しに掛かった。共産党や右翼は放っておけば良い。どうせ多数派になる心配はない上に、言論と思想の自由が保障されていると言う体裁を取り繕う上で役に立つからだ。但し保守が反米になることだけは看過するわけにはいかない。保守は黙って米国の言うことだけ聞いていればいいのである。

安倍首相や菅長官は、それが日本にとって最善の策だと言う。ならば何故最善か、何故他に選択肢がないのかを国民に正々堂々と説明する義務があるのではないか。丁寧な説明をして国民の理解を得たいと念仏のように繰り返すが、それが丁寧な説明であった試しがない。国民の意見に耳を傾ける最重要な段階も念頭にはないようだ。一通り説明したから、国見が納得しようがするまいが、もういいんじゃないの、そろそろ国会で議決して決めたいが、そのどこが悪いのかと言わんばかり。自分達が好きなようにしているという感覚がない。

国民には反対の意思を表明する場が与えられていないことが問題だ。メディアで有識者が反対意見でも述べようものなら、メディアの社長に圧力を掛ける。このどこに言論の自由があるのか。菅長官の脳裏には、民は知らしむべからず、よらしむべしという古臭い政治観しかないのかもしれない。

民意を無視するという点では、安倍政権は戦前の政権と良く似ている。無論、戦前の政権下でも、軍部の暴走に対抗しようとして暗殺された骨のある政治家もいた。だからそういう反骨漢がいないだけ今の方が戦前よりもっと悪いのかもしれない。政府には、自分たちがエリートだから日本をリードする立場にあるという思い上がりは間違っていると言いたい。



「合祀について」 2015/4/25

NHKで戦時中の空襲の番組があった。米国は、原爆と空襲という日本の市民の大量虐殺への反省と謝罪が済んでいるようには思えない。当時は国民にも国家を守る義務があり、空襲でも逃げずに現場に留まって、消火に努めなければ、村八分どころか、配給さえ止められた。一方、国には国民を守る義務はなかった。

当時、少しでも国民に自分の身を自分で守るという気持ちがあれば、これほど悲惨な犠牲者の数にはならなかっただろう。国は国民に一億玉砕という形で自殺を強要したのである。しかも敗戦が決まった後で、信念に基づいて自決した軍人は数えるほどしかいなかった。無論上層部も同様である。生きて虜囚の辱めを受けるなと言って、国民に自決を強要しておきながら、自分たちはそうはしなかった。それは彼らの戦争続行の理屈が決して国の為などではなかったことを意味している。武士なら、のめのめと生き残るはずはない。そこには辛くも戦犯を逃れた岸信介も含まれている。今、戦争気分をあおっている安倍政権とそれを支持する人たちは、いざ戦争が始まったら最初に逃げる事はほぼ確実。なぜなら戦中戦後の前任者たちがそうしてきたからである。国益の為と称して、私利私欲のための戦争で、理想も理念もないから、わが身可愛さで最初に逃げ出すしかないのである。

それと気付かせないように、国民を追い詰め、収奪を繰り返した軍部と軍国主義の身勝手さ。今の政府のあり方と大きく違うようには思えない事が恐ろしい。菅官房長官がマイクの前に立つたびに、私には大本営発表を想起する。また自分が神社を設立したわけでもない宮司の勝手な判断で、勝手に戦犯を靖国に合祀した経緯。これが一層、戦争の総轄を難しくしている。70年前の軍部の犯罪に対する追及も、時の政府に対する批判も進まない。いま一番、戦争の総括に近い文書は、最近完成した宮内庁編纂の昭和天皇史だけである。

合祀で一番迷惑しているのは他ならぬ兵士の遺族だろう。国民が追悼の純粋な気持ちで参拝することが気持ちの上で難しくなっているからだ。自分の家族を無駄で無残な死に追いやった命令を下し、戦術的にも間違った無能な最高責任者の魂にも、自動的に参拝することになるからである。合祀した時から、昭和天皇は毎年続けていた参拝を中止された。無理からぬことと思う。そしてそれが今も続いているのである。

分祀すれば、一般の参拝客ももっと自由で、またすがすがしい気持ちで参拝できるようになり、人数も増える。合祀は出来ても分祀は出来ない、それは魂だからというのは屁理屈だ。遷宮では一時的にお宮を替えて、座を移して頂くことで、遷宮を行っている。私は戦争責任者の人達には、乃木神社にお移り頂くのが良いのではないかと思っている。

中韓が、国内問題でもある靖国参拝に、何故あれほどイチャモンをつけるのか。それは靖国参拝という行為が、合祀以降は、戦争の肯定を意味するようになったからだ。合祀した宮司の名前や当時の厚生省の責任、政府の見解も明らかにされてはいない。なぜならそれが国民に対する闇討ちだったから、明らかには出来ないのである。

そういう、いわばまことに常識的な判断さえできない女性閣僚を含めた自民党議員諸君は、想像力が欠如しているだけでなく、歴史の勉強さえ不足している。八紘一宇などという自分さえ聞いた事もない時代錯誤の言葉を発掘して、得々とひけらかす女優出身の議員さえ出る始末なのだ。

そこにあるのは自我肥大だけで、国民と議会の正常で健康な関係に対する理解は欠落している。自民党のある会派ではトップに山東議員を据えようと言う動きがある。これからの日本で最も注意すべきは、こういう、戦争を知らずに、男性よりも右傾化する女性議員たちの存在だ。女性=平和主義、という図式は少なくも自民党では通用しない。加えて大本営の某長官、ファシズムに傾倒する某財務大臣。何をいわんやである。


「ミニ松陰」215/4/27

昨夜の大河ドラマは前半の山場、吉田松陰の処刑だった。構危ないシーンだがNHKは無難にまとめていた。井伊直弼には諸説あるが、ここでは悪役に徹しており、それはそれで仕方がないと思う。松陰が明治維新の精神的な礎になったことに間違いないからだ。ドラマとしては、今後久坂玄瑞(東出)を中心にした青春群像がストーリーを背負うことになる。しかし東出は大河の主役を背負うには未だ力量不足だ。しかも肝心のヒロインが好演はしているものの、花がなく、多分視聴率は上がらないだろう(現在史上最低の一桁台)。新たに坂本竜馬(伊原)も登場するが、全体的に俳優の粒が小さいのはいかんともしがたいところだ。今までそれと気が付かなかったが、こうしてみると、伊勢谷の存在感は重要だった。残るは大沢たかおだけだ。役者を生かしきれない脚本に問題があるのかもしれない。ドラマとしてのインパクトが小さい理由は、群像をテーマにしてしまったので、主役が誰かよく分からず、感情移入する相手が定まらないことだ。どの視聴者が、おにぎりを握っているだけの杉文が主役だと認識するだろう。むしろ吉田松陰の一生だけを取り上げた方が未だまとまりが良かったのではないか。総花で悪い方向になった例だと思う。大河という名前に寄りかかると、こういう作品が出来てしまう。

ところで、今回の前書のテーマはドラマの批評ではない。このドラマの主要なテーマの、憂国の士(と志)である。松陰が主張したことは要するにたった一つ。現状の否定だ。それゆえのご政道の批判であり、それゆえの処刑である。

いまの国民を区別(差別ではない)する方法は、誰にでも簡単に出来る質問だ。それは「あなたは現状で満足していますか。世の中が間違っているとは思いませんか」という質問をすることだす。無論、経済的にも恵まれていて、大きな不幸もなく、今の日本のあり方に特に大きな不満を持たない人も少なからずいるので、そういう人達はこう答えるだろう。「細かいところではいろいろ不満もあるけれど、社会をひっくり返す必要があるほどの、大きな不満はない」と。もっとはっきり言えば、そこそこの生活が出来ているのだから、それでいいではないかと。

そこには未来が現在より良くなる、少なくも悪くはなるまいという漠とした期待がある。でもその期待には全く根拠がない。どころか、むしろ確実に悪くなることがはっきりしているのだ。なぜなら政府が格差を拡大する政策を取っているからである。特に打撃を受けるのがこれまでの中間層だ。そこでは勝ち組か負け組かを分ける熾烈な競争が繰り広げられている。勝てば富裕層に仲間入り。負ければ貧者の仲間入り。その競争では自分の健康も、家族も犠牲にしなければ勝者にはなれない。でも何故、政府も産業界も、こうした米国型の経営を奨励するのだろう。

それは企業の経営効率を高める為には、米国の真似をするのが正しいと思っているからだ。そこにピケティが現れて、資本主義に冷水を浴びせた。だからピケティの理論に政官財が揃って反発した。でもこうした米国型の金融資本主義が本当に正しいと言えるのだろうか。かつてそれがリーマンをはじめとするバブルを引き起こさなかっただろうか。またこうした資本主義による、苛烈な中間層の競争が、長い目で見て、本当に日本の社会にとって必要かつ有益なものなのか。その後で残るものは勤労者の疲弊だけではないのか。

ところで、多分大多数の人たちはこう答えるだろう。「経済的な問題はあるが、今は自分達の生活を守るだけで精一杯。不満はあっても、戦争を目前にしているような差し迫った脅威は感じていない。それに自分の一票で社会が変わるとも思えない」。私の場合の最大の不満は、贅沢な生活ができないことではない。常識で考えても、政府が進めている方向が、明らかに間違っていると思わざるを得ないからだ。社会的に正義が行われているとは到底思えない。即ち「ご政道」に誤りがあるからなのだ。

社会を変える原動力は、現状に対する不満であり、古い言葉で言えば、憂国の観念だ。現状の否定が出発点だ。お考え頂きたい。戦時中に、国民が日本の現状を肯定し=させられ、軍部=権力、のなすがままに従った結果がどうなったか。そして今の日本はそれほど当時と変わらない。現政権は明らかに現状肯定、またはその延長線上の政治である。しかしその現状なるものは、権力者が一層権力を集中強化し、富裕層が一層の富を得る。貧しいものは一層貧しくなり、生活が厳しくなる社会なのだ。

多分ここに認識のずれがあると思う。そこまでひどくはないのではないかという意見がおそらく大多数だろう。目を覆うばかりの投票率の低下が、世間の政治家にお任せの空気を如実に表しているにも関わらずである。

そこにこのWTWの存在理由がある。たとえ少数意見であっても、決して黙して語らずであってはならない。「現状否定」の意見を、正々堂々と主張することが、現政権にとってさえ、有意義なのである。今の社会は、差別が拡大し、社会正義と倫理観が後退している。それを実感していない人たちに、そういう現状を伝え、説き続けること。現状が間違っていることを理解して貰う事が目的なのだ。国民が、いや庶民が現状を肯定している間は、決して社会は変わらないからである。

私達、国民の一人一人が、現状の矛盾や不備や間違いを正しく、強く認識すること。それが社会を良くする運動の大前提であって、そのための情報提供を行うのが報道機関の使命である。官房は臆面もなく、メディアの影響力が世論を「曲げる」から、「お願い」や「指導」をしていると明言している。あれだけ傲慢な官邸でさえ恐れるのが世論とメディアの論調なのだ。ならば、批判勢力としてもこれを使わない手はない。情報伝達の末席にあって、世論の喚起に、ささやかなお手伝いでもできれば、WTWとしては、これに勝る喜びはない。不満を自分の内に抱え込まずに、語り合う。それが民主主義の原点なのである。



「中選挙区制が日本を救う」 2015/4/28

フジ産経グループは私にとっては、ジャーナリズムという意味で余り重視していないニュースソースだが、それでもBSフジのプライムニュースは時々見ている。4/26の放映では投票率の低下を話題にしており、興味のあるデータがあった。今回の地方選での投票率は52%、しかし20歳代前半が29%で初めて30%を切った。70歳代前半が72%という数字だった。司会者の、だから高齢者に都合が良い政策になるという説明にはむかついたが、グラフによれば年代と投票率は見事に一致していた。フジのアンケートなのに安保法制反対が半数(賛成が3割)、安倍内閣支持率が3.4%減(それでも50%超)という数字もあった。但し母数が少ないので、どちらにしてもあまり信用は出来ないと思った。

もう一つ、大阪都構想の住民投票が来月あり、賛成が反対を1票でも上回れば成立するが、290万の市民の9割が投票に行くと言っているそうだ。という事は、国民投票なら、投票率は跳ね上がるはずで、原発再稼働も集団的自衛権も国民投票にすれば、直ちに否決されるということでもある。憲法改悪論議でも、自民党は国民投票で勝てると思って推進しているとすれば、飛んだお馬鹿をやっていることになる。

なお番組中、ゲストが投票率低下の原因として、小選挙区制を挙げていた。中選挙区制なら、複数の候補者が当選するから、有権者の意志の分布も反映させられるが、勝者が独りしかいない小選挙区制では、全てが白か黒かになってしまい、日本の政治が偏る元凶だ。早く中選挙区制に戻す必要がある。そうすれば比例代表制などというおかしな仕組みも不要になるだろう。






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