「WTWオンラインエッセイ」
【第8巻内容】
「マイナンバー」
「トンデモな日米首脳メッセージ」
「自主防衛ではなぜいけないのか」
「ジョン・ダワー」
「選挙に行きたくない君たちへ」
「後の祭りってどんな祭り」
「菅長官の文楽劇場」
「植民地の総督」
「安倍政権による権力者のための政治」
「噴火と地震に備えよ」
「自主避難者への差別」
「寅さんの本質」
「映画ぽっぽやと人生の意味」
「WTWの資本論」
「安保法制の国会審議」
「ドブの中でも前のめりに」
「安保法制審議ナウ」
「マイナンバー」2015/10/6
そもそもこれだけ国民の生活に直接、しかも大きな影響のある法案なのに、いかに安保法制の議論が白熱していたとはいえ、マイナンバーについては国会で充分に審議されず、しかもその審議の中継さえなかったことに、不信感を持つ。これに似たものが、先行している秘密保護法案だ。即ち国民を管理し、コントロールするという目的で共通している。こういう危ない法案が、国民にはろくな説明もなく、どんどん成立してしまう。それは国家総動員法など戦中の日本の政治と酷似している。
一体誰が何の為に民主主義や国民主権を無視して、政策の暴走を推進しているのか。私は安倍首相自身の暴走というよりは、安倍首相の在任中に一気にやってしまおうという行政の意図がありありとあるように感じる。それにつけても気になるのは、最近の数え切れないほどの不祥事にも関わらず、警察を批判する記事が全く出ていない事だ。以前なら、警察庁長官や警視総監の進退に関わるような、重大事件でも一切の批判もおとがめもない。無論官邸もノーコメント。これでは政府と警察の間に取り決めがあると思われても仕方がない。
警察と自衛隊という二つの暴力装置が政治権力と結びつく。お手盛りで自由に振る舞う。こういう国家形態を、私達は警察国家と呼んでいる。民主主義の危機だ。そこでないがしろにされるのは、他ならぬ国民の安全と命である。犯罪から守られるどころか、警官に盗まれ、レイプされ、挙句は殺される。いかに荒んだ米国の警察だって、ここまで腐敗、堕落はしていない。自衛隊員による不祥事も増加している。しかも警官の場合、捜査打ち切りでその理由さえ明らかにされない。即ち警察=行政だけでなく、司法への信頼も揺らいできているのだ。
10年前、行政は国民の味方だった。原発事故でその信頼が揺らぎ、しかし311の自衛隊や消防、地方行政機関の努力で、未だ日本も捨てたものではないことが証明された。ところが最近の日本の行政機関の姿勢には、私には良いイメージがない。日本の行政の中央組織は、国民の支配者または国民の敵になろうと一生懸命努力でもしているかのようだ。将来穏やかな形ではあれ、なんらかの大きな政治的変革が起きるとすれば、それは現在の行政の無理と不信感にも大きな責任があることになるだろう。
安倍政権の下で、国民の権利を弾圧する悪法が次々に採決されている。マイナンバーもその一つだ。以前、住民基本台帳や住基ナンバーというシステムに多額の税金が使われた挙句、ものにならなかったことがある。それに対するろくな反省もないままに、また税金の無駄遣いが行われようとしているのだろうか。
どんなにひいき目に見ても、マイナンバー制度は行政の効率化の為の制度であって、納税者としての国民が受ける利便性は極めて限られたものだ。すべての預金にナンバーが紐づけられることで、国が個人資産の全体を把握する時代が来る。でも国民にとって、行政の管理が強まることは極めて危険な状況だと私は考えている。
犯罪歴はもとより、病歴、学歴、健康状態、資産の状態、姻戚関係、収入と支出の傾向、およそありとあらゆる個人情報を国が握るようになると、問題が起きる。読書傾向や集会やデモへの参加実績から、反社会的というよりは、反政府的な人物の判定と分類が可能になる。そういう危険思想の持ち主は、要職は無論のこと、少しでも他人に影響力のある職や地位につかせるわけにはいかないのだ。だから国民総管理社会は、理想的な全体主義国家なのである。個人情報を握る行政機関の前では、憲法で与えられた自由も人権もあってなきが如し。しかも一度外部に流れた情報は、最終的には犯罪に使われる可能性もある。国民の安全も資産も、全方位からの攻撃の危険にさらされる。そういう非民主主義的な、極端な管理体制は、そう簡単には実現しないかもしれない。でも一度、国が国民を強制的に管理する道が開かれてしまい、行政機関がその味をしめてしまえば、特に今のような超がつく右傾化した政治状況では、何が起きてもおかしくないという覚悟だけは必要だろう。
政府のマイナンバー推進機関はこんな説明をしている。即ちこれまで違法な収入や富裕層の収益などは十分に把握できていなかった。しかしマイナンバーでそういう収入も全部把握できるようになるので、税の取りはぐれがなくなり、徴税の公平性が保証されるというものだ。でもそれはこれまで当局の捕捉機能が十分に機能していなかったという事であって、それを国民につけ回すというのでは、消えた年金事件と同じ無責任な対応だ。無論我々も当局への協力を惜しむものではないが、その説明では筋が違うと言いたい。
マイナンバーは当面、国民の手間が増えるだけで、メリットらしいものはない。ナンバーを貰う事で増えるのはリスクだけだ。カードを紛失して(これは高齢者にはありがち)ひと騒ぎ起きるのが関の山。ただし、悪法でも法は法。相手がどういうものかを十分に理解して、準備しておくことで、少しでも実害を減らす努力が必要である。17年からは、自分のマイナンバーが誰に、どういう目的で使われたかがシステムで分かるようになると言われている。という事は16年中は、そうした当たり前の情報でさえ、マイナンバーを割り当てられた国民には知るすべがないという事である。
本制度の推進部門の説明に、日本には同姓同名の人が沢山いるので、名前だけでは特定できず、それが消えた年金の原因の一つだというものがあり、私は驚いた。その為に住所があり、生年月日がある。同じ住所に同じ名前で同じ生年月日の人が一緒に住まなければならない理由を私は思いつかない。当局が子供でもおかしいと思う説明しか出来ないことに危惧を覚えている。
「トンデモな日米首脳メッセージ」 2015/4/29
いま日本では不正が白昼堂々と行われている。そして誰もそれを止めようとしない。自民党の政治家と一部官僚が、日本を好きなように蹂躙している。そこには国民も民主主義も存在していない。憲法を無視するばかりか、立法の手続きさえ無視して何とも思わない。もはやそこにあるのは法治国家でさえない。国会でのやり取り一つ取ってみても、誰が見ても真黒な閣僚の行為でさえ、それが政権幹部というだけで、違反も暴言も不問に付されている。しかも民間人が政府を批判でもしようものなら、ありとあらゆる手段でもみ消しと追い落としに掛かる。言論の自由より、国民の安全より、まして民主主義などより、もっと大事なことは、安倍朝廷の存続になっているらしい。
もう一つ気になるのは、演説の中のwe have a dream という言葉だ。これがキング牧師のI have a dream のパクリであることは誰にも分かるが、首相はその後に続く言葉を知っていて使ったのだろうか。知らないで使っていることは直ちにオバマにも分かったらしく、彼が助け舟を出した。即ち、安倍首相は手の掛かる人物であって、一人で置いておくのは危ないということが、世界中に分かってしまったのだ。参考までに言っておくと、キング牧師の言葉の続きは、全国民が等しく平等な扱いを受け、平等な権利の下に、安心して教育を受け、調和して暮らしていける国になる、それが私の夢だと語ったのである。
だからそれを茶かすなどもっての他であるし、公民権運動の趣旨を理解しているようにも思えない。今の日本では、むしろキング牧師の演説が必要な状況になってきているのは、笑えない皮肉だ。安倍首相の恥は、彼を選んだ我々国民の恥なのである。仮にこれが首相自身の作文でなく、官邸や外務省のお役人が作った文だとすれば、米国で誰でも知っている事さえ知らない人たちが、外交野実務に関わることに恐怖を覚えざるを得ない。そう言えば人質事件の時も、彼らが何もしなかったことが思い起こされる。危機に弱い頭でっかちのエリートばかりではない事を願うのみである。
私が今回、大ぴっらに反安倍政権の狼煙を挙げたのは、一見些細だが、重大な事件を目の当たりにしたからである。実は今朝までは、首相が大戦の反省も慰安婦問題も口にしており、これで訪米はうまくまとまったのか、結局多少は日本の世論や世界の批判に耳を傾ける気になってくれたのかと、淡い期待を持っていた。またそれで安倍政権がまた一点獲得したのかと思っていた。ところが本音はそんな生易しいものではなかった。今回の首脳会談でも、言葉と真意が実は違っていることが容易に想像できる出来事があったからである。結論から言えば、オバマに嘘をつくことさえ躊躇しないという思い上がった体質が、安倍政権にあることが分かったからなのだ。嘘をつくことをなんとも思わない人達が動かす政治が、どれほど恐ろしい結果をもたらすかを、日本の国民は嫌というほど、大戦の経験から学んだはずではなかったのか
それはこういうことである。NHKの4/29の朝7時のニュースの後半で、突然、訂正が入った。オバマが、普天間の問題は柔軟に対処すると同時通訳が訳したのに、それは間違いで、沖縄からの海兵隊の移動を進めると言い変えたのである。ふざけるなと言いたい。どんな駆け出しの通訳だって、そんな大事なことを聞き間違えるはずがない。官邸か外務省か知らないが、大統領の発言さえ捻じ曲げようというのか。オバマでさえ日本国民の民意を尊重しようとしている。なのに日本の行政は自分のメンツを優先したのだ。大統領の顔に泥を塗ったという事が分かっているのだろうか。日本の国民はこのような非常識な人たちを税金でやしなっているとは、誰が良くても、私はお断りしたい。
「自主防衛ではなぜいけないのか」 2015/5/2
有事に米軍に全面的に頼るというのは歴代自民党の基本的なシナリオだ。その上、今回安倍首相は一歩推し進めて、米国の作戦遂行時の自衛隊の協力を申し出た。無論未だ決まっていない集団的自衛権の法整備を決まったものとしての行動である。このフライイングについては野党から激しい批判が出ている。でもそれ以前に、日米安保条約を前提にした日本の安全保障体制にこそ問題があると思う。なにが問題かというと、自国の防衛を米国に完全に依存しようとする、甘えを通り越した、歪んだ幼児的な精神構造があるからだ。言葉を変えれば、日本は米国から独立したと思っていたのに、実態は占領時代に逆戻りしていたのだ。そうとは知らなかった国民の方が馬鹿なのかもしれないが、安倍首相の訪米が、そういう実態を、改めて国民の前に浮き彫りにしたのである。であるならば、戦後の70年とは一体なんだったのだろう。
自国防衛の米軍依存は、野党でさえ大前提にしている。そういう前提の上で、いくら集団的自衛権の反対を叫んでみても、所詮は意味がない。なぜならそこにあるのは矛盾であり、感情だけで、自民党の一見、実際的、というより実利の理屈に勝てるはずはないからだ。
真剣に、かつ具体的に日本を外敵から守ろうとするのであれば、まず防衛の意識と理念を根本から問い直さねばなるまい。それも、あくまで現実の世界情勢に即してである。まず具体的な方策の第一歩は、自衛隊から自国の軍隊というレッテルを外すことです。即ち口が裂けても、自国の軍隊などと言ってはならない。そのためにも、国連のPKO以外の活動で、海外で武力行使しないことを最初に宣言しなければならない。一方で自衛隊を解散する必要もない。但し何故自衛隊が存在しているのかという明確な理念を、国民と防衛省が共通理解として持つことが必要だ。しかもその理解は既にある。なぜなら、自衛隊が行動を起こさずに済む国であり続けることこそが、自衛隊が存在する最大の目的であることを、国民も自衛隊も理解しているからだ。それを理解していない、或は理解しようとしない人たちは、他ならぬ自民党の右派議員と安倍政権なのである。自民党や時の政権が、その時の気分や、権力者の都合だけで、自由に自衛隊を動かすなどということは、決してあってはならないのである。なぜならそれは、自衛隊の理想でも目標でもないからだ。
また防衛のガイドラインなるものを見直す必要がある。自衛隊の存在理由を考えれば、いくらでもシンプルで分かりやすいものに出来る。自衛隊が国民と領土を守るための抑止的な力であることを意識して、それを明言するだけで良いのである。ここで最も大事なことは、絶対にそれ以上の存在になってはいけないということである。
具体的な例で話そう。仮に敵が上陸してきたとする。その時は、その戦闘意欲をそぎ、無力化して、武器を取り上げる方法をまず考えるべきだろう。ここぞとばかりドンパチ、武器をぶっ放すというのは、仮想現実のゲームの世界ではあって、現実の戦闘シーンでは、敵味方共に相当の死傷者を覚悟しなければならない。例えそれが一方的な侵略を受けての防衛行為であったにしても、戦火はなるべく少なくして、一刻も紛争解決に持ち込むことが肝要である。敵、味方を問わず、死傷者を最小限度にすることを第一義に考えることだ。それこそが大戦の反省から学ぶ教訓の一つでなければなるまい。
無論ミサイルが飛んでくれば、途中で打ち落とすのは当たり前だす。何人たりとも、領土への侵入と破壊を許すわけにはいかない。それもできれば飛び立つ瞬間には破壊したい。ミサイルは発射した時点で、領空を侵犯したと見なしても良いと思う。国境線をミサイルが通過するまで待つべきだなどという観念論を振りかざす人は、落下地点で補虫網でも持って、待っていてほしい。こうした一連の活動に、米軍の介入は不必要である。なぜならこれは自主的な自国防衛だからである。探知で協力して貰うくらいは良いが、飛来するミサイルを迎撃するミサイルは日本のミサイルでなければならない。自国で危機状況を判断し、自国で処理をする。それが原則である。但し直ちに報復のミサイルを打ち込むのは防衛の範囲を超える行為だ。相手が銃を抜くまでは、こちらも銃を構えないことが戦闘の鉄則だ。集団的自衛権では、相手が銃を日本にではなく、米軍に向けようと動いただけで、発砲することが前提になっている。だから集団的自衛権は、専守防衛の理念からは完全に逸脱しているのである。
専守防衛だからと言って、ミサイルを竹槍に変えろと言っているのではない。装備は最新、最強で一向に構わない。むしろ旧式の装備などは金をドブに捨てるだけだ。隊員の安全さえ守れない。でもそれが使えるのはあくまで国境線の内側だけだという事は是非とも徹底しなければならない。国内であるからこそ、自衛権が正当な意味を持つのである。
防衛を根本的な理念に立ち見直すと、一番まずいのが、自衛隊が米軍の下請け=傭兵になることだ。次に良くないのは、米軍におんぶにだっこすることだ。一番望ましいのは、米軍が手を出す必要がない状態であり続けることだ。その為には武装を整えることよりも、外交の努力が大きな意味と役割を担うことになる。一方で、米軍基地が攻撃されたら、その対応は米国の判断であろう。
現実的な抑止力として、日本が米国に基地の場所を提供するという事は、結果的に事実上の抑止効果になっている。でもそれは日本が頼んだからであってはならない。それをやってしまうと、必ず対価を求められる。例えば集団的自衛権がそれである。だから核兵器廃絶会議では、被爆国なのに核兵器廃絶に反対という、誰が考えてもおかしい判断を続けてきたのである。米国に対する配慮だ。それは米国が日本を守るために基地を置いてくれているという見方をするから、両国の関係がますます不平等で、外国から見れば歪んだ関係になってゆくのである。そこがNATOの米軍基地とは違う。日本に米軍の基地があるのは、米軍の都合なのであって、日本がそれをお願いしたからであってはならない。なぜなら、もはや日本を米軍が占領していた時代は、とうに終わっているからである。安倍首相が現憲法を、占領軍が押し付けた法律だから気に食わないと言うのなら、その前にまずは占領軍に基地から出て行ってもらうのが筋ではないか。
有事の解釈でも、安倍政権には基本的な誤謬と誤解がある。ホルムズ海峡閉鎖は有事ではない。そこには日本の国境はない。あくまで領土、領海、領空が侵犯された時が有事なのである。だから自衛隊の名称は絶対に変えるべきではないし、むしろ専守防衛隊にした方が良いくらいなのである。
では有事に、具体的にどのような行動を取るべきなのだろうか。まず入り込んでくるものは押し返したり、追い払うことを考えるべきである。領海については、基本、コーストガード(海上保安庁=警察)のテリトリだと思う。極端な話、海保が潜水艦を持っていても構わない。それでも海保はあくまで警察なのである。国境の内側で、どんな手段で国を守るのかは、こちらの勝手である。海保は最強の装備を持ち、しかもそれをなるべく使わずに相手を領海の外に追い払うべきなのだ。それでも相手が発砲してきたらどうするのか。無論反撃する。当たり前ではないか。他国の領土の中で武器をぶっ放して無事に済む訳がないだろう。か。但し日本が空母やミサイル潜水艦を持つことは許されない。なぜならそれらは攻撃用兵器であり、領海外での軍事活動と、外国への侵攻が目的だからである。領空と戦闘機によるスクランブルについても、同じ考え方が適用される。だから迎撃機や戦闘機、輸送機は可能でも、戦略爆撃機は持てないということになる。
観念や理想だけで、外国の具体的な侵犯を押しとどめることは出来ない。公に発言しない人でも、内心はそう思っているだろう。だから、分かりやすい理念と、具体的な戦術を用意しておくことが、自民党の右翼議員=含む安倍晋三氏、の無目的かつ限度のない軍事活動の拡大を阻止する上でも、最も有効な手段になるのだ。
「ジョン・ダワー」 2015/5/3
5/2のTBSの報道番組で、日本の戦後の復興を描く「敗北を抱きしめて」で、ピューリッツアー賞を取った歴史学者、ジョン・ダワーのインタビューがあった。いま、NHKの報道が政府寄りになっているので(僅かに解説番組だけが未だNHKの良識を留めている。報道局長は籾井ともども早く交代して欲しい。21時のニュースも、大越が変わってからは、まるで見る気がしなくなった)、いまTVのニュースとして信用できるのは、TBSとテレ朝(と東洋経済。ハフポストは堕落)だけになってしまった感がある。
ダワーは、日本が米国のミニチュア版になろうと躍起になっていると警告している。米国では最近、自国の戦争を美化する風潮があるが、ベトナムを初め、米国の戦争が正しかった訳ではない。戦争そのものが悪だとしている。米国には戦争で亡くなった人の名前を刻んだ石碑がある。しかしダワーが、沖縄の戦没者の碑を見て感動したのは、そこには軍人も民間人も外国人も、およそ沖縄戦で亡くなったすべての人の名前が刻んであったからだと語った。靖国が外国から批判されるのは、天皇の為に戦って死んだ兵士だけが祀られているからであって、そこに戦争の美化があるからだとしている。
戦争の意味を追い求め、戦争を愛国の歴史にする動きがあるとも言う。それが行き過ぎた愛国主義者たちによる今の安倍政権の姿勢だと指摘している。地球規模で自衛隊の活動を広げ、それを議会の合意もなく、首相が約束した。しかしそれが意味するのは自衛隊を中東で人身御供に捧げる代わりに、尖閣を米国に守ってもらうという事だと述べている。また防衛省OBが、掃海作業は命がけの戦争行為そのものであって、以前湾岸戦争の後、24人乗りの掃海艇で、アラビア湾で掃海作業に従事したが、全滅を覚悟して秘かに24個の棺を持って行ったと述べている。また地雷は金属に反応するので、掃海艇の船体は木材で作るのに、掃海艇を鉄で作れと国会で発言した議員がおり、造船会社のエンジニアが絶句していた。ようは戦争がどういうものかさえ分かってはいない、自民党の愛国主義者達がイケイケドンドンで暴走しているに過ぎないのだ。
なおもう一つ興味があったのは、戦後、全てを失った日本が奇跡的な復興を遂げたのは、国民に活気があったからであり、それは戦時中の抑圧から解放されたためだという指摘があったことだ。いままた安倍首相とその陰気な番頭は、国民に戦中と同じように報道規制などで圧力を掛けている。それは結局、日本人の活動意欲をそぐことにもなるだろう。
「選挙に行きたくない君たちへ」 2015/5/4
昨日は憲法記念日。これまでなら各地で憲法擁護や憲法を考える為の集会が開かれ、それを新聞が報道するという形が当たり前だったのに、今年の報道は完全に様変わり。無論間違った方向にである。憲法9条を考える会の開催を拒否する地方行政機関さえ現れる始末。行政は特定の政治思想に偏ってはならず、それは与党に対しても同じことなのに。地方行政の法律の不勉強も極まれりである。そして全ての新聞、TVが、判で押したように、憲法擁護と憲法改正の二通りの立場があることを報じており、そう述べることで、あたかも自分は中立を保っているかのような報道姿勢だ。でもそれこそが、日本のジャーナリズムの評価が、世界でも最低レベルである理由の一つなのである。ジャーナリズムには基本となるべきスタンスがある。それは民衆と社会正義を擁護することにある。それは言うなれば本質的に反権力なのだ。ところが今の日本報道機関は、政治権力に必要以上の気を遣う。その結果、国民の方に顔が向いていない記事が並ぶことになる。ジャーナリズムは支配者と被支配者に平等にある事が正義ではないのである。それは平等でさえないのだ。それが何故か分からない人は、試しに議員と国民の数を比較してみると良いだろう。
投票率を上げる事は、政党に関わらず重要だ。票が入らなければ議員は誕生しない。しかし形だけの、投票に行きましょうの掛け声だけでも、問題の解決にはならない。何故投票しないのか、その理由を分析する必要があり、それには積極的なアンケートも必要だろう。何故こうも投票が「嫌がられている」のか。年代が下がるほど、投票率が落ちていることは既に数字が証明している。ということは、スマホからでも投票できるようにすれば、飛躍的に数字が増えることが期待できるということでもある。後で述べるように、投票の機会だけは設けた、だから後は有権者の責任だと開き直っているようでは、話にならない。形式ではなく、具体的に投票が増えるような仕組みが大事なのである。
では投票率が増えないと何が起きるのだろう。民意と政治の乖離が進んで、民主政治が崩壊し(既にそういう状況に入ってきている)、国が不安定になり、カタストロフィーがやってくる。その時の混乱や、国民の生命・財産への被害は計りしれない。
オンライン投票なら、コンピュータ集計なので即座に結果は出るし、数え間違いもない。投票所に足を運ぶ人でさえ、備え付けの端末から投票して貰えば、精度と時間と経費の改善になる。それでなくとも選挙に掛かる費用は莫大なものだ。それが税金で賄われている。納税時期には、税務署に端末がずらりと設置されるご時勢なのに、何故投票だけは自筆で紙に書かねばならないのか。紙の投票であっても、一日だけというのでは行きにくい。1週間位の期間を設けてもいいのではないか。形式にこだわるあまり、投票という、国民に許された数少ない権利の一つが、事実上軽視されているのが現状なのである。
期日前投票の制度があり、多くの人がそれを利用している。でも当日投票できない理由を厳しく問い糺される。それは犯罪でも犯しているかの如くである。それは決して気分の良いものではない。投票に行きにくい雰囲気を、選挙管理委員会自ら醸し出してどうするというのか。選挙では何が一番大事かを総務大臣すら理解しているようには思えない。投票の目的は民意を問うこと、即ち政治の場に一人一人の国民の意志を反映させることなのに、そういう事になると急に興味を失う、即ち血の通わない日本の政治の実像がそこにある。投票率の低下は総務大臣の進退に関わる重大事だと思うのに、高市氏には、そんな意識は露ほども感じられない。
もう一つ大事なことは、投票に行かない有権者が、実際にはどの政党を支持しているのかを調べることだ。これは有権者の沈黙は一体何を意味しているのかを知るためである。安倍政権はそれを現政権への白紙委任だと勝手に解釈した。投票システムが不備で、投票所に足を運ぶのに、物理的・心理的抵抗があるのかもしれないし、自分の一票くらいでは日本は変わらないと諦めてしまっているのかもしれない。足を運びたくなるような魅力のある立候補者がいないのかもしれない。日本の政治の現状に大きな不満が無く、いまそれを変える必要はないと感じているのかもしれない。それとも政治に全く興味がないのかもしれない。投票率を上げることに関心の無い総務省(自治省)は、日本にはいらないのである。
投票しないという事こそ、時代に「流されている」ということである。かすかな不満でも、不満は不満。その存在まで消し去ることは出来ない。まして我慢する必要もない。国民の希望や不満を吸い上げて、それに対応するのが政治家の仕事だからである。そういう至極当たり前の民主主義が、日本ではまともに機能していない。こう考えて見て頂きたい。仮に全員が投票しないとしたら、それでも民主政治なのだろうか。投票総数の少ない当選はそれと同じことなのだ。投票は権利であるが、義務でもある。国民が自分で憲法に違反していて、どうしてそれを国に守れと言えるのだろう。無投票当選の重大性を、政治家も国民もメディアも全く理解していない。だから日本には未だに民主主義がないと申し上げているのだ。
それとも、今のままで国民が一切政治に関与せず、放っておいても、日本の政治や経済の状況は大きく変わらないだろうとお思いなのだろうか。ならば投票に行く必要性を感じない人に、一つだけ質問させて頂きたい。あなた方のその安心の根拠は何なのかということだ。またかすかな疑問や不満は感じているが、それを放っておいてもさして悪くはなるまいと思って投票に行かない方にも質問したい。そのかすかな兆候がどんどん悪い方法に発展しないという保証はどこにあるのかということをである。そういう漠然とした安心感に依存することで、一体、日本は過去いかなる歴史を歩んできたのかを、調べて見たことはおありだろうか。最近でも、例えば国会での閣僚の説明に矛盾はなかったか、言を左右にしたことはなかったか、資金面で疑惑はなかったか。昨年末の選挙で選ばれた議員達が、信頼に足る人たちであったか。まして、そういう政治家の言葉を鵜呑みにして、全てをお任せしても、日本の将来には全く問題はないと言い切れるのなら、ぜひともその根拠を教えて頂きたいと思う次第である。
逆質問で議論を閉じると消化不良になるので、私なりの結論を述べる。選挙(投票行為)があるのは、未来が予測不可能だからなのだ。その不確かな未来を、私たちが少しでも今より平和で豊かで住みやすく、格差のない平等な社会と世界にしようとすれば、現状を少しずつ変えてゆくしかないのだ。私たちは選挙という仕組みを通じて、私たちの代わりにそういう仕事をしてくれる人たちを選んで、代行をお願いしているのである。だから少しでも日本を良くして行くためには選挙が欠かせない。明日を良くするためには、まず今の一歩が大事なのである。でも所詮、人間が人間を選ぶ選挙である。完璧な候補者などというものはいないし、選ぶ方も完璧な選択など多分無理だろう。怪しい人達に任せるのはどうも危なそうだと感じたら、選挙で交代して貰うのが一番である。選挙権を放棄してしまえば、そういう人達が居残る事になるので、既得権の世の中になってしまい、ますます世の中が悪くなるという単純な理屈をご理解頂ければと思う。
世論調査の数字が示しているのは、民意と政権(政府)の方針が逆方向にあることだ。という事は政治が民意を反映していないということである。政治が民意から乖離しているという事は、選挙制度が正しくないことを意味している。一票の格差で堂々巡りの議論をするより、選挙制度そのものを根本的に見直し、より直接選挙に近い方式に改めること、また意見の多様性を担保する為に、小選挙区制を廃止して、中選挙区制に改めることが必要であろう。
「後の祭りってどんな祭り」 2015/5/1
本当に重大な事が進行している最中は、えてしてそれに気づかない事が多い。福島しかり、リーマンしかり。災害が起きた後で、ああしておけば良かったといくら後悔しても後の祭りである。逆に歴史から学ぶことで危機を回避できた例もゼロではない。311で新幹線の事故がなかったことがそれだ。これは阪神大震災の教訓を現場に生かして、地道な努力を続けてきたからである。何が将来の大災害の原因になるかを現時点で判断し、発生時期を予測することは容易な事ではない。必ず既得権者がいて、自分達の権利や利得を守ろうとするがゆえに、不都合な真実を隠そうとするからだ。それでも、危険な兆候を捕える努力を放棄しても良いという事にはならない。上記のコラムで外国人記者は日本が危ない方向に進んでいると指摘している。そうした声に耳を傾けることも、歴史に学ぶ姿勢と共通するものがある。
「菅長官の文楽劇場」 2015/5/12
都構想で官邸と自民の違い鮮明。日本の政治は、事実上、官房長官による専制政治であることがはっきりした。すべてを決めているのは官邸だ。菅氏の役割は言うなれば人形遣いで、しかも文楽と同様、大夫の顔が丸見えである。されど特定の個人の価値観が、国政まで左右するような状況は、民主主義国としてはいかがなものか。道鏡や院政と言う言葉が思い浮かぶ。素人目で判断できるのは、菅長官の辞書には、政治とは古色蒼然たる国家主義であり、主権在民という言葉も、自由民権という言葉もなさそうだということだ。憲法は政府の自由を縛る悪法であり、国民は世話が焼けるのに文句を言うだけの厄介な存在だと考えているのかもしれない。殿の為にひたすら尽くす忠義の家老=番頭を演じているのなら、仮に相手がバカ殿だったらどうするおつもりか。心ある家老ならいさめるのが当たり前の場面でも、一緒になって騒いだり、むしろ殿のご乱心を煽っているようでは心が寒くなる。それとも徳川幕府の大老を演じているつもりなのだろうか。しかし独裁政治は無理に無理を重ねているので、必ずどこかで破綻する。今回の記事は、そのほころびが見え始めたことを意味していることを想像させるに十分だ。首相や官邸にゴマをすらない、少しでも議員としてのプライドが残っている自民党議員の中には、そろそろマグマがたまっている頃なのだが。
「植民地の総督」 2015/5/14
いささかネタは古いが、4/24の週刊朝日に、孫崎亨、鳩山由紀夫、木村三浩の対談が載っていた。表題は「安倍首相は沖縄植民地総督にでもなったつもりか」。気になった部分を紹介したい。
孫崎:民主党は第二自民党になってしまった。基地問題も原発も集団的自衛権も、自民党の政策に少し変化をつけたくらいです。
鳩山:政権が交代した時の民主党はもう消えてなくなっています。だから支持率があがらない。
鳩山:日米合同委員会という米軍と日本の高級官僚の会合が頻繁に行われている。その決定を覆すような政策について、官僚は一切動こうとしませんでした。日米合同委員会が憲法以上の力を持ってしまっている。
孫崎:ドイツには米軍がいますが、NATO軍地位補足協定というのがあり、…ドイツは返還を申請でき、米国は受け入れることになっている。これが同盟の基本です。こういう議論が日本にはない。
孫崎:NYタイムズの東京支局長が言っていましたが、日本政府が米国と思っているのは軍産複合体であって、決して米国ではない。米国はもっと多様性がある。ジョセフ・ナイも、沖縄の海兵隊をオーストラリアに移す案を唱えている。
木村:米国の弱体化も進んでいる。
孫崎:プーチンのように右派なのに領土問題の解決に積極的な指導者がいなくなれば、ロシアは今まで以上に強硬になる。プーチン在任中が解決の最後の機会かもしれない。
米国にくっついて世界で覇権を主張したいのかどうかは別にして、重要なことを政権は見落としている。日本の政治家や官僚が考えているより、米国には幅と奥行きがあって、その民主主義の精神も強靭だということだ。ジャーナリズムも、日本のようなまがい物ではない。だから仮に日本で市民革命が起きたら、米国が政府の味方をする保証はないということである。
「安倍政権による権力者のための政治」 2015/5/15
私は安倍政権に厳しすぎるとお考えの読者も少なからずおられると思う。そこまで安倍首相を悪者扱いする必要はないのではないか。それに今すぐ、米国の戦争に自衛隊を投入するような事態にはならないだろうし、事前に国会の承認が必要なのだから、首相に大権を与える訳ではない。しかも一見、ヒットラーのように好戦的にも思えない。集団的自衛権で友好国を支援するのが間違いだとも思えないと。しかしこれはそう見えるか、見えないか、或は現在直面している問題があるかどうかということではなくて、手順を踏みさえすれば可能かどうかということと、それに対して政府が独断で進められない様な歯止めが掛けられるかどうかという点なのだ。安倍政権を気分的に信頼するのか、それとも疑ってかかるのかという違いだ。私(WTW)の立場は言うまでもなく後者であり、その理由をこれから「ていねいに」ご説明したい。
私が気にしているのは、安倍首相が表の顔と裏の顔を使い分けていることである。それは本音をそのままぶつけると、国民が反発して失敗することを、第一次安倍内閣の苦い経験で学んだからである。ゆえにメディアの政府批判を丹念に潰しに掛かった。有識者や国民の反対の声が新聞・TVに出ない様に全力を尽くしている。それは世論を有利なように操作したいという願望の表れでもある。裏返せば、それは世論が未だに政権の思い通りにはなっていないという事を意味している。安倍政権の最大の敵は民主党ではない。世論なのだ。
新聞・TVに出さえしなければ、それは起きなかったのと同じ事。少なくとも安倍政権はそう思っている。世論がいくら反対でも、騒ぎが大きくさえなければ、政権は平静にことを進められる。古賀氏に対する官邸の悪質な糾弾を含めて、ここまで政治が報道に介入し、また報道が政府に屈した例を、私は戦後見たことがない。こと報道に関して、日本は北朝鮮や中国と、何ら変わることのない状況にあると言える。いまや官邸が、政府の事実上の秘密警察として機能していると言っても良いのではないか。
安倍政権は、街頭でのインタビューで反対意見を聞くことさえ禁止しようとした。これは萩生田副幹事長の仕業である。彼にはファシズムという言葉の意味さえ理解できてはいないようだ。かろうじて二足歩行はしているようだが、人類に相応しい発達した頭脳を、一体どこでどう失くされたのかという疑問さえ浮かんでくる。
今朝(5/15)の朝7時のニュースでNHKは安保法制について報道していた。街の声のインタビューで、3名を取り上げたが、なんと反対派は一人もおらず、肯定派と中立だけだった。政府の脅しが十分に効果を上げており、これでも政府への配慮がないと言い切れるのか。また日本政府の判断を支持するシンガポールの役人の説明だけを長々と流していた。まさに国営放送局の面目躍如であった。せいぜい言ったことは国民の理解が十分でないという程度である。国民の理解が足りないのではなくて、国民は反対なのだ。
安倍首相に話を戻すと、国会答弁や記者会見での説明を建前とすれば、本音は別にあると信じるべき根拠がある。その顕著な例が先の衆議院選挙だ。選挙の目的を彼はどう述べたかご記憶であろうか。消費税の実施時期を1年延ばす政策決定について、国民の意見を問うためだと言ったのだ。そんな些末な事を掲げて666億も税金を使って選挙を行うこと自体がそもそも不自然だが、彼は最近その選挙をどう言っているか。集団的自衛権について安倍政権発足当時から政策として掲げており、衆院選挙でも支持を得たと言ったのである。選挙前にそのような事は言っていないにも関わらずだ。だから私は安倍首相の言葉は疑ってかかることにしている。本音は必ず他にあると思わざるを得ないからである。
政策を打ち出し、二言目には、国会でていねいに議論し、国民に説明責任を果たすと言う。ところが、これだけ国民が原発再稼働にも、集団的自衛家にも反対多数であることが、繰り返し世論調査で示されているのに、それを一顧だにしない。国民は説明し、説得する相手であっても、その意向を尊重する相手ではないらしい。一方的かつ身勝手な理屈ではないか。自分達は国の安全と繁栄の為に努力している。それを理解しない国民の方が悪い。自分達の判断は100%正しい。でも二言目には自分達=自民党は国民の支持を得て支配政党になったのだと都合の良い時だけ民意(でさえない=有権者の支持率は25%)を持ち出す。それは矛盾ではないか。
国民がどんなに反対しようとも、政策を押通す姿勢と、たかだか消費税の実施時期を延ばすためだけに民意を問う茶番じみた選挙。矛盾だらけの自民党だが、そこで一貫して見えて来るのは、自民党が本当に顔を向けている相手だ。誰に愛想を振りまくかでそれが分かるというもの。まず米国、次が企業経営者だ。共に特権階級である。無論首相自ら、ご自分がそちらの側の階級の人間であることを自任されているのであろう。少しでも政府批判をする報道機関と有識者と国民は憎むべき相手(反乱分子)であり、排除すべき存在である。政府の言い分を額面通りに信じる者だけが、安倍幕府の臣民として働くことが許される。安倍首相が描くバラ色の社会は、富裕層はより豊かに、権力者は更なる権力を、一方で貧しい者は一層貧しく、労働者には一層過酷な労働環境をという、格差社会そのものなのである。
そういう社会に少しでも民意を反映させるのが選挙の枠割なのに、今の小選挙区制が民意を反映する仕組みになっていないことは明らかだ。その結果の現在のいびつな自民党一党支配である。一票の格差で騒いでいられる様な段階ではないのだ。戦後の選挙制度自体が制度疲労を起こしているのである。民意を反映する仕組みがどうあるべきかを、国民全体で議論すべき時期に来ているのだ。しかも困ったことに、政治に期待できない状況が定着しつつあり、それが投票率の低下を招いている。国民が政治に関心を失い、日々の過酷な労働で身も心もすり減らし(なぜ今更米国のビジネススクール的経営がベストなのか)、考える力も、時間もなく、まして政府のあからさまなマスコミ操作で、必要な情報からさえシャットオウトされている。こういう状態こそ、民主主義が危機的状況にあるということなのだ。
若者は安月給で残業代もなくこき使われ、しかも企業に文句を言えば解雇が待っている。このどこに労働法があるのか。組合はどうなっているのか。以前、ブラック企業が恐れた労働基準監督所は、今はどうしているのか。企業名の公表しか出来ることはないのか。監督責任はどこへ行ったのか。収入の格差も増大する一方。タケシは2億のスポーツカーを購入し、しかも自分では運転さえしていない。TVでお茶らけを言ってふざけて、有名人と言うだけで高額の収入が約束される。有名人=但し体制より、か企業の役員、或は資産所得で恵まれている階層しか、余裕のある生活は送れない仕組みの社会構造になってしまっている。無論、富裕層がどのように人生を楽しむのか私の知ったことではないが、年金しか頼るもののない我々は、スーパーで一円でも安い食材をさがしているのが現実だ。いまの日本に欠けているものは、民主主義だけではない。平等もないのである。
私達にでも出来ること。それは声を上げることだけである。歩けなくなってもメールやブログがある。世の中が間違っていると言い続けること。それが大事なのだ。このWTWも、今の政府のあり方に疑問を感じ、世論の行く末に不安を感じて下さる方が、一人でも増えてくれれば、1年365日、一人だけのささやかな市民運動が、無駄ではなかったということになるのである。
「噴火と地震に備えよ」 2015/5/16
5/15夜のHOTジャーナルという番組を見ていたら、環太平洋の国々で次々に異変が起きており、地震と火山の噴火が相次いでいる。興味本位の番組とはいえ、事実は事実だ。また通常表層に居るはずのない大型の深海魚が捕えられ(昨年は日本近海でも竜宮の使いが何回も見つかった)、イルカやクジラ、アシカなどの海棲生物が集団で海岸に打ち上げられた。またイワシやエビの死骸が湾を埋め尽くした。これは地磁気の変化など、海底で何らかの大規模な異変が起きていて、それから逃れようとした為ではないかと、専門家は見ている。
直近ではネパールの地震がある。地球規模で大きな変動が起きていることだけは間違いなさそうだ。環太平洋の国々は、海洋の覇権争いなどに現を抜かしている場合ではない。箱根では噴火を想定して、温泉の再開だけにしがみつかず、住民の避難計画を立てることが肝心だ。経営の問題があれば、避難期間中は融資などの返済を猶予する徳政令を敷けば良いのである。湯量が8割に減っているのも、見逃すわけにいかない兆候の一つ。また近くの富士山も、厳重警戒すべきで、その兆候は既に起きている。河口湖の水位が下がったことと、氷穴の温度が上がったことだ。
噴火ではマグマや火砕流も無論警戒しなければならないが、静岡、山梨、東京では、より影響の広範囲な、降灰の対策を講じておくべきである。なお、チリの噴火では、前日に大きなトランペットのような音が鳴り響いたとも言われている。噴火が起きると、火口から数キロの地域では、灰ではなく砂利が降り、その厚さも70pほどになるので、当然家も車も潰れる。より細かい灰は、更に遠くまで飛ぶので、日本なら八王子で30p、地内で10pの降灰が予想されている。砂利も灰も元は溶岩だから、角が尖っていて、肺や眼を傷つける。また電気を通すので停電になり、灰に慣れていない関東地区では除去にも手間取り、交通マヒがあちこちで起きる。ライフラインが止まり、水と食料の備蓄も1週間程度では足りなくなる。冷蔵庫が使えなくなるので、新鮮な食料が不足し、ビタミン不足などの健康被害が出る。地震なら、まず南海トラフ地震で、それによる30mの津波の対策が避けて通れない。
WTWは警告する。日本のどこと未だ特定はできないが、地震と火山の噴火が迫っている。これは世界規模での変動なので、アルマゲドンと言っても良いと思う。読者の皆様も、どうか事態を甘く考えずに、具体的な準備に取り掛かることをお勧めする次第である。
「自主避難者への差別」 2015/5/18
自主避難者の住宅提供を終了するとのこと。その多くが子供の健康を心配する親たちだ。自主避難と国の指定地域で差をつけることが血の通った行政なのか。彼らが原発事故に責任があるのだろうか。原発の建設と立地条件の調査で、政府に判断ミスはなかったのか。しかもあれだけ補助金をつけても、復興どころか復活さえ一向に進まないのはどういう理由なのか。安倍政権の公約には福島の復興は入っていなかったのだろうか。取ってつけたような集団的自衛権だけは猛スピードで進めているというのに、復興は完全に後回し。かたやスポーツ庁を作り、馬鹿げたスタジアムを計画し、五輪祭りで浮かれている。それが安倍政治の本質だとすれば、余りに子供じみているし、情けない。ところで久しぶりに小沢一郎の集団的自衛権の批判をBSフジで見た。言うことはすべて正論。それに比べて安倍晋三の説明は、その場しのぎの空約束としか思えない。政治家としての実績も覚悟も理念も、全く対照的である。
「寅さんの本質」 2015/5/20
時々、寅さんのシリーズが思い出したように再放映されている。なんだかんだ言いつつも、ほぼ全作品を見た記憶がある。基本的にどの作品も粗筋は同じだ。寅さんの横恋慕が実らないというだけの話である。ところで私はどうしてマドンナ達が、一次的にせよ寅に好意を寄せるのかが全く分からない。女性というのは好奇心が強いので、変わったものに興味を持つ傾向があるのかもしれない。いかにものイケメンだと、警戒心が先に立つので、関心はあるが、まずそれを悟られまいと用心するのかもしれない。逆に笑わせてくれる者には警戒心を解く。それは自分が相手に対して完全に優位に立てる安心感なのかもしれない。お笑い芸人と結婚する女優がいる理由も分かる。
寅さんシリーズは、粗筋も、道具立ても、判で押したように同じだ。冒頭で放浪の旅から戻った寅は、柴又の叔父の家で、子供でも呆れるほどの無分別さを発揮する。しかも自分の身勝手さを棚に上げて癇癪を起こし、また飛び出してゆく。誰が見ても寅の方が悪い。画面のこちら側にいる観客としては、笑うより先に、親族に甘えるのもいい加減にしろと言いたくなる。毎回理不尽にもどつかれるタコ社長こそいい迷惑というものだ。
またいかに全国を歩くためとはいえ、テキヤという商売の設定にも無理がある。山田監督は何物にも囚われない自由人を描きたかったのかもしれないが、いかに渥美には口上が似合うと言っても、これでは観客は感情移入しにくい。それでもこのシリーズが未だに人気があるのはその価値観ゆえなのだ。ヤクザ映画が義理をテーマにしているとすれば、寅さんシリーズのテーマは人情だ。そして今ほど義理も人情も廃れている時代はないからである。
人情とは、言い換えれば思いやりだ。これに自己犠牲が加わると愛情だ。私は愛情と言う言葉が未だになじめない。輸入品のお仕着せの概念のような気がするからだ。自ら湧き出るという感覚も乏しい。人情という言葉の方が幅が広い。そしてそこには人間と社会の関係の原点がある。だからこそ、安倍首相と菅官房長官には、もう一度寅さんを見て欲しい。そうすれば原発にも、憲法にも、福島の人たちにも、五輪のばかげたスタジアムについても、おのずと正しい判断が出て来るかもしれない。安倍政権に足りないものは笑顔ではなく、涙なのだ。それを言っちゃあ、おしめえよ、結構毛だらけ、猫灰だらけ…。
「映画ぽっぽやと人生の意味」 2015/5/21
浅田次郎の「鉄道員(ぽっぽや)」が再放映された。同じ題名のイタリアの歴史的名作映画がある。共に鉄道に一生を捧げた運転手の物語である。高倉健は、この映画でモントリオール映画祭の主演男優賞を獲得した。日本アカデミー賞作品賞も取っている。私は日本の映画史に残る名作だと思っており、アカデミー賞外国映画賞を取ってもおかしくない映画だと思う。最近のどぎついだけの映画(三池やタケシを含む)の監督たちに飲ませたい薬でもある。
私にとって、この映画は鬼門中の鬼門で、見る時は必ず独りで見ることにしている。大泣きしている姿など、とても家族に見せられたものではないからだ。クライマックスは、幼くして死んだ娘が訪ねてくる(お迎えに来る)シーンだが、この映画が心を打つのは、それだけではない。長年の勤務でも処遇や経済的に恵まれず、いわば「いいことなんかないっしょ」な人生でも、職務に命を捧げた人間の姿がそこにあるからだ。なお有名なシーンがある。それは、なんで生きているのかと、娘に問われた駅長の健さんが、「本当に、たまにではあるけれど、生きていて良かったと思う時がある。だから生きているのだ」と答える場面だ。私に限らず、多くの人がそう思っているのではないだろうか。
特殊技能しかない人間が、仕事に誠実に懸命に生きてゆく。私はそこに父(経理)や義父(農業)の姿を見るのである。時々投稿をくれる中学時代の同級生の父親は、川口で小さい鉄工所を経営しており、同級生が、自分は父親を誇りに思っていると作文に書いていたことも思い出す。
私はこのような箸にも棒にもかからない素人時評を毎日書いて、読者に迷惑をかけているわけだが、他の批評家と違って公務員を非難することはあまりない。それは現役時代にさまざまな局面でキャリアとノンキャリの官僚とつきあいがあり、彼らの職務に対する真摯な姿勢を眼のあたりにしていたからである。本省の人達でなくても、警察官、消防官、教師、医者など、現場の人たちでも、私はこれはどうかと思う人に出会ったことがない。私は公務員を必要悪だと見なしていない。確かに一部には、お役目に不相応な高額の退職金で転々とする渡り鳥のような高級官僚もいないとは言わないし、彼らが日本の為に役に立っているとは到底思えない。しかし基本的に彼らは優秀であり、善意であって、中から古賀や孫崎のような人も出てくるのである。
公務員の99%は、真面目に国や社会の為に黙々と働いている人たちであって、企業の中で苦労している民間の会社員(労働者と言う言葉は嫌いです)と全く同じなのだ。目的が利益ではないので、逆に迷うことは少ないはずだが、出世の問題が、時に公務員が持つべき価値観を狂わせることがないとは言えないことが残念である。
ところで鉄道員は今では民営(JR)だが、昔は国鉄で、鉄道員も公務員のようなものだった。似たような映画で以前、「喜びも悲しみも幾年月」という灯台守の映画があった。何年かすれば任地を転々とする公務員(会社員でも転勤はあるが)の宿命が、そこでも描かれていた。
真面目にひたむきに生きる人の姿は人の心を打つ。今の社会にも、そういう人達が少なからずいるはずで、だからこそ日本という国が保っているのだと思う。311の時にもそういう人達が現場の混乱を救ってくれた。今、日本が必要としているのは、金融で一獲千金を狙う人達や、米国支配下の資本主義体制で格差の拡大と、資産収入を期待する人たちではなく、地道に働く人たちであり、だからこそ、そういう人達にふさわしい職場と処遇を与えることが一番大事なのだ。それが日本を発展させてきた人たちであり、これからの日本を支えて行く人たちなのだ。そういう時に参考になるのは、アベニミクスではなくて、ピケティの資本論なのである。
「WTWの資本論」 2015/5/22
いささか長いのだが、発端は素朴な一つの疑問である。世界中で路上生活者が溢れている。住むところがなく、職もない。収入が無いので食料も買えない。そういう彼らが、パンを盗んだとする。盗みは犯罪だ。法を無視しても良いとなれば、世界は無秩序になり、幸福どころか、安全でさえなくなる。だから法は守られねばならない。だから盗みを認める訳にはいかない。即ちパンを盗んだら罰せられねばならない。ということは、飢えて死ぬしか無いのである。果たしてそれで良いのかというのが、私の疑問なんだ。
イスラム教でも助け合いが義務とされている。でも慈善は強制されるものではなく、特に日本ではその意識が希薄だ。だから、収入を得られる機会が与えられなければ飢え死し、病気になって医者に払う金がなければ病死する。他に選択肢はない。それを非現実的だと思うのは、自分が恵まれていることに気が付いていないからである。でもあなたの勤めている会社が倒産したり、思いもかけぬリストラにあわないという保証はない。その時に、親から貰った財産や、自分で起業する資産や能力がなかったら、あなたとあなたの家族は明日から言葉通り路頭に迷うのだ。失業保険の期間は半年余り。生活保護を受ければ、車は当然、酒もたばこも認められない。人間以下の生活を余儀なくされるのである。ここにも日本の福祉の非人間的な一面がある。
ここで経済とは何かを改めて考えてみたい。日本は資本主義経済なので、企業が利益を上げ、税金を納めて、従業員に給料を払い、従業員も税金を納めて、企業と国が回っている。ピケティは、税金で、教育や医療や福祉や住民サービスが実施されているので、それが富の再配分になっていると説明している。確かに学校は私立だけで、公共サービスもその都度の利用者負担になれば、国という仕組み自体必要ではなくなる。その極端な例が、米国で近年まで主張されてきた小さい政府の考え方だ。全て民間に任せて政府は邪魔をするなと。要は余分な税金を払いたくないからである。自分は自分の力で生きてきたし、これからもそうするつもりだから、政府は余計なお節介はするなという価値観である。自由が一番重要であり、のたれ死にするのも個人の勝手である。米国で国民健康保険が難航しているのも、この良く言えば独立自尊の風潮が原因の一つだ。だから自分の身を守るための銃器の取り締まりも進まない。
それはそれで大変結構な意気込みではあるが、残念ながら人間の能力には限界もあれば、ばらつきもある。生れつき能力や体力に恵まれた者も、そうでない者もいる。そういう人達でもしかるべき教育を受ければ、社会で生きてゆくための能力や競争力を身につけ、報酬の高い職業につくことは不可能ではない。でも学費の高い優秀な大学に皆が皆入れる訳でもないので、教育の段階で、既に格差の芽は始まっている。
しかもこの世の矛盾は、完全な能力主義でさえないことだ。これはどうかと思う人(はっきり言えば能力のない人)が経営者だったり、公職でも高い地位についていたりする。そういう矛盾が一層不公平感を強めている。現在の経済の仕組みでは、資産を持つ資本家には利益を増やす機会があるが、労働で生活を支えている階層には、解雇されれば、明日からは生存の保証さえない。仮にあなたには十分以上の能力があり、経営者の方がアホ(創業者でもない限りそういう場合が多い)でも、社長に啖呵を切って飛び出したあなたを、誰が雇うだろう。即ち雇用は、決して労働者側の自由にはならないのだ。
誰をどのように雇用するかは経営者の権限である。企業には自社の業績を維持発展させるために人材を雇う権利があるからである。経営者は給与を払うために従業員を雇っている訳ではない。企業本来の目的を達成するために雇用しているのである。それが資本主義の理屈だ。だから労働者が交換の利く部品だという事が大前提となる。将来、ロボットしかいない企業が誕生しても、それが社会が要求する製品やサービスを提供し続ける限り、その存在を否定することは出来ない。
産業資本主義が発達を始めたばかりの欧州や、日本でも大正や昭和初期には、この資本主義の持つ矛盾が、もっと露骨な形で現れていた。労働者は倒れて死ぬまでこき使われ、利益は資本家や経営者か総取りした。貧富の差も拡大。文句を言う奴は即解雇。いくらでも交代がいた。農地を持たない労働者には、働くしか生きてゆく方法がなかったのだ。そして欧州で起きたものが革命である。日本では2.26だろう。2.26は青年将校のクーデターで一括りにされてしまいがちだが、それだと処刑された彼らは浮かばれまい(そもそも彼らは何故靖国に祀られないのか)。その後に起きた政治家の暗殺事件でも共通しているのは、これが単なる跳ね上がりの右翼が起こした天誅事件ではなく、背景に虐げられた庶民の苦しい生活があったということなのだ。社会の矛盾が背景にあったのに、それが語られることは滅多にない。それは権力層や為政者にとって、都合の悪い真実なので、見て見ぬ振りをして通り過ぎているのである。だから私は、文科省の教科書で2.26事件がどのように記述されているのか関心がある。日本でも資本主義は大きな矛盾を抱えていたのに、それが教科書レベルで指摘されることはない。しかも現在の日本で、その状況が大きく変わっているどころか、安倍政権下では、資本家対労働者という意味では、大正時代に逆戻りしている観さえある。
資産があるものは利益を増やし、一般の労働者は擦り切れるまで働かされる。労働者に、労働条件や環境で文句は言わせない。嘗て欧州では、領主と農奴の関係がそれに似たものだった。領主の私有財産が全てに優先した。というより、農奴は領主の私有財産だった。しかし私有財産制そのものを否定することは難しい。領主が持つ広大な邸宅も私有財産なら、貧しい農奴が手に握りしめている硬貨も私有財産であり、何人も、正当な理由なくそれを奪うことは出来ないからである。しかも全てを公共の資産とした共産主義は、その後崩壊している。では貧しい者は一生貧しく、富む者は一生贅沢に暮らせるのか。ピケティはその鍵は相続にあるとしている。どんな人間でも、ゼロからのスタートなら、短い一生でそれほど大きな差はつけられない。無論ジョブスのような天才は別である。それほど能力に差がない場合、生活レベルで差が出るのは、主に相続財産の差があるからだ。だからそこになんらかの歯止めが掛けられて、調整が可能なら、多分この世はもっと万人にとって住みやすいものになるのではないか。それがピケティの考え方だ。もう一つは不労所得である。債権の所得など、額に汗しない収益には高率の税金を掛ける。それも一つの方法だろう。もう一つは個人、法人を問わず、本業と関係のない投資は制限したり、投資のルールで歯止めを掛けるという方法も考えられる。一方で、これは個人が判断ミスで全財産を失うことを防止することにもなる。
結論を述べると、世襲財産に一定の歯止めを掛ける事の他に、最も大事なことは、雇用の機会均等を保証する(もちろん国が)ことだ。そもそも論で言えば、経済とは一体何なのか、何の為の仕組みかという(素朴な)疑問に向き合うべきかもしれない。経済が経世済民のことだと言われてもよく分からない。昔は(誰のものでもない)木の実を取り、魚を捕えて食べていた。それが穀物を育てるようになると、保存がきくので、他の物資と交換できるようになった。そこで原始的な交換経済が生まれた。余った穀物は資産になった。これは物資の交換を通じて生活を豊かにする仕組みが経済の原点だということだ。その大前提が個人の所有権だが、これを全部国有化にした共産主義はご承知の如く破たんした。中国が残っているのは、政治は共産体制のままで、市場経済を取り入れたからである。資産所有に対する個人の意欲を否定すると、経済発展が滞ることが分かったからである。
一方で今の金融資本主義は明らかに行き過ぎている。富の偏在が、何よりの証拠である。安倍首相のように富の偏在は間違いではないと言う人は、経済の本質を理解できていない。人間を幸福にする為の仕組みがうまく働いていないことを意味しているのに、それを見ようとしないからだ。共に生きるための仕組みであるのに、権力者の為だけに機能している。それは異常な状態だという認識が欠如しているのである。
ここで、最低限度必要なことは、平等な雇用機会だ。何故なら人は生まれながらにして平等な存在だからだ。但しそれは能力に見合った機会でもいい。それくらいの選択権は雇用する側にあっても良いのだ。でも雇用を拒否する権利があってはならない。働く機会も与えられない人に、パンを盗むなと誰が言えるだろう。労働することでしか生きていけない人から、雇用の機会を奪うのは死ねと言うのと同じことだ。貧乏に負けて死ぬのは負け犬だから仕方がないと言い切る人たちの、どこに人間性が残っていると言うのだろうか。暴力革命を阻止するためにも、経済のシステムそのものを早急に見直す必要がある。しかもその時の主役は金でも資産でもなく人間なのだ。
「安保法制の国会審議」 2015/5/25-29
今回は、5/24の朝日新聞の考論からである。
【安保法制、安倍政権の話法から考える】
長谷部恭男早大教授「平和への積極的貢献とは、地球上のどこへでも行って、米軍の軍事作戦を支援すること。それなのに、日本が米国の戦争に巻き込まれる事は絶対にありえない。自衛隊の活動範囲を拡大しても、隊員のリスクは高まらない。自分への批判はレッテル貼りだが、自らが行う批判は言論の自由。国会に法案を提出してもいないのに、米議会で成立させると約束し、同時に民主主義の素晴らしさを熱く語る。どれもこれもアベコベです」
杉田敦法政大教授「安倍首相は党首討論で、ポツダム宣言を読んでいないとし、先の戦争についての質問に答えなかった。戦後レジームからの脱却と言うのなら、大前提の知識ですが」
長谷部「読んでもいないものから脱却しようとはマジシャンそこのけです。憲法9条は集団的自衛家の行使を認めていません。行使容認に基づく法整備も当然認められない。法制化されれば、憲法9条は変えられたも同然です」
杉田「安倍さんは、記者会見で今までにも1800名の自衛隊員が殉職していると応じました。しかしこれまで戦闘での死者はゼロです。軍事同盟は血の同盟だと言う安倍さんは、犠牲を当然視していないか」
杉田「警察と軍隊は違います。警察は、基本的には暴力を使うことが禁止され、例外として使える場合を決めている。軍隊は逆です。基本的には暴力は使えるが、こういう場合は使ってはいけないという制約がある」
杉田「自衛隊は警察に近い存在としてやってきた。ところが安保法制が整備されると軍隊に近づく」
長谷部「憲法九条がある限り、軍隊と同じにはできないはずです」
長谷部「戦後、全権力が国民に移ったのだから、国民に選ばれた政治家の期限付き独裁の発想でしょう。しかし日本国憲法は多様な価値観を抱く人々が公平に、尊厳をもって扱われるべきだとの立憲主義に立脚している。そこでは政府は憲法によって与えられた権限のみを行使できる。誰かが全権力を保持していると言う発想はありません」
杉田「慎重に事を進めることに多くの国民が疲れてきたのかもしれません。景気が悪い中、なんでもいいから、強いリーダーに閉塞感を打ち破ってほしいと。橋下さんもそうだった。このままではじり貧だから、とにかく変えて見ようという人々もいるわけです」
長谷部「政治家個人への指示と、その人が掲げる政策に対する賛否は本来別物です。橋下さんは、私が言っているんだから賛成してと。このやり方には賞味期限がある。飽きられたら終わりです。安倍さんが一気に安保法制の関連法案を成立させようとしているのも、それを意識しているのかもしれない」
杉田「安保法制が成立すれば、集団的自衛権行使の要件に該当するのか、自衛隊を海外に出すべきかなど、非常に重要な判断を、究極的には数人の政治家がすることになる。戦後の日本は、戦前の日本が安全保障についてまともな判断が出来ず、国内外に多大な犠牲と被害をもたらしたという苦い悔恨の上に成立しました」
長谷部「まともな判断が出来ないばかりか、誰が決めたのか、誰に責任があるのかすらわかりません」
長谷部「立憲主義は、例え民主国家であっても、政治家の判断は完全には信頼できないとの前提に立ちます。米国は、軍事介入した中東各国を軒並み大混乱に陥れて、それがISが跋扈するきっかけにもなっている」
上記の要約で分かるように、安倍首相はある先入観と固定観念の下で動いており、しかも判断は愚か、議論をまともに行うのに必要な最低限度の知識さえ持ち合わせていないようだ。安保法制も、憲法改正案も、そういう浅墓な判断から出ていると思うと戦慄を禁じ得ない。政治を彼に委ねることがどれだけ危険かご理解頂きたいと思う。閉塞感や漠とした不満や不安から、強いリーダーを求めているとしたら、まさにナチスが台頭した当時の独の政治的な背景と同じではないだろうか。その結果大権をヒットラーに委ねたのだ。国民の政治への無関心にも合い通じるところがある。今の日本は戦後最大の、政治的な危機状態にあると言える。安倍首相は憲法に違反する最初の首相になる。だから確かに歴史に名は残るだろう。無論悪い意味でである。国民がそれと気づかない=或は気づかせない様にしながら、国を自分達の望む方向に引きずってゆこうとしている。今後辞書にアベコベという言葉を載せる時は、安倍頭=アベコウベと書くことを提案したい。
(追記2015/5/27)
5/27の安保法制の委員会、7時間の殆どを傾聴した。議員諸君も大変だろうが、見ている方だって大変だ。呆れたことに、通信社も新聞(但しネット版)もこの質疑について殆ど何も報道していない。首相が専守防衛を強調したと言うだけでは全体像は分からない。今回WTWではTV放映を以下のようにまとめてみた。
午前中の民主の岡田、大串の質問は切込みが浅かった。大串の、自衛隊員のリスクが増えた事を何故認めないのかという議論は、それを認めない政権にも問題があるが、自衛隊員という職業は、本来危険を前提にした職業なので、余りその点を指摘しても意味は無いと思う。それよりは自国を守るという直接的な活動でない、外国の活動に無理やり従事させることで、「不要な」リスクが増えるという指摘をすべきだった。これは同じような指摘をした柿沢も同様だ。但し柿沢の、兵站業務が戦争の9割であり、兵站部隊も攻撃対象になるという指摘はその通りだと思う。
質問では長妻が出色だった。安倍政権が自分勝手に法律や前例の解釈を変更していることを指摘した。例えば、47年に自民党が集団的自衛権を否決したが、その前文で、武力攻撃があれば武力使用もやむなしとした上で、その前提は自国への武力攻撃だった。その結果、集団的自衛権の否定となったのに、何故それが今回同盟国への攻撃も含めることになったのかと糺し、それは基本的な理解が最近変わったからだという答えを法制局長官から引き出した。そこで安倍首相の理解に変更はないという説明が崩れた。安倍首相は、解釈の変更があったのは、最近の国際的な安全保障環境が大きく変わり、もはや一国では自国を守りきれなくなったからだと説明した。長妻は、自衛隊が専守防衛の為に設立されたことを指摘し、これでは自衛隊ではなく集団的自衛隊だと皮肉を言っていた。
続く松野は、何故法改正をそんなに急ぐのか。以前のPKOの海外派遣でさえ、3国会を通じての議論だった。何か差し迫った危機があれば、それを国民に説明すべきだと迫った。結局首相から出たのは、北朝鮮が多数の弾道ミサイルを用意していること、そして東シナ海や、南シナ海での中国の動きを例として挙げるに留まった。
私はここで面白い設定が出来ることに気が付いた。邦人を輸送中の米艦艇に敵国が攻撃を加えた時に、座視すべきでないという例を、首相が良く取り上げるが、ならばこういう場合はどうか。南シナ海で、米中が偶発的に戦闘状態に入ったとする。しかもこの可能性は日に日に高まっている。防衛大臣は自衛艦を付き添わせるつもりらしいから、脇に付き従っていた自衛艦も被弾するだろう。相手国が日米を区別事は考えられない。そして多数の自衛官が海に投げされる。たまたま近くにいた中国艦が救助したとする。さてそこで質問である。残りの自衛艦は米艦と一緒になって、邦人の乗った中国艦を攻撃するのかどうかである。集団的自衛権ではこれを攻撃する必要があることになる。
百歩譲って集団的自衛権を認めたにしても、同盟相手は時々刻々変化する。と言うより変化するだろう。しかし今の集団的自衛権は、米国の為の集団的自衛権だ。米国の軍事力に依存することが暗黙どころか、明白な大前提だからである。世界のパワー・バランスを考慮するようにはなっていない。欧州との連携も考えていない。米国ありきの政策なのだ。自国を自分で守れないからしようがないと二言目には言うが、守ろうとさえしていないのが現状だ。これではいつまでたっても、日本は米国のお荷物だ。それはまた、親分子分という独立国にあるまじき、いびつな関係でしか二国間関係を維持できない事を意味している。これは双方にとって不幸なことだ。民主主義で一歩も二歩も先を行く米国人から見れば、安倍首相率いる日本には、いささかうんざりだろう。
そこでもう一つの例である。いつか米国が、日本の政治のあり方が気に入らないからといって、無理難題を吹っかけてきたらどうするのか。治安維持法でも持ち出して、米軍と一緒になって、国内の不満分子を殲滅するつもりなのだろうか。
話を戻して、松野の質問に首相は、北朝鮮や中国の例を挙げが、それがどれだけ緊迫しているかの説明はなかった。という事は、差し迫った脅威というよりは、米国の中国敵視政策の尻馬に乗ろうとしているだけではないのか。米国のお手伝いを自ら申し出たということだ。即ちそこでは独立国に相応しい、これという外交政策や世界のビジョンがある訳ではないということである。
まさに固定観点でがんじがらめになった政策である。かつてないほど流動化している世界情勢の中で、固定観念しか持てないとすれば、日本には未来はない。これでは柔軟に素早く国際情勢に対応できるとも思えない。集団的自衛権の前提がこの「米国ありき」なのだ。そして安倍首相のしていることは、既定の政策に、過去の文献や答弁を、辻褄が合うように、解釈の変更や、言い訳を考えることなのだ。安保法制も、彼の頭の中では、既に決まったことなのだろう。今決めなければならない理由さえないのに、自分が決めたことなので、これを強行採決するだろう。何故あせるのかは実ははっきりしている。それは安倍首相が馬鹿ではないことを意味している。むしろ逆に狡猾だからである。自分の政権がいつまでも続く保証がないことを痛感しているから、今の内に、出来るだけのことをやっておこう、これまでの自民党の悲願をなるべく多く達成しておきたい。それだけのことだと思われる。でも何から何まで、個人的な理屈を振り回す人に、日本を預けておいて、果たして国民は安心していられるのだろうか。
5/28の安保法制の特別委員会の中継2日目もほぼ全部視聴した。29日も審議は続くが、NHKは中継するつもりはないようだ。党首討論も、審議の初日も放映せず、今日も放映はない。もう一つ言えば、今回のような重要な質疑については、ダイジェスト版を作って1時間程度にまとめて夜間に放送すべきなのにそれもない。平日昼間の放送を、働いている人たちが見ることなど事実上不可能だ。見ているのは我々のような時間に縛られない(しかし戦争の記憶は未だに持っている)高齢者くらいであり、それがまたシルバー・デモクラシー(なぜこれが否定的に使われるのか未だに分からない)にもつながるのかもしれない。NHKは当然果たすべき報道の義務を果たしているとは言えない。仮にいま戦争が勃発すれば、NHKが大本営(=官邸)の発表だけを繰り返すのは明らかだ。私はNHKが悪い意味で官僚化しているのではないかと思う。NHKは無作為という形で、暗に政府をバックアップしているのである。政治的に中立でもなく、民衆の立場に立つ批判精神もない放送メディアに対して、民衆は料金の不払いで対抗するしかないのだろうか。もしNHKが政府の広報機関でないと言うのであれば、経営委員や会長を国民に選ぶ権利がないのはおかしい。国会の審議はネットでも見られるということなので試してみるつもりである。(後注:視聴は出来たが野党全員欠席で会議にならず)
委員会の放映をご覧になった方も多いと思うが、質疑応答の時間が半々とすれば、首相側の回答の大半が三要件の繰り返しだった。同じ文言を繰り返し聞くことは時間の無駄であって、いまさらそれをここで繰り返す気はない。ところで、首相は辻元清美が大嫌いで、発言途中にヤジを入れるという無分別な醜態を演じてしまった。
過去問題になったヤジを取り上げる迄もなく、首相を含む、自民党議員の他党の女性議員蔑視には甚だしいものがある。それほど男性優位を唱えつつ、なぜ女性の閣僚を登用するのかと言えば、それは首相の言う事を聞いて、飾りになっていればよい=止まり木のオウム、であり、余計な事は言うな、という封建時代の価値観が濃厚だ。女性重視と口先で言いながら、本音は余りにもかけ離れている。だから生意気な事を言って自分に楯突く女性には我慢がならないのだろう。本当に男らしく、余裕のある人間ならどうふるまうかを一度想像してみたらいかがか。首相は勉強が嫌いで、何事も先入観と固定観念だけで判断しているが、まず男女同権から、民主主義の歴史を勉強し直すべきではないだろうか。
昨日の質疑では江田憲司が出色だった。法律の観点から前例を詳しく調査しており、反論の余地を与えなかった。首相が江田には一目置いていることも分かった。ところで委員長はハマコーの息子だが、調整役として意外に善戦していたのは評価すべきだろう。
たった2日間の中継だったが、私としてはとても良い勉強になった。なぜならそこには報道機関による脚色がなかったからだ。生の情報に接すれば、国民の誰もがジャーナリストになれる。自分の価値観で事実を判断できる。私は国会中継を常時見られる体制こそ、日本が民主主義を全うする上で不可欠だと思った。しかもそれは税金で運営されるべきなのである。どうせNHKBS1は誰も見ていないのだから、国会専用チャネルにした方が良いのである。
2日間の国会中継を見て分かったことは、安倍首相の言うことは、毎回同じで、要は三要件が歯止めになっているという事を、手を替え、品を替え、繰り返し言っているだけだ。だからもういいよと言いたくなる。質問(=国民の疑問)の要点は三つある。なぜ集団的自衛権が必要なのか、何故今すぐそれを決めなくてはならないのか、そして三要件の判断が時の政府に任されるのなら、拡大解釈が可能ではないと言う保証はどこにあるのかという点である。でも中核となるこれらの疑問の、どれについても、安倍首相側からの納得できる具体的な説明はなかった。米国ありき、米国への支援ありきで一貫していた。そこでは自国の正義はなく、米国の正義があるだけだ。これは三要件が米国に都合の良いように運営される可能性があることを示唆するものである。第二のベトナム戦争が起きれば、自衛隊が駆り出されるということだ。安倍晋三もいつかは退任するだろうから、その置き土産のおかげで、死ななくても良い、いや死ぬ必要のない日本の若者が外国で死ぬことになるのである。しかも今後は任務の危険性が飛躍的に高くなるので、そういう自衛隊に、自ら志願する者など出てこないだろう。ということは戦力を維持するためには、徴兵制が実施されるのも時間の問題だということだ。
「ドブの中でも前のめりに」 2015/6/2
齢70にして、己の不明、不徳、未熟を恥じ入るばかりのこの頃である。人間の能力には持って生まれた限界がある。しかし開き直りだけは避けたい。この世に分かれを告げるその時まで、たとえ1cmでも5mmでも、前進を続けたい。それはすべての人たちが、生まれながらに備えている資質である。昨日の自分より、少しでもましな今日の自分でありたいという願いだ。低レベルでの慢心しかないような与党の政治家は、この誰もが本来持ち合わせている重要な要素=人間が人間たるべき何か、を見失っているとしか思えない。
「安保法制審議ナウ」 2015/6/3
6/1の安保法制の国会審議もほぼ全部見た。しかし7時間に及ぶ審議を一体誰が見ると言うのだろうか。要点だけを収録したダイジェスト版こそ、国民には必要なのに、NHKは頑としてそれを作成・放映しようとはしない。編集で政権寄りの映像になるくらいなら、ありのままを流した方が良いことは確かだが、それにしても視聴者の都合はあくまで二の次だ。長い時間をかけて最後まで見届けた視聴者がどれだけいたか知る由もないが、私から見た重要な点を報告したい。
1)寺田議員(民主)は短い時間を専守防衛に絞って質問。政権は専守防衛が昔も今も変わらないと言い続けているが、自国への攻撃に、密接な関係の国まで含める事に、専守防衛の概念と矛盾があることを指摘した。若手の議員ですが、有能さを感じる。
2)細野議員(民主)は、自衛隊関係者の声を紹介し、自衛隊としては、国民の意見が分裂した状態で、出て行きたくはない、1年かけても良いから国民の意見をまとめてほしいという要望を紹介した。命懸けで戦場に行く人たちからすれば、その目的、いわば理由づけ=何のために戦うのか、ということが最も重要な事だから、当然の要求だと思う。
3)穀田議員(共産)は、F35が防衛というより外国の基地の攻撃に適していること、また有事には米国を含む外国の同盟国の軍隊が、日本中の民間空港(100近い)を使うことができることになっているので、有事には空港周辺の国民の生命に危険が及ぶ点を指摘した。
政権側は同じ説明を何度でも繰り返すだけで、その割には一向にピンとこない、即ち国民が理解できないのは、説明が嘘で出来ているからだと言う評論家もいる。真実というものはシンプルなものである。なお今回分かったことは、日本と密接な関係にある国を具体的に挙げよとの質問に、米国は当然含まれるが、他には有事に日本の味方をしてくれる国だと首相は説明していた。無論戦闘が始まるまで、どの国が味方か敵かはっきりしないという言い訳は出来るかもしれないが、フィリピンやインド、あるいは英国が攻撃された時まで、日本からはるばる出かけてゆくという含みを残されたら、自衛隊も日本国民も溜まったものではあるまい。(後注:当面、それは豪州のことらしい)
そもそも日本の国益が根底から覆されるという明白な理由がある時とはどんな場合なのか、ついぞ具体的な説明はなかった。例えば、中国がどんな行動を取った時がそれにあたるのか。ホルムズ海峡に機雷が敷設される場合ばかりを例に出されるが、イランは自分の首を絞めることになるのであり得ない、しかもそういう場合は存立を脅かされるというよりは、経済的な理由ではないか、という指摘もある。
一方で尖閣が攻撃されたら、集団的自衛権以前に、現政権が個別的自衛権を発動することは確実だと思う。今回の国会審議で何が一番危ない部分かと言えば、自衛だろうが、攻撃だろうが、理由さえあれば、武力の発動を肯定するという気分が出来上がりつつあることだ。安倍政権はとにかく一回どうしてもドンパチやらないと気が済まないようだ。相手は多分中国で、しかも米国と一緒に。座して死を待つことまで憲法は要求しないという理屈だけを唯一の正当化のよりどころとしつつ、紛争解決に武力を行使する事を正当化しようとする現政権は、進んで交戦状態に入りたがっているとしか思えない。しかし目には目を、歯には歯をという姿勢のどこが、本体非武装中立であった憲法の精神とどう合致するというのか。少なくとも、安倍首相の今回の拙速な法案のお蔭で、平和日本のイメージが大きく損なわれつつあることだけは確かである。