「WTWオンラインエッセイ」
【第9巻内容】
「感動を取り戻そう」
「辺野古移設は誰の為か」
「日米関係の実像」
「亡国のシナリオ」
「集団的自衛権の建前と本音」
「防衛相、豪軍との協力も想定」
「天声人語。憲法規範の危機」
「ジェブ・ブッシュの正体」
「キング牧師の行進とヘイトスピーチ」
「誰の為の憲法審査会なのか」
「国債買いすぎ」
「クライマーズ・ハイと記者精神」
「自民党若手勉強会」
「偏狭で無責任なネオ保守」
「アベマゲドン」
「安保法制、重鎮が一斉に批判」
「安倍首相のわがままに何故国民が付き合わされねばならないのか」
「千人委員会の勧め」
「報道されない辻元の質疑」
「安倍首相が国民に回す恐るべきツケ」
「戦後70年、残ったものは軍事同盟」
「安保法制反対集会に参加して(寄稿)」
「ついに強行採決」
「分かる安保法制」
「やっぱり教育が大事」
「感動を取り戻そう」 2015/6/4
我が家にはHDD録画機が4台あり、各2チャンネル、計8局のTV放映を同時録画できる。毎朝、新聞の番組欄を見てどれを録画するか決めることが日課だが、問題は録画した番組を見る時間がないことだ。最近の番組は2時間が普通で、中には3時間のものもある。HDDにどんどん溜まってしまい、そのうち容量が足りないという警告が出るようになる。義弟宅でも似た様な事になっていた。TV番組でも真面目に見ようとすれば、結構な労力と時間が必要だ。そこで早回しは当然としても、いきおい冒頭部分の雰囲気だけで、見る価値のある番組かどうかを判断することになる。但しごく稀だが、早回ししたくない番組もあり、最近ではNHKの戦後70年の特集で、バブルが何故起きたかを取り上げた番組があった。衛星放送は米国の連ドラ(パースン・オブ・インタレスト)を見る為だけに契約しているが、wowowはオスカー授賞式の月だけの契約だ。(後注:2016年はそれもパス。人種差別問題が話題になったので)。昨日は溜りに溜った番組を一気に整理しようとして、一度生放送でも見たアカデミー賞授賞式をもう一度見ることになった。
私は特技も余技もないつまらない人間だが、多少でも人並み以上のレベルの趣味と言えば、映画鑑賞くらいだ。鑑賞本数と鑑識眼にもそれなりの自信がある。オスカー授賞式では司会者の質とレベルが、ショウ全体の出来を左右する。昨年も一昨年も外れで、今回のニール・パトリック・ハリスは、ビリー・クリスタル以来の久しぶりのヒットだった。歌とジョークが出来ない者にこの司会は勤まらない。果たして日本の芸能人で、こうした役をこなせる人がいるだろうか。今年の授賞式では、レディガガがサウンド・オブ・ミュージックを歌い、ジュリー・アンドリュースが登場するシーンもあった。番組中の、アカデミー協会会長の、表現の自由の為に戦うことが協会の使命だと言う言葉には勇気づけられた。映画アカデミーの特徴は、知的レベルの高さにある。日本の映画界は果たしてどうだろう。若者向けに、刺激だけを売り物にした低品質の映画に堕してはいないか。ところで今回、半年前に放映されたこの番組を引き合いに出したのには理由がある。
それは(映画に対する)熱意だ。パッションと言っても良いし、広義の感動と言っても良い。映画産業に関わる者たちの、映画への愛情と献身、期待と尊敬だ。無論そこには万事控えめな日本人の国民性と、万事前向きな欧米人のそれとの違いはあるだろう。でもそれだけではない。信長や西太后はその残虐なふるまいで知られている。とても普通の人間のすることとは思えない。しかし私は彼らが邪悪な熱意というよりは、感情の欠落、人間性の欠如があったのではないかと思う。どんなことにも無感動な、精神的に空洞な人間だからできたことではないのか。悪意の存在ではなく、人間的な感覚の喪失こそが悪魔的な所業の原因(例えばホロコースト)ではないのか。仮に悪魔が実在するとしたら、その特徴は邪悪さではなくて、むしろ空虚さだと思う。
私は、日本人、特に若い世代を中心に、無感動が広がりつつあるのではないかという事を懸念している。それは学園ドラマで泣いたり笑ったりすることとはいささか次元が異なる。人間を心の底から突き動かす力であり、人生さえも変える力だ。南京陥落で勝った勝ったと騒ぐ人たちの気持ちは単なる熱狂でしかない。現代の日本でも、世界でも不条理な殺人行為が常態化しており、それが何のためらいもなく行われている。その背景にあるものは、人間的な感情の欠落だ。私はいま人類に最も必要な事は、感動する心と力を取り戻すことだと思っている。感動は一時的な付和雷同の熱狂でも、宗教的な陶酔でもない。普遍的な人間性に深く根差したものだ。キング牧師の演説が与えたものは感動であり、一時的な熱狂では説明がつかない。真実や本物に感動する心を育む。それこそが、日本の国民に課せられた使命ではないのか。そしてそれこそが日本人と人類を救う道ではないのだろうか。
「辺野古移設は誰の為か」 2015/11/24
・辺野古に巨大ブロック、県と事前協議せず。
この強引なやり口。一旦作業を中止して司法の判断を待つのがまともなやり方だろう。辺野古でここまで強引なやり方をするということは、政権の都合次第では、人権だろうが、憲法だろうが、なんであろうと無視して、平気で踏みつぶして進む危険な内閣であることを示唆している。そこには理性もなければ道理もない。これではテロリストと変わるところがない。日本では政府自身がテロリストというのでは洒落にもならない。
G7の声明で、米国の立場、そしてそれに追随する日本の立場が明確になったと思う。米国は太平洋アジア地域で存在感を維持または誇示したいが、かと言って世界の警察を自任出来るほどの余裕はもはやない。それを後押しする世論もない。そこで日本の出番だ。日米の軍事力を統合して、東アジアの(米国による)抑止力とする。それ以外に中国のアジア進出を抑える方法はない、と言う訳だ。日米の利害が一致している。だから集団的自衛権は、むしろ当然至極であって、何を今さら、自分の身も守れない弱い日本の国民ごときが反対するのかと言わんばかり。大前提が武力には武力である。これは首相の演説=力によって一方的に現状を変更することは認められない、問題解決には対話でという言い分とも矛盾している。集団的自衛権の決議は時間の無駄に過ぎない。なぜならどう反対されようと、政府が押し切るのは既定の路線だからだ。今野党が一番やらねばならないことは、世論の喚起だ。
安倍首相がオバマへの約束を違えるとも、自らの顔を潰すとも考えられない。国民を犠牲にしてでも、安保法制を押し通す事は間違いないところだ。しかしいまや事態は窮迫している。そこでせめて国民に出来ることは、法案の違憲の集団訴訟を提起して無効化に向けて戦うことと、安倍政権にこの法案と一緒に心中して貰うことだ。どんな首相でも、民意を完全に無視する安倍首相よりはましだろう。
「日米関係の実像」 2015/6/10
中国や韓国が国内の世論を都合の良いようにまとめる時に使われるのが反日感情だ。今それを逆用しているのが、安倍政権。即ち、まもなく中国が攻めて来る。だから日本は、安倍首相と盟友オバマの元で、一致団結しなければならない。中韓と同じ戦術だ。でもオバマ自身は、最初は極右体質の安倍首相を嫌って、握手する時でさえ、まともに顔を見ようとしなかった。訪日の時も夫人は帯同しなかった。ところが安倍首相が訪米して、国会の議決も経ずに、自衛隊をどうぞ自由なようにお使い下さいと差し出すと、態度を変えた。首相訪米時のスピーチで、オバマは自ら辺野古返還には拘らないと言っておきながら、沖縄県知事(県民の意見の代表者)には邪険に対応した。オバマの民主主義が実はどんなものかを私たちは垣間見たのである。米国が南米やアフガンやイラクやシリアやベトナムでしてきたことが、決して民主主義や自由のための戦いではなかったことを再度痛感させられた。無論その背景には事務レベルでの日米の高級官僚同士の癒着があることは、鳩山の証言を待つまでもなかろう。安倍政権が危険なのは、安倍首相自らの偏向したナショナリズムだけではなく、これを千歳一隅の機会と捉えて、保守(高級)官僚が暴走していることである。
民主党政権時代、彼らがどれだけ陰湿な嫌がらせを新任の大臣にしたか、未だに記憶に鮮明に残っている。ところが彼らは安倍首相と官邸にはべったりだ。その有様は怒りを通り越して情けないほどである。これが本当に日本の選良なのだろうか。何故、そのように掌を返すようなことが簡単に出来るのだろう。それは自民党との長い癒着の歴史があるからなのではないか。官僚の献身的な努力の上に乗り、面倒な事は全て官僚におんぶにだっこの自民党と、官僚を必要悪と見なす民主党。どちらの方が居心地が良いかは言うまでもあるまい。しかし私はそのどちらも評価しない。両方とも国民から見ればマイナスだからだ。前者は保守政党の既得権と利権に結びつき、後者は行政活動が止まる。もう一つ別の方向性があり、それこそが皆がウイン・ウイン(この言い方は好きではないが)の関係になれる方向が残されているのである。
明治時代に官学を出れば、それだけでエリート、末は博士か大臣だ。行政機関に入れば、日本を動かしてゆく役割を嫌でも担うことになる。思いきり実力を振ることが出来るからこそ、薄給と過酷な労働条件も甘んじて受け入れている。自分達こそ日本の中枢の機能であり、自分達しか日本を運営できるものはいない。自負心がそこにあり、それは原動力だが、一歩間違えれば思い上がりと紙一重でもある。以前あれだけあった官僚の失言や不祥事がピタリと影をひそめた。あっても大きく取り上げられる事はない。現場の警察官がこれだけ不祥事を繰り返しているのに、警察庁の幹部が責任を取ったという話も聞いたことがない。
そこには報道機関の自粛があると思うのが自然だろう。口をつぐむメディアなどに存在価値はない。政府が有形無形の圧力を報道機関に掛けていることは想像に難くない。いま流布しているのは、Y社やS社のような御用メディアの提灯記事だけ。僅かにリベラルの火をともし続けているのは毎日新聞と東京新聞くらいだ。
話を戻して、行政官の仕事への姿勢には第三の方向がある。即ち絶対服従と絶対反発の間の道だ。それは官僚がのびのびと仕事が出来る環境でもある。それは活動の目的に国ではなく、国民の生活を置くことだ。そして自分の保身と自組織の拡大を目的から排除することである。政治的な色彩を持たず、無色透明でありさえすれば、いかなる政権の元でも同じように(正常に)機能するはずだ。そこに何らかの野心、または私心が加わると、一気に行政がいびつ=すなわち不平等で不公平になる。それは大戦の苦い経験が如実に示している。
我々は官僚機構が果たした負の役割を学習しなければならない。個人としての思想と信仰は自由ですが、それを行政の現場に持ち込んではならない。あくまでもその存在理由は、与えられた体制の下で、国民と国家に資することであり、そこで最も重要なことはその順序を間違えないことだ。あくまで国民が先なのだ。なぜなら国は国民が作るものだからだ。だから特定の政治的色合いを行政機関が持つことがあってはならない。そこでは憲法順守が基本的な理念である。自衛隊員の誓約にも憲法遵守が含まれている。
今の状態は、実権を握っている政治家や高級官僚が戦後10-20年生まれだと言う事も大きく影響している。戦争の悲惨な記憶もないし、戦後の苦しい生活の経験もない。生まれた時には既に豊かな時代が始まっていた。しかも家制度が崩壊し、核家族の個人主義の時代に移行していた。親の世代の苦労など全く知らない世代なのだ。この世代間の価値観の違いこそが、日本が再びナショナリズムに回帰している真の理由なのである。
話を中国に戻すと、中国が今にも攻めてきそうだから日本は結束しなければならない、日米が協力して事にあたらねばならないという筋書きが存在する。でもそこには一抹の不自然さがある。確かに尖閣ではもめたが、結局それは習近平が収めた。今は特段の脅威にはなっていない。南沙諸島は日本には直接関係はなく、憲法上も関係を持ってはいけない。とすればやはりそこには米国の意図、即ち米国だけで東アジアを守るのはしんどい。だから日本にも応分の負担をさせよという米国の意図があると思わざるを得ない。そう考えれば、今の安倍政権の動きも、容易に理解できる。
しかし中国がしているのは、南沙諸島に砲台を築いたことと、中露で軍事演習を計画していることだけであり、これに対して日米の動きはもはや兆発に近い。自衛隊は南沙諸島に近づいてはならない。それはまさに他国間の戦争に自ら飛び込むようなものであり、憲法違反どころか安倍政権がお題目にしている三原則にさえ違反しているからだ。米国が南沙で行動する時はフィリピンとベトナムの艦艇が参加するのが筋だ。何故そこに日本まで出て行かなければならないのか。日比の合同演習など全く余計なことだ。不自然な動きを日本がするので、今度はロシアが北方領土に基地を作り始めた。これが世界平和を志向する国のすることか。(後注:その後、中国は滑走路を完成させ、米国がイージス艦を派遣し、航空機を飛ばし、次に中国が地対空ミサイルを配備した。軍事対決のエスカレートは留まるところを知らない)。
米中が直接戦火を交えないことだけははっきりしている。でもその属国(含む日本)との小競り合いは無いとは言えない。即ち米国が出てゆく前に、アジアの国の軍隊が中国軍に小当たりする。それはトラブルではあるが、米軍が正面には出ないので、本隊への損害は少ない。自衛隊の訓練も配備の強化も、全て中国が攻めて来た時を前提にしている。でも本当に危ないのは北朝鮮が核ミサイルを日本に向ける時ではないのか。私は中国の覇権主義は大嫌いですが、安倍首相の嘘で固めた演出も鼻持ちがならない。話し合いで問題解決(G7演説)と言う説明と、武装強化がどう関係するのか。中国を仮想敵国にというのは太平洋の覇権を争う米国の意志です。横田のオスプレイ配備もいつの間にか実現させてしまった。反対の声をもみ消したのは官邸だろう。専制的な政治家と、それを支える超保守官僚組織、その背景にある米国型資本主義の野望という、未だかつてない強力な体制による、国家主権存亡の危機に、我々は直面している。しかも多くの人がそれに気が付いていないのである。
「亡国のシナリオ」 2015/6/11
所ジョージの世田谷ベースという深夜番組を時々見ている。所が模型や車やエレキギターなどの自分の趣味を紹介することで成り立っている緩いワンマントークショウだ。それでも200回続いているらしい。その直近の回の冒頭で、マイナンバー制に苦言を呈していた。まず議論が足りない。そしてなぜ全員強制なのかと。もっと議論して問題を洗い出す必要があるうえに、国民には選択の余地を残すべきだと。これは正論である。
しかもマイナンバーのカードを一枚作るのに100円としても100億の金が掛かる。読み取り端末に必要な金額はそれ以上だろう。それに今はマイナンバーが無くても動いている。行政が事務処理の効率を上げたい、楽をしたいというだけの理由では、膨大な費用の裏付けにはなり得ない。そもそもいくら費用が掛かるのかを国民は知りようもない。しかも事務の効率化だけならまだしも、国民を一元管理したいという政府の意図が丸見えである。ある意味で秘密保護法と同じ様なものだ。一方的に国が管理するだけで、国民が自分の為にそのデータベースを使うことが許されている訳ではなさそうだ。
こういう重要な案件は、国民投票で決めるべきだろう。18歳選挙権もそうだ。何でも政府は思い通りに、好き勝手に決めてしまうけれど、これって国民主権、民主主義なんだろうか。自民党の決定が先にあって、説明は後からとってつけただけ。国民がどんなに反対しても、押し切ればいいという衣の下の鎧が丸見え。それが政権の思い上がりと、専制政治の動かざる証拠なのである。
マイナンバーで一番気になるのが国民全体への強制だ。即ち国民皆制度だ。行き着く先に待っているのは国民皆兵ではないのか。いざその国民皆兵法案を成立させる時に、安倍首相はどう国民に「説明」するのだろう。その答も今から分かっている。「国民が自分で自分の国を守るのは当然です。米国に全てを頼るのは正常な両国の関係とは言えません。実際に銃を取るかどうかは別にしても、国民が有事に一致団結して、侵略を企てる外国に対抗するという気構えを見せることだけでも、敵国の気持ちをくじき、自国の安全と世界の平和を守ることになるのです」。安倍首相の説明文など、私はいくらでも作文できる。論理が単純でしかも底が浅いからだ。
今、国民の皆さんに注目して頂きたいものは、安倍首相の上っ面の説明文ではない。何故彼がそういう法案を成立させたいのかという本当の「目的」であり、意図なのだ。その結果日本がどうなるかという見通しそのものなのだ。仮に、それが日本の安全と世界平和の為だという、お馴染みの決まり文句だとしても、そこにはなぜ世界平和を達成するのに、武装強化や国民皆兵しか方法が無いのかという素朴な疑問が生まれる。極論すれば、そんな持って回ったことはせずに、原発の廃棄物で有り余ってるプルトニウムで、核爆弾を1000発作れば十分な抑止力になるだろう。しかも日本には、宇宙の果て迄ピンポイントで爆弾を送り込める運搬技術がある。日本には技術がある。でもそれを武装や戦争目的には使わないと繰り返し宣言してきた。だからこそ日本がこれまで世界で一目置かれ、信頼されてきたのだ。
しかし安倍首相は、使うことを前提にした武力を持ちたがっている。或は持っている武力を実際に使い(後方支援の名のもとに)たがっている。これまで日本が進んできた方向とは正反対の方向だ。その上、あのオバマがそれをサポートしている。平和という一般的な理念を付け加えさえすれば、何をしてもいいという事にはならない。方法論までが自動的に正当化される訳ではない。核を持つことが抑止力としていかに有効でも、その手段は認められないのである。だから平和達成の手段にも自ずと制限があるのだ。米国では、戦争を終わりにしたのだから日本への原爆投下は正しかったという意見がある。ならば911で5千人が亡くなったことをどう考えるのか。こちらの犠牲は30万人だ。人道的でない方法を取った時に、それは戦闘行為を超えた非道に成り下がる。だから広島も911も共に許されないのだ。
安倍首相は、平和と安全を守るために、武装が必要と言っているのでない。武力の「行使」が必要だと言っているのだ。手段を選ばないと言っているのである。だから専守防衛ではない。それを専守防衛と言い張るから、私は嘘つきだと言うのだ。手段を選ばなくなった段階で、彼は平和の守護者としては失格なのである。確かに3原則では他に手段がない場合と言っているが、それを判断するのは他ならぬ首相自身だ。また何故、将来の地域紛争への武力介入を想定した、比との合同演習などをする必要があるのか。言っていることと、している事が違うのである。
言い換えれば、平和を維持する「方法」まで、彼に決める権利があるとは思えないということなのだ。未だ政府はそんな事は発言していないのだから、レッテルを貼るなと多分、彼なら言うだろう。でも、今までの安倍政治は、国民の批判を許さず、選択の権利を排除してきた(マイナンバー、秘密保護法、集団的自衛権、原発再稼働)。国民皆兵を心配するなと言う方が無理なのだ。国民には一切の選択の余地を与えない。政府が決めたことに黙って従えと言うのでは、ナチスの全体主義、ファシズムと同じである。最近、安倍首相を後押しするオバマの顔が悪魔に見えて仕方がない。シリアを放置し、ISを誕生させ、しかも手を汚さない空爆でお茶を濁している。このどこが世界の警察だろう。
安倍政権と高級官僚の身勝手な勘違いは、米国はあてには出来ないという現実を見ようとしないことにある。日本が米国と一体で活動すれば、世界を米国型金融資本主義で染め上げて、日本という国が世界に冠たる大国になると思うのは、大東亜共栄圏と同じような、滑稽な幻想に過ぎない。冷戦時代でもあるまいし、米国の下請けから始めて、そのうち独立して覇を唱えるという陳腐なストーリーが通るような単純な、二極化した世界ではもはやないのである。日本の為政者には、自らで新たな世界秩序を作り上げるだけの意欲もなければビジョンもない。自称エリートたちが、どんだけ頭が悪ければ気が済むのかと言いたくもなる。
昨日も申し上げたが、安倍政権から出て来るのは、稚拙な説明だけであって、その意図と、未来像はひた隠しにされている。どうかそれに気が付いて欲しい。政府が報道機関に圧力を掛け、反対意見がなるべく表に出ないようにあからさまにコントロールしている。知識人も排除している。だから国民はますます実態を把握することが難しくなっている。なんとなく流されていれば、そう悪いことにはならないだろという安心感には、何の根拠もないのである。私たちが相手にしているのは、残念ながら、良識を備えた、温かい血の通った人間ではなさそうだ。姿こそ当たり前の人間ですが、権力欲にとらわれ、人間としての心を失った別種の生き物=宇宙人、と言うより地底人ではないのか。
「集団的自衛権の建前と本音」 2015/6/13
災害(地震、噴火)、疾病(MERS、デング熱、エボラ、マダニ、手足口病、鳥インフル)、戦争(自ら助っ人を申し出ている集団的自衛権)、報道の自由の弾圧(新聞社と民放への圧力、人事への介入、NHKの事実上の支配)、福祉の削減(消費税軽減税率の本気度不足、派遣法改正、病院のベッド数削減)、それらを極右政党が支配する国内政治、という危機的状況なのに、なぜか国民の危機感が全く感じられない。これも政府の報道管制のせいなのか。国民には知らしむべからず、依らしむべし。余計なことは言わせるな。首相と官邸は古色蒼然たる戦術で政治を私物化しようとしているのだろうか。
ところで安倍訪米で、オバマは重大なミスを犯したと私は考えている。辺野古の返還で発言を二転三転させたこと、集団的自衛権で自分が好きでもない安倍を持ち上げたこと。一連の米国中心主義が、日本の国民感情を逆なでした。これから起きるのは静かな反米感情だろう。アメリカさん、ギミーチョコレートと言って縋り付いているのは、自民党議員と官民の既得権階層だけであり、国民は貪欲な米国の資本主義には飽き飽きして、白け切っているのだ。だからこそ、日米政府は共通の敵として中国を名指しにして、ありもしない危機の雰囲気を作り出そうとしているのかも知れない。
「防衛相、豪軍との協力も想定」2015/06/12
集団的自衛権の答弁の歯切れが悪いと思ったら、やはり環太平洋軍の構築に一役も二役も買うという裏の筋書きがあったようだ。そのどこが憲法遵守や専守防衛、それに「日本の存続に重大な問題のある差し迫った危機」なのか。こうなると自衛隊が中東での対IS作戦に駆り出されるのも時間の問題だろう。その時に、安倍首相はそれが国家的な危機だとでも言うつもりなのか。安倍首相の特徴は、嘘を平気でつき、しかも自らにそれが真実だと思い込み、それを押し通すという変わった神経構造にある。そこで垣間見えるのは民主主義とは対極のファシズムである。顔色の悪い番頭がそれを後押ししている。
「天声人語。憲法規範の危機」
私は安倍首相の右傾化路線は、日本にとって危険この上ないものと見なしているが、一方で、中韓の反日キャンペーンにも正当な論拠は無い、即ち殆ど言いがかりに近いと思っている。問題は今のような安倍首相の偏狭な歴史認識では、相手国が筋違いの論争を仕掛けてきても対抗できないということだ。それを安倍首相は理解しているのだろうか。胸を張って正々堂々と世界で論戦を展開しなければならないのに、それが出来ない。挙句、どこかの離島で小競り合いが起きる。そういう最悪、最低のシナリオを待っているのが実は安倍首相ではないのか。攻めてくる、攻めてくる、だから自衛隊を首相が自由に動かせるようにしたいというのが集団的自衛権。しかも、その裏の目的が米国依存と盲従。話し合いによる平和は口先だけで、玩具の鉄砲を抱えたお子ちゃまが、何時でも撃ったるで、だからどこからでもかかって来なとテンションを挙げて挑発しているという笑えない漫画を見せられているのである。
現政権が目指しているのは、常識と良識の通用しない国だ。違憲論争でも分かるように、官邸はついに学者の意見と政治家の意見は違う、政治家の意見が正しいとまで言い出した。それでは国会での議論など何の意味もない。与党が決めたことはいつでも正しい。だから、国民は批判せずに、ただ黙ってそれに従えばいい。そうすれば権力層が気の向いたときにおこぼれを頂戴できるかもしれない。このどこが丁寧な説明なのか。自民党は、議会制民主主義まで否定してみせた。国民の意志などくそくらえといわんばかりの独裁者の姿がもろ見えである。反対する者は力で蹴散らせ。自分は正しい、相手が間違っていると繰り返すだけ。これでは子供の喧嘩以下である。
「ジェブ・ブッシュの正体」 2015/6/16
最近読んだ本によると、ジェブがフロリダの州知事だった頃、ゴア対ジョージ・ブッシュの大統領選があった。ジェブは部下の女性長官に命じて、軽微か否かに関わらず反税歴のある州民6000人の名簿を作り、彼らの投票権を停止させた。他にも様々な手段で、投票を阻止した有権者の数は4万人に及んだ。その多くが黒人とヒスパニックで、民主党支持者だった。その結果フロリダでは僅か500票の差で、ジョージが勝ち、それがブッシュ・ジュニア大統領の誕生につながった。犯罪行為を意に介しない、こういう人物が大統領にでもなれば、米国の利害目的の戦争も起きるだろうし=ブッシュ父、兄には前科がある、そうなると、国民の了解も得ずには集団的自衛権の約束をした安倍首相の国、日本も無傷では済まない。まさに他国の為の戦争に駆り出されることになる。オバマの人気に陰りが見えている現在、ヒラリーが勝つという保証もない。そこまで読めないような政府や外務省なら、全員交代を御願いしたい。(後注:予備選挙の3州目で競争から脱落。撤退を表明。ところが共和党の首位はブッシュ以上に超保守のトランプ)
「キング牧師の行進とヘイトスピーチ」 2015/6/17
多少ネタは古いのだが、6/12の朝日の夕刊に、映画グローリー(原題セルマ)の広告記事があり、中で高橋源一郎が以下のように述べている。
…65年、キング牧師の指導の下、黒人たちは、アラバマ州セルマをデモ行進しました。しかし州知事はあからさまに人種差別的な暴言を吐き、警官隊はこん棒や催涙ガスで弾圧した。更に街頭では白人の貧困層が、権利を主張する黒人に憎悪や嫌悪感を抱き、暴力をふるったのです。憎しみの連鎖が起きたわけですが、この構造はまさに今の日本にもあてはまるでしょう。例えばヘイトスピーチや生活保護受給者、在日の人たちへの不当なバッシング問題などが顕著な例です。弱さを容赦なく差別したり、誹謗中傷で排除しようとしたり。本当に立ち向かうべき敵は、憎むべき誰かではなく自分が内包する弱さなのに、不満がうっ積すると、はけ口として弱者を攻撃しようとする。その風潮が日本だけでなく世界全体に広がっている…。
ネトウヨもそうだろう、自分達だって上流階級ではないのに、自分達より下の者を攻撃することで鬱憤を晴らそうとする。立ち向かうべきは、自分達を抑圧している権力層なのだ。放射能汚染という言いがかりで、学校で差別されている学童の記事も参考にしてほしい。しかも差別する者たちが、原発再稼働に賛成だったりするのだろう。
「誰の為の憲法審査会なのか」 2015/6/19
・憲法審、休み。
自民党の審査会という事はあるにしても、自分達に都合が悪いとなれば休会を勝手に宣言。最初から改正ありきの結論が決まっている審議会なら存在理由はない。
昨日の国会中継でも、集団的自衛権がないと、邦人が乗っている米艦船への攻撃を座視するしかないという例を挙げていたが、全くの屁理屈だ。どこの国の艦船=米国である必要さえない、に乗っていても、邦人への攻撃に違いはなく、個別的自衛権だけで、即ち現憲法の拡大解釈なしに反撃できなければおかしいからだ。
野党の質問で。都合の悪い質問が出ると、質問で答えているだけ。安倍首相は、自分が国民を指導する立場にあると思っておられるようだが、民意の代表者という首相本来の役割はどこかに置き忘れているようだ。
「国債買いすぎ」 2015/6/23
6/22の参院委員会の質疑では、維新の藤巻健史の質問に最も関心があった。国債発行の73%を買い110兆円もの資金を、国の借金の補てんで財政ファイナンスしているという指摘だ。しかしこれはインフレ防止のために禁止されている行為である。これは重要な指摘だ。国の予算の半分が、この赤字国債だからである。この質問に対して、いつもふてぶてしい麻生大臣は、日銀が2%の物価目標の為に独自にしていることだと開き直った。黒田総裁も同じ説明だった。黒田総裁を任命したのは安倍首相である。それに最近になって、やっと日銀と政府の見解の差が出てきたとはいえ、日銀が政府の意向と無関係に金融政策を行使してきたなどは誰も思っていない。それで押し通せると思うほど、財務大臣は国民を馬鹿にしているのか。出口戦略の時期と方法についても日銀から事実上答えはなかった。利上げできないと円が暴落すると藤巻が指摘していた。
なお共産党の田村智子の、横田基地は普天間と同じくらい密集地の真ん中にあるという事実、オスプレイで事故が多いことへの指摘もあった。また低空飛行訓練では高度30mで、それを横田でも行うのかという質問もあった。無論防衛相から具体的な約束はない。しかも首相は米軍の横田からの特殊部隊の出動に協力するとはっきり言明している。これでは日本独自の安全保障も外交もあり得ない。基地問題を解決しない限り、日本も自衛隊も、米国に従わざるを得ない。日本から米軍の基地が無くならないかぎり、日本の独立などあり得ないのである。
「クライマーズ・ハイと記者精神」 2015/6/24
「クライマーズ・ハイ」という映画を再度見て、やはり良い映画だと思った。堤真一の代表作で、遠藤憲一も好演。テーマは御巣鷹山の日航機の事故を追う、地方紙の記者の奮闘を描いたものだ。作者の横山秀夫は「半落ち」や「64」等で知られる警察小説の巨匠だが、彼は上毛新聞の記者時代にこの事故に遭遇した。記者の信念と迷い、努力とプライドを活写した出色の新聞記者小説。横山の小説では警察内部の刑事のいがみあいが良く登場しますが、この小説でも同じだ。事故の悲惨なシーンは殆どない。事故を取材した記者がありのままに書きたいと主張するのを、全権の堤が、読む者や遺族の気持ちを考えよと諌めるシーンもある。
事故原因に迫り、99%確実で、特ダネ間違いなしと思われたのを、最後の1%の確信が持てないばかりに、発表を迷う。記者の名誉心と良心の葛藤。現代の新聞記者に、命がけで真実を追うこうした根性や信念が、果たしてあるだろうか。政権に圧力を掛けられれば、昔の記者なら、逆に発奮して一層批判の刃を鋭くした。記者のプライドが、権力者の介入といいなりを許さなかった。以前記者と話をした時も、辞表を懐に入れているのは普通だと言っていた。辞表どころか、暴力団の記事を書けば、命を狙われた。振り返って現代のサラリーマン記者は、正義と真実を追う、記者にのみ許された権利を放棄しているとしか思えない。映画にも登場する、通信社の記事に脚色を加えるだけの貰い記事で満足してはいないか。
WTWで取り上げる最近の記事は、通信社やヤフーが発掘した地方紙の記事には見るべき記事が多い一方、大新聞やNHKの記事の紹介が少ないのは、決してそれに目を通していないからではなく、既に通信社の情報が十分にカバーしているからなのだ。
もう一つ、日航機の事故で気になるのは、原因が圧力隔壁の破壊であることが明確なのに、メーカーがそれを認めなかったことだ。大阪で尻餅事故を起こし、その修理が不完全だったことが直接の原因であることは間違いない。ずたずたに修理されていた隔壁がそれを物語っている。何故全部交換しなかったのか。そこには、まあ、それくらいでいいだろうという安易さがなかったと言い切れるのか。そうしたいい加減さ、福島の原発の建設と運営でも見られなかっただろうか。最近ではそういうあいまいさといい加減さが新国立競技場の建設でも見られた。ま、そんなものでいいだろうと、誰が決めたのか。何故宇宙船のデザインでないといけないのか。日本的なデザインに何故しなかったのか。恐るべき、自民党政権の見識と品格の不足、横暴ぶりである。
戦後70年で一番顕著なものは価値観の崩壊というより、むしろその風化だ。戦後の価値観が時間を経て、現代の若者には、そのままでは受け入れがたいほどに老朽化している。しかもそれに代わる新たな価値観(生きがい、人生観と言っても良い)は未だに生まれていない。しかも戦後生まれの中高年の権力層が、こともあろうに2世代も前のカビの生えた皇国史観を持ち出している。時代の変わり目には、懐古的な思想が取り上げられることもある。ルネッサンスがそうだ。しかし日本のそれは、権力層の既得権への固執が目的だから、たちが良ろしくない。そこにあるのは、次世代への理想ではなくて、自分達の利害への関心だけだ。
分かり易い例で言えば、美空ひばりや北島三郎が退場し、フォーク世代も当時のニューミュージックでさえも消えて行った。AKBももはや賞味期限が切れている。彼らは基本的な音楽のセンスや発生の訓練も受けておらず、長続きするようには出来ていない。短い期間だけ、アイドルの役を勤めれば、後はご苦労さんで、廃棄(卒業)と交代が待つのみ。強制的に卒業させられた後で、タレントとして残るのは一人か二人。人材の消耗品だ。要するに大衆芸能の世界でも本物は少なく、本物の才能を育てる気もない。
そういう大衆文化の空白地帯は歌謡界だけではない。いま毒キノコのように現れ、TV画面を席巻しているのが、人格・教養共に大きな疑問のあるため口の若手芸人達だ。お笑い芸人の出身者がこともあろうにニュース番組の司会(MC)に収まって、レベルの低い意見を述べ立てる。中にはまともな者もいないわけではないが、それは極めて少ない。女優出身者についてもそれは同じだ。政治・経済・社会の基本的な教養さえ怪しい人が多い。でもそれは本人の責任ではない。彼らにはそういう高度な教育を受ける機会がなかったのだから。実はこの状況こそ、は権力層にとっては願ってもない状況なのだ。問題の本質で、彼らを批判する者は少ないほど都合が良いからだ。
更にここでも文化的な老害が幅を利かせている。今後私は老若に関わらず、そういう似非(えせ)文化人、似非有識者、似非言論人、似非ヒーローを批判してゆくつもりだ。無論、現政権に代表される、意識の老朽化した戦後の権力層も対象であることは言うまでもない。WTWが持っているのは、強固な反権力の意志であり、現状に対する不満なのである。
「自民党若手勉強会」 2015/6/27
6/26の安保法案の国会中継で、民主の寺田議員が、安倍首相を支持する若手議員(加藤副長官、萩生田議員を含む)の懇話会(勉強会)を取り上げ、百田や議員たちの暴言を指摘したところ、首相の顔色が変わり、返答に詰まるというシーンがあった。沖縄の人達は顔から血が引くほどの怒りを覚えたことだろう。沖縄慰霊祭で首相に対する市民の怒りを一切報道しなかったNHK=政府御用放送局だから、今回もニュースでは無視するかと思ったら、さすが国民の目に一部始終が分かっているので、さりげなく報道し、しかも首相に有利なシーンのみを流し、いかにも大した事は起きていないかのような印象を与えようとしていた。一方で辻元議員が同じ問題をなぞったのは、反撃の機会を与えただけで、むしろマイナスだった。
ところでこの話にはおまけがある。当日深夜の「朝まで生テレビ」に出演予定だった自民党議員と、公明党の議員までが、寸前にドタキャンをしたのである。このどこが自由と民主主義の自民党なのか。官邸の言論統制はもはやなりふり構わぬところまで来ているのだろうか。
なお沖縄については、BS朝日の「19歳が見た沖縄の戦争」という特番が出色で、基地前に座り込む老人たちの血を吐くような声など、絶対にNHKでは報道しないシーンも放映された。いまのNHKは芯から腐っており、もはや放送庁。視聴料を払う気はしない。国民が費用を負担しているのに、国民に顔を向けた放送局にはなっていない。政権の為の放送局なら、自民党の費用で運営して貰いたい。朝生の中で、荻上チキの、こういうことが懇話会で話題になるということは、日常的に与党の中で話し合われているからだろうという予想は説得力があった。また今回は欠席裁判とは言えない、自分で出席を放棄したからだという指摘ももっともだと思う。
いま日本の政治は風雲急を告げている。無論すべては安倍首相の極右体質に起因するものだ。各省庁は、これまでできなかったことを、いまのうちにやってしまえとばかりに、ガンガン推進し、そのために安倍政権を一生懸命盛り立てている。防衛省(制服組を含む)また然り。でもそれは安倍首相個人への崇拝とは違うはずだ。相手が誰でも、言う事を聞いてくれる政治家なら良いはずである。
庶民の不満の声など踏みつぶすのはたやすい。一通り説明すれば、あとは無視すればいい。議論は尽くした。だから採決に持ち込んで何が悪いというわけだ。それでも一応世界の目がある。あからさまな圧政や独裁では気が引ける。だから民主主義を気取るために、国会で意味のない説明を繰り返す。何故国民の9割が分からないのかと言えば、それは分からないように説明しているからなのだ。分かってもらっては困るのだ。本音を出したらさすがに反発されると思っているからである。嘘を押し通してでも、なんとしても法案を成立させなければならない。幻想、もしくは妄想にとらわれた人を国家の要職に置くことは、国家の自殺行為だ。これに一番近い例はやはりヒトラーだ。戦後70年で再び日本は全体主義の国家になろうとしているのだろうか。そのどこに戦後の反省があると言うのだろう。
安保法制はいかなる手段を講じても自民党は押し切るつもりだ。国会延長は悪者のイメージを少しでも緩和するための手段でしかない。今回の懇話会の情報流出は、政権にとっては大ダメージだ。即ち一番知られたくない本音が突然、国民の前に曝されたからである。
「偏狭で無責任なネオ保守」 2015/6/28
今の日本における最大の問題点は、固定観念(偏見)と偏狭さである。これは安倍政権発足後、かなり早い段階で、知識人が指摘していることでもある。安倍政権と菅官邸になってから、国民が自由に持つべき価値観や歴史観、思想や生き方の選択が、堅苦しく、狭苦しく、息苦しい状況に置かれるようになった。リベラルという言葉が、自民党内では、左翼の一言で、悪の代名詞のように片付けられている。民主党などは、到底左翼などと言えるような代物ではないのにも関わらずだ。歴史も政治も勉強せず、未熟な自分達が数合わせで選ばれたことさえ分かっていない若手の議員たちが、安倍総統万歳を繰り返している。そのどこに戦後の民主主義があるのだろう。いやナチスと自民党のタカ派議員はどこが違うのか。国民の意志を踏みにじり、自分達の価値観を押し通すことが政治の王道であるかのように思い込む。彼らは、安倍首相が支持を表明している、ネトウヨの議員バージョンなのかもしれない。
既に勉強会で発言した議員の実名も分かっている。彼らに辞任を迫る必要がある。政権の幹部である萩生田議員も加藤副長官も同罪だ。保守という居心地のよい場所で、タカ派の気炎を上げていれば、自分がいっぱしの国士になったような気分になっているのかもしれない。でも自分の身さえ正しく処せない者に、国を憂える資格などないのである。
人間は基本的に保守的な生き物だ。保守の意味は現状維持であって、いまの生活に満足している人も、満足はしていないが、これより悪くなることを恐れる人も、等しく現状維持を願うという意味で保守派である。だから保守派はいつの世でも存在する。誰もぬるま湯から出て風邪を引きたくはない。だから保守の思考そのものをいくら責めても問題解決にはならない。しかも保守主義は現実主義、実利主義でもある。今を生きる人たちにとって、来るかどうか分からないバラ色の明日より、たとえ灰色でも今日の生活の方が大事なのだ。だから現実主義を否定すると、議論は物別れになる。空想的共産主義の末路、学生運動の衰退を見るまでもない。中国が経済で資本主義を取り入れた理由もそこにある。それは実利を優先した現実主義だからである。
これだけ閣僚や議員が腐敗し、首相が国見の意に反して暴政の限りを尽くしながらも、政権が倒れないのは、安倍政権が現実路線を取っているからだ。ネトウヨ議員が威張り散らしているからではない。原発事故直後のような、自由でリベラルな議論は影を潜め、言論が窮屈になってきている。無論その原因は、政府によるあからさまな言論統制であり、その意向に従う新聞・放送局、中央と地方の行政機関の存在だ。しかし、こういう官邸=政府が実際にしている事と、首相の説明が180度違っているのに、誰もそれを指摘さえしようとはしない。
話を戻して、安倍首相の一強体制が、これだけの思想的、言論的不祥事を起こしながらも、何故継続しているのか。そこには少なからぬ国民の、「他に選択肢がないから、しょうがないじゃないか」という判断がある。無論財界、官界が積極的に支持している背景もある。但し彼らも、安倍政権で商売に支障があると判断すれば、さっさと去ってゆくだろう。日本の産業界は安倍首相の思想傾向に関心はない。但し文科省、外務省、防衛省を初めとする行政組織の中には、以前からナショナリズムの傾向を組織として色濃く持っている要素があるので(しかもそれがエリート意識と結びつく)、安倍首相の極右思想に共鳴する人たちも居る。悪い例が教科書の検定問題である。
安倍に代わる首相はなく、自民党に代わる政権はない、米国に頼る以外に日本の安全保障の途はない、だから、「いろいろ問題はあるにしても」安倍政権しか選択の余地はない。いわば背に腹は代えられないから、安倍政権を容認している。それが日本のいまの姿だと思われる。ここで何が問題かといえば、それは危険性を予感していながら、それを見て見ぬ振りをしていることにある。安倍首相の進む方向の先には、何かよからぬことが待ち構えているのではないか。いつかは隣国と間で戦争が起きるのではないかという漠とした不安があるにしても、そんな事はすぐには起きないだろうという根拠のない安心感で自分を納得させている。それが多くの国民の心境ではないかと思う。
但し、私は景気回復がうまくいかないことで、安倍首相を責めるつもりはない。間違いなく彼は努力をしているのであって、そこは彼以前の首相とは明らかに違う。正直言って、日本経済が立ち直ったら、それを唯一の成果として、安倍首相には花道を飾って去って欲しいと願っているくらいなのだ。問題は経済を刺激するかどうかではなく、その方法にある。財政では禁じ手の、日銀による国債の購入が続いていることが問題なのだ。財政の半分を国債発行で賄うというのは、戦時中でもない限り、あまり例のない不健全な財政である。紙幣の代わりにじゃぶじゃぶと国債を印刷して、いわば将来の日本から借金して、やっと国が回っているのだ。信用だけで、巨額を貸し付けているようなもので、破たん前のリーマンと同じだ。根拠がないのに、信用する。そういう国の財政が最後に当てにするのは、国民の資産=預金だ。ついに国が破綻するという瀬戸際になったときに、国民が自分の資産をはいどうぞと全部国に寄付して、初めてこの国の財政が元に戻るのだ。
そういう正体の分からない信用だけで支えられている国の経済。これはインフレやバブルの潜在的要因であって、私は株価が上がったという話を聞くたびに、今日がバブルの頂点か、それとも明日かと(自分では債券投資をしていないにも関わらず)内心で冷や冷やしているのである。
いまの日本の産業は、いつ潮目が変わるか分からない円安に支えられている。融資政策は、資金を使って企業が設備投資をし、生産や雇用の拡大に結び付かない限り、経済効果にはならない。でも肝心の実需が回復しているようには思えない。経営者も事業拡大に自信があるようにも思えない。利益は円安がもたらしたものだ。製造と消費が共に伸びる実体経済が改善しているとは思えない。国民の可処分所得が減って、人口も減っているのだから、基本それは無理だろう。しかも売り上げが増えているのは高級品だけであり、それはバブルの前兆でもある。食品などは、原材料費の値上がりから、値上げになっていて、庶民には一層買いにくくなっている。金融資産の多い富裕層だけの金あまりであって、平均的国民の生活は相変わらず苦しい。
日本人の先入観という話に戻ると、米軍に頼るしか、「現実的な」安全保障の途はない。だから沖縄の基地も容認するし、自衛隊もどうぞお使い下さいと差し出す。「だって他に選択の余地がないから、仕方がないじゃないか」。でも本当だろうか。いくらでも他に安全保障の途はあるのではないか。ただそれを考えようとしないだけではないのか。何故国連軍を活用しないのか。何故米軍でなければならないのか。ロシアや中国ではなぜいけないのか。この問題で何が悪いと言って、政治家や高級官僚の(特に既得権側の)思考の放棄と、言い訳体質に問題がある。現状維持は、なにも考えずに済むから楽なのだ。責任も取らずに済む。保守特有の安易さがそこにはある。こういう状況を昔は日和見主義と言った。でもそれでさえ、今では死語みたいなものだろう。しかしその態度のどこに、いまより日本を良くしていこうという意欲が感じられるだろうか。すべてが現状を追認するための、言い訳であり、負け犬の思想である。そのような国はいかなる形であれ、リーダーになる事は出来ない。一生どこかの国に隷属して生きてゆくしかない。責任感の伴わない発言や掛け声は、聞くだけ時間の無駄である。首相の空疎な説明や、ネトウヨ議員のヤジのように。
「アベマゲドン」 2015/7/1
それにしても事故が異常に多い年だす。経済的、宗教的、民族的な差別が人的な問題と非道の背景にある。ISの残虐な行為、いままた米国で再燃しそうな人種差別。しかし差別感は人間が本来持っている根源的な性質なのかもしれないのである。だから機会さえあればいつでも暴発してしまう。正義も愛も、そして最も大事な平等感のない世界。混乱と迷走の現代世界。正気で理性のある人間が結束して、この事態に立ち向かわない限り、人類も地球も滅びてしまうかもしれない。そして閉塞感から、過激な思想だけが喧伝される、人心が不安定な時期にあっては、得てして新興宗教や、自称救世主を名乗る偽物が現れがちだ。だから市民は、不公平、不平等に怒りを感じると同時に、理性と冷静さを持ち続けなければならない。
世界が本当に危ない崖っぷちに向って動きはじめていることを警告したい。格差と閉塞感、資本主義と管理能力の限界からくる世界経済の行きづまり、特効薬のない伝染病の蔓延。飛行機や列車など大量輸送機関の事故の多発。しかもそれは技術力と制御力の限界=気の緩みによるものだ。台風や地震や噴火がそれに輪を掛けている。しかしそれらは少なくとも人為的な災害ではなし。一方で原発は人為的な災害である。
しかも何より問題なのは、紛争解決の為に武力を行使する、或は紛争抑止の為に武装と軍事連盟を強化する冷戦の思想である。それはキューバ危機のように、一触即発の危険性が増すことを意味する。しかもいつも冷静な判断力と正確な決断力を備えた者が政権の座に居るとは限らない。
元財務相の藤井が早朝の座談番組で、集団安保に反対する理由として挙げたのは、それが対等な日米の軍事同盟だからだと語った。軍事同盟である以上、世界のどこでも戦うことが前提となる。国民は、安倍首相の筋違いの説明で納得したり、騙されたりしてはならない。米国の艦艇が日本人を輸送する場合だの、ホルムズ海峡の機雷掃海など、ありもしないような特殊な事例で説得出来ると思うくらいに、政府は高を括っている。安保法案が成立すれば、自衛隊は自国が攻撃された時ではなく、他国の為に=だって同盟国だ、戦場に向かう。誰が考えてもおかしい。合憲どころか、戦争放棄の憲法に完全に違反している。議論が進まないのは、安倍首相が本音を言わずに言い訳だけをしているからであって、本音を言ってしまえば、憲法改正しか合法的な手段がない事を認めざるを得ないからだ。しかも国民投票をすれば自分達が負けることははっきりしている。集団的自衛権が後方支援で終わらないことは、南シナ海での自衛隊の動きを見れば一目瞭然である。
格差が原因で起きる紛争と虐殺。人々が良識と理性と思いやりを失い=要するに人間性を喪失し、互いにいがみ合い、好戦的になり、やがては大量破壊兵器に手をつける。映画で見たような世界の崩壊が現実のものとなる。これを止められるのは良識を備えた市民が連携して、決然とした行動に出る時だけだ。利権で目の曇った政治家に、正義や平等という当たり前の判断力を期待する事は難しい。今世界中で求められているのは、政治家や権力者のより強い支配力ではない。彼らの辞書には自己否定と言う言葉はない。不公平感を強く感じている一般民衆の力だけが世の中を本当に変えることが出来る可能性を秘めている。勉強し、意見を交換し、政治に世論を反映させるべく運動を起こす。自宅の前に、自作のポスターを掲げるだけでも良い。世論を無視する政治がまかり通るのが今の日本の実像だ。これを独裁政治と言わずして何と言ったら良いのだろう。本来は、そういう市民運動を取り上げるのがマスコミの使命なのだ。
大西のような議員が同じ発言を繰り返す。ならば自分がFBに書いたことさえ嘘だったということになる。これは自民党が失言を繰り返せる状況にあるということだ。自民党の謝罪も反省も本心ではないことをはっきりと示している。ファシズムの本音を麻生がついうっかり漏らしたこともある。安保法制反対の集会に集まった国民は3万人。しかも国策放送局は、まともにそれを報道しようとさえしなかった。正気な頃のNHKならデモの直後に安保法制の特集番組を組んでいただろう。さすがに民放はリベラルな立場で報道しているが、NHKと民放では影響力が全く違う。僅かに深夜の「生さだ」だけが、抗議の葉書を取り上げていた。またNHKは国会中継せよという投書もあった。でもそれらは一部職員のささやかな抵抗で何とか実現したのかもしれない。ところで安倍首相の側近はなぜか不思議に印象が似通っている。麻生、籾井、下村、萩生田、大西等々はその表情と言い、言動と言い、知性も品性が全く感じられないのである。
「安保法制、重鎮が一斉に批判」 2015/7/5
【7/3付けの週間朝日から】
村上誠一郎「砂川判決は、在日米軍基地が憲法上許されるかが争われた裁判。集団的自衛権が争点でない事は誰でも知っている。砂川判決から集団的自衛権を読み取れる目を持った人は、眼科に行った方がいい。14年の国家公務員法の改正で600人の官僚幹部人事が官邸に握られた。これで官僚たちは、政権に対して正論も本音も言えなくなった。外堀はすでに埋まっていたのです。自民党の議員も小選挙区制になってから誰も意見を言えなくなりつつある。公認権と資金を党幹部が一手に握ることになり、執行部に反対意見をいいづらくなっているからです」
河野洋平「憲法は9条によって専守防衛であることは明らか。他国が攻められているところに出て行くのは、9条をどう読んでも解釈出来ない」
亀井静香「昔は自民党も、地元のしっかりした支持の上に乗って当選していたが、いまは風に乗っただけという国会議員が多い。不安だから肩書がほしくなり、党の方針に反対しないことなかれ主義が横行する」
小沢一郎「憲法9条の理念、原則、解釈をきちんと打ち出さず、なし崩しのまま、安保法制議論を進めると、結局なんでも出来てしまい、非常に危険。憲法があってもなくてもよくなってしまう」
山崎拓「集団的自衛権を解釈改憲で強引に解禁して、功名心に酔っているように見える。安倍首相のようにヤジに過剰反応し、議論でヒステリックな対応をする人は、実際に有事が発生した時に的確な判断ができないと思います」
田中秀征「このまま安保関連法案が強行採決されれば、歴史的な間違いが起きる。いざという時、国民の協力が得られない。安倍首相は解釈改憲で、国民との議論から逃げている。祖父の岸伸介さんはそんな事はしなかった。反対運動を真正面から受けて立ち、国民を巻き込んだ大論争が起きた。安倍首相の目指すものはなにか。それは米国との軍事的一体化に見える。これでは日本は独立国ではなくなる。独立の気概。それこそが保守政治家の生命線ではないか」
村上正邦「PKO協力法案が出来た時も3国会をまたいで審議した。いくら一強他弱の状況でも、今国会で成立させようというのは無茶。昔の参院自民党は衆院側に厳しくもの申す党内野党だった。そもそも無残な敗戦を経験していない議員が、緊迫感もなく議論するから、無責任になってしまう。ポツダム宣言も読まずに、戦後レジームからの脱却などと、良く言えたものだ。答弁席からヤジを飛ばしたり、早く質問しろと言ったりする。安倍さんは言葉が軽い。口舌の徒だ。失言も多い。すべてを多数原理で決めようとするので、食い止めるには草莽決起しかない。世論を喚起し、大規模なデモで国会を十重二十重に取り囲むしかない」
「安倍首相のわがままに何故国民が付き合わされねばならないのか」2015/7/4
・国会前で憲法学者が次々反対訴え。
目的の為に手段を選ばずという言葉がある。安倍首相のしていることはまさにそれであろう。まず自分の権力基盤を強化するためだけに、誰が考えても無駄な衆議員選挙を強行した。その当時、既に人質事件が起きていたが、そんなことは念頭にもなかった。この選挙は勝つことを前提に行われたもので、民意を問うという説明そのものが大嘘だった。しかも何の民意かというと、消費増税(しかもその延期だけ)を問う為の選挙だとぬけぬけと言い放った。延期を反対する者はいないし、仮に反対すれば、それは消費増税を肯定することになる。脅迫に近い言いがかり選挙。国民をだますための選挙だった。この国民をだまして国を自分の思い通りに動かすというのが、いまに続く安倍首相の一貫した姿勢である。
しかも今頃になって、その時マニフェストには集団的自衛権も書いておいたと開き直った。選挙運動ではただの一言も触れていないのに。国民をだまし討ちにしてまで、安倍首相は何を目的に暴走を繰り返しているのか。それは後で指摘するが、彼は「本音」を絶対に言わない。多分言わないことに決めているのだろう。なぜなら不要にそれを発すれば、国民が反発することを痛感しているからであり、彼は一度それで失敗しているからである。
即ち自分の(誤った)政治理念を実現するためには、国民の反対を徹底的に抑え込むことが必要であることを学習したのだ。最初の一歩から、民主主義を否定し、独裁政治、全体主義の方向に舵を切っていたのである。そしてまず政官に都合の悪い情報を国民の目から合法的に隠すために秘密保護法を成立させた。国民が余計な事を知らない方がコントロールしやすいからだ。次にしたことはメディア(マスコミ)の弾圧だ。即ち徹底的な言論統制の始まりである。
財閥系グループ内のお荷物で、性格でも歴史観でも品格でも問題の多い人物を、NHKのトップに据えた。しかも自分が任命したわけではないと言い放った。そこで国会で醜悪、かつ無駄な茶番問答が繰りかえされることになった。ここまで叩かれれば、不通の神経なら辞任する。でも首相直々のご指名なら、どんなに万民の前で赤恥をかいても止める訳にはいかないのだろう。
次に自民党は民放に手を出した。萩生田とかいう八王子選出の取り巻きが、お触れを出したのだ。政権を批判する街頭インタビューはまかりならん、意見を公平に伝えよと言い出した。この御仁のカジノ法案と言い、この人物の思考能力の限界にはいつも絶句させられる。。萩生田の通達が何を意味するのかと言えば、ランダムに街頭インタビューして5人の内一人が政権やその政策を支持して、4人が反対の場合でも、それを同数として扱えと言っているのである。要は数字を変えよというのだ。目的は世論操作だ。しかも呆れたことに、NHKは基本的に今でもその指示を守っている。
しかしそのうちに安倍政権を支持する通行人が一人もいなくなったら、どこから賛成意見を見つけてくるつもりだろう。しかも首相の演説はニュースで真っ先に取り上げる癖に、反対意見は取り上げてもごく短時間。だからNHKしか見ない国民には世間の様子が全く分からないはずだ。政府が正しい政策を行い、国民の大多数がそれで納得しているようにしか見えなくなる。権力によるこれほど悪辣な世論操作は見たことがない。
いかに大規模な反対運動やデモが起きようとも、NHKはその取材さえしない。これは事実上の報道規制である。報道機関としての責任と義務を理解しないNHKの経営者の給料を何故、国民が唯々諾々と負担しなければならないのだろう。政権のひものつかない組織として、政権や政党や行政から独立した立場で、自由に分析や批判を行い、国民の目となり耳となる組織だから、国民が視聴料を払っているのではないのか。それが料金が強制徴収だからその上に胡坐をかいて、平気で政府の手先になっていられるのだろう。ならば料金は任意にすべきだ。私は国民が、料金の不払いどころか、籾井就任後の視聴料を、全額返還要求する、集団訴訟を起こすべきだと思っている。
更に民放には、政権批判の番組や報道にことごとくいちゃもんをつけ、重箱の隅をつついて上げ足を取り(他に議員としてすることがあるだろう)、コメンテーターの排除から社長の交代劇まで仕組んでみせた。これは報道と言論の自由に対する悪質な挑戦であって、完全に憲法違反であり、何故司法は座してそれを放置するのか理解出来ない。まさか司法は、政権与党には言論と表現の自由を保証するが、報道機関や国民にはそれがなくて当然とでも言いたいのだろうか。
自民党は、自由と民主主義の政党だという首相の説明には吹き出した。党内でさえ不自由な、国民に非民主主義の政党ではないか。公明党も、背景の宗教団体の仏教の思想とも、庶民の為の政党からも、かけ離れてきており、訳の分からない政党に成りつつある。仏教が戦争を肯定してどうするというのか。宗派は違えども、ガンジーがどう言ったかお忘れか。
安倍首相が言わない本音とは何か。選挙は集団的自衛権を通すためのものだった(ついでに原発再稼働も)。その後の言論への干渉と弾圧は、集団的自衛権を実現するための法律、即ち安保法案を通すための手段だった。国民への(わけの分からない)説明も、国会での論戦も、最初から形を整えるためだけであって、この夏に、早ければ来週、国会で強行採決する方針は既に決まっていて、その方針を変える意志など、安倍首相には全くないのである。国民がいかに反対しようとも、強行する。その何処に民主主義があるのだろう。
高村も安倍も、法案が成立した後で国民が理解する場合もあるとさえ言い出した。国民が理解しない、認めない法案でも自分達の一存で採決すると言ったのだ。納得しなくても賛成せよ、なぜならお前たち愚かな民衆には先が見えない、俺たちには見えるというのだから二の句が継げない。もはや議会制民主主義さえ否定した封建制度の領主並である。また自分達の方が学者より憲法を正しく理解しているとでも言いたいのか。愚かな方は自分達で、民衆が正しい可能性があると、一瞬でも思ったことはないのだろうか。ならば英仏での民主革命は、王政を倒したならず者の暴挙であり、安倍首相はその旨を英仏のトップに告げなければなるまい。
安倍首相が目指しているのは(武力が)強い日本だ。その第一段階は、安全保障(武力)で米国の手を借りるという発想である。しかも今回は、それだけでなく日本が武力(自衛隊)で米国を支援するという発想もあり、このアイディアに安倍晋三は酔い痴れている。日本が米国を助けるのである。これこそ日米の対等な関係だというわけだ。でも実態はそれとは程遠い。単に米国の兵力の一部を肩代わりするだけなのだ。米国と肩を並べて世界平和の警察の役割を果たし、いずれは米国をも凌駕する。安倍晋三が夢見る大日本帝国の再現である。そんな安倍晋三の野心の第一歩が日米軍事同盟(安保法案)なのである。口先だけが達者な首相には、その結果、日本と日本人にどんな運命が待ち受けているのかが理解出来ているとは思えない。これを進めることで、自衛官どころか、世界中に散らばる日本人全員の命が危険に曝されることになる。なぜならそれは日本人が米国の侵略的資本主義を支援し、その経済的、武力的な先兵になることを意味しているからであって、ISを含む、ありとあらゆる反米感情の矢面に立つことになるからだ。
日米(軍事)同盟を強化しなければ、いつ何時、北朝鮮や中国が攻めて来るか分からない。米国が後ろ盾についてくれていれば、彼らもうかつに日本は攻撃できないと言いたいのだろう。でもその論理が正しいという保証がない。事実は多分逆だろう。米国を直接攻撃できないが、子分の日本なら攻撃できるというものだ。とはいえ、現状のままでも中国や北朝鮮は日本を攻撃するとは思えない。その理由がない上に、米軍の基地が日本中にあるからだ。自分の基地を攻撃されたら米軍は黙っていない。それが米軍の個別的自衛権である。また日本の国土が攻撃されたら、集団的自衛権以前に日本の個別的自衛権の世界だ。まずは自分で自分の身を守らねばならない。その理屈の整合性が取れないから、安保法案の議論は誰も(自民党議員でさえも)理解出来ないのだ。
安倍政権は虫の良い、甘い発想がお得意だ。当面は米国に寄りかかるつもりだろう。同盟を強化すれば、米国がいついかなる時でも日本を守ってくれるだろう。でもそれは幻想なのだ。そんな義理は米国にはないし、その保証もない。米国はこれまでも日本の内政に十分干渉して来た。さすがに確たる証拠はないにしても、某組織の総裁暗殺に関与したという噂もある。米国に楯突いた政治家(田中角栄、小沢一郎など)の失脚に一役買った疑いも拭いきれない。米国の関心は自国の繁栄と安全だけであって、同盟国の安全や民主主義にはさほどの関心はない。そういう国に全てを委ねようとする政治家こそ、売国奴以外の何者でもない。米国は自国の利益優先の徹底した資本主義の国である。しかも日本でも心ある一部の官僚たちはそういう米国の横車と闘って来たのである。何故そう断言できるのかと言えば、日米貿易摩当時、官民の連合で米国と闘う様子を、自分の眼で眼近に見てきたからである。米国とはつかず離れずが、最善の政策だという事を、現場の行政官や、心ある政治家は知り尽くしているのだ。
安倍政権は、そんな経験さえ持たない甘ちゃん内閣なのだ。しかも、国民の反戦、反基地感情を一顧だにしない唯我独尊内閣でもある。安倍首相の嘘は数え始めたらきりがない。女性重視と言いながら、自分自身で考えることさえ出来ないようなイエス・ウーマンを閣僚に据える。かと思えば、反対する女性議員には閣僚席からヤジを飛ばす。即ち本音は女性の人格を無視した、女性蔑視ということだ。安倍政権は虫が良すぎるし、見通しも甘すぎる。それが日本を破滅に導くことになるだろう。
WTWはもう一度呼びかける。安保法案強行採決の前に、全国民参加のゼネストをしよう。また強行採決の後は、法律を無効にするために、違憲の集団訴訟を起こして、それに参加しようと。
「千人委員会の勧め」 2015/7/10
まさかこんな時代が来るとは数年前は想像も出来なかった。一強他弱はこれまでもあった。でもそんな表現では足りない。一党独裁である。しかもその自民党がかつてなかったほど腐敗し、悪臭を放っている。不勉強で、扇情的で、国民の気持ちなど顧みないどころか、踏みにじって何とも思わない。違法献金などどこ吹く風の、ごろつきとヤクザの集団に成り下がったのだろうか。かつてこれほど堕落した、傲慢な自民党を、私は見たことがない。まさに人間性の卑しさを、自民党の議員たちから、毎日これでもかと見せつけられている思いだ。組織や構造の寡占や独占の弊害が、これほど国民に直接、悪政強を与えているのも見たことがない。言いたい放題、やりたい放題。しかも批判する者を徹底的に弾圧し、排除する。憲法の解釈を曲げるなどと言う生易しい段階ではない。国民の自由も尊厳も踏みにじる、憲法を完全に無視する政党になっている。
自民党議員だからと言うだけの理由で訴追はされず、不正が堂々とまかり通る。警察官や自衛官でさえ、破廉恥な犯罪を繰り返して、責任を問われることはない。批判さえされない。見て見ぬ振りをする社会正義のない社会が出現しているのである。その中で権力層だけが我が世の春を謳歌し、増税と雇用条件の圧迫で、国民はその日暮らしの生活にあえいでいる。明日に希望の見えない閉塞感が、社会的弱者を追い詰め、自傷や他傷の、やり切れない犯罪を次々に引き起こしている。
安倍政権は富国強兵の時代錯誤の目標を掲げて、戦時中でもないのに、ありもしない危機感を煽り、恐怖で国民を支配し、自由と言論を統制する。戦前どころか、封建時代に逆戻り。常識も正義も通用しない、知性も品格もない社会。閉塞感と絶望の時代がそこにある。
それでも私達に出来る事がある。それは集まって、反対の意志を表明することだ。
「報道されない辻元の質疑」 2015/7/11
7/10の国会中継は、午後の辻元議員の質疑が出色だった。と言うのは、午前中の、重箱の隅をつつくような、国民の感覚とは程遠い不毛な議論と違って、ズバリと二点を指摘したからだ。それは安保法案と新国立競技場のいずれからも、国民の反対や疑問があっても、何が何でも押し通すという安倍政権の無理な姿勢を感じるということだ。菅長官についても、最初は、集団的自衛権が合憲だと言いつつ、学者が反対すると、数の問題ではないと言い出すなど、説明を勝手に変えている点を指摘した。最初は苦笑していた両人も、答弁ではしどろもどろ。そして大事な事はそれを全ての国民が自分の目で見たこと、少なくもその機会があったことだ。但し本件はおそらくTVも新聞もまともには取り上げようとはしないだろう。
(7/11追記)
予想通り、NHKは7/10の委員会での辻元議員の質問と、その回答で狼狽する首相の姿を一切報道しなかった。これが堕落し、腐敗した、NHKの報道局の姿である。
・新国立でも党内の異論封じ
またもファシズムの親衛隊長、萩生田。こういう人物が側近にいるというだけでも、首相の人格を疑うには十分である。
ところで、いま最も影響力のあるメディは何か、皆さんはお気づきだろうか、それは朝日でも読売でもNHKでもなく、ヤフーだと私は思う。自分では取材しないので、通信社とも違う。通信社や新聞の情報を右から左に流しているという点ではWTWと同じだが、私のような家内制手工業ではなく、記者経験者も複数抱えていて、情報収集能力が違う。
なので WTWは(過激で)抵抗感があると言う方は、(代わりに)ヤフーをご覧になって頂きたい。一面だけでなく、画面下の記事一覧から入って、全体を俯瞰して欲しい。但しヤフーの価値観は中道右派のそれなので、共同ニュースや時事も合わせて読まないと、世間の本当の姿は分からない。
「安倍首相が国民に回す恐るべきツケ」 2015/7/12
それは国家主権の放棄と米国の属国化である。
・首相、安保の審議打ち切り示唆。
解説:ならばひとつだけ問う。国民の大多数が反対しているのに、なぜ強行採決するのか。この質問にだけは真面目に答える義務がある。しかし、どうせ繰り返すだろう表向きの答えは分かっている。集団的自衛権=というより正確には日米軍事同盟は、日本の安全にとって絶対必要だというものだ。それは日本を取り巻く国際環境が変化したから、切れ目のない防衛体制が必要だからというものである。
ところが国際環境がどのように変化したのかの具体的な説明はない。中国と北朝鮮が、直ちに日本に攻めてくるようには、素人目には見えないし、来るぞ来るぞ、大変だ、だから先制攻撃だというのは、先の大戦で日本が泥沼の戦いに入り込み、300万人が無駄で非業の死を遂げた時と同じ理屈だ。国民がそんな説明で納得するはずはないのだ。しかも当時は個別的自衛権で、集団的自衛権さえなかった。今は地域が地球全土に広がっている。自国が攻撃されなくても、同盟国たる米国がどこかで攻撃されれば、友軍が困っているのだから、自衛隊は馳せ参じなければならない。例え最初に戦端を開いたのが米国であってもである。支援要請さえあればどこへでも行かざるを得ない。三要件があるから(それさえ公明が主張しなければ存在しなかったのだから、これは本当に恐ろしいことだ)、大丈夫だと二言目には安倍政権は言う。でもその三要件は曖昧な言葉を二重三重に塗りかさねた正体不明の文言であって、有事にはいかようにでも解釈できそうな代物に過ぎない。いかようにでも解釈できるからこそ、国会答弁でも、ありそうもない空想の事例ばかり持ち出して、説明にならない説明を繰り返しているのである。
政権はこんなにも重大で、しかも影響の大きい、事実上戦後の日本の平和への努力を全部ひっくり返し、無に帰するような【軍事同盟】を、首相の個人的な歴史観・価値観だけで米国と【勝手に】約束してしまった。これまで首相がダラダラと言い続けてきた、気持ちのこもらない不戦や平和の、国民への約束など(よくも沖縄の慰霊の日や、終戦記念日の式典に参加して、発言出来たものだ)いくら踏みにじっても、痛くも痒くもないのだろう。でも米国との約束を違えれば、安倍晋三は、はいそれまでよ、なのである。何としても強行採決するしか、(米国の属国としての)日本のトップとして生き残る道はない。丁寧な説明も深い国会審議も、安倍首相にとっては茶番であり、真面目に議論するつもりなど毛頭なかったのだ。だからヤジも飛ばすし、怒りもあらわにする。これは幼児の心理と同じだ。そういう審議だからこそ、国民にとって茶番なのであり、国民がそれを茶番だと思っていることさえ、安倍晋三氏は理解出来るだけの能力を、どこかに(多分大学に)置き忘れてきたのだろう。
いまや首相は、日本という国にとって、生ごみのような存在である。大きなゴミの周りには小さなゴミが集まる。そうしてやがてはドブや川が詰まり、悪臭を放ち、汚水が街に溢れ出すことになる。これは日本全体のシン・シティ化であり、それゆえ今後も他傷・自傷の犯罪が急増するだろうことを断言できる。日本を覆う空気が閉塞感に満ちており、言論も不自由になり、しかも平等や思いやりや正義ではなく、倫理観が失われ、金と権力が幅を利かせる世の中なのだから、当然そうならざるを得ないのだ。
米国にとって、自国の権益の為に、身体を張って太平洋地域を共同で守る重要な同盟国日本。それは米国と対等になりたいという悲願の安倍首相にとっては、避けては通れない道筋かもしれない。米国から独立することを前提にした一時的な同盟というわけだ。でもそう事が思い通りに進むと誰が言ったのか。米国が自分いいなりになる子分を、そう易々と手放すとでも思ったのか。ここには大きな罠がある。無論首相は自分でもとっくに知っている(だから確信犯)だろうが、それは無視するには余りに大きな危険性なのだ。今度ベトナム戦争のような事態が、仮に中東やパキスタン、アフガンなどで起き、米軍が派兵する事態になったら、例えそれが米企業の利益を守ることが目的の戦争であっても、日本は知らない、関係ないではすまされないということなのである。極端な場合、米軍は風邪を引いて具合が良くないので、ここは一つ、自衛隊だけで行ってくれないか、武器とミサイルは供与(但し無償ではない)するからと言われる可能性がある。その時、安倍首相は存立事態だから、やむを得ないと言って自衛隊を送り出すのだろうか。土手の小さな穴から水が噴き出して、否応なく日本人が戦闘に巻き込まれる。大事な同盟国が戦っているのだ。しかもアジア太平洋地域の安全と平和の為(建前では)にである。見過ごすわけにはいかないだろう。しかも首相が米国議会で大見得を切ってしまっているのだ。
三要件で言えば(これでさえ政府は守る気などなさそうだ)、同盟国への攻撃は日本の存立事態に関わることになる。この存立事態という曖昧な表現は、いかようにも解釈でき、政権が好きなように運用できてしまう。それが安倍首相の狙いだろうと思わざるを得ない。なぜなら、国会ではそうは言っていないといくら主張しても、危険な保守反動の思考傾向を持っている事を、あちこちで言い残しているからだ。個人の価値観と異なる政治的判断などそう長く続くものではない。
そういう危険思想の持ち主を、国のトップに据えれば、いつ何時、本音の方で行動してしまうか分かったものではない。ネトウヨを支持するというだけでも、平和主義、民主主義の国のトップには相応しくない。ネオナチを支持すると言えばメルケルなら即座に失脚するだろう。建前だけを繰り返し言っていれば(それもさすがに最近は飽きてきたからの強行採決だろう)、国民が納得すると思う方が余程甘い。愚かで甘いのは、国民ではなく首相の方なのだ。
国際情勢の変化さえ理解出来ない国民は愚かだから、自分達で仕切ってやっていると言いたいのか。憲法の解釈さえまともには出来ない人たちが、自分の方が国民より頭が良いと言うのだろうか。ならば一度でいいから、国民が納得できるような説明をしてみたらどうか。無理な説明、不完全な説明、筋の通らない説明だから理解されないのであって、それで事足れりと思っているのなら、国民を愚ろうするのもいい加減にして欲しいものである。
現状の正しい理解というのはこういうものだ。米国は日本に太平洋地域での安全保障の応分の負担=肩代わり、を求めている。その時に地域的な制約があっては困る。それだけである。集団的自衛権に前のめりの安倍首相は、場合によっては中東での共同作戦に参加せんばかりの勢いだ。そこには友好国のインドやトルコもある。でも米国としては、それよりは中国、北朝鮮、ロシアなどに不穏な動きでもあれば、不沈空母として真っ先に動いてほしい、しかし当面はそれ以上は期待できないと思っているはずだ。
安倍首相から見れば、この状態は、後ろに世界最強の軍隊が付いていてくれるのだから、相手が中国だろうが、ロシアだろうがどんと来いなのである。安心して大見得を切れると言うものである。ではその大見得とはどいうものか。「中国さん、お控えなすって。もし尖閣に上陸するというのなら、自衛隊が黙っておりやせんぜ。しかもあっしにはアメリカさんという強い用心棒の先生が、ついていなさるんですぜ」。
しかし同盟関係は、兄貴分と弟分が、政治経済の体制と価値観で同じものを共有することが大前提であって、米国のそれは侵略的な資本主義と自国の利益優先の思想だ。だから共に行動することが必ずしも日本の利益にも、平和の理念にも一致しない。TPPがその一例である。ひとたび二国間の利害が相反すれば、弟分は兄貴分の言う事に一方的に従うしか道はない。
これでは51番目の州になった方がまだましである。なぜなら、それなら少なくもいまのような不公正な選挙ではなくなるからだ。平和を希求するということは、自分の身を犠牲にする=後藤さんのように、献身的な努力が必要なのに、国民の眼前にあるのは、見栄を張りたがり、戦争ごっこに浮かれている幼児のような政治家の姿である。
「戦後70年、残ったものは軍事同盟」2015/7/14
安倍首相と日本会議。利権を背景に日本を大戦に引きずり込み、その後の反省が全くない人たちの子孫が、また日本の軍国主義化を推し進めている。辻元議員は、東条英機の開戦の宣言に岸信介が名を連ねていることを、それとなく国会で指摘した。自民党の党内でさえ、専制政治と恐怖政治で自由な議論が押さえつけられている。安倍首相の偏向した価値観に同調するものだけが重用される。首相と官邸が政官の人事を掌握する専制国家の誕生だ。
違憲の安保法案は、国民に納得できる説明が全くなされないままに、自分たちの都合だけで、国会での議論が打ち切られる。国民がこれだけ反対しているのに、その事実にも全く触れようとはしない。国会で多数を占めているというだけの理由で、憲法違反を承知のうえで、強行採決する。国規模で反対運動が起きているのに、NHKをはじめとする報道機関には、それを報道させないように手を尽くしてもいる。いまは安倍と菅による、日本の民主主義の闇黒時代なのだ。海外派兵も徴兵制も時間の問題である。
将来、日本でも自由な言論人はみな投獄されるのだろうか。しかも専門家のほぼ全員が違憲だと言っているのに、政治家の、それもあまり頭が良くない人達のほうが、学者より憲法に詳しいとでも言うつもりか。自分たちがしていることに無理があることは知っている、だから後ろめたいので、反対されるといきり立つしかないのではないか。
一部権力者のために、あるいは自分の愚かな見栄を守るために、この際、国民の反対など知ったことではない。それは大戦の時と全く同じ状況です。反対するものは敵だろうが味方であろうが国賊でひとまとめ。天皇皇后両陛下は、誰が見ても安倍政権には(しかも強く)否定的である。安倍政権はそういう両陛下の意向を汲み取るはおろか、真逆の政策を推し進め、いわば昭和天皇に軍部が歯向かった当時を再現している。即ち天皇制さえ否定する、完全な独裁者である。
自民党の超タカ派議員たちは、民意を反映しない日本の選挙制度の不備により、民主党の凋落から、消極的選択で偶然手にした多数議席だという意識が殆どないらしい。この政党のにわか政治家たちは、とにかく自分の都合の良いようにしか解釈できない。前の衆院選挙の有権者の投票率が52%。その4割を自民党支持として、国会で多数と威張っていても、支持しているのは全国民、というより有権者の2割に過ぎない。その2割でさえ、今回の安保法案には多くが反対している。強行採決のどこが民主的な多数決なのか。
戦後70年。国民が手にしたのは大戦への反省でも、反戦や平和への誓いでもなく、軍事同盟の必要性だけを声高に叫ぶモンスター政治家なのだ。何たる皮肉であることか。
「安保法制反対集会に参加して(寄稿)」2015/7/15
学生時代の友人と2人で、”戦争をさせない1000人委員会”主催の集会とデモに参加するべく14日の夕方、日比谷野外音楽堂に行ってきました。
メトロ霞ヶ関駅から地上に出たら大通りの向かい側では、もう既に、大勢の人々が門外まで溢れるほど集まっていました。
既に音楽堂には入れず、公園内で様子を観察しながら、久し振りの友人と話しました。
大勢で入りきれない人数(1万人以上)なのか、予定より早く、6時45分から国会周辺(約35分)をデモ行進するとの放送で、1000人委員会を先頭に、他の団体、例えば、土建連合、医療連合、JRなどいろいろな職場の組合の旗が沢山ありました。年配者連れなどが多かったように思いましたが、皆和やかな感じで、手製の小さなプラカードを持ったり、鈴や、小さな太鼓、小さな団扇を持つ人などで、東京以外の日本各地からも来ていました。車道を信号に合わせて渡らせるので、ゆっくりです。デモをあきらめて横で見送りながら応援していたグループの一つに、アメリカ在住の日本人たちもいました。横5人で列を作り、塊で歩き出します。警察官も安全にわたらせるのに、配備されていました。
NHKは報道するのかしないのか?
シュプレヒコールの音頭を取る先の人に合わせて、鈴や太鼓を鳴らし、私たちも団扇を振って、戦争法案反対!九条守れ!など唱和しました。心で思っていても何も表現しなければ、反対の意思が伝わらないから、こんなやさしいデモなら、もっと近くで日常的に参加できれば良いと思います。
遅くならないように、途中で抜けて帰りました。自由な参加で気も楽でした。
「ついに強行採決」 2015/7/15
12時23分、特別委員会で安保法案が強行採決された。日本の民主政治の歴史に大きな汚点がついた瞬間である。
NHKはその時間帯には大相撲中継さえないのに、委員会の様子を一切放映する予定はなかった。これだけ国民の関心が高まっているのにである。この件は、通信社も新聞社も一斉に批判している。料金を強制的に徴収する半官の放送局は、国民が不払い運動でも起こさないと、国民のための放送局であるという本来の存在理由を理解できないらしい。しかたがないので、ネットの委員会中継に、午前中一杯張り付いたが、後半、視聴が殺到したのでつながりにくくなった。
民主、共産、維新は審議(質疑)には参加するが、採決からは退席(実際は離席)という、手法で対応した。
今日の質疑からだけでも、誰にでも分かる安倍首相の大きな矛盾点が二つあった。その一つは、安保法制への国民の理解が進んでいない事を首相自身が認め、世論調査の結果も知っているのに、なぜ採決を強行するのかというまともな質問に説明が一切出来なかったこと。自衛隊の違憲論争や、PKO派遣問題でも、当時は国民が反対していたが後で理解が得られたと首相は説明するが、維新は、それは自衛隊が専守防衛だから国民が納得し、PKOは国際的な合意の上での人道支援だったから理解したのだ、今の集団的自営権には国民が納得できる要素がないと指摘していた。
辻元議員は、国民が理解しないのに強行するのは、自分だけが正しいという思い上がりがあると指摘した。
私は、むしろそれは逆で、国民はきちんと理解していると思う。ただ同意していないだけなのだ。国民が理解していないという表現だと、自明の理なのに、国民は愚かだから理解出来ないという意味になってしまう。実はそうではないのだ。国民は政府の説明が間違っていることが良く分かっており、論理の矛盾と虚偽の説明で納得せず、だから法案に積極的に反対しているのである。
もう一つの矛盾は、砂川判決から、集団的自衛権の合憲性が導かれるとした首相のこれまでの説明である。とうとう首相は今日それを事実上撤回した。彼は何と言ったか。砂川判決と同時に自民党が集団的自衛権を否定した。それは砂川判決が認めたのは個別的自衛権だったから、その判断が自民としても当然だったというものだ。でもその後、世界情勢の変化で、集団的自衛権が必要になった。だから閣議決定で拡大解釈をしたと言ったのである。即ち違憲であることを承知で法案を推進してきたことがバレバレになったのだ。また彼は、憲法解釈は、学者の意見ではなく、最高裁の判決が全てだとも言った。ならば直ちに国民は(集団)違憲訴訟を起こすべきなのである。
もう一つ、共産党の赤嶺議員が、自衛隊がイラクで活動したときの行動基準を公開せよと大分前に要求していた。辻元も以前指摘したことがあるが、未だに黒塗りの資料しかない。集団的自衛権で自衛隊が要求される活動の目安になるから、審議に必要な資料だと再度要求したところ、中谷大臣は、全部公開する方向で検討している、時期は理事会に一任したいと述べた。赤嶺議員は、ならば理事会で検討するまで、採決はしないというのが筋だと、正論を述べた。しかし委員長の浜田が、理事会は委員会とは独立の組織であるかのように、押し切った。菅長官はだらだら審議してもしかたがないと言い出したが、だらだらになったのは、安倍政権が出すべき情報を出さなかったからだ。そして審議が尽くされず、国民が理解しないのは、安倍政権が納得できるような説明をしなかったからである。安倍首相にとって、国民の理解というのは安保法案に賛成することを意味しているようだ。反対している間は理解していないということらしい。
強行採決に踏み切るのは、安倍首相が、自民党総裁として指示しているからだという指摘に、採決の時期は委員会が決めると逃げを打った。彼が指示したから強行採決になったのに、それについても言い訳をする。うそつきの上に卑劣さまでおまけについた。
最後に公明党の若手議員が、安保法案を支持する発言を怒号の内で行い、三党の議員達がビラを手に委員長席に詰め寄る中、浜田が多数決を宣言した。
TV報道で興味があったのは、NHKは論外にしても、TBSや朝日放送でさえ、ニュースショウの司会者やコメンテーターが、法案の中身も意味も本当のところは理解しておらず、国民の気持ちとも相当な距離のあることが分かったことだ。何のことはない、政権が圧力を掛けるまでもなく、自称MCやコメンテーターには、政治や状況を理解できる能力が、元から不足していたのである。お笑い芸人やタレントをMCに起用する神経はいまだに理解できない。これではそもそもエリートを集めた官邸と、最初から勝負にはならない。
明日の衆院本会議は、さすがにどこかの放送局が中継するだろうが、今日も暑さをいとわず国会前に集結している人たちがいる。せめて水でも届けたい。今夕はかつてない壮大な規模の反対運動が国会を取り巻くことになるだろう。日本を安倍首相の好きにさせてはならないのである。
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「分かる安保法制」 2015/7/17
今日は安保法制を誰よりも分かり易く解説する。
衆院本会議で安保法案が一括で強行可決された。衆院の議席数は自民が291、公明が35。合わせて324である。議席の2/3は314なので、ぎりぎりとは言いながら、参院で反対されようとも、60日ルールで9月には再度の強行採決で(いわば自動的に)成立できる。というより成立させるだろう。
与党が繰り返す、国民の理解が得られないという説明ほど腹立たしい言い方はない。理解しない国民が悪いと言わんばかりだが、(敢えて真意が理解できないように)説明しているのだから、理解できないことこそ、正常な神経と判断力の持ち主だという証明なのだ。今までの与党の説明でよくわかった、納得しているという人は、小学生の国語のドリルをもう一度やってみることをお勧めする。
国民が理解できないから多数が反対しているのではなく、説明が納得できないから、あるいは法制の目的に大きな疑義があるから(反対)なのである。
そこで本件の経緯をずっと見てきた私から、誰にでも分かるように、法制の目的と背景を説明するが、はたしてそれでもこの法案を支持する日本人がいるだろうか。
まず与野党の共通理解として国際情勢の変化がある。端的に言えば、それは中国の軍備の増強と、北朝鮮の核ミサイルの保有だ。だから民主党でさえ、有事に備えるべしと言っている。ただし野党は個別的自衛権で対応、というより現行憲法では集団的自衛権を認めていないから、その範囲を逸脱してはならないという立場だ。与党は自衛隊がその活動範囲を拡大し、米軍との協力体制を強化しなければ、日本の安全保障は保証できないと言う。とにかく日本の安全保障のためなら憲法の拡大解釈もやむを得ないという立場だ。ともに自国の防衛のためには、軍事力の行使はあり得るとしながらも、与党は憲法を無視してでも、米国との一層密な軍事同盟が必要だという主張である。
まずここに大きな問題がひとつ。与党が、中朝の攻撃が差し迫ったものだと言うのなら、その根拠を国民に示し、情報を共有する義務がある。安倍首相は二言目には自分は国の代表だ、自民党は過半数の議席を獲得することで、国政を国民から付託されている、全権を白紙委任されていると繰り返している。この立ち位置そのものが、民主主義、立憲主義を、真っ向から否定する全体主義であることに、国民はなぜ気が付かないのか。この点では野党の反撃も到底十分とは言えない。
ホルムズ海峡や邦人輸送船への攻撃だけで、日米軍事同盟の正しい説明になっているというのが、誰も納得していない。なぜ不完全な説明で押し通そうとするのか。しかもなぜ急ぐ必要があるのか。国民に言いたくない理由でもあるのだろうか。これまでのように、米国との間で、次官レベルで、国民には言いたくない約束でもしてしまっているのか。こんな状態で誰が納得すると言うのか。自民党は自分たちが野党になったとして、この説明で、おいそれと賛成するだろうか。いやしないだろう。
なぜ急ぐのかと言えば、それは今が絶好の機会だからだ。自民党が過半数の議席を占め、公明と合わせれば2/3を占める。絶対多数を背景に、事実上なんでも政権が自由に決められる。そんな機会は今後二度とは来ないかもしれない。だから急ぐのだ。安倍晋三が自分の野心を実現する機会が、今を逃せば二度と来ないかもしれないからである。
話を戻し、なぜ集団的自衛権が必要かである。自民党は切れ目のない防衛のためであり、米国との安保体制を強化しなければ、日本を守ることができないからだと言う。その前提こそが最も大事な論点なのに、それが少しも議論されていないから、身のある議論にならないのは当たり前なのだ。安倍首相が体裁を繕い、恰好をつけようとするので、一層審議にも議論にもならないのだ。
日本が不意に中朝から攻撃を受けたら、日本に基地を置き、世界最高水水準の軍事力を誇る米軍には、直ちに反撃してほしい。これは国民の共通の願いでもあるだろう。でもそれから先が違う。自民党は、だから日本も応分の軍事協力をすべきだと言う。オスプレイも買った。米軍と共同作戦を組むためには、自衛隊も、紛争地に共に兵力を送る必要があるからだ。それでも、自衛隊の軍事活動は、絶対に憲法(とその平和主義の理念)から逸脱してはならないというのが、野党と国民の大多数の考え方なのだ。
米国はアジアで兵力を展開し、日本中に基地を置いている。それは日本を守るためではないん。太平洋を共産勢力、中国ロシアから守る事が地政学的に必要だからだ。大西洋には同盟軍のNATOがいる。ならば太平洋で、日本の自衛隊を利用しない手はない。あくまで目的は太平洋における、米国の覇権を守ることにある。太平洋のど真ん中にハワイもあるし、グアムもある。太平洋を真ん中で半分こしようねなどいう、中国の悪い冗談をハイハイと聞くわけにはいかないのである。
だから自民党は現実的な保守主義、野党は観念的なリベラルと決めつけることも、あながちできない訳ではない。でも日本を守るための先制攻撃ならまだしも、米国と他国との戦争に進んで参加するということまでは、日本国民は絶対に納得しないだろう。なぜならそれはもはや専守防衛ではないからだ。米国が理不尽に攻撃されたら、むろん日本は米国を支援するだろうけれど、その時の理由は、人道支援だ。しかも米軍が日本に基地を置いているのは米国の都合であって、日本が無理にお願いしている訳ではないのである。もし日本の要請で日本に基地を置いてくれているのなら、逆に、日本は日本の防衛方針について、自分で判断し、必要な軍事行動を米軍に指示できなければおかしい。でもそんな(大それた)ことは自民党は絶対に考えない。利用したいという考えを密かに持っていたにしても、隷属が前提の日米の不公平な関係こそが、自民党と官僚の考える(健全な?)日米関係なのだ。軍事同盟を組んだ相手だから軍事行動を共にするなど、憲法は認めていない。ここに二つ目の問題がある。即ち日米の軍事行動が一旦始まれば、その時点で日本の自衛隊には主導権などなくなるということだ。実行段階で米軍の予備軍隊という位置づけになる。米国が日本の主導権などを認めるわけがない。一朝ことあれば、決めるのは米国であり、自衛隊は米軍の作戦行動に従うだけなのである。
そんなことはない、だから公明党が無理に三要件を入れさせたのだと説明するかもしれない。日本の存立にかかわる事態の時でないと、自衛隊は海外で軍事行動に出られないというアレのことだ。でも存立事態かどうかの判断は政府にゆだねられている。安保法案が成立してしまえば、首相が存立事態だと宣言するだけで、自衛隊は直ちに戦線に出向くことになる。戦闘地帯にはいかない、後方支援だけといくら言ってみても、そんな矛盾した概念で実戦に対応出来る訳がない。その時々で都合の良いように解釈されるのが落ちだ。後になってから言い訳で取り繕うのは自民党政権の常とう手段である。それでも公明党は政府を信頼するというスタンスだ。創価学会の信者でさえ、最近では公明党の支持を減らしていると言われている。だいいち政府を信頼するに足る根拠があるとも思えない。どんなに筋の通らない説明でも、国民がいかに反対しても、一定時間たてば、議論が尽くされたと言って、強行採決する政権なのだ。そういう危ない政権に判断権限をゆだねようとするのが今の安保法制なのである。米軍が攻撃された、いや攻撃されそうだ、ゆえに存立事態だと、首相が宣言しさえすれば、自衛隊が米軍の戦場に出ていかねばならない。そこには話し合いで紛争を解決する平和主義も、専守防衛の姿勢も存在する余地などないのである。
日本が自国の安全保障を維持するための血のにじむような検討の姿勢が感じられない。武力が最後の手段だということは自民党さえ認めているのに、それを行使しやすいようにするという事は、最後の手段等とは思ってはいないという事だ。あるとあらゆる知恵と人的資産を総動員して、戦わずして日本の国民と国土を守る方法を、なぜ必死に考えようとしないのか。米国によりかかる。だから米軍に対し、応分の負担をするというのでは、安易過ぎる。かつての貿易摩擦や、TPPの交渉と同様、破たんしかけている米国型の資本主義が、またも無理難題を押し付けてこないと、断言できるのか。安倍首相の、こうした安易な安全保障の考え方こそが、日本を予期せぬ戦火に巻き込み、徴兵制にもつながる、現代の日本のリスクだと思われる。
大前提が間違っている。米中は戦わない。そんなことになれば、世界戦争になり、地球が住めなくなるくらい、両首脳は心得ている。ただしそれは小競り合いまでなくなることは意味しない。そして小競り合いこそ、日本の自衛隊の出番なのだ。兄貴分が出るまでもないからだ。そういう局地的な紛争を、米国の名のもとに、軍事的支援を受けて戦闘を行うのが、米国にとっての自衛隊の存在意義なのだ。
次に北朝鮮は、日本に核ミサイルを発射しない。日本には米軍の基地がある。米具の集団的自衛権の行使を待つまでもなく、米軍は自国の個別的自衛権で直ちに反撃に出るだろう。米国のミサイル潜水艦から発射された核弾頭ミサイルで、北朝鮮は全土が火の海になり、地図から消滅する。それが分かっているから、北朝鮮は核ミサイルを脅しの道具として使うだけだ。
今世界中が脅威と考えているのは、中国でもロシアでもなく、ISなど、国境を超えたテロ組織だす。なぜなら大国には利害関係もあるし、話し合いや取引の余地もある。しかしISには失うものが最初からないからである。それにISには人道も人権もない。対話の余地がまるでないのである。
今にも中国が攻めてくる。だから軍備と同盟関係を強化して備えよ。これが戦前の三国同盟とどこがどう違うというのか。手を結ぶ相手が違うだけではないか。そうまでして安倍首相が願うのは、日米軍事協力体制の下で、日本が世界の中心で輝く国、はっきり言えば覇権を主張できる国になることだろう。いわば帝国主義の再来である。これだけ明確に戦前の理念を持ち出してきたことは、さすがの自民党でも、かつてなかった。日本は憲法の許す範囲内で、自国と世界の安全と平和のために、努力するべきだ。そのどこが間違っているのか、是非とも安倍首相にお伺いしたいものである。
「やっぱり教育が大事」 2015/7/18
戦後70年、戦争は二度と御免だという記憶と感覚が薄れてきている。国の平和を守るためなら戦争も辞さず。そこにある明白な矛盾になぜ気が付かないのか。
突然だが、私は教育で大事なことは自信と思いやりだと思う。少し難しい目標を設定して、それを達成させる。それを繰り返すことで自分に自信がつく。自信があれば欲にも負けない。いじめもない。歪んだ精神による異常行動もない。何より逆境に置かれてもへこたれない。希望や理想を簡単に投げ捨てない。安倍晋三氏の暴走、強行姿勢は、つまるところ、自分に自信がないからではないのか。丸腰では相手に立ち向かえないと思い込むから、一言でいえば、臆病だから武装や軍事同盟にこだわっているのではないのか。臆病な者ほど権威や肩書や金にすがりたがる。そもそもそんな弱い精神力で有事に対応できるのだろうか。これは麻生にも言えることだが、彼らには良い先生がおらず、まともな教育を受けてこなかったのではないか。明日の日本にとって、もっとも重要なことは人数が多くなくてもいいから、強い精神力を持った若者や子供たちを育てることではないのか。皆様はいかがお考えだろうか。