「WTWオンラインエッセイ」
【第10巻内容】
「平成の松下村塾」
「負け組で悪かったね」
「2年前に週刊ポストが予言」
「選挙制度について、またはさらば慎太郎」
「真の平和のために発想の転換を」
「集団的自衛権にはやはり無理がある」
「議員検定の必要性」
「人類の進化とは戦争をしない事」
「日本は米国にどんな借りがあるのか」
「安保条約と安保法制、岸と安倍」
「広島平和宣言」
「円満な人の方が少ない」
「長崎平和宣言」
「昆虫博士」
「吉田茂の選択」
「70年談話と敗戦の日」
「平成の松下村塾」2015/7/2
私は日本に本当の民主主義はないと言い続けてきた。それは米国に与えられた民主政治の仕組みに、日本人の心がついていかなかったからだ。仏作って魂が入らなかったのである。戦後70年を経てもなお、国民の心の中に民主主義の精神が根付くことはなかった。それこそが、戦後70年の戦争の総括と共に、更に重要な、国民の反省点であるべきなのだ。民主主義を理解していれば、日本会議など生まれず、安倍首相の独裁政権などが出来上がるはずはなかった。いま日本と日本人に必要なものは、平成の精神革命なのだ。維新は支配層が与えたものだったが、革命は市民が自分で勝ちとるものだ。いまの日本には自由も平等も平和と幸福を追求する理念もない。まずそれを自覚するところから全ては始まる。
今回の安保法制の動きで、私は若い人たち(20-30代)に物事を判断する力と批判する力があることが分かり、心底安堵した。戦争で苦労した祖父や父。戦後の苦しい生活を耐えた両親。逆に戦争や戦後の利権で財を成した人たちは、その子弟が日本会議などを作り戦前体制への回帰を標榜している。戦争で亡くなった国民は国のために亡くなった。でも私欲の人たちは信条など平気で投げ捨て、そのまま権力と資産を守り続けた。安倍首相は美しい国、強い国と言い出しており、そういう国を実現するために、国民に(首相の)臣民になれと要求している。主権在民ではない。なぜなら国民の多数がいかに反対しようとも、自らの主張を変えるつもりはなく、自分の価値観を押し通そうとしているからである。国のために国民が尽くすのが当たり前、その逆ではないというのは国家主義であり、民主主義ではない。しかも安倍首相にとって、日本イコール自分なのだから、一層始末に悪い。日本をあるべき民主主義の国にするためには、国民が連携する必要がある。意見を交換し,日本がどうあるべきかを議論するために、共に戦おう。今のままの日本では、私は死んで後で、父や祖父に合わせる顔がないのである。
「負け組で悪かったね」 2015/7/21
勝ち組、負け組という言葉がある。嫌な言葉だ。なぜなら一般的に言われる勝ち組というのは経済的な成功者を意味しているからである。金を儲けるか、名声を得れば勝ち組。蚊帳の外なら負け組だ。英語でいえばルーザーですが、ルーザーと言われれば、人生の敗残者という意味である。物質的、経済的な成功だけが、人生の成功だと一体誰が決めたのか。我々団塊の世代はそういう価値観で教育を受けた覚えはない。正義や平等や自由の重要性を、家庭でも学校でも習ってきた。ところで今の日本の勝ち組はどういう人達かと言えば、与党議員、高級官僚、企業経営者、タレント、有価証券の蓄財で成功した人達というところだろう。でもそれは人数でいえばほんの一握りである。真面目に働いている大多数の国民は、特権階級と比べれば、負け組に区別される存在でしかないのだ。
でも不公平をベースにした社会構造で勝ち負けを決めるのは無理がある。民主主義の大原則は最大多数の最大幸福なのに、今の日本はそれとは正反対の状況である。勝ち組の支配層は、負け組である普通の国民が、いつまでも文句も言わずに逆境に耐え、やがては支配層と外国の利益のために戦場にも行ってくれるだろうと期待するのは勝手だが、果たしてそんなにうまく事が運ぶだろうか。負け組が嫌なら、上にゴマでもすって、努力して勝ち組に入れば良いというのは、自分勝手なロジックであり、自分を金で売るのと変わりはないのである。国民が支配層に滅私奉公しなければならない理由などないのである。
人を人とも思わぬ傲慢な独裁者がどんな末路をたどったかは、現代史を見れば一目瞭然だ。司法や武力を理不尽に行使するか、憲法を捻じ曲げでもしない限り、国民を黙らせ、無理矢理従わせることは出来ない。しかも言語道断なことに、安倍政権は臆面もなく、一時的な議席数による独裁体制により、国民に言う事をきかせようとしている。
今のままでは、21世紀における階級間闘争は避けて通れないものとなり、その時には少なからぬ混乱と犠牲が出る可能性が無視できない。しかもそれは、民意を無視して、支配層のための政策をゴリ押ししてきた政権=安倍政権、が自ら撒いた種なのだ。日本の国民がどこまでも、物言わぬ大人しい大衆であり続けるという保証などどこにもない。私たち負け組は、経済格差はある程度は我慢出来ても、大戦の経験から、どうしても譲れない最後の一線=専守防衛による平和主義、がある。
さらに言えば、仮に将来、自国の防衛のために自衛隊が出動しなければならない時が来でも、その時に友軍として組む相手は、その時々の日本や世界の情勢で異なるべきなのだ。決して米国ありきではないのである。そもそも未来永劫、米国の判断がいつでも正しいと、一体誰が確約できるのか。米国が如何なる価値基準で如何なる判断をしても、日本がとことんお付き合いして、一蓮托生で世界の厄介者にならなければならない理由など、どこにもないのである。
「2年前に週刊ポストが予言」 2015/7/22
どこに挟まっていたのか知れないが、2013年1月25日付の週刊ポストを家人が見つけ出してきて、面白いから読んでみろと突き出した。紙面の余裕がないので、気になった部分だけ紹介させて頂く。2年半が過ぎた現在でも全く同じ、というよりも、当時から現在の日本の姿を正確に予測していたことに驚かざるを得ない。
【誰も知らなかった憲法改正の基礎知識】
衆院では100人、参院では50人の議員の賛成のもとに改正の発議ができる。発議に際して重要なのは、関連事項ごとに区分して行うこと。だから一条と九条をまとめて発議することは出来ない。通常の法案なら出席議員の過半数で可決だが、憲法改正発議は議員定数の2/3が必要。一方の院で可決、もう一つで否決となった場合、通常の法案なら衆院の優越という規定が使えるが、憲法改正でこの手は使えない。衆院の議決優先も、2/3の再可決もない。両院で2/3の賛成が必要になる。
自民党の改正案では、「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」と規定している。
自民党の改正案では、基本的人権の由来を定めた97条の全文が削除されている。
自由及び幸福追求の権利を定めた13条は、公共の福祉に反しない限りとあるのを、自民党案では「公益および公の秩序に反しない限り」と書き換えている。前者は他の多くの国民の権利を侵害しない限りという意図だが、自民党の案では、国家権力による統治方針に反する場合は、国民の自由を尊重しなくても良いという意味になる。
集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由を保障する21条も危うい。自民党案では「…前項の規定に関わらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的とした結社をすることは認められない」としている。鳥越は、これを民主主義の根底を崩す暴挙と指摘している。原発再稼働や増税反対の結社を作って言論活動するだけでも政府が取締りの対象にしかねないという。前回の政権時代にメディアとの対立で支持率が急降下した安倍政権と自民党にとって、言論統制は長年の悲願のようだ。
【14人の識者が指摘する憲法改正草案への懸念】
森永卓郎「自民党の改正案では、24条に家族は互いに助け合わねばならならないという条文が追加されている。わざわざ憲法に書くようなことかと思うが、実は意味があって、生活保護や年金などの社会保障を国に求めず、家族が面倒を見ろと言っているのだ」
孫崎亨「自民党の掲げる第九条では、米国から日本が自立して国防にあたる構想と理解されるが、全くの逆である。安倍首相は在日米軍の撤退や米軍駐留費の削減などについて一切触れず、むしろ普天間基地の移転を進め、在日米軍基地を永続化しようとしている。それでも国防軍を創設する意図は、集団的自衛権の名のもとに、自衛隊を米国の軍事戦略上で自由に使える米軍の傭兵にすることにある。その一方で、尖閣有事などで米軍が日本を守ってくれるのかというとはなはだ疑わしい。日本の有事に米軍を派兵するには連邦議会の決議が必要だ。米軍に日本を守る気などはなく、ただ利用しようとしているだけなのである」
湯浅誠「自民党の102条案に国民が加えられています。これは国民の債務を明文化しているものであり、立憲主義の精神という観点から違和感を覚えます。国民や、国籍を持たなくても永住して税金を払い続けている住民の権利性を強くする余地があると思います」
天木直人「自民党草案の前文には、国際社会において重要な地位という文言があるが、これは現行憲法の前文の、国際社会において名誉ある地位を占めたい、とは正反対の意味だ。現行憲法が、国際社会で信頼される存在となり平和を実現させることを目指しているのとは逆に、自民党草案は大国を目指すと言っているようなもの。日本政府は、日米同盟を重視しており、米国の目指す国際社会における地位を想定しているのだ。所詮は米国追随を唱えているに等しい。そういう米国一辺倒の発想から脱却すべきだろう」
「選挙制度について、またはさらば慎太郎」2015/7/24
東シナ海のガス田開発は、日中が合同で行うことで合意されていた。ところが石原慎太郎(以下石原)という自分勝手な右翼の政治家が、尖閣問題をつついて騒動を引き起こした。そこで中国が態度を硬化。共同開発の合意がチャラになってしまった。但し少なくも未だ中国は海域を守っている。それまで尖閣問題は事実上棚上げにすることで、両国は危ういバランスを保ってきた。それを埼玉の一地主が相続税で石原に相談したことで、騒ぎになった。何故埼玉の地主が尖閣を保有しているのか、全く理解に苦しむが、誰も望まなかった大騒ぎを、石原がその国家主義的価値観の一存で引き起こし、しかもそこに日本政府まで引きずり込んだ。石原が都の土地にすると言い出したので、野田首相がやむなく国有化を宣言し、これが中国を刺激した。国民に大迷惑を掛けて売り逃げた地主は今何をしているのだろう。この国家間の騒動は、本当は全く必要のない紛争だったのだ。紛争好きの石原が子供じみた喧嘩を売り、それがやがては集団的自衛権に発展することにもなる。
安倍政権になってから、中国を仮想敵国にし、憲法解釈を曲げてまで集団的自衛権を容認し、安保法案に発展した。突き詰めれば、石原の横車が原因か、少なくもきっかけだ。この人物は、そもそも外交は紛争解決が目的だという観念さえ理解できないらしい。あるのは国粋主義と、力による支配だけ。彼にとって民意など笑止千万なのだろう。彼の一番弟子の安倍首相が見事なまでに、その独裁思想を継承している。一方で、米国一辺倒の外務省にも、知恵も思考能力もあるようには思えない。
石原は国民や都民に嘘をつくことを何とも思っていない。都知事選で続投しないと言明しておきながら、311のどさくさをいいことに、選挙を強行し=伸晃が仕組んだ卑劣な方法、続投を決め込んだ。この嘘も方便という手法は、愛弟子の安倍首相にしっかり受け継がれた。国民は、なだめ、だます相手であっても、意見を尊重すべき相手ではない。単に(政府の)臣民であれば良い。この師あって、この弟子ありなのだ。
大きな口を叩く人間ほど、責任を取らない。石原しかり。嘘と卑劣さは表裏一体だ。五輪招致に100億の都民税を使い、しかも失敗した。そして一切その責任を感じない。311の復興に関心は示さないどころか、天罰だと言い放った。その神経は、政治家どころか人でさえない。原発賛成、死刑賛成。憲法は読んだことがないか、読んだとしても、その理念を理解できる能力があるとは思えない。声高に偏向した思想を唱えるだけ。おなじ右翼の作家でも、同年代の三島には自決するだけの覚悟も美学も作家としての才能もあった。この人物にはそれが全て欠けている。事があれば最初に逃げるタイプだ。現に徳洲会事件では限りなく黒いのに、早速安倍のもとに駆けつけて、自分は一切関係ないともみ消しを図った。本当に白なら駆けつける必要はない。しかも徳洲会の世話を引き継いだ猪瀬が、石原の責任を肩代わりして辞職した。それで幕引きを図り、自分には類が及ばないように立ち回るだけの悪知恵には長けていたのだ。
石原の何が困ると言って、安倍と橋下の精神的支柱であることが最大の問題だ。日本国民にとって、それは諸悪の根源を意味する。最も有害な政治家だと言っても良い。ごますりしかできない息子の伸晃が、自民党内部で失脚してくれたのがせめてもの救い。都で銀行を作り、無審査で貸し付けを行うだけでなく、際限なくそれを続けた。これで倒産しなければ、そのほうが余程おかしい。思い付きで作った銀行の、これほど無能な金融機関の経営は見たことがない。当然の如く破たんし、救済してくれる相手がなかなか見つからず、やっと買収先が見つかった。むろん石原から一切の謝罪は無いに等しい。
なぜこのようなワルを都民が知事に選んだのか。それは、はっきりしたもの言いに期待したからだろう。何かをしてくれるのではないか。そんな漠然とした期待感だ。でも、その時、なぜ都民や国民には、この人物が嘘をついているのではないか、今後嘘をつくのではないかという疑念が浮かばなかったのか。だから一旦職に就いたら、やりたい放題。その点でも安倍首相と全く同じ。じっくり考えて、比較検討して入れる一票も、えいやで入れる一票も、同じ一票に過ぎない。だから今後の選挙では、投票用紙の一部に、あなたは慎重によく考えて投票していますかという質問欄を設け、そこにチェックがなければ無効にしてほしい。それでもなお、今の国政が事実上の衆愚政治になってしまったのは、国民だけが悪いと決めつけるわけにはいかない。むしろ選挙制度が民意を反映しない仕組みになっていることこそが問題なのだ。10増10減で事足れりとするなど、問題外なのだ。今の選挙制度が制度疲労を起こしているのは、政策と世論が正反対にあることでも証明されている。
現行制度の問題は、無投票と死に票だ。今のシステムでは、無投票は消極的否定とも、消極的肯定とも取れる。しかし事実上、無投票は現状維持、または投票者への委任とみなされている。選挙制度への批判や、現政権への消極的反対とは見なされないのである。賛成票は積極的賛成票だけに限るという制度にしないと、民意を正確に反映することはできない。一票でも多ければ、それが勝ちで総取りというシステムそのものに問題がある。
当選者以外への投票は全て当選者への批判票とみなすことができる。本来人間とは拒否する権利が取得の権利に優先する社会的動物だからだ。しかも批判派の投票を集めれば、当選者を上回る場合も少なくない。現状では、数で勝るのに、批判派の意見が一気にネグレクトされてしまう。少数派の意見を政治の場で反映させるには中選挙区の方が効果的だ。なぜなら、日本は46にも分割する必要などない狭い国だからだ。現在の選挙制度は、民意を反映するには極めて不都合で不完全な仕組みであることに、まず気が付いてほしい。
石原は数々の不祥事を重ねても、ふてぶてしく開き直ってきた。WTWは創設以来、彼を批判し続けてきた。石原には一日でも早く政界から消えてほしい。但しその前にデング熱でも患って、自分が国民に与えてきた痛みの一部でも実感してほしい。
「真の平和のために発想の転換を」 2015/7/27
安倍政権が集団的自衛権を正当化する唯一の理屈は、日本にも自衛の権利がある、だから自衛隊が違憲ではないという判断を最高裁がした(1957年の砂川判決)という論拠だ。そして最近の国際情勢の変化により、どの国も、自国だけでは自国の防衛ができない時代になってきた。そんな不安定で流動的な国際環境の下で、切れ目のない防衛体制を敷くには、他国との集団的自衛権が必須であり、だから集団的自衛権は個別的自衛権の延長とみなされるべきだというものだ。結果的に国民が追認したのだから、自衛隊も合憲だと言いたいらしい。でもそれは少し違う。岸政権の安保闘争の時に、デモで死者まで出すほど激しく国民が抵抗したことをお忘れか。武装を当然とする意識など、少なくとも民意には存在していない。多くの国民が願っているのは、平和憲法のもとでの、非武装中立であり、集団的自衛権は、平和を願う憲法の理念とは全く相反するものなのだ。
安倍政権は、いつ攻めてくるか分からない敵国(具体的には中国のことらしい)に対して、自国の軍備拡張と、自衛隊への交戦権の付与、そして米国との軍事同盟が最も有効な抑止力だと主張している。しかしそれは冷戦時代の米ソと全く同じスタンスだ。仮想敵国との軍拡競争の結果、より強力な武器が必要になる。中国にも、北朝鮮にも核兵器がある。日本だけが通常兵器で武装しても、勝ち目はないし、抑え(抑止力)にもならない。軍事力至上主義がエスカレートすれば、(国土と国民を守る為に)日本も核武装するしかないという論理に発展する危険性がある。
でもなぜ私たちは21世紀の今になって、歴史の時計を逆回ししなければならないのだろうか。また、平和のために武装が必要だという論理の矛盾を、国民が納得できる形で、安倍政権が一度でも説明してきただろうか。平和を守るために最も必要なことは、武装の放棄であり、話し合いと相互理解ではないのか。武力を背景に自国の権利だけを主張するのは、国家主義と覇権主義、それに全体主義ではないのか。人類が一斉に兵器を捨てること。それこそが平和の究極の、あるべき姿ではないのだろうか。いま事実上の冷戦時代に逆戻りするのは、この70年、人類は何も学習をしてこなかったことになる。核軍縮の努力は無駄だったのか。オバマのノーベル平和賞には何の意味もなかったのか。
銃を構えて、お互いに脅しあう。相手が撃つまでは撃たないというだけの危ういロジックだけが、安全装置。これで平和のバランスを保障できるのか。キューバの危機で、世界中が冷や汗をかいた事すら、安倍首相は勉強していないらしい。相手が発砲すれば、直ちにこちらも撃ち返す。そのどこに紛争を平和的に解決するという気持ちがあるのか。むしろ相手が早く発砲してくれないものか。そうすればこちらも追う存分、銃が撃てるのにと思ってはいないだろうか。安倍政権は、自衛隊の交戦権を認め、あまつさえ文民統制の枠も緩めてしまった。だから発砲の現場の判断は自衛隊の制服組に委ねられた。これは日本が経験した大戦の悪夢のデジャヴに他ならない。軍部の暴走と、それによる紛争の暴発の危険性。それを日本は大戦でいやというほど経験したはずなのに。
自民党や経済的支配層の人たちは、なぜ苦痛に満ちた彼らの親や先輩の記憶を継承しようとしないのか。思い出さずに済めば、戦争の悲惨な事実はなかったことになるのだろうか。安倍首相の価値観は根本的に間違ってはいないだろうか。なぜなら貴方は国連の国際紛争調停の役割さえ否定しているように見えるからだ。常に米国が世界における自由主義国の警察として、正義と自由のために戦ってくれるだろう。日本も守ってくれるだろう。日本が核兵器を持たなくても(さすがに日本の国民もこれだけは認めないだろう)、核兵器を持つ米国が後ろ盾についてくれれば安心だ。でもなぜ首相はなぜそれほど無邪気に米国を信頼できるのか。ベトナム、アフガン、イラクで、あれほど外交の政策判断を間違えているのに。しかも米国には日本を守る義務など実はどこにもないのである。
私は今回の集団的自衛権、即ち日米軍事同盟を、米国から見ればどう見えるかに関心がある。安倍政権が、あえてそれを見て見ぬふりをしているのも理解できない。米国は核兵器を含む世界最強の軍事力を持つ。装備もさることながら、自衛隊と違って訓練だけではなく、実戦の経験もあるから、最強の即戦力だ。ゆえに大陸間弾道ミサイルを含む核兵器、攻撃型潜水艦、戦略爆撃機、ステルス戦闘機、原子力空母などの基本的な重装備と戦力は米国が担当する。むしろ日本が核兵器を持つことに最初に反対するのは、他ならぬ米国だろう。その理由は、それが日本の憲法違反だからではなく、核を持つ日本が米国にとって脅威になりかねないからだ。
それでも、日本がいつまでも米国に安全保障で、おんぶにだっこでは、米国民が承知しないだろう。応分の戦力の負担を求めてくるのは当然の成り行きだ。では何が応分なのか。それは米国の太平洋の覇権を脇で支えることだろう。本当は米国の代わりに、北朝鮮や中国に睨みを利かせてほしいところかもしれない。米国はむろんのこと太平洋を他国に渡すつもりは全くない。ハワイもあるしグアムもある。しかし尖閣となると、それぐらいは自分で何とかしてほしいと思うのが人情だろう。そして米国の同盟国である以上、韓国、台湾、フィリピン、豪州などの防衛にも、米国の代わりに積極的に肩入れしてほしい。それが何を意味しているのかと言えば、小競り合いか、本格的な戦闘かは別にしても、アジアの国々への中朝の攻撃があれば、日本が出て行って、最前線で、(米国の代わりに、或は共に)敵国と戦火を交えるということだ。
自衛隊を米国の戦力の一部として組み込ない限り、そういう一連のシナリオは描けない。日米を中核とした、太平洋軍事同盟を構築して初めて、米国的(かつ侵略的)資本主義経済圏が、環太平洋地域で実現、維持できることになる。国の運命を、外国の判断に委ねるということは、国の主権の放棄である。米国に日本を売り渡す権限など、誰も政府に付与していない。
日米の密な軍事同盟があって、初めて太平洋の安全保障全体図が描けるのだが、その大前提は、自衛隊をいつなんどきでも自由に発動できるようにして必要がある。しかもそれが首相の一存でできることである。だから安保法案が成立すれば、オバマが安倍首相に電話を一本掛けるだけで、(首相の判断で)自衛隊が南シナ海に出かけてゆくことになる。
国の安全保障は、米国との軍事同盟しか現実的な解がないというのが自民党の言い分だ。それは本当だろうか。では逆に質問したい。そういう日米軍事同盟に基づく太平洋地域の安全保障体制が、今後100年にわたって、まともに機能するという保証はどこにあるのか。世界は刻刻変化している。なぜもっと先を見ないのか。まずあるべきは、というより願いは、中国が民主化することだ。これはほかならぬ中国の国民がそう願っているからだ。それは必ず実現するだろう。それで世界の安全保障の仕組みも大きく変化する。アラブの国々でさえ、いびつな形ではあれ、民主化が進み始めている。軍事力を背景にした侵略的金融資本主義が、未来永劫、世界を席巻し続けると思い込む方がどうかしているのだ。
民主化を前提にした非武装の国々による世界平和への志向。そういう潮流を推進する立場として、日本ほど最適の立場にいる国はない。被爆国であり、また平和憲法を守って、殺しも殺されもせずに来た日本こそ、世界平和の推進役として最もふさわしく、主導的な立場に立つことが出来る稀有な先進国なのだ。正しく動けば、安倍首相は日本の政治史どころか、世界の歴史に名を残せる可能性もあるのだ。ノーベル平和賞も夢ではない。しかしそういう絶好の立場にあるにも関わらず、貴方がしていることは、軍拡に奔走している北朝鮮や中国と全く変わるところがない。固定観念に取り付かれた、一種の思考停止状態だ。なぜ今更日本が発展途上国の真似をする必要があるのだろうか。
世界が平和になることが自国の平和につながるように、世界中の国々が考え方を変えていかない限り、永遠に地球に平和が訪れることはないだろう。思い切って丸腰になることが大事であり、それを日本が世界に、先駆けて示すことが、極めて意義のあることなのだ。武装を最大限度譲歩しても、専守防衛のためだけの軽武装に留めるべきなのだ。それが日本が世界に貢献できる、また世界に感謝される、1000年先を見据えた至高の政治なのだ。今日本の政治と経済に最も必要なこと。それは機能不全を起こしている煮詰まった米国型資本主義からの脱却であり、発想の転換なのである。
「集団的自衛権にはやはり無理がある」 2015/7/29
昨日の参院特別委員会、議員も大変だろうが、数時間付き合っているこちら(国民)だって大変だ。野党に質問時間を与えすぎたのが衆院の委員会での失敗だとして(この身勝手な論理が凄い!)、前半は自民党議員達の質問というより、応援演説で終始。中でもひげの佐藤議員のそれは、究極のお粗末さだった。拳銃でミサイルに立ち向かうのと同じ、武装には武装で立ち向かえと。午後は民主党の新緑風会の質問で、役者(福山、小川、大塚)をそろえたこともあって迫力満点。質問はシンプルなのに、そのどれ一つとして安倍首相はまともに答えることが出来なかった。
違憲判断や、国民の意見を無視して強行採決した点については、如何なる言い訳も説明にもなっていかった。大塚議員は、今回の法案で、米国では一般的に、米国が攻撃されたら日本が応援に来てくれると思っているという点を指摘した。そう思うのが当たり前だろう。安倍首相は、A国とB国が紛争状態にあっても、日本の存立に関わらない場合は、武力行使しないと繰り返した。しかし後で大塚議員が、集団的自衛権というのは同盟国に対して攻撃があれば、自国への攻撃とみなすというものであって、安倍首相のような変則的な解釈は通用しないと指摘した。
私はこの安保法案は、これに費やした不毛な審議時間と、ひいてはその間の議員に払う手当を含めて、壮大な無駄、もっと言えば国会での茶番劇だと思わざるを得ない。安倍首相が憲法違反ではないといくら言い張っても無理である。合憲だと思う学者も国民も限りなくゼロに近いのだ。また海外派兵に、存立事態という歯止めがあるといっても、それ自体が例外だらけだ。結局それは首相の判断次第だから、事実上何の歯止めにもならないからである。だから、むしろ自民党は言い訳でごまかして逃げようとせずに、この重要な問題に、正攻法で正面から取り組むべきなのではないか。
限定的な集団的自衛権が日本の存続に不可欠だと自民党が主張するのであれば、集団的自衛権が紛れもなく憲法に違反しているのだから、憲法改正を提議するしか方法はない。今は世界情勢が変わった、だからこれからの世界では集団的安全保障でないと自国の防衛が出来ないというのなら、それを誰もが納得できる説明で、集団的自衛権の必要性を国民に訴え、憲法の一部を改正したいと提案するべきである。安倍首相を信じろと自民党の安倍派若手議員はオウムのように繰り返す。これは説明としては最悪だ。とてもではないが、全権をゆだねることなど出来ない相談なのだ。政権の暴走を抑える憲法という仕組みさえ、彼は無視しているのである。
それにしても安倍首相は急がば回れという言葉を知らないのだろうか。焦った結果、却って時間がかかり、通したい法案も通りそうもなくなっている。手続き面だけでいえば、衆院で再度強行採決すれば、確かにこの理不尽きわまる法案でも一度は成立するだろう。でも国民の納得が背景にある訳ではないので、政権が代わればこの法案も廃案になる可能性が極めて高い。というより、それまで私達は待つつもりもない。直ちに弁護団を組織して、違憲の集団訴訟を起こせば良いのである。
私が予想する展開は以下のようなものだ。安倍首相は、廃案は愚か審議の延長もせずに、参院で強行採決に踏み切るか、60日ルールで、衆院で再度強行採決を行うだろう。即ち法案は成立するだろう。
しかし今は戦前ではない。大人しい国民が政権に騙され、従い続けると思うのは自民党の勝手だが、安倍首相と、利権に目のくらんだ愚かな取り巻き達は、いつまでも自分達の重い通りになるかとは思わない方がよかろう。
「議員検定の必要性」 2015/7/30
憲法違反の法律、しかも国民の大半が反対。その必要性も妥当性についても、誰も納得できるような説明もない。それでも議席の多数だけを拠り所に、首相の個人的な価値観を国民に強要する。事実上の安倍首相による独裁政治。民主主義、国民主権、平和憲法の日本で、なぜそんなことが可能なのか。それは多数の国見の民意が政治には反映出来ない仕組みになっているからである。数年に一回の投票でしか、国民は政治に意志を反映できない。自民党が過半数を占めた、前回の衆院選。自民党に投票したのは、有権者の25%だけなのに、なぜ過半数の議席を占められるのか。有権者の過半数が自民党に投票したわけではない。それは政治の仕組みと、取り分け選挙制度に問題があるからだ。私たちはまずその事実を明確に認識しなければならない。民意を反映していない議員が、国民の意志と異なる政治を行うのはむしろ当然なのだ。まず政治と選挙の仕組みを真剣に変えてゆかない限り、制度的に、日本の政治に民意が反映されることはあり得ないのである。
もうひとつの問題は、自民党のタカ派の議員たちが、人格的にあまりにもお粗末だということだ。社会人として持つべき、常識や正義感、判断力のレベルが、全くお話にならない。それなのに、自民党の議員だ、閣僚だというだけで、どんな理不尽な説明でも押し通してしまう。屁理屈をこねさえすれば、どんな不祥事、不適当な春源でも、解雇もされず、懲罰もない。自民党員にあらずんば人にあらず。驕る平家そのものだ。なにより問題なのは、情けないほど勉強がたりないことである。麻生副総理を例にとる。彼は日本の政府はナチスを見習うべきだと発言し、後で訂正した。第二次大戦で日本は無謀な戦争に投入し、民間人を含む300万人が(無駄に)亡くなった。一方、ナチスはホロコーストで600万人のユダヤ人を虐殺した。その戦争犯罪を、ドイツ人はさすがに肯定してはいないし、最近のネオナチの活動にも警戒心を持っている。そんなナチスのやり方を、なぜ戦後の日本人が真似をしなければならないのか全く理解出来ない。
彼もヒットラーを尊敬し、ナチスと同じ残虐な行為をしたいとまでは言っていないだろう。単にワイマール憲法を骨抜きにしたヒットラーがうらやましいと、酒の席で放言しただけかもしれない。でも歴史を少しでも真面目に勉強していれば、放言としてさえ、そんなことは思いつきもしないのが普通だろう。麻生はなにかにつけて失言の多い政治家だが、失言が多いということは、心中そう思っているからだと言われても仕方がない。公式見解と私的な見解が、実は掛け離れたものであることを端的に意味している。同じことはNHKの籾井についても言えるが、より浅はかな百田となると、本音さえ隠そうとはしない。そういう国家主義的な思想を持つのは個人の思想の自由かもしれないが、歴史を良く勉強もしないで、本も読まず、はては議論さえもしないで、軽口をたたく、その無教養さが嫌なのだ。良く考えもしないで軽挙妄動する(安保法制はその最たるもの)、こういう人たちが社会に何らかの影響を与えている、その状況が私は危険で不愉快だと申し上げているのである。
結論を言えば、事実も知らず、何も分かっていない、筋道の立った説明も出来ないのなら、せめて黙っていて欲しいということなのだ。こういう人物が財務相などの要職にあることに、恐怖というより、情けない気持ちになるのである。最低限度の知能テストと常識のテストを行い、それに合格しなければ委員会には入れないというシステムを要求したい。その時の試験は大学入学程度とは言わない、高校入試程度(即ち中卒程度)で十分である。
ところで昨日も安保法制の審議があったが、私は維新の片山虎之助が提案した、個別的自衛権と集団的自衛権の新解釈が納得できるものだった。彼は違憲は絶対に困ると言った。また憲法改正を国民に問うべきだとも言った。なお防衛相は、後方支援と兵站=ロジスティックス、が同じ意味だと認めてもいた。ちなみに兵站は戦争行為の一部である。松田公太の日本は平和ブランドを活用すべきだという主張も頷けた。
「人類の進化とは戦争をしない事」 2015/7/31
連日の安保法案審議は、録画等で極力全部見るようにしている。そして思うのは、党の代表者が見識を述べるだけの、衆院の委員会での審議よりは、国民の声に近い質疑になってきているという印象がある。中でも民主の新緑風会は分かり易い質疑をしている。それ以外にも、松田公太も、山本太郎も、国民が感じている矛盾や疑問を、非礼にはならない態度で、しかもストレートにぶつけていることに好感が持てる。それに対する応答は今更言うまでもない。同じ説明の繰り返しと、ますます広がる論理的な矛盾のみである。
新緑風会の前川議員は、防衛白書の英文版では専守防衛の概念を変えているのに、なぜ変えていないと言い張るのかと追及し、首相が挙げた北朝鮮や中国の脅威なら個別的自衛権で対処できると指摘した。また密接な関係にある国に対する武力攻撃という表現なら、輸出入額で一位の中国も密接な国に入るのではないかと指摘した。また外国に対する武力攻撃で、我が国の存立が脅かされるという具体的な事態が思いつかないとも指摘していた。
政府の御用TV局の某イヌ・アッチ・ケーは、ニュース報道では、首相が追い詰められたり、返答に苦慮する場面は一切放送しない。双方の意見を平等に取り上げる的な、上から目線であり、その結果、報道が政府の弁明を支持する形になっている。このTV局は、BBCなどと違って国民の視点というものは持ち合せがないらしい。客観的な報道に徹すると自慢したのかもしれないが、神ならぬ身の不完全な人間にそんなことができるはずもない。ゆえにNHKのニュースだけ見ていても、絶対に本当のことは分からない仕組みである。
そういうふざけた公共放送なのだが、数少ないまともな番組の中に「英雄たちの選択」がある。昨日は会津対長州の特番だったが、登場した心理学者が極めて重要なことを言っていた。即ち少年たちを二つのグループに分けてキャンプをさせると、少し離しておいても、些細なきっかけで必ず争いが起きるというものだ。それも最後は掴み合いにエスカレートする。それまで会ったこともない少年たちなのにである。同席した専門家も、人類の歴史は戦争の歴史であり、人類の進化はどうやって戦争を回避するのかという知恵だったと述べていた。またこの実験の最後に、この二つの少年グループに、協力しないと解決できない課題を与えると、共同作業の結果、仲良くなり、帰りのバスも共にしたいと思うようになったと言っていた。
そこで安保法制である。中朝が戦争の準備をしている。ミサイルや核を備え、あるいは尖閣を狙っている。だから戦いに備えよ。武装と軍事同盟を強化せよ。でもそこには紛争を回避し、絶対に戦争に持ち込ませないための努力をする意図は感じられない。どんなきっかけでどちらが先に出ようとも、とにかく戦争にならないように全力を尽くし、知恵を出し、外交で阻止しようという姿勢が見えないのである。面倒だから武器をちらつかせ、米国の核の傘に隠れていればいいじゃないかという、無責任さと身勝手さしか感じられないのだ。
いま安保法制の議論は、憲法違反どころか、専守防衛からも遠ざかりつつある。出入りに備えて、たすき掛けをし、竹やりを揃え、用心棒の先生に金子を払い、ナンタラ組が攻めてきたらやり返すぞとかがり火をたいているかのようだ。血気にはやっているのだ。その次の段階になると、攻めてくるのは目に見えているのだから、先に打って出て、今の内にやっちまえという事になる。もはやこうなると収拾が付かなくなる。武力が抑止力として働かなくなる。紛争を回避するのではなく、紛争の勃発を待つ姿勢だ。結局、しびれを切らして自分から出てゆくことになる。それが盧溝橋事件である。であるからこそ、戦争準備法案は絶対に通してはならないのである。
「日本は米国にどんな借りがあるのか」 2015/8/1
一昨日のNHKの「歴史秘話」の、日米開戦を避けようとしたグルー駐日大使の努力は、これまであまり知られていなかったので、興味深く見た。軍部の暴走、日米のタカ派の対立を避けられさえすれば、戦争は避けられた。その想いを強くした。だからこそ、自衛隊の扱いに、日本国民は慎重であらねばならないと思う。
間もなく終戦(敗戦)記念日だ。一昨日の参院特別委員会で、山本太郎が大量破壊兵器のなかったイラクで、動いているものはなんでも撃てという非道な作戦行動を取った米軍を批判し、イラク戦争の総括が日米では行われていないことを指摘していた。
これは重要な指摘である。ベトナム戦では、さまざまな証言があり、映画などでも、ベトナム戦争の非人道的行為が批判された。ところが湾岸戦争では、実際に何が行われたかが明らかではなく、またその反省もない。これは明らかにフェアではない。人道支援と言いながら、空自は現地で事実上の兵站、即ち兵員の輸送を担当していた事も明らかとなった。しかもそれが黒塗りの報告書で伏せられていた。公表が自衛隊の活動にとって、あるいは政府にとって不都合だったからと思わざるを得ない。
今後、一層歯止めのない日米軍事同盟に向かって一歩でも二歩でも動き始めれば、自衛隊にとっても、国にとっても、何が起きるか全く予想がつかなくなる。それは政府と防衛省が秘密体質だからである。首相の(志村けんと同じ)大丈夫だあの掛け声は、それ自体、何の意味もない。信頼に足る人物がそう言うのなら未だしも、この人の場合はその部分が大変に怪しいところがある。信頼できる政治家なら、逆にその約束を法律に明記するはずだ。文章にはせず、口頭でいくら掛け声を掛けられても、またそれを強調すればするほど、嘘くさく響くのである。先の衆院選挙の趣旨説明でも、口頭での約束や説明では集団的自衛権には触れていなかった(言い訳は党の政策説明には書いておいたというものである)ことを、国民は覚えているのである。
法文自体がいかようにでも(よく言えば柔軟な)解釈と運用が可能であり、その条文を通すためになり振り構わぬ体の安倍政権。でもなぜ今、そんなにしてまで法制を急ぐのか、どこに差し迫った危機があるのか。そういう全国民が抱く素朴な疑問と、野党の質問に、安倍首相は一度たりともまともに答えたことはない。本当の意図を隠したまま、丁寧な説明で国民の同意を得たいといくら言ってみても、それは無理なのだ。それほど国民は馬鹿ではない。説明が説明にはなっていないのである。首相が説明すればするほど、説明の矛盾、即ちぼろが出てくるのである。
私の憶測だが、前のめりに行われる度重なる日米合同演習を見るにつけても、国民には秘密裏に、既に日米両軍による、具体的な作戦が出来上がっており、それが動き始めているのではないかと憶測せざるを得ないのである。防衛省の制服組にとっては、既定の路線があり、既に事実上米軍の一部に自衛隊が組み込まれているのではないか。北朝鮮がミサイルと核を持っているのも、中国がシナ海で動いているのも、いま明らかになったことではない。だからそれが採決を強行する理由とは考えにくい。ならば他に、国民にはいまは言いたくない理由が存在していると考えれば、それは米軍と自衛隊の間の秘密の取り決めであるに違いないと、誰もが思うのである。
世論調査でも、民意が安倍政権、取りわけ安保法制を支持していないのは一目瞭然だ。同時に米国だけを無批判に、どこまでも信頼できる、また信頼しなければならない理由も明白ではない。これが先進国で大国の日本が、今の流動する国際情勢に対する最善の外交政策なのだろうか。国連はどうした。実は何も考えずに、米国に盲従して、最も安易な方策を取っているだけではないのか。米国はどんな形で、誰にどのような圧力を掛けてきているのだろうか。東芝の不健全経営に、絶対に粉飾という表現を使わないのも、東芝が米国の原発会社、ウェスティングハウスに出資しているからではないのか。東芝が潰れて困るのは、米国政府だからである。
時々刻々変わる世界情勢に向き合い、自国の誇りと平和の理念を堅持しつつ、憲法が体現する平和の理念を高く掲げることこそ、本来非武装中立であるべき日本が世界平和に貢献できる唯一の選択肢ではないのだろうか。安保法案が成立するということは、そうしたこれまでの日本国民の平和への努力が、全て灰燼に帰することを意味している。どこの国も、誰もが、日本人の平和理念を信用しなくなるからだ。これは極めて大きなマイナスである。後藤さんを見捨てた安倍政権が、今度は国の主権と国民の主権までも、見捨てようというのだろうか。
ひたすら米国に隷従を誓い、その代わりに自国を防衛して貰う。そこには国としての主張もプライドもない。なぜ野党までが米国とうまくやらなければならないと思うのか。米国がいないと本当に日本はつぶれてしまうのだろうか。それは何故なのか。寄らば大樹の陰というのは理念でも主張でもない。方法論に過ぎず、それも卑屈な便宜主義だ。一体日本は米国にどんな借りがあるのだろう。外務や防衛官僚は、なぜ議会や国民を無視して、勝手に米国と手を結ぶのか。頭が良いエリートだと自分で思い込んでいるのか。なぜ米国がいつも正しいと言い切れるのか。なぜ日本は独自の外交路線を取ることが許されないのか。
戦後70年は米国が守ってくれたかもしれない。でもそれはまた横暴な兄貴分の横車との絶えざる戦いの年月でもあった。露骨な内政干渉。独自路線を歩もうとした田中や小沢を、官僚を使って追い落としたこと。そして今や、安倍政権は覇権主義の兄貴に全面降伏しようとしている。
安倍政権が先を読んでいると言うのなら、また外務・防衛官僚が自分たちの権益の為ではなく、日本という国のために全力を尽くしていると言うのであれば、その根拠を国民に明確に説明して欲しい。なぜならそういう人たちは、国民が、国民のために雇った公務員だからである。身分保障に胡坐をかいて、国民が戴いて、あがめ奉るために、公務について頂いたわではない。うではなくて、責任感と理想に燃えて、自ら選んだ職種なのだ。だから就職当時の自分に戻って欲しい。日本人としての誇りを持ち、自分が何のために粉骨砕身しているのかを思い出してほしいのである。
戦後70年の今、次の戦後100年に向けて、日本に必要なことが二つある。それは民主主義と国民主権のための意識の市民革命である。と同時に、米国からの真の独立である。
「安保条約と安保法制、岸と安倍」 2015/8/4
ヒストリーチャンネル(有料)で放映された「特集、終戦70年、半藤一利が語る昭和史」全4回の冒頭で、司会の松平定和が、昭和の元号の由来を説明していた。百姓(ひゃくせい)昭明(しょうめい)にして協和を万邦(ばんぽう)せしむ。四書五経の一つ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」によるもので、国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味だそうだ。
上記の番組の戦後史の部分で、安保を取り上げていた。最初に日米安保条約を締結したのは吉田茂であり、その内容は米軍の駐留の延長を認め、その費用を日本が負担するだけのものだった。ところがこれが不平等条約だとして、岸信介が、日本の自衛隊と米国が共同で日本を守るという内容に変更してしまった。その時に全国で激しい反対運動が起きた。それを見た岸は何と言ったか。(不逞の連中が)騒いでいるようだが、甲子園では野球をやっていて満員の観衆がそれを楽しんでいるではないかと言い放った。衆院で強行採決すれば、参院で可決されなくても、30日後には自動的に成立するというテクニックを使って、結局安保条約は成立し、現在に至っている。但し直後に岸内閣は総辞職した。
これを見ると、今の安倍内閣の方向性がはっきり見えてくる。岸と同じく安保法案を、これも岸と同じように強行採決した。しかしその後も同じであってはならない。安保のように諦めてしまうという筋書きは受け入れられない。安倍首相の、いつかは国民も理解してくれるだろう、先の安保を見れば分かるという身勝手な論理を、絶対に認めてはならないのである。今から強行採決を見越して、集団違憲訴訟の準備に入るべきなのだ。それこそが我々国民が前回の安保騒動から学習しなければならない教訓なのだ。どうせ国民は馬鹿だから、一時騒いでも、そのうち忘れるさと言わせてはならないのである。
「広島平和宣言」 2015/8/4
昨日の広島の記念式典。私達も8時15分に黙祷を捧げたが、松井広島市長の平和宣言が感動的だった。多少長いが、敢えて全文をご紹介させて頂く。ちなみに「まどうてくれ」は元通りにしてくれという意味だそうだ。戻してくれ、なのかもしれない。
【平和宣言】
私たちの故郷(ふるさと)には、温かい家族の暮らし、人情あふれる地域の絆、季節を彩る祭り、歴史に育まれた伝統文化や建物、子どもたちが遊ぶ川辺などがありました。1945年8月6日午前8時15分、その全てが一発の原子爆弾で破壊されました。きのこ雲の下には、抱き合う黒焦げの親子、無数の遺体が浮かぶ川、焼け崩れた建物。幾万という人々が炎に焼かれ、その年の暮れまでにかけがえのない14万もの命が奪われ、その中には朝鮮半島や、中国、東南アジアの人々、米軍の捕虜なども含まれていました。
辛うじて生き延びた人々も人生を大きく歪められ、深刻な心身の後遺症や差別・偏見に苦しめられてきました。生きるために盗みと喧嘩を繰り返した子どもたち、幼くして原爆孤児となり今も一人で暮らす男性、被爆が分かり離婚させられた女性など――苦しみは続いたのです。
「広島をまどうてくれ!」これは、故郷(ふるさと)や家族、そして身も心も元通りにしてほしいという被爆者の悲痛な叫びです。
広島県物産陳列館として開館し100年、被爆から70年。歴史の証人として、今も広島を見つめ続ける原爆ドームを前に、皆さんと共に、改めて原爆被害の実相を受け止め、被爆者の思いを噛みしめたいと思います。
しかし、世界には、いまだに1万5千発を超える核兵器が存在し、核保有国等の為政者は、自国中心的な考えに陥ったまま、核による威嚇にこだわる言動を繰り返しています。また、核戦争や核爆発に至りかねない数多くの事件や事故が明らかになり、テロリストによる使用も懸念されています。
核兵器が存在する限り、いつ誰が被爆者になるか分かりません。ひとたび発生した被害は国境を越え無差別に広がります。世界中の皆さん、被爆者の言葉とヒロシマの心をしっかり受け止め、自らの問題として真剣に考えてください。
当時16歳の女性は「家族、友人、隣人などの和を膨らませ、大きな和に育てていくことが世界平和につながる。思いやり、やさしさ、連帯。理屈ではなく体で感じなければならない。」と訴えます。当時12歳の男性は「戦争は大人も子どもも同じ悲惨を味わう。思いやり、いたわり、他人や自分を愛することが平和の原点だ。」と強調します。
辛く悲しい境遇の中で思い悩み、「憎しみ」や「拒絶」を乗り越え、紡ぎ出した悲痛なメッセージです。その心には、人類の未来を見据えた「人類愛」と「寛容」があります。
人間は、国籍や民族、宗教、言語などの違いを乗り越え、同じ地球に暮らし一度きりの人生を懸命に生きるのです。私たちは「共に生きる」ために、「非人道性の極み」、「絶対悪」である核兵器の廃絶を目指さなければなりません。そのための行動を始めるのは今です。既に若い人々による署名や投稿、行進など様々な取組も始まっています。共に大きなうねりを創りましょう。
被爆70年という節目の今年、被爆者の平均年齢は80歳を超えました。広島市は、被爆の実相を守り、世界中に広め、次世代に伝えるための取組を強化するとともに、加盟都市が6,700を超えた平和首長会議の会長として、2020年までの核兵器廃絶と核兵器禁止条約の交渉開始に向けた世界的な流れを加速させるために、強い決意を持って全力で取り組みます。
今、各国の為政者に求められているのは、「人類愛」と「寛容」を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。為政者が顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。その実現に忍耐強く取り組むことが重要であり、日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが求められます。
来年、日本の伊勢志摩で開催される主要国首脳会議、それに先立つ広島での外相会合は、核兵器廃絶に向けたメッセージを発信する絶好の機会です。オバマ大統領をはじめとする各国の為政者の皆さん、被爆地を訪れて、被爆者の思いを直接聴き、被爆の実相に触れてください。核兵器禁止条約を含む法的枠組みの議論を始めなければならないという確信につながるはずです。
日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役として、議論の開始を主導するよう期待するとともに、広島を議論と発信の場とすることを提案します。また、高齢となった被爆者をはじめ、今この時も放射線の影響に苦しんでいる多くの人々の苦悩に寄り添い、支援策を充実すること、とりわけ「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。
私たちは、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、被爆者をはじめ先人が、これまで核兵器廃絶と広島の復興に生涯をかけ尽くしてきたことに感謝します。そして、世界の人々に対し、決意を新たに、共に核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすよう訴えます。
平成27年(2015年)8月6日
広島市長 松井 一實
「円満な人の方が少ない」 2015/8/9
特殊な生徒を専門に担当している親戚に話を聞く機会があった。元々円満な人間の方が少ない。アンバランスな脳で、努力して能力のバランスを取ることで、何とか社会に適応して生きている。しかし中には危険な要素を持つ人がおり、かつてその割合は1.5%だった。しかしそれが今や7%になっており、まもなく1割になる。即ち近所に危ない人が必ず一人は居るという状況で、それは安心して暮らせなくなるということだ。それでも裕福な家庭なら、家庭教師を付けたり、高度な教育を受けさせることが出来るので、その能力がアインシュタインのように開花する場合もある。しかしそういう天才でも、特種な能力以外の部分では常人以下である。悲惨な事件を引き起こす若者の親は高度な教育を受けた人達で、経済的、社会的地位の高い人が多い。国として特殊な生徒の教育に真剣に取り組んでいかないと、飛んでもない国になってしまう恐れがある。…というものだ。この話を聞いて、私は最近の青少年の凶悪犯罪の意味がやっと分ったような気がした。
「長崎平和宣言」 2015/8/10
昨日の長崎市長の平和宣言。表現は穏やかだが、安保法制をはっきりと批判。被爆者代表はもっと明確に反対していた。この部分では聴衆から自然に拍手がわき起こった。首相の演説には「嘘を付くな」という野次も飛び出した。ところが犬も食わない国営放送では、これらが完全にカットされて解説で済ませていた。同放送局の報道局長貴方には報道の使命のなんたるかがまるで分っていない。なぜそのような素人に国民が高額の給与を払わねばならないのか。強制的に費用を負担させられている我々には、納得の行く説明を求める権利がある。ついでにどこに出しても恥ずかしい、下品な会長が未だに居座っている理由も説明せよ。
原水爆でなくなった人達の半数は子どもである。その場で死ななくても、熱線を浴びると、皮膚の下の真皮の水分が瞬時に蒸発するので、皮膚がはがれる。最も痛感の強い箇所だから、その痛みは言語に絶すると言われる。廃墟となった土地に、被災者は自力で家を建て直すなど復興に取り組んだ。復興で国は援助を一切しなかったと言われる。
米国では原爆を開発した科学者が、離島での実験を見て、余りに威力が強いのに驚き、日本に投下する前に、降伏を促す文書を送るべきだと大統領に進言したが、トルーマンはそれを無視。しかも投下直後の様子や、被爆者の診断結果を長年に渡って秘匿し、放射能障害も原爆が原因ではないと言い張り続けた。原爆投下は日本の降伏を促すためだけでなく、既に始まっていたソ連との冷戦で、自国の権威を示す目的があったからだ。実験台にされた日本の市民の怒りと悲しみ。投下の原因となった戦争を起こし、荷担した人達は、国民の悲劇には一切無関心。もし彼らが自分達には責任は無い、被爆は米国のせいだと主張するのなら、何故また「鬼畜米国」と軍事同盟を結ぶのか。筋が通らない。
しかも同じ市民同士でも、被爆者というだけで銭湯の入浴も断われた。被害者に追い打ちを掛けるような差別が公然と行われた。それは福島の被災者でも同じ事が起きている。専門家によれば、被爆という意味では、福島の方が人数が多いのだそうだ。低線量ではあるが、福島原発の事故で30万人の子供達が被爆したと指摘している。911で数千人の市民が亡くなったが、米国の新爆弾の人体実験では、その100倍の日本の非戦闘員が亡くなった(殺された)。これは戦争行為ではなく、虐殺であり、ホロコーストなのだ。
麻生という、への字の口をした傲慢な政治家が、配下の虚無的な表情の武藤議員の暴言にどう言ったか。今は余計な事を言うな、法案を通してしまったら何を言っても良いと言ったのだ。その発言はそのままTV(無論民放)で放映された。一方で官邸や首相は火消しに躍起である。しかしこの場合、どちらが本音かは言うまでもない。新国立を白紙に戻し、普天間を一時凍結してまでも、今国会中に安保法案を成立させたい。その政権の悲願しか国民には見えない。しかも何故それが必要かの説明もない。馬鹿げたホルムズ海峡の機雷掃海の例を、誰が真に受けると思っているのだろう。国際情勢が変わったの一言で、憲法にも違反し、莫大なリスクを国民と自衛隊に負わせることになる軍事同盟の必要性が自明の理であると言うのだろうか。しかし私には世界情勢が数年前と大きく変化したようには見えない。少なくとも方向性は全く変わっていない。だから私には安倍少年が、敵が来る来ると叫んでいる狼少年にしか見えないのである。
軍事同盟と言うには余りに不公平な軍事行動の下請け契約を、こともあろうに日本に原爆を落とした米国と結び(プライドはないのか)、自衛隊をお好きなようにお使いくださいと差し出した。平和憲法も何もあったものではない暴挙だ。中谷防衛相は、後方支援では弾薬も運ぶし、原爆も弾薬だから運ぶと言った。ところが安倍首相も官房長官も、非核三原則に変りはなく、絶対に原爆は運ばないと言い切った。ならばその旨を安保法制の中に文章で明記しておくべきではないのか。でもそんなことは自民党と米国との関係から考えれば、出来るはずもないのである。
「昆虫博士」2015/8/11
昆虫採集に熱心だった従兄の影響もあって、ご他聞に漏れず、私もかつて昆虫少年だった。夏休みの、今で言う自由研究で標本箱を提出したこともある。ファーブルの昆虫記は全部読んだ。昆虫記と、シートンの動物記、そしてジュール・ベルヌの海底2万マイルは、健全な精神を養う上で、少年時代の必読書だと思っている。ついでに言えば、偏向した道徳教育を強制するくらいなら、クオレ(愛の学校)を読んだ方が余程倫理感が身に付くと思っている。
私の子供時代(半世紀前)は、実家のあった練馬でも自然が溢れてい。小川にはザリガニが、畑にはコオロギやショウリョウバッタがいた。秋には赤とんぼがつがいで群を成して、雨上りの校庭上を舞っていた。これは水たまりに産卵しようとしたものと思われる。石神井公園まで行けば、どじょうもいた。また夏休みに母親の生家のある長野県小諸に出かけると、それこそ自然が満載だった。私はビデオゲームやスマホ(共に人工的なものの極致)を家において、子供たちがもっと自然に触れれば、先日ご紹介した、青少年の不健全な精神状態を改善することができるのではないかと思っている。その後成人して、母の強い希望で実家の近くに別荘(実際には山小屋程度)が建ち、いやでも年何回かは信州に通うことになった。当初は主に家族スキーが目的だったが、最近書斎を増築した。それでもいざ出かけるとなると、上信越道が使えるとは言っても、費用も手間も掛かるし、おっくうに感じてきた。行けば庭の草刈、樹木の枝打ち、屋内の掃除、お墓の掃除と、別荘生活を楽しむよりも、メンテナンスの労働が待っている。それでも今年の夏は、早めのお盆の墓参だったが、日本列島は猛暑の連続で、気温はさほど変わらなくても、体感温度が決定的に違うので、信州での滞在が、初めて高齢の身に助かったことも事実だ。
実はこの山小屋のご近所に有名人が住んでおられることは、以前から知っていた。それは昆虫写真家の海野和男さんである。映像の世界ではもう一人有名な人がいるが、写真なら間違いなく日本の第一人者である。世界では昆虫写真家という職業を余り聞かないので、世界の第一人者ということになるかもしれない。海外にもしょっちゅう撮影に行かれているようだ。しかしいくらご近所と言っても、いきなりドアを叩くわけにもいかないので、これまでコンタクトする機会がなかった。ところが小諸の美術館で写真展が開催されているというので、行けばお会いできるのではと思って訪問したら、これが大正解。初めてじっくりお話をうかがうことが出来た。
この昆虫写真展は、小諸高原美術館で9月6日まで開催されたものである。巨大かつ高精細のパネルが並んでおり、まさに一匹一匹の昆虫が大スターとして輝いている。これは撮影に秘密があると伺った。普通にクローズアップ写真を撮ると、前後がボケてしまうが、ピントの位置を変えた複数の写真を合成し、全体にピントが合うようにしたものに出来るとのことだった。海野さんはカマキリも専門に研究しておられるので、別室ではカマキリだけの写真展もあった。擬態で有名なコハムシにも種類があることが初めて分かった。差し出がましいようだが、これほどの写真展なら、小諸だけでなく、全国ツアーを検討して頂くようお勧めした。
海野さんが凄いのは、小中学生の教育に熱心なことだ。会場にはパナソニックの協力で4KTVが10台ほど設置されており、画面には、全国の子供たちが撮影した動物や昆虫の決定的な瞬間の写真が表示されていた。海野さんも、子供たちの技術には驚かされますとおっしゃっていた。後は私事だが、黒蟻とカマドウマの対策もお聞きすることが出来た。黒蟻は、飼育している昆虫を食べてしまうので困ると言われていた。
「吉田茂の選択」 2015/8/14
NHKBSの昭和の選択という番組が吉田茂を特集しており、見ごたえのある番組になっていた。見ていない方のために、要点をまとめると、戦後日本が占領下で、未だ独立していない段階なのに、既に東西冷戦が始まっていた。日本を自由主義陣営に組み込みたいダレス長官は、独立のための対日講話の前提として、防共の防波堤にするべく、日本に再軍備を迫った。しかしその時は平和憲法を施行したばかりで、国民は平和主義に傾いており、マッカーサーも日本の非武装中立という方針を打ち出していた。しかし何としても講和と独立を勝ち取りたい吉田は、落としどころを探り、その中に日本の防衛は国連に委ねるというものや、朝鮮半島を含む北アジアに非武装武装地帯を設定するという案もあった。特に前者は、保守系の政治家なら絶対に口にしないだろうが、本来はあるべき世界平和の姿かもしれない。後者は日本が朝鮮戦争などに巻き込まれて、兵力を提供することを要求されないようにという吉田の思惑もあった。吉田には、再軍備に金を掛ければ日本経済の復興がままならなくなるという判断があったようだ。しかしダレスはそんな案では納得しないことも明らかだったので、結局、吉田は5万人規模の安保隊の設置と、基地の存続の容認という形で決着を図ることになった。ダレスは講話を認め、その付帯条件として、吉田が単独で、初の日米安保条約に調印することになったのである。
しかし問題は基地の扱いだ。基地があるということは、占領が続いているということに他ならず、半独立国だということだ。それが今でも続いていることが問題なのである。しかもこの合意では、米国は日本に基地を置くことができるが、日本を守る義務はないとされている。これ以上はない不平等な協定だった。振り返って、今の安保法制。日本が米国に協力する義務ばかりが強調されており、では有事に米国が日本を守ることがどこにうたわれているのか。日本を守ってくれるかどうかは米国の政権の判断次第なのだ。安保法案で何が最大の問題かと言えば憲法無視だが、同時に実際面から見ても、無理と矛盾がある。不平等な日米の基地協定のままでは、更に自衛隊や日本の国民の負担だけが一方的に増える仕組みになっている。
新安保法制には、あるべき21世紀の世界平和のビジョンがあるとは到底思えない。数年先のことしか念頭にない。しかもあてに出来るかどうかさえ分からない米国の軍事力にすべてを委ねようという、独立した民主主義国にはあるまじき卑屈な国の姿なのである。
話を戻すと、結局吉田が提案し、ダレスの合意で、5万人規模の保安隊(自衛隊の前身)を置くことになったが、体裁上、米国の要求という形は取らなかった。それでも、それは米国の圧力によるものだった。米国に任せたら30万人になっただろうという憶測もある。いずれにせよ、名目上独立はしたものの、事実上、日本は米国から独立していないと言えるのである。戦後の混乱した政治情勢の中で、マッカーサーやダレスと対等な口をきけるのは吉田だけだった。だから日本の国民も吉田を支持したのだ。安倍首相は吉田の独断専行の部分だけを真似しているようにも思える。それでも吉田の場合は極めて高度な政治的判断だったのだが、それに比べると、安倍政権からは緊張感が伝わってこない。日米安保とのセットで、講話の条件が整った後、ダレスはアジアや西欧諸国を行脚し、日本に過大な賠償をしないよう説得して回ったと伝えられる。こうして軽武装で独立を果たした日本は、経済的な発展を遂げることになったのである。
安保法制の前提となっているのは日米軍事同盟だ。その姿がどうあるべきかを考察するときに、昭和の歴史を振り返ることは必須の条件である。しかもその中では大戦の総括を避けて通ることは出来ない。基本的な勉強もせずに、安倍政権と取り巻きは、やたら再軍備(安保法案の意味するところは防衛力の増強以外の何物でもない)だけをまくし立てている。今の国会での審議はもはや禅問答みたいなものになっている。自民党議員にアンケートを取り、この1年、何冊本を読んだのか、またその題名は何だったのかを調査すれば面白い結果が出るのではないだろうか。
上記の番組中で、五百旗頭が現実的な解釈を行うと共に、司会の磯野が、太平洋戦争で最大の被害にあった沖縄が、その後も米軍基地の最大の被害者であり続けているという矛盾、しかも本土側がそれを理解していない点をはっきりと指摘していた。吉田のドクトリンはもはや現代では通用しない。独断も許されないし、冷戦の構造もない。今や軍備に頼らない平和の対策を模索することが、全人類を死の淵から救う唯一の、しかも「現実的な」方法である。
「70年談話と敗戦の日」 2015/8/15
今日は敗戦記念日だ。それをなぜ終戦記念日と言うのかと言えば、敗戦と言ってしまえば、誰かが責任を取る必要がある。だから災害のように見せるための、当時の官僚の知恵なのだそうだ。
安倍首相の70年談話が、閣議決定を経て発表された。過去の談話が1300字くらいだったのに、3000字におよび長文で、良く記憶できたものだと感心する。内容は侵略、反省、お詫びの入ったもので、これが本音であれば80点の出来栄えだ。なぜ80点かと言えば、以下の二点が気になったからだ。まず、謝罪を戦争の経験のない、我々の子や孫の世代に引きずってはならないというくだりで、これは謝罪はもうたくさんという風にも取れるし、我々の世代で謝罪を清算しておきたいというようにも受け取れる。もう一つは相も変らず積極的平和主義という言葉が使われている点だ。これは安保法制を正当化するものだ。しかも全体的に、自分が信じても居ない、他人の作文を読み挙げているだけという雰囲気に満ちていた。なぜなら、今までの安倍信三氏の主張とは、あまりにも掛け離れた内容だったからである。
今回の談話は、政権の最近の一連の動きの中央に位置する重要なイベントである。世界中が注目しており失敗は許されない。なぜなら安保法制が控えていて、その目的が平和維持にあることを強調する狙いがあるからだ。新国立も普天間も、安保法制の成立まで、大きく波風を立てさせないための方策であり、総裁選の続投をにらんだ布石なのだ。とってつけたような、安倍首相の平和主義者(?)のイメージを喧伝するために、スタッフが心血を注いだというところだろう。まさにプロパガンダそのものなのである。この談話で、安保法制の毒を薄めるとともに、歴史と国民に顔を向けている振りをする。国家主義を捨てたかのような印象を装ってでも、安保法案を成立させたいという強い意欲が感じられる。
しかしながら安保法制そのものは、紛争解決に武力は用いないとする美辞麗句に飾られた、この70年談話とは全く相反する法案だ。自衛隊(軍人)の裁量権を拡大すると共に、外国との軍事同盟、即ち集団的自衛権を前提にしている。抑止力だけでなく、紛争時には実際に武力を用いる事が前提となっている。米国の軍事行動へのより積極的な参加である。即ち、今回の談話は、国民とアジアの国々を納得させる事を目的とした、周到に用意された作文なのである。しかも談話は談話であって、成文法と異なり制約も罰則もない。だから安倍政権は、一朝ことあれば武力を行使できる。その時は、自国の防衛のためだから仕方がなかったという言い訳が用意されるころになるのだろう。その武力の発動は首相の権限となり、しかも国会は事後承認だ。安保法案が成立すれば、武力を発動する全権を首相が掌握することになる。
談話を作文した官邸は、どこまで国民を馬鹿にすれば気が済むのだろう。しかしいかに隠し通そうとしても、結局本音必ずどこかから漏れる。若手の側近たちの妄言・暴走が端的な例だ。極右と言っても良い彼らは、首相に取り入るために、その思想に共鳴する。安倍政権ある限り、戦争準備は進み、その結果、平和からは遠のくのである。基本的に戦争準備と平和論は水と油である。政権交代だけが、日本の真の平和維持の為の唯一の解なのだ。首相の談話から、安倍政権が平和主義者であるかのような誤った印象を持ち、安保法案反対の手を緩めてしまえば、後で取り返しのつかないことになる。それは安倍首相に統帥権を与えることになるからだ。今日が戦後70年の敗戦記念日であればこそ、私たちは政権の本音と真っ向から向き合う必要がある。そうでなければ、戦争で亡くなった300万の国民に、私達はどうやって顔向けが出来ようか。
話は違うが、最近戦争をテーマにした番組が数多く放映されている。ドラマには関心がないが、ドキュメンタリーはなるべく見るようにしている。その一つに米国人のカメラマンが、終戦直後の日本で撮影した写真の展示会を米国で開催したという番組があった。その一枚に、幼い少年が、赤子の妹を背負って毅然と立っている(有名な)写真がある。しかし実は背負った幼子は死んでおり、少年は火葬場の列に並んでいたのだ。少年が背負っているという事は、両親も原爆で死んだ事を意味している。この写真を見た米国人が涙を抑えていた。写真家はこの少年を探したが、結局誰かは分からなかったという。この一枚の写真は「蛍の墓」の実写版とも言えよう。
戦争というものは、その目的が侵略であれ、自衛であれ、戦いであるがゆえに、悲劇を引き起こす。戦争では必ず悲劇が起きる。それが戦争における唯一の真実なのだ。勝っても負けても死者は出る。しかも大儀のためにと言っても、それが何なのかよく分からない。攻めてくる相手は、ひょっとしたら日本の国民を侵略的な資本主義から解放(?)するために来ているのかもしれない。即ち大義名分や正義も、結局は相対的な概念でしかない。最も大事なことは、食い違いが起きても、お互いに、銃には絶対に手を伸ばさないことなのだ。死者を出さないためには戦争を引き起こさないこと、また戦争に巻き込まれないことが必要なのだ。敵に攻め込まれ、頭に銃を突きつけられるまで、銃を抜かない。それが結果的に双方の命を守ることになる。今から準備をという、ネトウヨやネオナチの思想も危険だ。なぜなら完全な準備をしようとすれば、世界最強の軍備を揃えなければならず、それは国民の過大な経済的負担=増税、を意味するからである。更に徴兵制であれ、志願制であれ、兵員を増強し、最後は敵と同等以上の核兵器を装備しなければならなくなるからだ。そして思いもかけないきっかけで、一度戦火の火ぶたが切られたら、後は滅茶苦茶。悲惨な目に合うのは国民なのである。
何故安倍政権はそういう動かしがたい真実を、大戦から学ぼうとしないのか。戦争を知らない若者、と言ってもいまの40-50代は、日本人は平和ボケだなどとすぐに言う。戦火を生き延び、戦後の貧困に耐え、なんとかここまで復興を果たしたのはあなた方の親の世代であって、あなた方は、戦後の繁栄の中で生まれ育ち、戦争の悲惨さを全く知らない。甘いのは我々ではなく、あなた方なのだ。我々の世代の、戦争を語り継ぐ努力も、おそらく彼らには引き継ぐ気は毛頭ないだろう。戦争はTVゲームではない。一度撃たれたら二度と生き返ることはない。
もう一つの番組は、「英雄たちの選択」という番組で、島田沖縄県知事を取り上げたものです。官撰知事なので、県民の保護と戦争遂行という矛盾した命題の間で全力を尽くした。婦女子の疎開を進め、食料を確保した。但し動ける男子は県内に残した。米銀が上陸し、追い詰められた陸軍は、結局、司令官の自決で幕を閉じるのだが、知事は壕にこもった県民に自決するな、投降せよと言い残して、自分は行方不明(自決)になる。座談会の出席者は、そこにあったのは教養だと分析している。最後の判断基準は、命令がどんなものであれ、教養と本能であると。壕から出て投降しようとする県民に、日本兵が背後から銃を向け、壕から出たら背後から撃つと脅した。米兵より日本兵の方が余程恐ろしかったと生き延びた県民が語っていた。これが戦争というものの実像だ。一旦戦闘が始まれば常識も倫理も通用しなくなるのだ。
県民に自決を要求した沖縄守備隊でさえ、時間を稼げという本部の命令に従っただけかもしれない。しかし海軍は、そんな県民の惨状を見かねて、本部に善処を要求した。日本軍、特に陸軍がどれだけ日本と国民に、迷惑を掛けてきたことか。今の自衛隊は旧日本陸軍とは違うというかも知れない。でも軍隊という意味では全く同じなのだ。追い詰められれば、国民を盾にしてでも、自分たちが助かろうとするかもしれない。日本軍にはそう不名誉な歴史がある。究極的に人間はみな命が惜しい。それは自衛隊も民間人も変わらないのです。だから相手に非武装を要求するためにも、こちらも非武装中立になるしかないのである。この敗戦(終戦)の日に臨んで、私は改めて、マッカーサーが理想とした非武装、中立を声を大にして要求したい。