「WTWオンラインエッセイ」


【第11巻内容】


「日本の独立が世界を救う」
「米軍との運命共同体で良いのか」
「祝!軍国主義国家新装開店」
「質疑の体さえ成していない国会審議」
「軍事同盟が狭める戦争回避の選択肢」
「安保法案反対の八王子集会」
「ディア・ハンター」
「TVドラマ」
「クズのNHKか、NHKのクズか」
「安保不平等論」
「米国人の目で見よ」



「日本の独立が世界を救う」 2015/8/16

昨日の早朝の「朝まで生テレビ」は、論客を揃えて、テーマも幅広く、4時間に及ぶ討論だが、本音で話し合うだけに、国会審議などより実りある討論になった。録画を見るのに午後を全部使ったが、その価値はあった。出席者は孫崎亨、辻元清美(貫禄と余裕がついてきた)、小池晃、小林よしのり、森本敏、猪瀬直樹などで、戦争責任から、集団的自衛権、安倍談話の本質まで、タブーなしで、幅広く議論された。今回は、参加者に人格や知性の疑わしいメンバーがいなかったこともあり、議論が空回りする時間もなかった。

ところで昨日は戦没者慰霊祭の日。安倍談話の翌日だというのに、首相の舌の根も乾かぬうちに、女性閣僚が3人揃って靖国を参拝するなど、安倍談話が体裁だけであることがはっきりした。ちなみにこの慰霊祭、遺族代表は最後に一言、それも軍属の家族だけで、その前に、政府から首相、衆院議長、参院議長、最高裁判事と、これでもかと、似たような式辞ばかり。いわば式典自体が官尊民卑の構図で、一体誰の為の、何のための慰霊祭か全く分かない状況だった。
・関連記事。天皇陛下。深い反省に初めて言及
・関連記事。首相、加害と反省言及せず。

朝生に話を戻す。小林よしのりは、今回の安倍談話は、自民党の考えとは全く違っており、安保法制を通したいが為に、譲りに譲った結果だとしており、これは私の主張と重なる。自民党は村山談話など大嫌いだと付け加えていた。ところで司会の田原は政治家との付き合いが長く、失言も皆無ではないが、彼以外に、いかなる論者でも黙らせる人間は思いつかに事も事実。早急に彼の後継者を育てることが、日本の国民が民主主義を維持するうえで、必要不可欠だと思う。猪瀬は、戦前も戦後も、結局主権は官僚にあると指摘していた。

安保法制と集団的自衛権は憲法違反だというのが自民党を除く大方の意見である。一方で、日本は米国の力を借りないと自国の防衛は出来ないという点でも一致している。自主防衛を主張したのは小林だけだ。自主防衛が出来なくて、しかも武力でしか日本を守れないという判断に立てば、もうそこには米国隷従の道しか残されていないことになってしまう。しかもそういう筋書きを官僚が描いて、米国と水面下で通じていれば、日本国民がいかに反対しようと、安保法案の成立は必至である。あまり信じたくはないが、戦前も、そして戦後も、日本の民主主義や主権在民を否定してきたのが、他ならぬ日本の官僚機構だという事になりはしないだろうか。
 
ここからは自説である。米国は自国の利害に関係しなければ、軍事力を行使しないというが私の持論だ。それは国民の代表たる米国議会が、それを承認しないからだ。いかに日米安保条約で明記していても、有事にどこまで米軍が対応してくれるかは、米国の判断に委ねられている。日本から要求など出来ない。現行の安保条約では、米国は基地を置く代わりに、日本を守るという内容の片務契約だが、これを双務にしたいという米国の要求には、いささかの意外性もない。そう考えると、安倍首相が安保法制を急ぐ理由が良く分かる。要は米国の圧力が背景にあって、しかも独裁主義で、かつ軽率な首相がホイホイと、国会に諮りもせずに、安請け合いをしてしまったという訳だ。最後は解散を掛けても、押し通すしかない選択肢はない。それをやらないとCIAに命を狙われかねない。命は奪わないまでも、米国はより米国を重視する首相(例えば石破))への交代を要求するだろう。逆に米国の言いなりになっている間は、その人物が米国の嫌いな国家主義的体質であっても、米国は安倍をとことん利用しようとするだろう。議会での演説も許可するだろう。事実、70年談話をお手本だと米国は評価しているのである。

米国が日本に基地を置くのは、日本を守りたいからではない。占領時代から一貫しているのは、日本を太平洋の反対側の端で、自由主義陣営の防波堤として位置づけたいという「米国」の覇権維持の為だ。しかも戦後70年、という事は平和憲法施行から70年も経つのだから、そろそろ自分の力で自国を守るだけでなく、アジアの平和に軍事力で貢献してくれても良いではないか。但し変に力を持つと、またぞろおかしなことにならないとも限らないので、あくまで米国の管理下で、米軍の一部として、米国の負担を一部肩代わりさせたい。それが現在の日米関係の現実の姿だと思う。そして安倍晋三は、米国と共に日本が軍事力を身に着け、やがて世界の覇権を(米国の最重要同盟国として)共に握りたい野望に燃えているのだろう。

だから安保法制の成立は避けられないだろうというのが私の見立てだが、そうなると国民主権も、平和憲法もあったものではなく、日本は権力者の言いなりの独裁国になり、国民には救いがない。しかし独裁国というのは必ず自滅する。それは歴史が教える真実である。なぜなら人間は本来自由で平等な存在で、無限い抑圧を続けることは出来ない存在だからだ。言い換えれば、どうせ転覆される独裁国という形態は、それが例え短期間であっても、歴史上で不要な、無駄な期間なのだ。実権を握っている政官財にとっても全く同じことだ。現時点でいくら蓄財しようとも、中国の高級官僚ではないが、やがては公平に分配される日が来るからだ。ならばそんな迂回をするよりも、民主主義という基本的な政治形態に立ち戻り、その形態の中で合理的に利益を追求する方が、余程理に適っているし、長続きもするのである。

日本の現在の政官財は、理想的な民主主義政治などに全く関心はなく、自分たちの目先の利害が最優先であって、米国の核の傘の下で自らの最大の利益を追求できればそれでいいと思っているらしい。米国が自衛隊を出せと言えば、出してやる。自衛隊に加わるような人は、権力層の子弟にはいないから、痛くもかゆくもない。国民は政府の臣民であればよく、国力を支える消耗品である。憲法は国民を縛る法律であり、メディアも権力者の側に立って、都合の良い情報だけを流していれば良いのである。反旗を翻すようなメディアは社長を首にすると脅せば済む。経済的な平等も、思想的な自由も、法の支配もない社会。それが安倍政権下の日本の姿なのである。まさかそうとは思わなかった。それはそうだろう。実態をどのメディアも報道しないのだから、それは存在しないのと同じだからだ。

今のままなら、流されるように安保法案が成立すると、反対する国民が大多数なのに、国民が取り得る合法的な対抗策はない。遡れば、これは小選挙区制で自民党が相対的多数を占めていることに起因している。一方、現状の変革を余り好まないという国民の基本的な保守体制への志向と、有権者の半数を占める政治への無関心層の存在が大きい。小選挙区制では、政党の主流派しか選ばれない。だから安倍首相への権力集中がますます進む。そうでないと公認されないからだ。かくして日本は独裁国にまっしぐらに進む仕組みになっているのである。これを是正して、より民意を正確に政治に反映させるためには、中選挙区に戻す必要がある。有権者の25%しか支持していない自民党の独裁政治で、一体今後何が起きるのだろうか。一部は予測できる。それは経済格差の一層の拡大と、自衛隊の米国の傭兵化である。

日本は、少子化で昨年30万の人口が減った。しかも今後毎年100万人規模で少子化が進むと言われている。そうなると、志願制だけでは、米国が要求する兵力の水準は維持できなくなる。だから米国でさえやっていない、徴兵制が施行される時が必ず来るだろう。いま安倍首相はそんなことは絶対にないと必死に抗弁している。それは憲法に書かれている、国民の服従を強制されない権利に抵触するからだと。でも安保法制の為に、憲法解釈を勝手に変更したのは、他ならぬ安倍晋三だ。徴兵制だって迂回解釈で対応しないと、どうして言い切れるだろう。憲法はあってなきがごとし。憲法を無視する政権。それが安倍政権なのだ。

安保法案の成立は避けられない見通しだが、国民は手を拱いていてはならない。むしろ旗を押し立て、自民党の議員の宿舎に押しかけてでも、法案阻止を訴え、それでも成立したら、直ちに違憲訴訟を起こさねばならないのである。政府側は60年安保の時も、後で国民は納得し、感謝したという説明をするが、それは余りにも都合の良い勝手な解釈だ。デモでは死者まで出ているのである。条約以降、日本が米軍に守られたケースがどれだけあるのだろうか。一件もないではないか。外国からの侵略を阻止してきたのは、海保や空自や、日本の外交努力だったではなかったか。

いついかなる場合でも、政府は国民の大多数が反対している法案を通すべきではない。というよりそんな権限はない。仮にその結果、国民が不利益を蒙っても、それは国民が自分で選んだ責任なのである。国民には自分で、自分の運命を選択する権利がある。

朝生でも、どこにどういう危機が迫っているのかという質問に、自民党議員は答えられなかった。それはそうだろう。差し迫った危機というのがない上に、目先の問題が中国の太平洋進出への歯止めであって、それは目前に迫った危機的状況というよりは、むしろ米国と中国の覇権争いだからである。そして来るべき中国との有事、或は小競り合いの為に、今から自衛隊を訓練しておきたいというのが米国の本音だろう。アジアの有事に、自衛隊が軍事協力し、海外派兵を可能にする法律が安保法案なのだ。

具体的な有事として思いつくのは、北朝鮮が38度線を超えてソウルに戦車を動かす場合だ。韓国は当然戦闘行為に出ざるを得ないが、かつての朝鮮戦争では力不足で、あっと言う間に(数時間で)ソウルに戦車が進軍した。いまは米軍が韓国に駐留しているが、米国は手を引きたがっている。その穴埋めとして期待されるのが、自衛隊だ。だから自衛隊の海外派兵が出来ないと米国は困る。現時点で北朝鮮が韓国に雪崩込めば、米軍も黙ってはいない。戦闘が始まる。日本と密接な関係にある国が、攻撃を受けている。場所が場所でもあり、首相は容易に三要件に合致するという判断を下すだろう。さもないと韓国の次の目標は日本だからだ。そして自衛隊に初の海外戦闘命令が下される。日本は南北朝鮮の戦いに駆り出される。こうなると平和主義も、専守防衛もあったものではない。第二のベチナム戦争に。日本も引きずり込まれるのである。紛争解決の手段として武力を用いないという憲法が空文になってしまうと、このように何でもありになってしまうのだ。

日本が米国から、本当の意味で独立を果たし、既得権者の支配から、国民の手に政治を取り戻す。防衛も自国で対応する。それがあるべき姿だと思う。自主防衛のためには、莫大な軍事費が掛かるという指摘もある。でもそれは本当だろうか。日本の原発のおかげで、日本にはありがたくない副産物のプルトニウムが15トンもある。宇宙の果てまでピンポイントでロケット飛ばす技術もある。30分で核爆弾を作ることもできる。無論それを直ちに実行に移す必要もなければ、絶対に実行してはならない。しかしの可能性を外交の切り札にできる。金が掛からない自主防衛も、知恵を絞れば不可能ではないのである。米国の庇護の下でまどろみ、自らの利益だけをむさぼってきたのは、日本の国民ではなかったか。そういう既得権者の為に、何故これからも日本の国民が、兵役を含む犠牲を強いられなければならないのか。本当に目指すべきは、世界中の教養のある市民と連携して、それぞれに真の民主主義国を作り上げることだ。そしてそれらの国々では非武装中立が根本原則となるだろう。軍事力は国連に預けることになるだろう。しかもここで重要な事は、それが絵に描いた理想論などではなく、世界と日本を破滅や悲惨さから救う、唯一の現実的な方法だという事である。だから他国の利害の為に、戦闘に加わり、自国の国民を犠牲にするなど、あってはならない事なのである。

安保法制では、朝鮮半島の有事だけでなく、南シナ海の、中国とフィリピン、ベトナムの紛争でも、米国支援と言う形での参加を要求される。要するにアジアで、日本は米国の先兵になることを期待されているのだ。米国の大統領の要請(または命令)があれば、安倍首相率いる自衛隊が「アジアの安定の為に」出動するだろう。でもそれをそのまま正直に法案に書いてしまえば、いかにおとなしい、或は無関心な日本国民でも納得するはずはない。だから安倍談話は美辞麗句(厚化粧)を使い、平和主義を装っているのである。こういう不健全な、かつ不平等な関係を絶たない限り、いつまでも日本の本当の独立などはない。その為には、政府の横やりなしに、国民の一人一人が、理想とする日本の国家としてのあるべき姿を、心の中で描くことから全てが始まるのである。



「米軍との運命共同体で良いのか」2015/8/17

世論調査では、70年の安倍談話はおおむね好意的に受け止められた。それはそうだろう。本人は自身の歴史観を表明する場にしたいと願っていたのに、内閣の支持率の急落に焦った周囲が、よってたかってタカ派的な発言をはやめさせ、原稿をズタズタにして、とても安倍首相の言葉とは思えない文章を作文し、挙句の果ては本人なら絶対に言いたくないであろう反省やお詫びや侵略の文言まで入れてしまったからである。だからところどころに言い訳の言葉が入っている。侵略というけれど、外国もやっていたじゃないかとか、お詫びと言っても、これっきりだからな等々。こうなるともはや捨て台詞である。談話が本音でないことは中韓も直ちに見抜いてしまい、その後の行動を見守るというコメントがついた。作文に関与したであろう(実際には官邸と外務省が必死に米国と連絡を取り合った様子が目に浮かぶ)米国だけが、お手本だとほめそやしてみせた。

この安倍首相の操り人形に等しい言動に、心ある人達は絶句したはずだ。文章と態度が全く異なっていたからだ。これが日本の代表の姿なのか。好意的にとらえることも出来る。あれだけタカ派だった安倍晋三が、表面的ではあれ、爪を少しでも引っ込めたように見えたからである。でももし本当に、「心から」安倍首相が(というより特に支持者たちが)そう思っているのなら、(その後の行動である)集団的自衛権や安保法制を取り下げないと整合性が取れない。でも麻生副総理が奇しくも漏らしたように、安保法案さえ通してしまえば後は何を言っても良い。それこそが安倍政権の本音に他ならないのではないか。だから談話もその場しのぎの、間に合わせの、世論をなだめるための政治的宣伝、即ちプロパガンダとして使われたという疑いが拭い切れない。その結果として、安倍晋三は、国内の守旧派と、米国の操り人形であるという正体を図らずも露呈してしまったのではないか。でもそれは今でも安倍晋三の本心ではないはずだ。そこには日本の主権も、米国からの独立もない。もはやどう表現して良いのかさえ分からない、日本と、日本国の代表のみじめな姿があるだけなのだ。しかもそれは周囲や米国が「首相を諌めた」からではなくて、彼らが安保法案を無理やり通すために、安倍首相に強制したことなのである。そうやって、兎にも角にも一旦法案が成立してしまえば、嘘も方便、政治とはそうしたものよと、今度は関係者一同が、揃って開き直るのは自明の理のように思われるのである。

いまや首相の言葉には千金の重さどころか、原稿を記した紙ほどの重さもない。そういう状況で、どこまで首相の言葉が信用できるのか。公式見解が信用できないのなら、何を信用すれば良いのか。それは私たちが口先だけの美辞麗句より、時々漏らす本音に注目しなければならない事を意味しているのである。

今回の大修正は、日本と韓国と中国の関係の悪化を懸念する米国からの圧力によるものだろう。でも取り巻きも、米国も、想像していなかったことがある。それは日本のインテリ層(英語で言えばエデュケイテッド・ピープル)の反応だ。インテリ層は、一般の国民とは違って冷めた見方をした。首相の口調と文書との食い違いにすぐに気が付きました。新聞でさえ、安倍首相万歳とは言っていない。ここで取り巻きの政官財に言いたいことがある。言動不一致がどこまでも通用すると思うのは甘すぎるという事である。

戦争が悪い、平和が大事というのは、安倍政権も国民も同じかもしれない。但し安倍政権の中には日本人が平和ボケだといきり立つ浅薄な者たちもいる。でも実はそれは自分達の欲ボケを意味している。彼らの感情的で幼稚な脳裏には、TVゲームのように銃を打ちまくる自分たちの姿が重なっているかもしれない。最少限度の武装は必要、自衛のための戦闘はやむを得ない。多分そこまでは双方が合意するだろう。即ちそれは専守防衛だからだ。でもそれがぎりぎりであって、そこから先が安倍派と反安倍派で大きく異なる。そこから先は戦争否定でも、平和主義でもなくなる。またそこで安倍派は米国に依存し、米国に協力しなければ、日本の安全は守れないと考える。この考え方には同調する野党もある。しかし何度も言うようだが、安全保障の方法と手段には選択肢が必ずある。米国依存は中でも最も安易でお手軽な方法でしかない。しかもそれは、安倍政権も言いたがらない、大きな代償を求められるのだ。その最たるものが、米国の戦争に(末端ではあっても)参加するという、絶対に憲法では許されない行為である。しかしその義務は、軍事同盟を結べば当然の如く生じるものなのである。だから絶対に軍事同盟を結んではいけないのである。それは米国と一蓮托生の道を選択することを意味しているからだ。むしろそこまでやるのなら、米国の51番目の州にしてもらう方がまだましというものだ。そうすれば、少なくも、国の代表くらいは自分たちで選ぶことができるからだ。我が国の既得権者が必死に守ろうとしている独裁政権でなくなるだけでも、ましなのかもしれない。

安倍政権が代表する政官財の現実主義。でも不思議なことに彼らには将来の世界のあるべき姿についてのビジョンは全くと言ってよいほどない。彼らは目先の利害が最重要事項なので、理念もビジョンもないのは、ある意味当然なのかもしれない。米国が将来凋落するかもしれないという可能性さえ考慮されていない。安全保障の観点から言えば、武装の程度はともかくとして、理想は自主防衛である。でも欲の深い既得権階層としては、それは国としての経済的負担が大きいので避けたい。だから最少限度の負担で米国に守って貰う事を望む。そこで出てきたのが、自衛隊に、(限定的に)米軍を支援させるという案だ。でも限定的という言葉が何の歯止めにもならないことは、イラク戦争で後方支援と言いつつ、自衛隊の輸送機の任務は、武装した米軍兵士の輸送が大半だったことでも明らかだ。しかも米軍の戦場に行くのは既得権層の子弟ではない。

もはや冷戦時代ではないので、安全保障は多極化する世界を前提に考えなければならない。歴史に学んでいれば、米ソの対決も、米中の対決も事実上ありえない。だからあり得るのは米とテロとの対決。その戦場に、(何教でもない)日本の自衛隊が(積極的平和主義を掲げて)参加することになる。しかし自衛隊には、どれがテロリストか、どれが反政府勢力かの区別さえつけられないだろう。だから、テロとの戦いは、国連主導でないと、何の為の戦いかも分からなくなる。日米だけが前線で戦うことになれば、待っているのは目的が不明確で、しかも先の見えない泥沼の戦いである。しかも見分けがつかないのだから多くの市民が殺される。要はベトナム戦の再現だ。一方、安保法案のような法律を根拠として、自衛隊が米国の先兵になるということは、自衛隊と日本の国民がテロの絶好の標的になることを意味している。恒久平和を取り下げた国に、もはや何の遠慮もいらないのである。しかも最初に狙われるのは、海外で活動するNGO団体だろう。

今の世界の混乱は、国連を中心にまとめてないとどうにもならない。でも今の韓国人の無能な事務総長にはその意欲も能力もない。いまや世界平和の為に、国連の機能と組織を見直すべき時期に来ている。国連がまともに機能するようになって、そこで国連軍として応分の負担をもとめられれば、それくらいの負担や犠牲は仕方があるまい。でも単に米軍の一部として戦うとなれば、大儀名分が立たない。安保法案の新三要件など、いかようにでも解釈できるので、何の抑止力にもなりはしない。三要件には殆ど意味のないことを十分承知して、法案を通そうとしているのが安倍政権である。理解しないのは国民が悪いと言わんばかりだが、嘘で嘘を塗り固めた、安倍政権の実像がそこにはある。政権が信用できないので、その約束も信用できない。それが国民のごく自然な反応ではないだろうか。政権の言い分を一度でも疑うという視点を持てば、恐ろしいほどに見えてくる真実というものがあるのである。

騙す方が悪いのは無論だが、何故そう易々と国民が騙されるのか。大本営の発表を鵜呑みにして、戦争に引きずられ、或はのめり込んでいった国民と、政官財報の鉄の四角形に取り囲まれて、政権の説明を丸呑みにさせられている国民と、どこが違うのだろう。結果に違いはないだろう。戦前の洗脳された国民の熱狂に代わるものが、現在社会の政治への無関心である。

私(WTW)が長年にわたって訴え続けてきたこと。それは国民が、自分の目で世界の実態を見て、自分の頭で状況を判断し、自分の決断で、自らの人生を選ぶことだ。そこでは全体を考える前に、まず国民一人一人の意見が存在しなければならない。

安倍政権の憲法改正案では、憲法の主役は国民ではなく、国家だ。国家権力を縛る仕組みとしての憲法本来の役割より、国民の奉仕義務の方が強調されている。そこでは全体=国家の利害が、国民に優先し、個人は国の為に尽くすべきものとなっている。しかし、政治家を無条件に信頼し、重要な判断を任せてしまう代わりに、国民が自分で考え、自分で判断しなければならない。それでしか日本が、国としての存在を維持することは出来ないのである。



「祝!軍国主義国家新装開店」2015/8/18

今日の前書では、今のままなら必ず訪れる日本の明日の姿をご覧に入れたい。かなり長いが、少しでも皆様の現状理解のご参考になることを願っている。

特に秘密の情報源などがなくても、新聞やネットやTVの情報だけでも、丹念に目を通し、知識を蓄積しさえすれば、世界の動向の大体の方向性が見えてくる。実際、各国が各地に派遣している、情報蒐集の専門家(いわゆるインテリジェンス)の人たちも、情報の大部分はそういう普通の情報源から入手している。情報を買うとか、ハニートラップとか、ダブルスパイなどが話題になるが、庶民には使えないそういう特殊な手段を使わなくても、判断に必要な95%の情報は、ありきたりの情報源で十分なのだ(ただし最低限度の語学力は必要)。

私はNY駐在当時、頼まれもしないのに、自ら勝手に手を挙げて、所属企業の為にそういう作業を日夜やっていた。資料は全部英文で、字が小さいこともあって、おかげですっかり目を悪くしてしまったまま現在に至っている。しかしそのような市中に出回っている、ごく普通の情報でさえ、日本では十分に報道されていないという事実に、後で気が付いて、つくづく日本は情報鎖国の国だと思った記憶がある。WTWが志しているのは、そういう私のある意味で特殊な体験から、日本の市民はもっと情報を知るべきだ、それが民主主義の基本だと信じるに至ったからである。但し、現在は20年前とは全く様相が異なっていて、数日遅れの英字新聞を読むまでもなく、和文で海外の情報にリアルタイムで接することができるようになった。まさに隔世の感である。

一方日本のメディアが質的に劣化して来ており、昨今では日本の大新聞が、政権の顔色を窺うようになっている。その結果、庶民の目には政府の真意や、政策の目的が分かり難くなっている。だから現在では、海外の情報よりも、国内でのインテリジェンスが重要になってきているのである。言い換えれば、大新聞とNHKの報道だけでは、実際に政治の現場で何が行われようとしているのかが国民には見極められないということだ。これは日本のジャーナリズムが第4の権力を自ら放棄している事を意味しており、それ故に日本の民主主義が、危機的な状況にあることをも意味している。

ところで、トレンドの把握だけでは不十分だ。それが将来の予測につながらないと意味を持たない。私は先の衆院選の年の夏に、安倍首相は年末までに解散総選挙をやるだろう、なぜなら民主党が弱体化している今がチャンスだと書いて、それが不幸にも的中した。それはアベノミクスの第三の矢の効果がなく日本経済に陰りが見えて、GDPがマイナスになることが十分に予見される事態(事実そうなった。しかも今年の4-6月もまたマイナス)だったからである。経済政策の失敗をチャラにして、一気に挽回するには総選挙しかない。しかし、その説明には絶句した。消費増税の実施を1年延期するかどうかを国民に問う選挙だと言い放ったのだ。自民党に投票しなければ即増税というのなら、やくざの恐喝となんら変わりはない。無論その時には、安保法制などはおくびにも出していなかった。最近の国会答弁では、公約に書いたなどと開き直っているが、むろんそれは大嘘だ。

自民党の歯止めの効かない暴走を許したのは民主党が弱体化したためだ。弱体化の原因は、民主党に第二自民党の体質が残っていたからである。民主の右派が、自民と同じ考えなら、民主に改めて投票する意味などない。自民党に投票すれば済むのである。みんなの党は、代表の金の使い道が問題になり、維新は橋下が暴言、暴走を繰り返した。行き場のなくなったリベラル票は、古めかしい名称の共産党に行くしか、なかったのである。そして史上最低の投票率が実現された。これはちょっと考えれば当然至極の結果なのである。投票率が低かったのは、国民の選挙への関心が低いことが直接の原因であっても、より大きな要因は選択肢が無かったことである。しかも争点の設定もおかしいし、それでなくても忙しい年末に、選挙をする必要性が理解できなかったからである。しかもその間に後藤さんの人質事件が進行していたのだ。

こういう姑息な手法は、その後の安倍政権の特色となった。即ち万事について姑息な政府の誕生である。ここでの大きな問題は、政府批判票の受け皿を、野党が用意できなかったことだ。低投票率の責任は野党にもある。しかも選挙の準備が充分に出来ずに惨敗した幹事長も責任を感じているようには思えない。そしてその後の代表選で、紳士的すぎる岡田が代表となり、自民にとっては願ってもない状況になったのである。

ところで間もなく審議が再開される安保法案は今後どうなるのだろうか。70年談話で平和主義者としての「禊の済んだ」安倍首相は、これまで以上に、安保法案が日本の安全と平和にとって唯一無二の選択肢であることを強調することだろう。誰が考えても荒唐無稽なホルムズ海峡の事例を引っ込めて、(イランは既に米国の敵ではないので)別の具体例を持ち出すだろう。その中で、誰も反対できない事を良いことに、日米関係の強化を振りかざすだろう。本当は米国への隷属に過ぎない軍事同盟なのに、いかにも対等な関係にあるかのように取り繕うことだろう。それでも反対の世論が強ければ、普天間基地の移転を無期限に先延ばしするかも知れない。既にオバマは、基地は普天間に拘らないと一度明言しており、その時は官邸がその報道を必死になってもみ消したという経緯がある。即ち米国を逆なでせずに使える切り札だ。新国立にしても、70年談話にしても、自民党が譲歩したように見せてはいるものの、実は今までが極端な右傾化と民意の蹂躙であって、それをわずかに軌道修正してみせただけなのである。しかもそれが本音でないことも分かっている。

かつて民主党の仙石は、自衛隊を暴力装置と表現してミソをつけた。攻撃したのは、他ならぬ自民党である。それなのに、安倍晋三は首相になった後で、自衛隊をわが軍と称した。日本の軍隊(国家の暴力装置の方がまだまし)なら未だしも、自分の軍隊だと言ったのだ。しかも、それさえまだ良い方で、防衛省、即ち自衛隊は、米国と独自に話し合いを進め、安保法案の成立を既定路線とした訓練計画を練り、既に実行に移していたことを、共産党の小池にすっぱ抜かれた。その結果、現在国会審議が中断している。しかも前回の審議の様子をNHKは国会中継せず、NHKはニュースでもこの情報を正面から取り上げようとはしなかった。

日本の自衛隊は、いつの間にか、もはやシビリアン・コントロールさえ効かない、文字通りの暴力装置に変貌を遂げていたのだろうか。但し今の安保法案が間違っていると思う人が防衛省の内部にも居てくれるので、こういう情報を国民が知ることができる。即ち情報を出してくれた人は、命がけで国民に訴えかけてくれたのだ。それは秘密保護法が、いかに民主主義や国民の民意に反するものであるかの反証でもある。自衛隊は、専守防衛のセルフ・ディフェンス・フォースでもなければ、日本の国民を守るための軍隊でさえないのか。安倍首相はどう思っているか知らないが、指揮権は首相にもないようだ。米国の直接の命令で動く、米軍のアジア方面隊に過ぎないという恐れもある。しかもその費用は日本の国民の負担である。このどこが安全保障の応分の負担なのだろう。自衛隊の主権が日本国民にはないのに、費用だけ負担せよと米国に言われているのと同じことだ。これでは、米国が安倍首相を歓迎しないわけがない。

次に待っているのは、米軍のアジア方面隊の強化である。自衛隊がアジアで米国の肩代わりをさせるにしても、いかんせん実戦経験もない自衛隊では心許ない。この弱小軍隊を訓練して実際に使えるようにしておかないと、いざという時の戦力としてあてには出来ない。自衛隊としても、戦争大国米国の指導を受けることで戦闘能力は飛躍的に向上するという期待があるだろう。この機会を逃す手はない。これはリンパックの対等な演習とは別ものであって、あくまで実戦を想定した訓練であり、米軍の直下で実践的な戦闘訓練ができるのだ。しかも言い訳も既に用意されている。自衛隊が戦闘力を高めることで、日本の国土と国民を防衛する力が高まるという理屈がそれだ。自衛隊を専守防衛の、最低限度の戦力という制約から解放することで、日本国民は制御の効かない、しかも莫大な費用の掛かる、暴力装置を抱え込むことになったのである。

最新の武器は高価だ。しかもそれは米国から買うしかない。米国も信用できない相手には最新の兵器は出さない。でも新日本帝国軍が全面的に信頼できるようになり、いわば米国のアジア方面隊になることを誓うのなら話は別だ。その結果として、将来安倍晋三は世界で有数の「実力」を備えた軍隊を、手中に収める事になる。それはなんという喜びか。岸が望んで成し得なかったことでもある。だから国民にその場限りの嘘を何回ついても、安保法案を押し通すのである。その強い動機が安倍晋三にはあり、それはヒットラーが欧州を制圧したときに酔いしれた感覚と同じものかもしれない。しかもこの状況は、米国の軍事産業にとっては新たなビジネスチャスでもあるのだ。あってなきが如き、なし崩しの武器三原則の下では、日本の財閥系メーカーが、武器を輸出することも事実上可能だ。即ち安保法案が導く先には、日本の重工業にも大きなビジネスチャンスがある。それは死の商人が暗躍する世界であり、そのどこに平和日本の姿があるのか、もはや全く分からない。それはたえざる紛争を前提にした世界観であり、安倍首相の口先だけの説明とは180度異なる世界像なのである。

最新の武器には金が掛かる。ではその費用はどう工面するのか。増税しかない。即ち日本の国民は自分の金で自分の首を絞めることになる。そして福祉の為ではなく、再軍備の為に、増税が行われことになるのだ。しかもそのツケは次世代に掛かってくる。少子化が進むので、費用面だけでなく、またもや政府の都合だけで解釈改憲が行われて、事実上の徴兵制が施行される。金だけでなく命も提供せよというわけだ。しかもそれは日本が自国を防衛するための戦闘でさえないのにである。

いま安保法案を認めてしまえば、如何なる状況が日本の招来に待ち受けているかを、どうかご理解頂きたい。軍事協定を結ぶ相手が米国だから安心だと一体誰が保証したのか。寧ろそれは逆ではないのか。米国だから危ないのだ。そこのところを安倍首相は、国民に説明する必要がある。当初反対でも、後で国民は納得したと自民党が強調する60年安保だが、当時私も学生だった。そして当時の議論を今でも覚えている。それは安保が危険なのは、日本が米国に背こうものなら、米軍が背後から撃ってくるからだという議論だった。即ち当時から既に、米国の日本を防衛するというのは建前に過ぎないという事が分かっていたのである。それは大戦の沖縄の壕内の県民の立場と同じである。前門の米軍、後門の日本軍だ。だから如何なる国とも、如何なる軍事協定も、結んではならない。しかもこともあろうに安倍政権はそれを恒久法にしようとしている。平和のための武力行使というのは矛盾だらけのまやかし以外の何物でもない。

かつて天皇どころか、陸軍省の命令で、国民は大きな犠牲を強いられた。最後には、財産は愚か、命さえ、国の為に(というより軍部のメンツの為に)供出させられた。その時利用されたのが靖国である。だから私は神社としての靖国には好感を持てない。事実宗教の違いもあり、靖国に祀られる事を拒否する遺族もいる。戦争の目的は、建前上は鬼畜米英に勝ち、日本を属国にしないため(国体を守る)と説明された。それが今度は米国の目的の為に、日本国民が費用と兵役を提供させられる。原爆を二発も落とした国にだ。しかもこの矛盾した二つの新旧の状況に、共に関わっているのが、日本の政官財である。日本の権力者はどこまで国民を食い物にすれば気が済むのだろう。民意どころか、その存在までも無視し、自分達の利害をどこまで優先すれば気が済むのか。戦後70年を経て、今よみがえる戦前の悪夢。しかしどうせ権力者に収奪される財産と命なら、せめて大義なき特権階級や外国の富裕層の為ではなく、将来の子孫の為に使いたい。いま国民が安保法案反対に立ち上がらなければ、この先、日本はずるずると、戦前と同じ泥沼に陥ってしまうのだ。そこに見えてくるのは、平和主義の日本ではなく、装いも新たな軍国主義の日本なのである。



「質疑の体さえ成していない国会審議」2015/8/26

安保法案の国会審議が事実上全く進まないのは、質疑応答になっていないからだ。そしてそれは質問に、正面からあるいは正直に、安倍政権が答えようとしてないからなのである。一方で、野党が条文の表現の不備や、応答の矛盾をいくらつついても、おそらく多くの国民は関心もなければ、理解も出来ないと思う。そういうのらりくらりとした答弁を続けているうちに、時間が無駄に過ぎてゆき、60日ルールの期限が来る。今回の審議は法案成立ありきの前提で進んでおり、そこで野党だけがいかに紳士的に正攻法で対抗してもうまくいくわけはない。野党は政権の衆院での強行再可決を前提に、より多くの国民が法案の危険性を正しく理解し、国民の反対運動が拡大するよう、キャンペーンを行うべきなのだ。野党には国民を味方につける努力がそもそも欠けている。強制採決が行われるにしても、それは国民の反対の怒号なしに行われてはならない。それが次につながる行動なのだ。

NHKはしぶしぶと、委員会の質疑の、それもごく一部を放映した。しかしあれだけ長く、しかも膠着した福山の質疑でさえ、まるでの何の問題もなかったかのように、報道していた。これは中立報道に名を借りた報道の脚色であり、国会審議の実態を伝えるものではない。答弁が当を得ていないこと、審議が膠着状態にあるという実態こそが報道されるべきなのです。野党の質問を政府が無難に切り抜けたかの印象を国民に与えるのは、NHKが事実や真実に忠実ではなく、まして国民の立場で報道を行う意識が全くないことの、明白な証拠である。その証左として、山本太郎の鋭い質問は全く報道されていない。彼は決して失礼な言い方はしていない。即ちNHKの報道は野党に対して平等でさえない。これは報道の自由と、国民の知る権利に対する、NHKの尊大、かつ明白な違反と裏切りである。一体誰が費用を負担していると思っているのか。安倍首相のポケットマネーなのか。

私が首相なら、安保法案の必要性を国民に訴える。戦後70年で(あるいは安保成立後に)我が国を取り巻く安全保障環境が大きく変わったというのであれば、まずそれと、今後の世界情勢の見通しを、分かり易く国民に説明する。次に混乱する世界情勢(そういうものがあればだが)に対応するには、米国との軍事同盟しかないという説明も必要だ。即ち武装強化が唯一の解だという説明である。自国の軍事力がこれくらい、米国と合わせるとこれくらいという、数字を基にした合理的な説明である。それと中露が連携した場合の兵力との比較も必要だろう。国民の反対を押し切ってまで法案を推進するのだから、政権トップにはそれ相応の迫力と覚悟が求められる。しかし安倍首相から法案と差し違えるという言葉が出たことはない。武力には武力で、侵略には先制攻撃で。でもそれで済むのなら、外務省などいらない。大使も全員引き挙げれば良い。そうすれば税金の節約にもなる。差し迫った危険も、世界情勢の予測も、何一つとして国民が納得できる形では説明できていない。だからなぜそれほど武力や軍事同盟に拘るのか、国民にはさっぱり理解できないのだ。

ここでドイツの例を挙げたい。ドイツも敗戦から立ち直り、しかも今はEUの事実上のリーダーである。日本とその点では似ていなくもない。なにより大戦で二分された東西統一を実現した。朝鮮半島とは大違いだ。無論軍隊も持っているが、それについては日本とは全然状況が違う。即ちドイツは50回も憲法を改正しているのだ。都度、国民の意志を問うという姿勢で一貫している。憲法解釈を変更するという閣議決定だけで、法案を押し通している安倍政権とは、民主主義のあり方からして、全く違う。国家主義も排除している。ネオナチ党員がいることも事実だが、彼らは半犯罪者集団とみなされており、政権を取る可能性はない。

安倍政権の説明が理解されないのは、決して国民の理解力が不足だからではなく、政府の説明では国民が納得できないからだ。僭越ながら安倍政権の代わりに私が説明すると、個別的自衛権は、北のミサイルが日本を狙う時であり、集団的自衛権は北のミサイルが米国の基地や艦艇を狙う時に必要となる。この程度であれば集団的自営権の議論も双方でかみ合うのだが、ここで問題なのは、自民党の集団的自衛権には、事実上歯止めのない拡大解釈が可能だという点だ。なぜなら与党が言う歯止めは、漠然としか概念以上のものではないからである。だから法案が成立すれば銃を向けるべき相手は北朝鮮と中国に限らないのだ。

大戦の引き金になった盧溝橋事件も、国の存立(正確には満州の支配権)に関わる事態と説明された。それと同じで、今後アルカイダが米国本土を攻撃する場合は、それを日本の存立事態とみなすことが可能になる。そんな極端なと言うかもしれないが、中谷防衛大臣は911は該当すると明言している。そういう意味では今度の安保法案は、いわば日米が運命共同体になることということだ。弟をしょっちゅう殴る兄と、その弟が生活を共にすることであり、兄がバクチですった金を弟が負担するという事なのだ。その逆は絶対にないのである。それに米国の正義はいつでも世界の正義として正しかったと、誰が言い切れるのか。

これを一度認めてしまえば、一国の主権などないも同然だ。経済で支配され、そして防衛でもという段取りである。自衛隊の事実上の米軍への併合は、国の防衛費の際限のない拡大を意味する。兄貴の要求は無視できないからだ。もはや平和憲法もへったくれもあったものではない。それでも、というよりだからこそ、目には目をではなく、一歩踏み込んで、危険な国に核兵器を放棄させる事の方が、当事国にとってさえ、より現実的な解になるのである。日本は世界の平和主義の最先端を行く国として、最高の兵器も作れるし、持つことも出来ないわけではないが、それでも敢えてそれは作らないし、持たない。どの国とも軍事同盟は結ばない。即ち武装放棄、永世中立を世界に誓うべきなのである。

日本さえ安全なら良いという偏狭で国家主義的な見方を捨てて、世界が平和になれば、日本も平和になるという発想が重要なのだ。万が一武力で対抗しなければならない場合(ISやボコハラム=話が全く通じない)でも、国連軍を使うべきなのである。



「軍事同盟が狭める戦争回避の選択肢」2015/8/28

安保法制の議論で少し風向きが変わって来た。余りに世間の反対の声が強く、新国立や普天間で少し譲歩した程度では追いつかなくなってきたからだ。一方で磯崎や武藤というIQにもEQにも問題のあるお馬鹿さん達が、安倍政権のネオナチの体質を国民の前にさらけ出してしまった。そこで自民党は今まで全くその気がなかった、野党案の検討などを持ち出した。でもこの野党案なるもの、国民にとっては大迷惑なのだ。なぜなら国民は折衷案など望んではいないからである。野党の言うように、いくら国会の事前承認だとか、派兵の範囲を限定するとか条件を付けてみても、自民党の安保法制が基本で認められてしまえば、安倍晋三お得意の拡大解釈と秘密主義で、実際には何が行われるか、全く予想がつかないからである。年末の紅白歌合戦で、桑田佳祐がちょび髭をつけて歌い、後で謝罪はしたものの、それが明確な安倍晋三への批判になっていた。私は日曜日のデモでは、ちょび髭をつけた安倍晋三の写真をプラカードにして持ってゆくつもりだ。アドルフ・アベへの抗議として。

今回の安保法制は、とても分かりにくい。なぜ分かりにくいかと言えば、それは本当の狙いを言わずに、嘘とごまかしで塗り固めて、わざと本質が理解できないように文案が練られているからだ。野党や有識者が、本質的な議論を要求し、何度同じ質問をしても、政権側は法制の文章をオウム返しするだけ。だから議論がかみ合うはずもない。無駄に審議時間が過ぎてゆく。それも政権の想定内なのだ。内容が空疎であろうがなかろうが、審議時間が100時間になれば、結論が出なくても、議論を尽くしたとして開き直るのであろう。

わざと分かり難いように、玉虫色のインクで書かれているのに、それを理解しない国民の方が悪いというのはどういう理屈なのだろう。審議を重ねれば重ねるほど、反対派が増えてゆく。それは国民が安倍政権の本当の狙いに次第に気が付いてきたからだ。いつ敵国が攻めてくるか分からないのが今の情勢だ、そこで日本を守るには米国との軍事同盟しかないという説明で国民の危機感を煽ってきたのである。危機の具体的な説明としては、北朝鮮がミサイルを配備しているという話だけで、それも衛星写真があるわけでもない。これは差し迫った攻撃の可能性には根拠がないことを示唆している。兎にも角にも米国と軍事同盟を結びたい。ただそれだけのことなのだ。しかもそれは決して只ではない。そもそも一方的な同盟などあり得ない。同盟国である以上、米国の戦争には自衛隊も兵力を出さざるを得ない。しかも米国は世界各地で戦争を展開している。それが問題なのだ。

いくら日本国民に直接的な危害が及ぶ場合に限るなどと説明してみても、憲法の解釈まで勝手に変更するような内閣の約束を、誰が信用するだろうか。有事には、政府が如何なる法案の解釈の下で、どう方針を決定するか、分かったものではない。即ち事実上、歯止めのない軍事同盟であり、だからこそ、そんな法案に国民がホイホイとOKを出すと思う方がおかしい。基本双務関係である軍事同盟を結ぶことのプラスとマイナスを、正直べースで議論する方がまだましなのだが、それさえもない。とにかくその場だけ国民をごまかして、法案を無理やり成立させようとするから、話はこじれて、応酬の茶番になる。

では米国との軍事同盟なしに、どうやって外部からの脅威に立ち向かうのか。この問いに答えを用意しておかないと、法制反対派の主張は空想的な理想主義だ、現実的ではないと安倍政権に攻撃されるだろう。そこで反論したい。まず二言目には危機と言うが、危機には様々な危機があって、その対処法も武器使用の反撃だけではないということだ。高村議員は、切れ目のない防衛体制をと馬鹿の一つ覚えのように繰り返すが、それは安易な思考停止である。あらゆる場合を想定し、すべての対応策を検討する。それが防衛省の仕事だ。その時に大事なことは、自ら選択肢を狭めないことである。極端な話、逃げるという手もある。自分の手を自分で縛ってしまえば、他の有効な選択肢を選ぶことができなくなる。それなのにとにかく米軍ありきで、何かあれば米軍に寄り掛かり、その指示に従えば間違いないというのでは、工夫も努力もあったものではない。そういう発想なら、考えずに済むので、防衛省も政府も気は楽だろう。でも、今後の世界情勢はますます見極め難くなってきている。変動する世界情勢に、硬直した戦略で対応できるとも思えない。しかも、今後米国の力は弱まる可能性もあるし、だからこそ米国は日本に応分の防衛負担を求めてきてもいるのだろう。その背景には、米国型の金融資本主義が行き詰まってきており、資本主義の先行きが見えなくなってきているというこおtもあるかもしれない。また例えば北朝鮮について言えば、その時だけは国境を接するロシアの力を借りる方が、日本にとって有利なのかも知れないのである。

即ち世界が流動的であればあるほど、日本も自衛隊も、絶対に自分の両手を縛ることは避けなければならないということだ。そういう安易な同盟が、むしろ将来の国益を損なう可能性がある。日本は世界のどの国よりも狡猾でなければならず、それは絶対的な武力では世界一にはなれない国が、動乱の世界を生き抜いてゆくための、サバイバル術なのだ。でも安倍政権には日本が生き抜くために必要な、柔軟で迅速で、是々非々で当を得た国家運営の能力を期待することが難しそうだ。だから日本を救うためには、米軍との軍事同盟は避けて、つかず離れずの関係を維持することと、無能な安倍政権に退陣してもらう事が必要なのである。

日本人は310万人もの犠牲を払って、大戦から、二度と戦争はやらない、戦争には正義の戦争も悪の戦争もない、あるのは殺し合いだけだということを学んだ。だから70年間、自民党政権でさえ、憲法の平和主義を尊重してきたのである。それが今、安倍晋三の個人的な価値観と歴史観で一方的に変更されようとしている。安倍政権で何が悪いと言って、国民の気持ちを全く考慮しないことだ。そういう政治家を我々は独裁者と呼んでいるのであるが。

北のミサイルが日本を向かないようにさせるのが、政治と外交の仕事であって、飛んできたミサイルを撃ち落とすのでは遅いのである。一方、米軍の基地にミサイル攻撃があれば、自衛隊も間髪入れずに迎撃するだろう。なぜなら当該ミサイルが米軍基地を狙ったものか、日本の国土を狙ったものか、着弾するまで分からないからである。いずにしても国境を守るだけなら通常兵器で十分であり、原潜や空母などの戦略(攻撃)兵器は、自衛の枠を超えるものだ。だからそれは米国に依存し、いわゆる切れ目のない防衛体制を作りたいというのが、安倍政権の目論見だろう。しかし武力には武力で対抗するしかないという発想そのものが、地球を戦争に巻き込むのだ。今一番必要なことは、核兵器を含む、世界レベルでの武装放棄の運動なのである。

仮に、米国の脅しとして、米軍が日本から基地を引き上げるという決定をすれば、国内に外国の基地のない状態で、どうやって国を守るかを考えなければならなくなる。その時に、基本的に自国を守るのは、自国の防衛力であるべきなのです。正義の為の戦争などはなく、いったん戦争が始まれば如何なる非道、悲惨も起こり得る。大事なことは日本が戦後70年、戦争に巻き込まれずに来れたのは、一重に平和憲法のおかげだという事実だ。決して米国が積極的に守ってくれたからではない。平和を守ったのは日本国憲法なのに、何故それを安倍政権は理解しようとしないのだろう。

日本を守る為には米軍との軍事同盟が欠かせないというのが政権の言い分だ。でもそれがどういうことを実際に意味するかの説明はない。軍事同盟は双方向(双務)であって、米軍が攻撃されたら、自衛隊も一緒に戦うのが原則だろう。いくら日本の国土や国民に急迫不正の攻撃があった場合だけと言っても、それで米国の国民が納得するはずはないからだ。米国との軍事同盟の次に来るものは、日本の応分の武装である。既にオスプレイも買った。戦闘機も買うだろう。米国の武器の購入の次には、武器の国内生産そして武器の輸出が待っている。でも本当は戦闘機を作るより、旅客機を作るべきなのだ。安保法制の将来で待つものは軍事産業大国日本だ。だから安保法制が戦争法案だと言われるのだ。

また安倍政権は、徴兵制は絶対にないとしきりに言っているが、スイスは武装中立なので、兵役がある。安倍政権がそれを将来の選択肢として念頭に置いていないとは思えない。安保法制で、米国の軍事力の一部を肩代わりし、その結果、米国の要請で日本が軍事力を強化し、最終的には世界の大国と肩を並べる軍事大国になる。それこそが安倍首相の究極の目標だと私は考えている。岸信介への個人的な約束や、日本を私物化したい野心と付き合う義理も余裕も日本国民には無いのである。



「安保法案反対の八王子集会」2015/8/31

八王子の安保法案反対集会に行ってきた。生憎の雨天だったが、傘を持った高齢者が多数参加していた。弁護士会からも人が出ており、交通の邪魔にならないように、またトラブルや警官に対応していた。私は社会人になってからは、この手の集会は初めてだが、自作のプラカードを首から下げて、ひたすら宣伝カーの上からの演説を聞くだけだった。

ところが早速トラブル発生。私は道路に面したコーヒー店前の一段高いテラスに立っていたのですが、邪魔だからどけと言われた。前掛けを掛けた中年の男なので、君はお店の人間かと問うと、いや客だという。ではなんで前掛けをしているのかと重ねて問うたところ、席に座っていた顔色の悪い女が、自分が頼んだのだと言い出した。

不自然な展開であり、何らかの嫌がらせであることははっきりしたので、これは口論では済まず、覚悟も決めたところ、脇らの反対派の人がアドバイスをしてくれた。彼らは二人ともヘイトスピーチ派で、挑発に乗ってはいけない、乗ると逆宣伝に利用されるだけだと言われた。私はアドバイスに従い、無視することにしたが、女はコーヒー一杯でねばりながら、たばこを吸いつつ、政府に従えと、キーキー叫び続けていた。こういう連中が実在するのを見て、安倍政権がいかにいかがわしい存在かという印象を強くした。磯崎や武藤が、実は我々の周辺にも居るのであって、やがて、そういう連中の非道から無視できない摩擦も起きそうな、不穏な予感がした。一般市民として出来ることは、遠巻きにして彼らを無言で睨みつけるか、出ていけコールを掛けるくらいだ。とにかく単独では絶対に立ち向かわない事である。私たちが相手にしているのは巨悪の政権そのものであり、下っ引きなどどうでもいいのである。

雨で、用意したプラカードはあまり役に立たず。しかも傘を持っているので、拍手も出来ない。また広場でなく、普通の交差点に宣伝カーを置いているだけなので、上記のような連中に漬け込まれる隙が出来てしまう。明らかに主催者側の場所選定の失敗だ。また首から下げる看板を用意する時は、A3だと大き過ぎるのでB4にして、ビニールケースに入れたほうが実用的であることも分かった。

スピーチの中で気になったのは、安倍首相は、友達が殴られていたら見過ごさないだろうという例を挙げているが、その友達が先に相手を殴る場合もあるだろう、その場合でも戦争に引きずり出されると指摘していました。私も、米国となぜ運命共同体にならなければならないのか、未だに理解できない。そもそも相手国がどこであれ、集団的自衛権が合憲でないことがまず問題だ。だから目的と背景も不明で、手段も間違っているという二重の過ちである。何より国民がいくら反対しようとも、強権で押し切るという、中国人もあきれる(そういえば、弁護士連合会の他、中日友好協会の旗も見えました)独裁政治なのだ。

ところで一つ読者にお尋ねしたい。相手が武装しているから、こちらも武装しないと危ないと考えて軍拡に走るのが良いのか、それとも相手がどうであれ、こちらは常に非武装で通して、相手に弛まずに武装放棄を働きかけるのがよいのか。そのどちらの方が人的被害が少ないと思われるだろう。特に安倍親衛隊にそれをお尋ねしたい。

日本はどこで米国に全面的に従わねばならないような、大きな借りを作ってしまったのか。その借りがなんだか我々には良く分からないにしても、少なくもその借りを独断で作ってきたのは、日本の平均的な市民=国民の大多数、でないことだけは確かである。私たちは世界のリベラル派に、安倍首相が国内では独裁者であることをアピールする必要がある。



「ディア・ハンター」2015/9/1

再放送で「ディア・ハンター」を見て、やはり良い映画だと思った。ペンシルバニアの製鉄所で働く普通の労働者(という事は社会的弱者)が、ベトナム戦争に出征し、地獄を経験して、また故郷に戻るという話だ。デジタル・リマスター版なので、とりわけ鹿狩りをする山岳地帯の風景が美しく描写されており、美しいテーマ音楽とマッチしていた。地獄のような戦場と鋭い対比を構成している。主演の、若き日のデ・ニーロや、クリストファー・ウォーケンも迫真の演技だ。ロシアン・ルーレットが何度も出てくるのはいささか無理があるとは思うが、基本的に反戦の映画である。

この映画で重要なことは、ベトナム戦争の結果、米国民の反戦感情が一気に高まったという事実だ。それは米国政府が推進したベトナム戦争を、米国民が否定したという事である。米国の推進する戦争が、必ずしも正義の戦争ではなかった。少なくも国民が支持するものではなかったのという事実がそこにある。アフガン然り、イラク然り。イラクの国民をサダム・フセインの圧制から解放したように見せているが、米軍の無差別攻撃で、途方もない数の市民が虐殺されている。しかも米国は未だに当時の映像を公開しようとはしない。

国民が反対しているのに、なぜ米国は戦争を始めたのか。世界の正義と平和の為か。世界の警察の役割を自ら進んで担っているからか。でもそれは本当の目的を隠すための言い訳として使われているように私には思える。もし世界の警察なら、中露の反対があったにしても、シリアの圧制を強く非難することで、その後のISの勃興を抑制する事も出来ただろう。米は未だにISやボコハラムとの戦闘には腰が引けたままなのだ。世界の警察ならこれはおかしなことだ。非難も攻撃もしなかったのは、シリアを攻撃しても何の得にもならなかったからではないのか。

百歩譲って、米国の戦争が資本主義陣営を守るためだったということを認めたとしよう。でもそれが紛争国の国民の自由と平和を守る為だと言われると、抵抗がある。米国も日本も決して平等で自由な、選択権の保障された国だとは思えないからだ。富と権力が偏在し、民主主義の理念とは程遠い不平等な国なのである。だからこそ、戦争を始める理由も、権力者の利害が優先すると思わざるを得ない。キューバ危機は、収奪していた米国資本をキューバが接収したことがきっかけであり、イラク戦争は米国の石油資本の利権が奪われた事が重要な要素だった。イラク戦争後、石油資本がいち早く利権を再設定したことでもそれは明らかだ。

第二次大戦も、軍部という権力者の為の、破れかぶれの自滅的で被虐的な戦争だったのに、当時の政治家や軍人が、その後国民に謝罪したという話を聞いたことはない。ただただ負けて悔しいというだけであって、その気持ちだけが戦犯を免れた岸から安倍に伝えられたのだろう。これでは政府が大戦を総括するはずもない。国民は今更のように、村山談話にどれだけ大きな意味があったかを、再認識する必要がある。70年談話でさえ、村山談話を否定することは出来なかった。日本会議や超保守系の女性論者の言動を見るにつけ、日本の国家主義者たちは、今もなおその思想が間違っていたとは思っていないらしい。という事は、私達は国内に、大戦でも懲りずに、好戦的な、戦争の火種になりかねない人たちを抱えているという事なのだ。安倍首相の無念さは、70年談話の棒読みの姿勢が端的に示している。本来なら、70年談話で(岸が刷り込んだ)自分の思いの丈を、思い切りぶちまけようと思っていたのに、周囲から、それをやったら自民党の命取り、国家主義が大嫌いな米国も承知しないと言われて、いやいや読みあげるから、砂をかむような、気持ちのこもらない演説になったのだ。それでも、内閣の支持率がやや持ち直したのだから、安倍も納得せざるを得ないのではないか。

しかし体質が変わらないという点では、保守政党だけでなく、メディアも同じである。戦争を始めるのは時の権力者であり、それを支持するのがメディアだという構図は現在でもそのまま温存されている。しかも人間的にも企業倫理的にも大きな問題のある会長が未だにNHKに居座っている。

帝国陸軍は、天皇陛下の為と称して戦線を拡大し、自国の兵士を無駄な死に駆り立てた。しかも終戦時には天皇の玉音放送を力で奪おうとした。そのどこに天皇への忠誠心があるというのだろうか。安倍首相も天皇制を支持するかのような口ぶりだが、両陛下の意向に絶対に従おうともしなければ、意図を解しようともしない。これでは不敬罪どころか国賊である。結局安倍首相の言う事は全てが言い訳であり、本音は別にあって、実は自分が国家の元首になりたいという事だけが真実なのではないだろうか。但し天皇家も、次世代になると終戦記念日にテニスをしているようなので、問題がないとは言い切れない。失礼を承知で申し上げれば、現代史のお勉強が充分とは思われない。これでは将来、即位した後で、象徴と言うよりむしろ飾りや傀儡として(失礼)安倍宰相の思うがままに利用されかねない。それは両陛下が望まれることは違うと思う。

次世代の手に平和憲法を無傷のまま手渡す。それが我々のような戦争の記憶の残る世代の使命なのだ。安倍首相のような国家主義者の思い付きの政策が大手を振ってまかり通るような国では、国の平和も、国民の自由も安全も保証できない。血気が盛んで分別のない若手の政治家や官僚が、領海の問題などを引き金に、自ら有事を引き起こしてしまう危険性さえある。戦後偶然のように日本人が手にした憲法。それは世界の平和遺産と言ってもよいものだ。それを堅持し、日本が本当の意味での民主主義の国となり、非武装中立を貫く。それが世界平和のお手本になる。そうなって初めて、後藤さんの犠牲も生きてくる。国家主義者の言う現実的な政策は、権力者にとっての現実的な妥協という意味でしかない。理想を掲げて、それに向かって自ら歩を進めない限り、いつまで待っても、望ましい世界が向こうから、自分でやって来ることはないのである。

この課題については、我々戦後世代が自らの手で目途をつけておかない限り、日本の将来で待つのは米国型の金融資本主義が暴走を重ねる格差社会であり、権力者にのみ有利な国なのである。その為には、選挙の投票率が5割以下という事態が、いかに異常な事態かを国民の一人一人がもっと強く認識する必要がある。その半数だけでも、リベラルを支持してくれれば選挙では勝てるのだ。世論調査は所詮選挙ではない。誰を代議員として選び、その判断を信頼するかは、選挙制度を通じてしか表明できない。しかし同じような選挙でも、米国では少なくも国の代表を国民が直接選べる。日本が米国に追随するのなら、まずここから真似しなければならないと思う。現在の日本の選挙制度では、代議員制の欠陥だけがもろに表れてしまっていて、民意を政治に反映出来る仕組みになっていない。そこに安倍政権の暴走も起因しているのである。

もうひとつの問題は、安倍政権を見ても分かるように、同じ自民党でさえ、以前と大きく変化しており、国民に嘘をつき、その場しのぎでだますことを何とも思わなくなってきている事だ。それは戦争中と全く同じである。不都合があっても、法案さえ通してしまえば、あとは勝てば官軍だと麻生はうそぶいた。この吾人は、カンフル剤の金融政策で景気を支えているのに、史上最高の予算案に平気でいられるという危機感の欠如した人物だ。彼らにとって、国民とは投票で自分達を支持してくれる存在ではなく、命令して言うことを聞いてくれさえすれば良い存在なのだ。

戦争自体が、権力者の利権を守る為の戦争になっている。なのに、米国と運命を共にするしか選択肢はないかのような政府の宣伝。そんな軍事協定を結んでしまえば、自国の防衛ではなく、米国の資本家の為の正義なき戦争で自衛隊と国民が命を失うのだ。あくまで自主防衛、しかも専守防衛でない限り、外国同士の戦争に巻き込まれるのは、時間の問題なのである。米国は自国の利害が関係ない戦争には関心がないという事を、なぜ安倍政権は認めようとしないのか。逆に自分たちは持てる者であり、その利権を維持するためには米国の力を借りる必要があるとでも思っているのだろうか。


恣意的な政権に国を滅ぼさせないためには、たったひとつの方法しかない。それは保守的な政治家や官僚を経由せず、直接、各国の国民同士が意見を交換できる仕組みを作ることだ。それが真に意味のある国家間外交である。そこでは国民同士が国単位で有志連合を形成し、国別の有志連合同士で、人間としての共感をベースに話し合えれば、紛争解決の選択肢を戦争以外で見つけることが可能になるはずである。今や金融資本主義が人類の幸福や繁栄にとってプラスにならないことも明確になってきている。ゆえに資本主義の抜本的な見直しもまた、世界の平和と安定にとって、避けて通ることが出来なくなった。日本が国民レベルで軍事同盟に反対していること。その姿勢を世界に発信してゆくことが、今後の紛争に日本が巻き込まれないためにも、今は最も大切な事なのではないだろうか。



「TVドラマ」2015/9/2

今日は肩の凝らないドラマの話題だ。私は自他ともに認める映画ファンで、趣味の段階を遥かに超えており、自分より優れた映画評論家は後にも先にも荻昌弘だけだと信じている。だいぶ前に亡くなった人なので、ご存じの方は少ないと思う。故人では、淀川長治、小森和子の名前が今でも挙げられるが、彼らはハリウッド万歳で、映画の社会的な意味の分析まではしない人達だった。

映画はそれこそ何千本見たか分からないが、TVドラマは小粒で映画のわき役としか思えず。余り見なかった。残業が多く、夜TVをのんびり見る時間などなく、劇場に行く時間もないので、映画ももっぱらレンタルビデオ(テープ)だった。子供時代は未だに家にTVがなくて、学友達が月光仮面の話題で盛り上がっていても仲間に入れてもらえずに悲しい思いをした覚えがある。

家にTVが来てからは、ローハイドやララミー牧場(無論モノクロ)などに熱中した。しかしTVを見る時間が増えれば、それに逆比例して確実に成績が下がり、故に私の人生で、TVドラマが役に立ったという事は一度もない。現在社会ならTVゲームの悪影響と同じものだろう。であるからこそ趣味(収入には結びつかない道楽)なのだ。自分の例でいえば、TVがない頃は優等生だったが(都内の学力模試で二位。一位は女子で、この時から女子が容易ならぬ相手であることを痛感)、その後急カーブで学力が後退したので、やはりTVやビデオゲームが子供たちを蝕み、白痴化に拍車をかけたことは間違いないと思う。それがひいては政治への無関心や、逆に思考停止で右傾化の温床にもなっているのではないか。青年よTV(とスマホ)を捨てて、街に出でよということだ。

また前書が長くなりそうなので、先を急ぎたい。退職して時間を持て余すようになって、真面目にTVドラマを見るようになった時に、最初にはまったのは刑事ドラマの相棒だ。水谷豊が嫌味たっぷりな杉下右京にぴったりだったこともある。映画やTV番組の王道は警察もの、即ち犯罪ストーリーである。これは小説でも全く同じだが、ミステリーが好まれるのは、それは人間が悪に関心があるからではなくて、非日常を求めるからだというのが私なりの解釈だ。

暇になったので、相棒の過去版を全部見たくなり、レンタルビデオ屋に日参して全部借りた。1か月以上かかり、結構な費用だった。それがきっかけで他のTVドラマにも興味を持つようになった。まずは定番のキムタクの異色検事ものの「ヒーロー」。そして医者ものでは私も通院した事のある総合病院を舞台にした「ドクターズ」。主演沢村一樹、ヒロインは比嘉愛未、憎まれ役は高嶋政伸が怪演。小栗旬と石原さとみの「リッチマン、プアウーマン」。NHKの日曜美術館を担当している井浦新が悪役。また堺雅人が長台詞で苦労した(悪徳?)弁護士の「リーガル・ハイ」。ヒロインは新垣結衣。堺と言えば倍返しの銀行員の「半沢直樹」。最近では佐藤健の「天皇の料理番」がある。更に近いところでは、阿部寛の「下町ロケット」が他の追随を許さない。なお「相棒」は最近めっきりつまらなくなった。ところでなぜ放送が終了した番組ばかり紹介しているのかというと、DVD化されているので、いつでも見られるし、むしろ現業で忙しい人にはDVDを借りてみる方が現実的だからだ。一巻借りてみて、つまらなければ、後は借りなければ済む話だ。

TVドラマと言えば、一般的にはNHKの朝ドラと大河だが、今シーズンは両方とも余り見る気がしない。ドラマで一番大事な要素は、続きが見たくなるかどうかに尽きるのだが、その気が起きない。特に大河「花燃ゆ」が視聴率で惨憺たる結果になっている。それはキャスティング、即ち俳優の起用で大きな間違いがあったからだ。伊勢谷が出ているうちは兎も角、東出昌大も高良健吾も、明らかに存在感が十分ではない。大河を背負うには力不足。これからの人材だ。現在放映中の「真田丸」では草刈正雄が気を吐いている。いささか常軌を逸した監督三谷幸喜の若者の現代言葉は行き過ぎを越えて聞き苦しい。現在の朝ドラ、「朝が行く」はヒロインに存在感があり、ディーン・フジオカがブレークした。二人の番頭役が出色。高橋英樹の大隈重信は違和感満載。朝の反抗期の娘はうざいったい。

一方バラエティ番組になると目を覆うばかり。同じようなタレントが集まって、同じような楽屋話を繰り返す。それを仕切る=MCと言うらしい、のは傍若無人な若手芸人たち。あれでよくゲストが席を立って帰らないものだと思う。彼らはそういう無礼なものに言い方は、視聴者にとっても不愉快なものだという事になぜ気が付かないのか。その証拠に、ぞんざいな口をきくタレントは、人気投票でも上位に来ない。

やっとここで本題。上記の国内ドラマは一応推薦だが、海外ドラマとなると、そもそも余り存在していない。特に私は韓流には全く関心がないので、海外の番組では深夜放送の自動車番組の「トップ・ギア」だけだった。この番組に比べると、国内の、カーグラフィックの番組は余りにも地味で、しかも独りよがりだ。トップ・ギアのキャストは自ら体を張っている。熱意が違う。日本車も公平に評価している。ドラマで唯一見たのは、NHKのシャーロック・ホームズの現代版、「シャーロック」だ。主演はベネディクト・カンバーパッチ。ワトッスンにはロード・オブ・ザ・リングのホビット役のマーティン・フリーマン。モリアーティ役を含めて、さすが英国の役者は存在感が違う。

もうひとつ気になったのが、深夜に放送していた「パースン・オブ・インタレスト」。コンピューター・ネットワークが個性を持ち、人間を助けたり、支配したりするというスト−リーだが、続きを見たいばかりに、衛星放送のAXNを契約した。そしてそのAXNで一番気になったのが今回推薦の「CSI,NY」だ。CSIとは犯罪科学捜査班のことで、実際にそんなものがあるのかどうかは知らない。このシリーズも人気番組らしく、ラスべガス編、マイアミ編、欧州編がある。お勧めはNY編だ。自分がかつて住んでいた場所だという事情もあるが、主演のゲイリー・シニーズは、トム・ハンクスのフォレスト・ガンプで、ベトナム戦で両足を失った軍曹を演じてアカデミー賞候補にもなった。渋いのでこわもての刑事役に向いている。このシリーズは残念ながらシリーズ9(即ち9年間)で終わった。なおこのドラマは決して家族と一緒に見る映画ではない。リアルな死体や司法解剖シーン満載だ。監督はアポロ13やアルマゲドンのブラッカイマーだ。



「クズのNHKか、NHKのクズか」 2015/9/4

いささか酷い題になったが、NHKの幹部と職員は、自分たちがどれほど恵まれた環境で仕事が出来ているのかを全く理解していないようだ。経営を心配することなく、国民に対していくらでも良心的な活動に徹することが、唯一許されている報道機関なのだ。それに較べて民放は、視聴率やスポンサーの意向を気にしながら、それでも精一杯、ジャーナリズムの精神を貫こうと頑張っている(無論そうではない会社もある)。NHKでは、たとえ番組がいかに悪評でも、中止や変更はなく、だらだらと番組を続け、しかも番組の不評の責任を誰かが取ったという話も聞かない。昔の東電を思わせる硬直化した官僚組織に成り下がっているのかもしれない。

国民から強制的に徴収した料金の上に胡坐をかいて、政府の宣伝に狂奔するのは、国民に対する裏切りだということをなぜ認識し、反省しようとしないのだろう。それともNHKの報道部門には、そんな事さえ理解できないほどのお馬鹿さんばかりが揃っているのだろうか。それとも籾井のような品性卑しい代表の鼻息を窺うしか能がない、いうなれば腰抜けだけの組織だという事か。

誹謗中傷だろうか。いやとんでもない。一市民の怒りに基づく正当な批判であり、とっくになされていてしかるべき糾弾なのだ。それとも自民党の議員がNHKに文句を言えば、責任者が出向いて陳謝するが、一般市民からの苦情は一切無視ということなのか。一体どちらが料金を負担していると思っているのだろう。報道の自由を自ら放棄し、国民の知る権利と民主主義を踏みにじって恥じるところがない。安倍政権と共に憲法違反で提訴したいくらいだ。私は今のようなNHKには、これ以上一円たりとも料金を払う気にはなれないのである。政府に都合の良い有識者ではなく、一般市民によるNHKの報道監視組織の設立を提唱したい。

不正と疑惑だらけの安保法制への反対運動で、国民は急速に、政府の政策と日本の政治システムの矛盾点に、目を向け始めた。いま最も大事なことは、ついに動き始めた草の根の国民の、政治への関心と政府への批判を、どのように結集すれば、一億の民の力として結実できるのかという課題である。強引に法案を押し通してしまえば、いずれ国民は忘れるからと、傲慢不遜な自民党の議員が言い放った。ここまで馬鹿にされても、国民は黙っていられるのだろうか。

安保法制の審議の経緯から、野党や労組の組織力は余り期待できないことが露呈している。むしろ政党色やイデオロギー色のない、昔で言えばノンポリの国民の意志を結集して、大きな力として育ててゆく方法を真剣に検討する必要がある。それが実現できるかどうかに、平和憲法を守り、戦争を紛争解決の手段として用いない、平和な日本の未来が掛かっている。



「安保不平等論」2015/9/4

・米で日米安保不公平論。
別に米国に在住した経験がなくても、これくらいの米国人の心理は、誰にでも想像できる。自分が米国人だったらどう思うかを想像するだけで良い。一方的に日本の軍隊だけが、楽をするような同盟を、米国民がハイハイそうですねと認めるわけがない。無論、安倍政権は最初からそういう要求が米国から出ることを織り込み済みだろう。だから法案を通してしまった後で、小出しにすると思う。安倍政権の国会での説明は、彼ら自身でさえ信じていないのである。一旦同盟が成立すれば、参院選までの間に、どんどん具体的な訓練や軍備の配備を進めるだろう。政権をひっくり返す頃には、がちがちに日米の共同戦線の枠組みが出来上がってしまうという段取りだ。米国海兵隊東アジア方面隊の出来上がりである。作業を進めるにあたり、米軍から自衛隊員には厳しい要求が次々に突きつけられることになるだろう。鉄砲担いで戦地に行って、相手を撃たなきゃ、自分が撃たれる。それが戦争というものだ。それが軍人だというわけである。だからこそ、この法案=軍事同盟にはとことん反対しなければならない。自衛隊員は国を瀬戸際で守る為に入隊したのであって、米国の利害の為に、米国人兵士の代わりに、アラブの砂漠で狙撃兵に撃たれるために、入隊したわけではないのである。



「米国人の目で見よ」2015/9/5

米国に対するイスラエルの影響力は極めて大きいものがある。共和党は全面的にイスラエル支持であり、民主党の一部議員でもそうだ。オバマが同意したイランとの協定も、議会を通過するかどうかが、懸念されていた。でも民主党の反対派の一部がオバマ支持に態度を変更したので、その均衡が崩れて、批准にこぎつけたと伝えられる。全党挙げて超タカ派の自民党が、二言目には米国との関係を強調、米国との軍事協定だけが、日本を切れ目なく防衛する唯一の方法であるかのように宣伝しているが、ことはそう簡単ではない。

アメリカさんと一緒と、幼稚園児のようにはしゃぐのは勝手だが、何故高村も安倍も、米国との密着体制がもたらす負の側面を正直に国民に伝えようとしないのか。イスラエル寄りの米国が、右傾化を続けるイスラエルと敵対するアラブ諸国との間で、今後も事を構える可能性は否定できない。即ち中東を舞台にした小競り合いはいつでも起きる可能性がある。シリアの情勢がそれを一層複雑にしている。アサドの独裁が生んだのがISだ。アサド政権に批判的な米国が、ISに肩入れしていたとも伝えられる。アサドをロシアもイランも支持してきた。だから今回の米国とイランの協定で、イランと米国が手を携えてISに立ち向かうという筋書きも可能だ。これは米国が中東情勢に深く関わっているというだけでなく、イスラエルなどの意向にも影響されることを意味している。結論だけ言うと、米国との軍事同盟が、反イスラエルの国々から、日本も敵国とみなされるという事なのだ。

安倍首相の言い分では、安保法制、即ち日米軍事協定の根拠となる集団的自衛権の限定行使の条件は、日本の国民や国土に根底を覆すような危機が迫った時だけだとなっている。多分それも本当は書きたくなくて、公明党に粘られて、いやいや追加した条件だろう。即ち、自衛隊は米軍と地の果てまでも行動を共にする運命共同体であることが、自民党の描く自衛隊の理想的な形なのだ。

現行の安保条約では、米国は日本に基地を置く代わりに、日本を外敵から守る義務があるとなっている。即ち基地を置きたいと言ったのは米国の要求であり、日本が頭を下げて置いてくれと頼んだ訳ではない。しかも基地を維持する費用も、米国の要求により日本が相当部分を負担している。その結果、70年もの間、沖縄をはじめとする、基地を抱えた地域では大きな心理的、経済的、地位的差別の負担を強いられてきた。それでもなお、最近のトランプの言い分を例に挙げるまでもなく、米国民の間では、米国は日本を守る義務があるのに、日本は米国を守らなくてもと良いというのは不公平だという批判が根強くある。共和党銀はもとより民主党議員も同じ見方だ。

日本の戦後史を概観するだけでも、今の安保法制が双務であることは誰にでも分かる。しかもそれでさえ、首相閣下はまともには勉強されていないようだ。だから米国の議会では、日米が既に双方向の関係にあったことには触れずに、日本だけがもう一歩踏み込むという、全く余計な約束をしたのである。でもそれは安倍首相の個人プレーであり(日本の議会は承認していない)、いわば売れない芸人が一発を狙った受け狙いだった。もしその筋書きを書いたのが外務省なら、外務省の先の読めない幹部は総入れ替えして欲しい。

それでもまず安倍氏に言いたい。米国はもともと非情な国だ。しかも富裕層による富裕層の為の国である。彼らとその子弟が戦場に行くことはない。英国王室のように王子まで戦闘ヘリに搭乗するようなノブリス・オブリージュの理念は、米国の支配層にはない(無論日本の支配層にも)。金融資本主義であり、自国の利益を最優先する国と軍事協定を結ぶことの本当の意味と危険性を正しく理解できていないとすれば、その知能程度を疑われても仕方がない。共同軍事作戦行動は、日本の領土に危機が迫った時だけだといくら言ってみても、事実上その歯止めはないのと同じなのだ。領土、領海への侵入と攻撃は個別的自衛権の範囲であって、直ちに自衛隊は出動する。しなければ困ります。しかし自民党が言いたいのは、国土への直接的侵略でなくても、日本に大きな影響を与える事態なら(しかも予防的に)派兵出来るようにしたいというものだ。ここに重大かつ見過ごすことの出来ない問題がある。なぜなら重要事態かどうかの判断は首相に任されているからだ。

米軍から見れば、現安保条約で(新安保法制でも)、日本の国土が直接攻撃されるまでは動く必要はない。東京に核ミサイルの照準が合せられているという情報があっても(多分、とっくに合わせられているだろうが)動く必要はない。この70年間、米軍は日本の国土を守る為の戦闘行為は一度もしていない。日本の自衛隊は一発の銃弾も撃たなかったかもしれないが、米軍だって日本を守る為に一発の銃弾も撃ってはいない、と言うより撃つ必要がなかったのである。

一方で、米軍が実際に戦力を投入している、即ち実戦を行っているアラブ諸国では、今後紛争が激化し、長引く可能性がある。第二のベトナムやアフガンだ。しかし米国としては地上兵力は投入したくない。アフガンやイラク戦争でも、国民から散々非難を浴びた。米国民だって本当は戦争は嫌なのだ。しかも、いま米国は世界一の石油産出国になった。だから、イラク戦争のように石油資本の為に外国で戦争する必要性はないのだ。

ではアラブから石油が来なくなったら困るのはどこの国か。そして米国としてはイスラエルの手前、イスラム諸国に対するこわもての態度を崩すわけにもいかない。かといって全く気乗りのしないアラブ地域での戦闘に自国の兵士の命を危険に曝したくはない。そこに飛んで火に入るのが夏の虫ならぬ、夏の安倍政権である。大統領が首相に一本電話を掛けるだけで問題は解決する。空からの攻撃は米軍が担当するが、地上戦は自衛隊でという筋書きだ。しかも既に自衛隊は秘密裏に米軍で砂漠での日本版海兵隊としての戦闘訓練を受けているのである。

でもそれは日本の本土への攻撃ではないと言うかもしれない。しかし安保法制に反対する側こそ、理想論と理念でなく、現実的な観点で議論する必要がある。ホルムズ海峡の機雷敷設などという荒唐無稽な例を、恥ずかしげもなく国会で説明する政府なのです。だから地政学からも、世界情勢からも、実戦配備からも考えた議論をしないと有益な議論にはならないのである。

自衛隊の海外派遣。その時にはたとえ遠く外国の地での戦闘ではあっても、日米政府はテロとの戦いに参加したという大儀名分を言い立てるでしょう。後藤さんが捉えられた時も指一本動かさずに見殺しにしたのにもかかわらずである。そして自衛隊を動かした後で、首相が国会で言い訳すればそれでおしまい。首相が自身の状況判断で自衛隊を動かす以上、それは国内問題であり、国会での事後説明は首相の責任、米国の知ったことではない。

安保法制の目的は、自衛隊と米軍の軍事協定をより強化し、自衛隊の武力行使の条件を緩和し、地理的な活動範囲の枠を外して、自衛隊が海外でも活動(=自衛隊の活動と言えば無論武力行動=戦闘行為のことです)できるようにする事だ。なぜなら国内での活動なら、個別的自衛権の範囲内であって、新たに法制を設ける必要はないからだ。

私は邦人救助の目的であれば、個別に例外的に海外に行く可能性があっても良いと思っている。最終的に日本は非武装中立をめざし、世界平和のお手本になるべきだと思うが、残念ながら世界で行われているテロ行為は、宗教や思想や理想の為のゲリラ戦とは違っていて、単に暴力で弱いものを支配し、命さえ奪うという非道極まりないものが多く、理屈も話し合いも出来ない事が多い。そこで国民(と外国の非戦闘員)を守る為に、最低限度の武装とその行使は止むを得ないのが実情だ。その視点から目をそらすから、空虚な議論の応酬になるのである。無論議論が空回りするのは、安倍首相の説明が、筋も通らないし、憲法違反でもあるからだ。現実的な例で議論する方が数等ましなのである。

自衛隊が自国や自国民を守る為に、時に海外での活動が必要になり、それを個別案件的に、その都度緊急国会の承認を得て行うというのなら、話は理解し易い。というより、国民の賛意も得易い。この問題をややこしくしているのは高村の問題意識にある。彼が切れ目のない安全保障などという訳の分からに事を言い出すから、議論がおかしくなるのだ。切れ目がない、という事は360度の完全な防衛体制という事で、その中には対中国、対ロシアへの備えが含まれおり、絶対的な軍事力で彼らに対抗できるのは米国しかない。だから局地戦で自力で立ち向かうにしても、総力戦になったら米軍が一緒に戦ってくれなければどうにもならない。即ち万が一の事を考えれば、日米が軍事協力体制を作り、有事に米国の軍事力の行使を期待できるようにしておかないと、自国は守れないというのが彼の主張だろう。その理由の一つとして、自衛隊が核武装することは絶対に出来ないので、核兵器、または核兵器による抑止力については、米国に頼らざるを得ないという判断もあると思われる。

従来の安保条約でも米国は日本を守ることになっており、基地を提供することはその見返りだった。なぜそれ以上はできないのかと言えば、それは憲法第九条があるからだ。紛争解決の手段としての戦争はこれを放棄する。世界に燦然と輝くこの第九条があればこそ、日本は武力行使をせずに、或は海外での戦闘行為に直接関わらずにやって来れたのである。いわば歴代自民党政権もこの9条によって守られてきたのだ。自衛隊の幹部には、憲法9条が邪魔だと思う者がいることは容易に想像がつく。手足を縛られているようなものだという声も聞かれる。でも自衛官の生命は、彼らが邪魔者扱いする9条があればこそ、(利権の為の、或は外国同士の)戦闘から守られてきたのである。

しかし大国の脅威に立ち向かう、よく言えば抑止力として、米国の力を借りたいという、殆ど妄想に近い高村の強迫観念が、本当に当を得た正しい判断であるかどうかは分からない。国会審議でも、それは自明の理であって、検討の必要もないかのように語られている。でもその発想の背景にあるのは、冷戦時代の発想とパワー・オブ・バランスの構造であって、今世界は、アラブやアフリカを巻き込み、アジアでさえ多極化し、そこに欧州も関わっている。それを旧来の判断基準で白黒を決めという判断は無理なのである。

そういう世界情勢の分析をしているのが、国の諜報機関たる外務省であることを考えると、私は背筋が寒くなる。彼らの情報収集能力の限界を、我々日本人は尖閣の騒動の時も、後藤さん拉致事件でも、いやというほど思い知らされたからだ。外務省の方針は、とにもかくにも米国一辺倒。実に安易な姿勢だ。外務省の職員が外国で体を張って情報を入手したという話は殆ど聞いたことがない。そんな外務省の分析と判断に乗って、防衛省が防衛方針を策定する。誤った状況判断のもとに、自省の権益の為に(昔の陸軍省、今は防衛省)戦線を拡大する。それは満州事変当時の日本の姿を髣髴とさせるものがある。

国と運命共同体を形成することが、来世紀は愚か今世紀(21世紀)の内でも本当に正しい選択なのだろうか。首相は安保法制の委員会で、日本の将来像を問われ、これに答えられなかった。安倍首相に10-20年先が見えているとは思えないのである。

話を戻して集団的自衛権である。米国に対する攻撃に、共に反撃するには集団的自営権を行使するしかない。なぜならそれは自国に対する直接の脅威ではないからだ。自国に対する脅威でもないのに、自衛隊が戦争に加わるというのは、現行憲法をどう解釈しても出てこない判断だ。解釈できると言い張っているのは、日本広しといえども安倍政権だけである。完全に日本の現在の法体系から逸脱している集団的自衛権。法的整合性などどうでもいい、即ち法律に違反したっていいのだと言い放った磯崎もいた。法律に違反してよいのなら、犯罪者は全員無罪だ。国立大卒でもそういう者がいるとは驚きである。

更に具体的な話をしよう。日本海を遊弋中の米国の艦艇が北朝鮮のミサイル攻撃を受けたとする。たまたま近くにいた日本のイージス艦がそれを察知した。直ちに迎撃ミサイルを発射すれば撃ち落とせるかもしれない。その時に日米軍事同盟がなかったとしても、自衛隊のイージス艦はミサイルを撃ち落とす事が出来ると私は考える。安倍首相もそれには反対しないだろう。でもそこから先が安倍首相とは違う。

私なら攻撃への報復としてミサイルの敵基地を叩くことはしない。出来るのはミサイルが日本に向かって発射された時か、百歩を譲っても、日本を狙って発射準備に入ったという情報がある時だけである。降りかかってきた火の粉、或は降りかかってきそうな火の粉だけを振り払う事が許されるのだ。

しかも安倍首相と私が決定的に違うのはその先です。即ち攻撃を受けた艦艇がロシアのものでも中国のものでも、まして難民を乗せたどこそこの船であろうと、攻撃してきたミサイルは撃ち落とすという事だ。さらに言えばそのミサイルがどこから飛んで来ようともである。即ち戦闘行為は、あくまで正当防衛と人道支援の範囲内に留まると同時に、その対象は特定すべきではないのである。

友軍と敵軍という色分けを、しかも戦争もはじまっていないうちに行う。それは戦争を前提にした行為だ。だから戦争準備法法案などと言われてしまうのだ。抑止力どころか、仮想敵国を挑発し、紛争が起きやすい条件を自ら作っているようなものだ。そして米国との軍事同盟が問題なのは、それが対等ではないことだ。米国の方が武力でも経験でも遥かに優っている。だから勝利を前提にするのなら、事実上米軍の指揮下で戦うのでなければ、戦闘の体さえ成さない。下請けというか一部になるしかない。

ここで参考までに自衛隊の武装の話をご紹介したい。武器の性能を知らずに軍事同盟の話をしてもあまり意味がないからだ。

今回は海上の軍事力だ。昔は大鑑艦巨砲主義で、海戦と言えば、戦艦同士が大砲を撃ちあうというものだった。日露戦争の日本海海戦みたいなものだ。いうなれば海賊船同士が、或はネルソン提督が艦載砲を撃つ時代とそれほど変わらない。しかし大砲が主な攻撃手段である時代は間もなく終わる。同時に海上艦艇への攻撃手段として、Uボート(潜水艦)が魚雷攻撃で大きな戦果を挙げ出した。そこで魚雷を改良して、戦闘機に抱かせ(艦上攻撃機)、、敵艦艇の間近まで行って水中に落とす雷撃攻撃が、艦艇攻撃の主役になったのである。

雷撃機は動きが鈍く、兵装も少ないので、護衛に戦闘機が付く。ところが攻撃機は行動半径が狭いので、動く飛行場、即ち空母が必要となる。そして競って空母が建造された。現在の米軍には原子力空母が9隻ある。世界最強の海軍力だ。空母は建造が難しく、中国でもロシアから中古を買っている。海自にも小型の似たような艦艇があるが、あれは攻撃機が離着陸できるようなものではなく、ヘリが同時に3機、離発着できるヘリ空母に過ぎない。救難活動以外では、潜水艦の索敵にも使われる。日本でもその気になれば空母くらいは建造できると思うが、空母は敵地への攻撃機の派遣が目的なので、自国で保有することは専守防衛の枠を超えるものとなる。領空を守る為なら、国内の基地から発進すれば済むからだ。また費用も半端ではなく、一隻3兆円(30億ドル)だ。

真珠湾という帝国海軍にとって数少ない優勢の戦闘で、近代戦が航空機同士の戦闘が主役であることが分かっていた。それなのに武蔵や大和などの大形戦艦を作り続けた日本海軍の判断には理解に苦しむ。太平洋戦争の敗戦で決定的な要因となったミッドウェー海戦での敗戦の原因は、索敵の失敗と、雷撃機の換装に手間取ったためだ。明らかにそこには司令官(南雲中将)の判断ミスと、空母対空母の戦いに不慣れであったことが見て取れるのである。

ところで戦後になって、戦争の方法が大きく変わった。それはミサイルの出現である。ミサイルが実戦で戦闘艦を沈めたのは、フォークランド紛争が最初で、アルゼンチンのエクゾセが英国艦を沈めた。即ち海上での戦いは、艦載砲の打ち合いではなく、どれだけ早く相手にミサイルを撃ち込めるかに掛かってきている。ミサイルが主役の戦争を想定したのがイージス艦だ。海自には3隻ある。ミサイル戦では、レーダーの性能が勝敗を分ける。イージス艦の特徴はそのレーダーにある。くるくる回る従来のレーダーでなく、動かない上に、遥かに遠くまで探知でき、しかも立体的に相手を探知できるフェイズド・アレイ型のレーダーを4基備え、360度の方向を絶え間なく監視している。甲板の中央にそそり立つ異様な構造物がそれだ。24時間体制のレーダーで敵艦艇やミサイルを感知したら、前部甲板中央にある複数の発射孔から、垂直に迎撃ミサイルが発射される。ミサイルはある程度の高度で方向を変えて敵に向かう。なお最新の艦艇では、高速性と共に、最も重視されているのは、そのステルス性能だ。だから今後、船はますます電波を反射しにくい、異様な形になってゆくものと思う。

亡国のイージスという小説があり、映画化もされた。著者がその中で、イージス艦こそ日本の専守防衛の具体的な形だと述べる部分がある。小説そのものは北朝鮮のスパイ(中井貴一)に踊らされて、海自の幹部(寺尾聰)がクーデターを起こすというストーリーで、日本には危機感が不足しているというのが、多分著者の言いたかったことらしい。一言で言ってこの作者も、百田の同類である。しかし妙にこのフレーズだけが記憶に残った。と言うより、本当にイージス艦の存在が専守防衛の決め手になるのであれば、そこを強化すれば(世界最強のイージス艦隊を持てば)、目的も明確でない上に、運用規則も分からず、しかも不平等な日米軍事同盟などより、遥かにましな抑止力にもなるのではと思える。






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