「WTWオピニオン」

【第119巻の内容】

「本音を突くトランプ」
「ボルトン回顧録」
「ファシズム化する日本」
「新自由主義右翼」
「GoTo選挙」
「見知らぬ人などいない」
「三体」
「武器としての資本論@」
「武器としての資本論A」
「武器としての資本論B」

1791.本音を突くトランプ。20/10/14

TBSTVの10/13のひるおびで、コメンテーターのモーリー・ロバートソンが、米国の大統領選に関して重大なことを言っていました。極めて重要なのに、同席していたものはMC(恵)を含めて、誰も趣旨を理解していなかったようなので、改めてWTWで指摘します。それは、何故トランプの支持率が下がらないのかという理由です。一言で言うと、それはトランプが嘘を言わないからだというのです。

ロバートソンはクリスマスを例に引きました。米国にはムスリムの国民もいるから、最近メリー・クリスマスと言わなくなった。それが特にNYでは顕著だとのことです。代わりにハッピー・ホリデーと言うのだそうです。ところがトランプは、誰も表立って言わないメリー・クリスマスを、連発したといいます。そこには間違いなく、中高年の米国人の心情に響くものがある。それは間違いがありません。もう一つ例を挙げれば、ジェンダーを差別するなと言う。無論その主張は正しい.。正論です。でもそれは感情とは別の、理性的な建前としてです。だから民主党を中心にした、リベラルで知的な人たちは新しい価値観を支持しています。でもそれは古いタイプの米国人にとっては、表立って反対ができない「建前」なのです。差別はできないが、さりとて自分と同じ仲間だと思えと言われても無理なのです。結婚は異性同士の結びつきであり、同性同士の結婚から子供が生まれることはない。次世代の子どもたちが生まれれば、そこに家庭ができる。それが正常な、と言って悪ければ従来の、枠組みや価値観であり、それは少なくとも、新奇な価値観より居心地が良い。しかもその古い価値観を是とする人の方が多い。そこをトランプは突くのです。但し、差別の感情は憎悪を育む恐れがある。半歩先に待っているのは人種差別です。ここで言いたいことは、トランプは米国人の根源的な部分に訴えかける。だから強いということなのです。

でもこの二律背反の状況にも、解決方法があります。それは双方が、お互いの立場を尊重し、共存する道を選ぶことです。そうでなければ、人種も宗教も異なる人類が、同じ地球上で、ともに暮らしてゆけるはずがありません。しかも米国はそれが一つの国の中で起きているのです。多様であるべき、と言うより多様でしか生きられない社会に、トランプは二者択一を持ち込み、国民に踏み絵を迫っているのです。そして自分は古い米国仁雄価値観、その多くは福音主義者の主張を振りかざしている。今回の大統領選挙戦でトランプが有利なのは、本音の側に立っているからです、だからバイデンもその部分では、表立ってトランプを攻撃できない弱みもあるのです。今回の選挙は米国のは保守主義(及び個人主義の本音)とリベラル(及び民主主義の理念)の直接対決でもあるのです。

クリスマスだけを取り上げていえば、後で米国に来たムスリムは、米国の伝統に従うか、少なくともその存在を尊重するべきであって、自分たちの宗教の理念(仏教もヒンズーも)を社会全体に押し付けるきでは無かったのです。その代わりに、米国社会は、ムスリム特有の服装を認めるべきなのです。但しいかなる場合でも、米国憲法が定める、自由を含む人権、民主主義の理念が侵害されてはならないのです。

この理想と現実の乖離、言い換えれば建前と本音の違いが招く混乱は、日本も例外ではありません。だからこそ、政治というものは、この本音とが歩み寄ること。これがj扶助杖っ峰d化が一歩いぇきに我慢スろ言うタイセイは無理なのです。建て前をどううまく融合しバランスをとってゆくかという点が重要なのです。自分の一方的な価値観だけを押し付けようとする、安倍・菅・小池が政治家の資質に欠けるのは、そういう理由もあるのです。

本件は短い前書きで結論を出すようなテーマではありません。だからここでは、トランプがなぜしぶといのかを、米国民の価値観から理解して頂ければ結構だと思います。ここで一言だけ(日本の)野党に言っておきたいことは、建前(きれいごと)だけでは国民はついてこないということです。でも建前がなければ、選挙に行く理由そのものがなくなります。国民を投票マシンではなく、血の通った人間として扱う。それが選挙では絶対に欠かせないということなのです。

一方、最近高齢者から免許を取り上げよというネガティブ・キャンペーンに、こともあろうにNHKまでが一役買っています。でもそれはレッテル貼りもいいとことであって、誰もが工業技術院の元院長と同じではない(特に収入と価値観)のです。

目的は不幸な犠牲者を出さないようにすることであって、そのためにはどうすればよいのかを「合理的に」考えることです。性別でも学歴でも職歴(工業技術院?)でも、人相でも体重でも年齢でもないのです。以下に二つの例を挙げますが、要は運転の技術、法令の理解、そして判断力と自制心が全てです。高齢者はスピード違反も、あおり運転もしないのです。この小さな問題にも、日本特有の多様性拒否(皆同じ)の風潮が潜んでいるように、私には思われるのです。GoToの問題、またしかり。富裕層の見方しかできない政治もその一つです。それは画一的であって、俯瞰が聞いてあきれます。

関連記事。92歳トラクターの達人。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6373542

関連記事。あおり運転で二名摘発。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20201013-OYT1T50099/
コメント:けんか両成敗です。


1792.ボルトン回顧録。20/10/15

ボルトンが、トランプの安全保障担当補佐官を辞任した後で出版した自叙伝が「ジョン・ボルトン回顧録、トランプ大統領との453日」です。ボルトンはもとから(当然共和党の)超保守でタカ派の代表格だったので、期待したこちらが間違っていたのですが、いわゆるホワイトハウス内の混乱やスキャンダルをすっぱ抜き、トランプがどんなに酷い人間かを明らかにする本だと思うと、当てが外れます。まずは2700円という価格もさることながら、大部で525頁もあるのに恐れをなします。但し日本語訳は、これ以上平易にはできないというくらいわかりやすく簡潔で、内容を取り違える恐れは全くありません。

自叙伝だから当然ですが、客観的な事実やデータは引用せず、ボルトンの一人称の記述が延々と続きます。自分がどう言った、他人がどう答えた、誰がどんな会議に出て、何をしゃべったかを、書き連ねたものです。その冗長度も半端ではありません。小学生の日記が、そのまま本になったようなものです。米国の現在政治史に関心のある人以外には、お勧めできません。我々一般大衆には、「退屈な」本だと思います。週刊朝日がこの本を取り上げており、読んだ後でボルトンと直接電話質疑もして、推薦図書にしていますが、それは間違いです。しいて言えば、この本は自民党の議員と、その支持者なら興味を惹かれるかもしれません。

私も完全な斜め読みでしたが、期待していたトランプの悪口は殆どなく、拍子抜けしたが、あとがきを読んで、毒気のない原因が分かりました。それはこの本は出版前にトランプの検閲と、修正が行われていたのです。

この本は全部で15の章に分かれていますが、ロシアとの関係、EU(主としてドイツ)との関係、イラン・アフガンとの関係、北朝鮮との関係、中南米、特にベネズエラとの関係、そして無論中国との関係を取り上げています。わき役として日本と安倍が登場します。しかもプーチン、習近平、金正恩との関係では、トランプが相手の掌の上で、いいように転がされている様子が見て取れます。外交の経験。もしくは才能のない者が、一国のトップになるということが、どれほど国益を損ねるかが分かります。

但しボルトンは日本も、安倍首相も好意的に描いており、ということは、この本は自民党の銀や支持者こそ読むべきでしょう。といえ、安倍に関する記述で気が付くのは、安倍は北のミサイルが飛んでくることを病的に恐れていたが、拉致問題は真剣に取り組んではいるとは言えなかったことです。

折角なので、気の付いた部分だけ、ご紹介します。

…(政権)移行期に蔓延していた無秩序は、組織的な機能不全だけでなく、トランプの意思決定のスタイルを次々と映し出すものだった。トランプを痛烈に批判して来た保守派の評論家チャールズ・クラウトハマーは、私(ボルトン)に対して、トランプの行動を11歳の子供用だと表現したのは間違っていたと述べ、「10歳分ずれてたよ。彼は1歳の赤ん坊だ。何であれ、『ドナルド・トランプの利益になるか』と言う観点からしかみようとしないんだから」と語った。(WTW注:これは安倍にも、二階にも、小池ゆり子にも言えることです)

…北朝鮮を動かす最良の手段は軍事的圧力である。安倍の主張には説得力があり、トランプを動かすだろうと私(ボルトン)は思ったが、ふたを開けてみると、その影響力は限定的だった。日本側も、私と同じように、トランプには常に念押ししておく必要があると感じていた。

…北朝鮮は何十年も前から組織的に、ほぼ間違いなく、兵器もミサイルもその製造施設も、より安全な新たな場所に移動させている。(WTW注:今回の軍事演習でそれが分かりました)

…習にとってはどんな個人的なつながりも、中国の国益追及を阻む要素とはなり得ない。プーチンの個人的なつながりが、ロシアの国益追及の障害になり得ないのと同じことだ。だが、トランプはこの点をついに理解しなかったように思う。

…この後にも、トランプが公私のけじめをつけられない場面が数えきれないほどあった。(WTW注:これも安倍と同じ)

…日本は状況の厳しさを認識していた。トランプが5月に公式訪問した際、あべ首相は、中国は中長期的に見て最大の戦略的な課題だと言った。中国は既存のルールや秩序を完全に無視している。東・南シナ海における現状を、一方的に変更しようとするのは許せない。日米も結束を堅持して中国に対抗した方が良い、安倍はトランプに説いた、これこそ近しい同盟国との戦略的に正しい関係である。(WTW注:ここにはボルトンの個人的な反中の価値観が色濃く反映しています)

…トランプは既に、日韓の争いに巻き込まれたくないと文に伝えていた。

…「(イラクに留まっている残留)米軍をなぜ撤収しないんだ。我々はシリアでISを追い払っただろう」。次に聞いた言葉はショッキングだった。「ISがイラクに戻ってきても、私は構わない」

…トランプは安倍にイランと米国の仲立ちを頼んだ。ここで新たに誤った行動に出たことはとてもタイミングが悪く、それに内より、トランプが安倍に押し付けようとしている役割が失敗に終わるのは目に見えていた(結果的にもそうなった)。

…結果は明白、安部のミッションは失敗だった。イランは安倍の横っつらをぴしゃりと叩くかのように、イランの近くで2隻の民間船を攻撃した。うち一隻は日本企業が所有するもので、その時、まさに安倍はハメネイと会談中だった。しかし日本側ががその現実を認めようとしなかったのは、トランプのせいで、被った屈辱から安倍をまもろうとしたためだろう。

ちなみに安全保障担当だからということと、コロナ問題が火を噴くのは20年になったからのことなので、コロナに関する記述はありません。トランプの人となりについては、我々が既に知っていることが殆どです一言で言えば公私混同、一族中心の体質だとしています。


1793.ファシズム化する日本。20/10/16

朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり(論語)という言葉があります。朝に、誰か(神か仙人か)に宇宙の真理や、人間の道理を教えてもらえば、命も惜しくないということです。この言葉は、人間が生まれながらに、真実や真理を追究する存在であることを示しています。知りたいという知的な(形而上的な)欲求が、人生最大、至高の要求なのです。そしてここにこそ、人間がほかの動物と異なる最大の理由もあります。知(知恵、知識)が最大の意味を持つ。でもだからこそ、(知性を求める)人間は一個のはかない生物を超えた存在に、なれるのです。

今回はサンデー毎日(10/25)から、気になった部分を抜き出してご紹介します。いずれも学術会議がらみです。
@保坂正康は、巻頭の特別寄稿で、異端狩りを始めた菅政権により、ファシズムが日常化する危険性を警告しています。
…まずターゲットを決めて、その人物を追放するように扇動する学者、研究者がいる。彼らは悪口雑言を浴びせるのが役目だ。やがて呼応する右翼勢力がそれに加わる。そして議会の国家主義的議員がそれをロ汚く罵り出す。かつての時代はこれに軍部が支援の姿勢を露わにして、暴力的な威圧をかける。その揚げ句に行政がその人物を教壇から、あるいは学校や研究機関から追い出す具体的処分を行う。この法則を簡単にいえ ば、「扇動者?攻撃者?威 圧者?権力者」という流れで見ることができる。繰り 返すが、滝川事件、美濃部 事件も見事なほどこの図式 が当てはまる。…確かに「権力者」は見え てきた。しかし「扇動者」「攻撃者」「威圧者」はまだ 見えてこない。これまでの 順序とは異なるのかもしれない。あるいは逆に、権力者から扇動者に向けて流れがつくられつつあるのかも しれない。そのような感を抱かせるのは、一連の報道の中で奇妙な論を目にするからだ。らだ。 日本学術会議の会員の権益が私物化されているとか、あるいは組織の硬直化があるといった論があり、 それ故に菅首相の任命拒否 は正しいといった論の横行である。菅首相擁護の側の論なのだが、日本学術会議 孕むという問題が事実なのか否か、私は知らない。しかし大状況に目を向けな ければならない時に、小状況を持ち出すことで論点をそらすという手法は珍しくない。言うまでもなく今論じなければならないのは、「権力者」が公然とパージを始めたという一事である。 (コメント:ネットの炎上も感情的であり、ヘイト・スピーチも、安倍のあんな人達発言も同類です)。

A高村薫が、サンデー時評で、説明しないというファシズムを批判しています。
…9月30 日に出そろった来年度予算の概算要求。今回は、 財務省がコロナ対策での「緊要枠」を青天井にした上に、感染の先行きがなお見えないことなどを理由に、項目だけ挙げて具体的な金額を示さない「事項要求」が並び、最終的に総額いくらになるのか見当もつかない異様さである。各省庁がこじつけであれもこれもと要求を並べるのは例年の光景ではあるが、ただでさえ来年度の税税制の落ち込みが確実ななか、要求項目についての具体的な説明も金額も提示もしないまま、年末の予算案決定を迎えるとなれば、これはやはり、説明はしないファシズムの予算と呼ぶのが正しい。

B青木理が、抵抗の拠点からで、新聞の党派性を論じています。
…政権が日本学術会議の会員候補6人を任命拒否した一件は、日本共産党の機関紙 『しんぶん赤旗』が10 月1 日にスクープして明るみに出た。新政権でも禁断の人事権を振りかざし、学問の自由すら踏みにじる為政者の体質を暴く見事なスクープだった。
それよりも興味深いのは、赤旗のスクー プを受けた一般紙の報道ぶりである。翌2日付の在京各紙朝刊は朝日と毎日が1面準トップ、東京は1面トップに記事を据え、総合面や社会面でも記事を展開した。私は 仕事で大阪にいたが、大阪本社発行版では毎日も1面トップに記事を置いていた。
一方、読売と産経は冷淡だった。記事は小さく、すみずみ迄目を通さねば読者は気づきさえしなかったろう。前政権から始まったメディアの分断というか、政権との距離をめぐる新聞の党派性が露わになったともいえる。
学術界にとどまらない各界から批判があがったため、 さすがに両紙も軽視できなくなった。政界への波紋や反応を記事化せざるを得なくなり、社説やコラムでも扱うに至った。
産経は3日、社説で問題を取りあげて、学問の自由の侵害には当たらないと訴え、同じ日の1面コラムは 首相が任命権を行使して、何が悪いか。?度のことながら、左派マスコミと主流派野党の議論は逆立ちしているとまで書いた。ただ、読者層が広い読売はさすがにここまで開き直っていない。
物事を針小棒大に扱いがちなのはメディアの本性だが、逆に物事を小さく扱うのは常に不健全な臭いが漂う。
関連記事。学術会議の誤った情報が拡散。
https://news.yahoo.co.jp/articles/eb6d832b25746bc129f2e6b7be9211e28927f2cb
関連記事。組織見直し議論に反発。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020101500831&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
関連記事。日本学術会議が、研究成果の軍事利用に慎重になるのは当然。冷泉。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2020/10/post-1193.php

重要記事。文科省が、大学に弔意求める。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6373755
コメント:これだってファシズムです。まして故人は学者どころか、国家主義者の中曽根です。賛同したら学問の中立性は消し飛ぶでしょう。最近加藤の苦虫の顔つきが益々疎ましくなってきました。前厚労相の時、無能閣僚にも関わらず(失礼、でもないか。本当のことだから)、上から目線でよくも「ですから」などと言えたものです。

重要記事。このままでは歴代最低政権。保坂。
https://mainichi.jp/articles/20201015/dde/014/040/004000c

重要記事。真っ先に派遣切り。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14658080.html?iref=comtop_Opinion_02


1794.新自由主義右翼。20/10/17

遅くも来年秋には総選挙が行われます。安倍政権が嘘と隠蔽にまみれた多くの不祥事を重ね、多いに評判を落としたにも関わらず、自民党の支持率が大きく変わらないばかりか、安倍・菅の交代劇で、内閣支持率までが上昇(70%)という、にわかには信じられない(世論調査した朝日新聞自身が驚愕した)数字が出ました。この分では、次回総選挙でも、自民党が(根拠がない)優勢で過半数を維持し、常識も社会正義も法律さえ通用しない、経済格差が増大する暗黒の政治が続くことになるのでしょうか。でもそれは何故なのでしょうか。民主主義と議会政治から、日本の政治がどんどん離れていくのは何故なのか。悪臭を放つ国内政治を正道に戻し、良識を備えた国民の手に取り戻すことはできないのか。そのヒントを探ってきて、一つの論文に辿り着きました。それが雑誌世界の11月号の、以下の寄稿です。これが直接の解にはならいにしても、政治を正常化するために、私たちが何をしたら良いのかを考える基礎データにはなると思います。

(以下引用)
「誰が安倍政権を支えてきたのか」 新自由主義右翼の正体 橋本健二 から一部

7年8力月にも及んだ第二次安倍政権の支持率の特徴は、一言でいえば「底堅さ」である。支持率の水準そのものが、歴代政権に比べてとりたてて高かったというわけではない。それでも30%台をほぼ維持しており、不支持率を大幅に下回ることはなかった。

そして安倍政権は、国政選挙で勝ち続けた。民主党政権があまりにもぶざまな結末を迎えたため、他に選択肢がないとみられやすかったこと、自民党内から批判めいたものが聞こえなくなっていたことなど、いくつかの理由は考えられる。しかし、国政選挙への投票率が低迷を続けている現在、重要なのは必ず投票所へ足を運んで自民党に投票する、いわゆる岩盤支持層の存在だろう。

かつて自民党には、絶対的といってもいい岩盤支持層があった。それは商工業や農業を営み、業界団体や政治家の後援会に組織され、零細資本家層、そして農民・自営業者からなる旧中間層である。これらの人々の自民党支持率は、1965年から85年まで、50%台後半から60%台を維持し続けていた。もちろん大企業経営者の多くも自民党を支持したが、経済に対する影響力はともかく、選挙ではさほど多くの票になるわけではない。

しかしその後、日本の農業は衰退し、零細企業と商工自営業者も、経済のグローバル化と新自由主義の台頭のもとで激減している。そのうえ旧中間階級の自民党支持率は低下を続け、2015年には35.5%となった。にもかかわらず自民党が勢力を保ち続けることができたのだから、何か別の岩盤支持層が形成されたと考えなければならない。それは何か。

私(橋本)は、企業経営者からなる資本家階級、製造・販売・サービス・建設などの現場で労働に従事する労働者階級のほかに、専門職や管理事務職に従事する新中間階級、そして旧中間階級を区別した、四階級分類を使っている。

どの階級分類を使ぅかにかかわらず、ある時期までは階級所属が支持政党を決定する最大の要因だった。たとえば1965年の場合、資本家階級の66.7%、旧中間階級の58.0%までが自民党を支持する一方、新中間階級の41.4%、労働者階級の47.8%までが革新政党(当時の社会党または共産党)を支持し、逆の支持は少なかったのである。つまり、「階級政治」の時代である。

ところがその後、まず新中間階級と労働者階級で革新政党の支持率が下がり、次いで旧中間階級で自民党支持率が卞がって、無党派が増えていく。資本家階級は依然として自民党を支持する傾向が強いが、なにしろ人口の数%を占めるにすぎないから、これだけでは自民党の強さは説明できない。

またかつては高齢になるほど、また生活に満足するほど、自民党支持率が高くなっていたのだが、こうした傾向も弱まっている。ところが「今後、日本で格差が広がってもかまわない」という主張を支持する傾向と自民党支持率の関係だけは、飛躍的に強くなった。米田幸弘は、この10年間で、格差を容認する新自由主義的なイデオロギ?をもつ人々ほど自民党を支持するという頃向が強まったと結論している。

新自由主義右翼の自民党支持率は実に63.2%である。自民党支持者の内訳では、全体では一割を占めるにすぎない「新自由主義右翼」が、政党の支持者の内訳では約四分の一を占めている。この事実は重要である。きわめて個性的な政治意識をもつこれらの人々の投票率は非常に高いと考えられるから、投票率が五割前後にとどまる近年の状況では、これらの人々の票は総投票数の二割弱、そして比例区での自民党の得票数の半数近くにも達している可能性がある。だとすれば自民党は、現実には圧倒的少数派である新自由主義右翼の要求に応えざるを得ないだろう。

既存の野党は、本来は支持基盤であるはずの「リベラル」をとらえることに成功していない。「リベラル」の多くは支持政党をみつけられずに「無党派」となり、そのかなりの部分は投票所に足を運ぶことがなく、その票は宙を漂う。反対に「新自由主義右翼」の票は、まっしぐらに自民党へと向かう。「リベラル」が迷うことなく投票できる政党が存在しない。だから、自民党が勝ち続ける。そして自民党は、「新自由主義右翼」を岩盤支持層としている。

では「新自由主義右翼」とは、どういう人々なのか。まず、男性比率が77.5%と非常に高い。「リベラル」の過半数が女性であるのと対照的である。大卒者の比率は73.4%に達し、他の二つを大きく上回る。平均世帯年収は840万円と高く、総資産は4921万円で、これも他の二つを大きく引き離している。年齢には他の二つと大きな違いがないので、階層的に上に位置する人々が多いということである。所属階級では、新中間階級が47.1 %と半数近くを占める。資本家階級も8.6%で、他の二つよりは多いのだが、大差はない。そして過半数の人々が自分は「人並みより上」だと考えている。

日本人の政治意識の構図が以上のようなものだとすれば、現在の政党システ厶は、これにまったく対応していないといわざるをえない。対応しているなら、政党システムは、一方に多数派の支持を得るリベラル政党、他方にこれに拮抗するほどの支持を得る穏健保守政党があり、これとは別に「新自由主義右翼」の支持を得る少数派の政党が存在する、あるいは穏健保守政党内に右派の派閥が存在する、というものとなるはずだろう。ところが現実は、そうではない。

現在の政党システ厶は構造的に、多数派の声を政治に反映させないものとなってしまっているのである。必要なのは、「リベラル」を代表する政党を再建すること、そして「新自由主義右翼」と「穏健保守」の間に楔を穿つことだろう。おそらくその鍵となるのは、「穏健保守」を支持基盤と自覚する政治家たちと、リベラルを支持基盤と自覚する政治家たちの連携ではないだろうか。
(引用終わり)

コメント:この論文が重要なのは、マルクス主義的な分類では投票行動の予測には不十分であることを提言している点です。また新自由主義右翼の存在の指摘は、私は今回初めて目にしました。彼らは、経済格差は本人の努力が足りないせいだとする、、国による福祉は最小限度(所謂小さい政府)、国が軍事力を持てるように改憲すべきだと言う主張です。その価値観は、安倍・菅だけでなく、トランプにも共通するものがあります。日本が悪い意味で米国化をする危険性を感じさせるトレンドです。そういう人たちが政治に大きな影響力を持てば、日本一層住みにくい国なるでしょう。我々団塊の世代から見れば若い彼らは、戦後の民主主義政治で育ったはずなのに、それを身に着けていないのは、自由市場や競争社会が彼らをそうさせたのでしょうか。それとも米国の金融市場経済(金が全て)に洗脳されたのでしょうか。いずれにせよイデオロギーの問題だとすれば、一筋縄ではいきません。しかもその根っこには、悪い意味での個人主義が感じられます。

無論安倍清家の長期化が、全て新自由主義の有権者によるものではないでしょう。しかし、リベラルな国民は準備をしておく必要があります。また市井の我々にも出来ることがあります。投票に行かない層(特に無党派層)に、選挙に行くよう働きかけることです。この活動には、自民党でさえ反対派出来ないはずです。しかも特定の候補者に投票せよという運動の必要はないのです。単純に、一人でも多くの有権者に、投票所に足を運ばせるだけでいいのです。

私は次の総選挙の前に、「投票に行こう」運動を盛り上げたいと思っています。具体的な方法としては、「VOTE=投票に行こう」と書いたTシャツを作ること。車のバンパーに貼るステッカーを作ることが考えられます。もしこの運動に賛同してくれる人が出てきたら、お金を出し合って、「投票推進協議会(仮称)」の名前で、メディアの時間を買って、メッセージを流すことが出来るかもしれません。日本の政治を正道に戻すには、民意を反映する投票を実現するだけでいいのです。そして次回の総選挙の主役は、議員ではなく、国民であるべきなのです。

重要記事。行きつく先は陰湿な警察国家。
https://www.47news.jp/47reporters/5379216.html
コメント:警察出身の杉田官房副長官は未だ辞めないのでしょうか。

重要記事。強権的手法まで継承。朝日社説。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14659696.html?iref=comtop_Opinion_04
関連記事。中曽根の弔意強制も。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/62187


1795.GoTo選挙。20/10/18

昨日の続きです、昨日は、「新自由主義右翼」が、安倍長期政権に大きな役割を果たしたという分析を紹介しましたが、自民党の強さは、それだけでは説明がつかないように思います。以前にも、トランプは従来の米国人の価値観に直接働きかけるから強い(あなどれない)というモーリー・ロバートソンの見解をご紹介していますが、それと同じことが日本人についても、いえるのではないか。安倍個人については、間違いなく過半数の日本人が不信感を持っており(そうでなければもはや日本はおしまいです)、仮に総裁が公選制だったら、安倍は絶対に選らばれないでしょうし、菅の後継もなかったでしょう。自民党に限れば石破が当選したはずです。

しかし総裁=首相は公選制ではないので、派閥の論理で、二階のような陰湿なフィクサーの戦術で菅が首相になりました。安倍=菅なので、国民にとって政治が良くなる訳はありません。しかもその返礼として、党の人事と金を一手に握る幹事長のポストを、二階が続投できることになりました。国見にとっては、ニカイではなくフユカイが議員バッジをつけて歩いているようなものです。二階に関しては、週間文春最新号の冒頭の記事に詳しく出ています。あちこちで利権との関係が描かれています。ちなみに独断で河井に、1.5億出したのも二階です。この毛の被害者はほかならぬ河合夫婦自身でしょう。私は、二階や安倍のように、倫理観も、まともな政治理念もなく、権力の亡者である政治家が暗躍する社会が、正しい社会だとは、どうしても思えないのです。

話を戻すと、安倍前首相にあれだけ国民が反感を持っているのに、なぜ自民党が常に支持率のトップにあるのか。それは畢竟(つまるところ)、日本の国民が安定(=保守)の構図に囚われているからだと思います。

今の生活がどんなに苦しくても、今より悪くなることだけは避けたい。そうしたいじましい庶民の気持ちがは池にあると思います。手にした10円玉は、なんとしても落としたくはない。一部の者が高給を得て、好き勝手に振舞っていても、それは今の自分の生活とは関係がない、でも本当は大いに関係があるのです。富の再半分と言う福祉の機能が、保守政治家のさじ加減のせいで、正常に働いていないことが、経済格差の最大の原因なのですから。

一方で、所謂新中間層となった新自由主義右翼の人たちがいる。彼らにとって、社会主義的な要素のある政治は許せないのです。なぜなら彼らの利益(または報酬)の源泉は、収奪的な資本主義、とりわけ金融資本主義にあるからです。自分で稼いだ金を税金で巻き上げられるばかりか、それが貧しい国民に分配されことなどあってはならないことだし、国は軍隊を整備して、いつでも戦争ができる国なり、韓国や北朝鮮になめられないようにしたい。米国から押し付けられた憲法など知ったこっちゃないのです。なので、こういう超保守の国民の理屈(にならない理屈)は、民主主義の理想から見ても、無論憲法の理念に照らしてもからも、本当は大きく間違っているのです。

とは言いつつも、自民党を支えているのはそれだけではない。自己中の新自由主義者だけではなく、日本人の心に潜む保守安定指向が大きな要素になっていると思います。

理想論は、より平等な福祉国家であることは理解できるにしても、では来るべき総選挙で、一気に政治形態が変わったとしても、「自分の」今の生活が良くなるとは限らない。変わることで必ず良い結果になるという保証はないのです。なぜならその先のビジョンがないからです。そこには野党の怠慢が大きく影響しています。田原をはじめ、政治評論家たちは異口同音に、野党が政策やビジョンも打ち出せないから、票が集まらないのだと言っています。でも与党を含めて、誰も日本の将来像など示せる者はいないのです。評論家はないものねだりをしているだけとも言えるのです。なぜなら評論家の頭の中にも、これといってあるべき日本の姿があるようには思えないからです。

野党が政権を取るためには、政権が交代すれば、今より生活が楽になり、コロナ対策を含めてより安心・安全な社会になるという希望がなければなりません。出来るかどうかは分からないにしても、そこに向かって努力する約束をする「義務」が、政権を担当する政党にはあるのです(そういう意味では都知事は反面教師です)。

政権交代の具体的なステップとしては、共産党が自民党の非行や不正を暴き、その間に小沢、喜四郎、枝野、大塚(国民)が新しい日本の絵(民主主義の国)を描く。自分たちが目指す理想の日本の姿を国民に示さなければならないのです。しかも図を描く為に残された時間は多くはないのです。しかも日本の将来図は、これまでのような部分的なつぎはぎではなく、(骨太の福祉政策を中心に据えた)全体像が必要なのです、そうでなければ有権者、特に無党派層が投票所に足を運ぶ理由にはならないからです。

そもそも野党は、自分たちを当選させてくれたのが国民だと思っていないのではないか。労組や団体の後押しで当選したと思っているから、そちらの顔色ばかりうかがって(特に国民民主)、肝心の国民の民意に応えようという意欲が薄いのではないか。一般国民に対するアピールが足りないからこそ、今のようなじり貧状態になっているのではないか。

政治が変われば、国民の生活が今より良くなる、明るい未来が開けるとなぜ力説しようとしないのか。ここで大事なことは、嘘っぽい理想論や、自民党の屁理屈に毛の生えただけの説明(国民民主のような)ではなく、目先の国民の生活を改善する具体的な、むしろ短期の公約を中心に据えることです。国民の生活が大事という小沢の主張は正しかったと思います。安心、安全、将来に希望が持てる生活。特殊な才能などなくとも、真面目に働けば人並みの生活が送れる国。富裕層のような生活ができなくても、食うに困らず、医療が受けられて、自殺など考えなくてもよい国。なにより、国民同士が助けあい、信じあえる社会。それこそが、民主主義国家の理想であるはずです。

見方を変えれば、自民党だけでなく野党も、既得権益の上に胡坐をかいてきたのではないか。緊張感が足りなかったのではないか。でも市民意識に目覚めた国民が、既得権と離れた市民運動を展開するようになれば、従来型の政治も選挙制度も通用しなくなります。特定の団体の利益代表ではなく、国民全体の代表であることを求められるからです。

安倍が民主党政権時代を悪夢だと言いましたが、それは経済を取り上げて言ったのです。でも実は、日本経済をデフレにしたのは自民党政府(時に竹中)であって、逆に民主党政府では景気がやや回復しているのです。むしろ安倍は異次元緩和で、大きな財政赤字を将来の禍根にしたのです。アベニミクスで儲かったのは、一握りの大手企業(とその役員)と、金融資産のある富裕層だけです。

民主党が悪夢だったのは、むしろは政治面です。鳩山、管(かん)、野田、岡田と、歴代ロクでもない、と言って悪ければ、凡庸な政治家が思い付きの政策で、日本の政治を混乱させました。官邸(政治)が官僚をコントロールできるようにしたのに、それに悪乗りして、政治の私物化で悪用(忖度を含む)したのが安倍・菅です。民主党が始めた行政改革は自民党では一切無視されました(今河野が騒いでいるのは、目先のどうでもいい案件ばかりです。議員削減など影も形もありません)。民主党政権が残したものは、抜きがたい国民の不信感だけだったのです。一体民主党政権は何をしてくれたのか分からないと、多くの人が思っていること、それが最大の問題なのです。民主党内部のお粗末な、かつ低次元の権力闘争(特に野田豚)が原因であり、言い換えれば身から出た錆なのです。

二度も同じ失敗を繰り返している余裕は野党にはないのです。野党連合が描く日本の姿、政府のあり方、政治の方向性が、国民の生活に直結し、今より楽で豊かな、そして公平なものになることを、野党は体を張って、不退転の決意で国民に約束しなければならないのです。そういう(あるべき日本の姿という)夢と希望を、国民に与えられるかどうかに、野党の命運が掛かっているのです。

私は個人的に「VOTE!GoTo投票」というステッカーを作る予定です。「GoTo選挙」の方が分かりやすいが、神経質な選管に選挙活動と混同される恐れがあります。出来上がったら希望者にお分けしたいと思っています。

一人でも多くの有権者が投票すること。それが民主主義のあるべき姿であり、しかも日本が金権国家・全体主義国家から、人道・人権を大切にする民主主義国家に舵を切るための、最初の一歩にもなるのです。民主主義の基本は、国民の明確な意志表示と、それを政治に反映させることです。それは保守か革新か関わらず、民意が正しく政策に反映する政府です。世論調査と政策が今のように毎回大きくずれるのは本来おかしいのです。どこかで誰かが、民意を軽視しているからとしか考えられないのです。選挙で勝てば何をしてもいいなどとは、憲法のどこにも書かれていないのです。

同時に、候補者の資質を一人一人綿密に調べ、(超党派で)国民が信頼できる人物かどうかを、自分の目で確かめる仕組みを作ること。そのためには、通り一遍で、しかもいくらでも嘘がつける(知事の学歴詐称もありました)政見放送などではなく、国民が直接候補者に公開質問できるような、討論会も必要です。こうした、これまでのような形骸化した、形式的な選挙ではなく、中身の詰まった選挙の形に変えてゆく努力が、日本の将来のために、避けて通れないと私は思います。誰でも思いつく、当たり前のプロセスを作り、機能させることが、政治を国民の手に取り戻す王道だと考えています。

ついでに言えば、現在の選挙権のあり方にも、問題はあります。ホームレスの人は言うに及ばず、住所を転々とするネット難民には選挙の投票券は届かない。それは投票の権利(憲法上の権利)の事実上の否定です。これでは日本が、中間層以上の国民だけを前提しているとしか考えられない。それではいつまで経っても、社会的弱者の声が政治に届かないのです。

では投票に行ったところで、どうせ日本は変わりはしないという、冷めたというより、もはや無気力な無党派層の腰を上げさせるには、どうすればいいのでしょうか。そのためには、投票に行けば、日本は変わる、今より確実に生活が良くなるという確信を、インセンティブとして与える努力を、野党は惜しんではならないのです。

募金を集めて、投票所までの無料バスを手配する(無論誰に投票するかは自由)くらいに前向きに、野党や日本を変えたい市民団体は、無投票層に対処するべきなのです。

国民が保守と言う居心地の良い洞穴から出て、北風が吹く外に一歩踏み出す勇気を持つこと、それだけが、日本の政治を変えられるのです。それができずに、ぬるま湯にいつまでも浸っているうちに、保守政権のいいように料理されて、いつの間にか、全国民が茹で蛙にされていたというのでは、後の祭りなのです。
関連記事。最新の内閣支持率。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7261e156a3834d4b29bde528b0c12bf60499f839
関連記事。ネット炎上参加は高収入の役職者。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/10/post-94725.php
コメント:絵に描いたような新自由主義者右翼です。民主主義を置き忘れた個人主義であり、。本当の意味での教養が不足している人たちです。

・中曽根合同葬。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6373956
関連記事。行革の対象では。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3c2666e046ccd8420658973d0b27c8194b829432
関連記事。河野の見解。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6373963
コメント:2憶円の葬儀費用の内訳を知りたくもあり、知りたくもなしです。以前、知人から聞いた話では、省庁の課長級でも、国費で盛大な葬儀が営まれるとのことです。お国のために尽くしたからでしょうか。でも民間人ではそうはいきません。御香典で、費用のかなりの部分を補うのが精一杯です。そういえば勲章も役人と政治家しか貰えません。日本の官は、明治のしきたりをそのまま令和に引きずっているのでしょうか。
 

1796.見知らぬ人などいない。20/10/19

誰が言ったのか定かではありませんが、米国の自動車番組で語られた、次の言葉が記憶に残っています。「見知らぬ人などいない。いるのは会ったことのない友人だけ」。この言葉から分かることは、基本的に人間関係は敵対関係から始まるものであってはならないということです。まして、安倍・菅のように、国民を自分の敵と味方に分け、敵はどんな汚い手を使っても追い落とし、味方やお気に入りには、(自分の金ではない)税金をばらまく。これを依怙贔屓といいます。そんな歪んだ関係(親分子分の関係)であってはならないということです。


1797.三体。20/10/25

私事で恐縮ですが、学生時代の趣味は読書でした。中でもSFで、名作はほぼ読んでいます。古典的なところでは、ジュール・ベルヌの海底2万マイル、地底旅行から始まり、アシモフ(ロボット)、クラーク(2001年宇宙の旅の他、特にファウンデーション・シリーズ)など多数、また短編に名作が多いのもSFの特徴です。成人してからはもっぱら映画で、ちょうどスター・ウォーズやエイリアンのシリーズが始まった頃です。SF作家は英米が主力で、ロシアが少しあるくらいです。日本もかなり盛んですが、小松作品(日本沈没)が映画化された程度で、翻訳が海外で売れたという話を聞いたことはありません。ところが最近彗星のごとく登場したのが、中国です。リウ・ツーシンと言う作家で、昨年三体というシリーズ3部作の第一部が出され、それを読んだ限りでは、あまりピンとこなかったのですが、今年第二部「黒暗森林」上下二巻が出て、これはかなり読みごたえがありました。主役は中国人の科学者で、それは中国人の作品なので、仕方がないところです。米英日仏などは良く描かれてはいません。ところでこの変てこな題名は、第一作で地球外生命体との連絡がついたものの、それが3つの太陽が巡る(だから3体)不安定な星系の生命体だったことから、彼らが地球への移動(侵略)を画策するというストーリーです。ところが相手は地球文明より数百年以上も先を行くので、戦争になれば技術で勝ち目はない。ではどうするかというのが粗筋です。SFには様々なジャンルがあり、時間旅行や多次元宇宙(パラレル・ワールド)、恐竜ものもあるが、あまり実感はありません。そこで壮大でも、実際の実績もある宇宙テーマがダントツの人気です。スーパーマン、スター・ウォーズ、砂の惑星、ジュラシック・パーク、スター・トレック、MIBなどが定着し、米国の大衆文化の根の一つを形成しています。ちなみに私が日本の作家のSFで一番スケールが大きいと思うのはエバンゲリオンでも、ゴジラでも、君の名はでもない。光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」です。
関連記事。三体。
https://book.asahi.com/article/13656081
関連記事。百億の昼と千億の夜
https://bookmeter.com/books/544958
コメント:萩尾の漫画版ではイメージが型に嵌められてしまうので、小説の方をお勧めします。とりわけ最後のシーンは泣けます。

・日本は米国の保護領。寺島実郎。
https://mainichi.jp/articles/20201024/k00/00m/010/108000c
コメント:だから核に反対もできないし、世界中から陰で馬鹿にされるのです。政治哲学無き日本の政治。



1798.武器としての資本論@。20/10/26

今年読むべき本と言えば沢山あるでしょうし、人によって推薦図書も異なります。でも私のお勧めは白井聡の、「武器としての資本論」です。

私は資本論も共産党宣言も読んだことはなく、サヨクともウヨクとも無縁のノンポリ学生でした。一方、一高の流れをくむ(硬派の)国立大学生は、資本論と岩波文庫の全部を読むことを目標にしていたと聞いています。言い方を変えると、それくらい資本論は長くて難解な本だということです。そして戦後の資本主義が暴走を始め、新自由主義が猛威を振るい始めた現在、国民は自らの生命と自由と財産を守るために、資本主義という怪物の正体を見極めなければならなくなっているのです。この本は、誰にでも理解できるように、平易な言葉で記述されているうえに、ここが非常に重要なところですが、学問的分析にとどまらず、行動の指針を提示しているのです。

資本論のエッセンスだけを、分かりやすくまとめたのが、この本ですが、なぜ武器としていう前句が付くのかは、最後まで読むと分かります。但し作者自身が述べているように、暴力革命を扇動している訳ではなく、意識の問題だとしています(これは意識の革命が必要だと常々訴えてきた私とベクトルを一にするものです)。

本の前半部分では、歴史的必然として資本論が登場した過去、とりわけの農村の余剰人員として派生した労働者(商品は労働)と、資本家との関係を中心に、戦前までの社会の変化が語られます。後半は、新自由主義の名のもとに暴走し、1%と99%の構図を作り出した現代資本主義の病巣が分析されています。

労働者の立場から逸脱し、第二組合となり、あいまいな存在になった労組、特に連合についても、冷静で容赦のない批判を加えています。

では今の格差の問題は、社会の富を独占する少数の大富豪を投獄すれば解決するのでしょうか。それは資本主義の構造的な問題であり、個々の資本家の問題ではないと白井は説いています。これから何回かに分けてその中核部分をご紹介してゆきたいと思います。

なお今日の初回は、いつもとは逆に、結論に近い部分をご紹介します。

…食にこだわることは、人生を楽しむこと、幸福ということ、人間性の回復にもつながってきます。…思想ではない、センスの世界です。

今の日本の食文化を見ていると、かなり正念場に来ているという気がします。海外と比べた日本のスーパーマーケットの特徴は、生鮮食料品が多いことです。生鮮食料品は流通コストが高いので、値段は割高です。でも高くても、日本の消費者はやっぱり生鮮食料品を買う。だからこそスーパーも生鮮食料品の売場面積を広く取っている。もしス?パーの棚から生鮮食料品がどんどん減っていくようだと、それは「日本もいよいよ危ない」ということでしよう。

「これ以上は耐えられない」という自分なりの限界を設けて、それ以下に「必要」を切り下げようとする圧力に対しては徹底的に闘う。そして闘争によって求める「必要」の度合を上げていく。それはすなわち、自分たちの価値、等価交換される価値を高めていくということです。

世の中では、「自分の労働者としての価値を高めたいのなら、スキルアップが必要です」ということになっています。しかし私が主張しているのは、「それは全然違う」ということです。

そういう問題ではない。マルクスに立ち戻って言ぇば、スキルアップによって高まるのは労働力の使用価値の次元です。

人間という存在にそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラィンなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、 もうおしまいです。それはネオリベラリズ厶の価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。
「階級闘争なんて大層なことを言ったわりには、『うまいものを食え』というのが結論か」ということで、少々肩すかしと感じられるかもしれません。しかしこれは真面目な話です。

資本の側の包摂の攻勢に対して何も反撃しなければ、人間の基礎価値はどんどん下がってしまう。ネオリベラリズムが世界を席卷した過去数十年で進行したのは、まさにそれでした。人間の基礎的価値を切り下げ、資本に奉仕する能力によって人の価値を決めていく。そして「スキルがないんだから、君の賃金はこれだけね。これで価値どおりの等価交換ということで、文句ありませんね」と迫る。

それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。「私たちはもっと贅沢を享受していいのだ」と確信することです。贅沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。 私たちは本当は、 誰もがその資格を持っているのです。しかし、ネオリベラリズムによって包摂され、それに慣らされている主体は、そのことを忘れてしまう。

…新自由主義は、単なる政治経済的なものではなく、文化になっているということを強調してきました。それは資本主義文化の最終段階なのです。その特徴は人間の思考・感性に至るまでの全存在の資本のもとへの実質的包摂にあります。従ってそこから我が身を引きはがすことが、資本主義に対する闘争の始まりであるとみなされなければなりません。(以下続く)

・中曽根の葬儀に寒気。
https://mainichi.jp/articles/20201025/ddv/010/070/002000c
コメント:菅流の国威発揚でしょう。戦前回帰の政治、時代錯誤の価値観。一抹の救いは学術会議と、記録非保存の件で、急速に菅内閣の支持率が落ちていることです。

・26日から臨時国会。菅は何を語る。
https://mainichi.jp/articles/20201025/k00/00m/010/087000c

・志も理念もない人が増えた。古賀。
https://mainichi.jp/articles/20201025/k00/00m/010/017000c


1799.武器としての資本論A。20/10/27

「武器としての資本論」の二回目は、冒頭部分からの引用です。

…いわゆる日本的資本主義は、会社を家族になぞらえ、「みんなで助け合ってがんばっていこう」という、ある種の共同体主義であると言われました。かつてはそれが企業の競争力を増す方向に機能していたとみなされていたのです。

ところが日本経済のパフォーマンスが悪くなってくると、逆に「日本的資本主義こそが不況の元凶、日本経済衰退の元凶である」と指弾されるようになりました。「ではそれを壊そう」となって、アメリカを範とした新自由主義化が目指されます。「選択と集中」と称して、儲かりそうなところに集中投資して、備かりそうにないところは切っていく。そして何よりも重要なことには、雇用の脱正規化が激烈に進みました。一部の正規雇用者を守る一方で、膨大な非正規雇用者を「お前たちは、仲間ではない」ということで使い捨てるわけです。

日本に限らず世界全体がこうした新自由主義化の道を辿ってきたわけですが、 いったい誰が何のためにそんなことをしたのでしようか。それで笑ったのは誰だったのでしようか。

デヴィッド・ハーヴェィという、英米で活躍しているマルクス主義者の社会学者がいます。

日本でも多くの翻訳書が出ていますが、彼は新自由主義について「これは資本家階級の側からの階級闘争なのだ」「持たざる者から持つ者への逆の再分配なのだ」と述べています。

戦後、日本を含めさまざまな国で経済が発展し、同時に社会の平等化が進んでいきました。

つまり階級というものが解消されていったのです。日本でも「一億総中流」と言われ、「もう階級なんて言葉は古くなった。いまの日本にそんなものはない」と言われていました。ところが1980年代あたりからその動きが反対側に夕―ンし、90年代以降、格差の拡大が露骨な流れになっていきます。無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義化の進行と同時に再び階級社会化していったのです。この構図はもちろん、他の先進資本主義国にも当てはまります。

さまざまな新自由主義改革によって、肥え太ったのは誰か。資本家の側です。反対に労働者たちは、戦後獲得してきた権利を次々と失っていきました。

(編集者コメント:アベニミクスで肥え太ったのは誰だったかを思い起こして頂きたい)

つまりこれは資本家階級の側が、「もう階級なんてものはない」と思ってまどろんでいた労働者階級に対して、いわば戦争を仕掛けてきたということではないか。その結果としていわゆる「1%対99%」の対立が始まったのだとハーヴェイは言うわけです。

このハーヴヱィの新自由主義の定義は非常に鋭く、正鵠を射ていると私も感じます。

しかしそこには謎が残ります。「では労働者階級はいったい何をやっていたのだ」ということです。資本家階級が戦争を仕掛けてきて、労働者たちの家に火が放たれ、ボーボー燃ぇているという状態なのに、その家の住人がいつまでもグーグー寝ているとは、いったいどういうことなのか。

新自由主義はさまざまなものを変えました。「あらゆるところに競争原理を導入しろ」と国営事業の民営化を進め、小さな政府を実現し、大企業もどんどんスリム化して、人を減らし、本来の業務だと思われていたものすらも、外注に出すようになった。そしてその外注先を買い叩いてコストを下げ、利益を増やしてきた。

だが、新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、 センスを変えてしまったのであり、 ひよっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。制度のネオリベ化が人人間をネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになる、という循環です。

ですから、新自由主義とはいまや、特定の傾向を持った政治経済的政策であるというより、卜―タルな世界観を与えるもの、すなわち一つの文明になりつつある。新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。だから、人間を資本に奉仕する道具としか見ていない。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて他の人と違いがないんじゃ賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。

…こんな異様なことになっている状況においても、それに対する大規模で組織的な抵抗が極めて起こりにくい、そういう社会になっています。それは人々の魂が資本主義化してしまったからではないでしょうか。(以下次号)

・チリ、国民投票で新憲法制定。起草は市民。
https://www.bbc.com/japanese/54687300
コメント:かくありたし。4大国では、独裁政治家が全てを決めている。トランプと菅(安倍の傀儡)、もしくはプーチンと習近平。一般市民にとって、愚かな独裁者か、狡猾な独裁者から選べないとしたら、こんな不幸はない。

・若者の政治的無関心に抗う男。
https://www.asahi.com/articles/ASNBR45WCNBMUPQJ012.html?iref=comtop_Opinion_02

・じわり恐怖政治へ。真紀子、村上。
https://mainichi.jp/articles/20201026/dde/012/010/029000c

・唯一の被爆国、条約に背を向ける日本。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6374714
関連記事。条約が迫る大転換。核兵器は悪。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9571f3ec4d015e51036ec845a10a79176dccb30f
コメント:世界中が奇異の目で日本を見ています。でもこれが日本の極右支配政党、金が全てのありのままの自民党政治の姿なのです。世界に平和を呼びかける資格など、あるはずもない。早く戦争責任政党から政権交代させないと、早晩日本は世界の先進国や民主主義国から全く相手にされなくなるでしょう。戦争をしたい国など、どこの国も関わりたくはないでしょう。

・災害ボランティア、いつまで善意頼み。
https://www.47news.jp/47reporters/5420877.html
コメント:国や、担当大臣にやる気があるようには思えません。酷い国です。

・学術会議任命拒否は民主主義の危機。古賀前連合会長。
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20201021/pol/00m/010/006000c


1800.武器としての資本論B。20/10/28

「武器としての資本論」のご紹介の最終回です。

…「階級闘争」を闘ってきたのは「金持ち」だった

先年、アメリカの著名な投資家であるウォーレン・バフェットが『ニューヨーク.タィムズ』に寄稿し、「私の秘書が負担している税率が、私自身が負担している税率を上回っている」と自ら明らかにしました。

バフェットは毎年何十億ドルか何百億ドルかを儲け、一時は世界一の富豪と言われていたほどの、資本家の権化のような人物です。一方、彼が雇っている秘書は普通の給料しかもらっていない。ところがかけられた税金の税率は、バフェットの方が安いのだという。これは大きな話題になって、当時のオバマ大統領は富裕層への税率を30%とする増税案を議会に提出しましたが、あっさり否決されています。「30%に増税Jということは、アメリカでは現状、どんな大金持ちでも、30%より低い税金しか払っていないわけです。

なぜそんなことになっているのか。実は私たちが気づかないうちに、金持ち階級、資本家階級はずっと階級闘争を、いわば黙って闘ってきたのです。それに対して労働者階級の側は「階級關争なんてもう古い。そんなものはもう終わった」という言辞に騙されボ?ッとしているうちに一方的にやられっばなしになってしまったというわけです。

?木家であるバフェットが右のような発言をするのは、世界の超大金持ちたちも「このままではまずい」と気づき始めたことを示しています。

(編集者コメント:日本の富裕層はそうではないようです)今の労働分配率の低さに基づく格差がこれからも広がっていけば、いずれ資本家も没落することになりかねない。なぜなら、生産した商品の買い手がどこを探してもいなくなってしまうからです。

世界大恐慌が1929年に起きたのも、有効需要の根本的な不足が原因であり、それは当時の格差の広がりと関係があった。その反省に立って、戦後はケインズ主義がスタンダードになったわけですが それが20世紀の終わり頃から新自由主義に変わって、「1%対99%」と言われるほど格差がひどいことになっている。今の世界の経済格差はすでに、世界大恐慌が起きた当時の水準を超えていると言われています。

(編集者注:日本で新自由主義の旗を振ってデフレを招いたのは竹名平蔵だが、菅=経済財政の素人、はまたもや竹中を登用しています)

格差の拡大、中間層の没落から来る需要不足を、資本はどう解決するのか。

おそらく1つの答えは戦争でしよう。

日本で新自由主義の旗をここに開発すれば儲かりそうな土地があったとします。…大地震や大津波といった天災が起きて、その土地にあった建物が瓦礫と化し、土地が一気に更地になったとします。そうなったら資本は、そのチャンスを捉えて、一気に最大限の儲けが出るような開発ができます。このような引きはがしを、戦争によって意図的に起こすこともできます。

アメリカは2003年にイラク戦争を起こし、フセイン政権を滅ぼして、戦後のイラクに対してさまざまな要求を行ないました。その主な内容は自由化と規制緩和です。既存の権力を消滅させ、世界で最も企業が自由に活動できる空間を作り出そうとしたのです。…その過程は、マルクスが描いたエンクロージャーの過程と同じく、まさに暴力そのものです。

アメリカの歴史では、世界恐慌のダメージを完全に払拭できたのは、ケインズ主義的なニユーディール政策によってではなく、第二次世界大戦参戦によってのこととされます。戦争そのものによる需要、そして巨大な破壊の後には巨大な復興需要が生じる。戦争は、有効需要の不足に対する特効薬です。

(編集者注:菅もその点では信用できない。好戦的な安倍と同類だからです)

かくして、「戦争をやったことで恐慌を脱し、世界経済を支配する大国になれた」という成功体験があるわけです。古来戦争は、富の収奪と深く関わっています。…米中の角逐が高まっていると言われますが、最悪のシナリオは、覇権国の地位をめぐる闘争と資本の要求が合わさって大戦争に発展することです。

こうした破局的帰結をどうやって避けるのか。格差の拡大を労働者側から止める方法を考えなければならない。

マルクスの答えは、「階級闘争」です。これからの階級闘争においては、「必要」をどう捉えるかがキーになるでしよう。先にお話ししたように、「必要」には弾力性があります。日本の労働者が日給一万円もらうのが当然だと思っているとき、途上国の労働者を連れてくれば5000円で済ませられるのは、「必要」に対する両者の感覚が違うからです。

日本の労働者階級は、おそらく世界全体の労働者と同じように、「必要」がどの程度なのかと言うことに関して妥協に妥協、後退に後退を重ねてきました。それが今の窮状を生んでいます。ではどうしたら階級闘争を再開できるのか。

…この「階級闘争」という言葉は、死語になっていると言ってもいいでしよう。しかし本当は決して死語になどなってはいないのです。

本書は『資本論』の入門書ではありますが、裏にあるテ?マは「新自由主義の打倒」です。「現代は新自由主義の時代である」という前提を置いた上で、それへの対抗策として改めて『資本論』を考える。さまざまな方向から新自由主義に光を当てるという狙いで、この『資本論』講座をやってきたわけです。

その視点の一つは、デヴィッド・ハーヴェイが指摘したように、「新自由主義とは実は『上から下へ』の階級闘争なのだ」ということです。

古典的な意味での階級闘争は「下から上へ」であって、その内容は「資本家階級が独占してきた剰余価値の分配を労働者階級が要求する」というものでした。ところが新自由主義ではそのベクトルが逆さまになっている。20世紀後半のフォーディズム型資本主義(編集者注:ヘンリー・フォードが労働者の賃金を上げることで需要を喚起し、自動車市場そのものを拡大した大量消費モデル)中において、労働者階級への再分配がかなりなされるよぅになり、資本家階級は自分たちの取り分を譲った。それを取り戻すための闘争が新自由主義であり、21世紀の20年間を見るかぎり、資本家階級はこの闘争に成功してきたと考えられるわけです。

この分配をめぐる闘争は、たとえば労働分配率を低下させるといったダィレクトな形でも起こりますが、既存の再分配のための機構を逆利用する形でも行なわれています。たとえば税制がそぅです。

税制は本来、所得再配分のためのシステムです。収入の多い人から多くの税を取り、それを収入の少ない人のために使い、社会的な格差を埋めてゆく。そのために多くの国で所得税は累進課税とされ、高収入の人ほど高い税率をかけられています。

ところが前講で紹介したように、大富豪が自分の秘書より低い税率しかかけられていないということが現実に起きています。

本来の意味での再分配とは、上が取りすぎているものを下に下ろすことでした。しかし今、生じてきているのは、上層が単に負担を逃れるだけでなく、再分配のためのシステムを自己利益のために利用するという事態です。

…教育環境のよいところで最高の教育を受けるためには、まずはこの学校のエリアに住まなければいけない。そのためにはすごくお金がかかり、経済力がないとできない。

公教育システムは本来、分配機構の一つです。とりわけ公立学校は平等性をもたらすための非常に重要なシステムです。

…結局、労働者階級が階級闘争をすっかり忘れてしまった結果が、この体たらくである。何とかして闘争を復権させなくてはいけない。その戦線を今、どこに構築できるのでしようか。これが今日考えるベきテーマということになります。

しかしながら残念なことに、すでにこれまでの戦線が決壊したことによって、もう階級闘争を容易には再建できないということが、事実としてある。歴史的に敗れた戦略の一覧表を作ることができるほどです。簡単に歴史を振り返ってみましよう。

階級闘争の目標は、第一に、労働者階級が権力を獲得することです。

マルクス主義の歴史において、それはプロレタリアートの独裁と呼ばれました。そしてそれを実現する手段は「暴力革命」というのが、オーソドックスな考え方でした。…しかしそういった形の革命は、現代においては難しくなっています。事実上不可能と言っていいでしよう。内戦状態にあるような国だったら話は別でしようが、多くの国はそういう状態ではないし、それが望ましいわけでもありません。

すでに19世紀末あたりで、先進国のマルクス主義者のあいだでは「議会制で革命が可能なのではないか。代議制民主主義の中で、労働者の政党が力を伸ばしていき、合法的に権力を獲得して、社会主義政策を打てばいい」という考えが出てきて、徐々に主流になってきます。これが社会民主主羲の考え方の基本であって、日本における社会民主主義諸政党も、現在では基本的にそうした考え方になっています。

第二に、暴力革命にせよ選挙で勝つにせよ、「権力を獲得して何をするのか」という問題があります。言い換えれば、資本主義を克服して社会主義社会を作ることができる具体的手段は何なのか、という問題です。

かつては、「生産手段を国有化する」というのが、オーソドックスな考え方でした。…しかし、ソ連の経済はやがて失速しついには崩壊します。その原因が何であったのかはさまざまな説明がありますが、やはり中央集権的な指令経済というものに根本的に無理があったと考えられます。

もう一つの主要な形が社会民主主義でした。社会民主主義の代表的な存在としてはスカンジナビア諸国が挙げられますが、その他強力な社会民主主義政党が存在した西ヨーロッパ諸国では、多かれ少なかれ社会民主主義的な政策が打たれてきました。それらがどれくらい「社会主義的」であるかに関しては幅広い差異がありますが、生産手段の国有化といったソ連型に近い政策が採られたこともあったし、そこまでいかなくとも、高度の累進課税や労働者保護のための多様な立法や制度づくりがなされました。先進諸国の社会民主主義体帯を「修正資本主義体制」と呼んでも同じことです。要するにそれは、国家の介入によって平等化を図る体制であって、フォーデイズムに基づく資本主義の発展と一体的に構築されました。

なお、これのアメリカ版が「リベラリズム」です。

アメリカでは、東西対立の背景から「社会主羲」は禁句扱いであったので、ストレートに社会民主主義と言えなかった。ゆえに、実質的には社会民主主義であるものを「これはリベラリズム(自由主義)です」と言って提示したわけです。

しかし、すでに見たように、1980年前後から、社会民主主義的な体制は、新自由主義によって崩されてきます。先進諸国が軒並み低成長に陥るなかで、資本家階級が自分の取り分を維持増大させる手段として、労働者階級への分配を減らし始めました。

そうしたなかで、ソ連が崩壊する。ソ連崩壊後、各国の労働者政党が掲げる政策は変化していきました。たとえば1990年代、イギリスの労働党は「ニュー・レイバー」と称して政策を大きく転換、それまで掲げていた生産手段国有化政策を撤回して、「第三の道」と言い始めました。「資本主義的な効率性と、社会主義的な平等性や公正性は両立させることができる」というのです。しかし、すでに見たように、結果としてこの転換は、新自由主義に屈服することにしかならなかったといぅ評価が、現在では大勢を占めています。

福祉の獲得も階級闘争の一環として闘われてきましたが、これも財政上の困難から切り捨てられてきました。

「正体不明化」が進む労働組合

この問題の複雑さを戦後日本に即して見てみましょう。戦後、GHQによる民主化政策の一環として、労働組合運動が法的に公認されて行なえるようになりました。当初、社会主義イデオロギーが労働組合に強く影響して、労使が非妥協的に激しく対立しました。国際政治の場では、東西対立が激化し、朝鮮戦争の火ぶたが切られる時代です。そうしたなかで、逆コース政策が進行します。占領軍と日本の保守支配層が結びつきを深め、「レッド・パージ」により共産党の影響力を排除する一方、戦犯の釈放、公職追放の解除が行なわれます。

(編集者注:岸です)

…電産の労働者たちは、待遇の改善をめぐって資本家.経営者と闘うだけでなく、いかにして自らの職場を自分たちのものとするのかを課題としていました。労働者が、自身の構想と自身の手によって、生産手段を管理運営するということです。これに対して、経営側と保守政治勢力は、戦闘的組合をソ連の手先であるとし、「民主主義」の旗印のもとに対抗します。「天皇絶対」を叫んでいた人たちが今度は「民主主義絶対」を叫び始めるのだから、いい気なものです。

その過程で形成(戦前からの「再建」でもあるのですが)されて行ったのが、労使協調型の労働組合です。このような、経営側が主導して戦闘的な労組と対抗させるために作られた組合は「第二組合」と呼ばれます。

これによって資本制を否定するようなラディカルな組合の力を弱体化させることに成功したわけですが、結果として資本の側は、労使協調型組合については、その存在をむしろ積極的に認めざるを得なくなります。それによって、かつての日産自動車など一部の超巨大企業において、労働組合が事実上の最高人事権を持ってしまうという現象が起きてきます。「次の社長には誰が就くか」といった経営問題を、経営側が自分たちだけで決めることができず、労働組合に「これでいいですか」とお伺いを立て、労働組合のトップがうんと言わないと、人事が通らないという状況が生じた。(編集者注:その結果が現在の日産の凋落とゴーンの出現です)
またかつては労働組合活動を一生懸命やると、会社に?突いているとみなされ、ずっとヒラ社員でサラリーマン人生を終えなければいけないというイメージがあったのに対し、まったく逆に、労組を通じて出世することが常態化していた会社も少なからず出てきました。これは、言うなれば、「労働者の自主管理」の漫画のようなものです。戦闘的な労働組合を潰したという功績によって取り立てられた人々が出世し、会社をある面では差配するようになった。彼らの一部は高い収入を手にし、「労働貴族」と呼ばれるようにもなりました。

かつてソ連最後の指導者、ゴルバチョフが日本に来た際、「日本こそ成功した社会主義国である」と言ったと言われますが、戦後の日本では外からそう見られるほど、独時の労使協調システムが企業内に作られていったのです。

しかし、それがその後、どうなっていったか。ゴルバチョフが来日する以前に、戦闘的な労働組合は、中曽根政権が断行した国鉄の分割民営化によってその最後の牙城(国鉄労働組合、略称「国労」)を崩され、すでにとどめを刺されていました。

そして、1990年代以降、急速な雇用の脱正規化が進んでいく中で、この資本の側に立っているのか労働の側に立っているのか、正体不明の組合は、資本が進める労働者階級全般の不安定化に対して何の歯止めにもなりませんでした。やってきたことは、正規雇用者の雇用のみを守る。職場における非正規雇用者への差別も無視する。たとえば正規社員は食堂を使えるけれども、非正規のスタッフには使わせないとか、別料金にするとか、もうルールがどうとか経済がどうとかいう問題以前に、「人としておかしいだろう」という差別が平然と行なわれている職場がたくさん出てきても、労働組合はそういう問題に対してまるで無頓着のまま、資本側の協力者としてふるまってきたわけです。そのなれの果てが今の日本労働組合連合会.略称「連合」です。労働組合までもが新自由主義化したということです。

このように、かつて期待がかけられた階級闘争の戦略は悉く無効化してしまった。これは厳しい現実として指摘されなければなりません。ただ私自身は、それが無効化したからといって、完全に無意味になったわけではないと思っています。いろいろ手段はあるのに、それが力を発揮できない状態になっている。問題は、どうやってこれらのツール、闘争の武器に弾を込め、再起動させられるのかということです。

(編集者注:あとは紹介の@に続きますが、とにかく読みやすい本なので、興味を感じた方は原本を書店でご覧ください。菅や竹中は関心を持たないでしょう。労働者の側に立ったこともありません)

・菅の所信表明、処理水触れず。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6374823
コメント:人目を引く政策、もしくは短期で効果が出る政策に集中。自己宣伝が目的。国の為でもなければ、国民の為でもない。

・温室ガス削減に原発必要。世耕。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020102700791&g=pol
コメント:必ずそう言うと思っていました。311などなかったかのようです。

・デジタル庁、恒久化方針。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6374811
コメント:国民の情報を一括管理する意図が見え見えです。21世紀の独裁。トンデモな(あるいは食えない)G3が首相になったのです。

・ネット中傷、裁判手続き創設へ。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6374828
コメント:政治家、官僚、著名人は対象外にしないと、民主主義と批判の弾圧(=独裁政治、全体主義)に使われる恐れがある。菅政権なら猶更のことです。

・支持率急落、解散できない首相。
https://mainichi.jp/sunday/articles/20201026/org/00m/010/002000d

・核禁条約発効、日本の参加欠かせない。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/64486?rct=editorial
コメント:菅、加藤は広島に行って、話を聞いたことがあるのか。

・文化勲章。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6374838
コメント:特に文化功労者の分野で、右傾化の匂いが強い。人選は誰が行ったのか。そこに官邸はどう関与しているのか。