「WTWオンラインエッセイ」
【第12巻内容】
「地球防衛機構」
「戦場の論理」
「戦中エリートの復活」
「安倍首相閣下に捧ぐ」
「自衛隊に捧ぐ」
「日米軍事同盟に捧ぐ」
「NHKに捧ぐ」
「中央公聴会」
「戦う市民」
「理想の人生」
「地球防衛機構」2015/9/7
NHKが巨大災害の特集番組を再開し、初回が気候変動だった。ややだらだらした内容をまとめると、気候変動の大きな要素として、インド洋で発生し、40日で赤道を一周する発達した雲の集まりMJO(マッデン・ジュリアン・オッシレーション=振動)の動きがほぼ正確に予想できるようになった。それに太平洋の東半分と西半分が交互に高温になるエルニーニョが加わるなどの、地球上の様々な変動が重なることで、気候に極端な変動が起きる。今年巨大台風が例年の二倍の数発生し、竜巻も増えた。一昨年は40度以上の猛暑になった。そうした大きな気候変動は500年前にもあった。即ち約500年周期で大きな気候変動が地球を襲う可能性を示唆している。そのベースには地球の温暖化があるとしている。
以下は私見である。台風については正確に進路を予測するなどで、ある程度備えは出来るだろうが、問題は気温だ。しかも温暖化で北極の氷が解けているが、これが逆に冬の寒気団の動きを不安定にしており、暑い夏の年には寒い冬が来る。夏はより暑く、冬はより寒くなっている。海水温の上昇は二度に過ぎなくても、海水の量は膨大なので、影響は甚大である。地球の温暖化はCO2の増加に正比例しているわけでもないし、間もなく氷河期が来ることもあって、地球の温暖化が諸悪の根源とは考え難い。また台風については進路をより正確に予想することで、少なくも住民の避難を早めることは出来るはずだ。しかし問題は気温だ。日本全土が高温の夏を迎えた1昨年、私も熱中症で緊急搬送された経験がある。その年、日本各地で最高気温40度を記録している。
しかもそれは百葉箱の中の気温である。と言っても若い人には分からないかもしれない。芝生の上に、1.5mの高さに設置された白塗りの木の箱の中に、温度計や湿度計を置き、その数値をその地の公式記録としている。無論今ではセンサーを全国規模のオンラインで接続している。いずれにせよ、測定した気温は我々の体感温度とは異なる。この番組でも、気温が40度という事は、路上の照り返しを考えると、街路上で体感温度は50度になり、10分で熱中症で倒れるとしている。とんでもないことになっているのだ。今年はインドで多くの人が亡くなった。日本でも熱中症の緊急搬送が過去最大になった。また屋内で熱中症で亡くなった人の3割が冷房を備えていなかった。ということは、冬は冬で、大雪で生活がマヒすることも考えられる。
地球を襲う災害には、地震、火山噴火、疫病、小惑星の衝突、太陽のフレア、超新星爆発のガンマ線などがあり、そこに今回深刻な気候変動が加わった。では我々は座して災害に耐えるしかないのか。それとも何か打つ手はあるのだろうか。相手は地球システムそのものである。とてもちっぽけな人間の手に負える相手ではない。人類どころか、地球上の生物は、何度も絶滅の危機に瀕してきた。1万年前にも大きな地球規模の変動が起きたことが地層でも確認されている。それがノアクラスの洪水だったのか、小規模の小惑星の衝突だったのか分からないにして、今後も地球が住み易い宇宙船であり続けるという保証など、どこにもないのである。
即ち、我々人類は、種の保存の為に総力を結集しなければならないという事だ。突然だがUFOの正体は全く分からない。しかしそれが実在することは否定できない。仮にこれが別の空間または次元、または時間から、人類が滅亡する過程を観察しに来ている、銀河観光ツアーのご一行、即ち宇宙人向けの地球滅亡観光ツアーだという見方も可能ではないか。交流や征服が目的なら、とっくの昔に第三種接近遭遇が果たされているはずだからである。
昔、地球防衛軍という映画があった。宇宙人が巨大ロボ(モゲラ)で地球を荒らしまわるという筋書きだが、このさいその筋書はどうでも良い。地球を防衛するというコンセプトが重要なのだ。最近リメイクされたサンダーバードも地球規模での活動だ。人類を大規模な災害から救い、種を存続させるための国境を超えた機構が、子供向けのお話としてではなく、実際に必要な時期に来ているのではないだろうか。そのような危機的な状況にあるのに、ちまちまと戦争の準備をしたり、人種や宗教の違いでいがみ合っている暇などないのではないか。
もっと具体的な話をしよう。人類防衛機構の設立には時間がかかるだろうから、それまでは国別に自国の国民を災害から守る手段を講じなければならない。例えば、台風にはまず避難場所を用意する必要がある。そもそも危険な場所に人間が住むこと自体間違っている。また夏の高温から国民を守る為には電力が必要だ。実に幸いなことに、東日本大震災後、今年に至るまで、最大の環境汚染源である原発を再稼働させることなく、猛暑を乗り切ってきている。石炭の効率的な燃焼方法も可能になったし、太陽光発電、風力発電共により効率の高い方法が編み出されている。太陽光発電の割合も1割に達した。太陽の熱を、太陽エネルギー光で中和するというのは理に適っている。太陽光発電や波力発電、地熱発電など、人類に牙を剥きかねない自然(太陽や海や火山)の力を、逆手に取って人類を救うパワーにする。電気エネルギーは、夏は冷房、冬は暖房に使える。夏に溜めた電力を冬に使えるような蓄電設備も必要になるだろう。それも蓄電池ではなく、夏の間に水を高い場所の貯水池に上げておき、冬にそれで水力発電できる。
いくら電力を備蓄しても、温暖化で海面は上昇するし、地震で津波も来る。将来の海面の高さから逆算して低地から高地への移住も進めねばならない。100億くらいの人類が住める場所は未だ地球上にいくらでも残っている。荒野を住めるように開拓することも可能だ。水さえあればいいのだ。今年カリフォルニアを襲ったような乾燥=干ばつへの備えも必要だ。そして何があってもいいように、地球規模で食料の備蓄が必要である。
地球規模で1万年単位で、人類の将来を考える。地球規模の災害に備える。それが種の存続につながるばかりか、地球上から戦争などの無駄な行為を一掃する事にもなる。そんな非生産的で無駄なことをしている時間的余裕など、人類にはないはずだ。面白半分で見物に来ている宇宙人どもに、お生憎様、人類はそんなに簡単に滅亡はしない、人類の知恵と理性を馬鹿にするなと見せつけてやりた。それにつけても、安保法制などという代物が、いかに視野の狭い、頭の悪い人達の産物であるかを改めで実感する。一国の繁栄がどうのという事より、どうすれば人類が生き残れるのかということが問題だからだ。
「戦場の論理」2015/9/8
自国の領土以外での戦闘、米国の戦争への協力を推し進めている自民党(と公明党、非世代の党、維新大阪の会)の老若男女の諸君に言いたい。君たちは戦争というものの実態をどこまで理解しているのか。ここで私は実例で日本の若者が将来経験するであろうシーンを再現してみよう。少子化で自衛隊では手不足になり、何やらよく分からないが、危機が迫っていると言われた君たちが、義勇兵として戦線に向かうシーンを思い浮かべてみてほしい。実戦の場所としては、例えば市街地でもジャングルでも良い。そこは戦術的に非常に重要な場所なので、味方の前線を一歩でも先に進めるためには、その場所を命がけで奪取、または死守しなければならない。それが君たちに課せられた作戦上の命令だ。
そこは戦車も入り込めないような狭い場所なので、人間が索敵するしかない。いかに上空からドローンの援護があったとしても、建物の中に潜む敵まで機械には識別出来ない。高性能突撃銃と、先進材料の防弾チョッキ、暗視ゴ−グルを装備し、仲間と手分けして、君たちは恐る恐る暗闇の中を進んでゆく。突然人が扉の陰から飛び出してくる。銃を持たない人間は撃つなと指示されているにも関わらず、君は反射的に引き金を引いてしまう。倒れた姿を改めてよく見ると銃も持たない子供だった。しかし後悔などしている時間はない。次のドアを開くと、何やら人が固まっている。その一人が銃のようなものを持ち上げた。またも君は反射的に軽機関銃を掃射(スプレイ)する。ここまで来ると、半狂乱の君にはもはや敵・味方の区別もつかない。背後から落ち着けと言われて振り返る。とっさに仲間が君の銃口を下に押さえつける。そうでもしないと、動転している君は仲間でさえ撃ってしまいかねないからだ。そして君が撃った相手を見ると、杖を手にした老人とその家族であり、一瞬で君は罪もない非戦闘員を皆殺しにしたのである。
彼らは自宅に隠れていただけであって、君にその場で虐殺されなければならない理由など全くないのだ。そんなことは起きない、自衛隊は十分に訓練を受けている、それに徴兵制もないだろうと、気は言うかもしれない。米国では徴兵制を廃止し、志願制度になっているが、すべてにおいて米国を手本にしたがる日本の政府や防衛省は、取り敢えずは、志願制度の充実を図るだろう。無論生活に苦労しない階層は絶対に志願などしない。その点も米国と同じだ。しかし上記の架空の戦場シーンは、実はベトナムやイラクで実際に起きたことなのだ。それも訓練を十分に受けた米国海兵隊によってである。
なぜそんな事が起きるのか。それは戦争が殺意によって成り立っており、殺意は姿の違う狂気に他ならないからだ。戦争の本質は殺し合いであって、いざ殺し合いが始まれば、そこではもはや正義も倫理も通用する余地はない。殺さなければ殺される。先に撃った方が勝ちなのだ。その理屈しか存在できない空間なのである。神ならぬ不完全な人間の判断力や勇気には限界があり、戦場で急にスーパーマンに変身出来ない。誤射なら未だしも、面白半分の虐殺も日常茶飯事だ。一言で言えば、それが人間の限界なのだ。もっと言えば人間は本来効率の良い戦闘マシンではないのだ。戦争に向いていないのだ。そうした狂気の時空でもなお、冷静さを保ち、正確な判断力を備えて行動できる者などいるわけがない。いても非凡なごく一握りの人間だけだ。君がそういう人間ではないと決めつけるのは失礼かもしれないが、確率から見ても難しい。だから戦場では如何なる、非道も起こり得るし、現に起きている。それが戦場や戦争というもの本質なのである。
殺人犯でさえ、死刑にしない国や州がある。なぜなら如何なる理由でも人の命を奪う正当な理由にはなり得ないからだ。そこには不完全な人間が誤審する可能性が在り、そうなると処刑も単なる殺人だ。でもとにかく殺すな。これってとても分かり易くはないだろうか。百歩譲って、自衛の為に武器を使用する場合がある。但し自衛のための先制攻撃という理屈は通用しない。一旦それを認めると、急迫不正と言う概念が崩れて、いかようにも前倒しが可能になってしまう。だから自衛のための戦争を認めるのではなく、正当防衛のための武力行使、緊急避難の為の武力行使のみが認められるべきなのだ。早い話が専守防衛に徹するということが、無差別殺戮を防止するうえで、どうしても必要なのである。急迫不正の殺傷を防ぐためのやむをえぬ手段だけが認められるというのが私の常識的な解釈だ。
ここで重要なことは、急迫不正の概念を友好国に拡大し、だから友好国の戦争にも進んで加担するという事は専守防衛とは全く異なるという事だ。これを分かり易く言うと、非武装の市民を今まさに兵士が銃撃しようしているシーンを思い起こしてもらいたい。銃を向けているのが北朝鮮兵で、銃を向けられているのが日本の市民なら、それを目撃している自衛隊の兵士に取って、引き金を引く十分な理由になり得るだろう。では銃を向けられているのが北朝鮮の市民で、銃を向けているのが米海兵隊ならどうするのか。正当防衛を行動原理にしているのなら、取るべき道は一つである。自衛隊委員は躊躇なく友軍の兵士に向かって引き金を引かねばならない。狂気の兵士の命より、無実の一般市民の命の方が救われるべきだからである。また自衛隊員が血迷ってか一般市民に銃を向け、それを海兵隊員が銃撃したとしても、非難出来るだろうか。即ち友好国の兵士なのか、敵国の市民なのかはどうでもいいことであって、そこに命を奪うに足る、正義と論理が成立するかどうかの問題なのだ。戦場の論理を深く考えもせず、戦争とはTVゲームのようなものだと思っている、安倍政権の閣僚や超保守派の議員達には、戦争肯定の軍事同盟法案などを提案する資格が、そもそもないのではないかと私は考えているのである。
私は米国に駐在中、ライフルの射撃場に2年ほど通った経験がある。狩猟には興味がなかったので、あくまでスポーツ射撃だ。しかし22口径などの小口径は別にして、30口径ともなると、その反動(リコイルと言う)は半端ではない。5発も撃てばもう沢山であり、肩が赤くはれ上がる。反動があるという事は銃口がぶれるという事だ。スコープを使っていても、100m先の標的でさえ、いつも当てられるとは限らない。射撃の難しさは反動ゼロのTVゲームからは分からない。一方で兵器の進歩は速い。狙撃銃ともなれば、反動を半減させる装置が付く上に、射程は2キロ近い。君がのこのこ塹壕から這い出すと、いきなり見えない敵から撃たれてそこでゲームオーバーだ。地上戦も最初はプロ対プロだから、そう一方的な戦闘にはならないだろうが、それでも自分でも訳が分からない内に、気が付いたら死んでいた(矛盾だが)というのが現代の戦争なのだ。まして素人の君たちは、実戦で100m先の敵さえ倒せないと思う。戦争には倫理的な問題の他に、技術的な問題もあるのだ。
戦争に正義はない。唯一認められる武力行使は正当防衛だけだ。そして友好国を守る為の発砲も、正当防衛の時だけ認められる。しかも正当防衛であるのなら、友好国だけが対象でもない。無能で無知な議員たちに言っておきたい。戦争を美化するな。戦争がどういうものかを現代史を勉強して学ぶべきだ。但し実際に紛争国の戦場に行くのはやめた方が良い。君達の柔な神経では1時間と持たないだろう。
「戦中エリートの復活」2015/9/9
私は基本的に行政官、即ち若手官僚の能力と責任感を評価し、信頼もしている。と言うより、一般の会社員より、見識においても人格でも、優れた人が多かったと記憶している。でも最近ではその経験が逆にマイナスに働いてしまったのではないかと思い始めた。なぜなら個人個人は優れていても、組織としての動きを見ると、少なからず信頼感が揺らいでくるからだ。但し誤解のないように申し上げると、私もお世話になった、KK省、KS省、ZM省に関しては、まだそれほどの問題にはなっていないように思うが、ことGM省とBE省とMK省の場合は、国民が国の行く末に危機感を抱くに十分なほど、崖っぷちに近寄りすぎているのではないかという懸念を持っている。その背景として、文芸春秋の特別号に、磯田道史が書いた論文が参考になると思うので、その一部をご参考までに紹介させて頂く。
(以下引用)…自分たちが所属する組織の利益を守るために「統帥権」を持ち出し、天皇の威を借りるのが、第三期エリート(編集者注:明治の終わりから昭和の初期に大人になった人達。具体的には東條英機、近衛文麿、広田弘毅、米内光政など)のまずいところです。彼らには今、日本はどのような国際情勢の下に置かれていて、そのなかで生き残るためには、海軍はどうあるべきか、というジェネラリスト的な視点がまったく欠けていました。
それなのに自分たちの利益を「天皇のため」「国のため」という誰も文句が言えないお題目を掲げて守ろうとする。残念ながら、1930年ごろから、第三期エリートのなかで比較的、国際情勢や科学技術に鋭敏な感覚を持っていた「条約派」的なエリートは端に追いやられていきました。
第三期エリートの劣化とともに、そのようなことが、あらゆる領域で起きていました。1939年のノモンハン事件では、戦車や砲兵の近代化が遅れていたため、日本陸軍はソ連に大敗を喫しました。それでもなお陸軍は、その失敗を直視せず、科学技術の遅れを精神主義で補おうとしました。
そして、1941年、陸軍幼年学校出身で教科書を丸暗記することで成績を上げた東條英機が首相となりました。東條はスペシャリスト的エリートの典型で、ジェネラリスト的な部分はかけらもありません。東條は「私の肉体は天皇の意思を受けた表現体である」と自分に言い聞かせていたそうですが、逆に言えば、自分の判断というものがない。首相、陸相、参謀総長を兼任していたのですから、天皇の決断を待つのではなく、天皇を助けるために自ら決断を下すべきでした。
明治政府ができて、およそ70年で戦前エリートは劣化し、国は滅びました。戦後70年経った今、戦後エリートにも同じような劣化が進んでいるような気がしてなりません。統治者としての知識と経験、国家全体への責任感、幅広い好奇心と多彩な人生経験によって培われた分厚い教養と総合知、それを土台とした時とともに変化する国際情勢と科学技術への鋭敏な感覚と直観、環境の変化を想像する力…。それらが国を率いるエリートには必要です。しかし、ジェネラリストは育てることはできません。彼らを見出したら、素早くピックアップし、重要な仕事を与えることで鍛えていくしかありません。そこが難しいところです。
現代のスペシャリストとして育成されるエリートのなかに、そのようなジェネラリストを発生させるにはどうすればいいのか? 70年前の失敗を繰り返さないために、日本人全員が、そのことを常に考えておかなければなりません。
(引用終わり)
「安倍首相閣下に捧ぐ」2015/9/11
自衛隊が米軍や豪州軍などと合同で演習するRIMPAC(環太平洋合同演習)の映像を見た。リーダーの米軍の司令官が、地域の平和を維持するためには一国ではなく各国の連携が必要な時代になっていると説明するくだりがあり、どこかで聞いたような台詞だと思った。海自としても、ミサイルの発射演習は、日本の国内では出来ないので良い機会だと語るシーンもあった。海自としては十分に気合が入っているという印象だ。イージス艦は数百キロ先の敵の動きを三次元でとらえて、複数の目標に同時にミサイルを発射できる能力を持つとのことだ。
自衛隊には、防衛と救助という二つの重要な任務がある。そのどちらがやりがいがあるのか(自分を含めた人命を奪うのと、人命を救うのと)は、ひとまず措くとしても、それが任務である以上、根が真面目な日本人としては、どちらにも真剣に取り組むだろう。国を守れと言われたときは、兵器は最新のものを持ち、十分な訓練を受けていないと、自信を持って任務に従事できないだろう。下手をすれば自分の身さえ守れないかもしれない。一方で、国を守るという崇高な仕事に、もっと誇りを持ちたいと思うだろう。更に共に戦う国は、世界最強の米国以外には考えられないと思うだろう。でもそこにはある種の固定感根が抜きがたく存在している。今日は主として安倍閣下の研究である。
ここからが首相の出番だ。米国に行くと、オバマが日本は盟友だと持ち上げる。安倍首相はひょっとしたら自分は大統領の親友だったのかと思い込むかもしれない。更にオバマは言うだろう。太平洋を共産主義国の覇権の野望から守り、自由主義国の平和と繁栄を守る為には周辺の各国が協力して事に当たる必要がある。だから日本もどうか手を貸してほしい。強いきずなを持つ同盟国として、いざという時は米軍と共に戦って欲しい。これにノーとは、安倍首相でなくても、そう簡単には言えるものではない。
そして安倍閣下は答える。無論でございますともと。どうか私安倍にお任せ頂きたいと。それにつけても憲法第9条が邪魔なのです。そのせいで、私が米国の要請に従って自衛隊を動かそうにも、思うようになりません。米国との共同戦線は愚か、海外派遣も自由にはならないのです。そこで私は秘策を思いつきました。まず9条の縛りは解釈で逃げます。その上で、目的がすぐには分からないように10本の法律を一まとめにして国会の審議にかけます。夏には、米軍との集団的自営家の行使が可能になるようにしてご覧に入れますから、ご安心下さい。何しろ我が自民党は衆院で過半数を占めており、与党で2/3を占めているのです。いかなる法案でも成立させることが出来るのです。参院でも過半数を占めている。民主的な方法で、自民党や米国に都合の良い法案はなんぼでも可決成立させられるのです。
閣僚や自民党の議員にどんなスキャンダルがあろうとも、国会議員には究極の身分保障で守られている。不祥事は言葉の上だけで(本音は隠して)一通り頭だけ下げて置けば、そのうちにほとぼりも冷める。なにしろ安定政権なのだから。それに日本の国民は忘れやすい。自民党の議員数を減らすことは、少なくも安保法制を成立させるまでは絶対に出来ない。だから野田前首相との定数削減の約束などとうに忘れた。国民の気持ちや学者の意見か。世界の情勢を見ることができず、私がナチスであるかのようにレッテル貼りする彼らの偏った意見に、なぜ私が耳を傾けなければならないのだろう。日本の将来に何が必要なのかを一番分かっているのは他ならぬこの私、日本を背負って立ち、そのかじ取りを任されているこの安倍晋三なのだ。安保法制は日本の為にも、米国の為にも絶対に必要な法律だ。自国の切れ目のない防衛の為には、首相の一存で、いつでも、どこにでも自衛隊を派遣できるようにしておかないと、有事に間に合わない。
首相の説明は続く。第一次安倍内閣が挫折したのは、マスコミ対策がうまくいかなかった為だ。今回は政権発足当初から、社長人事をちらつかせて、マスコミには一発かませてあり、国民の大騒ぎに発展するような報道は絶対に避けるよう、多少手荒い方法も使い、メディアを強く指導してある。首相の立ち往生や暴言のシーンは報道させないよう公共放送にも釘を刺した。いかに失言を重ねようとも、私が指名した同組織の会長の更迭などを認めるつもりはない。国会中継もなるべく減らすようにしている。特段支持しなくても、NHKの責任部門が気を遣ってくれている。秘密保護法という名称で、政治家や行政機関(含む防衛省、外務省)にとって不都合な情報を流せば、厳罰に処するような法律も作った。その対象も公務員だけでなく、情報漏えいをそそのかした民間人にも範囲を広げた。国民が何人集まって、何回デモを繰り返そうとも、それは我々の理想を共有できない一部の人たちの偏った行動であって、彼らもいつかは安倍政権のしたことを正しく評価し、感謝する日が来るだろう。
更に説明は続く。我々自民党の議員は、適正な手続きを経て、国民から正当に選ばれた議員だ。即ち選挙で国民から全権を付託されているのだ。国のかじ取りを我々に任せたのは、他ならぬ国民自身なのだ。ある特定の時期の相対的多数の意思に過ぎないと言われても、どうしようもない。それを言い出したら、日本の選挙制度は成り立たない。後はどれだけ波風を立てずに米国との協力体制(軍事同盟)を確立させられるかだけの問題なのだ。いかに国民が反対しようと、内閣の支持率が下がろうと、9月半ばには参院の本会議で採決を行い、過半数を得て法案は成立させる。国民の不満か。今頃になって我が安倍政権に不満をぶつけるくらいなら、我々自民党の議員に投票しなければ良かったのだ、今更言われても後の祭りだ。第一、成立が決まっているのに、私は過労の身を押して、何回も何回も同じ説明をしている。しかも徴兵制はない、後方支援も、日本の存立危機事態の時だけだと、口を酸っぱくして言っているのに、理解しようとしない。なぜ私が和製ヒットラーでもあるかのように、写真にちょび髭までつけられなければならないのだろう。まさにそれこそが悪質なレッテル貼りではないか。私は戦争をしたいと言っている訳ではない。特定の国に、日本を攻撃する気を起こさせないためには、米国の同盟国になるのが本も効果的な抑止力なのだ。これは何人も、いや野党でさえ反対出来ない。米国には我が国が絶対持てない、原子力空母や核ミサイルがある。世界最強の軍事力だ。しかも日本は米国と同じ資本主義国。事実上全体主義の某共産国などとは違う。それでもなお安保法制の必要性を理解できないとなれば、自国民の恥を言うのはいささか気が引けるのだが、日本の国民の知能程度に問題があるのかもしれない。本当はもっと早く強行採決すべきだったのかも知れないが、五輪の不祥事や普天間問題などで、国民に政府批判の機運が高まっている折だ。我々にとっては迷惑以外だが、民主的な採決の手続きを踏んだという事で、後で文句を言わせないために、こうして無駄な説明の労を取っているのである。かと言って、そのすべてに、私自身が出席する訳にはいかない。なにしろ私もこれで結構忙しい身体なので。
さて以上の首相の説明でどこが間違っているか、どんな矛盾があるかを、読者の皆様は指摘できるだろうか。もしできないと、今後も安倍政権が好きなように日本を振り回すことになる。言い過ぎならお詫びするが、一般市民では、首相の我田引水の理屈に反論するのは結構難しいと思う。街頭インタビューで、安保法制のどこが間違っていますかと急にマイクを差し出されたら、正しく答えられる人は何人いるだろう。もともと多数ある条文で、それを提案する首相でさえ読んで理解はしていないのに、我々一般大衆にないようが分かるはずはないのである。
こういう時はその法律の目的を最初に議論するのがベストの方法だ。条文の文章がその目的に適った表現になっているかどうかを吟味するのはその後の話だ。ところが国会審議ではまず文章ありきで始まるから、全く先に進まず、時間ばかり掛かって安倍政権の思う壺になり、実質的な審議が進まなくなる。ではその前提条件を含めて、間違い(=安倍首相の嘘)を少しずつ解き明かしてみたい。
まず安倍政権が国民の意見を代表しているかどうかだ。前回の衆院選で、確かに当選議員数は自民党が最多で、結果衆院では過半数を占めることになった。ならばその後の世論調査で、政府政権の支持率が下がり続け、ついには不支持が支持を上回り、安保法制の今国会成立に7割の国民が反対するようになったのは何故なのか。自民党が国民の相対的多数の信任を受けているのなら、その政策に関しても、国民の多数が賛成しなければ筋が通らない。そして法案に対する国民のネガ民意は一切ティブな反応に、どうしてそこまで無頓着になれるのかさっぱり分からない。民意は一切無視するというスタンスで政治に臨むのなら、どんな悪法でも成立できてしまうと事だから、これは実に恐ろしいことなのだ。但し言い分は分かっている。個々の政策のすべてに国民の100%の賛同を得ることは出来ない。それは物理的にあり得ない。必ず利害が対立する人たちがいて、反対者が存在する。だから反対意見をいちいち気にしていたら法律など制定出来ない。首相として選任された自分を信頼して任せてほしいと。
でも安倍氏を選んだのは自民党であって、国民ではない事が一つ。米国民が選んだ大統領とは立場が違う。もっと言えば、それは総裁選の直前になって、国会議員の党員票の比重を変えるなどという、取ってつけたような姑息な選挙方法の変更で、確実だった石破が負けたからなのだ。即ち、自民党員の大多数の支持さえ得ているとは言い難いのだ。
国民が自民党を支持しているとあくまで言い張りたいのであれば、ならばどこまでの反対なら、それを国民の民意として安倍政権は受け入れるかを答えて頂きたい。例えば90%の国民が反対していても、それでも法案を押し通すのか。そこでも答えは決まっている。法律の意味と価値を分かってくれない国民の方に問題があるというだろう。私はこれが正しいと信じる。だからいつか国民にも理解される日が来ると付け加えることも忘れないだろう。でもその日が来なかったら、誰がどうやってその責任を取るつもりか。
ここでは論理のすり替えが行われている。客観的に正しいから(例えば学者の意見)でも、国民の大多数が支持するからでもない、自分が正しいと思うから正しいという理屈だ。国の為になるのに、何故国民は理解してくれないのかという不満さえ持っているかもしれない。国民の方が間違っていると言いたいらしい。でも安倍晋三はいつ全能の神になったのか。己の価値観を優先し、民意を無視しているという大きな矛盾こそ、安倍晋三氏が一国の代表として、いや政治家としても、不適格である事の確たる証左なのだ。
しかもかつて、同じような考え方をする人たちが、310万もの国民を無駄な死に追いやったことがあったのだ。極東裁判は勝利国による軍事法廷だから、国民の判断ではない。戦争の責任者を裁く国民法廷は未だに開かれていない。即ちこれだけの大惨事を引き起こしていても、国民からは裁かれず、責任も問われていないのだ。だからこそ、今回の安保法制が将来重大な問題に発展した時に、安倍(元)首相も、自民党も、一切責任は取らないだろうと、確信をもって予言できるのだ。危ない法律の上に無責任体制。そのつけを払うのは国民だ。国民はそう簡単に国外に亡命する事も出来ず、その為の資産さえ持ち合わせいない。
内閣の支持率が急落しているのは、国民が納得し、賛同できるような政策を推進して来なかったからだと思うのが当たり前なのだ。また最初支持率が高かったのは、禁じ手の経済政策で、経営者の自信喪失を改善したからなのである。しかも前の衆院選では、集団的自衛権のことは一切語らずに、消費税の10%への増税時期を先送りすることを国民に問うための選挙、アベノミクス選挙だと言っていたのだ。子供の頭で考えても、それが選挙の理由になるとは思えない。あたかもそこで自民党に投票しなければ、増税に賛成かのような悪意の脅迫だった。だから投票率も低かった。それで本当に自民党に多くの国民が投票した事になるのなら、なんという馬鹿げた選挙である事か。
年末であったという事もあり、馬鹿馬鹿しい理由の選挙に出向く人は少ないので、戦後最低の投票率になった。だからその時点で積極的に自民党を支持したのは有権者の1/4に過ぎなかったのだ。それをあたかも、国民の過半数が自民党を支持したかのように宣伝しているだけなのである。
現行の選挙制度にも大きな問題がある。小選挙区制では、投票した人の中での相対的多数の勝者が全部取るので膨大な死に票が出る。だから国民の意見を代表する仕組みとしては明らかに不完全なシステムなのだ。未だに解決しない一票の格差の問題もある。
安保法案の本質は、集団的自衛権の行使を認めるか否かだ。これが違憲であることは、そろそろ自民党も認めた方が良いと思う。どこをどうつついても、合憲だという解釈は出てこない。個別的自衛権でさえ憲法には書いていないのだから、いわんや集団的自衛権など論外なのだ。違憲であっても、どうしても安保法制を成立させたいのなら、安倍首相は国民が納得するまで説明する義務がある。でも時間が経つほどにむしろ反対意見が増えてくる。それは説明が不十分だからではなく、説明に筋が通らず、納得させることが出来ないことが原因だ。
国民の支持で当選したと言いつつ、民意は無視する、これが安倍首相の最大最悪の矛盾である。そこに見えてくるのは、国民がどんなに反対しても、法案を押し通す、喉元さえ過ぎれば、いずれ国民の反対運動も収まるだろうという傲慢さだ。だからこそ安倍首相は日本のような自由な民主主義国家の代表として全くふさわしくない。米国から南海に小島でも貰って、安倍帝国を作り、そこの皇帝になって、激務から解放され、ストレスのない余生を送ってもらう方が、ご本人にとっても、日本の国民にとっても幸せなことなのだ。
「自衛隊に捧ぐ」2015/9/12
ところで、自衛隊の英語名はSelf Defense Force。まさに自衛隊の直訳だ。実はこれは、安倍首相閣下を含むタカ派の自民党議員諸氏、或はネトウヨの人たちが考えている以上に、大きな意味がある。なぜなら、海外に自衛隊の平和的なイメージ、即ちPKO(平和維持部隊活動)のイメージを発信する上で、名称が大きな役割を果たしてきたからだ。それゆえに安倍首相は、間違っても自衛隊の事を、我が軍(My Army?)などと呼んではならないのである。それに自衛隊は安倍首相の私兵ではない。かつて民主党政権時代に、仙石官房長官が自衛隊は暴力装置だと口を滑らせて窮地に追い込まれた。暴力装置という言葉は、別に彼が発明した用語ではなくて、それまでも労組あたりでは普通に使っていた言葉だ。しかもそれは自衛隊にはふさわしくない表現だとして、国会で追求したのは他ならぬ自民党なのである。自衛隊は暴力的な存在ではない。だから間違っても軍隊と呼んではならないのである。
安倍首相は、集団的自衛権を(自分の判断、或は米国の要請により)9条の縛りなしに、行使したいがために、今国会で安保法案をなんとしてでも押し通そうとしている。ところが、ご自身が、審議の中で、今回の集団的自衛権はフルスペックではないので、憲法にも抵触しないし、専守防錆にも変わりはないと言っている。ならば一層のこと、どさくさ紛れに、自衛隊を軍隊に昇格させるようなことがあってはならないのだ。今回の法案と、防衛費の増額を見ていると、まさに安倍首相が、「我が軍」を、軍隊としてより強大なものにして行きたいという野心に溢れている事がはっきりと分かる。そもそも防衛省の英語名はMinistry of Defenseだが、これは米国国防総省(ペンタゴン)の United States Department of Defense に倣ったものだろう。でも本来なら、それはMinistry of Self Defense Forceであるべきなのだ。
今回の自衛隊に関する私の議論は、まず自衛隊をあるがままに(as is)認めるところから始める必要があるというものだ。私は憲法9条の条文、即ち、紛争解決の手段としては武力を用いないという文章からは、如何なる武力の保持も行使も認められないという結論しか出てこないと信じる。先の安保闘争当時の砂川判決などは、まやかしもいいところだと思う。とはいえ、議論を進める上で、あるがままを一旦受け入れることにしたい。即ち自衛隊は、その言葉通りに、自衛のための最低限度の「国民の為の」武力ということになる。そこで今後もなお、自衛隊を維持してゆく為には、その必要な法的根拠として、9条に、「但し自国の国民と領土を守り、国際平和を維持するための協力活動に必要な最小限度の武力を除く」という一文を付加するべきだろう。その段階も経ずして、いきなり外国の軍隊の軍事行動に参加、協力するなどと言い出したのだから、もはや拡大解釈どころではない、屋上屋、無理に無理を重ねた、憲法否定になったのである。
私がこれから申し上げることは、今回の法制の本質にも関わる、とても大事なことだ。それを一言で言えば、自衛隊の名前、装備、活動が、自衛隊の存在目的から、絶対に外れてはならないという事だ。米軍のこれまでの軍事行動は自国の防衛に留まらなかったことは、今更言うまでもない。但し、私は海外で邦人が生命の危険に曝されている時に、武装した自衛隊の救出活動はありだと思っている。でもそれは個別自営権どころか、正当防衛や緊急避難として捉えるべきものなのだ。
一方で、これから世界の国々で、増えることが充分に予想される、体制派(政府)と反体制派の武力紛争がある。これは日本に直接関係のない、当該地域内だけの紛争だ。直近の例で言えば、シリアの場合、反体制派と政府軍が対立し、他にISがある。トルコやフランスや豪州がISの攻撃に参加している。間もなく米国も地上軍の展開を考えるだろう。一方で、ロシアが政府側、即ちアサドを支援する形で、空爆を行っている。では日本はどうすれば良いのか。無論、ISには後藤さんを殺害されているし、その非人道ぶりは多数のシリア難民を作り出した直接的な原因でもある。だからといって、米軍の作戦行動の後方支援を担当し、場合によっては地上戦にも参加すべきなのか。またはそうであってはいけないのか。
でもそこでいったん立ち止まって、戦後の日本人の精神的バックボーンである、憲法第9条に、立ち戻ってもらいたい。紛争解決の手段としての戦争は、これを永久に放棄する。これ程崇高な憲法を持っていることを、私たちは世界に対して誇りに感じるべきなのである。人間は不完全な存在だから、いずれトラブルは避けられない。でも武力行使は最後の手段だ。それは相手を抹殺することで紛争を解決しようとする暴力的な方法だからだ。武力というものは、最後の最後まで開けてはならない、パンドラの箱なのだ。銃口を相手に向ける前に、するべきことはいくらでもある。それなのに武力に頼って、それを紛争解決の手段として行使しまくったがゆえに、第二次大戦で5400万人もの人命が失われたのである。
でもそこで疑問も出るだろう。無実の市民が虐殺されるのを座して見ておれと言うのかという疑問だ。でもそれは違う。まさにそこにこそ、安倍首相のとんでもないボタンの掛け違いの原因が潜んでいる。まず非道を見過ごすつもりなど、誰にもないという事を理解する必要がある。それは暴漢に対してとっさに手が伸びるようなものであり、それは武力行使ではなく正当防衛だ。でも個人個人が、自分お都合で勝手にそれを始めたら滅茶苦茶になる。だから社会正義、或は国際的な人道活動とする為には、第三者的な、例えば国連のPKO活動の一部として行うことが必要になる。かたや安全保障理事会も、そろそろ拒否権などという不公平な特権を、廃止しても良い頃だと思う。
ところが、こういう自国や外国の市民の命を守る行動と、米軍の作戦行動に参加するということは、根本的に異なるのだ。なぜなら米国の作戦行動が、国際正義や人道の為の作戦行動とは限らないからだ。イラクやアフガンの例を挙げるまでもなく、米軍の作戦行動には、倫理観よりも、米国の大企業の利害が優先していることが多い。そういう国と軍事同盟を結ぶという事は、その国の利害の為に共に戦うことを意味する。しかもその時に及んで、いくら憲法9条の縛りがあるからと言い訳したところで、一度は越えてしまった解釈改憲のルビコン河だから、相手がハイそうですかと簡単に承知するはずはない。
このように、安倍政権は、日本という国の首を自ら絞めて、抜き差しならぬ立場に追い込んでゆくのだ。だから安保法制は絶対に成立させてはならないのだ。主体性も正当性もない戦争につきあって、自国の人命を消耗することほど、無意味なことが他にあるだろうか。
安保法制のもう一つの大きな論点が抑止力だ。米国は現時点で世界最強の軍事力を誇っている。これと手を組めば、他の外国もおいそれと手は出せない。即ち日本が攻撃を受けないための抑止力になるという見方だ。この理屈には私も驚きいた。世界情勢で基本的な事が分かっていないからです。まずISなどは、米国の抑止力など気にしていない。なぜなら今後増えてくるであろう、反体制の武装勢力は、米国が最も苦手とするゲリラ戦が本領だからです。米国に遠慮して日本を攻撃しないだろうなどと考えているとしたら、思い違いも甚だしい。むしろ武力を備えた大国ほど、うかつに軍事力を行使できない。そういう甘い分析しか出来ない人達が、日本の安全保障に口を出すほうが、余程恐ろしいことなのだ。
同盟関係の効果については、それに近い関係として米国と韓国やフィリピンの関係を考えてみれば分かる。彼らの北朝鮮との小競り合い、中国とのトラブルで、米軍は特段なんの手も打ってはいない。未だ大事には至っていないからという理由もあるだろうが、それよりもっと大きな理由がある。それは、他ならぬ米国民が、他国同士の紛争で、自国の兵士を消耗することを極端に嫌っているからなのだ。同じことは、当然のように日本についても言える訳であって、それはトランプの発言に端的に表れている。日本が日米安保に寄り掛かり、ただ乗りしているという批判だ。現行の安保の闘争の時にも、それは議論になった。即ち、いかに安保条約を結んだとしても、有事に米国が日本を守ってくれる保証などないという議論であり、若い人たちはご存じないだろうが、既に何十年も前に行われているのである。
安保法制の委員会での山本議員の発言には、重大な間違いがあった。それは日本が自主防衛路線を選択すると、膨大な費用が掛かるという点だ。自主防衛と言っても、それが米国と同等の装備を持つ必要はないのだ。そしてもっと大事なことは、一旦軍事同盟を結んでしまったら、日本の装備に米国が注文を付けてくるので、今の予算規模が大きく膨らむことが避けられないということだ。同盟を結ぶ方が金が掛かるのだ。しかもその装備は、米国以外から調達することは許されない。実際的な面から考えても、同盟国である以上、装備も訓練も保守部品も消耗品も、米国と共通でなければならないからだ。
米国は軍事費を減らしたい。日本が武装を強化し、太平洋地域の安全保障の任務を分かち合ってほしい。それが米国の偽らざる気持ちだ。だから軍事同盟である安保法制は、未だにデフレから経済が回復していない日本にとって、大きな経済的負担を意味している。また日米の共同作戦行動で、日本が主導権を取る姿も想像できない。運命共同体などと勝手に日本だけが思っていても、相手もそう思っているとは限らない。
ここで言っておきたいのは、元防衛省幹部の言葉だ。それは、憲法9条のある日本では、自衛隊は日陰の存在でしかないが、自衛隊が表に出ないような状態であることが、最も望ましい状態なのだという言葉だ。ここにこそ自衛隊が忘れてはならない、自衛力の本質があると思う。
私はこの項の総括として言いたいことは、集団的自衛権をいま日本が選択することは、憲法違反であるばかりでなく、世界の平和を却って遅らせることになるということだ。多くの国が非武装中立の道を選ぶことこそが、殺戮のない世界を実現する最短の道なのだ。自国の安全と繁栄の為なら、他国の人民を犠牲にすることも厭わないという思想は危険であり、詰まるところ安倍首相はそう言っているのだ。その気持ちのどこに世界の平和へ努力したいという願いが感じられるのか。
ここで自衛隊の皆さんに申し上げたい。それは自分たちが軍人だという固定観念を捨ててほしいということだ。人類はその長い闘争の歴史から、軍人という職業を確立した。その国の防衛、即ち侵入してくる賊に、武器をもって立ち向かうことがその使命だ。無論、そこで命を惜しむようでは話にはならない。また軍人である前に組織人である以上、上官の命令にも絶対に従わねばならない。そこまでは自衛隊も軍隊も同じだ。でもそこから先が違う。
まず自衛隊は軍隊ではない。日本は軍隊は持てないし、主体的に「持たない」。現政権の軍備増強の方向性は、21世紀の世界に相応しい考え方というより、むしろ20世紀に戻るかのようだ。自衛隊は、戦争をする為の組織ではなく、国民を守る為の組織だ。だから守るべき相手は、国というような抽象的な概念ではなくて、実体を備えた個々の国民なのである。まして外国人を殺すための組織ではない。実際にそれなり軍備もあるけれど、それはたまたま軍隊と同じ装備を有しているだけのことであって、使用目的は全く異なる。
繰り返す。自衛隊は自衛の為の組織であり、それ以上ではない。しかも有事には体を張って国民を守ってくれる存在なのだ。その為に必要な装備や訓練なら、国民も理解するだろう。でも今回の安保法制のように、米軍と一緒になって米国の利害の為に戦うのが仕事だということになれば、しらけ切った国民は、自衛隊の存在価値を認めようとはしなくなるだろう。
首相も防衛省も外務省も、戦後最大の間違いを犯そうとしている。何故なら自衛隊は自衛力であり、だから米国の求めるような、環太平洋地域の安全保障の一翼を担う事はできないからだ。切れ目のない安全保障は不可能だ。現実にその必要もない。各国の緩い連携の方がむしろ実情に即している。どうしても軍事同盟が必要だというのは、米国に踊らされている安倍や高村の妄想に過ぎない。世界はそのように容易に色分けできるものでも、また硬直したものでもない。太平洋の安全保障は米中ロの間で、国連主導で合意を確立することによってのみ実現可能であり、日本がそういう三国間の取り決めの一翼を担う事こそ最も重要なことなのだ。米国と一緒になって、中国が攻めて来るぞ、北からミサイルが飛んでくるぞと騒ぎ立てる日本の姿は、冷めた外国の目から見れば滑稽なだけだ。戦力とそれを背景にした恫喝に頼らずに、世界平和を実現する努力が、本当の意味での環太平洋の安全保障であり、また各国が競争して軍事費の負担を増やすことを回避する方法でもある。
世界の情勢は安倍首相が国会で説明するような硬直したものでも緊迫したものでもなく、我々の想像を超えてダイナミックに変化し続けている。日米安保が唯一の日本の防衛手段だという説明は思考を放棄した、安易な思い込みに過ぎない。切れ目のない安全保障環境は、日本が中国やロシアとも安保条約を結ばない限り不可能だ。親米と反米という二色で塗り分けられるほど、世界は単純(=自民党議員の頭の中身のように)ではない。米国ありきの発想からは、窮屈で余裕も選択の余地もない世界観しか生まれない。そういう状況にあって、私達が自分の手を縛るような軍事協定を結ぶことは自殺行為に等しい。危険性が高ければ高いほど、両手を明けておく必要があるのである。
自衛力までゼロで良いとは、さすがに私も断言できない。領空や領海の侵犯が日常的に繰り返されているからだ。しかしそれは基本的に沿岸警備隊、即ち海保を増強して、厳重警戒に当たらせる方がより実際的だ。必要なら、海保のイージス艦装備もありだと思う。軍隊を持ち、米国と軍事同盟を結びさえすれば、後は万事OKで、なんの問題もなくなると思うのは、現代の国際関係に対して余りにもナイーブだろう。永世中立のスイスも軍事力は持っている。それは泥棒が家に入らないように、鍵や防犯装置を備えることと同じだ。でもそれは最終目的である憲法9条の理念、即ち非武装中立に至る道の半ばの形であることを忘れてはならない。
だからこそ、重要なことは自衛隊と言う名前=Self Defense Forceを絶対に捨てないことだ。なぜならそこにこそ自衛隊の本質と、戦力保有の妥当性の根拠があるからだ。それでもなお、自国に対する侵略が発生したとしたら、その時は日米軍事同盟があっても、米国でさえ守り切れない可能性が高く、或は戦力を出さない可能性さえ皆無ではないので、その時は国民自身が自らの手で、自衛隊と共に外敵と戦うしかないのだ。
米国(しかも米国だけ)に過大な期待を持つことは、米国にとって迷惑であるばかりか、国家主権を放棄した依存心の表れに他ならず、それは取りも直さず、自民党の寄らば大樹という体質を表している。より大きな問題は、時々漏れ出る内部文書でも分かるように、シビリアン・コントロールが失われてきている防衛省の現状で、将来、暴力装置が国民に向かって牙を剥かないという保証がないことだ。日米軍事同盟で費用が掛かる上に、いつ破裂するか分からない爆弾を、日本の国民が自分で抱えているような事にならなければ良いのだが。
「日米軍事同盟に捧ぐ」2015/9/14
昨夜のNHKの安保法案の討論会には各党党首が出揃った。何故か自民党だけは安倍首相でなく高村副総裁が出席。これは自民党としては失敗だったと思う。高村議員は、国民の理解を求めると言った安倍首相の言葉にも関わらず、不機嫌で高飛車な態度に終始した。傲慢さの限りを尽くしてしまったのである。批判や修正案は一切聞く耳持たぬという態度に終始した。まさに安倍内閣の民意無視の姿勢そのものだった。でも高村議員に世界情勢の何が分かるというのだろう。何が差し迫った脅威なのかさえ、この討論会で詳しく説明できなかった。
高村議員は以前自ら渡米して、日本の安全保障に米国がもっと力を入れてくれるよう交渉したことがある。その背景として、米国が兵力と防衛費を削減しており、その端的な例がイラクからの撤兵だ。その悪い例が、ISへの対応だ。これだけの非道が行われ、これだけ難民が発生しているのに、米国はIS掃討には乗り気ではなく、それは欧州の問題だと言わんばかり。一部無人機の攻撃を除いて、トルコ、豪州、フランスなどに攻撃の肩代わりを期待している。一方太平洋地域では中国が軍事大国に成長(?)し、太平洋での覇権を強く打ち出しており、南シナ海は愚か、東シナ海でも不穏な動きを見せている。中露の合同演習も日本海で行われた。北朝鮮に核兵器があるのは確実で、そのうちの少なくも一発は日本、というより日本の米軍基地に向けられている可能性も否定できない。後はいつどういう形で彼らがそれを恫喝の道具に使うかである。
一方で、太平洋の真ん中に米国の飛び地がある。ハワイやグアムだ。遥か欧州での問題よりは、こちらの方が米国にとっては切実だろう。ISの発生には米国が一役買っているにも関わらずである。しかも米国がシェールガスで世界一の産油国になった今、アラブ産油国の紛争に、自国の兵士の命を犠牲にしてまでも介入する価値はない。とはいえ、基本的に先進国は軍縮の方向に向かって動いている(中国は先進国とは言えない)。それもあって米国としては太平洋地域でさえ、無駄な防衛費は使いたくない。一方日本から見た場合、中国も北朝鮮も地政学的に極めて近い。あっと言う間にミサイルも爆撃機もやって来る。だから危機感を一度でも持てば、直ちに脅迫観念に膨れ上がる。こうなると、すがる相手は米国しかない。だから何が何でも、逃げ腰の米国を引き留めて、米国との結びつきを強化せねばならない。米国だけが中ロの進出を抑える唯一の抑止力と思い込む。だから自衛隊にも多少の犠牲を覚悟して貰わないと困る。それが安倍・高村の論理である。
予め法律を制定して、有事に備えるという方法はマイナスの側面を持っている。平時を含めて、米軍との同盟が自衛隊の行動を制約するからだ。その上で、必ずしも正確とは言えない米国情報部の情報に基づいて、米国が始めた戦争にお付き合いせざるを得なくなることを、国民は懸念しているのだ。自衛の為の戦闘については、これまでも誰も批判はしていない。集団的自衛権の解釈次第で、米国の戦争に自衛隊がはせ参じることを心配しているのだ。9/14の参院委員会の審議で、維新の小野議員が、過去米ロがハンガリー、ベトナム、アフガンなどで起こした軍事行動が集団的自衛権の行使と説明されたが、その14の事例すべてが、自国を守る為の戦争ではなかったことを指摘した。集団的自衛権が時の政府の見解で拡大解釈される恐れがあるのに、自衛隊は自衛隊で武装を拡大してゆく。しかも徐々にシビリアン・コントロールが骨抜きにされ、現場の判断力が重視されるようになっている。国会の事後承認で、首相が自由に自衛隊を動かせるようになれば、国家権力の暴力装置に歯止めが効かなくなって来ることに脅威を感じるのはむしろ当然ではないだろうか。
現行法制の下でも、例えばハワイへのミサイル攻撃を阻止する為に動くことは出来ると思う。ハワイは邦人も乗っている大きな船のようなものだ。また都市を狙う弾道ミサイルや爆撃機は、中国や北朝鮮のものである必要さえない。どこの国から飛んできても撃ち落とす必要がある。いまや世界中の大都市で、日本人が住んでいない都市などない。極端な話、米国のミサイルが誤爆で北京に向かったとしたら、それを撃ち落とすこと必要だ。北京にも多くの日本人が住んでいるからである。逆に安保法制が成立すると、日本が独自の判断で自衛権を行使することさえ難しくなる。いちいち兄貴国の意向を確認しなければならず、それに掛かる時間が命取りになる可能性があるからだ。未だ実際の戦いが始まってもいないのに、今から敵味方を区別してしまう事は窮屈で、しかも危険な賭けのように私には思われる。自国の判断だけで自衛隊を動かすことができなくなるからだ。
安保法案が、太平洋地域に限らず、米国の軍事力の一部を肩代わりするものであることは、昨夜のNHKの討論からでも明白だ。だからこそ憲法違反であり、だからこそ、国民がこぞって反対しているのだ。米国にもっと日本の防衛に関心を持たせ(米国が太平洋地域に関心がないというのなら、原子力空母が横須賀に配備されている理由はない)、有事に自衛隊を自由に使えるようにしておきたいという根拠が外敵脅威論だ。でもそのように各国が武装の殻に閉じこもれば、それで世界の平和が実現できるのか。目先の火の粉を振り払う事に集中し、国民や国会審議の大事な時間を浪費し、肝心の世界情勢の安定や核軍縮などの、しかるべき世界の動きから逆行してはいないか。最終的に武器の必要のない世界を作り上げることに、なぜもっと大きな関心を払わないのか。そうした世界平和の為の意欲も努力も安倍政権からは感じられない。それとも、日本だけ平和で安全なら良い、紛争解決には武力行使しかないと思っているのか。一言で言えば、それは武装に依存した平和であり、それは冷戦時代のカビの生えた理屈でしかない。しかも戸締り論者の困った点は、鍵が一個では済まないことだ。武装がエスカレートする。やがては無数の鍵が必要になり、核ミサイルを枕元に置かないと、安心して眠れなくなる。
高村氏の発言から一つご紹介すると、米国に日本を守ってくれと頼むのであれば、自衛隊も米国を守るという条件は当然だ、そうでないと米国議会も納得しないという発言があった。でもそうなると、現行の安保条約は無意味かつ無効ということになる。なぜなら米国は日本に基地を置くことを要求すると共に、日本にその費用のかなりの部分の負担を要求している。独立国にふさわしくない不公平な地位協定などいうものもある。そしてその代わりに、有事には米軍が日本を守るという条件だ。ところが安倍・高村の理屈では、それだけでは不十分という事なのだ。しかも安保条約の解釈を勝手に変更した。そんな権限が彼らにあるようには思えない。仮に米国が海外での兵力展開を縮小するために、基地も引き挙げ、安保条約の約束も解消したいというのであれば、それを受け入れて対策を考えるべきなのだ。安倍・高村の一存で決めるような問題ではない。それでも基地が返ってくれば、少なくとも沖縄にはやっと戦後が来ることになる。
こういう独裁政治のご時世では、野党の党首たちは上品過ぎて迫力が足りない。相手が強権で来るときは、野党も迫力で立ち向かわないと、国民の気持ちをつなぎとめることは出来ない。
ところで、昨日生まれたばかりの赤ん坊も、小学生1年生も、高校三年生も、中堅社員も、社長も、国会議員も、あなたも私も、皆で日本丸という同じ船に乗って、共に未来に向かって進んでいる。或いは否も応もなく流されているのかもしれない。私たちは、今と言う時間に共に実在し、世代は違っても、同じ空間を皆で共有している。それでも、自分の周囲の1mほどの空間から、気持ちとしては一歩も出ないで一生を終える人もいないではない。世間の出来事に関心を持たなければ罰金を科せられる訳でもない。TVを見、新聞を読み、そうやって得た世界像が、唯一絶対的な世界像だろうと思い込む事も自由だ。即ち情報や政治を、一切他人任せするのも人生なら、適わないまでも、一言言いたいと思うのも人生だ。、集会に参加したり、運動に寄付するのも人生である。どのように自分を取り巻く社会的環境に関わるのか、または関わらずに済ますのか。それは個人個人が決めることであって、他人はその人の意思に反するようなことを強制することは出来なし。出来ることは、情報を提供することくらいであって、最終的な判断は本人以外では出来ないのである。
311の時に、指揮者の佐渡裕が、こういう時に音楽家は無力だと言って、さだまさしに掛けた電話口で泣いたという話は余りにも有名だ。その後、この二人を中心に、さまざまミュージシャンが復興チャリティ・コンサートを開催してきた。音楽家が政治的主張を正面に打ち出すことは多くない。それでもジョーン・バエズや、ピーター・ポール・マリーなどのフォークシンガーの歌は、当時批判が高まっていたベトナム戦争を背景にした、反戦、反体制運動の一部を成していた。同種の歌として、日本では戦争を知らない子供たちや、サトウキビ畑が知られている。そして昨年末の紅白では、桑田佳祐がちょび髭をつけて、反戦歌のピースとハイライトを歌った。但し戦争の英雄を美化した映画、永遠のゼロの主題歌の蛍も同時に歌っているので、正反対の歌を同時に歌うという離れ業だった。ちょび髭は安倍首相をヒトラーに見立てたものであることは誰の目にも明らかであり、その直後に桑田は謝罪している。
ところでさだまさしだが、長崎から東北へというチャリティ・コンサートを毎年夏に開催しており、今年は場所が長崎ではなく、武道館で開催された。今年のさだのナンバーの目玉は風に立つライオンだ。これは大沢たかおの主演で映画化もされ、ケニアに赴任した日本人医師を題材にしている。現地の患者には、病人もいるが、怪我人もいる。流れ弾や地雷にやられた人達だ。彼らはなぜそのような目に会わなければならなかったのか。彼らはあんなにきれいな心を持っているのに。それに比べて私たちの心はどうだろう、果たして澄んでいるだろうかと歌う。これは医師のストーリーだけではなく、反戦歌でもある。
「NHKに捧ぐ」2015/9/15
私は社会に出てから、自由に使える時間の大半を、情報の取得とメディアの監視に使ってきた。情報発信については一種のボランティア活動と言えなくもない。それは生まれながらの野次馬根性のせいかもしれません。特に世界や業界の動向を把握することが、ビジネスにとってどれだけ重要かを理解している上司に恵まれたことが大きかった。特にその人がNY駐在の機会を与えてくれたことが、情報収集に一層のめり込む大きな動機にもなった。現地で海外のメディアに直接接することができたので、日本と海外のメディアの価値観の違い、もっと言えば日本の報道が、いかに間口が狭く、奥行きが浅く、リスクを取らず、しかも右よりに偏向しているかが実感できたのである。
二度の海外駐在を含む、私の情報蒐集活動の期間は約40年に及ぶ。私は自分が報道人に向いていたり、資質を備えていると思った事は一度もない。過去も現在も、常に一人の市民、一人の国民としての視点と価値観しか持ち合わせず、いわば常識だけで判断し来ており、これという文章表現能力もなしに、ネットで発信を続けてきた。そこには如何なる特殊な能力もないが、唯一の取り柄が時系列である。何げない報道や、どうという事のない記事でも、それが積み重なると、誰の目にも自然と見えてくる、世界と世間の動きがある。それが世の中の真実だ。各国の首脳がいかに考え、どのようにアクションを取ってきたか。その結果、国民がどう反応したか。そしてメディアがそれらをどのように報道してきたのか。誰が自分の発言や判断の責任を取り、或は取らなかったのか。そういう40年の現代史の記憶がベースになっている。ここで大事なことは、為政者にいくら都合の悪い真実でも、どこかでそれを憶えている、(私のような)無名の市民がいるということなのである。
そうやって見てきた世界の動きから分かることは、世界を動かしている要素は何かということである。身も蓋もない言い方になるが、それは金と権力だ。それが顕著なのは大国、中でも他ならぬ米国である。しかもいまや日本でも似たような状況にある。現在の世界の動乱に共通しているのは、それが権力(むしろ金権)と反権力との階級闘争から始まっているという点だ。だから真の意味での民主主義が機能している国は、21世紀の今でも、未だ数えるほどしかない。日本では民主主義が正常に機能していないという冷厳な事実にNYで直面し、私は大いに当惑した。だからと言って、非力な自分に何が出来るか。世界の真実に目を向けてほしいと、他の人たちに呼び掛け続ける事しかなかったのだ。
私はこれという取材能力など無論持ち合わせてはいない。一方で政権にも、報道機関にも一切気を使う必要はない。自分の良心にだけに従えば良いという、ある意味で贅沢な立場である。国民と同じように感じ、国民と同じように考える。そして大多数の国民と同じ意見を述べる。以前上司からは、社内の新聞記者だと言われたことがある。でもそれを認めて自由にさせてくれた懐の広い上司(達)がいてくれたお陰で、私は人生の生きがいを見つけることが出来た。加えて、比較的若い年齢で世を去り、IBMを向こうに回して戦った上司から、基本的に何かをなそうとすれば、周囲からは反対されるのが当たり前だという処世訓も学ぶことも出来た。
私の情報蒐集方法には高度なノウハウがあるわけではなくて、ごくありきたりの情報を、毎日せっせと愚直に集めて、記憶を蓄積しているだけだ。特殊な能力の必要はないだけに、根気さえあれば、誰にでも出来ることである。具体的に言えば、複数のメディアの報道を比較するだけなのだ。そして社会人の常識にてらして、どの報道が真実に近いか、説明に矛盾がないかを判断する。私以外でも、どこかで同じような事をしている人が必ずいると思う。むしろそういう人がもっと増えてほしい。全国民がそういう習慣を身に着ければ、メディアの情報や意見を丸呑みにすることもなくなり、批判精神と、他に影響されない自分独自の考え方を持てるようになる。そうなれば、日本は劇的に変わるだろう。そしてついに本当の民主主義の国、日本が誕生するだろう。日本が権力者の為の国から、国民の為の国に生まれ変わる日が来るのである。
突然だが、「NHKの狂気」と、敢えて言いたいことが起きた。良く言えばNHKの混乱だが、昨日(そして今朝の朝のニュースでも)はそんな程度では収まらなかった。これまで安保法制に関するNHKの報道には一定のパターンがあった。ニュース中の国会での審議のダイジェストでは、まず野党が質問し、首相が答える。即ち政権側の見解で締め括る。また首相が狼狽したり、失言するシーンは一切放映しない。だから重要な部分に切り込む質問は自動的に放映されないた。それだけでも十分に政権寄りの報道だ。さらに街頭インタビューでは、政権への反対意見を先に流し、その後で同数の賛成意見を紹介する。即ち政府の見解で締め括るのが常なのだ。
以前、首相のタカ派(かつ知能程度に問題のある)の若手の取り巻き議員が、各局に街頭インタビューが反政府に偏っていると難癖をつけたことがある。骨のある民放は筋違いのメディア干渉をあっさり蹴り飛ばし、放送局の価値観に従って独自の報道と分析を続けた。
ところがそれを真に受けたのが唯一の公共放送NHKだった。その結果、民意などおかまいなしに、賛成反対の意見の数だけを揃え始めたのだ。しかし反対が多数の中で、賛成意見を「同数」揃えるという事は、世間では反対と賛成が同数であるかのような印象を与える。これは、報道機関が絶対にしてはならない、また戦時中に大きな間違いを犯した、世論操作そのものに当たるのである。ならばNHKに聞きたいのは、街頭でマイクを向けて、反対意見が10人中10人だったらどうするつもりなのかということだ。社内の職員でも連れてきた数合わせするのだろうか。でもこういう場面では絶対に意図的な操作をしてはならないのだ。なぜならそうなると、それはもはや無作為な世論調査ではなくなるからだ。
NHKの9/14の夜の安保法制の討論会では、司会が割合中立だったので、少なくも各党の意見はそのままの形で国民に伝えられた。放映時間から考えても、国会中継を見る時間のない国民が大半だろう。皆仕事や生活で忙しいのである。しかもNHKニュースのダイジェスト版が、前に述べたように全くあてにならないどころか、明らかに政府よりに脚色されているので、この討論会は結構重要だったと思う。ニュースではいつもカットされる、山本太郎もはっきりと発言していた。また9/15の朝のNHKのニュースでは、(驚いたことに)最初に政府寄りの意見で、その後に反対意見が紹介された。いつもは余り詳しく報道しないデモの様子も放映された。
ところが国会中継が阿蘇山の噴火で急きょEテレに変わり、おかげで午前中の録画が無効になった。午後は総合に戻ったが、今度は5時で打ち切られ、後は0:10からと言うので録画の予約をしたものの、最近の録画機は番組の題名で判断するので、飛び込みの番組は結局録画されなかった。NHKがこの報道が重要だと思うのなら、中継は五時で打ち切らず、もう1時間くらいは放送できたはずだ。NHKなどを、一時的にでも信用して、ネットで国会中継を見なかったことを後悔した。
しかも夜7時のニュースでは前代未聞の出来事が起きた。急に電話で世論調査をしたと言い出したのだ。NHKの世論調査は、数字に特定の偏りが見られのが特徴だ。他の調査と比較すれば分かる事だが、その理由は設問の問題か、サンプリングの問題かは不明だ。いずれにせよ、こうした微妙で重要な時期に、取ってつけたような電話アンケートをする無神経さ(或は傲慢さ)には呆ればかりである。改めてNHKの常識は世間の非常識であることを思い知った。私なら、NHKの機械で行う電話調査が掛かってきたら、こちらは日中は忙しいので、迷わずに電話を切る。だいいち、相手は政府の御用メディアなのだ。そして世論調査の結果と称して、安倍政権の支持が、(ここに至って!)不支持を逆転したと言い出した。誰がそんな結果を信用するというのだろう。
しかもその説明が奮っていた。何故安倍政権を支持するのかという最多の理由が、他よりは良さそうだからという、消極的選択、消去法の極みだったからである。質問者の知的レベルを疑うに十分な設問の設定だが、ここにもNHKの世論調査の体質が表れている。NHKの世論調査の回答では、どちらとも言えないという回答の比率が、他の世論調査に比べて際立って多い。これは選挙で言えば、投票所に行かない人達の意見みたいなものだ。答えたくない、或は答えられない。でもそれは答えではない。選挙の場合は白か黒かを問うているからだ。投票しないということは、どちらでも良いというようにも取れるが、どうでも良いというようにも取れる。答えを求めているのに、質問や問いかけに乗ってこないのだから、調査(や選挙)にならない。賛否のない、中立または態度を決めかねるという回答が多いという事は、調査そのものが成立していないということだ。そういう調査結果で、これが世論ですと言われても、国民は当惑するしかないのである。答えがない、或は答えを引き出すことが出来ないということは、世論調査や選挙の方法に致命的な欠陥がある事を意味する。その点に関しては、行政機関も報道機関も、もっと謙虚になって欲しい。更には、安倍政権のように意図的に目的を隠す場合があるので、国民はますます混乱する。政治と行政の分野では、臆面もなく嘘と欺瞞がはびこっているという事実も、私がこの40年で学んできたことの一つなのである。
大多数の国民が支持しない(重ねて言うが、NHKの世論調査は民意を反映したものとは言えない)のに、安倍首相が独裁を続けていられるのも、現行の選挙制度に不備があるからだ。即ち有権者の気持ちや意見をきちんと集約し、反映できていないのは、現行の選挙システムが不完全だということだ。どちらとも言えないが多い調査の、根拠の薄弱な数字で、公共放送に世論をミスリードされたら、国民はたまったものではないのである。
「中央公聴会」2015/9/15
安保中央公聴会(9/15)から
【浜田元最高裁判事の論述の要約】反対派
日本では最高裁での違憲判決が非常に少ない。それは日本では抽象的な法理論の判断ではなく、具体的な事案を取り上げるからです。それは日本では「今は亡き」(ここで会場から拍手)内閣法制局が、総理大臣の判断を助けてきたからです。砂川判決が良く引き合いに出されますが、それは自衛隊の存在に関する判断ではないというのが、米国の裁判所での理解です。政府の解釈で安保法案が合憲であるという説明がなされていますが、それは政府が代れば、また解釈が変わるということを意味しています。しかしそれは国民の審判によるべきものです。また外国の武力行使ということが言われますが、普通の知的レベルの人なら、これが日本に対する外国からの攻撃であって、外国に対する外国からの攻撃でないことは明白です。そういうことは悪しき読み替えであって、法律の専門家の判断には到底耐えられるものではありません。また抑止力強化がメリットとして語られています。武力を強化している中韓が日本叩きをしています。でもそれは彼らの国の国内事情によるものです。この動きに乗って海外派兵の強化をすれば、それが挑発の口実となり、悪循環が始まります。日本は平和国家として技術力、経済力、調整力で世界平和に貢献するべきです。企業にとっても、プラスマイナスで差し引きすれば、プラスにはなりません。政治家を表現する言葉にポリティシャンとステーツマンがあります。日本の政治家はステーツマンで有って欲しいと思います。昔は自民党にもステーツマンが沢山いた。今は小選挙区制で、一人の人に権力が集まる仕組みになっている。どうか末代に悔いを残すような事の無いようにしてお願いしたい。
【小林節慶大名誉教授の論述の概要】反対派
議会の審議を見ていると、当たり前の話が多数派によって無視され続けているという気持ちの悪い体験をしている。平和法案か、戦争法案かというレッテル貼りには意味がない。現行の法律でも、日本の安全は保障されているからだ。法律が出来れば何が変わるか。現在の法律では、どう考えても海外に自衛隊を派遣することはできない。だから安保法案は戦争法案である。憲法9条は、日本が未だ信用されていない時期に押し付けられたものではあるが、日本はそれを受け取り、実際に機能している。特に9条の二項が邪魔だと自民党の憲法審査会では良く言われる。そこには日本が陸軍、海軍、空軍はこれを持てないとはっきり書いてあるからだ。海外で外国の武力行使に一体化しないということは、自民党内閣が歴代言ってきたことである。安倍総理は美しい国と言う本で、法律の支配と何度か書いている。しかしそれは「法の支配」のことであって、安倍総理は「法の支配」が何かを理解していないとしか思えない。いまや日本も北朝鮮と同じような独裁体制になっている。憲法ばかり議論しないで、安全保障も忘れるなと言われる。でも逆に憲法を飛ばしている。必要最低限度と言うのも不可であり、必要ならまだ分かる。専守防衛で十分日本は守られている。それで足りなければ、憲法改正を提案すればいい。安保法案は違憲であることは明白なので、もう我々はそれにあまり興味はない。世界の戦況を見るとイスラム国とキリスト教国の泥仕合になっている。日本はそのどちらでもない。米国に加担すれば、テロの標的になる。アメリカは戦費破産の国であり、9条を変えて米国の戦争に参加してくれ、そのために最高裁が邪魔なら最高裁の判事を代えればいいではないかとさえ言っている。米国の下請けになれば、安保委員会の常任理事国にはなれない。露中が反対するからだ。非戦の大国として平和の調整役として入るのならあり得ると思う。北朝鮮は抜けない竹光のような国である。煩わしくはあるが恫喝政治には、きちんと専守防衛で構えて無視すれば良い。中国は面積が三倍になった。それはチベットやウイグルなどに入っていったからで、それは非武装地帯だったからだ。でも中国はベトナムや台湾には入れない。それは彼らが徹底した専守防衛の国だからだ。中国は入れないところは周りで騒ぐ。中国の脅威は冷静に考えればよい。そして憲法は主権のある国民に変えて貰えばいいのです。
【白石政策研究大学院大学長の論述の一部】賛成派
安全保障では、自助と共助で安全保障環境を作り上げる事が重要である。これからの全保障はネットワーク中心のサイバー防衛システムが中心的な役割を担うだろう。その時に、宇宙にあるハブの一つが破壊されると、そのまま日本の危機になる。将来は有人の飛行機もなくなるだろう。これからの安全保障は地球規模になる。その時の防衛費用は膨大であり、とても一国で負担することは出来ない。(従って)米国とのより密な関係が日本の安全保障の前提となる。
【松井名大名誉教授の発言の一部】反対派
国際法上は、自衛権が次第に制限される方向にあり、それは自然な流れだ。集団的自衛権は本来、同盟関係にある国が攻撃を受け、それが我が国の死活にかかわる場合に武力を行使するものであり、集団的自衛権に限定行使はない。
積極的平和主義と言う言葉を安倍首相が使っている。その本来の意味は、平和は戦争がない状態だけでなく、その温床となる貧困や格差や自由の抑圧などもなくしてゆこうという意味であるが、安倍首相の言う積極的平和主義は、平和の為に戦争をするという意味のようだ。
他に坂元大阪大大学院教授(賛成派)、シールズの奥田氏(反対派)からも論述があり、長くなるので今回は割愛させて頂く。上記の公述の抜粋は、必ずしも発言者の意図は正確に書き写したものでもなく、あくまで自分が関心を持った部分の抜粋に過ぎないので、表現の過不足や誤解があれば、お詫びする。(16:30現在)、
なお同席のお一人から、安倍総理は丁寧な説明と何度も言いながら、一度も丁寧な説明をした事がない、また失礼だが被害妄想になっておられるのではないかという意見もあった。
「戦う市民」2015/9/16
日本を元気にする会には落胆させられた。次世代の党が自民党に同調することは分かっていが、元気の松田代表は、現実的になる必要があるとして、自衛隊の海外派遣に国会の関与を強めるという閣議決定を条件に、法案に賛成した。少数野党とは言え、野党は分断された。これで自民党は強行採決の汚名をまとも被ることなしに、採決に踏み切ることが出来るようになったのである。
安倍首相が自衛隊の海外派遣を実現するために、強引きわまる手法で集団的自衛権の行使を容認してきたことは、今更指摘するまでもない。当初安倍首相は自衛隊の派遣を首相の判断だけで無制限に行えるように企図していた原案に対して、公明党が法案を支持する条件としてつけたのが新三要件だ。その条件を政権が呑み、公明は反対できなくなった。その結果、本法案に反対の創価学会との間に亀裂が生じた。
そしていま、また元気の会が、法案に同意したのである。各政党が、少しでも安倍首相の野心にブレーキを掛けようとしてきた努力まで無視するつもりはない。でもどう修正してみても、集団的自衛権の行使が憲法違反であり、米国の軍事費の肩代わりがこの法案の主たる目的であるという事実は否定のしようがない。いくら修正したからと言っても、目的にも内容にも変化はない。国と国民にとって危険極まりない法案であることに変わりはないのである。
言葉遣いは厳しいが、中央公聴会の小林節の意見が、この法案の趣旨を的確に表現している。アベノミクスの是非を国民に問うた前回の衆院選の時には、その後政府が平和憲法を実質的に捨て去り、米国との軍事同盟の強化しか日本を守る方法がないという安倍・高村の言い分を押し通し、軍事国家への道をひた走りに走り始めることを、国民の多くが果たして予測できただろうか。
この法案が卑劣なことは、本当の目的、即ち本音を隠し通そうとしていることだ。そのくせ法案に国民の大多数が反対しているのは、国民の無理解のせいだと決めつけている。理解が進んでいないことを認めながらも、両院の審議全体を通じて、安倍政権が民意に配慮する姿勢を見せたことは一度もない。どんなに野党が歯止めを要求しようとも、一旦法律として成立してしまえば、口約束など何の意味もない。なにしろ安倍政権の閣僚は、なんの躊躇もなく無視し、しかもその行為を恥じることの人達だからだ。その明らかな証拠がある。法案成立を待たずして、既に自衛隊は共同行動を始めている。日米軍事同盟が具体化すれば、防衛省が一層の暴走を始める事は容易に想像がつく。
この法案の目的が、米国と一緒に日本が世界で軍事行動を展開できるようにすることであることを、多くの人に理解してもらわない限り、賛否どちらでもない人達との意識の差は埋まらない。それは人生経験の長い高齢者ゆえに、言葉の裏の意図を見抜く、言い方を変えれば人の悪くなっている我々と、政治家の言葉を言葉通りに受け取る、素直な若者や主婦、また考える習慣の中高年との違いなのかもしれない。しかし私たちは安倍首相が嘘をつきまくっているという事を身に沁みて分かっている。なぜなら、安倍政権の発言を時系列に並べてみると、それらが如何に一貫性を欠き、矛盾だらけの説明であるかが一目瞭然だからである。
安保法案は決して日本の安全の為にはならない。いまでも日本は守られている。だからこそ、安保法案の本当の狙いは米国の要請に従って、集団的自衛権の名のもとに、米国と軍事行動を共にすることなのだ。だから妥協するよりも、廃案の方向で野党が一致妥結したほうが良かったのだ。国民の大多数の反対を押し切って採決したという実績が、安倍政権の消えない汚点になるからだ。そしてその後の反対運動の方向性が明確になるからである。中央公聴会で、小林節は、死ぬまで反対を叫び続けると言った。私も同じ気持ちだ。
ちなみに日曜日のNHKの特番で、司会が公平と書いたのは訂正する。この司会は日曜の朝の政治討論でも司会を務めているが、悪しきNHKの公平主義を体現している。しかも再度録画を見たら、後半部分では明らかに高村の弁護になっており、しばしば野党側の発言を阻止していた。いささか癖はあるにしても、これが田原なら全く異なる進め方になっていただろう。人間の格が違うと言ってしまえばそれまでだが、NHKの司会者と田原の決定的な違いは、国民の視点があるかないかということだ。市民意識と、国民視点の欠落は、NHKの報道の姿勢全般について言えることでもある。
草の根の活動の一つとして考えられることは、今後、私たちは知り合いの自衛官に対して、貴方達には国民を守る為に努力して欲しい、貴方達は米国の利益の為に米軍と戦うために入隊した訳ではないはずだと、説き続ける必要があるかもしれない。また自民党の中で現状を憂慮する議員にも、個別に働きかけて、自民党が多様な意見を持つように持ってゆかなければならない。私達は安倍首相のこれ以上の独裁政治を阻止するために、あらゆる努力を惜しんではならないのである。
自衛隊を手中に収めた安倍首相が次にすることは、世界の独裁者たちがしてきたことと同じことだ。即ち国民から言論や思想の自由を奪う事だ。安倍政権はNHKを完全に支配しているが、今後は何らかの形で直接、間接的に国民の自由な発言を規制(封殺)し始めるだろう。同時に、憲法改正に向かって進み始めるだろう。そして集団的自衛権の閣議決定に合うように、憲法の条文自体を変えようとするだろう。
これから国民の真剣な戦いが始まる。また始めなければならない。日本の国民の手から民主主義を取り上げ、独裁政治体制を確立して、軍事産業を育成し、世界に肩を並べる軍事大国を目指すこと。それが安倍首相の本当の狙いであって、自衛隊の海外派兵など、彼にとってはただの通過点なのだ。米国でさえ、本当はどうでもいいのである。私たちは安倍首相がどこを向いているのかを、正しく把握しておかなければならない。
国民が団結して立ち向かわなければならないことの一つは、リベラルな言論機関と、言論人や知識人を、権力者の圧力から守ることだ。彼らには情報収集能力と表現応力がある。彼らは国民の目と耳なのである。と同時に、未だ政治的には白紙で、何も知らない若者たち(含む18歳)に、政権が自分達にだけ都合の良い思想を刷り込まないように監視しなければならないのである。
世界には多様な考え方や意見があって、その多様性が世界を集団の狂気から守ってきた実績を示す必要がある。自分と思想や信条を異にする人たちにも同じ人間として生きる権利がある。相手を認めることで、相手も自分を認めてくれるようになる。そこに本当の世界平和の糸口があるのだ。しかし安倍首相が描くような、お互いが武器を構えて睨み合うような被害妄想の世界からは、絶対に平和で安全な国など生まれてはこない。そこにあるのは一触即発の危険性だけなのだ。
いまの日本は平和や安全という言葉とは裏腹の、しかも民主主義とはかけ離れた異常な国になっているという現状を、私たちは子供たちに伝えなければならない。それは大変残念な事だ。この状態はあるべき姿ではないからだ。出来ることなら、私達の目の黒いうちにそのような危険な国のままで、日本を子供たちの手に渡したくはない。
人類は多様さを維持することで、初めて種として存続できる。そこでは固定観念に取り付かれた独裁者たちが人類に対して何をしてきたかを、振り返ることが必要なのだ。すべての個人には、平等な権利と、かけがえのないワン・アンド・オンリーの存在価値がある。多様性と平等、そして自由を保証することが、他ならぬ民主主義の根幹であり、人類を長期で自滅から救う唯一の方法なのである。
市民が専制主義や独裁政権と戦う方法として、最初は有志でもいいから、地域ごとに集まって、具体的な政治や外交や社会問題をテーマに、頻繁に勉強会を持つことを勧めたい。それにより(組織されていない)一般市民でも、情報を入手し、意見を交換し、話し合いの習慣と議論のマナーを身に着ける事が出来る。またその集会では、門戸を開いて、意見の異なる人たちの自由な意見交換の場にした方が良い。討論の結果が、主催者の意図しないものになっても、それを残念に思う必要はない。安倍支持の結論が最初から決まっているような、硬直した自民党の若手のタカ派議員の勉強会と、市民の自発的な勉強会とでは、品性、知性、理性が違う。一旦そういう冷静な議論の習慣が身に付きさえすれば、放っておいても議論は民主的な方向におのずと進んでゆく。かたや感情だけが先走る、結論ありきの議論は単なるイベントに過ぎず、そこからは生産的な思考が生まれる余地はないのである。
そうした集会と言論の自由の怖さを知っているのが、他ならぬ安倍首相だ。市民連合や討論集会が独裁政治の目の上の瘤になるのがはっきりしているので、政権は有形無形の言論弾圧に乗り出すだろう。市民の自由な意見交換への具体的な規制の例として、地方公共団体の公共施設利用を市民が利用する時の制限を行政指導することになるだろう。即ちそれは政治目的での施設の使用禁止です。更にそれがエスカレートすれば、デモは愚か、あらゆる示威活動と集会への干渉が始まることだろう。政府は徒党を組んで反対されることを最も警戒する。なぜなら集会こそが、市民による草の根の反政府活動の基盤だからだ。
かたや個人レベルで大事なことは、私たち自身が正常な神経を持ち続けることだ。政府の動きに疑問を投げ掛け続けることである。草の根の我々が、政府の洗脳からまともな意識を持ち続けることが出来なくなり、国家主義者たちとの戦いを放棄した時に、日本という国は滅びるのだ。
私達はマスコミにも働きかけ、新聞を購読しているのは政府ではなく国民であることを思い出してもらわねばならない。これから一気呵成に進むであろう政官財報の大政翼賛会の動きに、強く反対してゆかねばならない。私達は日本と私達の子孫を、不必要な戦火や貪欲な資本主義から守る為に、最初の一歩を踏み出さねばならない。私たち自身が動かなければ、誰も代わりに動いてなどくれないからだ。
今日明日に迫った安保法案の強行採決が、全ての終わりではない。その逆だ。だいいち安倍政権自体、それで終わりなどとは思っておらず、勢いに乗って一層、民主主義への攻勢を強めて来るだろう。今後はより露骨に、国民の支配体制の強化、民主主義の骨抜きの作業が開始されるだろう。だからいまこそ、独裁と圧制に対する、市民による市民の為の戦いが、開始されなければならないのである。
「理想の人生」2015/9/17
如何なる有名人でも、市井の我々と比べて、それほど大きな差があるとは思えない。中には銅像が立つ人もいるだろうし、歴史書に名前を残す人もいるだろう。無論無名よりは有名であるに越したことはない。しかし知名度よりも、本人が実際に何かを達成したか、またはその努力が未完なら、何を達成しようとしていたかの方が遥かに重要なのだ。努力した結果として、芸術作品を残す(絵画、名曲、小説など)、発見や発明などを成し遂げれば、歴史に長く名を留めることになる。
でも他人から見たその人の人生と、自分から見た人生は違う。自他ともに成功とみなす事例も数多くあるだろうが、後世で評判が高くても、存命当時は不遇という例も少なくない。ゴッホなどは多分後者の例であって、モーツアルトは晩年余り良いことはなかったものの、それでも一時は一世を風靡したので前者だ。でもここで取り上げたいのは彼らが、内面ではどのような人生を経験したのかという点だ。
如何なる人生でも生きる価値のない人生はない。しかしその価値は他人から見た場合と、本人から見た場合では、意味が違ってくる。単純な言い方をすると、人生の価値は、どれだけの成果を残したかという事の他に、本人がどれだけ充実した時間を過ごしたかという側面でも評価されるべきだ。名作を残すような人は、当然、作品の制作中も充実した時間を過ごしたであろうことが予想される。しかし大きな成果が挙げられなくても、濃密で、充実した時間を過ごすことは、我々のような無名の一市民でも可能なのだ。
名作や資産や発見を残せるかどうかは結果論であって、自らが感じる人生の質とは直接の関係はない。但し、どんなに下らないことでも、熱中すれば意味があると言っている訳もない。
個々の人間が、個々の人生において、どれだけ「自分として」有意義に、また満足して過ごすことが出来たかが最も重要なのだ。例えば1952年の映画に、「生きる」という黒澤明の古典的名作がある。病に侵された自治体の下級官吏が、ささやかな自分の人生でも何かを残したいと考え、公園を作ろうと思い立つ。最後のシーンはそうして出来上がった小さな公園で、雪が降る中でオーバー姿の主人公がブランコをこぐ場面だったと記憶している。残したものはさほど大きなものではなかったし、しかもそれでさえ、彼の努力で出来たものだと知る住民は少なかったけれど、間違いなく本人は満足だったに違いない。例え短くとも、人生の最後に、濃密な時間を生きたから。しかもその目的が地域社会の為だったからである。
多くの人が組織の一員として社会人の人生を全うし、現業から去ってゆく。無論、それは決して悪いことばかりではない。この世の中には、必要な仕事というものがあり、それを皆で分担し合うことで、社会が成り立っているからだ。その一つでも欠ければ、社会が回らなくなる。そこで人を支え、良質な作業に駆り立てるものは使命感だ。職業的なプライドと言っても良い。その業務遂行中は、間違いなく彼、または彼女は充実した時間を過ごしているに違いない。主観的な時間は、充実度が高いほど短い。逆に嫌なことは長い。
かたや、例えば仕事の内容が、自分が良い生活をしたいという目的や、金銭欲の為だったらどうか。今日は1億儲かった。それは確かにご同慶の至りかもしれないが、だからそれがその人にとって、充実した時間を送ったことになるのかどうか。無論投資や金融を職業としている人なら、達成感はあるに違いない。でもその職業から離れたら、その人はその後、何を生きがいにしたらよいのだろうか。
スティーブ・ジョブを批判する人もいる。私は、彼は名声を追ったかもしれないが、少なくも金の為に働いていたとは思わない。何か面白いものを作って、皆をあっと言わせたい。便利な製品を世に出して、皆に喜んで使ってもらいたい。そういう彼は、利益至上主義のジョン・スカーリーに追い出される。それはちょうど私がNYに駐在している時期だった。私は当時日本向けに配信していたメルマガで、徹底的にスカーリーを批判した。結局彼はアップルの業績を傾かせ、去ってゆき、ジョブスが復帰して立て直す。例えジョブスが復帰しなくても、スカーリーとジョブスのどちらが充実した人生を送ったのかは言うまでもないと思う。人生の途中で、企業人として一時的に敗者になったかもしれないが、ジョブスは新しい製品、新しいコンセプトを世に残したのだ。
そのような超が付くような有名人と私達を比較してみても、余り意味はないと思うかもしれない。でも私がいま言いたいことは、内面から彼らを考えてみたらどうなのかということだ。充実した内面の人生という意味なら、私達にも十分、彼らの真似が出来るのではないか。ではどうすれば、人生の密度を上げることが出来るのか。金儲けには達成感はあっても、充実感は余りないのではないかと書いた。その理由は目的が私利私欲にあるからだ。自分の外側に目標を設定する人、他の為に働く無私の人が、最も充実した内面の人生を送ることが出来るのでないかと思うのである。
自分の社会人としての企業人生を振り返ってみた時に、必ずしも、いつも空疎で、評価もされず、不遇の企業人生ばかりでもなかった事に思い至る。仕事がスムーズに進み、結果も出て、人間関係も円満で、自分の存在が周囲から認められ、自分で自分に自信が持てた時期があった事を忘れてはならない。無論、成功体験に縛られると、間違いなくそれが足を引っ張ることになるのだが、うまく人生が進んでいる時は、どういう状態だったのだろう。仕事を苦労と思わずに、残業も苦にならない。テンションも高い。それは仕事に打ち込んでいる人間の姿そのものだ。但しこれには、どういう仕事を割り当てられるかという、自分一人では決められない外的な要素も影響する。組織や企業の中の自分の一存だけで自由に選択できる訳でもない。
それでもなお、人生に生きがいを感じ、充実した人生を送り、死ぬ時に自分は精一杯やった。後悔はしていないし、思い残すこともないと言って、この世を去る為にはどうすればいいのか。
私は、それは自分なりに、職業とは別の理想を持つことだと思う。その為にはまず、自分にとって理想とは何かを問いかけることから始まる。自分がどうしたいのか、どういう人間になりたいのか。即ち自分だけの個人的な目標を設定するのだ。その目標は優れて個人的なものであって、貴方だけがそれに束縛されるのである。後は一心不乱にその理想を追求する。理想に向かって努力している時に、人間は最も輝きを放つ。人生の充実感や満足感のレベルも、その人の理想で決まる。例え理想が実現しないまま、道半ばで倒れても、その人(個人)が、充実した、他にかけがえのない人生を送ったという事実は残る。それは他の人の記憶に残るという意味ではなく、貴方がこの世に一時期にせよ、確かに存在したという「事実」が残るのだ。もし貴方が今の自分の人生を無為と感じているのなら、理想を持ち、その為の具体的な目標を設定して見ないか。それがこれからの貴方の人生の、心の太陽となり、支えとなるだろう。
そういう私の理想だが、それははっきりしている。不平等で民主主義の機能しない、いまの日本を、常識が通用する正常な国にすることだ。WTWもその為の努力の一つだ。無論、そんな大それたことは、市井の無名な一老人が成し遂げられるようなものではない。しかし、日本が今のような日本なら、死んでも死に切れないのである。これは理想と言うよりは、達成不可能という意味で、悲願なのかもしれない。