「WTWオピニオン」

【第120巻の内容】

「同調圧力@」
「同調圧力A」
「官邸の敵」
「都民は府民の爪の垢を」
「階級社会@」
「階級社会A」
「階級社会B」
「階級社会C」
「階級社会D」
「杉田の更迭を」

1801.同調圧力@。20/10/29

私が、インターネットもSNSもネ普及していない40年前に、電子メールの同時配信で始めたトレンド・ウォッチャーは、いうなれば特定の、知人、友人向けの情報配信でした。それは現在の主流になっている、不特定多数の(実は本当は特定のグループ内なのですが、その母数がこれだけ大きくなれば、もはや不特定多数と同じです)、顔の見えない人への配信とは根本的に性格の異なる情報発信です。

どこが違うかというと、情報を出す方も、受け取る方も、「匿名ではない=だから顔が見えている」という点が最大の相違点ですが、もう一つはプッシュ型の情報提供という点です。プッシュ型は対面で、即座に反応があるので、これが一番望ましいコミュニケーションの形(但し一対多の集会形式でも、顔が見える、コミュニケーションに時間差がないという点では同じ)でしょう。でもそれは相手の数に上限があり、何百人もの読者のメアドの管理一つとっても困難が伴います。またプッシュ型は「押し売り」の面があるので、情報を受ける人からは、毎日メールが来て迷惑だという声も出ています。

そこで20年前に、トレンド・ウォッチャーは、不特定多数向けのホームページに移行しました。但しSNSは使っていません。賛成、反対を問わず、貴重なご意見を頂戴しても、レスポンスする余裕がないことと、いいねの数に関心はないからです。あくまでこちらが言いたいことだけを、一方的に発信するという独善的なスタイルです。以前は設けていたご意見の掲示板も中止しています。この方法で困るのは、誰が読んでくれているのか、読者がどう感じているのかが、こちらには分からないことです。だから誹謗中傷には十分注意しなければならないが、かといって権力者に忖度したら、何のための情報発信か分からなくなります。

WTWの存在理由、それは新聞やNHKが伝えている情報以外にも、こういう出来事や、こういう意見があるのですが、ご存じですかと、日々「不特定多数の市民に」問いかけることにあります。NHKと同じ情報を流し、同じ見解を述べるのなら、書くのも、読むのも時間の無駄に過ぎません。世間一般と異なる情報の受け取り方、現状の把握、自分なりの意見がなければ、WTWを続ける意味がありません。なお取材の対象はネットの情報、新聞、雑誌、TV番組に留まらず、映画、書籍など、およそ公開されている情報すべてに渡ります。だからその気にさえなれば、誰にでも出来ることなのです。

前置きが長くなりましたが、今回の情報源は、鴻上尚史と佐藤直樹の「同調圧力、日本社会はなぜ息苦しいのか」です。

この本は引用したい箇所が沢山ある一方、最後まで読まないと方向性が見えにくいのですが、結論から言えば、日本では世間と言う存在が大き過ぎる影響力を持っており、それが良い方よりも、むしろ悪い方に働いている。個人は「世間」ではなく、「社会」を相手にするようにしないと、息苦しさから逃れられないというようなことを述べていると、「私」は理解しました。

同書から、気になった部分の抜粋を二回に分けてお届けします。昨日にもまして、前文が長くなりましたことをお詫びします。記事だけに関心のある方は、紹介部分は飛ばしてお読みいただいて結構と存じます。

…異論を許さない空気
鴻上 2020年の前半はコロナ禍によってさまざまな風景が現れました。「自粛警察」「マスク警察」といった言葉に代表される、監視や排除の心情、あるいは差別と偏見。そうしたものが一気に炙り出されたと思います。なかでも、より分かりやすいかたちで可視化されたのが、日本社会の同調圧力だったのではないでしょうか。

同調圧力とは、少数意見を持つ人、あるいは異論を唱える人に対して、暗黙のうちに周囲の多くの人と同じように行動するよう強制することです。こうしたものに、僕はいまも、息苦しさを感じています。コロナが怖い、確かにその通りなのですが、それ以上に、何かを強いられることが、そして異論が許されない状況にあることが、何よりも怖い。

もちろんコロナ以前にもさまざまなかたちでの同調圧力は存在しました。僕が以前からくりかえし述べている「空気を読め」の風潮です。それが、コロナによって、明確に、そして狂暴になって現れてきたように感じるんです。コロナは、確かに存在するくせに日本人および日本社会があいまいにしていたものを私たちに突きつけた気がします。

佐藤 まさにいまは「戦時」ともいうべき状況にあるように思います。非常時、というよりも戦時です。この状況に僕は強い危機感を持っています。ふだんであれば、鴻上さんが指摘したような問題は局所的、限定的に起きているに過ぎなかったんですね。

死者や感染者数が連日、まるで"戦果報告"と見紛うようなかたちで報告されます。まるで大本営発表ではないですか。戦時に優先されるのは個人の権利よりも、為政者にとって都合の良い国益です。

もちろんどこの国も極限状態にありますから、それなりに同調圧力はあると思います。けれども程度のひどさという点で、日本は突出している。海外ではコロナ禍にあっても、ロックダウン反対などの大規模なデモがくりかえされるわけです。堂々と国の方針に逆らい、異論をぶつける人も少なくない。日本はどうでしよう。「ルールを守れ」「非常時だから自粛しろ」といった多数の声、つまりは同調圧力によって、異論が封じられています。

鴻上 僕もコロナが深刻化してからずっと、「戦時下」を生きていると思ってます。そして何よりも問題なのは、戦時なのだからということで、市民の側が持つべき権利も、政府にとって都合の悪い問題も、すべて棚上げされてしまったことにあります。私権を制限する「特別措置法」改正は、与野党一致の「大政翼賛会体制」のもとでさしたる抵抗もなく国会を通過しました。メディアはもちろん、国民の側からもそれを批判する声はほとんど聞くことができませんでした。その間「桜を見る会」問題も「森友学園」問題も、ぜんぶチャラになった。戦時なのだから、国難なのだから、「挙国一致」が必要なのだから、政府批判は控えよといぅ空気が醸成された。それが同調圧力を生み出していきます。…「新しい生活様式」なんて、戦時スローガンと言ってもおかしくないです。

佐藤 戦争中と同じで異論を言うだけで非国民扱いされるでしょう。こうした空気にメディアの多くも無批判に乗っかる。生活を変えろとか、いまは我慢すべきだとか、説教ばかりをくりかえす。

鴻上 感染者の正確な数字も出てこないのに、観念論ばかりが押しつけられています。

佐藤 とにかく戦時中と同じようなことが起きています。そもそも緊急事態宣言が出るまでの過程を見ても、太平洋戦争突入時と似ています。緊急事態宣言を後押ししたのはメディアでした。太平洋戦争の時もそうでしょう。政府とメディアが危機を煽った。アメリカ憎しの空気をつくりあげた。世の中が「戦争しかない」といった雰囲気に染められる。満を持して一気に戦争突入です。当然、戦争に異を唱えるような少数意見は弾圧される。
鴻上 たとえばネットを見ていても、異論に対する"総攻撃ぶり"などは、まさに戦時そのものです。政府の意を汲んだメディアによる世論誘導も同じです。メディアに関して言えば、日露戦争前夜も同様です。開戦論を主張する新聞は、和平論を主張する新聞の何十倍も部数を伸ばしました。「和平なんて、軟弱なことを言うな」といった空気が、和平論を潰していくんですね。戦争は軍部が暴走し独走した結果だ、あるいは独占資本が牽引したなど、さまざまな意見がありますが、僕は、国民やメディアがその空気をつくり出したことが一番の原因だと思ってます。

鴻上 ちなみに戦前は「隣組」とか「国防婦人会」が「反日」を細かく監視し、今はネットが担当してます。

佐藤 日本人なら要請に応じて自粛するはずだという感覚ですね。

鴻上 コロナに感染しただけで何か凶悪事件でも起こしたかのように責められますからね。実際、感染者のプライバシーがネットで暴かれ、電車に乗って移動したとバッシングされました。あるいは芸能人やスポーツ選手の場合ですと「感染して申し訳ない」と謝罪に追い込まれました。社会の中に感染者を差別、排除しようとする強い空気を感じます。そこには病者への気遣いも同情も見えない。ウイルスは人を選ばないのだから、誰であっても感染する恐れはありますよね。本来、頭を下げて謝るようなことではないと思います。

佐藤 僕は最近ずっと、加害者家族に対する「バッシング問題」を考えています。日本では、殺人などの重大犯罪が犯された場合、加害者の家族がひどい差別やバッシングを受けます。これは、コロナ感染者に対する差別やバッシングと非常によく似ていると思いました。一種の処罰感情とも言えます。この同調圧力が、加害者家族を苦しめます。

(編集者注:私は池袋の交通事故の時の、被害者のキャンペーン=高齢者バッシング、にも似たような匂いを感じます。被害者には気の毒だが、だからと言って被害者に、事件と無関係な高齢者の免許を取り上げよと主張する権利はないのです。事故はあくまで加害者と被害者の間問題であり、とっさの場合にブレーキを踏めない人は、運転は無理なのです)

佐藤 「自粛」と聞いて僕がすぐに思い出したのは、2011年の東日本大震災直後に人の姿が消えた異様な街の風景でした。あのとき、被災地に大挙して入ってきた外国メディアから絶賛されたのは、海外だったらこうした無秩序状態でおこりうる略奪も暴動もなく、被災者が避難所できわめて冷静にかつ整然と行動していたことです。

僕の答えは簡単で、日本には海外、とくに欧米には存在しない「世間」があるからです。震災で「法のルール」がまったく機能を失っても、避難所では被災者の間で自然発生的に「世間のルール」が作動していたんですね。ところが欧米には社会はあるが、「世間」がないために、震災などの非常時に警察が機能しなくなり、社会のルールである「法のルール」が崩壊すると、略奪や暴動に結びつきやすい。

鴻上 肝心なのはそこです。「世間」と「社会」はどこが違うのか。

佐藤 それがきわめて重要です。日本においては、「世間」と「社会」の違いこそが、ありとあらゆるものの原理となっているのですから。

鴻上 まずは僕からその違いについて説明させてください。僕がいつも単純に説明しているのは、「世間」というのは現在及び将来、自分に関係がある人たちだけで形成される世界のこと。分かりやすく言えば、会社とか学校、隣近所といった、身近な人びとによってつくられた世界のことです。そして「社会」というのは、現在または将来においてまったく自分と関係のない人たち、例えば同じ電車に乗り合わせた人とか、すれ違っただけの人とか、映画館で隣に座った人など、知らない人たちで形成された世界。つまり「あなたと関係のある人たち」で成り立っているのが「世間」、「あなたと何も関係がない人たちがいる世界」が「社会」です。ただ、「何も関係がない人」と、何回かすれ違う機会があり、会話するようになっても、それはまだ「社会」との関係にすぎませんが、やがてお互いが名乗り、どこに住んでいるということを語り合う関係に発展すれば、「世間」ができてくる。

(編集者注:私は大学で社会学を専攻しましたが、この意見の背景には、誰でも知っているゲゼルシャフトとゲマインインシャフトの概念があります。でもこの本は学問的な意図で書かれた本ではなく、一般市民の立場で書かれていることを勘案すべきだと思います)

ところが日本の場合、なぜ被災者があんなに冷静に行動できたのかといえば、悲惨な状況に置かれた場合、「みんな同じ」という同調圧力が働く。自分がこういう状況でも「しかたがない」と考える。「世間のルール」が働くんですね。

国家や政治権力のような、上から降りてきて法律や暴力によって命令し、抑圧するような権力とは違うわけです。

鴻上 以前に対談したイギリス在住の保育士で作家のブレィディみかこさんが「すごくびっくりした」と話していたのが、大雨のとき、東京の台東区で避難所に来たホームレスが受け入れを拒否されたという出来事です。もしもそのホームレスが亡くなっていたら、その拒否した職員は人を殺したという責め苦を感じないんだろうかと。でも、日本人としてすぐに分かるのは、責め苦を感じることよりも避難所の「世間」を守ることのほうが、彼にとってはプライオリティが高いということですね。

佐藤 そうですよね、「世間のルール」を遵守しないと「世間」から排除されるが故に、日本人はこれをじつに生真面目に守っている。誰に強制されたわけでもないのに、過剰に忖度し、自主規制し、「自粛」する。日本の犯罪率が低いのも、ついでにいえば自殺率が高いのも、他国では考えられないほど「世間」の同調圧力が強いためだと思います。

鴻上 「世間」の同調圧力が強いから、マスクとかトイレットぺーパーとかの買い占めも、同時に起こりやすいんですね。もちろん海外でもパニックは起きるんだけど、パニックのカウンターがちゃんとあるんですよ。よくネットにアップされるのは、トイレットペーパーを山ほど買い占めて、店を出ようとした瞬間に、「待て」と言って、「あなたはそんなに買う必要はない」と冷静に諭す人が出てくる。すごいなと思うのは、パニックになる人はパニックになるけれど、ちゃんと「いや、そうじゃないんだ」と、個人として強く出る人がいることですね。すごくうらやましく感じます。

佐藤 だから、インディビジュアルが今こそ必要なんです。

鴻上 今、ネットの話をしましたが、ネットで誹謗中傷をくりかえす人たちが世界中にいて、英語ではそういう人たちのことをインターネット・トロール と言います。トロールとは、妖怪、クリーチャー、つまり特殊な少数者ということです。でも、日本ではそういう人のことを「ネット民」と言ったりします。ネットにいる人たち。民衆。つまり、特殊じゃないし、少数だという意識もあまりないんです。

(編集者注:それを調べると中流以上の、部長クラスが多いというのだから情けなくなります。本を読まず、新自由主義に染まって、安倍政権=今は菅政権、を支持する岩盤層に成り下がったのでしょうか)

佐藤 個人に対する誹謗中傷、罵詈雑言があふれているネットを見ると、ネットが世界に開かれているといった意識がまるでないのだなと思わざるをえません。つまりそこでも「社会」というものが欠落しているんじゃないか。(以下次号)

・首相の特高顔が怖い。
https://mainichi.jp/articles/20201028/dde/012/040/034000c
コメント:俺だってメフィストテレスはコエーヨ。と言っても、菅内閣の閣僚には何を言っているか分からないでしょうね。

・学術会議任命見送りは正当と強調。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20201028-OYT1T50239/
コメント:私も見ていましたが、任命拒否は憲法で認められた権利だと抜かしておった。無論、議場はブーイングの嵐です。こうなると杉田を引っ張りだして詰め腹を切らせないと、収まりがつかないでしょう。その杉田が内閣人事局を仕切っているというのだから、夏なお寒いホラー・ストーリーです。極右の警察官僚が、アベ・スガと持ちつ持たれつ。これでは日本の民主主義が破壊されるのは当然です。週刊ポストの最新号では、菅を操る3妖怪として、杉田、和泉(コネクティング)、北村を挙げています。

・大量失業時代、自助・共助・公助のお題目は政府の無策の隠れ蓑。
https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2020/10/post-118.php
コメント:自分は何もしていないくせに、よくも国民の自助が足りないなどと言えたものです。


1802.同調圧力A。20/10/30

今日は「同調圧力」の後半部分です。

鴻上 見知らぬ人とのコミュニケーションを僕は「社会話」と呼んでいます。日本ではふだんは少ないんですが、3 .11(東日本大震災)の直後には日本でも「社会話」が生まれました。

佐藤 それはすごく面白い現象でした。

鴻上 3 ?11の後、道を歩いていて、ぐらぐらっとしたときに、知らない者同士が「揺れましたね」「すごかったですね」と言葉を交わして、また別方向に歩いていきました。それはあまりにも不安だったから、「揺れましたね」と思わず言いたいし、それに対してまったく知らない他人が「揺れましたね」とうなずくことで、ある程度の安心をお互いに得たんです。こうした知らない者同士による「社会話」は海外では当たり前じゃないですか。でも日本ではきわめて珍しい。そういう「世間話」ではなく「社会話」のスキルを伸ばしていくことが重要だと思うんですよ。

佐藤 関連して言えば、欧米ではコロナと格闘している医療従事者に対して、午後九時にみんなで鐘をたたいたり、声を出したり、口笛を吹いたりして感謝の気持ちを捧げよう、ということをしているじゃないですか。別に政府が音頭を取るわけでもなく、普通にやっている。それが「社会」なんですね。真偽不明の話ではあるのですが、日本政府は自殺者のデータを操作して非常に低い数字で出しているという説があるんです。各地でいわゆる変死者としてカウントされている数字のかなりの部分が、じつは自殺者なのではないかと。もしもそうであれば日本は世界一の自殺大国になる可能性があります。東京ではしょっちゅう電車が止まるじゃないですか。その少なくない原因が自殺や自殺未遂による運行障害。つまり「人身事故」とアナウンスされるケースです。それだけでも、自殺の実数というのはもっと多いような気がする。

鴻上 その自殺を促しているのが同調圧力。

佐藤 特に日本では若者の自殺が多いですよね。若年層の死因で最も多いのは自殺ですが、それはG7のなかでは日本だけです。若者もまた、同調圧力に苦しめられていることの証拠です。

佐藤 日本人の多くは生まれてこの方、「他人に迷惑をかけない人間になれ」と家庭で言われて育ってきた。「犯罪を起こさない人間になれ」とは言われないわけです。日本では犯罪を犯すことは稀だからです。だからこそ、「世間のルール」に反するようなことをやってはダメだ、と教えられる。「世間」に迷惑をかけるな、他人に迷惑をかけないような人間になれと。

佐藤 自殺理由で一番多いのは、経済的な問題つまりは多重債務です。もちろんうつ病も自殺原因の上位にあるわけですが、正確に言えばうつ病は結果であって、原因ではない。ですからやはり、経済的な問題は深刻なんです。借金がかさめば、日本では結局、蒸発してホームレスになるか、自殺するしかない。そういう選択肢しか思いつかない人が相当数いるはずです。借金を返さないなんてのは、「社会」という観点から言えば契約違反に過ぎない。要するに、債務不履行じゃないですか。死ぬくらいだったら踏み倒せばいい。そう考えるのが海外では普通です。ところが日本人はそんなこと考えないんですよ。結局、「ご迷惑をおかけしました」という遺書を残して死んでしまう。

佐藤 生き続ければいいんです。たかだか契約違反でしかないのですから。でも、無理なんですね。「世間」に迷惑をかけたら生きていけないと思っている。

鴻上 キリスト者とか共産主義者たろうと思えば、この国では個人主義にならなければいけないということですか。となると、やはり、この国の「世間」と戦おうと思ったとき、個人として強くあれという戦略は、有効じゃないですよね。それはハードルが高すぎる。

佐藤 20年ほど前に新自由主義の波が襲ってきた際、競争できる強い個人になれと言われたわけですよ、日本人は。ところが、結局は無理だった。みんな強くないし、「世間のルール」に縛られているから、先ほど言ったように自殺者が増える、うつ病が増えるという状態になった。だから、強い個人になれと言われたって、そんなことははなから無理ということははっきりしている。

鴻上 逆に、同調圧力の良いところを言いましょうか。

佐藤 そうですね。同調圧力が犯罪を抑制させているのは間違いないと思います。自動販売機が町中に設置されているのに、壊されることがない国なんて、日本以外にはあまりないでしょう。「世間」の同調圧力は、犯罪をやりにくくするんです。

鳴上 同調圧力の安心を取るか、息苦しさを取るか。選択とバランスですね。

佐藤 誰にとっても”完璧"と言える答えはないでしよう。

鴻上 だからもう、理想の「世間」を求めてさまよってもだめで、やっぱり「社会」とのつながりをつくっていく道がいいと思います。

佐藤 そうですね。必要なのは「社会」。それをつくりあげていくしかない。

鴻上 2008年に起こった秋葉原の無差別殺人のことなんです。犯人の彼は、事件前にネット掲示板に山ほど書き込んだんですけど、その書き込みに関して、誰からも反応がなかったんです。彼が捕まった後、警察の取り調べで「一人でもいいからやめろと言ってくれていたら、俺はやめていたんだ」と言ったんだけど、彼は自分の「世間」に向けてしゃべっていたわけで、「社会」に向けて語りかけていれば引き返せる可能性はあったと思うんです。たとえば「みなさん、非正規というのはどういうことかわかりますか。非正規というのは、首になったらアパートを出なければいけないんですよ。つまり、その瞬間に住所不定になるので、次の仕事も簡単に見つけることができないんですよ」と。「社会」に対する言葉で書いておくだけで、彼は「やめろよ」と言ってくれる人を獲得できた可能性が高いと思えるんです。だからこそ、どんな時も、私たちは「社会」に対する言葉を見つけていかなければと強く思うんです。

搗上 ちなみにネットの匿名に関しては、やはり総務省が面白い調査結果を発表しているんです。日本の場合、ツィッターの匿名率は75.1%にものぼります。ところがアメリカは35.7%、イギリスは31%、韓国が31.5%、日本以外の国は匿名率がおおむね3?4割です。日本だけが突出して高いんですね。匿名だから、ネットでようやく 一息つくことができる。僕はその気持ちはよく分かります、世閔の生き苦しさから生き延びる方法だと思います。 実名だとどんなリアクションがあるのか分かりませんからね。そうした、ある種のしんどさを回避した結果ですね。

佐藤 旅の恥はかき捨て。日本人は「世間の目」のないところでは、傍若無人になります。それと同じことですね。要するに〃書き捨て"であるからこそ保たれる自由な空間。しかし匿名で名前が知られることなく“書き捨て"が可能ということは、それだけ他者への攻撃、誹謗中傷もひどくなる。

鴻上 それで承認欲求を満たす、といったこともできるのでしよう。さらにもっと根深い問題もあるかもしれません。たとえば、単なる承認欲求ではなく、本当に、心底、正義だと思い込んでやっている可能性です。

佐藤 個人的なおもてなしの場面で「忖度」が使われること自体は全然問題ないと思います。ですが、「世間のルール」である忖度が政治権力のなかで使われているということが、一番の問題ですよね。政治を不透明にしている最大の要因でもあります。ちなみに「自粛」という言葉も適切な英語がなくて、東日本大震災のときに海外メディアはそのままローマ字を用いたといいます。

佐藤 今の政治の一番の問題は、社会が見えていないことにあります。「桜を見る会」なんかの問題で典型的なのは、安倍さんの頭の中にあるのは、自分の周りにある「世問」だけだということです。彼の頭の中では、その外側にある「社会」というのが全然認識できていない。お友だち内閣なんて言われますが、要は「世間」の内輪で固めた人事しかできないんですよ。

鴻上「世間」の外側にあるのは日本という「社会」ですが、安倍首相にとっては、その日本という存在も自分の「世間」を大きく広げたものでしかないということですね。

佐藤 そうです。「社会」というのは本来、変革できるものです。社会変革、社会改革という言葉はありますが、世間変革、世間改革という言葉はないですよね。「世間」は所与で、なおかつ変革も何もできない、動かない、変わらない。彼が依拠しているのはそういう「世間」なんですよね。そこが一番の問題です。…変えることのできない「世間」が目の前に立ちふさがり、「社会」に突破口を開けることもできない。

鴻上 戦略としては、世間改革ではなく社会とつながり、社会改革をめざすということです。芸能人の政治的発言問題、たしかに何人も芸能人がネット上で叩かれました。「#検察庁法改正案に抗議します」というツイートをした芸能人や文化人を非国民、売国奴としてリストをつくり、広めようとしました。「永久保存版」なんてタイトル付けて。

佐藤 そんなリストまで出回っているのですか。

鴻上 はい。一応、業も「反日文化人」というカテゴリーで名を連ねています(笑)。

佐藤 反日なんだ(笑)。

鴻上 別にいまに始まったことではありませんが、何度か僕は「反政府」「反体制」みたいな文脈で炎上しています。一方で、体制側というか、政府擁護の発言をして炎上した芸能人はほとんど見ませんよね。現金給付の議論があったときに、税金を納める側として政府を監視する役割があるのだと主張したら、「国に文句ばかり言うな」みたいな反論がありました。私が払っているのは年貢じゃないんだよ、税金なんだから、当然、使い道を要求する権利だってある、という記事を書きましたが、21世紀の今、まさか「税金と年貢は違います」なんてことを原稿に書くとは夢にも思わなくて(笑)。

佐藤 なるほどね、年貢だと思っているのか。

鴻上 そうやって文句を言う人は、大きな「世間」と自分で思い込んでいる政府側に身を置くことで、多分つかの間の安心を得ているんでしよう。

鴻上 2004年のイラク人質事件で、日本政府と多くの日本人は、人質となった3人も若者に同情するわけでも、身を案じるわけでもなく、自己責任じゃないかと突き放しました。

最近だとジャーナリストの安田純平さんがシリアで人質となったときも、やはり自己責任の合唱が起きた。佐藤さん、自国の若者がどこかで人質となった際に、ここまで自己責任論で当事者を責めるような国って他にありますかね。

佐藤 ないです。ありえません。イラク人質事件の際は、自己責任論にもとづくバッシングを、アメリカのパウエル国務長官(当時)にたしなめられたというでしよう。

「危険をおかしたおまえが悪いということにはならない。彼らを無事に救出する義務がわれわれにはある」って。

鴻上 コロナ感染者への攻撃にも用いられますよね。だから、自己責任って結局、「おまえのせいだろ」という、「世間」から爪はじきにするときにすごく便利な論理ですよね。だから自己責任って、一種の村八分ですね。もう我々「世間」がケアする対象ではないし、その責任もないということの宣言ですね。

(編集者注:菅総理は、国民の生活が苦しいのは自己責任だと突き放しました。次に家族・親戚で支えあい、それでも駄目な時だけ、政府に言って来いと。この発想のどこに福祉の概念=政治の重要なテーマ、があるというのでしょうか。悪魔=メフィストテレスの所業、地獄の使いです。しかも日本には経済格差がないとまで言い切っています。一方で2泊3日で100万もする豪華列車に何千人も応募しているのです)

不寛容の時代に窒息しないために

佐藤 自己責任はもともとは証券・金融業界で使われている言葉です。投資者が判断を誤り損失を被ったとしても、自分が責任を負うという意味なんです。今一般的に使われるのは、どちらかというと自業自得という意味に近い。自業自得は、まさに何かを「排除」する際にも使われますよね。

鴻上 なるほど。だったら自業自得とはっきり言えばいいのにね。

佐藤 自業自得を自己責任とスマートに言い換えているだけです。

鴻上 ちょうど小泉内閣の時代でした。あのころから急速に雇用の流動化も進行し、格差社会の姿が見えてきます。自業自得ならぬ自己責任も、タイミングよく登場した感じです。

佐藤 例えば、おまえが貧乏なのはおまえが働かないせいだ、自己責任だと。まさにネオリベラリズム。正確には1998年頃からの現象ですが、強い個人になれ、お互い競争しなさいと尻を叩かれはじめました。

(編集者注:その責任者の竹中を、菅が再登用し、あの悪夢をまた日本で繰り返そうとしています。その結果、食うや食わずの大勢の日本人と、使いきれない資産を持つ一握りの権力者層に、今以上にくっきりと、日本は二分されることになります。菅に任せていたら日本は滅びるしかないのです。金持ちは生きていてもいいが、貧乏人は野垂れ死にすればいいと、菅が言っているに等しいからです)

鴻上 それでも個人は強くならない。いや、強くなれない。

佐藤 それは無理難題なわけですよ。先にも言いました通り、強い個人になれと言われたって、もともと日本では個人がいないんだから。「世間」のなかに個人はいない。

ですから会社のなかでも個人なんていないわけです。そういうなかで、お互い会社のなかで今日から競争しなさいと言われたって、そんなことできるわけない。できるわけないからうつ病は増えるし自殺者は増える。こうした状況を引き継ぎ、強化したのが規制緩和と構造改革の小泉政権だったわけです。なんでもかんでも、それこそ人質事件すら自己責任に帰しました。その延長線上に現在がある。同調圧力がどんどん強まっているな、嫌な感じになったなと、ずっと思ってきたんです。

鴻上 不寛容の空気も強まりますね。

佐藤 例えば、刑事司法の分野でいうと厳罰化が進められました。死刑判決がどんどん増えていく。量刑の相場も上がってくる。まさに不寛容、非寛容の時代。ちなみに鴻上さんは本のなかで「ほんの少し強い個人」になることでたぶん生きやすくなるんじゃないかと書かれていますよね。鴻上さんがおっしゃっている個人の強さと、小泉内閣のころからの新自由主義的な強い個人は、まったく違いますよね。

鴻上 はい、違います。最近は「ほんの少し強い個人」というより「ほんの少し賢い個人」と言ったほうがいいと思ってます。何度も言っているように、弱い「世間」を見つけるとか、「社会」とのつながりを見つけて、いま自分の生きている「世間」で窒息しないような回路を見つけられる賢さです。それが「ほんの少し賢い」の意味です。

でもたしかにあの当時、強い個人になって、働けば働くだけ豊かになって、みたいな幻想はありましたよね。みんなそう思ったわけで、責められることではないけれど、実際やってみたらそうはいかなかったということですよね。

鴻上 やっぱり「世間」と個人の問題ですね。それでね、佐藤さん、若い人にはどう生きていったらいいってアドバイスしてます?

佐藤若い人って、とにかく人とつき合うときに、お互い傷つかないように、纂つけないように、その部分にものすごく気を使っていますよね。lineのやり取りもそうでしょう。同調圧力を気にするばかりに、あんまり悪目立ちしたくない、そもそも自分が目立ちたくないものだから、なるべく自己肯定感を低くする。

鴻上 生き延びるために自己肯定感を低くして、「世間」になじもうとしているということですかね。

佐藤 海外で自己肯定感が高いというのは、あくまでも「個人」がべースですから、常に何か主張していないと人間扱いされないといった事情があります。

日本人として私たちに共通する「個人の弱さ」だと思います。この対談で僕が言い続けてきたのは、まず、「世間」という強力な敵をよく知ったうえで、「社会」とつながる言葉を獲得してもらえたら、ということ。…誰であっても社会活動の機会が与えられています。さらに、「病」は市に出せ、という考え方が地域にあること。苦しい時、病気になった時は一人で抱えないで、みんなで?央しましょうという思想です。これは援助を求めることの、心理的抵抗感をなくします。もうひとつ、町民がゆるやかにつながっていること。けっして濃厚で窮屈なつながりではなく、個人と個人が息苦しくならない距離感を保ちながら、連携しているんですね。これらは、「世間のルール」はあっても、きわめてゆるいものであることを示していると思います。

鴻上 そうですよね。世界は簡単には変わらない。世間や同調圧力を一気に消し去る特効薬があるわけでもない。ただ、「楽かもしれない」道を模索することは大事だと思います。

佐藤 つまり、息苦しさを与えている「敵」の正体を知るということです。

鴻上 そう、息苦しさの正体は、あなたを苦しませているものの正体は、まさに世間であり同調圧力。それを知ることで、少なくとも自分自身に責任がないことは理解できると思います。

佐藤 敵の正体が分かれば、それを肯定するにせよ否定するにせよ、気が楽になる。あなたは負けたわけでも、弱いわけでもない、「世間」から圧力を加えられているだけなんだから。けっして恥じる必要はないし、責任を感じる必要もない。読者のみなさんに、そんなメッセージを送りたいと思っています。(引用終わり。今回ご紹介したのは、長いようでも、原本のほんの一部に過ぎません。本書も読みやすいので、なるべく多くの人に原本を手の取っていただくようお勧めします。なお「ほんの少し賢くなる」ためには、WTWに目を通すことが早道だと自負しています)

(編集者注:菅政権を倒すためには、今は万能感に酔い痴れて、好き勝手に振舞っているが、実は菅総裁も弱い人間の一人に過ぎないことを、何らかの形で実感させることだと思います。最初にやるべきは、大規模なデモだと思います。自分と意見の違う国民が、こんなにも大勢いるのだということを実感させる必要があるからです)

関連記事。世間論から考える同調圧力。
https://www.asahi.com/articles/ASNBX3FG4NBWUZVL00L.html?iref=comtop_7_06

・若者よ、立ち上がれ。キナ臭い学術会議問題。
https://mainichi.jp/articles/20201029/dde/012/010/033000c

・女性任命拒否の理由、答えず。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/65098
コメント:妖怪杉田の国会喚問を。


1803.官邸の敵。20/10/31

昨日の表題部分で述べた、菅首相が目や耳に使う側近(=官邸の側用人)が政治に口を出し始めているという情報は、週刊ポストの最新号で紹介された内容です。また文中言及された会議のメンバーが政権応援団であることは今更言う必要もありません。その極端な例が、閣僚、側近ばかりか自民党内部までイエスマンで固めた安倍首相ですが、菅政権でもその傾向が大きく変わる理由はないと思います。なおこの菅応援団の有識者と、官邸の3妖怪についての情報は、週刊ポスト最新号に詳しく載っているので、ぜひそちらを参考にして下さい。

同じポスト(11/6号)の他の記事で、官邸がメディアを監視して膨大な記録を残しているという記事もあります。その記事で面白く感じたのは、官邸にとって誰が要注意人物(=実力のある敵)かが分かったことです。結論から言えば、それはフリージャーナリストの青木理、テレ朝の玉川徹、元朝日新聞の星浩、元共同通信の後藤健次などです。但し報道番組の司会者については羽鳥慎一も、加藤浩次も対象外で、毒舌の立川志らくや室井卯月も記録にはない。石原良純や長嶋一茂も対象外。でも国際弁護士の矢代英輝、毎日論説委員の福本洋子は対象といった具合です。元時事の田崎史郎や、読売の橋本五郎のような体制派も記録には残っているが、これは番組で、批判派とどうやりあったかを記録するためだろうと記事では述べています。

なお、田原総一朗や池上彰のような「大物司会者」については、中立とみなしているのか、少なくともこの記事での言及はありません。

極めて雑な言い方をすれば、憂国の国民は、官邸が(侮りがたい)敵とみなしている論者の意見にこそ耳を傾けるべきだということです。一茂や良純や志らくの意見を、そうだそうだと有難がっているようでは、(そもそもその意見など、官邸が全く意に介していないのだから)政治は変えられないということです。

ちなみに10/30深夜の朝生での、片山さつきのマナーの悪さは目に余りました。もともと図々しいタイプですが、理屈にもならない屁理屈で、他の出席者の発言に割り込む様子はトランプにそっくりです。それにしてもなぜ田原は番組で三浦と片山を使いたがるのかは謎です。なお今回はデフレの戦犯、竹中平蔵も出席していました。一つ考えられるのは、今回の人選の限り、田原から菅への忖度があったのではないかという憶測です。もしそうなら、田原は反体制側のMCとしてはもう賞味期限切れということになります。

いま橋本健二の「新日本の階級社会」と、「新型コロナ対応臨時調査会」の報告書(466頁)を読み始めましたが、いつ頃概要をご報告できるかは未定です。

・菅さん、しどろもどろ。学術会議。
https://www.asahi.com/articles/ASNBZ6TC9NBZUTFK00G.html?iref=comtop_ThemeRightS_01


1804.都民は府民の爪の垢を。20/11/2-3


・大阪都構想反対多数。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6375312
関連記事。市長は2013年の任期満了で正解引退。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6375315
関連記事。吉村知事は再挑戦しない。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6375318
関連記事。与野党の反応。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201102/k10012691611000.html
コメント:橋下徹の置き土産を松井市長がごり押し。未だ大阪では民主主義と常識が機能していることが分かり、ホッとしました。何も考えずに小池知事を再選する東京都民より、大阪府民の方が遥かにまともです。ということは、むしろ東京都が東京市になり、大阪市が大阪都になる(天皇が大阪城に御移りになる)方が、長い目で見て、日本と国民にとってはプラスなのかもしれません。
努力より体裁の都知事と都民は、そろそろ我が身を振り返って見てはいかがか。

・都構想関連に100億円。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6375346
関連記事。最終的に反対急増のワケ。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6375329
関連記事。無党派層6割が反対。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020110100488&g=pol
関連記事。橋下が突然言い出した都構想。
https://www.asahi.com/articles/ASNC16F8NNBZUTFK01S.html?iref=comtop_ThemeLeftS_01
関連記事。維新に打撃。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020110100516&g=pol
コメント:そもそも前回の結果などなかったことにして,強引にやり直す(府民の判断を否定する)すという神経がまともではない。TVに出て、学術会議のフェイクニュースをはじめ、暴言を吐き散らす橋下は公害に等しい。100億円は橋下と松井で折半して頂きたい。

・小池知事、身を切る改革掲げながら退職金3500万円満額受領の是非。
https://diamond.jp/articles/-/253154
コメント:9つの公約を実現しなかったのにおかしいですね。一方で9000億の予備費はどこへ消えたのでしょう。喜んだのは、ホームレスをだまして仮の住所を登録し、給付金の9-10割をピンハネした反社だけでした。希望の党を立ち上げたとき、小池知事は何と言ったか覚えておいででしょうか。集団的自衛権を認め、外国人の選挙権に反対するという誓約書に署名しなければ、希望の党の公認はしないと言い放ったのです。それが排除の論理だと指摘した記者は、今に至るまで事実上の出禁状態です。誰が見ても排除の論理でしかなかったのに。一風変わった価値観のこの女性は、政治家である前に、単純約束を守る意思があるかのどうかという点だけを取り上げてみても、人格的に破綻していないかどうかが気になります。


1805.階級社会@。20/11/3

自分たちが間違いなくその中にいるのに、その存在を明確に意識していないもの。それが格差または階級です。日本が格差社会であることは、自民党以外のすべての政党が指摘しています。でもその事実や、その実態が国民に実感を持って受けとらえているとは到底思えない。なぜなら未だに政治の世界では格差の元凶、自民党が優勢を誇っているからです。この意識のずれこそが、安倍首相が8年も権力の座にあり、自民党が最大多数を維持し続けている最大の理由ではないのか。それが私の問題意識です。子供食堂が大変らしいから、少し寄付でもした方が良いのではないかとか、若い富裕層の無節操な金の使い方(と倫理観の欠如した生活態度)に眉をひそめるというようなレベルの話ではなくて、日本の政治・経済システムの根幹に関わる構造的な問題があるのではないかという漠とした予測が背景にあるのです。

今回、格差社会の参考図書に選んだのは橋本健二の「新・日本の階級社会」です。統計の数字を交えながら、日本の階級社会の実態を分析し、政治・経済のあり方に重要なヒントを提示しています。今回は同書の冒頭部分から、日本の階級社会の現状を分かりやすく解説した部分をご紹介します。言い換えれば問題提起の部分(序文)です。

…1988年の11月に公表された『国民生活白書』で、高度成長期以後の日本政府が、はじめて格差拡大の事実を認めた。すでにバブル経済が始まり、格差の拡大傾向が指摘され始めていた時期だった。高度成長期には縮小していた格差が、1970年代から縮小しなくなったこと、1980年代に入ると地価上昇によって資産の格差が拡大したこと、そして国民の多くが「格差は拡大した」と実感するようになっていることを指摘した。

そのうえで白書は、国民の格差に対する意識について、調査結果をもとに次のように論じる。多くの国民は格差拡大を感じてはいるが、「格差であれば何でもいけない」と考えるのではなく、「個人の選択や努力によって生活に格差があるのは当然」と考えており、個人の選択や努力によって生じた格差は容認する傾向が強い。これは国民の格差に対する意識が「成熟」しつつあることを示している、と。「個人の選択や努力によって生活に格差があるのは当然」とするこの傾向は、最近では「自己責任論」と呼ばれている考え方と同じものだろう。

格差社会という言葉を初めて使った朝日新聞の社説は、白書のこのような主張に異を唱えている。現実の社会では人々は公平な条件の下におかれているのではなく、個人の努力が報われるとは限らない。地価や株価の高騰により社会の公平さが崩れ、こうして作られた資産の格差は相続によって次世代に伝えられる。日本の現実には「新しい階級社会」の兆しをみてとることができるのではないか、と。「新しい階級社会」?思い切った表現である。

それでは日本では、格差はどのように推移してきたのか。…産業別賃金格差は卸売小売業と金融保険業の差で、すべての時期で金融保険業の賃金は卸売小売秦を上回り、また1970年以降は、全産業中で金融保険業が最高、卸売小売業が最低となっている。

男女別賃金格差は、それぞれの月間給与総額の年平均の差を同じく和で除した指数。すべての時期で男性の賃金は女性を上回っている。…戦後復興によって、極貧状態にある人は減少したものの、復興は大企業と都市部から始まり、中小企業と地方は取り残されたから、格差が拡大した。しかし高度成長が始まると、格差は縮小に転じる。経済成長の成果が中小企業に、そして地方にまで波及するようになったからである。高度成長が終わっても、格差の縮小はしばらく続き、多くの指標は1975年から80年ごろ底に達する。日本は、国民のほとんどが豊かな暮らしを送る格差の小さい社会だとして、「一億総中流」がいわれた時代である。
しかし、そこから反転上昇が始まる。とくに当初所得のジニ係数と産業別賃金格差の拡大はすさまじい。生活保護率だけは低下が続くが、これは厚生省(当時)の締め付けによって、生活保護を求める人々を窓口で追い返す、いわゆる「水際作戦」が展開されたからだろう。批判を受けて自治体の多くが態度を改めた1990年代後半以降になると、生活保護率は急上昇する。朝日新聞の社説が書かれた1988年の格差など、今日に比べればまだまだ生やさしかったといっていい。

ここから明らかなように、現代日本で格差拡大が始まったのは1980年前後のことである。だから、格差拡大はもう、40年近くも続いているのである。いや、格差を縮小するためのまともな対策がとられてこなかったのだから、40年近くも放置されてきた、といってもいい。

「一億総中流」といわれた時代にも、もちろん格差はあり、貧困に苦しむ人々もいた。しかし、今日に比べて格差がかなり小さかったのは事実である。そのなかで大部分の人々は、カラーテレビやエアコン、自家用車などの耐久消費財を基礎として、豊かさの程度に違いはあるとしても、同じようなスタィルの生活を営んでいた。

しかしその後、格差拡大が続くことによって、日本の社会は大きく変質してしまった。

詳しくは次章以降で述べるが、いくつか挙げるならば、次のような変化である。

貧困率が上昇し、膨大な貧困層が形成された。1985年に12%だった貧困率は、上昇を続けて2012年には16 %に達した。人口に貧困率をかけた貧困層の数は、1400万人から2050万人にまで増えたことになる。(編集者注:この本は2015年に初版ですが、ここで参考にしているのは2018年の再版です)ちなみにひとり親世帯(約9割が母子世帯)の貧困率は、51%にも達している。

貧困率の上昇は、非正規労働者が増えたことによる部分が大きい。なかでも深刻なのは、学校を出たあと安定した職に就くことができず、その後も非正規労働者として低賃金で不安定な職に就くことを余儀なくされ続けている若者たち、そして元若者たちが激増したことである。2012年の「就業構造基本調査」から推定すると、非正規労働者は就業人口の15%に上っている。その大部分は、学校を出てから引退するまでのすべて、もしくは大部分の期間を非正規労働者として過ごし、その後は貧困な老後を送るであろう人々である。あとで詳しく紹介するように、その平均年収はわずか186万円で、貧困率は39%に達している。その多くは、経済的理由から結婚することも子どもを産み育てることもできない状態にあり、未婚率は、男性で66%、女性で56%に上っている。

…日本は、その人口の三割もが、主に経済的理由から安定した家族を形成できない社会になりつつあるのである。

…人々の意識も、大きく変わった。「一億総中流」と呼ばれた時代、多くの人々が自分の生活程度を「中」またはそれ以上だと考えていた。それは本人の生活程度とはほとんど関係がなく、豊かな人も貧しい人も、あまり違いがなかった。貧富の差にかかわらず、「豊かな気分」「中流気分」が人々を覆っていたのである。ところが今日では、豊かな人と貧しい人の意識が、はっきり違っている。1975年に行われた調査によると、自分を「人並みより上」だと考える人の比率は、富裕層でも45%に過ぎず、貧困層でも17%までが、自分は「人並みより上」たと考えていた。ところが2015年に行われた同じ調査によると、この比率が富裕層では74%へと上昇したのに対して、貧困層では10%にまで落ち込んでいる。人々は自分の豊かさと貧しさを、リアルに感じるよぅになっているのである。

人々の政治意識も、大きく変わった。政党支持に関するこれまでの多くの研究は、_高度成長期にかけては、経営者などの富裕層が自民党を支持し、労働者を中心とする貧困層が社会党を支持するという構造がはっきりみられたのに対し、その後になるとこの構造が急速に崩れ、政党支持と貧富の違いがはっきりとは対応しなくなってきたことを明らかにしてきた。2005年の調査から自民党支持率をみると、富裕層が37%、貧困層が27%で、たしかに差があるとはいえ、あまり大きいものではなかった。ところが2015年になると、富裕層の支持率が38%とあいかわらず高いのに対して、貧困層の支持率は21%と急落してしまったのである。自民党の支持基盤は、明らかに富裕層へと軸足を移している。

今日、拡大した格差は日本の社会に深く根を下ろしてしまったといっていい。人々は大きな格差の存在を、はっきりと感じている。そして豊かな人々は豊かさを、貧しい人々は貧しさを、それぞれに自覚しながら日々を送っている。人々は、豊かさの程度によって明らかに分断されている。それは、政治意識にも表れる。ほぼ一貫して日本の政治の中心を担ってきた自民党は、拡大した格差の一方の極に軸足を移し、富裕層の政党としての性格を強めている。

こうした意味で現代の日本社会は、もはや「格差社会」などという生ぬるい言葉で形容すべきものではない。それは明らかに、「階級社会」なのである。詳しくは第二章で述べるが、階級とは、収入や生活程度、そして生活の仕方や意識などの違いによって分けられた、いくつかの種類の人々の集まりのことをいう。そして各階級の間の違いが大きく、その違いが大きな意味をもつような社会のことを階級社会という。今日の日本社会は、明らかに階級社会としての性格を強めている。しかもその構造は、階級社会についての従来の理論や学説が想定してきたものとは異なっている。その意味では「新しい階級社会」である。本書で示したいのは、この現実である。(以下次号)



1806.階級社会A。20/11/4

今日の前書きは階級社会の2回目です。しばらくこの本の紹介が続きます。

…75年には、職業や学歴、収入といった現実の階層的位置を示す要因が、階層帰属意識に対してごく弱い影響力しか与えていなかった。ところが85年になると、収入の影響力が明らかに増大し、さらに95年になると職業と学歴の影響力も増大して、階層帰属意識が現実の階層序列と明確に対応するようになったのである。階層帰属意識は、所得だけによって決まるわけではない。学歴が高い人は階層帰属意識が高くなる傾向があるし、職業や年齢も階層帰属意識に影響している。これとともに、人々の政治意識も変化した。1995年の段階では、所得階層と自民党支持率の間に明確な関係がない。…2015年、富裕層と相対的富裕層の支持率がほとんど変化しなかったのに対し、相対的貧困層の支持率、貧困層の支持率は低下した。こうして自民党支持率を示すグラフは、左から右へと急勾配で下っていく、印象的な斜線を描くようになった。

一見したところ、実にわかりやすい結果といっていいだろぅ。自民党は、社会保障や貧困対策には熱心でなく、労働の規制緩和を進めたり、富裕層の減税を繰り返すなどして、長年にわたり格差拡大を放置し、むしろその拡大を促進してきた政党である。富裕層の支持率は高く、所得が下がるにしたがって支持率が下がっていくというこの構造は、自民党が、支持基盤が特権階級や富裕層に特化した「階級政党」になったことを示している。

ただし、自民党と正反対の位置に、貧困層や相対的貧困層の支持を集める単一の政党があるわけではない。ちなみに2015年の貧困層のその他の支持政党は、公明党が6%と多く、次いで維新の党(当時、5%)、民主党(当時、4%)、日本共産党(3.5%)などと分散し、支持政党なしが57%である。この四党の支持率を合計すると自民党を上回っているが、支持は割れており、しかも支持がもっとも多い公明党は、自民党とは連立政権を組む関係である。

以上のような変化をみれば、次のような印象が生まれるのは自然なことだろう。

高度成長が続いたあとの、いまより格差が小さかった時代、人々は格差の存在をあまり意識することがなかった。そして漠然と、自分の生活程度はふつうだと考えていた。この点では、豊かな人も貧しい人も、変わるところがなかった。しかし格差拡大が続くうちに、人々は格差の存在をはっきり意識するようになり、自分がこうした格差の構造の中でどのような位置を占めるのかを、正確に認識するようになった。そして、こうした自分の位置に応じて、豊かな人々は自分の生活に満足し、貧しい人々は不満を感じるようになった。このことは政治意識にも影響し、豊かな人々はますます自民党を支持するようになり、貧しい人々は自民党を支持しなくなった。このように格差というものを争点に、人々の意識は分極化しているのである、と。

政権にあって格差拡大を促進してきた、少なくとも放置してきた政党である自民党は、富裕層を中心に、格差拡大を肯定する人々から強く支持され、さらに格差拡大を容認する人々の支持も集めている。格差拡大を肯定する人々から支持を集めているという点では、維新の党もこれに近い。これに対して民主党、公明党、日本共産党は、格差拡大を否定する人々から支持を集めている。格差拡大を否定する人々の支持を集約するような政党、あるいは政治勢力が現われれば、日本の政治は大きく変わるのではないか。

しかし、ことはそう単純ではない。というのは、「自己責任論」にもとづく格差容認論、つまり「個人の選択や努力」によって生じる格差を容認する傾向が広がっているからである。格差拡大を肯定・容認する傾向が、低所得階層にまで広がってきている。

ここには、所得階層の違いにかかわらず広く受け入れられている「自己責任論」が関係している。自己責任論が、格差拡大肯定・容認論の最強のよりどころとなっているのである。

「格差社会」が流行語になった2005年の直前まで、「一億総中流」は日本人にとっての「常識」だった。それは現実の生活程度と、自分の生活に対する人々の自己評価、つまり階層帰属意識を混同していたこと、設問の作り方に問題のある世論調査の結果を根拠にしていたからである。しかし、たしかにこの時期、日本の経済的格差が以前より小さくなっていたうえに、生活程度にかかわらず多くの人々が、自分の生活程度を「中」と思い込んでいたこと、また「日本は平等な国だ」として、自国を他国より優位に置こうとするナショナリスティックな感覚とも合致したことから、広く定着してきた。

しかしその後、階層帰属意識は格差の実態を、ある程度まで正確に反映するようになっていった。格差が拡大するとともに、「中」に位置する人々の一部が、自分を「人並みより上」だと考えるようになり、他の「中」の人々から区別しはじめたからである。近年、豊かな人々は自分たちを「人並みより上」と、豊かでない人々は自分たちを「人並みより下」とみなすようになってきたのである。こうして階層帰属意識は、人々が社会のなかで現実に占める位置と、かなり正確に対応するようになってきた。社会を広く覆っていた「中流意識」の分解である。

これと同時に、生活や収入に対する満足度も、現実の生活実態と正確に対応するようになった。豊かな人々はこれまで以上に満足を感じ、貧しい人々はこれまで以上に不満をもつようになった。そして政党支持も、豊かな人々は自民党を支持し、そうでない人々は支持しないというように、所得水準との対応関係を深めてきた。

さらに自民党は、格差拡大を肯定・容認する人々から支持を集めている。これに対して維新の党(当時)を除く野党と公明党は、格差拡大を否定する人々から支持を集めている。

ところが貧困層は、かつては格差拡大に強く反対していたが、最近ではあまり反対しなくなってきている。格差拡大によって不利益を被ったはずの人々が、意外に格差拡大に対して寛容である。そしてこの傾向は、「自己責任論」の広がりと深く関連している可能性がある。それは、貧困層も例外ではない。格差が拡大し、しかも人々は、これを競争の結果だとして受け入れる。こうなると格差社会は、反転の契機を失う。

いまのところ、格差拡大を否定する人々は決して少なくない。しかし残念ながら、これらの人々によって支持され、格差拡大に歯止めをかけるための政治的回路となりうる政党が、存在していない。だから格差拡大を否定する人々の声は、政治に反映されることがない。こうして格差拡大を止める政治勢力は形成されることがなく、格差拡大は続いていく。(以下次号)

・前例を使い分ける菅。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020102800648&g=pol

・各論政治の危うさ。菅と竹中。
https://mainichi.jp/sunday/articles/20201102/org/00m/010/001000d

・ガリレオ裁判か。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/65395


1807.階級社会B。20/11/5

階級社会の第3回です。

…「格差社会」が流行語になったということは、人々が社会のなかの格差の構造に関心をもつようになったことを示している。社会学では、こうした格差の構造のことを、階級構造と呼ぶ。つまり人々は、専門用語は使わなくとも、階級構造に関心をもちはじめたのである。

階級論が描き出す社会の姿は、いくつかの層が上下に積み重なった図形のょぅなものである。たとえば、頂点に一握りの特権階級、その下に少数のエリー卜たち、さらに下には人口の大多数を占める下層階級から成り立つピラミッド型の社会。上層階級も下層階級も少数者で、中間階級が肥大した樽形の社会など。階級論は社会全体の「かたち」をビジュアルに描くことを目指してきた。

…当時の小泉政権や財界寄りのマスコミなどが、「格差は拡大していない」「格差拡大は見せかけだ」と言い張ったことは、記憶に新しい。この社会にはどのような階級があり、それらの間にはどの程度の格差があり、利害対立があるか。これは政治的な対立の争点のひとつである。いや、政治というもののもっとも基本的な機能が、人々から租税を徴収して、これを目的に応じて配分することにあることを考えれば、もっとも基本的な争点だといっても過言ではない。

それでは現実の社会には、どのような階級があるのか。かなり昔から使われていて、理論的にも有力なのは、資本家階級、新中間階級 労働者階級、旧中間階級を区別する四階級分類である。この階級分類は、カール・マルクスの階級理論を出発点として、何人かの理論家たちがつくりあげたものである。

その基礎となるのは、次のような現代社会の経済構造である。

厳密な意味での社会主義経済というものが消滅した今日、社会の基盤となっている主要な経済構造は、資本主義である。資本主義の経済の最大の特徴は、生産手段、つまり生産に必要な道具や機械、原料、建物などの物財が、一部の人々によって集中的に所有されているところにある。前近代社会では、人口の多数を占める自営業者や農民がそれぞれに生産手段を所有し、自分で家業を営んでいた。ところが資本主義では、一部の人々が生産手段の大部分を独占的に所有し、他の大多数の人々は生産手段を所有していない。

ここで生産手段を所有している人々を資本家、所有していない人々を労働者と呼び、それぞれをまとめて資本家階級、労働者階級と呼ぶ。生産手段を所有しない労働者は、そのままでは働くことができないから、生活していくことができない。これに対して資本家階級は、当面生活するには困らないが、大量の生産手段を活用するためには人手を必要とする。そこで両者の間には、必然的に交換関係が成立する。労働者階級は、生産活動に必要な肉体的、精神的な能力、つまり労働力を、資本家階級に提供する。もちろん大企業の場合、経営者が生産手段の文字通りの所有者であることは少ない。いわゆる「雇われ経営者」たちは、いくらかの株式はもっていても、株主全体から見れば小さな個人株主に過ぎないことが多い。しかし経営者は、生産手段の運用の基本方針を決定する権限をもっており、法律上の所有権はないものの、所有権をもつ経営者と同様に雇用主として、労働者の労働力を購入する立場にある。そして中小零細企業の場合は、現在でも多くが文字通りの所有者である。

経済が正常な状態にあって、一定の労働条件が守られている場合、労働者は普通に生活できるだけの賃金を、つまり自分のもつ商品である労働力を過不足なく回復、再生産できるだけの賃金を受け取る。具体的にいうと、労働者が一日の疲れを癒やし、体力と精神力を回復し、翌日も同じように働けるようになるために必要な、食料その他の生活物資が買えるだけの賃金を受け取る。このとき、賃金が労働力の価値どおりに支払われていると考えることができるから、労働力の売買は等価交換である。

しかし現実には、労働力は支払われる賃金を超えて、より多くの価値を生み出している。したがって剰余価値が資本家階級の手元に残るとき、労働者は剰余価直を搾取されているということができる。このような搾取が可能になるのは、資本家階級が生産手段を独占しているからである。これが、資本家階級と労働者階級の間に経済的な格差が生じる基本的なメカニズムである。

資本家階級と労働者階級は、資本主義社会の基本的な二つの階級である。しかし現実の資本主義社会には、これ以外に二種類の中間階級が存在する。旧中間層、新中間層とされているのが、これらの中間階級である。

資本主義社会になっても、資本主義以前から存在する自営業者や自営農民が消滅するわけではない。これらの人々は、自分で少量の生産手段をもち、中問的な性質の階級であり、しかも資本主義以前から存在する古い階級だから、旧中間階級と呼ぶ。

一方、資本主義が発達して企業規模が拡大すると、もともと資本家階級が行っていた業務の一部、たとえば労働者を管理、監督したり、生産設備を管理したりするような業務が、労働者の一部に任されるようになる。これらの人々は、労働力を販売して賃金を受け取る点では労働者階級と同じだが、労働者階級より上の地位にあって労働者を管理、監督する立場にあること、業務内容が高度であることなどから、資本家階級と労働者階級の中間に位置するということができる。したがって、これらの人々も中間階級であり、しかも資本主義の発展にともなって新たに登場した人々だから、新中間階級と呼ぶことができる。

さて、以上のような四つの階級の関係は、どのように図式化できるだろう。上下に積み重なった階級構造の上から順番に、資本家階級、旧中間揩級、新中間階級、労働者階級ということになる。しかし旧中間階級は、資本家階級に雇われているわけではないし、労働者階級や新中間階級の上に立っているのでもないから、別にしたほうが理にかなっている。階級構造は、大きく二つの部分に分けられる。左側が資本主義的な企業の領域、右側が自営業の領域である。

左側には、上から順番に資本家階級、新中間階級、労働者階級と三つの階級が明確な上下の関係をもって積み重なっている。資本家階級は企業の経営者や役員からなる。新中間階級は被雇用者のうちの、専門職と管理職、そして管理職に連なるキャリアをもつ上級事務職からなる。その他の被雇用者が、労働者階級である。これに対して右側には、旧中間階級だけが存在する。ここに含まれるのは、商エサービス業や農業の自営業主と家族従業者である。これが、現代の社会の「かたち」である。

この階級構造では、資本家階級は直接に新中間階級と労働者階級の上に立ち、両者を雇用し支配している。だから資本家階級は、資本主義社会の支配的な階級だということができる。
ただし労働者階級については、下から三分の一ほどのところに点線を引き、非正規労働者を下側に位置づけておいた。これは近年、労働者階級が正規労働者の部分と非正規労働者の部分に分裂し、両者の格差が大きくなっていると考えられることによる。

以上のことを考慮して、四つの階級を次のように分類することにしよう。経営者、役員と営業主・家族従業者については、五人以上なら資本家階級、四人以下なら旧中間階級と区別する。五人を境界線とするのは、企業を対象とする多くの統計調査が調査対象を企業規模五人以上としているなど、一般に「企業」というものの通念が五人以上の事業体を指していること、またデータからも、これを境に経営者や自営業者の収入や生活実態が大きく変化することが確かめられることによる。旧中間階級は労働者階級との差がごくわずかになってしまった。これを旧中間階級全体の減少傾向とあわせて考えれば、旧中間階級は衰退に向かっていると考えざるを得ない。

貧困率の動向は、さらにはっきりしている。これを典型的に示すのは旧中間階級の貧困率で、2015年には19%に達している。中小零細企業主を中心とする資本家階級も、貧困率の水準は全体に低いとはいえ、トレンド自体は旧中間階級と同じで、85年以後は上昇に転じている。これに対して新中間階級は、貧困率自体がきわめて低く、とくに低下、上昇といったトレンドが認められない。

問題は、労働者階級である。貧困率が85年から上昇に転じるところは旧中間階級と同じといっていいが、2015年には低下するのである。個人年収と世帯年収のいずれをみても、正規労働者の収入は増加している。この変化は注目に値する。全体的な収入減が続くなか、正規労働者に限っては収入が増加しているのである。

それでは非正規労働者はどうか。固人年灰だけはわずかに増えているが、他は大きく低下している。男性非正規労働者の個人年収が24万円減少していることも重要だが、なんといっても目を引くのは、世帯年収が男性で77万円、女性で53万円も減っていることだ。

貧困率にも変化がある。正規労働者の貧困率は、男女とも低下している。2015年の貧困率は男性でわずか6%、女性も7%だから、貧困とはほとんど無縁になったといってもいい。これに対して非正規労働者の貧困率は、男性で29%、女性で49%ときわめて高い。世帯年収の大きな減少のわりに、貧困率があまり上昇せず、男性ではむしろ低下しているのは、一人暮らしが増えたからだろぅ。

正規労働者と非正規労働者の間には、これほどまでに大きな格差がある。しかも非正規労働者、とくに一人暮らしの非正規労働者の回答率は低い。回答してくれたのは、非正規労働者のなかでも比較的生活の安定した人々である可能性は高い。したがって非正規労働者の困難な状況は、これでも過小評価されているものと思われる。

激増している非正規労働者は、雇用が不安定で、賃金も正規労働者には遠く及ばない。しかも結婚して家族を形成することが難しいなど、従来ある労働者階級とも異質な、ひとつの下層階級を構成しはじめているようである。労働者階級が資本主義社会の最下層の階級だったとするならば、非正規労働者は「階級以下」の存在、つまり「アンダークラス」と呼ぶのがふさわしいだろう。

アンダークラスは、もともと英米圏での研究から生まれた用語で、主に大都市部で生活する少数民族の貧困層を指すことが多かった。しかし先進国の多くで経済格差が?大するなか、今日ではより一般的な存在となった。またガルブレイスは、今日の先進社会では「機能上不可欠なアンダークラス」が形成され、誰からも嫌がられる辛い仕事を低賃金で引き受け、都市の快適な生活を支えていると指摘している。(以下次号)


1808.階級社会C。20/11/6

階級社会の第4回です。
…この章では、現代日本に存在する五つの階級、つまり資本家階級、新中間階級、正規労働者、アンダークラス、そして旧中間階級が、それぞれどのような人々であり、どのような生活をしているのかを明らかにし、現代日本の「社会のかたち」を描いていくことにする。結論を先取りするなら、そこに表れるのは、アンダークラスという新しい下層階級を犠牲にして、他の階級が、それぞれに格差と差異を保ちながらも、程度の差はあれそれぞれに安定した生活を確保するという、新しい階級社会の現実である。

?資本家階級

人口の4%を占める。週平均労働時間は45時間でもっとも長い。平均個人年収は、604万円である。これは資本家階級というものの一般的なイメージからすると、意外に低い。これには二つの理由がある。ひとつはもちろん、小零細企業の経営者が大部分を占めることで、従業員規模を30人以上に限れば、個人年収は861万円とかなり高くなる。もうひとつの理由は、低収入の女性がかなり含まれていることである。資本家階級女性の平均年収は296万円にすぎず、その大部分は夫も同じく資本家階級である。

つまり家族経営の中小零細企業で、夫が中心になって経営を行い、妻のほうは役員とはいいながら少ない報酬で働いている、というケースが多いのである。従業員規模30人以上に限れば、平均世帯年収は1244万円と、かなり高くなる。貧困率は4%と低い。平均資産総額は4863万円と、かなり多い。とくに金融資産の額は2312万円となる。

0.6%だけ官公庁勤務の資本家階級がいるが、これは国立機関の役員と地方議会議員である。階級に関する従来の多くの研究でも、これら管理的公務員は資本家階級に含まれるものとされてきた。

総資産が一億円以上あるという人も16%おり、資産ゼロの世帯は皆無に近い。株券.債券の所有率は41%で、他の階級の平均17%を大きく上回る。また多くの家財等を所有しており、とくに普及率の低いものや高額のものの所有率が高い。高等教育を受けた人の比率は42%で、新中間階級の次に高い。

当然ながら、仕事や生活に対する満足度は高い。仕事の内容に満足している人の比率は48%、生活に満足している人の比率は45%で、いずれも最高である(「どちらかといえば満足」は含まない)。自分を「人並みより上」と考える人の比率と、自分は幸せだと考える人の比率も最高で、とくに前者では他の階級との差が大きい。47%が自民党を支持しており、支持政党なしの比率は35%ときわだって低い。

以上のように資本家階級は、収入・資産とも多く、経済的に恵まれ、満ち足りた生活を送り、政治的には保守的な階級ということができる。

?新中間階級

週平均労働時間は43時間で、一般的なイメージほどには長くない。平均個人年収は499万円で、正規労働者を29万円上回っているが、これは年齢や勤続年数による収入の伸びが大きいことによる部分が大きい。

新中間階級と正規労働者は、20歳代ではほとんど差がないが、年齢とともに差が開いていく。ただし、これは主に男性にいえることである。平均世帯年収は798万円で、男女差が小さく、貧困率はわずか3%で、貧困のリスクは男女とも少ない。

家計資産の平均額は2353万円だが、その約六割は持ち家などの不動産で、持ち家のない人々では、平均額が935万円にとどまっている。資本家階級に次いで多くの家財等を所有している。またパソコン、ネット回線など情報関連の機器.設備の所有率は、資本家階級をも上回って最高である。有配偶率は男性で約8割、女性で約7割で、未婚者は2割前後となっている。学歴はきわだって高く、高等教育を受けた人の比率が61%に達している。これは新中間階級になるためには、高い学歴が必要であることを物語っている。

仕事や生活に対する満足度は、資本家階級に次いで高い。政治的には必ずしも保守的ではなく、自民党支持率は28%と低い。民主党(6%)と共産党(3%)の支持率が他に比べてやや高く、29%は労働組合にも加入している。

このよぅに新中間階級は、教育水準が高く、情報機器を使いこなし、収入もかなり多く、豊かな生活をする人々である。その意味では、資本家階級以外の他の階級に比べれば明らかに恵まれており、いまある格差の構造のなかで既得権をもつ階級だが、必ずしも政治的に保守的というわけではない点は注目していい。

?正規労働者

正規労働者は2192万人で、就業人口の35%を占める、最大規模の階級である企業規模は、小零細企業から大企業までまんべんなく分布している。週平均労働時間は45時間だ。時間外労働をする男性は新中間階級より正規労働者で多いといえる。

平均個人年収は370万円だが、男女差が大きい。しかし平均世帯年収は、男性が596万円であるのに対して、女性は687万円と多い。これは女性正規労働者の多くが共働きであることによるもの。また資産の大部分が持ち家などの不動産である。自分を「人並みより上」と考える人は27%、自分は幸せだと考える人は53%と少なめで、いずれも新中間階級とは大きな差がある。自民党支持率は24%で、アンダークラスに次いで低いが、野党の支持率は全般に低く、支持政党なしが多い。労働組合加入率は39%と高い。このょぅに多数を占める正規労働者は、資本主義社会における下層階級であるはずだが、「人並みより上」とはいかないものの、それなりの所得水準と生活水準を確保して、おおむね生活に満足している階級といっていいだろぅ。

(4)アンダ?クラス

アンダークラス(パート主婦を除く非正規労働者)は929万人で、旧中間階級を上回り、就業人口の15%を占めて、いまや資本主義社会の主要な要素のひとつになったといっていい。その数は五つのなかで唯一、激増を続けている階級である。女性比率は43%で、女性比率がもっとも高い階級でもある。販売店員と非正規の事務職に加えて、ビジネスや人々の生活を下支えする、さまざまなサービス職とマニュアル職が含まれている。平均個人年収は、186万円と極端に低い。家財等の所有率もおしなベて低いが、それでも風呂、冷蔵庫、電話など必需品の所有率は97%を超えている。何よりもきわだった特徴は、男性で有配偶者が少なく、女性で離死別者が多いことである。男性の有配偶者はわずか26%で、未婚者66%に上っている。アンダークラスの男性が結婚して家族を形成することが、いかに困難であるかがよくわかる。

(5)旧中間階級。

「一国一城の主」という、その性質のためか、仕事に満足している人の比率は41%で資本家階級に次いで高いが、生活への満足度は高くはなく、正規労働者をわずかに下回る。旧中間階級の収入水準は近年になって低下し、アンダークラスを含む労働者階級と同水準となり、正規労働者を下回るようになっている。これにともなって伝統的な「中間階級」であるはずの旧中間階級は、下層的性格を強めるようになっているといってよい。

自民党支持率は36%と高く、政治的には保守的である。これはこの階級が、資本家階級と共に伝統的に自民党の支持基盤であり続けてきたことと関係がある。

このように旧中間階級は、伝統的な「中間階級」である一方、規模の上で縮小傾向を続けるなかで衰退に向かい、その政治的性格を変えつつあるように思われる。

もともと人間の労働は、労働それ自体、すなわち「実行」と、実行に先立ち、これを導く「構想」とから成り立っている。本能にしたがって行動する動物の場合には、構想と実行の区別はなく、両者は渾然一体となっている。人間の場合は、構想と実行は分離可能である。いぜんとして構想は、実行に先立ち、実行を規制しなくてはならないが、しかし、ある者が構想した観念を他の者が実行に移すということは可能である。こうして、一部の人たちだけが計画や決定、設計など構想に関わる労働を行い、さらにこの構想にもとづいて、他の多くの労働者を指揮・監督し、実行に関わる労働に従事させるという構造が成立するのである。

それぞれの階級は、構想と実行という二種類の労働に対して、異なる位置にある。自分で生産手段を所有し、これを自分の労働によって活用する旧中間階級は、構想と実行の両方を担っている。これに対して資本家階級は、企業規模によって違いはあるとしても、ほぼ構想に関わる労働のみ、とくに事業のこまごました部分に関する構想ではなく、経営全体を見渡すような高レベルの構想に関わる労働を担っている。そして新中間階級は資本家階級の指揮の下、中間的なレベルの構想に関わる労働を担い、労働者階級は新中間階級の指揮の下、実行に関わる労働を担う。これはやりがいを感じることができるか、労働を通じて自己実現が可能かといったことに関わる。一般的にいえば、構想に関わる労働は、自らの意思を実現することのできるやりがいのある労働である。これに対して実行のみに関わる労働は、人の手足となって行う労働であり、労働それ自体に意味を感じることが難しい。マルクスはこのような労働を「疎外された労働」と呼んだ。

…構想に関わる労働に関与できる度合いが、新中間階級でもっとも高く、アンダークラスでもっとも低い。これにともなって、能力が発揮できるチャンスも、また自分の経験を生かすチャンスも、新中間階級で多く、アンダークラスでは少ない。

被雇用者が被雇用者のままでありながら、いま以上に構想に関わる仕事をするようになり、したがって能力を発揮し、経験を生かすことができるようになる道は、昇進である。しかし昇進の可能性は、新中間階級では多く、アンダークラスにはほとんどない。(次号は最終回です)

関連記事。台頭する新全体主義。
https://www.asahi.com/articles/ASNBY6D12NB6PLBJ00Z.html?iref=comtop_7_06


1809.階級社会D。20/11/7

階級社会の最終回です。なので、かなり長くなっていることをお詫びします。

…格差は、政治的な争点でもある。格差が拡大していると主張すると、そんなことはないと反論する人々がいる。貧困層が増えているから、低所得者の収入を増やすことが必要だと主張すると、収入が低いのは自己責任だから放っておけと反論する人々がいる。人々の格差に対する認識、そして現状に対する評価はさまざまであり、こうした違いは他の政治的な立場とも関係している。データを分析した結果からは、多くの人々は、対立する二つの立場に分かれている。一方には、格差拡大の事実を認め、格差を縮小することが必要だと考え、同時に軍備の拡大に反対し、民族的な排外主義に反対する人々がいる。他方には、格差拡大の事実を素直には認めず、格差縮小のための政策に反対し、同時に軍備の拡大を支持し、民族的な排外主義に寛容な人々がいる。伝統的な左派と右派の立場である。しかし少数派ながら、格差の縮小と軍備の拡大、排外主義を同時に支持する人々もいる。格差をめぐる政治的対立の構図は、単純ではない。

…樋口は、排外主義運動の活動家たちへのインタビュー調査の結果から、排外主羲運動の活動家たちには大卒者が多く、その大部分は正規雇用のホワイトカラーであることを明らかにして、こうした言説を否定している。同様に古谷経衡は、ネット上で自分と交流のある人々を対象とする独自の調査から、「ネット右翼」の多くは30歳代または40歳代で、ホワイトカラーと自営業者が多く、大卒者が六割を超え、収入も比較的高いことを明らかにしている。排外主義運動の活動家や、ネット上でアクティブに活動する「ネット右翼」が下層の若者だという言説が、事実に反するのは間違いないと思われる。

…30歳代以下の若者で、自民党支持率が顕著に上昇したというわけではないのだが、支持率が低下しなくなったのは確かで、これに対して50歳代以上の支持率は低下したから、相対的にみれば若者は「自民色」を強めたことになる。このように限定的な意味でならば、若者の保守化は事実とみてもいいだろう。

…特権階級は、自分たちが恵まれた立場にあることを隠すため、いまの社会では格差が小さいと主張するだろう。逆に下層階級の人々は、格差が大きいと主張するだろう。このように格差が大きいか小さいかは、それ自体が階級間の政治的な対立の争点なのである。なぜならそれは、格差と貧困を自己責任に帰し、特権階級の特権を当然のものと正当化し、また格差と貧困を拡大させてきた政府や企業などの責任を免罪するものであり、したがって特権階級の人々の、あるいは政府や企業を擁護する人々の政治的立場の表明にほかならないからである。

…新中間階級は、他の階級とは違って冷静に、格差が拡大して貧困層が増えているという客観的な事実は認めるが、こうした格差を「大きすぎる」とする価値判断に対しては距離を置き、「格差が拡大している事実は認めるが、現状の格差が大きすぎるとはいえない」と考えるらしい。

…支持政党なしの人々は、自民党以外の政党の支持者と同様に格差が拡大しているという認識をもち、また自己責任論には否定的だが、所得再分配を強く支持するまでには至らない人々といってよさそうだ。

格差が拡大し、貧困層が増えているという現実を、いちばん肌で感じ、問題だと考えているのはアンダークラスであり、次いでパート主婦である。資本家階級は貧困層が増えているという現実を認めない傾向があり、また現在の格差が大きすぎるとも考えない。日本の現実について客観的な知識をもつ新中間階級は、貧困層が増えているという事実は認めるが、格差が大きすぎるとは考えず、これを容認してしまう。正規労働者と旧中間階級は中間的である。

これに対して自己責任論についてはどうか。自己責任論をもっとも強く支持するのは資本家階級であり、次いで旧中間階級である。これは実際に、ビジネスに対する裁量権をもち、現実に経済的な成功が自己責任の範囲に属することが多いという、この二つの階級の特質に根ざすものだろう。新中間階級と正規労働者はある程度まで、自己責任論を受け入れている。

…格差拡大を容認し、自己責任論を強く支持し、所得再分配をかたくなに拒否するのは、自民党支持者の特徴である。他の政党の支持者は、共産党支持者が熱烈に、公明党支持者は微温的にという違いはあるものの、ほぼ同様に格差拡大の事実を認め、これに批判的で、所得再分配を支持している。ここでは、同じ与党である自民党と公明党の支持者の間の異質性がきわだっている。これに対して多数派である無党派は、格差拡大の事実を認め、これに批判的で、また自己責任論を否定するところまでは自民党以外の支持者に近いが、所得再分配を支持するまでには至らない。まさに格差に対する意識の上でも中間的ということができる。

…自民党支持者は、排外主義的な傾向が強い。さらに軍備重視の傾向については、他の政党の支持者と無党派を大きく引き離して強くなっている。自民党支持者以外では、公明党支持者は排外主義の傾向がとくに弱く、また民進党支持者は軍備重視の傾向がとくに弱いとみていいだろう。とはいえ民進党支持者、公明党支持者、共産党支持者、そして無党派の間の差はさほど大きくなく、これらに対する自民党支持者の異質性がきわだっている。あたかも自民党支持者は、排外主義と軍備重視に凝り固まったカルト集団であるようにも思えてくる。

…格差是正の要求と排外主義が、アンダークラスにおいてだけ、強く結びついている。貧しい人々が所得再分配による格差の是正を求める一方で、外国人の流入を警戒し、戦争責任を問う中国人や韓国人の主張に反発する。アンダークラスには、このような立場をとる人が多いらしい。追い詰められたアンダークラスの内部にファシズムの基盤が芽生え始めているのかもしれない。

2017年10月の衆議院選挙では、小池百合子東京都知事が率いる「希望の党」が注目を集めたが、その政策には、上の集計結果からみて興味深い点があった。「希望の党」は、公認候補となることを希望する候補者に、集団的_衛権の行使を可能にした安保法制の受け入れや、外国人への参政権付与に反対することを盛り込んだ政策協定書へのサインを要求した。そして選挙では、九条を含む憲法改正の検討を公約とした。まさに排外主義、軍備重視である。

ところが公約には同時に、正社員化の促進やベーシック.インカムの導入など、格差の縮小と所得再分配のための政策も盛り込まれていた。つまり、排外主義?軍備重視と所得再分配が結びつけられていたのである。

階級と格差、そして政治の関係については、これまで日本の伝統的な左翼勢力の間で信じられてきた有力な仮説があった。「社会主義革命仮説」ともいうべきこの仮説は、次のようなものである。

資本主義社会を構成する二大階級は、資本家階級と労働者階級である。資本家階級は労働者階級を搾取する。こうして両者の間には大きな格差が形成され、しかもこの格差は拡大してゆく。労働者階級は直接的行動を通じて、或いは議会的手段を通じて政権を掌握し、資本主義を廃絶、もしくは大幅に修正するだろうというものだった。

しかしこれはあまりに楽観的な見通しだ。まず格差と貧困を正当化する自己責任論を多くの人が受け入れている。また格差が大きすぎるという一般論には同意しても、「政府は豊かな人からの税金を増やしてでも、恵まれない人への福祉を充実させるべきだ」「理由はともかく生活に困っている人がいたら、国が面倒を見るべきだ」といった具体的な所得再配分政策を支持する人は、必ずしも多くない。支持する人が多数派だと言っていいのは、最も所得の低いアンダークラスだけであり、新中間階級と、正規労働者は、むしろ貧困層に対して冷淡であり、アンダークラスに対して敵対的であるように思われる。

…非正規雇用のアンダークラスは次のような現状にある。収入はきわめて低く、貧困率は39%、女性に限れば49%にも達している。彼ら、彼女らは、安定した家族が形成?維持できない状態にある。男性の有配偶率はわずか26%で、66%が結婚の経験をもたない。女性では離死別者が多く、これら離死別者の貧困率はさらにきわだって高い。仕事や生活への満足度はおしなべて低く、どの指標からみても、五つの階級のなかで最低である。

職場では主に単純労働に従事しており、昇進の見通しはなく、退職金を受け取ることも、福利厚生の恩恵を受けることもない。健康状態もよくない。とくに精神的な健康状態に問題があり、うつ病その他の心の病気をかかえる人が多く、そうでなくても抑うつ傾向を示す人が多い。ソーシャル.キャピタルにも恵まれないから、生活上の問題解決の道も限られる。アンダークラスが増大する一方で、正規労働者の生活はかなり安定しており、満足度も低くない。正規労働者とアンダークラスの格差は拡大傾向にあり、むしろ資本家、新中間層および正規労働者の三階級とアンダークラスの間の格差が目立つようになった。

旧中間階級は、依然として貧困層が多い。正規労働者のなかにも貧困層はいる。これらの人々は、アンダークラスとさほど変わらない窮状のもとにあると考えていいだろう。アンダークラスを中心に、これほどの貧困層がいるということは、生存権を保障されない、そればかりか結婚して家族を形成する機会すら、主に経済的な理由から得ることのできない人々が、人口の無視できない部分を占めていることである。これは、倫理的にも看過できることではない。しかもアンダークラスは、急速に増え続けているのである。

問題はそれにとどまらない。アンダークラスと貧困層の増大は、社会全体にさまざまな問題を引き起こすからである。世界各国で行われている研究によれば、一定以上の所得水準を実現した先進諸国を比較した場合、格差が大きい社会ほど、格差が小さい社会に比べて平均寿命が短くなる頃向がある。その理由の一部は、格差が大きいと貧困層が増加すること、そして貧困層は健康を害しやすく、また十分な医療を受けられないことである。しかし、それだけではない。格差が大きいと、貧困層以外の人々の寿命も引き下げられるのである。

たとえ豊かな社会でも、経済格差が大きいと、多くの人々は公共心や連帯感を失ってしまう。人々の間には友情が形成されにくくなり、コミュニテイへの参加も減少する。このため犯罪が増加し、また精神的ストレスが高まることから健康状態が悪化し、平均寿命は引き下げられる。つまり人々の健康状態は、平等な社会ほどよく、不平等な社会では悪いのである。格差が拡大し、貧困層が増大しても、あいかわらず豊かな生活を送っている人々は多い。しかし、そんな人々にとっても、格差や貧困は決して人ごとではない。格差が大きく、貧困層の多い社会は病んだ社会であり、病んだ社会では犯罪が増加し、豊かな人々も社会支出が増加する。

…若者の非正規労働者が激増しはじめたのは、いわゆる「就職氷河期」と呼ばれた時代である。この時期に社会に出た若者たちの一部が、そのまま非正規労働者にとどまり、今日のように巨大なアンダークラスが形成されたのだった。

格差が拡大すると、格差が固定化する可能性が高い。豊かな親のもとで生まれ育った子どもは、大学を卒業してからも豊かになり、貧しい親のもとで生まれ育った子どもは、進学の機会を得ることができず、自らも貧しくなりやすい。親の間の格差が広がれば、こうした傾向が強まる可能性がある。

男性の場合、資本家階級の地位が世代から世代へと継承される傾向が強まり、また労働者階級出身者は以前よりも労働者階級になりやすくなっていることが明らかになった。ただし新中間階級については他の階級の出身者が参入しやすくなっていること、女性については固定化傾向が認められないことなどからみて、今のところ格差の固定化が一貫して続いているというわけではなさそうだ。

格差が固定化すると、どのような問題が生じるか。…OECDは、このことが経済成長に及ぼした影響に関する試算を示している。20世紀末から21世紀初めにかけて、先進国の多くでは格差が拡大した。これによって低所得層は子どもに教育を受けさせたり、自分の能力を高めたりすることができなくなり、人的資本の不足が生じ、生産性が低下したと考えられる。その影響は、かなり大きかった。日本を例にとると、1990年から2010年のGDP成長率は17.5%だったが、実はこの成長率は格差拡大によって5.6%引き下げられており、格差拡大がなければ成長率は23.1%に達していたはずだという。

自己責任論は、格差社会の克服を妨げる強力なイデオロギーである。しかし自己責任という言葉が広く使われるようになったのは、最近のことである。

この言葉がマスコミ等で最初に使われるようになったきっかけは、1990年代後半のいわゆる「金融ビッグバン」である。その文脈は、金融機関に対する相次ぐ規制緩和によって、リスクの高い多種多様な金融商品が出回るようになったが、損失を出す可能性があるから、これらを買って資産運用するのは「自己責任」で、というものだった。このような自己責任論なら、理解はできる。運用するだけの資産があって、その運用のしかたを自ら決定したならば、その結果を引き受けるのは当然だろう。

ところが近年では、「自己責任」の範囲が際限もなく拡大される傾向にある。失業するのも、低賃金の非正規労働者になるのも、貧困に陥るのも、すべて自己責任と片付ける論調が少なくない。また先にみたように自己責任論はかなりの浸透力をもっており、貧困に陥った人々自身が自己責任論に縛られ、声を発しにくい状況に陥っていることも少なくない。

正規雇用が縮小している現状では、多くの人々は正規雇用を望みながら果たせず、生活の必要からやむを得ず非正規労働者として働いている。これは自由な選択ではなく、社会的な強制である。非正規雇用となったのが自らの選択でない以上、ここでは自己責任論は成立しない。

貧困に陥る原因で、自己責任に帰することのできないものは、他にもいろいろある。離別?死別によって多くの女性がアンダークラスとなり、貧困層またはその一歩手前の状態にある。そして新たに職を探し始めた女性が、非正規雇用の職しか得られない。

そして、こうした自己責任論は、貧困を生みやすい社会のしくみと、このような社会のしくみを作り出し、また放置してきた人々を免罪しようとするものである。貧困を自己責任に帰すことによって、非正規雇用を拡大させ、低賃金の労動者を増加させてきた。

本書では格差縮小の手段として、社会主義革命によって階級そのものをなくしてしまうというような方法は検討しない。その理由は、階級をなくすことは不可能だし、またなくすことが望ましいともいえないからである。

近代産業では、各人が専門分化して、さまざまな職種を担うことは当然であり、人々が分業して別々の職業に就くことは避けられない。また多くの人々にとって、自分の仕事場や店をもったり、さらには会社を経営することは人生の重要な目標であり、夢である。こうした人々がやりがいを感じながら働くことそれ自体は、社会にとってプラスになる。だから階級をなくすことは好ましくない。

しかし問題は、階級間に大きな格差があること、そして階級間に障壁があって、階級所属が出身階級によって決まってしまう傾向があることである。もし諸施策が実現し、これによって階級間の格差が小さなものになり、また自分の所属階級を自由に選ぶ可能性が広がれば、階級というものの意味は、いまよりずっと小さいものになるだろう。このような社会は「無階級社会」とはいえないが、階級格差が大きく、階級が社会構造の中心に位置している「階級社会」に対して、「非階級社会」と呼ぶことができるだろう。これを、目指すべき社会の姿と考えることにしたい。

自己責任論は手強い相手だが、克服することは不可能ではない。格差拡大は豊かな人々をも含めて社会全体に弊害をもたらすのだから、これを放置することによって生じた弊害に対しては、放置した人々が責任をとらなければならない。これは、自己責任論の最大の矛盾だろう。

コメント:紙面の関係でかなり内容を端折っておりますので、関心のある方は、原典をお読み頂くことをお勧めします。なお今更のように自己責任論を持ち出してきた菅首相と竹中平蔵は、時代にも、民主主義にも、人権思想にも、逆行していると言わざるを得ません。

・児童手当の特例給付、廃止検討。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6375714
コメント:これも逆行。階級社会の第4回です。


1810.杉田の更迭を。20/11/8

学者が政策に反対したから任命を拒否したのに、そうは言いたくない。
だから説明がしどろもどろになる。
嘘で始まる政権に未来があるとは思えない 。
憲法と民意に背く杉田副長官は、公僕としての官僚の資質に欠ける。
それとも、警察官僚なら戦前の特高のように振舞ってもよいと
誰か(安倍・菅)が決めたのか。
そうでなければ、菅の論理では、重大な政策違反であり、
菅の手で更迭されなければならない。
逆にそれが菅の政策に沿っているというのなら、
首相による憲法と議会政治の否定なので、
菅自身が国民の手で更迭されなければならない。

警察官の不祥事が後を絶たないというのに、
警察官僚が内閣で人事権を握り、政治を仕切ろうとする。
政策を批判する次官を警官に尾行させ、メディアにリークする。
婦女暴行の確信犯を、首相の友人だから告訴を辞めさせる。
学者の任命拒否もその延長線上の暴挙である
これ程怖いことはないが、もっと怖いのは、
8年間、どのメディアも杉田の名前さえ報道して来なかったことだ。

メディアでさえ、警察の意のままになるということは
日本には民主主義はおろか、正義さえ存在し得ないことを意味している。
菅政権だけでなく、無責任な側近が国と国民に迷惑をかけ続ける
自民党政治を変えない限り、日本はとんでもない国になるだろう。
近隣諸国と武力紛争さえ起こしかねない。
菅と安倍は、杉田や官邸に巣くう害虫達と共に
一日も早く、日本の政治シーンから消え去って頂きたい。


関連記事。未だに三島由紀夫をうろつく日本政治。
https://mainichi.jp/articles/20201107/ddm/005/070/006000c
・伊吹が暴言。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020110601077&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
・推薦前に政府介入。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020110601203&g=pol
・下村、1月解散に言及。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020110700401&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
・杉田が任命拒否方針。首相が答弁。
https://www.asahi.com/articles/ASNC42FT9NC2UTFK02H.html?iref=comtop_7_04
・菅、官僚の異論2回までは聞く。3回目は更迭
https://www.tokyo-np.co.jp/article/66329
・各論政治の危うさ。菅と竹中。
https://mainichi.jp/sunday/articles/20201102/org/00m/010/001000d
・国は国民を裏切る。吠える田原。
https://news.yahoo.co.jp/feature/1835
関連記事。台頭する新全体主義。
https://www.asahi.com/articles/ASNBY6D12NB6PLBJ00Z.html?iref=comtop_7_06