「WTWオピニオン」
【第122巻の内容】
「竹中にミスリードさせるな」
「サピエンス全史A」
「サピエンス全史B」
「サピエンス全史C」
「サピエンス全史D」
「コロナから身を守る原則」
「四文字熟語が出たら要注意」
「女帝の私闘」
「北九州市を見習え」
「背任知事の言葉遊び」
1821.竹中にミスリードさせるな。20/11/20
今日の前書きは、昨日と同様週刊誌の記事からですが、小泉政権で日本経済をデフレにし、非正規雇用を増やし、自分だけはちゃっかり大企業の会長に収まって、その後の安倍政権でも影響力を行使して経済を混乱させ、今また菅政権では自分の会社が請け負っているマイナンバーをごり押ししている竹中と、安倍晋三のきな臭い動きに関する情報です。政治で本当の悪というのは、細かい選挙違反などではなく、政策をミスリードすることです。なぜならその悪影響には計り知れないものがあるからです。もうこれ以上、竹中などという出来の悪い人間に、日本の経済をミスリードさせるようなことなど、絶対にあってはならないのです。
週刊朝日11.29号「スガノミクス崩壊、まさかの安倍三度目」西岡千史/浅井秀樹/今西憲之から、その一部
永田町ではいま、一人の人物の動向が注目されている。
今年9月、持病の悪化を理由に7年8力月に及ぶ政権運営に終止符を打った前首相の安倍晋三氏。11月11日、久しぶりに表舞台に現れた。自民党の「ポストコロナの経済政策を考える議員連盟」の初会合で、その会長に就任した。
会合に出席した細田派の議員はこぅ話す。
「安倍さん、めちゃくちゃ元気だった。菅さんの政策を『目先の改革』だと反発する派閥内では、安倍さんの3度目の待望論が出ている」
10月25日には安倍氏が代表を務める保守系の議員連盟「創生日本」の会合が東京都内のホテルであり、加藤官房長官、下村政調会長、萩生田文部科学相、西村経済再生担当相、稲田元防衛相ら20人余りが集まった。
「この会は安倍さんが2012年に総裁選に立候補したとき、母体になった。安倍さんは終わった人と見られる派閥の長になる気はなく、議連など派閥横断的な活動をやる気。引退する気は微塵もない」(前出の議員)
菅政権は、世論調査によっては60%を超ぇる高い内閣支持率を得るが、菅氏の党内基盤は盤石とは言いがたい。同氏に近い党幹部は嘆く。
「結局、菅さんが興味あるのは政策よりも人事。日本学術会議問題の国会答弁で失敗するたび
に安倍待望論が高まるという悪循環だ」
そんな菅氏の経済政策を支えるブレーンたちの評判も悪い。
アベノミクスを引き継ぐとした菅氏だが、政権発足直後には組織を改編。
安倍政権下で成長戦略を担った「未来投資会議」を廃止し、「成長戦略会議」を新たに設置した。その司令塔に選んだのが、小泉純一郎政権で総務大臣だった竹中平蔵氏だ。菅氏にとっては総務副大臣として仕えたかつての上司。政府関係者は言う。
「竹中氏は未来投資会議のメンバーでもあったが、各省庁に宿題と言って自分が望む政策をゴリ押ししていた。その竹中氏の影響力は、菅政権でさらに増すことになる。内閣府では『竹中支配』が着々と進んでいます」
竹中氏についての著書があるノンフイクションライターの佐々木実氏は「内閣府の重要政策会議で影響力を持てば、どんな政策にも関与できます。竹中氏は、小泉政権では経済財政諮問会議を大臣として取り仕切り、経済政策の司令塔になれた。菅政権でもその経験を生かすつもりなのでしょぅ」と指摘。
「菅政権ではハンコ廃止や携帯電話料金の値下げなどが注目されていますが、その裏ではコロナ禍を機に一気に規制緩和を進め、『日本改造』をしようと考えています」
その竹中氏が最近、主張しているのがベーシックインカムの導入だ。ベーシックインカムとは、政府が国民に対して最低限の所得保障をする制度で、竹中氏は著書で1人あたり月7万円の給付をする案を出している。一方、年金や生活保護などの社会保障政策はすべて廃止。
「次の衆院選が終われば議論が始まるかもしれない」(前出の政府関係者)と警戒されている。
さらに、成長戦略会議の有識者メンバーに選ばれた元金融アナリストのデービッド・アトキンソン氏も批判の的だ。菅氏と官房長官時代から親交のあった同氏は、日本は中小企業の数が多いことが労働生産性が上がらない原因だと主張。そのため賃金も上がらないのだという。そこで、買収や再編によって中小企業の数を減らすことを提言している。また、著書では日本の経営者を無能呼ばわりしていて、菅首相のブレーンとしての適格性を問ぅ声も自民党内にある。
「日本銀行の岩田規久男前副総裁は、アトキンソン氏が訴える中小企業の労働生産性に関する持論について今のデフレの状況を計算に入れていないと批判した」(同党のある議員)
さらには、アベノミクスを主導したブレーンからも疑問の声が上がる。
安倍内閣で内閣官房参与を務めた本田悦朗氏が、同党の若手議員による「日本の未来を考える勉強会」に登壇。アトキンソン氏の主張を「マクロ経済を理解していない」と述べ、中小企業再編について「極めて危険」と批判した。
「新型コロナで日本経済が苦しいときに中小企業の再編をやれば、街中に失業者があふれ、消費がさらに冷え込む。菅首相が掲げているデフレ脱却はさらに遠のく」
とはいえ、こうしたブレーンが、スガノミクスを動かすことになる。
同党内からは「菅政権は小泉政権の再来だ」と警戒する声も出始めた。
「小泉政権の構造改革で非正規雇用が増え、日本の経済は衰退した。菅首相が官邸主導で規制改革や構造改革をやるようなら、どんな手を使ってでも止める」(中堅議員)
日経平均株価は2万5千円を超え、バブル崩壊以降で最高の水準となった。しかし、党内では火種がくすぶっている。安倍氏はそのことを見越して行動を始めたのだろう。
安倍氏側近は言った。「菅政権は経済政策でこける。そうなれば、安倍さんの首相3度目の登板が現実に近づく」(以下略)
(編者注:上記の動きに関して文中で記述のあった本田悦郎の見解が、囲み記事で紹介されていますので、それも一部を紹介します)
安倍晋三政権で2度の消費増税をしたことによって、デフレからは完全に脱却できていません。そこに新型コロナウィルスが世界を襲いました。この状況で中小企業の再編をすればどうなるか。まず失業者が増え、賃金が下落し、人々はさらに消費を控えます。モノは売れなくなり、結果的に中小企業の労働生産性はさらに下がる。日本経済は大打撃を受けます。菅義偉政権で心配なのは、アトキンソン氏のように、経済をミクロの視点から語るブレーンが多いことです。ミクロをいくら足し合わせてもマクロにはなりません。
不況になると、「従業員を解雇しやすい制度に変えてほしい」と訴える経営者もいます。ですが、マクロの視点から見て新型コロナで年換算数十兆円の需要が不足しているときにやってはいけない。正しい政策でも「いつやるか」を間違えると取り返しがつきません。
現在やるべきことは、金融緩和を続けた上で、財政出動をして需要不足を解消すること。とくに医療関係者や新型コロナの影響で給料が減った人などを、積極的に支援することが大切です。それが人の命を救い、結果的にデフレ脱却にもつながるのです。
週刊ポストの最新号でも菅・竹中を取り上げているので、そちらからも一部をご紹介します。
週刊ポスト11.27号「偶人宰相、菅義偉を操る面々」森功から
日本の分断と選別、そして淘汰を進める菅政権の「新自由主義政策」のブレ?ンとされるのが、人材派遣大手パソナグル?プ会長の竹中平蔵氏である。だが、菅氏と竹中氏の関係は、通常の政治家とブレ?ンの関係とは趣が異なる。竹中氏が総務大臣時代、菅氏は副大臣として主従関係が逆だったのだ。
庶民派の実務型政治家か、それとも格差社会を広げる新自由主義者か。首相の菅義偉について、好意的な者は前者のように持ちあげ、反感を抱く者は後者だと批判する。
私は、どちらでもない気がしている。
「菅さんはブレーンが提案する政策にパクッと食らいつき、それをそのまま実行しているだけです。だから細かい話が多く、大枠として何がやりたいのか、ビジョンが明らかでない。政策に対するこだわりや深い考えを感じたこともありません」
ある高級官僚はそぅ評した。たとえば庶民派に見えるのは携帯料金の引き下げなどが生活に直結し、利用者の損得感情を擽る政策だからだろう。
本人は、目指す社会像を「自助、共助、公助」と言ってはばからない。とりわけ自助は、競争原理を唱える新自由主義に映る。政界で競争に勝ち残ってきた自負からそう発想しているとも指摘されるが、その実、当人には市場競争経済にこだわりがあるわけではないだろう。経済政策の理念を授けているのが竹中平蔵である。
(中略)
竹中平蔵は、もともと小泉純一郎政権時代、首相の諮問機関「経済財政諮問会議」に出席していたオリックス会長の宮内義彦とともに、郵政民営化やIT改革に取り組み、数々の規制緩和政策を推し進めてきた。これが格差社会を産む新自由主義だと非難され、旧民主党の鳩山由紀夫政権で見直された。鳩山内閣は新たに国家戦略室を設置し、経済財政諮問会議は、事実上活動を停止する。そこから2 0 12年12月、第二次安倍政権誕生により、経済財政諮問会議が復活する。そこで官房長官に就いた菅は、メンバーに竹中の起用を提案した。だが、それに財務大臣兼副総理の麻生が異を唱えた。結果、前首相の安倍は新たに産業競争力会議といぅ有識者会議を設置し、そこに竹中を委員として起用した。安倍が菅に配慮した形だ。
産業競争力会議は経済財政諮問会議より格下だが、安倍前政権の経済政策では、むしろこっちの主張が目立つよぅになる。それは菅・竹中の連携によるところが大きい。「働き方改革」と名付けた労働の自由化をはじめ、空港や水道の民営化をぶち上げていった。それらは菅と竹中がタッグを組んで進めよぅとした政策にほかならない。
(編者注:菅に財政や経済の知見がない以上、竹中が好きなように振舞っていたのではないか)
現在、東洋大学国際地域学部教授、グローバル・イノべーション学研究センター長の肩書を持つ竹中は、人材派遣大手「パソナグループ」の取締役会長であり、金融コングロマリット「オリックス」や「SBIホールディングス」の社外取締役でもある。人材派遣会社の会長が、残業代タダ法案と酷評されたホワイトカラ?エグゼンプションや派遣労働の枠を広げ、今なおデジタル庁構想を後押しする。デジタル庁構想の基幹政策であるマイナンバーカードの普及は、パソナのビジネスにもなっている。
また竹中が社外取締役となったオリックスは15年、空港民営化事業に進出。国や地方自治体が施設を所有したまま、利用料金を徴収する「コンセッション方式」なる新たな民営化事業で、その第一号空港が関空(関西国際空港)と伊丹(大阪国際空港)だ。
産業競争力会議は安倍前政権の途中、未来投資会議と名称を改めるが、実態は変わらない。菅自身は自らの政権をスター卜すると、その未来投資会議を「成長戦略会議」と改め、ここに竹中をはじめとした経済ブレーンを据えた。インバウンド政策を提唱したデービッド・アトキンソン(小西美術工藝社社長)も成長戦略会議に加わっている。菅政権ではここにブレ?ンたちが集結し、規制緩和という名の利益誘導政策を授けている。
(編者注:竹中の日本経済に及ぼす影響力を考えると空恐ろしくなります。失礼な言い方かもしれないが、竹名は本当に一流の学者なのでしょうか。世界の経済界で発言し、評価されたことはあるのでしょうか。もっと言えば日本の国内で、トラの威を借る狐を演じているだけではないのでしょうか。もしそうなら、竹中一人に大きな権限を与えるのではなく、せめて意見の異なる、あるいは守備範囲の異なる複数の学者や専門家を会議に参加させ、自由に意見を戦わせるべきではないのか。ことは日本経済と言う極めて重要かつ深刻なテーマであり、多くの国民の生命と財産が掛かっているのです。日本経済は、関係者に都合の良い改革を行い、彼らが私腹を肥やすようなものであってはならないのです。森が記事の末尾で「利益誘導政策を続けている」と締めくくっているところに、竹中(と菅の)日本経済への姿勢が端的に表れているように思います)
・急速な感染拡大の局面。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020111900178&g=soc&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
?陽性率上昇、米国10%、日本7%。
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/coronavirus-chart-list/
・首相、静かな会食を。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6376939
関連記事。GoTo固執は犯罪的。志位。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020111900853&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
関連記事。GoToトラベルで国民が完全に緩んでいる。日医会長。
https://mainichi.jp/articles/20201119/k00/00m/010/231000c
関連記事。GoTo政策で外出を促すのは間違い。野口。
https://diamond.jp/articles/-/254459
コメント:志位は正論です。国民の命と引き換えに、どこまで観光業界に肩入れすれば気が済むのでしょう。菅と二階と小池ゆり子は。
11/27深夜の朝まで生テレビで、痛快なことがありました。いつも人の話を途中で遮るので、最近、評判の芳しくない田原ですが、今回は同席の竹中に関して、こういう批判が出ているという例を2,3紹介したのです。学者でもなく、政治家でもなく、中途半端な存在で、政治に影響を与えており、新自由主義を持ち込んだ犯人というような内容ですが、同席していた森永と森ゆうこが、反菅政権の立場で、かなりあけすけに批判を加えました。
竹中は激高して、自分は民間の委員であって、決めるのは政府だと開き直っていました。無論彼が委員会で最大の権力(または横車)を行使して、政策の影響を与えてきたことは誰でも知っていることです。しかも小泉政権で(経済再生のために)規制改革を掲げておきながら、今やパソナの会長として自分が既得権に回っていることや、新自由主義を持ち込んで非正規が半数を超え、収入が上がらない実態に関する説明はありませんでした。
今回だけは、田原の突っ込みで、一国民として溜飲が下がりました。
1822.サピエンス全史A。20/11/21
サピエンス全史の第二回です。今回は農業の発達とそれが人類に持つ意味、そして大人数の人々をまとめることに役立った神話(最近発掘された、紀元前9500年前のトルコの遺跡、ギヨベクリ・テペの神殿が例に引かれている)、と共同主観に関する考察で、特に農業については、従来の定説とは全く異なる見方をしているので、かなり抵抗があるかもしれません、私もそのまま鵜呑みにはできないと思っています。
「農耕がもたらした繁栄と悲劇」
生存と繁殖という、進化の基本的基準に照らすと、小麦は植物のうちでも地球の歴史上で指折りの成功を収めた。一万年前には北アメリカの大草原地帯グレートプレーンズのような地域には小麦は一本も生えていなかったが、今日そこでは何百キロメートルも歩いても他の植物はいっさい目に入らないことがある。この草は、取るに足りないものから至る所に存在するものへと、どうやって変わったのか?
小麦は自らに有利な形でホモ・サピエンスを操ることによって、それを成し遂げた。この霊長類は、およそ一万年前までは狩猟と採集によってかなり快適な暮らしを送ってきたが(編者注:本当に快適な暮らしだったのか。捕食者との戦いもあったであろう)、やがて小麦の栽培にしだいに多くの労力を注ぎ込み始めた。2000年ほどのうちに、人類は世界の多くの地域で、朝から晩までほとんど小麦の世話ばかりを焼いて過ごすようになっていた。小麦は多くの水を必要としたので、人類は泉や小川から苦労して運び、与えてやった。
新しい農業労働にはあまりにも時間がかかるので、人々は小麦畑のそばに定住せざるをえなくなった。そのせいで、彼らの生活様式が完全に変わった。このように、私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ。
穀類に基づく食事は、ミネラルとビタミンに乏しく、消化しにくく、歯や歯肉に非常に悪い。小麦は経済的安心を与えてはくれなかった。農耕民の暮らしは、狩獵採集民の暮らしほど安定していなかった。(編者注;農耕民族は小麦だけを食べていたわけではないだろう)
もう心配しなくて済む。子供たちが腹を空かせたまま眠りに就くようなことは、金輪際なくなると考えた。それは道理に適っていた。前より一生懸命働けば、前より良い暮らしができる。それが彼らの胸算用だった。そのもくろみの前半は順調にいった。人々は実際、以前より一生懸命働いた。
だが、彼らは子供の数が増えることを予想していなかつた。単一の食糧源への依存を強めれば、じつは旱魃の害にますます自分をさらすことになるのを予見できなかった。それでは、もくろみが裏目に出たとき、人類はなぜ農耕から手を引かなかったのか? 一つには、小さな変化が積み重なって社会を変えるまでには何世代もかかり、社会が変わったころには、かつて違う暮らしをしていたことを思い出せる人が誰もいなかったからだ。
ギヨベクリ・テペの文化的中心地は、人類による最初の小麦の栽培化や小麦による人類の最初の家畜化に、何らかの形で結びついている可能性が高い。野生の小麦の採集から集約的な小麦栽培へと狩?採集民が切り替えたのは、通常の食糧供給を増やすためではなく、むしろ、神殿の建設と運営を支えるためだったことは、十分考えられる。従来の見方では、開拓者たちがまず村落を築き、それが繁栄したときに、中央に神殿を建てたということになっていた。だが、ギヨベクリ・テペの遺跡は、まず神殿が建設され、その後、村落がその周りに形成されたことを示唆している。
農業革命は歴史上、最も物議を醸す部類の出来事だ。この革命で人類は繁栄と進歩への道を歩み出したと主張する、熱心な支持者がいる。彼らによれば、これを境にサピエンスは自然との親密な共生関係を捨て去り、強欲と疎外に向かってひた走りに走り始めたという。
たとえその道がどちらに向かっていようと、もはや引き返すことはできなかった。農耕のおかげで人口が急激に増大したので、複雑な農耕社会はどれも、狩猟採集に戻っても自らを維持できることは二度となかった。一世紀になると、狩獵採集民は100万?200万人しか残っておらず、それをはるかに上回る2億5000万もの農耕民が世界各地で暮らしていた。
農耕民の大多数は永続的な定住地に住んでおり、遊牧民はほんのわずかだった。定住すると、ほとんどの人々の縄張りは劇的に縮小した。「我が家」を中心に営まれた典型的な農耕民はその構造物に対して、非常に強い愛着を育んだ。これは広範に影響の及ぶ革命で、その影響は建築上のものであると同時に、心理的なものでもあった。以後、「我が家」への愛着と、隣人たちとの分離は、以前よりずっと自己中心的なサピエンスの心理的特徴となった。
農耕民が未来を心配するのは、心配の種が多かったからだけでなく、それに対して何かしら手が打てたからでもある。彼らは、開墾してさらに畑を作ったり、新たな灌漑水路を掘ったり、追加で作物を植えつけたりできた。
農耕のストレスは、広範な影響を及ぼした。そのストレスが、大規模な政治体制や社会体制の土台だった。悲しいかな、勤勉な農耕民は、現在の懸命な労働を通してなんとしても手に入れようと願っていた未来の経済的安心を達成できることは、まずなかった。至る所で支配者やエリート層が台頭し、農耕民の余剰食糧によって暮らし、農耕民は生きていくのが精一杯の状態に置かれた。
こうして没収された食糧の余剰が、政治や戦争、芸術、哲学の原動力となった。余剰食糧のおかげで宮殿や砦、記念碑や神殿が建った。近代後期まで、人類の九割以上は農耕民で、毎朝起きると額に汗して畑を耕していた。彼らの生み出した余剰分を、王や政府の役人、兵士、聖職者、芸術家、思索家といった少数のエリート層が食べて生きており、歴史書を埋めるのは彼らだった。歴史とは、ごくわずかの人の営みであり、残りの人々はすべて、畑を耕し、水桶を運んでいた。
生物学的本能が欠けているにもかかわらず、狩狐採集時代に何百もの見知らぬ人どうしが協力できたのは、彼らが共有していた神詁のおかげだ。だが、この種の協力は緩やかで限られたものだった。
キリスト教や民主主義、資本主義といった想像上の秩序の存在を人々に信じさせるにはどうしたらいいのか?まず、その秩序が想像上のものだとは、けっして認めてはならない。社会を維持している秩序は、偉大な神々あるいは自然の法則によって生み出された客観的実体であると、つねに主張する。人々が平等なのは、トマス・ジェファーソンがそう言ったからではなく、神がそのように人々を創造したからだ。自由市場が最善の経済制度なのは、アダム.スミスがそう言ったからではなく、それが不変の自然法則だからだ。
また、人々を徹底的に教育する。生まれた瞬間から、想像上の秩序の原理をたえず叩き込む。それらの原理はありとあらゆるものに取り込まれている。おとぎ話、戯曲、絵画、歌謡、礼儀作法、政治的プロパガンダ、建築、レシピ、ファッションにも。
今日の西洋人の大半は、個人主義を信条としている。彼らは、すべての人間は個人であり、その価値は他の人がその人をどう思うかに左右されないと信じている。私たちの誰もが、自分の中に、人生に価値と意義を与えるまばゆい一筋の光を持っている。
中世の貴族は個人主義を信奉していなかった。人の価値は社会のヒエラルキーにその人が占める位置や、他の人々がその人についてどう言っているかで決まった。笑われるのは恐ろしい不名誉だった。
ロマン主義は多様性を奨励するので、消費主義と完璧に?み合ぅ。両者が融合して、無限の「市場経験」が誕生し、その上に現代の観光産業が打ち立てられた。観光産業はたんに飛行機のチケットやホテルの部屋を売るのではない。経験を売るのだ。
想像上の秩序を変えるためには、何百万という見ず知らずの人を説得し、彼らに協力してもらわなければならない。なぜなら、想像上の秩序は、私自身の想像の中に存在する主観的秩序ではなく、應大な数の人々が共有する想像の中に存在する、共同主観的秩序だからだ。
これを理解するためには、「客観的」「主観的」「共同主観的」の違いを理解する必要がある。
「客観的」な?象は、人問の意識や信念とは別個に存在する。「主観的」なものは、単一の?人の意識や信念に依存して存在している。本人が信念を変えれば主観的なものも消えたり変わったりしてしまう。「共同主観的」なものは、多くの個人の主観的意識を結ぶコミュニケーション・ネットワークの中に存在する。
たとえ一個人が信念を変えても、あるいは、死にさえしても、ほとんど影響はない。だが、もしそのネットワークに含まれる人の大半が死んだり、信念を変えたりしたら、共同主観的現象は変化したり消えたりする。共同主観的現象は、悪意のある詐欺でも、取るに足りない見せかけでもない。物理的現象とは違った形で存在するが、それでも世の中には非常に大きい影響を与えうる。歴史を動かす重大な要因の多くは、法律、貨幣、神々、国民といった、共同主観的なものなのだ。
ドルや人権、アメリカ合衆国も、何十億という人が共有する想像の中に存在しており、誰であれ一人の人間がその存在を脅かすことはありえない。既存の想像上の秩序を変えるためには、まず、それに代わる想象上の秩序を信じなくてはならないのだ。(以下次号)
・Gotoトラベル一時中断を、東京医師会長が強く訴え。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/69632
関連記事。Goto延長問題に致命的に欠けている視点。
https://toyokeizai.net/articles/-/389489
関連記事。緊急宣言発出否定。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6377068
関連記事。感染最多、旅行キャンセル増加。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6377050
関連記事。Gotoイート食事券、東京も開始。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6377073
関連記事。人数制限、実効性に疑問。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020112000182&g=soc
コメント:この件では小池都知事も同罪です。何が5つの小ですか。まるで他人事です。相変わらずスローガン(体裁)のみ。しかも感染防止対策は都民に丸投げ。ことコロナに関しては菅と小池は最悪の組み合わせです。
・経済的既得権にしがみつく中高年に若者が反感。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/11/post-95025.php
コメント:日本では、若者が感染拡大に無頓着な面があるので、事情は少し異なるにしても、少なくも株高は若者に恩恵を与えてはいないでしょう。しかも特に母子家庭や、非正規社員は悲惨な状況にあるはずです。GoToでも、特定業種の、しかも大手だけに利権の匂いがプンプンします。
・コロナと五輪、会長来日、残った違和感。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14701992.html?iref=comtop_Opinion_04
1823.サピエンス全史B。20/11/22
サピエンス全史紹介の第三回は、私が本書で、個人的に最も関心のある部分、即ちヒエラルキー(社会階層)に関する考察です。
「想像上のヒエラルキ?と差別」
農業革命以降の何千年もの人類史を理解しようと思えば、最終的に一つの疑問に行き着く。人類は大規模な協カネットワークを維持するのに必要な生物学的本能を欠いているのに、自らをどう組織してそのようなネットワークを形成したのか、だ。手短に答えれば、人類は想像上の秩序を生み出し、書記体系を考案することによって、となる。これら二つの発明が、私たちが生物学的に受け継いだものに空いていた穴を埋めたのだ。
人々はそうした秩序によって、ヒエラルキーを成す、架空の集団に分けられた。上層の人々は特権と権力を享受したが、下層の人々は差別と迫害に苦しめられた。
アメリカ人が1776年に打ち立てた想像上の秩序は、万人の平等を謳っていながら、人間として対等の権利にあずかれなかった黒人やアメリカ先住民との間に、ヒエラルキーを生み出した。アメリカの秩序は、富める者と貧しい者の間のヒエラルキーも尊重した。当時のアメリカ人の大半は、裕福な親が資金や家業を子供に相続させることで生じる不平等をなんとも思わなかった。彼らの目から見れば、平等とは、富める者にも貧しい者にも同じ法律が適用されることにすぎなかったからだ。
自由も、今日とは非常に異なる言外の意味を持っていた。1776年には、力や重要性を奪われた人々(黒人やアメリカ先住民はもとより、女性も断じて)が権力を得たり行使したりできることは意味しなかった。自由とは、特殊な状況にないかぎり、国家が国民の私有財産を没収したり、その使途を命じたりできないことを意味するだけだった。そのためアメリカの秩序は富のヒエラルキーを擁護した。
頑固な資本家に富のヒエラルキーについて尋ねればおそらく、それは能力の客観的違いに発する避けようのない結果だと言われるだろう。この見方に即せば、金持ちが多くのお金を持っているのは、より有能で勤勉だからということになる。それならば、富める者がより良い医療や教育、栄養の恩恵にあずかっても、誰も気にするべきではないことになる。
とはいえ、私たちの知るかぎり、これらのヒエラルキーはすべて人類の想像力の産物だ。カーストの区別は、約3000年前にインド北部の人間が考案した法律と規範によって生み出された。人間の法律と規範が一部の人々を奴隸に、別の人々を主人に変えたのだ。黒人と白人の間には、肌の色や髪の種類など、客観的な生物学的差異があるものの、そうした違いが知能や道徳性にまで及ぶという証拠はない。
富める者と貧しい者のヒエラルキーは、多くのアメリカ人やヨーロッパ人には、完全に良識あるものに見える。だが、金持ちの多くはたんに金持ちの家に生まれたから金持ちで、貧しい人の多くはたんに貧しい家に生まれたから一生貧しいままでいるというのが、立証済みの事実なのだ。
不幸なことに、複雑な人間社会には想像上のヒエラルキーと不正な差別が必要なようだ。差別ときっぱり訣別できた大型社会を学者は一つとして知らない。人間はこれまで何度となく、人々を想像上のカテゴリーに分類することで社会に秩序を生み出してきた。たとえば、上層自由人と一般自由人と奴隸、白人と黒人、貴族と平民、バラモンとシュードラ、富める者と貧しい者といったカテゴリーだ。これらのカテゴリーは、一部の人々を他の人々よりも法的、政治的、あるいは社会的に優位に立たせることで、何百万もの人々の間の関係を調整してきた。
ヒエラルキーは重要な機能を果たす。ヒエラルキーのおかげで、見ず知らずの人どうしが、お互いをどう扱うベきなのかを知ることができる。社会的な差異の形成は、想像上のヒエラルキーの影響を受ける。
その影響には二通りの重要な形がある。何と言ってもまず、たいていの能力は、育み、伸ばしてやらなければならない。しかしすべての人が、自分の能力を養い、磨くための機会を同じだけ得られるわけではない。そうした機会があるかどうかは普通、社会の想像上のヒエラルキーのどの位置にいるかで決まる。
第二に、違う階級に属する人々は、異なるルールで勝負しなければならなくなるから、同等の成功を収める可能性は低い。経済のゲームは、法律的な制約と非公正のガラスの天井(目に見えない障壁)によって、不正に仕紺まれている。
奴隸は解放されたとはいえ、奴隸制を正当化した人種差別的神話は存在した、人種による分離は、人種差別的な法律や社会習慣によって維持された。二世紀に及ぶ奴隸制のせいで、黒人家庭の大半は白人家庭の大半よりもはるかに貧しく、教育水準が低かった。
だが、話は経済的な不利にとどまらなかった。月日がたつうちに、偏見はますます定着していったのだ。めぼしい職はすベて白人が占めていたので、黒人は本当に劣っていると信じやすくなったからだ。黒人たちは選挙で投票したり、白人の学校で学んだり、白人の店で買い物をしたり、白人のレストランで食事をしたりすることを禁じられた。
不正な差別は時が流れるうちに、改善されるどころか悪化することが多い。お金はお金のある人の所に行き、貧困は貧困を招く。教育が教育を呼び、無知は無知を誘う。いったん歴史の犠牲になった人々は、再び犠牲にされやすい。
逆に、歴史に優遇された人々は、再び優遇されやすい。たいていの社会政治的ヒエラルキーは、論理的基盤や生物学的基盤を欠いており、偶然の出来事を神話で支えて永続させたものにほかならない。歴史を学ぶ重要な理由の一つもそこにある。黒人と白人、あるいはパラモンとシュードラという区分が生物学的事実に基づいていたなら、人間社会は生物学だけで理解できるだろう。だが現実には、ホモ・サピエンスの異なる集団どうしの生物学的区別は、無視できるほどでしかないので、人種的ダイナミクスは生物学では説明できない。これらの現象を理解するには、想像力が生み出した虚構を、残忍で非常に現実味のある社会構造に変換した出来事や事情、力関係を学ぶしかないのだ。
フランス革命以降徐々に、世界中の人々が平等と個人の自由の両方を根本的な価値と見なすようになった。だが、これら二つの価値は互いに矛盾する。平等は、暮らし向きの良い人々の自由を削減することでのみ確保される。あらゆる人に好きなように振る舞う自由を保証したら、必然的に平等が成り立たなくなる。1789年以降の政治史はすべて、この矛盾を解消しようとする一連の試みだったと考えることができる。
民主党員は、たとえ貧しい人や高齢者や虚弱な人を助ける事業の資金を提供するために増税することになっても、より公平な社会を望んでいる。だがこれは、自分のお金を好きなように使う個人の自由を侵害する。子供たちを大学に通わせるために使いたいお金を注ぎ込んでまで医療保険に加入することを、なぜ政府に強制されなければならないのか?
中世の文化が騎士道とキリスト教との折り合いをつけられなかったのとちょうど同じように、現代の世界は、自由と平等との折り合いをつけられずにいる。だが、これは欠陥ではない。このような矛盾はあらゆる人間文化につきものの、不可分の要素なのだ。それどころか、それは文化の原動力であり、私たちの種の創造性と活力の根源でもある。対立する二つの音が同時に演奏されたときに楽曲が嫌でも進展する場合があるのと同じで、思考や概念や価値観の不協和音が起こると、私たちは考え、再評価し、批判することを余儀なくされる。
緊張や対立、解決不能のジレンマがどの文化にとってもスパイスの役割を果たす。これはどの文化にとっても本質的な特徴なので、「認知的不協和」という呼び名さえついている。矛盾する信念や価値観を持てなかったとしたら、人類の文化を打ち立てて維持することはおそらく不可能だっただろう。(以下次号)
・三連休初日、羽田混雑。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6377159
関連記事。専門家、悲鳴にも似た提言。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6377144
関連記事。感染拡大の地域でGoTo。一貫性ない。尾身。
https://www.asahi.com/articles/ASNCP0DDPNCNULBJ01Y.html?iref=comtop_list_01
関連記事。野党が矛盾指摘。
https://www.asahi.com/articles/ASNCN7R2FNCNUTFK00Y.html?iref=comtop_7_03
関連記事。首相、感染拡大でも会見開かず。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020112001204&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
コメント:これじゃ感染が収まるはずはありません。21日の午後、緊急会見が予定されていますが、菅はGoTo(と五輪)は何が何でもやると言えばいいのではないか。なぜならそれが本音だからです。民主主義も人権に関しては価値観がかなりずれまくっている(だから親の顔が見たい)のだから、何を言っても驚かない。しかも仕掛け人の二階は口を拭って知らん顔。
1824.サピエンス全史C。20/11/23
サピエンス全史の翻訳が出たのは1年前です。ベストセラーになったからでしょうが、今度は漫画版が出るという広告が、昨日の朝刊に出ていました。
サピエンス全史の要約による紹介の第4回は宗教です。ちなみに、後に続く章を読めば更によく分かりますが、作者は現存宗教の中で、仏教を高く評価しています。
…今日、宗教は差別や意見の相違、不統一の根源と見なされることが多い。だがじつは、貨幣や帝国と並んで、宗教もこれまでずっと、人類を統一する三つの要素の一つだったのだ。社会秩序とヒエラルキーはすべて想像上のものだから、みな脆弱であり、社会が大きくなればなるほど、さらに脆くなる。宗教が担ってきたきわめて重要な歴史的役割は、こぅした脆弱な構造に超人間的な正当性を与えることだ。
したがって宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。これには、二つの異なる基準がある。
1 宗教は、超人間的な秩序の存在を主張する。その秩序は人間の気まぐれや合意の産物ではない。
2宗教は、超人間的秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力があると見なす。
イスラム教や仏教のような、歴史上有数の宗教は、普遍的であり、宣教を行なっている。そのような宗教の出現は、歴史上屈指の重要な革命であり、普遍的な帝国や普遍的な貨幣の出現とちょうど同じように、人類の統一に不可欠の貢献をした。
至高の原理の包括的な力をいったん分解し始めたら複数の神を持つようになる。多神教の見識は広範に及ぶ宗教的寛容性を促す。多神教信者は、一方では至高の、完全に利害を超えた神的存在を、もう一方ではえこひいきをする、力の限られた多数の神的存在を信じているので、他の神々の存在や効力を受け容れるのはわけもない。多神教は本来、度量が広く、「異端者」や「異教徒」を迫害することはめったにない。
ローマ人が許容するのを長い間拒んだ唯一の神は、一神教で福音を説くキリスト教徒の神だった。ローマ帝国はキリスト教徒たちに彼らの信仰や儀式をやめるように要求はしなかったが、帝国の守護神たちや皇帝の神性を尊重することを求めた。キリスト教徒たちがありとあらゆる妥協の試みを退けると、ローマ人は彼らを政治的に危険な存在と考え迫害した。ただしその迫害さえ、本気のものとは言い難かった。
この3世紀間に多神教のローマ人が殺害したキリスト教徒は数千人止まりだった。これとは対照的に、その後の1500年間に、キリスト教徒はわずかに異なる解釈を守るために、同じキリスト教徒を何百万人も殺害した。16世紀と17世紀にヨーロッパ中で猛威を振るったカトリック教徒とプロテスタント(新教徒)との宗教戦争は、とりわけ悪名が高い。
多神教は一神教だけではなく、二元論の宗教も産んだ。二元論の宗教は、善と悪という、二つの対立する力の存在を認めている。一神教と違い、二元論では、全宇宙はこれら二つの力の戦昜で、世界で起こることはすべてその争いの一部だと説明される。
二元論が非常に魅力的な世界観なのは、「悪の問題」に、それが短くて単純な答えを出せるからだ。一神教信者は、世界にこれほどの苦しみが起こるのを全知全能の、完璧に善い神が許す理由を説明するのに四苦八苦する。二元論者にとって、悪を説明するのはたやすい。善い人にさえ悪いことが起こるのは、善き神が独力で世界を支配しているわけではないからだ。神とは別個の悪の力が世界には野放しになっている。その悪の力が悪さをするのだ。
ただし、二元論にも弱点はある。もし善と悪がこの世界の支配権をめぐって争っているのなら、これら宇宙の究極の力どうしの戦いを支配する諸法則は、誰が執行しているのか?
ゴータマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は悲しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。
だが心に、渇愛することなく物事をあるがままに受け容れさせるにはどうしたらいいのか?どうすれば悲しみを悲しみとして、喜びを喜びとして、痛みを痛みとして受け容れられるのか?
ゴータマは、心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。この修行で心を鍛え、「私は何を経験していたいか?」ではなく「私は今何を経験しているか?」にもっぱら注意を向けさせる。このような心の状態を達成するのは難しいが、不可能ではない。
過去300年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。近代には、自由主義や共産主義、資本主羲、国民主羲、ナチズムといった、「自然法則の新宗教」が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だがこれはただの言葉の綾にすぎない。
宗教とは、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系のことをいう。相対性理論は宗教ではない。サッカーも宗教ではない。一方、仏教と共産主義はともに宗教だ。両者は超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範と価値観の体系だからだ。
このような論法を非常に不快に感じる読者もいるかもしれない。もし、共産主義を宗教ではなくイデオロギーと呼ぶほうがしっくりくるなら、そう呼び続けてもらっていっこうにかまわない。どちらにしても同じことだ。私たちは信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという、神不在のイデオロギーに区分することができる。
仏教徒がヒンドゥー教の神々を崇拝できたり、一神教信者が悪魔の存在を信じられたりしたのと同じように、今日の典型的なアメリカ人は国民主義者である(歴史の中で果たすべき特別な役割を持ったアメリカ国民の存在を信じている)と同時に、自由市場主義の資本主義者でもあり(自由競争と私利の追求こそが、繁栄する社会を築く最善の方法であると信じている)、さらに自由主義の人間至上主義者でもある(人間は奪うことのできない特定の権利を造物主から授けられたと信じている)。
人間至上主義の宗教は、人類を、より正確にはホモ・サピエンスを崇拝する。ホモ・サピエンスは独特で神聖な性質を持っており、その性質は他のあらゆる動物や他のあらゆる現象の性質と根本的に違う、というのが人間至上主義の信念だ。至高の善はホモ・サピエンスの善だ。世界の残りと他のあらゆるものは、この種に資するためにのみ存在する。
すべての人間至上主義者は人間性を崇拝するが、人間性の定義に関しては意見が分かれている。人間至上主義は、三つの競合する宗派に分かれ、「人間性」の厳密な定義をめぐって争っている。競合するキリスト教の宗派が神の厳密な定羲をめぐって争ったのとちょうど同じだ。
今日、最も重要な人間至上主義の宗派は自由主義の人間至上主義で、この宗派は、「人間性」とは個々の人間の特性であり、したがって個人の自由はこの上なく神聖であると信じている。自由主義的な人間至上主義の主要な戒律は、一まとめに「人権」として知られている。
たとえば、自由主義者が拷問や死刑に反対するのもそのためだ。殺人者を擁護することによって、私たちは殺人者が不当な扱いをしたものを、正当に扱うのだ。自由主義的な人間至上主義は人間を神聖視するとはいえ、神の存在は否定しない。それどころか、この主義は一神教に基づいている。各個人の自由で神聖な性質を重んじる自由主義的な信念は、各個人には自由で永遠の魂があるとするキリスト教の伝統的な信念の直接の遺産だ。
社会主義的な人間至上主義という重要な宗派もある。社会主義者は、「人間性」は個人的ではなく集合的なものだと信じている。彼らは、各個人の内なる声ではなく、ホモ・サピエンスという種全体を神聖なものと考える。自由主義的な人間至上主義が個々の人間にとって最大の自由を求めるのに対して、社会主羲的な人間至上主羲は、全人類の平等を求める。
たとえば、貧しい者よりも富める者が優遇されたら、あらゆる人間の普遍的本質よりもお金を重んじることになる…その本質は、富める者にとっても貧しい者にとっても同じだというのに。
従来の一神教と現に縁を切った唯一の人間至上主義の宗派は、進化論的な人間至上主義で、その最も有名な代表がナチスだ。ナチスは「人間性」の定義の点で他の人間至上主義の宗派とは異なっており、その定羲は進化論に強い影響を受けていた。ナチスは他の人間至上主義者とは対照的に、ホモ・サピエンスは、他のあらゆる生き物や現象の性質とは根本的に異なる、独特で神聖な性質を持っている。至高の善は人間性の善だ。
ナチスの最大の野望は、人類を退化から守り、漸進的進化を促すことだった。だからこそ人類の最も進んだ形態であるアーリア人種は保護され育まれなくてはならず、ユダヤ人やロマ、同性愛者、精神障害者のような退化したホモ・サピエンスは隔離され、さらには皆殺しにさえしなければならないとナチスは主張したのだ。
四世紀初頭、ローマ帝国の眼前にはじつにさまざまな宗教的選択肢があった。だが、皇帝のコンスタンティヌスは、内戦続きだった厄介な過去一世紀を振り返り、明確な教義を持った単一の宗教があれば、種々雑多な民族が暮らす自分の帝国を統一しやすくなると考えたようだ。
歴史学者はあれこれ推測することができるが、確実なことは何も言えない。彼らはキリスト教がどのようにローマ帝国を席卷したかは詳述できても、なぜこの特定の可能性が現実のものとなったかは説明できない。
歴学者は、なぜその結果が必然的だったかを後知恵で説明しようとする。じつは その時期を最もよく知っている人々、すなわち当時生きていた人々が最も無知だ。コンスタンティヌスの時代の平均的なローマ人にとって、未来は霧の中だった。後から振り返って必然に思えることも、当時はおよそ明確ではなかったというのが歴史の鉄則だ。
今日でもそれは変わらない。私たちは世界的な経済危機を脱したのか、それとも、最悪の事態はまだこの後にやって来るのか?中国はこのまま成長を続け、世界一の超大国になるのか?アメリカは覇権を失うのか? 一神教の原理主義の高まりは未来の波なのか、それとも局地的な渦にすぎず、長期的重要性などほとんどないのか?私たちの行きつく先は生態学的大惨事なのか、それともテクノロジーの楽園なのか?
こうした疑問のどれについても、確実なところは知りようがない。数十年後、人々は今を振り返って、これらすべての疑問に対する答えは明白だったと考えるだろう。
西暦306年にコンスタンティヌスが帝位に就いたとき、キリス卜教は少数の者しか理解していない東方の一宗派にすぎなかった。当時、それが間もなくローマの国教になるなどと言ったら、大笑いされ、部屋から追い出されただろう。
歴史は決定論では説明できないし、混沌としているから予想できない。あまりに多くの力が働いており、その相互作用はあまりに複雑なので、それらの力の強さや相互作用の仕方がほんのわずかに変化しても、結果に大きな違いが出る。そればかりか、歴史はいわゆる「二次」のカオス系なのだ。カオス系には二種類ある。
一次のカオス系は、それについての予想に反応しない。たとえば天気は、一次のカオス系だ。二次のカオス系は、それについての予想に反応するので、正確に予想することはけっしてできない。たとえば、市場は二次のカオス系だ。翌日の石油価格を100パーセントの精度で予想するコンピューター・プログラムを開発したらどうなるだろう?石油価格はたちまちその予想に反応するので、その結果、予想は外れる。
政治も二次のカオス系だ。2011年のアラブの春の革命を予知しなかったとしても、革命はそもそも予想不可能に決まっているのだ。予想可能な革命はけっして勃発しない。
(以下次号)
1825.サピエンス全史D。20/11/24
今回もサピエンス全史からです。長めのご紹介でうんざりした読者もおいででしょうが、より良い社会や人生のヒントがどこかに書いてあるのではないかという淡い期待で読み始めた本です。残念ながら現在の国際、及び国内政治を、どう変えるべきかについての明確な答え、もしくはそのヒントは、見つからなかったので(答えが簡単に見つかれば苦労はしないと学者なら言うでしょうが)、今回で紹介を切り上げさせて頂きます(いきなり最終回)。
本当は同書のどこかにヒントは書かれているのに、私がそれを見逃している可能性も十分に考えられます。そもそも長編の上に、中身の濃い本書を、要約だけで手っ取り早く紹介しようという試み自体が、無謀だったのかもしれません。結局、作者の意図の正しい理解のためには、原書を読んで下さいという、いつものお願いになってしまうのかもしれません。
本書の最大の取り得は、文明や歴史について、紋切り型(あるいは教科書型)の研究や見解が全てではないことを、一般人にも分かり易い形で教えてくれたことです。また人間の理性や理想や倫理観は当てにならないという冷めた見方も、いままでにない視点です。
そういう意味で、やはり作者は天才なのかもしれません。ところで最終回はこれまでより更に長いので(原文は無論その何十倍もある)、前書きに入れると読者が飽きてしまうので、最初から別サイトにしました。但しあとがきだけは、省略することで作者の意図が損なわれるとまずいので、全文を引用しています。これは原本を読んでみたいという方の参考の為です。
サピエンス全史第五回(最終回)
「無知の発見と近代科学の成立」
もしコロンブスの水夫の一人が眠りに落ち、21世紀の一iPhoneの着信音で目覚めたとしたら、そこは理解し難いほど奇妙な世界に思えるだろう。「ここは天国か?」と彼は自問するかもしれない。「それとも、ひよっとしたら地獄か?」
過去500年間に、人間の力は前例のない驚くべき発展を見せた。1500年には、全世界にホモ・サピエンスはおよそ5億人いた。今日、その数は70億に達する。1500年に人類によって生み出された財とサービスの総価値は、今日のお金に換算して、2500億ドルと推定される。今日、人額が一年間に生み出す価値は、60兆ドルに近い。私たちの人口は14倍、生産量は240倍、エネルギー消費量は115倍に増えたのだ。現代の貨物船が5隻あれば、世界の全商船隊の積み荷を積載できただろう。現代のコンピューターが一台あれば、中世の図書館という図書館の写本や巻物に記された文字と数字のすべてを楽々保存でき、記憶容量にはなお余裕が残っただろう。1500年には、人口が10万以上の都市はほとんどなかった。
空は鳥や天使や神々の領域だったが、1969年、人類は月に降り立った。それ以前の40億年という進化の歴史で、地球の大気圏すら脱しえた生き物はなかった。
歴史の大半を通じて、人類は地上の生き物のおよそ99.99パーセント、すなわち微生物について何も知らなかった。彼らは私たちの最高の友であり、また最も致命的な敵でもある。私たちが食べた物を消化し、消化管を掃除してくれる微生物もいれば、病気や感染症を引き起こすものもいる。
それにもかかわらず、人間の目が初めて微生物を捉えたのは、ようやく 1674年になってからだった。その後の300年間に、微生物が引き起こすとりわけ危険な致命的感染症のほとんどを、なんとか克服するとともに、微生物を利用して医学や産業に役立ててきた。
科学が進歩するには、研究だけでは十分ではない。進歩は、科学と政治と経済の相互支援に依存している。政治と経済の機関が資源を提供する。それなしでは科学研究はほぼ不可能だ。援助のお返しとして、科学研究は新しい力を提供する。過去500年間に、人類は科学研究に投資することで自らの能力を高められると、しだいに信じるようになった。
現代の資本主義経済は、泳いでいなければ窒息してしまうサメのように、存続するためにはたえず生産を増大させなければならない。とはいえ、ただ生産するだけでは足りない。何であれ新しいものを生産したときには、人々がいつも必ず買ってくれるようにするために、新しい種類の価値体系か登場した。消費主羲だ。
歴史を通じて、ほとんどの人は欠乏状態で生きてきた。したがって、儉約こそが彼らのモットーだった。ところが消費主義は、ますます多くの製品やサービスの消費を好ましいことと見なす。消費主義は懸命に人々を説得し、そしてそれに成功した。私たちはみな、良き消費者となった。私たちは、本当は必要のない、無数の製品を買う。ショッピングは人気のある娯楽となる。
資本主義と消費主義の価値体系は、表裏一体であり、二つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は、「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高の戒律は「買え!」だ。
人間は森を切り拓き、湿地を干拓し、川を堰き止め、平原を灌漑し、何万キロメートルもの鉄道線路を敷き、超高層建築のそびえる大都市を建設した。ホモ・サピエンスの必要性に応じて世界が造り替えられるにつれて、動植物の生息環境は破壊され、多くの種が絶滅した。
生態系の悪化は、資源不足とは違う。将来サピエンスは豊富な新材料とエネルギー源を支配できるようになるかもしれないが、同時に、残っている自然の生息環境を破壊し、他の生物種の大多数を絶滅に追いやるかもしれない。
多くの人が、この過程を「自然破壊」と呼ぶ。だが実際には、これは破壊ではなく変更だ。自然はけっして破壊できない。6500万年前、小惑星の衝突によって恐竜が絶滅したが、同時に哺乳類繁栄への道が開かれた。今日、人類は多くの種を絶滅に追い込みつつあり、自らをも消滅させかねない状況にある。
産業革命は、人間社会に何十もの大激変をもたらした。産業界の時間への適応は、ほんの一例にすぎない。その他の代表的な例には、都市化や小作農階級の消滅、工業プロレタリアートの出現、庶民の地位向上化、若者文化、家父長制の崩壊などがある。
とはいえ以上のような大変動も、最も重大な社会変革と比べると、影が薄くなる。その社会変革とは、家族と地域コミュニティの崩壊および、それに取って代わる国家と市場の台頭だ。
私たちの知りうるかぎり、人類は当初、すなわち100万年以上も前から、親密な小規模コミュニティで暮らしており、その成員はほとんどが血縁関係にあった。認知革命と農業革命が起こっても、それは変わらなかった。
二つの革命は、家族とコミュニティを結びつけて部族や町、王国、帝国を生み出したが、家族やコミュニティは、あらゆる人間社会の基本構成要素であり続けた。
ところが産業革命は、わずか二世紀余りの間に、この基本構成要素をばらばらに分解してのけた。そして、伝統的に家族やコミュニティが果たしてきた役割の大部分は、国家と市場の手に移った。
「家族とコミュニティの崩壊」
産業革命以前は、ほとんどの人の日常生活は、古来の三つの枠組み、すなわち、核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティの中で営まれていた。人々はたいてい、家族で営む農場や工房といった家業に就いていた。また、家族は福祉制度であり、医療制度であり、教育制度であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察でさえあった。
現代では国家と市場が手を差し伸べてくる。24時間体制の介護が必要になったときには、市場で看護師を雇うこともできる。十分な財力があれば、晩年を老人ホームで過ごすこともできる。税務当局は、私たちを個人として扱う。裁判所もまた、私たちを個人と見なす。
成人男性だけでなく、女性や子供も個人として認められる。歴史の大半を通して、女性はしばしば、家族やコミュニティの財産と見なされてきた。
だが、個人の解放には犠牲が伴う。人間味に欠ける国家や市場が私たちの生活に及ぼす力を目の当たりにして、疎外感に苛まれ、脅威を覚える人も多い。孤立した個人から成る国家や市場は、強い絆で結ばれた家族とコミュニティから成る国家や社会よりもはるかにたやすく、その成員の生活に介入できる。
国家と市場と個人の関係は穏やかではない。国家と市場は、相互の権利と羲務に関して異議を唱え、個人は、国家も市場も求めるものは多いのに提供するものが少な過ぎると不満を漏らす。市場が個人を搾取したり、国家が軍隊や警察、官僚を動員して、個人を守るのではなく迫害したりすることも多い。ところが、三者の関係は、まがりなりにも機能している。
とはいえ、近代の風景から核家族が完全に姿を消したわけではない。国家と市場は、経済的役割と政治的役割の大半を家族から取り上げたものの、感情面での重要な役割の一部には手をつけなかった。
近代に入っても、家族には相変わらず、きわめて私的な欲求を満たすことが期待されており、こうした欲求には、(今のところ)国家や市場では対応できない。
?場や国家は今日、かつてコミュニティが満たしていた物質的必要性の大半に応えているが、部族の絆も提供する必要がある。市場と国家はこの要求に応えるために、「想像上のコミュニティ」を育成してきた。このコミュニティは、何百万もの見ず知らずの人の集合体で、国や商業の必要性に合致するようにできている。
想像上のコミュニティは、実際には互いによく知らない者どうしが想像力を働かせ、知り合いであるかのように振る舞うコミュニティだ。このようなロミュニティは、何も新奇な発明ではない。王国も、帝国も、教会も、想像上のコミュニティとして何千年にもわたって機能してきた。
だがいつの時代にも、こうした想像上のコミュニティは、実際に互いをよく知る数十人規模の親密なコロミュニティを補う役割を果たしていたにすぎない。親密なコミュニティは、成員の感情面の必要性を満たし、各人の生存や福祉に欠かせない存在だった。ところが、この二世紀の間に、親密なコミュニティは衰退し、その感情的空白は想像上のコミュニティに委ねられることになった。
このような想像上のコミュニティの台頭を示す最も重要な例が国民と、消費者という部族だ。国民は各国家に特有の想像上のコミュニティであり、消費者部族は市場の想像上のコミュニティのことをいう。繰り返すが、これはどちらも想像上のコミュニティだ。
さらに重要なのは、私たちが集団全体の苦しみよりも個人の苦しみに共感しやすい点だ。だが、長大な歴史展開を理解するためには、個人の話ではなく大規模な統計値を検討する必要がある。2000年には戦争で31万人が亡くなり、暴力犯罪によって52万人が命を落とした。とはいえ、巨視的な視点に立てば、この83万人という犠牲者は、2000年に死亡した5600万人のわずか1.48パーセン卜を占めるにすぎない。その年に自動車事故で126万人が亡くなり81万5千人が自殺した。一般の人々は、テロリストや兵士、あるいは麻薬の売人に殺されるよりも、自殺する可能性のほうが高かったことが、この結果からわかる。
暴力の減少は主に、国家の台頭のおかげだ。いつの時代も、暴力の大部分は家族やコミュニティ間の限られた範囲で起こる不和の結果だった。
過去500年間には、驚くべき革命が相次いだ。地球は生態的にも歴史的にも、単一の領域に統合された。経済は指数関数的な成長を遂げ、人類は現在、かつてはおとぎ話の中にしかありえなかったほどの豊かさを享受している。科学と産業革命のおかげで、人類は超人間的な力と実質的に無限のエネルギーを手に入れた。その結果、社会秩序は根底から変容した。政治や日常生活、人間心理も同様だ。
だが、私たちは以前より幸せになっただろうか?過去五世紀の間に人類が蓄積してきた豊かさに、私たちは新たな満足を見つけたのだろうか?認知革命以降の7万年ほどの激動の時代に、世界はより暮らしやすい場所になったのだろうか?
もしそうでないとすれば、農耕や都市、書記、貨幣制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう?
歴史学者がこうした問いを投げかけることはめったにない。だがこれらは、歴史について私たちが投げかけうる最も重要な問いだ。現在のさまざまなイデオロギーや政策は、人間の幸福の真の源に関するかなり浅薄な見解に基づいていることが多い。
国民主羲者は、私たちの幸福には政治的な自決権が欠かせないと考える。共産主義者は、プロレタリアート独裁の下でこそ、万人が至福を得られるだろうと訴える。資本主義者は、経済成長と物質的豊かさを実現し、人々に自立と進取の精神を教え諭すことによって、自由市場だけが最大多数の最大幸福をもたらすことができると主張する。
これまで歴史学者は、こうした問題に答えることは言うに及ばず、問題を提起することさえも避けてきた。彼らは政治や社会、経済、社会的、性別(ジェンダー)、疾病、性行動、食物、衣服など、ほぼあらゆる事柄の歴史について研究してきたが、そこで一呼吸置いて、それらが人間の幸福に及ぼす影響について問うことはめったになかった。
過去半世紀の束の間の黄金期でさえも、じつは将来の大惨事の種を蒔いていたことが、やがて明らかになるかもしれない。この数十年、私たちは新しい多種多様な形で地球の生態学的均衡を乱し続けており、これは深刻な結果をもたらす恐れが強いと思われる。見境のない過剰な消費によって、私たちが人類繁栄の基盤を損ないつつあることを示す多くの証拠が挙がっている。
これまで私たちは、建康や食事、富など、おおむね物質的要因の産物であるかのように幸福を論じてきた。より豊かで健康になれば、人々はより幸せにもなるはずだ、と。だがこれは、本当にそれほど自明なことなのか?哲学者や聖職者、詩人たちは、幸福の性質について何千年も思案を重ねてきた。そしてその多くが、社会的、倫理的、精神的要因も物質的な条件と同じように、幸福に重大な影響を与えるという結論に達した。
ひよっとすると、豊かな近代社会に生きる人々は、繁栄を謳歌しているにもかかわらず、疎外感や空しさに苛まれているのではないだろうか?そして、私たちよりも貧しかった祖先たちは、コミユニティや宗教、自然との絆に大きな満足を見出していたのではないだろうか?
一般に認められている定義によると、幸福とは「主観的厚生」とされる。この見方によると、幸福とは、たった今感じている决感であれ、自分の人生のあり方に対する長期にわたる満足感であれ、私が心の中で感じるものを意味する。幸福とは、心の中で感じるものだとしたらどうすれば外部から計測できるだろう?
おそらく、どう感じているのかを聞き取るという方法で、計測が可能だと思われる。そこで、人々の幸福度を評価しようとする心理学者や生物学者は被験者に質問表を渡して記入してもらい、その回答を記録するという方法を採る。
歴史学者はこうした調査結果をもとに、過去における富や政治的自由、離婚率などとの相関を検証することができる。興味深い結論の一つは、富が実際に幸福をもたらすことだ。だがそれは、一定の水準までで、そこを超えると富はほとんど意味を持たなくなる。
興味深い発見は、まだある。病気は短期的には幸福度を下落させるが、長期的な苦悩の種となるのは、それが悪化の一途をたどったり、継続的で心身ともに消耗させるような痛みを伴ったりする場合に限られるという。
家族やコミュニティは、富や健康よりも幸福感に大きな影響を及ぼすようだ。緊密で協力的なコミュニティに暮らし、強い絆で結ばれた家族を持つ人々は、家庭が崩壊し、コミュニテイの一員にもなれない(もしくは、なろうとしたことのない)人々よりも、はるかに幸せだという。
結婚生活はとりわけ重要だ。良好な結婚生活と高い主観的厚生、そして劣悪な結婚生活と不幸の間に、きわめて密接な相関関係があることは、研究によって繰り返し示されている。
貧しい上に病床臥せっていても、愛情深い配偶者や献身的な家族、温かいコミュニティに恵まれた人は、孤独な億万長者よりも幸せだろう。
以上から、過去二世紀の物質面における劇的な状況改善は、家族やコミュニティの崩壊によって相殺されてしまった可能性が浮上する。となると、現在の平均的な人の幸福度は、1800年の幸福度と変わらないのかもしれない。
だが、何にも増して重要な発見は、幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえも、それほど左右されないということだ。幸福はむしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる。状況が改善すると期待も膨らむので、結果として客観的条件が劇的に改善してもなお、満足が得られないこともある。
幸福が主観的な期待に基づくという知見を得たことで、歴史学者の仕事は格段に難しくなった。私たち現代人は、鎮静剤や鎮痛剤を必要に応じて自由に使えるものの、苦痛の軽減や快楽に対する期待があまりに膨らみ、不便さや不快感に対する耐性がはなはだ弱まったために、おそらくいつの時代の祖先よりも強い苦痛を感じていると思われる。
快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。仏教によれば、苦しみの根源は苦痛の感情でも、悲しみの感隋でもなければ、無意味さの感情でさえないという。むしろ苦しみの真の根源は、束の間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けることなのだ。
そして感情を追い求めれば、私たちはつねに緊張し、昆乱し、不満を抱くことになる。この追求のせいで、心はけっして満たされることはない。人間は、あれやこれやのはかない感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。
それが仏教で瞑想の鍛錬を積む目的だ。感情の追求をやめると、心は緊張が解け、澄み渡り、満足する。喜びや怒りなど、ありとあらゆる感情が現れては消えることを繰り返すが、特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け容れられるようになる。ああだったかもしれない、こうだったかもしれないなどという空想をやめて、今この瞬間を生きることができるようになるのだ。
そうして得られた安らぎはとてつもなく深く、喜びの感情を必死で追い求めることに人生を費やしている人々には皆目見当もつかない。
とはいえ、ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった。
以上を要約すると、主観的厚生を計測する質問表では、私たちの幸福は主観的感情と同一視される。対照的に、仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるのかを理解することだとされる。
ひよっとすると、期待が満たされるかどうかや、快い感情を味わえるかどうかは、たいして重要ではないのかもしれない。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。
学者たちが幸福の歴史を研究し始めたのは、ほんの数年前のことで、そのため、確たる結論を出し、始まったばかりの議論に終止符を打つのは、あまりにも時期尚早だ。異なる探究方法をできるだけ多く見出し、適切な問いを投げかけることが重要だ。
本書は歴史を、物理的現象から化学的現象、生物学的現象へと連なる連続体の次なる段階として提示するところから始まった。サピエンスは、他のあらゆる生物を支配するのと同じ物理的力や化学反応、自然選択の過程に支配されている。自然選択はホモ・サピエンスに、他のどの生き物よりもはるかに広い活動領域を与えたかもしれないが、これまでその領域にもやはり限度があった。サピエンスは、どれだけ努力しようと、どれだけ達成しようと、生物学的に定められた限界を突破できないというのが、これまで暗黙の了解だった。
だが21世紀の幕が開いた今、これはもはや真実ではない。ホモ・サピエンスはそうした限界を超えつつある。ホモ・サピエンスは、自然選択の法則を打ち破り始めており、知的設計の法則をその後釜に据えようとしているのだ。
「あとがき…神になった動物」
7万年前、ホモ・サピエンスはまだ、アフリカの片隅で生きていくのに精一杯の、取るに足りない動物だった。ところがその後の年月に、全地球の主となり、生態系を脅かすに至った。今日、ホモ・サピエンスは、神になる寸前で、永遠の若さばかりか、創造と破壊の神聖な能力さえも手に入れかけている。
不幸にも、サピエンスによる地球支配はこれまで、私たちが誇れるようなものをほとんど生み出していない。私たちは環境を征服し、食物の生産量を増やし、都市を築き、帝国を打ち立て、広大な交易ネットワークを作り上げた。だが、世の中の苦しみの量を減らしただろうか?
人間の力は再三にわたって大幅に増したが、個々のサピエンスの幸福は必ずしも増進しなかったし、他の動物たちにはたいてい甚大な災禍を招いた。
過去数十年間、私たちは飢饉や疫病、戦争を減らし、人間の境遇に関しては、ようやく多少なりとも真の進歩を遂げた。とはいえ、他の動物たちの境遇はかつてないほどの速さで悪化の一途をたどっているし、人類の境遇の改善はあまりに最近の薄弱な現象であり、けっして確実なものではない。そのうえ、人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進歩してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。
私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えば良いかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。
自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろぅか?
(完)
1826.コロナから身を守る原則。20/11/28
サンデー毎日(12/6)「冬コロナから身を守る5原則」倉重篤郎から要約
…コ□ナ第3波が襲来し、感染の拡大に歯止めがかからない。私たちはこの状況下でいかにわが身を守ればいいのか。政府や感染症厶ラに付度しない上昌広・医療ガバナンス研究所理事長が、あり得べき最良のコ□ナ対策を語る。
11月に入り感染者数が連日100人を超え、明らかに「第3波入り」(中川俊男日本医師会会長)した感が強い。
これにショックを受けているのが菅義偉政権だ。北海道も大阪も、観光地であり、政権の看板である「GoToトラベル」事業の影響を受けた形跡があるからだ。
政府関係者によると、北海道を対象にコロナウイルスのゲノム解析調査をしたところ、明らかに東京からの観光客による感染の疑いが出てきた。
もぅ一つ深刻なのは、大阪だ。感染者が塊としてまとまって出るクラスター感染の域はすでに超え、無症状感染者が街中のどこにいるかわからない、という市中感染にまでフェーズが上がっている可能性が高い、という。
観光運輸族のドンである二階俊博.自民党幹事長と官房長官だった菅氏が7月22日、周囲の反対を押し切ってスタート、9月末までに2518万人泊、割引支援総額1099億円を稼ぎ、すでに年末年始は全国どこのリゾートも予約で満杯という「実績」があるだけに、そう簡単にやめ
られなくなっている。
一方で、「Go To」が感染拡大の一因となっていることが判明した以上、そ
の見直しが必要で、政府の新型コロナウイルス対策分科会の尾身茂会長は「(緊急事態宣言)回避のために、今が非常に重要な時だ」(12日)と警告。官邸、専門家の認識のズレが生じている。
市中感染問題も重要だ。…安倍晋三前首相が検査増を命じても、陰で厚労官僚が火消しに回るなどして、現時点の1日あたりの検査能力は最大10万件でしかない。
政権としては「Goto」見直し、PCR検査の抜本拡大、という二つの難題を抱えたことになる。政権がどこまで対処できるのか。期待はできないが、それだけにこの状況下、我々は最低限自分の身だけは守る知恵を持ちたいと思う。
上昌広氏は世界のコロナ医療情報にも通じている、現役の臨床医師でもある。
札幌が深刻だ。
「過去に学んでいませんね。新宿.歌舞伎町の蔓延はPCR検査を速やかにしなかったことから起きた。ススキノも前広に一斉検査すればよかった。…大した予算ではなかったはずだ。ここまで来ると道経済全体に大きなダメージを与えてしまう。後悔が残る」
大阪では市中感染だ。
「クラスターと市中感染はきれいに分かれるものではない。世田谷区で無症状の介護従事者を検査した際0. 7%が陽性だった。無症状感染者があちこちにいる、ということだ。クラス夕−とは、ある地域での集団発生現象のことを言うだけで、ベースには広範な市中感染がある。無症状のキャリアが街中に大勢いる、という認識が世界のコンセンサスだが、日本ではそれがフィクションになっている。1万人調べればすぐわかる」
菅首相に対応可能か?
「10月26日の所信表明演説を聞いてがっかりした。PCR検査は重症者中心にすると言い切った。我々が一貫して主張している、無症状感染者こそ、あるいはエッセンシャルワーカーこそ検査対象にして、経済と医療を両立させる方式には、今回もまた目を向けてくれなかった。世界からどう見られているか、という意識がない。検査能力も1日平均20万件確保、,と言うが、中国青島では1000万人検査を5日間でやったし、欧米も件数のケタが違う。この1年間一体何をやってきたのか、と正直言って思う。ネックの保健所に抜本的対策を講じてこなかった」
今からでも転換すれば?
「菅さんはやらないでしょう。人事でも政策担当者を代えなかった。自民党でコロナ対策本部長を務めてきた田村憲久さんを厚労相、厚労相だった加藤勝信さんを総合調整役の内閣官房長官にした。政策も変わりようがない。今さら方向転換すると、責任論になる。察するに菅さんは、神風がモンゴル軍を撃退するのを期待するような心境ではないか。ファイザーワクチンにかけているのではないか」
「…一人の医師として75歳の糖尿病患者にワクチンを勧めるかは微妙だ。ワクチンは、持病のある高齢者ほど免疫がつきにくく副作用が出やすいからだ。ただし、本当に効いて副作用がなければ(コロナ問題は)解決だ」
そんな中、どう身を守る?
「正確な情報を得て一緒に考えてくれる『コロナかかりつけ医』を持つことだと思ぅ。勤務医でも開業医でも構わない。患者の立場で個別対応をしてくれる人を作ることだ」
インフルワクチンがコロナ対策にも有効だと?
「二重に有効の可能性が高い。打っておけばインフルにかかっても症状が軽微になるし、コロナと間違えられない。インフルワクチンによって免疫が活性化し、コロナにもかかりにくくなるとの研究成果もある。…MMRワクチン(麻疹、風疹、おたふく風邪)を接種後、コロナに感染した36例はいずれも軽症であったと報告した。50歳以上は帯状疱疹のワクチンも打っておいた方がいい」
マスクは有効か?
「英の医師会雑誌『BMJ』によると、マスクは有効だが、状況によって変わる。屋外散歩には必要はないが、部屋の中でも大声を出すような行為は要注意だ」
飲み会は厳禁か?
「米国のつい最近の研究によると、一番感染リスクが高いのは飲食店だが入れる客を減らすだけで相当な確率でリスクが下がる。すいている店に行けばいい。この辺の居酒屋はガラガラだ
から感染リスクほぼゼロだ。少数の仲間内で飲みに行くことに私は反対しない。不特定多数の人間と交わるところにリスクが生じる。通勤電車も感染リスクほぼゼロだ。3密ではあるが中でしゃべらない限り唾液感染はない。本当はこういった関心事項について感染研が積極的に調査、データを開示していくべきだ」
家庭内感染は?
「多分防げない。会話するな、マスクしろ、は現実的ではない。家庭内で守るベき人、高齢者、妊婦、子供にはきちんと検査する。抗原検査キットをもっと薬局で売るようにしたらいい。今海外では5ドルで買える。感度が悪いといってもやらないよりまし、不安解消になる。スロバキアでは全国民への抗原検査を始めた。日本でできないわけない」
高齢者は体を動かせと?
「この冬、コロナ関連死という概念が出てきた。欧米では、コロナに罹患して死んだ人よりもコロナ下で持病を悪化させて死んだ方が多い。70、80代の高齢者が家に閉じこもると、わずか
数週間で心臓機能が悪化するという研究が今年出ている。しかも、心筋梗塞や脳卒中が増えるのは冬だ。高齢者が健康を守るためにもっと運動をしなければいけないことを意味する」
コロナ第3波の特徴は。
「欧州に限らず日本でも死者が減っていることだ。コロナ治療における医療管理の質が向上したためだ。第1波、2波の死因の多くは肺炎だった。コロナの場合、一見無症状で診断と治療が遅れ、炎症が進んでしまうケースが多かった。そこに英国の研究グループが着目し、その間にステロイドホルモンを使ったらかなり効果を上げた。無症状段階でも肺炎が深刻化することがあり得る、として、早い段階で医療介入し始めた。これが肺炎での死者数減に貢献した。ただ、これは短期的死亡データからの推論で、長期的データによるこのウイルスのもたらす害についてはまだわかっていないことが多い」
後遺症の懸念もあると。
「肺炎で大量死する状況はある程度克服できたが、次に何が来るか。さまざまな後遺症を生むことがわかってきた。心筋への炎症、糖尿病に与える影響、脳卒中なんかも起こしている。心臓疾患、あるいは自己免疫疾患のような長期合併症をもたらすのではないか、ということも注目されている」
日本の最大の課題は?
「感染管理の拡充だ。ただ、マスク着用、ソーシャルディスタンスは、日本人はこれ以上できないところまでやっている。優等生だ。足りないのはPCR検査の拡大だ。感染症の基本に戻って判定、隔離、治療を広げていくことだ。ワクチンも成功すればグッドニュースだが、感染管理といぅ自力でできることをきちんとやるだけで飛躍の機会ともなる。中国に行きたい人は少ないが、感染管理した日本に来たい人は多い。インバウンドも戻ってくる」
「感染者と濃厚接触者のみを検査対象とした感染症法を改正して、国民生活に不可欠の労働力を提供するエッセンシャルワーカーをも検査対象にきちんと位置付けることだ。1000万人という数の彼らを対象に月に1、2回検査ができるようにする。国民生活の不安解消につながり、経済も活性化する。感染管理したら勝手に景気が戻ってくる。台湾と中国がそうだ。感染管理が一番コストが安い。これが国際標準だ」
それができないと?
「コロナは安倍政権を葬り去った。首相が音頭を取ってもPCR検査拡大という感染管理ができなかった。『Go To』はやってもいい。大量に検査し、その陰性者を条件に補助すればいいことだ。半端な対応を続けると経済も医療も両方失うことになる。コロナ第2幕は、経済破綻で菅政権を葬り去ることになろう」
菅政権の判断は、一政権の命運のみならず日本国民の生活と生命にも関わる重要局面になりつつある。
1827.四文字熟語が出たら要注意。20/11/28
サンデー毎日(12/6)「菅政権高支持率のナゾ」山田厚俊から
まだスター卜して間もない菅政権に対し、批判よりも、まずは期待して見てみようという雰囲気が表れているのだという。日本大法学部の岩井奉信教授も期待感だと語る。
「長期間にわたり続いた安倍政権。その安倍政治を引き継ぐと宣言した菅首相は、安倍晋三前首相の支持者が支える一方、長期政権に飽きていた国民も乗っかった。その双方の期待感が継続している」
また、高支持率の背景には、自公政権では久々のたたき上げ首相という点もあると、岩井教授は語る。「世襲首相に国民は辟易していた。久しぶりの,たたき上げ首相,誕生に、世論はまだ温かい目で見守っている状態」
「新政権発足後の100日間はハネムーン期間と呼ばれ、支持率は高い。ただ、実績がないので、実態は様子見の状態」こう語るのは、選挙プランナーの松田馨氏だ。
松田氏が注目しているのは、意外な点だった。
「各社の調査は、実は『支持』『不支持』の2択ではありません。正確には『分からない』や『どちらとも言えない』があります。たとえば、NHKの直近の調査で『分からない』は25%。驚きなのはネット調査で、『どちらとも言えない』が最大の43%でした」
これが様子見の正体で、今後の政権運営次第で支持率は大きく変わると指摘する。
「生活に密着した問題を一つ一つ追及したり、対案を出していかない限り、野党の支持率は伸びない。言い換えると、内閣支持率は簡単に落ちそうにない」(松田氏)
一方、米重氏は菅首相のしたたかさを指摘する。
「自民党にはマーケティングの発想があり、野党にはそれが欠けている」
これは菅首相の竹中平教授が言うアーリースモールサクセスだ。早い段階での「小さな成功を積み重ねることが大事」。
(偏者注:この記事が書かれた後で、状況は2つの点で大きく変わりました。コロナでGotoを強引に進めたかと思うと、感染者の急増に慌てて、方向転換。次は桜の会で、安倍前首相が関与を認めてしまい、答弁のはしごを外されたことです。私はこの記事ほどには、足元は盤石ではないと思います。しかも記者が、竹中を評価するなどは、もっての他であって、少しは過去のこと=竹中の無責任ぶり、でも勉強して頂きたいものです)
同じく「半藤一利の怒り、薩長支配の帰結が太平洋戦争」保坂正康から
半藤の昭和史を含めての歴史的視点は、ファシズムに通じる語彙に神経質になることだ。他にも何点かの特徴がある。そのひとつが、薩長史観への怒りである。近代国家における薩長の支配による帝国主義的政策への不満と苛立ちが明確なのである。有り体に言えば、我々は真の近代史を学んでいないとなるとも言えようか。
半藤の怒りは、この国の歴史が一勢力に利用されたのであり、広く国民の支持を受けていない、という点にあった。
太平洋戦争は薩長なるものの一つの帰結点として戦われたのであり、その敗戦はむしろ賊軍と称された指導者たちによって担われたという事実、鈴木貫太郎、米内光政などを見てもすぐにわかるだろう。近代日本の軍事至上主義がこの国の解体を目指して進んだのに対し、それを身を挺して防いだ鈴木のような存在は、半藤たちの世代には理知派であると同時に、救国の雄として映るのも当然であろう。
私は半藤の世代の作家の人たちと何度か対談を試みている。半藤は、こうした時代を迎えないための知恵を持って、独自の目を持つことを訴えている。
日本人はどうして四文字七音が好きなのだろう、と半藤は分析する。この七音が、戦争や動乱、それに社会不安の折に必ず繰り返される。維新の時には「尊王攘夷」「大政奉還」といった語が囁かれ、日本の新しい時代はスター卜した。
以来、近代日本では次々にこの四文字熟語、七音が国の掛け声に利用された。明治に入ると「王政復古」「文明開化」「万機公論」「廃藩置県」「不平士族」「良妻賢母」と次から次へとこの種の掛け声が出てくる。
もう少し明治期のこの掛け声を列記してみようか。「国民皆兵」「自由民権」「富国強兵」「臥薪嘗胆」と次々に続いていく。ところが明治の終わり、大正期にはそれほどこの種の四文字熟語はない。
それが昭和になると次々に作られていく。「五族協和」「神国日本」「八紘一宇」「東亜解放」と数え上げたらキリがない。「挙国一致」などもすぐに挙げられる。太平洋戦争の折にはそれこそ、戦況の不利を補うために次から次へと生み出された。
日本人のリズム感にこの四文字七音が符合するということになるのだろうが、逆に言えばこれはかなり危険なリズムなのである。半滕はこのリズムの危険性を警告しているのである。
戦後日本が価値観の多様化で、国民の心がばらばらになっているところへ、こういうスローガンが出てきたら警戒しなければならないということである。
いつ戦争の時代に入るかわからないこの国のファシズムの怖さ、そして非人間的な空間に転じるときは、必ず快い響きの四文字七音が人々の□に上っているということは、今警戒しなければならない教訓だと、半藤は何度も指摘している。
半藤が旧制高校の学生であった頃(昭和23年}「東京?数寄屋橋の橋上で、若い男が背中に、「生命売ります」という看板をかけて、寒風の中、じっと立っていた。そんな遠い昔の話ではない。いや、いま、そんな心境や境遇の人がすぐとなりにいるのかもしれず、私たちの時代がいつ、また戦争の時代に入らないとも限らない。日々の風景が、日々のリズムが異様に転じないか注視すること」。半藤の世代からの貴重な伝言である。'
コメント:菅や加藤なら容易に4文字のスローガンを発しそうです。小池知事もスローガンは大好きみたいですが。
1828.女帝の私闘。20/11/28
週刊文春(12/3)「小池百合子、3人のコロナ対策幹部が消えた」から
5つの小を発表した小池都知事。犬猿の仲として知られる菅義偉氏が首相に就任して以来、存在感が希薄になっていた。九月下旬には、親しい知人にこんな愚痴をこぼしていた。
「マスコミは一社も私の味方をしない。今まではどこかが味方してくれたのに」
そんな彼女が再びらしさを発揮したのが、19日の緊急会見。自身の苗字からヒントを得た「5つの小」を繰り出したのだ。
その二日後、菅首相がGoToトラベルの見直しを表明。首相が運用停止の判断は「都道府県知事に委ねる」と述べると、小池氏は早速「あくまで国が判断すること」と反論した。
両者は11月12日に手打ちの会談をしたばかりで、機を見るに敏な手の平返しはさすが。首相への対抗意識は強く、職員にも折に触れ、コロナ対策やデジタル改革などを『国より先に進めて』と指示しています」(都庁職員)
ところが、その都政改革は早くも緊急事態を迎えているという。
「実は小池氏が七月に再選して以降、コロナ対策を担う都庁幹部が次々消えているのです」(都庁関係者)
一人目は、コロナ対策の指揮官だった福祉保健局長の内藤淳氏。再選直後に、コロナとは無関係の交通局長に異動となった。
「保健所との連携強化を進言する内藤氏に、小池氏は『そんなに言うならあなたが保健所に行けばいいじゃない』と言い捨てたそうです」
(編者注:これは保健所が区の直轄であることと無関係ではないと思います)
小池氏が都知事選で公約の目玉に掲げたのが「東京CDC (感染症対策センター)」の設立。その司令塔として新設したポスト、健康危機管理担当局長に起用された岩瀬和春氏も、「就任から僅かーカ月半で体調不良を理由に交代しました。二転三転する小池氏の指示に嫌気が差したと言われている。後任の局長は公衆衛生の経験がなく、『不可解な人寧だ』とボヤいていました」。
8月末には医師免許を持つ感染症危機管理担当部長が退職。コロナ担当幹部が3人も異動、退職という異例の事態が起きているのだ。
別の都庁関係者が嘆く。
「それでも、小池氏はどこ吹く風。百人以上の感染が確認された豊洲市場についても『あそこはマスクをしない文化だから』と他人事。『Gotoはどうなるでしようね、ハハ』と笑っていた。感染者急増で再びスポットラィトが当たっているからか、上機嫌です」。
コメント:何をかいわんやですが、女帝が権限を私物化し、自分の意向に沿わない職員に、人事権を乱用するような状況では、都のコロナ対策に期待しろと言う方が無理でしょう。人事家の乱用は菅官邸の十八番ですが、行政に私怨を持ち込む、公私の区別のつかない政治家が国民や都民にとっては一番迷惑です。
関連記事。加藤が不快感。
https://www.47news.jp/news/5541111.html
・時短要請、今回は応じない店も。
https://www.47news.jp/news/new_type_pneumonia/5543655.html
関連記事。鍋料理店悲鳴。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020112800160&g=soc&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
関連記事。Gotoトラベル、国が判断すべき。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/11/2757061.php
関連記事。こだわる菅との遺恨試合。
https://diamond.jp/articles/-/255640
コメント:小池都知事は、現場の苦労を分かっていないし、分かろうともしていないのではないか。ひたすら自分さえ目立てばそれで満足だということなのでしょうか(週刊文春の指摘)。68歳にもなって、未だに大人としての分別もない小娘のままだということなのでしょうか。それともいつもちやほやされていなければ、気が済まないのでしょうか。しかも知事選では、対立候補を立てずに自分を支持してくれた二階(=自民党)を、その後、ものの見事に裏切っているのです。菅を恨む資格などないのです。
自分が言い出したかのような、時短にしても、もとは国の要請だし、しかも補償費用の7割は国が負担しているのです。かたや都知事はどのようなコロナ対策を講じてきたのでしょうか。
検査も増えないし、病床も増えない。保健所との連携さえ拒否してきたのはどこの誰なのか。。五輪にだけは熱心ですが、五輪はコロナが収束することが条件(最近ではワクチンが出来ればそれでいいというような議論のすり替えが横行しているが)のはずでしょう。
特に、昨今のコロナ対策で国と協力どころか、対立する姿勢には、誰もが疑問の声を上げています(TBSならスペクターや柳沢)。国との対立にどんな意味や狙いがあるのか、都民に直接説明する義務があります。なぜなら我々は、知事の報酬を含む、少なからぬ都税を負担させられているからです。
はっきり言えば、それは菅・小池の私怨と私闘なのではないのですか。Gotoの除外や突然中止では、都知事だけを批判できないにしても、今「都民のためのするべきこと」は、Gotoの中止であることは明らかです、それとも小池知事は、経済活性化のためにGotoは続けるべきだと言いたいのでしょうか。そうなら、頭が狂っているので、コロナうつの疑いで神経科を受診することをお勧めします。
もっとあけすけに言えば、頭の悪い、首相と都知事の子供の喧嘩なら、何処かよそへ行ってやって頂きたい。今は菅・小池両氏の人間性に疑問が投げかけられているのです。それさえ分からないようでは、人の上に立つ資格などないのです。
小池知事は、今でも、記者には自分に不利な質問は禁止、または回答を拒否しているのでしょうか。鳴り物入りの東京CDCだって、どのように役に立っているのか、我々には全く分かりません。また週刊文春が指摘した、コロナ関係の都の職員の左遷には、どういう理由と目的があるのでしょうか。
こんな不可解な状況では、いかに都知事が口頭で心配しても、都民の命を守ることに真剣でないと思うのは私だけではないでしょう。口だけ(リップサービス)ではなく、北海道や大阪の知事のように、身を切る決断と行動が必要なのです。
・指定感染症延長。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020112800284&g=soc
コメント:これが原因で、検査数の減少、病症のひっ迫を招いているというのに、そうまでして厚労省は感染症のイニシャティブと、自省の権益を守りたいのでしょうか。
1829.北九州市を見習え。20/12/1
11/25のBSTBS1930に、北九州市の市長が登場しました。北九州市では感染者が急激に増加していないのはなぜかという質問に対し、市長の答えは簡単でした。それは無症状でも、濃厚接触者を全員検査したからというものでした。国の検査方針は、濃厚接触者で、しかも症状のある人しか検査しないというものだった。しかも担当医が必要と思っても、間に入る保健所が検査を認めないケースもあった。しかし東京都の医師会長の悲痛な叫びを聞いて、今のままでは、市の医療体制が崩壊するという危機感を抱いた。そこで北九州市では、症状がなくても濃厚接触者を全員検査することにした。その結果、無症状の感染者を見つけ出すことができ、感染拡大を阻止することができた。検査方法としては、ドライブスルー検査を取り入れた、というものです。
振り返って、東京都ではどうでしょうか。唯一ドライブスルーを計画していた世田谷区でも検査は頓挫しています。都知事には検査を増やす気があるようには思えません。飾りに過ぎない知事ならば、コロナが収束するまで、北九州市の市長と交代して頂けないものでしょうか。そうすれば、死ななくても良い命(志村けん等)を、一人でも多く救うことが出来るのではないでしょうか。
一方で国の策策はといえば、厚労大臣がコロナの指定感染症の指定を延長すると言いました。ということは厚労省が管轄し、その下の感染研や保健所が対策を仕切るので、今までと変わらないということです。無論検査も増えないでしょう。厚労省の権限(または利権)のために、感染拡大が止めらない。ということは、これから重症で死んでゆく人々は、安倍政権と厚労省のお役人が、間接的に手を下すのも同じではないでしょうか。
関連記事。指定感染症延長。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020112800284&g=soc
・Goto来年の大型連休まで。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020113000524&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
関連記事。北海道からGoto批判。
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20201127/pol/00m/010/002000c
関連記事。菅の恐怖政治。
https://mainichi.jp/articles/20201129/k00/00m/040/309000c
関連記事。首相の器ではない。
https://mainichi.jp/articles/20201128/k00/00m/010/222000c
コメント:国民は収入もないのに旅行せよというのか。Gotoにしがみつく菅は、大東亜戦争当時の東条英機と同じです。歴史は繰り返す。民意より、自分の見栄。しかも国民の金です。意地の張り合いでは、小池ゆりこも同じです。
・東京は早くGoto中止の決断を。秋田県知事。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20201130-OYT1T50075/
コメント:なにせ「出来損ないの人でなし」が知事なので、他県に御迷惑をおかけしています。金の玉座でも作ってやれば、満足するのかもしれないが。
1830.背任知事の言葉遊び。20/12/2
NHKの「英雄たちの選択」によれば、鹿鳴館の花と言われた大山捨松は、会津藩の家老の娘として有名な、ならぬものはならぬの「什の掟」を厳しく自分に律していた。そして女子留学生第一号として米国に10年留学し、帰国後は日本の近代化、西欧化に大きな役割を果たした。留学と言えば、思い出されるのは某都知事であるが、エジプトに留学したが、その卒業及び成績に関しては疑惑が多く、学歴詐称の疑いも持たれている。
その壮絶な半生を描いた「女帝」を読むと、都知事のこれまでの人生は(そして今も)他人の世話になり、他人に迷惑をかけ続けてきた人生のように思われる。彼女の他人に対する感謝や謝罪の言葉を聞いた記憶はないが、私自身の記憶の範囲内でも、小池知事に至る政治人生で、世話になった人たちに「後足で砂をかけた」場面が何度もあったように思われる。
中でも(なぜか誰も口にしないが)、一番迷惑した関係者は、他ならぬ(見捨てられた)都民ファーストの会の都議会議員だろう。来るべき都議選では、彼らは自分達の力で当選を勝ち取るしかないからだ。知事に再選されてからも、都知事から人間らしい暖かい言葉(=気持ち)や社会的弱者に対する配慮が、我々都民に伝わってくることはなかった。
ではなぜ、高い得票数で再選されたのか。それは一重に知名度のなせる業だと思われる。悪目立ちであっては、無名よりはましだからだ。そして強引さ、非情さ、しかも公約さえ反故にする無節操さえ、一部の女性には強さや頼もしさに映ったのではないか。それが知名度となり、支持者の中に岩盤層を築いてきた。それはトランプが白人低所得者層、反知性主義を岩盤として、のし上がってきたことに良く似ている。勢いとイメージだけで、それを除くと、あとには何も残らないからだ。しかも公約を連発するのに、実績は殆どないのも似ている。
都知事を支持する記者やコメンテーターもいるが、彼女ら(男性では見たことがない)は、小池知事はいついかなる時も、絶対に正しいという前提から話を始める。彼女らは、政治家の支持者を超えた、小池教の信者のように思われる。小池知事は、政治家をも超越した、新興宗教の教祖のような存在なのかもしれない。
政治経済の状況も分析する時間的余裕もなく、人物を見極める力も不足している「一般大衆」には、見た目のイメージ(=印象操作)と、言葉の勢い(最近では5つの小)だけあれば良いということを、小池知事は良く心得ているに違いない。謝罪も感謝も、およそ自分を顧みたり、他との和を図るようなるような言動は、過去の自分を否定することに他ならない。だからそんな無駄なことより、ひたすら「現在の」自分の存在感をアピールすることに命を燃やしているのである。
反対するは愚か、自分の言うことを聞かない部下なら、容赦なく左遷すればいい。知事には職員に対する無限の人事権があるからだ。だから好き嫌いで決めて何が悪いのか。安倍政権に反発する国民を「あんな人たち」で一括りにした安倍晋三と同じ価値観でいいではないか。安倍晋三とは国家主義、独裁政治でも一致している。外国人を含めた社会的弱者は票にならない。だから(これも安倍と同様)配慮(朝鮮人虐殺事件を含めて)の必要もない。都民は自分の指示に従ってさえいれば良い。仮に政策がうまくいかなくても(実際達成できた政策はほぼ皆無)、それは自分の責任ではない。だから謝る必要も、反省する必要もない。これという政界の実力者には、媚を売って近づき(失礼)、甘言を弄して、一時をしのげればそれで良い。最大の関心はメディアへの露出と、自分の知名度のみ。
そして今は、コロナ禍なのに、これという有効な手も打たず(感染者数の増加、病床の不足が無策を物語る)大阪知事、北海道知事、北九州市長の遥か後塵を排している。でもそれは小池知事の「能力の限界」がそうさせているとも言えるのだ。いまや小池知事は、都民に不幸をまき散らしている存在であり、まさに地獄からきた魔女と見まごうばかりなのである。
それでもおそらく4年間、知事のいすに居座るのだろう。なぜなら国政の方では、もう彼女をお呼びではないからだ。見てくれなどに興味はなく、自己犠牲をいとわない(自分を過度に可愛がらない)まともな女性議員が、与野党にいくらでもいるからである。
たった一つ残る疑問は、なぜ誰も表立って小池知事を批判しようとしないのかである。それほど彼女には人間として(女性から見て)、あるいは女性として(男性から見て)魅力がある存在なのか。一切の批判を封じ込める人心掌握術でも心得ているのだろうか。とはいえ、我慢をしているようにも思えない。この人ほど自分を甘やかす人物は見たことがないからだ。男なら安倍真相と竹中平蔵がそれに近い。この3人に共通して言えることは、嘘を何とも思ないこと、感謝や反省の感覚が元から欠落していることである。これは不自由なく我儘に育てられた(とりわけ世襲の)子弟によく見られる特徴である。
でも今の日本の政治情勢、複雑な外交関係の中で、深謀遠慮と正確なかじ取りができる人間は、見栄や感情で突っ走る、無責任で倫理感のない(善悪の区別がつかない)甘やかされた坊ちゃん、嬢ちゃんではなく、忍耐心と分別を備えた、大人の政治家であろう。無論それが菅だという気は毛頭ない。善悪の区別がつかない点では同じだからだ。しかも実際には苦労人でさえない。
関連記事。 流行語大賞に3密。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020120100740&g=soc&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=e