「WTWオピニオン」
【第123巻の内容】
「菅と竹中で日本沈没」
「橋下は見たくない。政治でもメディアでも」
「国も都も人災」
「学術会議とGotoで分かる菅の限界」
「週刊文春と週間新潮から」
「雑誌世界から」
「メディア批評から」
「瀬戸際の地方自治から」
「犬笛政治の果てにから」
「昭和の世代氏から」
1831.菅と竹中で日本沈没。20/12/5
今日の前書きは、辛口で共感するところの多い竹高信と、最近KYの度合いが酷くなりつつある田原総一朗のコメントからです。
サンデー毎日2/13号 「菅は安倍離れか」倉重篤郎から監視のある部分だけを抜粋要約。
倉重:問題はなぜこの時期に検察が動き始めたかだ。この問題については5月21日、全国の弁護士ら法律関係者662人(元最高裁判事も含む)が両法違反の疑いで検察に告発していた。
佐高:安倍氏が辞めたのは、自分の身辺に捜査が及んだからだと思う。第1次政権の退陣時も「『相続税3億円脱税』疑惑」報道との関連を取り沙汰された。
田原:実は、「桜」が安倍氏の最大の弱点だった。それは自民党要人も安倍周辺も認めていた。今の自民党は腐っている、と言ったら、菅氏(当時官房長官)は「反論も弁解もできない。野党が弱すぎ、選挙制度のおかげで皆が安倍さんのイエスマンになった。どうしようもない」と認めるし、二階俊博幹事長も「その通り」と。
佐高:私はある一面だが韓国がうらやましい。李 明博でも朴槿恵でも前大統領を捕まえてしまう。日本では安倍氏が辞めるというだけで支持率が上がってしまう。何でそうなるのか。検察もそういった世論動向をにらんでいるのではないか。
田原:菅氏がやらせたとの説もあるが、そんなに菅、安倍関係は悪くない。
佐高:ただ、捜査を止めようとはしなかったのではないか。政権は安倍氏から禅譲された形だが、安倍氏が首相の専権事項である解散権に言及するなど目障りになってきたのではないか。
田原:菅氏の安倍離れの兆候を感じないでもなかった。経済司令塔を安倍時代の経産省主導から竹中平蔵氏(パソナ会長)軸の成長戦略会議に切り替えたし、安全保障政策では、退陣後の安倍氏を活用したらどうかとの進言に乗らなかった。
倉重:なぜ安倍氏は6人をそこまで嫌った?安保法制に反対したから?でも、6人の中で宇野重規氏だけが2度拒否された。なぜか。
田原:宇野氏の実父.宇野重昭氏(17年死去)は安倍氏が学生時代の成蹊大法学部教授で法学部長、学長まで務めた方だが、青木理氏の『安倍三代』で取材に応じて安保法制について批判、安倍氏についても「彼は憲法が何かもわかっていない気がします」「健全な保守を発見してもらいたいと思います。でなければ歴史に名を遺すのではなく、とんでもないことをしちゃった総理としてマイナスな名を残すことになる」と語っている。
佐高:菅さんは内閣官房参与に高橋洋一氏(嘉悦大教授)を任命したが、彼は過去に「窃盗容疑」で警察の取り調べを受け、東洋大を懲戒解雇されている(起訴猶予)。優れた業績のある6人の学者を理由も説明せずに学術会議会員に任命拒否した一方で、業績は別として窃盗容疑で懲戒解雇された人物を登用する菅さんの倫理基準を問うというやり方だって野党にはあるはずだ。
田原:彼は自分がエリートではないといぅ意識がある。人に会って聞きたいと。
佐高:警察官僚内閣だと思う。陰湿だ。前川喜平元文科事務次官のケース(前川氏の私生活に杉田和博官房副長官が警告)でもそうだが、裏を掴んで物事を動かすみたいな話だ。
佐高:一つ問題にしたいのは、企業の内部留保が475兆円にもなったことだ。組合がだらしなかったことと、法人税を下げに下げたためだ。派遣労働(非正規雇用)を認め企業を自由勝手に振る舞えるょぅにしてしまった結果がこれだ。
田原:法的に認めたのは小泉政権だ(03年3月労働者派遣法改正で製造業および医療業務への派遣解禁、専門的26業種は派遣期間が3年から無制限に)。
佐高:当時経済財政担当相だった竹中氏主導ですよ。今や派遣が全労働者の4割、年収200万以下が1200万人だ。国民購買力が上がらず、経済がしぼむ。それを竹中氏は考えていない。その竹中氏が菅政権の経済司令塔になるという。
田原:日本的経営では正社員をリストラできない。それでは不況になって企業が国際競争力を失う。
佐高:ではなぜ内部留保が475兆円まで膨れ上がるのか。企業を公器と見るか、私器と考えるかだ。竹中氏ら民営化論者は何でもかんでも、公のものでも企業化したい、という。日本の経営者というのは首切りは最大の恥だと思っていた。ところが、リストラという名のもとに首切りする経営者がいいんだと変わってくる。その論調に転化させたのもやはり竹中氏だ。会社を繁栄させさえすれば国民が栄える、という発想だ。
佐高:竹中氏は下々のことはわからないんだと思う。会社が強くなればいいという。極端なことを言えばパソナがもうかればいい。外国人の家事労働を認めると規制緩和を実施した時、受
注企業の一つがパソナで、特区として実験した大阪は維新、神奈川は菅氏だ。利権と政治が結びついて経済理論になっている。
田原:じゃあ、どうすればいい。
佐高:法人税をきちんと上げて、派遣社員をやめる、それしかない。竹中氏と反対のことをする。
(以下略)
1832.橋下は見たくない。政治でもメディアでも。20/12/11
朝日新聞(12/10)に「観光業から政界にまさカネ」という川柳が載っていました。仮に何らかの還流(キックバック)があるとすれば、それは税金の横領です。経産省が間に入った、電通の法外な業務委託を思い出します。
今回の前書きも、同じ12月10日の朝日の講論からです。
「悪役」権力持つ側が認定 平松邦夫 の要約
(2007年の大阪市長選で当選、2011年の市長選で橋下徹氏に敗れた)。
橋下徹さんと私が戦った2011年の大坂市長選では、市内の町会を組織する地域振興会が、橋下さん陣営から「既得権益」と激しく批判されました。
地域振興会は、市長選後も橋下さんや大阪維新の会による既得権批判の的となり、大阪市が一時は補助金停止を検討しました。確かに、お金の使い方に問題があった町会役員もいた。しかし維新がそんな攻撃をした本当の理由は、地域振興会が市長選で私を支持し、大阪都構想に反対だったからだと思います。
既得権という言葉で私が思い浮かべるのは、地位を利用して巨額の金や利権を、自己のためにかすめとること。しかし町会活動の本質は、それぞれが暮らしやすい地域をどう守り育むか、という全体への奉仕の観念です。補助額も実費をまとめた程度で決して大きくはなかった。そんな地道な活動に対しても、彼らが一律に既得権扱いしたことには戸惑いました。
私が感じるのは、実際に不当な利益を得ている人をそう呼ぶよりも、恣意的に悪いイメージを与えるため、根拠を説明もせず「既得権」というレッテル?りが横行しているのではということです。
最近では菅首相による「閉鎖的で既得権益のよう」という日本学術会議批判です。そもそも学術会議に国政に対する強制力などはないため批判自体が的外れですが、それより気になるのは、なぜ首相がその言葉を使うのか、という点です。
「既得権」と呼ばれうるのは、あくまで何らかの権力や権利を持つ団体や人です。でもそれなら、国政の最高権力者である首相なんて最たるものではないですか。
ではなぜ、大きな権力を持つ側が誰かに「既得権」のレッテルを貼るのか。主な理由は、既得権批判をすることで、その批判の矛先から自分を外し「安全圏」に置けると思っているからではないか。
「既得権益を打ち砕く」と繰り返してきた維新は現在、知事と大阪市長を手にする大版最大の権力です。私から見れば、自党の保身のため、住民投票で否定された都構想のゾンビ計画「広域行政一元化」条例案を持ち出すなど、維新はまさに「既得権化」している。果たしてこれもレッテル貼り、なんでしょうか。
(編者注)菅は都構想がとん挫して残念だと語りました。橋下、松井ともに、自民党(安倍、菅〉になりふり構わぬすり寄っていました。しかも橋下は、未だにTVに出て根拠のない無責任な放言を繰り返しています。私は、以前よくあったアジテーターという言葉を思い出しました。これという論拠も理念もなく、目先の現象だけを一面的に切り出して、敵対感情だけを煽り立て、大衆を間違った方向に誘導しようとする人のことです。トランプがその例です。これで知事の吉村がいなければ、維新はとっくに終っていたでしょう。
都構想の投票では、100億もの無駄な税金を使いました。町会への補助金どころではありません。しかも都構想の提唱者の橋下は既に一般人です。それが院政を敷いて、未だに影響力を行使しているとすれば、民主主義、議会政治に対する悪質な挑戦です。いま日本を変えられるのは、準与党の維新(森夏江の問題もある)などではなく、実質支持率で、自民党に唯一拮抗できる、立憲民主と共産党を中核にした統一野党だけなのです。
利用者の数に比べて感染者の数が圧倒的に少ないから、Gotoと感染は(直接の)関係はないというのが政府の公式見解です。その後東大が発表した、市中感染率の2倍になるという研究結果も、根拠があいまいだと退けています。ならば政府側も、Goto利用者の感染率の統計学的根拠を示す義務があります。
尾身座長が、東京がGotoを中止して欲しいと言っても、小池知事は(菅首相も)聞く耳は持ちません。小池知事は、菅が個人的な怨恨で、東京都をGotoの対象地域から外したことを根に持っているが、外してくれた方位が良かったという、結果的には正しかったという事実は、両者に対する痛烈な皮肉でもあります。自分が掛けた迷惑は都合良く忘れるくせに、自分が恥をかかされた相手への恨みは絶対に忘れない。だから小池知事は、絶対に自分からGotoを中止するとは言わないのです。
週刊誌にもあったように、都民からGoto関連の感染者が多数出てくれた方が、小池知事には好都合なのです。それが菅への意趣返しになり、ざまあみろと言えるからです。そんな個人的な怨恨に、半ば強制的に付き合わされている都民はたまったものではありません。
こうなると小池知事のしていることは、知事や政治家というより、悪魔の所業です。都民はとんでもないモンスターを都知事に選んでしまったのです。しかもその自覚もない。米国のトランプと同じです。トランプと同じように、小池知事も早くコロナに感染して入院して、TV画面から姿を消してくれるうよう、子の刻(ねのこく=午前0時)参りでもするしかなさそうです。
政府は経済的理由で自殺者が増えていることをGoto継続の理由の一つにしています。では旅行代理店や旅禍の風業員が何人自死したのか教えて頂きたい。亡くなった人たちは、生活に困窮する階層の人たちであることは言うまでもないのです。ならば生活保護を手厚くする方が、Gotoで旅行を奨励するより先でしょう。Goto政策は、日本は富裕層の為の国だ、貧乏人は死ねばいい(Go to hell)と言っているのに等しいのです。
私は菅がここまで酷いとは思ってもいませんでした。さすが、自我肥大で、自己正当化の権化(安倍)の番頭を長年務めただけのことはあるようです。
関連記事。コロナ急増ならGoto中止を。尾身。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020120900619&g=pol
関連記事。国に決めてもらう。小池。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/73567
コメント:だったら知事はいりません。世田谷区長が兼務すればいい。
・追加財政対策。財政規律を壊すのか。朝日社説。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14725904.html?iref=comtop_Opinion_04
1833.国も都も人災。20/12/11
国政では、EQが中学生にも見劣りする政治家たちによる、不安定な政治情勢の只中に、我々日本国民は放り出されています。これではいつどのような、政治的あるいは経済的災害に見舞われても、少しもおかしくありません。自然災害が発生しても、ろくな対応はできないでしょうし、実際に、疫病対策はお粗末の限りです。日本の惨状は、まさに人災以外の何物でもないのです。
一方、地方行政では、小池知事は五輪でコロナを克服すると発言しています。そういう自分はコロナ克服のために何をしたのか。国に忖度して(都民の命より国政を優先して)Gotoを追認しただけではないのか。知事選の公約だった日本版CDCはどのように役に立っているのか。TVに映るドヤ顔を見るだけで、怒りさえ感じるこの頃です。どうか自ら五輪担当名誉知事にでも何にでも就任して、都知事の椅子は「私心も虚栄心もない」若手に譲って頂きたいものです。
・Goto一時停止の考えない。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6379041
関連記事。感染拡大地域のGoto停止を。分科会。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020121100211&g=pol
関連記事。Goto即刻中止を。病院団体。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020121100879&g=eco
コメント:まさか安倍以下の(民意を2万%無視する)首相が誕生するとは思ってもいなかったので、とんだ令和のサプライズです。そもそも英語としても不完全なこの企画は、一体どこの低能補佐官、または似非学者が言い出したものなのでしょうか。来年度は国の歳入が減ります。国民が無能な議員の首を切る時です。政治家は政治家で、既得権の居座り補佐官を整理してもらわねばなりません。
・肝いり施策急ぐ首相、官僚悲鳴。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6379036
関連記事。年明け解散の可能性。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020120200297&g=pol
コメント:自分勝手に決めた場当たりの施策ばかり。していることは、歴代首相の中でも、最もトランプに近い首相です。独自の政治哲学がないという、珍しい政治家でもあります。短命政権であることが最初から決まっているので、爪痕を残そうと、焦っているのかもしれません。それとも首相退任後は、旅行大手に天下るおつもりか。とはいえ横車で迷惑しているの国民と業界なのです。菅の陰に隠れて高笑いしているのは二階です。
それよりコロナ対策でよくやったと国民から褒められたいと、なぜ思わないのでしょうか。菅首相には自分で物事を考える力が足りないと仮定すると、最近の奇異な言動のすべてに納得がゆくのです。無能が招いた政治的悲劇です。
一方で、菅政権が自身の無能に起因するどんくさい凡ミスを重ねていれば、自民党が野党に敗れるという、一見不可能な筋書きでさえ、真実味を帯びてきます。民意の蹂躙を続けて、勝ち続けた政権などなく、いつか必ずしっぺ返しが来ることは、最近の米国を見ていても分かるでしょう。しかもそれを最も理解しているのは、ほかならぬ自民党の古参議員なのです。
・研究資金と成果の関係分析。政府、国立大の競争力向上。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO67228180R11C20A2MM0000/
コメント:何が競争力ですか。いよいよ菅政権がその汚い手を学術の分野に伸ばし始めたということです。またも裏で動いていそうな杉田副長官(戦前の特高と同じ意識)には、いつ天罰(コロナ感染)が下るのでしょう。
・脱ガソリン車を急ぐと自動車業界が電機業界の二の舞に。
https://diamond.jp/articles/-/256869
コメント:菅の短慮と性急さが、思いもかけない結果を生む可能性もあります。しかも、間違えちゃったで済む話ではないのです。
・#竹中平蔵つまみ出せが、ツイッターのトレンド入り。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20201129-00210144/
コメント:菅のブレインの竹中と、一蓮托生の高橋洋一もお忘れなく。
1834.学術会議とGotoで分かる菅の限界。20/12/12
今日は最初に、朝日新聞のオピオン&フォーラムから学術会議に対する政府の対応に関して、有識者の意見を二つ、要約してご紹介します。
12/11の耕論から
日本学術会議問題で浮上し、今年の流行語大賞にもノミネートされた「総合的?俯瞰的」
わかったようでわからないこの言葉に、果たして実体はあるのでしょうか。
「政府の使い方突然正反対」吉川弘之(元東大総長)から
1997年に私が会長になった時、日本学術会議は行政改革の対象でした。私は、学術会議を自己改革により法律が定めた目的に近づけるため、「俯瞰的」という言葉を使いました。当時の議論を振り返ると、学術会議には大きく二つの問題点がありました。一つ目は本来の会議の目的である科学全体の振興という視点です。会員は研究者であるため、どうしても自らの分野の研究にこだわりがちです。その結果、「どこそこに研究施設をつくれ」といった特定分野の利害が反映された内容が目立ちました。
二つ目は、政策決定者への助言のあり方です。政策で対応するべき社会的な課題には、多数の学問分野が関係します。最近は時代の変化によって、解決すべき課題はより複雑化しています。だから、分野横断で協力する必要があるのですが、その意識が総じて低かった。専門分野に閉じこもって研究するという学者一般の習慣を抑えて、開かれた議論が求められています。
こうした議論を踏まえ、学術会議は、社会の課題に対して学術全体を「俯瞰」して助言するという方向性を打ち出したのです。
優れた業績を持つ学者を広く候補者として募ったうえで、会員自身が会員の合意に基づいて選ぶ自主的な方式に切り替えました。
こうした自己改革案は、2004年の法改正で日本学術会議法に盛り込まれました。
この流れを政府は歓迎してくれると私は考えていました。
だから今回、政府が学術会議の会員6人を任命しなかった問題で「総合的・俯瞰的」という言葉を使ったことに正直、驚きました。政治と学術の信頼関係を意味するはずの言葉が正反対に使われており、このままでは、これまで積み上げられてきた改革の歴史がないがしろにされるのではないかと懸念します。
いま日本のみならず世界中が新型コロナウイルスというかつてない危機に襲われています。私はそんな非常時だからこそ、本来の「俯瞰する」視点に立ち返り、政治と学術界が解決に向けて連携することが求められているように思います。‘
「おごり表す稚拙な言い訳」室氏謙( 政策コンサルタント)から
菅政権が6人の学者の任命拒否の理由について「総合的、俯瞰的」と説明するのは、過去に例がないといえるほど稚拙な言い訳です"
もちろん政治家が「総合的に」という表現を使うケースはしばしばあります。大抵はメディアに言質を与えないための方便でしょう。コロナの感染症対策でも、新たな方針を打ち出すかどうかという時、「総合的に判断する」という使い方をよくしますね。
私は官僚時代、これと似た表現で「概ね」をよく使いました。
法律を柔軟に運用できるよう、制限的条件を付けずに含みを持たせるためです。
しかし、今回のように「総合的」と「俯瞰的」を並べて任命拒否理由とするのは明らかにおかしい。まず日本語として変です。
「総合的」と「俯瞰的」は、似ているようで意味が全く異なります。「総合的に判断する」「俯瞰して見る」とは言えますが、「俯瞰して判断する」とは言いません。これまで政治や行政の世界で聞いたこともありませんでした。
そもそも正当な根拠がなく、対外的に説明できないから、こんな稚拙な日本語を事後的に持ち出したのではないでしょうか。本来なら、首相ら政権幹部と官僚が想定問答を準備して、もっと説得力のある理由を思い付きそうなものです。それが出来なかったのは首相官邸が機能していないか、この程度の理由で国民をだませる、とナメているかのどちらかでしょう。政権のおごりを感じます。
こうした任命拒否がまかり通れば、各省庁の審議会の委員たる研究者の人選でも似たようなことが起きるのが懸念されます。委員の任命権は各大臣にありますが、もし大臣が官邸の顔色をうかがったり、官邸から「あの委員を外せ」と言われたりすれば、排除が起きかねない。各委員は名誉ある立場ですから、一部の学者は政権批判を控えるという事態も起こりえます。
ころしたことが起きないよう、歯止めをかけているのが任命の根拠となる日本学術会議法なのです。しかし、今はそれが無視されている。どうすればいいのか。現政権は法律を破壊しているという事実を、何度も何度も繰り返し世論に訴えていく以外にありません。
関連記事。外すべきものは副長官から。
https://www.47news.jp/localnews/5597857.html
コメント:この杉田という人物(元警察官僚)は、何様のつもりでしょうか。
三つめの記事は、12/12の朝日の社説の要約です。コロナへの政府対応を、簡潔な文章で批判しています。
「コロナ対策、移動抑えて沈静化図れ」
国民の皆さんと危機感を共有したい。内閣で新型コロナ対策を担当する西村康稔氏はきのう、政府の分科会終了後の会見で繰り返しそう述べた。
だが誰よりも危機感を共有すべきは、政府の最高責任者である菅首相その人ではないか。
これまで社説は、感染症の専門家や医療従事者たちと、経済活動を優先する政権との間の認識の乖離が、秋以降広がっていることへの懸念を表明してきた。
分科会は、4段階の警戒レベルの上から2番目のステージ3に当たる地域について、「Goto事業」を一時停止することなどを提言した。
ところが政府は同じ日に事業費の拡大を閣議決定し、インターネット番組に出演した首相は、一時停止について「まだそこは考えてません」と答えた。
各地で病床、人手とも逼迫し、一部では通常の医療にも影響が出ている。日本の強みとされてきた保健所による感染経路の解明も困難になっている。
こうした現場の負担を少しでも軽くし、国民の生命と健康を守るためにいま最優先で取り組むべきは、感染拡大を抑えることだ。「Goto事業」を推進している状況ではない。
政府が税金を使って旅行や会食を奨励する一方で、不要不急の外出の自粛を要請したり在宅勤務を呼びかけたりしても、国民の胸に届くはずがない。むしろ、指標はステージ3相当の前でも悪化する兆しを認めたら早めに手を打つことこそ、各国が試行錯誤しながら積み上げてきたコロナ対策の教訓だ。
分科会はあわせて、「年末年始を静かに過ごす」ことを人々に訴えた。すでに多くの知事が、帰省の分散や自粛を呼びかけていることと呼応する。
この時期は病院や診療所の多くが休み態勢に入り、保健所を含む役所の業務も縮小される。
各地で治療が受けられない、搬送先が見つからないといった事態が起きかねない。人が活発に動けば、その後の流行がさらに深刻化する恐れもある。
「勝負の3週間」が間もなく終わるが、状況は厳しい。迅速に、合理的な判断をという分科会の尾身茂会長のきのうの発言を、政府は真剣に受け止めるべきだ。
関連記事。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14728566.html?iref=comtop_Opinion_04
1835.週刊文春と週間新潮から。20/12/13
次は週刊文春の最新号(12/17)から小室問題です。
…「当時、眞子さまが食堂で300円台の激安カレーを召し上がっているのを見かけて、驚いたことがあります。飲み物もよく食堂で無料の水やお茶を飲まれていた。パソコンも旧型のものを使っておられたようで、周りが『新しいのを買ったら?』と言うと、眞子さまは『国民の税金で生活しているから、そんなに新しいものは買えないの』と謙虚に仰ったそうです」(ICU時代の同級生)
婚約内定前の16年、小室さんとのデートを報じられた際も、4千円弱のユニクロのワンピ?スをお召しになっていた眞子さま。<私の家系は代々お洒落の感性だけは持ち合わせていた>という佳代さんとは、金銭感覚に大きなズレがあるように見える。
秋篠宮ご夫妻が結婚に懸念を示した一因は、まさにそこにあった。
「とくに紀子さまは、借金問題が発覚した際、小室家が他人の財布で身の丈に合わない生活をしていたことに強い違和感を覚えられたそうです」(宮内庁関係者)
ご夫妻の不信感はいまだ解消されないままだ。
…X氏が授業料だと信じて振り込んだお金は、別の用途に使われていたのだ。
次は桜問題です。
「…法廷の場に舞台が移ることだけは是が非でも避けたい。領収書破棄や裁判が進行中の河井夫妻との口裏合わせなど、全てが白日の下に晒される可能性が高いからです。安倍氏には元高検検事長のヤメ検弁護士がついていますが、安倍氏側と特捜部の“談合”の結果、秘書の略式起訴が落としどころとなったのでしょぅ。だからこそ、安倍氏は宴会に参加したり、週末にゴルフをしたりと余裕も垣間見せているのです」
それでも、安倍氏には重大な問題がある。“虚偽答弁"だ。国会対策の陣頭指揮を執る菅首相の最側近、森山裕国対委員長が嘆く。
「安倍さんの政治的ダメージは大きいと思います。結果として、総理が答弁されたことが間違っていたとすれば、どうするのかというのは非常に難しい。…本会議あるいは予算委員会で答弁されたことと違うわけですから。そこはどう整えていくのか、残念ながら、本会議の方は前例がないんです…」
「河井克行元法相・案里参院議員の捜査で支援者らが相次いで事情聴取されるのを目の当たりにして、安倍氏は『桜捜査』を止めたいと考えるよぅになっていました。その『河井捜査』で関係先としての家宅捜索で発覚したのが、鶏卵生産大手のアキタフーズ(広島県福山市)の裏金疑惑です」
「特捜部は前首相との“全面対決"より、贈収賄での立件も視野に入る吉川事件の方に力が入っています。秋田氏は”養鶏業界のドン“として、卵の価格が下がった時に基準価格との差額を補?する補助金や、アニマルウェルフェア(AW)の国際基準が国内の養鶏業者に有利な内容になるよう働きかけていました。いずれも、秋田氏の希望に沿うような形になっています」
「無派閥の菅氏にとって同期は数少ない仲間。中でも、同じ地方議員上がりの吉川氏のことは非常に信頼しています…」。
今年九月の総裁選ではいち早く菅氏支持を表明。推薦人として名を連ね、選対事務局長を務めるなど、菅政権誕生に一役買った。
一方、アキタフーズは業界トップクラスの売上高を誇る(昨年度=約416億円)鶏卵業者だ。
「秋田氏は、父親から継いだ養鶏農場を一代で全国規模に拡大しました。港区の超高級マンションに住んでいる…」(アキタ関係者)
「吉川氏は案里氏の参院選でも、熱心に応援していました。河井氏がじゃがいもを有権者に配っていた問題も発覚しましたが、この『じゃがいも』は、北海道選出の吉川氏から贈られたものだった…」(広島県連関係者)
アキタの河井氏と吉川氏の親密な関係を起点に、アキタは吉川氏とも距離を縮め、裏金疑惑へと発展していったのだ…。
菅官邸にも侵食してきたアキタルート。首相自身は同期の仲間である吉川氏の裏金問題が報じられて間もなく、こう漏らしたという。
「いや、別に逮捕されないだろ」。
果たして特捜部の捜査は今後、どう展開するのか。
「特捜部はまず安倍氏の事情聴取を済ませ、検察審査会対策の意味でも“やるベき捜査はやった"という形を整える。その上で、公設秘書の略式起訴で桜捜査を年内にも終結させる見込みです。…一方で、吉川氏らの裏金疑惑については各地から応援検事を求め、近いうちに事務所などへ家宅捜索が行われるでしょう。特に吉川氏の『Xデ?』はそう遠くないと見られています」
週刊新潮(12/17)でも桜を取り上げています。
…「この問題を立件する方向であることは評価しますが、秘書ら二人の罰金刑で終わらせるようなら、特捜部の存在価値はなきに等しいと言わざるを得ません」
たしかに、これでは大山鳴動して鼠二匹。「しゃんしゃん捜査」の感は否めない。
「報道によれば、費用の不足分を負担したのは晋和会だった可能性が高い。では、差額を補?するためのお金を晋和会はどうやって用意したのか。それこそ、安倍前総理自身の文書通信交通滞在費や、官房機密費が使われたとも考えられます。これらは本来、公務に使うべきお金なので、政治活動に用いられた時点で法に抵触します。晋和会の代表である安倍氏の責任を問わずに、秘書だけを立件すれば問題の本質的な部分を見失ってしまう。少なくとも、公判が開かれない略式起訴ではなく、公開の刑事裁判で真相を明らかにすべきでしょう。安倍前総理が不起訴になったら、その理由次第で検察審査会への申し立ても有り得ます」
先の記者が続けるには、
「特捜部は安倍前総理への任意の事情聴取や、事務所への家宅捜索も行う予定で、メディアも臨戦態勢です。そこまでやっておけば、もし検審に申し立てられても、特捜は捜査を尽くしたといぅ体面が保てますからね」
「安倍政権下で政治家に絡む捜査案件が浮上した場合、捜査当局は、まず警察キャリア出身の杉田和博官房副長官にお伺いを立てるのが慣例でした。今回の安倍さんの件についても、首相官邸の事務方トップである杉田さんが内々に容認した。もちろん、それは菅総理も捜査を黙認したということ。菅総理が安倍さんを見捨てたとは言わないが、二人の関係にすきま風が吹いているのは間違いありません」
果たして、二人の関係にどんな変化があったのか。
「…確執の決定打となったのは、それからまもない11日に、安倍さんが衆院初当選同期との会食で、私だったら来年1月に解散すると発言したことです。総理の専権事項にまで口出しされ、さすがの菅さんも“秘書止まりであれば"と捜査を黙認、つまり事実上、了承したのだと思います」
「…賭けマージャン問題によって黒川氏は自滅し、検事総長となった林氏ですが、官邸と一緒になって自分を外そうとした辻(法務)次官を許していません。遺恨は桜の捜査にも影を落としています。法務省側は処分方法も決まっているのだから安倍事務所への捜索は必要ないという立場。ガサ入れを既定路線とする検察側との綱引きが続いています」
季節外れの「桜」が狂い咲き、最終局面に差し掛かる一方、「卵」を巡る捜査はまだ始まったばかり。
コメント:秘書どまりで国民が納得するはずがないでしょう。政治家の為の検察など国民は必要としていないのです。
1835.雑誌世界から。20/12/14
仮に持病を抱えながらも、このコロナ禍を生き延びられたにせよ、100歳は愚か米寿の保証もありません。そこで(何人おられるか分かりませんが)このサイトを読んで下さる方への遺言をお伝えしておきたいと思います。それは最も信頼できる雑誌として、(文春ではなく)雑誌世界を読んで頂きたいというものです。リベラルな思想の市民や若者を、一人でも多く育てることが、日本と世界の平和を実現する最も有効な力になると信じているからです。
ところがこういう地味な雑誌が大衆の興味の対象になることはまずありません。まして自分で購入する気になど、なかなかならないでしょう。そこで、雑誌を買えない(あるいは買わない)若者の為に、世界の年間購読をプレゼントするためのクラウド・ファンディングのような企画が出来ないものかと考えています。
自分でまず最初の10人分くらいを出資し、あとは寄付が集まれば、規模を大きくしてゆくという計画です。最初の目標は百人の若者に「世界」を読んでもらうことです。このアイディアに、特段のご意見があればお知らせください。なお個人に郵送するというよりは、複数の市民の目に触れる場所(談話室や待合室)に置いてもらう方が、効果があるのかもしれません。
世論調査を見ていると、常識で考えても、おかしい数字が表れます。まるで日々のニュースなど全く見ていないかのようです。これは市民が、情報の収集も、その判断も、十分にはできない、貧しい「知的環境」に置かれていることを意味しています。
国民が、どの情報を、または誰を信じたらいいのか、自分たちが置かれている状況をどう判断したらよいのが、実際問題として、大変分かりずらい状態にあると思わざるを得ないのです。
政治の状況や、経済動向、社会の出来事を正しく理解して、自分や家族を守るための正しい判断が出来る国民を一人でも増やすこと、それしか日本の精神的、経済的な壊滅を避ける方法はないのです。政治家を変える前に、国民自身が変わることが、日本を変えるためには必要なのです。
今日と明日の前書きは、その雑誌「世界」からです。
世界21年1月号から
「国会論議から見る敵基地攻撃」藤田直央から
…「力への信仰は必ずといってよいほど言葉が本来の意味・内実を喪失していくことに通じ、対話・討論を無意味として忌避し、ひいては法の無効化(政治権力の恣意的行使)を伴っていることを忘れてはならない」
米中の狭間にある日本が、戦後保有を控えてきた敵基地攻撃能力といぅ「力への信仰」に傾き、国民への説明を避ける姿そのままだ。敷衍すれば、菅内閣が学術会議に対し特定の学者を任命拒否した理由の説明を拒みつつ、軍民両用技術の研究に踏み込む検討を求めていることにも通じる…
編者注:自衛隊=日本の防衛力は、あくまで専守防衛であったはず。安倍首相(もとは岸伸介)の歪んだ価値観から、制服組でさえ危惧するような、憲法からの逸脱も、ほどほどにして頂きたい。
同じく、「ペンと権力、歴史に目を凝らし考える」吉岡忍から
…数年前、大化改新について調べたことがある。645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)は天皇の前で豪族のボスを斬殺し、同類を震え上がらせたうえで土地と人民を取り上げ、公地公民の中央集権国家をつくり上げた。しかし、この古代史最大の改革は大寺院などが荘園を持ち、貴族豪族もまねするにおよんで元の木阿弥。おまけに荘園の用心棒だった武士連中が力をつけ、貴族社会そのものが切り崩されていくことになる。
公地公民制が虫食い状態になるまで7、80年しかかからなかった。人の働き盛りを30年とすれば、二世代半。祖父母が信念を持って始めた国づくりを、働き盛りになった孫の世代がチャラにしてしまう計算だ。そう思って年表をめくると、当てはまる事例はいくつもある。
労働者の新天地だったソ連が、独裁と錆びついた官僚制で自壞するまでが74年。自由と平等と幸福の追求を天賦の人権と謳って独立したアメリカは、85年後には奴隸存続をめぐる内輪もめから南北戦争に突入した。それより日本である。大政奉還によってスタ?卜した近代日本の
78年後に広がっていたのは、一面の焼け野原だった。
菅首相は、もっと若い人を、と言った。わが身を振り返れば、若いということが、ルールも知らずに、すでに始まっているゲー厶に飛び込むようなものであることは身に沁みている。敗戦と新日本建設から二世代半、どうか若い人には目先の課題に全集中の呼吸で取り組んで、モグラ叩きのようなことをするのではなく、現実を奥深くで動かしている歴史に目を凝らして欲しい、と私は思っている。
自分で課題を立て、自分で調べ、自分で考える。自主も自立も自治も、そこからしか始まらない。
編者注:そして敗戦から75年、全体主義、国家主義への反省は風化し、自由主義が格差を拡大し、権力層・富裕層は腐敗し、今また軍備増強が叫ばれているのです。
同じく、「GIGAスクールというディストピア」 児美川孝一郎 から
2019年12月、突然発表された「GIGAスクール構想」。当該年度の補正予算に組み込まれたが、児童・生徒に一人一台の端末を配備し、日本中の学校を高速大容量の通信ネットワークで結んで、校内LANも整備するという。確かに、日本の教育におけるICT (情報通信技術)環境の整備は、先進諸国と比較すると「周回遅れ」の評があるほどである。
しかし、本当にそうなのか。教育界におけるICT環境の整備は、これまで一向に進まなかったのに、何ゆえに突如として巨額の国家予算が注ぎ込まれることになったのか。
当然、それには相応の理由があるはずだ。そんな見方に立てば、GIGAスクール構想の背後には、ここ数年、財界と政府がしゃかりきになって進めている国家戦略としての「Society5.0」構想があることが嫌でも見えてくる。
…修飾句だけは増えたが、AIに導かれる学習の個別化をめざすという本質は、まったく変わっていない。
重要なのは、こうした学習の「個別最適化」の強調には、これまでの学校教育のかたちを解体させていく論理が確実に含まれている点にある。2018年の先の報告書には、以下のことが明記されていた。つまり、「個別最適化された学び」を軸にした学校は、「『勉強』の時代」「『学習』の時代」「『学び』の時代にあり、そこでは、@「一斉一律授業」から「個人の進度や能力、関心に応じた学び」へ、A「同一学年集団の学習」から「学習到達度や学習課題等に応じた異年齢・異学年集団での協働」 へ、B「学校の教室での授業」から「大学、研究機関、企業、NPO、教育文化スポーツ施設等」での「多様な学習プログラ厶」への転換が必然化するのだ、と。
「『学び』の時代」においては、能動的な学習主体(アクティブ・ラナー)が自らの学びをデザインする、といった甘美な装飾でカモフラ?ジュされてはいるが、ここで主張される転換とは、とどのつまりは、従来の学校教育の枠を取り払ったうえで、子どもたちの学びを徹底した能力主義に基づいて個別化し、自己責任化していくことを指すのである。
すべての子どもが、簡単にアクティブ・ラナーになれるわけではない。とすれば、Society5G型の学校からは、取りこぼされる子どもも多数生まれる。結果として危うくされるのは、公教育の本質的な役割であり、教育の機会均等や子どもたちの発達権、学習権の保障であり、教育の公共性を担保する学校教育の仕組みなのである…。
1837.メディア批評から。20/12/15
今日も前書きは雑誌世界の1月号からです。今回は少々長めです。テーマは学術会議とコロナ禍です。
「メディア批評」神保太郎から
日本学術会議任命拒否問題でつまずきを見せた菅政権。国会論戦では「答弁を控える」としどろもどろ。杉田官房副長官をはじめとする政府介入の構図も見えてきたが、それでも強硬姿勢を続ける背後で、何やらメディアが変調をきたしている。検証する。
米大統領選の速報を聞きながら考えた。日本のメディアは、なぜかくも対岸の選挙に熱狂するのか。アメリカの主要メディアは違っていた。トランプ氏が生中継で「バイデン陣営が票を盗んだ」と叫ぶと、NBC、ABC、CBSは「証拠のない虚偽発言だ」として放送を打ち切った。CNNのキャスタ?は「卜ランプ氏はじたばたするカメのようだ」と酷評。選挙結果より、「表現の自由」を守ろうとしたのだ。
海のこちらでは、日本学術会議会員の任命拒否が問題化している。官邸はモリ・カケ・桜と同様の“ご飯論法”(すり替え)で逃げようとするが、それをさせてはならない。闇は底知れない。よほど腰を据えてかからなければ、「学問の自由」とともにメディアも奈落に沈みかねない。
しかし、取材に基づく報道は少なく、もっぱら外部識者にコメントをゆだねている。そんななか10月29日のNHK「クローズアップ現代+ 学術会議をめぐり何が?当事者が語る」(以下「クロ現+」)を、筆者は期待して視た。ところが、番組の中盤から構成が迷走し、最後は論点がボケてしまった。どこかから圧力でもかかったのだろうか?
20年前の悪夢が蘇った。2001年1月、NHKが放送したETV2001「戦争をどぅ裁くか(四
回シリーズ)---第二回問われる戦時性暴力」の改ざん事件である。
…このときBPOが規範とした「放送倫理基本綱領」は再読に値する。「報道は、事実を客観的かつ正確、公平に伝え、真実に迫るために最善の努力を傾けなければならない。放送人は、放送に対する視聴者・国民の信頼を得るために、何者にも侵されない自主的・自律的な姿勢を堅持し、取材・制作の過程を適正に保つことにつとめる」。すなわち、放送は表面的な「中立」よりも「公正さ」をどこまでも追求する自主性、自律性が期待されるとしているのだ。言うまでもなく、制作現場の「内的自由」が確保されなければならない。このときのBPOの意見書がどこまで真摯に受け止められたか、いまとなってははなはだ疑わしい。
…東京新聞は一面トップで、任命拒否された六人のうちの一人、東京大学教授の宇野重規氏が、18年の定年者の補欠推薦のときにもはねられていたことを報じた。
共同通信は11月8日、「官邸、反政府運動を懸念し六人の任命拒否」と題した記事を配信した。「首相官邸が日本学術会議の会員任命拒否問題で、会員候補六人が安全保障政策などを巡る政府方針への反対運動を先導する事態を懸念し、任命を見送る判断をしていたことが7日、分かった。(略)複数の政府関係者が明らかにした」
反政府運動とは穏やかではない。ネットには「政府の方針に反対すると『反政府運動といわれるのか」などの書き込みが目立った。国会審議のパブリックピューイングを提唱する上西充子法政大学教授は、「見出しを見たら『反政府運動をするような人なら任命されなくて当然だ』と読み取る人が出てくるだろう」とツイッターに書き、「予算委員会が終わったタイミングを見計らって、こういう本音を政府関係者が漏らし(任命拒否を)『そうするのは当然だろう』と世論誘導を図る。分断を煽るやり方」と批判した。
共同通信の記事通りならば、首相が国会で繰り返してきた答弁はウソになる。だがこの記事から「首相のウソ」を問題にする気迫は感じられない。末尾には「恣意的な人事介入に当たるとして、政府への批判がさらに強まる可能性がある」とあり、いわゆる傍観的報道だ。山口 一臣元週刊朝日編集長は「拒否の理由が政府方に反対した言動だったことが新事実だとすると、それがどういう意味を持つのかまでハッキリ書かないとニュースの本質は伝わらない。書いていないのは、政権に媚びているか、読者に不親切かどちらかだ」と指摘する…。
『ネット右派の歴史社社会学』などの著書がある伊藤昌亮成蹊大教授は、こうした状況を「知識人ら文化エリ?卜に対する庶民の不平等感と根強い反発がある」と語る。?治潅力による上からの攻撃を、フェイクニュースに共鳴する庶民が下から支え「知識人やメディアを挟み撃ちする構図」ができているという。
「上からの攻撃」の中心にいる杉田官房副長官は警察庁警備局長、内閣情報調査室長(内調)などを務めた公安警察の元締めのような人物だ。『内閣調査室秘録』(志垣民部者、岸俊光編、文春新書)によると、内調は知識人の身辺調査だけでなく協力者工作まで行なってきたという。ブラックリス卜に照らして学術会議の人選がなされた、と考えることは不自然ではない。杉田氏は第二次安倍内閣の発足と同時に事務の官房副長官になり霞ヶ関官僚を統括する立場になった。官僚や審議会の人事を差配し、「官邸ポリス」と呼ばれる公安主導の官邸運営を主導してきた。学術会議問題はその一端だろう。公安警察が知識人を選餘する暗い時代の再来を思わす出来事である。
東京新聞の田原牧論説委員は、核心を「政治警察的な統制は危うい。だが、問題の根はもっと深いと考えている。それは世間の関心の薄さだ。一部は冷笑的ですらある」と指摘した。フェイクに共鳴する人たちを無関心層が下支えする構造に、メディアはどう向き合えばいいのか。
番記者の仕事はこれら政府高官との関係作りからはじまる。「信頼関係」とは聞こえがいいが、求められるのは忖度。記事はチェックされ、書きぶりによって取材への対応が変わる。相手が困らない表現にとどめたと思われる。その結果「首相のウソ」に切り込まない記事になった。「政府関係者」は世論動向を見て、そろそろ本音を流しても世間は問題にはしないと判断したのではないか…。
政権が強気になった背景に、毎日新聞の世論調査がある…。
野党や一部マスコミが、まるで天地を揺るがす一大事であるかのように追及してきたが、国民はついてこなかった。しかし国会では首相が四苦八苦。答弁拒否を繰り返したものの野党の追及で事件の骨格が浮かび上がった。会員を選別したキーマンは杉田和博官房副長官で、日本学術会議法違反は濃厚。完全に詰んでいる首相の姿を国会中継は映し出していた。答えられない、秘書官が駆け寄る、差し出されたメモの棒読み、?み合わない答弁、虚ろな視線。これほど分かりやすい事実が、なぜ民意に投影しないのか。
NHKの国会中継をつぶさに見れば明白なことが、ニュースに編集されると印象はガラリと変わる。発言部分だけをつなぎ合わせれば、しどろもどろの答弁がまともな受け答えに見える。新聞が伝える一問一答も、要点を整理して記事にするので、議論が?み合っているかのように読める。首相が「伝えてほしくない場面」は編集で見事に削除されている。これはメディアの責任だ。現場で記者が五感で得た情報を、受け手にどう伝えるか。発信する側の緊張感が弛緩してはいないか。情報戦となった任命拒否問題は、「なにが事実か」より「どう伝わったか」の勝負になった…。(以下省略)
(編者注:学術会議任命問題については、私も筆者と全く同じ印象を持っています。国会中継とニュース報道の違いも、その通りです。国民が問題の深刻さを理解できず=思考停止状態、ついてこれないというところに、自民党政権の政治悪がはびこる素地が出来上がっているのでしょう)。
同じく「片山善博の日本を診る、大阪都騒動からくみ取るべき教訓」から
…大阪市の廃止というとてつもない大作業を伴う案件について、何故、こんな時期に俎上に載せたのかということである。
「こんな時期に」とは、新型コロナウィルスの感染が収まることなく、自治体をあげて感染拡大防止に立ち向かわなければならないこの時期に、という意味である…。
これまで大阪市と大阪府では、どちらかというと大阪市の方が大版府より格上という意識が役所にも地域社会にもあったように見受けられる。その良し悪しや妥当性はひとまず置いておくとして、こうした環境の中でこれまで仕事をしてきた大阪市職員の自尊心は大きく傷つけられ、自信を失うことになっただろう。それが、新型コロナウィルス対策に尽力している市職員たちの士気に影響を与えずにおかないことは容易に想像される。
このたびの住民投票は、現在最前線で戦っている兵士たちが所属する連隊の再編や部隊の廃止を、戦闘の真っ最中に決めようとするようなもので、愚行というほかない。住民投票のスケジュール設定に関わった首長や議員たちには、府政や市政にとって今何が一番大切なのか、わからなかったのだろうか。その見識が問われてしかるべきである。(以下略)
(編者注:松井・橋下のゾンビ・コンビのせいで、100億円の府税と吉村知事の努力が水の泡に)。
・脱資本主義の次に人類が向かうのはどこか。
https://toyokeizai.net/articles/-/390193
1838.瀬戸際の地方自治から。20/12/16
今日も前書きは雑誌世界からです。
「瀬戸際の地方自治 企図される惨事便乗型の制度改革」岡田知弘から
新型コロナウィルスの新規感染確認者数が、国内「第三波」のなかで過去最多を更新し、入院病床・医療用品・医療スタッフの不足に加え、診療抑制による病院経営の悪化も手伝って、人々の命とくらしが危機に瀕しつつある。
にもかかわらず、第二次安倍政権を継承して九月に発足した菅内閣は、公衆衛生や医療分野への抜本的てこ入れをすることもなく、各種「Goto キャンペーン」に固執し、北海道をはじめ地方での感染拡大を助長したといえる。
加えて、日本学術会議候補六名の任命拒否といぅ暴挙に出た。日本学術会議の独立性や大学自治への侵害については、安倍政権時代からなされていたことが次第に明らかになっている。同じく戦後憲法によって初めて法認された地方自治に対しても、政府による実質的な侵害がなされてきていることに注意しなければならない。
筆者は、2014年に、「現在、憲法と地方自治をめぐる戦後最大の危機にある。それは、憲法九条だけでなく、生存権、幸福追求権、さらに学問の自由や思想・表現の自由等、主権者の基本的人権に関わる領域に広範に広がっている。そのようななかで、安倍流構造改革は、地方自治体大学、農業委員会、教育委員会、農協等の自治権や自治組織自体の破壊に手を付け始めたといえる。これらは、戦後日本のなかで培われてきた民主主義制度の破壊でもある」と指摘していた。
長期政権の下で、この危惧が現実のものとなったが、安倍政権を継承した菅政権は、さらなる「自治」破壊に踏み出したといえる。本稿では、地方自治の分野に絞って、コロナ禍に乗じて遂行されつつある地方制度改革のねらいと内実を明らかにし、戦後地方自治が瀬戸際に立っていることに警鐘を鳴らしたいと思う。それは、民主主義と自治を充実させることこそ、住民の命とくらしを守り、健康かつ豊かな社会にする保障だからである。
生物起源の感染症被害も、他の大規模災害と同様、それぞれの国や地域に内在している社会問題や構造的な弱点を一気に顕在化させる。日本では、安倍前首相が、「惨事便乗型」の政治に終始し、国民の反発が強まる中で病気辞任に追い込まれることとなった。
そこには、「アベノマスク」にとどまらない、日本の公衆衛生や地方自治制度をめぐる構造的な問題が潜んでいた点を指摘しなければならない。
「第三波」で感染が拡大した東京都や北海道、大阪府、沖縄県などの地域では、PCR検査の相談が殺到して保健所の機能が麻痺したり、医療用マスクや防護服等に加え院内感染によるスタッフ不足によって「医療崩壊」を起こす地域中核病院も出現したりした。併せて長期にわたる「補償なき自粛要請」が続く中で、中小企業の経営破綻や廃業、さらに病院経営が悪化するなどして、住民の命とくらしが危機的な状況に置かれている。
憲法では、二五条第二項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」としている。今回のコロナ禍において、最前線でその公衆衛生を担当した組織は、各地方自治体におかれた保健所であった。ところが、1994年の地域保健法の制定と小泉構造改革の一環としての市町村合併政策及び「三位一体の改革」によって、保健所の数も機能も大きく減少・弱体化してしまっていたのである。
このような構造的脆弱性があるために、日本の対人ロ比PCR検査数は、他国と比べ極端に低い水準に置かれている。「医療崩壊」現象についても、厚生労働省による公的病院の再編統合策や公的医療費抑制策がコロナ禍でも続いていることが、感染症病床や集中治療室、医療スタッフ不足のもう一つの要因となっている。
コロナ禍は、このような日本の公衆衛生、感染症医療体制の脆弱さと、地域の産業や雇用、人々の暮らしを守ることができない国の貧しい政策水準を、白日の下に晒した。
この結果、本来「住民の福祉の向上」を目指すことを最大の責務としている地方自治体の役割が俄然注目されることになった。だが、新型インフルエンザ等対策特措法においては、各知事に大きな権限と責任を与えていたこともあり、知事の間に対応の差が目立つことになった。
財源が比較的潤沢であった東京都では、休業補償への協力金等を独自の財源を使いながら制度化することができたが、財政事情が厳しい地方の道府県ではそれぞれの財政事情に規定された支援策しか制度化できなかった。休業補償については、本来、ョーロッパ諸国のように国が責任をもって財源負担をすべきことであるが、安倍政権はそれを一貫して拒否し続けてきたからである。
また、政治姿勢として、足もとの地域の現場を見るのではなく、国や近隣自治体の動向を待って、自らの自治体の政策決定を行なう「思考停止型」首長といってもいい知事も残念ながら多数生まれた。
他方で、東京都の小池百合子知事や大阪府の吉村洋文知事のようにマスコミを意識して政治的パフォ?マンスを繰り返す知事も出現した。
経済界からの経済活動再開要求と、自らの知事選再選、「大阪都」構想の住民投票実現を目指すという政治的利害もあり、「大阪モデル」「東京アラ?卜」といった恣意的指標をもとに、活動規制の緩和を急いだことが、感染再拡大につながっているといえる。
新型コロナウィルス感染者は都市に集中している。なかでも大阪府の比率が相対的に高い。しかも、大阪府の場合、死亡者の構成比が15.5%といっそう高まり、東京都の23.7%に次いでいる。その要因の一つとして、この10年の間に、大阪維新の会が大阪府・市政を掌握することで、公衆衛生、医療分野で徹底的な行財政「改革」を行なった点があげられる。
このことは、橋下徹元代表自身が「大阪府知事時代、大阪市長時代に徽底的な改革を断行し、有事の今、現場を疲弊させているところがあると思います。有事の際の切り替えプランを用意していなかったことは考えがたりませんでした」と4月3日付のツイッタ?で発信している。
コロナ禍のなかで、公衆衛生や医療をはじめとする「公共」の重要性が再認識されているといえる。必要なのは、菅首相が強調する「自助」を基本にする「新しい生活様式」ではなく、「公共」の役割を重視する「新しい政治・経済・社会のあり方」である。何よりも住民の感染防止と命を守るために公共の責任を全うすることが求められる。
これまでの行財政改革を根本的に見直し、公立・公的病院の再編計画を即時に中止し、地域の公衆衛生・医療体制を整えなければならない。併せて住民の暮らしを支えるための産業、福祉政策も、地域の個性に合わせて自治体が中心になって立案、実行すべき時であるといえる。
編者注:現在のコロナ禍の中での政治、行政の状況をどう総括したらよいのか迷っていた時に、この論文に出会いました。但し、今回紹介しているのは前半だけなので、全体については原文をお読みいただくようお願い致します。文中にもあるように、各知事の振舞い方は、到底お手本に出来るようなものではありませんし、また自治の強化、拡充は、私心のない首長がいて、初めて効果を発揮するものであって、知事職を自身の上昇志向の踏み台にするような首長の場合(どことは敢えて言わないが)、自治権は住民にとってもろ刃の剣になりかねないことだけは、敢えて申し上げておきたいと思います。
・国民の為に地道に働くと言っていた菅首相が、なぜGotoのような飛び道具を。
https://www.newsweekjapan.jp/obata/2020/12/goto-1.php
コメント:黒幕の二階のせいです。
・尾木ママの怒り。
https://mainichi.jp/articles/20201214/k00/00m/010/328000c
1839.犬笛の果てにから。20/12/17
「犬笛政治の果てに、トランプ大統領の4年間を歴史的に考える」兼子歩から
…アメリカ史におけるトランプ大統領の4年間を考える時、彼の政治手法において最も重要かつ一貫した要素として、人種とジェンダーが挙げられる。彼の政治的レトリックと政策は、レイシズムやセクシズムを本質的に組み込んできた。証拠なき不正投票の訴えも然りである。それは彼が特異な人物だからといぅより、むしろ歴史的に必然の帰結とさえ言える。
トランプの政治手法、そして1960年代以降のアメリ力政治文化を理解する上で重要な概念として「カラーブラインド」と「犬笛政治 (dog-whistle politics)」がある。この二つは民主党、特にクリントン政権も利用したが、より一貫して徹底的に利用してきたのは共和党だった。半世紀にわたる共和党の犬笛政治がトランプを生み出し、そして彼は犬笛政治を新次元へと拡大したのだ。
公民権改革は、人種や性別のみに基づく雇用や教育や住宅などの差別を禁止した。人種差別否定の論理は徐々にアメリ力社会に定着し、公的な場での露骨な差別語や白人至上主義はタブ?化した。しかし公民権改革は、より広範な差別是正を目指すものだった。明示的レイシズムによる排除.搾取.収奪,破壊の歴史による累積的な人種間の機会不平等構造は、人種を考慮した公権力の介入なしには解消しがたいからである。
これに対し、公民権改革がもつ社会変革の可能性を極限まで抑えたい保守派が掲げたのが、政策や制度の設計はいかなる意味であれ人種を考慮すべきではないと主張する力ラ?ブラインド主義であった。この考えによれば、形式上人種中立的な言葉で設計された制度であれば人種マィノリティに不利に働いてもそれはレイシズムではなく、むしろ人種に基づいて設計された不平等の積極的是正を目指す政策こそ差別だとされる。白人に偏って恩恵を与える構造の再生産(制度的人種主義)を防衛する論理である。レイシズ厶の定義は、個人あるいは団体による、人種に明示的に言及された待遇の相違や悪意へと狭められる。ある社会学者は、こうした論理を「カラーブラインド・レイシズ厶」と呼んでいる。
犬笛政治はカラーブラインド主義を前提にした政治技法である。人間には聞こえないが犬には聴取できる音を出す犬笛のように、直接人種に言及する言葉を使用せずに人種的な意味を帯びたメッセ?ジを発し、人種意識に駆り立てられた投票行動を促す戦術を意味する。共和党は1960年代末以降、ほぼ一貫して犬笛政治を通じて白人有権者の支持を求める「白い」党になり、トランプ大統領はその延長線上に登場したのだ。
共和党の犬笛政治が最初に「成果」を生んだのは1968年大統領選挙である。共和党候補のりチャ?ド・ニクソンは、共和党に対する南北戦争以来の反感から民主党を支持し続けた南部白人有権者が公民権改革を推進する民主党リベラル派に反発していることに注目し、かれらを共和党に引き込むために「法と秩序」の擁護を南部白人に向けて強調する「南部戦略」を展開した。黒人の直接抗議行動に憤慨していた南部白人は「法と秩序」の擁護を歓迎し、ニクソンは南部の複数の州を民主党から奪取した。
「法と秩序」「暴徒」「犯罪」「麻薬」などの言葉は、黒人に対する否定的な言明において恣意的に適用することで、人種的意味を帯びていった。取り締まりを黒人に?重させ暴力を振るう警察を「法と秩序」の守護者として擁護し、黒人の抗議運動の一部が暴動化したときには背景を考慮せずに運動全体を「暴徒」と非難し、抗議活動が非武装で破壞行為をしていなくても「暴動の恐れ」を警戒すれば、黒人=「暴徒」、「法と秩序」=白人の安全、という連想が形成される。その結果、「暴徒」や「法と秩序」を語るだけで、黒人の脅威から我々白人の安寧を守れというメッセージを白人有権者は受け取る。
「法と秩序」が白人の人種意識に根ざした不安.恐怖.憎悪を喚起しても、形式上は人種を指し示さないため、カラーブラインド主義のもとでは白人有権者もレイシストの烙印を回避できる安心感からこれを支持する。犬笛政治はその後の共和党政治家たちに継承されていった。ロナルド.レーガンは不正福祉受給で贅沢する「福祉の女王」エピソードを捏造し、白人「納税者」の税金を「福祉」として黒人女性が食い物にしていると連想させて反福祉感情を高めさせた。
…トランプが2020年選挙の投票日前後に繰り返した「不正投票」という言葉も、実際には非白人の選挙への参加の正当性を否定する犬笛となってきた。(以下省略)
(編者注:ほかにもトランプの政治を振り返る論文が掲載されていますが、ここではカラーブラインド=犬笛政治、について語られています。世界の民主主義の代表格たる米国で、しかも21世紀の今、未だに事実上の人種差別が行われていることが理解できませんでしたが、実はそれが意図的に形を変えて政治に組み込まれていることが分かりました。同時にトランプが未だに半数近い支持者に支えられている背景も理解できました)
1840.世代の昭和史から。20/12/18
今日の前書きはサンデー毎日(12/27)からです。
失政の本質、コロナ経済壊滅状況、怒りを込めて考える、倉重篤郎から
軽部:今後量的緩和の出口で国債管理政策を間違えると、20年前の比ではない経済混乱に陥る。日銀法3条(自主性尊重)と4条(政府との協力義務)を使い、日銀へのチェック&バランスをどう担保するか。もう一つはこの出口をどうするか。
西野:量的緩和で物価が上がるという単純なメカニズムは働かなかった、ということをまず認めるべきだ。裏返すと出口論とも関連してくる。日銀の資産は11月に700兆円。GDPの1.3倍といぅとんでもない額だ。おそらく日銀は国債を売らずに抱えるつもりだろう。従来の理屈だと量を増やすと物価が上がる。だがこの間経験したことは量を増やしても物価は上がらない。それを逆手に取り、せいぜい満期が来たものを少しずつ減らしていく。今は日銀保有国債の平均満期は7年ぐらいで、何十年も時間をかけて減らしていけばインフレにはならない、と考えているよぅだ。
西野:長い目で見ると、ハイパーインフレーシヨンのリスクはもちろんある。少子高齢化で経常黒字が縮小し、日本が本当に借金を返せるか、返す意思があるか、と疑念を持たれた瞬間に、非線形に猛烈な国債の売りが発生し、長期金利が急騰して財政が破綻、円が暴落する展開だ。でも、当面心配しなければならないのは、日銀など公的セクターが経済全体に占める割合が大きくなりすぎて経済の活力が低下し、「低体温症」が続くことだ。株式市場は管理相場となり潜在成長率は下落、黒字を稼ぐ力が落ちていく。
軽部:経常収支黒字が消えた時が危機の入り口になる。その日が迫っている。
西野:ないことを祈ってはいるが、もしも将来国債の暴落が起きた時、ほとんどの人がやはりこぅなったか、実はそれを心配していたと言うだろう。おかしな政策が続いていたことに実は皆気付いていたのだと。バブル管理の失政と違う点だ。
軽部:あれはバブルだったとの認識を持てたのはバブルがつぶれてからだった。
西野 今はおかしいと分かっているが、居心地がいいから続いている。その意味で、90年代の経済失政よりも今回の方が重いのではないか。かつてのバブル失政は過失だった。だが、今回は故意犯ということか。ツケはすべてコロナ禍にあえぐ国民だ。金融財政の現在地はまさにそこにある。
「世代の昭和史、戦争の恐怖という歴史的遺産」保坂正康から
…半藤は次のように具体的に言っている。
「軍隊がどういうものか、戦後の日本人は理解していません。戦後日本は、自衛隊による安全を正面に立てましたが、軍隊からの安全ということを一度も考えてこなかった。軍隊となれば統帥権が根本的に大問題ですし、独断専行権や軍事裁判権という大事な問題もある。戦後の政治的空白のなかにいた日本人は、軍隊がクーデターを起こせるということを理解せず、それへの恐怖を持ちあわせていない」
青木は私たちの発言を受けて次のよぅに言った。重要な指摘である。
「戦前の問題は議会政治の堕落にあり、そこに乗じて軍部が暴走した。議会も政府も追認せざるをえない状況がずるずると続き、最終的には勝てもしない愚かな戦争の泥沼に突き進んでいったわけですね」
3者の考え方を見ていくと、半藤の世代、そして私の世代は、いわゆる戦後民主主義の皮膚感覚の中で軍事を見ていることがわかる。青木はこんにちのジャーナリステイックな目で、より論理化していると言えるだろう。
半藤の指摘する軍事は国内に向けての暴力化という危険性を注視している。国の守り、といった言い方などとは全く異なる軍隊のあり方について強い懸念を持つのである。
半藤の数多い著作には、自分が育った世代にしか話せないことがあるとの強い責任感がある。
例えば、『靖国神社の緑の隊長』という書の「まえがき」にはその訴えがより鮮明に書かれている。
「昭和20年3月、下町を襲った東京大空襲でわたくしは、奇跡的に命びろいをしました。空から降るように襲いかかってくる焼夷弾に追い立てられながら、四方をうねる炎の海を逃げまどい、最後に川に飛び込んで助かった。わたくしはその川辺で、赤ちゃんを抱いた若いお母さんが一瞬で炎に包まれていく姿を見ました。あの日、どれほどたくさんの、無残な死体を見たことか。戦争の犠牲者をどう追悼したらいいかと聞かれれば、わたくしの答えは決まっています。日本がいつまでも平和でおだやかな国であることを、亡くなったひとたちに誓うこと、わたくしのこの考えが変わることはありません」
戦争で逝った人たちを何人も見てきた世代は、自分が生き残ったことへの少年、あるいは少女の時の感性をなんとしてもつないでいこうとの思いがあるということでもあるだろう。これまで紹介してきた児童文学者の山中恒、映画監督の篠田正浩、作家の野坂昭如などをはじめ、その世代の遺言を半藤の言葉は代弁していると思う。
1部上場企業の役員であったK氏は、現役を退いてからは近現代史の研究に没頭した。昭和5年生まれで、自分たちの世代が語り残すことをまとめてみたいというのだった。その原稿の中に次の一節があった。
「私たちの世代は戦争の時代を肌で知っているが、戦場そのものは知らない世代である。中国大陸で何が起こっていたのか、今にして思えば複雑である。この日中戦争(当時は支那事変と言ったが)は、私たちの世代が大人になる時の人生の精神形成の時代であった。私が昭和史を考える時の原風景がこの戦争であり、事実を知れば知るほどなぜこんな残酷な戦争をしたのか、と苦しくなる」
K氏は、中国側の戦死者132万人、戦傷者180万人、日本側は戦死者が42万人、戦傷者92万人(いずれも概数)といぅ数字を挙げ、この人たちへの鎮魂は私たちに課せられた歴史的務めである、とも書いている。前述の半藤とも重なり合ぅ世代の怒りであり、鎮魂である。私たちはこのメツセージをいかに継承すべきなのか。
半藤だけでなく、野坂昭如が平成17年に書いた次のような一文がある。
「繁栄を遂げたこの国に、現在物は溢れかえっている。だが未来の姿は見えない。これはぼくらの世代の責任でもある。少しでも戦争を知る人間は、戦争について語る義務を持つ。もはや残された時間に限りがある。ぼくはぼくなりにあの戦争と向き合い、書き続けることこそ、自分に与えられた業だと思い定めている」
こういう思いを次の世代はどう受け止めるべきか。私の世代は、戦後の180度変わった教育内容の中で、まるで戦前の恨みを晴らすかのような教師の言動を見てきた。そこにある種のバランスがあったのならいいのだが、そうではなく極端なまでの二元論的発想を教え込まれた。
無論そういう教師たちの説く民主主義教育は、半藤や野坂の示唆する戦争による人間性の欠如を補う面もあった。しかしその半面で、私たちをモルモット代わりに利用したとも言えるように思う。
私は、私の世代の総意を代弁しているとまでは言わないが、少国民世代、疎開世代、さらには焼け跡派などと言われる世代の怒りは共有できるのだ。その共有を次世代に橋渡しする形で、青木の世代、あるいは私と青木の間に挟まる世代にも戦争の時代の愚かさを伝えなければならないのである。
青木は先の鼎談で、国民に政党政治への絶望がある、しかしここに危うさもある、強烈なファシストが出てきて引っ張られかねない、との危惧を語っていた。この危惧を克服するのは、半藤、野坂世代の申し送りを受け止めることだという点で、青木の問題意識は私の世代と通じ合うのである。
編者注:それに近い人物は実際に我々の目の前に現れたではありませんか。安倍晋三(今東条)という姿をとって。日本を二度とファシズムの国にしないこと、それが我々団塊の世代が、自分の親の世代に対する唯一最大の鎮魂であり、将来世代への最良のプレゼントにもなるのです。