「WTWオピニオン」
【第139巻の内容】
「菅首相の辞任」
「橘玲」
「なりふり構わぬ経産省」
「民主主義とは何か」
「新格差社会(1)」
「新格差社会(2)」
「新格差社会(3)」
「五輪の総括」
「枝野幸男」
「古賀茂明が見た総裁選」
1991.菅首相の辞任。21/9/4
さらば菅首相。
次は小池知事の番だ
菅首相の退任宣言は、一様に驚きの声で迎えられました。総裁選は、素人眼で見ても岸田が優勢であり、高市、下村、野田は論外(にぎやかし)にしても、河野、石破が出馬しても、派閥の後ろ盾が十分とは言えないので、苦戦は免れず、善戦で終わり、サプライズにはならないでしょう。若手議員も、反菅が造反の動機ですから、岸田に反対する表立った理由はないはずです。とはいえ、岸田が総裁になり、自民党の顔になったにしても、総選挙で勝てるかどうかは、また別の問題です。世間はそんなに甘くはないでしょう。今回の選挙は、8年に及ぶ不祥事だらけの安倍菅政治の総決算だからです。岸田が党の顔になったからと言って、自民党の汚れたイメージが一新できるものではないでしょう。むしろ自民党のイメチェンを確実なものにするのであれば、河野が一番でしょう。また、そこまで自民党の重鎮が吹っ切れれば、むしろ逆に自民党恐るべしということにもなります。枝野対岸田なら枝野有利だが、枝野対河野なら、河野が有利だからです。
なお傑作なのは、首相辞任の感想を求められた小池知事です。後任は誰になると思うかとの記者の質問に答えて、私には投票権がないからと答えたのです。そこは違うでしょう。常識をわきまえた知事ならこう答えるはずです。「共にコロナと戦ってきた菅さんが突然退任されるとのことで驚いています。どなたが新総裁になられるにせよ、これまで以上に、国としてコロナ対策にご協力頂けるように期待しています」と。それなのに自分に投票権がないから残念というのでは、早く国会に戻りたいと言っているようなものです。そもそも、今回もコロナ対策が最重要と自分で繰り返しているのに、ならばなぜ肝心の医師会の野戦病院の要望を拒否するのか、筋が通りません。それとも単純に、重要案件を発表するのは、自分自身でなければならないと思っているのかもしれません。だとすれば、それは小池が、都民の安心より、自己宣伝を優先しているということになります。自分ファーストです。
・後継の指名なし。
https://news.yahoo.co.jp/articles/131be60710546fc7748815143e205186e8a330e7
関連記事:求心力低下の責任取る。
https://nordot.app/806366523238596608
関連記事:万策尽きて。
https://www.asahi.com/articles/ASP93435KP93UTFK00V.html?iref=comtop_AcsRank_05
関連記事:唐突な人事に党内が反発。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210903-OYT1T50180/
関連記事:岸田有利揺るがず。
https://toyokeizai.net/articles/-/452870
コメント:菅は、自分が総裁になっても、衆院選での大敗は免れないという可能性が濃厚になったこと。派閥としての支援が得られず、自主投票の可能性が高まり、若手の反発が強まり、岸田有利の包囲網が出来上がりつつあったこと。二階切り捨てという、思い切った奇策に出てはみたものの、思ったほどの効果は得られなかったこと。おまけに進次郎が毎日のように辞任を迫っていたこと。そして目先では、党役員人事で、手を挙げる者がいなかったことが、一番大きかったと思われます。組閣さえできなくなっていたのです。沈みかかった船から、一斉にネズミが逃げ出すようなものです。負け戦になることが、これほどはっきりしているのに、総裁選に出馬して惨敗すれば、恥の上塗りです。
無論敗因は、コロナ対策の失敗(または不完全)と、オリパラの強引な開催です。この二つの、安倍の負の遺産を、最初から背負わされていたことが、菅を追い詰めたのです。ならば、せめて安倍よりはましだったと、誰かが評価しないと、踏んだり蹴ったりで終わってしまいます。少なくとも、引き際で、安倍より潔かったことだけは確かでしょう。少々気の毒な気もしないではないが、政治理念の面では、自助を中心に据えるなど、これでいいのかと思う部分が少なからずあったことも事実です。もう一つの敗因は、派閥の支援がないのに、竹中や和泉など、IQでもEQでも見劣りするような、ろくでもない側近しかいなかったことです。
・大使館が口止め。
https://news.yahoo.co.jp/articles/de90b06207ce2b40c6d81610e0b1b3d4d18d5cb3
コメント:外交官である前に、人間として失格です。実名を公表してほしい。公人なのですから。
1992.橘玲。21/9/7
東京感染者千人以下でも油断するな。
総裁選で、自民党だけに政策をぶち上げる
機会を与えてはならない。
野党は国民受けする政策をアピールせよ。
メディアに売り込み、ポスターを貼り、ビラを撒け。
なりふり構わず、草の根活動で這いずり回れ。
口先だけのエリートなど、国民は必要としていない
今日の前書きは橘玲(たちばなあきら)の「臆病者の為の億万長者入門」です。私は、およそ金とは全く縁の無い体質で、退職金で家のローンの残債を払った(直後にバブル崩壊で価値は半減。結果退職金はゼロ)後は、細々と年金で暮らしています。この本に関心を持ったのは著者が朝日新聞に寄稿しており、その顔写真が挿絵だった(本人は顔写真を出さない方針)ことです。そこで、店頭でこの本を手に取ったところ、これが滅法面白くて、投資には縁の無い私でも、一気に読みました。2014年の本(2020年改版)ですが、今でも通用します。いわば投資のノウハウ本ですが、その中からボンビーな私にも関係のある部分をご紹介します。
…宝くじの賞金分は半分だけで、残りの半分は販売経費を差し引いたうえで地方自治体に分配される。
宝くじの商品特性を金商法の理念に照らすと、券面にはリスクとコストを次のような文面ではっきりと書く必要がある。
「宝くじの購入にはリスクがあります。1等の当選確率は1000万の1、宝くじを毎回3万円分、0歳から100年間購入したとしても、99.9%の購入者は生涯当選することはありません」
「宝くじには、購入代金に対して50%の手数料がかかります」
コメント:これで私は宝くじを買うのを辞めました。
それからついでにと言ったら作者に失礼だが、同じ著者の「もっと言ってはいけない」という本も同時並行で読んでいます。その前作、「言ってはいけない」はベストセラーだそうですが、私は読んでいません。
この本の主題の一つが、精神疾患を含め、遺伝の影響は無視できない(8割近い)というものです。
…言うまでもないことだが、リベラルな社会では「個人の努力でどうしようもないもの(運命)」を理由にした差別は許されない。これは人種だけでなく、民族、国籍、身分、出自、性別、性的指向、障がいなども同じだ。その中で人種が常に問題にされるのは、最もアイデンティティと結びつきやすいからだろう。アイデンティティに最適なのは、「自分は最初から持っていて、相手がそれを手に入れることが絶対不可能なもの」だろう。黒人やアジア系は、どんなに努力しても「白い肌」を持つことはできない。これが、中流の崩壊とともにアメリカの貧しい白人たちの間で「白人至上主義」が急速に広まっている理由だ。彼らは「人種差別主義者」というより、「自分が白人であるということ以外に誇るものない人たち」だ。
…日本で「ネトウヨ」と呼ばれるのは「自分が日本人であるということ以外に誇るもののない」愛国原理主義者のことだが、人種と違って国籍は変更可能だ。だからこそ彼らは、意に沿わない者たちを「在日認定」して、帰化して日本人にならないよう、外国人参政権に強行に反対して、「朝鮮半島に叩き出せ」と叫ぶ。
…やればできるイデオロギーはものすごく残酷である。(編者注:やってできないものもある。しかもそれが本人の責任ではないのに)
…分かりやすい例外を強調すること(こんなヒドイ話がある)は、ポピュリストによるプロパガンダの常套手段でもある。気に入らない意見を封殺するために同じ手段を使うなら、ナチスがユダヤ人をせん滅しようとした歴史を思い出すべきだろう。(以下略)
1993.なりふり構わぬ経産省。21/9/8
岸田が首相なら、安倍は無罪放免。
河野なら、麻生から圧力がかかるだろう。
安倍チルドレンも同じ穴のムジナ。
再調査できるのは、石破だけだが、
議員票で弱い。
結局日本を正常に戻すには、
総選挙で野党に勝たせるしかない。
それにしても、日本人の心から
正義と平等と平和を愛する気持ちを奪ったのが
他ならぬ自分だという意識が、安倍にはかけらもないようだ。
自己愛や自己正当化を超えて、もはや狂信者
今回の前書きは週間朝日(9.17)の、「古賀茂明、政官財の罪と罰、経産省による河野たたきの意味」です。
私も腑に落ちなかった週刊文春の河野のパワハラ報道。一方的な報道の上に、経産省が意図的に大臣を攻撃するための情報を流したことが、誰の目にもバレバレです。しかも動画に至っては、自分に都合の良い部分だけを取り出した内容です。こんな記事を書くようでは、文春もお終いで、ジャーナリズムの品格に泥を塗る行為です。
それでなくとも、安倍政権で猛威を振るい、さんざん国民に迷惑をかけた(しかも傲慢な)今井補佐官の存在だけでも、十分、経産省の印象は悪いのです。しかもコロナの支援金では、9段階もある下請けの構図や、中核を担った電通とのただ事ではない癒着ぶりで、よくもこれで特捜の捜査の手が入らないものだと思います。20年前に、あれほど優秀だった経産官僚が、ここまで落ちるのかと思うと、情けなくなります。
今回はちょっと長いが、重要な内容なので、お付き合いください。
自民党総裁選の裏で大戦争が起きている。主役は、原子力利権の守護神・経済産業省の官僚と河野太郎規制改革担当相だ。連戦連勝の河野氏に対して、経産省は「文春砲」で最終戦争に打って出た。
先週の週刊文春は、近く閣議決定される「エネルギー基本計画(エネ基)」について、経産省資源エネルギー庁幹部との会議で、河野氏が繰り返しダメ出しする様子を伝えた。普通に読めば、河野氏が理由なくパワハラ発言をしたと読める内容だ。文春は、菅義偉政権の目玉閣僚である河野氏を叩こうと考えた。その姿勢は、忖度報道ばかりの大手マスコミにはないもので貴重ではあるが、この記事はあることを報じていない。
実は、この会議に至るまで、経産省と河野大臣、そして、河野大臣直轄の有識者会議「再生可能エネルギー等に関する規制等の総点検タスクフォース(TF)」の問では、1年近く議論が行われてきたということだ。TFは電力会社から完全に独立した国内最高の専門家4人からなる。そのため、私が見る限り、経産省は論戦で完敗した。経産官僚はネット生配信で毎回恥をさらしたのだ。
例えば、文春の記事にあった「容量市場」制度は、世界に例を見ないでたらめな制度だ。驚いたことに、大手電力会社の石炭火力に多大な補助金を与え、逆に再エネ電力供給業者に事実上の死刑宣告になるような多額の資金拠出を強制する制度になっている。河野氏は、即時廃止または抜本的改革を主張したが、経産省はこれを無視。エネ基最終案にも即時抜本改革さえ盛り込まなかった。河野氏が怒るはずだ。
原発と再エネの電源比率の書き方についての争いも、文春の記事からわかるのは、経産省が、再エネの比率を想定以上に引き上げるのを妨げ、原発維持拡大に有利になるような抜け穴を作ろうとしているということ。30年以上官僚をやっていた私には彼らの魂胆がよくわかる。経産官僚は、電力利権と安倍晋三前総理や甘利明税調会長などの利権政治家の側に立ち、国民の利益を全く無視している。こうした真実を知れば、国民の多くは、経産官僚に対して罵声を浴びせたくなるだろう。
やむなく河野氏が、理不尽な内容のままなら閣議で反対すると言ったのは当然のことだろう。それがどうして「脅し」になるのか、痼味不明だ。
経産省が、内部調整中のエネ基の文言を一部週刊誌だけに漏洩して、「個人攻撃」で河野氏を叩こうとしたのは、彼らの「政策論」が世の中で通用しないと悟ったからだ。
官僚と族議員の利権に容赦なく切り込む河野氏の敵は、利権擁護派の官僚と自民党族議員全体に及ぶ。彼らは、週刊文春を味方につけた経産省とともに、かさにかかって河野叩きに出るはずだ。
河野総裁や要職での起用の可能性もあるとなればなおさらだろう。
マスコミによる河野氏への人格攻撃は、その報道の意図とは関係なく、原発維持拡大などの利権擁護派に利用されていることを国民はよく理解しておかなければならない。
コメント:こうなると、何とか河野首相を実現させたいものです。日本の将来と、子孫の幸せのために。
・自民総裁選、カギ握る若手衆院議員。締め付け諦めた派閥。
https://news.yahoo.co.jp/articles/17865e18e966e10e3b9daa50699a38cb53d513e7
コメント:というより無派閥層でしょう。私は安倍チルドレンには期待も信用もしません。それはスキャンダルを量産してきているからで、今回の選挙で退場してほしい議員たちだからです。
1994.民主主義とは何か。21/9/9
今回の前書きは、以前から気になっていたテーマ、即ち現代における民主主義の現状と、そのあるべき姿です。とりわけ最近のポピュリズムの台頭が懸念材料です。平易な表現で、我々に民主主義理解の手掛かりを与えてくれる本が、宇野重規の「民主主義とは何か」(講談社現在新書)です。ご存じのように、宇野は、菅や杉田の歪んだ極右の価値観から、学術会議の任命から外された6人のうちの一人です。今回ご紹介するのは同書の最後の部分で、かなり削ってみたのですが、それでも長くなりました。しかし重要な主張なので、是非とも通読頂ければと思います。但しあらかじめ言っておくと、ここには我々が求める答はありません。宇野が整理した理念を、どのように具体化(=制度化)してゆくかは、我々に課せられた(永遠の)課題であることに変わりはないのです。
(前略)
民主主義についてどちらが正しいでしょうか。
C1「民主主義とは国の制度のことだ。国民が主権者であり、その国民の意思を政治に適切に反映させる具体的な仕組みが民主主義だ」
C2「民主主義とは理念だ。平等な人々がともに生きていく社会をつくっていくための、終わることのない過程が民主主義だ」
古代ギリシアにおいては、制度と理念の分離はみられませんでした。アテナイの民主主義の最盛期には、すべての市民が民会に参加する資格をもち、抽選で公職に就き、民衆裁判で判決を下しました。
これと比べると、近代において、議会制を中心に民主主義の諸制度が発展しますが、もっぱら選挙に民主主義の主眼が置かれたため、人々が主権者として自ら政治に参加し、自分たちの問題を自分たちで解決するという民主主義の理想との間には、どうしても距離がありました
タールはすべての市民が政治に参加する平等な権利をもち、自ら決定すべき事項を選択し、必要な知識や情報を得て、有効に自らの考えを反映させる機会があることが民主主義に不可欠だと考えたのです。
CIとC2の両側面があることを前提に、両者を不断に結びつけていくことこそが重要だといえるでしょう。
その上で、民主主義がいまだ制度化の途上にあることについても、指摘しておかなければなりません。民主主義には2500年を超える歴史があるといいましたが、古代ギリシアを別にすれば、近代において民主主義の具体的な制度化が進んだのは、この二世紀にすぎません。その制度が完成したものであるとは到底いえず、むしろ今後も試行錯誤によって制度を充実させていく必要があります。
たしかに一つの民意を議会が代表し、それを執行権が実現することをもって、民主主義の本質とみなす考え方は有力です。しかしその一方、現実の政治をみれば、重要なのはむしろ執行権です。この執行権を直接的に民主的な統制の下に置かない限り、民主主義は実質化しないとする問題提起は重要です。(編者注:ほぼ独裁の小池都政を見れば、選挙の時期が来るまで、都民はされるがままで、なすすべがないのです)
情報の公開、オープンデータ化を進め、市民が自ら政策提案を行うことも、執行権中心の時代に民主主義を前進させるための大きな手段です。市民は立法権を媒介とすることなしに、より直接的に執行権に対しアイディアを寄せ、同時にその活動をチェックすべきなのです。(編者注:その仕組みを考案、実施できたらノーベル平和賞でしょう)
最後に、現代社会の四つの危機について、展望を示してみたいと思います。四つの危機とは、ポピュリズムの台頭、独裁的指導者の増加、第四次産業革命とも呼ばれる技術革新、そしてコロナ危機です。いずれも深刻であり、容易に解決策を示せないものばかりです。
第一のポピュリズムについては、必ずしも新しい現象ではありません。既成の政治システムがゆきづまった際に、高まる不満や不安を受けて、あるいはそのような不満や不安を梃子に、権力の座に就く指導者はいつの時代にもいました。そして、そのように台頭した政治家が、しばしば問題を解決するどころか、むしろ混乱させてきたことも歴史の教えるところです。
現代のポピュリズム政治家は、そのような指導者の現代版ともいえますが、代議制民主主義への不信とグローバルな格差拡大を背景としている以上、両者の解決なしには、容易に乗り越えることはできません。
代議制民主主義への不信については、選挙や政党のあり方についての刷新が不可欠でしょう。
後者のグローバルな格差拡大にも、容易に解答をみつけることができません。民主主義にはどうしても、一定の経済的・社会的な平等が不可欠です。不平等が拡大するに任せてしまえば、民主主義を維持することは不可能になります。
第二の独裁と民主主義についての比較は、短期的にみれば、独裁的手法が効果をもつことは十分にありえます。しかしながら、政治システム全体が長期的に発展するためには、民主主義の方がはるかに有効です。
その理由の第一は、民主主義が政治参加の機会拡大により人々の当事者意識を高め、そのエネルギーを引き出すということです。独裁体制の下では、人々は受動的になり、すべてを権力者に依存することになります。そのような仕組みが長期的に持続可能とは思われません。(編者注:江戸時代からそれが続いているのが日本です)。
理由の第二は、民主主義は多様性を許容する政治システムです。その前提にあるのは、政治や社会の問題についてつねに唯一の答えがあるわけではなく、多様なアイディアに基づく試行錯誤が不可欠であるという考えです。民主主義はしばしば誤った決定を下しますが、それを自己修正し、状況を立て直す能力をもつのも民主主義です。
個人は相互に自由かつ平等であり、それを可能にする政治・経済・社会の秩序を模索し続けるのが人間の存在理由です。民主主義をどこまで信じることができるのか、それがいま、問われています。より多くの人々が情報やデータにアクセスするのみならず、自ら発信することを可能にするSNSの技術は、文字通り、人々を「デモクラタイズ(民主化)」します。AIは多くの人間の労働を代替し、あるいはより効率的なものとし、さらに人間の把握や予測の能力を高めるという意味では、人間の能力を補完し、強化するものといえます。
そのようなテクノロジー進化の果実を独占することで、デジタル専制主義が実現するのか、あるいはAIによる民主主義のバージョンアップが達成されるかは予断を許しません。(編者注:デジタル庁は明らかに前者です)。しかしながら、長期的には人々は新たな技術を通じて、政治の透明化を実現し、市民のアイディアをより直接的に政治や行政へと結びつける可能性を拡大していくことに、私たちは賭けるしかないと思われます。
いずれにせよ、これまでの産業革命がそうであったように、技術の変化と社会の変化の間には時差があります。第四次産業革命によって、民主主義を含め、さまざまな政治や社会のあり方が変化し、人々の生活や価値観がそれに適応するまで、あと数十年を要するものと思われます。20世紀前半に自由民主主義が社会主義とファシズムの挑戦を受けたように、21世紀前半も、自由民主主義とそのチャレンジャーの競争が続くのかもしれません。
最後に、第四のコロナ危機です。これは現在進行中であり、予断を許しません。ただし、危機が続くことで、安易にリーダーシップに期待するだけでは問題が解決しないことに人々は気づき始めています。ウィルス感染の確実な防止策がまだない以上、今後も試行錯誤を続けていくしかありません。独裁的な対応は一時的には有効にみえても、自由で多様なアイディアの表出や実験を許さない以上、長期的には選択肢を狭める結果になります。より重要なのは、一人ひとりの市民による自覚的な取り組みの強化であり、政府への信頼を高めることで、有効な取り組みを社会的に共有していくことではないでしょうか。
本書で繰り返し強調してきたように、自由と民主主義にとっての鍵は国家と社会の緊張ある関係です。21世紀において、社会とはグローバルに連帯した市民社会を指すはずです。いまは国境の壁が閉ざされ、人々の自由な交流が妨げられ、自国中心的なメンタリティが横行していますが、いずれこれを乗り越える動きが生まれてくるでしょう。そのためにも、人と人との新たな距離感に基づいて、人と人とを結びつける民主主義の技術を磨くべきです。
コロナ危機は、私たちに大切なものは何か、あらためて問い直すきっかけとなりました。何より大切なのは人々の安全でしょう。多くの生命が失われる危険に全力で立ち向かわなければならないことは明らかです。その一方、危機が長期化するとともに経済活動の停滞による影響も深刻化していきました。日々の生産や流通、消費の活動が大きく損なわれるなか、失業や休業によって生活を脅かされる人も増加していきます。安全を優先すれば経済活動にとっての障害となりますが、安易に経済活動を再開すれば感染の再拡大は免れないでしょう。人々の自由や社会的公正も、安全や経済とは独立した、そしてそれに劣らない重要な価値です。安全を重視するあまり、個人のプライバシーを侵害することには最大限、警戒的であるべきです。同時に、感染のダメージは、社会のなかでより弱い立場の人に大きなものとなります。負担をいかに社会的に共有していくかも重要な課題です。安全、経済、自由は同時に実現が難しい、いわばトリレンマです。いずれかを優先すれば、他のいずれかが必ず損なわれます。この難局を民主主義がいかに乗り越えていけるかが、今後の最大のテーマになるでしょう。
何を信じるべきか
最終的に問われるのは、私たちの信念ではないでしょうか。厳しい時代においてこそ、人は何を信じるかを問われるのです。
第一に、「公開による透明性」です。古代ギリシアで成立した「政治」とは、公共の議論を通じて意思決定を行うことへの信念でした。力による強制でもなければ、利益による誘導でもなく、あくまで言葉を通じて説得し、納得した上で決定に従いたい。これこそが、自由な人間にとって何より大切であるとする理念を、現代に生きる私たちもまた共にしています。そのためにも、情報の公開やオープンデータはもちろん、政策決定過程をより透明度の高いものにしていく必要があります。
第二に、「参加を通じての当事者意識」です。私たちは、自分と関わりのないことには、いくら強制されても力を出せません。これはまさに自分のなすべき仕事だ、自分たちにとってきわめて大切な事柄だと思えてはじめて、主体的に考え、自ら行動する動機が生じます。逆に自分に深く関わることに対して無力であり、影響を及ぼすことができないという感覚ほど、人を苛むものはありません。私たちは身の回りのことから、環境問題など人類全体の問題にまで、生き生きした当事者意識をもちたいと願っています。民主主義とは、そのためにあるのです。(編者注:有権者の半数が無党派層では、当事者意識が十分とは言えません)。
第三に、「判断に伴う責任」です。政治においては責任の問題が不可避です。一つひとつの判断が社会や人類の将来に影響を与え、場合によっては多くの人々の暮らしや生死にかかわるだけに、政治的決定には責任が伴います。といっても、責任を問われるのは、特別なリーダーだけではありません。ごく普通の人々が、自らの可能な範囲で公共の任務に携わり、責任を分ちもつことが、民主主義にとって重要です。責任を負担として捉えるのではなく、自分たちにとって大切なものを預かり、担っているという感覚として理解するならば、それはむしろ人間に生きがいと勇気を与えるのではないでしょうか。
個人は相互に自由かつ平等であり、それを可能にする政治・経済・社会の秩序を模索し続けるのが人間の存在理由です。民主主義をどこまで信じることができるのか、それがいま、問われています。
1995.新格差社会(1)21/9/10
フェスやって、騒ぐのは当たり前。
座席の配置を工夫するなどして、
参加者の距離が取れないようなイベントなら
当面中止が原則だろう。
今回はいよいよ私のライフワーク(?)、格差の問題です。参考文献は橋本健二「新・日本の階級社会」講談社現代新書です。初版は2018年です。日頃感じている格差問題に関する疑問のいくつかが、統計学を使って説明されています。今回は3回に分けて、内容(のごく一部)を紹介していきたいと思います。
…人々の政治意識も、大きく変わった。政党支持に関するこれまでの多くの研究は、自民党と社会党を中心とする「五五年体制」が成立したころから高度成長期にかけては、経営者などの富裕層が自民党を支持し、労働者を中心とする貧困層が社会党を支持するという構造がはっきりみられたのに対し、その後になるとこの構造が急速に崩れ、政党支持と貧富の違いがはっきりとは対応しなくなってきたことを明らかにしてきた。ところがこの10年ほどの間に、新たな変化が起こっている。自民党の支持基盤は、明らかに富裕層へと軸足を移している。
今日、拡大した格差は日本の社会に深く根を下ろしてしまったといっていい。人々は大きな格差の存在を、はっきりと感じている。そして豊かな人々は豊かさを、貧しい人々は貧しさを、それぞれに自覚しながら日々を送っている。人々は、豊かさの程度によって明らかに分断されている。それは、政治意識にも表れる。ほぼ一貫して日本の政治の中心を担ってきた自民党は、拡大した格差の一方の極に軸足を移し、富裕層の政党としての性格を強めている。
以上のような変化をみれば、次のような印象が生まれるのは自然なことだろう。
高度成長が続いたあとの、いまより格差が小さかった時代、人々は格差の存在をあまり意識することがなかった。そして漠然と、自分の生活程度はふつうだと考えていた。この点では、豊かな人も貧しい人も、変わるところがなかった。しかし格差拡大が続くうちに、人々は格差の存在をはっきり意識するようになり、自分がこうした格差の構造の中でどのような位置を占めるのかを、正確に認識するようになった。そして、こうした自分の位置に応じて、豊かな人々は自分の生活に満足し、貧しい人々は不満を感じるようになった。このことは政治意識にも影響し、豊かな人々はますます自民党を支持するようになり、貧しい人々は自民党を支持しなくなった。このように格差というものを争点に、人々の意識は分極化しているのである、と。
(編者注:私は米国のトランプ政権を見ていると、日本でも貧困層が必ずしも野党に投票せず、また公明党の支持者が必ずしも労働者ではなく、結果的に富裕層以外でも自民党を支持する人が少なからず存在していると予想しています。もっと言えば、選挙で自分たちの生活が変わることを期待できず、またどの政党を選んでよいかの知識も判断力もないがゆえに、結果的に棄権する無党派層の中に、その多くが埋没しているのではないかと考えています)
今日の日本では、格差拡大を積極的に肯定する人は少ないものの、これを容認する人を含めて「格差拡大肯定・容認派」と考えれば、六割近くに達している。この比率は低所得層ではやや低いが、所得による差はこの10年間で縮まっており、所得階層を問わず、格差拡大を容認する傾向は強まっているとみることができる。ここには、所得階層の違いにかかわらず広く受け入れられている「自己責任論」が関係している。自己責任論が、格差拡大肯定・容認論の最強のよりどころとなっているのである。
1970年代後半から、「格差社会」が流行語になった2005年の直前まで、「一億総中流」は日本人にとっての「常識」だった。それは現実の生活程度と、自分の生活に対する人々の自己評価、つまり階層帰属意識を混同していたこと、また設問の作り方に問題のある世論調査の結果を根拠にしていたことなど、もともと疑わしいものだった。しかし、たしかにこの時期、日本の経済的格差が以前より小さくなっていたうえに、生活程度にかかわらず多くの人々が、自分の生活程度を「中」と思い込んでいたことなどから広く受け入れられ、また「日本は平等な国だ」として、自国を他国より優位に置こうとするナショナリスティックな感覚とも合致したことから、広く定着してきた。
しかしその後、階層帰属意識は格差の実態を、ある程度まで正確に反映するようになっていった。格差が拡大するとともに、「中」に位置する人々の一部が、自分を「人並みより上」だと考えるようになり、他の「中」の人々から区別しはじめたからである。豊かな人々は自分たちを「人並みより上」と、豊かでない人々は自分たちを「人並みより下」とみなすようになってきたのである。こうして階層帰属意識は、人々が社会のなかで現実に占める位置と、かなり正確に対応するようになってきた。社会を広く覆っていた「中流意識」の分解である。
これと同時に、生活や収入に対する満足度も、現実の生活実態と正確に対応するようになった。豊かな人々はこれまで以上に満足を感じ、貧しい人々はこれまで以上に不満をもつようになった。そして政党支持も、豊かな人々は自民党を支持し、そうでない人々は支持しないというように、所得水準との対応関係を深めてきた。
ところが貧困層は、かつては格差拡大に強く反対していたが、最近ではあまり反対しなくなってきている。もっとも、より豊かな人々との違いがなくなってしまったわけではないし、また後の章で詳しくみるように、格差に対する認識や評価には、依然として階級・階層による違いが認められる。しかし格差拡大によって不利益を被ったはずの人々が、意外に格差拡大に対して寛容であることは否定できない。
反転の可能性はどこに
そしてこの傾向は、「自己責任論」の広がりと深く関連している可能性がある。自己責任論は、意外なほど広く浸透している。それは、貧困圜も例外ではない。もし仮に、格差拡大によってもっとも不利益を被っている貧困層が、自己責任論を受け入れて格差拡大に反対しなくなっているのだとすれば、格差拡大に反対する主張は、その根拠の重要な部分を失う。政治は格差拡大を肯定・容認する富裕層に先導され、格差拡大に歯止めをかけることは難しくなるだろう。格差が拡大し、しかも人々は、これを競争の結果だとして受け入れる。これが事実とすれば、それは1988年の『国民生活白書』が、国民意識の「成熟」と呼んだ変化そのものである。こうなると格差社会は、反転の契機を失う。
残念ながら、これらの人々によって支持され、格差拡大に歯止めをかけるための政治的回路となりうる政党が、存在していない。だから格差拡大を否定する人々の声は、政治に反映されることがない。こうして格差拡大を止める政治勢力は形成されることがなく、格差拡大は続いていく。
貧困率にも変化がある。正規労働者の貧困率は、男女とも低下している。2015年の貧困率は男性でわずか6.0%、女性も6.8%だから、貧困とはほとんど無縁になったといってもいい。これに対して非正規労働者の貧困率は、男性で28.6%、女性で48.5%ときわめて高い。正規労働者と非正規労働者の間には、これほどまでに大きな格差がある。
「階級以下」の存在=「アンダークラス」の登場
これまでの労働者階級は、資本主義社会の底辺に位置する階級だったとはいえ、正社員としての安定した地位を持ち、製造業を中心に比較的安定した雇用を確保してきた。これに対して激増している非正規労働者は、雇用が不安定で、賃金も正規労働者には遠く及ばない。しかも結婚して家族を形成することが難しいなど、従来ある労働者階級とも異質な、ひとつの下層階級を構成しはじめているようである。労働者階級が資本主義社会の最下層の階級だったとするならば、非正規労働者は「階級以下」の存在、つまり「アンダークラス」と呼ぶのがふさわしいだろう。
アンダークラスは、もともと英米圏での研究から生まれた用語で、主に大都市部で生活する少数民族の貧困層を指すことが多かった。しかし先進国の多くで経済格差が拡大するなか、今日ではより一般的な存在となった。今日の先進社会では「機能上不可欠なアンダークラス」が形成され、誰からも嫌がられる辛い仕事を低賃金で引き受け、都市の快適な生活を支えていると指摘している。
哀しみのアンダークラスー四対一の階級構造
第二章で確認したように、資本主義社会は、資本家階級が頂点に立ち、労働者階級が底辺に位置し、両者の中間に新旧二つの中間階級が位置するという階級構造をもっている。
資本家階級は、新中間階級と労働者階級に対しては直接に上に立って支配し、旧中間階級に対しては大量の生産手段の所有によって優位に立っている。だから資本家階級は、資本主義社会の支配的な階級である。この観点からみると、資本主義社会には「資本家階級」対「他の三つの階級」という対立関係かおるといっていい。つまり、一対三の階級構造である。
しかしこれまでみてきたように、労働者階級の内部には大きな格差が生まれ、正規労働者とアンダークラスの異質性は大きくなってきた。両者の間には収入に約二倍の差があり、貧困率には五倍程度の差がある。とくに健康状態とストレス、ソーシャル・キャピタルと不安などに注目すると、むしろ資本家階級から正規労働者までを含めた四つの階級とアンダークラスの間の異質性がきわだっている部分が大きい。それは、文字通りか、あるいはそれなりにかの違いはあっても、安定した生活を送り、さほど強い不安もなく、満足や幸せを感じながら生きることのできる人々と、これができない人々の違いである。
だとすると、いまや資本家階級から正規労働者までが、お互いの利害の対立と格差は保ちながらも、一体となってアンダークラスの上に立ち、アンダークラスを支配・抑圧しているといえないだろうか。これは、いわば四対一の階級構造である。
アンダークラスは社会の底辺で、低賃金の単純労働に従事し、他の多くの人々の生活を支えている。長時間営業の外食産業やコンビニエンスストア、安価で良質の日用品が手に入るディスカウントショップ、いつでも欲しいものが自宅まで届けられる流通機構など、現代社会の利便性・快適さの多くが、アンダークラスの低賃金労働によって可能になっている。しかし彼ら・彼女らは、健康状態に不安があり、特に精神的な問題を抱えやすく、将来の見通しもない。しかもソーシャル・キャピタルの蓄積が乏しく、無防備な状態に置かれている。他の4階級との間の決定的な格差の下で、苦しみ続けているのがアンダークラスである。この事実は重く受け止める必要がある。(以下次号)
1996.新格差社会(2)21/9/11
小池が総裁選で女性が少ないことに苦言。
総裁への野心を隠そうともしない。
ところが希望の党の小池は、石原慎太郎を
超える極右思想の独裁者。
排除の論理を暴露した記者を出入り禁止にし、
口を滑らしたことを後悔したものの、
言い訳や反省を口にした記憶はない。
即ち、未だに都民はファシズムで差別主義者の政治家を
都知事に戴いていることになる。
コロナの犠牲者や感染者に対する冷酷な仕打ちも
それで説明がつく
新・階級社会の第2回です。
格差社会をめぐる大きな論点のひとつは、「格差の固定化」である。つまり、豊かな親のもとに生まれた人々は自分も豊かになり、貧しい親のもとに生まれた人々は自分も貧しくなるというように、格差が世代を超えて固定化するという問題である。このような固定化傾向が存在すること自体は、古くから多くの研究で証明されているが、問題はこの傾向が強まっているのかどうかである。
親の間の格差が拡大すれば、子どもの環境にも影響するわけだから、格差の固定化頏向か強まる可能性が高い。それでは現実に、現代の日本でこのような格差の固定化が進行しているといえるだろうか。最新のデータから明らかになったのは、普通の勤め人の子どもが昇進や独立開業を通じて資本家階級になるチャンスが、急速に失われつつあるという現実だった。
豊かさの連鎖と貧困の連鎖
親の豊かさは、その子どもたちに影響する。豊かな人々の子どもたちは恵まれた環境で、貧しい人々の子どもたちは貧しい環境で育つことになる。豊かな人々の子どもたちより恵まれた勉学環境の下で学力を身に着け、当然のように大学に進学する。これに対して勉学環境に恵まれない貧しい人々の子どもたちは、大学進学の機会を失う。そして大学を卒業しているか否かは、その後の人生を大きく左右する。
こうして大人になったとき、豊かな人々の子どもたちは、自らも豊かな生活を送ることができるが、貧しい人々の子どもたちは、自らも貧しい生活に甘んじることになる。親から子どもへと豊かさが連鎖し、貧しさもまた連鎖するのである。このような傾向が多かれ少なかれあることは、古くから知られている。ここで格差が拡大すると、どうなるか。子どもたちの環境の格差はさらに大きくなるから、こうした傾向か強まる可能性が高い。
格差拡大を容認し、自己責任論を強く支持し、所得再分配をかたくなに拒否するのは、自民党支持者の特徴である。他の政党の支持者は、共産党支持者が熱烈に、公明党支持者は微温的にという違いはあるものの、ほぼ同様に格差拡大の事実を認め、これに批判的で、所得再分配を支持している。ここでは、同じ与党である自民党と公明党の支持者の間の異質性がきわだっている。これに対して多数派である無党派は、格差拡大の事実を認め、これに批判的で、また自己責任論を否定するところまでは自民党以外の支持者に近いが、所得再分配を支持するまでには至らない。まさに格差に対する意識の上でも中間的ということができる。
「排外主義」「軍備重視」と格差に対する意識の関係
きわだつ自民党支持者の異質性
これまで「排外主義」「軍備重視」、そして格差に対する意識である「格差拡大認識」「自己責任論」「所得再分配支持」についてみてきた。実は、これらの間には一定の関係がある。「排外主義」「軍備重視」を支持する人々は、格差拡大の事実を認めず、所得再分配に反対するに反対する傾向が強いのである。
両者と支持政党の関係は非常にはっきりしている。自民党支持者は、排外主義的な傾向が強い。さらに軍備重視の傾向については、他の政党の支持者と無党派を大きく引き離して強くなっている。自民党支持者以外では、公明党支持者は排外主義の傾向がとくに弱く、また民進党支持者は軍備重視の傾向がとくに弱いとみていいだろう。あたかも自民党支持者は、排外主義と軍備重視に凝り固まったカルト集団であるようにも思えてくる。
戦後の平和運動や左翼運動では、平等への要求と平和への要求が、常に結びついてきた。これらの運動に参加、あるいは共感する人々は、平等を求めると同時に平和を求めてきたのである。逆に右派は、平等への要求を「悪平等」「効率の無視」などとして否定すると同時に、軍備の拡張を求めてきた。同じように平等への要求は、アジア・太平洋戦争での戦争責任の追及と、日本がかつて侵略した国々の人々に対する贖罪意識と結びついてきた。そして右派は、平等への要求を否定すると同時に、侵略の事実を認めず、あるいは合理化し、戦争責任を問う中国や韓国、そして左派の主張に反発してきた。だから政治的立場としては、格差是正―平和主義―多文化主義の立場と、格差容認−軍備重視―排外主義の立場こそが、論理整合的な左派と右派の立場だと考えられてきたといっていい。
分析結果をみると、こうした構図はかなり崩壊しているように思われる。全体を平均してみれば、こうした構図が弱いながらも成立しているし、また平等への要求と平和への要求は、新中間階級、パート主婦、旧中間階級では結びついており、また平等への要求と多文化主義は、資本家階級と新中間階級で強く結びついている。しかし両者がともに強く結びついているのは新中間階級だけであり、とくにアンダークラスでは、平等への要求が排外主義と強く結びついてしまっているのである。
先にも確認したように、アンダークラスが全体として排外主義的だというわけではない。格差是正の要求と排外主義が、アンダークラスにおいてだけ、強く結びついているということである。貧しい人々が所得再分配による格差の是正を求める一方で、外国人の流入を警戒し、戦争責任を問う中国人や韓国人の主張に反発する。アンダークラスには、このような立場をとる人が多いらしいのである。追い詰められたアンダークラスの内部に、ファシズムの基盤が芽生え始めているといっては言いすぎだろうか。
2017年10月の衆議院選挙では、小池百合子東京都知事が率いる「希望の党」が注目を集めたが、その政策には、興味深い点があった。「希望の党」は、公認候補となることを希望する候補者に、集団的自衛権の行使を可能にした安保法制の受け入れや、外国人への参政権付与に反対することを盛り込んだ政策協定書へのサインを要求した。そして選挙では、九条を含む憲法改正の検討を公約とした。まさに排外主義、軍備重視である。
ところが公約には同時に、正社員化の促進やベーシックーインカムの導入など、格差の縮小と所得再分配のための政策も盛り込まれていた。つまり、排外主義・軍備重視と所得再分配が結びつけられていたのである。おそらく、このことに気がついた有権者は多くなかっただろうし、結果的に広い支持を得ることもできなかったが、新しい政党の前例を示すことになったといえる。(編者注:希望の党のようなファシズム政党は、有害無益です。それはアンダークラスのポピュリズムであり、為政者以外の全ての人に、不幸をもたらすことになるからです。小池は日本版トランプです)
まず格差と貧困を正当化する自己責任論を、多くの人が受け入れている。また格差が大きすぎるという一般論には同意しても、「政府は豊かな人からの税金を増やしてでも、恵まれない人への福祉を充実させるべきだ」「理由はともかく生活に困っている人がいたら、国が面倒をみるべきだ」といった具体的な所得再分配政策を支持する人は、必ずしも多くない。新中間階級と正規労働者は、むしろ貧困層に対して冷淡であり、アンダークラスに対して敵対的であるように思われる。
「誤爆」するアンダークラス
それではアンダークラスは、左翼運動が描いてきたような、古典的な労働者階級の姿を体現しているだろうか。苛烈な搾取を受けて困窮状態にあること、疎外された労働を強いられていること、現状に強い不満を抱いていること、これらの点では古典的な労働者階級の条件にあてはまる。しかし、それ以外については、答えは否定的なものにならざるを得ない。
彼ら・彼女らは、ソーシャルーキャピタルの蓄積に欠けており、相互に連帯するような機会をもたない。身体的にも、また精神的にも問題を抱えていることが少なくない。そして何よりも、格差に対する不満と格差縮小の要求が、平和への要求と結びつかず、排外主義に結びつきやすくなっている。
こうした現状をみると、格差縮小と貧困の克服を実現する政治的な回路というものが、見通せなくなってしまう。恵まれた階級の人々は格差が大きい現状に安住しがちであり、恵まれないアンダークラスは、格差縮小への要求を、誤った方向に向けて誤爆する。
それでは私たちには、格差を縮小して、より平等な社会を実現する道はないのだろう
か。
「格差拡大認識」「自己責任論」「所得再分配支持」の三つには、大まかにいって次のような関係があるとみていいだろう。まず所得再分配に合意するためには、そもそも格差が拡大しているという事実認識がなければならない(編者注:安倍や麻生にはその意識が全くなかった。というより指摘を虚偽だと言って、正面から否定した)し、事実認識があったとしても、自己責任論の立場に立つ人であれば、格差拡大のなかで所得が減少したり、貧困に陥ったりした人々の救済が必要だとは考えない可能性が高い。だから所得再分配を受け入れるためには、自己責任論から脱却することも必要になる。
三つの関係と所属階級の関係は?
しかし所得再分配に対する評価は、格差拡大認識と自己責任論だけによって決まるのではない。所属階級によっても影響されているはずである。こうしてわれわれは、格差社会の克服に向けた二つの大きな課題に到達する。第一に、すべての人々、とりわけパート主婦と専業主婦たちの間に、格差が拡大し貧困圈が増大しているのは紛れもない事実であり、しかもこれが多くの弊害をもたらしているという点についての共通認識を形成することである。そして第二に、とりわけ所得再分配に合意しにくい新中間階級と正規労働者に向けて、自己責任論はまやかしであり、間違っていると説得することである。
格差拡大の弊害
こうした格差拡大は、さまざまな弊害をもたらす。とりわけ重要なのは、アンダークラスを中心とする膨大な数の貧困層を生み出すこと、社会的コストが増大すること、そして格差の固定化からさらに多くの社会的損失が生まれることである。
アンダークラスは次のような現状にある。
収入はきわめて低く、貧困率は39%、女性に限れば49%にも達している。彼ら・彼女らは、安定した家族が形成・維持できない状態にある。男性の有配偶率はわずか26%で、66%が結婚の経験をもたない。女性では離死別者が多く、これら離死別者の貧困率はさらにきわだって高い。仕事率生活への満足度はおしなべて低く、どの指標からみても、五つの階級のなかで最低である。
職場では主に単純労働に従事しており、昇進の見通しはなく、退職金を受け取ることも、福利厚生の恩恵を受けることもない。健康状態もよくない。とくに精神的な健康状態に問題があり、うつ病その他の心の病気をかかえる人が多く、そうでなくても抑うつ傾向を示す人が多い。ソーシャルーキャピタルにも恵まれないから、生活上の問題解決の道も限られる。アンダークラスが増大する一方で、正規労働者の生活はかなり安定しており、満足度も低くない。正規労働者とアンダークラスの格差は拡大傾向にあり、むしろ資本家階級、新中間階級および正規労働者の三階級とアンダークラスの間の格差が目立つように
もちろん貧困層はアンダークラスに限られるわけではない。今回は詳しい分析を示すことができなかったが、旧中間階級の貧困率は17%であり、依然として貧困層は多い。正規労働者のなかにも、少ないとはいえ貧困層がいる。これらの人々は、アンダークラスとさほど変わらない窮状のもとにあると考えていいだろう。
アンダークラスを中心に、これほどの貧困圜がいるということは、生存権を保障されない、そればかりか結婚して(あるいはパートナーを得て)家族を形成する機会すら、主に経済的な理由から得ることのできない人々が、人口の無視できない部分を占めているということである。これは、倫理的にも看過できることではない。しかもアンダークラスは、急速に増え続けているのである。
社会的コストの増大
アンダークラスと貧困層の増加は、これらの人々に生存権をはじめとする人権が十分に保障されていないという点で、それ自体が問題である。しかし、問題はそれにとどまらない。
アンダークラスと貧困層の増大は、社会全体にさまざまな問題を引き起こすからである。
世界各国で行われている研究によれば、一定以上の所得水準を実現した先進諸国を比較した場合、格差が大きい社会ほど、格差が小さい社会に比べて平均寿命が短くなる傾向がある。その理由の一部は、格差が大きいと貧困層が増加すること、そして貧困圈は健康を害しやすく、また十分な医療を受けられないことである。しかし、それだけではない。格差が大きいと、貧困圈以外の人々の寿命も引き下げられるのである。
専門の研究者たちは、次のように説明する。
一定以上の所得水準を達成した人々にとっては、所得の絶対的水準ではなく相対的水準、つまり他人より所得が高いか低いかということが重要になる。たとえ生活に不自由がなくても、他人より大幅に所得の低い人々は、強い不満をもち、より豊かな人々に対して反感をもちやすい。このため、たとえ豊かな社会でも、経済格差が大きいと、多くの人々は公共心や連帯感を失ってしまう。人々の間には友情が形成されにくくなり、コミュニティヘの参加も減少する。このため犯罪が増加し、また精神的ストレスが高まることから健康状態が悪化し、平均寿命は引き下げられる。つまり人々の健康状態は、平等な社会ほどよく、不平等な社会では悪いのである。
格差が拡大し、貧困圈が増大しても、あいかわらず豊かな生活を送っている人々は多い。しかし、そんな人々にとっても、格差や貧困は決して人ごとではない。格差が大きく、貧困者の多い社会は病んだ社会であり、病んだ社会では犯罪が増加し、豊かな人々も咎めて健康状態が悪化し、死亡率が上昇するのである。 また貧困圜が増えれば、税を払うことのできない人が増大し、同時に社会保障支出が増大する。ここから生じる社会的コストは、どの程度になるだろうか。総合研究開発機構は、次のような試算を行っている。若者の非正規労働者が激増しはじめたのは、いわゆる「就職氷河期」と呼ばれた時代である。この時期に社会に出た若者たちの一部が、そのまま非正規労働者にとどまり、今日のように巨大なアンダークラスが形成されたのだった。この世代が老後に生活保護を受けるようになった場合に、必要になる追加の費用を推計した。その費用は17.7兆円から19.3兆円になるという。
価格差の固定化と社会的損失
格差が拡大すると、格差が固定化する可能性が高い。豊かな親のもとで生まれ育った子どもは、大学を卒業して自らも豊かになり、貧しい親のもとで生まれ育った子どもは、進学の機会を得ることができず、自らも貧しくなりやすい。親の間の格差が広がれば、こうした傾向か強まる可能性がある。
男性の場合、資本家階級の地位が世代から世代へと継承される傾向が強まり、また労働者階級出身者は以前よりも労働者階級になりやすくなっていることが明らかになった。ただし新中間階級については他の階級の出身者が参入しやすくなっていること、女性については固定化傾向が認められないことなどからみて、今のところ格差の固定化が一貫して続いているというわけではなさそうだ。子どもが親と同じ階級に
所属しやすい傾向があること自体は間違いない。貧困層の子どもが貧困層になりやすい「貧困連鎖」が生じていることについてもすでに多くの指摘があり、格差の固定化が重要な問題であることにかわりはない。(以下次号)
1997.新格差社会(3)21/9/12
総裁選の候補者の茶番を、
連日のように報道するのは止めよ。
国民は結果だけ分かればいいのだ。
自民党のプロパガンダや、
候補者のパフォーマンスの為に、
NHKに視聴料を払っている訳ではない。
メディアは国民の視点を忘れてはならない
放送局は総裁候補の政権(特に高市=誰が聞きたがるのか不明)を放送する時間があったら、コロナの現状を伝えよ。メディアは、国民が首相になる可能性のある議員が、どんな理念や、価値観を持ち、どんな政策を予定しているかに、国民が強い関心を持っているはずだ、もしくは持たねばならないと固く信じているらしい。しかしながら、国民の多くは、大きな違いの無い(皆自民党だから当然だ)各候補者の政策より、国や地方自治体のコロナの感染状況や対策に、より大きな関心を持っているのである。しかも総裁選に、国民は、決定権はおろか、いかなる関与もできない。だから報道を見ても、フラストレーションが募るだけの効果しかない。逆に、3人の政治的パフォーマンスの為に、重要な報道が省略されることで大きな不利益をこうむることになる。3候補者の「猿芝居」に無理やり付き合わされることで、自民党にとっては無償のプロパガンダとなり、その代わりに国民の知る権利は大きく損なわれているのである。それでもどうしても報道したければ、批判する野党や評論家の見解も、同じくらい長い時間をかけて紹介するべきだろう。右翼の歪んだ見解を、これでもかというほど聞かせられる、国民の気持ちにもなってみよ。街宣車が毎日家の前を、スピーカーでなり立てながら通っているのと変わりないのである。
前書きは新・格差社会の第三回(最終回)です。
自己責任論の罠
二つの問題
自己責任論は、格差社会の克服を妨げる強力なイデオロギーである。しかし自己責任とは、「自分の判断がもたらした結果に対して自らが負う責任」だという。
この言葉がマスコミ等で最初に使われるようになったきっかけは、いわゆる「金融ビッグバン」である。リスクの高い多種多様な金融商品が出回るようになったが、損失を出す可能性があるから、これらを買って資産運用するのは「自己責任」で、というものだった。このような自己責任論なら、理解はできる。運用するだけの資産があって、その運用のしかたを自ら決定したならば、その結果を引き受けるのは当然だろう。
ところが近年では、「自己責任」の範囲が際限もなく拡大される傾向にある。失業するのも、低賃金の非正規労働者になるのも、貧困に陥るのも、すべて自己責任と片付ける論調が少なくない。また先にみたように自己責任論はかなりの浸透力をもっており、貧困に陥った人々自身が自己責任論に縛られ、声を発しにくい状況に陥っていることも少なくない。
こうした自己責任論には、大きく分けて二つの問題がある。
第一に、人が自己責任を問われるのは、自分に選択する余地があり、またその選択と結果の間に明確な因果関係がある場合に限られるべきだということである。多額の財産をもつ人が自分の判断で投資を行い、その結果として財産を失ったのであれば、自己責任論は成立する。しかし正規雇用が縮小している現状では、多くの人々は正規雇用を望みながら果たせず、生活の必要からやむを得ず非正規労働者として働いている。これは自由な選択ではなく、社会的な強制である。非正規雇用となったのが自らの選択でない以上、ここでは自己責任論は成立しない。
貧困に陥る原因で、自己責任に帰することのできないものは、他にもいろいろある。離別・死別によって多くの女性がアンダークラスとなり、貧困層またはその一歩手前の状態にある。死別はみずから選び取った道ではない。離別には自分の選択という側面もあるけれど、さまざまな事情からやむを得ず選択するのが一般的だろう。そして新たに職を探し始めた女性が、非正規雇用の職しか得られないというのは、先ほどと同じ意味で社会的な強制に他ならない。また不景気や企業の倒産など、本人にとっては不可抗力の要因による貧困が、自己責任で片付けられないのは当然である。
第二に、こうした自己責任論は、貧困を生みやすい社会のしくみと、このような社会を作り出し、また放置してきた人々を免罪しようとするものである。非正規雇用を拡大させ、低賃金の労働者を増加させてきた企業の責任、低賃金労働者の増大を防ぎ、貧困の増大を食い止めるための対策を怠ってきた政府の責任は不問に付されることになる。自己責任論は、本来は責任をとるべき人々を責任から解放し、これを責任のない人々に押しつけるものである。(編者注:これも安倍と竹中です)
「努力した人が報われる社会」論といいかえることもできる。これを社会的に広めたのは、1998年に小渕恵三内閣のもとで総理大臣の諮問機関として設置され、翌99年に「日本経済再生への戦略」と題する答申を行った経済戦略会議だった。この答申によると、日本の経済成長を妨げているのは「過度に平等・公平を重んじ」「頑張っても、頑張らなくても、結果はそれほど変わらない」日本社会のあり方である。だから日本は、「行き過ぎた平等社会」と決別し、「個々人の自己責任と自助努力」をペースとした「健全で創造的な競争社会」を構築しなければならない、というのである。(菅の事情に通じます)
格差正当化のためのイデオロギー
この答申の発想は、「努力した人が報われる公正な税制改革」と称して、所得税の税率を引き下げ、低所得者の税率を引き上げて税率をフラット化すれば「努力した人が報われる」ようになる、という。つまりここでは、「努力した人」と「高所得者」が同一視されている。所得の多い人は「努力した人」であり、所得の少ない人は「努力しなかった人」なのである。ここには、努力の程度は所得によって測ることができるという、極度に単純な想定がある。
いうまでもないことだが、努力したからといって成功するとはいえないし、成功した人が成功しなかった人以上に努力したと断言できるはずもない。「努力しなかった人」と「低所得者」を同一視することは、低所得者の労働を通じての貢献を無視するものであり、貧困は常に自己責任だという論理に他ならない。
ごく一般的にいえば、「努力した人が報われる」ことが必要であることはいうまでもない。だから非正規労働者として働くアンダークラスの努力は、報われる必要がある。しかし「低所得者」=「努力しなかった人」という想定の下では、彼ら・彼女らが報われることはない。ここでは「努力した人が報われる社会」というスローガンが、単に格差を正当化するためのイデオロギーとなっているのである。
格差をいかにして縮小するか
格差縮小には、さまざまな手段が考えられる。そのなかには、社会の構造そのものを変えるというものから、比較的簡単に実現できる政策的手段まで、さまざまなレベルがある。ここでは社会の構造そのものを変えるという、たとえば社会主義革命によって階級そのものをなくしてしまうというような方法はひとまず措き、簡単なものから大幅な制度の改変を必要とするものまで含んだ、政策的に可能な方法について論じていくことにしたい。これらの方法は、賃金格差の縮小、所得の再分配、所得格差を生む原因の解消、の三つに大別することができる。
賃金格差の縮小
勤労者の大部分は被雇用者だから、格差縮小のためにまず考えるべきことは、賃金格差の縮小である。所得再分配が有効に行われれば、賃金格差は現状のままでいいとの考え方もありうるが、ここではそのような立場はとらないことにしたい。なぜなら、賃金は労働に対する報酬であり、人々の貢献に対する評価を示すものだから、この報酬が少ないということは、その人の貢献が十分に認められていないということ、したがってその人が、社会から尊重されていないということを意味するからである。
したがって人々には、地位の高い低いにかかわらず、また職務の違いにかかわらず、生活が保障されるとともに、自分が社会から尊重されていると実感できるだけの賃金が支払われる必要がある。具体的な方法としては、次のようなものが考えられる。
・均等待遇の実現
日本の現状では、正規雇用者と非正規雇用者の賃金格差が非常に大きい。アンダークラスが貧困に陥りやすいのは、このためである。そのなかには、同じ職場で正規労働者と同じような仕事をし、場合によっては「先輩」として若い正規労働者を指導するような役割を果たしているにもかかわらず、正規労働者よりはるかに低い賃金で働く人も多い。このような不当な扱いは、ただちに解消されるべきである。すでにEUでは二雇用形態による差別が法的に禁止されている。
・最低賃金の引き上げ
近年、日本は最低賃金を少しずつ引き上げているが、それでも2017年の場合で、全国平均が時給848円だから、正規雇用並みに月間150時間、年間1800時間働いたとしても、月収11万7200円、年収約153万円にしかならない。税金と社会保険料を払えば、ひとり暮らしでも貧困線を下回る可能性が高い。
近年の国政選挙では、与党を含む多くの政党が、最低賃金を1000円まで引き上げることを公約に掲げている。仮に1000円になったとすると、年収は180万円程度になるから、税金や社会保険料を払っても、ひとり暮らしなら何とか生活していけるかもしれない。また共働きなら年収360万円程度だから、子どもが二人いたとしても貧困線より下に落ちることはないだろう。できるだけ早く、この水準を実現すべきだろう。最低賃金の引き上げは他へも波及し、低賃金労働者の全体が引き上げられ、賃金格差が縮小するはずである。(編者注:確かこれは最近、達成されたはずです)。ただし1000円というのは、当面の目標であって、ゴールではない。1000円という最低賃金は、現在の貧困線ギリギリのラインであって、さらに向上を図るための出発点に過ぎないのである。(編者注:当然です)
・労働時間短縮とワークシェアリング
さらに抜本的な賃金格差縮小のための手段として有効なのは、ワークシェアリングである。ワークシェアリングとは、ワーク(仕事)をシェア(分かち合う)すること、つまり一人あたりの仕事の量や労働時間を減らして、雇用される人数を増やすことである。
日本の労働時間は長い。これは米国など格差の大きい国に共通のことで、国際比較をすると、格差の大きい国ほど労働時間が長い傾向がある。それは次のように説明できる。
一時間あたりの賃金の格差が拡大すると、どうなるか。低賃金の労働者は、これまで通りの労働時間では生活が困難になる。だから、いままで以上に長く働いたり、他の職場を掛け持ちするなどして、労働時間を長くするようになる。格差を縮小するためには、まず、正規雇用の労働時間を短縮する。すると、正規雇用の人数を増やさなければならなくなり、より多くの人々が正規雇用の職を得ることができるようになる。こうして雇用が拡大すれば、これまでフリーターだったり失業者だったりした人々が、より安定した職に就くことができるようになる。これらの人々の収入は増加し、賃金格差は縮小するだろう。これまで低賃金だった仕事や、非正規雇用の仕事では人手不足が起こるかもしれないが、そうなると市場経済の法則で、賃金は上昇するはずだ。このようにワークシェアリングを行えば、税制や社会保障に頼らなくても、所得の配分をより平等なものに変えていくことができるのである。
・所得の再分配
賃金格差を縮小しても、大量の生産手段をもつ大資本家たちと、一般の被雇用者の間の格差は縮小しない。すでに巨万の富を築いた人々と、そうでない人々の間の格差も縮小しない。また失業者、病気などで働けない人々、引退した高齢者、零細な事業を営む自営業者などの貧困も解消しない。そこで必要になるのは、所得の再分配である。具体的な方法としては、次のようなものが考えられる。
・累進課税の強化
所得税の最高税率はもともと75%だったが、99年には37%まで引き下げられた。富裕層を対象とする減税が続けられてきたのである。他方では、逆進性の強い消費税の導入と税率の引き上げ、低所得者の住民税率の引き上げ、同じく高所得者の住民税率の引き下げなどが行われてきたから、税の累進性は大きく損なわれた。日本の税制は、所得再分配の機能をまったく果たしていないのである。
(編者注:この後に相続税率の引き上げや教育機会の均等などが指摘されていますが、割愛します)
近代産業では各人が専門分化して、さまざまな職責を担うことは当然であり、階級をなくすことは好ましくない。しかし問題は、階級間に大きな格差があること。そして階級間に障壁があって、階級所属が出身階級によって決まってしまう傾向にあることである。もし前節で紹介したような諸施策が実現し、これによって階級間格差が小さいものになり、また自分の所属階級を自由に選ぶ可能性が広がれば、階級というものの意味は、今よりずっと小さいものになるだろう、このような社会は無階級社会とは言えないが、非階級社会と呼ぶことができるだろう。これを目指すべき社会の姿と考えることにしたい。
一強体制に安住して、排外主義と軍備重視の傾向を強めるなら、自民党はその支持基盤を、自ら脆弱なものにしていると言っていい。
格差社会の克服という一点で、弱者とリベラル派を結集する政治勢力の形成。格差社会の克服は、したがって日本社会の未来は、ここにかかっているのである。(以上)
・河野が脱原発封印。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6404153
コメント:自民党に期待する方が間違っています。河野は万能のスペードのエースではないし、むしろ変わり身の早いジョーカーです。外相時代の国民を馬鹿にした答弁も思い出されます。森加計の再調査も否定しています。ポスト菅の自民党に期待すれば、国民はまた痛い目を見るだけです。石破以外はだれが総裁になっても同じことです。安倍にいつまでも気を使っているようでは、政治が良くなるわけがないからです。いたずらに候補者の無料宣伝になっている記者会見も即刻中止するべきです。記者は自分が何をしているのか分かってやっているのでしょうか。それに候補者が何と言おうとも、それは党内の談話であって、衆院選ではないから、どんな約束も公約とはなりえないのです。安倍に早く政治の舞台から退場して貰わないと、いつまでも日本政治の悪夢が続くことになります。途中で政治もコロナ対策も投げ出した安倍が院政を敷くなど、国民を馬鹿にするにもほどがある。決して許されることではないのです。
・脱安倍・菅は可能か。
https://nordot.app/808163102434639872
コメント:面白いことに(何も言っていない)野田の方が、高市より支持が多い点です。
・政策活動費はどう使われたのか。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/130126
コメント:広島の1.5億の出所との関係はどうか。
・野党はガラスの結束。
https://www.asahi.com/articles/ASP985CTXP93UPQJ017.html?iref=comtop_ThemeRightS_02
コメント:中でも、未だ政権も取っていないのに、共産党との連立はあり得ないと言い張る枝野。これなら自民党のリベラルの方が未だましです。これでは千才一隅の機会でも、勝てる選挙も勝てない。
1998.五輪の総括 21/9/12
日本人に足りないものは総括と反省。
五輪でもコロナでも。
そこで都の感染者数。
専門家も首をかしげる不自然な減少カーブ。
都は検査数と陽性率も公表せよ。
数字にごまかしでもあれば、冗談では済まない
日本人、それも特に政治家は、総括や反省が下手、というより嫌いらしい。でもいま避けて通りないのが五輪とコロナの総括でしょう。今回は五輪の総括の寄稿をご紹介します。
雑誌世界10月号から。
「NHKに問う」西山太吉。
西山は、沖縄変化の裏取引を取材して逮捕された、元毎日の記者です。今回はNHKの渡辺恒雄の特番を取り上げています。
…イラク戦争をめぐっては、戦争後に危険な後遺症が残る。それは国際的にも重大な危機を呼び起こすものとなった。米国政府はイラクの戦後の政権をフセインのスンニ派ではなく、対立するシーア派にゆだねた。スンニ派は追放され、その残党は「イスラム国」と名乗るテロ集団をつくり、イラク国内にとどまらず、中東ないしは周辺地域において広範囲に活動しはじめた。米国の「テロとの戦い」は、より強力な新たなるテロを生み出したのだ。イラク戦争とは一体何だったのか、その意義が改めて問い直されかねない情 勢となったのである。渡辺は、米英のイラク侵攻を「テロとの戦い」と断定し上で「米英が武力行使に踏み切ったことは、勇気ある決断であった」と礼賛した。さらに、侵攻の名分が偽りであったことが分かった後にも、「イラクからの脅威は間違いなく存在した」と論じたのである。また、わが国の自衛隊の派遣についても、テロとの戦いを支援することは、同盟国である以上、当然の帰結であるとし、「日本国民の精神が試されている」とまで言い切った。
渡辺は日米同盟絶対論者である。その延長線上の論理で、国際的、国内的な特殊な要因は配慮されないまま、日米同盟維持の観点がすべてに優先する。イラク戦争などはその好例であった。
安倍内閣が成立して、渡辺と政府権力との関係は一挙に進展し、濃密化する。それは権力対新聞という一種の対立関係の構図から抜け出して、一体化といえるほどの緊密な関係になる。
渡辺は、安倍内閣が提起した新たなる安保法制とそれにまつわる特定秘密保護法制という戦後史を変えたほどの基本政策の変更を強く支持し、かつその実現に向けて、自ら進んで参画した。まさに大政治フィクサーとしての面目躍如たるものがあった。
さらに、安倍政権下においては公文書の改ざんが頻発した。いわゆる秘密主義の系統なのである。安倍が日本のメディアの代表で、かつ親友の渡辺に、特定秘密保護法制定にあたって、内閣に設けた諮問機関の座長に就任してほしいと懇請したのには、それなりの背景があったのだ。新聞は政府の秘密、なかで
も、不当な秘密を暴露しなければならない立場にある。そうであるからこそ、国家秘密の極小化を求めるのが本来のスジである。今度の秘密保護法の立法には、極小化の逆の、極大化を招きかねない面がある。驚くなかれ、渡辺は待っていましたとばかりに、進んで応諾した。もちろん、渡辺は「知る権利」を守るため、あえて参画したというだろう。
公務員は重罰を恐れて、記者を白眼視し、囗を閉じてしまうことは、まず間違いない。こんどの法規は、確かに「知る権利」は一応、保障しているが、公民が記者に答えなければ、この権利は事実上あってなきがごときものとなってしまう。
渡辺が座長としてこの知る権利の防衛のため、どんな役割を果たしたのかは判然としない。ただ、安倍にとって渡辺がこの難しい役割を引き受けてくれた事自体、まさしく百万の援軍の到来と映ったことだけは間違いない。
渡辺は、平成年間、特に安倍内閣施政下において政治の表裏にわたって活動し続けた。NHKはこの注目すべき人物を取り上げるにあたっては、政治の重要テーマを通してその実像の徹底究明をはかるべきであった。単なる。個人崇拝をもたらすものであってはならないのである。
近い将来、国民が避けて通れないのはオリパラの総括(それから無論コロナ対策も)です。その一つが上野千鶴子の寄稿です。「東京オリンピック、失敗の本質、五輪敗戦のツケを払うのは誰か」
…将来、後からくる世代に、なぜあの無謀な五輪を止められなかったの?と詰め寄られたら、言い訳できない…そうはなりたくない、とも思った。
署名サイトの声明を一部引用したい。
「一年前に延期を決めたときと、現在は変異株の登場やワクチン接種の遅れなど、条件が変化しています。IOCと日本政府は開催ありきで、市民には今さら何を言っても、と無力感が広がっていますが、それでもあえてこの時期に言うべきことを言っておきたいと、私たちもこの署名をもって、意思表示に加わります。」
事実、わたしたちのサイトは急速に共感をあつめ、一週間後には7万人に達し、開会式当日には15万人を超えた。7月19日にはいったん署名を集約し、政府、IOC、JOC、五輪組織委員会、東京都に提出した。当日の午後には外国人特派員協会で記者会見を実施し、その後東京都庁を訪問、都庁では多羅尾光睦副知事と対面した。その日の署名総数は私たちの中止要請に14万筆、宇都宮さんのサイトに45万5千筆、もうひとつ五輪をキャンセルすることを勧めるサイトに6万筆、合計65万筆、無視してよい数ではない。
この五輪については専門家も科学者も医療者も市民もさまざまなひとたちが、エビデンスにもとづいて、警鐘を鳴らした。政府のコロナ感染対策分科会の専門員である尾身茂氏が、政府の意向に抗して、「ふつうはやらない」とまで踏みこんだ発言をした。他にも「この五輪はやめたほうがいい」「正気の沙汰とは思えない」…と口々に叫んでいるのに、まるでその声が届かないかのように、五輪は幕を開け、スケジュール通り進んだ。あまりに信じられないので、「これは意地か、メンツか」「いったん決めたことはやめられないとまらない国民性か」という問いが、わたしのもとにも届く。非合理なことがらは非合理な理由で説明するしかない、と考えているかのようだ。
日本学術会議の会員任命拒否事件にあらわれたように、科学者を軽視する政権の姿勢、「ワクチンは一年以内にできます」といった根拠のない楽観、デルタ株の上陸という予想を超えた異次元の展開、そこに投入すべきワクチンという防衛装備の決定的な不足。それどころか、ワクチン開発の遅れをとって、100%供給を海外依存するはかない日本は、国民の「健康の安全保障」すら保証できない情けない国家に堕していた。
兵法に戦略、戦術、戦闘という三つの次元を区別して、いわく、「戦略の失敗を戦術で補うことはできない、戦術の失敗を戦闘で補うことはできない」という至言がある。
コロナ禍で急拡大した感染症患者たちに現場で対応を迫られている医療従事者たちの健闘を見ていると、もともと無謀な戦略を、それも貧弱な戦術や装備で、必死になって支えている戦闘員の現場を想起せざるをえない。その背後で戦略を立て、戦術を準備する意思決定者の顔が、いっこうに見えてこない。
五輪開催に関わるすべての意思決定は五者協議でと言われているが、どこで何が決められているのかもわからないまま無責任体制が続くことも、翼賛体制を思い起こさせる。
為政者は説明責任を果たさず、犠牲者が出て誰も責任をとらないだろうことが容易に想像できる。コロナという感染経路のよくわからない疫病は、誰も責任を取らずに済む便利な災厄だ。希望的観測で五輪が何ごともなく、熱狂とお祭り気分のうちに終わることを期待するのは「カミカゼ」頼みと変わらない。
(以下略)
五輪についての二つ目の批評は、毎日の編集委員、高橋純子の「東京2020をめぐる無責任言行録。首がへし折れるほどの金メダルをあなたに」から
…開会式のメッセージのしょぼさが、私にはとてもしっくりきたのだった。中止を求める世論への十分な説明や説得がないまま強引に開催へとなだれ込み、人権意識の低さを露呈して関係者が辞任したり解任されたりした経緯込みで、この国の現状を正しく映し出しているではないか、と。負の側面も含めた自国の歴史を真正面から引き受けることなく、江戸の火消しとか大工とか歌舞伎とか、都合のいいところだけつまみ食いして「クールジャパン」などとはしゃいでいる底の浅さ、「内輪うけ」のうすら寒さが、この開会式に凝縮されているではないか、と。上手にまやかされ、国威発揚されるよりはましだ。オリンピック開会式という一世一代の晴れ舞台に立っても普段と変わらず陰鬱そうな日本国総理大臣の表情を見ながら、そう思った。
東京オリンピック招致の言い出しっぺは、1999年から四期都知事を務めた石原慎太郎だ。「五輪で日本の底力を見せる。日本をなめたらいかんぜよ」などと言って憚ることなかったが、「南米初」を旗印にしたリオデジャネイロに惨敗。招致活動に使われた税金100億円を含む150億円について石原は、自分がやった財政再建による余剰分をあてたのだと主張。
せめてそこでやめておくべきだった。落選翌月には再挑戦を宣言する。
「ニッポンの強さを世界に伝えよう。それが世界の勇気になるはずだから」
東日本大震災の翌年のこと、日本社会が前向きなメッセージを欲していたであろうことを考慮に入れても、これほど上っ面な文章にはめったにお目にかかれるものではない。
更に石原のあと都知事となった猪瀬は、「少子高齢化の日本で都民や国民がスポーツを楽しむことで健康寿命を延ばし、将来の医療費抑制につなげるという狙いがあった」と振り返っている。
なんだそれ?の波状攻撃。改めて振り返ってよくわかった。この夏、私たちが目の当たりにした東京オリンピックをめぐる無軌道と無責任は、コロナ禍によって生まれたものではなく、営々と育まれてきたものであること。コロナ禍だから開催の意義を語れなくなったのではなく、もともとないに等しかったこと。でも、それでもオリンピックは開かれた。これってあの、丸山真男も言っていた。
「既成事実への屈伏」が過ぎるのだよ、私たちは。
知事がやると言っちゃった以上は。招致が決まっちゃった以上は。ここまで準備が進んじゃった以上は。もう開会しちゃった以上は……屈服に屈服を重ねて無謀な戦争に突っ込んだ約80年前の歴史から私たちはいったい何を学んだのだろう? 何度でも何度でもあの「失敗」に立ち返り、学び、考え、自らを鍛え続けなければならない。歴史を背負う筋力のない者が、未来に向かう「夢の力」を引き寄せられるはずなどないのだ。
・中村哲が見通した20年後のアフガン。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/799546/
関連記事:アフガンからの出国計画はどうなっているのか。最初に逃げた大使。手ぶらで帰った自衛隊機。なかったことにしようとしてもそれは無理。
1999.枝野幸男 21/9/14
メディアは、総裁が変われば政治が変わるかのような、
誤った印象操作をしてはならない。
しかもその期待には全く根拠がない。
森友は追求されない。五輪は総括されない。医療体制は
強化されない。コロナの第6波の準備はされない。
なぜなら総裁が変わっても、
背後の人間(安倍、麻生)が同じだから。
五輪の背後で、コロナの第五波で多くの命が失われた。
医療体制は崩壊しているし、ワクチン接種は未だ半数だ。
それはこれからも多くの命が失われることを意味している。
批判精神を失ったメディアは、ジャーナリストの名に値しない。
日本の政治が良くならないのは、議員の質の低下に加えて、
権力者へのメディアの忖度の為である
私の人生はもう残り少ない(余生)ので、一日をどう過ごすかが大事です。目標は晴耕雨読ならぬ、読み・書きです。そのままつなげれば読書ですが、読む(他人の意見を聞く)、書く(自分の意見を言う)というサイクルの中で、思考を進め、思想を展開してゆくしかありません。私がこの世におさらばした後でも、誰か(できれば複数の)が、政府にもメディアに忖度せずに、自部の考えを述べ、批判を続けてくれることを心から願っています。
極右の高市を含めて、国民が聞きたくもない自民党総裁立候補者の見解がメディアにあふれかえっています。こちら(自称リベラル)としても、メディアに印象操作されたらたまったものではないので、対抗策(口直し)として、今回は枝野幸男の著書をご紹介します。ご本人の名誉のために付け加えると、自分が気になった部分(=ごく一部)だけです。
「枝野ビジョン、支え合う日本」枝野幸男 文春新書 21年5月20日初版から
…民主制に下における立憲主義は、民主的プロセスによって成立した権力に対する制約である。選挙などを通じて、民主的に選ばれた代表者であっても、権力を好き勝手に行使してはならず、憲法の制約に服さねばならない、という考え方である。
そもそも民主主義と多数決はイコールではない。民主主義とは、みんなで話し合い、みんなが納得できる結論を導き出すことである。多数決は、みんなが納得できる結論を導くための、一つの手段にすぎない。
4人で蕎麦屋に行くときも、一人が蕎麦アレルギーなら、多数決では決められない。
2001年の小泉政権以降、自民党は、支え合いや助け合い、政府による社会的公正の確保よりも、自己責任を強調し、競争重視の新自由主義的な経済政策を軸に置いてきた。小泉のしたことは、自民党内の保守本流が営々と築いてきた、格差の少ない一億総中流社会をぶっ壊すことだった。小泉以降、格差は確実に拡大してきた。社会保障というセーフティーネットがどんどん軽視されるようになった。
自民党という政党は、保守を名乗りながらリベラルな、敢えて言えば社会民主主義的な政策まで取り込んできた歴史がある。その強みは、政策そのものと言うより、強固な地方組織の存在と、それに支えられた安心感、そして経験値の高さにある。
誰も一人では生きていくことができない。だから運悪く感染してしまった人も、運悪く仕事失ってしまった人も、支え合う、分かち合うことできちんと暮らしていける社会を作っていく。過度な自己責任論は正しくない。新型コロナ感染症は、私たちにこのことを突き付けた。効率性に偏重した経済の脆弱さも、小さすぎる行政の脆弱さも、そのベースには過度な自己責任論がある。
新興国のグローバル経済への参入によって、規格化X大量生産分野の大部分では、低廉な人件費をはじめとするコスト引き下げ競争に日本が勝ち抜くことは困難になっている。無理にコスト競争を展開すれば、低賃金で不安定な雇用を増やし、社会不安を拡大させる。可処分所得の減る国民が増えれば、日本経済の半分以上を占める内需を冷え込ませ、デフレの悪循環につながる。
今求められているのは、豊かな日本で暮らしていくのに必要な賃金などのコストを支払っても、十分に競争に勝てる分野を育てることである。低賃金の新興国では供給できない分野で勝負しなければ、求められるニーズに対応できない。高い賃金を支払うことのできる高付加価値分野を、どう育てるかが求められているのである。
今の日本に求められる視点は、少量多品種分野を重視することである。
原子力か、自然エネルギーかという選択では、結論がすでに出ている。自然エネルギーへの転換は始まったばかりであり、政府の後押しが停滞しているにも関わらず、順調に伸びてきている。決して不可能な目標ではない。
政治や行政の最も大きな権力の一つは、公的支出の対象を選択することにある。公共事業の個所付け(
予算)はその典型である。裁量の余地が大きければ大きいほど、時の権力が、自分を応援してくれる地域や業者に都合の良い個所付けをすることが起こりがちになる。安倍政権における加計学園問題も、こうした事例の一つだろう。逆に子供手当のような一律の支出は、政治や行政の裁量の余地が小さい。票やカネにはなりにくい。それが子供手当に対し、従来の権力構造からの激しい批判がなされた背景だ。
民主党政権から10年が過ぎ、コロナ禍に直面する中で、社会のニーズも、国見の意識も大きく変化した。
今、求められるのは、支え合いのサービスそのものを十分に提供すること。現金給付よりも、医療、介護、
保育のために必要なサービスそのものの提供を増やす。そのために、十分な財源を投入して、そうした分野で働く人の賃金や雇用環境を底上げし、人手不足を解消する。こうしたベーシック・サービスの充実こそ優先して取り組んでいく。(以下略)
関連記事:無党派層へ訴え。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210911-OYT1T50272/?=tile
コメント:枝野は共産党との連立を頑なに拒絶しています。まずは選挙協力と政策協調から始めるにしても、立憲が国会で事実上何もできなかったときに、自民党の政治腐敗に風穴を明けてきたのは共産党だったのです。きれいごとだけ言ってきた結果が、今の低支持率であることをもう一度振り返って考えるてみて頂きたい。そして立憲に魅力のある人材がいるのかどうかを、見直して頂きたい。一方で、維新に限りなく近い(だから自民に近い)国民民主はもっと不要な政党です。
・五輪費用、大赤字押し付け合い。
https://www.asahi.com/articles/ASP9C6Q75P94UTIL015.html?iref=comtop_7_03
・東京感染611人。重症者225人。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7f0f6b399fff2920902ef4757dc9e0da1e29329c
コメント:NHKNの発表は感染者数と重症者数だけ。検査人数6500人はいかにも少ない。誰が阻止しているのだろう。しかもワクチン接種率が一番低いのは東京。しかし渋谷の行列で分かるように、接種したい人は多い。小池が9/13になんと言ったか。渋谷で長い行列作ったようだが、都庁の会場なら余裕があると。一体どこまで上から目線になれば気が済むのか、渋谷の行列も、そもそも自分の発案ではないか。その後慌てて都庁に会場を作ったという経緯が、まるでなかったかのような口ぶりです。小池知事は自分に都合の悪いことは、すべてなかったことにするのが常套手段です。
2000.古賀茂明が見た総裁選 21/9/15
日本政府はアフガンへの人道支援を絶やすな。
中村哲の志を無にしてはならない。
タリバンもアフガン国民であることを忘れるな。
さだまさしも国民から広く寄付を募れ。
五輪の後には総裁選。
夏祭りの後に秋祭り。
終わることのない狂騒。
その陰で在宅療養者がひっそりと亡くなっている。
都知事は都の重症者数の
正確な人数を公表せよ
週間朝日最新号(9.24)は高市早苗研究(なんでこんな女性議員ができちゃったんだろう)もあり、興味は尽きませんが、今回ご紹介するのは、古賀茂明のコラム(のみ)です。総裁選の現状と、その背景を的確に分析しています。
一方、同じ週刊誌でも、田原総一朗のコラムには、見るべき内容があるようには思えませんでした。
古賀茂明「政官財の罪と罰、KIK連合で安倍政治終結なるか」から
脱原発と再生可能エネルギー推進の担い手・河野太郎行政改革担当相と原子カムラとの闘いが、総裁選の重大テーマになってきた。この闘いは、自民党の派閥利権政治、とりわけ「安倍政治」を葬り去る最終戦争になる可能性がある。(編者注:多分そうはならないでしょう。モリカケ桜+広島でしょう)
原子カムラの大ボス安倍晋三前総理は、党内第一派閥・細田派の事実上のトップ。その盟友の麻生太郎副総理も原発推進派。脱原発という政策論とともに、河野氏が総理になれば、世代交代が進み、80歳の麻生氏は過去の人になるという事情がある。そこで、自分たちの言うことを聞く岸田文雄前政調会長を推すことになる。
原発利権のもう一人の麻生派重鎮の甘利明税調会長は72歳。収賄疑惑で致命傷を負ったが、今も復権のチャンスを狙う。「世代交代」など論外だ。
一方、麻生、甘利氏と連携する安倍氏の動きは少し複雑だ。表面上は高市早苗前総務相支持だが、それは、彼女が政治思想も政策も安倍氏の分身と言っても良いほどで、安倍氏の宣伝マシンとなるという利点があるからだ。しかし、高市氏支持は第1回投票までの話だ。
安倍氏が恐れるのは、河野人気が沸騰し、河野氏がいきなり過半数を制して当選することだ。そこで高市氏を出して河野票を奪い、河野氏の過半数を阻止する。その場合は、国会議員と全国の都道府県連の決選投票になるが、1、2位が河野、岸田氏なら、細田(96人)、麻生(53人)両派の大部分と岸田派(46人)が協力すれば、議員数では圧倒的に有利で岸田氏勝利となる。つまり、表の高市氏支持の裏で、自分の意のままに動く岸田氏を推しているのだ。岸田氏が森友学園問題について、再調査は考えていないと言い切り、安倍氏に媚びたことで、この構図が暴露された。
ところで、もう一人の有力候補の石破茂元幹事長はどうか。石破氏は、脱原発派でも利権破壊派でもないが、安倍前総理の政治姿勢を真っ向から批判し、昨年の総裁選では森友学園問題について再調査に言及した。「モリーカケーサクラ」にうんざりし、「安倍政治」の終結を望む国民世論をバックに人気は高い。仮に、石破氏と河野氏が連携すれば、総裁選の戦いには、「安倍政治の終結」というテーマが加わる。
日本を救うには、脱原発や再エネ振興策を進め、自民党の長老支配の利権派閥政治に別れを告げること、そして、私益のために国政を食い物にする 「安倍政治」を終結させることが必須だ。(編者注:まさにその通りです)
安倍、麻生、甘利氏による3A連合は、最後は岸田氏支持に回るはずだ。
その時、河野・石破、さらに小泉進次郎環境相の三者によるKIK連合ができれば、国民は熱狂し、河野氏勝利となる。その結果は、利権破壊・世代交代、そして「安倍政治」終結である。ただし、河野氏が森友問題の再調査と脱原発を明言することが条件だ。河野氏には迷わず、この最終戦争に突入してもらいたい。
コメント:残念ながら河野はモリカケを再調査しないと、既に言明しています。若い進次郎にも多くを期待できません。なので、結局、万事に生ぬるい岸田が総裁になるのでしょう。それは、安倍政治の継続であるがゆえに、国民にとっては大きな不幸と言えます。
関連記事:麻生派、一本化見送り。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210914-OYT1T50060/?=tile
関連記事:細田派、事実上の自主投票。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021091400833&g=pol
関連記事:石破、総裁選立候補見送り。河野支援へ。
https://www.asahi.com/articles/ASP9G3Q7CP9GUTFK006.html?iref=comtop_7_05
関連記事:朝日社説。野党共闘。国民に確かな選択肢を。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15042265.html?iref=comtop_Opinion_04
・東京感染1004人。重症者208人。死亡14人。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210914/k10013258781000.html
コメント:死者が多すぎます。というより下記の記事を一読願います。国の基準では、都の重症者はなんと1031人(!)です。違いが大きすぎます。都と国、どちらが正しいのでしょうか。
もう一つ、8月の自宅療養中の死亡は24人が都の発表ですが、警察庁の数字は112人です。全国では250人です。最近の自宅療養中の死亡者の数字では、日々の全国の死者の半数以上が東京都なので、この数字(112人)には信ぴょう性があります。東京都の医療体制が逼迫していること、全国の自宅療養中の死者の半数以上を東京都で占めていることは、小池知事としては認めたくない事実かもしれないが、それを見て見ぬ振りをしているとしたら、それはもう知事どころか、人間としても失格です。何度も言うようですが、小池知事のコロナ対策は最低最悪であり、個人的な意見であることを承知の上で言わせていただくが、小池知事の人間性は信用に値しないと思っています。
関連記事:
https://jp.reuters.com/article/tokyo-coronavirus-idJPKBN2GA0KP
関連記事:自宅療養で3人死亡。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/130827
コメント:なんと無責任な小池知事の発言。自宅療養死に対して、これという手も打っていないのに。