「WTWオンラインエッセイ」
【第14巻内容】
「人形遣いと操り人形」
「ネトウヨ大臣、一億相」
「日本国憲法の前文」
「独裁殿堂入り」
「民主党を叱る」
「辺野古移設は誰の為か」
「ISとの戦いの既視感」
「同性愛を考える」
「あてどなき人生」
「民主主義と実存主義」
「007スペクター」
「無力感を引き継いではならない」
「価値のない人生はない」
「アベニミクスの雇用改善は期待できない」
「経団連は頭を丸めよ」
「原発輸出を止めよ」
「スタートレックと人類の未来、または、戦争に備えれば戦争になる」
「高齢者の交通事故を減らす方法」
「とにかく銃から手を離せ」
「靖国の英霊に対して失礼なのはどちらか」
「戦争を始めるのは独裁者」
「スター・ウォーズ、フォースの覚醒」
「カワイイからの卒業」
「人形遣いと操り人形」2015/10/10
既にご存知とは思うが、安倍首相が国連で、日本はシリアの難民を何人受け入れるのかという質問に、(日本語で)日本では移民の問題より女性の活用の問題が先だという二重に頓珍漢な答えをした。世界中がその答弁を聞いてあきれており、日本の国内にいる外国人記者からも失笑を買っていた。いったい安倍首相は誰が書いた筋書きで手足を動かしている操り人形なのか。しかも人形使い自身がIQもEQも不十分な人たちだと考えざるを得ないではないか。
「ネトウヨ大臣、一億相」2015/10/13
・総活躍相、突如登場と石破。
あざとい発想に国民も絶句。だいたい日本の人口は1億じゃねーし。ワシは残り2600万の一人かね。実態と差がありすぎだろ。こんなことしか切り札がないのかね、想像力の貧困な政権は。これからさんざん皮肉られるだろう。しかし首相や長官には皮肉も冗談も一切通じないだろう。
一億総活躍相なる意味不明の大臣になった加藤議員、どこかで見た顔だと思ったら、確か百田の沖縄の新聞潰せ発言を擁護した人物だ。言ってしまえばネトウヨ。よく言えば超保守議員である。ネットで探すと、出るわ出るわ、悪い意味で興味深い人物だった。
・国民を国に奉仕させるには家族を使え
ちなみに今後の政局を判断する時には、歴史修正主義者の本性を露わにした二階の動向にも注意する必要がある。
・あんな大臣、ならんでよかった。二階。
二階も大臣になりたじゃったらしい。でもこの人自身、国民から見ていらん政治家やね。南京事件がなかったというのは無理だし、ユネスコの負担金やめるのなら、これまでの世界遺産も返上しないといかんよ。自民党の議員が自由な口をききはじめた。参院選が視野に入ってきた現在、今の政権ではもう持たんと思い始めたのかもしれない。安倍政権にくっついて大臣にしてもらうより、自民党の凋落と自分の議席の方が気になってきたのかもしれない。安倍首相個人の限界もあるだろう。安保法制で燃え尽きたのかもしれない。それを端的に示しているのが菅長官の動きだ。首相を飛び越して自分で政策を発表し、自分で交渉を始めた。菅長官が直接仕切る日本などは、それはまたそれでおぞましいものがある。
それでも時代は動き始めている。それも安倍首相や官邸の望まない方向に。菅長官の焦りがそれを如実に示している。もっと言えば国民がもはや政権のいいなりになる、騙されやすい存在ではなくなりつつあるということでもある。そしてその背景に、無理に無理を上積みしてきた安倍政権を、官僚たちが見限り始めたのかもしれない。官僚たちはいま何を意図しているのだろう。それが安倍政権の行方も左右する。彼らは安倍晋三の独裁体制と、官僚への丸投げ体質を千載一遇の機会ととらえて、権限を強化し、これまではやりたくても出来なかった政策を、国民を闇討ちにするようにして実現してきた。しかし、そこには大いなる矛盾があった。各省庁の権限でさえ、自省庁が依って立つ存在理由、即ち国や国民の為の組織という根本的な存在理由から逃れることが出来ないということだ。一方で、五輪や野田更迭=軽減税率の具体的な方法、の対応を見れば分かるように、どうやら安倍政権自体が、これまでのように官僚の言いなりになっていると、自分自身が危ないことに気が付いたようにも思われる。そして官僚も次の有力な政治家候補を物色し始めたのではないか。それが自民党議員の発言にも現れてきたのではないかと思う。一つの時代の終わりが近づいているのかもしれない。
「日本国憲法の前文」2015/10/14
今日は日本国憲法の前文である。今また読み返してみて、これが世界の現状にそぐわないだとか、外国に押し付けられたものだから気に食わないと言う人たちの気持ちが、私には全く理解できない。そういう人達の主張は、狭量であるばかりでなく、論理的にも矛盾している。米国に押し付けられたものだから嫌だというのであれば、何故他の押し付けや指導を嬉々として受け入れるのか。安保法制もその一つだ。国家主義者やネトウヨ、エセ政治学者、エセ議員の人達には、この前文をもう一度噛み締めて頂きたいものだ。
(以下引用)
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者(編集者注:国会議員)がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
(引用終わり)
AERA の憲法特集号(9/28)から。
木村草太(首都大学東京准教授)のコメント
「…憲法には日本政府に外国の防衛義務を課した規定はありません。集団的自衛権を行使できるなら、政府にそのための権限を与えることと、行使の手続きが定められているはずです。…軍事権についてどこにも書かれていないのだから、軍事活動をしないことが前提の憲法と言えるのです。…集団的自衛権は、日本が攻撃を受けていない段階での攻撃を正当化するものなので、必要最小限度の範囲には含まれない。9条の例外として認められるのは個別的自衛権だけでしょう。集団的自衛権を合憲だとする研究者に共通するのは、憲法にダメだと書いていないから行使できるという理屈です。しかし、国民主権の国家では、主権者である国民が憲法を通じて委ねた権限しか行使できない。これが原則です…」
小林 節(慶應義塾大学名誉教授)のコメント。
「一つ、条文を選ぶならこれだよ。『すべて国民は、個人として尊重される』で始まり、幸福追求の権利をうたった13条。立憲主義のすべてを語っている。人は、国家に認められて国民になる前に、産み落とされた瞬間に、人権という誰も侵すことのできない力を持つ。
我々は、国を構成する部品としての国民ではなく、国の主である個人なんだ。
13条は、個人と国の位置関係を明らかにしている。
我々の幸福追求のために国家が存在するんです。自由で平和、豊かであることが幸福の条件でしょう。それを増進するサポートをするのが国家。こうした考えは、アメリカの独立宣言が下敷きになっている。
幸福追求に反する振る舞いをする政府は、取り替えてもいいというのが独立宣言の趣旨。だから、戦争法案をつくって、我々に戦争の危険をもたらそうとする政府は、主権者である国民が取り替えていいし、取り替えるべきなんだ。
…13条は、あなたがあなたであるだけで尊いと言う。
… 最近、眠れる獅子だと思っていた若者たちが立ち上がったでしょう。SEALDsの若者、好きなんです。彼らの存在は、13条の理念と重なる。独立戦争では、イギリス本国による徴税などで理不尽な目に遭った普通の農民が、自然発生的に蜂起したんです。
日本の若者たちも、安倍政権による安保法制を前に、自然発生的に立ち上がった。彼らに触発されるように、学者たちが発言し、母親たち、年配者、高校生まで街頭に出るようになった。これこそまさに、立憲デモクラシーです。私たちの手で、政府を取り替えるんです」
「独裁殿堂入り」2015/10/15
私ごとだが、長野県在住の義妹が、サツマイモを送ってくれた。だが今回の問題は、芋の味ではなくて、それを包んであった新聞(信濃毎日=通称シンマイ)の方だ。9月18日付け、即ち安保法制強行採決の翌日の朝刊の識者評論というコーナーに内田樹の論説が載っていた。いまや彼はリベラル派の有識者の旗手的な存在であり、この記事も納得できる内容なので、ご紹介する。
(以下、引用)
思想家 内田樹 神戸女学院大名誉教授。専門はフランス現代思想など。
著書に「街場の戦争論」「困難な成熟」など。
「米との約束履行した首相」
安全保障関連法案。これほど瑕疵の多い法案を私は過去に見たことがない。憲法学者も元最高裁判事も元内闇法制局長官もその違憲性を指摘した。歴代内閣が踏襲してきた憲法解釈は「安全保障環境の変化」という一語によって覆された。立法事実は次々と変遷し、どのような危機的事態に対応するための法律なのか、ついに明らかにならなかった。
廃案を求める多くの国民の声に政府は最後まで耳を貸さなかった。そのようにして戦後甘本を律してきた安全保障政策の決定的な転換が行われ、日本は「戦争ができる国」になる。 これほど否定的条件が整いながら、あえて安倍内閣が法案の早期成立にこだわった合理的な理由は一つしかない。それは4月の米議会での演説で、安倍晋三首相が「この夏までに、成就させます」と誓言したからである。彼は「米国に対してなした誓約の履行義務はあらゆるものに優先する」と信じている。それが国内法に違反しようと、法的安定性を揺るがそうと、国民世論と乖離しようと、「米国との約束」は最優先されねばならないと信じている。なぜか。それは日本が米国の政治的属国だからである。勘違いしてほしくないが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。日本が米国の従属国であるのは否定しようのない歴史的事実である。敗戦国が生き延びるためにはそれ以外の選択肢がなかったのだから仕方がない。戦後70年間、先人たちは「対米従属」を通じての「対米自立」の道を必死で、模索してきた。この「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略に、一定の合理性があったことを私は喜んで認める。事実、その成果として、日本はサンフランシスコ講和条約で国際社会に復帰し、小笠原と沖縄の返還をかちとった。
けれども、沖縄返還後、わが指導者たちは「対米従属」の作法にのみ熟達して、それが「対米自立」という国家目的のための迂回にすぎないことを忘れてしまった。政官財どこでも、米国に人脈やチャンネルを持つことがキャリア形成の必須条件になった。ある時期から「米国の国益増大に資するとみなされた人」しか、国内の重要な政策決定に与ることができないという仕組みが出来上がった。
安倍首相には、戦前の全体主義国家の再建という個人的な夢がある。ジョージ・オーウェルの「1984」的な暗鬱な社会への志向は、靖国参拝や特定秘密保護法やメディア支配や派遣法改定やマイナンバー制度への好尚からあきらかである。そして、何よりも「絶えず戦争をしている国」であることこそ「1984」的社会の基本条件なのである。
ただ、これほど大がかりな政治的ビジョンを実現するためにはどうしても米国の許諾を得なければならない。逆説的なことだが、戦勝国が「押しつけた」憲法9条を空洞化し、「戦争ができる国」になるためには戦勝国の許可が要るのだ。そして、そのための必須条件は「米国と交わした約束を履行するためには自国民を裏切ることさえ厭わない人物である」という評価を得ることだった。
安倍首相はその誓言を履行した。かつて韓国の李承晩、ベトナムのゴ・ジン・ジエム、インドネシアのスハルト、フィリピンのマルコスを迎えた「開発独裁の殿堂」入りを、安倍首相は果たしたのである。
(引用終わり)
「民主党を叱る」 2015/11/23
・民主、共産に一人区擁立見送りを要望。
はっきり言えば、今リベラルな国民にとって魅力があるのは民主よりむしろ共産の方です。理念が分かり易いからです。民主こそ一人区で意地を張るのをやめるべきなのです。そうしないと選挙協力にはならない。国民の気持ち=民意を、何故第一に考えようとはしないのか。野党第一党というだけで、この思い上がりようだ。こんなことで参院選で野党が勝てるわけがない。いまのままなら参院選で自民が勝つだろう。しかもその責任は民主党にある。謙虚に国民の意見に耳を傾けない政党の、どこが自民と違うというのか。衆院選で大敗し、民主以外の野党に票が流れたことを、未だに総括も反省もしていない。安保法案で身体を張ったのも、民主の主流派ではなかった。優等生が礼儀正しくきれいごとを並べてすましていられるような状況ではない。連合のお抱え政党だというのなら、それでも結構。ならばせめて自分達がリベラルな国民の意見を代表しているかのような顔だけはやめにして頂きたい。
安倍政権の暴走は、行き過ぎた自由市場主義と軍国主義の一歩手前のぎりぎりのところまで来ている。しかも報道はその実情を国民に伝えようとはしない。安保法案の反対運動も、辺野古の反対運動も、僅かに市民団体=例えばシールズ、や弁護士団体が体を張ってやっと支えているに過ぎない。民主は何もしていないのに等しい。しかも臨時国会の要求を無視して、またもや自民党が憲法違反を堂々とやっているのに、引っ込んでいるようでは話にならない。野党の役目さえ果たしていない。岡田には民意=それも国民の大半の、を代表する者としての決意も覚悟も感じられなし。ミスキャストであり、支持率低下に自分が一役も二役も買っているという意識はないようだ。
こんな調子なら、参院選でも民主は負ける。しかし、例えそういう予感があっても、であっても、小細工はせずに、国民は自分が信じる政党にストレートに投票すべきなのだ。解党論はある意味で正しい。それは現在の民主党への内部告発だからだ。国民が自分達の意見を代表してくれる政治家を選び、政治を託する。それが民主主義政治の原点だ。そういう形で民意を正直に表現しておけば、今回は負けても、次回に望みを繋ぐことが出来る。一見遠回りのようだが、それが、国民が自分達の意志を正しく政治に反映させる王道なのである。
「辺野古移設は誰の為か」 2015/11/24
・辺野古に巨大ブロック、県と事前協議せず。
この強引なやり口。一旦作業を中止して司法の判断を待つのがまともなやり方というものではないのか。辺野古でここまで強引なやり方をするということは、政権の都合次第では、人権だろうが、憲法だろうが、なんであろうと無視して、平気で踏みつぶして進む危険な内閣であることを示唆している。理性もなければ道理も通じない。これではテロリストと変わるところがない。
・普天間の徳之島移設、米軍拒否。鳩山談。11/30
理由が住民の反対だという。ならば辺野古だって同じだ。
「ISとの戦いの既視感」 2015/11/30
・露軍、トルコ支援車を空爆。
トルコは露への謝罪を拒否している。トルコが露機を撃墜した理由として、17秒間トルコの領空を侵犯したことを挙げている。そこでは国境が凸凹している上に、領空侵犯だけでは攻撃の理由にならないというのが国際常識。そもそも17秒の侵犯があったとしても、5分に10回の警告という説明では筋が通らない。かつてトルコ機がシリアの領空を侵犯した時には、エルドアンは全く逆の事を言っていた。また露機撃墜の本当の意図は、トルコが長年支援してきた反アサド勢力に、政府軍と露軍が攻撃を加えたことに対する抗議だと、田中宇がメルマガで指摘している。国連は強くアサドの排除を要求するべきだが、自己の保身にしか関心のない、無能有害な事務総長には何も期待できない。
ところで昨夜の朝生がISのテロを取り上げており、興味深く視聴した。大塚耕平が、米国は敵の敵は味方という理屈から、フセインも、オサマ・ビン・ラディンも、ISも支援してきたと指摘していた。キヤノンの研究所の瀬口氏が、ISは国ではないので武力では制圧出来ない、IS発祥の原因は貧困である。アジアでは経済発展が徐々に進んだ結果、テロが少ない。そういうアジアのインフラを中東に移植することで、テロが減らせるのではないか。しかもそれが出来るのは日本以外にないと指摘していた。
・IS、3500人以上処刑。11/30
極悪非道の彼らが主張する「正義」を突き崩すことが最重要だ。犯罪者集団という共通認識を作り、若者がそこに加わることは、世界中の支配者だけでなく、被支配者も敵に回すことだということを理解させなければならない。しかし彼らには戦い=殺戮、を続けるしか選択肢がない。そこに問題の根がある。有志連合が手を汚さずに空爆を継続しても、それは所詮相手の顔が見えない爆撃でしかなく、その後は巻き添えを食った市民の遺体と、荒廃した市街地が残るだけだ。ISの個々の戦闘員を狙うのなら、地上戦しか方法はない。しかもISの戦闘員は世界中に分散している。ISを爆撃だけで殲滅出来ないのは、ISにはISの理屈があるからだ。なぜならこれが富裕層=含むアサド政権、と貧困層の戦いでもあるからだ。高度な武器を持たない彼らの主たる攻撃手段は自爆による。自暴自棄という意味で、特攻隊と同じだ。だからもし核兵器を手にしたら、それを使うことに躊躇はしないだろう。この辺の見通しや覚悟も、有志連合には見受けられない。傍から見ていても、明らかに及び腰である。IS台頭の背景にある格差は見て見ぬ振りをして、空爆と自爆が交互に繰り返されるという悪循環なのだ。そういう構図が続く限り、ISは自分達の戦いがジハードだと言い張り続けるだろう。なぜなら、彼らには死んで天国に行くしか=無実の人達を殺傷し、武器を持たない者を虐げておいて、自分だけ天国とはどういう了見かは別にしても、幸福になる手段がないからだ。ISは宗教を、しかも都合のよい解釈で政治的に利用しているに過ぎないが、それにしても、有志連合、特にこの騒動の全責任を負うべきアサドと彼を支援する露、そして空爆する国々の兵士には、自爆までする覚悟が果たしてあるだろうか。即ち覚悟の度合いが全然違うのだ。これはゲリラ対政府軍の形を取り、その結果泥沼化したベトナム戦争に似ている。一方で、ISがいちばんこたえるのは、自身の正当性、即ちジハードというスローガンを失うことだろう。だから有志連合としては、ISが自分で行う投稿や動画は一切、ネットに掲載してはならないのである。
「同性愛を考える」2015/11/30
・同性愛は異常。
異常というよりは、少数派と呼ぶべきだ。私も同性愛が正常な性愛の姿だとは思えない。遺伝子が原因の場合もあるので、完全否定は出来ないし、人権の問題もある。それは認めた上で、やはりそれは決して生物としてあるべき自然な姿ではない。そこが私とハリウッドの大きな違いだ。それはひっそりとした関係であるべきであって、それを周囲が理解の気持ちで容認し、見守るという関係に留まるべきだと思う。だから否定も肯定もしないという立場が最も理に適っていると思う。公の場で批判したこの議員は明らかに時と場所を間違えている。かたや異性愛者にも同性愛を選択しない自由が保障されねばならない。同性愛は生物学的には少数派であり、なぜならそれは種族保存の法則から外れている例外的な存在だからだ。一定比率でやむを得ず存在するものであって、決して推奨すべきものではないと思う。その点では、人種差別とは根本的に異なる。この問題で最も大事な点は、同性愛者の幸福を追求する権利、対等な関係を求めることを、異性愛者を疎外してはならないというものだ。
極端な事を言えば、将来放射線で人類の遺伝子に異変が起きて、同性愛者の方が、多数になる事態だってないとは言えない。その時には、逆に少数派の異性愛者にも平等の権利が保証されなければならない。だから人間は皮膚の色、思想、宗教、そして性的嗜好で差別されることがあってはならないのだ。人類の存続にとって、公平と平等を維持することが絶対的に必要なのだ。この件で私がいちばん懸念するのは、これをどのように、子供に説明するのかだ。まず現状では、常態はあくまで異性愛であって、同性愛は例外であることを前提にする必要がある。
なので、私なら、人類は実に多様な存在であり、その多様性のゆえに生き延びて現在まで存続してきた。そして現に実に様々な人々が地球上に一緒に棲んでいる。人間は生まれた時から基本的に個々に異なる存在であって、それでも皆でお互いの個人の権利を認め合って、仲良く生きてゆくことが大切なのだと。しかもこれは決して少数派を憐れんで言っているのではない。個々の人間には生まれながらに備わった平等な自由と生存の権利があるからなのである。
「あてどなき人生」 2015/12/1
現代社会の特徴を表現する言葉を探してみた。それは社会規範と倫理観の喪失であり、人生の目的を見失った精神的なその日暮らしの繰り返し。自分を取り巻く政治経済社会環境への無関心と日和見であり、半径10m程度の自分の周りだけを現実と思い込む現実逃避、即ち社会的な閉じこもりである。物質的な面では、昭和の時代より、生活に多少の余裕は出て来たものの、生活レベルに見合った精神の充足感はなく、これという人生の目的もない。閉塞感と虚無感の海をあてもなく漂うと言えば、少し言いすぎかもしれない。
失われた価値観の代わりに頼ろうとして周囲を探せば、そこにあるのは安っぽいナショナリズムであり、声が大きいだけの独裁者だ。即ち、現在ほど世界が全体主義に傾くのに絶好の環境はないのである。しかも全体主義は、自分達と異質のものを徹底的に排除しようとするので、全体主義国同士の間で、戦争が起きるのは歴史の示すところでもある。
全体主義の背景には、人間が生まれながらに与えられた権利である選択と創造の自由からの精神的な逃避、即ち自由からの逃走がある。自らの頭で考え、決断し、その結果の責任を背負うことからの逃避だ。自らの人生を他の判断に預ける人生の放棄、100%の無責任主義。えてしてそこでは他との意見交換も共同も存在しないがゆえに、他との対等な関係を拒絶する結果、いびつな自我肥大に陥りがちになる。
そういう荒廃した、というより破たんした現在の日本の精神世界にあって、既成の哲学や宗教は余りにも無力である。現代人が納得できるような、いかなる価値観も規範も提示できない。しかも沈黙している宗教や哲学に代わってのさばっているものは、偽の宗教と偽の思想だ。ISのジハードも、宗教に名を借りた自己の身勝手な行動の正当化に過ぎない事でもそれが分かる。精神の救済を前提とする宗教本来の姿をそこに見ることは出来ない。人類全体が無目的で、人間としての規範を失った状態ということは、人類全体がこれ以上はない危機的な状態にあるということを意味しているのかもしれない。
幸福という概念を取り上げてみよう。昭和の時代の幸福は、家族を中心として、より豊かな生活を志向して懸命に働いた。無論私もその一人だ。しかしある程度の生活水儒に達した後で、即ち最低限度の生活をするという否応のない状況から脱した後では、収入を増やすという動機付けが薄くなる。六本木に住もうが、世田谷に住もうが大きな違いはない。国産車も外車もそんなに変わらない。一定の水準に達した後でも貪欲に利益を追い求める人達の動機は、資産運用が生きがいだからである。しかもそれは人生の目的とは全く別の話だ。如何な資産家でも、墓までカネはもっていけないからだ。
ならば人生の目的とは何か。一言で言えばより良く生きる事であり、充実した人生を送ることにほかならない。しかし、その程度の事なら、多くの人が先刻ご承知であろう。しかも自由と平等と、個人の尊厳=人権、を守って、世界中の人々が、安全で豊かな、せめて人間らしい生活が出来るようになることが人類の目的だということも、知らない人はいない。でもそれだけ分かり易いのなら、何故世界はそのような(正しい)方向に向かって動いていないのか。それは動機づけがなく、人間にそういう意欲がなくからなのだ。
しかもその原因が問題だ。それは、この自明の理とも言える民主主義の究極の目的よりも、資本主義の背景にもなっている、私利私欲が、無意識のうちに優先しているからである。無論それは私とて例外ではない。個人の場合もあれば、国と国との関係の場合もある。即ち団体の代表であれば一層の事、権益にハングリーで、収奪に熱心になる。カネこそすべてなのだ。カネ=幸福の図式が(未だに)常識になっており、悪いことに、若者も物質的な豊かさが幸福だと思い込まされている。ではそれが何故悪いかというと、資本主義には平等という概念が欠如しているからだ。貧富の差の拡大=富の集積、こそが資本主義の目的だからである。
最も悪い例の一つが新興宗教やカルト団体だ。貧しい信者からカネを集めて、幹部が贅沢な生活をする。そこではカネが全てだ。こうなると宗教とは名ばかりの集金組織に過ぎないので、本来は多額の税金を課すべきなのだ。あるべき宗教は清貧であって、民の救済が目的であり、指導者は他人の為に自己を犠牲にするというのがあるべき姿だろう。その新興宗教と似たようなことが、日本の政治でも起きているのだ。国民に過大な税金を課し、経営者や政治凝視柄の権力層が豊かな生活を謳歌する。ゆえに最初に変わらなくてはならないのは、政治家や官僚の頭の中身そのもの、即ちカネ至上主義の価値観なのだ。但し財界は金儲けの為の団体なので本質的に価値観は異なるのは仕方がない。しかし政治と行政は目的が違う。財界と同じ価値観では、存在理由さえない。
人生の目的はより豊かな人生と精神生活を送る事であり、より大きな精神的満足感を得ることだ。そこで誰にでもすぐできることがある。それは自分の為でなく、他人の為に働くことだ。しかしその前に、私達は人生とは何か、その価値について深い洞察力を持たねばならない。それは、後悔しない人生を送るために必要なことなのだ。そこで必要になるのは指針、特に優れた思想家の哲学や理念である。その中から、自分と時代に即した価値観を自らの手で見つけなければならない。一念発起して、本を読み、他人の意見を聞くのだ。
しかし宗教や哲学は、生の形で目の前に置かれても、一般人は食欲が減退し、摂取しても消化不良を起こすだけになることが多い。だいいち、用語からして難解だ。そこに私は現代の知識人の大切な役割、即ち出番があると思っている。現代の最先端の学者や知識人が、現代という時代や世界を鋭く分析し、社会現象や自然現象を解き明かし、哲学を平易に解説する必要があるのである。知的レベルでは戦前などとは比較にならないくらい高い、現代の日本の国民にでも、納得できるような理論や理念や学説や意見を、政治・行政・財界の横やりを排除して、自在に発信してゆく。それこそが現代の文化人、知識人に課せられた使命なのだ。
「民主主義と実存主義」 2015/12/3
NHKの100分で名著、サルトルの実存主義について、の放映が終わった。遅ればせながら、同番組のテキストから、気になった部分の続きをダイジェストでご紹介させて頂く。伊集院アヒルのうざい合いの手がなければ、更に聞きやすかったのだが。ちなみに番組の講師とテキストの著者はフランス文学者の海老坂 武である。
…ここでまず『実存主義とは何か』でヒューマニズムがどのように語られていたかを押さえておきましょう。サルトルの講演の題は「実存主義はヒューマニズムである」でした。
…ここでサルトルは二種類のヒューマニズムがあると言う。一つは、「人間を究極の目的として、最高の価値として考える」ヒューマニズム、人類を礼拝する宗教のようなヒューマニズム、人類がたとえば月へ行く、宇宙へ行く、だから人間 は素晴らしいのだというヒューマニズム。サルトルはこれを批判して、「人類へ.の礼拝は(中略)自己閉鎖的ヒューマニズムに、はっきりいってしまえばファシズムに帰着する」と断言する。「それはわれわれの欲しないヒューマニズムである」と。
そうではなく、人間はつくるべきものである。人間は彼自身の立法者であって、人間はみずからを存在させるために、未来の中に身を投げ出していき、状況を変え、状況に意味を与えるというヒューマニズム、人間は人間自身の中に閉ざされていると考えるのではなく、投企という絶え間ない「乗り越え」と、人間的な「主体性」を結合させるヒューマニズム、これが実存主義的ヒューマニズムである、とするのです。
… サルトルはまた、最後まで「希望」を語り続けた人でした。人間とは投企である、未来に呼かって自分を投げ出す存在である、とは言っても、前にあるものが希望でなく、絶望だけであるならば、何も自分を投げ出したりはしません。何かしら希望を含んでいるから、希望を垣間見るからこそ、未来に向かって自分を投げ出すのです。どんなに重病の人であっても、もしかしたら明日は苦しみが減るかもしれない、明日は友人が見舞いに来るかもしれないと、そうしたささやかな望があってはじめて病と闘うことができる。例えば、薬を飲むという行動一つの中にも、すでに希望が含まれているわけです。そのように考えると、この「希望」もまた、実存主義という思想の核心にあるのだといえるでしょう。
…十八世紀末のフランス革命は、自由・平等・友愛という三つの理念を掲げ、人々はお互いを「市民」と呼び合っていた。手紙の最後には必ず「友愛を込めて」と書いた(これはいまでも書く人がいます)。ただフランス革命は自由、平等の要求として出発したのですが、友愛は当初スローガンにはなっていなかった。これが憲法に書き込まれたのは1948年の第二共和政になってからです。自由と平等とが権利であるのに対し、友愛とは他者への共感、親愛の情です。集団内部の、さらには社会的連帯の絆となりうる倫理なのです。共同体への義務だ、と考える人もいるくらいです。
…現在多くの国で採用されている選挙による間接民主主義は、ほとんど惰性になって、体制の装置になっていることが多いことは先般の日本の国会審議でもみられたことです。これに対して1960年代から直接民主主義という声が挙がってきますが、もちろんこれにも問題があるし、それだけで解決できることではありません。
この点についてサルトルはここでとても大事なことを言っている。
「直接民主主義とか間接民主主義とかを考えずに民主主義そのものを検討することだ。民主主義をその全体において取り上げ、友愛と民主主義との関係は何かを考察すること、民主主義を現に確立しており、これまでも常に民主主義の中にあった根本原理は何かを考察することだ。
…サルトルが世を去って35年、世紀は新しいページをめくって15年になります。しかし世界と時代が提出している課題は大きく変わっていないのではないか。世界の各地では相変わらず人間が人間を殺している。殺し続ける姿勢をどの国家も崩していません。崩すどころか強めている国家もある。二十世紀はいかなる世紀にもまして人間が人間を殺した世紀ですが、二十一世紀はさらにさらに人殺しが増えるかもしれません。テクノロジーの発展が人間生活に解放を、幸福をもたらした面は確実にあるのですが、しかしそれだけではない。軍事技術、つまりは人殺し装置の巨大化を促したことは確実です、いま何十万人かの中東の難民がヨーロッパに押し寄せていますが、そのそもそもの原因が湾岸戦争やイラク戦争であったことを忘れてはならないでしょう。グローバル化とは国境なき暴力を意味していたのでしょうか。
他方、いま王者の地位にある市場原理とは何か。利潤が万能の社会原理ではないでしょうか。そこでは人間は単なる労働力とみなされ、大学はその労禰力の生産工場と化しているのではないか。教育の成果は数字に還元されているのではないか。文科系の大学は廃止するという議論はその一つの現れです。労働力でなくなった老人はどうなるのでしょう。<br />
…さらに恐ろしいのは人間の欲求自体も市場でつくり出されていくことです。人間は自分で自分を管理する力を奪われ、将棋の駒のように、物のようにされていくのではないか。テクノロジー、システム管理、マニュアル化、情報のネットワーク、それらは人間本来の自由を抑圧することで新たな欲求をつくり出し、…そして人間は、自分では自由だと信じているロボットのように、知らずに主体性を奪われ、非人間化されているのかもしれない……。
だとするなら二十一世紀の課題は、改めて「人間とは何か」を問い、人間的である領域を確定して人間的なものの破壊に抵抗することではないのか。人間としての自由、自立性を確保するには何をなすべきかを考えることではないのか。人間的なものを滅ぽし、押しつぶすものの正体を見極め、そこから生を、生の意味を救い出すことではないのか……。
そしてもしそうだとするなら、サルトル思想との対話は二十一世紀の人間にとっても価値あることではないでしょうか。
「007スペクター」2015/12/5
007の最新作スペクターを見た。いくら日本の映画やアニメが、クールジャパン等と言って得意になってみても、とてもではないが、日本の映画界が逆立ちしても、到底この映画には太刀打ちできそうもない。アクション・シーンの連続で、そこには無論特撮の技術の差もあるだろうが、何が違うと言って、一番大きな違いは、スケール感よりもリアリティだ。日本の怪獣映画を引き合いに出すまでもなく、日本の映画では、こうした現実感が決定的に欠けている。だからアクション映画でもSF映画でも、荒唐無稽な印象に終始してしまう。むしろのび太の未来を描いたアニメのドラエモンの方が余程リアリティがある。これは費用や技術の問題ではなくて、監督とプロデューサーの執念の問題だ。見る者の立場ではなく、作る者の立場から、まあこんなものでいいだろうという感じで、安直に作品を作って市場に出すのだから、ろくなものにならないのはむしろ当然なのだ。
但し海外の映画が皆優れているかと言えば、無論そうでないことは言うまでもない。凡作や駄作も多い。でも平均点ではやはり米英の映画の方が上だ。今回の007が特に優れているのは、それが本格作品を志向している点だ。それは手抜きや妥がないという事だ。奇をてらったところもないので、いかにもセットで撮影しましたという、作り物感がない。但し、映画は主観的な要素が強いので、見る人によって評価は異なると思う。従って自分の眼で見て、判断して頂きたい。
主演のダニエル・クレイグは007を演じるのは死ぬほど嫌だと言ったそうだ。それでも、今のところ彼以上の適役はなく、ショーン・コネリーを含めて歴代でも明らかにトップだ。ストーリーは、前作品のスカイ・フォールが下敷きになっており、M(ジュディ・デンチ)が死亡した後の後任にレイフ・ファインズが着任している。ファインズも年を取った。但し今回はMにも若干のアクション・シーンがある。TVシリーズのシャーロックにモリアーティ役で出演していた俳優が、この作品でも悪役で出演している。007の乗り物は定番のアストン・マーチンだが、今回は最新のスーパーカー版(5億円)だ。ゴールドフィンガーで登場した旧型のアストンも最後に登場する。日本の映画が、こういう映画を超える日、せめて肩を並べる日が、いつかは来るのだろうか。
「無力感を引き継いではならない」 2015/12/5
【VOICE 2015年第6号から】
最初は菅直人のインタビューから。
菅: これも事故後に知ったのですが、米国ではICのような(WTW注:非常用復水器)機器は少なくとも二〜三年に一回、試験的に動かして点検しているそうです。しかし、福島第一原発ではあの事故が起きた時点で、現場の職員の中に実際にICを動かしたところを見たことのある人はただの一人もいなかった。というのも、ICの稼働音はものすごい爆音。原発建屋に轟音が響くほど。さらに大量の水蒸気が発生し、「ブタの鼻」と呼ばれる原発建屋の排気塔から激しく噴き出すそうです。
だから、もしもICを試験的に稼働点検した経験がある人ならば、その轟音と水蒸気の凄さですぐにIC稼働の有無が判断できる。しかし、事故当時、福島第一原発の職員の中で、ICが稼働した時の様子を実際に体験していた人は誰もいなかった。
さらにこうしたことにはもっと根が深い問題がある。それは福島原発の原子炉が、GEから完成品を受け取って据え付けた、いわゆる「ターンキー契約」だったということです。ターンキーとは文字通り、鍵を入れて(機器を)動かすということです。工場を建設する際、外国企業から技術を供与されたとしても、企業は通常、工場建設のプロセスの中でその技術を自分たちの知識ノウハウとして積み上げていくものです。しかし福島第一原発の1号機の場合、すでに完成したGEの原発をそのまま導入した。もちろん、それを四十年間も使っていたのですから、東電だってかなりのことはわかっていたはずです。しかし、現実にはICが動いている具体的な状況を経験したことのある人が吉田所長を含め誰一人現場にいなかった。そこから考えると、槌田先生が指摘されるようにマニュアル自体が間違っていたし、もっといえば、そうしたマニュアルを作成した人の責任も問われるわけです。
では、現場にそうした判断能力を備えた人物がいたらよかったのかといえば、それだけで解決する問題ではなかったというのも事実です。なぜなら、福島原発事故の問題は極めて構造的だったからです。東電はGEが備え付けた原発を普通の意味で運転する能力は持ってはいた。しかし、全電源が喪失した状況でこの原発をどのように扱うべきかの現実的なノウハウはまるで持ち合わせていなかった。シビア・アクシデント(過酷事故)が起こった時、どのように対応すべきかに関して準備していなかったどころか、マニュアルを含めて、そもそもそうしたシビア・アクシデントが起こることを想定せずに四十年もの間、運転していたということです。
槌田:その通りです。
次は9条に関する上野千鶴子の意見である。
…ある政治学者のシミュレーションですが、今は投票率が50%前後、それが6割から7割になると、自民党は敗北するというのです。対抗勢力が、どういう求心力を持てるかによるので、どうなるか分かりませんが、投票入率が上がると、必ず浮動票が風を吹かすという事が分かっています。
その風はある時は小泉政権に、ある時は民主党に吹きました。でも、今の安倍政権を押し上げたのはそういう風ではありません。この前の選挙は投票率が低かったから、風が吹かずに安定政権が出来たというものでした。そこだけは、はっきりしています。寝た子に起きて貰って、投票所に行ってもらうしかないと思います。
三番目は鎌仲ひとみのインタビューから。
…日本人は当事者意識がすごく低いのでしょうか。だって、原発を中心に円を描いたら、事故が起きたらもう日本中が「福島状態」になる。北海道のてっぺんと沖縄を除いてほとんどはそうです。そういうところに自分達が暮らしているという意識が低いですよね。自分の身に降りかからないから、ほかの人達も鈍感でいられるのではないでしょうか。やっぱりそれは、福島で何が起きているかのかという実態が伝わっていない事が大きいと思います。
放射能は見えないと言いますが、きちんと情報を持てば見えるんですよ。
…安保法の強行採決もそうですが、あれを目の当たりにして、相当やばいところまで日本は来ているとみんな思わないのでしょうか。戦争をしない方がいいと思っている私達、そして、原発を動かさない方がいいと思っている私達にしてみれば、安倍政権はどんどん逆の方にいっています。でも、それが出来るのも、支持している人達がいるからですよね。呪いの言葉を掛けられているということでしょう。「政府がそう言っているのだから」「もう決まってしまったんだから」「いまさらなにをやっても」という言葉が、満ち溢れているのだと思います。
学校でも、小学校教育からずっと、自分だけ違う意見を言うと馬鹿にされたりして、「みんなと同じにしていえばいいんだ」という呪いが掛かっている。
…自主映画の後は、観て終わるにしないようにアンケートを必ず書いてもらい、フィードバックで話し合いをしてもらうよう頼んでいます。観終わってもやもやとしたものをすぐ持って帰らないで、みんなでシェアしようと。それを私、民主主義のエクササイズと言っているんですよ。
WTW解説。私達、日本の勤労者は、未だかつてなかったほど、不平等で不自由な時代に暮らしている。経済的にもっと貧しい時代もあった。でもその頃は少なくも民主主義がまともに機能していたのだ。労働者にも権利があり、それを皆が知っていた。民主主義が明日への希望につながり、より良い生活を目指す原動力にもなっていた。その時代には司法の正義と人の性善説を信じることも出来たのだ。
しかし今では、相対的な低賃金、過重労働、重税感、生活苦が重くたれこめ、閉塞感が日本中を覆っている。鳴り物だけの、二度に渡るアベニミクスはGDPも改善できず、企業に一時的な利益をもたらしただけで終わっている。企業の見かけの利益でさえ、業の内部留保と投資に振り向けられて、国民の生活は少しも上向きになってはいない。富裕層と貧困層の差は開くばかりである。
一方で、安倍首相の個人的な野心と名誉欲に、国も国民も振り回されている。その結果としての、税金のバラマキと軍備増強。公務員、民間人とを問わず、思想、集会、意見表明に対する有形無形の圧力がある。そして政府批判への露骨な干渉。
加えて護憲集会には公共施設を使わせないという、政権の下部組織化した地方の行政機関。彼らには自分達を雇っているのは政府ではなくて、国民や県民や市民だという当たり前の理屈も理解出来てはいないようだ。自分達も為政者側の存在として国民の権利を制限できる立場だとでも思い上がってしまったのだろうか。ならば地方公務員の政治的偏向を司法に告発でき、国民の主張が通れば解雇も出来るような仕組こそ、必要なのではないか。
堕落したNHKを例に出すまでもなく、メディアに対する露骨な報道規制、知識人による政府批判に対する有形無形の圧力がある。しかも国民には不満も怒りも我慢も存在しないかのような官邸のあざとい、しかも執拗な説明がおまけにある。
子供の貧困一つとって見ても、それでよく先進国と言えるものだと思うのに、それを国際的な恥とも思わぬ、政府と官邸の厚顔無恥。国家の品格等どこにもない。福祉国家から軍事国家への急な傾斜を、果てしなく転がり続ける安倍政権。日本の政官財の歪んだ価値観とそれを支える権力の構図がそこにある。
労働者の貧困と腑抜けになった労働組合の無作為。それらの根底にあるのは、勤労者階級の無力感だ。権力におもねる者だけが甘い汁を吸う企業内の構図。それが企業の不正を助長し、大企業の企業ぐるみの不正が次々に明るみに出てきている。そうやって少数の特権階級=経営者と、多数の被搾取階級=勤労者、の二分化が一層進んでいく。この世相のどこに我々は明日への希望を持てると言うのだろう。
安倍首相の言葉を信じて付き従う人達に言いたい。余り頭の良くない政治家や官僚が描く、バラ色の未来にはいかなる根拠もないということだ。それより今自分達が置かれている、周囲の灰色の世界を直視して欲しい。それがいかに不平等で、悲惨なものかということは、メディアはが正確に報道しないまでも、直感では感じ取っていることと思う。新聞の社会面に出る悲惨な事件や事故は氷山の一角に過ぎない。報道されない無数の悲劇が存在していうはずだ。毎日のように人身事故で電車が止まる。そんなことは10年前にはなかった。希望の持てない日本と言う現実が、別の形を取って、そこに如実に現れているのだ。
これこそが日本の置かれている現実なのだ。政府の説明も約束も絵空事に過ぎない。問題は、社会を大きく変えることなど出来ない、下手に動けば、今よりもっと悪くなるという、一種の諦めを多くの人達が持っている事なのだ。上記の雑誌の意見にもあるように、不満はあるにしても、これという選択師も見つからずに、結局流されるに任せてしまうという諦観。それが今の日本の国民の最大の問題なのである。
ではいま我々が浸かっているぬるま湯が、放っておけばやがて温まるかと言えば、そういうこてゃ絶対に起きない。更に冷めてゆくという可能性が極めて高い。意を決して、一度そこから出て体を拭かないと、やがて体は冷え切って死に至る。逆説としては政府にゆでられ、ゆでガエルにされてしまう可能性もないとはいえない。大事な事は自分達が使っている者が、温泉どころか肥溜めであるということを、自らが認識することだ。そして自分で風呂をたくために、重い腰をあげることなのである。
鋭く厳しい指摘を行う知識人はマスコミから遠ざけられ、保守派や穏健派だけが発言を許される。そのような環境下で、世論が一気に湧き上がる事は期待できない。しかもNHKに至っては、不要不急の時に世論調査を行い、それをツールに、事実上の政権支援の為の世論操作に利用する始末だ。これでは、根が実直で、大人しい国民性の日本人から熱い世論が湧き上がるわけがないのである。
それでも一抹の可能性はある。それは個人個人が、自分が持つ世の中を変える力、即ち民主主義の力に気付くことだ。映画を例に取れば、フォースに覚醒することだ。政官財を甘やかして、タカ派の独裁政権まで誕生させてしまうという、ここまで日本を悪くしてしまったのには、私達大人に責任がある。上記の雑誌でも、原発ゼロにしてから死ぬのが大人の責任だと書かれている。私達の責任は、政治や社会の不正と不平等に声をあげ、命がけでそれに立ち向かい、せめてその戦う姿だけでも若い世代に示す事によって、無気力という名の負の遺産だけは、次世代に残さないようにすることなのだ。
「価値のない人生はない」 2015/12/7
なにげなく立ち止まって、ふと自分の人生を振り返り、ほかの人々と比較してみると、どうやら成功とは言いかねるし、家族にも迷惑を掛け通しだったように思う。一生けん命、正直に生きて来ればそれでいいというわけではない。ぎりぎりまで自分を追いつめ、全力を出し切ったと断言する事さえ出来ない。そして主観的な努力だけでなく、客観的な結果も大事だ。やり直しがきくのなら、いくらでもやり直したい。その結果、より良い実績につながったかどうかは無論知る由もない。しかし客観的に合格点は取れなかった、即ち失敗の人生ではあっても、失敗だったことも分からずに死ぬよりは、数等ましだと思うようになった。人生の最終ラップで最も大事なことは、死ぬ時に、うまくいかなかった人生でも、それを受け入れて、感謝の気持ちを持てるかどうかだ。どんな人生でも、生きるに値しない人生などない。無意味な人生もない。だから人の命は大事なのだ。
「アベニミクスの雇用改善は期待できない」 2015/12/11
企業は安倍首相がいくら言っても雇用にも賃上げにも関心はなさそうだ。労働組合は全く存在しないかのような日本の雇用環境だ。企業が雇用拡大に関心がないのは、今の好景気は金融緩和と円安だけが頼りで、しかも間もなく円高に転じる事が見えているからだ。またバブルの経験も忘れていない。格差を作ればもっと働くという無定見な理屈で日本経済を傾かせた竹中平蔵は今でもいけしゃあしゃあと意見を述べている。常に不安と背中合わせの日本の企業経緯者達は、将来に備えて、溜め込むか、せいぜい企業を買収するくらいだ。需要拡大に確信が持てないから、設備には投資せず、従って事業拡大に伴う雇用増も生まれないのだ。
今一番必要な事は需要の創出と雇用の創造だ。なんでそんな簡単なことが官邸や政治家には分からないのだろう(後注:歳が明けてから政府もそれを言い出した)。いくら法人税を減税しても、その分は内部留保に回るだけだというのは自明の理なのだ。アベニミクスが失敗であることは、他ならぬ日本の業界が最も良く知っている。日本経済に必要なものは一度アベノミクスをリセットして、新しい需要と雇用の創出に力を入れることだ。官民を問わず、そういう審議会や研究会が持たれるのなら、私も是非参加したい。新ビジネスの案なら、いくらでも出せる。かつてお役所主催の研究会や、業界団体の国際会議にも参加し、プレゼンをした経験もないことはない。こうなると誰でもがもはや批判者、傍観者では済まされない。日本経済が沈没するのを黙って見ている訳にはいかないからだ。
必要ならボランティアでNGO、NPOのシンクタンクを立ち上げるのもありだと思う。日本経済は、官主導をやめて民主導になるべきなのだ。その後で、民間から政府やお役所に支援をお願いする。それがあるべき日本経済の姿ではないか。一部大企業をいくら優先しようにも、指導する能力が政府にも官邸にもない。その上、安倍政権のせいで、国民の生活は苦しくなるばかり。安倍首相も、たまにはミクスやめろの国民の声に耳を傾けてほしい。
「経団連は頭を丸めよ」 2015/12/12
・軽減税率、たばこ増税で財源確保。
法人税を下げなければ良いのである。しかも赤字企業へのみなし課税=外形標準課税、も辞めるべきだ。大企業ばかりを優遇する政府の偏った姿勢は、我々庶民には全く理解できない。経団連との結託も度を過ぎて、今やいびつな關係になっている。大手だけが企業などとは、資本主義の教科書のどこにも書いてはいない。今の日本の進む先には、財閥系大手企業の利害の為=例えば武器ビジネス、なら戦争も辞さないという、軍国主義、しかも秘密主義の未来が見え隠れしている。国民には早くその兆候に気が付いてほしい。しかも大手企業では、粉飾や違反が続々と明るみに出てきた。経団連は威張り散らす代わりに、経営者の質の低下と論理感の欠如に対して、全役員が丸刈りになって国民に土下座すべきではないのか。個人的な意見だが、経団連の前会長からは人間らしい暖かさを一切感じることが出来なかった=311の対応を含む。籾井の就任にも、前会長が一役買っていたと私は憶測している。
・首相、印進出企業に1.5兆円。
そんな金があったら減税に回すべきだ。日本は企業経営で保っているとでも思っているのだろうか。それは単なる思い違いです。真面目の働く従業員で持っているのだ。本当に日本を仕切っているのは首相でもなければ官邸でもない。その証拠に、業界に不利益なことになると、一転して、政策が進まなくなる。安保法制は、彼らが安倍首相に投げ与えた飴にすぎない。それで喜ばせておいて、後はしっかり経団連と業界の為に働いてくれと。もちろん戦争が出来る国になることは、彼らにもメリットがある。例えば武器産業がそれだ。産学官という嫌な言葉が思い浮かぶす。野坂昭如が言ったように、今まさに新たな戦前なのだ。何があっても絶対に戦争だけはしないという決意が、保守派の政治家からは全く感じられないことが、その何よりの証拠なのだ。
「原発輸出を止めよ」 2015/12/14
・印に原発輸出。
原発事故が起きたら国が責任を負うのか。私企業が責任を背負いきれないことは承知の上の協定だろう。安倍首相は、外国の原発事故の責任まで、日本の国民に負わせるつもりなのか。如何なる口約束をインドの首相に与えたのだろう。それさえ伝わっては来ない。なぜなら日本のジャーナリズムが腐っているからです。自国の廃棄物の処分さえ、納得できる解決策などないのに、よくも原発ビジネスなどを推進する気になれるものだ。10年先どころかか1年先も考えられない愚かな政治家がここにいる。
「スタートレックと人類の未来、または、戦争に備えれば戦争になる」2015/12/15
ナショジオと共にヒストリー・チャンネル(有料)をよく見るが、その中でスタートレックの世界という番組がある。やや荒唐無稽な要素のある、スタートレックという米国で人気のTVと映画のシリーズが、米国の科学の発展に少なからぬ寄与したという趣旨で作られた番組である。但し説明自体はかなりシリアスなものだったので、その中から一部を紹介させて頂く。
…最近の研究ではほぼすべての恒星が惑星を持つことが、探査機の観測から分かってきた。但し凍らない水の存在が生命誕生の条件であり、そうなると候補が絞られる。とはいえ、銀河系内だけでも、そういう惑星は無数に存在する。知的かどうかを別にすれば、地球外生命が存在する確率は極めて高い。その中には人間と同じような高度な知性を備え、他の宇宙生命とコミュニケーションを取ろうとする生命体もあることだろう。地球外生命の存在の確率を計算する有名な計算式があるが、その中で最も不吉なものは最後の変数。即ちその種族の存続期間である。だから複数の知的種族や文化があちこちで誕生したとしても、その存続する期間が重なっていないと交流の機会もない。
…生命が進化し、知性を持つようになると、異なる種族同士での争いが必ず起きる。人類の歴史も戦争と、武器の発達の歴史だった。このまま進めばいつか個人が核兵器を備えるようになるかもしれない。そうなればいかなる抑制力も働かず、人類と地球が滅亡するのは単に時間の問題になるだろう。
…30年前、即ち1977年にボイジャーが打ち上げられ、初めて木星や土星の美しい写真を地球に送ってきた。そして今、それは太陽系の外縁部にあり、人類が作った探査機として、初めて恒星間の宇宙に向かって旅立とうとしている。ボイジャーには惑星探査の他にもうひとつのミッションがある。それはカールセーガンの監修で準備された、金メッキで保護されたレコード(アナログ)だ。レコードには地球の生物が立てる様々な音、動物の声、音楽、そして機械の音も収録されている。レコード再生の為の針も添えられている。宇宙の他の知的生命がこのボイジャーを見つけた時に、かつてどこか彼方の惑星に、探査機を飛ばして他の宇宙生命とコミュニケーションを取ろうとした文明が存在したことを知るだろう。
…現在の人類の科学力では恒星間飛行は不可能である。但し可能性はゼロではない。その方法は宇宙船の前方の空間を圧縮し、後方の空間を引き延ばして、前方に瞬時に移動するという方法だ。一言で言えばワープである。この方法ならアインシュタインの光速の原理に縛られることもない。家族が生きているうちに他の恒星に行って戻ってくることも可能だ。しかしこの航法には莫大なエネルギーが必要だ。例えば惑星一個分のエネルギーが必要になるかもしれない。いま人類にはそのようなエネルギーを入手する技術はないが、仮にそういう技術は可能になれば、それはそれで大きな問題を引き起こす。即ちそれは使い方を一歩誤れば惑星全体を破壊しかねないからだ。
…SETIなどで、他の地球外生命を探す努力は今も続いている。しかし人類が見つけるにせよ、彼らの方が先に人類を見つけるにせよ、両者が出会った時に何が起きるか。人類はいかに遠方であれ、新たな場所を発見すれば、必ずその地に行くという衝動を抑えることが出来なかった。なので地球外生命を発見した時に、うまくそれを保護して教育することが出来るだろうか。種族の違いが、国と国との争いになり、やがて戦争に発展するという歴史を人類は嫌と言うほど経験している。しかも今や人類は全ての生命を破壊できる力さえ持っている。争う事が人類の宿命なら、人類はやがて全滅するだろう。即ち存続期間がごく短いという事だ。人類に文明を教えた宇宙人と同じように、人類は自分より劣る生命体に接する事ができるのだろうか…。
WTW解説。何故セーガンが映像とは言わないまでも、せめて人類の写真をボイジャーに搭載しなかったのかは分からない。彼はアナログ趣味なのだろうか。ところで私はUFOの存在を信じている。それは自分で目撃しているからだが、その実体は未だに分からない。しかし何かが存在することだけは確かである。それでも種類が余りに雑多な上、その行動も常軌を逸しているので、少なくも人類が常識で付き合える相手では無さそうだ。その異質さが、人類の友人であるより、脅威である可能性が高い事を示唆している。一方で、エリア51の滑走路に、得意のジグザグ飛行の多数のUFOが着陸するシーンを目撃しているので、謎は深まるばかりである。自滅が予想されている種族を、宇宙中から観光に来ているのかもしれない。
今回の安保法制で、日本は専守防衛という理念を投げ捨てた。友好国への攻撃があれば、日本も攻撃して良いことになった。すなわち自国への攻撃がなくても、自国の判断だけで、他国への攻撃が可能になったのだ。しかもこの法制の真の問題点を、安倍首相と取り巻きの閣僚達は全く理解していないようだ。攻撃されたら反撃して自国を守るのは当然だ。だから武装は必須だという単細胞的な発想だけしかない。
問題はその前提にある。それは国と国は戦争をするものであって、紛争は武力でなければ解決できないという考え方だ。即ち彼らの頭にあるのは戦争ありきで、敵国よいつでも来いという突っ張ったヤンキーの固定観念だ。これは紛争解決には武力を行使しないという平和憲法の崇高な理念と真っ向から対立するものだ。だからこそ安倍晋三は憲法改正に執着しているのだ。低収入の人達に雀の涙のような一時金をばらまいて、軽減税率で公明に譲歩してでも、何とか参院選で勝利して、その勢いをかって憲法を改正したいのだ。
憲法を改正しないと、いつまでたっても安保法制は違憲のままだ。安保法制が違憲であることを最も良く認識しているのは、他ならぬ安倍首相だ。いまやその振る舞いは、日本の大統領だ。一体どう育てれば、こういう人が出来るのか。私は親の顔が見てみたい。
紛争を武力で解決するという姿勢。これこそが安保法制の真の問題点だ。過去100年の悲惨な人類の歴史も、そこから得た教訓も完全に無視した、時代逆光である。戦争に逸り立つ安倍首相率いる日本で、来るべき宇宙人との遭遇が起きたら、一体何が起きるのだろう。相手は瞬時に移動する技術があり、時空を操る技術さえあるだろう。こちらから出向くにせよ、向こうからやってくるにせよ、人類が他の文明と出会う時期はそう遠くない。そういう時に、争う事を前提にした外交姿勢、即ち異種の生物とは戦いを前提にするという発想そのものが危険であって、それを見直さない限り、世界の平和も、ひいては宇宙の平和も期待できない。
グラハム・ハンコックは、神々の指紋という本で、遠回しな言い方で、1万年前に高度な文明を持つ宇宙人が地球を訪れて、人類に文化を与えたという仮説を提唱した。古い壁画に残る異形の人物画もその存在を暗示しているという。当時の技術では絶対に不可能な加工を施した建造物も多数残されている。私は必ずしもこの仮説を支持するものではないが、重要な事は、自分達より文明の劣った地球外生命を発見した時に、人類が何をしなければならないかということである。これまで人間は、侵略して異種族と出会う度に攻撃し、征服、或は殲滅してきた。しかし少しでも歴史に学ぶ事が出来れば、人類は、人類に高度な技術を教えた宇宙人と同じ態度を取るべきではないか。インデペンデンスデイで、地球人を全滅させようとした宇宙人と同じなら、知的生命体とは言えないだろう。
「高齢者の交通事故を減らす方法」2015/12/16
アクセル操作の間違いで事故が起きている。ところで極めて安価に、しかも効果的に事故を半減させる方法がある。それはギア(オートマでも同様)をバックに入れたら、すぐに、『バックします』という案内音声が車内と車外に流れ、それがギアを戻すまで続くことだ。またギアが前進に入っている時は、最初に動き出す時だけ、アクセルに足を乗せた瞬間に、『前進します』という音声を流す。自動車メーカーはぜひこの機能を新モデルに組み込んで頂きたい。
前方0.5m以内に障害物があればそもそも発進出来ないようにすることも技術的には可能だろうし、それは既に実施されているかもしれない。衝突防止装置のついた車に運転を限定するという条件も、高齢者の運転免許には必要かも知れない。今後は車載カメラでバックミラーが不要になる時代ですから、前方に黄色信号が見えたら、強制的に減速する装置だって可能なはずだ。
「とにかく銃から手を離せ」 2015/12/19
満州の集団自決の番組を見た。こういう番組を作っている間は、未だNHKのどこかにまともな人達が残っていることを期待出来る。トップは腐っていても、番組の制作現場では、一生懸命良心の火を灯し続けようとする人達がいるのだろう。
終戦時、満州の山の中を死にたくないと逃げ回る子供たちを銃で撃ち殺した大人たちがいた。その事実一つを取り上げても、戦争がいかに悲惨で非道なものかが分かる。戦争を肯定する人達=安倍首相を頂点とする国家主義の人々は、自衛の為なら戦争は止むを得ないと言う。それが拡大解釈され、友好国が攻撃されたらおっとり刀で参戦すると約束したのが安保法制だ。しかも米国には日本を守る気は、(少なくもその国民には)ないというのにである。
私の申し上げることが間違いだと思う方は、誰でもいいから米国人を捕まえて、こう訊いてごらん。米国には日本を守る義務があるのかと。その答えは、なんでですかという反論から始まることだろう。米国は日本に何か借りでもあるのですかと。そして日本は自国で守ればいいではないか、だって世界で肩を並べる大国なのだからとだと。
安保法制が我々にもたらしたものは、安保体制の強化ではない。単位に銃の引き金を引く機会を拡大しただけのことだ。いま世界中で起きている無差別の殺し合い。それを止めたいという気持ちは、安倍首相には感じられない。相手がやって来たら自衛隊に銃を撃たせる。ただそれだけだ。何が積極的平和主義だ。積極的戦闘主義ではないか。
テロの背景にある価値観の相違、経済的格差に目をつぶって、寄らば撃つぞだけでは問題は解決しない。なんという想像力の貧困、そして自分だけは別という身勝手な価値観。しかもそれは原爆を投下した米国についても言えることだ。911で亡くなった米国の市民は5千人。無論それはあってはならない事で、数で比較すべきことではないけれど、原爆で亡くなった日本人は20万人です。相手が悪いから、或は攻撃してきたから、いかなる手段であっても、先制攻撃を加えて良いという事にはならない。米国は、ベトナムを例にするまでもなく、世界各地でジュネーブ協定を踏みにじっている。
大事な事は、如何なる理由であれ、銃を取って殺してはならないという理念を、地球の隅々にまでいきわたらせることなのだ。間違った正義を憎む前に、その手段としての武力とその行使自体を否定する必要がある。そして虐げられたものの不満や生活の悲惨さを理解し社会的な不公平や不正を糺す手伝いをし、一方で独裁者には周りの国がよってたかって、その野望を放棄させること。それこそが積極的な平和主義なのである。
如何なる宗教的、政治的、倫理的な理由があっても、銃で相手を撃ってはならない。そもそもそんな権利は誰にもない。人間を殺傷する目的で、銃(や刃物)を手に取ってはならない。この大前提を打ち立てない限り、世の中から非業の死はなくならない。場合によっては相手を殺しても良い。それが安倍首相の価値観だ。米国は言うまでもない。でもそういう判断が神以外の誰に許されるというのか。銃を向ける側の、間違った正義ではないことをどうやって証明できるのか。死んで当たり前の人間なんていない。とにかくいかなる理由があっても、絶対に人を殺さない。そこから始めないと、地球に平和は訪れないし、人類が存続する事も出来ないのである。
軍隊が強大な力を持った結果、終戦時に何が起きたかをご存知か。敗戦が決まった途端、それまで威張り散らし、民間人に自決を強制までしていた関東軍は自分の身可愛さに、最初に逃げ出した。戦闘中にそれをやれば敵前逃亡で銃殺刑である。そうやって兵士を銃殺した彼らには、なぜ銃殺刑が適用されないのか。言っている事としていることがまるで違う。約束違反は卑怯者と悪人の常とう手段だ。さんざん勝手をやっておいて、いざとなると卑劣さを丸出しにして逃亡。自分達だけは特別扱い。
それと同じ価値観で、同じことを、安倍政権がやっていないと言い切れるだろうか。失言や不祥事を、これだけ積重ねておきながら、役職離任だけで、一人として議員辞職した者はいない。これだけ国民の期待と与えられた責任を裏切っていてもだ。従って安倍政権下で、ひとたび戦争が起きたら、何が起きるかは火を見るより明らかだ。政治家と経営者は核シェルターに逃げ込む。自衛隊も逃げる。そして残された我々国民が竹やりでミサイルと戦うのだ。
だから来るべき参院選では、少なくも自らの出処進退くらいは自分で決められる、即ち責任感と良心だけは人並みに備えた人物を、国民は選ばなければならない。普段声の大きい、威勢の良い人間ほど、いざとなると平然と前言を翻す。それは石原元知事を例に取るまでもない。候補者が誠実な人かどうかは見た目や推薦では分からない。その人がこれまで言ってきたこと、してきたことを自分の眼で確かめるしかないのだ。選挙の度に間違った選択を重ねて行けば、やがて国が亡びる。それは誰にでも分かる道理ではないだろうか。
「靖国の英霊に対して失礼なのはどちらか」2015/12/22
・安保法制、全国で違憲訴訟提起。
是非とも応援したい。本訴訟に個人の市民が参加できる途を設定してほしい。今更の如くなんでとお聞きになるだろうか。それは自分達の子や孫を、国=政権が参戦を決定する、外国=具体的に言えば米国、の為の戦争で死なせないためだ。米中や米アラブの代理戦争で、その意味も分からずに死んでゆくのは、政治家の子弟ではない。我々一般市民の子弟であり、日本の若者なのだ。
太平洋戦争は、軍部の暴走と他国への侵略が原因とはいえ、少なくも自国の為の戦争ではあった。しかしこれからの戦争は、一国では平和が守れないという、具体的な根拠も、納得のゆく説明もない、空疎な理屈の元に、どちらが正義とも決められない、即ち正義のない外国同士の戦争に巻き込まれて、自国の若者が死んでゆくことになる。靖国の英霊達がこれを知ったらどれほど驚愕し、また激怒する事だろう。
第二次大戦では、実際に銃弾を撃ってきたのは敵国(米国等)であったかもしれないが、無責任な軍の上層部の甘い見通しと精神主義、兵士を消耗品にする傲慢さ、政治家のご都合主義が真の原因であって、そのために何百万もの国民が無駄に殺されたのだ。彼が国と国民を裏切ったのである。末端の兵士は敵を食い止めようとして、必死に戦った。しかも戦地では弾薬も食料も尽き、補充もなかった。上層部としては負けは承知の上での派兵だ。人命を代償に時間を稼ぐという稚拙で無能な戦術しか、そこには存在しなかった。一言で言えば、自我肥大と権力欲しかなく、戦況を読むことさえできなかった、軍人たちの自殺願望に付き合わされた無駄で無意味な死だったのである。戦犯かどうかは基本的に戦勝国の判断だが、、同時にA級戦犯が我々日本国民にとっても戦犯であるのは、この戦争と戦闘の無意味さゆえなのである。国の為に死ぬのなら未だしも、意味のない死を強制されるいわれなど、いかなる国民にもないのである。
そういう、非合理的な発想しか出来ず、国の戦争を私物化し、勝ち目のない不毛な戦闘に追いやった愚かな指導者達と一緒に祀られたいと願う兵士がいるとは思えない。時の宮司には、個人的な価値観だけで、戦争指導者の合祀などする権利はなかったのだ。また合祀が出来るなら分祀も出来るはずではないか。宮司の独断的な行為で、多くの英霊とその家族が、いまなお不快感を味わっている可能性がある。そういう人物に、そもそも宮司の資格があるのだろうか。それとも戦場に行った経験すらないのではないか。
右翼団体や右翼の政治家に靖国神社を恣意的に悪用させないためにも、靖国の英霊を守る会または組織が必要だと思う。また靖国は外国人にも開放すべきだと思う。日本の為に身を挺して闘ってくれた外国籍の兵士もいただろう。
自民党のタカ派議員は何故そこまで思い至らないのか。またそういう想像力の貧困な議員たちの知能程度には疑問を抱かざるを得ないのである。
「戦争を始めるのは独裁者」2015/12/18
12/20にNHKが放送予定の「新・世界の世紀」は再放送番組だが、ある人物をテーマにしている。その人物は第一次大戦後の不況にあえぐ国民に職を与え、国民の支持率は90%に達した。国民は彼に絶対的な権限、即ち独裁者の権限を与えたが、その後で迫害が始まった。その結果第二次大戦で世界の6000万人が命を落とした。その7割は一般市民だった。戦争を推し進めたのは、一重にヒットラーの制服欲が原因だった。何故国民は彼の独裁を許したのか。
世界中でナショナリズムが台頭し、政治の独裁化が進む今こそ、第二次大戦を引き起こした独裁者が、どのように権力を握り、世界を地獄に導いたのかを、21世紀にいる我々が自分達の眼で再検証する事に大きな意味がある。何度でも書くが、最近亡くなった野坂昭如の最期の警鐘、「いまの日本は戦前だ」という言葉を、私達は絶対に聞き捨てにしてはならないのである。
「スター・ウォーズ、フォースの覚醒」 2015/12/26
「スター・ウォーズ(SW)フォースの覚醒」をやっと見た。出だし部分だけでは、これがSWかと思いつつ、ハン・ソロのハリソン・フォードの登場で、にわかに実感した。旧6作と何が違うと言って、まず画面のスケール感だろう。砂漠に横たわる帝国艦隊の朽ち果てた巨大戦艦。主人公(女性)はそこから部品を取り外して生計を立てている。パドメ役だったナタリー・ポートマンと似ていなくもない。しかしこの若い女性の身元は明らかにはされていない。ただ者ではないことは後半で分かる。また彼女に付き従うドロイドは新型になっており、ころころ転がる球形の身体と、そこにどこでどうつながっているのか見当もつかない頭部が載っている。名前はBB8だ。以後お見知りおきを。
ところで一度、ダークサイドが支配する悪の帝国が滅んだ我らが銀河系だが、ダークサイドは完全には消え去ってはいなかった。それどころか、シディアス卿(皇帝)やダース・ベイダーの闇黒の思想を継承する強大な組織、ファーストオーダーが、帝国に代わって銀河系の支配力を強めていたのである。彼らが狙っているのはただ一人残った光の側のフォースの使い手、スカイ・ウォーカーだ。その居場所の地図を持っているのはBB8だけである。
戦闘シーンに登場するのは、タイ・ファイターやストーム・トルーパーなど、帝国軍と同じキャラだ。トルーパーの兵士には辺境の惑星から子供をさらってきて、殺人マシンに仕立て上げている。その一人、黒人青年フィンは、市民の殺りくに抵抗して、ファーストオーダーから脱走を図る。ウォーズという題名が付くくらいだから、全編を通じて戦闘シーンの連続だが、これという目新しい新兵器はない。但しより強力になっている。但し漆黒の宇宙を背景にした旧作の戦闘シーンと異なり、地上での戦闘が主体なので、ミレニアム・ファルコンが青空に舞い上がる新感覚のシーンもある。随所に旧作で見たキャラやシーンがリニューアルして挿入されており、それも楽しみのひとつだ。
とは言え、やはりルーカス自身が監督をしないと、旧作で毎回楽しみだった、新しい着想が、今回の作品では希薄だという印象を受けた。惑星が崩壊するシーンなどのスケール感では、さすがに時代の差を感じさせる。でもファントム・メナスで登場したポッド・レースのような、こんなものもあるよ的な楽しみ方は限定される。あくまで旧作の下敷きを忠実になぞるという作り方で、それはそれで一つの見識だと思う。
それでも、この作品は確かにスター・ウォーズである。私も若い頃SWを見て育ったのですが成長(?)した人間だが、先日、米国で末期がんの患者の男性が、新作を死ぬ前にどうしても見たいという望みがかない、一般公開前の試写を見る事が出来て、満足して亡くなったという記事があった。私も本作には間に合ったものの、次作が見られるかどうかは、甚だ心もとない年齢になった。
但し、なにがなんでも次作が見たいかと言えば必ずしもそうでもない。なぜならスター・ウォーズは確かにスター・ウォーズでも、それは意外性(センス・オブ・ワンダー)に満ちたジョージ・ルーカスのスター・ウォーズではないからだ。
もうひとつの欠点は、新作の悪役にはインパクトがないことだ。もしこれがカンバーパッチなら、続きを観たいと思ったかも知れなし。でも彼は第三世代のスタートレックで、既に悪役を演じている。JJエイブラムスの作品には共通するものがある。確かに激しいアクションもあり、息を呑むような特撮シーンもあるにはあるのだが、映像が主役で、登場する人物が映像の脇役に退いてしまい、存在感が希薄になった事だ。キャラクターの心理描写が浅いので、その結果、観客がストーリーに引きずり込まれて、いつの間にか自分が登場人物と同じ感情をシェアするというところまではいかなかったのだ。即ちわくわくするような映画の楽しさが比較的少ない。ゆえにJJのSWはルーカスのSWを凌駕出来ていないのである。
観客をストーリーに引き込むことが出来る映画人こそ本当の巨匠であって、現存では、ジョージ・ルーカス、スピルバーグ、ジェームス・キャメロン、そしてリドリー・スコットだ。黒沢明を除けば、日本にはそういう一流映画人はいない。
「カワイイからの卒業」 2015/12/27
今回は女性読者の反感を覚悟で、タブーの話題に触れる。私は他人の美醜について云々出来る立場ではない事はよく承知している。それは自分が男前(イケメン)とは無縁の存在だからだ。一方で、いわゆる日本の美少女なる者、即ちカワイイが英語になるような価値基準で美醜が判断されることに、極めて強い抵抗を感じている。
私の哲学はいかなる容貌の女性(または男性に)にも、美しさや魅力があるというもので、そうでなければ自分だって人間をやっていられない。また私にはそれを発見する天賦の才能があるとうぬ惚れている。但し、いかに整った顔立ちの男女だろうと、その立ち居振る舞いや発する言葉に品がないと、その見せかけの美しさは、瞬時に失われる。人間を人間たらしめる内部の精神性が在れば、逆に如何なる人間にも美を与えるのだ。ゆえに、一旦街に出れば、いかに一見可愛かろうと、ハンサムだろうと、精神的、或は全人的に見れば、ブスでしかない男女が、掃いて捨てるほど闊歩しているのである。
話を戻すと、以前から気になっている事がある。但し今回は西洋人に話題を限定する。若い頃は海外に頻繁に出かけ、また外国人との親交もあった。そして気が付いた事がある。それは英国人の女性にはごく普通の顔立ちの人が多く、映画俳優でさえ、美人は多くないのに、なんでシャーロック・ホームスなどの小説に出てくる英国人女性は皆美人だと書かれているのかという疑問だった。それくらいなら、米国人の女性の方が、オープンで、積極的なだけでも、魅力では英国人女性を上回ると感じていた。
一般的に美人が多いと言われるのは、欧州ではポーランドとハンガリーだ。16歳くらいまでならドイツの娘もはっとするような子が多い。日本のティーンズがカワイイなどと自画自賛しているのを見ると、何も分かっていないではないかと思う。なぜ東欧に美人が多いのかは分からない。ロシアのスラブ系の女性も、やや狐顔だが美人は多い。小柄で黒髪のイタリア人も愛らしい。お洒落センスが他の国とは格段に違うフランスの女性も素敵である。
しかし誠に残念ながら、なぜか西欧の美人は盛りの時期が余り長くない。これはドクトルマンボウ航海記=北の最高傑作、で北杜夫も書いている。特に年齢とは深い相関関係があり、中年以降は体重が急速に増加する傾向にあるので、要注意だ。この点だけは日本人女性の方が断然有利である。
そして今回の注目がアイルランドだ。一昨日NHKBSでケルト音楽の特集番組があったが、同じ大英帝国なのに、イギリス人と比べて、なぜアイルランドの女性は、こうも違うのかと驚いた。TV画面に登場する歌手のほとんど全員が、背が高く、肌は白く、彫が深い。そうした歌手の代表がエンヤだが、彼女もさすがに歳には勝てないようだ。他には有名なケルテック・ウーマンがいる。名前はケルト人から来ていることは言うまでもない。その歌声は勿論素晴らしいが、ルックスもレベルが高い。蒸留水的な印象もあるが、歌手グループとしては、ルックスもトップ・クラスだ。