「WTWオピニオン」
【第142巻の内容】
「賞味期限切れの人々」
「感謝で救われる」
「コロナ総括政府篇」
「平等と公平」
「自民総裁選の総括」
「厚労省も総括が必要」
「自民への投票は、安倍の国民バカ説への裏書」
「高齢者=富裕層ではない」
「笑い飛ばしもありだろう」
「選挙後も課題は残る」
2021.賞味期限切れの人々。 21/10/11
今回のテーマは賞味期限切れ(の人達)です。タレントで言えば、田原総一朗、トンネルズ、ビートタケシ、武田鉄矢、ダウンタウンなど枚挙にいとまがないが、政治家の場合なら、安倍、麻生を筆頭に、多くの自民党議員がそれに該当します。関係者なら、橋下徹、竹中平蔵といくらでも名前が挙げられます。但し実年齢ではない(年齢なら老害)ところが面白い。高齢の議員でも、高い政治的理念を掲げ、議員としての矜持を堅持している(自民党、もしくは旧自民党の)議員もいれば、逆に若手でも、頭の中身が古色蒼然たる男女議員(高市、丸川など)がいます。ここで野党、即ち立憲の枝野代表の話になります。いま彼の賞味期限がとても気になっています。彼がどこまで成長したか、人間の度量が大きくなったのかが問われる局面になっているからです。
いまの枝野にとって一番大事なことは、東京8区で立憲(と共産)が令和の支援に舵を切れるかどうかです。これができないと、共闘の理念が崩れてしまうからです。しかも8区で立憲候補の吉田晴美は、小川敏夫の秘書だったというだけで石原伸晃に勝てるとは思えません。2017年でも一度負けています(しかも比例で)。枝野も相手が自民党だから勝てると思うのは甘すぎます(枝野は読みが甘く、幹事長時代に民主党は選挙で大敗しています)。しかも岸田が結構善戦しているのです。それでも山本太郎なら石原に勝てる可能性が高いのです。東京8区(杉並)の立憲支持者には気の毒だが、ここは枝野が歯を食いしばってでも候補を譲らないと、国民の気持ちが立憲そのものから離れていってしまいます。
一方、立憲や共産に、何の根回しもせずに立候補した、山本太郎にも大きな非があります。自分さえ正しければ周囲は気にしないという独善では、国民の気持ちは掴めません。令和の現在の議員たちの苦闘ぶりを見れば、いかに高邁な理想でも、あまりに現実離れしていると事実上の効果は出ないということが分かるはずです。自分の理想を貫くためには、国民に精神的な負担をかけることも厭わないというのでは代表の資格はありません。
石原のような有害な議員を落選させることも、リベラルな国民にとっては、重要なことです。東日本大震災の時に、原発被災で避難を余儀なくされた県民に向かって、伸晃は何と言ったか。原発を批判している人達は、どうせ金目当て(カネメ)でしょうと言ったのです。ということは石原伸晃こそが立派な(しかも何年も前の)賞味期限切れということになります。しかし山本なら比例でなくても勝てるでしょう。しかも確実に国会では吉田より活躍するでしょう。存在感から違うのです。というわけで、山本であれ、吉田であれ、東京8区では自民党には負けてもらわないと困るのです。
関連記事:枝野個人商店。
https://www.asahi.com/articles/ASPB96S6PPB6UTFK00S.html?iref=comtop_7_01
・大島衆院議長、選挙制度の在り方議論を。
https://news.yahoo.co.jp/articles/41b68f6ecfd0f3f2f43565edaaee3e6703d8713f
コメント:安倍晋三の本当の罪は、モリカケ桜ではありません。集団的自衛権と秘密保護法の強行、学術会議の任命拒否など、憲法の精神と民主主義を踏みにじってきたことです。そして竹中などを重用し、格差を拡大したことです。おまけに一国の行政の頂点に立つ者が、大学では政治学の講座を、出席不足で単位を落としたなど、冗談にもならない。一方で、盟友の麻生はどうか。漢字の読み方をしょっちゅう間違えるが、大学に国語はないので、小中の成績まで遡らないといけないのかもしれません。
・学術会議の会員を任命せよ。朝日社説。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15071820.html?iref=comtop_Opinion_04
コメント:菅と杉田が去ったのだからできるはず。
・フェイク記事に騙されるな。
https://toyokeizai.net/articles/-/459434
コメント:大事なことは、事実と意見を分離することと、意見では識者を選ぶことです。
2022.感謝で救われる。 21/10/14
幸せな死とは、
感謝の気持ちで、この世に別れを告げること。
不幸な死とは、
人や社会を恨みながら、この世を去ること。
でも、誰でも、どんな境遇にあっても、
最期に感謝の気持ちを持つことが出来る。
感謝が自分を肯定し、自分の人生を完結させる
立憲はまっとうなという言葉を使うのを辞めるべきです。古臭い上に、共感を得られない。まっとうとは真っ当と書くのだろうが、我々が一般的に使う言葉ではない。我々はそういう時には、まともなという言葉を使います。あまり使われない言葉をキャッチフレーズにしても、国民の心には届かない。モットーは分かり易くという大原則を平然と無視しているようでは、勝てるものも勝てません。自己満足とまでは言わないが、独善でしょう。あまりに我が道を行くから、国民が枝野についていけず、人気も低迷しているのです。
2023.コロナ総括政府篇。 21/10/15
今回の前書きは雑誌世界11月号のコロナ戦記の最終回「敗北と公の復権」から、その一部の紹介です。著者はノンフィクション作家の山岡淳一郎です。
自民党総裁選挙への不出馬を表明した菅義偉首相は、ワクチンの普及を自賛しつつも、敗北を認めた。
「東京都には厚生労働大臣と知事と両名でその(病床確保の)要請を出しましたが、必ずしも十分な効果が得られているわけではなかった。こうしたことは大きな反省材料」と菅はくり返す。安倍−菅政権の敗北は、数字を見れば明らかだった。
欧米に比べて感染者数が少ない西太平洋・オセアニア地域で、100万人当たりの死亡者数は、中国3.2人、
韓国47.0人…日本は2263人。カンボジアの2162人よりも多い(2021年9月9日現在)。
医療崩壊の度合いは、発症しながら医療機関にかかれず、病院外で亡くなる変死事案の数に表れている。2020年3月から21年8月までに、コロナに感染して自宅などで症状が悪化して亡くなった人は、警察が把握しているだけで817人にのぼる。警視庁のまとめでは、そのうち250人が、第五波のピークだった2021年8月に集中している。都道府県別では東京都が121人で最多だ。
都知事の小池百合子が「無観客という歴史にない大会をやりとげ、世界中の人が観客となって勇気や感動を共有できた」と自賛した五輪の裹で、これだけの人が医療に見放され命を落としているのだ。
菅は、会見で医療体制が崩れた要因について、「病床や医療関係者の確保に時間がかかる、治療薬やワクチンの治験・承認が遅く、海外よりも遅れてしまう、緊急時でも厚労省を始め省庁間の縦割りや、国と自治体の壁があって柔軟な対応が難しい」とさらりと述べた。
マンパワー不足や治験・承認の手続きの遅さ、省庁間の縦割り、国と地方の壁は、いまに始まったことではない。そうした構造的問題が露わになったのは、平時は「国民皆保険」でそれなりに回っていた医療がパンデミックの圧力に耐えられなかったからだ。危機的状況にしなやかに適応し、復元する力、レジリエンスが欠落していたのである。
そこに敗北の本質が隠れている。どうして日本の医療は強靭さが足りないのか。
よく言われるように日本は先進諸国のなかでも病床数が断然、多い。
だが、人口1000人当たりの医師数をみると、日本は2.5人でOECD加盟35力国中28位。日本と同じく国民皆保険制度を維持するドイツの4.3人、フランスの3.4人、英国の3.0人に遠く及ばない。日本の医療は医師の絶対数が足りず、少数の医療スタッフがたくさんの病床の患者を診なくては成り立たない構造になっている。
しかも、日本の全病院数の約80パーセントを民間病院が占め、国立・公立(自治体)・公的(日赤、済生会、共済組合、厚生連など)病院は20パーセント弱(病床牧で30パーセン卜)にとどまる。日本の医療の中核を担うのは民間の中小病院なのだ。フランスやドイツでは公的セクターの病院が全病床の65-85パーセントを占めている。
そうした状況で新型コロナ感染症が大流行し、構造的な弱さが表面化した。厚労省の「地域医療構想に関するワーキンググループ」の資料によると、民間病院の82パーセントは、感染対策や治療技能などの面でコロナ患者の受け入れが不可能とされている。民間の中小病院は十分な戦力たり得なかった。
一方、公立病院の69パーセント、公的病院の79パーセントは患者の受け入れが可能だ。
第二種感染症指定医療機関351施設(感染症病床1752床)の9割が公立・公的病院である。患者は公立・公的病院に集中した。患者を受け入れた922病院の7割が公立・公的病院だった。その「公」の支えが感染爆発で限界に達し、周辺の病院や診療所がカバーできず、在宅死という医療崩壊現象が起きたのである。
「公」の支柱が細いのは、経済効率を重んじる新自由主義的な医療改革の反動であろう。2001年に発足した小泉純一郎政権は、「小さな政府」を志向し、患者の自己負担額の増額(2割→3割)と診療報酬の大幅なん切り下げ、療養病床の削減を打ち出した。のちに小泉路線はやや修正されたが、「効率化」が医療体制を揺さぶる。その象徴が、2008年に大阪都構想(大阪市廃止)を唱えて大阪府知事の椅子に座った橋下徹の行政改革だった。
橋下は「二重行政の廃止」「行政のスリム化」を訴え、医療・衛生部門の職員の数を減らす。公的病院の大阪赤十字病院や、済生会千里救命救急セッターへの補助金を打ち切った。橋下の後を継いだ松井一郎、吉村洋文も病院統合を進める。三つの大阪市立病院を非公務員型の独立行政法人に移行し、一部を大阪府立病院機構に統合した。府の支出を減らされた府立病院機構は資金難にあえぐ。機構の大阪母子医療センター(和泉市)は新生児を運ぶ専用保育器の購入代金を、三島救命救急センターは人材確保の資金を、それぞれインターネットのクラウドファンディングで集めるほど切羽詰まっている。大阪の惨状は、医療の効率化、病院の再編・統合と背中合わせだ。(編集者注:東京の惨状も紹介しないと不公平です)
近年、厚生労働省も、医療資源の効率的な運用と、医療費抑制のために、公立・公的病院の再編・統合に踏み出した。厚労省はワーキンググループの会合で、「再編・統合についてとくに議論が必要」な436病院の名称を公表した。
突然、名指しされた病院側は驚愕し、混乱に陥った。
国は「医療機能の分化・連携」の名のもとに公立病院の数を減らそうとしている。リストアップされた病院には「潰される」と衝撃が走った。将来を案じた医師が去り、就職予定のナースが逃げる。あまりの反響の大きさに厚労省は協議の場を設け、経緯の説明に走り回った。
と、そこにコロナーパンデミックが降りかかる。一転して、お荷物扱いされていた公立病院は、前述のように感染者受け入れの最前線に立った。税金が注がれている公立病院は社会的責任が大きく、「公」の医療機関の存在感がコロナ禍で再認識された。
それでも再編・統合の流れは止まりそうにない。東京都では都立、公社合わせて14病院の独法化が目前に迫っている。小池都政は、毎年一般会計から約400億円を病院事業に組み入れることを解消しようと独法化を決めた。22年度内を目途に地方独立行政法人を設立する予定だ。独法化されれば、職員給与の水準は下げられ、非正規職員も増えると予想される。個室料金などの患者負担も重くなるだろう。何よりも不採算部門の切り捨てが憂慮される。はたしてコロナ禍の渦中、血税400億円の使い方と公立病院の存続は十分に検討されたのだろうか。「公」の重さ、公立病院の存在価値とは何か。(編集者注、都というより小池個人のPRの為に何百億という税金が使われた経緯もあります)
邉見(へんみ)公雄・全国自治体病院協議会名誉会長は、開口一番、「医療や教育に効率化は合わない。余裕が必要」と言った。
「もともと医療には緊急時のための余裕、ゆとりが必要です。しかし国は効率至上主義で、常に病院のベッドが満杯でなくてはいけない診療報酬体系にしてしまった。ハイリスク・ローリターンやね。病院は、難しい患者さんが入院すればするほど経営で損をする。病床は9割以上埋まらんと黒字にならない。いつも全力疾走させられているような状態です。感染症に対して国は、結核患者が減って『感染症はもう終わった』と思い、感染症対応の病床をどんどん減らした。急にがんばれ、コロナ専用のベッドを増やせと言われても、容易ではありません。医療にはゆとりがいる。阪神淡路大震災で身をもって知りました」
医療に「公」のゆとりを持たせるには国の予算編成を根本から見直さなくてはなるまい。
「医療は国民の安全保障、経済学者の宇沢弘文さんが唱えた社会的共通資本です。公がきちんと支えるべきもの。国防で、イージス艦を二隻、5000億円もかけて新造するくらいなら、その分、国民の安全保障に回せと言いたい。災害への対応も考えれば、イージス艦よりも病院船。日本は海岸線が長いから太平洋側と日本海側に一隻ずつあってもいい。医療では電子カルテの統一をまずやらないかん。同じ町の医療機関に手伝いに行って、感染予防に気を使いながらカルテ記載に難儀するなんて愚の骨頂や。国の新型コロナウイルス感染者等情報把握・管理支援システムやワクチン管理のシステムも、似たような問題で現場は苦労しています」
邉見は、厚労省が地域医療構想に関連した436病院の再編・統合をこう語る。
「436病院のうち約200がコロナ患者を受け入れています。これを縮小、合併していたらどうなっていたでしょうか」。再編・統合リストには、北海道の利尻島国保中央病院のように、小さいけれど、救急患者を24時間365日受け入れ、訪問診療も行なって地域を支える医療機関が含まれている。邉見は「三現主義の姿勢」を国に求める。
「あそこは利尻島でたった一つの基幹病院ですよ。厚労省の職員に『病院がどんな場所にあるのか、わかっているのか』と聞いても答えられない。数字だけ見て判断している。隣の病院との距離は測っているのでしょうが、『距離が問題ではない。周りは海ですよ!』と言いました。これでは話にならん。効率至上主義から脱却しないと医療は荒れ放題になる。病院は大きな事業体で、地域の雇用を支えている。そこに気づかない。国には現場に出て、現物を見て、現実を理解する『三現主義』の姿勢がありません。コロナ対策にも、この姿勢が欠けているから、思いつきを国民に押し付けて失敗した。いまこそ、三現主義に立脚して、国民が必要とする財政支援や、医療資源の供給を進めなくてはいけない。新型コロナ感染症が終息しても、今後、新たな感染症が次々と発生するでしょう。人間は未知の微生物の宝庫である森林を破壊していますからね。新しい思考で臨まねばなりません」(中略)
厚労省は、病床確保に当たり、流行初期は感染症指定病院に患者を入れ、感染が拡大するにつれて一般の医療機関の入院病床を増やすよう都道府県に指示した。2020年夏には、感染のフェーズに合わせた病床確保を通知する。
しかし年末から年初の第三波で医療崩壊が起きた。政府は感染症法を改正し、都道府県知事に医療機関への協力を「勧告」して、正当な理由なく従わない場介は施設名を「公表」できる権限を与える。
その一方で、コロナ患者受け入れのために新しく割り当てた重症病床には1800万〜1950万円、その他の受け入れ病床には750万〜900万円の補助金支給を打ちだす。手を挙げた病院側が申請をして、認められれば多額の補助金が支払われる。このほかにも交付金やさまざまな手当が受け入れを申し出た医療機関には支払われる。「勧告」と「補助金」、アメとムチで厚労省はコロナ病床を確保し、全国のコロナ病床は第三波のころの1.5倍に積みあがった、はずだった。
ところが実態は違う。増やしたはずの病床が使えない。
東京都で自宅療養者と入院・療養等調整中の待機者が合わせて3万9592人のピークに達した8月21日、入院できた患者は3964人にすぎなかった。都の確保病床は6400床に増えたのに6割しか使われていない。残りの4割弱のなかには補助金ほしさに登録しただけの「見せかけ」病床が相当数、含まれている。個々の病院にはマンパワーや一般診療との兼ね合いで、コロナ病床を増やしたくても増やせない事情はあるだろう。それなら補助金の申請をしなければいい。原資は税金である。在宅の発症者は空床のどこかに入れるのではないかと一日千秋の思いで待っている。自宅放置状態の患者が現実に亡くなっているのだ。
見せかけ病床は医療倫理の根幹を揺さぶる。名前だけのコロナ病床が横行すれば、新権威患者を診ている病院はやりきれないだろう。正直者が馬鹿をみる制度は行政への信用を貶める。感染拡大時には、ほんとうに患者を受け入れた病院と医療従事者にお金を回さなくてはならない。と、するならば、どんな手立てがあるか。
やはり、現場の医療従事者が望む「臨時コロナ病院」の立ち上げだ。そこに医師や看護師を集めて人件費を支給し、受け入れた患者の治療や態勢に応じて資金や報酬を渡す。
そのほうが透明性を担保できるのではないだろうか。
厚労省の「今後の考え方」には「臨時の医療施設や宿泊療養施設の開設など」も記されている。これをどう展開するかが、安倍−菅内閣につづく政権の課題になる。(中略)
コロナ対策の盲点はいたるところにある。感染症とのたたかいは、情報に始まり、情報に動かされ、情報によって終息に向かう。敗北からの反転攻勢の鍵は情報が握っている。政府はワクチンが行きわたるのを見越して「(一定の感染を許容する)ウィズコロナ」の制限緩和に踏み出す。しかし変異株の感染力は凄まじく、集団免疫の獲得は容易ではない。ふたたびこの秋から冬にかけて、感染拡大が起きると予想する医学者もいる。
いずれにしても、政府と、その周辺の専門家が仕切るコロナ政策は、今後「歴史の審判」を受けることになるだろう。権力中枢の「内輪の事情」や「駆け引き」で下された判断が的確だったかどうかは、最前線でたたかった人たちの「現場・現物・現実」のリアリティで洗い直さなくてはならない。ささやかながら、この連載が、その一助になれば幸いである。
コメント:この連載で、日本の感染症医療の実態が、かなり見えてきたように感じました。厚労行政と、厚労省の医官の意識の大改革が必要だと思います。
関連記事:首相、幽霊病床の可視化進める。
https://www.asahi.com/articles/ASPBH3GM1PBHULFA004.html?iref=comtop_Politics_04
立憲はまっとうなという言葉を使うのを辞めるべきです。古臭い上に、共感を得られない。まっとうとは真っ当と書くのだろうが、我々が一般的に使う言葉ではない。我々はそういう時には、まともなという言葉を使います。あまり使われない言葉をキャッチフレーズにしても、国民の心には届かない。モットーは分かり易くという大原則を平然と無視しているようでは、勝てるものも勝てません。自己満足とまでは言わないが、独善でしょう。あまりに我が道を行くから、国民が枝野についていけず、人気も低迷しているのです。
2024.平等と公平。 21/10/15
これまでも、各種の論文や著作(の要旨)をご紹介してきましたが、その動機を改めて考えてみました。思い当たるのは、自分が勉強し、(読者と共に)成長したいという、ささやかな願望があることです。人生(の残り)が短いのに、未だ知らないことは多く、知りたいことは沢山ある。古来、朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なりとも言われます。世間や自然界の真理や道理を理解できれば、満足して死ねるという意味と理解していますが、全知全能の神ならぬ身で、全てを知り尽くすことは到底不可能です。それでも知りたい、学びたいという欲求は終わらない。死は避けられないが、無知のままで死ぬのは(動物と異なり、思考能力のある人間としては)残念です。そこで、遅ればせながらネット塾を立ち上げました。塾名は短く「新塾(新宿のパクリ)」にしようかと思いましたが、それでは何のことか分からないので、素直に「トレンド塾」としました。
今回の後書き(教材)は、雑誌世界11月号の特集の反平等から「平等と公平はどう違うのか」です。副題は「新自由主義から福祉国家へ」、著者は岡山大学の新村聡です。今回は少々長くなりますが(これでもかなり省略)、重要なテーマだと思われるので、最後までお付き合い頂ければ幸いです。
(以下引用)
新型コロナ禍は、世界中で経済格差を拡大している。日本では、非正規雇用、ひとり親、零細自営業者など弱い立場の人々にとくに打撃が大きく、近年の新自由主義的政策のもとで拡大してきた経済格差がいっそう拡大している。
人々の中に生活困難への公的支援や格差是正を求める声が強まる一方で、問題解決を妨げている大きな要因が三つあると思われる。第一は新自由主義的な自己責任論、第二は格差を是正する福祉国家の政策への不十分な理解、第三は平等と公平の概念理解をめぐる混乱である。本稿は、格差問題の解決を妨げているこれら三要因について考察し、めざすべき方向について提案したい。
最初に三要因の要点を述べておこう。
第一の要因である新自由主義的な自己責任論や自助論は大きな影響力をもち、格差是正を妨げている。菅義偉首相が「自助」を強調したことに象徴されるように、国民の中でも生活困難の解決を政府に頼らず自分自身の責任と努力で解決すべきだと考えている人は少なくない。とりわけ深刻な問題は、最も困難な状態にあって社会の支援を必要としている人々が、しばしば貧困は自身の努力不足が原因であり、問題解決にはいっそうの自己努力が必要と考えがちなことである。問題の核心は、自己責任と公的責任、あるいは自助と公助の優先順序である。新自由主義のもとでは、自己責任(自助)が基本であり、公的責任(公助)は補足的とされている。他方、福祉国家では、「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)を実現する公的責任(公助)が基本であり、自己責任(自助)は絶対的要件ではない。
経済格差の問題解決を妨げている第二の要因は、福祉国家の政策への不十分な理解である。わが国には「福祉国家」を政策に掲げる政党が少なく、めざすべき社会のグランドデザインについて包括的な議論が進んでいない。
この点に関連してとくに検討すべき重要な問題は、賃金と社会保障の関係である。わが国では賃金と社会保障が別々に議論されることが多く、賃金については、正規と非正規の格差・ジェンダー格差・最低賃金などが、また社会保障については、医療・介護・年金・子育て支援・生活保護などが別々に議論されている。もちろん個別的制度の検討は欠かせないが、重要なことは「健康で文化的な最低限度の生活」を実現するために必要な賃金と社会保障の制度の包括的なグランドデザインの検討である。
本稿の結論を単純化して述べると、最低限度の生活に必要な障害生活費(教育費・住居費・老後生活費を含む)は約2億円であり、精査品の障害賃金役に億円ではカバーできるが非正社員の生涯賃金約一億円ではカバーできないので、後者の不足分を社会保障でカバーしなければならないというものである。
格差の是正を妨げている第三の要因は、「平等」と「公平」の概念理解をめぐる混乱である。
経済格差をめぐる議論では、所得や資産の絶対額の不平等に目が向けられやすい。しかし人々が不公正として怒るのは不平等よりもむしろ不公平である。平等と公平の違いを正確に理解することは難しく、そのために議論に混乱が生じがちである。先に述べた自助と公助の優先順序や、賃金と社会保障の関係を混乱なく議論するためにも、平等とは何か、平等と公平はどう違うのかを正確に理解することが必要である。
本槁では、まず平等とは何かについて、しばしば混同されがちな平等と公平の違いに注目しながら考える。その上で、賃金や社会保障などの分配制度における公平の二大原則である「貢献原則」(貢献に比例する所得)と「必要原則」(必要に比例する所得)について説明する。さいごに、日本の経済格差でもっとも深刻な問題ともいえる正規雇用と非正規雇用の賃金格差の現状を賃金カーブを比較しながら検討し、わが国に福祉国家を実現するための制度改革について提案したい。
平等とは何か、平等と公平の違いは何か。
平等は、一見したところ単純に見えて、じつは非常に複雑な概念である。以下では、平等とは何かを説明したあと、しばしば混同されがちな平等と公平はどう違うのかについて考える。
平等とは何であろうか。人間はさまざまな属性を持っている。―人の人間が平等(均等)とみなされるのは、他の属性が異なっていても、特定の属性が等しい場合である。たとえば二人の異なる人間の所得・資産・健康が等しい場合に二人の所得・資産・健康は平等または均等であると言われ、等しくない場合には不平等または格差があると言われる。つまり平等または不平等は、人間の多様な属性のうち特定の属性に注目して比較する場合に初めて言えることである。したがって平等を論ずる場合の重要な問いは、「何の平等か」つまり人間の多様な属性のうちどの属性に注目して比較するのかという問題である。
次に平等と公平はどう違うのかを考えよう。だれでも平等と公平が違うことは知っているが、どのように違うのかを説明することは必ずしも容易ではない。平等と公平が異なることをはっきりと示すのが、「悪平等」批判である。
第一の平等は、賃金総額が等しい場合のように、何かの数量または属性が等しいことであり、記号ではA=Bと表現できる。この種類に属するのは、数、重さ、権利、自由、機会などが等しい場合である。
第二の種類の平等は、時給が等しい場合のように、ある数量と他の数量が比例することまたは比率が等しいことであり、比例的平等と言われる。比例的平等(比率の平等)には、賃金率、利潤率、利子率、税率などの平等が含まれる。以下で説明する「貢献に比例する所得」と「必要に比例する所得」はいずれも比例的平等である。
現代の日本語では二種類の平等をしばしば用語でも区別しており、第一の単純平等は「平等」、第二の比例的平等は「公平」と呼ばれることが多い。
たとえば自由の平等や権利の平等とは言うが、自由の公平とか権利の公平とはあまり言わない。他方で、賃金率や税率の比較では平等よりも公平が用いられることが多い。
資本原則は、資本に比例する所得分配の原則である(利潤率や利子率の均等など)。ピケティは、現代世界における資本収益率は資本規模によって大きな格差があり(大資本ほど収益率が高い)、公平な資本原則が成立していないことを示して、不公平を是正する累進的資本税を提案した。一般に高所得者ほど税率が高い累進税は、高所得者の担税力が大きいことによって説明されることが多い(応能負担原則)。しかしピケティが提案する累進的資本税は、資本と資本所得の比率が現実には著しく不公平であることに基づいている。つまりピケティの累進的資本税は、資本と資本所得の比例という資本原則に反する税制ではなく、むしろ大資本の不当に高い資本所得に対して累進的に課税することを通じて資本と資本所得の比例という公平な資本原則に近づける税制なのである。
現実の分配制度は貢献原則と必要原則が混合している。たとえば賃金は一般に基本給と各種手当の両者を含んでおり、それぞれの分配原則が異なっている。基本給は労働という貢献に比例する所得であり、貢献原則が妥当する。
他方で、通勤手当は通勤費の必要に応じた給付であり、扶養家族手当は家族の生活費の必要に応じた給付であって、いずれも必要原則が妥当している。最近の賃金制度改革をめぐる議論で二大焦点となっている同一労働同一賃金と最低賃金は、それぞれが依拠する分配原則が異なっている。
老齢年金では年金保険料の拠出と老後生活費の必要の両者が年金給付の条件であり、年金保険料を拠出していない場合、また老後生活費を必要とする高齢になっていない場合には、年金は給付されない。
社会保障の主要な財源は社会保険料と税である。医療・介護・年金など保険料を財源とする制度では保険料拠出が給付の条件であるのに対して、税だけを財源とする生活保護・社会福祉・社会手当などでは、保険料拠出は給付の条件ではなく、必要だけが給付の条件である。社会保障以外にも、税を財源とする警察・消防・公衆衛生などの公共サービスは必要原則にもとづいて給付されている。
ここで、以上説明してきた貢献原則と必要原則という二大原則に基づく分配制度によって、人類はなぜ相互扶助(所得再分配)を行なっているのかについて考えよう。
貢献原則に基づく所得のうち、労働所得は各人の労働能力に比例し、資本所得は各人の資本所有(財産)に比例する。労働能力と資本所有は個人差が非常に大きいのに対して、各人の生存に必要な生活費の格差はそれほど大きくはない。それゆえ一般に低所得者(無所得者を含む)は所得が必要生活費よりも少なく、健康で文化的な最低限度の生活を維持するためには社会的に扶助される必要がある。これが相互扶助における必要原則つまり必要に応じた給付の根拠である。他方で高所得者は所得が必要生活費よりも多く、余剰所得で他人を扶助する能力をもっている。これが応能負担原則つまり能力に応じた負担の根拠となっている。
分配の公平に関する二大原則である貢献原則と必要原則の優先順序は、新自由主義と福祉国家の最大の違いの一つである。新自由主義のもとでは貢献原則が必要原則よりも優先され、貢献に比例する所得分配が基本であって、基本的必要の充足が不十分でも自己責任の問題として放置されがちである。他方、福祉国家では必要原則が貢献原則よりも優先され、基本的必要の十分な充足の上で貢献に応じて所得が分配される。
この優先順序は、自助と公助、あるいは自己責任と公的責任(公的支援)の優先順序として言いかえることもできる。
自助の基礎には貢献原則が、公助の基礎には必要原則がある。
新自由主義は自助を公助よりも優先し、福祉国家は公助に支えられた自助を基本としている。
新自由主義のもとでは自己責任が基本であり、公的支援は自己責任への補足にすぎない。他方、福祉国家では、自己責任の有無にかかわらず、健康で文化的な最低限度の生活に欠かせない基本的必要充足への公的支援が大前提となっている。
かつて英国首相ブレアによって福祉国家と新自由主義の総合をめざす「第三の道」が提唱されたことがある。この第三の道を政治哲学的に基礎づけようとしたのが、ドウォーキンの「運の平等論」である。この見解によれば、自己責任が基本であり、自己責任を問えないような偶然の不運に対してのみ公的支援を行なうべきである。これに対してアンダーソンは、無謀運転のドライバーが事故を起こした場合に、自己責任だからといって公的医療サービスを給付しないのかと批判した(苛酷性批判)。この事例には、自己責任を基本とする新自由主義や第三の道と、自己責任の有無にかかわらず基本的必要充足への公的支援を優先する福祉国家の考え方の違いが端的に示されている。
くりかえしていえば、問題は格差の有無ではなく、公助と自助、すなわち必要原則と貢献原則の優先順序である。
基本的必要充足への公的支援が最優先されるべきであり、すべての人の基本的必要が十分に充足されて健康で文化的な最低限度の生活が実現していれば、それを超える水準について、貢献に比例する所得の格差があっても批判する人はほとんどいないであろう。
わが国の経済格差の中でもっとも深刻な問題は、正規雇用と非正規雇用の賃金格差である。正規雇用と非正規雇用の待遇格差が大きな社会問題となる中で、安倍政権は同一労働同一賃金の実現を政策に掲げ、労働法を改正してガイドラインを定め、同一労働同一賃金が実施された。最高裁判所のいくつかの判決も出て、通勤手当や扶養手当などの諸手当や病気休暇などの均等待遇が進みつつある。しかし今回の労働法改正と最高裁判決では、基本給や賞与や退職金の格差はとくに不合理でない限り均等化の対象になっていない。わが国の現状では、正規雇用と非正規雇用の賃金格差の大部分が基本給、賞与、働法改正では賃金格差はほとんど是正されずに残っている。
今後、正規雇用と非正規雇用の格差を是正するには、転換を希望する非正規雇用労働者の正規雇用化を推進するとともに、正規雇用と非正規雇用の共存状態が継続しても、非正規雇用労働者が基本的必要を十分に充足して健康で文化的な最低限度の生活を維持できるような社会保障制度を実現することが課題である。
この生涯所得の格差は、生涯支出にどのように反映されるであろうか。生涯支出または生涯必要生活費を考えるときには、通常の日常生活費と人生の三大支出との区別が重要である。人生の三大支出とは、教育費・住宅費・老後生活費である。人生の三大支出が何かを知っている国民は47%である。
では、どうしたらわが国の深刻化する格差問題を解決できるであろうか。まず、男女すべての労働者が、旧来の男性正社員の年功賃金型カーブの生涯賃金を得ることが望ましいかどうかを考えよう。これが現在の日本経済で実現可能かどうかは疑問であるが、かりに実現できたとしても、もっとも望ましい選択肢であるかどうかは検討する余地がある。従来の男性正社員一人分の生涯賃金で一世帯の人生三大支出をまかなっていたときには、子ども二人の教育費と家一軒の住宅費を支出できた。もし正社員カップルが従来の男性正社員の生涯賃金の二人分を稼ぐとしたら、世帯所得で子ども四人分の教育費と家二軒分の住宅費を得ることができるであろう。しかしそうした生活よりも、世帯所得が多少減っても労働時間の大幅短縮をのぞむ正社員カップルが多いのではないであろうか。オランダやドイツなどで普及している短時間勤務の正社員(正社員パート)という雇用形態をわが国の正社員カップルの働き方の一つの選択肢としてもっと検討してもよいと思われる。
スウェーデンやノルウェーのカーブは、日本の非正規雇用労働者の賃金カーブに近いが、賃金カーブがフラットでも、日本における人生の三大支出にあたる教育費・住居費・老後生活費が社会保障によって維持されているので、基本的必要を十分に充足できるのである。これが福祉国家型の生活保障である。
日本人の今後の働き方について、すべての労働者が旧来の男性稼ぎ主モデルに復帰することは考えられないし、男女の全労働者が長時間労働に従事して従来の男性正社員型賃金を得ることもベストの働き方とは考えない人々が増えていくであろう。
今後の日本では、かなり長期にわたり複数の雇用形態と働き方が併存する状態が続くのではないかと思われる。男性稼ぎ主型カップルが残るほかに、正社員カップル、非正社員カップル、単身世帯が増えていくであろう。もっとも重要なことは、どのような雇用形態の労働者がどのような世帯を構成するにしても、だれもが基本的必要を充足して健康で文化的な最低限度の生活を実現できるような社会を形成することである。
そのためには、最低賃金の大幅な引き上げによって、低賃金の労働者が日常生活費を十分に賄えるようにするとともに、人生の三人支出を公的に支援する社会保障制度の拡充が必要である。教育については、幼児教育から大学院および社会人にいたるまであらゆる教育への公的支援の大幅拡充が必要である。また児童手当・児童扶養手当の大幅増額と、大学授業料無償化および給付型奨学金の増額も喫緊の課題である。そのほかに公営住宅の増設や低所得者への公的住宅手当(家賃補助)の導入や、税を財源とする無拠出最低保障年金の創設が急がれるべきであろう。
最後に本稿の要点を確認しておこう。
経済的不平等(経済格差)をめぐる議論では、所得や資産の絶対額の不平等に目が向けられやすい。しかしそれだけでは、新自由主義のあとにどのような社会をめざすべきかが見えてこない。
平等を考えるときには、公平つまり比例的平等が重要である。公平な分配に関しては、貢献原則と必要原則の優先順序が大切であり、福祉国家では必要原則が優先されて、公的責任で人々のさまざまな基本的必要が充足される。それを通じてすべての人に健康で文化的な最低限度の生活を実現することが、福祉国家のめざす生存権の平等である。
コメント:人間が生きてゆくうえで最低必要なもの、即ち、住居、教育、医療、子供と老人の生活(就労できないから)については、義務教育と同じように、公的負担とすることが望ましいと思います。特に住居は、何も所有する必要はなく(現在の空き家状況を見よ)、賃貸(但し十分に低い家賃で)で良いはずなのです。趣味趣向の分はプラスアルファで、個人の努力と能力で追加入手すればいいのです。国が保証する生存権の中には、気候変動や災害、国の安全保障も含まれるでしょう。それらは個人では不可能でも、集まれば(地方自治体や国単位)可能になるものです。いま私たちは、既存の新自由資本主義が、概念として古くなり、使い勝手が悪く、機能不全を起こしていることを率直に認め、新たな社会システムを構築しなければならないという現実に、正面から向き合うべきではないでしょうか。現代日本の社会の閉塞感(貧富の差と精神的な荒廃)を見るにつけ、見直しと再構築が避けて通れないところまで来ているように思われるのです。賢明なる読者諸兄諸姉は、どうお考えになるでしょうか。
2025.自民総裁選の総括。 21/10/18
今回のトレンド塾は、もはや旧聞に属する、自民党総裁選の総括です。教材は文芸春秋11月号の記事です。
「安倍・菅、院政バトルで決裂」赤坂太郎から
祭りが終わった。行革担当相の河野太郎、前党政調会長の岸田文雄、前総務相の高市早苗、党幹事長代行の野田聖子の四候補が争った自民党総裁選は、岸田と河野の決選投票を経て、岸田が第27代総裁に選出された。興行は絶大な効果を発揮し、菅義偉政権で低迷していた党支持率は回復した。11月に衆院選を控えていることを考えれば、最高の仕上がりだろう。
ただ、祭りの本当の主役は四候補ではなかった。ただ、祭りの本当の主役は四候補ではなかった。四候補を操る重鎮たちが熾烈な権力闘争を繰り広げ、岸田政権発足後もますますその不協和音は激しさを増しているのだ。
時計の針を一年前に戻そう。首相の安倍晉三が辞任を表明した際、抜群の反射神経を見せたのは幹事長の二階俊博だった。総裁への野心を秘めてきた官房長官の菅を担ぎ出し、瞬く間に流れを作った。安倍が影響力を持つ最大派閥の細田派と、副総理兼財務相の麻生太郎が率いる第二派閥の麻生派も、二階が作った流れに追従せざるを得なかった。功名を立てた二階はまんまと幹事長続投を果たし、党の金庫を預かった。
安倍はこの一年、失地回復に腐心してきた。菅続投なら、狙いはナンバー2の幹事長ポストである。菅内閣の支持率が低落する中、安倍は盟友の麻生と党税調会長の甘利明の「3A」で半導体戦略推進議連などを次々立ち上げ、菅・二階包囲網を敷いた。対する二階も黙ってはいない。2019年参院選広島選挙区の大規模買収事件に関連し、自民党本部から元参院議員の河井案里側に提供された一億五千万円を巡り、二階側が当時首相だった安倍の関与をほのめかしたこともあった。安倍は「桜を見る会」前夜祭という急所も抱えていた。安倍が「菅再選支持」とのメッセージを繰り返し発していたのは、再捜査を警戒して菅に気を遣っていたからにすぎない。
そして今回、安倍と麻生が蛇蝎のごとく嫌う元地方創生担当相の石破茂を、菅がバックアップする河野陣営があえて取り込んだことを見ても、この対立構図は明らかである。
8月31日に毎日新聞がウェブで「菅総理が総裁選前の九月中旬に解散する意向」と打ったことを勝負の時とみた安倍は、麻生と示し合わせて一気に攻勢に出る。「総裁選をやらずに解散などしたら、自民党が終わってしまう」。安倍はまず電話で菅にそう強調し、圧力をかけた。次に安倍は、官房副長官時代から菅との関係が良好な文科相の萩生田光一が幹事長などの要職に起用される可能性が高いとみて萩生田に電話し、「将来がある身なのだから、話が来ても受けるな」と予防線を張った。安倍は首相の大権であるはずの解散権ばかりでなく、その人事権までも封じたのだ。
「秋田出身のたたき上げ」の最後は脆かった。政権の刷新をアピールするために二階の交代まで決断した。だが「幹事長辞任後、副総裁ポストを要求した二階に対して、菅さんが提案したのは国土強靭化担当の最高顧問。これで二階さんが『恩知らず』と、菅政権を見切ることになった」(二階周辺)。
菅は「やはり最後は派閥を持っていなかったことが致命的だった」と周囲に漏らす。無派閥の菅の周囲に、側近と呼べる議員は、いるにはいる。ただ、各人が菅と個人的に繋がっているにすぎず、政権が危機に瀕した際、組織的に守ろうとする行動は起きなかった。菅の最側近ともいえる官房副長官の坂井学のちぐはぐな対応がその象徴だ。派閥に所属してこなかったため、坂井は自らの役割を全く分かっていない。副長官の役割として最も重要な首相と党をつなぐパイプ役として機能せず、常軌を逸した言動で、菅を守るどころか与党側の首相官邸への批判を強めてしまった。
安倍が次に打った手が「高市支持」である。自民党幹部によると、「高市支援を最初に安倍と清和会会長の細田博之に要請したのは、元首相の森喜朗だった」という。党員・党友票を河野に独占させないためには高市への適度な肩入れが必要と、当初、安倍は半身で腰を上げた。ところが安倍の岩盤支持層だった保守強硬派からの受けが予想以上に良かったため、「安倍路線の明確な継承者」として高市支援にのめり込んでいった。だが、高市はそもそも国会議員の間では人望がない。それは安倍も認め、「高市さんには友達がいないからね」と周囲に漏らしている。加えて資金力もない。いったんは草鞋を脱いだ清和会を脱会した理由は、「幹部になって派閥の資金集めに貢献しなければならない立場になるのを嫌がって逃げた」(清和会ベテラン議員)と評判が悪い。高市さんを酒食付きの勉強会の講師に呼んだことがある。そうした場合、呼ばれた人はいくばくかのカネを置いて行くのが永田町のマナー。ところが彼女は自分の分のカネも払わずに帰ってしまった」と今でもぼやく清和会中堅議員さえいる。
一方、安倍は将来を気にかけてきた当選同期の岸田が森友学園問題を蒸し返すような発言をしたことに、「(岸田を支える)宏池会の体制がよくない」と不満を漏らした。
安倍は高市支援のアクセルをさらに踏んだ。「応援する以上、ある程度まとまった票を獲らせて自分の力を見せつけないと」とシャカリキになって清和会の中堅・若手を中心に電話をかけまくり、高市の出馬表明前日の九月七日頃には「議員票はすでに百票は固めた」と側近たちに豪語していた。
安倍は自らの内閣で河野を外相や防衛相に起用したが、それは菅の強い推薦を受け入れてのことだった。河野の働きぶりについては「パフォーマンスばかりで、もっと勉強しないとだめだ」と厳しい評価だった。女系天皇や夫婦別姓容認、反原発などのリベラル色も安倍の心証を損ねた。だが、もし河野総裁という事態になれば、後見人として君臨するのは間違いなく菅であり、安倍は一気に政権中枢への影響力を失う。
そこで参院自民党幹事長の世耕弘成は高市の出馬表明の数日後、仲間を代表して安倍に「高市では議員票に限界があり、河野に勝つことはできない。河野総裁阻止のためには、岸田支援が必要です」と諌言した。これを受けて安倍は世耕ら参院勢が岸田を応援することを認めるとともに、「河野対岸田」の決選投票になったら、高市票を岸田に乗せることを約束した。岸田優位の流れは、ここで決まった。
自ら招いた辞任政局で劣勢に立たされたとはいえ、菅も黙っては終わらない。九月下旬の訪米前には、あたかも。河野政権の後見人であるかのように安倍と麻生に電話をかけ、「河野をくれぐれもよろしく」と伝えた。しかも菅は安倍に「河野政権では萩生田を幹事長にするのがよいと考えています」とも話した。安倍と麻生はこれに呆れ、「河野が勝てる保証もないのに、すでに河野政権で院政を敷くつもりだ」と側近に漏らしている。
菅の安倍への怨念はよほどのものなのだろう。安倍に近い国家観を持つ城内実に、あえて「(菅政権を)
裏で邪魔した人がいる」と恨み言を漏らしている。もちろん安倍に伝わることを見越しての上である。
安倍にも、思わぬ陥穽があった。高市応援のアクセルを踏みすぎた結果、高市の勢いが思いのほか強くなり、一回目投票で二位に食い込んでくる可能性が出始めたのだ。自ら蒔いた種とはいえ、慌てた安倍は九月の三連休の末に麻生と「これ以上、高市を推すのはまずい」との認識で一致。萩生田にもその危険性を指摘され、安倍は「高市さんをどこまで推すか、考え直さないといけないね」と反省。以降、安倍のツイッターでの高市応援は鳴りを潜めた。
菅は「無派閥」であったことが自らの敗因と見ている。だが、岸田派を除く全派閥が事実上の自主投票となったことを見てもわかるように、今回の総裁選ではからずも露呈したのは、「派閥の根腐れ」である。小選挙区比例代表並立制が導入されて四半世紀が過ぎ、かつて自民党の代名詞であった強い派閥は完全に崩壊した。
一つの選挙区に複数の自民党候補が立候補する中選挙区制の時代は、党の公認よりも派閥の支援が得られるかの方が重要だった。派閥の領袖に逆らえば、選挙の際に重要な業界団体の支援を引きはがされ、落選の危機に直面するのは必定だった。
小選挙区制は英国の二大政党制を意識している。各選挙区には勝者は一人。このため、党首の持つ公認権が極めて重要になり、その権限が大幅に強まった。派閥領袖は人事の窓口程度にしか扱われず、首相が派閥の意向を無視して一本釣りすることも珍しくなくなった。
安倍は2012年に自民党総裁に返り咲いて以降、国政選挙で六連勝した。旧民主党政権の失敗に助けられた側面も強いとはいえ、選挙の強さはリーダーとしての強さに重なる。選挙基盤が固まらない若手議員ほど強いリーダーを求めるという構造が長期政権を支えた。
自民党は66年前、憲法改正を党是として出発した。改憲論議が国民の中で熟していないとみるとそれを棚上げし、経済成長を重視する柔軟な姿勢を示した。時に野党の主張も取り込み、懐の深さを感じさせた。それが国民には「自然な与党」と映り、安心感を保ち、結果として一時期を除き長く政権の維持に繋がった。派閥が優先された昔の体質が良かったというわけではないが、派閥ごとに意思統一を図り、党内を取りまとめるという仕組みに代わるものは依然として見えていない。
七年八ヵ月に及んだ安倍政権の政権運営は傲慢さを増し、最後のコロナ対応で国民の信頼を失ったことを考えれば、過去の検証は再出発のために必須だった。ところが、菅は安倍政権の継承を掲げて一年で頓挫し、新総裁の岸田もまた安倍への“借り”があるため、負の遺産に向き合うことは期待できない。
菅という不人気な表紙を取り換え、跡目争いでそれなりに国民の関心を引いた自民党は、来月の衆院選での大敗を免れる可能性が高い。ただ、総括もされない陰の主役が隠然たる力を保っている状況は政権党としての限界を映し出している。
コメント:高市は未だにはしゃいでおり、岸田の政策さえ自分勝手に修正していますが(何様か)、その暴走は、当然安倍が背後でやらせているので、衆院選では、何としても自民党に勝たせるわけにはいきません。一方で派閥政治が良いとは言い切れないと思います。分かりにくい比例代表制並立より、少なくも二人が当選できる、中選挙区制を復活するべきです。東京の地区割も見れば、ここまで細分化する必要が本当にあるのだろうかと思います。東京都で一つに括ってもいいくらいですし、その方が集計も容易でしょう。いずれにせよ、著者も暗に書いているように、保守強硬派を代表し、私権の為なら手段を選ばない安倍ナニガシに、早く日本の政界から御引き取り願うことこそが、国民の願いでもあり、日本にまともな民主主義を取り戻す最善の道だと思います。
2026.厚労省も総括が必要。 21/10/19
イベルメクチンや検査キットの使用で、急に厚労省が厳しいことを言い出した。国民がどんな思いで、マスクや消毒薬や、検査キットを求めて走り回っていたと思っているのだろう。
医師会が使用を薦めるイベルメクチンも、単価が安くて製薬会社にうまみがないので、まともな治験さえ行わず、おざなりな治験で効果はないと断じた。中等症でさえ、入院が思うようにならないから、万が一のために、たかが駆虫薬をやっとの思いで、入手している国民もいるのだ。
ちなみに厚労省のお役人に興味はないだろうが、ワクチン副反応用の、鎮痛解熱薬のタイレノールも薬局にはない。なぜ製薬会社が増産しないのか。イベルメクチン同様、利幅が薄いからか。
そもそも国産ワクチンや経口治療薬の開発はどうなっているのか。もっと気になるのは、必ず来る第6波を前にして、病床の確保だ。
今回のコロナ禍で、一体厚労省は国民の為に何をしてくれたのか。全てを保健所に集約し、しかも人手の手当をしなかったので、保健所は業務がマヒして、入院待機中のまま、多くの在宅死者を出した事を忘れたのだろうか。その混乱と悲劇は、誰の責任だと(厚労省は)言うつもりなのか。厚労省の医官や幹部は、国民より、病院の経営者や製薬会社の方を向いて仕事をしていないと言い切れるのか。検査の抑制に、その姿勢が端的に表れてはいなかっただろうか。
第5波でコロナ禍の被害が拡大したのは、感染症担当部門が、国民の健康や命より、誰か、または何らかの組織の権益を優先したからではないのかという疑いが捨て切れない。そこに、自己顕示欲の強い菅・小池が、五輪フィーバーの油を注いだ結果、第5波の炎が燃え盛る事になったのではないか。
原因は自然現象のウイルスではあっても、それに対処出来るのは人間しかいない。であるならば、第6波で同じ過ちを繰り返さないためには、今のうちに、厚労省がしたこと、しなかったことを洗い出し、不適切な人材(含む政界)を交代させる必要がある。
まして厚労省を何とかコントロールしていた河野と田村が去ったので、総裁選や衆院選のどさくさに紛れて、コネクティング大坪らが復権し、暗躍することで、医療政策を私物化することなど、決してあってはならない。岸田政権における、今井元補佐官のカムバックが、不吉な予感を抱かせる。
2027.自民への投票は、安倍の国民バカ説への裏書。 21/10/20
私は、毎週、週刊誌を書店で購入しており、週間朝日、サンデー毎日が定番ですが、興味のある記事があれば、週刊文春と週刊新潮も追加購入しています。大雑把に言って朝日、毎日がリベラルで、文春、新潮が(歯に衣着せぬ)ゴシップ誌です。どの週刊誌も、隅から隅まで読む時間はなく、週刊朝日も、古賀茂明のコラムを読む為だけに購入しているようなものです。古賀のコラムは、いつも我が意を得たりと胸がすく思いがしています。これに対して田原総一朗のギロン堂は、最近はとみに時間を割いて読むほどの価値がないのは残念です。今回は10.29号の週間朝日から、古賀のコラムの一部を(トレンド塾の一環として)、ご紹介します。今回は短いのと、選挙関連なので、前書きで紹介しています。
【トレンド塾】211020
政官財の罪と罰、古賀茂明、「安倍晋三が驚く国民の選択」から
衆議院が解散され、31日に総選挙の投票日を迎える。2012年の第2次安倍晋三政権誕生から8年9ヵ月の間、3回の参議院選挙と2回の衆議院総選挙があった。この間、消費税引き上げ、集団的自衛権行使容認の安保法制などの不人気政策があり、森友学園、加計学園、桜を見る会などの問題に代表される安倍氏による国政の私物化、さらには、小渕優子氏や甘利明氏など閣僚の不祥事も相次いだ。自民党は毎回逆風下で選挙を戦ったが、それでも選挙に勝ち続けた。安倍氏に言わせれば、「文句があるなら国民に言え」ということになる。
このコラムにも何回か書いたが、安倍氏には独特の哲学があると私は見ている。一言で言えば「国民は馬鹿である」という哲学だ。「ものすごく怒っていても時間が経てば忘れる」「他にテーマを与えれば気がそれる」「嘘でも繰り返し断定口調で叫べば信じてしまう」。選挙で連勝してきた安倍氏がこう考えたのはある意味正しかった。
さらに、この哲学は、とんでもない政治倫理の堕落をもたらした。安倍政権では、どうせ国民は馬鹿ですぐに忘れてしまうのであれば、怖いのは司法当局だけということになる。倫理規範は「捕まらなければよい」となり、事が起きると、何も説明せず、「検察に捕まらなかった」から問題ないと胸を張るようになった。
これはさらにエスカレートし、「逮捕させなければよい」というレベルまで堕落した。法律に反して、安倍氏の守護神、黒川弘務東京高等検察庁検事長(当時)の定年を延長したのはその象徴だ。
そうなると官僚たちは「李下に冠を正さず」から「違法にならないギリギリのところでうまくやれ」、さらには、「違法なことでも捕まらないようにやれ」と迫られることになる。結果、政府のいたるところで文書隠蔽、廃棄、改ざんが行われた。
森友事件に関連して公文書改ざんを強要され、後に自殺に追い込まれた近畿財務局職員・赤木俊夫さんはその犠牲になったのだ。ご遺族の夫人・雅子さんが一番心配しているのは、国民が森友問題を忘れてしまい、真相が何も明らかにされないまま、「過去のもの」として葬り去られてしまうことだ。
だが、今回はこれまでとは違う。10月6日に雅子さんが岸田文雄総理に出した手紙が反響を呼び、ヤフーニュースによる選挙の最大の関心事のアンケートで、森友再調査が何と断トツの1位。驚くべきことだ。選挙中も関心を集め続けるだろう。これは、安倍政治への嫌悪感がまだ国民の頭の中に深く刻まれている証しである。今、岸田内閣が安倍政治を変えられないというイメージは急速に広まり、内閣の支持率は低迷している。雅子さんの手紙はそこにさらなる痛烈なダメージを与えた。
野党側が万全な共闘体制を作れたら自民大敗という可能性も十分出てきた。雅子さんの手紙は、国民の記憶を呼び覚ましたのだ。「安倍さん、国民はそんなに馬鹿ではありません」という結果を選挙で示すことができるかどうか。私たち国民一人ひとりの真価が問われている。
2028.高齢者=富裕層ではない。 21/10/22
若手の尖ったコメンテーターに言いたい。
高齢者をいくら攻撃しても格差の問題解決にはならない。 高
齢者の大多数が、年金生活者でその日暮らしなのだ。
実態も知らずに、短絡的発想で判断するのは止めるべきだ。
高齢でない高額所得者は何故攻撃の対象にしないのか。
格差の問題は、あくまで実収入の差で判断するべきではないのか。
それとも高齢者は社会のお荷物だという独善的な先入観が、
過激な言動の背景にあるのだろうか。
高齢者の多くが、孫に渡す小遣いもままならない、贅沢とはほど遠い、つましい暮らし方をしているのである。
クルーズなどの贅沢を満喫しているのは、ほんの一握りの高額所得者に限られる。
加えて普通の高齢者は、満足とはほど遠い年金額から、驚くほど高額の介護保険料や、健康保険料を天引きされている。年金受給者というより、やや程度のましな生活保護受給者である。貯金(または退職金)を取り崩さなければ、人並みの生活もできないのが現状だ。
その僅かな年金自体、若者の保険料をかすめ取っている訳ではない。現役時代に営々と積み立てて来た資金(とその運用益)がベースになっているのだ。他人様からめぐんでもらったものでもないし、税金でもない。
若者もいずれ年金生活になるが、その時に年金制度が変わっていたら、たまったものではないだろう。自分は一生懸命払ってきたのに、なぜ年金を受け取れないのかと思うだろう。
何故このような誤解(高齢者の年金は若者だけが負担している)が生じるのかというと、それは政府が社会保険料の不足分の補填をしたくないばかりに、高齢者を不労所得者のような悪者扱いをしているからだ。ところが最近の株高で、年金基金は大幅な黒字なのである。だからと言って年金給付が増額されことはない。増えた分は与党政府と関係省庁が、別の目的のために使ってしまうからだ。
繰り返しになるが、経済的不公平の是正は、あくまで実収入の差から判断されなければならない。
無論高齢で高収入の人は、応分の追加負担を要求されることもあるだろう。
でもそれは若い億万長者、高額所得者にとっても同じでなければならない。少し名の売れたタレントなら50憶、100憶の資産を持つ者はざらにいる。企業経営者も同じような状況だろう。いわゆる上級国民たちだ。財政のワニの口の拡大ではないが、富裕層は超富裕層になり、貧困層は極貧層になり、その差はますます開いている。しかし、そもそも使い切れない資産を持つ必要がどこにあるのか。
かたや生活保護を受けていれば、PCを所有したり、大学に行くことは許されないという判断をする役人もいる。明日の食費にこと欠くシングルマザーがいる。ところが、彼女たちをそういう苦境に追い込んだ元夫や同居人の責任を追及する者はいない。何人も愛人や子供のいる、宇宙旅行を計画しているIT長者も、その不行跡が批判されることはない。社会の倫理観、共通概念が、土台から腐食してきている。そこにメディアで発言する者たちの、高齢者へのバイアスの掛かった浅薄な発言が、日本の精神風土の荒廃に追い打ちをかけている。
正常な神経の高齢者は、自分を律すると同時に、こういう新たな形態の社会悪にも、命を賭して戦わなければならない。それがここまで何とか自分たちを生かしてくれた、社会に対する最善の恩返しではないのか。いい加減、現場を看過するを止めて、失われた常識と良識を取り戻すべき時期に来ているのである。
なお実際問題として、公的年金では生活するのがやっとだし、年金基金が運用をしくじる場合も考えられる。その時は、政府は平然と(運用失敗の責任も明らかにしないままに)当然の事として、給付は減らされる。増やすことは滅多にないが、減らす時には政府は躊躇しない。なので、高齢になって少しでも余裕のある生活をしたいと思えば、公的年金以外に、今から、別途プライベートに積み立てをすることを(現在の若者には)お勧めしたい。
2029.笑い飛ばしもありだろう。 21/10/27
今回の前書きはサンデー毎日(11.7)からコラム3件のご紹介です。但しいつものようにダイジェスト版です。
サンデー時評、高村薫、「学校と霞が関にメスを、真の教育改革、働き方改革へ」から
…長時間労働が若者の官僚離れにつながっているとして、前の菅内閣が職員の勤務実態に合わせた残業代の支払いを各省庁に指示した。要は、霞が関ではサービス残業が当たり前という働き方が横行しているということだが、残業代の適切な支給とは別に、長時間労働そのものの見直しこそ急務ではないか。
官公庁の長時間労働を生んでいるものとしては、国会会期中の答弁資料の作成作業がよく知られている。これについては、国会議員の質問通告の締め切りを早めるなど、国会の側の改革も欠かせないが、一方で官僚のほうも、必要以上の想定問答の作成や各部署間の調整など、過剰な対応で自ら仕事量を増やしている側面もあるのではないか。国会で答弁に立つ大臣の原稿の棒読みと、その後ろで分厚い資料を手に控えている官僚たちの姿は、まさにこの国の政治と行政に蔓延する不毛の縮図である。何一つ自分では語る能力のない大臣の国会答弁と、そのために官僚が費やしている時間と労力こそ、まっさきに削減、もしくは合理化してよいはずである…。
抵抗の拠点から、青木理、「彼我の差」から
…(英国では)歴史的重大事に対処した行政府の過ちに真正面からの検証と批判を加える立法府。小中学生の教科書にも載っている三権分立の、お手本のような原則がそこには一応保たれている。ひるがえって−などと仰々しく書くまでもあるまい。私たちが暮らす国の惨状はどうか。
誰がどう見ても後手後手かつピント外れな対応に終始して医療崩壊状態まで引き起こし、アジア諸国では桁違いの感染者や死者を出した政権の主たちは、自らの失政を反省する様子も悔悟する気配もなく、世界的にはむしろ周回遅れだったワクチン接種を「成果」だと言って胸を張っている。ヒラメ化した与党もそれに疑念を唱えず、政策検証が必要といった声は微塵もなく、そのくせ総選挙用に。勝てる表紙、あるいは、負け幅を小さくできる表紙への張り替えをめぐって、権力闘争にうつつを抜かす有り様。
そういえば、世論の圧倒的な懸念を押し切って開催を強行し、感染爆発を呼び起こした東京五輪の検証はどうなったのか。数兆単位へと大幅に膨れあがった大会費用を含む収支決算などはいつ出され、どのように総括されるのか。それが出るとして、正確な実態を踏まえたものになるのだろうか。いやいや、検証や総括のもととなる文書や記録類すらきちんと作成・保管されているか極めて怪しいのだから、そんなものに期待すること自体が誤りではないかと思い至って茫然とさせられる。
もとより英国政治がすべて素晴らしい、などと言うつもりは毫もない。ブレグジットなどは歴史的な過ちだと私個人は思っている。ただ、それでも民主主義の原則をかろうじて堅持する国は、過ちに気づくのが早く復元力も保たれる。対してその原則すら堅持できない国は、落ちるところまで落ちなければ過ちに気づかない。私たちはいま、その只中にいる。
牧太郎の青い空白い雲「窮屈すぎるぜ!江戸っ子は病も貧乏も笑い飛ばした」から
…最近日本人は不寛容主義。笑い飛ばし許す技を忘れている。都道府県魅力度ランキングで埼玉県が45位になった。腹が立った。まあ、笑い飛ばすしかない。
ところが、である。埼玉県より上位にランクされた44位の群馬県の山本一太知事が「根拠の不明確なランキング」と批判。「法的措置も検討する!」と言い出した。
この調査は09年から毎年実施されているが、ネットで3万5000人ぐらいを対象にしたもの。失礼だが、新聞社の世論調査と同じように「アテ」にならない面もある。
しかし、そう窮屈に考えなくてもいいじゃないか。参考資料の一つ!と笑い飛ばせばいいじゃないか?「法的措置を検討」なんて…バカバカしい。
貧乏でも、病でも、笑いのめして生きて行く。東京下町育ちの母は「笑えないことを笑うのが江戸っ子だよ」と教えてくれた。
江戸落語では「病」を「引き受ける」と表現する。感染しても文句は言わない。
ネット時代で「情報」が共有されるようになった。結構なことだが、それをキッカケに、多くの人が「他人」を批判するようになった。
でも、それで人々は幸せになったのか?
たまには「笑い飛ばして」もいいじゃないか?
2030.選挙後も課題は残る。 21/11/3
衆院選では自民と立憲が15ずつ減らし、維新が30増えた。
この数字が国民の気持ちを端的に表現している。
自民への批判と、立憲への失望がそこにある。
維新には大阪基盤に加えて、吉村という追い風がある。
立憲は大勢を根本から見直さないと 参院選でも敗退する可能性がある。
理屈と言葉だけでは国民はついてこない。
維新とれいわは国民感情に訴えて受け皿になった
自民党が過半数を取った。
しかし自民党が国民の信任を得たというのは言い過ぎだ。
国民には、他に選択肢がなかったからだ。
実際、国民は自民党の顔が変わっても、
中身は変わらないと思っているし、
予想より少なかったとはいえ、
15人の議席減をなかった事には出来ない。
立憲は立憲で、共産党との連携に
連合から横やりが入って、腰が砕け、
その結果、リベラル派、中道保守、
双方の国民の気持ちが離れていった。
その結果、議席を増やすどころか、減らしてしまった。
自民も立憲も、国民の気持ちが、
自分達から離れつつあるという事実に、
真摯に向き合わないと、先がない
金と地位と権力は、
政治家、官僚、経営者、
大企業の社員、労組の幹部にあっても
若者にも、非正規従業員にも、
シングルマザーにも、年金生活者にもない。
この不公平の元凶は、既得権だ。
公平な民主主義の実現の為には、
既得権の見直しが避けて通れない。
自民党の幹事長が茂木に内定した。
しかしアフガンからの救出作戦で、外務省は後ろ向きだった。
しかもその責任を、菅も、茂木も、岡田大使も認めない。
茂木の無表情の奥にあるものが無責任だとしたら、
将来、国や国民が不測の災厄に見舞われる可能性を否定できない