「WTWオピニオン」
【第144巻の内容】

「暴力政府」
「鬼さんあちら」
「なぜコロナで右往左往したのか」
「改憲のきな臭い動き」
「コロナ後の経済」
「コロナ後の政治」
「給付金の在りよう」
「現職の為の選挙」
「消えたコロナの謎」
「趣味のオーディオ」


2041.暴力政府 21/11/19

・政府見解、共産党は暴力革命。
https://www.47news.jp/news/7068925.html
コメント:言うまでもなく公明党が第2自民党。維新が第3自民党、国民民主が第4自民党。そしていま立憲が中道とはいいつつも保守路線に傾くことで、第5自民党になる危険性もある。そうなると、本当のリベラルは共産党と令和だけになってしまう。そこで自民党政府は、絶対に自民党の独裁を認めず、決して懐柔もされない共産党屁への嫌がらせの、悪質なイメージ戦術、政治的デマをやり始めた。自民党得意のレッテル貼りである。一方で、政府がしていることは、憲法の蹂躙、人権無視。国家権力(警察・検察)による、身柄の無期限拘束、メディアの言論の弾圧など、枚挙にいとまがない。しかも庶民と保守政治家・官僚とを差別し、上級国民は告訴しない。それにしては、公安んは、オウムも未然に阻止できず、そもそも北が拉致のやりたい放題だったではないか。


2042.鬼さんあちら 21/11/20

立憲の代表選が始まった。
この4人には、党をまとめるだけの求心力はあるのか。

それともリベラルな国民は、
もう立憲には期待するなと言いたいのか。

とはいえ、政治理念のない、反リベラルの
第三自民党の維新に期待することは
日本の民主主義にとってリスクが大き過ぎる。

維新の会が改憲の音頭を取るなど、あってはならない。
これは、野党の終わりの始まりなのだろうか。

一方で小池知事が復帰するという。
今更都民も国民も小池劇場などに関心はない。


小池都知事が休養を終えて(?)都政に復帰するという。どうせ都政に関心などないのだから、無期限で療養に専念して頂きたい。ついでに都民の大迷惑の根源、自我肥大症と自己顕示欲の治療も、合わせて受けて頂ければと思う。

文芸春秋、2022年の視点という別冊から、元東京都人事課長の澤章(さわあきら)の論説の一部を紹介したい。
…都知事選が全国的な知名度を競う人気投票と化して久しいが、選挙選で声高に訴えられる目玉公約の多くが実現されないままだ。極めつけは小池知事である。初当選の際に約束した7つのゼロのうち、達成とされているのは犬猫殺処分ゼロだけだ。
…鈴木都政末期から悪化した都財政は、2000年前後に危機的な状態に陥っていた。
 石原知事と言えば、ディーゼル車の排ガス規制や新銀行東京の設立など派手な政策が目立つが、その裹では地道な財政再建への努力が続けられた。実際、都職員の給与カットや新規採用の大幅抑制なども断行された。
 そうした取組の結果、都財政は健全性を回復し、猪瀬・舛添・小池の時代には、4〜5兆円の安定した都税収人に支えられて自由に使える予算が毎年用意された。
これを奇貨として無駄遣いに明け暮れたのが小池都政1期目である。その頃、一般会計の予算規模は中期的に6兆円台で推移していた、が、小池知事になると7兆円台の高い水準に乗せた。それもコロナ感染が発生する前のことである。まさに予算面で我が世の春を満喫していたのが小池知事だったのだ。都民ファーストの会を最大会派とする体制翼賛的な都議会が、無批判で予算を通した側面も指摘しておかなければならない。
…さらには、東京アクアテイクスセンターなど、東京都が建設した新規恒久施設は、都政にとって厄介なお荷物になる可能性が高い。今後、各施設の限定的な収入と膨人な維持管理費とのアンバランスに東京都は長期間、苦しめられることになるだろう。
…コロナと五輪が都財政に残した傷は深い。順風満帆だった都財政は一気に谷底に落とされる。数年で回復することなど望むべくもない。
 問題はそれだけではない。小池都政の5年間で都庁の官僚組織が疲弊したのだ。
自分ファーストのトップは、自らの権力基盤を固めるため、極端な情実人事を繰り返した。局長級であっても知事にもの申せば、容赦なく降格させられた。都庁官僚は極度に萎縮し、イエスマンだけが生き残る悪しき風習が蔓延した。
 加えて、束京都は大余りの時代を迎える。短期的にはコロナ対応で人手不足の状態であっても、中長期的には大量採用のツケで余剰人員を抱え込むことになる。すでに新規採用枠の大幅な縮小が始まっている。
 都政はこの先、財政も組織も人員も「氷点下の時代」に突人せざるを得ない。今後、東京都に必要なのはパフォーマンスに明け暮れる都知事ではない。批判を恐れず都民のために地道に汗をかくトップでなければ、都民・事業者の生命・財産を守り抜くことはできない。

コメント:澤は小池批判を続けている数少ない論者である。一言で言って小池都政は人災そのものだ。告げ口屋の代表が支配する都民ファーストがそれを支えてきた。コロナ対策では完全に大阪に遅れを取り、小池が酸素ステーションで良いと言い張ったために、未だに野戦病院は形を成していない。そのために何人の都民が医者に診てもらえずに、無念の内に亡くなったと思っているのだろう。無論それは、ワクチンの開発を中止した医官が支配する、省益優先の厚労省にも大きな責任がある。小池が数少ない公約にした日本版CDCもどう役に立ったのか、それが今でもあるのかどうかさえ、誰にも分からない。

感染拡大を間違いなく後押しした五輪のごり押しなど、思い出したくもない。自分が和装で閉会式に出るために、何人の都民が犠牲になったと思っているのだろう。さすがにそれが分かっているから、メディアも「晴れ姿」を大きく取り上げることはなかった。最近では交通違反の都議との映像がしょっちゅう流れており、それが「入院」の本当の理由ではないのか。国民や都民の迷惑を完全に無視する身勝手さ、しかも政治の風だけには敏感という意味で、安倍晋三の女性版であり、知事版でもある。

小池が今後どう身の振り方を考えようと知ったことではないが、財政再建の義務だけが残る都知事の椅子等に、未練も関心もない事だけは確かだろう。来年の参院選を好機ととらえ、国政復帰を目指すのは間違いない。その時のセリフも既に分かっている。都政では限界があると感じたからというだろう。こちらがお願いして知事になってもらったわけではない(自分が立候補した)のにである。限界が来ているのは都政の方であって、それも小池自身が直接原因を作ってきたものだ。

衆院選が落ち着いた今、小池は都政を放り出して、自民党内の派閥の動きを見定めて、徐々に、得意の暗躍を始めるだろう。入院中に病院にじっとしていたとも思えない。電話を掛けまくっていたのではないか。凋落中の二階や細野と組み、自民党内で新会派を仕組むのか。悪乗りしている維新や国民民主に取り入るのか。それともしつこくファーストの会を立ち上げるのか。自由奔放に生きるのは本人の勝手だが、都民や国民を個人的な野心の道具にして、巻き込むのは、平に御容赦願いたい。

政治や民主主義のことをよく考えもせず、人を疑うことを知らず、選挙を人気投票だと思っている無党派層が有権者の多数を占め続ける限り、この策士は、自分の知名度を最大限に利用しようとし続けるだろう。もはやこの世の者ではなく、異質な価値観を持つ、異世界の住人としか思えない。太陽が出ている時に、彼女の落とす影が、どんな形をしているか確認してみたい気がする。そんな鬼を作り出しているのは、(政治に無関心な)都民自身なのかもしれないのである。


2043.なぜコロナで右往左往したのか 21/11/21

今回の前書きも、文芸春秋2022年の論点からです。

「日本車メーカー、社内放置事故対策の残念な現状」鹿間羊市から
2021年、福岡県内の保育園で、送迎バスに園児が置き去りにされ、熱中症で死亡する事故が起きた。そのような、痛ましい車内放置事故が報道されるたび、俎上に載せられるのが「監督者の責任」だ。
 もちろん、子どもを保護・監督する立場の者に責任が帰せられるのは当然ではある。とはいえ、過失による乳幼児の死を「責任問題」に回収していては、根本的な防止策は生まれないだろう。事故の予防に確たる効果をもたらすのは、責任感という不確実な要素ではなく、技術や制度を通じた対策であるはずだ。
 欧米においてはすでに、「幼児置き去り検知システム」の搭載をメーカーの責務と据える趨勢が強まっている。
国内の導入例は一部メーカーの最新車種に限られ、業界を通じての積極性は薄いと言える。
行政による制度面からのアプローチも現状では検討外にある。(以下略)
コメント:動体センサーと車内温度センサー(高温でも低温でも危険)、CO2センサーなどを組み合わせれば可能なはずです。

「国公立大学合格者をゼロから15人にした小論文指導」柴山翔太(福岡女子商業高校校長)
…私は昨年度私立福岡女子商業高校に赴任し、常勤講師という立場で進学指導に携わった。加速する商業高校離れに加えて共学化に踏み切る学校が増加している中、前校長の「就職も進学も選択できる学校にしたい」という熱意に動かされ、新天地で新たなチャレンジをすることとなった。
まずはZoomを用いてオンラインで進路面談を始めた。
 多くの生徒に真っ先に感じたのは、囗にはしないが、保護者への経済的な気遣いだった。そこで「修学支援新制度の対象であれば、実質負担はなく進学できる。国公立大学ならその心配もより少なくできる」という話をすると「そうなんですね」とパッと表情が明るくなった。こういうケースでは、親が了承した後ではなく、まず勉強を始めてみるのがポイントだ。コースや学力も異なる子たちが30名程度集まり、進学指導が始まった。
 狙うは、専門高校推薦を中心とした学校推薦型選抜だ。書類審査、面接、小論文、グループディスカッションなどが課されるが、なかでも小論文は、専門性と論理的思考力が試される。扱われる社会問題は多岐にわたり、大大たちでも答えることが難しいテーマについての要約一意見論述が求められる。しかし最も重要なことは、知識と知識を繋ぎ合わせて活用する能力で、完璧な解決策など求められていないし、そこに「正解」などない。
 私は全国の大学で過去に出題された小論文を活用している。社会問題を理解するために有効な小論文を、生徒たちの志望校にこだわらずに選定する。過去問を教材にして指導するのは、本や新聞記事から引用された課題文を理解することでおのずと様々な出題に対応できるようになるからだ。教える側として重要なのは、初めのうちは訂正しすぎず、「褒めポイント」を探すこと。
一定期間、文章の読み書きを繰り返せば、誰でも自然と力がつく。ある程度の力が身につけば、あとは「自走」できる。こうして休み時間に「社会を良くする方法」について議論し合う高校生たちが生まれる。第二志望へ行くことになった生徒も、過去の自分とは異なった自分を実感している。大学に合格するためだけの学びではないのだ。
 進路を決めるのは、保護者でも、教師でもない。生徒による自己決定が最も大事だ。「自ら機会を作り、その機会によって自らを成長させよ」。「小論文」は、そうした「生きる力」を養うためにまたとない科目だと実感している。
コメント:リアルドラゴン桜です。

「安倍時代はいつまで続くのか」から
…飯島氏が内閣の命運を握るとして指摘したのは二点。靖国参拝の継続と手足となるスタッフの確保だ。
 はたして、安倍総理は、「一万八千の霞が関の官僚たちを手足のごとく動かしていく」ことは出来たのか。
 これは完全に成功した。「官邸官僚」という言葉が出来るほど、スタッフを通じた安倍総理のガバナンスは高まった。
 その代表格が、官房副長官を務めた杉田和博氏(警察庁出身)と、総理大臣補佐官を務めた和泉洋人氏(国土交通省出身)、さらに総理秘書官、補佐官を務めた今井尚哉氏(経済産業省出身)だ。それぞれ内閣発足以来8年近くも官邸にあって、官邸主導を支えた。また安倍総理は、2014年には内閣人事局を発足させ、各省庁の幹部人事も手中に収めた。
 ただ、強すぎる官邸を前に、霞が関に「忖度」が横行した。森友事件では、逮捕された籠池泰典森友学園前理事長と安倍昭恵総理夫人との関係を隠蔽するために、公文書の改竄が行われた。上司の命令でそれに関与させられた財務省近畿財務局の職員が自殺したが、事件の全容はいまだ明らかにされていない。
 安倍政権は、その強すぎる力でいったい何をしたのか。安倍総理はアベノミクスという経済政策を看板にしてきたが、GDPは十年前とほとんど変わっていない。「失われた二十年」が「失われた三十年」になっただけ。しかも、貧富の差は広がった。
 またもや体調不良で政権を投げ出した安倍氏だが、続く菅義偉政権も短命で終わり、現在は岸田文雄政権である。党内基盤の弱い岸田政権で安倍氏がキングメーカーを目指すという話もあれば、岸田政権が短命に終わった場合、再々登板を狙っているという話もある。これは、日本の政治の貧困ではないか。
コメント:日本の政治の貧困です。安倍を退陣させるには、国民が揃って全国規模で、子の刻参りでもするしかないのか。それより効果的なのは、安倍を首相公邸に1週間泊まらせることです。幽霊恐怖症の安倍は恐怖で、気が狂うことでしょう。

「日本は何故コロナで右往左往したのか」から
 台湾政府の衛生福利部疾病管制署が公開した動画の中で、周志浩署長は台湾の新型コロナ対策を「試練を一つずつくぐり抜け、17年間、我々は剣を磨いてきた」と語った。
 17年間とは、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)大流行から数えての年月だ。当時、台湾は中国、香港、カナダに次ぐ数の死者を出すなど、社会は大混乱に陥った。その反省に立ち、台湾政府は、強力な権限をもち対策を一元的に指揮する非常時組織「中央感染症指揮センター」を設立。
今回、マスク不足に悩まされた日本とは対照的に、政府がマスクを買い上げ、各地の薬局などで健康保険証により本人確認をして販売するシステムが数日で整備されたのも、医療物資の在庫管理システムがすでにあったからだ。
 だが、実は日本にも2009年に新型インフルエンザが流行したさい、今回と同様にマスクが不足したり、水際対策をめぐって医療現場が混乱したりした。それを踏まえ、2010年6月に、有識者会議が感染症対策に関する提言をまとめた報告書を、当時の民主党政権に提出している。
そこには「国の意思決定プロセスの明確化」「保健所などの人員体制の強化」「PCRを含めた検査体制の強化」、「臨時休校のあり方の検討」、今回問題となった事柄が、ほとんど網羅されていたのだ。
 特にワクチン開発については、「国家の安全保障という観点から」として、ワクチン製造業者の支援や開発の推進、生産体制の強化を提言している。だが、米モデルナ社が、米国政府から多額の資金援助を受けてmRNAワクチンの開発を進めていたのに対し、日本の国立研究開発法人である医薬基盤・健康・栄養研究所が進めていたmRNAワクチン開発は、感染症対策におけるワクチン臨床試験の予算がカットされたため、2018年に凍結されている。
 先の報告書は「新型インフルエンザ発生時の危機管理対策は、発生後に対応すれば良いものではなく、発生前の段階からの準備、とりわけ(中略)感染症対策に関わる人員体制や予算の充実なくして、抜本的な改善は実現不可能である」という言葉で結ばれているが、こうした指摘は十年間、放置されたままであった。新やコ囗ナ対応をめぐる混乱は、起こるべくして起こったのである。
コメント:誰がワクチン開発の予算をカットしたのか。ぜひともそれを知る必要があります。山中教授の予算をカットしたのと同じ人物(和泉、大坪コンビ)ではないのか。厚労省が現在の体制を温存すれば、また同じ問題が起きるでしょう。

・共産と共闘、歯切れ悪い立憲4人。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6410254
関連記事:代表選の仕組み。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6410228
コメント:この4人では、誰が代表になっても沈下は免れないでしょう。共闘だけがチャンスなのに、それを放棄すれば、参院選での敗退は確実であり、代表はその責任を問われます。そんなに連合を気にするのであれば、いっそ国民民主の傘下につけばいいのです。そうすれば連合のことなどどうでも良い国民は、立憲を見放すことでしょう。日本の労働者、勤労階級は大企業の正規従業員だけではないのです。恐れた通り、リベラルの解体が始まりました。今、国民に最も必要なもの、それはえせリベラルの国民民主でも、立憲民主でもない、本当のリベラル政党です。手っ取り早いのは、共産党が改名することです。私が命名できるのなら、日本民政党、ピ−プルズ・リベラル・パーティーです。

・維新、共感の範囲に限界。
https://www.asahi.com/articles/ASPCM34G7PCFUPQJ008.html?iref=comtop_7_01
コメント:自民と戦えばいいのに、なぜ立憲と戦うのか。筋が通らない。もっとも橋下は、一所懸命、当時の安倍に媚を売った過去がある。


2044.改憲へのきな臭い動き 21/11/14-21

茂木幹事長が、早くも改憲に舵を切った。
悪いことに、政調会長は高市ときている。

極右のコンビが、日本を軍事国家に向けて
押しやろうというのだろうか。

安倍晋三が何もしなくても、岸田内閣が、
安倍の夢(悪夢=戦争ができる国)を実現する。

茂木は緊急事態条項の為だというが、
そんなものがなくてもコロナ対策ができる事は分かっている。

改憲が可能であることを実証し、
段階を踏んで、平和憲法を骨抜きにしてしまうことが
超保守勢力の、真の狙いだろう。

茂木は米国で学んだ事が売り文句のようだが、
肝心の民主主義の精神だけは
学んでこなかったようだ。

立憲が中途半端な立ち位置を取ったせいで、
維新に投票する有権者が増えたが、
そのツケを払わされるのは国民自身だ。

国民は、自分達の生命と財産と自由を守るために、
超保守の改憲勢力にどう立ち向かうを
真剣に考えなければならない。

手っ取り早い方法は、
維新をリベラルな国民政党に変貌させ、
野党第一党に育てることだ。

国民は第二(公明)、第三(維新)の自民党に関心はない。
今回の選挙では、橋下時代と異なり、
維新が明確な自民との対立軸を示したから、投票したのである。

一般市民も、コロナを言い訳にして、
家に籠っている訳にはいかない。
街に出て、デモに参加しなければならない


・茂木が改憲議論加速。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6409624
コメント:日本の政治の右傾化が加速。なんでこんな自我肥大(周囲に当たり散らすことで有名)の議員を幹事長にしたのか。どこが切れ者なのか、国民にはさっぱり分からないが、外務大臣時代、武漢撤退時の特別機派遣以外に見るべき実績はなく、アフガン退避の失敗の責任さえ取っていない(岡田大使の処分どころか、自身の謝罪さえない)。茂木は、緊急事態条項の為に改憲というが、それは改憲が可能であることを実証することが本当の目的であることは見え見えだ。憲法9条の改悪こそが真の目的だろう。茂木の貧しい頭には、大戦の反省や総括など1ミリも含まれていないに違いない。

・立憲代表選、本命不在。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6409626
コメント:枝野は逃げられる前に、辻元を指名せよ。辻元なら維新ともうまくやれる。蓮舫や泉や馬淵や大串なら立憲は終わってしまうだろう。長妻でさえ危ない。本当に政府と渡り合えるのは江田か小沢か中村なのだが。旧世代の烙印を押されてしまって身動きが取れない。

・辻元、大阪府連代表辞任。
https://www.asahi.com/articles/ASPCF53DTPCFPTIL007.html?iref=comtop_Politics_01
コメント:主張が矛盾するようだが、維新は辻元をスカウトし、参院選で公認候補にしてはどうか。維新の弱点は、ろくな女性議員がいないことと、リベラル色が薄いことだ。大阪パワーの吉村代表と辻元副代表なら、自民党とガチで渡り合う事が出来る。(橋下徹のように)自民党にへつらう必要がなくなり、堂々と保守の第二極を名乗れるようになる。そうなれば中途半端な国民民主や、立憲内部の保守派などお呼びでなくなる。維新に票を投じる有権者も激増し、野党第1党の可能性も出てくる。その結果、立憲ができなかった政権交代が現実味を帯びてくる。大阪が日本の変革の拠点となり、関西から国民政党が生まれる可能性がある。

・こどもに10万円給付。厳しい世論。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7835dc9338314ab0805b36a916efe9c5760367d9
コメント:自公は(日本政治の)事故か。公明の凋落の予感。しかも自分で蒔いた種。公明の票が減り、維新の票が増えれば、日本は戦争に巻き込まれる可能性が増大する。一方で、共産党は自衛隊の存在を事実上容認し、党名も変えて、新生立憲ときちんとした連携を作り、政権を担える政党を目指さないと、日本は取り返しのつかないことになるだろう。
関連記事:公明議員秘書、国税庁に働きかけ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d79b272949c154e7ba8d912fc546c76dc7d448b3


・立憲候補、憲法論議に前向き。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/144004?rct=politics
コメント:それでも改憲には後ろ向きというが、そもそも議論する必要がどこにあるのか。いっそ自民党に鞍替えしてから「前向きに」議論してはどうか。先輩(右傾化した元民主)には細野も長島もいることだし。


2045.コロナ後の経済 21/11/22

NHKの日曜討論は立憲4候補者の討論会だったが、そこに登場した若者代表の、独断的で、一方的な話を聞いて驚いた、というより、呆れた。立憲は批判ばかりというが、批判も出来なくなったら、日本の政治はどうなると思うのか。野党が不平・不満を言うだけでは問題解決にならないと言いたいのなら、それはその通りだろう。でもそれはナンタラ組織の代表についても言えることだ。

他人(例えば高齢者)を悪者にして、非難すればうっぷんは晴れるかもしれないが、問題の解決にはならない。しかも怒りを向ける相手そのものが見当違いだ。相手は、現在の政治や行政に責任があり、しかもそれを変えることのできる政治家や官僚でなければならない。しかも不満を言う時には、自分達としてはこうして欲しい、なぜならこうだからだという議論をしなければ、お互いに実りの無い、不毛な時間を積み重ねるだけになる。そもそも高齢者を標的に仕立てるのも、政治家や富裕層から、若者の攻撃をそらすための、保守政党の姑息な戦術なのである。

しかも、その論調が、なぜ「若者なのに」軸足が自民党にあるのかも理解できない。新自由主義が当たり前だという環境で育ってきたからなのか。でもそれは自民党が権力階層の利益のために、無理やり米国から持ち込んだ価値観なのだ。それ以前には日本にも、平和と平等の概念が息づいていたのである。

全共闘時代にまで立ち戻らなくとも、最近で言えば、例えばシールズのような民主主義の為の、穏やかな学生運動とも異なるような感じがする。目先の利益代表の要素が強く、理想や理念、将来への展望というスタンスが希薄に感じられる。闘争方針も明らかでは無い。というよりそんな方針があるのかどうかもよく分からない。

そう考えると、今大事なことは、中高年もメディアも、安易に若者に思ってはならないということだ。寿命の残りを掛けてでも、(保守政治に教育されて)右傾化した彼らの考え方をリベラルに、せめて中道に戻す努力を続けることが、明日の平和な日本を形作るうえで、避けて通れない事を実感するべきなのである。

我々段階の世代が知っている学生運動は、民主主義を守る為の戦いだった。だが自称代表たちは、理念や理想より、目先の自分達の便益だけに関心があるように見受けられる。これはグレタやマララとは根本的に異なる立場と価値観だ。視野が狭いので、容易に自民党の政治宣伝にも乗せられてしまう。日本の中心に自民党がいることが、当たり前という前提は、あるべき姿ではなく、時の政権に刷り込まれたものであることにも気が付いていないらしい。

若者ほど、自民党支持者の割合が多いなど、昔は考えられなかった。共産党と連携したから立憲に投票しなかったなどと言うに及んで、政治の基本も民主主義の歴史も勉強する機会がなかったことが伺い知れるのである。だからこそネトウヨが高市早苗をもてはやすような異常事態(日本版ナチス)が生まれるのだろう。

何度でも言うが、人間の価値は実年齢ではない。精神年齢だ。しかもTVにコメンテーターで登場する自称代表は、全員ではないにしても、狭量で、短絡的であることを別にして、IQ/EQが小学生の域を出ていないように見受けられるのは残念である。無論世界のどこに出しても恥ずかしくない、素晴らしい若者が大勢いることは、自分の経験でも百も承知だが、それでもダメなものはダメと、この際敢えてはっきりと言うことが、メディアや有識者や、私のような頑固爺の役目ではないか。若者が自民党と保守系野党(維新など)の大政翼賛政治を容認するなど、戦争の記憶を留める世代としては悪夢でしかない。またこれは文科省の教育が(右傾化に)偏っていることを十分に暗示させる状況でもあることも申し添えたい。若者が右傾化したのは中高年の責任かもしれないのだ。

関連記事:もう安全な国でなくなった日本が、自助で若者を追い詰める。
https://www.newsweekjapan.jp/tokyoeye/2021/11/post-90.php


今回の前書きは、筑摩書房の「コロナ後の世界」、各界第一線で活躍する12人の主張です。その中から経済と政治をテーマに、各一篇の要点をお伝えします。今回は経済で、私もこれを読んで、最近の政府の経済政策が初めて理解できた論文です。但し昨年7月時点のものなので、その後の、特に衆院選と、菅から岸田への政権交代で、状況は変化しています。それでも小泉・竹中の非人道的な経済政策が、未だに底流にあることが理解できます。ゆえに、著者の言いうように1ミリたりとも、新自由主義の課題設定に乗ってはならないのです。

「コロナショックドクトリンがもたらす円高帝国」松尾匡(立命館大経済学部教授)から
 消費税が10%に引き上げられたことで、個人商店や中小の事業者はただでさえ厳しい状況に追い込まれたというのに、この度のコロナショックである。

 こうした中で東京財団政策研究所は、着手すべき「経済政策的な対応」を「緊急提言」としてまとめ、3月17日に発表した。ひと言でいえばそれは、コロナショックをテコにして、日本のエリート層が共有するであろう経済認識を一気に実現しようとするものである。

 消費税が10%になったのは、2019年10月のことである。実はこの年に入ってから、日本経済は落ち込みが見られるようになっていた。

消費税10%の世界とは、地域の経済やコミュニティを担い、人々の生業の場となってきた個人商店や中小の事業者、が、もはや立ち行かなくなって一掃され、スケールメリットのある全国チェーン店やグローバル大企業ばかりが生き残る世の中だと言える。こうして地域の経済が弱体化し、コミュニティ機能もいっそう弱まった、スカスカの格差社会が出現することになる。

このようなあり方は、この間、小泉・竹中改革をはじめとして政府・財界が一貫して目指してきたところである。「日本経済は国際競争力を失っている」と称して、生産性が低いとされる分野を淘汰し、生産性が高いとされる分野に労働などの生産資源を集中する。そのために規制緩和や緊縮・デフレ政策を進めてきた。消費税の引き上げもこの一環だと言える。

 東京財団政策研究所が3月17日に発表した「緊急提言」は、この支配層のコンセンサスに立ったビジョンを、コロナショックを奇貨として一気に実現しようという意図のもと、周到に設計された経済政策パッケージだと言える。

 つまり、生産性を高められる分野に限定して政府支出をするという図式である。大衆の消費需要を拡大することによって、個人事業・中小零細事業にも救済となるような需要の作り方(消費減税・全員一律給付)は否定されている。給付は、あくまで生活を最低限支えるために、どうしても必要な所得急減者に絞り、それ以外の支援は貸し付けにする。つまり、返せない業者は退場しろというわけだ。

 消費税・コロナ不況で一番打撃を受けているのは、大衆の生活物資を生産する小企業や農家や、大衆の生活の場で商売する個人事業などである。だから、これらの事業者の雇用を救い事業を拡大するには、これらの財やサービスへの需要を作り出さなければならない。消費税の停止や十分な一律給付金は、大衆の生活を直接救うとともに、こうした需要を作るものでもある。

 ところが、政府や大和総研プレゼンの発想は、まずもって、大衆の生活保障を需要喚起から切り離して、最小限の財政負担で済むように、支援を受ける対象をごく一部の者だけに絞り込もうとするものである。他方、需要喚起の方は、大衆の生活とは別のところに、主に大企業がもうかるものとして位置付ける。これは、福祉や医療や教育を不生産的なものとみなしてお金をかけず、もっぱら大型開発を景気拡大策とみなしてきた旧来の保守政治の発想をひきつぐものである。

Gotoキャンペーンは、コロナ不況による打撃が今や全産業に波及したにもかかわらず、観光、外食、レジャーなどの私業分野を、民意に諮ることなく政府が恣意的に選び出し、公金で需要を興そうとするものであり、きわめて筋が悪い。

 他方、政府の経済対策には、見かけ上は中小事業の継続支援を前面に打ち出したものとなっている。しかし、さまざまな中小事業支援策は、手続きが煩雑すぎる上に条件が厳しく、審査・入金までに時間がかかりすぎて役に立たないことが指摘された。給付の上限枠も厳しく、多くの場合、この間に強いられた損失をカバーすることはとてもできないと批判された。

支援の中心は融資だが、東京財団の提言のとおり、無利子は3年だけで、そのあとから利子がつく。国はほとんどゼロの超低金利で資金調達しているというのに。
 
エリートたちの経済認識を整理すれば、次のようなものとなろう。
(1)日本経済の衰退の原因は、旧来の産業構造からの転換が遅れ、国際競争力を失っていることにある。このままでは国際競争に負けて没落してしまう。
(2)生産性の低い企業・産業が、規制や財政投人や円安誘導のおかけで温存されている。このようなソンビ企業を一掃して、そこに囚われていた生産資源を解放し、これから経済をリードする高生産性部門に生産資源を集中させなければならない。
(3)日本は財政危機にある、このままでは財政破綻は必至であり、それを避けようとすると通貨をたくさん出すことになり、円の価値が大きく損なわれてしまう。円の信認を維持して、その価値を高く保つために、プライマリーバランスの黒字化を目指すべきである。
(4)そのためには消費税の引き上げが必要である。また、財政の無駄を削り、やみくもな需要刺激ではなく、生産性を高められる分野に巣中して財政投人する「ワイズースペンディング」をしなければならない。

このフレームのもとで、ここ四半世紀にわたって、マスコミを動員した改革が行われてきた。経団連は雇用の非正規化を進めるべきだと号令を発し、小泉・竹中改革が推進されるなかで就職氷河期のロスジェネが大量に生みだされ、民主党政権も橋下府政も財政再建を競い、安倍政権が消費税を引き上げてきた。この路線の延長上に、中小企業を淘汰するコロナショックドクトリンと地域帝国主義への道が待っているのだ。

この路線のもとで、一部の大企業を支配してそこから利益を得るエスタブリッシュメントの人たちがボロもうけしてき。そのための課題設定なのである。しかし、それによって、どれだけ多くの庶民が犠牲になってきたことか。だから、この課題設定には1ミリも乗っかるわけにはいかない。

そもそも、日本が財政破綻することも、見通せる将来に円が暴落することもあり得ないことなど、体制側でもまともな経済学者ならみな分かっていることだし、多くのエリートも分かっているのだろう。ところが注意しなければならないのは、エリート層に共有される先述の経済認識は自民党に反対する立場の、いわゆるリベラル派の論者も言ってきたのではないか、ということである。

また、労働組合の「連合」は消費税の引き上げに賛成してきたが、この方針に組合員の多熬が本当に同意しているとはとても思えない。個々の加盟単位労働組合がみな賛成しているはずもなかろう。しかし、グローバルに活躍する大企業のうちごく一部のエリート正社員の労組幹部の中には、職場が海外に置き換えられる心配も、輸入品に脅かされる心配もないという人はいるだろう。そうした人の中には、中小零細企業や個人事業がつぶれても何の痛みも覚えない人もいるだろう。

 さらに、リベラル派の代表政党で、「連合」からの支援も受けている立憲民主党は、「連合」のこうした方針もあって、消費税減税に煮え切らない態度でいるが、「基本政策」の中で次のように述べていることにも注意しておくべきである。「自由貿易体制の発展にリーダーシップを発揮し、多国間・二国聞での経済連携については、日本の利益の最大化を図ります」

賃上げと人々の暮らしの底上げのための財政出動で、豊かな内需に支えられた経済を作らなければならない。そのためには、貨幣をつくる権力を人民の政権の手に収めなければならない。これまでに起きた恐慌程度のことなら、資本主義は必ず乗り越える。もし変革に向けた闘いがなければ、人々の暮らしはますます苫しくなり、生きづらくなった日常が延々と地味に続くだけである。

関連記事:アベノミクスの7年半で日本は米国並みから韓国並みになった。野口悠紀雄。
https://diamond.jp/articles/-/287863


2046.コロナ後の政治 21/11/23

なぜ小池知事が復帰したその日に、
木下議員が辞職会見をしたのか。

続投されて、一番困るのは他ならぬ小池知事だろう。
どう説得したのか知らないが、
そういう機会さえ宣伝に利用する、
小池劇場の一幕ではないと
誰が断言できるのだろうか。

しかも批判するべきメディアは
面白半分に、虚像作りに加担し、
大衆をミスリードする。
結果としての無党派層の、選挙の人気投票化。

小池知事のパフォーマンスの先に見えてくるのは、
参院選を踏み台にした、国政復帰劇だろう。

どのような手練手管を駆使するにせよ、
政治理念の無い、個人の権力欲の為の茶番劇に
際限もなく付き合わされる国民こそ、
いい迷惑ではないだろうか。


今回の前書きは、筑摩書房の「コロナ後の世界」の続きです。前回の経済に続き、今回は政治の話題で、著者は学術会議任命で杉田官房副長官に「排除」された宇野教授です。政府は緊急事態条項を盾にとって、改憲を強行したい考えのようだが、経緯の記録と、事後のチェックについては全く考慮されていないところに問題があります。緊急時には民主主義は棚上げされても仕方がないというコンセプトだけが独り歩きを始めれば、太平洋戦争の開戦のような、どんなに恐ろしいことが生きるかを、国民はあらかじめ知っておく必要があると思います。但し、本稿では、民主主義は危機に対応できるかという設問に対する具体的な答えは、用意されていないです。

「コロナ危機、民主主義、そして世界的連帯」宇野重規から
コロナ危機は、私たちの価値観を問い直している。政治についてもそうだ。新型コロナウイルスの感染拡大は、人と人との距離についてあらためて考えるきっかけとなった。人々が一緒にいること、そして共に生きることが政治の問題と直結する以上、コロナ危機を通じて、私たちの政治に関する感覚が鋭敏になったとしても、不思議ではない。

 このような状況において、しばしば耳にしたのは、「緊急事態にあたっては、ある程度、トップダウンの決定も必要ではないか。そのために民主主義が一時的に制限されるとしても、やむをえないのではないか」という類の言説である。たしかに民主主義は、意思決定にあたって人々の合意を重視する。合意形成には必然的に時間がかかるが、緊急事態においては迅速な決定が求められることも多い。場合によっては、既存のルールや制度を超えた決定をする必要もあるだろう。そうだとすれば、民主主義は緊急事態には不適当ではないのか。むしろ独裁的な手法の方が危機によりよく対応できるのではないか。

 しかしながら、本稿では、あらためてコロナ危機を通じて問い直された民主主義について考えてみたい。はたして危機に民主主義は対応できないのか。コロナ危機を通じて、政治システムは変容しつつあるのか。コロナと共に生きざるをえない社会において、人と人との関係はどうなっていくのか。そして何より、民主主義は生き残れるのか、生き残れるとすれば、どのような民主主義か。これらの考察を通じて、むしろ民主主義の意義と重要性を再認識することが、その目的である。

 最初の問いは、はたして民主主義は危機に対応できるのか、ということである。
 歴史を振り返ってみれば、戦争や巨大災害などの緊急事態において、政治的指導者に、通常の法律や制度の枠を超えた強い権限を与えた事例は少なくない。

 事実上、独裁的な権力を持った人物ならば、歴史にいくらでもいる。しかし、ローマの「独裁官」の場合は、あくまで制度的なものであり、非合法な存在ではなかった。「独裁官」は戦争や内乱などの緊急事態にあたって任命され、超法規的な措置を行う権限を持っていた。ただし、その権限は無限に続くものではなく、一定の時間が過ぎると終了する。さらに任務の終了後には、その任務をよくはたしたかどうか厳しく審査された。もしその強大な権限を濫用したと判断されれば、処罰を免れなかったことに制度の特徴がある。

 それゆえ、日本で緊急事態宣言を考える場合も、事前に明確な規定があること、および事後に厳しい審査と責任追及を伴うことはあらためて言うまでもない。今回の緊急事態宣言の場合、法案が泥縄式で準備され、事後のチェックの仕組みも不透明なことを考えると、不安の思いも残った。「緊急事態」があくまで法的に位置づけられた明確な概念であり、超法規的な措置のズルズルベったりとした追認ではないことを再確認すべきである。緊急事態宣言は、災害やパッデミックなど限定された事態において、限られた事項についてのみ認められるべきである。なし崩しに歯止めがなくなることは絶対に避けねばならない。

 また、事後的な検証を可能にするためには、その問の記録を確保することがきわめて重要である。これなしには、はたして政府による決定が適切であったのか、後からチェックができなくなるからである。例外的な判断が求められる緊急事態だけに、事後的な責任追及への道を確保しておくことが何よりも肝心である。多くの人々の生命や暮らしが左右されるだけに、場合によって、政治指導者がその責任を問われることもあるだろう。記録の不備により、その問のプロセスに不透明さが残るとすれば由々しき事態である。

 いうまでもなく、このことは憲法に緊急事態条項を盛り込むこととは慎重に区別されるべきである。緊急事態に対応することは、憲法の下、通常の立法によって可能である。むしろ政府の行為を、事前の制度化と事後の検証によって制約する立憲主義的な枠組みを充実させることによって、民主主義がよりよく緊急事態に対応できると考えるべきだろう。
編集者注:ここがポイントであり、自民党に代表される保守政党では欠落している視点です。

 この場合に難しいのは、安全と自由をめぐるトレードオフが見られる点である。実際、個人のプライバシーを制約してでも、より有効な個人情報の管理とセキュリティ対策を求める声が、国民の側からもしばしば聞かれる。ある意味で、個人の自由や権利を束縛する政治権力の拡大を、むしろ国民自身が望むという事態が生じているのである。

 その際、テクノロジーを用いて個人の行動を管理しようとする政府やグローバルなプラットフォーム企業の動きに対して、市民社会の側からチェックしていくことが急務である。多くの市民にとって、そのようなテクノロジーの内容を正確に把握することは難しいだろう。その暴走によって個人の権利が侵害され、民主主義が歪められることのないよう、専門家による独自の監視組織の充実もより重要になってくる。

 それでは、今後に向けて、私たちが考えるべき課題はどこにあるのか。もっとも重要なのは安全/経済/自由のトリレンマであろう。


 休業補償や経済対策としての各種補助金など、緊急の対応が重要であることは言うまでもない。企業の倒産を防ぎ、雇用の減少に歯止めをかけるために、あらゆる知恵を使うべきである。ただ、同時に、私たちはより中長期的に、社会における平等や公正についても考えなければならない。

 新型コロナウイルスのダメージが人によって、相当に違うことは明らかである。ある意味で、パンデミックは、もともとより脆弱な立場にある人をさらに脆弱な立場に追いやってしまう。そうだとすれば、いかにすれば、ダメージを社会全体として受け止められるか、特定の人に重くのしかかる負担をいかにして分かち合っていけるかについて、真剣に考えるべきだろう。

 ロックダウンのような強硬策を取らず、個人のプライバシーを大きく規制しないという意味では「ソフト」な対策であったが、しかしながら、現実には、国民は政府に対し、強い不信感を抱いた。その一つの例は、PCR検査であろう。これ以外にも基礎となるデータを十分に開示しないことが多く、結果として対策がしばしば一方的で唐突な印象を与えることにつながった。決められた方針の内容や決定経緯をめぐる説明不足、およびそれを検証するためのデータ開示が十分でないという日本政治の通弊が、ここでも明らかになったと言えるだろう。

 今回のコロナウイルスの感染拡大が、グローバル化に対して急ブレーキをかけたことは間違いないだろう。物流に関しても、世界の各地から思う通りに物資を取り寄せることがいかに難しいか、人々はコロナ危機を通じて思い知らされたはずである。国際的な物流は、ひとたび今回のようなパンデミックが起きれば、つねに寸断されてしまう危険性がある。

 だからと言って、世界が孤立主義へと向かうと決めつけるのは即断である。今回のコロナ危機は同時に、一国的な対応の限界も明らかにした。いくら自国内において感染拡大を封じ込めたとしても、世界のどこかで感染が再拡大すれば、その影響はやがて自国に及ぶ。世界中でウイルスを克服することなしには、自国の安全もありえないのである。その意味で、世界各国の運命はより密接に結びつき、他国について無関心でいることは許されなくなっている。

 コロナがクローズアップさせた環境や衛生、さらに貧困や格差の問題はいずれもSDGs(持続可能な開発日標)に関わる。その意味では、コロナ危機によって、SDGsの達成に向けて、むしろグローバルな協力の必要性が高まったといえる。グローバルな連帯と各国における民主主義の、バージョンアップをいかに結びつけていくかが、これから世界共通の課題となるであろう。

 そのなかにあって、日本政治の行方はどうなるか。たしかに東日本大震災においても、日本社会が、そして日本政治が大きく変わるきっかけになると期待されたが、その期待は裏切られた。ある意味で、今回こそ、日本政治を変えない限り、未来は開けないままであろう。日本政治の真価が今、まさに問われている。
 
コロナ危機はたしかに民主主義とグローバル化を揺さぶった。しかしながら、これを契機に、より高度な民主主義と世界的連帯を実現することはできないか。そこに日本社会のみならず、人類の未来がかかっている。


・野党はむしろ、維新に投票したような人たちこそ迎え入れる必要がある。
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2021111700004.html?iref=comtop_Opinion_06

・Z世代調査。結婚は31歳、寿命は79歳。
https://mainichi.jp/articles/20211122/k00/00m/040/086000c


2047.給付金の在りよう 21/11/24

今回の前書きは時事評論3件の予約ですが、奇しくも同じテーマです。
最初の2件は、週刊朝日(12.3)からです。

古賀茂明の政官財の罪と罰、「銃どころか鉛筆さえ持たない人々」から

 2019年9月、米国の著名投資家ジム・ロジャーズと対談した。当時、彼は、立て続けに日本経済に関する本を出したこともあり、新聞・雑誌に頻繁に登場していたが、特に注目を集めたのが以下の発言だ。
 「私かもし10歳の日本人なら、直ちに日本を去るだろう」
 その理由として、彼は、これだけ借金があり、しかも子供を作らないのだから、日本は50年後か100年後には消えてしまうと述べた。
 あれから2年。日本経済は、当時、陂が予想した以上に事態が悪化しているように見えることがある。
 それは、「犯罪大国になる2050年の日本」という不吉な予言だ。
 実は、この言葉は、冒頭で紹介した、10歳の子供なら日本を去るという言葉とセットで語られた懸念だった。彼は、10歳の日本人に対して、日本を去ることのほかに、自動小銃を買うという選択肢を提示していたのだ。
 国が破たんに向かうときは、国民の間に、不満、怒り、社会不安が募る。殺人を含め、様々な犯罪が増えるから、護身用の銃が必要になる。ジムは、それを30年後の未来の予測として披露したのだが、事態ははるかに早く進んでいるようだ。
 最近、立て続けに起きた電車の中や駅周辺での無差別テロはその兆候に思えてならない。もちろん、その犯行動機に不明なことが多いが、社会に貧困がはびこり、かなりの数の人々が、自らの居場所を失って日々生きることも困難になっているのは確かだ。未来への希望を失い、社会への不満、絶望、恨み、憤りを抑え切れずに殺傷事件に及ぶ人間が増えてもおかしくない。日本は、そうした事態に至るある臨界点を超えつつあるのかもしれない。
 本来は、困難に陥っている人々に温かい支援の手を差し伸べるのが最優先課題のはずだが、今の日本の政治ではその優先順位は非常に低いから、今後ますますこのような事件が増えても不思議ではない。
 もう一つ、最近重要なことに気づいた。ジムが、10歳の日本人に自動小銃を買うことを勧めるわけとして、護身のほかにもう一つ理由を挙げていたこと。それは、「革命を率いるため」である。自分たちを守ってくれない社会を変えるためには革命しかないと考える若者は、「銃を持って立ち上がれ」という意味だ。 しかし、現在の日本では、今の社会や政治に不満は持っていても、それを自らの力で変えようとする人は少ないことが、先月の総選挙で明らかになった。敍を手にするどころか、投票用紙に候補者の名前を書く鉛筆を持つことさえしない人が多いのだ。
 多くの人が選挙で政治を変えようと立ち上がるには、まだまだ日本の没落ぶりは不足しているのか。

室井卯月のしがみつく女、「それが政治か」から

「自民、公明両党は親の年収が960万円未満の18歳以下を対象に、年内に現金5万円、来春までにクーポン5万円分を支給することで合意した」という。
 「バラマキ」といわれようがいわれまいがどうでもいい。もっと、バラマケと思う。
 なにしろ、今日本の子供の7人に1人、お年寄り世帯の4世帯に1世帯も貧困なのだ。貯蓄なし単身世帯は36%を超えていて、年収200万円台の人は15%もいる。
子育て家庭の貧困対策に取り組むNPO「キッズドア」の渡辺理事長の話として、「困窮世帯はその日食べる物がなく、年を越せない。年内の現金給付はありがたい」と評価。約9割の世帯が対象となるが「収入が途絶えた人もいて、クーポンで家賃は払えない。困窮者に絞った方がよかったのでは」と書かれていた。困窮者を支援する社団法人「つくろい東京ファンド」の稲葉代表理事の話もある。
「コロナ禍で貧困の裾野は広がる。厚生労働省によると、生活保護の8月分申請件数は前年同月と比べ10%増えており、稲葉さんは『非常に深刻な状況が続いている』と危機感を募らせる。その上で『一律給付し、富裕層に課税強化するのが迅速でいい』と提案し、『生活保護や住居確保給付金など従来のセーフティーネットを強化しないと貧困拡大に対策が追いつかない』と訴えた。
一律給付にすれば困っている人たちにお金が行き渡るのが早い。それだと人数が多すぎて財源が、というのなら、富裕層に課税したらいい。
というか財源、財源といってるわりに自分たちのやりたいこと、オリンピックやアべノマスクやGoto事業には、大盤振るまいだったよね。納得出来るわきゃないわ。
今回の件も、半分をクーポン券にするっていうのは、またまたお仲間の団体や企業をもうけさせたいからか? それに、マイナンバーカードに給付金の受け取り用口座を登録するとポイントが付くことにするって、目的はマイナンバーカードの普及なのか?。
困っている人や弱っている人に寄り添えなくて、なにが政治だ。その根本をわからない人が政治をやって、税金からなる予算を、目的も見えてこないことに使う。

次はサンデー毎日(12.5)からです。

高村薫のサンデー時評、「現金給付のありように見る政治のお手上げ」から

先の衆院選で自公が約束した経済支援策の一つ、18歳以下の子どもへの10万円相当の給付が早速実施される由。これについては所得制限が付いたとはいえバラマキ批判の声は大きく、経済界や専門家からも異論が相次いでいるが、政権が公明党への配慮を優先するあまり、安直な策に走ったのは明らかに失策だろう。しかも、こうした政治の都合による現金給付の先行は、穿った見方をすれば、一時金以外のセーフティーネットの整備に消極的とみなされてもよいということであり、差し迫った課題のすべてに政治が誠実に向き合えるわけではないことを、図らずも露呈してしまったと言ってもよい。
事実、多様な国民生活の、多様な困窮の一つ一つに対応するセーフティーネットの整備は誰が取り組んでも難題だが、新政権は現金給付以外の策を本気で練っているようには見えない。その日食べるものにも事欠く困窮者には早急な現金給付が必要だが、18歳以下の子どもへの支援は主に子育てや教育費へのそれであろうから、一日を争うものではない。むしろ財源の捻出を含めて、よりよい子育て環境や教育の機会均等の保障のために十分に議論を重ね、試行錯誤しながら国民の合意形成を図ってゆく必要があるが、政治はこれにもまともに取り組んでこなかった。代わりに、ときどきの社会情勢に追われてそのつどバラマキに近い対策を打ち、その検証も行わずに、また次の対策を打つことの繰り返しが続いてきたのである。
安倍政権以降、コロナ対策として拡充されてきたさまざまな支援策のうち、たとえば勤務先から休業手当をもらえない人への休業支援金の予算消化率は3割。月10万円の生活支援と職業訓練がセットになった求職者支援制度は目標の2割程度しか利用されていないと聞く。申請手続きが煩雑で利用しにくく、制度自体もよく知られていないのは、生活困窮者自立支援金や緊急小口資金の貸し付け、住宅確保給付金も同様である。
いろいろある既存の制度の使いにくさを放置して、選挙のために現金給付を叫んだ与野党の罪は重いが、それ以上に、こうして政治が至るところで物事の解決を中途半端に放棄するのは、ひょっとしたら状況もニーズも多様化・複雑化した社会で、政党政治の限界が来ているのかもしれない。
一方で、Gotoトラベルの再開を待ち望む消費者も多く、年明けには全国各地に観光客が謚れだすに違いない。こうした旺盛な消費意欲と10万円給付の不釣り合いは、この国で進む分断の写し絵であるが、同時に政治の手詰まり、もしくは「お手上げ」を示すものである。
 こうして眺めてみれば、失われた30年も少子化も社会の分断も、政治はおおむね「お手上げ」だったのは明らかだが、私たちもまた国の大盤振る舞いに、くれるものはもらっておこうと開き直り、もっと違う支援があるはずだと自ら考えてみることもせず、暮らしが危うくなれば新しい風を求めて彷徨うだけだった。私たちはそろそろ政治の現実と限界を受け止め、政治への丸投げを脱して、政策提言や共助に向けて具体的に関与してゆくべきだと思う。そうでなければ、この先に待っているのはさらなる分断と疲弊である。

コメント:3氏の見解に、異を唱える余地は少ないように感じます。それにしても、若年、中高年、シングルマザーを問わず、生活困窮者にとって最大の経済的負担は家賃です。しかも、賃貸物件のオーナーは、富裕層もしくは、富裕層に近い人達でしょう。ならばなぜ政府は思い切って、徳政令(家賃の棒引き)を実施しないのでしょうか。富裕層の権利を守り、困窮者の搾取を見て見ぬ振りなら、子供手当の不合理を含め、支援としては本末転倒でしょう。


2048.現職の為の選挙 21/11/26

年寄りの妄想だと思って貰っても結構ですが、アームチェア・リポーターがいてもいいのではと考えています。人間が社会的動物である以上、「考える」ことは死ぬまで続くし、また続けなければなりません。人間は考える葦だという言葉があるくらいで、意味をご存じない人がいるとは思えないが、人間というのは葦と同じで、風でもなびくほど(物理的に)弱い存在だが、それでも考えることができる。だから(知恵を働かせば)強くなれる、もしくは意味のある存在だという意味だと理解しています。私は今の日本人は、その大切な考えることを、自ら放棄しているように思われます。そうなればただの弱い草に過ぎなくなります。

ミステリー小説の世界にはアームチェア・ディテクティブという言葉があります。安楽椅子探偵と訳されていますが、現場を実際に見なくても、警察官から状況を聴くだけで、座ったままで推理して、真犯人を言い当てるという探偵です。

それと同じことが社会時評でもできるのではないか。自分を含めて、仮にアームチェア・リポーター(ACR)と呼びたいと思います。記事も本も書いたことのない人間が、ジャーナリストを自称するのはおこがましいので、記者即ちリポーターです。WTWがやっていることがそれです。血気盛んな若者なら、重要人物あるいは容疑者に突撃取材し、徹夜で張り込むことも可能でしょう。でも高齢者にはそれは出来ません。そこで無理せず(座ったままで)手に入る情報から、世間で本当は何が起きているのか、どういう方向に世界が動いてゆくのかを、関連情報と自分の経験から見定め、必要に応じて批判し、警鐘を鳴らす。それがアームチェア・リポーター(在宅記者)の役割です。

しかし長年、社会の動きを追い続け、重要人物の言動を見てこないと、目先の情報だけで、正しい判断はできません。但しWTWにはほぼ半世紀の歴史があり、重要人物がどういう価値観で、どういう判断を下してきたかのデータベースがあります。この政治家は、こういう時にこういうことを言ったことがある。または危機的な状況で、こんな事を言い、又は為すべきことをしなかった過去がある。だから今回の言葉も、どの程度信頼できるかを割り引く必要がある。言葉の真意はこう考えるべきで、その結果こういう弊害が起きる可能性がある。そういう判断をして、それを伝えなければならないのです。これこそ亀の甲より年の功で、せめてこれくらいの手伝いができないと、高齢者は単なる若者のお荷物になってしまいます。

但し、WTWは公共機関ではなく、あくまでボランティアの私的な情報サイトです。なので、制約もなく、忖度の必要もなく、自由な立場で発言します。とはいえ、一定の基準、というより常識の制約だけはあります。WTW(別称東京日日サイト)の存在価値は、リベラルな一市民の立場から、市民感覚や正義感に基づいて、政治や社会の真実を追求する(厳密には推測する)ことに尽きるのです。

最近の選挙の結果が、民意を反映していないことはほぼ間違いありません。その原因が候補者の質によるものだけでなく、選挙への興味をそぎ、有権者に十分な情報の提供もせず(ポスターさえ貼れば、選管の義務は果たしたのか)、機械的な公平(という悪平等)に気を取られ(衆院選のN国の政見放送を見よ。時間と公費の無駄)、却って不公平を招いている選挙制度にあると考えています。言い換えれば有権者が、有効に、また有意に一票を投じる仕組みになっていないことに問題の根があるのです。しかも選挙には結構な費用が必要であり、なかでも落選すれば没収される供託金などは、正当性のない費用です。言い換えれば、地盤と看板、鞄(資金)がない候補者には、とてもではないが対等に戦うことさえ難しいものが選挙なのです。

立ち合い演説会で、日当を配るなど、もっての他です。名声も、金もない新人にとって、当選できれば奇跡に近いのです。だからこそ、現職が有利になり、その結果、箸も棒にもかからない自民党議員が居座り続けることになるのです。選挙結果が納得できないのは、これという候補者がいないこと(人材の不足)に加えて、いやそれ以上に選挙制度の問題があるのではないかというのが、私の長年の問題意識です。そういう時に、11/25の朝日新聞にこれだと思う寄稿が載りましたので、要約をご紹介したいと思います。民主主義の大前提は、民意を正確に反映した選挙であることは、今更言うまでもないと思います。

朝日新聞11月25日、論壇時評、選挙と日本、堅牢な制度が阻む新しい風 東大大学院教授 林香里
(はやしかおり)から
 総選挙が終わって、世の中は経済対策の話で盛り上かっている(ように見える)。けれども、私の中では結果を咀嚼しきれず、オイテキボリ感がぬぐい切れない。
 政治学者の白井聡は、「選挙結果が物語る事実は、日本の有権者は政権交代を望まなかった、ということ」と総括した。しかし、果たして今回の「選挙結果」は、日本の有権者の意向を正確に反映する「事実」だったのだろうか。
 政治思想研究者の藤井達夫は、新自由主義によって個人化が進み、ポピュリズムによって権力が私物化される先進諸国では、選挙=民主主義の等式は崩れ去ったと論断する。藤井によると、福祉国家が完成していく20世紀の中盤までは、政党が富の再分配をめぐる民意の合意形成母体となり、選挙が民主的手続きとして機能していた。その後、政治の争点は多様化し、選挙は民主主義の理念を実現する役割を果たせなくなったという。世界中で選挙制度のあり方が問題視される中、日本では今回も自民党一党優位体制が選挙で承認を得た形となった。

政治学者の藤本一美が、10月21日にどのみち任期満了になる議会を岸田首相がわざわざ14日に解散した経緯を、「弱気の首相像」を打破し、「総裁選の熱があるうちに」やろうとしたからだと説明する。新しいリーダーの自己都合ともいえるような理由で日程が早まった選挙の投票率は、結局、56%ほどで戦後3番目に低かった。
 急ごしらえの選挙では、顔も名前も知られる現職かつ与党の議員が有利になる。政治学者のケネス・盛・マッケルウェインは、公職選挙法が自民党現職議員に有利になるよう戦後少しずつ改正されてきたと裲摘した。なかでも選挙運動期間に関しては、公職選挙法が定められた1950年当時は30日あったにもかかわず、その後徐々に短縮され、同法はますます自民党現職議員に有利に働くようになった。
 自民党か築きあげた「現職重視」の仕組みは、女性議員を増やすことも阻んでいる。政治学者のシン・キ・ヨンはとりわけ政権与党の自民党と公明党の女性比率が最も低いと指摘。中でも議席の大半を占める自民党が「現職議員を優先的に公認候補者とするルール」をもっており、平均値を下げていると批判している。新たな突破口を開くには対抗する強制力ある制度と仕組みが必要だ。
 政治学者の粕谷祐子も、そもそも日本の公職選挙法が「現職優位を維持するための『べからず集』であり、候補者のキャンペーン活勣や市民参加に関して世界に比類なき自由度の低い制度だと述べている。
また、現代の公職選挙法は、遡れば1925年に定められた普通選挙法を起源にもち、富裕層出身の代議士たちに、労働者を支持母体とする政党を台頭させたくないという意図があったことも否めない」と解説する。
政治学者の善教将大は、維新の会は、大阪のための政党というイメージを定善させて地盤を築き、短期決戰だったからこそ他党を制し、「問題なく自民党と張り合え」たというのだ。このように振り返っていくと、選挙を通して新たな風を起こすことがいかに難しいかが、だんだんとわかってくる。

とはいえ、香川1区のように、古株の自民党現職が小選挙区で敗れたところもあった。「初代デジタル大臣」平井卓也氏の平井家が経営する「四国新聞」が、選挙で議席を競った小川淳也氏に取材せず、小川氏の発言に批判的な記事を掲載した。レポーターが理由を聞きに四国新聞を訪れたものの、最終的には同社から取材方法に「問題はなかった」との返事を回答期限1分前に、ファクスで受け取った。
 このほか、にわか仕立ての選挙ゆえ、在外投票が間に合わない、二つの政党が 「民主党」の略称を使用したなどの混乱や、島根1区では「かめいあきこ」さんが2人立候補するという珍事も起こり、ネットを中心に話題になっていた。
一連の出来事は、私たちの一票の重みという観点からすると、もっと注目されてしかるべき出来事だったと思うが、情勢調査、および放送秒数や記事行数を過度に気にするなど、機械的な「公平」報道に全力を注いでいた選挙期間中のテレビや新聞の報道では、影が薄かった。
 囗本の選挙は課題山精だ。選挙を歴史と制度の両面から掘り下げる論壇らしい議論が、来年7月の参院選までに積み重ねられることを期待したい。


・国の制度、恩恵から漏れる人達。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6410658

・年収960万円があぶり出した家族像。
https://www.newsweekjapan.jp/mochizuki/2021/11/960.php

・日本経済、最大の問題はコロナではない。
https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2021/11/post-165.php
コメント:ところで必ずインフレが来ます。どうやって資産を守ればいいのかが問題です。

・富裕層は言行不一致な投資を絶対にしない。
https://diamond.jp/articles/-/288411


2049.消えたコロナの謎 21/11/27

日本で第5波が急速に減少した理由を、誰も説明できていませんが、週刊新潮の12.2号でも、この話題を取り上げています。
「ワクチンのみでは説明がつかない。なぜ日本だけ収束? 消えたコロナの謎に答える」から
… 国立遺伝学研究所の井ノ上教授は「私たちの研究の結果、ウイルスの間でエラーがどんどん増えていったことがわかっている。これはコロナがすでに死滅に向かっていることを示唆し、私は、日本ではデルタ株はすでに感染性が低くなっていて、新しく流入しないかぎり、感染は起こらないだろうと見ています。さまざまな要因が重なってのことでしょうが、現時点では心配する必要がなくなったかと」
… さる専門家が加えるには、井ノ上教授らのような説が政府の勉強会で示されても。
 「(感染者の減少は)人流が減り、ワクチン接種が進んだおかげだ、とまとめられてしまっている」 とのこと。東大名誉教授の唐木氏が呆れて言う。
 「人流抑制を推してきた専門家は、そう言い続けるしかないのでしょう。人流抑制に効果がないわけではありませんが、目に見えて効果を上げるには、中国のように徹底して行う必要がある。それでも専門家が人流を推すのは、ほかに対策を提案できないからです」
 とはいえ、井ノ上教授も、「もう波が来ない」とは言わず、いまもアルファ株とデルタ株が混在し、感染を広げている国があると認める。現に韓国は、ワクチン2回接種率が78%と、日本より進んでいるが、―日の新規感染者数が3000人を超え、過去最多レベルになった。原因はデルタ株だという。デルタ株が消えたというのも、日本にかぎった話で。
 「それにデルタ株がなくなると、日本では次の株が感染拡大しやすくなるとも考えられる。新しい株は、基本的には海外から流入しますから、持ち込まれた場合、いまの日本には第6波が起きる素地があります。だから水際対策はしばらく必要です」
 要は、まだ油断はできないということで、海外から感染力が高い変異株が流入する危険性がある以上、再び医療逼迫、さらには医療崩壊などという言葉を聞かずに済むよう、引き続き医療態勢の充実が望まれることは、言うまでもない。
 ところが、その点に懸念が生じている。政府の「新型コロナウイルス総合対策」から、これまで使われていた「幽霊病床」という語句が消えたのである。
 「幽霊病床とは、医療機関がコロナ患者用に申告して補助金を得ながら、使われなかった病床のこと。政府内でも今年8月ごろから普通に使われ、岸田文雄総理も当初はこの言葉を明記したうえで。解消すると言っていたのに、ここにきてすっかり消えてしまいました」(厚労省担当記者)
 なぜかと思えば、やはりあの人物が暗躍していたのである。
日本医師会の関係者が声を潜めて言う。
 「その言葉が消えた当日、日本医師会の常任理事の一人が、こちらが聞いてもいないのに”中川(俊男)会長が自民党に働きかけ、幽霊病床という言葉が削除された゛と、中川さんのお手柄であるかのように話していました」
 日本医師会に尋ねると、
 「風評被害や感染リスクを乗り越え、がんばっている医療現場のためにも、『幽霊病床』という言葉を用いないようお願いした結果、削除されるに至っています」
 と、あっさり認めたのである。東京脳神経センターの川口医師が批判する。
 「医師会の言い分は大別して二つあり、一つは、補助金を受け取っている民間病院の多くは、申告通りにコロナ患者を受け入れているというもの。しかし、民間病院が受け入れた患者の多くは軽症で、第5波で問題になった、自宅で急変する可能性が高い中等症患者は、満床などを理由に受け入れ拒否したところが少なくありません。二つ目に、スタッフなどの人材不足を挙げ、空床を正当化していますが、本末転倒です。コロナ患者を受け入れた際の人員や態勢、能力などを勘案し、整備したうえで申請するのが筋で、補助金もそれを担保した病院がもらうべき。かように医師会の言い分には綻びが見えます」
結局我が身は自分で守るしかない、ということになるのか。
(以下略)
コメント:南アで強力な変異株が確認されています。油断などもってのほかです。
現場の医師や看護師、救急隊員が奮闘して疲弊した話はよく聞きますが、ではその上に立つ、病院経営者や病院長、中でも厚労省の幹部医官は、何をしていたのだろうと思わざるを得ません。酷い言い方をすれば、医療機関の既得権に胡坐をかいて、経営者としての努力も苦労もなく補助金を得ていたことは、絶対にないと言い切れるのでしょうか。中には墨田病院のように率先してコロナに取り組んだ病院もあり、救急外来は絶対に断らないという方針の病院もあります。だから一律に判断できないことは確かですが、中川会長のような例を見ていると、病院への信頼が揺らぎます。まして幽霊病床という言い方を変えれば、それだけで病床逼迫や在宅死の問題が解決する訳でもないでしょう。
メディアには、機会をとらえて病院経営者の倫理観を問い糺してほしいと思います。なにしろ北海道医科大学の学長のような、人倫に悖る例が実際にあったからです。日大の背任事件に関与する大阪の医療法人の理事長も、言語に絶する乱行です。北海道の例を、ご存じの無い方の為に説明すると、傘下の病院がコロナ患者を受け入れたというだけで、病院長を解雇したのです。学長自らは、昼間から酒を食らってふらついていたのにです。
ちなみに、第5波の収束の原因は、ウイルスのコピーエラーだということを最初に指摘したのは、東大先端技術研の児玉龍彦名誉教授です。

・6カ月での接種は、厳格な基準。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6410739
コメント:接種は権利ではなくて、半ば義務なのです。なぜそうまでして、厚労省は自省の権威(または権益)を守りたいのか。存在感を主張したいのか。もはや日本の国民にとっては、反省も無い厚労省の幹部と医官は、ただの厄介なお荷物になってきているように感じます。

・南ア変異株、日本では未確認。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6410769
関連記事:最も激しい変異。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-59413580
関連記事:高い感染力。
https://www.cnn.co.jp/world/35179988.html
関連記事:入国制限強化。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211126-OYT1T50201/


2050.趣味のオーディオ 21/11/28

重病説だって、いい加減な事を言うなと小池知事。
ならば問う、なぜ入院期間を含めて
一か月も休みを取ったのか。
長期休暇(又はずる休み)が取れるほど、
東京都知事職は暇なのか。

メディアもメディアで、
黒いタイトスカートに黒い革ジャンで
決意も新たに颯爽と登場などと
誰のための印象操作なのだろう。
メディアは同じような贔屓を、他の女性議員や、
安倍や岸田にしたことがあるだろうか。

木下都議が辞めた直接の原因は、
小池が後の面倒を見ると言ったからだと証言した。
ところが直後に、小池は復帰のハードルは高いと言った。

しかも交通事故は投票の前日で、
自分は何も聞いていないと強調。
お馴染みの狸芝居、お得意の二枚舌。

一つだけ言えるのは、小池知事にはこの件が、
相当に応えたらしいということだ。
だからほとぼりが冷めるまで休養したのだろう。

毎日のように、木下を激励している知事の映像が流れた。
やってられないと思ったことだろう。
でも国民から見れば、小池のメディア操作に
綻びを作った木下こそ、国民栄誉賞だろう


今回の前書きは、趣味の話題です。私事ですが、終活の一環として趣味の整理を始めました。最も道具がかさばるのはオーディオ(昔はステレオと言った)です。アンプやCDプレーヤーは、持ち運びと言う点で、交換が可能なので、数年おきにアップグレードしてきました。一方、40年も使ってきたスピーカーは、オールリボン型で音質は気に入っていたものの、幅があるので、場所を塞ぎます。知人に譲ろうと思ったのですが、運ぼうにも、自分一人では動かすこともできません。これでは将来、処分が面倒になる事は間違いないので、今のうちにスピーカーを小型のものに取り換えようと決心して、ネットで小型スピーカーの評判を調べ始めました。

各種の評価を読んでみて気が付いたのは、最近のスピーカーは小型でもかなり高音質で、低音も出るらしいことです。私がオーディオに入れ込み始めた50年前は、大きいことはいいことで、低音を出すには大型のスピーカーが必要であり、私も当時はタンノイの38センチのスピーカーを使っていました。口径が大きいので量感はあるものの、しまりの良い低音など望むべくもなく、艶やかな弦の音の為には低音を犠牲にしなればなりませんでした。一方、締まりの無い低音でジャズを聴くこともまた考えられなかったのです。でもこの半世紀、メーカーもボーッとしていたわけではないようです。スピーカーは小型化が進み、同時に高音も低音も出るように、音質もクリアでリアルになるように、努力をしたきたようです。その背景には、ハイレゾなどの音源の質の向上があった事が考えられます。

音響機器は、店頭に出向いて試聴して選ぶのが筋ですが、過去の経験で、店頭で自分が使っていない機器をつないで比較しても、正確な判断ができないことは分かっています。そこで、無謀を承知で、ネットの評価だけで(言い換えれば他人の耳を宛にして)判断することにしました。私のセオリーは、オーディオは、新品を買う必要はないというものです。それは高級オーディオはバカ高いし、製品寿命も比較的長く、程度の良い中古をリーズアブルに入手できれば、実用上の問題はないからです。

ところが今回これと思った製品は、未だ中古がなく、不本意ながら未使用品を購入しました。いざ製品が届いて試聴し、まず驚いたのは、ウーハーが10センチ強に過ぎないのに、低音が十分に出ていることです。しかも高音も、耳障りにならない程度に伸びています。傾向としては一言で言えばドンシャリです。但しこれはオーディオの永遠の課題です。はっきりくっきりした音を目指せば、音が堅く刺激的になりやすく、逆に聞きやすく滑らかな音を目指すと、音の輪郭が崩れ、締まりがなくなります。理想は締まった低音と、スムーズな高音ですが、これを両立させるのは至難の業なのです。そこで真空管アンプに取り換えたり、ケーブルを変えたりと、泥沼にはまることになります。しかも基本的にドンシャリ系の音は、音の明確さと引き換えに、中音が薄くなり、ボーカルが奥に引っ込んでしまう傾向があります。

それでもある程度ボリュームを上げれば、全体的にバランスが取れてくるのですが、戸建てでもあまり大きな音は出せません。そこで思いついたのは、中音が前に出るスピーカーと組み合わせて、マルチスピーカーにしたらどうなるかです。誰もやっていないので、結果は自己責任です。幸い、今回は(音像が前に出る)DALIの小型スピーカーの中古が見つかりました。そこで2種類のスピーカーを併用してみたところ、心配した音質の違和感が少なく、音像も出過ぎず、引っ込み過ぎずの位置に定位しました。いままで使っていたスピーカー(アポジー)は、ハードオフの出張買取に依頼しました。

オーディオの目標はどれだけリアルな音(原音)とニュアンスに近づけられるかです。派手な音を好む人もいるでしょうが、私の場合は、目の前で本人が歌っているように聞こえる、あるいは目の前で楽器が鳴っているように聞こえる、それがオーディオの理想の姿だと思っています。

この数十年、オーディオの技術は目覚ましく進歩しているようです。レコードプレーヤーが消滅(今一部復活)し、CDもスーパーオーディオCD(SACD)になりました。サンプリング技術も進化してハイレゾになりました。CD販売店が立ち行かなくなり、音楽はネットで販売されるようになりました。ウォークマンがiPodになり、イヤホンがワイヤレスになりました。とてもではないが、今から時代の変化に完全に追いつける自信はありませんし、そこまで追求する気もありません。

ちなみにマニアにしか関心はないでしょうが、私の低価格高コスパオーディオの現在の構成は、スピーカーがB&Wの707と、DALIのメヌエット(中古)、メインアンプはソフトンの300Bを使った真空管アンプ(中古)を2台。DACは古いワディアを未だに使っており、プリは低価格の真空管の中華アンプを二台。ケーブルはベルデンとアクロテックです。どれだけ総費用を抑えて、音質を改善できるかがポイントです。

ところで、私は紅白を大分前から見なくなっていますが、音楽が嫌いになった訳ではありません。学芸会が嫌いなだけです。また最近の曲は、(歳のせいで)あまり良さを理解できません。私が聴くのはボーカルがメインです。参考になるかどうかは分かりませんが、私が良く聞くボーカルのナンバーをご紹介しますので、機会があったら聞いてみてください。なーんだという曲ばかりですが、知らない曲もあるかもしれません。
「花は咲く」
改めて説明の必要はありませんが、お勧めは大勢で入れ替わり歌う、フルバージョンです。今更言うまでもなく、歌とは曲プラス歌詞であって、どちらが欠けても成立しません。この歌の特徴は、311で亡くなった人の視点での歌詞で、これまでになかった発想です。
「ユー・レイズ・ミー・アップ」
歌手はラッセル・ワトソンです。助けてくれた人への感謝の歌です。内容的に近い曲に、明日に懸ける橋(S&G)がありますが、そちらは助ける側の歌です。
「リバー・オブ・ドリームス」
歌手はオネスティで有名なビリージョエルです。オネスティの歌詞もよく出来ていますが、この歌の場合は、歌詞はやや哲学的ともいえる内容です。歌詞が分かりにくい歌としては、他にエルトン・ジョンのサクリファイスもあります。この三曲を知っている人は少ないかもしれません。
「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」
朝ドラでも取り上げられました。ルイ・アームストロングがだみ声で歌っています。結局のところ、この世はなんて素晴らしいのだろうという、チョー前向きな歌です。
「グリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム」
歌手はトム・ジョーンズです。死刑囚の歌ですが、人間は死から逃れられないという意味では、皆似たようなものかもしれません。
「煙が目にしみる」
プラターズが有名ですが、ここでは渋いところで、ウィリー・ネルソンがお勧めです。なお、ナット・キング・コールの歌も捨てがたいものがあります。
「ウインド・アンド・ローゼス」
私はこの曲が五輪真弓の代表曲だと思っています。
「カントリー・ロード」
航空機事故で亡くなったジョン・デンバーのヒット曲です。故郷に帰りたいという邦題が付いています。
「サライ」
説明の必要はないでしょう。歌手は加山雄三と谷村新司です。架空の故郷(サライはモンゴルの旧首都名)をテーマにした歌です。
「浜辺の歌」
これも説明不要ですが、お勧めの歌手は倍賞千恵子です。昔の歌曲は歌詞が上品です。





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