「WTWオンラインエッセイ」
【第15巻の内容】
「多数決は民主主義の全てではない」
「世相を悪くしているのは誰なのか」
「紅白歌合戦の感想」
「朝まで生テレビから」
「多様性の国家を目指して」
「UFOを信じますか」
「Windows10について」
「WTWのルーツは壁新聞」
「最近の国会質疑から」(全3回)
「民主党に告ぐ、その2」
「首相訪ロの危険性」
「三たび民主党に告ぐ」
「ジャック・アタリと難民問題」
「多数決は民主主義の全てではない」 2015/12/29
多数決がいつも正しい、というのは安倍政権と(あきれたことに)民主の代表の考え方である。そもそも野党がそう考えてしまったら、その時点で負けだ。野党になった政党には存在価値がないという事を自ら認めたようなものである。それは議会制民主主義の否定でもある。単純な多数決がいかに悲惨な結果を人類にもたらしたかは、第二次大戦を振り返るまでもない。二院制と三権分立は議会制民主主義の暴走を抑えるために、尊い犠牲を払って人類が考案した仕組みだ。それさえ安倍首相とその閣僚達はお分かりにはなっていないらしい。ポピュリズムとナショナリズムが結びついた時に、集団の熱狂と狂気が生まれる。米国の共和党支持者や、仏の極右政党にもその兆しが感じられる。安倍政権が目指すのはその方向である。差別を前提にした排外主義がもたらすものは、排除する者と、される者の対立だ。それはヒットラーのナチスと同じものである。大戦であれだけ大きな犠牲者を国内外で出した日本は、そうした世界のネガティブな潮流に対して、唯一最後まで抵抗する必要と義務があるのだ。
「世相を悪くしているのは誰なのか」 2015/12/31
今年の1月、後藤さんがISに殺害された。日本政府の無作為を含めて、2015年の重要な出来事として、この事件を忘れることは出来ない。その安倍首相への不信感は、夏の安保法制の強行採決で頂点に達する。
私は、日本が今のように夢も希望も持てないような国になってしまった、いやしてしまったのは、政治に大きな責任があると思っている。
私は安倍政権が国の為に正しいと心から信じるのであれば、やむを得ずという枕詞が必要にしても、米国への追従外交を選ぶのも選択肢の一つではあると思う。但しそこには、大多数の国民の意思に背いているという大問題がある。呆れたことに今の日本には、安保法制に反対し、憲法9条を支持する国民はサヨクだという、共産主義の何たるかさえ知らない不勉強さと、時代錯誤が同時に存在している。またそのような感情的で右傾化した人々が、民間だけでなく、教養程度が高いはずの公務員でも増えている。人間とは、かほどに容易に、信念も定見も投げ捨てて、保身と上司の圧力で権力に付き従うものであったのかと、今更のように愕然とさせられる。
あるいはこういう反論があるかもしれない。軍部による太平洋戦争に至る全ての戦争を、日本国民は熱狂的に支持したではないかと。戦争を支持した国民も少なからずいただろう。同じ時代に生きていたら自分もその一人だったかもしれない。でもそれは国民に自由な意見の表明と行使が可能であり、言い方を変えれば政治家や軍部の行動を批判することが事実上許された社会でのみ指摘することを許されることである。国政を批判する者は投獄され、あるいは世間から非国民として排除されるような社会にあって、そう言うのは言い訳に過ぎない。それでもなお信念を曲げないような人達だけならば、そもそも、戦争にはなっていなかっただろう。しかも国民が情勢を判断する材料となる情報そのものが真実とは程遠い、脚色されたものだったのである。今の日本が大戦前の日本と酷似していると、故野坂昭如は喝破した。その言葉を信じたくはないが、それが真実であることを認めざるを得ない証拠が、日々増え続けている。
上記で述べたように、人間は弱い。上層部や上司の指示さえあれば、ことさら暴力で恫喝しなくても、容易に考えを変える。但しそこでは本心、理念、思想は別であり、しかも伏せられている。そういう社会的な制約がなく、自由に本音を言える立場の主婦(と母親)と学生、退職者だけが体制を批判する意見を述べられるのである。働く国民たちが、自分の気持ちを人知れず表明出来る場が、無記名の選挙だけとはあまりに切ないではないか。サヨクという蔑称でリベラルな国民を一括りにしようとする、知性にも教養にも欠けた(ように思われる)人達に伺いたい。そういう人達が理想とする日本とはどんな国なのかと。外国に軽んじられず、要求を押し通せる強い国なのだろうか。ではその先には何があるというのか。
言葉を変えよう。平等をどう考えているだろうか。他人が自分と同じように血の通った、人権を尊重されねばならない、健康で安全に生存する権利のある存在だと思うだろうか。それとも自分とは異なる存在だと思っているだろうか。表現を変えれば、時に臨んで、出来る範囲ではあっても、他人の為に何らかの形で自分を犠牲に、あるいは譲歩する用意があって言っているのか。それとも自分は別格だと思っていての発言なのか。いま日本で、青少年による、残虐でかつ虚無的、かつ無感動な(それこそがまさに悪魔の特徴)犯罪が増えている。そこには正義感も倫理観も、何より他人が自分と同じ人間だという平等の感覚、そして人間としての平衡感覚が欠落している。肥大化した自我がモンスターとなり刃物を振り回す。心の中の悪魔が人間の姿を借りて、他人を殺傷して歩いているのだ。
またそこには、リベラルな国民のデモ隊に罵声を浴びせる人達と共通の何かを感じる。誰にも分る言葉で自分の立場を説明することが出来ないという点でも、両者は共通していル。自分以外の誰にも理解出来ない論理。それは自分だけが特別の存在だという、自我肥大で自己中の考え方、感じ方である。彼らがうっかり口を開こうものなら、おぞましい本音が口をついて溢れ出すだろう。自分だけを特別扱いする意識では、到底冷静な議論には耐えられないのだ。なぜならそこには差別意識と、異質な者へ憎悪の感覚だけしかないからだ。しかもそういた歪んだ感情はいずれはけ口を求め、自分と他人を傷付ける。冷静でもなければ、問題の根本的な解決でもない。安倍政権を頂点とする超保守のタカ派の人達に一脈通じるの者は、犯罪者ほど酷くはないにしては、こうしたジコチューの意識である。話し合いの拒否、他の国民や外国の人達との共感の欠如、そして己の言動への無責任さ。彼ら(ネトウヨを含む)がリベラルな者達をいくら異端のように非難しようとも、国家主義の彼らの方が、長くもない民主主義の歴史の中では異端だったのである。
但し無論のこと、安倍首相とその側近が日本が抱える問題の全てに責任があるわけではないう。しかし以前なら議員辞職に相当するような不祥事でも、その全てをもみ消してきたという恥ずべき実績を否定できないだろう。それが日本の国民にボディーブローで効いてきて来るのである。国のトップが、自分の価値観だけで民主主義も、憲法も、正義も、国民の良心も踏みにじったという事が何を意味するのか。どいうやらご本人にはそれが全く分かっていないらしいが、そんなリーダーがいる国の青少年が虚無的な犯罪に走る。それは当然の帰結かもしれないのだ。
正義も良識も失われた国に住むということがどれほど恐ろしいことか。近い将来、それはより悲惨な形で具体化するかもしれない。しかも国民の多くが日々の生活で忙しくて、予感も実感もしていない。今日と同じように明日も平穏にやって来ると信じている。政官財という、そのまた背後では利権が支配する、大きな力に押し流されるままになっていることから、敢えて目を背けている。なぜなら誰も、今が戦前だとは言わないからだ。
しかも言論人が、政府や行政機関を批判でもしようものなら、出入り差し止めで、取材を拒否される。個々の国民が、余程の覚悟で臨まない限り、国民から情報収集能力と、批判力、判断力が取り上げられており、失われている。それも自主規制の名の下に。そのことが一層恐ろしい。自民党の唯我独尊の傲慢さ、安倍首相の身勝手な価値観こそが、世相をここまで悪くした元凶だと思わざるを得ない。
何度も冒頭で書かせて貰ったが、言いたいことは、つまるところ、毎回ほぼ同じだ。正に耳タコだったと思うが、辛抱強くお付き合い下さった方々に、この場を借りて、改めて御礼を申し上げたい。後藤さんの悲劇で始まり、災害や事故やテロが相次いだ散々な歳、2015年も間もなく終わる。悲惨な出来事は今年だけで終わりにしたいものである。来年こそ良い年になるように。皆様もどうか良い歳をお迎え頂きたい。
「紅白歌合戦の感想」 2016/1/1
紅白ブタ合戦の総括である。紅白の良いところは、今年の大衆音楽を、まとめてレビュー出来ることだ。特に女性歌手は緊張すると輝くが、紅白ではそれが特に顕著である。やはりここでも若い人が有利で、一番見栄えがしたのはAKBだった。
なおイノッチの司会起用は正解で、気負わない雰囲気が番組に普段着の印象を与えていた。いくらしょうゆ顔でも、歌って踊れるというのは司会者として大きな取柄だ。米国ならMCには必須の才能である。ちなみに紅組司会の有働は、背中の空いたドレスを着るのなら、背中に余程自信がないとお年を感じさせてしまう。
私は就寝時間が早いので、生では見ない。こういうときに録画機の早回し機能が助かる。いま早回ししながら原稿を書いている。
最大の疑問はプロデューサーの価値観にある。日本の大衆の知的レベルをどう考えているのか見当がつかないからだ。但し良いところもある。それは視聴者を楽しませようという強い熱意と意欲が随所に感じられる点だ。
総合司会の黒柳は、考え方はまっとうでリベラルではあるけれど、紅白のステージ上では、奇抜な衣装とあいまって、ただの派手なおばさんに過ぎなかった。盛り立て役のバナナマンはいつものようにタメ口で、他にも選択肢はあるのではないか。
ステージに載せられるだけ載せて、数で勝負するのでは自民党と同じだ。NHKでないと聞けないという、歌の質で勝負すべきである。お祭りに振れば、大衆はいずれ飽きる。質を高めれば長持ちする。しかし中には自分の方がましだと思うような、本当に下手な歌手も相当いた。平均しても、音楽の質的なレベルではベテラン歌手(今井美樹や高橋真梨子など)を除けば、それほど高いとは思えなかった。新規登場のグループでも、これと思うものは(あくまで私から見て)殆どなく、新人、新曲の多かった演歌でも、これというものには出会えなかった。演歌部門では、細川たかしの登場でやっとホットするという状態だ。ベテラングループの中では、難しい歌ではあったにせよ、トキオの歌がかなり下手だったのには、びっくりポンだった。下手さでついにSMAPを超えたらしい。ちなみに美輪明宏のヨイトマケの歌は不適当な選曲だった。どうしても歌わせたいのなら、シャンソンでも歌わせるべきだろう。森進一の熱唱も今の若い人には違和感があると思う。更にオケも時々ずれているように感じた。最初に出たのが郷ひろみで、トリが松田聖子という配役に皮肉さを感じたのは私だけだろうか。要するに音楽の祭典なのに、肝心の音楽があかんかったという訳や。
与えられたものに、あれこれ文句を言っても始まらないが、全体的な印象としては、(いつものように)紅白という名前に胡坐をかいているか、またはNHKという印籠をすぐに取り出す水戸黄門みたいだった。ちなみにプロデューサーが何を考えたのか、肥満体の男の裸が売り物(?)の明るい安村はステージ向きでも、茶の間向きでもない。彼を背景に歌わされた細川が呆れていた。プロデューサーが男の裸に格別の関心でもあるのだろうか。
紅白いちばんの見どころはやはり「365日の紙飛行機」だった。昨年ならマッさんのテーマの場面というところだ。水木しげるの追悼も結構と思う。しかし水森が乗っていた鳥は、落ちたら命がないだろう。ダースベイダーは兎も角、BB8の登場にはちょっと驚いた。
一夜明けて(いや年が明けて)新春新企画で一番良かったのは富士山頂から朝日が昇る初日の出の中継だった。時間がちょうど朝食の時間帯だったこともある。なおコパによれば今年はこれと決意したら、実現するのだそうだ。ならば皆様と一緒にがんばりたい。私の決意は今更言うまでもない。政権の交代だ。
「朝まで生テレビから」2016/1/4
WTWのポイントは、記事の選択眼に曇りがないか、判断が庶民の常識から逸脱していないかどうかだ。将来、WTWが国民の視点を忘れる事があれば、その時こそ存在理由を失うことになるだろう。庶民目線ではあっても、例えば朝生に居並ぶ有識者の半数は自分以下(竹中・三浦・長谷川=歩く独断と傲慢、を含む)だという自負がある。それは(そんな事は絶対にないだろうが)仮に議論の機会が与えられれば、多分そうやすやすとは彼らには負けないだろう、いや負けたくないという意味である。なぜなら専門知識では太刀打ちできなくても、よって立つ理念と価値観が間違っていると思う根拠がないからである。
なお直近の朝生(1/1早朝)では、最初に野坂昭如の追悼があったのは良いと思う。この日にまともと言える論者は森永卓郎と孫崎亨だった。怪人小林よしのりは、尖閣を中国が取りにきても、中国とは絶対にことを構えたくない米国は助けには来ない、だから日本は自力で領土を守る議論が必要だという説を唱えていた。後半の意見には異論があるが、前半の理屈には説得力がある。私も米国は絶対に日本の領土問題には手を出さないと思う。何故なら米国の国論がそれを許さないからだ。森本元防衛相の、サウジを使って自国の手を汚さずにテロと戦わせる、ISをシリアに閉じ込めたいという米国の戦略の分析も分かる。またシリア国内に基地を持っているロシアのISへの空爆がきいており、なぜならロシアの空爆は頻繁な上に雑で、いわば人道抜きの絨毯爆撃なので、米国の空爆より脅威だと言っていた。
孫崎は、米は対テロ戦略で失敗していると指摘していた。確かに失敗しているのは事実であり、まずそれを認める必要がある。その失敗している戦場に自衛隊を投入せよと言われても、ベトナム戦と同じような消耗戦になるのは目に見えている。だからこそ、米国も地上部隊の派遣を渋っているのだ。要は双方にとって無駄な犠牲の積み重ねになる可能性が高いということである。また爆弾を体に巻いて突撃して来る少年兵を、果たして自衛隊員が撃てるだろうか。それにアラブでの戦闘は米本土への攻撃でもない。あくまで米国が出かけた先での戦闘なのだ。
戦地での取材を担当してきた、アジアプレスのジャーナリストの坂本卓氏の意見は非常に説得力があった。今後この人の言動には注目したい。今の安保法制は国内事情ばかりで、何が積極的平和主義なのか良く分からない。何故国際的な視点で情勢を考えようとしないのだろう。武力行使が前提では根本で間違っている。ISに子供たちを取り込ませないためにも、現地の貧しい子供たちの教育が大事だと言っていた。自民党から参加の山本一太は、(いつものように)意見を聞くだけ時間の無駄で、空疎な口説の徒という意味では、竹中と良い勝負だった。
なお別のテレ朝の番組で、司会の鳥越が、駆け付け警護と言っても、警護という言葉通りの柔らかいものではなく、相手が銃を撃てば撃ち返すので、事実上の銃撃戦だ。ついに海外の戦闘で自衛隊に犠牲者が出るという意味だと説明していた。私もそう思う。
「多様性の国家を目指して」2016/1/5
私は見た目で人を判断する。以前見た目で選んでなぜ悪いと開き直った女子のCMがあった。相手と直接会って言葉を交わす機会があれば、より的確な判断が下せるのだろうが、初対面、或は画面を通してという場合は、外観で判断するしか方法は無いのも事実である。でもそれは物理的なイケメンや美女が良いと言っている訳ではない。私が重視しているのは、ルックスに加味された人間的な要素、即ち人格が醸し出す雰囲気であり、人となりなのだ。分かりやすく言えば感じの良さである。
持って生まれた姿、形は基本的に変えられない。しかし中身、即ち魂の持ちようでいくらでも印象は変わる。いかなる美女でも、下品で無教養な言葉が飛び出せば、印象は台無しだ。だから一過性の美容にお金をかけるより、教養に費用を掛けた方が見返りは大きい。
逆に、外見だけでその人がどういう人かを正確に判断できれば、苦労は無いとも言える。しかし実際にはイケメンの詐欺師もいれば、性悪の美人もいる。
私が外観で判断できなかった一人は、ファーストリテイリング、即ちユニクロのY会長だ。イケメンとは言えないまでも、若々しい印象だ。しかしブラック企業との評判を得て、それが落とし穴であることが分かった。逆に一目ほぼ正確に判断できたのは経団連の前会長Y氏だ。血の通わない性格であることが直感的に伝わってきたからで、その後の311対応などの言動を聞くに伴い、その確信は強まりこそすれ、改善されることはなかった。ユニクロの場合は、最近分かったもう一つのマイナスの要因は、移民の奨励案だ。ここで話題が変わる。
日本への移民の奨励は、それ自体はある意味で筋が通っている。少子高齢化の日本が、国として経済の拡大が出来ないまでも、現状を維持してゆくために、移民の誘致自体はあながち間違いではない。しかし本人が気づいているかいないかは別として、Y氏の理屈には大きな欠陥がある。端的に言えば、Y氏は、移民が日本人より経済的に恵まることを想定してはいないということだ。即ち、暗黙の差別主義の上に成り立った移民政策なのではないかという疑念が拭い切れないということだ。日本人がより豊かな生活を送るために、外国の移民が奉仕するという図式が前提になっているとしか思えない。
でもそのような日本人だけが楽をして得をするというスキームは、そもそも身勝手だし、見通しも甘過ぎはしないだろうか。私の危惧の根拠は、先般、パリで発生した同時多発テロだ。実行犯は仏の国内育ちであり、貧富の格差に対する不満からテロに走ったと言われている。同じことが日本で起きないとどうして断言できるだろうか。定見もなしに移民を誘致することは、そうしたリスクが増える事を意味してはいないだろうか。Y氏や安倍政権に、果たしてそこまでの覚悟と準備があるのだろうか。ここでもう一度話題を変える。
それでは日本は移民を断固拒否して、単独純粋民族の途を選ぶべきなのか。多様な民族による国家というのは実現も出来なければ、望ましくもない存在なのか。おそらくそうではないだろう。民族が移動し、交流し、お互いを認め合う事で、人類の文化は発展してきた。国境を閉ざし、民族主義、国家主義に凝り固まった国家や国民がどのような結末を迎えたか。民族浄化を叫んだナチスやセルビアは、世界から批判され、攻撃された。それはそうだろう。なぜなら世界それ自体が多民族の集合組織なのだから。
安易に移民政策を口にする日本の政官財が危険なのは、その背後に差別主義が見え隠れしているからなのだ。移民を受け入れる以上、全く対等な権利と機会が用意されていなければならない。しかしその覚悟が政府にあるとは思えない。また移民を希望する人達に対しては、日本という国がどのような価値観の国で、何を目指しているかを明確に示せることが必要だ。日本という国が、日本生まれの日本人による日本人の為だけの国だとしたら、そこには何の魅力もない。日本が好きで、日本語を話せれば、どうぞいらっしゃいというのは、外国人観光客を主役にした最近のTV番組ではあり得ても、移民政策では有り得ない。国が彼らに与え、彼らが何をしなければならないかが明確ではないからだ。移民政策(政治的亡命を含む)で一番重要なことは、明確な理念と共通の国旗の下で、協力して共通の理想を追求することを前提にするということだ。国が国民に何をしてくれるのか、国民は国に何をすればいいのかが、明確になっていなければならない。その上で、人種や思想や宗教などにおける多様性が保証されない限り、移民を受け入れることは出来ないはずなのである。
国の理念と理想が高ければ高いほど、遠くから、またより多くの人から見える。そしてその理想ゆえに人々が集まる。同じ理念を中心に集まる人々の集合体。それが国家の本来の姿なのである。米国を目指す者は、自由と平等の機会を求めて海を渡る。なぜならそれが米国の国是であり理想だからだ。ISが国土を持たなくても、自分達を国だと宣言したがるのも、このあたりに根拠があると思われる。共通の価値観である。
そして日本の場合、日本国民の切なる理想を具体的に書き記したものが日本国憲法である。憲法が表現しているのは理想であり、理念だ。だから目先の都合で勝手な解釈をしたり、小手先の改変をしてはならないのである。安倍首相は軽々に改憲を口にする。でもその目的が何かを語ることは滅多にない。明確にしたら、そこで見えてくるものが余りにお粗末で、議論にも耐えられないものなのかも知れない。具体的な目的と期待効果を提示せずに、改憲を提案する事は出来ない。まして個人的な野心で憲法を変えるなどという蛮行は、決して許されるべきではない。
平和主義を掲げているからこそ、日本に行きたい、日本の国籍を取りたいという人もいるかもしれない。ならば本国憲法の精神を理解し、その実現の為に共に努力してくれる人なら、日本はその人を移民として受け入れるべきである。同時にその人にはほかの日本人と全く同じ権利と機会が与えられねばならない。しかし安倍政権も財界も本音では移民には3Kの仕事をやらせるとしか思えない。これでは国内に新たな階層(士農工商移民)を生むだけだ。そしてそうした差別はやがて不満を蓄積させる。それが悲惨な事件な引き起こさないと、誰が断言出来るだろうか。
見方を変えて言えば、移民として日本の国民になった人が、もう一度海外に出て行った時に、自分は日本人だと胸を張って言える、そういう効果が生まれる事が、日本のあるべき移民政策の目標でなければならない。肌の色の違う日本人がそこにある。日本に行けば自由で、安全で、平等で豊かな生活が期待できるとなれば、おのずと優秀な人材も集まる。その為にも、多様な民族に平等な権利を与える度量の広さが国の側になければならない。安倍政権や財界には果たしてそれがあるのだろうか。
民族の純血をカルト的に追求したのがナチスだった。ヒトラーの下でSSを結成してアーリア人伝説を推進したのがヒムラーだ。何所とは言わないが。どこかの国の番頭さんを想起させる。戦時中の日本でも日本人以外は人に非ずだった。三国人などという呼び名があったくらいだ。しかし自らの民族だけが存続を許され、世界を支配すべきだなどという身勝手な論理が世界で通用するはずはなかったのだ。ナチスは第二次大戦で敗退し、セルビアも世界中から批判され、虐殺を指示した同国の大統領は国際法廷で裁かれた。
私は民族主義と、偏狭な宗教観がテロの温床だと考えていえう。しかもそれは独裁国に共通する傾向でもある。北朝鮮然り、中国然り。ここに個人あるいは国がグローバルな世界で生きてゆく資格があるかどうかの判断基準(リトマス試験紙)がある。即ちそれは多様性、即ち自分と異質なものをどこまで受け入れられるかの懐の広さ、いわば人間的な度量の問題だ。身近な例では、子供のいじめも、結局は自分と異なる者への、本能的な警戒感と憎悪が背景にある。所得の格差も憎悪の理由になる。事実、それがテロリストの大義名分に使われている。持てる者(経済力を行使して支配する者)と持たざる者(経済的に支配される者)の格差がその最たるものであって、持たざる者の不公平感や不満を、持てる者は理解出来ていない。そこに問題の根がある。若手ではホリエモンや竹中平蔵は、見ているとコミカルなくらいに他人の痛みには無神経だ。
自分が他と違う、というより他より優れている事を認識したいというのは人間が持って生まれた本能だ。その結果、人間は他人の中に、自分と似た、または同じような部分を探す努力をせずに、異なる部分ばかりを探すようになる。この傾向こそがいじめや戦争、テロの最大の原因でもある。そうではなくて、そうした持って生まれた性向を抑制し、共通部分を探す努力をすることで、初めていじめやテロを減らすことが出来るのである。
今一番危険なのはISなどアラブの武装集団だが、その精神的な背景は、持たざる者の、持てる者や先進国への憎悪である。それが偏狭な民族主義で裏打ちされている。事務総長が愚昧であるがゆえに、世界平和に資することが適わなかった最近の国連の使命も、以上の論点から明らかだ。それは民族主義、国家主義、孤立主義の排除と、宗教と民族を超えた、真にグローバルな全く新しい世界秩序の構築なのだ。単一民族国家や、排他的な主義や宗教の国は、いつか滅びる。それは歴史が証明している真実だ。なぜならそれは人間が持って生まれた人間性に相反するからだ。そして安倍首相が主導する日本の国家主義的な姿勢は、世界が目指す多様化した姿とは真逆であり、日本を破滅に導くものとしか思えない。
個人の尊厳と平等を大前提に、政治の主義、価値観を同じくする人間同士が、日本国憲法の理念のもとに集うことで、初めて差別のない多民族国家=22世紀の日本、が誕生するのである。
「UFOを信じますか」2016/1/6
UFOを信じますかと訊かれたら、どう答えるだろう。私ならこう答える。UFOを信じはしないが、UFOの存在なら信じると。それは私が目撃しているからだ。それも今はやり(?)の集団タイプである。中学生(即ち今から約60年前)の頃、太陽の黒点を天体望遠鏡で観察してスケッチを描こうとしていたら、太陽面を多くのUFOが横切った。数機の編隊もあれば、単独もあり、速度の遅いものは回転していることが分かった。形は全て円形だった。観察の方向と無関係に円形だということは、球形だったのだろう。球形の(円形にしても)高速飛行体など当時はなく(今もないが)、そもそもUFOという呼び名さえ普及してはいなかった。怪しい飛行物体は空飛ぶ円盤と総称されており、短く円盤と呼んでいた。円盤神話と言えば、ケネス・アーノルドの目撃例が引用され、エリア51は存在すら知られていなかった。私は空飛ぶ円盤研究会の集会にも参加したが、それが何かの足しになったことはなかった。
それから半世紀が経ち、しかも天体観望が趣味で、長時間夜空を観察し、無数の天体写真を撮影してきたのに、その後一度もUFOに遭遇することはなかった。これはUFO否定論者が良く引き合いにするところでもある。即ち天体や空を観測する事が専門の人達なのに、そこからの報告例がほぼ皆無なのはおかしいではないかと。でもそれには理由がある。彼ら(私を含む)が科学的な観察眼を備えており、惑星や恒星や星雲、或は単純に雲、を含む、空のさまざまな自然現象や、航空機の識別に慣れており、そのうえ高度な観測機器を使いこなしているからなのだ。近所にお住いの高名な天文学者に、冗談半分にお尋ねした時も、やはりUFO(並びに超常現象)については否定的な答だった。科学者では、ごくたまにUFO現象を否定しない人がいないわけではないが、天文の専門家によるUFOの目撃例は極めて少ない。ましてUFOに乗っている宇宙人の存在などは論外というところだ。でもその一方で、地球外生命の存在を期待し、巨額の費用を投じて真面目に探し続けているのも、実は彼ら(科学者たち)なのである
今回、UFOをテーマを取り上げるにあたり、この場での結論を先に申し上げると、現象の存在を否定しても何も始まらないということだ。敢えてここで現象という言葉を使ったのは、それが目撃であり、物的証拠ではないからだ。残された映像もぼやけた不鮮明なものばかりで、逆に鮮明なものは作為と合成野可能性が高い。目撃談として有名なものに、退職したJALの機長の例がある。冷静でほら吹きの要素もない機長が、しかもUFOの目撃を報告すると確実に地上勤務に回されるのに、UFO目撃の報告書を出した。アラスカ上空で遭遇したい巨大なUFOは、副操縦士も目撃している。その信じられない大きさと高速移動は、間違いなく人類の乗り物ではなかったと証言している。この現象、即ち目撃証言を疑う理由はどこにも見当たらない。UFO目撃を証言することがこの機長にとってはマイナスにしか働かない事を承知の上での証言であり、実際に彼は地上勤務となった。しかもこの例では空港のレーダーもUFOを捕らえているので、そこに何かが存在したことはほぼ確実なのである。
WTWの前書で、様々な例をいちいち検証している紙面の余裕はない。だから論点を絞る。まずUFO共通の特徴は高速移動(とワープ)だ。中に生物が乗っていたら、その加速度で身体は押し潰されてしまう。次にその不可解な動きがある。理性ある生命体の移動の動きとしては滅茶苦茶で、常軌を逸している。意味が分からない。一方、エリア51で目撃されたという三角形の飛行物体は開発中のステルス機だと思われる。なぜならF15が取り囲んで護衛して飛んでいたからだ。UFOは形も大きさも数も様々だ。何故そんなにバリエーションが多いのか、誰も説明できていない。それに一体どこから、何の為にやってきたのかという肝心の質問に、UFO信奉者がまともに答えられた試しはない。
アマチュア科学者の一人として言えることは、UFOには知的生命体は搭乗していないのではないかということだ。ジグザグ飛行や急加速がその理由である。そしてもう一つ。ならば、それらは探査機ではないかということだ。そしてこれが最も重要な点ですが、何故彼らが人類に直接コンタクト(第三種接近遭遇)してこないのかという理由でだ。それは時期尚早、あるいは現状での遭遇が危険だとみなしているからではないのか。1万年前、人類はわずか500年の間に、石器時代から巨大なピラミッドを建設するまでになった。これはどう考えても、不自然だ。しかもピラミッドの四辺の、東西南北との方角のずれは僅か0.1度。現代の技術をもってしても困難な偉業である。また未だにピラミッドの目的が良く分からない。他の遺跡の例では、旅客機3機分の重さの削られた岩が残されており、それをどこからどう運んだのか、誰にも説明がつかない。これらはひとまとめにして、過去の地球外知的生命体が、現代の人類に残したメッセージなのではないか。即ち地球外生命体がかつて地球を訪れたことを後世に伝えようとしているのではないか。古代の壁画に残る宇宙服を身に着けた異形の人間像も気になる。そしてこの仮定の上に立ち、今回私が申し上げたいことは、昨日の前書の続編なのである。
人類の存在に、地球外生命体がとっくに気が付いていて、いずれコンタクトしなければならないと思っていても、今はその時期ではないと考えているのではないか。時空を操る科学力を持つのであれば、人類だけを選んで、地球上から一掃することも不可能では無い。恐竜が数千万年待っても、とうとう知的な進化を遂げなかったことに呆れ果てた彼らは、小惑星を一発地球に落とすことで、先住動物をまず一掃した。地球をガラポンしたのである。現在の人類も失敗作で、人類が地球の寄生虫に過ぎないと思うのであれば、人類だけを選んで殺すウイルスをばらまけば済む話だ。でも彼らは未だにそれをしていない。それは人類の判断を決めかねているからではないのか。そして彼らは日々探査機を飛ばして人類を見守り続けているのではないか。無論彼らが善意の存在だと決めつける十分な根拠があるわけではない。また彼らが地球外生命体などではなく、未来の地球、あるいは併行宇宙の地球から、時空を超えて来ていると、考えることもできないことはない。
そして考えられるのは、彼らが余りに人類とは異質の存在なので、我々の想像もつかないその姿形、思考方法に驚愕した(未だに幼年期でしかない)人類があわてて銃をぶっ放す公算が高いと彼らが判断している可能性もある。彼らが第三種の接近遭遇をしたがらないのは、人類が異質の存在への許容度や免疫が未だに十分ではないからではないのか。銀河連盟(そんなものがあるとしての話だが)としても、人類を宇宙市民のメンバーとして受け入れるには、未だに人類が野蛮で、知的に未成熟だと考えているのではなか。せめて人類が、人種や宗教の壁を乗り越えて、一つになるまでは、地球外生命体との知的遭遇は無理だと彼らが考えているとしたら、すべての現象のつじつまが合い、説明がつくのである。人類内部での争いが収まった時に、初めて彼らは我々の前に姿を現すのではないだろうか。
「Windows10について」2016/1/12
今回はウィンドウズ10に関する私見である。
近所でも、10への移行で失敗した例をちらほら聞くようになった。うまくいかなかった人の話を聞くと、際限もなくアップロードとインストールを繰り返すだけで、実際にはインストールされないままで終わってしまったというものがある。私も同じような経験をしており、いまPCを買えば必ずウィンドウズ10が付いてくる(だから遅かれ早かれアップグレードはしなければならない)という言葉に押されて、自宅の5台のPCを全部10に移行しようとした。移行出来ないものもあった。インストールに失敗した場合でも、古いバージョンがそのままPCに残っているので、今まで通り7か8.1が、そのまま使えるはずだ。また10をインストールした後でも、今回MSは元に戻せる仕組み(ただし100%ではない)を採用しており、その時の手順は以下のようなものだ。
スタートー設定―更新とセキュリティー回復―Windows8.1(または7)に戻す。
基本的にOSが変わると、処理能力は向上するものの、より大きなメインメモリーや大容量のHDDを必要とする。だからOSを入れ替える場合は自分のPCのハードウエアの条件をユーザーが自分で確認することが、これまでの暗黙のお約束だ。その条件が整っていないことが原因なら、新OSが自分のPCで動かなくても、それはユーザーの責任なのだ。しかし今回のMSの強引な10への移行への勧誘では、その大事な前提条件が無視されているとしか思えない。あたかも、画面下のタスクバーのウィンドウズのアイコンをクリックしさえすれば、どんなPCでも10に移行できるかのような錯覚をユーザーに与えているからだ。
でもそれは理屈から言っておかしい。7や8.1が動く環境なら多分大丈夫だろうというのは憶測でしかないからだ。但しPCを立ち上げる度に出る勧誘メッセージは、おそらく7か8.1が搭載されているPCでなければ出ないようにセットされていると思います。一方、今日も試してみたら、勧誘メッセージをクリックしても、ダウンロードが可能な準備状況になったらお知らせするという、そっけないメッセージが出るだけで、今すぐダウンロードのボタンも標示されませんでした。それほど混み合ってきたという事でしょうか。
まず10に移行するに当たって、ミニマムの条件が、タスクバーにウィンドウズのアイコンがあって、そこからPCを立上げる度に、勧誘メッセージが出ることだ。そうでないと、無理やりMSのサイトに行って10をダウンロードしようとしても、結局一晩掛けても、グルグル回るだけで、先に進まない状況になる可能性がある。
地域の講習会でも、1億台にインストールしているとMS社では言っているが、実際には10%がインストールに失敗しているという話も出た。私も10への移行をそれとなく推薦していただけに、この「実情」にはいささか驚いた。インストールできない機種では、7や8.1をそのまま使うしか事実上の選択肢はない。どうしても10を使いたければ10を搭載してあるPCを新規に購入するしかない。
ここで一番大事な事は、どうしても10を使わなければならないという考え方を捨てることにある。それではメーカーの思う壺なのだ。いかにMS社が強引にアップグレードを勧めてきても、今のソフトがそれなりにちゃんと動いていてくれればそれでいいのだという割り切りが肝心なのだ。7で戻せるウィンドウズ10をMSが準備していること自体、機種によっては問題が起きる可能性のあることを、MS自身が認識しているからに他ならないと思う。
アップグレードを強く勧めても、費用だけを無料にして、PCとの相性を含む全てのリスクは、ユーザーの自己責任でという方針らしい。なお10のブラウザ、エッジは、速度は向上するが、サイトのURLをデスクトップにアイコンとして置く機能を持っていない。だからドラッグ・アンド・ドロップしても無駄である。エッジを開いて、お気に入りのリストから入るしかない。これは明らかに一歩後退だ。なお10でも既に修正が始まっている。11月以降のインストールなら、おそらく最新版になっていると思うが、確認をお勧めする。最新版は1511です。
結論の繰り返しになるが、お手元のPCが10にすんなり移行出来るのであれば、私は10への移行(なぜかアップグレードと言われている。OSが変わるのだから、本来はエディション・アップだ。バージョン・アップのように思わせるのもMSの販売手法かもしれない)をお勧めする。理由はいずれサポートが無くなる(これはメーカーの都合であってユーザーの都合ではない)からではなくて、ブラウザを始め処理が速くなるからである。
特に8/8.1はタッチパネル(含むタブレット/スマホ)に拘ったOSで、私もタッチパネルのついたPCを購入したものの、結局その機能は一度も使ったことがない。従来通り、全部マウスで操作している。無論タッチパネルの無いPCの方が大半だろうから、大多数のユーザーは、使いもしないタッチパネル機能のついた、使いにくい8マシンを無理やり買わされてきたというのが現状だろう。
しかしMSも8/8.1の評判が悪いことを承知しているようで、それは8.1のウィンドウズ・マシンの売れ行き不振という冷徹な現実が証明している。そこで、タブレットやスマホでの市場拡大を念頭に、タッチパネル機能とマウス機能を、ある意味、高次元で統合し、より自然で使いやすくした10を、無償で配布するという思い切った起死回生の手段に打って出たのである。という事は、10は最新であるばかりでなく、現時点でウィンドウズマシン用のOSとしては最善の選択であり、何故ならMSがそれだけ力も入れているからだ。
だからといって、私はアップル(IOS)もそれほど評価はしていない。一方、グーグルはグーグル・アースや無人運転自動車の開発でも分かるように、経営理念がMSやアップルとは異なる。目先の損益に血眼のMSやアップルとは立場を異にしている。OSのアンドロイドも無償で公開している。
そして第二の結論は、もし移行がうまくいかなくても、とりわけがっかりする必要はないということだ。我が家にも移行に失敗した7のマシンがあり、私はそれはそのまま使い続けるつもりだ。理由は7が安定してきており、問題の少ないOSだからだ。また飛躍的な性能の向上や目覚ましい機能の追加があった訳ではなく、8以降で追加された機能の多くは7でも後で追加できるものが多いからである。
それはあくまで個人的な価値観の違いだと言われる方は、7のマシンを大量に使っている大企業や官公庁の動向に注意を払って頂きたい。いくら移行がタダだと言っても、企業や国民の大事な処理を、はいそうですかと簡単に移すとは思えない。しかもどんなにMSが下位互換を訴えても、すべてのアプリが完全に動くなどという保証をMSができるもない。同じ騒動を、XPから7への移行で経験したのも記憶に新しい。しかもその時は社内の検証作業を含めて、OS以外で莫大な潜在的費用が各組織で負担させられたのだ。
何が言いたいのかといえば、だからそう簡単に7が使えなくなることはないということだ。7のメンテを打ち切ると勝手にMSが宣言すれば、政府や大企業が黙ってはない。大規模な訴訟になり、その時MSが不利になる事はMSも分かっているはずだ。
7には8と違って使いにくさも不具合もなく、8から10への移行ほど切実な要素もない。10に移行できないケースでは、基本的にPCの性能がおいつかないことが原因だ。だからどうしても10が使いたいという方には、ならばそろそろPCを買い替えませんかという提案をするしかない。そうなればPCのメーカーがWindows10の面倒も見てくれる。そもそも10を使う事がPCの目的ではない。PCはツールであり、決してそれ以上ではないという点が一番大事なポイントなのだ。
「WTWのルーツは壁新聞」2016/1/13
私は小学生当時、壁新聞を作っていた。当時、亡父が買ってくれた寒天板というものがあり、原稿を書いて貼りつけるとインクがしみ込んで、上に白い紙を貼りつけるとコピーが取れるというものだった。新聞と言っても、無論A4一枚程度で、昆虫や本の話題や、感想文など、他愛のない内容だった。それを教室の壁に貼ってみたところ、恩師(ご存命)が、学校の掲示板を使わせてくれて、ガリ版で学級新聞や文集を作り始めた。長じて、私は早稲田の政経学部の新聞学科を目指したものの、政経学部が東大をしのぐ難関だったこともあり、高嶺の花と諦めて、やむなく同大の文学部の、マスコミに多少とでも関係のありそうな社会学科に進学した。今思えば私はその頃の志を貫徹すべきだったのだが、就職で迷った私は、これからはコンピューターの時代だという知人の意葉に押されてSEの道を選び、その後の社会人の人生の大半をコンピューターのメーカーで過ごすことになる。現役を退いてしばらくたった今、本能的に本来の自分に立ち戻り、謄写版の代わりにネットを使って、自分なりの壁新聞を再開している。
「最近の国会質疑から」2016/1/13
日々の通常国会の中継を、録画で早回しで見ているが、野党の質問の中には、そんなことを質問してどうするのか、返ってくる答は分かりきっているのにというようなものや、閣僚も閣僚で、それは答えられないと繰り返すばかりの(何故答えられないかの理由さえ言わない)女性を含む閣僚との不毛な応酬は、一言で言えば、見るに耐えないというのが率直な印象だ。これが日本の国会審議のありのままの姿ならば、それは何のことは無い、日本の国民は、国民軽視で働かない政治家の高い歳費を負担させられ、自分達は薄給で働いているということになる。
そういう国会審議の中で、昨日の維新の会の井坂議員の質問は出色だった。礼儀を失することもなく、歯切れよく要点だけを質問して、その質問が当を得ていたからだ。それに先立つ民主党議員たちの質疑がお粗末だっただけに、一層引き立ったのかもしれない。その中から一つだけ紹介すると、省庁の役人の給料が民間より高いのはなぜかという指摘がある。。井坂によれば、霞が関の職員の内、係長が8万人で、いわゆる一般職が8500人。こういう構造は一般企業では見られない。そして係長だという理由で、民間の係長と同じ給与レベルに調整しているというものだった。しかも人事院が井坂に示した公務員の給与には、民間と違って諸手当や残業代が含まれていないので、その差は更に大きくなっているというものだ。
でも私に言わせれば、国民にとって、手当より何が迷惑かと言えば、国家公務員(地方公務員も)が特定の政党、政権に偏った価値観を持ち、それを隠そうともしないことだ。政治的偏向は保守であれ、革新あれ、公務員にあってはならないものだ。
「同じく」2016/1/14
国会論戦。昨日の山尾議員の追及も見ごたえがあった。首相の理解では、旦那の月給50万、妻のパートは25万。しかし実態は30数万と9.5万。しかも首相は、パートは景気が良くなったから妻がそろそろ働こうかという程度の理解だった。皆生活の為に必死に働かざるを得ないのだ。あまつさえ格差は広がっていないと言い切った。富裕層以外ではそういう印象は誰も持っていないと思う。ところでなぜ安倍首相は、相手が女性議員だと馬鹿にしてなめてかかるのだろう。という事は、自分の閣僚でさえ、政権の飾りでいてくれればそれでいい、余計な事は言うなと思っている事の裏返しに他ならないのではないか。もっとはっきり言えば、首相の頭の中にあるのは、旧態依然の男尊女卑の感覚ではないのか。中国での一人っ子政策が、やがて同国に大きな弊害をもたらすだろう。なぜなら甘やかした小皇帝を量産したからだ。それは国家の独善的な価値観や中華思想になり、やがて世界からの孤立を招く。私は安倍首相もこの小皇帝の一人に見えて仕方がないのである。
「同じく」2016/1/16
昨日の国会審議の冒頭の、民主の緑風会の長浜議員の質問は、パラオ訪問の話題から始まり、穏やかな中にも、余計な言葉はなく、品位も落とさず、時にはユーモアを交えてという、お手本のような質疑だった。彼が所属する民主党の緑風会は、前回の安保法制の質疑でも健闘していた。参院選に向けて、リベラルな考えを持つ議員は、緑風会を中心に集まると良いのかもしれない。自民党に近い考え方の野党内与党を抱えている限り、政党の動きが鈍くなるばかりでなく、理念もぶれる。
事態を打開するには、まず与野党の議員双方が、党則に過度に縛られることなく自分の考えを持つところから、新しい民主主義が始まるべきだと思う。そう考えると、維新の分裂も納得出来る。しかし野党から極右の政党(おおさか維新)が生まれるとは、誰が予想し得ただろう。右と左を抱えている民主で同じ事が起きないとは言えない。
ところで、長浜議員は議員定数と違憲の問題を取り上げ、苦労して選挙で当選しても、その後で必ず違憲判決が出るような国は他にない、現国会は違憲状態の議員とそうでない議員で構成されていると述べていた。また予算が100兆円以下だと言うが、補正予算を入れれば100兆円を超えていると指摘していた。
「民主党に告ぐ、その2」2016/1/17
1/16のBS朝日の激論クロスファイア(司会は田原)に民主の岡田代表がゲスト出演し、安倍首相の憲法改正について言及していた。安倍首相は日本の憲法は、GHQが4日で作ったものだから変えたいと言うが、憲法には70年の歴史がある。その間に国民に浸透し、学者の解釈も深められたと述べていた。またBSのニュース番組では、元財務相の藤井が、自分も改憲論者だが、安部首相にはその資格はない。解釈で勝手に憲法を変えるような人に、憲法を語る資格はないと言っていた。同席した亀井(最年長議員)は今のままなら参院選で自民は過半数すら取れない。絶好の機会なのに、民主党は身内の中の議論の為の議論に終始している。自民党が最も警戒しているのは、共産党の志位委員長の動きだ。野党が一丸となるためなら自党の候補者も取り下げると言っている。民主はなりふり構わず政権打倒を目指すべきであると述べていた。私も全く同感である。共産党との連携にしり込みし、野党が選挙で負けるようなことでもあれば、それは民主党の代表と幹事長の責任である。国民は今度こそ最終的に民主を見放すだろう。民意を顧みず、小さな既得権に胡坐をかくだけの政党に、日本の未来を託すことなど考えられないからだ。民主党幹部よ、下らぬ小さなプライド等は捨てて、小沢に頭を下げて選挙戦術を教えて貰え。自分達はなんでも知っている、自分達こそ正義であり、国民に支持されているというのはただの勘違いだ。そもそもそういう思い上がりが国民に嫌われているのだ。思い上がりは安倍首相だけで十分なのだ。
「サンマリノと長淵剛」2016/1/20
昨夜のNHKの番組で、イタリア中部にある小国サンマリノの紹介があった。ローマ法王の迫害を逃れて信仰を守り、600年も独立を維持し、しかも一度も戦争をしたことがない中立国だ。何故それが出来たのか。その理由はユニークな政治体制にある。国家元首は男女各一名が6か月ごとに選ばれる。任期を半年にしたのは、独裁を避けるためである。独裁が国民を不幸に導くことを彼らは600年前から知っていた。長期政権は独裁を生み、独裁は腐敗の温床となり、やがて国益の美名のもとに侵略戦争に至る。安倍閣下、貴方は二言目には民主主義という言葉を持ち出す。でもその大前提である理念、概念、即ち自分も一人の国民、一人の議員だという意識が大変疑わしい。それともことあるごとに自ら発言されているように、自分は国家の代表であって、他の国民とは別格の特別な存在だと思い込んでいるのだろうか。
これもNHKの番組だが、昨夜の長渕剛の100年インタビューを興味深く見た。彼は震災の復興でも尽力しており、最近では富士山の10万人コンサートがある。中でも一番面白かった話は、デビュー当初、トークの無い彼の出番になると、観客が一人もいなくなったという話だ。女の子たちは、座席に荷物だけ置いて、喫茶店に行ってしまった。それでも自分には言いたい事がある。伝えたいことがある。だから歌わなければ生きていけない。だから歌い続けた。そこだけは私も同じようなものだ。言いたいことがある。伝えたい事がある。だから仮に読んで下さる人が一人もいなくなっても、私は書き続ける。そうせざるを得ないからだ。そうしないと生きていけないからだ。もう一つ共感したのは、いつでも次が最後だと思えという、長淵の父親の言葉である。
「首相訪ロの危険性」2016/1/23
裏取引の為であることははっきりしている。しかししたたかなプーチンを相手に安倍首長にうまく仕切れるとは到底思えない。何故ならこれまでの言動自体、論理も筋も何もあったものではないからだ。そもそも国会の承認もなく自分勝手にオバマに約束し、そのメンツを守るためだけに、強引に安保法制を押し通した彼である。今度は百戦練磨のプーチン相手に、北方領土の代わりに何を差し出すつもりなのだろう。どんな個人的な約束を持ち帰るか分かったものではない。何せ実績があるのだ。それとも国家独裁運営のノウハウでも持ち返るつもりなのか。百歩譲って、如何なる巨額の支援の約束をするつもりなのか。落ち着いて考える習慣さえないこの人を、一人歩きさせて、大国との交渉を任せたら絶対に駄目だと思う。周囲は止めるべきだ。この人は日本とその国民にとって、存在自体が人的災害なのだ。自分の能力の限界を自覚しない国家の代表は、歩く核爆弾のようなものだ。日本現代史上、最悪の人災になる。そしてもっと恐ろしい事は、国民の大半がその事実を認識していないことなのだ。今は戦前なのに、それに気がついている人も一握りに過ぎない。
「三たび民主党に告ぐ」2016/1/25
民主が今の党体制で選挙をすれば、ほぼ確実にまた負けるだろう。しかもその責任は、幹部(岡田、枝野、長妻等)にある。民主の不人気の原因が何かも彼らには分かっていない。それこそが最大の問題なのだ。迫力を欠いた綺麗ごとでは国民は付いて来ない。安保法制廃案を打出したのでさえ、ごく最近の話だ。民主の主張は実に分かりにくい。なんで橋下が率いる、おおさか維新の会が未だに気力を保っているのかが、分かる。事の是非はともかく、主張が明確で分かりやすいからだ。公務員の給与引き上げに反対する政党の方が、公務員票をあてにする政党より、明確に筋が通っているように国民が感じるのは当然なのだ。 こんな調子では、共産との協調路線も期待できない。小沢を追い出した後で、どこまで迷走すれば気が済むのやら。見るからに(失礼)、揃いも揃って頭の堅そうな(言うなれば独善的な)幹部の人達である。選挙を目前に、党人事を変えられないというのなら、百歩譲って、大きく政党のイメージを変え、明確な主張を打出すべきなのだ。いまのような民主党ならはっきり言っていらない。民主は新緑風会さえあれば良い。宜野湾市長選の結果は、自民党が充分に選挙戦術を練ってきたことを示している。だから参院選で(いつものように)たかを括る等という事が、絶対にあってはならない。なのに全く危機感がない。本当にダメな政党なのだろうか。
「ジャック・アタリと難民問題」2016/1/28
昨日の朝7時のNHKBSで、仏大統領の補佐官で、EU設立の立役者のジャック・アタリのインタビューがあり、印象的な発言をしていた。テーマは難民である。
…国境を越えた大規模な人口移動を当然のこととして受け入れなければならない時代になった。欧州に多数の難民が流入しているが、これは人類史上初めてのことではない。いま百万人が流入したとしても、全体の0.3%に過ぎない。18・19世紀には欧州からアメリカに大勢が渡った。そして移民が米国の成功の活力となった。今後はこうした動きを当然のこととして考える必要がある。移動の自由なくして、真の自由も、真の民主主義もない。人類が流浪の民となる事実を受け入れることだ。世界的な人口の移動を認めざるを得ない。その道筋を考えるべきなのだ。欧州は最も裕福で、最も住み易い場所でもある。EUも、通貨の統合だけでは不十分であり、政治を統合して、連邦制を目指す必要がある。