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2111.加害の国で生きる。22/4/1
朝日新聞(4.1)のフォーラムに、高橋源一郎がウクライナ侵攻について書いています。政治でも外交でもない、文学者としての視点から、その一部をご紹介します。
(高橋源一郎の「歩きながら、考える」)加害の国に生き、「敵」を読む意味
ロシアのウクライナ侵攻が始まった2月24日は、両国にとって重い意味を持つ日付になりました。巨大な暴力を前に、遠い異国で何ができるか。作家の高橋源一郎さんが、日本にとって重要な日付が刻まれた場所から考え始めました。寄稿を掲載します。
毎年、「3月11日」が近づくと、福島に行く。仕事として行くこともある。特に目的もなく行くこともある。そこで何かを書くことも、何も書かないこともある。
何度か行った場所があるし、初めて行く場所もある。わたしは、福島と深い関わりがあるわけではない。少額の寄付をして、ある小さなプロジェクトを継続している。それがすべてで、わたしなどよりずっと深く福島に関わった人たちには敬愛の念しかない。
…「3月11日」という日付は、わたしたち日本人にとって特別なものになった。「8月15日」が、そうであるように。並んだその数字を見ると、わたしたちはそれぞれに、異なった感慨を覚える。
「2月24日」。ロシアがウクライナに侵攻した日が、そんな日付になった人たちがいる。ウクライナの人たちはもちろん、ロシアの人たちもまた、そうだ。そんなことをずっと考えていた。そして、戦争が始まってから、それぞれの国の作家たちが紡ぎ、発していることばを、丹念に探し、ずっと読んでいる。
第2次世界大戦に従軍したソ連の女性たちの声なき声を聞きとった作品『戦争は女の顔をしていない』などでノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチは、父親がベラルーシ人、母親がウクライナ人でロシア語で書く。ソ連解体後はベラルーシを拠点に活動していたが、作品は独裁政権に弾圧されてきた。…「起こったことは私たち全員の責任だ」と彼女はいう。戦争を起こしたのが国家権力だとしても、その国民も無垢(むく)ではありえないのだ。
「いまのベラルーシ人にとって、もし派遣されたら、撃たないことがヒロイズムだ」とも。
彼女の祖国ベラルーシは、今回のウクライナ侵略では加害の側のロシアを支援している。もしウクライナに派兵すれば、ベラルーシ国民は隣国のウクライナの人びとに銃を向けることになるのである。期せずして加害の国の側に立つことになった作家のことばに、わたしは惹(ひ)かれる。なぜなら、わたしたちの国も、かつての戦争において加害の側だったからだ。
ロシアがウクライナに侵攻した翌日の25日、ロシアの優れた批評家として知られるドミートリー・ブィコフがラジオ番組で2時間近く戦争について語った。その一部を、わたしたちはいま読むことができる。(「戦争という完全な悪に対峙(たいじ)するーウクライナ侵攻に寄せて」ドミートリー・ブィコフ/奈倉有里編訳)
それは、加害の国に生きる作家のことばである。その中で、ブィコフは、こういっている。
「私たちはいま恐怖と絶望のさなかにある。ウクライナだけではなく、私たちの幸福も人生もすべてが踏みにじられていく。これは私たちを蝕(むしば)んでいる癌(がん)だ」
こう呟(つぶや)いて、ブィコフは、なぜ自分たちの国がそんな状況になってしまったのかを分析してゆく。ときには感情をおさえきれずに。そして、最後、リスナーからの「いま心を落ち着けるために読むべき本はなにか」という質問に、ブィコフは、こう答えるのである。
「なにを読んだらいいかというなら、ウクライナ文学を読もう。…『忘れられた祖先の影』(邦題『火の馬』)を観(み)よう」
権力が、分断を図ろうとするなら、それを拒もう。そのためには、「敵」とされてしまったものを理解しよう。彼らのことばを読もう、その文化を深く知ろう。そうブィコフはいうのである。
これを読んだ後、映画「火の馬」を観た。ほんとうに素晴らしかった。「火の馬」は、ロシア帝国併合下のウクライナでウクライナ文化の復興に努めた作家コチュビンスキーの原作で、全編ウクライナ語で作られたソ連映画。ウクライナの山岳民族の恋人たちの悲劇を描いた。他のどんな色にも染まらない、独自の強烈な宗教色と民族色が特徴だ。そこには、わたしたちの知らない民族の、魂の原風景が映っているように思えた。
およそ80年前、わたしたちの国にもブィコフのような作家がいた。祖国が中国大陸を侵略し、加害の国になったとき、彼は、祖国の「敵」とされた国の文学を紹介した。作家の名前は太宰治、その作品は『惜別』である。
『惜別』は第2次世界大戦末期に書かれた。主人公は、中国の偉大な作家で中国革命の精神的バックボーンになった魯迅。その魯迅の日本留学時代を描いた中編小説だ。『惜別』の最後には、魯迅の名作「藤野先生」が長く引用されている。中国の一青年と日本の教師の強く、深い繋(つな)がりを描いた傑作である。
…中国を「敵」として憎めと告げる社会の中にいて、太宰治はこの作品を書いた。太宰のメッセージは、ブィコフの次のことばに含まれているものと同じように思える。さきほどのラジオの最後に、ブィコフはこういうのである。
「ただひとつ願えることがあるのなら、ロシアがこの破滅から脱するとき、長い夢から覚めて悔い改め、変わっていくことだ。そこだけに希望がある。そして私はそれを信じる。私は戦争に反対する。この恥ずべき戦争に反対する。兄弟であるウクライナの平和を願うーこれからも兄弟でいられるだろうか、私にはわからない。けれども私たちと彼らはすぐ近くで生き続け、ともにこの危機を脱しよう」
そして、わたしは思い出したのだ。かつて、わたしたちもまた、自分の祖国が「この破滅から脱」し「長い夢から覚めて悔い改め、変わっていく」という「希望」を信じたことがあったのを。
「もし自分が戦争下の国に生きる作家の立場だったらどう思うかを考えたい」。巨大な力によって生活の場が奪われた原発事故の被災地で高橋源一郎さんは言いました。ときに人を閉じ込め分断させる国家主権というものを文学の言葉で考えてみたい、とも。ウクライナ、ロシア、ベラルーシ……。今回寄稿に登場する作家や作品は、2・24以降に高橋さんが読み込んだもののうちの、ほんの一部です。(編集委員・塩倉裕)
コメント:被害者のみならず、加害者にも不幸をもたらす。それが戦争です。果たして、現代に生きる私たちに、逃げ出したい気持ちを堪えて、理不尽な侵略に対して、命懸けで国を守る、もしくは侵略する側にならない為に、これまた命懸けで国に抗い、反戦活動を行う覚悟があるだろうかと、この機会に自問自答してみるのも、あながち無駄ではないと思います。大勢に流されない、友人に意見に逆らう、そんなささやかなことでさえ、自分自身に当てはめると、結構難しいものであることが分かると思います。覚悟というものは、案外出来そうで、出来ないものなのです。
関連記事:日本は復興リーダーシップを。ウクライナ大使。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022040100753&g=int&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
・なぜ東電は津波対策を怠ったのか。
https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2022032300005.html?iref=comtop_Opinion_06
2112.逼迫の正体。22/4/2
週刊文春(4.7)に、探していた情報がありました。
「逼迫の正体見たり」という記事ですが、抄訳で紹介します。
3月22日に東京電力と東北電力管内で大規模停電が起きかねない事態に陥った。
福島県沖の地震で複数の火力発電所が停止したところに、厳しい寒さが加わり、政府は初めて「電力需給逼迫警報」を出した。これを受けて朝日は「電力の安定供給が揺らぐ異例の事態となった」と書いた。確かに地震と季節外れの寒さだけに着目すればそうなのかもしれないが、本当に「異例」なのか。
経済産業省は昨年5月に同年7、8月と今年1、2月に電力需給が逼迫するとの見通しを発表した。梶山経産相は会見で、「近年、事業環境の悪化などで火力発電所の休廃止が相次いでいる」と理由を語った。
東京地区の供給力を増やそうと、経産省は約50万キロワットの追加供給力を公募し、63万キロワットを確保。
応急手当のせいか今年1,2月は乗り切ったようだ。毎日によると、それでも停電危機が起きたのは厳戒態勢で臨んだ大手電力が「寒さが緩んだ2月末で対応の一部を解除し、定朋点検に入る火力発電なども出て余力が乏しくなっていた」という。
大手電力の見通しの甘さはこの際、眼をつぶる。問いたいのは「異例」ではなく「電力インフラの脆弱さが露呈した」のではないかということだ。経産省の資料によると今年7月の電力需給も厳しいようで、東京電力、中部電力管内の予備率は1.1%、8月はそれぞれ0.9%らしい。
2002年に福島原発の再稼働が認められなかったときに、すわ東京で大停電かと騒がれたが、パニックは起きなかった。実際には稼働していなかった発電所がいくつもあった。
以来、「電力危機」には政治的な駆け引きの要素もあると思っている。
電力不足はボトルネックなのか眉唾なのか。「異例」で片付けては、夏場に再び、電力で翻弄されるだろう。
コメント:3月に部分停電したときに、東電がなんと言ったか。(3月の福島沖)地震で故障した発電所を直すのに数カ月も、場合によっては何年もかかる(だから電力が逼迫する)と言っていたのです。その答えがここにありました。即ち物理的な故障ではなく、政策的、意図的に発電所を運用、閉鎖してきたにツケが回ってきたということです。でもそれのしわ寄せをなんで国民が甘んじて受けなければならないのか。しかも最近の電気料の値上がりにはすさまじいものがあります(月額5千円アップ)。国民の立場で電力会社と渡り合える政治家(多分野党)が必要です。
2113.黒田、岸田、橋下、安倍。22/4/5
政府はウクライナ侵攻に便乗していないか。
たかだか20人を政府専用機に乗せて連れて来たことが
(世界に対して)そんなに自慢すべきことなのか。
ポーランドが聞いたら呆れるだろう。
7時のニュースで延々と報道するNHKもNHKだ。
政府に忖度していないと言い切れるのだろうか。
しかも実際の受け入れは市民の善意が頼りだ。
政治的理由、あるいは人道上の理由から
命を守るために亡命する人達を、
正々堂々と受け入れる仕組みが、日本の何処にあるのか。
歪んだ入管法のせいで、非業の内に亡くなった人達が
この様子を見たらなんと思うだろう。
それこそが日本が世界に恥じるべきことではないのか。
ウクライナの悲劇を、政府の宣伝に利用する無神経さに驚く。
そういう政府だからこそ、核の共同保有などと平気で言い出すのだろう。
今回の政府の対応くらい、形式と体裁だけで、
気持ちも中身も伴わない対応は少ないのではないか。
そして今回の出来事で思い出すのは、
拉致被害者を連れ帰った時のシーンである。
何から何まで、政府のパフォーマンスの為というのでは、
それはないだろうと言いたくなる.
岸田が、仮にそうではないと思うのなら、こう言って頂きたい。
日本は人権と人道を何よりも尊重している。
だから、ロシア(と中国)の非道と弾圧を見過ごすことはできないのだと。
その後で、自民党の来た道を振り返ってみて頂きたい(特に安倍の改憲論)
今回の前書きは週刊誌のコラムと記事からです。
週刊朝日(4.15)政官財の罪と罰「円安アリ地獄の日本」古賀茂明から
…原油以外の資源価格や食料などの国際価格も高騰しているので、そこに円安が加われば、輸人代金の支払額が増えるので、そのためにドルを買う実需が増えてさらに円安要因となるという悪循環も止まらない。
輸人物価の上昇で国内物価も上昇。ガソリンから始まり電カ・ガス科金に波及し、食料品などの値上げも日々実感する。
物価上昇を超える賃上げがあればよいが、安倍政権以降、実質賃金は下がったまま。今年の春闘では「満額回答」が続出したが、これは大企業と豊かな正社員の話に過ぎない。庶民の方は、時給が多少上がるだろうがこれまでのマイナスを取り戻すようなことは起きない。その結果、物価上昇に耐えられない消費者の節約強化で景気は悪化する。
円安政策を止められればよいのだが、実は、それがもうできなくなってしまった。円安を進める最大の要因が金利である。日本は低金利政策を続けるが、米国はじめ諸外国は、物価上昇防止のために金融引き締めに入った。金利の高いドルで運用したほうが円で運用するより得だから、市場では円を売ってドルに替える動きか強まり、円安が進む。
一方、日本で金利を上げれば、株価は下がり、住宅ローン金利上昇で破綻する人も続出する。低金利で生き延びる多数の企業も倒産。さらに、安倍政権下のバラマキで積み上った1200兆円の政府債務は、ゼロ金利なら利息もほぼゼロだが、金利上昇で利息が膨大となり財政は立ち行かない。つまり、いかなる意味でも、日本は金利を上げられないのだ。一方、トヨタなどの輸出企業は、円安で何もしなくても儲かる。利益は増えて株価は上がり、経営者の報酬や社員の賃金も上がる。
日本経済は、一部の輸出大企業とその株主や正社員がさらに潤い、それ以外の庶民の生活がどんどん苦しくなるという道から抜け出せなくなっているということだ。
今国会が終われば、参議院選挙が待っている。その時リベンジ消費や物価上昇対策発表などが囃し立てられるだろうが騙されてはいけない。
誰がこんな国にしたのかよく考えて投票しなければ、円安アリ地獄から抜け出すのは不可能なことを肝に銘じるべきだ。
コメント:今の円安が悪い円安だという指摘がありましたが、その理由がこのコラムで分かります。
関連記事:深刻な悪い円安。冷泉。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2022/03/post-1266.php
サンデー毎日(4.17)「参院選の意外な内幕」鈴木哲夫から
…「さあ。参院選」というところへロシアのウクライナ侵攻。政権・与党は外交に力点が移っている。マスコミもウクライナ一色で内政をほとんど報じていない。なかなか参院選モードに入っていかない。
立憲民主党の選対幹部はこう話す。
「対決構図を作りたいが、岸田(文雄)首相がとにかく、のらりくらり。…何がやりたいのかよく分からない。ワクチンや経済対策もだらだらと遅い。世論が批判すると、朝令暮改で方向転換する。確信犯なのか分からないが、ぬかに釘で批判もできない。参院選ムードが今一つなのは。そこです」
連立与党間の連携が、どうもギクシャクしているのも今回の特徴だ。…自民党と公明党は、結局は歩み寄り、その仲直りの再結束の証しが「年金受給者への5000円支給」のはずだった。
だが、自民党ベテラン議員は両党執行部の甘さを指摘し、カラクリを説明してくれた。
「年金は、時の現役世代の収入や経済とスライドする仕組み。新型コロナの影響もあり、今年4月からの支給額は前年比0.4%マイナスと発表されていた。年金受給者がはっきり知るのは振り込まれた後、6月に減額を初めて実感する。そこから不満が渦巻く。野党が追求し、その直後には参院選がある。だから最初の支給時だけ減額をカバーするため5千円を1回きり支給し、参院選に影響しないようにする。そういうのが目的だった」。
…自民党は3ヵ月を切ってもなお水面下で複数区や比例の候補擁立に動いている。これまでにつかんだ中では芸能人やテレビキャスターと選対幹部が接触している。「その人が何を訴え、何をやりたいのか。有権者に知ってもらうには時間が全然足りない。勝つためには知名度しかない。だから有名人を選んで会っている」。やたらスポーツ選手や芸能人を擁立し、国民から批判された過去を忘れてしまったのだろうか。(以下略)
コメント:5千円は受給者からも反対の声が出ていましたが、私も最初から選挙狙いだと思っており、そのようにWTWでも指摘しています。なおタレント起用は自民党だけでなく他党でもやっています。知名度だけで、知識も、経験も、教養さえも怪しい人たちが議員になれば(杉田水X、橋本聖X、山東昭X=ゼレンスキーを時代劇のように紹介して物議等々)、日本はますますおかしくなるだけでしょう。私が自民党なら小池百合子にまず話を持ってゆくでしょう。なぜなら確実に蓮舫に勝てるし、閣僚経験もあって、即戦力だからです。私はどのような内容かは分からないが、既に選挙について、岸田と話し合いがあったものと推察しています。
同じく抵抗の拠点、「良質な砦として」青木理から
このところテレビを観ることがほとんどなくなった。私自身がこれまでいくつかの情報番粗などに出演してきたこと(それも最近はめっきり少なくなったが)を棚にあげていえば、ほんのわずかに残る良質な番粗を例外とし、加速度的にくだらなさを増す現状にはほとほと嫌気がさした。
CMにも出演しているお笑い芸人やタレント、そして威勢のいい話者を並べてニュースを語らせ、ひたすら茶の間政談を垂れ流す作り手たちに、恥の概念は残っているのか。ひたすら素人談義をだだ漏らし、足下の為政者や強者には阿諛追従し、ファイティングポーズをとる気配すらない作り手たちに、果たしてメディア人としての矜持はかすかにでも残されているのか。
最近ではロシアによるウクライナ侵攻をめぐり、かつて大阪で政党を立ちあげた夕レント弁護士が各局の番組を連日はしごし、ウクライナに降伏せよとか、プランBが必要だとか、「戦争指導」がどうたらとか、まったく支離滅裂な言辞を好き放題にばら撒いているらしいが、専門知も持たず、現場を踏んだわけでもなく、単に自治体首憂の経験を持つだけの男が、いったい何を根拠として、あるいはいかなる知見に基づいて、そしていったい誰に向かって自信満々に吠えているのか。ひょっとするとこの男自身が壊れかけている兆候か、あるいはもともと壊れているのか、テレビは壊れ者を見せて娯楽を提供しているつもりか、それとも観る者を愚民化させる深淵な康略か。
なのにスポーツ紙などはこの男の発言を嬉々として。こたつ記事に仕あげ、続々とデジタル版にアップし、どうやらそれがかなり読まれているらしい。
…だからと言って、乱暴で低俗な言葉の応酬につきあうつもりも、時間を費やすつもりも毛頂ない。
別に困ることはない。紙であろうと液晶画面上であろうと、国内だろうと国外だろうと、いくつかの良質な活字メディアの情報に目を凝らし、幾人かの良質な知識人や専門家の発言を丁寧に聞けば、知るべき情報は十全に知ることができる。思索の材料は、豊富に摂取できる。貴重な人生の時間をくだらぬことに費消する必要はない。(以下略)
コメント:元大阪市長の無責任な、大日本帝国回帰の放言に、不快を感じているのは私だけではなさそうです。また彼が大きな顔をする(気分は論客)のは、フジTVとTBSにも大きな責任があります。私も最近はメディアを選ぶようになってきましたが、これは主に時間がないからです。なお青木は良質な砦の一つとしてサンデー毎日を挙げており、私も異論はありません。但し100%のメディアは未だなく、それに最も近いのは月刊誌の世界くらいです。
同じく牧太郎の青い空白い雲「ウクライナ侵攻に便乗、改憲の王を目指す安倍さんの狂気」から
ウクライナ侵攻はあり得ないと断言していた専門家たちがここ1ヵ月、「プーチンは狂っている」と口を揃えて話している。
…2016年12月、安倍首相(当時)の地元、山口県長門市で行われた日露首脳会談。プーチンは約2時間40分も遅刻した。
ドイツのメルケル首相(当時)を4時間待たせた実績もあるらしいが、異常である。大物ぶって見せる詐欺師の手口に似てはいるものの、相手国のトップを何時間も待たせるのは「狂気の始まり」である。にもかかわらず、安倍さんは、その「非礼」に目をつぶり、平和条約締結に向けた共同経済活動で合意した。その時も、プーチンは「北方領土」の具体的な進展には触れなかった。
果たして、大ロシアを目指す大統領が本当に北方領土を返すのか?外務官僚も「騙されているのではないか?」と心配したが、安倍さんは「プーチンはやるから」の一点張りだった。まるで、プーチンに土下座しているような安倍外交。結果的にカネだけ盗られた「大失敗」だった。
その安倍さんが3月19日、近畿大学の卒業式にサプライズ講演。「大切なことは、失敗から立ち上ること。失敗から学べれば、もっと素晴らしい」と挨拶した。ご立派である。
そういえば、ウクライナ侵攻が始まると、安倍さんは過去の「大失敗」を隠し、一転して反プーチン。彼に侵攻されないために「憲法改正が必要だ」と言い出した。
例の「核共有」である。
「NATOは核シェアリングという手法で核の脅威に対して抑止力を持っている。もしウクライナがNATOに入ることができていれば、このような形にはなっていなかっただろう」
要するに、アメリカから借り受けて日本国内に戦術核を配備しよう!そのためには憲法改正が必要だ!という「素晴らしい?論法」である。
ロシアの侵攻を見ていると、軍備増強が必要と思う向きも多いだろう。しかし、憲法9条とウクライナ侵攻はまったく無関係だ。憲法は侵略戦争を禁止しているが、自衛権はある。ウクライナ国内で自国軍がロシア軍に抵抗しているのは自衛権の行使。仮に日本が侵略を受けたとしても、ウクライナ軍と同様の抵抗を行うことを憲法9条はなんら制限していない。
つまり、安倍さんはウクライナ侵攻に「便乗」して「憲法改正」を旗印にする、多分、「保守派の王様」になりたいのだろう。
どこか、プーチンに似ているじゃないか(笑)。
コメント:いえいえ、プーチンほど賢ければ、少なくとも、日本は今のような財政破綻と、格差社会にはなっていません。プーチンにはいつくばりもしないでしょう。一方で、プーチンはエリツイン時代に破綻していたロシア経済を立派に立て直しているのです。
安倍晋三の「ウクライナがNATOに入っていれば」という言葉だけでも、安倍晋三の知能程度が知れます。今回はウクライナがNATOに入りそうになったから、プーチンがウクライナに侵攻したのです。だから順序が逆で、入っていればという仮定には意味がないのです。そんなことも分からない人物に、8年間も日本がミスリードされてきたのかと思うと、改めてぞっとする(だけでは済まない)次第です。
なお同じサンデー毎日で、高橋源一郎が自身のコラムで、プーチン軍は関東軍と同じだと書いており、文中で、加藤陽子の話が紹介されていました。それは当時の東京帝大(当時の最高の知性)の学生の88%が、満州への武力行使に賛成だったというものです。これはプーチンを支持するロシア国民と類似しています。即ち、今一番必要なものは、実は若者(に限らず)の現状肯定(及び自民党支持)の意識の改革なのかもしれません。
2114.共産党の立ち位置。22/4/10
文化庁予算、日本映画の創造・振興プランに13億。
加計学園の補助金は100億。もろもろで総額400億とも。
自衛が基本的な権利であることは言うまでもない。
しかし対抗手段は武力行使だけではない。
ロシアは国内向けの放送で、
閣僚の一人が、ロシアには北海道の領土権がある、
日本は関東軍の末路を忘れたのかと述べた。
この発言自体は無視すればそれまでだが、
問題は安倍や橋下のような国家主義者達が、
やれ核の共同保有だ、軍備増強だ、
やがては国民皆兵だと騒ぎ立てることにある。
ここは政府コメントさえ出さずに、
完全にスルーすることが大人の対応だ。
慌てふためいて、米国に泣きつくような、
みっともない真似だけは避けなければならない。
どさくさ紛れに、ネオナチに振り回されるほど、
不毛で愚かなことはない
人間は存在するために生まれたのではない、生きるために生まれたのだ。だから無駄にする時間などない。
表題に掲げた言葉は007の最終作で、Mが007の追悼で述べた言葉です。この映画は2年ぶりにビデオレンタル店に行って、借りて見ました。 言葉の出所については以下をご覧ください。
https://www.zaikei.co.jp/article/20211019/643485.html
今回の前書きは朝日新聞【4.9】の公論(耕論?)です。
日本共産党を考える「共産主義こだわればじり貧に」中北浩爾から
−現状維持で済まないのはどんな課題ですか。
「外交・安全保障です。日米安保条約の廃棄という方針は、共産党の民族民主革命論の根幹に位置します。容認できるのは、厳格に現状維持まで。しかし、立憲民主党は抑止力の必要性を認め、日米同盟や自衛隊を強化する可能性を排除していません。中国の軍拡など国際環境の厳しさを考えると、両党間の外交・安全保障政策の違いは深刻です。だからこそ昨年の衆院選でも、実は閣外協力の合意すらできなかったのです」
−革命政党でありつつ、当面は共闘で自公政権よりもましな政権を目指していると。
「その通りですが、現状のままでは政権には手が届かないでしょう。政権交代を掲げて戦った先の衆院選での敗北を重く受け止めるべきです」
「もう一つ、日本共産党の重大な問題は党勢の衰退、具体的には党員の減少や高齢化です。1960年代半ばにソ連や中国に対する自主独立路線を確立していたこともあり、他国の共産党に比べてソ連崩壊の打撃は小さかった。それでも共産主義の魅力が失われ、民青同盟の低迷にみられるように、若者をひきつけられなくなっています」
−世界のほかの国々の共産党はどうなっていますか。
「冷戦下で西側最大だったイタリア共産党は社会民主主義に変わり、政権を担う存在になりました。現在は民主党という名称です。それに次ぐ規模を誇ったフランス共産党は、党名や共産主義を維持しましたが、凋落が著しい」
…―日本の共産党には今後どのような可能性がありますか。
「平和で平等な社会の実現という究極の目標は、決して輝きを失っていないし、格差の拡大などを背景に、ますます日本で求められていると思います。しかし、現状のままでは、じり貧でしょう。路線転換する際の選択肢の一つは、イタリア共産党のように中道左派の社会民主主義に移行すること。アメリカや大企業・財界への敵視をやめ、資本主義の枠内で改良に努める社会民主主義政党になれば、野党連合政権の樹立は一気に近づくはずです」
「もう一つの選択肢は、先に述べた急進左派の内部での民主的社会主義への転換です。直接的な市民参加を重視し、左派ポピュリスト戦略とも親和性が高いので、若者などからの支持の拡大につながると思います」
「1993年に自民党の一党優位政党制が崩壊し、連立政権が続いていますが、自民・公明のブロックに対抗すべき野党ブロックがあまりにも弱い。共産党が変われば、この閉塞状況を覆せる。私は共産党こそがゲームチェンジャーになりうる存在だとみています」(聞き手・池田伸喜)
コメント:共産党にせよ、日本会議にせよ、教条主義は捨て去られる運命にあるのです。中北教授の全文は以下にあります。
https://digital.asahi.com/articles/ASQ47724NQ43UPQJ006.html?iref=comtop_ThemeRightS_02
・途上国接種に5憶ドル。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6423306
コメント:人道を盾に取り、反対できない(国民が)のをいいことに大盤振る舞い。ワクチンは必要な時には足りない。日本のお役所仕事=無計画、無責任。
・国立感染研がミスリード。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6423328
コメント:感染拡大は、感染研の誤解が一役。国民には実行不可能な完全(自主)隔離を強制。そのくせ検査の拡大にも、国産ワクチンの開発にも、野戦病院設置にも後ろ向き。病院と製薬会社の側に立ち、国民には冷淡。昔特高、今厚生省。
2115.決意表明。22/4/13
侵略の戦争は悪、防衛の戦争は善。
制裁は相手を疲弊さえ、戦意を喪失させるため。
ウクライナの戦争は、構図はシンプルで、疑う余地がなく、
対抗でも選択の余地はない…ように見える。
ただ今一番大事なことは、
これ以上の市民の犠牲を出さないようにすることだ。
無論それに反論はないだろう。
ではどのように停戦を実現させるのか。
ロシアの出方は分かっている。
東部二州を占領することで、作戦の勝利を宣言することだ。
兵士の損耗も激しい上に、戦意もがた落ち。
国内の反対意見もある。
もうこれ以上、体力が持たないところまで来ているからだ。
膠着状態が続けば民間人の犠牲者が増えるばかりだ。
そこで事実上の停戦に至るには二つの方法がある。
まず世界中が、市民ベースで、ロシアの国民に、
情報と共に直接停戦を訴えかける事が一つ。
もう一つは、東部二州の住民を、隣の州に緊急避難させることだ。
さもないと残虐なロシア兵が、無差別大量殺戮を始めるのは目に見えている。
無論、二州を禅譲するなどと言う必要はない。
形式上、ロシアが実効支配した形だけ取らせておけばいいのである。
そしていつの日か、また両州を民主的な手段で取り戻すことを考えればよい。
長期のゲリラ戦である。
それにしても、停戦を働き懸けることさえできないとしたら、
国連にはどんな存在理由があると言うのだろう
まず最初はWTWの決意表明です。
007は英国のナノロボ細菌兵器開発の責任を取り、基地の島で死亡しました。その追悼の言葉が先に紹介した、存在することが人生の目的ではない、生きることが目的だ、無駄にする時間はないという言葉です。振り返って、自分は何をしてきたのか、世間のお役に立ったことがあるだろうかと考えます。誰しも自分が置かれた場所(職場、職種)を通じて社会に奉仕しています。但し恥を忍んで言えば、私はビジネスマンとしても、管理職としても、成功したとは到底言えません。
では退職し、時間が自由に使えるようになった今、一体自分は何をしているのか(何の為に生きているのか)と、自分に問いかけます。そして今日、たまたま店頭で、文芸春秋の5月号の特集記事を見て、はっと気が付きました。その特集は、「日本核武装の勧め」だったからです。メディアが暴走を始めている。誰かがそれを指摘し、止めなければならない。メディアの関係者ではない、あるいはメディアに依存していない人間にしか出来ないことがある。それはメディアの批判ではないかと思い至りました。もはや余命はたかが知れているにせよ、資料や情報に目を通す時間くらいはあります。
文春はリベラルなメディアではないにしても、市民視線だと思っていました。でも今回の特集の立場は、自民党の、しかも極右のグループのそれであり、明らかに国民の立場とは違うものです。
雑誌世界(5月号)には「時代錯誤の核共有論」という論文があり、これは後日、要約をご紹介するつもりですが、百歩譲って、文春は敢えて議論を喚起するために、極端な意見を掲載したと言うかもしれません。ならばなぜ安倍の論文まで載せる必要があるのか。そこにあるのは、現在の文春の原点、即ちゴシップを、又はゴシップで売るという方針です。要は社会の木鐸等という面倒臭いことは避けて、ひたすた売らんかなの姿勢です。だから文春の社長も、文春砲という言葉は使いません。目標が権力の批判ではないからです。なぜなら雑誌は売れれば良い、いや売れなくてはならないと思っているからではないか。もはや立花隆の時代ではないという事でしょうか。
はっきり言えば、いかに日本のメディアが信用できないか、そして腐っているかを(改めて)思い知らされる思いでした。WTWの主な矛先は政治とともに、メディアも対象にしています。なぜなら誰もそれをやらない(雑誌世界の神保を除く)からです。NHKを見ればわかるように、政権を正面から批判するメディアは殆どありません。多かれ少なかれ、政府、経団連、医師会、連合、その他大企業を含む、大きな組織に対する忖度がちりばめられているのです。現在の日本で、長いものに巻かれているのは、国民だけではなく、(本来は警鐘を出すべき)メディアもそうなのです。幸い、私は個人的なお付き合いを別として、いかなる組織にも忖度する必要のない立場です。なので、後は自分の良心に恥じないように振舞うだけのことです。とはいえ、それも結構難しいことは事実です。
新聞が、報道の理念も、分析力も、冷静さも欠いたがゆえに、国民をミスリードした、太平洋戦争の愚を繰り返させるわけにはいきません。だから文春の、自民党の国家主義的な価値観におもねる姿勢を、看過することはできないのです。日本を安倍元首相や橋下徹(含む日本維新)や、日本会議の思い通り通りにさせる訳にはいかないのです。
メディアがいかにフェイク記事や忖度情報を流そうとも、メディアの思惑に従わない国民が、一人くらいいてもいいでしょう。その一人が二人になり、三人になる。そして、与えられたものに依存し、満足するだけの家畜のような人間から、人格を備えた一人前の人間に成長することで、真の市民、言論人が生まれるのです。その結果、市民意識(最強の武器です)を身に着けた国民が、冷静に判断して投票を行い、そこで初めて(大衆迎合をベ−スにした事実上の独裁政治ではない)本当の民主主義国家が生まれることになるのです。
今、私が願っているのは、そして目指したいのは、有志が自己責任で参加し、情報を発信する、緩い結びつきの市民情報ネットワークです。それはSNSの意向に左右されない(言い換えればネットワーク・インディペンデントな)独立した組織、ピープルズ・メディア・ウォッチ機構(仮称)です。
今回の前書きはサンデー毎日(4.24)牧太郎の青い空白い雲からです。
「…山東議長の危うい愛国心」
…プーチンが起こした戦争の最中、ウクライナのゼレンスキー大統領が日本でオンライン国会演説をした。一方の当事者だけを招いて「演説」を聞くのはいかがなものか?と心配していたが、ゼレンスキー大統領は『復興』『故郷』『津岐』『サリン』など日本人に刺さる言葉を使って上手に話した。大統領が日本に軍事援助を求めなかったのは、戦力不保持などを定めた憲法9条に配慮したからだろう。ひとまず安心した。
ところが、である。演説を聞いた山東昭子参院議長が突如、立ち上がり『ゼレンスキー閏下が先頭に立ち。貴国の人々が命をもかえりみず祖国のために戦っている姿を拝見し、その勇気に感動している」などと芝居がかった様子で挨拶した。
祖国のために命懸けで戦っている勇気に感動?愛国心をくすぐったつもりらしいが、はっきり言って、これは行き過ぎだ。
愛国とは「故郷を懐かしむ」心情である。誰でも「愛国心」を持ち合わせている。しかし、祖国に対する愛着心」と、国家に対する『忠誠心』は違う。中世の封建制では、兵士の自己犠牲は君主に捧げられるものとされていた。愛国心=自己犠牲!だった。
現代でも、ロシアとウクライナの戦いで、多くの人が「祖国のために」死んでいる。殺されている。
山東議長が大袈裟に感動してみせたその戦争行為は「愛国心」という名の大量殺人である。
「国を守れ」「国家の名誉を守れ」と勇ましく主張するのは、少なくても平和主義の日本の国会議員がすることでは断じてない。
国会議員が守るのは、『国家の名誉』なのか、それとも、国民一人ひとりの命なのか。我々は冷静に冷静に考えるべきだ。
コメント:今、岸田政権には安倍の愛国思想が忍び寄っています。愛国思想が、軍国主義と結びついたときに何が起きるかを、我々は身をもって体験しているのです。その教訓を現在そして未来に生かさなければ、どうやって我々は大戦で、愛国の名のもとに命を落とした300万人の同胞に、顔向けできるでしょうか。
ところで牧太郎という人を、私は最近まで知りませんでしたが、サンデー毎日の編集長とのことです。コラムを拝見していて、極めて正常な常識(堅くも柔らかくもない)と、理性の持ち主であることが分かります。こういう人が編集に携わっているうちは、当該メディアも信用出来るのですが。
2116.時代錯誤の核共有論。22/4/14
今回の前書きは雑誌世界(5月号)です。
緊急特集ウクライナ、平和への道標と課題。
「時代錯誤の核共有論、NATOの実態をみる」梅林宏道から
私たちはいま、2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻の只中にいる。
高層のアパートに砲弾が炸裂して炎と煙があがる。瓦礫と死体。泣き叫ぶ人々の姿と声。地下室に身を潜める老人と母親と子どもたち。押し寄せる避難民……。毎日のように進行形の戦争の現実がテレビ画面に映し出される。
この戦争をどうやって止められるのか。一刻も早く止めたいと願うが、その術を知らない。始まってしまった戦争は、それ自身の力学と議論の枠組みを作ってしまう。
こんな時だ。「軍事力でしか国を守れない」「憲法第9条で国を守れるのか」と主張してきた者たちが、この時とばかりに日本の専守防衛や非核三原則を壊すために喋りはじめる。軍事同盟とはお互いに血を流す同盟でなければならない、国際合意など紙切れになる、核兵器を放棄した国は負ける、北朝鮮が核ミサイルを撃ってきたらどうする…と。
しかし、忘れてはならないのは、戦争はある日突然には始まらない。戦争の芽を育てる年月があったから戦争が始まる。平和への努力で戦争を防ぐことはできるし、それ以外に戦争を避ける方法はない。とりわけ戦後日本の平和体制は、弱まりながらもそのために必要な力を維持している。
2月27日、日曜朝のフジテレビの情報番組で行われたで橋下徹氏と安倍晋三氏との会話は、ここぞと始まった軍事力信奉者たちの古臭い持論開陳の典型例だ。
橋下氏は、戦争のインパクトを受けて「自分たちの国を守る力が絶対に必要だ」と述べ、核兵器に関わる問題を話題にした。「米国と共同して中距離ミサイルを日本に置くことも考えなければいけない」「非核三原則の『持ち込ませず』は、米国と共同で(見直す)という議論をしていく」
それを受けて安倍氏は、北大西洋条約機構(NATO)の「核共有」を持ち出した。「核の問題は、NATOでも例えば、ドイツ、ベルギー、オランダ、イタリアは核シェアリング(核共有)をしている。…日本
はもちろんNPT(核不拡散条約)の締約国で、非核三原則があるが、世界はどのように安全が守られているか、という現実について議論していくことをタブー視してはならない」。勢いづいて橋下氏は念を押した。「日本でもこれから核シェアリングの議論をしていくべきだ。NATO加盟国(の一部)は現実に核シェアリングをしており、ロシアは簡単には手を出せない」。
要約すると、このu議論は、日本が非核三原則を放棄してNATOのように米国の核兵器を共有する議論を始めるべきだというものである。
安倍氏によるNATO核共有論の説明は表面的なものにすぎず、その政治的、軍事的な理解は浅く、歴史的経過を踏まえない議論である。その理由を以下に詳しく論じる。
今日、NATOは、正確には「核共有」と言わずに「核共有体制=nuclear sharing arrangement」と定義する。その理由は、NATOが核抑止力として米国の核兵器を共同使用するには、核兵器そのものを狭い意味で共有することでは済まない「体制」が必要になるからである。
2022年2月にNATO自身が作成したファクトシートによると、「核共有体制は、全加盟国の集団的防衛のために、いくつかのNATO加盟国が提供した核能力、航空機、インフラストラクチャーからなる」と定義される。(中略)
2010年再検討会議において全会一致で採択した合意文書は、現時点において、次のような文言によって核共有体制に縛りをかけている。これは米国・NATOも含めて、すべての国を政治的に拘束している合意である。
今後の行動に向けた勧告 行動5
「……核兵器国はとりわけ以下をめざし速やかに取り組むことが求められる。
a 行動3で確認されたように、あらゆる種類の核兵器の世界的備蓄の総体的削減に速やかに向かう。
b 全面核軍縮の不可欠の一部分として、種類や場所を問わずあらゆる核兵器の問題に対処する。
c 軍事および安全保障上のすべての概念、ドクトリン、政策において、核兵器の役割と重要性をいっそう縮小する」(中略)
以上のように、NATO「核共有体制」は、冷戦時代の遺物として残っているNPT体制の抜け穴に過ぎない。
50年のNPT体制の歴史は、この抜け穴を塞ぐために努力を積み重ねてきたことを示している。その結果、「核共有体制」は全体的な核兵器廃絶に向かう努力の関門に位置するテーマとなって、その変更が迫られている。今後、ますます包囲網は狹められてゆくであろう。安倍晋三氏、橋下徹氏の「日本も核共有体制を」という呼びかけは、日本外交が力を注いできたNPT体制の時計の針を逆戻りさせようという、時代錯誤の妄想と言わざるをえない。
しかも、NATO核共有体制が示すように、日本が核共有体制をとるときには、日本の自衛隊基地に米国の核爆弾を配備し、航空自衛隊の戦闘機がそれを投下する任務を実行する。平時においては、核爆弾の所有権は米国にあるが、戦時には所有権が日本に移る理屈になる。つまり、非核三原則の「持たず」も「持ち込ませず」も核共有体制と両立しない。自国で製造こそしないが、実態として日本はフルスペックの核保有国となることを意味するであろう。
日本政府が絶えず囗にするように、日本が「唯一の戦争被爆国であり、核兵器の非人道性をどの国よりも知る国である」ならば、このような妄想に駆られるのではなく、核軍縮に向かう現実的な構想に、日本が率先してチャレンジすべきであろう。
「北東アジア非核兵器地帯」の設立を呼び掛けることが、そのようなチャレンジの一つである。相互検証の仕組みをもった地域的な非核化条約を作ることは、すでに世界に五つの先例がある。この努力は、「核の傘」ではなく「非核の傘」を作ることであり、地域的な平和機構を作る出発点にもなる。実現には時間を要しても、日本政府が非核兵器地帯設立の方針を打ち出すことで、多数の市民が求めている核兵器禁止条約への参加がすぐにも可能になる。
コメント:日本の核共有は、軍国主義者たちの危険な妄想です。口だけ達者なトール・ウイルスは、そもそも広島や福島に行ったことがあるのでしょうか。あんな者に若者をミスリードされた日には、たまったものではありません。
2117.なし崩しの専守防衛 22/4/19
この期に及んで、
秘密主義の防衛議論。
コロナ対策費、3年で77兆円。
一国民として、恩恵は感じられない.
愚かな(失礼)国民が選ぶ、
愚かな(失礼には当たらない)議員達。
民主主義も政治も、おかしくならない、わけがない
今回の前書きは朝日新聞(4.19)「新聞と読者のあいだで、抑止力とは、もっと論じる場に」、高村薫からです。
北朝鮮が弾道ミサイルの発射実験を繰り返し、中国による台湾有事も一層現実妹を増しているなか、日本では岸田文雄首相が昨年12月、戦後の首相として初めて所信表明演説で 「敵基地攻撃能力」の保有を検討すると明言しました。年明けからは国家安全保障戦略と防衛計画大綱、中期防衛力整備計画の改定に向けて、政府は有識者会合を順次開催していますが、話し合われている内容は国民に知らされていません。
日本人の多くは日ごろ国防を考える習慣がありません。
…大まかに言えば、右に「核共有」まで持ち出す自民党タカ派、左に自衛隊は違憲という一点から動かない左派リベラルがいて、真ん中がすっぽり抜けているのが国防をめぐる言論空間の現状だと、外交・安全保障担当の佐藤武嗣編集委員は言います。真ん中が真空なので国民的議論が生まれにくいのです。
そうしてまともな議論のないまま安倍政権下で一気に「日米同盟の抑止力」の強化が進んだのですが、国民の無関心をいいことに、政府は抑止力の名の下で何をしようとしているのか、国民に多くを知らせないままです。そのため、どこまで戦略的に妥当な中身であるかの客観的な評価すら欠いているのが現状です。
…18年度予算には長射程巡航ミサイルの開発・導入に向けた関連予算が盛り込まれました。国はこれを「離島防衛」用と説明して いますが、導入予定の米国製巡航ミサイルの射程は900kmあり、北朝鮮や中国が十分に射程に入ります。
ところで、こうした兵器で敵艦隊や敵基地を攻撃することを国はなおも「専守防衛」としているのですが、これはどう考えても意味不明です。
「敵基地攻撃能力 持てるのか」(2月22日付朝刊「憲法を考える」)や、「なし崩しの『専守防衛』」(3月19日付朝刊)では、…簡潔 に要点を整理してくれています。
記事では敵基地攻撃能力保有について、政府が明確にすべき点を二つ挙げています。まず「専守防衛」とは、武力攻撃を受けたときに、その火の粉を払うための必要最小限の「対処」を指す受動的な姿勢とされてきました。ところが、安倍政権下で「対処」が「抑止」に筬わり、長射程ミサイルで他国を牽制することができるようになったいま、従来の「専守防衛」はもう成立しないと考えるのがふつうです。
もう一点は、明白に違憲ではあるものの現実に法制化されてしまった集団的自衛権の行使と、敵基地攻撃能力の関係です。日本が堅持してきた「専守防衛」での武力行使には、日本への武力攻撃があることや、日本近海と周辺の公海といった地理的制限がありましたが、集団的自衛権の行使ではそれらもなくなり、いわば能動的に他国の戦争へ参加することになります。また、武力行使には「必要最小限度」という制約もありますが、何が必要最小限かは他国との戦争の様態に応じて決まるのであって、ここでももはや「専守防衛」での武力行使と言えないのは明らかです。さらにつけ加えれば、敵に脅威を与える長射程ミサイルが、憲法が保有を禁じる「戦力」に当たる可能性があることも大問題でしょう。
振り返れば、戦後の国会が営々と積み上げてきた憲法9条をめぐる議論の精緻さには舌を巻きます。何ができ、何ができないかを言葉で明確に規定することで、文字通りの文民統制が機能してきたのです。
いまや「専守防衛」の看板自体を下ろしたいのが国の本音かもしれません。…阪田氏や佐藤・藤田両編集委員の問題意識は、すでにあいてしまった憲法9条の大穴をこれ以上広げないことにありますが、これは国民にとっても残された唯一の道でしょう。国会でこの問題がほとんど追及されなくなったいま、新聞はまだかろうじて安全保障を論じる場をもってぃます。ロシアによるウクライナ侵攻が現実になった以上、新聞は積極的に「抑止力」の意味を問い、憲法との整合性や、長射程ミサイルの安全保障上のリスクを克明に論じることこそ求められているのです。
・過去3年のコロナ対策費、77兆円。
https://toyokeizai.net/articles/-/581968
コメント:我々国民は、マスクも消毒薬も自腹である。最近では検査薬さえ買っている。ワクチン以外に、一体どこに使われたのだろう。アベノマスクか、病床補助か、飲み屋の損失補填か、支援金手続き代行の電通か。完全に使い方が間違っている。そもそも感染経路さえ、飛沫感染と間違った。本当は空気感染だったのに。国産ワクチンもなく、治療薬も遅れた。最初から不可能な完全隔離を持ち出して、必要以上に、感染者も、濃厚接触者も苦しめた。しかも在宅では治療が受けられず、166人の在宅死を出した。権力を振りかざしたお役所仕事が横行し、保健所は疲弊し、対策に良いところが全くなかった。担当省庁はどこでしたっけ。
2118.都立病院を廃止 22/4/21
今回の前書きはサンデー毎日(5.1)から2件です。
抵抗の拠点から「政治と戦争」青木理
民間人への無差別攻撃や虐殺、性暴力、略奪、そして化学兵器の使用疑惑に至るまで、ウクライナに侵攻したロシア軍の蛮行がメディアなどを通じて盛んに伝えられている。21世紀の現代にこのようなことが起きるとは、と嘆きたいが、むしろこれこそが今も昔も変わらぬ戦争の本質なのだ、と捉えるべきなのかもしれない。
とすれば、侵攻の命令を発したロシア大統領の責と罪はもちろん真っ先に問うべきにしても。それを止めることができなかった時点で国際社会は、そして各国の指導者たちは、すでに取り返しのつかない過ちをまたも犯してしまったことになる。
そういえばつい先日、長く与党幹部や閣僚を歴任し、保守の重鎮とされた元政治家と話す機会があった。彼はふとこんな台詞を口にした。『政治の役割はさまざまあるが、最終的に最も重要な役割は、戦争だけは起こさない、起こさせないこと。それに尽きるんじゃないかと思う』と。
いかにも情緒的というか、ある種教科書的な物言いにも感じられたが、それは先の大戦の辛苦を直接知る者たちの、それを直接経験させられた世代の、心底に刻まれた叫びのようなものにも思われる。保守だろうが革新だろうが、少し前の政冶家には、そうした矜持が一定程度は共通して漂っていた。そうした政治家が重しとして存在し、軽薄な風潮に警告を発していた。
これも取材の用あってのことだが、後藤田正晴の発言録を最近再読する機会があった。あらためて招介するまでもなく旧内務省出身の警察官僚であり、警察庁長官を務め、政界に転じると中曽根内閣の官房長官や副総理なども務めた“カミソリ”は90年代の末、こんな言葉を発している。
〈21世紀の安全保障政策として、核による抑止と均衡という考え方は成り立たない。遇去のものである。核の廃絶、軍備の縮小、核保有国の非保有国に対する核攻撃の禁止、非核地帯協定の拡大、そして国際協力の増進と共存政策の構築に向けた努力−これが各国のこれからの安全保障政策のあるべき方向ではないか〉
〈将来は9条を改正し、自衛権を明記することになるのかもしれない。そのときのことで一つ注文をつけるなら、海外では武力行使しないことを同時に明示すべきであるということだ。これだけは最後の一線として守るべきだ。自衛のためならいいではないか、という反論が出てくるかもしれないが、侵略のため軍隊を持つ、海外へ出て行くという国はどこにもない。だから私は当然、拡大解釈で集団的自衛権は合憲とする考えにも賛成できない」(いずれも朝日新聞に寄稿された『後藤田正晴の目』)
ひるがえって現在。薄くて軽い世襲議員が政界を我が勧顔でのし歩き、ロシア大統領に媚びた大失政への悔いすら微塵も省みず、逆に『改憲』だとか『核共有』だとか、さらには『敵基地攻撃』などと高らかな声をあげている。これを劣化と言わずして、何を劣化と呼ぶべきか。
二つ目は、鳥海美奈子の「都立病院が大変なことになっている。何やってんだ、小池知事」から
全国の新型コロナ新規感染者数はリバウンド傾向にあり、第7波が懸念されている。小池百合子東京都知事は『BA・2への置き換わりが、大変速いスピードで起こっている』と警戒を呼びかけた。
しかしその一方で、小池都知事と都議会は3月下旬、コロナ対策に大きな影響を与えかねない議案を可決。成立させていた。それが都立・公社病院を7月から独立行政法人化(※以下、独法化)する『都立病院廃止条例』だ。今後は、八つの都立病院と六つの公社病院が都の運営から離れて、独立採算制へと移行することになる。それにより効率的な運営を行い、公務員の数を削減し、税金の投入を抑えられるとしている。
一時期、独法化する理由として挙げられていたのが、都の予算から8都立病院にあてられている年間400億円の支出だった。独法化を推進する立場の人たちは、それを減らすべきだと主張したのだ。都留文科大講師・安達智則氏は語る。
『確かに、都立病院には400億円程度の繰入金が投入されています。それは感染症や救急医療、精神疾患や難病、小児や障害者など、民間では採算が取れない医療を公立病院が担ってきからです。地方自治法第1条の2には『住民の福祉の増進』のために行政が運営するべきものと明記されています。“都立病院が赤字だから税金がたくさん使われている”というのは大きな間違いです」
独法化により今後、懸念されるのはコロナ病床の確保だ。これまで東京都でコロナ患者を受け入れてきたのは、まさにこの都立や公社病院だったからだ。
「大阪府のコロナ死者数が多いのは、公立病院の独法化と関連がある」と指摘するのはNPO法人医療制度研究会副理事長・本田宏氏である。…
『大阪では06年に府立病院、M年には市立病院が早くも独法化されました。そういった病院では予算が削減されて、コロナ患者を受け入れる余裕がなかった。…大阪では必要な医療措置が受けられずに患者が死亡する医療崩壊が起きていたと考えられます』
ではなぜ、依然続くコロナ禍において小池都知事と都議会は、独法化を急ぐのか。それは、じつは厚労省の方針と無関係ではない。19年9月、厚労省は「再編・統合の議論が必要」と、全国の公立・公的病院422病院を実名で公表した。小池都知事の動きはその後、一気に加速する。約3ヵ月後の都議会で、『都立病院と東京都保健医療公社病院の地方独立行政法人への移行の準備を開始する』と突如、そう表明したのだ。
『小池鄒知事はとても政治的な人物です。立場としては自公連立と闘う姿勢を見せていますが、実態は自民党と同じ新自由主義です。日本は小泉・安倍政権のもと行政の規制を緩くし、自由競争を重んじるという方針で、多くの公的機関の民営化を推進してきました。厚労省の言を受けた小池都知事は。真っ先に自分が病院に手をつけようと思い立ったのでしょう」(本田氏)氏が続ける。
『今回の独法で約7000人の職員が公務員ではなくなります。それにより強固な労働組合を弱体化させて、給与体系を操作しやすくする。小池都知事はスリムな都政を実現したと“自慢”したいのではないか』(安達氏)
その政策に対して、大きな憤りを見せるのは都立病院の職員による労組組合『都庁職病院支部』の書記長・大利英昭氏だ。大利氏は都立駒込病院で看護師として、自らもコロナ患者治療にあたってきた。
…『まず大きな問題点は、都立や公社病院を独法化するという甲実を、多くの事実を多くの都民が知らないことです。なぜなら小池都知事や都議会議員は、以前からその計画を持っていたにもかかわらず、あえて選挙の争点にはしてこなかったからです。これは都民の福祉を踏みにじる行為であり、強い憤りを覚えます』
また都議会での讚崘も不十分だったと話す。
『大事な質問には小池都知事は答えず、答弁を引き継いだ病院経営本部長は的外れな返事をして逃げる、といったことの繰り返しでした。14の都立病院と公社病院の独法化により、病床の統廃合や削減はあるのか。…人件賢に制約をかけるのかどうか。そういう核心的な部分はいっさい明らかにしないまま可決されてしまったのです」
独法化により経営効率化が進むと、医療の現場では具体的にどのような変化が起きるだろうか。
その一例が、09年に独法化した『東京都健康長寿医療センター』だ。ここではそれ以前より病床数は最大時711床から約150床も減らされた。その一方で、高額な差額ベッド代の割合は25%増えた。都立病院にはない個室入院保証金も10万円徴収。一般的な都民にとって医療は狹きものとなり、裕福層でなければかかりづらい方向へとシフトしている。
また医療従事者の賃金の上昇率も、低く抑えられた。採算重視の病院運営は、過度な労働の要因にもなる。
…賢金への不満や疲弊から大量の医師や看護師の離職者が出るのではと、懸念されている。など4病院を…過疎化が進む地方の山間部は東京都などと比べて民間病院が少なく、公立病院が独法化されれば、医療を気軽に受けられない環境になるとも言われる。
多くの問題の根底に横たわっているのは、「医療とは何か」という行政の指針や思想である。もともと日本は公立病院の数が少なく、全体の約20%にすぎなかった。対して、イギリスやフランスはほぼ100%が公的病院だ。それは医療はビジネスではなく、社会インフラや教育、公衆衛生と同じく「社会の共通資本」であるという考えが基盤になっている。
前述の本田氏や大利氏は、広く世論に訴えかけ、問題提起をしていきたいと話す。その声は小池都知事に届くのか。
コメント:大阪の医療ひっ迫には橋下も一枚かんでいるのです。従って彼には、コロナ対策も、福祉も語る資格はないのです。あれだけ多くの死者を出した以上、吉村知事にもコロナ対策を語る資格はないでしょう。一方、小池百合子は参院選で都民ファの荒木代表を東京区で推す方向です。しかも荒木の穂ヵに、自分も比例区で出馬して国政に戻るという筋書きや、その時には政党を超えて、総理候補のいない二階派に取り入るだろうという憶測も出ています。要は政治的な理想や理念が目標ではなく、ひたすら自分が目立てば満足で、権力欲、自己顕示欲が全てだという、とんでもない人間が都知事になっており、参院を目指しているという、悪夢に似た茶番劇を、我々都民は否応もなく見せつけられているという事なのです。コロナ対策も都民の福祉も、彼女にとっては、どうでもいい事なのでしょう。都民も国民も、もういい加減に、いかなる価値観で、どういう判断を下してきたかではなく、見た目の印象や、誠意のない虚しい言葉で、政治家を選ぶのは止めにしませんか。不正直で、無責任な人間を代表に選ぶことで、後で実害を被り、困るのは都民や国民自身なのです。
2119.主体的行動がなければ、憲法も空文 22/4/23
自動車にはナンバープレートが必要です。日本の各地で、土地の特色を出そうとして、いろいろな図柄のプレートが用意されていますが、今一つ普及には至っていないようです。私も無地のプレートにしています。但し米国では州を表わす図柄をあしらったプレートが一般的で、自分が駐在していたNY州では当然、自由の女神像でした。
また番号を自由に選べるうえに、アルファベットも使えるので、私の場合は自分の名前をそのままナンバーにしていました。8文字の制限があるので、hを取り、nisimakiです。帰国時に持ち帰りたいと言ったら駄目だと断られました。
その後、日本でも番号(但し4桁の数字のみ)が選べるようになったのはいいが、費用1万円は取り過ぎです。私は最初は登録年度を使っていましたが、最近では自動車雑誌のように排気量にしています。外出すると、他人のナンバーが気になります。最近は明らかに自分で選んだ番号が増えていますが、そこでもセンスが効いてきます。生まれ年だと歳が分かるし、電話番号も良くありません。そして今日見かけた番号は3355(三々五々)でした。持ち主がどういう意図で付けたのかまでは分かりませんが、センスを感じました。少なくとも、3396(散々苦労する)や4989よりはましでしょう。
今回の前書きは世界5月号の『幻の原稿』で、今こそ心ある国民は読むべきだと、確信しました。昔の文章なので、いささか読みにくいのが難点です。
「新憲法とわれらの覚悟」芦部信喜(前書きは渡辺秀樹、解説は長谷部恭男)
はじめにー75年ぶりによみがえった幻の原稿
〈もし封建時代から継承された他力本願的な気持ちを清算できないならば……明治憲法に比し飛躍的な近代的性格を持つ新憲法を時の経過と共に空文に葬り去ってしまうことが、決してないとは言えない〉
これは、今から75年余前、日本国憲法が公布されて間もなく23歳の青年が書いた論考の一部である。青年の名は、芦部信喜(1923-1999年)。のちに「戦後日本を代表する」という定冠詞がつく憲法学者だ。その原点とも言える諭考「新憲法とわれらの覚悟」を掲載した『伊那春秋』が駒ヶ根市の農家の土蔵から見つかった。
論考は、ドイツワイマール憲法や明治維新がたどった道を分析。新憲法を生かすために国民の「主体的意識の確立」を呼び掛ける。現代にも通じる警告だ。
…1945年の終戦後、すぐに復学せず、一年近く駒ヶ根の実家に滞在。戦前の言論統制から解放され、全国で花開いた文化運動に関わり、ガリ版刷りの雑誌『行人』(のちに『伊那春秋』と改題)を発行していた。
私(渡辺)は自民党が九条を含む四項目の憲法改正条文案をまとめる中で、芦部氏の徹底した平和主義の憲法学の今日的な意義を探るため、その軌跡をたどる連載「芦部信喜 平和への憲法学」を2018年6月から信濃毎日新聞で始めた。
その取材の中で何人かの芦部氏の弟子、教え子から、芦部氏が憲法公布を受けて「新憲法とわれらの覚悟」という論文を雑誌に書いたと生前話していた…。
信濃新聞紙上では第一部だけ掲載。全文掲載は『世界』が初めてになる。
『新憲法とわれらの覚悟』
昨夏のフランス革命の研究会を通じて我々は絶対王政からの解放のためにはいかに多くの犠牲が払われたかを知った。また革命的混乱期にはその革命のもつ不可避的性格の故に、混乱に陥入れることにも反省を促された。しかしたとえこの貴い教訓を観念的に知識としてうけ入れたとしても、「封建的心情」の残滓を 払拭できない限り、それはなんら主体的行動を迫る原動力とはならない。
もし封建時代から継承された他力本願的な気持ちを清算できないならば、よしデモクラシーや社会主義の実現を安易に夢想するようなことはないにしても、明治憲法に比し飛躍的な近代的性格を持つ新憲法を時の経過と共に空文に葬り去ってしまうことが、決してないとは言えない。
まして血のにじむ苦闘を通じて戦いとられた欧米の民主主義が新憲法の発布により簡単に実現すると考えたり、「憲法より飯だ」と国民一般がこれに無関心であったならば、いかに国民主権主義を宣言しても人民の幸福をもたらす政治は到底実現されるはずはなかろう。
歴史上かかる例は枚挙にいとまがない。その最も生々しい教訓を第一次大戦後のドイツワイマール憲法に見ることができる。
日本国憲法は我々の選出した国会議員によって採択され、ほとんど国体の変革とも言うべき歴史的な新憲法として発布された。もちろん新憲法が現代的憲法としてはいくたの不完全さをもつことは否定できない。が、現在我々国民としての責務はかかる不完全さをせんさくすることでなく、この憲法を生かすことを真剣に考えることである。そしてそれは我々の「主体的意識の覚醒」の一語につきると私は思う。すなわち欧米150年の昔に帰り、フランス革命のヒュマニズム的精神、主体的自立の精神を獲得せねばならぬのである。この小論においてはこの主体的意識の確立を何故それほど強調せねばならぬかを漸次、歴史的に略説しようと思うのであるが、結論を先に言えば、我が国における近代的精神の確立は何百年にわたって第二の天性とまでに形造られた封建的心情をえぐり出さねばならぬ点において国民全部の痛切な浄化反性〔省〕においてまたねばならぬ故、我々の一大勇猛心が必要であると言うことである。
もしこの浄化反省による精神革命がないならば、尊い歴史的成果を死文になす結果となることを痛感して諸君と共にこの問題を真剣に考えて見たいのである。まず20世紀の法律文化の出発点と謳われながら、20年足らずして死文と化したかの有名なドイツ共和国憲法(通常ワイマールと言う)をふりかえって新憲法の成否がいかに国民資質の双肩にかかっているかを考えよう。
第一次大戦末期に勃発したドイツの革命は、急進的社会主義が結局指導権を握り得ず、社会民主党による共和政の建設を以て終了し、1919年にワイマールにおいて画期的な共和国憲法が制定された。何故に画期的であるかと言えばいわゆる「文化国」思想を広汎に採用した点にありとせらる。
すなわちこれまでの19世紀憲法、例えばアメリカ諸州の憲法、フランス人権宣言等は「法治国」思想に貫かれて居り人は生まれながらにして自由平等の権利を有すとせられ(天賦人権説)、しかもこの権利は国家権力以上のものと考えられる結果、国民の基本権は国家権力に依っても絶対不可侵のものであり国家は国民の天賦の人権を保証する限りにおいてのみ存立の意義があった。
ところがこの個人主義的な自由放任主義の赴くところ自由一般の否認乃至有産者のみの自由となり経済的無政府主義や国内における労働問題を引き起こし国民生活を極度に不安定にしたことはあまねく知るところである。
そこでこの社会問題を新たに解決すべく国民生活を進んで発展促進しようとする国家の積極的な責務が要請され「文化国」思想、わかりやすく言えば社会主義的な国家理論が20世紀の世界普遍の原理とされるに至った。この原理の出発点を憲法上に措定した意味でワイマール憲法は画期的な歴史的意義を有するのである。もっとも所有権の肯定、契約の自由と言う、個人主義原理が抹消されたのではない。法治国家の様に国家が個人の人権を消極的に尊重して侵すべからざるものとする外に、積極的に尊重してそれを充実するの責務を負うと規定し、さらにその具体的方策にまで及んで社会主義的な経済条項による広汎な補正がなされているのである。
いわゆる自由権的基本権より生存権的基本権すなわち「各人に人間らしき生活をする権利」が国家によって保障されているのである。しかしもともと文化国思想の国家理論から言えば、国民と国家が一体となって「協同体」を営むものであるから各個人は部分に応じて権利をもつと共にしかも部分に応じた責任を負うのは当然であろう。
…かかる「社会化立法」を以て国民一般の経済的保護を企図し当時としてはほとんど完璧に近い憲法を作ったのである。…ところがこの画期的憲法すら年ならずナチスのために蹂りんされてしまった。それが
彼(ヒトラー)を賛美しこれに追随する群衆的浮動性無定見にあると極言することは必ずしも不当ではないように思う。…民族自決政策を掲げたナチスがたまたま塗炭の苦しみにある国民の気持ちを巧みにとらえることができたことによるであろう。
しかし帝政を廃止して国民主権主義を採用した共和国憲法を一片の死文と化してオーストリア合併、ポーランド、チェッコヘの強襲と言う独裁制にまでヒトラーを増長させたものは「無思慮に少数者の意に従う多数者」の万雷の拍手があったからであろう。
われわれはこの歴史の悲劇を対岸の火災視することはできない。われわれの思想的動向が右に左にただ時論の赴くままに無定見に浮動し何らの節操もない為政者を選出して異とも感じない考え方が依然として改められず、相変ずの被治者根性に支配されて主体の意識をとり戻さぬ限り、新憲法の下に再び過去の変改が繰返されることが決してないとは言えない。まして自由権的基本権においては百パーセントであるに拘らず、生存的基本権において甚だ不完全であり、さらにワイマール憲法のごとく生存権の保障になんら具体的方策の定めてない(詳細は略す)新憲法をしてその成果を発揮せしむるものは国民の正しき政治活動以外はない。(中略)
『解説』
…論稿は、新憲法の掲げる理想の建設のためには、「民主主義制度の確立と相俟って国民的精神の革命的浄化を必須とする」と述べる。…これを改めるには、「正しき権利の主張」とともに、その不可分の理念として「他者の権利を承認、尊重」するという「近代的遵法精神の確立」を目指すべきである。
論稿は末尾で「一切の偶像にとらわれず、一切の権威を、能力をもつ「自我」(イッヒ)をその最後のよりどころとして雄々しく出発することが最も必要なのではないか」とする。
政治の領域でも社会生活の領域でも、個人の主体性を確立し、かつ相互を尊重すべしという芦部憲法学の根幹となる思想が、23歳の論稿において早くも、若い熱情のほとばしる筆致で、高らかに宣明されている。私たちは今もなお、本稿の求める「覚悟」を必要としているのではなかろうか。
(はせべ・やすお 早稲田大学教授、憲法学)
コメント:ロシアの国民こそ、まさにそのような状態にあるのではないでしょうか。あるいはトランプ時代の米国民、そして安倍菅時代の日本国民、小池知事下の都民も。国民が『覚悟』しない限り、日本には新憲法に基づく、真の民主主義は訪れないのでしょう。
関連記事:憲法の根幹骨抜きにする恐れ。敵基地攻撃能力。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/173133
関連記事:「敵基地攻撃」、改称「反撃能力」
https://jp.reuters.com/article/idJP2022042101000859
・超党派100人が靖国参拝。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022042200485&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
コメント:超党派の議員が、理屈や背景をきちんと理解して行動しているようには思えません。私は靖国を神社と呼ぶことにまず抵抗があります。なぜなら靖国には古代の神を祀る『神』の社という意味合いは薄く、意味として近いのは、特定の個人を神格化して祀った乃木神社や明治神宮だからです。でも亡くなって神になる(まずそこで躓きます。誰が神になった親族を想像できるでしょうか。そもそも神とはどんな存在なのでしょうか)のは神道だけです。仏教では仏ですが、そこには(亡くなった祖先や親族が)あまたある仏の一人という平等感があるし、子孫を見守る優しいまなざしも感じられる。そういう雰囲気は靖国にはない。あるのは護国の観念くらいでしょう。
それやこれやで、私は、信仰に縛られない、宗教色のない、共同慰霊施設を新たに作るか、もしくは靖国を神道から切り離し、神道の神社の形はしていても、事実上、共同慰霊施設に位置付ける方が良いと思っています。
無宗教(超宗派)になれば、国費で運営できるし、管理を当番制にして、当面は神道の神官に管理を依頼することもできる。本殿も、参拝形式も、いかなる宗教にでも対応できるような形にするべきです。宗教色を薄くすることで、外国が文句を言う筋合いもなくなるはずです。失われた命を惜しむ権利は誰にでもあるからです。但し私は兵士の魂の多くは既に郷里に戻っており、靖国には余り残っておらず、結果的に、靖国は無名兵士の霊廟になるのではないかと思っています。
靖国から取り去るべきは、慰霊の気持ちではなく、戦死を正当化する『軍国主義』なのです。だから戦争博物館の併設も本当は好ましくないのです。私が一番嫌いな言葉は軍神です。神道の神は、人を殺せと教えしや。
・侮辱罪厳罰化。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6424450
コメント:個人の尊厳(というより本音は評判の方でしょうが)を守る為ではなく、事実上の言論統制が目的と思われます。自らの不正が招いた不評でも、それを認めない態度です。この分では、弱小サイトのWTWにも火の粉が降ってくるかもしれません。有名人や官僚や議員が、自分に不利なこと、不快なことは、全てを誹謗中傷で決めつけ、批判を封じる恐れが出てきました。だからと言って私は安X(日本の獅子身中の虫)批判の手を緩めるつもりはありません。但し批判者の逮捕は容易です。なぜならどんな批判でも100%の証拠を揃えることなでできっこないのですから。誹謗中傷という因縁は、付けようと思えば、いくらでもつけられるのです。
2120.森友問題森 22/4/25
私は政治家の安倍晋三氏を好きにはなれません。でも個人、いわゆる一般市民の安倍晋三なら、それほど酷くなく、結構良い友人や隣人になれる人ではないかと思っています。モリカケサクラ事件の友人知人に対する義理がたい対応からも、それは十分予想できます。
ところが森友事件は未だに全容が解明されていません。一体何が問題だったのか、事件の解明はなぜ進まないのか。開示されている事実が余りに少ないこともあって、国民の目にはよく分からないというのが現状だと思います。今のような状態が後半年も続けば、もう国民にとってはどうでもいい出来事になってしまう(風化)可能性があります。でもそれでは死んだ財務省の職員は浮かばないでしょう。むしろ事実を明らかにすることで、安倍夫妻には全く非が無かったということが証明されるかもしれないのです。財務省が独断で暴走した可能性もあり得るからです。本人ではなく、官邸が介入した可能性もあるが、それも実態は分かっていません。しかしこの分からないという状態を放置することは許されないのです。なぜなら悪しき前例であることを明確にしておかないと、同じ過ちがまた繰り返されるからです。
そこで朝日の社説が、森友事件をおさらいしてくれたので、ご紹介したいと思います。これを読めば、本件は放置したり、風化させてはならない事件だという事が良く分かります。
朝日新聞(4.24)社説余滴、森友問題の4月25日、28日、坪井ゆづる、から
どれほど、人々の関心が薄れても、真相が明らかでない問題を忘れてしまうわけにはゆかない。
節目の日など、折に触れ見つめ直す必要がある。
たとえば、旧安倍政権の森友学園問題で注目されたのは4月25日と28日だ。
8年前のことである。
4月25日に首相の妻昭恵さんが籠池夫妻と国有地の前で写真を撮った。そして28日に、寵池氏は写真を近畿財務局で見せて、「いい土地ですから前に進めてください」と言われた、と伝えたという。
その約1ヵ月後に、8億円値引きへの道が開けた。この間に何かあったのか。
2017年に国会で問われた安倍氏は「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞めると言い切った。その後、財務省は公文書の改ざんを始めた。
翌年、朝日新聞が「改ざん」を報じた結果、『膨大な決裁文書が公表される。だが、肝心の4月28日の籠池氏との応接記録がない。理由は辟もわからない。
そもそも、異例ずくめの土地売買だった。それまでの5年間に財務省が結んだ約1200件の公共随意契約で、@分割払い、A売却前提の定期借地、という買い手に有利な特例は森友だけ。B金額未公表も4年間の約1千件で唯一だ。
@ABが重なる確率は、1200分の1x1200分の1000分の1で14億4千万分の1.まさに「神風」に見える。
「私もそこが知りたい」 改ざんを強いられて自死した近畿財務局職員の赤木俊夫さんの妻雅子さんは今月、日本記者クラブでの会見でそう語った。改ざんと土地売買の問題点の関連性を見すえてのことだ。
真相解明を求めた訴訟は昨年末、国によって打ち切られた。国が公費1億円を払い口をつぐんだ格好だ。
だが、元理財局長を相手にした裁判は続いている。
雅子さんは会見で元理財局長らの出廷を求め、「もう刑事訴追の心配もないから」 「なぜ改ざんしたか、誰に言われてやったのか聞きたい」と訴えた。
同時に、安倍夫妻と麻生元財務相の墓参りも切望した。その場で披露した揮毫には夫の似顔絵を添えて、こう書いた。
「私は真実が知りたい」(夕刊「素粒子」担当)
コメント:国民には真実を知る権利がある。なぜなら公金が絡んでいる事件だからである。行政や司法の関係者がそれを阻害すれば、服務規律違反(職務怠慢)であり、憲法違反だ。