「WTWオンラインエッセイ」
【第16巻の内容】
「五木寛之」
「100分で名著・新春版から」
「夢の対談」
「WTWは壁新聞」
「最近の国会質疑から」
「時間て何だろう」
「再びデジタルデバイドについて」
「目くらまし報道にについて」
「息のある内に」
「記事の選択は人の手で」
「映画と私」
「オピニオンからエッセイへ」
「朝生と憲法」
「労働者と権利」
「トランプが大統領になると」
「五木寛之」2016/1/30
WTWでは尊敬できない人を取り上げていますが、ならば現存している人で尊敬出来る人はいないのでしょうか。無論そんなことはありません。一目置く例を挙げると、五木寛之と鳥越俊太郎がいます。昔ならナイスミドル、今なら白髪の似合うイケメン高齢者ですが、せめて中身の1/10でも追いつきたいものです。最近のNHKの団塊世代の番組で、五木の印象に残る言葉がありました。まず私達が生き残っているのは、誰かの犠牲の上に成り立っているという事実です。即ちそういう罪を背負って生きているという認識の大切さです。もう一つは死というものは、遠方からこちらに向かって徐々に歩いてくるものでなく、突然後ろから肩を叩くものだということです。この件についてはは私なりの解釈と哲学もあります。それは、人は過去や未来で死ぬことは出来ない。死はいつも現在の出来事だというものです。人生は好むと好まざるとに関わらず常在戦場であり、それが生物であることの宿命なのです。そして五木のもう一つの指摘は、高齢者と若者で経済格差があると言われるが、実は年金でまともに生活も出来ない老人が大多数を占めている。富裕層は1-2%でしかない。その結果、若い世代に経済的負担のしわ寄せが起きるのはおかしい。先ず世代内で格差を是正する方法を考えなければならないというものです。年金の目減りは運用に問題があると思いますが、それはひとまず措いて、私なりに一案を考えてみました。生活に苦労しない層がファンドを設立し、高齢者が働いて多少の報酬を得て、生活費に足すことで、せめて人並みの生活が出来るような仕組を作り、利益が上がればファンドに還元するという仕組みにすることは不可能でしょうか。退職を余儀なくされても、未だ健康で気力や気力を持て余している人も多いと思います。第二の人生の場が必要なのです。座して死を待つ人生を、人生とは呼べません。それは座敷牢です。団塊の世代だって身体を動かしたいし、出来ることで社会に貢献したいのです。1億総活躍の中に高齢者の居場所を作る、それを高所得者の投資でという案なのです。
「100分で名著・新春版から」2016/2/1
・内閣支持率上昇。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160131-00000049-mai-pol
批評:毎日新聞の調査なので、バイアスは少ないと見るべきでしょう。また数字を細かく見ると、上昇が言い過ぎであることが分かるにせよ、下がらない事に言い知れぬ恐怖を感じるのは私だけでしょうか。それは倫理観やバランス感覚が風化しているのは、内閣だけではないという事を意味しているからです。甘利大臣は罪を認めることの方が政権に有利であることを見切って動いたと思われるし、ある程度状況をオープンにすることで、検察の訴追を免れるという裏約束の存在の想像さえ可能です。この調査は、来るべき参院選の予測を含めて、重大な問題を提起していると、私は思います。ますます野坂昭如の、今は戦前だという言葉が強烈な、しかも不吉な輝きを持ってきます。
そこに長い一言を追加させて頂きます。それは1月2日のNHKの新春番組=昨日再放送、100分で名著の平和論、の司会の伊集院の祖父が言った言葉です。祖父は戦中生まれ、本人が戦後生まれ、その祖父が、明日戦争が起きたらお前は戦前生まれだよと語ったそうです。我々が皆、いままさに戦前にいるという理解こそ、日本と世界が戦禍に巻き込まれないようにするために、最も必要なものなのです。
ちなみにこの番組では資本主義の果てしない欲望が戦争の背景にあると指摘しています。また年収800万あると生活に不満はなくなるのに、そこでは留まらないと述べています。貧しくないのに、格差から貧しさを感じることが収奪に拍車を掛けると論者が述べています。この番組はとても良い番組なので=保守にもリベラルにも、再々放送でもあったらぜひご覧ください。水野和夫は、戦争を避けるには、よりゆっくり、より近く、よりゆっくり寛容にと述べていました。資本主義の暗部を、自由企業と市場経済の裏面だと割り切るべきではないのです。なぜなら経済的な豊かさより、大事なものは豊かさを感じ取る前に必要な安全と平和であり、そもそも豊かさでさえ、金銭面だけでは捉えられないものだからです。
ともあれ対テロ戦争だろうが、領土を守る自衛の戦争だろうが、武器で人間を殺すという行為に変わりはありません。意見や信条を異にする他者を、いわばその存在を根本から否定し、武器を用いて殺りくし抹殺する。それこそがテロストの論理そのものではないか。我々は、自分達がテロリストになることでしかテロと戦えないのか。それは大きな矛盾ではないのでしょうか。そうではなく、テロリスト個人ではなく、彼らが取る暴力的で破滅的な手段、即ち殺害という方法そのものを否定するという事から始めないと、血を血で洗う泥沼が待っているだけです。
武力で支配した英国をインドから追い払ったのは、ガンジーの無抵抗主義であったことを、もう一度想い起す必要があります。戦争=殺し合い、そのものが良くないのです。世の中に良い戦争などというものはないという認識こそ、我々日本人、いや人類が強く持ち続けなければならない理念なのです。どうしても戦わなくてはならなくなったら、その時は非致死性の道具で戦うべきであり、相手が参ったと言ったらそこで争いを終えるべきなのです。また単に国勢を誇示し、競い合いたいというのであれば、戦闘以外の方法によるべきなのです。そのひとつの形が、皮肉なことにいまやただのスポーツイベント、資本主義の利権の象徴と化したオリンピックであり、サッカーなのです。
・スウェーデンで子供の難民襲撃。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6189592
批評:これがナショナリズムとファシズムの醜い実態です。後めたいから多数で襲う。後めたいから覆面をするのです。自分と、自分と同質の仲間の中に閉じこもり、異質の考えを単に排斥し、会話を拒絶する。そういう個や国が、共存も永続もできるわけがない。そうなると覇権争いと、その結果としての戦争が不可避になるのです。対話と共同の拒否。独善こそが戦争の温床に他なりません。だからこそ私は安倍自民党政権に警鐘を鳴らし続けているのです。
「夢の対談」2016/2/4
国会中継を見ていると、安倍首相が二言目には、自分は日本を代表する総理大臣としてという言葉が出てきます。私たちはもう耳タコで、今更言う必要はないと思うのですが、ここで一つ仮想対談を思いつきました。
首相「…私は日本の首相として…」
国民「あれそうだったんですか。一体誰があなたを日本の代表にしたのですか」
首相「衆院選で自民党が圧倒的多数の議席を得ました。即ち国民が選んだ政党が、その代表に私を選んだ。だから私が合法的な日本の代表なのです」
国民「という事は国民が貴方を代表にした訳ではありませんよね。自民党が選んだという言い方が正しいのではないですか」
首相「それが日本の代議員制度なのです。しかもその後の世論調査でも安倍内閣の支持率は上がっています」
国民「それって内閣の支持率であって、首相の支持率ではないですよね。とは言え、国民はあなたが誰かを良く知っているに違いない。ならばなぜ、貴方はしょっちゅう自分が首相だと繰り返すのですか。だから日本の政治を、個人的な感情の赴くままに、好きなようにする権利があると主張したいのでしょうか。もし不幸にしてそうであるのなら、貴方は結局民主主義の何たるかをご存じないという事になります。私は貴方が常になんらかの不安を感じておられるか、或はご自分の無茶な=国民との対話も、納得もないという意味です、政策運営に、多くの国民が反感を抱いている事を警戒しているがゆえに、国会でご自分が首相であると繰り返さざるを得ないのではありませんか。それも自分を納得させるためにです。ご自分の正当性にそれほど自信がおありなのであれば、そんな言葉はいらないのです。寧ろ、ヘリ下る時、即ち私は首相ではありますが、というような使い方の時にこそ、出てくる言葉ではないでしょうか」
首相「あなたは私に喧嘩を売っているのか」
国民「いえいえ、首相閣下を相手にそんな大それたことは考えておりません。お諌め申し上げているだけなのです。私は安倍晋三個人に好悪の感情はないのです。しかし公人となると話は別です。人は憎まずとも罪を憎まないわけにはいきません。貴方の価値観は国民の1人として、認めることも見過ごすことも出来ないのです。政権の個々の政策は国会論戦に任せるとしても、問題は貴方の価値観です。ご自分に酔い痴れておられるかに見える貴方には、私が何を申し上げているかさえ、お分かりにはならないでしょう。今世間では兇悪で悲惨、救いのない事件が続発しています。そこにあるのは倫理観、正義感、思いやりの欠如です。しかし政治の世界では不正とその言い訳に、開き直りまでが常態化している現状で、我々が犯罪者をどう非難できるというのでしょうか。襟を糺すことなく、責任を取ることもなく、権力の座に居座る。そういうふてぶてしさが、どれだけ害悪を社会に与えているかを是非とも御理解頂きたい。子供達にとってこれ以上悪いお手本はありません。それが分からないような人を私たちは国の代表だと認めることはできないのです。忌憚のないところを申し上げて大変失礼致しました。首相閣下殿」
「WTWは壁新聞」2016/1/13
私は小学生当時、壁新聞を作っていました。当時、亡父が買ってくれた寒天版というものがあり、原稿を書いて貼りつけるとインクがしみ込んで、上に白い紙を貼りつけるとコピーが取れるというものでした。古いインクは次第に下に沈むので、その上に新しい原稿を貼りつけて、また印刷が出来るという仕組みです。無論A4一枚程度であり、昆虫や本の話題や、つたない感想文など、他愛のない内容でした。それを教室の壁に貼ってみたところ、恩師(ご存命)が、学校の掲示板を使わせてくれて、ガリ版で学級新聞や文集を作り始めました。長じて、私は早稲田の政経学部の新聞学科を目指したものの、政経自体が東大をしのぐ難関だったこともあり、高嶺の花と諦めて、やむなく同大の文学部の、マスコミに多少とでも関係のありそうな社会学科に進学しました。今思えば私はその頃の志を貫徹すべきだったのですが、就職で迷った私は、これからはコンピューターの時代だという専門家の意葉に押されてSEの道を選び、その後の社会人の人生の大半をコンピューターのメーカーで過ごすことになりました。現役を退いてしばらくたった今、本能的に本来の自分に立ち戻り、謄写版の代わりにネットを使って、自分なりの壁新聞を再開しております。なので、なるべく多くの「学友」に読んで貰えれば、フリー・エディターとしては冥利に尽きるのです。
「最近の国会質疑から」2016/1/13
日々の通常国会の中継を、録画で早回しで見ていますが、野党の質問の中には、そんなことを質問してどうするのか、返ってくる答は分かりきっているのにというようなものや、閣僚も閣僚で、それは答えられないと繰り返すばかりの(これは答えではない。何故答えられないかの理由さえ言わない。ということはおつむも閣僚としての責任感も幼児以下)女性を含む閣僚との不毛な応酬は、一言で言えば、見るに耐えないというのが率直な印象です。これが日本の国会審議のありのままの姿ならば、それは何のことは無い、日本の国民は、国民軽視で働かない政治家の高い歳費を負担させられ、自分達は薄給で働いているということなのです。
そういう国会審議の中で、昨日の維新の会の井坂議員の質問は出色でした。礼儀を失することもなく、歯切れよく要点だけを質問して、その質問が当を得ていたからです。それに先立つ民主党議員たちの質疑がお粗末だっただけに、一層引き立ったのかもしれません。その中から一つだけ紹介すると、省庁の役人の給料が民間より高いのはなぜかという指摘がありました。井坂によれば、霞が関の職員の内、係長が8万人で、いわゆる一般職が8500人。こういう構造は一般企業では見られない。そして係長だという理由で、民間の係長と同じ給与レベルに調整しているというものでした。しかも人事院が井坂に示した公務員の給与には、民間と違って諸手当や残業代が含まれていないので、その差は更に大きくなっているというものでした。
でも私に言わせれば、国民にとって、手当の差よりも何がもっと迷惑かと言えば、国家公務員(地方公務員も)が特定の政党、政権に偏った価値観を持ち、それを隠そうともしないことです。これを世間では政治的偏向と言っています。それは公務員にはあるまじきものです。反論したいという方は、その前に、米国の行政制度を一度お調べになることをお勧めします。
同じく 2016/1/14
国会論戦。昨日の山尾議員の追及も見ごたえがありました。首相の理解では、旦那の月給50万、妻のパートは25万。しかし実態は30数万と9.5万。しかも首相は、パートは景気が良くなったから妻がそろそろ働こうかという程度の理解でした。皆生活の為に必死に働かざるを得ないのです。あまつさえ格差は広がっていないと言い切りました。富裕層以外ではそういう印象は誰も持っていないと思いますよ。ところでなぜ安倍晋三氏は、相手が女性議員だと馬鹿にしてなめてかかるのでしょうか。という事は、自分の閣僚でさえ、ひな壇の三人官女のように、政権の飾りになってくれていればそれでいい、余計な事は言うなと思っている事の裏返しに他ならないのではないでしょうか。もっとはっきり言えば、首相の頭の中にあるのは、旧態依然の男尊女卑の感覚です。我々が目にしているのは明治どころか、徳川時代の将軍の亡霊(またはゾンビ)なのでしょうか。最も気になるのは、旧態依然の価値観に基づく自説に、あくまで固執しようとする頑な態度です。同じ意味で、中国での一人っ子政策が、やがて同国に大きな弊害をもたらすでしょう。なぜなら甘やかした小皇帝を量産したからです。それは国家の独善的な価値観や中華思想になり、やがて世界からの孤立を招くでしょう。私は安倍首相もこの小皇帝の一人に見えて仕方がないのです。
同じく 2016/1/16
昨日の国会審議の冒頭の、民主の緑風会の長浜議員の質問は、パラオ訪問の話題から始まり、穏やかな中にも、余計な言葉はなく、品位も落とさず、時にはユーモアを交えてという、お手本のような質疑でした。彼が所属する民主党の緑風会は、前回の安保法制の質疑でも健闘しました。参院選に向けて、リベラルな考えを持つ議員は、緑風会を中心に集まると良いと思います。自民党に近い考え方の野党内与党を抱えている限り、政党の動きが鈍くなるばかりでなく、理念もぶれます。国民も旗色が曖昧な政党に投票する気にはなれないでしょう。
事態を打開するには、まず与野党の議員双方が、党則に過度に縛られることなく(比例で当選した議員ならそうはいかないかもしれないが。次は比例から外される恐れがある)自分の考えを持つところから、新しい民主主義が始まるべきだと思います。そう考えると、維新の分裂も納得出来ます。しかし野党から極右の政党(おおさか維新)が生まれるとは、誰が予想し得たでしょうか。右も左も抱えている民主でも同じ事が起きても不思議ではありません。
ところで、長浜議員は議員定数と違憲の問題を取り上げ、苦労して選挙で当選しても、その後で必ず違憲判決が出るような国は他にない、現国会は違憲状態の議員とそうでない議員で構成されていると述べていました。また予算が100兆円以下だと言うが、補正予算を入れれば100兆円を超えていると指摘していました。
「時間て何だろう」2016/2/8
時間の本質は人類、いや意識ある生物にとって永遠の謎かもしれません。ディスカバリー・チャンネル(有料放送)のモーガン・フリーマンの宇宙論を見ており、そこでも時間をテーマの一つに取り上げていました。ここでその内容を詳しく論じる余裕はありませんが、一つだけ例を挙げます。それは、時間は流れるのか、それとも瞬間の積み重ねなのかという問題です。前者の理解では自分の周りを時間が動いてゆく、後者では時間=瞬間は止まっていて、その中を動いてゆくのは自分ということになります。しかもこれは哲学のテーマではなく科学の命題なのです。どちらが動いているのかは決められないとしても、変わらない=一定、ものはあります。それは光の速度です。また自分の時間と他人の時間が別のものだという事は理解しやすいものです。時間は相対的な概念だということこそ、相対性原理の基本でもあります。時間が相対的でなかったのはビッグバンの時だけだと論じています。
「再びデジタルデバイドについて」2016/2/9
昨夜のNHKのクローズアップ現代、フィンテック革命には衝撃を受けました。これこそまさにITによる既存旧システムの変革です。動脈硬化を起こし、偏狭な価値観で、日本の産業、経済のみならず、ひいては国民生活や政治にまで悪影響を及ぼしてきた金融界。朝ドラに見る、信用という美名を振りかざし、その実、石橋をたたいても渡らずに、担保でガチガチに縛り、高いコストを掛けて運営する銀行。それが金融のあるべき姿ではないのかもしれないという事です。そこで見方を完全に変えるビジネスモデルです。
もう一つは現金を使わない決済が一層拡大するという方向です。クレジットカードの決済だけがキャッシュレスではないということです。
我々はもうITに使われているという感覚では生きてゆけないのです。ITを使いこなすことが、現代人が複雑な社会を生き抜いてゆく為の、必須の条件になってきているのです。
もうひとつ言えることは、低所得層に一時金をばらまいても、あっという間に生活費に消えてしまえばそれまでだということです。自民党は雀の涙で衆参同時選挙の票を買うつもりのようですが、それでは格差は全然解消されません。それより現金かPCかを選べるようにすべきなのです。更に低所得層には格安でネット環境を提供すべきです。それが本当の格差解消のきっかけになります。貧富の格差解消はデジタルデバイドの解消からです。大事な事はPCさえあれば、新聞を購読しなくても、また偏向したTV報道に頼らなくても、重要な情報や社会の真実が見えるということです。無論タブレットでも可能です。そしてそれが日本で本当の民主主義を実現するにあたって最も有効な方法なのです。アラブの春もネットから始まったのです。
「目くらまし報道について」2016/2/5
清原逮捕、しかも覚せい剤使用の現行犯。彼の疑惑は以前からあって、今更という感じですが、問題は逮捕の時期です。なぜ甘利問題に検察がどう切り込むのかに国民の関心が集まるこの時期だったのかという点です。はっきり言えば清原などという、以前から所業に問題の多いスポーツ選手が、今更のように覚せい剤を使用していたという事実が、日本のメディアを揺るがすような大仰な事件だったのかどうかです。しかも覚せい剤使用が、あたかも殺人以上の極悪犯罪として扱われ、猛烈なバッシングを官民そろって展開している。そんな事は、国民にとって大きな問題ではないのです。私はこの事件の大仰な取り上げ方に違和感を覚えます。もっと言えば、政権と報道による目くらましとしか思えないのです。
これで甘利問題が事実上の幕引きになれば、一体誰が一番得をするのかは考えてみるまでもありません。しかも最も大騒ぎをしたのは首相が会長を事実上指名したNHKなのです。WTWの存在理由は、こういう政権や報道の作為と偏向に警鐘を鳴らすことにあります。なぜなら商業メディアには制約があって、それができないからです。
昨日の衆院予算委員会では、議員数の削減をなぜ推進しないのかという維新の松野議員の質問に、安倍首相はいつもと同じように半分キレながら、いつもと同じような答えしかしていません。民主党だってやっていないではないかというものです。これは子供の口論であって、売り言葉に買い言葉が国の代表の答かと思うと情けなくなります。安倍首相の即時退陣こそ、日本の平和と安全と経済の安定にとって不可避の選択肢であることに、早く多くの国民に気がついてほしいのです。
安倍首相の言葉から、ごまかしの修飾を取り去れば、そこに見えてくるのは安倍首相の独裁への意志です。しかもそれは権威を笠に着た、事大主義の衣を纏っているのです。中央と地方のお役所も報道機関も、警察も検察さえも、一斉に安倍首相に気を遣う。これこそが日本の独裁政治の形なのです。体裁だけをマイルドにした姿です。そして昨日は新たに遠藤大臣の疑惑も浮上しています。維新の石関議員の、景気さえ良ければ甘利問題などどうでもいいという見方は間違っているという主張は正論だと思います。それでも不要に甘利問題に踏み込まずに、珍しく昨日は民主・維新は善戦していたと思います。
以下の階議員のサイトを見て頂くのが手っ取り早いのですが、安倍首相は昨日の予算委員会で、委縮している報道があれば挙げよと開き直りました。本音を語らずに、なし崩しの答弁だけで、それと気付かれないように、独裁政治を推進する。ここに安倍政治の最悪の暗部が存在するのです。目的達成の為の戦術が卑劣であることが二重に問題なのです。国民が口当たりの良い答弁で騙されている間に、いつの間にか日本が外国の戦争に吸い寄せられてゆくことにもつながりかねないのです。
ところで緊急事態条項とはどういうものかご存知でしょうか。一度ご覧頂ければ、それがいかにトンデモナイ代物か御理解頂けると思います。本件を含めて、昨日の大串議員と首相のやりとりを是非、以下でご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=GzwlaOWFKFQ
「息のある内に」2016/2/16
初夏の陽気から一転、冬に舞い戻りました。景気も気候も乱高下。インフルやおたふく風邪も流行中です。面倒でも、手洗いとマスクの着用だけは励行頂きますよう御勧め致します。
国会中継を見ていますが、政府は与党の質問となると、じつにスラスラと答えており、まさに自作自演の茶番、猿芝居の感さえあります。問題は与党の質疑だけを聞いていると、この世には株の乱高下や無理な金融政策もなく、議員の不祥事や不適当な発言もなく、自衛隊は銃をシャベルに持ち替えており、耳を疑うような凄惨な事件や事故も実際には存在せず、国民に経済格差もなければ、平和で安全で豊かな暮らしだけがあって、明るい未来だけが眼前に開いているかのように思われることです。でもそれって、現実とはかなり違いますよね。
そう見えるのは、与党の質疑からは、政府や財界、業界に不都合な真実も情報も省かれているからです。それを市民の代わりに探し出して告発するのが、メディアの役割であり、依って立つ存在理由です。だからこそ民主主義政治における第4の権力だと言われているのです。
政府の価値観に左右される組織なら、それは報道機関ではなく、組織の宣伝部門に過ぎません。ジャーナリズムとは異質の存在です。報道機関が企業の広報部門や宣伝部と決定的に異なるのは、情報の意味と価値で独自の判断を行えることと、取材の自由があることです。そういう報道機関の重要な意味、即ち独立性を否定する安倍首相、高市大臣の頭の中にあるのは一体どんな民主主義なのでしょうか。明治大正の蜘蛛の巣が張ってはいないでしょうか。
私も、もうあまり時間が残っていません。息のあるうちに、日本に民主主義の光が差し込む様子を、この目で見てみたい。五木寛之も高齢で、死ぬのは仕方がないが、ひとつだけ心残りなのは、世の行く末を見届けられない事だと語っていました。私も全く同じ意見です。
「記事の選択は人の手で」 2016/2/25
・記事をアルゴリズムで選択。
http://www.asahi.com/articles/ASJ2H46Y4J2HULFA016.html?iref=comtop_list_biz_n01
(寸評:この発想はWTWとは真逆です。選択を機械に依存するのは危険です。選択と真偽の判定は、人生経験があり、哲学を持つ人間でないと無理です。WTWには半世紀に及ぶ情報の蓄積もあります。主体性のある人間が選択と判断を行い、しかも判断の責任を取る必要があります。機械には謝罪も修正もバックアップも出来ないし、そもそも機械には論評が出来ません。人工知能に判断まで委ねるようになったら、人類もおしまいです。脳が退化します)
「映画と私」2016/2/25
TV放映の4K版「アラビアのロレンス」を見ました。我が家のTVは普通のハイビジョンですが、映像の色彩ときめの細やかさは最高でした。遠景の多い映画なので、解像度が高いとリアリティが全然違います。これほど砂漠を美しく捉えた映画はかつてなく、これからも現れないでしょう。いまアラブが混乱している時期が時期という事もあって、全人類が一度は見ておくべき世界の文化遺産です。主演のピーター・オトゥール(既に他界)の演技は、いま見ても粗削りですが、周りを固めるベテラン俳優の演技が凄い。演じる本人が眼前に姿を現したかのようなリアリティがあります。オマール・シャリフ(ドクトル・ジバゴ)はこの映画でデビューしたようなものだし、アンソニー・クイン、アレック・ギネスも脂が載っており、バリバリの現役でした。私は数十年前に封切を映画化の70mmスクリーンで見ましたが、人生経験を重ねた後でもう一度見ると、深い意味までも理解できます。機会があれば、皆様も是非、高精細スクリーンで早回しせずにご覧下さい。映画史上、不朽の名作です。
映画の話題ついでにもう一つ。私は猛烈な映画ファンで、NY駐在当時も字幕がないので半分く分からないまま、映画館には良く通っていました。マンハッタンの書店での映画スターのサイン会以外に、映画に直接関係する機会もありませんでした。ところが映画製作、というより脚本の一部修正に関与したことが一度だけあるのです。しかもそれはスピルバーグの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」です。二作目で、マーティーが成人して勤務する会社が日系企業で、その意地の悪い上司が日本人。しかもその名はフジツウです。どうやら脚本家には日本の人名と企業名の区別がつかなかったようです。しかしフジツウ氏が善人なら未だしも、嫌味な人物像だったので企業イメージが下がります。ましてその映画は世界中で見られているヒット作なのです。そこで私は本社にご注進し、法務部の指示を仰ぎました。結果、放置ということになりましたが、事務所から注意喚起の手紙だけは出すことにしました。丁寧な返事も貰いましたが、その結果がスクリーンにも反映されていました。第三作で、デロリアンの破壊された半導体チップを手に取った主人公が、これは日本製だ、日本製なら間違いないと語ったのです。まったくその場には不必要な台詞であり、CMのような一場面でした。無論それが私の手紙が原因だと断定することは出来ませんが、その可能性も否定できないと思っています。手紙の返事がスピルバーグからではなかったので、それだけが残念と言えば残念です。
「オピニオンからエッセイへ」2016/2/27
従来のオピニオン(というより放言)を、エッセイという題名で大整理しました。上記の枠内をごらん頂ければお分かりのように、ホームから直接過去分にアクセスするようにしました。時系列で巻を分けたのは、データ量が多いと、サイトを開くのに時間が掛かる為です。待ち時間から逆算し、1巻は約30ページとしています。なお記事ごとのURLはつけていないので、お手数で恐縮ですが、画面をスクロールして頂きますよう御願いします。
各巻の先頭に出てくる目次の中で、太字になっているものは、過去の評判を勘案した、「シェフの御勧め」です。全文を校正し、不適切な部分は削除しましたが、それでもいわゆる辛口は残っています。
この種の時事ネタは一度読めば終わりですが、特に201-2015は集団的自衛権、人質事件を含め、世界にとっても、日本にとっても激動の2年間でした。今読み返して、当時政府がどのように対応し、どの様な問題があったのか、有識者がどうコメントし、また報道機関が何を報道し、何を報道しなかったのかを振り返ることも無駄ではないと思います。これからどのように我々が政治や社会に関わっていけば良いのかの重要なヒントがそこにあります。終わったことを次々に忘れて行けば、歴史から学習することにはなりません。皆様が独自に現代史を検証する時のお役に立てれば幸いです。
自分の意見だけでなく、雑誌や新聞、書籍の有識者の意見も多数引用させて頂いています。それら全てを読み返してみた結果、一市民、いわば政治経済の素人の判断でも、あながち間違ってばかりもいなかったと感じています。
もし題名をつけるとすれば、「激動の2014-2015、安倍政権下を一市民として生きる」、または「頑固爺、ぶち切れる」といったところでしょう。WTWは微力ですが、今後ともご支援、ご指導をお願いできれば幸いです。なおプロバイダーの都合でURLを変更しなければならず、いま引っ越しの準備中です。近い内にサイト移転のご案内をさせて頂く予定です。
「朝生と憲法」2016/2/28
2/27の朝まで生テレビは憲法がテーマでした。ジャーナリストの青木の発言から。総務相の、一番組で電波を止めるという発言は、言論規制を意図した自民党の改憲草案を先取りしたもの、という意見はなるほどと思いました。総務相の発言には、同席した自民、公明の議員も否定的でした。ところで次回のノーベル平和賞は、70年間身体を張って、(平和)憲法を守ってきた日本の国民に与えられるべきだと思います。
労働者と権利 2016/2/29
非正規の増加、給与の頭打ち、長時間労働に共通するのは、企業の利益至上主義、出世主義と収入の格差拡大、そしてその背景にある金融資本主義の横行です。それが労働者の権利を踏みにじり、それを誰も批判しようとしません。これではいつかどこかで、紅葉に虐げれた人々が、蜂起する可能性のあることは、ある意味、避けがたい事なのかもしれません。金で買えない幸せはあるにしても、今はそれどころではありません。使いきれない資産を持つ人がいる一方で、いくら真面目に働いても、明日の生活の見通しさえ立たない人が大勢いるのです。即ち国民の生存権さえ脅かされているのです。
・「トランプが大統領になると」2016/2/29
トランプはこんな人物。
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%90%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%97%e7%a0%94%e7%a9%b6%e3%83%bb%e4%b8%8b%e3%80%91%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%82%ab%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%83%89%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%81%af%e6%ad%bb%e3%82%93%e3%81%a0%e3%80%8d-%e5%a4%9a%e6%95%b0%e8%ab%96%e8%a8%bc%e3%80%81%e8%84%85%e8%bf%ab%e8%ab%96%e8%a8%bc%e3%80%81%e9%80%86%e8%a8%80%e6%b3%95%ef%bc%8d%e6%89%87%e5%8b%95%e5%ae%b6%e3%81%8c%e9%a0%bc%e3%82%8b%e4%bf%ae%e8%be%9e%e6%b3%95/ar-BBq5Pwv?ocid=spartandhp
(寸評:彼が大統領になれば、世界はおしまいです。彼の愚かさゆえに、死ななくても良い、何百万の人達が紛争に巻き込まれて死ぬことになります。安倍首相が集団的自衛権で自衛隊を米国に差し出してしまったので、米国人の利害の為に自衛隊も、国民も、戦争参加を強いられることになるのです。愚昧で貪欲な為政者=トランプとアベ、が世界を滅茶苦茶にするということは、言い換えれば両国民の一握りの超保守層が、世界の安全も平和も破壊しようとしているという意味です。目覚めよ両国民の無関心層。本当に大多数の意見で決まるのならまだ諦めようもあるが、相対的な投票数の差だけで、絶対的には少数の過激派に、国と国民の命運を握られるのは納得がいきません)