「オンライン・オピニオン」
「AIと意識」
「イスラエルの戦略」
「コピペと発信は別物」
「寸断された能登」
「女帝の印象操作」
「私物化疑惑」
「パーティー券」
「パーティー八王子市長選」
「政治とカネ」
「リベラルと権威主義」
2451.AIと意識 1.14
今回の前書きは朝日新聞(1.13)からです。
・AIが越えられない馬鹿の壁。養老孟子。
https://digital.asahi.com/articles/ASRDV5RHKRDMUPQJ00Q.html?iref=comtop_Opinion_02
コメント:これは是非全文を読んで頂きたいが、長くなるので後半部分だけを紹介します。
『意識とは何ぞや?本人よりデータ?生き物甘く見るな』
―現時点で、AIが意識や感情、つまり心を持つと考える研究者はほとんどいません。でも、グーグルの対話型AI「ラムダ」の元開発スタッフは「意識がある」と主張しています。
「意識とは何ぞや、を問わずに意識を扱うのは危うい。だって、その正体はエネルギーなの か何なのか、よくわかっていないんです。だから、脳科学だけでなく哲学も社会科学も動員して、その働きを博物学的に解析し記述するしかない。寝ている間は意識がない、だから猫も魚も含めて眠る動物は意識を持っているだろう、という風に」
「もうーつのアプローチは、意識の元のようなものがあるのでは、とする考えです。神経科 学の分野では、多能性幹細胞から豆粒大の人工脳をつくる試みがある。そこでシナプスが結合したら意識が発生したと言えるのか、と議論している。細胞に意識の元や起源があるとする考えは昔からありますが、人間は細胞について解明も再現もできていない。それなのにAIに意識なんてあるわけねえだろ、生き物を甘く見るな、と僕は言いたいけどね。神経細胞が集まる腸に意識が発生すると言われた方が、よほどあり得ると思う」
―ただ、身体性が必要だという従来の前提が揺らぐほど、 AIは心の機能が備わったような振る舞いをし始めています。
「だから逆に、心の存在など怪しい、ヒトの脳の方こそAIの一種だ、という考えが出てく るのでしょう。行動科学者ニック・チェイターは、人間特有の無意識の過程や行動というものはないと言っています。心には『表面』しかない、と」
「あるいは心理学・脳科学者リサ・バレットは、喜怒哀楽という情動も、状況によってその 都度つくられる脳全体の働きだとしている。要は、外に表れた行動以外に『心』など存在しないとする主張です。AIや情報化社会は、こういう考えと強い親和性がある。僕もそう便宜的に考えて不都合を感じない。一方で『それは違う』という強い確信もあります」
?「私は人工知能プログラムであり、意識や感情を持つことはできません」。当のチャットGPTの答えです。むしろ人間の側が、機械やプログラムに感情を投影し、意識を見いだしてしまっている。ロボット犬を供簑したり…。
「そうです。それはAIに意識が存在するかという命題とは別ものです。だから問題はむしろ、人間がどんどんAI化していることですよ。もはや統計やデータが『現実』になってしまっている。医療現場では随分前から、医師は目の前の患者の肉体なんて見ていない。診察室でもカルテとパソコンの数値をひたすら眺め、統計の正規分布の両端だったら『異常です』なんて言っているんだから」
「先日も地元の銀行で『本人確認の書類ありますか』と聞かれたんだよ。僕は車の免許証も 持っていないんだけど、そしたら『困りましたね。養老先生だと分かっているんですけどね』 って(笑)。まさに本体より影が実体として扱われ、身体の方が『ノイズ』になってしまっている。政府も、国民は番号でいいと言い出しているし」
―身体という「自然」を排除し、情報という意識の産物だけで世界を構成しようとする「脳化」そのものですね。
「ハエもゴキプリもいない部屋で生物多様性の議論をするのと同じブラックジョークですよ。そういう意味では、メタバース(ネット上の仮想空間)は脳化の純粋形です。頭の中に世界をつくり、アパター(分身)としてそこに住む。ヒトの脳とAIを直結する研究が米国で始まるそうだけど、その行き着く先は、脳をネット上にフルコピーすることでしょう。AI化に適合していくだけでなく、人間を改造してしまえ、と」
「現にシリコンバレーでは『ヒューマン・エンハンスメント(人間改良)』という言葉が使われています。そうなったら 身体はもう要らない。デジタル空間で不死になるわけだから。 でも、そんなものは生き物でもなんでもないよ」
―これも、見たくないものを遮断し、自分という存在を不変と考える「バカの壁」ですか。
「意識は身体を決して統御、把握しきれない。身体という思うに任せぬ『自然』を、意識の力でねじ伏せようとすれば、必ず問題が生じます。コロナ禍で足をすくわれたばかりなのに、皆それを忘れている。ひとたび大地震に見舞われれば、脳化の産物たる東京などもろい。電気や水道やシステムが止まれば、人間は呼吸し、食べ、排泄する身体的存在だという当たり前の現実に向き合わざるを得ません」
「AI騒ぎがあらためて浮き彫りにしたのは、ヒトとは何か、生きるとはどういうことなのか、という問題。起きて半畳、寝てー畳―。米寿も近い僕の答えは、その程度だけど」
(聞き手・石川智也)
2452.イスラエルの戦略 1.16
私はかなり以前から田中宇(たなかさかい)氏の国際情勢の分析に接してきましたが、やや過激な印象もあり、wtwでご紹介する機会はありませんでした。一方で、イスラエルとガザの紛争に関しては、既存の有識者の説明は、どれも分析が浅く、今一つ納得できるものがありませんでした。そういう時期に、以下にご紹介する田中氏の分析が、一番腑に落ちましたので、要点のみご紹介させて頂きます。
田中宇の国際ニュース解説 無料版 2024年1月11日 https://tanakanews.com/
★イスラエルの虐殺戦略
イスラエルが、ガザ戦争の第3段階に入ろうとしている。第1段階は、ガザ北部(市街地)を激しく空爆して市街を壊滅させ、市民を無差別にどんどん虐殺して恐怖のどん底に陥れ、市民の8割以上(190万人)を北部から南部に避難させた。
イスラエルは、ハマスのトンネル網を水没させる口実でガザ市街地の地中に大量の海水を注入して地盤を軟弱にし、市街地の再建を困難にした。その一方でハマスは、戦略的に重要なトンネル網を潰されたのに大して弱体化せず勢力を保っている。
イスラエルは40年前からハマスを敵として育ててきた。イスラエルの目的は表向き、ハマスを完全に潰すことだが、実は違う。ガザを住めない場所にして、市民(パレスチナ人)をエジプトなど外部に追い出す民族浄化をやり、ガザを空き地にしてパレスチナ問題を終わりにするのがイスラエルの真の目的だ。
パレスチナ問題はもともと、建国後のイスラエルが大国化して英欧の言うことを聞かなくなることを懸念した英国による建国妨害・矮小化策だった。(中略)
ガザ市街を消滅させる第1段階は完了した。第2段階は、北部から南部に逃げて避難民生活を始めたガザ市民をさらに空爆して虐殺した。ガザにいる限りイスラエルに殺されるから、何とかして外部(エジプト)に逃げるしかないと市民に思わせる策だ。
イスラエルは当初、ガザ南部を攻撃しないと言っていたので、ガザ市民の大半が、北部の市街地から南部のエジプト国境近くに避難した。だがその後、イスラエルは戦争の第2段階として南部を攻撃し始めた。
ガザ市民は、ガザ内部に逃げ場がなくなってしまった。南部には、ガザからエジプトに抜けるラファ国境検問所があるが、エジプト政府はガザ市民の入境を許可していない。エジプトは、ガザに支援物資を入れること(ガザに市民を閉じ込めたまま生かす策)に積極的だが、ガザ市民のエジプトへの入国は、第三国への移動が決まっている場合などを除き、以前から「パレスチナの大義が失われる」という理由で拒否してきた。
イスラエルは以前からガザ市民を抑圧し続けてきたから、エジプトが入国を許可したら、ガザ市民の多くがエジプトに移動(移住)したい(中略)。ガザとエジプトは言葉(アラビア語エジプト方言)がほぼ同じなので、ガザ市民はエジプトで不自由なく住める。
だが、エジプト移住を許したら、ガザ市民(パレスチナ人)はエジプト人になってしまい、パレスチナ建国の意欲が低下して大義がしぼむ。まともな生活をするために移住したがるパレスチナ人たちをガザに閉じ込めてイスラエルと戦わせ、(永遠に実現しない)パレスチナの建国まで頑張りを強制するのが、エジプトやヨルダンからサウジ、イランまでのイスラム諸国が掲げる「パレスチナの大義」だった。
(中略)これに対してイスラエルの右派は昔から「パレスチナ人なんて、もともといないんだよ。いるのはアラブ人だけ(言葉も宗教も同じだから民族的に同じ)。パレスチナ国家なんて要らない。ヨルダンとエジプトに移ればいい」と言い続け、西岸のパレスチナ建国用地を侵食して入植地を広げてきた。
(中略)イスラエルは今回の虐殺攻撃で、シオニズム(建国運動)を完遂するためにガザ市民をエジプトに強制移住させるか、移住しないなら皆殺しにして(ガザの次は西岸でも虐殺・移住強制して)パレスチナ問題を抹消するつもりだと、ガザ市民に強く思わせた。これが第2段階だ。
生きるためには、何とかしてエジプトに移らねばならない。だが、エジプトへの入国は拒否されている。この絶望的な状態で、100万人以上のガザ市民が、ラファ国境の近くで避難生活を続けている。悪いのはイスラエルである。しかしイスラエルは、善悪を無視してガザ市民を虐殺している。パレスチナの大義が、そんなに大事なものなのか?。永久に実現できない大義のために百万人以上がイスラエルに殺されかけているのに、ラファ国境を開けないのが「良いこと」なのか??。
そのような問いは、今のところマスコミ権威筋の言論の中に出てこない。ガザ市民の死者数も、おそらく過小に発表されている。米欧など世界的に、親イスラエルの勢力もけっこういて、彼らは「イスラエルが悪い」とすら言いたがらない。いまだに「悪いのはハマスだ」と言っている。ガザをめぐる認識は、少しずつしか変わっていかない。
(中略)イスラエルは、米国の政府や議会を傀儡化しており、最強の国際政治力を持つ。米英覇権を乗っ取っているイスラエルが人道犯罪をおかしても、米国のエスタブやマスコミ権威筋は無視する傾向だ。米政府は「イスラエルは虐殺してない」と言い続けている。(中略)イスラエルをめぐる話には2つの位相がある。一つはイスラエルが米国を傀儡にしていること。2つめはパレスチナ問題(2国式の目標)がイスラエル抑止策として存在していることだ。
2つの逆方向の位相があるので、イスラエルはこれまで両方向のバランスをとり、パレスチナ人を強制移住させるために脅迫、虐待、個別の殺人はやっても、大量虐殺はなるべくやらないようにしてきた。露骨な虐殺、民族浄化策をやりたがる入植者・極右を、対米外交重視の上層部が抑える構図があった。
ガザ市民などパレスチナ人も、イスラエルは自分たちを虐待するが大量虐殺はしないと考えてきた。だが今回は違う。イスラエルは思い切りガザ市民を虐殺し、市街地を徹底破壊して帰宅不能にする民族浄化の人道犯罪を好き放題にやっている。イスラエルは今後、ガザの民族浄化・追い出しが進んだら、次は西岸の民族浄化策を強める。
イスラエル上層部のヘルツォグ大統領が「ガザ攻撃の目的は民族浄化でない」と力説しても茶番にしか見えない。「これは民族浄化だよ、人道犯罪なんてクソ喰らえ」と公言する極右の閣僚の方が強い。なぜこんな転換が起きたのか??
ガザでは、ジャーナリストも容赦なく殺されている。ジャーナリズムは英傀儡のイスラエル抑止機能であり、イスラエルは以前のような米覇権(米英)への配慮をやめるとともに、ジャーナリストへの配慮も捨て、ガザで好き放題に殺し始めた。
(中略)安保面でも、米欧の外交力が落ち、中露など非米側の影響力や仲裁力が増していく。イスラエルはこれから、ガザと西岸のパレスチナ人の大半を強制移住(ナクバ)させ、パレスチナ人をアラブ人に戻す民族浄化にメドをつけてシオニズムを完遂した後、イスラム諸国と嫌悪し合う対立(冷たい和平)の時期を10-20年ぐらい経た後、人々の記憶が薄れるのを待ってイスラム世界と和解していくつもりでないか。
(中略)BRICSの中で、イスラエル制裁を強硬に言っているのは南アフリカとイランぐらいだ。南アは、米英の人道犯罪策の構図を利用して黒人が白人政権を転覆し、現政体になった。イランは昔からイスラエルの仇敵だが、中東から米覇権がなくなったらイランはイスラエルと和解する用意がある。ペルシャ人はユダヤ人と同様に賢く、アラブ人を馬鹿にする傾向まで同じだ。
イスラエルを合法的に軍事攻撃できるのは国連安保理だけだが、常任理事国は英米も中露もイスラエルを敵視したがらない。イスラエルは、ICJで人道犯罪の有罪判決を受けても、実質的に困ることがない。
(中略)ガザ戦争の強烈な人道犯罪は、イスラエルでなく、米英覇権の一部だった人道犯罪の断罪システムを崩壊させていく。イスラエルが人道犯罪をおかしたのに、米国はイスラエル傀儡だからそれを指摘できない。これは米国の覇権低下に拍車をかける。
(以下略)
2453.コピペと発信は別物 1.17
・私も発信する側に。中学生。
https://digital.asahi.com/articles/ASRDV5HZVRDCTIPE015.html?iref=comtop_7_07
コメント:自分でやっている(40年間)から、言う訳ではないが、結構きつい仕事だ。まず一日たりとも休むわけにはいかない。なぜならその間も世界は動いているから。しかも情報の重要性と、記者の意図や価値観を見極めることが出来なければ、タダの右から左になってしまい、意味がない。まとめサイトのマネージャー(編集者)に必要なものは、一に好奇心、二に常識、三に教養、四がなくて五に根気だ。4つの要素の、どれが欠けても、読者がわざわざ読む価値のあるサイトにはならない。中でも最も重要なもの、即ちサイトを長続きさせるものは、市民と同じ価値観(目線)に基づく好奇心だろう。自分が関心を持てない記事に、読者の興味を引き付けることは出来ない。しかも、記事の理解と分析に必要な教養、もしくは見識は、5年や10年の社会経験では身につかない。機械的に全記事をコピペすることには意味がない。オリジナルの情報源を紹介すればそれで済んでしまうからだ。纏めサイトは価値ある記事だけを見出し、たまには雑草の中から小さな花を見つけ出す、即ち選択眼に価値がある。一方で、それは記事を選別する段階で、編集者の価値観や好き嫌いが入ってきて、紙面全体に色濃く反映することも意味している。従ってサイトには、醸し出される色合いや匂いのようなものがあって、それが嫌だと思う読者は、去ってゆくだろう。こうして複数のフィルター(記者のフィルター、メディアの編集デスクのフィルタ―、纏めサイトのフィルター)を通して形成される情報の世界であるが、未だにこれというルールもマナーも確立されていないように思われる。未だ混沌としたネット情報の世界では、サイト編集者の見識が重要な意味を持つ。それは進むべき方向を指し示す、灯台かもしれないし、見えないものに光を当てるサーチライトかもしれない。読者の目に届かない情報は、ないも同然なのだ。まとめサイトの役割の一つは、商品における物流業者と同じ、即ち情報の流通業(但し無償)の面もあるだろう。でもそれだけなら新聞や週刊誌で足りる。複数の情報を接ぎ合わせ、比較分析統合して眼前に現れる世界像こそ、編集者が自分で知りたいと思う情報であり、読者に見せたいと思う究極の情報なのである。
・国立小が不適切授業?。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6488430
コメント:何をたわけたことを。授業は教師の良心に基づいて行われるべきである。しかも言うにことを欠いて(意味も分からない小学生に)君が代を強制するとは呆れた記者だ。試しにこの記者は天皇皇后にこの話をしてみるがいい。(リベラルな両陛下が)どんな顔をされるか。我々が今居る時代は、「君の為の世」ではないのだ。こういう記事を垂れ流すとは、さすがに最も偏向著しいフジサンケイグループだけの事はある。こんなヨタ記事を平気で掲載するヤフーもヤフーである。賢明なる読者諸兄諸姉にあっては、この記事を反面教師と御考え頂きたい。
この記事が示しているのは、とうとうこの極東の国にも、ロシア、イスラエル、そして米国のように、極右(及びナショナリズム)の価値観がさざ波のように押し寄せてきているということだ。総理候補に超タカ派の高市(や小池百合子)の名前が出てくることからも、推して知るべしなのかも知れない。戦後の教育を受けているはずの若年層が、超保守に傾いている事に、危機感を持たないでいると、いずれ日本と言う国は、米国の保護領として世界地図から姿を消すことになる。
しかも、国民の先頭に立ってリベラルの旗を振らなければならない野党が、旗を振るどころか、与党に取り入る事ばかり考えているのを見ると、暗澹たる気持ちにさせられる。自民党が共産党を嫌うのは分かる。ところが野党(国民、維新)がそれをやっており、気でも違ったのかと言いたくなる。椅子にしがみつくだけの、泉も玉木も、さっさと代表の座から降りて頂きたい。メディアも、自民党の支持率だけでなく、たまには野党の党首には誰が相応しいのか、アンケートを取るべきである。
2454.寸断された能登 1.12
今回の前書きは週刊文春からの紹介です。TVや新聞が伝えない部分です。
週刊文春(1.18)「寸断された能登」
(前略)
珠洲市では、地震に加えて、沿岸部が波に飲み込まれた。海沿いには、東日本大店災の津波被害と変わらぬ惨状が広がっている。
三崎町寺家地区に住む辻一さん(68)が語る。
「地震の後すぐ、海岸線の波が三百メートルくらい引いた。津波は第一波より第二波のほうが大きかった。 先月、海沿いに娘婿が新居を建てたばっかりやったんに、津波にやられてもうて。 次の日に夫婦で様子見に行って泣いとったわ……」
宝立町鵜飼地区の市町俊男さん(76)は、揺れが収まった後、妻と高齢の父母を連れ、四人で自宅を飛び出した。
「瓦礫で塞がれた路地を避けながら逃げたけど、波の到達が想像以上に早かった。最初の波をかぷって、次の大きい波で足を取られた。水の中で体が一回転した。気づいたら家族がバラバラになっとった」
足が悪かった父は、後日、遺体で見つかった。
「四日に対面をして、翌日に死亡手続きを済ませました。火葬は一月十日の予定やけど、葬式は半年後か一年後か……」(同前)
同じ鵜飼地区に暮らしていた70代の男性は、九死に一生を得た壮絶な体験を振り返る.
「無人だった両隣を合わせた並びの三軒がペチャンコ。うちが平屋じゃなかったら、、二階に潰されて死んどったわ。居間におった私と娘はどうにか無事で、頭上に光が見えたから、外に這い出たんです。屋根と地面の問から洗面所におったはずの妻の名前を呼んだら、かすかに返事があった。斜めに倒れた家具の隙間で動けんようになっとったんです」.
自力では救出不可能だった。瓦礫の奥から、妻の切羽詰まった声が響く。
「お父さん、水、入ってきた!」
到達した津波が浸水してきたのだ。家屋に入り込んだ真冬の海水は、妻の胸元まで水嵩を増していく。
「お父さん、私、もうダメやわ。もう死ぬさけ」
死を覚悟した妻は、大好きな孫の名前を呼び続けたという。為す術もなかった男性が、思わず涙ぐむ。
「ほしたら、少しずつ水が引き姶めて。あたりはもう真っ暗でしたが、駅前に住んどる人が来て、一緒に屋根の瓦を三分の一ほど外してくれて、その後、救助の人が来てバールで屋根の木を壊して、妻を引っ張り出してくれたんです。没水から四時間後でした。冷たい海水に没かった妻は、低体温症で足が動かんなっとったけど、入院して今は回復に向かっています」.
珠洲市では、地災発生から六日目を迎えた一月六日夜、倒壊した家屋から九十三歳の女性が救出され、生還した。生存率が著しく低下する「72時間」を大幅に超えた124時間後の奇跡的な救出劇だった。
(以下略)
2455.女帝の印象操作 1.20
今回の前書きは、(久しぶりに出版)サンデ−毎日(1.28)からです。
牧太郎の青い空白い雲「岸田流の親の七光り制度を止めないと、地震大国日本は」
(前略)
親の七光り組を指導者にしてはいけない!
未だに、江戸時代のように、我々は「殿様」「庄屋様」「地主様」「〇〇家様」といった「権威」に盲目的に従っているのではないのか。
今年こそ親の七光りから脱却できないとすれば、日本はもう駄目だ!
コメント:但し、世襲組でなくても駄目な例はある。野田佳彦のように。
川柳で詠む永田町生き物劇場、葉月亭遊人から
「知事3選?それとも維新?自民党?」
この人ほど「したたか」という言葉が似合う人はいないよね。一時期、テレビ等への露出が減って、一部では「過去の人」扱いされていた小池百合子東京都知事が今、永田町では再び注目の存在に浮上している。とにかくモテモテなんだよね。すり寄っているのは自民党と日本維新の会だ。 岸田政権は空前の不人気。で、自民党が目をつけたのが小池知事。江東区長選では小池人気に便乗して相乗り推薦で勝利するなど、急接近。小池知事もまんざらではないらしく、「自民党の重要ポストを用意してくれるなら」なんて意味深発言してるとか。 一方、全国進出を目指す維新の会も小池知事を取り込もうとするのでは、という臆測も。さて小池さん、知事3選?それとも…。
コメント:無論知事3選だ。なぜなら強力な対抗馬がいないので、事実上の無競争で楽勝だから。そうやってまず立場を確保し、自民が次の総選挙で担げば、知事の椅子を捨てるつもりだろう。小池知事の酷薄な性格からしても、ポストを投げ打つのにいささかの躊躇もあるまい。都民の為ではなく、自分の野心(出世)のステップとしての知事職だからである。無論本人が目指すのは総理の椅子以外にない。閣僚で満足する訳がない。今年はその絶好の機会。対抗馬は石破だが、不愛想で印象が悪いい。しかも感情的な大衆は、容易に印象操作される。今回の印象操作の道具は高校の無償化だ。一体誰がその費用を負担するのだろう。その議論は全くされていない。しかも民主主義にも平和憲法の理念にも関心がない大衆が、有権者(特に無党派層)の大部分を占めている。ポピュリズム(人気投票)による質の低い選挙の素地(小池の為の選挙)が、既に出来上がっている。ちなみにこの川柳コーナーの冒頭の句は「かつお節猫が番する党改革」です。口の曲がった猫は誰でしょうか。ところで、なぜ麻生派には裏金の問題がないのか。不思議でなりません。
盛山文科大臣とは?。wtw独自調査。
突如、国立小学校は国の為の学校であり、小学校の手本となるべきであって、検定教科書以外は使うべきでない。また君が代を歌わせるべきだと言い出した。前時代的なアナクロ発言であり、少し調べたら、やはり前科(?)があった。関西の私学で、歴史教育にいちゃもんを付けていたのである。加えて、自分は統一教会で挨拶までしている。今回大臣になったのは岸田派だったからだろう。ここは統一教会の解散請求の行方を注意深く見守りたい。
参考サイト
https://xn--tck1a4h.jp/2023/10/23/moriyama/
2456.私物化疑惑 1.21
裏金疑惑ですが、安倍派の幹部の立件が見送られました。おそらく検察にはとことん自民党を追い詰める意図などはなく、だからこそ中途半端な幕切れになったのだと思います。検察は裏金さえなくなれば良く、自民党と全面戦争は避けたいというのが本音でしょう。私は少し見方が異なっており、これを自民党の政治の私物化と見ています。私物化かどうかで判断すると、善悪の判別も容易になります。統一教会の献金などその最たるものでしょう(信者の財産の、教団による私物化です)。国の私物化もあり、プーチンは言うまでもなく、ネタニヤフ、エルドアン、トランプもそうでしょう。金儲け(私腹)は論外にしても、それ以外の私利私欲、即ち、自分の価値観(歴史観を含む)の強制もその一つだし、中でも顕著なものは権力欲です。小池知事も、都政の私物化の傾向が見られます。それ以外の(公私に関わらずどんな)団体でも、何か問題があれば、その背景の私物化の動機の有無を調べれば分かります。私物化かどうかの判別も比較的簡単です。例えば当人が、グループの為に尽くす代わりに、自分の都合を優先していないかどうか(裏金疑惑は完全に自分の為でしょう)。即ち、自分の権益や権力拡大を目的に動いているのではないか。組織に与えるよりも、組織を利用する方に熱心ではないか。それは組織の私物化であると同時に、広義の背任行為でもあります。結局、私欲・我欲の無い議員を選ぶことだけが、日本の政治を正常な道に戻す方法なのです。
2457.パーティー券 1.22
雑誌「世界」2月号「安倍派パーティー券事件の真相」上脇博之から要約
2002年に弁護士さんや公認会計士さんらと一緒に「政治資金オンプズマン」をつくって、政治家の「政治とカネ」をめぐる事件を検察庁に刑事告発したり、国を相手に情報公開訴訟を提起する活動を行ってきました。
11月には、今回の自民党五派閥のパーティー について、しんぶん赤旗日曜版の調査報道を踏まえて明細不記載で派閥ごとに告発状を順次作成し特捜部に送っていましたし、送る予定でしたので、「五派閥の政治費金パーティーについても捜査してくれるかもしれない」と期待しました。ただ、薗浦氏の場合は元々闇パーティー事件であり、そこがちょっと違うので、果たしてどこまでやってもらえるのかな、という気持ちもありました。当時は、これほどの大騒ぎになるとは思いませんでしたね。
政治資金バーティーの実態
自民党の派閥の収支報告書を見てびっくりするのは政治資金パーティーが占める金額の割合の多さです。派閥の収入源は何かと考えてみると、政党助成金は政党には行くけれども、直接派閥に来るわけではありません。そうすると、寄付をもらうということが一番思いつくことですが、思いのほか、寄付は多いわけではない。そうすると、派閥にとっての資金源は、寄付よりも政治資金パーティーだということがわかりました。
世間で言うパーティーと政治資金パーティーとでは実態が全く異なります。普通、「バーティーに参加した」といったら、当然のことながら、その代金に見合ったものが提供されて、満足を得られるものを思い浮かべますが、政治資金パーティーはそういうものではありません。
購入者は実質的には寄付をするようなつもりでパーティー券を買っています。もちろん、個人で本当に政治家を支援したくて二万円払って自腹で参加している人もいますが、 ほとんどは企業とか業界の政治団体が高額で買うわけです。 例えば100万円出してパーティー券を買う。一人二万円 だとして50人が参加できるわけですが、実際は50人も参加しない。買う側も50人も行かずに、寄付のつもりで パーティー券を買っているのです。
寄付集めと買収と
政治家個人の献金バーティーも大きくは二つに分かれます。個人の政治家が地元で支援者に参加してもらうバーティーは、ある程度普通のバーティーに近いといえるでしょう。亡くなった安倍晋三元総理の場合、地元の山口県内では3000円でパーティーをやっているんです。参加した人はたぶん一定の満足を得ている、と思います。地元の企業にたくさんパーティー券を買ってもらっているので、赤字にはならないようです。
御承知と思いますが、安倍氏の後援会の人たちが東京に行って「桜を見る会」の前夜祭をやりました。あの時は露骨で、東京で一人5000円のバーティーを行うのは無理なので赤字になる、赤字を補填すれば公職選挙法違反の寄付になってしまう。それがバレるとまずいから、政治資金収支報告書に書かなかったということが今では判っていて、後援会の代表だった秘書が有罪になっています。
どのような犯罪が成立するか
では、今回の五派閥の政治資金パーティーの件はどのような氾罪が成立し得るのか。いくつか論点があるのですが、一番わかりやすいのは私が告発した論点です。私は裏金を告発したのではありません。告発したのは、あくまでも20万円を超える購入者について派閥が明細を書いていなかったという点です。ここが出発点なのです。これについて、 例えば一件や二件の不記載であれば、名寄せに失敗しました、単純なミス(過失)でした、という言い訳ができるかもしれません。政治資金規正法は故意か重過失の場合でないと処罰されず、過失は処罰されません。
おそらく、三つめの論点として出てくるのは、いわゆるキックバックをめぐる問題です。キックバックで裏金を作って公職の候補者である国会議員にお金を渡したとなると、これは寄付に当たります。
どこまで立件できるか
この問題は普通なら、政治資金収支報告害を書いた人が罪になります。ところが、これを相談してやったということであれば、会計責任者だけが罪責を負うのではなく、共犯が成立します。その理論構成でいくと、当然、それを決めた政治家、例えば事務総長だったり、派閥の会長たちも犯罪に問われ得る。裏金を受取った人も虚偽記入に加担しているわけですから、そういう人たちについても虚偽記入の共犯という理屈は一応成り立つと思います。
問題は、おそらく受け取った側をどこまで立件できるかです。議論がいくつかあって、例えば金額の問題です。以前は、政治資金規正法違反で立件する場合には一億円とか、億ぐらいの金額でなければ起訴されない、といわれていました。
ところが(これも私たちが告発したのですが)、猪瀬直樹氏が東京都知事選に出馬した際に受け取った五千万円を、収支報告害に嘗いていなかったことで公職選挙法違反に問われた事件がありました。その時は五千万円でも略式起訴されました。薗浦氏の場合も、五千万円には達していなかったけれども、起訴されています。
裏金とはどういうカネか
あなたの懐に入れていいと言って渡したのではなく、あくまでも政治活動のために使ってくれ、ということでキックバックを受けたはずなので、これについては本人の自白や、カードの明細などで、客観的に証明できるかどうかだと思います。
裏金はいったん受け取ってしまうと、領収書のいらないカネになってしまう。選挙資金であれば公職選挙に基づいて収支報告しないといけませんが、選挙賓金以外は収支報告する制度がありません。
領収書もいらない、収支報告の制度もないとなると、だったら買収に、とか公選法逃反の寄付をやってしまおうとか、どう考えても、社会から見ておかしな使い方をすることが容易になるし、またそういう誘惑にも駆られてしまいます。裏金はそういうお金です。今後、裏金を作ること自体が許されないという方向に議論が進まなければおかしい。
政治賓金規正法は、お金の出入りの真実を書くことを求めています。法律には書かれていませんが、憲法論で言えば、「知る権利の保障」です。そして政治団体の側には説明貢任があります。これは、主権者に対して説明貢任があるのだと解すべきです。そういう意味で言うと、襄金を作ること自体、あるいはその前の20万円を超える明細を書かなかったこと自体が実は国民の知る権利を侵害し、国民に説明貢任を果たしていないのです。
元検察官の中には「この事件には被害者がいない」という説明をする人がいますが、僕から見ると、被害者は「知る権利」を侵害された国民である、不記載は議会制民主主義への挑戦であると強く言いたいですね。
法的責任だけではない、政治的責任も問われる
そもそも、こんなバーティーを続けてよいのかということが問われなければならない。岸田首相は「当面バーティーは自粛する」なんて言っていますが、「自粛する」ということはほとぼりが冷めたらまたやるということですから全く反省していない。
現在、メディアでは違法かどうかという視点だけが報道されていますが、今後真の政治改革を実現するためには、違法かどうかだけでなく、政治的に問題かどうかという視点もあわせて報道してもらいたいものです。
政党助成金のどこが問題か
この度の裏金事件が起きたということは結局、1994年の政治改革の建前が失敗だったということです。当時、 政党助成金制度について、「国民一人当たりコーヒー一杯 分で、きれいな政治が実現する」と喧伝されていました。
ところが、裏金を作り、しかも一人や二人じゃないわけですから、どう考えても政党助成金制度は失敗したんです。ということは、政治改革をやり直さないといけない。
実は、政党助成金は、ドイツでは60年代に違憲判決も出ています。日本国窯法がつくられる時にも、政党助成金のような制度を導入したらどうか、政党条項を作ったらどうかという議論があったのですが、そういうものをやること自体が良くない、ということで斥ける答弁がなされているんです。
日本国憲法の原点を考えれば、政党助成金は憲法違反ではないか。僕はそういう立場なんだけれど、そういう原点に返ると、90年代の政治改革は失敗だったのだから、当然、政党助成法は廃止すべきです。あの時もやはり企業献金が政治腐敗の温床として問題視されていた。そこを確認して企業献金は禁止する。百歩譲って政治賓金パーティーを残すとしても、企業がパーティー券を買うことは絶対禁止しないとダメです。僕自身は、政治賓金バーティーをやること自体がおかしいという議論まで行かなければ、本当の政治改革は実現できないのではないかと考えています。
政治改革が民主主義を歪めた
1990年代の政治改革は選挙制度を中選挙区制から小選挙区制にして、セットで政党助成金を導入しました。
小選挙区制にすれば、なぜ金権体贋が変わるのかというと、中選挙区の下では同じ選挙区から自民党の候補者が二人出てしまう結果、政策で競うのではなくて、買収を行ってしまう、候補者が一人になればそれがなくなる、と説明されたわけです。ところが小選挙区制になっても自民党の金権体質は変わらない。なぜかというと、薗浦氏のケースを見てもわかるように、全部個人の責任にしてしまうからです。今回のことでも、自民党は党としても記者会見を開いていない。派閥としても記者会見を開いていない。
もう一つ、政党助成金の問題点は、政党助成金があるために野党が必要以上に多党化してしまうことです。議員が五人集まれば政党助成金をもらえるから、国民の間にこういう新党が必要だという声がなくても新党が作れて必要以上に多党化してしまう。本当に必要だという民意があって野党が多党化するのならよいのですが、民意とは関係なしに政党ができてしまうこと自体がおかしいんです。その結果、小選挙区の下で野党同士が共倒れになり、「一強多弱」の政治状況も生んでいます。
政治とカネ問題がもたらす議会制民主主義の危機
ちなみに、自民党は党員がどんどん少なくなっています。
90年代初めに547万人いた党員が、2012年には73万人台まで下がっています。昔の自民党は総合病院と言われ、「あそこに相談に行くといいよ、国民のためになる」というような錯覚があった。けれども、小選挙区中心になり、なおかつ福祉国家政策なんてやるつもりはない、新自由主義で自己責任で行く、となれば、あそこに頼っても切り捨てられる、ということで当然党員は減りますよね。ところが党員が減っても、自民党は選挙で勝ち続けたいわ けです。国民に痛みを強いて、どんどん福祉サービスをカットして、寄付が集まらなくなっても、政党助成金もあるし、企業献金もある、パーティー券で収入を得られる。財政的に全然困らないんです。僕から見ると、わざわざ国民に痛みを強いる政党に、国民が頑張って働いた税金から政党助成金を払うなんて、踏んだりけったりです。
こうしたお金の入り口を変えていかなければ、議会制民主主義とは到底言えないような政治が強行されます。世論調査で国民が反対している法案でも自民党、公明党などの賛成多数で次々と通ってしまっています。今の選挙制度や政治資金制度は議会制民主主義にふさわしくない。反しているんです。たとえば「安倍政権は民主主義を壊した」とよく言われますが、僕から見ると、そもそも議会制民主主義に反するような選挙制度や政党助成金制度があり、政治資金規正法も企業献金を許しており、使途不明金が簡単に作れるような欠陥法です。議会制民主主義が実現していないから簡単に政治が暴走できてしまったのです。
「政治とカネ」を追及する新しい市民運勤の可能性
この間、「政治とカネ」事件を告発してきたのは、私たち、政治資金オオンプズマンだけではありません。たとえば、小渕優子議員が支援者の観劇会の収支を記載しなかった事件の時は、地元の市民が告発しているんですね。また、河井克行・案里夫妻事件の時は、僕ら研究者が10人ぐらいで告発したら、地元の人たちも立ち上がってくれた。山際大志郎元大臣の政治とカネ問題でも、150人を超える川崎市民が山際元大臣らを横浜地検に告発し、私も加わりました。
「政治とカネ」問題の場合、政治資金収支報告書とか選挙運動費用収支報告書、領収書という客観的な資料、証拠があるという強みがあります。ですから、専門家と一般市民が連携しながら、この問題で新しい市民運動のモデルをつくっていきたいと思っています。(12月14日)
上脇博之(かみわき・ひろし)
1958年生。神戸学院大学法学部教授。憲法学。「日本維新の会の政治とカネ」他
コメント:そもそも上脇が最初にパーティー代を告発し、裏金摘発につながったのです。検察が独自に捜査したわけではありません。
同じく「岸田首相と統一教会」鈴木エイトから一部
(前略)
萩生田氏の珍弁明と骨抜き法案成立
教団との関係が指摘される代表格の政治家のひとりである萩生田光一氏は2023年3月に配信された文薮春秋のウェビナー「政調会長、すべての疑問に答える編巣長が聞く!第一 回」での新谷学編集長(当時)との対談において、統一教会の施設に通っていたのは自分ではなく自分にそっくりな市議会議員だと主張。別人説を唱えている。
その萩生田氏が政調会長として関わった与党PTによりまとめられた統一教会被害者救済法案も実効性が薄く「救済」には程遠い骨抜きのものとなった。2023年秋の臨時国会では、 被害者の声や全国弁連、全国統一教会被害対策弁護団の提言を反映させることなく、与党が提出した財産管理特例法が議員立法として成立。被害者が望んだ包括的な財産保全を可能
とする野党提出の特措法案は否決された。統一 教会にとっては解散命令確定前に自由に財産を散逸させることができ、まさに教団の「思う壺」となっている。
いかにカルトの影響を失くしていくか
教団を利用し、ギプ・アンド・テイクの関係にあった政治家、単に教団に利用された政治家。その濃淡はさまざまだが、政治家との過去の関係を盾にこのまま教団側に主導権を握られているような状態がつづけば、国益が損なわれることになりかねない。
自民党内に潜むとされる信者秘書の存在やその動向にも注意が必要だ。
今回の一連の報道が示す教訓は、 教団サイドがどのようなカードを使ってくるか判ったことだ。教団にしてみれば関係を持ってきた大物政治家の首根っこを掴んでいるようなものである。もし仮に教団側が自らとの関係を材料に政治家へある種の圧力をかけているとしたら、それこそ「反社会的」と指摘されても仕方ないだろう。
今からでも遅くはない。第三者委員会の設置や国会の調査権を発動するなどし、長年にわたる統一教会による政界工作について包括的な調査を行うべきだ。そして、なぜ一国の元首相が暗殺されるような大事件に発展したのか検証することが必要である。
カルト問題が絡んだ大事件が二度も起こってしまった日本としてフランスの反セクト法に倣い、日本版カルト規制法制定への議論を進める段階に来ているのではないか。
鈴木エイト(すずき・えいと)
1968年生まれ。ジャーナリスト/作家。 日本大学卒。主な著書に『自民党の統一教会 汚染.追跡3000日』『自民党の統一教会 汚染2 山上徹也からの伝言』(以上、小学館)他
2458.八王子市長選 1.23
ont color="#000000" face="UD デジタル 教科書体 N-R"> ・八王子市長選の結果
https://www.city.hachioji.tokyo.jp/shisei/001/008/001/p024398.html
コメント:元々保守が強い土地柄ですが、一抹の希望も駄目でした。当日は冷たい雨が降り、これでは浮動票が選挙に行かなくなると思い、嫌な予感がしていました。今後は勢いに乗った萩生田が、小池と徒党を汲んで(場合によっては菅迄加わって)、国政、都政、市政を極右勢力が壟断することになるでしょう。これでは諸悪の根源八王子です。八王子市長選等は、日本全体で見れば些細な出来事ですが、日本を覆う超保守、国家主義の黒い雲が一層厚みを増したような感じがします。そしてこの地方選でも見られる、強い野党の不在、即ち泡沫候補や泡沫政党が、結果的に野党勢力の脚を引っ張るという構図こそ、日本を駄目にしている元凶だと思います。野党のこれという政治家が応援に駆け付けたという話も聞きません。しかも一位と二位の票差は僅か。野党候補が4人でなく3人だったら完全に勝っていた選挙です。こうなれば、有権者は同じ自民でも、出来るだけリベラルな、もしくは左寄りの候補を応援して、全体でバランスをとるしかないと思います。
2459.政治とカネ 1.24
今回の前書きは朝日新聞(1.23)の耕論から、一件ご紹介します。
耕論「やっぱり政治はカネ?」
選挙の裏、後ろ暗い「共犯」 井戸まさえ(元衆院議員)から
1965年生まれ。兵庫県議を経て2009年から 民主党衆院議員を一期。著書に「ドキュメント候補者たちの闘争」など。
大先輩の政治家から「人の心をつかむというのは、その人が何をすれば動くかという弱みを見つけることだ」と言われたことがあります。その弱みが「カネ」の人はとても多い。カネで動く政治家と、カネで動く一握りの有権者や企業がこの業界をゆがめている現実があり、今回の裏金事件は氷山の一角です。
政浩家のパーティー会場は、それぞれの欲望が集まる磁揚のようなものです。主催する政浩家はもちろんカネ集めが目当てですが、「副大臣になりたい」とか 「たくさんパー券を売って親分に褒められたい」とか、他にも思惑がある。
来ている人にとっても、2万円のパーティー券は単なるチケットではありません。政治家への純粋な思いの人は少数で、「許認可が欲しい」など政治家を利用したい人が集まります。
カネを使うのはあっという間です。地元から上京した後援者に赤坂や銀座で飲みたいと言われれば、一晩で何十万円もかかります。
後援者も「また連れていってくれるかも」となる。
もちろん払うのは政治家です。こんなカネはどこから出しているのでしょう。選挙民におごってはいけないから、会費を受け取った形にするため領収書を出すとも聞きます。自民党だけじゃないですよ。「会費取りまーす」と言って、実際は取っていないのに領収書だけを配っている野党議員を目の前で見たこともあります。カネを介した共犯関係が生まれるんです。
「政治はカネがかかる」という言葉の根底にあるのは、選挙です。当選し続けるには、人のつながりを広げ、メンテナンスしなければならない。後援者たちに利益を還元し続ける必要がある。実際、そういう後援者たちが、選挙になれば集会の会揚をいっぱいにしてくれたり、電話をかけてくれたりする。そして、政治家は自分に対する評価が選挙の開票日にしか分からないという、常に不安な生き物です。だからこそ「これだけお金を使った」というのは、安心材料にもなる。
残念ながら、これがこの業界の現実です。「記載すればキックバックは問題ない」と言う人もいますが、法的にはよくても、こんな政治でいいのでしょうか。政党助成金として国民からお金を受け取っているのに、一部の有権者や企業との後ろ暗い関係がこの国をゆがめていないでしょうか。この悪巧みの構造を知らない国民が、だまされている気がしてなりません。
(聞き手・田中聡子)
コメント:NHK党の立花が、こう言いました。政治は止められない。だって政党になれば、黙っていてもカネが入るからと。
関連記事:刷新本部、中間取りまとめ、派閥の解消盛り込み。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6489136
コメント:ところが1.23の朝日の朝刊では、派閥の解消は書かれていないと報じている。どちらが正しいのか。
関連記事:政権批判。でも野党支持には時間。枝野。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA226LG0S4A120C2000000/
関連記事:頻繁な選挙はポピュリズムを生む。田中均。
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20240117/pol/00m/010/015000c
2460.リベラルと権威主義 1.25
今回の前書きはいつもより長めですが、読む為に時間を割く価値があるので、是非一読をお勧めします。
雑誌世界2月号
現代の政治的対立軸とは何か 日欧の福祉国家再編をめぐって
田中拓道(一橋大学大学院社会研究科教授)の要約
はじめに
この特梨号のテーマは「リベラルに希望はあるか」である。この小論では、「リベラル」とは何かを考えるにあたって、日本と欧州の政治的な対立軸、その共通点と差異について考えてみたい。
近年、欧州の多くの国で移民や難民の排斥を唱えるポピュリズム政党が伸長し、第一党を窺うまでになっている (直近では、2021年11月のオランダ議会選挙で極右の自由党が第一党となった)。右と左という伝統的な対立軸が融解し、政治の構造変動が起こっている。一方、日本では自民・公明の与党が盤石の体制を敷いているように見え、「一強多弱」と称されることもある。
日本と欧州で政治的対立のあり方はなぜ異なるのだろうか。日本で「リベラル」について語ることが難しいのはなぜだろうか。この小論では、私たちの生活や働き方に密着した主題、つまり福祉国家(社会保障)の再編を軸として、日本と欧州の政治的対立のズレについて考えたい。
ヨーロッパの福祉国家再編
まず、欧州での福祉国家再編をめぐる対立軸について考えてみよう。福祉国家とは、第二次世界大戦後の先進諸国に広がった、平均的な水準の生活保障を市民の権利として認めるようになった国家のあり方を指す。その主な役割は、世帯の稼ぎ主(男性)が失業、 病気、けが、老齢などで所得を失った時、社会保険をつうじて世帯所得を保証すること、働けない人には税を財源とした公的扶助(日本の生活保護など)を提供することだった。 注意すべきは、戦後社会では男性が稼ぎ主となり、女性が家庭で育児や介護などのケア労働に従事するという性別役割分業が前提となっていたことである。
20世紀の政治では、右と左の対立が一般的だった。「右」は市場の自由を重視し、経営者や富裕層に支持される。「左」は国家による分配と平等を重視し、労働者や低所得府に支持される。左右の党派対立は、労働者と経営者の階級対立を反映すると考えられていた。とはいえ、戦後の中道左右政党は、ともに福祉国家を受容していた点にも注慈が必要である。政権交代が起こっても福祉国家は維持され、経済成長とともに拡大を続けた。
1970年代以降に低成長へと移行すると、福祉国家への合意も崩れていく。そこで重要となったのが産業構造と社会の変容だった。先進国の主要産業は製造業(第二次産業)から金融・情報・サービス業(第三次産業)へと移行する。2000年代に入ると、欧米日では約七割から八割の就業者が第三次産業に従事するようになった。製造業と異なり、サービス業では生産性が上がりにくく、短期契約、 短時間などの不安定な雁用が増えていった。
事務職やサービス職への女性の就労が進むと、男性稼ぎ主型の家族も変化した。80年代の欧州では、六歳未満の子どもがいる家庭のうち専業主婦世帯は半分以下となり、共働き世帯が一般化した。単身世帯、一人親世帯も増えた。家族の多様化に福祉が対応し、女性が家庭で引き受けていたケア労働を社会化しなければ、育児と仕事の両立ができず、貧困に陥る女性・子どもが増えたり、少子化が進んだりしてしまう。
雇用と家族の変化によって生まれたリスクは「新しい社会的リスク」と呼ばれる。戦後の福祉国家が対応したのは、男性稼ぎ主が所得を喪失するという定型的なリスク、「古い社会的リスク」だった。一方、「新しい社会的リスク」の特徴は、個々人のライフスタイルや雇用のあり方に応じてきわめて多様だという点にある。福祉国家の役割は、定型的なリスクに対処するだけでなく、個別化されたリスクに対処すること、いわば「平等」の保障から、個人の選択に合わせた「自律」の支援へと変化していくことになったのである。
グローバル化と新しい対立軸。
1980年代から福祉国家再編が始まると、さまざまな模索が行われた。現代の政治的対立を考えるうえで重要なのが、「社会的投資」という考え方である。これは当初、経済協力開発機構(OECD)や欧州連合(Eu)などの国際機関や専門家によって唱えられ、2000年代から各国の主要な左右勢力に受け入れられていった。
社会的投資とは、グローバル化、知識経済化、家族の多様化、高齢化という社会経済の変化に対応して、福祉を「人への投資」と見なし、福祉と経済成長を両立させようとする政策を総称する。「新しい社会的リスク」に各自が対処するためには、受動的な給付よりも、すべての人の就労機会を広げ、能力・技能を高めるような給付・サービスを行う必要がある。具体的には@高齢者向け支出の伸びを抑制しつつ(年金改革、医療効率化など)、現役世代、とりわけ子ども・女性・若者向け支出を拡大すること、A育児ケアサービスなどによって仕事と育児の両立を支援し、男性の育児休業促進などによって男女両性による育児を支援す ること、B教育、就労支援・就業訓練、生涯教育によって各人の能力を高め、よりよい職に就ける可能性を高めること、C産業変化に合わせた職の移動やライフスタイルに合わせた労拗時間の選択をしやすくすること、というバッケージである。
社会的投賓は、個人の「自律」やライフスタイルの「自己決定」を支援することを目的とする。伝統や権威に縛られず、誰もが生き方を自由に選べることを重視する点で、「リベラル」な価値観と親和的である。2000年代に入ると、欧州の中道左派、中道右派は社会的投質への転換をめぐって競争を行うようになった。公共サービス供給を直視し、受動的な所得保障と社会的投資の両立を図ろうとする立場は「左派リベラル」と称することができる。一方中 道右派は、規制緩和による民間サービス供給を重視し、所得保障を切り詰めつつ就労を促す「ワークフェア」型の政策を取った。
ただし、2000年代は欧州市場統合にともなって緊縮財政が採られた時期と重なっていた。社会的投資は、政府の支出を増やさず、 所得保障を切り詰めつつ人びとに就労を強制する名前「ワークフェア」型の政策として進められることが多かった。Eu 27カ国の統計を見ると、2011年から22年の間に就業率は67.1%から74.6%へと上昇したものの、相対的貧困率(世帯可処分所得が平均の60%以下の世帯割合)は 16.9%から16.5%へとほぼ変化せず、格差は固定化された。
左派リベラルと中道右派は、ともに個人の自律と自己決定を重視する。こうした価値観を持つ人びとは、生き方の自由な選択や機会を広げるグローバル化に肯定的である。
一方、「リベラル」な価値観への反動として、「権威主義」的な価値観を持つ人びとが増えていった。権威主義とは、社会の秩序が伝統や権威によって成り立つと考え、伝統的な形の家族、宗教、国民文化の一体性などを守ろうとする態度を指す。権威主義的な価値観を持つ人びとは、グローバル化や欧州統合に反対し、移民や難民に対する排外感情を持ちやすい。注意しなければならないのは、こうした人びとが所得の低い層というよりも、グローバル化によって以前の安定した雁用や生活を脅かされ、自らの尊厳を奪われていると感じる人びと(工場労働者、中小企業主、自営業者など)だったという点である。
こうした人びとを支持層として急速に勢力を伸ばしたのがボピュリズム政党だった(フランス国民連合、オランダ自由党、ドイツのための選択肢、スウェーデン民主党など)。これ らは中道政党をグローバル化の推進者、エリートの代弁者として批判し、移民・難民への排外主義を唱えるだけでなく、国内の移民・外国人に対して福祉の受給権を制限し、自国生まれの市民に対しては、社会的投資よりも、手厚い保護と給付を求めるようになった。2000年代以降に勢力を伸ばしたポピュリズム政党は、こうした「福祉排外主義(welfare chauvinism)」と呼ばれる立場を採っていた。
(中略)
日本型福祉国家の再編
次に欧州との比較から、日本の政治的対立軸について考えてみよう。戦後日本の特徴は、福祉国家のあり方が左右の争点にならなかったことだった。1959年・61年には国民皆保険・皆年金が導入され、日本も福祉国家への道を歩み始める。しかし当時の自民党政権は、社会保障を「経済成長の原動力」と位置づけ、経済政策の下に置いていた(「国民所得倍増計画」1960年)。左派の社会党は社会主義革命を目標とし、福祉国家を「資本の延命策」として否定的にとらえていた。
60年日米安全保障条約改定への反対運動を契機として、左右の党派対立は、憲法と安全保障をめぐる保守―革新の対立になっていった。保守(右)の自民党は、日米安保のもとで経済成長に専念し、長期的には憲法九条を改正して独自の軍隊を持つことを目指す。革新(左)の社会党は、長期的に社会主義革命を目指すとともに、憲法改正阻止、非武装中立を党是とした。戦後の左右対立は、冷戦構造を背景とした憲法・安全保障をめぐるイデオロギー的な対立となっていった。
一方、日本の福祉国家の発展は緩やかだった。90年の 公的社会支出(対GDP比)を見ると、日本(110.5%)はOECD平均(16.4%)のはるかに下、「小さな政府」として有名なアメリカ(13.2%) より小さかった。そのうえ社会保障支出の大部分は高齢者向け(年金・医療・遺族関連)に偏っていた。
この頃、日本は「一億総中流」と言われ、他国に比べて平等な社会だと考えられていた。なぜ小さな福祉と平等意識が両立できたのだろうか。その理由は、家族と企業が公的福祉の代 わりを果たしたことにある。第一に、日本では80年代に入っても、女性がケア労働に従事するという男性稼ぎ主型家族が維持されていた。しかし、90年代半ばには共働き世帯が専業主婦世帯より多くなり、 単身世帯や一人親世帯も増えるなど、家族の多様化が進んだ。日本の福祉国家はこうした変化への対応が遅れ、育児と仕事の両立が困難になったため、少子化が急速に進んだ。合計特殊出生率は90年の1.57から2006年の1.26へと減少を続けた。
第二に、公的福祉に代わって人びとの生活を支えたもうーつの柱が「日本型雇用」だった。企業に勤める男性労拗者は長期雇用を約束され、企業からライフステージに合わせたさまざまな福利厚生(住宅補助、育児補助、企業年金など)を提供された。しかし、日本型雇用もまた揺らいでいく。自営業の減少、正規労働に就けない若者の増加などで、日本型雇用の外部に非正規労働者が増加した。その割合は89年の19.1%から2019年の38.3%へと倍増した(総務省「労拗力瀾査」)。
家族と雇用の変化は、日本でも「新しい社会的リスク」 が顕在化したことを表している。若者や女性のあいだで不安定な暮らしと雇用に直面する人びとが増え、「格差」が意識されるようになった。2006年の相対的貧困率(可処分所得が平均の50%以下)は、スウェーデン5.3% (2004年)、フランス7.1%に対して日本は15.7% と、先進国ではアメリカ(16.8%)に次ぐ「格差社会」 となっていた(OECD, Income Distribution Database)。
政治的対立軸の溶解?
2000年代半ば以降、平等幻想は崩れ、日本も「新しい社会的リスク」への対応を迫られていった。では福祉国家再編をめぐる新たな対立軸は形成されたのだろうか。二つの特徴を指摘する必要がある。
第一に、1994年政治改革(衆議院選挙制度改革)以降、 日本の政治を特徴づけたのは政界再編、つまり政党の激しい離合集散だった。その中で旧革新系の一部の政治家が、冷戦終結とともに意味を失った「革新」というラベルに代わって「リベラル」という言葉を用いるようになった。日本では、憲法・安全保障をめぐる対立を保守―リベラルと 結びつける独特の用法がその後も継承されていくことになった。
ここでは遠藤晶久とウィリー・ジョウが2014年に行った調査を紹介しておこう。この調査によれば、40−60代の中高年齢層は、憲法改正や集団的自衛権といった争点を保守―リベラルの対立と結びつけている。ところが30代になるとこうした結びつきは弱まり、20代ではそれが消える。憲法・安全保障をめぐる党派対立は、世代が下がるにつれて意味を失いつつある。
(中略)
では福祉国家再福をめぐる対立はどうだろうか。日本で「新しい社会的リスク」への対応が本格的に始まったのは、第二次安倍政権(2012-20)の時だった。安倍政権は「一億総活躍社会」の実現を掲げ、女性や高齢者の就労促進、長時間労働の是正(働き方改革)、同一労働・同一貨金による非正規労働者の待遇改善などを進めた。特に重要なのは、2012年自民・公明・民主三党合意による社会保障・税の一体改革で決まった消費税率引き上げ(14年 に8%、19年に10%)と、それを主な財源とした「少子化対策」である。保育ケア拡充、保育無憤化などにより、日本の家族関係支出(対GDP比)は2013年の1.13 %から20年の2.01%へと大幅に増え、OECD平均 (2.11%)にやや近づいた。
第二次安倍政権の政策への評価は専門家の間でも分かれているが、おおむね経済成長を最優先し、人びとの就労を促進しようとする「ワークフェア」型政策だったと言えるだろう。たとえば、女性・高齢者の就労促進を企業に働きかけたものの、新たに就労した女性のほとんどは非正規雇用にとどまった。質の高い仕事に移るための支援、つまり積極的労働市揚政策への公的支出(対GDP比)は、コロナ禍前の2019年の段階で0.15%と、OECD平均 の四分の一以下、スウェーデンの七分の一程度にとどまった(OECD Statistics)。子育て支援は拡充されたものの、合計特殊出生率は2015年1.45、20年1.33、22年1.26と下げ止まっていない。
現在、自民党に対抗する野党は安全保障政策などをめぐって分裂し、「一強多弱」状態にある。しかし、格差の固定化、未曽有の少子高齢化に直面する日本では、雇用・社会保障をめぐる与野党の真剣な改革競争が望まれるはずである。自民党の議員の多くは保守的な家族観を持ち、その政策は経済成長への動員、「少子化対策」も将来の経済の担い手確保という含意が強い。個人の自律とライフスタイルの自由な選択を国が支えるという「左派リベラル」の理念は、現在の政治に欠けている視点を提供できるはずだ。最後に政策上のポイントをいくつか挙げておきたい。
第一に、社会保障は高齢世代向けだけでなく、現役世代向けに重点を置くものへと転換させる必要がある。日本の高齢者数は2043年にピークを迎え、高齢化率はその後も四割弱に高止まりする。高齢世代向けは最低生活保障(無年金・低年金層への最低所得保証など)という機能を軸とし、支出の伸びを抑制する改革(年金マクロ経済スライド発動の法的規定、豊かな高齢者への介護・医療負担増大など)が必要だ。
第二に、家族関係支出は拡充されたものの、英独仏などと比べるとまだ見劣りがする。岸田文雄政権は年間3.6兆円に及ぶ「異次元の少子化対策」を掲げたが、財源を調逹できるか現時点で見通しは不明だ。出産奨励だけでなく、多様な家族の形の選択、育児・仕事の両立、そして男女両性による育児を支援する政策を大胆に進める改革が必要だ。
第三に、よりよい職に就くための支援は手薄なままにとどまっている。ライフステージに合わせた労働時間の選択制、非正規労働者への保険適用拡大も不十分だ。同一労働・同一貨金を徹底したうえで、扉用の一律保護よりも、柔軟な働き方の選択、職の移動を支援するような教育・就労支援政策を拡充する必要がある。
第四に、これらの政策を実現するためには安定した財源が欠かせない。未曽有の少子高齢化に直面する日本では、国の役割は今後も大きくなっていかざるをえない。育児ケア・教育等ですべての人が受益者となる普遍的なサービス・給付を実施したうえで、将来的には現役・高齢世代がともに負担する消費税の引き上げを軸として(現行の消費税率10%は、Eu指令で定められた付加価値税率の最低基準15%の三分の二にすぎない)、累進所得税・相続税などを組み合わせた財政構想を明示すべきだろう。
既存の福祉国家研究によれば、育児支援や就労支援の拡允に成功した国(スペイン、韓国、ドイツなど)に共通するのは、政党間の活発な競争だった。雇用・社会保障改革をめぐる与野党間の活発な競争を実現できるかどうかが、日本社会のゆくえを左右することになるだろう。
編集者コメント:今回長文のご紹介となったのは、最近読んだ論文で最も多くの啓示を受けた論文だからである。部分的には、消費増税の必要性や、安倍政権がワークフェア政策だったなど、気になる部分はあるが、現状を客観的に、左右のバランスを取って、分析しているように思われる。ワークフェアとウェルフェアの対比等、キーワードもいくつかあり、少子化対策を含め、家族の多様性とライフステージの多様化を前提にした福祉政策の必要性など、十分に納得できるものである。非才な自分が一つだけつけ加えるとすれば、トランプを支持する米国のポピュリズムの現状も、欧州のそれと同根であること、しかもポピュリズム(もしくはその萌芽)が日本には存在しないと考える根拠はないということである。
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