「WTWオンラインエッセイ」


【第19巻の内容】

「北朝鮮の宣伝に努めるNHK」
「東海地震が間近に」
「清原より五輪不正を報道せよ」
「樋口陽一と小林節」
「NHKかイヌアッチケーか」
「舛添騒動」
「サミットと財政出動」
「似非コメンテーター」
「オバマと広島」
「誰の為の現実主義なのか」
「内なるアルマゲドン」
「常識2.0の勧め」
「立憲主義」
「人権、アベノミクスの限界」
「堪忍袋の緒は切れ放し」


441.北朝鮮の宣伝に努めるNHK。2016/5/7

北朝鮮の党大会のニュースを、冒頭で長々と取り上げたNHK。一体どういう了見なのだろう。唯一考えられるのが、北朝鮮の脅威を演出したい政府と、その提灯持ちのM会長の思惑だろう。結果的にNHKは北朝鮮の宣伝機関に成り下がってしまった。正気を失ったNHKは報道機関に求められる正常な判断力を失い、ジャーナリズムの抜け殻になり果てたのだろうか。

442.東海地震が間近に 2016/5/10
 
週刊朝日の5/20号に、林真理子との対談で磯田道史が登場。林が平成の司馬遼太郎と持ち上げていましたが、磯田の説明で気になる部分がありました。

磯田が東日本大震災を契機に地震や津波の歴史を調べ始めた。そこで分かったことは、1611年に東北で慶長三陸地震が起きて津波が襲った8年後に、熊本で断層地震が発生したということだった。揺れ方も似ていて、熊本、阿蘇、大分と東北方面に拡大していった。観測史上例がないという気象庁の説明は史実と異なるというものです。そこで気になるのが、その後どうなったかですが、更に6年後の1625年後に、広島で地震があり、城の石垣が崩れ、愛媛の道後温泉も湯が止まった。そして慶長三陸地震の22年後の1633年には、小田原で大地震があり多数の死者を出した。このとき江戸城の天守閣も右に左に大揺れしたが、何とか倒壊は免れたというものです。
この史実を元に単純計算すると、今年から16年以内に東海地震が発生するという事になります。私としては逆にそれではいささか楽観的に過ぎるのではないかという気がします。史実は事実として参考にしながら、いかに不可能であろうとも、地震の予知について、現代科学は総力を挙げて取り組むべきだと思います。何故なら人命が掛かっているからです。



443.清原より五輪不正を報道せよ 2016/5/18

清原が社会不適応者だということはとっくに分かっている。覚せい剤使用は基本的に自傷行為であり、八百長や野球屋賭とは次元が異なる犯罪だ。反社会性でも、スポーツ精神への裏切りでも、後者の方が悪影響は遥かに大きい。五輪招致で賄賂を使うなど、五輪精神とは全く相反する不正行為である。予算員会で参考人招致されているのに、知らぬ存ぜぬで押し通したJOC会長。しかもNHKはこの重大シーンをニュースでは全く報道していない。未だ判決も出ない、所詮どうでもいい清原出廷をニュースのトップに持ってきて、予算委員会の審議などそっちのけである。これはNHKのピンボケというよりは、籾井体制下でのNHKの萎縮と自粛と偏向の産物と見るべきだろう。これからはサミットでニュースを塗りつぶし、その勢いで、参院選に持ち込もうとするだろう。若者を中心に日本各地で抗議集会が起きているのに、それらを報道する気も一切ないらしい。安倍首相の宣伝機関、飼い犬と化した有害無益なNHK。そのくせ自民党ではないから、舛添の不祥事だけはしっかり取り上げた。腐ったNHKの報道部門は国民に給与を返上せよ。籾井は倍返しせよ。


444.樋口陽一と小林節 2016/5/19

5/19の党首討論で、岡田がやっと増税策送りを提案しました。官僚の傀儡と化した滑稽で無様な野田元首相の大失政に、散々な目に会ってきた民進が、やっと正気を取り戻したというところでしょうか。

なお党首討論では憲法9条がテーマになりました。そこで今日は樋口陽一と小林節の対談集、「憲法改正の真実」集英社新書、の冒頭の部分から、自民党が突き進もうとしている憲法改正案が、いかに不勉強で、自己中心的で危険なものであるかを紹介させて頂きたいと思います。

小林「…樋口先生は護憲派の泰斗、私は改憲派の重鎮だと言われてきました。しかしながら、憲法弟九条改正論について、どのような見解を持とうが、憲法を破壊しようとする権力に対しては、護憲派も改憲派もその違いを乗り越えて、闘わなくてはなりません…」
樋口「おっしゃるとおりです。集団的自衛権の行使に賛同する人ですら、もっと言えばそういう人々こそ、この国の立憲主義と民主主義を踏みにじった現政権の粗暴な「壊憲」行為については、将来の集団的自衛権行使に傷をつけるものとして、異を唱え、闘うべきなのです…」
小林「なぜなら、憲法を守らない権力者とは、すなわち独裁者だからです。憲法が破壊された国家で、静かに独裁政治がはじまりつつある体制下に私たちは生きている…」
樋口「…この憲法改正によって、この国の形がどのように変えられてしまうのか、その真実を明らかにする義務が私達憲法学者には課せられています」
小林「…憲法は道具だと私は考えています。つまり、我々主権者、国民が幸せに暮らすために国家権力を管理するマニュアルが憲法です…。自民党の勉強会に出席してきた主眼は、憲法は国民を縛るものではない、国家権力を管理するための最高法規であるという憲法の基本を自民党の議員たちに叩き込むことにあった。でも憲法とはなにかについて理解をもってくれた議員は一握りでした」
小林「…高市議員が、国会の憲法審議会の席上で、憲法には授権規範を少し追加すべきだと講義を始めた時は呆れました。誰に向かって口をきいているのかと思いました。自民党が草案に入れる入れないの問題ではなく、憲法には、制限規範と授権規範の両方の側面が、そもそも備わっているのですから。小学生でも知っている当たり前のことなのです…」
樋口「国家に与えられている権力は、国民の権利や自由、基本的人権を侵害しないという制限規範に縛られた条件付きなのです。そういう認識が彼らにはないのです」
小林「…カギは、やはり世襲議員たちです。改憲マニアともいうべき議員の中には世襲議員が多いのです。憲法というのは他の部会と違って利権が絡まないので、票にも金にもなりません。だから地盤の強さだけで勝てる世襲議員が多くなってしまうのです。2009年の衆院選で自民党は大敗を喫した時に、自民党の実力派の議員が落選し、三世、四世といった世襲議員と、不勉強なくせに憲法改正に固執する改憲マニアだけが残ってしまった。これが何を意味するかと言えば、現在、自民党内で憲法について集中的に考えている議員たちのほとんどが、戦前日本のエスタブリッシュメント層、保守支配層の子孫とその取り巻きであるという事実です」
小林「…彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本が最も素晴らしかった時期は、国家が一丸となった、終戦までの10年ほどのあいだだったということなのです。普通の感覚で言えば、この時代こそがファシズム期なんですがね。…そういう自民党世襲議員のなかに、旧体制下の支配層たちの敗戦の怨恨が脈々と受け継がれ、アメリカに押し付けられた憲法を憎悪するという構図になっているのでしょう…。しかし日本国憲法は一般の人にとっては救いでしたよね。戦争に負けて、新憲法を押し付けられたと彼らは言うけれど、一般の人には悔しくもなんともない。日本国憲法のもと、人権が保障されるようになったし、平和で豊かで良かったなというだけのことですよね…」
小林「麻生太郎財務相は2013年にこんな発言をしましたね。ドイツの憲法はある日、気づいたらワイマール憲法が変わってナチス憲法になっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかねと。確かに学んでいますね。自民党は」
樋口「だから戦後の西ドイツは、憲法の保障する価値観をひっくり返してはならないという考え方を法制度化しました。自由の敵に自由は認めないという考え方です。ワイマール憲法のもとで、民主主義が暴走し、憲法の基礎をなしていた基本的人権が破棄され、ドイツ民族の優位といったイデオロギーが跋扈するようになった。立憲主義を軽視すると、そういった事が起きてしまうのです…」
木林「…いまだかつて国民の過半数が憲法改正を望むという統計上の資料を見たことないですよ…」
樋口「…安倍首相が言っているのは、絶対民主主義の正しさなんですね。絶対民主主義とは、多数派が支配的に振舞って良いという民主主義です」
小林「多数派だったら何でもできるという絶対民主主義は非常に危ない。…そこに歯止めを掛けるのが立憲主義です」
樋口「先ほど、立憲主義と民主主義のバランスが重要だとお話ししましたが、その両国の中間のどこに自分たちの政治のあり方を置くのかは、各国それぞれ異なっています。…真ん中より民主の方に均衡点を置いてきたのがフランスです。ナチスの台頭を反省して、立憲の方に自分の立ち位置を定めているのがドイツ連邦共和国です」
小林「私が学んだアメリカは、ドイツほどではないけれど、立憲の方に寄っています」
樋口「…しかし立憲主義を民主主義のロジックで否定しておきながら、民主主義をも放棄しようとしているのが、今の自民党なのです…」
小林「自民党の草案では、個人という言葉を敢えて削っている。公共の福祉が、公益及び公の秩序に変更になっているという点も要注意ですが、最大のポイントは個人としての尊重から人としての尊重に変わったというところです」
樋口「同感です。わずか一語の変更ですが、非常に大きな問題をはらんでいます。…すべての国民が個人として尊重されるという事が憲法の要なのです」
小林「ここで言う人の意味は、犬・猫などとは種類の違う生物といった程度の、本当に軽い存在としての人です。それぞれに個性を持つ個人として尊重されるのと、他の動物よりは上といった程度に尊重されるのとは大いに違う。自民党の改憲マニアと付き合ってきて嫌だったのは、個人の権利を常に否定したがるという彼らの性癖ですね。…世界の成文憲法というのは、アメリカ独立宣言から始まりますが、どういう価値観を引き継いできたのかというと、端的に言えば、人は人として生まれただけで幸福に生きる権利があり、幸福とはそれぞれが異なった個性を持っていることを否定せずにお互いに尊重しあうことで成立します。その幸福の条件を国家は侵害するなというのが憲法の要です」

御紹介したい内容は尽きませんが、特に戦争は元より、戦後さえも経験していない、若い世代を中心に、是非とも本書を一度手に取って頂くようお勧めします。これほど分かり易い憲法の本も少ないのではないかと思います。なお安保法強行採決については以下を併せてご覧下さい。
・強行採決した安保法の議事録を書き換え。事実ねじ曲げ。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/17/gijiroku_n_10015624.html?utm_hp_ref=japan



445.NHKかイヌアッチケーか 2016/5/21-26

 全く内容のない記者会見をする舛添も舛添だが、それを中継するNHKもNHKである。どこまで政権よりの番組構成にすれば気が済むのか。はっきり言わせて貰うが、もはやNHKは日本の民主主義と立憲主義にとって公害に等しい存在になりつつある。国民が政治や経済の状況を判断するための情報を入手するメディアとして、NHKは適切な相手とは到底言えないのである。なぜならNHK(少なくもその報道部門)はジャーナリズムの理念を自ら投げ捨てたばかりでなく、独特の価値観を国民に押し付けようとするからだ。だからNHKが明日消滅したとしても、私は困らないだろう。

1ト月ほど前の週刊文春の記事で、籾井がNHKの社内の人事権を乱用しており、自分が取り立てておきながら、ハイヤーの私的利用を諌めた秘書室室長を左遷、更には報道部の部長クラスを次々に地方に飛ばしたとのこと。しかも後釜には報道の経験もない製作部門から人を入れた。またこれという理由もないのに、小野アナの旦那を抜擢。これではやることが滅茶苦茶で支離滅裂です。経営者はおろか、幹部としての資格もありません。男は年を取れば顔に責任を持たなければならないと良く言われます。ところで籾井会長は鏡をのぞいてみて、表情に人間性の卑しさが現れていないと断言できますか。これはあくまでも個人的な感想です。


446.舛添騒動 2016/5/24-25

・舛添、盆正月にホテル宿泊。
http://www.asahi.com/articles/ASJ5R5G6LJ5RUTIL05R.html?iref=comtop_8_03
関連記事。舛添、逃げ切りのシナリオ。
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e8%88%9b%e6%b7%bb%e7%9f%a5%e4%ba%8b%e3%81%ae%e8%a8%98%e8%80%85%e4%bc%9a%e8%a6%8b%e3%81%ae%e3%82%a6%e3%83%a9%e3%81%ab%e9%9a%a0%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%80%8c%e9%80%83%e3%81%92%e5%88%87%e3%82%8a%e3%81%ae%e3%82%b7%e3%83%8a%e3%83%aa%e3%82%aa%e3%80%8d/ar-BBtlUFn?ocid=spartandhp#page=2
(寸評:そのせこさ、姑息さよりも、開き直りの方が、社会正義を真っ向から否定して恥じることがないという意味で100倍も悪い。安倍晋三がその悪しき前例を作った。あまつさえ舛添は私生活も滅茶苦茶で、巻き込まれた人達はたまったものではあるまい。要は人間性に大きな問題があるという事で、そういう人間を東京都の代表としてこれ以上置いておく理由も余裕も、都民にはないのである。都民は彼の背信と横領に関して、リコールと刑事告発の手続きを直ちにとるべきである。都税浪費の悪しき前例を作ったのは、言うまでもなく、石原、電通の巨悪傲慢コンビだ)


・自民党、舛添切って橋下に乗り換え。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e8%88%9b%e6%b7%bb%e8%be%9e%e4%bb%bb%e5%bf%85%e8%87%b3%e3%81%a7%e6%a9%8b%e4%b8%8b%e5%be%b9%e3%81%ae%e9%83%bd%e7%9f%a5%e4%ba%8b%e5%87%ba%e9%a6%ac%e8%aa%ac%e3%81%ab%e4%bf%a1%e6%86%91%e6%80%a7%ef%bc%81-%e5%ae%89%e5%80%8d%e5%ae%98%e9%82%b8%e3%81%a8%e6%a9%8b%e4%b8%8b%e3%81%ae%e6%85%8b%e5%ba%a6%e3%81%ab%e5%a4%89%e5%8c%96%e3%80%81%e8%a1%86%e5%8f%82%e3%81%a8%e3%81%ae%e3%83%88%e3%83%aa%e3%83%97%e3%83%ab%e9%81%b8%e6%8c%99%e8%aa%ac%e3%82%82/ar-BBtmAli?ocid=spartandhp#page=2
(寸評:自民党はどこまで国民を馬鹿にすれば気が済むのか。都知事に二枚舌の橋下など不要である。院政の菅が失脚するまでこうした茶番が続くのだろうか。改憲の為になりふり構わぬ安倍晋三は最早狂気の政治家であって、彼の脳裏には民意が存在する余地はない。国民はひたすら彼の言うことを聞いていればよいのであって、彼の住む日本には、安倍皇帝閣下と臣民しかいないのである。もはや顔つきからして岸信介が憑依しているとしか思えない。ということは日本は怨霊が支配する国ということか。ならば日本に必要なのは安倍晋三ではなくて、同じ安倍でも安倍晴明の方だろう。ついでに言っておく。自民党の知能レベルの低い議員に馬鹿にされ、翻弄されている国民も国民だという事だ)


447.サミットと財政出動 2016/5/27

・安倍首相、リーマン級下落と主張。異論も。
http://jp.reuters.com/article/g7-abe-summit-idJPKCN0YH0XX
(寸評:誰が書いたシナリオか知らないが、それをサミットに出すのは鉄面皮だろう。少しでも経済が分かる人間には、無理なこじ付けが分かって、化けの皮が剥がれてしまう。首相はアベノミクスは成功と自画自賛しているが、直前のGDPでさえ未だ回復基調だ。これでは世界から馬鹿にされても仕方がない。心配なのは財政出動をあせる首相よりも、こんな素人じみた説明しか思いつかない官邸や財務官僚の方かもしれない。日本が世界経済から信用を得たいのなら、なすべきことは財政出動でなく、逆療法の利上げである。マイナス金利は結局意図した効果が得られなかった事を素直に認めて、直ちに廃止すべきだと思う。それにしても安倍さん、英語が下手過ぎる。単語ごとにぶつぶつに切れており、あれでは何を言っているのか相手には伝わらないと思います)


448.似非コメンテーター 2016/5/27
 
似非はえせと発音します。字の通り、似て非なる存在のことです。成人として持つべき最低限度の常識と、基礎的な知識と教養、例えば日本の議会政治制度、憲法の基本的な条文、中でも前文、或は科学の基礎的な知識、世界史と日本の近代史への理解と、自分の意見を筋道立てて表現する力が必要です。声が大きいというだけで、メディアで発言の機会を与えられ、感情的で刹那的な発言を繰り返せば良いというものでもないでしょう。それは自民党の右傾化した若手議員のことではありません。主として芸能界出身の自称オピニオン・リーダーまたはコメンテーター、或はいわゆるMC達です。彼らは芸能プロに所属し、放送局に雇われています。局は政府の顔色と、政権の鼻息を必要以上に気にする傾向がある。自粛という名前の萎縮の温床です。局としては自然に現状肯定、与党支持に傾く。自称コメンテーターも当然そうなる。即ちタレントはよほど存在感に自信がない限り、自分の意見を持っても、発言してもいけない。いやむしろ自ら進んで現状肯定派=保守、或は超保守でないと放送界で生きていけないのです。
しかし、自分の意見を持つタレントもいないわけではない。時には反論したい時もあるでしょう。それでも、なにしろ政治経済の勉強をしているわけではないので、反論が難しい。見識で招かれて、筋の通った説明に慣れている有識者や学識経験者とは立場が決定的に異なるのです。しかも同じ芸人でも、若手の芸人と、さんまや所とでは、結構大きな差があります。後者もいわゆる基礎的な教養を十分備えているとは言えないが、少なくも戦争の記憶はあるし、人間或は世間がどういうものか、またどうあるべきかを、長い人生経験から学んできています。若手のタレントではそれが不足しており、それ故に主張も未熟にならざるを得ないのです。
困った事に、彼らにはファンがおり、タレントの生半可な意見でも、それなりの影響力があります。ところがタレント自身が自分の意見だと思っていても、実際にはそれは自分の意見でさえなくて、結局はもっと上の方からいつの間にか教えられてきた他人の価値観であることも多いのです。それがあるから、芸能人出身のタレント・コメンテーターは、基本的に国民の意見の代弁者ではないのに、自分がファンや国民の意見を代表しているという間違った思い込みをしてしまうのです。中高年で言えば、松本とビート・タケシにその傾向が顕著にみられます。
顔が売れていればより多くの人が見るというのが、生半可なメディア関係者の基準でしょう。しかしマスコミで顔が売れているから有名人で、有名だからその意見には価値があるという説明にはさすがに無理があります。それが真実なら、とっくにミッキーマウスが大統領になっているはずです。メディアが知名度だけで、彼らの意見を面白おかしく取り上げているうち、誤解が生じて、それが高じて思い上がり症候群が発症するのです。そしてそれが考えることにも、批判することにも慣れていない若者に浸透すると、冗談では済まなくなるのです。無論彼らにも、自分の考えを持ち、それを発表する権利があります。だからたった一つだけ守ってくれればいいのです。それは自分の発言には責任を持ってほしいということなのです。
私はそういうマスコミが流す情報の公害から、市民が身を守り、思想的に自衛する為に、市民の立場でメディアに物申すことができる超党派の組織が必要だと考えています。それがトレンド・ウォッチャーの目標の一つでもあるのです。


449.オバマと広島 2016/5/28

昨日(5/27)、米国の現職大統領として初めて、オバマが広島を訪問しました。原爆資料館を訪れ、慰霊碑の前で所感を述べました。長い演説を一言で言えば、世界は広島と長崎で倫理を学んだ、勇気をもって核と戦争のない世界に向かって努力を続けることが大事だというものです。被爆者二名と言葉も交わしました。但し残念ながら坪井代表の話は長過ぎた。主張は正しいのだから、その本旨、即ちこれが終わりではなく、最初の一歩だという一言で良かったのではないかと思います。森さんを抱きかかえるシーンは、外紙でも大きく報道されています。
関連記事。オバマの演説の全文。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/27/obama-begins-visit-to-hiroshima_n_10160172.html?utm_hp_ref=japan

一方で、終始付き添い、自分でも演説した安倍首相の存在には、強い違和感を覚えました。何故なら、これまでの広島と長崎での祈念式典の首相の演説は、TV放映ではその様子はカットされたものの、現地では大ブーイングだったからです。また外務省は、核兵器不拡散条約(NPT)への調印を頑なに拒んできました。加えて安倍内閣の横畠法制局長官は、核を使う事は憲法では否定されていないとまで言い切りました。被爆国なら、憲法がそれを明確に否定していなければ、それこそ憲法改正で、大量破壊兵器の開発、保持、不使用を明記すべきだくらいの意見が出て当たり前なのです。前記の被爆地の祈念式典の首相の演説でも、集団的自衛権を肯定する説明が行われ、被爆した国民の切なる願いである戦争の絶対放棄の気持が踏みにじられていました。安倍首相は日本が積極的に戦争に参加できる国にしたのです。これでは言葉と行動が真逆であり、本音と建前の使い分け、二枚舌が今回でも遺憾なく発揮されています。米国の大統領が広島に来たのは、安倍首相の肝いりがあったからではなくて、ひとえに岸田外相と、ケリー国務長官の努力によるものです。オバマを先導する栄誉は岸田にこそ与えられるべきです。安倍首相の過剰な関与と演出は、それが首相の本音ではないだけに、折角のオバマの広島訪問を茶番劇にさえしかねないものだったのです。
関連記事。
http://www.bbc.com/japanese/36396490
関連記事。オバマが4羽の折り鶴を資料館で寄贈。
http://this.kiji.is/108936323074688508?c=39546741839462401
関連記事。坪井氏、米国を責めていない。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016052701002168.html
関連記事。米国で広がる原爆投下は誤り。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201605/CK2016052702000115.html

ところでNHKBSのフランケンシュタインの誘惑という番組が、米国の原爆開発を取り上げました。ナチスが原爆を開発しているという情報を元に、米国が戦時中に核爆弾の開発を急いだが、終戦時にドイツにはその計画がなかったことが判明しました。しかし未だに日本とは交戦中だったので、開発はそのまま続けられました。またソ連との冷戦という新たな要素もありました。ロスアラモスでの実験が成功した後で、科学者側から原爆をどう使うかの問題提起が行われました。日本に終戦を促す為には、無人島でのデモンストレーションで十分だという一部科学者の主張は、研究所代表だったオッペンハイマーの、軍事的使用しか選択肢がないという意見具申で押し切られました。後日、彼も多少は後悔をしたようですが、そんな事で彼の悪魔の判断が許される訳ではありません。この番組では、日本の科学者が、科学者は自分の開発した技術の用途に関して無関心であってはならないと警鐘を鳴らしています。


450.誰の為の現実主義なのか。2016/5/29

テレ朝の「朝まで生テレビ」を、これまで私はあまり評価してきませんでした。少なからず社会通念から逸脱した論者が複数参加していることと、司会の田原が時々古い価値観を持ち出すのが、その主な理由でしたが、一方NHKを含む他局では、知的水樹に大きな疑問のある似非コメンテーターが跋扈し、妄言を繰り返す日本のメディアの惨状があるので、この番組も他局よりはましだと思わざるを得なくなりました。今月の放送では、前半がオバマの広島訪問で、これには特に大きな異論も議論もありませんでしたが、後半のトランプが大統領になったらという部分では、最後に小さな波乱がありました。

沖縄の軍属の殺人事件を、沖縄の議会や新聞が感情的に取り上げるのはおかしいと、元NHKの池田信夫が激高して文句をつけました。この老人の価値観は、新聞には圧力を掛ければ良いと言った作家の百田と同じものです。これがNHKの元解説委員のレベルだとしたら、日本のメディアが馬鹿にされ、報道の自由に問題があると指摘されても文句は言えません。見当違いの喧嘩を売られて、いつもクールな青木理が珍しく気色ばみ、県民の気持ちを考えるべきだと反論しました。また森本元防衛相も、何を勘違いしたのか、今回の事件は日米地位協定とは関係がないと言い始めましたが、これはカン違いで、現に政府内でも、日米間でも、地位協定が話題にされているのです。

自民党の山本一太は信念がどこにあるのか分からない口説の徒ですが、国際政治学者の三浦瑠璃も相変わらずで、毎回のように米国依存主義を繰り返しています。森本元防衛相も似た様なものです。それは彼らだけではなくて、漫画家の小林よしのりも、憲法学者の小林節でさえも、二言目には米国の軍事力、特に核の傘に依存しないと日本の安全は保障されないと言っています。彼らは、二言目には自主防衛は空想論で、現実を見よと言います。もしそれが本当なら、莫大な国連(含む国連軍)の費用を負担する必要もなく、むしろその分を米国に直接払えばもっと喜ばれるでしょう。しかも思いやり予算などいう国民を騙すようなネーミングを使う必要さえありません。単に防衛委託費とすればいいのです。

既に日本は、米軍基地の経費の7割を負担しています。この際はっきり傭兵の契約にした方が分かり易いだけましなのです。またここで一番大事なことは、そういう契約にすれば、日本は自国の防衛で主導権を持つことができるのです。傭兵であれば、どこの国と契約しても良くなり、相手がロシアだっていいはずです。日米の友好関係がベースであり、いわば日本は米国の善意で守られている。だから日本は応分の費用も負担するが、米国には文句も注文もつけられないということなのでしょうか。でもこの文句も言えないということこそが地位協定の本質なのであって、ゆえに日米安保は不平等条約なのです。しかもトランプが大統領にでもなれば、今までもそれがあったのかどうか実は良く分からない、米国の友情や善意はもはや一切あてに出来なくなるのです。トランプが大統領になれば、逆にそれは、ついに日本が米国から独立を果たすきっかけになるのかもしれないのです。

三浦の言うように米国が究極至高の存在であるのなら、何故自身は米国の市民権を取得しないのでしょうか。また米国に隷従するという事が、安全と引換に日本人のアイデンティティ、即ち魂を売り渡す事を意味するのに、なぜそう思わないのか。この点で、まともな説明を聞いたことがありません。特定の国への過剰な依存という、外国から見ればまことに不自然な国家間の關係を、現実論だけで説明しようとして、他の全ての見方や考え方を切り捨てることにそもそも無理があるのです。日本の現状を冷静にかつ客観的に見れば、今の自分たちの安全とちまちました経済的繁栄の享受と引き換えに、自分たちの子孫には、米国の属国という「現実」、即ち奴隷国家という負の遺産を残そうとしているのです。今の自分が安全で豊かな生活が出来さえすれば、将来日本が外国の奴隷になろうが知ったことかという身勝手な発想がそこには感じられるのです。

しかし彼らが空想的な理想論と蔑視する理念の中にこそ、本当に日本の未来にとって大事なものが含まれているのです。パンドラの箱の底に最後に残った「希望」のようなものです。それは余りにもかすかで、とらえどころがないものかもしれない。それは理想と言い換えても良い。真の民主国家(これまた空想だと彼らは言うでしょう)、個人の自由と平等と、外国とは対等な関係を保ち、国民が自信と希望を持てる国にして、それを子孫に伝えることの重要性を、本質的に超保守主義の彼らは理解しようとはしないのです。我々団塊前後の世代は、貧しさの中で刻苦精励して日本経済を立上げてきた。だから我慢にも苦労にも慣れています。でもそうした我慢の気持ちは、ゆとり世代を含む彼らにはないらしい。その結果、安直に他に頼ろうとします。その中には時の政府や軍部に全てをお任せして、結果300万人の国民が命を落とした太平洋戦争当時の国民の意識と何ら変わることのない、個人の主体性の放棄と、民主主義の否定が感じられるのです。

今のような保守的で既得権者の為の国家ではなく、より平等で自由な理想の国家を作る為なら、少なくも団塊の世代は、多少の不便、多少の貧しさ、安全保障上の多少の危険性を我慢することは厭わないと思います。子ども達に、自由で、平等で、安全で、しかも可能性のある国を残してやれるのなら、そんな事は苦労の内にもはいらないのです。朝生に出るような人達なら知的レベルは高いはずで、しかもそのほぼ全員が我々より若いのです。だからどうだという事ではありませんが、不思議な事に、頭が我々より柔軟であってしかるべき彼らに決定的に欠けているのは、実は日本の長期のビジョンなのです。若いのに、発想が画一的で、硬直的で、そして視野が狭い。ここでWTWに相応しい締めくくり方をすれば、それはそのまま安倍首相と官邸と、知的レベルでは朝生のメンバーにさえ遠く及ばない安倍内閣の閣僚達にも言える事なのです。


  451.内なるアルマゲドン。2016/5/30

昨日は朝まで生テレビ、略して朝ナマのお話をしました。今日は今夜も生でさだまさし、略して生さだのお話です。
関連記事。朝ナマ。
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/
関連記事。生さだ。
http://ameblo.jp/sada-masashi-official/theme-10089887247.html

私は若い頃は良く演奏会に行きましたが、殆どがクラシック音楽の演奏会で、これは音楽が唯一無二の趣味である家内の影響です。なおNY滞在中は、日本ではなかなか取れない音楽家の演奏が、しかも妥当な価格で聞けたのが大きなメリットでした。仲間内で毎週ゴルフをするしか能がない、多くの日本人駐在員を見て、なんてもったいないことだろうと思った記憶があります。

しかし、その後は生演奏とは殆ど縁がなくなり、その理由のひとつがチケット価格の高騰です。1万円前後が当たり前で、しかもそれはクラシックに限りません。一体今の若者はどうしているのだろうと、他人の財布ながら気になります。貧乏性の私など、CDを買えば繰り返し聴けるのに等と思ってしまいます。では言わゆるライブと、放送やCDとの違いは何なのでしょうか。なんで人は演奏会やスタジアム(ライブの試合)に脚を運ぶのか。それは出演者、或は選手と同じ時間を共有するからだと思います。リアルな演奏家や選手が目の前に実在しており、距離はあっても間を隔てているのは空気だけ。掛け声は別として、拍手という間接的な手段ではあっても、自分の意思をそのまま相手に伝えることができる。生だから話題もリアルタイム。目の前に、如何なる加工も編集もされていない、本物がいるという事に尽きると思います。

なおライブにいかない私が、それでもたまに行くのが、さだまさしの演奏会です。2週間ほど前に府中で演奏会があったので、10年ぶりにライブを見てきました。いつものように、トークが半分、歌が半分です。ツアーで演奏するのは10年ぶりという、天まで届が聞けたのは収穫でした。記念グッズとして、さすがにカレンダーで一年中さだの顔を見る気にはなれなかったので、意見には個人差がありますというタオルを買いました。さだはビジュアル系アイドルとして存在価値があるのではないのだから、そこははき違えたら駄目です。また締めのアンコールで歌われたクリスマスの歌は歌詞が良くできており、さだがこれだけ多くの日本人に支持されているのは、彼が被災者や社会的弱者に寄り添い、また徹底した平和主義の姿勢を貫いているからに他なりません。

話をTV番組に戻すと、生放送の魅力も、無加工、無編集で、リアルタイムである事に尽きます。嘘も言い訳も通用しない点です。だからニュース番組より、国会中継の方が遥かに価値があるのです。ライブ映像だから、嘘をついたり、取り消したりが出来ないし、籾井がその汚い手で、政権に有利なように後で情報を編集することが出来ないからです。奏生放送に価値と魅力があるのも、この無編集でリアルだという点だと思います。なお今回取り上げている生さだは、視聴者の葉書を読み上げる番組で、深夜ラジオDJ番組のTVバージョンです。

ところで一昨夜の生さだでは、オバマの広島訪問を取り上げていました。さだは被爆地長崎出身なので、複雑な心境を吐露する場面もありましたが、オバマの訪問は好意的に受け止めていました。そこでこう考えました。いま米国では若者を中心に原爆使用は間違っていたと考える人達が増えています。それでも未だ投下を正当化する人達がおり、その唯一の根拠が、戦争を早く終結させることが出来たのだから、日米双方の犠牲を少なくすることが出来たというものです。さすがに日本では30万人の一般民衆の犠牲者が出たのだからこの論理には無理があるし、地上戦ならそれほどの死者は出なかったと思いますが、米軍が本土決戦を恐れた理由だけは、日本人としてきちんと把握しておく必要があると思います。

なぜ米国は本土決戦を避けたのか。それは日本人が官民(?)挙げて、一億総玉砕などという愚かで、しかも破滅的なコンセプト、いわば自殺の美化に酔い痴れていたからではないのでしょうか。米軍がグアムの基地から連日のように本土の爆撃を繰り返したのは、今のIS攻撃でドローンを使っているのと同じではないか。即ち地上戦、肉弾戦をできるだけ避けたいという気持ちの表れではないのか。無論その背景にはノルマンディーの上陸作戦の苦い思い出もあるでしょう。そのある意味臆病さが原爆投下にもつながったのではないか。日本では先の見通しもない、自殺願望にも似た精神主義が独り歩きして日本を破滅に導いた。そこに、なるべく自分の手は汚したくない、自国民の血は流したくないというある意味米国の臆病さが、原爆という非人道的な武器の使用を正当化した。この二つの要素が重なって原爆投下につながったのではないでしょうか。即ち日本がもっと冷静な判断をして(それが無理だったにしても)戦争終息の方向に具体的に動いていれば、30万の民間人は殺されずにすんだのではないかということなのです。相手を非難する時には、自分にも非がなかったかどうかを同時に考えないと、悪口の応酬で終わってしまい。本当の問題解決にはなりません。そういう意味で、未だに日本に欠けているものが、大戦の総括なのです。

皮肉な事に、日本人の命などなんとも思わないという点では米軍も日本軍も全く同じ立場だったように思われます。この人命軽視(日本の軍部は双方の、米軍は日本人だけの)こそが大戦の本当の原因だったのではないか。人は恨むな、戦争を憎めとよく言われます。でも人の心に棲む悪魔や狂気こそが大量殺戮の原因であって、その悪魔の正体こそ全体主義とナショナリズム、即ち広義の自己中心主義に他ならないのではないか。それは300万のユダヤ人を虐殺したアイヒマントとヒットラーを今更引き合いに出すまでもありません。それが現代のテロ組織についても言える事ではないか。しかも、未だ具体的な行動には出ていなくても、中国や北朝鮮の政策の陰に、同じようなにおいを感じるからこそ、世界は彼らを警戒しているのではないか。これらの全てに共通するものが、個人の人権の否定であり、そうなると今度は安倍政権も、その例外だと確信を持って言えなくなるように思うのです。

これという根拠がある訳ではないが、神がいるのであれば、神が私の手を使ってこういう文章を書かせているのではないかと思う時があります。しかもそう言う代筆のライターが他にも大勢いて、私はその一人に過ぎないのではないか。SF映画や、漫画でよく取り上げられる題材に、善と悪との戦い、或は神と悪魔の最終戦争、即ちアルマゲドンというものがあります。でもそれは実際の熱い戦争の前に、保守的な思想の持ち主対、リベラルな思想の持主の対立という形で始まっているのではないか。その端的な例が米大統領選です。しかも思想を異にする人間同士の争いに発展する前に、同じ一人の人間の心の中で、二つの思想がせめぎ合うという形で、すでにそのアルマゲドンが事実上始まっているのではないかと思う事があります。

ところで脳神経学者の中野が、デモでは政治は変わらないと言いました。一方で、デモに定期的に参加する主婦を取り上げた番組(BS朝日)では、デモですぐに何かが変わる訳ではないけれど、何もしないでいることが出来なかったからだと言っていました。そして乳母車を押して参加しているのも、子供に親の姿勢を見せておきたいからだと言っていました。中野に限らずIQの高い学者に良く見られるのは、そんなことをしても効果が無いのは分かっているから、私はそういう事はしないという説明です。でもそこには止むにやまれぬという気持ちは感じられません。即ち人間性の、或は人間的な感情の欠如が感じられます。でも世界を動かすのは、そういう素朴な人間的な感情なのです。IQは高いが、EQはそれほどでもないという一つの典型だと思うのです。

話を再び戻して、日本の軍部の価値観では兵士も民間人も共に消耗品であって、特攻隊を例に出すまでもなく、自爆テロを繰り返すISに共通するものはないでしょうか。某神社は日本のために戦って命を落とした人達の慰霊の為の神社なのか、それとも単に軍人を祀った神社なのか、私には良く分からないのです。そして敢えて言わせて貰えば、後者ではないかと思う理由のひとつが、境内に戦争博物館があることです。慰霊の施設ならそんなものはいらないはずです。また異例なら、戦没者を含めた祭祀を定期的に、また盛大に行われなければおかしいと思います。A級戦犯の合祀に端を発する性格付けの曖昧さがあるからこそ、議員の参拝にアジアの各国が反発しているのではないか。何故なら施設の目的が良く分からない以上、彼らのしていることは、軍国主義への礼賛を想起させるからです


452.常識2.0の勧め。2016/5/31

いまの日本に最も必要なものは何かを考えてみました。既得権者を擁護し、平等の理念から掛けはなれた経済的格差が当たり前となり、超保守のタカ派の政治家が中道であるかのように振る舞う。いつどのような形で日本を危険な方向に導くか分からない右傾化した雰囲気を政治に秘めた日本の現代社会に、どう向き合えば、自分たちの生命と生活を守ることが出来るのでしょうか。

その方法は、無機的な知識の累積に過ぎないIQの増加でも、そこに一般教養を加味しただけのEQでもなく、上手な言葉は思いつかないが、高次元の良識、いわばコモンセンス・バージョン2、常識2.0が必要なのではないかと思います。しかもそれは根気と時間があれば、誰にでも習得可能なのです。知能指数や、教養主義でないところがポイントです。というのも常識なら誰もが一応は備えており、特に日本人はレベルが高いからです。常識がべースになっているから、声を荒らげることなく討論が出来るというメリットもあります。価値観の違いがなければ民主主義は成り立たないし、意見と、選択の自由は基本的人権でもあります。一方意見の違いがあっても、対等の立場で共通項を探し、合意や譲歩や納得を得る努力を放棄してしまえば、それもまた民主主義ではなくなります。

字義的に無理があるのを承知で敢えて言えば、常識とは人間としての基本的で普遍的な価値観と言い替えることも出来ます。ここまで解釈を拡大すれば、外国の人達とも会話や議論が出来るようになります。考えてみてください。戦時中に、日本の国民が自分の常識で判断して意見が言えていたら、どうなっていたでしょうか。特攻隊で死ぬのは嫌だと言わなかったか。誰だって命は惜しいと言わなかったでしょうか。現代の例なら、残業手当もなしに働いて月給が30万。でも公私混同の知事は楽をしている上に月給200万。どこかおかしいのではと言いたくもなるでしょう。それは我々の常識が、それはおかしい、不平等だと告げているからです。議会制民主主義を無視して、無理やり押し通した安保法制だって同じことです。戦時中に、国民が自らの常識に従って意見を言っていたら、あれほど悲惨な結末にはならなかっただろうと思います。終戦に向けた国民運動が起きて、米国に原爆を使わせる口実を与えることもなかったでしょう。

ではどうすれば国民がコモンセンス2.0を持てるようになるのでしょうか。それは至って簡単なことなのです。なるべく多くの情報に接すること。ただそれだけです。しかし、難しい部分もあります。それは人間というものが、自分が見たいものを見て、聞きたいものを聴く傾向にあるからです。いかに事実であっても、現在の自分の立場に不利で、それゆえ不快である情報には接したくないのです。これは国民が正気を保とうとすれば、それなりの我慢や忍耐力も必要だということを意味しています。端的に言えば良薬は口に苦いのです、でもその壁を乗り越える事が、自分と子孫と自分の国を良くすることにつながるのです。常識1.0と2.0の違いは、一時的に不快な情報でも併せ飲めるかどうか、それともあくまで不愉快な情報をスルーするかのどうかの違いなのです。

私は公平な議論の機会さえあれば、民主主義が達成出来ると期待していました。おそらく保革を問わず、今の議員たちの考え方も同じようなものだろうと思います。でも実際問題として議論には大きな罠があります。それはワイマール憲法を骨抜きにして、ドイツがヒットラーの独裁国家を許したことで、民主的な手続きが導いた独裁政治だったからです。最近の例では安保法制がありますが、与党としては、議会の多数決という民主的な手続きに従ったまでと開き直って、それで済ませているのです。即ち議論が常に正しい結露に導いてくれる訳ではないということです。

顕著な場合、議論が議論の体を成さない事があります。我々はそれを安保法制の国会審議で目の当たりにしました。いくら野党が質問しても、閣僚は全く同じ(自称丁寧な)答弁を50回以上も繰り返し、国会の審議を、野党だけでなく、それを見守る国民さえも愚弄する茶番劇に変えてしまいました。仮に意図はそのままでも、説明が毎回同じだという事は、相手を説得するつもりはなく、単に討論時間数を稼ぎたいだけという、、議会制度を馬鹿にする行為だったのです。質問に答えるのが議論であり、応えなければ議論ではないのです。真に相手の同意や納得を得たいというのであれば、情報を追加し、手を変え、品を変えて説得に努めるべきなのに、そのような姿勢は安倍政権には全く感じられませんでした。

議論には論理的な思考と、表現能力、相手に共感する能力という、かなり難易度の高い条件が必要になります。それがないと単なる口論になってしまいます。しかし私はそういう条件まで、全ての国民に要求する事には無理があると思っています。生来口の重い人だっているでしょうし、気が弱くて、その場の雰囲気に流される人もあるでしょう。そもそもいまのような間接的な民主主義では、私達に許されている意思表示は投票行動しかないのです。だから日本の政治は、自らの常識と情報を元に、個人個人がどこまで正しい政治的な判断が下せるかどうかに掛かっているのです。議論という過程を経なくても、じっくり、しっかり考えて、後で自分が後悔しないような投票行動が取れればそれでも良いのです。それでも議論は、発表するために自分の考えを整理し、論理の筋道をつけるという点で有効な方法であることに変わりはありません。議論で重要な事は、自分の意見が正しいかどうかを客観的に評価する機会であると同時に、他人の意見も聞いて、それが何故なのかを理解する機会でもあるのです。

我々は自分と子孫を守る為に、柔軟で多面的な思考能力を持ち、またハイレベルの常識を持つように心掛けなければならないのです。そしていかに世間の大勢がある方向に傾いていても、一度は敢えてそれを疑い、自分の常識(或は良心)に訊いてみる。そういう習慣がいつか必ずあなたを救う時が来るでしょう。そういうささやかな批判精神は保険であると同時に、それが日本を破滅の縁から救う唯一の方法でもあるのです。


453.立憲主義。2016/6/1

 昨日は内閣不信任が提出されるという重大な局面、しかも国会の会期末。相撲も野球もないのに、なぜかNHKは国会中継をしませんでした。週刊誌によれば、選挙までは政治報道を慎めと言う幹部からのお触れが回っているという話さえあります。国民から料金を取って、政府の宣伝だけしかしないというのでは、NHKの存在そのものが違憲という事になります。国民の知る権利、報道の自由への重大な干渉です。その代わりに7時のニュースで延々と流したのが、少なくも良識を備えた国民にとってはどうでもいい清原の判決のニュースでした。

心のよりどころを失った弱い性格のタレントが、覚せい剤に手を出したというだけの、これまで繰り返されてきた、事件というよりは不祥事の一つに過ぎません。NHKはお茶の間の涙でも期待したのでしょうか。無理であざとい演出が目立つ報道の茶番でしかないと思います。しかし国営放送がこのような意図的な報道を繰り返すようになると、これは日本のジャーナリズムにとって極めて重大な事態です。もはやナチスの宣伝と紙一重です。安倍・籾井コンビの時代錯誤もいい加減にして欲しいものです。

清原の場合、執行猶予になるのは最初から分かっており、実際そうなりました。しかも清原は現役時代から番長というあだ名が付くほどの悪童で知られていた。優等生とは程遠い存在だったのに、それが何故いま急に優等生であったかのように報道され、悲劇の英雄に祭り上げられているのか。そこには他のより重要な情報に報道の時間を割かないようにするための、演出の意図がないと断言できるのでしょうか。より悪質な野球賭博の報道を隠蔽し、プロ野球のイメージを回復したいという意図はないのでしょうか。

他方、誰が見ても真っ黒な甘利が不起訴という状況で、国民に日本の検察の正義を信じろと言うのは無理です。ここでもNHKは賛否両論を報道するという見当違い、或は悪平等を演出しました。これではそのうちに、殺人事件が起きても、加害者、被害者双方の意見を報道するようになるのでしょうか。神ならぬ身なのにNHKが報道の公平性の名のもとに、国民の視点も民意も置きざりにしている事実をどう説明するつもりなのでしょうか。

甘利の事件は誰が見ても無理がある。実際に現金の授受があったからです。だから不起訴を批判する堀田力の主張の方が分かり易い。その不自然さは、政権が検察に圧力をかけたのか、または検察が政権に遠慮したと思われても仕方がないものがあります。しかも立件できない理由が振るっています。それは、斡旋利得は永田町では日常茶飯事であって、余程強く斡旋しない限り立証が難しいというものです(ハフ・ポストから)。それにつけても最近気になるのは腐敗とまでは言わないまでも、検察や警察を含めた行政全体の質の劣化です。最近では事実の報道はあっても、行政への批判は殆ど見られなくなりました。行革の話題も聞きません。これは河野太郎を安倍政権が取り込んだ成果なのかもしれません。

報道の右傾化、権力寄りの姿勢が示しているのは、特権化し硬直化した安倍幕府の独裁体制です。これは日本が戦後の民主政治で最大の危機的状況にあるということです。暗黒の時代に私達が放り込まれているという現実を、全ての国民がどれだけ正確に認識できるかに、日本の将来が掛かっています。

ところで以下は憲法学者、樋口陽一のコラムです。短いので今回は全文を引用させて頂きます。なお小生のエッセイ444号、樋口陽一と小林節も併せてお読み頂ければ幸いです。

2016年5月30日付朝日新聞「人生の贈りもの」より

ダサくても声あげる腹決めた

-「立憲主義」について、あらためて教えて下さい。

私のイメージを、シンブルにお話ししましょう。民主主義を一方向に引っ張る力とします。自分が政治を任せたい候補に、有権者は投票しますが、それも行き過ぎれば、「多くの票を得たのだから何をしてもいい」と言い出す政治家が出てくる。そこに「こういう約束事、ルールがあるぞ。ちょっと待て!」とブレーキをかける。そんな反対方向の力が立憲主義なのです。
私は既に1973年に「近代立憲主義と現代国家」という本を発表していました。70年代前半、時代は国内外ともに民主主義に向かっていて、立憲主義という言葉を意識的に使う学者は少なかった。近頃は「立憲主義が軽んじられている」として、逆に注目されているけれども。

-憲法って何でしょう。

私の亡き親友、作家の井上ひさし君の言葉を紹介しようか。仙台一高時代の同級生だったんだ。彼の座右の銘は「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」。ひさし君が2006年に「子どもにつたえる日本国憲法」という本で、こう書いています。
国民が主権の憲法は、国民が国の基本的な形を作るために出した、いわば「政府への命令書」。だから国や政府の好き勝手は許されない。「憲法が、国家の暴走を食い止めている」と。

-現在も「立憲政治を取り戻す国民運動委員会」をはじめ、市民活動も精力的ですね。

色んなタイプの学者が世の中には必要だと思うのですが、私個人は、憲法学者が国会前で、ミカン箱の上で演説するようなことは、本当は「ダサい」と思っているんです。恥ずかしいのではない。政治に直接、意見を言うより、研究を通じて、市民に行動してもらうことが、学者の仕事だと考えていますから。
しかしダサいことも、やらなければならない局面が来たので、腹を決めたわけだ。

-昨年5月3日、横浜市での憲法集会では、3万人の前でマイクを握られました。

半年ほど前に世を去った、もう一人の親友の言葉からスビーチを始めました。仙台一高の1学年先輩にあたる、俳優の菅原文太さん。僕にとっては「文ちゃん」だ。亡くなるーカ月前、彼は沖縄知事選の応援演説でこう訴えた。 「政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと」

-シンプルで深い言葉。

ひさし君も文ちゃんも政治や憲法を語る「自分の言葉」を持っていた。仙台一高は国語学者の大槻文彦が初代校長。後に民本主義を唱え、大正デモクラシーの中心人物となる吉野作造が学んだ学校ですからね。自由とは、個人とは何か。そんなことを、少し前まで子どもだった少年に考えさせる学舎だった。

ひぐち・よういち 34年仙台市生まれ。東京大学・東北大学名誉教授。パリ大学名誉博士。


454.人権、アベノミクスの限界。2016/6/2

 5/30のNHKの特番、廃炉への道を見ていて驚愕したのは、フクシマには、近づけば30分で死に至る、高放射性残滓(デブリ)が600トンもあり、未だに故郷に帰れない人が9万人もいるという事実です。最も暑いと予想されるこの夏の電力消費でさえ、問題はないとと言われており、それでもなお原発再稼働を要求する安倍首相の主張は、民意からも、常軌からも逸していると言わざるを得ません。

知日派、王毅外相の日本たたきで、「日本は南シナ海問題を大げさに騒ぎ、緊張を宣伝している。G7(主要国首脳会議)は世界経済を論議する場なのに、日本はそれを利用し、ケチなソロバンをはじき、小細工をした」というのは、いかにも感情的であり、度を過ぎていますが、私はそのすべてが間違いだとも言いきれないような気がします。特に後半部分です。

昨日の朝日新聞がトップで、政府が沖縄の基地関係の助成金を、地方行政を飛び越して自治会に給付するという記事を報じました。私も自治会について最近少し勉強しましたが、自治会というものは基本、任意団体であって、国や地方行政から手当てが出る訳でもなく、まして国政と直結するような行政組織でもありません。そんなせこい方法で、住民を一本釣りしたいという意図でもあれば、もはや現金(しかも税金)を有権者に直接配る特定政党の宣伝活動と変わるところがありません。それこそ憲法違反もいいところです。安保法制を見るまでもなく、政府は自分の都合さえ良ければ、平気で法律さえ踏みにじっています。法治国家などということはどうでもいいんですという磯崎補佐官の言葉は、自民党の本音に他ならないということです。何度でも言いますが、私達は国民も法律も常識さえもどうでもいいと考えている最悪の政権下にいます。これでは絶対に国民は幸せになれるはずがありません。それだけは断言できます。なぜなら彼らが顔を向けているのは国民ではなくて、自分たちを含む権力階層だからです。
関連記事。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12388438.html
http://digital.asahi.com/article_search/list.html?keyword=%E8%87%AA%E6%B2%BB%E4%BC%9A

今、私の最大の関心事は人権です。目と耳を疑うような残虐で卑劣な事件が世界中で起きています。そういう理不尽に、人類はどう対処すればいいのでしょうか。三葉虫は2億年も生きていましたが、環境の激変で全滅しました。過去5回、地球は生命の大量絶滅に遭遇しています。またそれが今後起きないという保証はどこにもありません。人間が知性と社会性を獲得してから未だ2万年足らず。恐竜でさえ数千万年の歴史があるのにです。でも今のままなら、例え10万年でも現在の人類が栄えるとは到底思えない。理由は、現代の人類には残虐嗜好と、自滅願望があるとしか思えないからです。もし長期間、人類が存続できるとしたら、それはどこまで人類が(種として)知的で冷静で有り続けることが出来るかに掛かっているのです。ところがそれと真逆の、侵略と迫害と弾圧と残虐と狂気が、地球の至ることころで魔手を伸ばしている。我々自身が、真剣に個人や人間の価値を考え直さない限り、人類も地球も破滅を免れないと思います。
関連記事。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6202894
もう一つ。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/30/rape-uttar-pradesh_n_10214978.html?utm_hp_ref=japan
関連記事。日本も29万人が奴隷状態。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/06/460029.php

なお今日の朝日の朝刊に、アベノミクスの問題点を分かり易く解説している記事がありましたので、紹介します。

朝日新聞6/2朝刊から
「アベノミクス限界認めよ」の一部。

朝日新聞経済部長 小陳 勇一(こじんと読むらしい)
… 安倍政権になり、株高と円安で大企業の業績は上向いたが、貿金の水準は期待ほど伸びていない。GDPの6割を占める個人消費は低迷し、景気は足踏み状態だ。
最大の理由は、中間暦が細って低所得層が広がり、家庭の消費の力が想定以上に弱まったことだ。
税率を8%にした14年4月以嘩、家計がーカ月に使うお金が前年を上回ったのは3カ月しかない。
首相は「アベノミクスのエンジンを最大限ふかす」という。マイナス金利政策まで導入した金融緩和が効かないなら、政府がお金を使って景気を底上げする考えだ。
しかし整備新幹線の建股加速など従来型の公共事業に頼っては、空ぶかしに終わりかねない。
経済の強化には国民全体の所得底上げが必要だ。首相は同一労働同一責金の実現で底上げを図るというが、ここは「アベノミクス」の限界を率直に脇め、再分配政策を強化するなど、紐済政策を抜本的に立て直すべきではないか…。


455.堪忍袋の緒は切れ放し。 2016/6/4

・非正規社員増大が招く消費低迷。
消費増税を延期しても消費は拡大しないという意見が出ています。だから増税すべきだというのならそれは間違いです。なぜなら消費増税という政策そのものが間違っていたからです。財政改善のあるべき姿は、行政改革でODA等の無駄な出費を減らし、内需拡大で税収の増加を図るべきだったのに、某次官とノータリンの某首相が、安易な増税で対応しようとした結果、正統的な政策が全く実施されず、そこに金融政策だけ架空の景気を演出したので、ファンダメンタルズがちっとも良くならず、金余りのくせに、デフレからも脱却できず、財政も改善していないのです。

・陸上自衛隊の新エンブレムに刀。
なんでそんなバカげたことを。これでは平和維持軍ではなく、殺戮部隊です。三島由紀夫でもあるまいし、将校には軍刀でも持たせて、切り込み隊でも組織するつもりですか。こうした僅かな意識のずれが積み重なり、最後にはとんでもないことになるのです。極右自衛隊反対。

・舛添の釈明会見。
視察先の半数以上が美術館。しかも事前に都庁から通知して準備を整えさせる。公務とどんな関係があるのか。舛添を含めた歴代知事は、一体全体何様のつもりなのでしょうか。この状態をそのまま放置するようでは、都議会自民党の存在理由も追及されかねません。そもそも都議会議員は既得権化している上に、議員の質が低く、数が多すぎます。自民党は、リベートを取っていることが明白なのに、訴追もされない議員、或は無制限な公私混同をしても恥じることのない、悪徳政治家を育成し擁護するための反社会的な組織に成り下がってしまったのでしょうか。社会正義も、平等や個人の権利もない独裁国なら、朝鮮半島の某国と変わるところがありません。国民も都民も、ぬるま湯の温泉だと言われて、その実浸かっているのは肥溜め=失礼、なのに気が付かない。或は知っていてもそれを認めたがらない。政治と行政の分野では=しかも最近暴かれているように巨大企業でも、誰の眼にも明らかな不正がいくらあろうとも、開き直りと言い訳で押し切ることが出来るという風潮を作ったことは万死に値する行為なのです。それなのに、国民には法律を守れとどの口で言えるのでしょうか。この現象に共通するものが、独占や寡占が招いた特権と独裁です。そこでは警察も検察もなく、憲法を頂点とする法律さえ機能を停止する治外法権です。自民党議員なら何をやろうとおとがめなし、臣民は議員バッジにひれ伏せとでも言いたいのでしょうか。そのくせ腹がすいて、コンビニでパンを盗んだ老人は即逮捕です。こういう暗黒政治の状態は、半数近い国民が投票しないという政治的無関心が招いた状況でもあります。いまほど、日本から脱出したいと思ったことはありません。どんな辺鄙な土地でも、自由と平等と正義がある国なら、今の日本よりはずっとましです。あの危ない米国でさえ、腐敗した日本よりは何倍もましです。私はいま心底怒っています。堕落し切った政党と、ぬるま湯を好むがゆえにそれを無批判に受け入れている国民に対してです。




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