「オンライン・オピニオン」
「ウクライナ戦争(前編)」
「ウクライナ戦争(後編)」
「大企業の罪」
「芥川賞」
「N党をなんとかせよ」
「鹿児島県警にも百条委員会を」
「個の力」
「ハト派の仮面を被ったタカ」
「柳の下のどじょう」
「大学は何のため」
2611.ウクライナ戦争(前編)8.19
ロシアのウクライナ侵攻に関して、一般的にはロシアの一方的な侵攻という理解で、ロシアが侵攻を止めさえすれば紛争は終る、一方的にロシア側に非があるという見方である。と同時に、誰がロシアをなだめて(というよりいさめて)、事態を収拾するのかという議論には、未だに至っていないように思われる。むしろ論点は、プーチン(ロシア)を過度に刺激しないで(核のボタンを押させずに)ウクライナをどこまで支援できるかという一点に集約されている感がある。しかも戦闘が長びき、支援にも疲弊が見られる。
しかしこれではにらみ合いが続くだけで、停戦に結びつかない。問題解決のためには、状況を再整理する必要がある。
私の個人的な理解では、まずウクライナの国内では、以前から親ソ派と、反ソ派に分裂して小競り合いが絶えなかった。しかも政権自体、不正の噂も含めて、到底安定したものとはいえなかった。
そこに、NATO加盟の話が持ち上がり、合意されれば隣にNATOの大国が誕生するという、ロシアにとっては看過しがたい事態になった。そこで、ロシアはNATO加入を阻止するために、またウクライナ国内の親ソ勢力を支援する為に、軍事力で威圧しようとした。おそらく無抵抗を期待していたのだろうが、予想外の激しい抵抗にあった。
これはソ連が軍を動かしたことで、それまでばらばらだったウクライナ国内が一致団結したからである。国土を奪われるという危機感が促した団結だった。その後の経緯はご存じの通りだが、大義が必要になったプーチンは、エカテリーナ女帝の時代、要は大ロシア帝国の幻想を持ち出した。
収拾がつかなくなった現状を理解する為に、以下の書籍を紹介したい。
「ウクライナ戦争はなぜ終わらないのか、デジタル時代の総力戦」高橋杉雄著、文春新書。
ウクライナ侵攻を客観的に分析し、和平に持ち込むのはどうすればよいのか、ウクライナ侵攻から、我々日本国民は何を学ぶべきかのヒントになれば幸いである。
まえがき
ロシア・ウクライナ戦争は、ロシアが、隣国であるウクライナとの問題について、外交的解決を蜂起し、暴力をむき出しにして一方的に侵攻することで始まった。冷戦が終結し、21世紀に入ってから20年を経て、グローバリゼーションが進展し、国家間の相互依存が深化しているこの時代に、国連常任理事国を務める大国の政策選択肢として、他国を侵略する形の戦争が選択されたことは、世界中に衝撃を与えた。
開戦からはすでに1年以上の時が過ぎてしまっている。2023年5月現在、ウクライ ナが反攻の準備を進めているとされるが、戦争全体を見ると、終息の気配はいまだに見いだせない。この戦争はなぜ終わらないのか、あるいは終わるとすればどのような終わり方があり得るのか、世界中の人々が答えを見いだせない中、戦争は長期化への道を進みつつある。
「ロシアが戦いをやめれば、戦争は終わる。ウクライナが戦いをやめれば、ウクライナがなくなる」という言葉があるとおり、ウクライナは国土をすべ奪回するまで戦いをやめないだろう。しかし、ウクライナが国土を奪回したとしても、それが直ちに戦争終結を意味するわけではない。本書で詳しく分折しているが、ロシアの戦争目的に照らしてみれば、 ロシア軍がウクライナ領内から撃退されたとしても、それだけでは戦争を終わらせる理由にはならないからである。そうなっても、ロシアは都市爆撃を維続しようとするであろうし、隙があれば再侵攻を試みる可能性すらある。それはなぜなのか。
一般論として言えば、戦争を望む人はほとんどいない。にもかかわらず、なぜこの戦争は始まり、そしてなぜ柊わらないのか。そして終わるとすればどのような道があるのか。それを考えていくのが本書の目的である。
ひとつの戦争としてみると、ロシア・ウクライナ戦争には、「古さ」と「新しさ」の同居を見て取ることができる。「古さ」としては、グローバリゼーションが進んだ現代に、まるで帝国主義時代のように大国がむき出しの武力を行使して他国を侵略することであったり、戦場で展開している第1次世界大戦を思い起こさせるような塹壕戦や、第2次世界大戦を思わせるような戦車を中心とする重火力戦闘があげられる。「新しさ」としては、スターリンクを代表とする、宇宙空間やサイパー空間にこの戦争が広がっていること、あるいは SNSを通じて様々な情報が拡散していることが挙げられる。(中略)
米中対立がなければ、この戦争に至る歴史の道筋は大きく変わっていただろう。場合によってはロシア・ウクライナ戦争そのものが起こらなかったこともあり得る。また、米国は、あくまで対中戦略を優先させながら、ウクライナに多大な支援を行っている。ロシア・ウクライナ戦争はヨーロッパにおける局地戦に過ぎないが、その意味で、グローバルな大国間競争に埋め込まれた形で展開しているのである。
「新しさ」を感じる側面には、現代社会の人々の生活パターンがかかわっている。この戦争では、交戦国の政府からの公式発表や、戦地で取材する大手メディアからの報道だけでなく、現地で戦う人々からのSNSを通じたダイレクトな情報発信が世界に影界を与えている。(中略)
ロシアもウクライナも、国内のリソースを動員して、「総力戦」に近い形でこの戦争を戦っているのである。しかし、グローバリゼーションが進んだ現代においては、こうして総力戦を戦っている両国も、国際社会から切り離されていない。むしろ国際的な空間で展開している大国競争や人々の日々の生活に埋め込まれた形で、この戦いは続けられている。
何より特徴的なことは、この戦争の帰趨が戦場だけでは決まらないことである。戦略論の中では、安全保障政策は軍事に限定されないという意味でDIMEという言葉が使われることがある。DIMEとは10セント硬貨を指す英単語だが、ここでは、外交(Diplomacy)、情報(lnformation)、軍事(Military)、経済(Economy)という四つの政策手段を総祢する意味で使われる。つまり、安全保障政策を進める上では、軍事だけでなく、外交や情報や経済も組み合わせなければならないという意味である。
この戦争においては、開戦後も、これらの手段がすべて使われている。ウクライナが積極的に展開した外交は、米欧諸国からの武器援助を拡大させた。G7広島サミットにはゼレンスキー大統領が電撃出席し、F16の供与と訓練の支援を取りつけるとともに、インドなど、「グローバルサウス」と通称され、この戦争では米欧と一定の距離をおく国々の首脳たちと会淡した。ロシアも、中国などとの関係強化のために外交を積極的に展開している。情報も、ウクライナとロシアの双方が、自らの正当性をアピー ルするために発信されている。経済的手段も、ロシアの継戦能力を削り取るために実行されている,日本では、特に外交や経済を軍事と対立的な概念として捉えがちだが、この戦争では、開戦後も外交・情報・経済もそれぞれに重要な役割を果たしているのである。(中略)
そのうえで終章として、日本の安全保障への影響を論じた。ロシア・ウクライナ戦争がはっきりと示したことは、戦争は始まってしまうと終わらせることが難しいということである。日本を取り巻く安全保障環境の厳しさを考えると、戦争を起こさせないこと、すなわち抑止力がこれまで以上に重要になってきたということを、この戦争は教えてくれている。せめて自分たちの周りでは戦争を起こさせないこと、それを重要な政策目標としていく必要があろう。
コメント:以下次号。
関連記事:朝日新聞(8.18)社説「戦争起こさぬ主権者の責任」
https://digital.asahi.com/articles/DA3S16013471.html?iref=comtop_Opinion_04
関連記事:安保理、2紛争首脳会合へ。ガザとウクライナ。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6511010
2612.ウクライナ戦争(後編)8.20
「ウクライナ戦争はなぜ終わらないのか」高橋杉雄の続きです。
(前略)
あらゆる戦争は、それぞれに特徴を持つ。1991年に起こった湾岸戦争と、2003年に始まったイラク戦争は、戦域も主要な交戦国も同じである上、わずか10年あまりの時 間差しかないが、その性質は大きく異なる。
まず第1に、冷戦期の地域紛争との比較である。(中略)2001年の9.11テロ事件以後の「テロとの戦い」の時期を経て、ある意味一巡するような形で、再び大国間競争の時代が始まった。ロシア・ウクライナ戦争が世界に見せつけているのは、大国が組織的計画的に行う戦争が、9.11テロ事件をはるかに上回る恐ろしさと暴力性を持つことである。こうした戦争としては、冷戦期にもベトナム戦争や朝鮮戦争などが起こっている。ロシア・ウクライナ戦争を、そうした冷戦期の大規模な戦争と比較してみると、かなりはっきりと類似点と相違点を見いだすことができる。
まず類似点として言えることは、核超大国同士の相互抑止の影響である。冷戦期は、米ソの相互核抑止が成立しており、核戦争が始まればお互いに壊滅する「相互確証破壊」と呼ばれる状態にあった。そのため、米ソが直接戦った場合に、その原因がどうあれ、人類滅亡に至るほどの戦略核の撃ち合いにエスカレートすることが不安視されていた。しかしながら、米ソ双方ともに、冷戦期に地域紛争への介入そのものを自制したわけではない。米国は朝鮮戦争やベトナム戦争を戦ったし、ソ連もアフガニスタンに侵攻している。
これらの戦争の重要な特徴は、片方が介入しているとき、もう片方は直接介入を回避したことであった。朝鮮戦争やベトナム戦争に際し、ソ連は北朝鮮や北ベトナムを支援したが、ソ連軍の直接参戦は行わなかった。ソ述のアフガニスタン侵攻に際しても、米国はアフガニスタン国内のムジャヒディン・ゲリラを支援したが、やはり米軍の直接介入は回避した。こうした「介入の非対称性」は、米ソが直接した場合に核戦争に至るリスクが あったことが一因であったといえる。そうしたリスクを避けつつ、対立相手が地域紛争で勝利することを阻止しようとすれば、自らの直接介入ではなく、軍事支援などの間接介入にとどめるしかなかったのである。
ここまで書けば明らかだと思うが、同じような図式はロシア・ウクライナ戦争でも観察することができる。ロシアがウクライナに軍事侵攻を行ったのに対し、米国は直接介入を控え、ウクライナに軍事支援を行うにとどめており、冷戦期と同様の「介入の非対称性」を観察することができる。(中略)
一方、冷戦期との相違点は、米国にとってヨーロッパ戦線は対中戦略上「第二戦線」でしかないことである。冷戦期において、ソ連は米国の最大の潜在敵国であり、ヨーロッパこそが対立の主正面であった。しかし、現在では米国の主要な戦略課題は中国の台頭であり、ロシアではない。(中略)
このように、米国とロシアの関係が、グローバルな超大国同士の対立であった冷戦期の米ソ関係とは質的に異なることから、ロシア・ウクライナ戦争は原則的に局地戦であるといえる。(中略)
米国が介入しようと、NATOが介入しようと、あるいは核兵器が使われたとしても、戦場がウクライナ周辺に留まっている限りは、それは定義上「世界大戦」ではないからである。
仮に「世界大戦」になるとすれば、それは米軍の軍事介入に伴い、極東・東アジア方面でも戦端が開かれたときであろう。
以上の前提で、プーチン大統頷が核兵器の使用を考えるとすれば、(中略)大まかに言えば以下の二つの状況においてであろう。ーつは、「核兵器の使用によって決定的な勝利を得ることができる」ときであり、もうーつは、「核兵器の使用によって決定的な敗北を回避する」ときである。
しかしながら、開戦直後ならまだしも、全体の戦局が膠着している現在、前者のシナリオはなかなか考えられない。前線ないし都市で核兵器を使用したとしても、ウクライナが抗戦を諦めるとは考えにくいからである。ウクライナ国内においては、既にマリウポリやバフムトは核攻撃を受けたのとほとんど変わらないような破壊を受けており、新たに別の都市が同じような破壊を受けたとして、それでウクライナ側の抗戦意思が砕けるとは考えにくい。また、仮に核兵器の使用によって一時的な優位をつかんだとしても、核使用が米国の介入を招いた場合には、せっかくの優位を失い、状況はむしろ核使用の前よりも悪化してしまう可能性もある。
では後者の「決定的な敗北を回避する」シナリオはどうか。(中略)核兵器を使用しなければ占領地を維持できない、あるいはウクライナ側からロシア領への逆進攻のリスクまであるというような状況になれば、プーチン大統領が核使用を考慮する可能性は一定程度存在する。(中略)
編集者注:実際にウクライナはロシア領への侵入と占領に成功している。但しその目的も最初から明らかで、領地の交換である。だから即核の使用につながるとは考えにくい。要するにウクライナ側が選択肢を用意しているからだ。
この戦争は、今後も、一方が優位を猥得したとしても、それを打ち消すような方策をもう一方が講じていく形で、一進一退の戦局が長く続いていく可能性が高い(中略)
双方ともに決め手を欠く形で、戦闘が長期化していく可能性が高い。
また、見逃されがちな論点だが、ウクライナが戦場で大勝利を収め、現在ロシアに占領されている国土をすベて奪回したとしても、それで戦争が終わるとは限らない。プーチン大統領にとって、この戦争が、「旧ソ連的な勢力圏」を再構築するためにウクライナを 「ロシアの一部」にすることが目的だとすれば、侵攻軍がウクライナ領内から排除されたことそれ自体は戦争をやめる理由にはならないからである。(中略)
この戦争は「戦場で終わらせる」ことはおそらくできない。(中略)この戦争を終わらせるシナリオそれ自体を考えることはできる。ただしそれは戦場以外の要素も考慮しなければならない。
『終結に向けた三つのシナリオ』
ロシア・ウクライナ戦争は、「ヨーロッパのl部」となることを望む現在のウクライナと、旧ソ連時代に近い形で「ロシアの一部」に組み込もうとするプーチン大統領との間の戦いとなっている。これは、「自分が何者であるか」、すなわちアイデンティティを巡る対立に基づくものであり、そうだとするならば、両者の「落とし所」を探ることは事実上不可能である。(中略)
@軍事的現実の政治的固定化
第1が、「その時点での軍事的現実を政治的に固定化する」終わり方である。これは一 般的な作戦協議の道筋である。2014年のクリミア併合の後で展開したドンパス紛争に 際して成立したミンスク合意はこうした性格がある。この場合は、合意成立時点でのロシアの占頻地をロシア領とする一方、ロシアがウクライナに対する軍事行動を停止するという形での終戦ということになる。(中略)
A軍事と政治にまたがるバーゲニング
第2のシナリオは、「軍と政治にまたがるバーゲニングの結果としての終戦」である。
(中略)
例えば、ウクライナが、一部の占領地の奪回を諦めてロシアに割譲し、その一方でロシアは、ウクライナが「ヨーロッパの一部」となることを認め、NATO加盟やウクライナへの米軍の駐留を受け入れることである。(中略)
しかしこれも現状では少なくとも二つの大きな障害がある。(中略)このシナリオではウクライナがヨーロッパの一部」になることが確定することである。それはロシアの志向する、「旧ソ連的な勢力圏」の構築を不可能とする。(中略)
歴史的に言えば、似たようなケースとして第4次中東戦争後にイスラエルとエジプトの間で1978年に締結されたキャンプ・デービッド合意を挙げることができる。キャン プ・デービッド合意では、イスラエルが第3次中東戦争の結果占領していたシナイ半島をエジプトに返還するのと引き換えに、エジプトがイスラエルを国家として承認し、平和条約に向けた交渉を行うとされた。それに伴い、1979年にエジプト・イスラエル平和条約が締結される。ただしこれも、イスラエルの独立宣言に伴って1948年に勃発した第 1次中東戦争から、実に約30年を経ての合意だったのである。それを考えても、こうした形での戦争終結にも、長い時間がかかると考えざるを得ない。
Bワイルドカードイベントの発生
第3のシナリオは、「ロシアの変化を促すワイルドカードイベントの発生」である。(中略)ロシアが「諦める」ことを余儀なくされるようなイベントが突発的に発生した場合が、この第3のシナリオである。
理論的には、このシナリオには二つのサブシナリオが考えられる。ーつは、プーチン政権の転覆などモスクワでの政変である。ウクライナヘの侵攻を主導してきたプーチン大統領が失脚することで、ロシア自体が戦争を「諦める」というのがこの道筋である。(中略)
もうーつのサブシナリオが、ベラルーシにおける政変である。親露姿勢を取り続けたルカシェンコ体制が崩壊し、親欧米的な民主化体制が成立すれば、ロシア・ウクライナ戦争の前提にある地政戦略的な構造が一変することになる。既にベラルーシは、米欧に対抗するための「旧ソ連的な勢力圏」に組み込まれつつあるが、それがウクライナ同様に離脱してしまうことになると、この戦争に臨むロシアの戦略自体を見直さなければならなくなる。
このような事態が起こると、ロシアはウクライナの侵攻部隊を撤収させてでもベラルーシにおける事態を収束させるために介入することを検討せざるを得ない。そうなると、ウクライナにおける情努は大きな転換を見せることになる。もちろん、ルカシェンコ政権自体2020年の選挙後の民主化運動で崩壊の危機に瀕したことから、現在では反政府運動への厳しい弾圧を行っており、民主化に向かう形での政変が起こる可能性は残念ながら低い。ただし、2023年5月9日にモスクワで行われた対独戦勝パレードに登場したルカシェンコ大統傾は体調がいちじるしく悪かったとみられており、突発的な政変の可能性はありえる.
ここで挙げた、二つのサブシナリオは(中略)理論的な可能性に留まるものである。しかし 同時に、政変は何の前触れもなく起こるものでもある。(中略)
そう考えると、戦争が長期化していく中で、第1か第2のシナリオで終息していくことが、現実的に考えられるシナリオであろう。(以下略)
コメント:この本は23年5月の状況を踏まえています。その後の進展もあり、私は戦闘が長くは続かない可能性も結構あると見ています。理由は、ルカシェンコほどではないが、プーチンも病を抱えていること。もう一つは、いかにプーチンが怪しい大統領選挙で圧勝(直前に野党党首が収監中に死亡)したとはいえ、露国民自身が終わりの見えない戦争にうんざりしてきているからです。逆にゼレンスキーの人気が落ち失脚して、ウクライナが大幅な譲歩をする可能性もゼロではないと思います。
正攻法は、米国がロシアと直接交渉を行うことです。皮肉なことにトランプ=プーチンの傀儡、がその意欲を示していますが、それはウクライナに領土の割譲を迫るという一方的なものです。ところがプーチンは馬鹿ではないので、トランプよりバイデンを信用すると言っています。
米露の代表が、国連の場で正々堂々と公開討論を行うことが望ましい。プーチンも戦争に至った理由を世界にはっきりと説明する機会になるでしょう。
しかし米国も大統領選を控えており、それどころではない。だからF16の供与に留まるしかないのかもしれません。そして最後の可能性は、米国が中国と取引(交渉)して、仲介を依頼することです。でも著者はその可能性を全面的に否定しています。
【注目】
・大暴落の影響。
https://toyokeizai.net/articles/-/801810?page=2
コメント:一読を。もう植田総裁では危なっかしく見ていられない。それから印象だけでも改善した方が良い。日本の看板の一つなのだから。
・福島デブリ。21日取り出し開始。
https://www.yomiuri.co.jp/science/20240816-OYT1T50186/
2613.大企業の罪 8.23
・川重に立ち入り検査。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6511408
コメント:アベノミクスは大企業優遇を正面切って打ち出していた。大企業が潤えば、それがやがて下請けや従業員にも回る(だろう)という理屈だった。でもそうはならなかった。なぜなら大企業は政府を信用しておらず、その結果、設備投資にも、従業員にも回らず、内部留保で貯め込んでしまったからだ。一方で役員の待遇だけは改善した(これをお手盛りという)。だから国民の間に貧富の格差が出来、企業ごとに従業員の待遇の格差も生じた。労働運動も変質して、大手の労組の連合は自民党にすり寄った(芳野会長)。労組なのに経団連以上に保守路線をまっしぐらに進んでおり、それを恥じるそぶりも見えない。
経済が二分化し、中間層が減り、貧困層では生活苦から悲惨な事件が続発している。安倍は日本に、福祉国家とは真逆の、この世の地獄を作り出してしまった。自分では、いかがわしい異端の外国のカルト宗教のご機嫌を取り、右翼の価値観を取り込み、ひたすら平和憲法の破壊にまい進した。地獄の魔王が日本の民主主義社会を破壊する為に送り込んだ手先のようなものだ。しかもその試みは半ば成功したと言える。非業の死を遂げても(国葬?)、彼が歴代でも最悪の首相の一人であった事実は変わらない。安倍政権の倫理観の喪失は政治にも及び、金のかかる選挙や、買収(河井スキャンダル)、その後の裏金問題の温床を作った。それを継承し、しかも一切の追求から逃れているのが森喜朗だ。
そして今は、日本を代表する複数の大企業の不正が次々に明らかにされている。これもアベノミクスが大企業を優遇した副作用だろう。コンプライアンスどころか、経営理念も、企業の良心も失っている。高給を食む(そのくせ無能な)企業の役員が腐敗していれば、日本の産業が復活する可能性は極めて小さい。本当に信頼できる優秀なトップを連れて来るか、役員を総入れ替えするしか対策はなさそうだ。今株をどうするかで悩んでいる。中堅の、真面目で将来有望な企業に移すのが多分ベストだろう。
【注目】
・デブリ取り出し中断。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6511407
コメント:デブリは、近づけば死に至る強烈な放射能を放っている超危険物質だ。そういう物質があるという事さえ、信じられないくらいだ。メルトダウンは日本が初めてのケースではない。チェルノブイリと3マイル島の例がある。但し共にまともに対策が講じられたという話は聞かない。原発事故こそ、近年の日本で最大の人災である。それにしても、なぜ自分で後始末が出来ないものを作ろうと考えたのだろう。放射性廃棄物の処分方法さえ未だに決まっていない。それとも原発増設もまた、当時の米国の圧力だったのか。もしそうなら、日本は米国から3発目の、原爆を落とされたのと殆ど変わらない。経産省と政府は全てを東電の責任にして、口を拭っている。当時の責任者が誰かさえも、国民には分からない。それが分れば、導入を後押しした、当時の経産省の幹部に、是非ともその背景の、納得出来る説明を伺いたい。彼らが原発は絶対安全だと信じ込んだ理由は何処にあるのかである。こと原発に関しては、暗黙の報道規制でもあるのか、民放は取り上げず、唯一正面から議論しているのはNHKの水野くらいである。
・円高リスクが日本企業に影。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6511415
コメント:ある首相の言葉、通貨が強くなって滅びた国はない。通貨が下がるということは、その国の信用が落ちるということだ。しかもこの時の為にこそ、企業は内部留保を積み上げて来たのではないのか。それを、海外で二流の企業の買収に使い、ゴミ箱に捨てている。日本にはもはや優れた経営者はいないのか。国が滅びれば企業も消えることが分からないのか。
・与党も野党も内向き。蓮舫。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2e441d11ed782f29a27d782f802e0c4c3f8e8f7e
2614.芥川賞 8.24
今回の前書きはちょっと変わったところで、文藝春秋(9月号)の投書欄「三人の卓子」からです。埼玉の大澤尚氏の投書の一部です。
(前略)。石破茂、加藤勝信、小泉進次郎、河野太郎、茂木敏充などの名前が挙がるが、それ以上に「一致団結」する体制の構築が必要ではないだろうか。
かつて自民党にはW振り子の論理“があった。タカ派と言われた岸信介の退陣後は、 目線を経済にもっていくため池田勇人を総裁に。マンネリと言われた佐藤栄作の後は、“ブルドーザー“と言われたエネルギッシュな田中角栄を。金脈問題で田中が失脚したら”議会の子“と言われた 三木武夫を登場させた。しかし、安倍晋三以降はその路線を踏襲する人物ばかりが登場した。
最後に菅氏は首相の条件に「官僚に反対されても改革を実現する」ことを求めている。まさに至言だろう。内閣総理大臣は国の舵取りをする重要な責務だからだ。
ちなみにこの号に掲載された芥川賞受賞作は二作あり、その一つ、サンショウウオの49日は、これ以上はないほど重いテーマです。若い頃は芥川賞と直木賞の作品は必ず目を通していたが、少し休んでいる間に、文学の主題と、その作風は大きく進歩していたようです。人の生とは何かというテーマを、かつてないアプローチで取り上げ、生命とは何か、人間と生物との違いはどこにあるのか、人間の尊厳とは何かという究極の問を、読者に正面から投げかけています。優れた作品であることは間違いないが、読者にも相当の覚悟が必要です。娯楽作品ではない(=シリアス)ということだけは強く申し上げておきます。
2615.N党を何とかせよ 8.25
今回の前書きは朝日新聞(8.24)オピニオン&フォーラム「荒れる選挙」から
鳥取県知事 平井伸治
都知事選で選挙と関係のないポスターが大最に掲示され、ほとんどがそのまま放置されました。ショックでしたね。
公職選挙法第144条の 2は、「候補者」が「選挙運動」のためのポスターを掲示場に「それぞれ1枚」限り貼れると規定しており、これら全てに違反していたからです。担当選管はポスターの内容には立ち入れないという立場だったようですが、放置すべきではないものだと考えます。
繰り返しますが、公選法で貼ることが保障されているのは選挙運動のためのポスターだけです。
選挙運動には定義があります。「当選を目的として、直接または間接に必要かつ有利な行為」などとする判例が確立しており、犬猫のポスターや有料サイトに誘導しようとするポスターが、この定義に当たるはずがありません。
しかもポスター枠を事実上売り渡した当事者である政治団体自身がいわば自白をして、どんなポスターを貼ってもいいと言っていたわけです。なぜこの問題に対応しなかったのか。
法律を素直にそのまま適用すれば、現行法できちんと対応できたはずです。選管が警告をする。悪質なら撤去させる。それでも応じないなら掲示場の管理権にもとづいて選管がはがす。訴訟になってでも闘うべき筋合いのものなんです。恐らく裁判でも勝てます。
当時の報道や世の中の受け止めは、仕方のないものだとあきらめ、まるで「集団催眠」にかかっていたようなものです。
たしかに選管が政治信条に踏み込むことはできませ ん。どんな政治的主張も、選挙においては保護されるべきです。
しかし今回出てきた有料サイトに誘導しようとするポスターのどこが、公選法が保障すべき選挙運動なんでしょうか。選管がレフェリーの役割を果たして、ホィッスルを吹くべき局面だったと思います。
わけのわからないポスターが掲示されることで、選挙に対する有権者の信頼や関心を失うことになりかねません。民主主義の健全な発達という意味では非常に憂慮すべき事態でした。
公選法改正は検討されるべきですが、レフェリーがきちんとホイッスルを吹くことを忘れてはいけません。法の穴を突くような動きは必ず出てくるからです。法を解釈して適用し、運用していく行政の機能が十分に働かなくなっている状態の解消も重要だと思います。
コメント:私はこれまで、立花の立件を強く求めてきました。民主主義と選挙制度、中でも有権者を愚弄し続けてきたからです。選挙演説で野次を飛ばしただけで市民をつかまえているのに、これだけ明白な違法行為を見て見ぬ振りをする。そんな警察を私たちはどうして信頼できるでしょうか。しかもN党には政党補助金が出ており、立花は、だからやめられないと豪語しているのです。もうN党の政党の認定を取り消すべき時期に来ているのです。しかも違法行為は選挙ポスターだけではない。既に立花は有罪判決まで受けているのです。統一教会も、(カルト政党の)N党も取り消しが相当なのです。
関連記事:立花、威力業務妨害等で有罪確定。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20230324-OYT1T50044/
コメント:公民権のない者に、なぜ政党の代表が務まるのだろう。
同じく多事奏論から
「さらばヒラメ首相、主権者は大海原へこぎ出せ」高橋純子から
(前略)自民党総裁選に出ないと聞いても、世の中の関心も驚くほど低い。そりゃそうだろう。岸田氏はこの3年、国民とまともに目線を合わせてこなかったのだから。(中略)
誰のため、何のために政治家になったのかわからない。首相になること自体が目的化し、首相になってなにをやりたいかが見えない。かねて指摘してきた岸田氏の特質が、8月14日の不出馬会見には見事に「全部のせ」されていた。
民への謝罪は一言たりとてなし。自民党の裏金問題をめぐり、「組織の長として責任を取ることに、いささかの躊躇もありません」とキザに語ったけれど。
民への感謝も一言たりとてなし。首相としてあれをやったこれもやった、成果をあげたと胸を張ってみせたけれど。(中略)
岸田氏は「最後の一日まで政策実行に一意専心、当たってまいります。私からは以上です」。異状です。国民に向けた直接的な語りかけが皆無とは。3 年も首相をやっておいて、自己弁護と自己宣伝以外に何か言うべきことはなかったのか?あるだろう、ふつう。
会見では、不出馬をさも前々から決意していたかのように語っていたけれど、「延命」のためにあがきにあがき、憲法改正までも利用しようとした姑息を決して忘れない。そもそも旧統一教会との関係に疑念を残し、政治資金を巡る法令順守すらおぼつかない者たちが憲法改正?
笑止。物価高にあえいだり、復興の進まぬ被災地で途方に暮れていたりする民を尻目に、不要不急、まさに国民不在の憲法改正を「自分のため」に吹かす姿は、控えめに言っても醜悪であった。
岸田氏はつくづくヒラメだと思う。周囲に応じて体色を変化させ、上ばかり見て、平べったくて鈍くさそうな見かけによらず口が大きく歯は鋭く、「弱肉強食」の海にあって食物連鎖の最上位にいるとされる貪欲なヒラメ。(中略)候補者乱立の様相だが、しょせんは汚れが目立ついけすの中の争いである。大海原に船をこぎ出せば、もっと活きのいい美しい魚がいるやもしれぬ。見つけ出す努力を主権者は怠ってはならない。
さあ秋はすぐそこ。政治の季節だ。
コメント:私は岸田は側近木原の操り人形に終始したのではないかと思います。多分自分では演説の原稿一枚書けなかったのではないか。だから総裁選には木原が出馬すべきなのです。それでも高市や小林や茂木のような反動的な右翼よりはましでしょう。
2616.鹿児島県警にも百条委員会を 8.26
今回の前書きは朝日新聞(8.25)の社説からです。
(社説)鹿児島県警 議会が百条委で解明を
鹿児島県警は、ウェブメディアへの家宅捜索をどのような検討と判断を経て行ったのか。捜索で見つかった告発文書をもとに、県警が前生活安全部長を逮捕したことは、公益通報制度に照らして問題はなかったのか。
二つの疑念について、県警と、県警を特別監察した警察庁が説明を尽くしたとは言い難い。一連の不祥事の真相究明も不十分と指摘される。
第三者による検証が不可欠だ。県民を代表する県議会が、強い調査権限を持つ百条委員会を設置し、解明を進める役割を果たす時である。(中略)
前部長が、元枕崎署員の盗撮事件に関して「本部長による隠蔽(いんぺい)があった」と勾留理由開示手続きで発言してから3カ月近く。不祥事に関する県警への疑念は広がっている。
盗撮事件の捜査は、着手直後に2日間、中断していた。野川明輝本部長は幹部を通じて報告を受け、署による捜査継続を指示したが、署には「客観的な証拠がないので中止」と伝わったという。
署内で「本当に中止してよいのか」「隠蔽になるのでは」との声が上がり、改めて確認、捜査は再開されたという。なぜ失態を招いたのか。本部長はコミュニケーションミスとの説明を繰り返すが、経緯の詳しい説明はない。(中継)
県議会では、野党系会派が百条委の設置を求める一方、最大会派の自民党内には賛否両論があるようだ。
今月の県議会委員会では、県警の再発防止策について、実効性への疑問や批判が出た。県民は県警の対応に納得できないと認識しているのなら、百条委で組織の病理の解明をめざすのが当然だ。
コメント:(スキンヘッドの)野川に、警察官に必要な正義感が備わっているようには思えない。
全文下記:
https://digital.asahi.com/articles/DA3S16018183.html?iref=pc_rensai_long_16_article
(社説)東電再建計画 原発頼みから脱却図れ
東京電力の再建計画を改訂する作業が進んでいる。東電は福島第一原発事故の当事者としての責任を果たすため、政府の管理下で存続を許されてきた。だが、賠償や廃炉の費用が膨らむ一方で、原発頼みの収益計画は未達が続く。現実を直視し、根本的な見直しを図るべきだ。
東電は原発事故で経営破綻(はたん)の瀬戸際になり、混乱を避けるためとして実質国有化された。「福島への責任」を掲げて2012年に「総合特別事業計画」を策定し、ほぼ4年ごとに見直してきた。(中略)
しかし実際には、資金拠出は過去5年の平均で4千億円ほどにとどまった。利益も目標を大きく下回り続け、株価も低迷したままだ。
目算が外れた大きな原因は、新潟県の柏崎刈羽原発が収益改善の柱になると楽観していたことにある。17年の計画では19年度から、21年の計画でも22年度から順次再稼働すると仮定していた。(中略)
総じて見通しの甘さが明らかで、計画の枠組みからの検証が必要だ。
とりわけ目を向けるべきは、未曽有の原発事故を起こした東電が、原発に依存して再建を図ることの矛盾と限界だ。東電は中長期でも、青森県の東通原発の建設再開を目指している。一方で、19年に基本合意した中部電力や原発メーカーとの原子力の共同事業化は進展が見られない。
経済性でも優位性が失われつつある原発への固執を改め、再生可能エネルギーへの投資に一段とかじを切るべきだ。東電自身が新しい収益源と位置づける太陽光や蓄電池、省エネ機器を組み合わせたサービスにも注力し、首都圏の大市場と顧客基盤をいかすことが重要だろう。
福島への責任を全うするために何をなすべきか。東電と政府は熟慮する必要がある。
コメント:原発(と辺野古)の問題は、国がベストの人物を官民から探して、全権を与えて、思い切った施策を講じさせる。政府はそれをサポートする。それ以外にこの膠着状態を解決する方法はない。出でよ令和の英雄。日本を救うために。
全文下記:
https://digital.asahi.com/articles/DA3S16018184.html?iref=pc_rensai_long_16_article
2617.個の力 8.28
今回の前書きは朝日新聞(8.27)オピニオン&フォーラム寄稿候「言葉を消費されて」作家 星野智幸からの抜粋です。
個を捨て内輪の共感、リベラル層もまた「正義」に依存する
無謬性掲げ攻撃しあう虚しさ、文学であらがう。
(前略)11年前に書いた「『宗教国家』 日本」の要旨はこうだ。
長年の経済的停滞等で疲弊したところに、東日本大霙災と原発事故が起こって自分を支えられなくなった日本のマジョリティーの人たちは、絶対に傷つかないアイデンティティーとして「日本人」という自己意識にすがるようになった。個人であることを捨て、「日本人」という集合的アイデンティティーに溶け込めば、居場所ができるから。それは依存症の一形態であるが、誰もが一斉に依存しているから自覚はない。日本社会がそうしてカルト化していく傾向を変えるためには、強権的な政権への批判だけでは不十分で、一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要があるー。
11年たって、この傾向はもはや日常化している。(中略)
個人を重視するはずのリベラル層もじつは、「正義」に依存するために個人であることを捨てている。「正義」依存の人同士で、自分たちが断罪されることのないコミュニティーを作り、排外主義的な暴力によって負った傷を癒している。私が自分の発言に無意識に制限をかけていたのは、その居場所を失って孤立することを恐れたのだろう。「正義」依存者であれ「日本人」依存者であれ、そもそもは弱って自分一人ではどうにもならない苦境から脱するために居場所を必要としたのであり、そこには理がある。問題は、その居場所が無謬化していくことだ。(中略)
それぞれのカルトが、そうして無謬性の感覚をベースに否定しあい攻撃しあっているのが、この世の現状なのだろう。この状態はもはや民主的な世界ではない。
民主制とは、それぞれ考えや気分の違う者同士が、互いに耳を傾け、調整して制度を作っていく仕組みだ。政治とは、自分たちの正しさ競争ではなく、話し合いで合意するための手段である。(以下略)
以下全文:
https://digital.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html?comment_id=27983&iref=comtop_Appeal3#expertsComments
コメント:著者には申し訳ないが、今はやりの朝ドラの佐田寅子ふうに言えば「はて?」と言いたいところだ。大勢に流されず、自分の信条の為に、孤独な戦いを続けるのが真のリベラルだろう。私に言えるのは、著者が自分でも持ちきれないくらいの孤独感とたえざる自己批判の渦中に自分を置いている(なかなか出来る事ではないことも事実)ということだけである。ついでに民主主義について一言。米国の大統領選を見て思うのは、到底両者の間に合意が形成される余地などなく、何故ならそこには根本的な価値観の相違があるからだと思わざるを得ない。結局、どちらかが勝ち、どちらかが負けるという二択でしかなく、その勝敗を決めるセレモニーが選挙なのではないか。無論それで良いと言っている訳ではなく、両者の間で議論が尽くされねばならないし、民意も十分に反映されなければならない。それにしても、そろそろ、次世代の民主主義(デモクラシー2.0)の議論が始まっても良い時期ではないのか。またこの機会に首相公選制が議論される事を強く希望したい。
もう一つは、「若い世代」
僕の答え 軍備で平和は守れない 山口県中学生 小坂継心君から
中1 の時から「在日米軍」「自衛隊基地」「日本国憲法」の三つを考え続けて得た答えだ。ただ「他国に攻められた時、自衛隊がいなかったら?」と級友に問われ、「確かに」と考えた。
だが先日、福岡県筑前町大刀洗平和記念館を見学して、「軍隊が守ってくれるわけないじゃん」と思った。筑前町にあった旧陸軍の飛行場は、1945(昭和20)年3月に始まった沖縄戦で特攻隊が出撃した基地の一つ。戦闘機や兵士の遺書の展示もあった。同じ月に町は初めてB29の爆撃を受け、集団下校中の小学生31人が亡くなった。基池があったから攻撃されたのではと思った。
いま、南西諸島への自衛隊配備、辺野古の基地建設などが進めば、生きられるはずの人が命を落とす事態に再びなるかもしれない。私たちは反対の声を上げるべきだと思う。
コメント:僅か15歳で堂々の論陣。高市・小林を含む自民党の付け焼刃の超保守派議員(及び維新の議員もどき)は、彼に反論できるだろうか。戦時中、焼夷弾が落ちて来たら市民は逃げずに消火に当たれと命令したのは誰だったのか。軍隊が信用できない。それは芳しくない前例があるからだ。今のような体たらくの自衛隊ならなおさらである。無論米軍を含む、外国の軍事力を宛にするなどハナから間違っている(但し超国家の国連の平和維持軍を除く)。
2618.ハト派の仮面を被ったタカ 8.29
今回の前書きはサンデー毎日(9.8)から3件のご紹介です。
最初は牧太郎の青い空白い雲「ハト派の仮面をかぶった101代目首相にまんまと騙された」から
日本人の良いところか、悪いところなのか?
どんな「悪政」の政治家に対しても、「辞める」と言われれば、その人柄を美化してしまう。(中略)
それよりどうしても許せないことがある。
彼が「平和主義のハト派」の仮面を被っていたことである。選挙区は被爆地・広島、「軽武装・経済重視」の派閥.宏池会を率いて、世間は「ハト派」と思い込んでいた。それがどうだろう?
戦後の防衛政策の柱、「防衛費は国内総生産(GDP)比でも1% を超えない」という掟をあっさり捨てて防衛関係費として5年間で約43兆円の大幅増を決めた。戦後歴代の首相が誰一人としてやらなかった「超軍拡政策」だ。「夕力派」筆頭・安倍晋三さんでもできなかった「冒険Jである。(中略)
岸田さんは「ハト派」の仮面を被っていたのだ。それに世間が気づかなかったのは、(私も含め)新聞・テレビの責任である。
この夏、何人も「ポスト岸田」に名乗りをあげているが…。今回も候補者の中に「嘘つき野郎」たちがいっぱい、いそうだ。裏金事件の追及なども大事だが、総裁候補の正体を暴くのがメディアの使命ではないか?
コメント:こんなに重要な指摘なのに、誰も正面から取り上げようとしなかったのはなぜなのか。私もハト派だと思っていた。でも牧太郎の指摘のように、ハト派なら辻褄が合わないことがいくつもあった。しかもなんでもかんでも閣議決定で決めてしまう。加えて最近では、憲法改正に強い意欲を示していた。なので彼が続投していたらどんなことになっていたか。軍国主義の国へ果てしなくのめり込んでいったことだろう。平和憲法などあってなきが如しだ。安倍よりはましだと思っていたのに、全く人間は外見では分からない(本音は別にある)と痛感した。
二つ目は高村薫のサンデー時評「ポスト岸田の空疎、南海トラフ地震の切迫」です。
(前略)災害の規模があまりに大きすぎるので、日ごろは極力考えないようにしてきたが、現実に注意情報というかたちで突きつけられてみれば、家具の転倒防止や水の備蓄といった通常の備えでは対処しきれない次元の被害に想像が及び、まさに呆然自失となる。国の被害想定が正しければ、1400兆円という被害総額は、いまの日本の 経済力ではもはや復興を云々する規模ではない。本州や四国の太平洋沿岸が軒並み破壊される南海トラフ地震では、かろうじて生き延びたあとも想像を絶する困難が続 く。物不足と人手不足でインフラ復旧の見通しは立たず、物流は止まり、水や食料を求める人びとは難民となって地方へ流れ込み、行政の支援が追いつかないまま弱者は餓死し、治安は悪化する。もちろんほとんどの生産活動が停止し、見る間にアジアの最貧国に転落するだろう日本の再生には、数百年かかるかもしれない。(中略)
では私たち日本人はいま、何をすべきか。「注意」が発表されていた一週間、筆者が本気で考えたのは三つである。第一に、とにかく地震や津波で死なないこと。そのための事前避難は必須になる。第二に、個々に生き延びる方法を考えること。若い人は積極的に海外へ出ることを考えてもよいし、小中学生は可能な限り教育を続けさせるために集団疎間を考える必要もあるだろう。一方、働ける大人は少しでも自立を図るほかはなく、高齢者も例外ではない。手に何の職もない筆者だが、農作業の手伝いや家畜の世話ぐらいはできるかもしれないし、日本の繁栄の終わりを見届ける役回りに相応しいのは、高齢者をおいてほかにはいない。
そして考えたことの第三は、それでも戦争よりは絶対にマシだということである。何が起きても日々を腐らずに生きようと思う。
コメント:これも日本(政府)が敢えて目をそらしてきた近未来の日本の姿の一つです。それは南海トラフ地震発災時とその直後の日本の姿です。自分でも1週間分の水と食料があればなんとかなると思っていたが、到底そんなことでは済みそうもありません。必ず来る災害だからこそ、今すぐ具体的な対策に着手する必要があります。
しかし、大震災の時に自民党政府ではうまくいかないと思います。コロナ禍もあったけれど、その対応はとても褒められたものではありませんでした。阪神淡路大震災の時は自社さの村山政権でした。東関東大震災の時は民主の菅(かん)政権でした。その時に官邸に詰めて徹夜で対応したのが枝野でした。SNSにエダノネロのメッセージが溢れました
だから震災の時だけでも、首相には枝野が望ましいのです。我々国民に今出来ることは、総選挙で政権に(震災の経験のある)野党連合とその代表を据えておくことです。それが我々に出来る唯一の命の保険になるのです。
3つ目は冒頭の記事、倉重篤郎のニュース最前線、「寺島実郎が首相の資格を徹底試問」から冒頭部分のみです。
(前略)この乱立総裁選には二つの注文を付けておきたい。
ーつは、裏金事件への対処である。(中略)
なぜ一度やめようという流れになったのに再開されたのか、肝心要の事実閲係はなお不明であり、先に成立した政治資金規正法改正も穴だらけだからだ。(中略)裏金事件をまだ国民は忘れていない。その十字架を背負った総裁選であることに改めて警鐘を鳴らしたい。
二つに、政策スタンスである。ここ10年続いた安倍晋三元首相の路線をどう評価するか。継承か、修正か、転換か、各候補に問いたい。というのは、安倍氏の二つの基幹政策、つまり外交安全保障政策における日米一体化による軍事抑止力強化路線と、経済財政政策における異次元金融緩和による財政ファイナンス路線はいずれも行き詰まっており、前者は日本外交の自立性、後者は国家財政、日銀財務の悪化を呼び、財政の持続性を奪い、日本の産業競争力を劣化させた、と考えるからだ。(中略)
乱立総裁選の中で、この二つの注文に答えてくれそうなのは、現時点では石破茂氏であろう。リクルート事件の頃から政治とカネ、政治改革のあるべき姿を追い求め、政策的には、ほぼ一貫してアンチ安倍路線を取ってきた。田中角栄から三木武夫政権への交代に象徴されるように、危機の度に人も政策も大胆に刷新する振り子の原理(疑似政権交代)、という仕組みで生き延びてきたのが自民党だとすれば、最大の有資格者 は、石破氏となろう。(以下略)
コメント:私も自民なら即戦力は石破しかいないような気がします。人気二番手の小泉進次郎では、南海トラフ地震の混乱を乗り切ることはできないでしょう。なお裏金を返還するという提案が河野から出た時に、茂木を含め、安倍派の残党から強い反発の声が上がりました。これはとりもなおさず、自民党としては結局何も反省していないという事を意味しています。
なお上記は倉重の意見だけですが、寺島の見解については、この場ではご紹介する紙面の余裕が無いので、本誌を参照願います。
関連記事:進次郎が首相になったら日本は終わる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/197cdf6c9d9c4a6c9bc5509af685d945f5090491
2619.柳の下のどじょう 8.30
・最大グループは枝野支援。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/351174?rct=politics
コメント:枝野も右よりだが、少なくとも野田佳彦のような私心はない。穏健な保守派を狙うという野田は、安倍の後継者になりたがっていた。似非自民党が自民党にとって代わって、一体国民にどんなメリットがあるというのだろう。元々リベラルな政党の中にあって、野田に違和感のある理由が明白になった。でもそれは自民党もしくは国民民主に移籍すればすむ話だ。しかも今度は労組への挨拶回りを始めた。自分が代表になれば、立憲を第二自民党にしたいらしい。その根回しだろう。生前の安倍との間でどんな約束があるのか知らないが、それだけは絶対に阻止しなければならない。自民党でさえ、これほどあからさまな政党の私物化はしていない。首相の可能性が出てきたことで、欲に目がくらんだのだろう。そんなことになれば、日本はまた大恥を掻くことになる。一体自分を何様だと思っているのだろう。柳の下の二匹目のどじょうか。
2620.大学は何のため 9.5
今回の前書きは朝日新聞(9.4)耕論、大学はなんのため?からです。
「研究の自由奪った改革」教育学者 古川雄嗣
ここ数十年の「大学改革」は、文教政策として「一番やってはいけないこと」をやってきました。大学と研究者を競争に駆り立て、「役に立つ研究」への「選択と集中」を進め、自由で多様な研究と教育ができる環境を奪うことです。
この方向を決定づけたのは、2004年の国立大の独立行政法人化です。独立行政法人とは、いわば国の「代理人」です。国が直接運営するのは非効率だ、運営を代理人にやらせて、国は代理人同士を競争させるべきだという考え方です。
競争に駆り立てるために、政府は財布のひもをしばりました(編集者注:締めました?)。国立大の運営費として国が支出する「運営費交付金」を、毎年1% ずつ削減する。「減った分は経営を合理化し、自前で稼げ」ということです。さらに、文部科学省が各大学の細かい数値目標を定め、それを達成できない大学には「罰」として交付金を滅らす仕組みもあります。
その結果、大学では教員の研究費削滅や雇用の不安定化が進みました。教員は研究費を外部から獲得する必要に迫られ、申請書などの作成に膨大な時間を奪われています。3〜5年の任期付き雇用の教員は、成果を出さなければ職を失うという切迫感から、手頃な成果が確実に見込まれる小さな研究しかしなくなります。これらが日本の研究力低下の大きな原因です。
昨今問題になっている国立大の値上げも、大学改革の当初からのねらいでした。とにかく国は大学にお金を使いたくない。だから、大学が自前で稼ぎやすくするために、学費も「自由化」したいと考えてきたのです。
大学の学費に「受益者負担」の考え方を持ち込むのは危険です。病院や公園におき換えてみてください。
「利用者だけがお金を払えばいい」でしょうか。そうなれば、これらの施設を使えるのは高額な利用料を払えるお金持ちだけになってしまいます。それはおかしい。医療や福祉の受益者は国民全体だからです。教育や研究も同じです。
(以下略)
(聞き手・田中聡子)
コメント:独立行政法人と言いながら、独立即ち自主性では大きな疑問が残る。費用は国が全額負担、しかし教育方針には口を出さないというのがあるべき姿だ。国に明確な課題や目的があれば、私学でそれなりに特化した大学に委託すれば良い。どうしても国立大を使いたければ、その分の研究費は別枠で委託するのが筋だろう。