「オンライン・オピニオン」



新年の挨拶
揺らぐ人道理念
ポピュリズムの先にあるもの
武器生産の下請け
迷走するドイツ
ジャーナリズムについて
米国のカースト
米国第一主義
メディアに踊らされる



2681.新年の挨拶 1.1

年末・年始でも事件は起きます。2024年のように、天変地異もないとは断言できません。だからWTWも年中無休の看板を下ろすわけにはいかないのです。但しニュースの数には増減があり、基本、祝休日は官も民も仕事がお休みになる分、ニュースも少なくなるのが通例です。
2024年は激動の1年でした。情報を中継する立場として、休む暇がなかったことも事実です。世界の動きからは一日たりとも目が離せません。まして、2025年が我々にとって、日本にとって、世界にとって、地球にとって、どんな年になるのか、誰にも予想はつきません。
我々に出来ることは、激動の世界の、出来事や変化を、自分の眼で見て、自分の頭で考えること、そして例え微力でも、行動を起こすことです。そういう小さな努力が、やがては国と世界を、そして人類を救うことになるのです。
2024年は有難うございました。そして2025年も、(完全に非営利の)トレンド・ウォッチャーを、よろしくお願い致します。



2682.揺らぐ人道理念 1.4

今回の前書きは朝日新聞(1.3)の社説のご紹介です。
「(社説)揺らぐ国際規範 人道理念 守る決意と実践を」

戦争にもルールがあった。
 そう過去形で語らねばならぬ時代が到来するのか。
 先の大戦から80年。国際社会が積み上げてきた人道法という“ルール”が、いともたやすく破られ、人命が理不尽に奪われていく。理念の退行という逆向きの時計の針を止める必要がある。
 ■「地雷なき世界」に壁
 世界遺産アンコールワットで知られるカンボジアのシエムレアプで昨年11月、対人地雷禁止条約に関する国際会議が開かれた。
 会場の前には、手足を失った各国の地雷被害者がプラカードを掲げて並んでいた。米国政府がウクライナに地雷を供与すると表明したことに抗議するためだ。
 米国は条約に未加盟だが、ウクライナは締約国だ。対人地雷の取得も使用も許されない。だが、条約に背を向けるロシアがウクライナに侵略、大量の地雷を使い、市民1300人近くが死傷した。
 ロシアの隣国で、条約締約国のフィンランドの国防省も対人地雷の再導入を検討していると明らかにした。ラトビアでは条約からの離脱を求める署名活動が始まった。
 戦争が終わっても、市民を無差別に殺傷し続ける対人地雷を全面的に禁止する条約ができたのは1997年。成立に市民社会が大きな役割を果たした。各国政府を説得した国際的なNGOの連合体はノーベル平和賞を受賞した。
 今、国連加盟の8割にあたる164の国・地域が条約に加わり、うち94が保有していた対人地雷5500万個を廃棄した。
 締約国の増加は国際世論の高まりとなって、大国の背中を押した。実際、米国は対人地雷の生産中止を宣言した。命を守る国際規範をつくる動きは、クラスター爆弾禁止条約、核兵器禁止条約へと受け継がれた。
 その流れが逆転しないかが危惧される。条約に加わらない大国が締約国を軍事力で踏みにじる。「善人ばかりが損をする」。後ろ向きの「自国第一」が、人道の普遍性を守る努力とせめぎあう。
 ■大国による二重基準
 大国の横暴は、ロシアだけではない。米国によるあからさまな二重基準も国際社会の批判を呼んだ。
 パレスチナ自治区ガザでの戦争だ。イスラム組織ハマスによる奇襲攻撃で約1200人のイスラエル市民が殺害された。多くの国がイスラエルの自衛権を支持した。
 だが、ハマス壊滅を掲げた軍事作戦は苛烈(かれつ)を極めた。民間人の犠牲を意に介さないようなイスラエルに、国際世論は批判を強めた。
 それでも、米国は「特別な同盟国」としてかばい続けた。国連安全保障理事会では停戦を求める決議案などを5度、拒否権を行使して否決し、武器の供与も続けた。
 戦争犯罪や人道に対する罪などを裁く国際刑事裁判所(ICC)は、ロシアのプーチン大統領、イスラエルのネタニヤフ首相に逮捕状を発行した。前者を「当然だ」と評価したバイデン米大統領は、後者については「言語道断だ」と非難した。
 米ロや中国はICCに加盟していない。ロシアはICCの赤根智子所長を指名手配し、米国は経済制裁をちらつかせる。敵対する米ロがここでは足並みをそろえる姿は、異様を通り越して嘆かわしいというほかない。
 多くの国が長年築いてきた規範を大国自らが無視し、損なう。新興国や途上国の間で今の国際秩序に対する不信が広がるのは当然だ。
 ■国連の価値を信じて
 米国では今月、自国第一主義を掲げるトランプ氏が再び大統領の座に就く。
 トランプ氏は1期目に世界保健機関(WHO)からの脱退を表明し、ユネスコや温暖化対策の国際ルール「パリ協定」から離脱した。PKO予算や国連機関向けの拠出金の大幅削減も主張する。国連軽視の加速が懸念される。
 日本は外交の柱の一つに「国連中心主義」を掲げてきた。5大国だけが安保理で拒否権を持つなど不平等を抱えながらも、国連が国際協調の土台をなし、先進国と途上国の格差を埋める役割を果たしてきたことは間違いない。
 一方、日米同盟も日本外交の基軸である。だが、国連に懐疑的な政権が米国に誕生するからといって、国連か米国か、多国間主義か二国間重視か、と二者択一的に捉えるのは建設的ではあるまい。
 国連中心主義は、紛争の平和解決、法の支配、人権や民主主義を重視する基本理念と考えるべきだ。世界が羅針盤を失いかけている今こそ、その理念を掲げ続け、できるだけ多くの国と共有する姿勢が必要とされている。
 欠かせないのは、理念を説くだけでなく、現場に根ざした実践だ。日本は長年カンボジアで地雷除去に貢献し、その知見を南米やアフリカでも共有し、ウクライナにも提供している。
 人の命を守る。復興につなぐ。実績を地道に積み重ねることで、国連、そして人道主義への信頼を高めたい。

コメント:年頭に相応しい社説です。「またトラ」を嘆くだけでなく、トランプを正しい方向に向かわせることも、同盟国の使命ではないか。友達が間違ったことをしようとしている時に、それを諫めることができるのは真の友人だけです。
今回の米の大統領選挙で唯一良いことがあったとすれば、それはバイデンが負けてくれたことです。バイデンはネタニヤフに手を貸すことで、ガザで死んだ何万もの市民の命に大きな責任があります。同じ民主党でも、オバマは人間の格が全く違います。
イスラムのIS、イスラエルのユダヤ教原理主義者、最近では米国のキリスト教原理主義者の、タガがはずれたような残虐な振る舞いを見ていると、宗教の唯我独尊ばかりが強調された2024年でした。しかも世界中の誰一人として、宗及び聖職者の無作為、無責任を問おうとはしませんでした(含むプーチンのロシア正教)。
今聖職者が体を張って教義を主張しなくて、いつ主張するというのか。
2025年に出でよ、平和主義・博愛主義の救世主。例えばキリストが復活し、邪教の集団を追い払い、この世に平和をもたらし、欲と悪の、悪魔の泥沼から人類を救ってはもらえないものか。
この社説にあるような、高い理想を掲げることも、新聞の大きな使命です。フェイクや売名行為、根拠のない誹謗中傷に引きずられ、新年も責任感も欠如した、若さと数だけの、迷走するSNSではできないことです。通称オールドメディアは、理念と理性を堅持することにより、エバーグリーンの存在になれるのです。オーソドックスなジャーナリズムの規範として、SNSの暴走にブレーキを掛けるべき存在です。
この世界は今最も必要としているものは、理性と分別です。せめて新聞だけは、それらを絶対に忘れてはならないのです。



2683.ポピュリズムの先にあるもの 1.7

今回の前書きは朝日新聞(1.3)の社説のご紹介です。
「(社説)揺らぐ国際規範 人道理念 守る決意と実践を」

戦争にもルールがあった。
 そう過去形で語らねばならぬ時代が到来するのか。
 先の大戦から80年。国際社会が積み上げてきた人道法という“ルール”が、いともたやすく破られ、人命が理不尽に奪われていく。理念の退行という逆向きの時計の針を止める必要がある。
 ■「地雷なき世界」に壁
 世界遺産アンコールワットで知られるカンボジアのシエムレアプで昨年11月、対人地雷禁止条約に関する国際会議が開かれた。
 会場の前には、手足を失った各国の地雷被害者がプラカードを掲げて並んでいた。米国政府がウクライナに地雷を供与すると表明したことに抗議するためだ。
 米国は条約に未加盟だが、ウクライナは締約国だ。対人地雷の取得も使用も許されない。だが、条約に背を向けるロシアがウクライナに侵略、大量の地雷を使い、市民1300人近くが死傷した。
 ロシアの隣国で、条約締約国のフィンランドの国防省も対人地雷の再導入を検討していると明らかにした。ラトビアでは条約からの離脱を求める署名活動が始まった。
 戦争が終わっても、市民を無差別に殺傷し続ける対人地雷を全面的に禁止する条約ができたのは1997年。成立に市民社会が大きな役割を果たした。各国政府を説得した国際的なNGOの連合体はノーベル平和賞を受賞した。
 今、国連加盟の8割にあたる164の国・地域が条約に加わり、うち94が保有していた対人地雷5500万個を廃棄した。
 締約国の増加は国際世論の高まりとなって、大国の背中を押した。実際、米国は対人地雷の生産中止を宣言した。命を守る国際規範をつくる動きは、クラスター爆弾禁止条約、核兵器禁止条約へと受け継がれた。
 その流れが逆転しないかが危惧される。条約に加わらない大国が締約国を軍事力で踏みにじる。「善人ばかりが損をする」。後ろ向きの「自国第一」が、人道の普遍性を守る努力とせめぎあう。
 ■大国による二重基準
 大国の横暴は、ロシアだけではない。米国によるあからさまな二重基準も国際社会の批判を呼んだ。
 パレスチナ自治区ガザでの戦争だ。イスラム組織ハマスによる奇襲攻撃で約1200人のイスラエル市民が殺害された。多くの国がイスラエルの自衛権を支持した。
 だが、ハマス壊滅を掲げた軍事作戦は苛烈(かれつ)を極めた。民間人の犠牲を意に介さないようなイスラエルに、国際世論は批判を強めた。
 それでも、米国は「特別な同盟国」としてかばい続けた。国連安全保障理事会では停戦を求める決議案などを5度、拒否権を行使して否決し、武器の供与も続けた。
 戦争犯罪や人道に対する罪などを裁く国際刑事裁判所(ICC)は、ロシアのプーチン大統領、イスラエルのネタニヤフ首相に逮捕状を発行した。前者を「当然だ」と評価したバイデン米大統領は、後者については「言語道断だ」と非難した。
 米ロや中国はICCに加盟していない。ロシアはICCの赤根智子所長を指名手配し、米国は経済制裁をちらつかせる。敵対する米ロがここでは足並みをそろえる姿は、異様を通り越して嘆かわしいというほかない。
 多くの国が長年築いてきた規範を大国自らが無視し、損なう。新興国や途上国の間で今の国際秩序に対する不信が広がるのは当然だ。
 ■国連の価値を信じて
 米国では今月、自国第一主義を掲げるトランプ氏が再び大統領の座に就く。
 トランプ氏は1期目に世界保健機関(WHO)からの脱退を表明し、ユネスコや温暖化対策の国際ルール「パリ協定」から離脱した。PKO予算や国連機関向けの拠出金の大幅削減も主張する。国連軽視の加速が懸念される。
 日本は外交の柱の一つに「国連中心主義」を掲げてきた。5大国だけが安保理で拒否権を持つなど不平等を抱えながらも、国連が国際協調の土台をなし、先進国と途上国の格差を埋める役割を果たしてきたことは間違いない。
 一方、日米同盟も日本外交の基軸である。だが、国連に懐疑的な政権が米国に誕生するからといって、国連か米国か、多国間主義か二国間重視か、と二者択一的に捉えるのは建設的ではあるまい。
 国連中心主義は、紛争の平和解決、法の支配、人権や民主主義を重視する基本理念と考えるべきだ。世界が羅針盤を失いかけている今こそ、その理念を掲げ続け、できるだけ多くの国と共有する姿勢が必要とされている。
 欠かせないのは、理念を説くだけでなく、現場に根ざした実践だ。日本は長年カンボジアで地雷除去に貢献し、その知見を南米やアフリカでも共有し、ウクライナにも提供している。
 人の命を守る。復興につなぐ。実績を地道に積み重ねることで、国連、そして人道主義への信頼を高めたい。

コメント:年頭に相応しい社説です。「またトラ」を嘆くだけでなく、トランプを正しい方向に向かわせることも、同盟国の使命ではないか。友達が間違ったことをしようとしている時に、それを諫めることができるのは真の友人だけです。
今回の米の大統領選挙で唯一良いことがあったとすれば、それはバイデンが負けてくれたことです。バイデンはネタニヤフに手を貸すことで、ガザで死んだ何万もの市民の命に大きな責任があります。同じ民主党でも、オバマは人間の格が全く違います。
イスラムのIS、イスラエルのユダヤ教原理主義者、最近では米国のキリスト教原理主義者の、タガがはずれたような残虐な振る舞いを見ていると、宗教の唯我独尊ばかりが強調された2024年でした。しかも世界中の誰一人として、宗及び聖職者の無作為、無責任を問おうとはしませんでした(含むプーチンのロシア正教)。
今聖職者が体を張って教義を主張しなくて、いつ主張するというのか。
2025年に出でよ、平和主義・博愛主義の救世主。例えばキリストが復活し、邪教の集団を追い払い、この世に平和をもたらし、欲と悪の、悪魔の泥沼から人類を救ってはもらえないものか。
この社説にあるような、高い理想を掲げることも、新聞の大きな使命です。フェイクや売名行為、根拠のない誹謗中傷に引きずられ、新年も責任感も欠如した、若さと数だけの、迷走するSNSではできないことです。通称オールドメディアは、理念と理性を堅持することにより、エバーグリーンの存在になれるのです。オーソドックスなジャーナリズムの規範として、SNSの暴走にブレーキを掛けるべき存在です。
この世界は今最も必要としているものは、理性と分別です。せめて新聞だけは、それらを絶対に忘れてはならないのです。



2684.武器生産の下請け 1.8

今回の前書きはリベラルな雑誌地平(地球の平和)2月号から、気になっていた米軍武器生産の下請けについてです。

「アメリカ軍需産業の下請け化? 日米防衛産業協力DICASとは何か」
中日新聞記者 川田篤志から

DICAS(ダイキャス)とは、いったい何なのか。編集部から難しいお題をもらって本稿を書いている。正式名称「日米防衛産業協力・取得・維持整備定期協議」とは、2024年4月の日米首脳会談で創設が決まった協議体を指す。その目的は、米軍の武器不足や米軍需産業の供給力低下を日本が補い、米軍向けのミサイル生産や戦闘機・艦船の維持整備を日本企業が担う仕組みづくりだ。

2024年6月、10月、12月と、三回にわたって会合が開かれ、親会議の下に設置された「ミサイルの共同生産」など四つの作業部会でも協議が進むが、いつどのような形で、どんな事業が始まるのか、いまだに全体像は見えていない。

さらに米大統領選で「米国第一主義」を掲げるトランプ氏が勝利したことで、DICASの先行きは不透明さが増しているが、協議体が設置された背景や日米両政府の思惑、米軍の武器生産の「下請け化」が懸念される日本の防衛産業への影響をできる限り報告したい。

一ミサイル生産の行動計画を提出一

はじめに事実関係をおさらいする。日米両首脳の意向を受け、ラプランテ米国防次官(取得・維持整備担当)が2024年6月に来日し、当時の深沢雅貴防衛装備庁長官を交えてDICASの初会合を開き、日米防衛産業協力を進めるためDICASの設置要綱に署名。さらに「ミサイルの共同生産」「前方展開される米海軍艦船の維持整備」「米空軍機の維持整備」「サプライチェーンの強靱化」をテーマにした四つの作業部会を設置することで合意した。(中略)

7月下旬の日米の外務防衛担当閣僚による安全保障協議委員会(2プラス2)では、DICASを通じて、弾道ミサイルを迎撃する地対空誘導弾「PAC3MSE」と、中距離空対空ミサイル「AMRAAM」の共同生産を目指すことで合意した。その実現に向け、両政府は「実行可能なビジネスケースの促進」「計画のタイムラインの設定」「求められる調達量の確定」「資金メカニズムの特定」などに関する行動計画を2024年末までに提出することを決定。10月のハワイでのDICAS第二回会合を経て、12月にオンラインで開かれたDICAS第三回会合では、アムラームとPAC3MSEに関するそれぞれの行動計画が了承された。(中略)

ミサイル生産で具体名が出たPAC3とは、米国のレイセオン社とロッキードマーチン社が開発し、自衛隊向けは日本側が特許料を支払って国内で生産する「ライセンス生産品」として、三菱重工業が請け負っている。アムラームとは最新鋭ステルス戦闘機F35などに搭載するミサイルで、米企業が開発・生産しているが、日本国内では現在生産されておらず、計画がまとまれば日本でライセンス生産されることになる。いずれも、ロシアの軍事侵攻を受けたウクライナヘの武器供与などにより米国内の備蓄が不足し、生産が追いついていないとされている。

一武器生産に苦しむ米軍一

「揺らぐ米の防衛力、日本は支援できる」という見出しの寄稿が6月10日の米紙ウォール・ストリート・ジャーナルに掲載された。書いたのは、かねて日本の防衛力強化を歓迎する米国のエマニュエル駐日大使(本稿の執筆時点ではトランブ政権発足前の退任の意向とされている)だ。寄稿が掲載されたのはちょうど日本でDICASの初会合が開かれた時期で、米政府の意図を発信し、米国民、とりわけ米国内の軍需産業関係者の理解を得たい狙いがあったとみられる。

エマニュエル氏の寄稿では、米ソ冷戦の終結にともない国防予算が削減されるなかで、米軍需産業の統合・縮小と生産力の低下を嘆く文言が並ぶ。(中略)
この寄稿は「米軍の武器供給網に日本も入って協力せよ」という米軍の偽らざる本音が書かれている。そして、それはエマニュエル氏の個人的な意見ではない。(中略)

―平和国家の理念は崩壊―

日本は長年、武器の海外輸出をめぐっては、無秩序に他国に渡るようなことになれば国際平和を脅かす恐れがあるとして厳しく制限してきた.憲法が掲げる平和主義にもとづき、紛争の助長につながりかねない行為を慎んできたのだが、岸田文雄前首相は、急激に軍備増強する中国や、国際法に違反してウクライナヘ軍事侵攻したロシア、核・ミサイル開発にまい進する北朝鮮を念頭に、「日本を取り巻く安全保障環境は戦後最も厳しく複雑だ」として、日本の仲間となる「同志国」との連携を深める政策手段として武器翰出の促進を位置付け、殺傷武器を含む輸出ルールの大幅緩和に踏み切った。

DICASに深く関係する「ライセンス生産品」の輸出ルールの変更について、先ほどの説明のつづきがある。ライセンス元国から別の第三国への輸出もできるようになったのだ。日本政府は第三国輸出される場合、米国などライセンス元の国に対して日本の事前同意を義務付け、ミサイルなどの殺傷武器に関しては「現に戦闘が行われていると判断される国」への輸出は認めないとした。厳格に審査することで紛争国への流出の歯止めになるという説明だが、輸出された後に適正に管理されているかを確認できる仕組みは担保されていない。輸出後まもなく、その国がどこかの国と紛争を始めるケースもあり得る。(中略)

岸田前首相は、武器輸出ルールの大幅緩和について「平和国家としての基本的な理念は変わらない」と国会答弁で繰り返したが、それは詭弁だ。集団的自衛権を容認し、同盟国・米国への武器供与もできるようになった。DICASは、こうしてルール上可能になった武器輸出や共同生産を実行段階に落とし込む作業と言える。

日本は、戦後守り抜いてきた平和国家のイメージを捨てて一線を飛び越え、米国と一緒に「戦える国」に変貌しつつある。少なくとも中国やロシア、北朝鮮はすでに変貌したと認識しているだろう。平時から日本がサイバー攻撃などの対象になるリスクは格段に高まったといえる。

日本が下請けとなり、米軍の武器供給網に組み込まれれば、日米の軍事的一体化はさらに深まる。それは、日本が直接攻撃されないケースでも米国の判断に引きずられて有事に巻き込まれるなど、日本の独立性を毀損することにもなりかねない。大きなリスクをはらんだDICASに関する今後の日米交渉をしっかり監視したい。

コメント:私も監視したい。一見穏やかそうでも、岸田のやることは過激で、(日本にとって)危険が満載だ。彼(と自民党)にとって、憲法などあってなきがごとしである。


・遊郭が二度と出現してはならない理由。
https://news.yahoo.co.jp/articles/df9726eb56ba4cdd7ace0ba7a60737fd8e014411
コメント:おりしも大河ドラマのべらぼうが始まった。私は途中で見るのを止めたが、視聴者は吉原を子供にどう説明するつもりか。昨年の源氏物語は舌足らずの現代語が聞きづらく、今年は今年で、遊郭がテーマとは、NHKはどうかしている。

・英独仏の首脳が激怒。マスクは限度を越えた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d933627d07bde106595ba1f33a326ea0425642f0
コメント:すみませんね。何しろ無教養な自我肥大野郎なもので。増長した資本主義の鬼っ子。しかも親分が人間ではない(金髪の類人猿)。

・日本維新の会、孤立。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d2436c56320490920a358b3ea2f8a971ec9a3acf
コメント:なんでと聞く方がおかしい。国民のお荷物=万博。兵庫県民のお荷物=斎藤知事。本当にろくな事をしない政党だ。馬場の正体も、検察は遠慮しないできちんと洗うべきである。叩けばほこりが出るはずだ。

・トリクルダウンはなかった。増えたゾンビ企業。
https://digital.asahi.com/articles/ASSDZ3C2RSDZULFA01QM.html?iref=comtop_Topnews2_02
コメント:安倍の置き土産。あっちの世界に持って行って欲しかった。



2685.迷走するドイツ 1.9

今回の前書きも雑誌地平二月号からです。

「迷走するドイツ」
『イスラエル批判を抑圧する言論環境とその形成』政治学者 本田宏から

2023年10月のハマスの武装勢力による襲撃を直接のきっかけに始まったイスラエル軍の報復攻撃はガザ地区に深刻な人道危機をもたらしており、レバノン侵攻にも拡大した。ところがドイツではイスラエルヘの批判を表明した文化人やパレスチナ連帯デモが「反ユダヤ主義」のレッテルを貼られ、様々な弾圧を受ける事例が頻発している。

ドイツはこれまでナチスの歴史経験にもとづき、イスラエルやユダヤ人への補償、歴史修正主義との戦い、ヘイトスピーチ規制、連邦や州が推進する政治教育を行なってきたことが好意的に紹介されてきた。しかし現在の言論弾圧は、ドイツの「反ユダヤ主義との闘い」に別の顔があることをうかがわせる。

―弾圧

2023年10月以降、バレスチナ連帯デモはたびたび弾圧を受けてきた。弾圧の口実に最もよく使われるのは、イスラエルとパレスチナが位置するヨルダン川と地中海の間を表す「川から海へ」という言棄である。特に「パレスチナは自由になる」という言葉を加えたスローガンを連邦内務省は「イスラエル国家の生存権の否定」とみなしている。警察はこの解釈に依拠し、ヘイトスビーチ規制のための法規を適用している。しかし連邦憲法裁判所は「発言に対して複数の解釈が可能な場合、一般に処罰されない解釈が選択されるべきである」という判例上の原則にもとづき、文脈を重視しており、警察の判断を覆すこともしばしばである。

デモに対する弾圧はマスメディアによっても行なわれる。イスラエル支持を社則に掲げるアクセル・シュプリンガー社の新聞(『ビルト』、『ヴェルト』)のみならず、公共放送もイスラエル寄りのバイアスが強い報道をつづけている。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリはドイツでも好意的に評価されていたが、2023年10月以降、彼女がパレスチナ連帯デモに参加するようになると、主要メディアや政治家から激しい糾弾を受けるようになった。(中略)

2024年5月には、ペルリン自由大学の構内で抗議テントが排除された。大学当局は警察に出動を要請する前に対話を試みるべきだったとペルリンの複数の大学に所属する教員が抗議声明を出すと、タブロイド紙の「ビルト」は賛同教員のうち十数名の顔写真を掲載して「犯罪者」だと非難する記事を出した。さらに声明賛同者への助成停止の可能性が自由民主党所属の大臣の下、連邦教育省内で検討されていたことを示すメールが報道で明るみに出た。
国家や団体による助成停止は文化活動や市民活動の領域に広がっている。(中略)

また2024年2月に開かれたベルリン映画祭では、ヨルダン川西岸のパレスチナ人の村がイスラエルによって破壊される光景を扱った映画「ノー・アザー・ランド」が最優秀ドキュメンタリー賞を受賞したが、その授賞式ではパレスチナ人の映画監督がガザで人々が「虐殺されている」としてドイツに武器輸出の停止を求め、イスラエル人の共同監督はパレスチナ人が権利を奪われている「アパルトへイト」状態に言及した。ベルリン市長(キリスト教民主同盟所属)をはじめとする政治家たちは一斉に非難の声を上げ、映画祭への助成の停止を求める声も出た。

連邦内務省の「2017年反ユダヤ主義報告書」によると、2001年から2015年まで年平均1414件あった反ユダヤ犯罪のうち、右翼政治的動機のものは91.2%を占めたのに対し、左翼政治的動機のものは0.4%、「外国人」によるものは5.7%、「その他」は2.7%にすぎない。にもかかわらず警察の主要な標的は後の三者にまたがるパレスチナ連帯のデモや集会である。外国出身在独ユダヤ人が主導する「中東における正義の平和を求めるユダヤ人の声」は主催団体として様々な弾圧を受けている。ドイツにおけるユダヤ人の「生活」(集団・文化)を守る名目で、実際は極右政権下のイスラエルの国益を守るため、ドイツ在住ユダヤ人が非ユダヤ系のドイツの政治家や警察官、メディアに弾圧される矛盾がある。(以下略)

コメント:これでやっとガザ紛争における、ドイツの煮え切らない態度の理由がはっきりしました。一言で言えば、イスラエルの極右政権と結びついた、独国内の得権益及び利権構造なのです。彼らが、自分達の便益の為に、極右イスラエルに理不尽な肩入れをして来たとしか考えられない。
もう一つ言えることは、ホロコーストを後押しした独国民の特異な価値観が、今回はそれとは正反対のユダヤ極右勢力の支援に回っている現状です。どっちに転んでも極端であることだけは共通している。それが国民性だとすれば、ドイツが強国だけに、怖ろしい事です。
それでもメルケルの間は良かったが、国の代表が変れば何が起きてもおかしくない。しかもそれは日本にとっても他人事ではありません。あれだけ戦争と原爆で痛めつけられたのに、戦後の平和主義から、最近では反対方向に動き出しており、大きく右に傾いて、防衛費の拡大に動き出しています。しかも最近では、自衛の為なら、部分的に核を使ってもいいのではないかという意見を言う者さえいるのです。
また本来リベラルであるはずの野党の中にも、自民党よりさらに極端な超保守の思想を掲げる政党が、複数存在しています。日本を第二のドイツ(価値観が極端な国)にしないように、リベラルな国民は最後まで抵抗しなければならないのです。
しかも最近では、独と同様、日本でも言論弾圧が始まっています。そのきっかけは、非常識な連中による、SNS上のフェイクニュースや誹謗中傷というのだから、救いがないのです。阿呆な連中が暴走し、その後始末は、常識のある国民に押しつけらえる。バカバカしくてやっていられません。


実は今回はもう一つ紹介したいエッセイがあります。それは朝日新聞(1.8)序破急です。死刑という重いテーマですが、日本の司法は、この問題を避けては通れないところまで来ていると思います。死刑制度の賛否以前に、少なくとも、絞首刑や電気椅子を止めにして、苦痛の少ない方法に切り替えるべきです。

「立ち会った人の責任とは」司法社説担当 井田香奈子

検察官のだれもが関わるわけではないが、任務の中でもひときわ重いものに、刑場での死刑執行の指揮がある。
最高検検事を経て、研究者に転身した土本武司・筑波大名誉教授は、その経験をあえて語った人だった。昨年89歳で亡くなり、訃報が過日、公になった。
現職教授のころは、元検察官の視点で裁判や刑事法制にコメントし、メディアでおなじみの存在だった。しかし、聞かれることはまれな死刑制度に関する意見は、「現行のまま存置すべきだ」との法務・検察の見解とはかなり達っていた。

憲法には死刑を想定していると読める規定があるが、「残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」との規定もある。許容されるかどうかは具体的な方法にかかっているとして、絞首刑には反対していた。
 その姿勢は高検検事時代に一度、死刑執行を指揮したことと無縁ではない。

2018年、在京フランス大使館が主催した死刑制度をめぐる討論会のパネリストを務めた。仏の画家、日本の弁護士らの死刑をなくすべきだという発言には質問で返していた。
一方で、自らの死刑執行の経験も話した。「むごたらしく、見るにたえない。人間の諄厳を害することだと感じた」
「人道的観点から可能な方法を探るべきだ」とも。静かな語りを、日仏の参加者がじっと聞いていたのが印象的だった。

当初、土本さんは登壇をためらった。1981年に死刑を廃止した仏政府は世界的な廃止を望んでいる。「存置派」とされている自分に何が言えるのか。担当外交官バンサン・マノさんを自宅に招いて、3時間話した。

マノさんは、死刑制度への賛否でなく、なぜ日本が死刑を続け、市民はどう見ているのか考える機会にしたいと伝え、後日、了承されたという。「いわば『悪役』を、あえて引き受けてくれた。議論にオープンな、信念をもった人だった」と当時を振り返った。

死刑制度の存廃は、実際、どんな刑かをふまえずには議論できない。「正視できない」任務の経験を他者に話すことは並大抵のことではないが、よりよい刑罰制度に生かしてほしい、という責任感があったのではないか。

社会へと残された言葉を、受け止め、共有していきたい。



2686.ジャーナリズムについて 1.10

雑誌地平からのご紹介の3つ目はジャーナリズムについてです。

「ジャーナリズムの拠点を構築する為に」専修大学教授 山田健太から

今の日本で「ジャーナリズム」と言う言葉に、どれだけの人が反応するだろうか。
(中略)言論報道機関は、社会的影響力を相対的に軒並み失ってきている。一般市民の新聞離れ、テレビ離れを明確に示している。
もちろん、教師や大学教員の側でも、もはや新間を定期購読する人は少数派と思われるし、家にテレビがない者も珍しくない。(中略)

本稿はこうした実相を前に、このままジャーナリズムの消滅を待つのではなく、むしろ積極的に社会の認識を変え、まっとうなジャーナリズム活動を日本社会に根付か せ、民主主義社会の維持・発展に寄与するために何ができるかを問うものだ。そのための挑戦を紹介しつつ、その前提の現状をいくつかの事例を通して情報共有することにしたい。(中略)

ここで明らかなのは、法によるもの、法にもとづく行政運用、そして自主規制、さらには市民の中から生まれる規制圧力が同時進行し、その結果として加速度的に自由の幅が狭まっているさまだ。しかも、東日本大震災、そしてコロナ・パンデミックは、個々人の自由や権利の制限を、広範にしかもおおよそ無批判に受け入れる空気を社会に作り、それが完全に定着している状況にある。

コロナ禍における公権力による個人の権利制限を、当時のドイツではメルケル首相が「一時的にお預かりするもので、感染拡大が収まればすぐにお返しする」と言ったが、日本は真逆で、「これを機に全部、政府がいただきます」といった状況になったわけだ。

こうした事態は、「コロナ後」においてもつづいており、 国の安全や日々の生活の平穏さを確保するためなら、自由を差し出すことに抵抗感がなくなっている。そしてこれがジャーナリズム活動に暗い影を及ぼしている。

その象徴的な事例の一つが、記者会見だ。すでに「コロナ前」から政府官邸の官房長官会見では、特定記者をターゲットとした質問制限が常態化し、会見制限を告知する通知書が官邸の記者クラプに提出され問題となった。

当該新聞社からは抗議がなされるなどしたものの、こうした制限はなくなるどころかより強化され、しかもこれにコロナ禍が重なることで、同じ官邸で開催される首相会見においては、「コロナ中」には出席できる記者の数が大幅に制限され、常駐社といわれる大手の新閲・通信社から各一人のみの会見となった。これに対しては拡大を求める声が何度か上がったものの、記者クラブ加盟社の中に制限を歓迎する社があることから、一致した抗議には至らなかった経緯もある。

さらにこうした状況は「コロナ後」もつづき、一社一人一回一問で「更問い」といわれる追加質問による追及は禁止された。そもそも記者会見は、記者クラプの主催、もしくは開催場所所轄官庁(たとえば官邸といった行政機関)との共催であって、一方的に行政側が出席メンパーを決めることや、質問を制限すること自体に問題がある。それは政治家の側に、「会見はサービス」との考え方が蔓延していることを意味している。

本来であれば、情報公開法の立法趣旨からしても、官邸など行政員には法的な説明責任義務があり、首相や官房長官などには少なくとも政治家としての有権者に対する責務から一定の取材応諾義務があると考えるのが適当である。ジャーナリズム活勁が、市民の知る権利を代行するものだと考えるならば、なおさらである。少なくとも政治家の倫理的責任として、メディア選別は許されるはずはなく、取材を求める報道機関に対しては分け隔てなく取材の機会を与え、真摯に対応することが求められていよう。

にもかかわらず、つい先日、2024年11月には沖縄県南城市で、不祥事を追及される古謝景春市長が地元新聞記者の質問を無視することが起きた。2024年夏の東京都知事選に出馬し人気を博した石丸伸二は、前職の安芸高田市長時代、市政運営に批判的な地元紙現地支局長の質問に一切答えない事態がつづいていた。これに対し市長はその動画をYouTubeにアップすることで、自身の行為を正当化し、支持者を増やし、ネット上での一定の評価を得ることに成功している。

こうした政治家のパフォーマンス、政治のエンタメ化を許しているのは、会見の場における個々の報道機関の「覚悟」が足らなかったためではないか。そうだとすれば、それは読者・視聴者の期待を襄切ってきたということに他ならない。あるいは、会見に同席するライバル社への「いじめ」を見て見ぬふりをする記者(報道機関)は、知る権利の代行者を語る貸格はなく、ジャーナリストとはいえない。

このような会見の空洞化は2024年だけの問題ではない。石川県・馳浩知事も2023年一月、自身を批判的に扱った公開映画のワンシーンの扱いを理由に、制作した地元放送局の社長が会見に出てくることを条件とし、定例会見自体を取りやめた(因果関係は不明だが、その後突然、社長が辞任した)。(中略)

そして、取材の自由の縮減を示すもうーつが、取材行為を「違法」と判断する、あるいは軽視する事例がつづいていることだ。取材活動を理由に当該記者が逮捕、書類送検された事例と、報道機関が強制捜査を受けた事件をここでは挙げておきたい。

前者は、2021年六月、旭川医科大学で取材中の北海道新聞記者が現行犯逮捕され、その後、長時間にわたって警察に留置された事件だ。記者は、学内で開催されていた会議を取材する目的で構内に立ち入り、部屋に面する廊下で会議の様子を録音していたところを大学職員に取り押さえられ、誓察に通報されたという。もうーつは、2021年七月の熱海市伊豆山土石流災害に際し、共同通信記者が、不在だった民家のベランダから現場を撮影したところ、後日、書類送検された事案だ。

取材行為が、形式的に違法や不当な行為に該当する場合があることはむしろ当然のことでもある。(中略)しかしこれらの行為は刑法で定める「正当な業務行為」(35条)として理解され、違法性が阻却され、罪に問われることがない、というのが長年の法慣習である。(中略)旭川の事例のように病院を併設する医大の敷地で自由な立ち入りが日常的に可能な場であったり、土石流の現場で広範に指定された緩やかな立入禁止区域で二次災害の危険性がない場所であったりすることを勘案すると、どちらもあえて罪に問う必然性は低く、ましてや現行犯逮捕までして身柄を拘束する意味合いは極めて低い事案である。

また、前記の公務員の事例でいえば、情報漏洩したことが組繊にわかると処分を受ける可能性もあり、当然、記者の側は「取材源の秘匿」を厳重に守ることによって、情報源との信頼関係を構築し、結果として読者・視聴者の知る権利に応えるべく必要な情報を入手する努力を継続することになる。

にもかかわらず、2024年四月に鹿児島県警によるニュースメディアに対する強制捜査、取材情報が入ったパソコンの押収は、真っ向から取材の自由を否定する行為であった。実際、この押収によって得た情報をもとに、県警は情報源を割り出し、内部告発者を逮捕した可能性が高く、二重三重に県警の捜査は取材の自由を否定する暴挙であったわけだ。

こうした制限が「起きやすくなってしまった」状況を、もとに戻すことは極めて難しい。それはまさに、最初に述ベたように日本の市民社会全体が制限を受け入れる空気に包まれているからだ。

まずは市民的自由の大切さをきちんと理解すること、さらにはジャーナリズム活動が民主主義社会のために必要不可欠で、その自由や権利が市民のそれよりも上乗せされて認められることが市民社会として合意される必要がある。(中略)

先に述べた「表現の自由の後退」は、東日本大震災とコロナ・パンデミックという日本社会を揺るがす大きな出来事が強く作用して、〈不自由社会〉の階段を一気に駆け上がったものだ。

ただし、もう少し長いスパンで見ると、そうした予兆は2000年前後に生まれていた。実際、新規規制立法の流れは2000年代初頭から始まっている。さらにその流れが2012年に始まる第二次安倍政権と重なり、強まっていった。この流れの底流には親・政権と反・政権という(メディア自体も含む)社会の分断による、批判的報道を行なう新聞社・放送局に対する政権支持層からの厳しい「偏向」批判があった。(以下略)

コメント:筆者は後半部分で、対策として、ジャーナリズム教育などを提唱している。しかし問題の本質は、メディアがどこまで社会正義の為に、気概を持って規制権力に切り込めるか、自分を犠牲に出来るかではないかに尽きるように思う。そのための拘留ならむしろ名誉の勲章だ。そういう意味でも、現在健闘しているのは、未だに或る程度のジャーナリズムの精神を残している新聞各紙を除けば、週刊誌ならサンデー毎日、月刊誌なら世界と地平、TVの報道番組なら、テレ朝の羽鳥のモーニングショウ、BSTBSの報道1930(松原耕二)、NHKのクロ現、くらいではないだろうか。もう一つ、TBSにはサンデーモーニングがあるし、テレ朝の田原総一朗のクロスファイアーもある。
なおモーニングショウは、庶民のレベル(失礼)だが、決して馬鹿にはできない。中でも元ツイッター・ジャパンの代表だった笹本祐が出た回では、現Xの代表イーロン・マスクを徹底的に分析するという出色の番組になっていた。モーニングショウの唯一の欠点はコメンテーターの質にばらつきがある事で、最上位は元アエラの浜田敬子。低い方では司会者自身が、番組を欠席するタレントと指摘していた、世間での通称馬鹿息子や、気象予報士がいる。前者は、玉川へのライバル意識むき出しだが、政治経済の一般向けの悦明自bンhs−事frV江尾k教養いおおあんきゅいう基本知識で比較にならない。しかも直ぐに感情的になるし、タメ口はきくしで、他のコメンテーターと同列の比較は無理がある。彼のドヤ顔を見たり、ダミ声を聞くのが辛いので、私はチャンネルを変えるようにしている。コメンテーターの質は、金曜日が一番低いような気がするが、あくまで個人的な感想である。他局でも、例えば高名な脳科学者の某女史は、ビジュアルは目立つが、庶民がガッテンするようなコメントにお目にかかったことはない。でもMCだって、箸も棒にも掛からないようなお笑いタレントが、これ未だダミ声、ドヤ顔でやっている。コメンテーターについても、彼ら、彼女らの責任と言うよりも、要はTV局側の人選ミスだろう。知名度やルックスで「有識者」を選んではいけないということだ。

関連記事:荒廃し炎上マシンと化したX。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00565/010600024/?n_cid=nbpnb_mled_mre
コメント:メタがXに追随しようとしている。これはもう完全にメディアの私物化である。

関連記事:マスクが憎悪扇動。ファシズム復活のおそれ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ee373e289bbf11bacc0d62c9344d63efd226f202
コメント:まさに悪魔のパシリ。



2687.米国のカースト 1.11

今回の前書きは朝日新聞(1.8)インタビューの紹介です。

「米国の二つのカースト」コロンビア大教授 マーク・リラから

労働者とエリート
階級分ける教育
包摂の危機広がる

米大統領選で当選したトランプ氏は、ヒスパニックや若者、女性など従来の民主党の支持革盤でも支持を伸ばした。エリート主義に陥るリベラル派の自滅に警鐘を嗚らしてきた米政治哲学者のマーク・リラさんは、米国は左右というより上下に分断されていると語る。社会の亀裂は埋められるのだろうか。

―大統領選で、米国の分断がまたもあらわになりました。

「今日の米国は、文化的に互いを認めない二つの『カースト』が存在する国になりつつあります。かつて米国人と言えば、大統領を含めて似た嗜好を持っていました。同じものを食べ、同じテレビ番組を見て、同じように子どもを育て、教会に通い、同じジョークで笑っていた。でもそれは大きく変わりました。娯楽の楽しみ方も、ユーモアのセンスも」

「特に、身体的・経済的な健康管理のあり方は象徴的です。今日、米国には2種類の体つきの人がいます。つまり、一般的に太り気味でしばしば肥満の労働者階級と、健康で食にこだわりエクササイズと医者通いを欠かさぬエリート階級です」

「かつては労働者階級からエリート階級に上るための『はしご』がたくさんありました。高待遇の肉体労働の仕事があり、子どもたちのための良い学校があり、賃金を守る労働組合があった。しかし今では、はしごはたったひとつしかありません。大学に入るか、入らないかのどちらかで、20代になる前に一生が決まってしまうのです」

―教育が社会を二つのカーストに分ける最も重要な要素になっていると?

「そうです。今日、米国における文化的格差は、地理的な要因ではなく、教育によるものです。今や労働者階級から抜け出すためには大学教育が必須ですが、3分の1の人はその恩恵を受けられていません」

「この格差がもたらす結果は経済的なものだけではありません。大学は、有利な職に就くための訓練を提供するだけでなく、学生を低学歴者とは大きく異なる新しい生活スタイルに社会化します。人前での身の処し方、食事の内容、子どもの人数、育て方、お金の管理…。これらをめぐって両者はまったく別の考えを持つ、いわば二つの『米国人』に分岐するのです」

「フランスの政治思想家トクヴィルはかつて、極端に異なる生活スタイルは政治的利害を共有する人々を隔て、相互の認識や友好も不可能にしてしまうと述べました。米国での新しい文化的格差は、埋めるのが困難なほど深刻化しているのです」

―ハリス陣営はトランプ氏や副大統領候補のバンス氏らを「奇妙だ」と批判しました。

「米国のエリート層には道徳的な傲慢さがあります。二つの『カースト』は道徳的エネルギーの方向性も異なります。労働者階級は結婚と伝統的家族の価値を信じ、子どもたちが学校で性教育を受けることにも反発します。しかしユーモアに関してはむしろ非道徳的で、人種や性的なステレオタイプを使ったコメディーを時には楽しみます」

「エリートの場合は正反対で、伝統的家族を抑圧と見なします。いかなる『差別的』なユーモアに対しても極めて批判的です。重苦しく、とにかく陰気―。これが多くの人にとって『ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)』の意味になってしまっていました」

―しかし、リベラル派の運動が社会正義や差別への人々の意識を高めたのではないでしょうか。

「民主政治とは『説得』であって、決して『自己表現』ではないのです。リベラルが本気で右派からこの国を奪い返したいと願うのであれば、今すぐに説教壇から降り、人々の話に虚心坦懐に耳を傾けるべきです」

「民主主義にとって第一の、そして最も必要な条件は『包摂感』です。逆に、羞恥心や憤りといった感情とともに広く共有される排除意識は、民主国家にとって極めて有害です」

「白人労働者の苦境が表出しているラストベルト(中西部の工業地帯)では、シャッターが閉まったままの商店や雑草だらけの工場が並び、水道水は飲めたものではない。そこかしこに銃がある。最低賃金のパートタイムの労働で、健康保険にも入れない家庭が細々と暮らしている。そして皆、自分たちは国に見捨てられたと感じています」

「不信、軽蔑、憤り、反感、自閉。こうした感情はマイノリティー、特に黒人が常に抱えてきたものですが、白人の多くの層が初めて、はるかに大きな規模で経験しているのです。相互承認は解け去り、包摂の危機が広がっています。そして、それをどうすれば止められるのか、答えを見失っています」

―リベラル派のエリート主義の問題に加え、人種・民族・ジェンダーなど特定の属性や集団の利益を求める「アイデンティティー政治」の行き過ぎをかねて指摘されていますね。

「『民主党』の現在地を評価する上で、問題を複雑化させているのは、人々がこの言葉を二つの意味で使っていることです。一つは、実際の党組織を指し、もうーつはメディア、大学、ハリウッド、そしてシリコンバレーなど、リベラル勢力の中枢にいる人々を指します」

「党組織の方は、おおむねトランプ氏が初当選した2016年の敗北から教訓を学びまし た。現実主義が働き、今回の選挙戦でハリス陣営はアイデンティティー政治を強調せず、労働者階級の有権者への訴えを重視しました。ただ、リベラル派の中心では、相変わらずアイデンティティーの問題が重要です」(中略)

「民主政治の中心概念である『市民』とは、そういうものではない。それは個々人の属性とは無関係に、政治社会の構成員である他のすべての同胞と絶えず結びつき、社会における権利と義務を兼ね備えた存在です」

―右派が伸長する欧州でも、リベラル勢力はアイデンティティー政治にとらわれているように見えます。

「民主政治の中心概念である『市民』とは、そういうものではない。それは個々人の属性とは無関係に、政治社会の構成員である他のすべての同胞と絶えず結びつき、社会における権利と義務を兼ね備えた存在です」


―右派が伸長する欧州でも、リベラル勢力はアイデンティティー政治にとらわれているように見えます。

「どの国もエリートと非エリートの文化的格差は広がり、しかもそれを制御する方法を見いだせず、多くの国民は自分を守ることさえできない状況です」

「問われているのは、リベラルが市民の結びつきを強める方向に進めるかどうかです。属性を細分化し差異を強調することで人々を限りなく分断化していくのではなく、私たちがいかに多くのものを共有し、互いに恩恵を与え合っているかを、強く訴える必要があります」

「とにもかくにも『市民』がいなければ始まりません。自分の頭の中だけの狭い世界から出て、自分とは似ても似つかぬ人々へ関心を向ける、そんなリベラルな市民をつくること。トランプと、彼が象徴するすべてのものに対抗したいのなら、そこから始める必要があります」

(聞き手・石川智也)

コメント:現在の米国の状況、特に民主党の衰退を、最も分かりやすく説明した対談だと思います。まさにWTWが願うもの、目指しているものも、市民の復興と育成に他なりません。市民とは、倫理も道徳の観念もなしに無軌道に暴走する若者のことでもなく、既得権にしがみつく保守的で頑迷な中高年のことでもない。しかも日本の野党はリベラルの旗を投げ捨てて、政治権力欲の奴隷になっている。だから与党と共に、野党にも、日本の政治を任せる気にはなれない。第二自民党が生まれるくらいなら、自民党を二つに分けた方が未だましなのです。市民中心の国を作る為には、市民がもっと増える必要がある。それがWTWの目標であり、WTWはその使命の為に、これからも心血を注ぐ覚悟でいます。来るべきルネッサンス(人間性の回復)2.0とは、市民(=市民意識のある国民)の復活に他ならないのです。


もう一件、トランプがらみで朝日新聞(1.10)津山恵子のメディア私評から
「トランプ氏再び 権力監視の役割 これまで以上に」

米国の2025年は、ショッキングな殺傷事件で幕が開けた。1日午前3時過ぎ、南部ルイジアナ州ニューオーリンズの繁華街で新年を祝う群衆にトラックが突っ込んだ。死者は14人にも上り、新年気分は吹き飛んだ。

トランプ次期大統領はまだ情報が錯綜していた最中、「外から来る犯罪者は、国内の犯罪者に比べてはるかにあくどい。そう発言するといつも民主党とフェイクニュース・メディアに反論されてきたが、真実であることが分かった」とSNSに投稿。犯人があたかも不法に国境を越えてきた移民であるような発信をした。2024年大統領選挙戦中の「不法移民は犯罪者。国境警備を強化し、米国を安全な国にする」という主張に、凶悪事件を結びつけたわけだ。さらに、事件は「史上最悪の大統領」であるバイデン 氏の「国境開放政策」のせいだとの投稿も加えた。

しかし、事件を引き起こした容疑者(42)は、米国生まれの元陸軍兵だった。トランプ氏の投稿は事実ではなく、バイデン大統領は会見で否定した。犠牲者が14人もいる中、トランプ氏の投稿で政治的な対立と応酬に置き換えられた形になり、正直なところうんざりさせられた。

米メディアの多くはトランプ氏の発信を報じたが、今後、果たして次期大統領あるいは大統領だからと逐一「報道」していくべきなのだろうか。

トランプ氏のSNS「トゥルース・ソーシャル」のフォロワーは845万人(1月5日現在)だが、各種メディアが「投稿した」と報じることで、投稿内容が嘘や偽の情報であっても接する人は増え、投稿を信じる人が拡大していく。メディアはそれを傍観していてもいいのだろうか。

コンサルティング会社ユーラシア・グループ社長で政治学者のイアン・ブレマー氏は、インスタグラムの動画でこう指摘した。

「メディアの事件の報じ方はあまりにも、誰が悪いのか、ということに集中しすぎている。保守派かリベラル派か、トランプ支持者なのか、白人至上主義者なのか、など。最も大切なことは、罪もない市民が犠牲となり、家族も悲しんでいる、ということ、事件がなぜ起きてしまったのか、ということだ」

昨年11月、トランプ氏が米大統領選挙で再選を果たしてから「ニュースを見なくなった」「メディアからのメルマガを全て解約した」という友人が少なくない。「ニュース離れ」がさらに進んでいると体感する。

ロイタージャーナリズム研究所の「デジタルニュース報告書」(2023年)によると、「先週、ニュースの情報源として利用したものはどれか」という質問に対し、新聞、テレビ、オンラインメディアのどれも「全く利用しなかった」という答えが、米国では12%に上った。この数字はさらに上昇しているだろう。

「ニュース離れ」の背景には、ジャーナリズムに期待される役割が変化し、受け手には満足できない内容になっている可能性がある。トランプ氏らからの誤情報・偽情報、陰謀論、他者への攻撃が四六時中、ニュースとして伝えられていることで、受け手は不安を煽られて疲弊している。メディアが従来と同じような報道を続けてもいいのか、じっくり議論し見直していく必要がある。

トランプ氏と共和党は、ホワイトハウスと、上下院の過半数を得た。「ノーガードレール」と呼ばれ、ホワイトハウスを監視する機能が衰退すれば、トランプ独裁政治が始まることが懸念される。

「ウォッチドッグ(権力監視)」の役割を果たせるのはメディアだけとなり、その役割がこれまで以上に求められる。原稿のスタイルなども含めて、権力監視のあり方を意識して変革していかなければならない。ファクトチェックを強め、不正は今まで以上に積極的に報道していくべきだろう。

米紙USAトゥデーは1月5日、「米国人は愚かさに対する戦いを宣言するべきだ」とする同紙コラムニストのコラムを掲載した。トランプ氏がニューオーリンズでの事件を不法移民のせいにし、共和党議員がそれに同調したことを「恥ずべきだ」とする。トランプ氏のお気に入り下院議員で、「カリフォルニア州の森林火災は、宇宙からのレーザービームで起きた」などと陰謀論を唱えるマージョリー・テイラー・グリーン氏についても、「恥ずべきで、議員生命が絶たれるべきだ」と指摘した。

コラムはさらに、「トランプ氏が愚かさを容認できるようにしてしまった。しかし、そうであってはならない」とし、 トランプ氏や共和党からの愚かな発言を、繰り返し繰り返し「恥ずべきだ」と否定していかなければならないと締めくくった。

米大統領選では、伝統的メディアの報道を吟味してだれに投票するか冷静に判断する人は、確実に減少している。トランプ氏をインタビューしたYouTubeのショーやポッドキャストは、テレビの視聴者数をはるかに上回る再生回数を記録した。例えば、3時間にわたるトランプ氏へのインタビューをしたコメディアン、ジョー・ローガン氏のYouTubeは、投開票日直前に約4千万回も再生された。

1月20日、トランプ氏の大統領就任式が首都ワシントンで行われる。いかにメディアが批判精神を維持して「権力監視」を続け、信頼できるニュースに触れる人を増やすことができるのか、正念場に差し掛かっている。まさに「再出発」の時期だ。

コメント:筆者は元共同通信記者で、NY在住のジャーナリストとのこと。なお週刊新潮(1月16日号)に、「選挙を破壊する暴走SNSの研究」という特集があるので、追ってご報告したい。日本では新聞、TVだけでなく、週刊誌の果たす役割も大きいのが特徴です。



2688.暴走SNS 1.12

今日の前書きは週刊新潮(1.16号)「選挙を破壊する暴走SNSの研究」から、その一部をご紹介します。

・石丸、玉木、斎藤の共通点
・テレビ・新聞の文法が通じなくなっている
・兵庫県知事選は劇場型押し活
・賢者が教える騙されない為の唯一の方法。
…暴走SNSによって破壊された選挙。昨年11月、斎藤元彦知事が再選された兵庫県知事選挙を一言で評するとそうなる。異例の事態と熱狂の正体は何だったのか。
(中略)
「アメリカの政治学者イリヤ・ソミンは、有権者は候補者について何も知らないまま義務的に投票するか、スポーツファンのように、選挙をエンターテインメントと見なし、自らのアイデンティティの証明として「部族的・党派的」に投票するかのどちらかだと指摘しています。トランプ現象が典型ですが、日本でも選挙を推し活化できればどれほどの力を発揮するかを証明したのが、齋藤知事だったわけです」
(中略)
問題は立花氏のSNSの投稿内容。そこには、「客観的な事実」と証明されていない要素が多々含まれていた。
以下は立花氏がYouTubeに投稿した動画のタイトルの一部だ。

〈兵庫県知事は悪くない。悪いのは自殺した元県民局長です!〉(編者注:公序良俗に違反する表現を含んでおり、とてもそのまま掲載はできない)(中略)
〈奥谷謙一委員長が、兵庫県民の敵ですーこいつがマスコミに圧力かけて、元県民局長の自殺原因を知事のパワハラにしています!本当の自殺の原因は自殺者自身の不倫だったのに!〉
などと、しきりに斎藤知事を告発した元県民局長の「不倫」を取り上げている。
しかしこれを「客観的な事実」と証明するためには、当事者から話を聞く必要がある。しかし元県民局長はすでに亡くなっているし、愛人とされる女性が事実関係を認めたとの情報もない。つまり、単なる怪情報に過ぎないわけだが、立花氏の投稿に動かされる形で齋藤氏支持に回った有権者は多かったのではないか。(中略)

しかし「斎藤氏は既得権益者の犠牲者」「メディアはウソをついていた」といった言説の真偽は不明だ。つまり陰謀論の類と言ってよかろう。

「選挙の投票日、斎藤さんの事務所の前にはたくさんの人が集まりましたが、家族連れで来る人が多かったようです。おそらく家族の中でSNS上の“真実”が共有されたのでしょう。これは陰謀論を信じるQアノンと呼ばれる人々や、地球平面説を唱える人たちと似ています」

元県民局長は県の公益通報窓口にも内部通報していたが、斎藤氏は公益通報の調査結果を待たずに彼を停職3カ月の懲戒処分とする判断を下した。彼はその2カ月後に自殺した。こうした「揺るがない事実」は、暴走するSNSの中で広がる陰謀論によってかき消されてしまった。代わりに熱狂的空気が覆い、後には斎藤氏の再選という信じ難い結果が残された。

評論家の宇野常寛氏はこう語る。

「まず『隠されていた真実』という発想が危険です。『隠されていた』=まだ『検証 待ち』の情報だということですから。そして、戦略的に陰謀論を流布する情報戦が行われると、長期的にはおそらく左も右も、立場にかかわらず全員が損をすることになります。政策論争や長期的な視点に基づいた選択が有権者にとって難しくなってしまいますから」

京都大学名誉教授の佐伯啓思氏の話。

「欧米や日本のような民主主義社会にとって、「客観的な事実」こそが民主政治の大前提でしたが、SNSはその前提を破壊してしまいました。SNSは、事実か意見か臆測かを問わない、といった特徴を持っており、既成メディアにいわばゲリラ戦をしかけました。(中略)」

その結果として、

「情報は何でもありになりました。それでは「事実」と「意見(臆測)」、「公的なもの」と「私的なもの」などを区別することで成立していた政治的な公共空間が担保できません。これは民主主義に対しては、かなり破壊的なことでしょう」

それに対して我々が取れる手段はあるのか。

「名案はありませんが、しいて言うと「民主主義や個人の自由を疑え」ということです。そういう政治的な健全さの意識を取り戻す以外にないと思います」

目下、選挙のSNS戦略を請け負ったとされる美人社長のPR会社に報酬を支払った、として公選法違反の疑いで刑事告発されている齊藤氏。仮に起訴され有罪となり、再び失職して再出馬の資格を失うと「SNSで笑ってSNSに泣く」ことになるが果たしてー。

コメント:私がこの事件で最も腑に落ちないことは、立花の、故人への誹謗中傷、もっといえば重大な名誉棄損が明らかなのに、なぜ検察は愚か、メディアもその違法行為を咎めようとしないのかです。私は機会さえあれば、社会正義と選挙制度を守るために、この民主主義の敵のゴロツキ(個人的評価)を最高裁に引き出したいと、本気で思っているのです。そして故局長の菩提を弔うために、故局長が命がけで抗議した、無責任、無表情、無慈悲(個人的評価)な公私混同知事から行政を取り戻したいと願っているのです。そもそも立花は斎藤の支援者から金を貰って応援した(その実は嘘八百を並べ、相手候補と百条委員会の代表を中傷し脅迫した。このどこが言論の自由なのか)と自ら言っているのに、なぜそれが選挙違反にならないのか、理解に苦しみます。なお斎藤は手続きを無視して勝手に局長を解雇したのだから当然クロだが、その指示に従い、もしくは先回りして、局長を脅迫した当時の副知事(さらに悪相)も同罪に問われるべきです。

・関連記事。事実より感情に訴えたSNSがつくる「ポスト真実の時代」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/378264



2689.米国第一主義 1.15

今回の前書きは朝日新聞(1.15)耕論「米国第一主義」と世界経済、から3件です。

「振り回されず自らの軸を」みずほリサーチ 安井明彦
…分断が激しい米国ですが、実は経済政策に関しては、トランプ氏と民主党のハリス氏では、むしろ重なるところが多かった。ひと言でいうと「内向き」ということです。ハリス氏も、もっと移民を受け入れましょうとも関税を下げましょうとも言いませんでした。 米国民の暮らしを重視するということでは、どちらが大統領になっても、似た方向だったと思います。

大統領が代わっても、日本経済にとっても世界経済にとっても、米国の菫要性は簡単には変わりません。それだけに私たちは、冷静に米国を理解して、正しく恐れることが必要です。

そしてそれ以上に、米国ばかりでなく、私たち自身を見つめることが大切です。米国も、どんな経済を目指すか模索中なのです。私たちは日本経済をどうしていきたいか真剣に考えないと、大統領が代わるたびに振り回されてしまいます。


「米頼らぬ体制 日本主導で」経済安保専門家 富樫真理子
…日本にとって、米国が最も顕要な同盟国であり、重視すべき経済的パートナーである事実は変わりません。経済安保で協力しない選択肢はありえませんが、協力の仕方を変える必要は出てくるかもしれません。

トランプ政権は多国間の枠組みより二国間のディールを優先しようとするでしょう。日本は、できるかきり多国間の枠組みを維持するよう米国に働きかけつつ、二国間交渉へのシフトをある程度受け入れていくことになると思います。

…第2次トランプ政横に限らず、それ以降も、米国が自国第一主義や保護主義を強める可能性は大いにあります。その中で、自由で開かれたルールに基づく貿易を推進するためには、多国間やミニラテラル(少国間)、二国間など重層的な経済安保の枠組みを作っていくことが厖要です。日本は、そこでイニシアチブをとるべきだと考えています。


「トランプ票 不景気は建前?」政治学者 飯田健
…昨秋の衆院選では国民民主党が躍進しました。物価高で生活が苦しい有権者有梱者 が、所褐税が生じる年収ラ イン「103万円の壁」の引き上げといった主張を決め手にした可能性はあります。一方、引き上げたら税収が減り、福祉サービスが削られるかもしれません。

とはいえ、有権者に政策の財源まで考慮して投票することを求めるのは酷でしょう。そのために代表民主制で、政治を担ってもらう人を選ぶのです。

大切なのは、不都合な情報が隠されたままにならないよう、メディアが役割を果たすことです。そして選挙結果によってどんな状況に陥ろうとも、それは自分たちの選択の結果であり責任なんだと、有権者が思えるようになることが重要です。



2690.メディアに踊らされる 1.18

今回の前書きは文藝春秋二月号の巻頭言からです。


「新旧メディアに踊らされぬために」藤原正彦(作家・数学者)

去る11月、オーストラリア議会が画期的な法案を可決した。15歳以下のSNS利用を禁止するという。ここでのSNSとは、X(旧ツィッター)、友達と近況を共有するためのフェイスブック、写真や動画を発信できるインスタグラムなどである。これらはスマホさえあればいつでも世界中の人々と交流でき、友達や有名人のリアルタイム情報を得られるということから世界中で人気がある。それぞれ数億から数十億の人々が使っているという。15歳以下利用禁止の理由は、小中学生が、麻薬売買や売春に巻き込まれたり、誹謗中傷や性的画像公開などにより、自殺に追いこまれたりすることが多くなったからである。

どのように禁止するかだが、オーストラリアでは、SNSの事業者に厳格な年齢確認を義務付け、違反した場合は50億円以下の制裁金を科すという。50億円もの巨額であるところに、子供達を守るため世界に先駆けて「自由を制限する」、という豪政府の不退転の決意がうかがえる。快挙である。一部の識者や国連児童基金(ユニセフ)などは、「子供の表現の自由」や「情報を得る権利」を妨げると懸念を表明し、Xを所有するイーロン・マスク氏も、この動きが広がったら商売上がったりだから批判している。豪政府は何かと自由や人権を持ち出すそんなポリコレ的批判は無視している。そこには自由の暴走に歯止めをかけるという良識が根底にある。77%という大多数の豪国民が新法を支持している。

オーストラリアの状況は対岸の火事ではない。日本でも13歳以上の青少年の90%以上がスマホを利用し、一日に何時間もSNSなどに興じている。当然、豪州と同様の事件もしばしば発生している。SNSは子供ばかりか世界中の大人にも看過できない影響を与えている。例えば昨年7月の都知事選、9月の自民党総裁選、11月の米大統領選や兵庫県知事選などにおいて、SNSを駆使した候補が躍進した。SNSの影響の急拡大は、情報の多元化には違いないが、出版物のような校閲がないから、デマ、誇張、間違い、思い込みなどが溢れている。ライバル候補を陥れるためにあらゆる悪質な流言蜚語を広めたりする。大多数の人々はSNSを主たる情報源とするから、それを信じ一票を投ずることになる。これでは民主主義の基本である公正な選挙が歪められ衆愚政治となり果てる。

SNSなど新メディアばかりかテレビや新聞など旧メディアにも問題が多い。日本を誤らせてきたのはむしろこちらだ。旧メディアには、責任がはっきりしているから誤りや嘘や中傷などが少ない。ところが偏向報道が多いのだ。例えば郵政民営化をはじめとする幾多の小泉改革は、アメリカが自国の国益追求のため我が国に強要したものだったが、五大新聞やテレビはこぞってこれらを支持した。20数年続いたデフレ不況の最大原因である緊縮財政ばかりか、子供達にとって有害無益なゆとり教育、小学校での英語必修、デジタル教育など文教政策をも支持した。今も、企業・団体献金については禁止するのが本質なのに、その議論を避け、裏金隠しや政治資金の透明化など目眩ましばかり報道している。大きな改革時には賛否が分かれてもよいのに、大所高所からの見識も示さずいっせいに支持する様は壮観である。

原因として、記者クラブ制度の存在が大きい。(中略)このクラブで最新ニュースがいち早くリークされるのだが、報道機関がその内容を批判でもしたら、記者クラブにおける自社の席がなくなったりするのだ。最新ニュースが得られなくなっては一大事だから、自然に政府などを代弁する報道しかできなくなってしまう。記者クラブ制度は自由な報道を歪めているとOECDや欧州譲会などが批判するが当然である。

旧メディアの問題は閉鎖的な記者クラプをオープンにすればほぼ解決してしまうが、SNSなど新メディアの方は問題解決が難しい。先日、夕方の中央線電車に乗っていたら、なんと私の車両にいた50人ほどが全員、スマホを見ていた。右隣にいた40代らしき男性のスマホを覗いたら、ゲームに没頭していた。左隣の女子高生のスマホを覗こうとしたら隠された。かつて人々は新聞、雑誌、文庫などを読んでいた。読書にはある程度の覚悟と忍耐が要求される。一方、画像が主体のスマホの方は、手持無沙汰な時などに気軽に開いてしまう。スマホを通し知識を得ていると錯覚しがちだが、そこにあるのは雑多な情報だけで、そのようなものをいくら集めても確固たる知識には組餓化されず、いわんや教養が高められるわけでもない。

読書を通して得られる教養や深い情緒がない限り、耳目に入る事物の虚実に対する洞察力は生まれない。 例えば小泉改革とはグローバリズムに舵を切るということであり、それは日本がアメリカのごとき弱肉強食社会へ進むこと、と教養があればすぐに分かる。情緒が育っていれば、弱者を追いつめることは弱い者いじめ、すなわち卑怯でありたとえどんな経済的メリットがあろうと断じて許されない、と直ちに分かる。教養や情緒があって初めて人間は、問題だらけの新旧メディア、そして間もなく多くの点で人問を凌駕するであろうA1の発する、危うい情報に踊らされず物事を判断できるようになる。民主主義は一人一人が良識ある判断ができるということが必須条件である。来たるべき疾風怒濤の時代に、人間の知的活動を防衛し、尊巌を死守するために読書は命綱なのである。

コメント:ごくたまに、読むと胸がスカッとする分析や意見に出会うことがある。今回はこの文春の巻頭言がそれだ。一庶民の立場で世間を見た時に、私は筆者のように感じることが最も正常で常識的だと思う。しかし残念なことに、国民の多くは未だそのレベルにさえ達してないのではないか。日本の国民が藤原のように世間を捉えることが出来るようになることが必要であり、そのためにこそ、私は日々せっせと記事や意見を紹介し続けているつもりである。そして(啓発された)国民を一人でも増やすことでしか、現在の惨憺たる日本を救う方法はないと信じている。斉藤や石丸や立花を排除できたにしても、第二、第三の彼らが出てくるのは目に見えている。トランプやマスクは今更言うまでもなく、SNSを悪用する者は後を絶たない。一般市民が、悪意の彼らの誹謗注書、フェイク情報、ひいては独裁政治から身を守るためには、国民自身が正しい判断力と、誹謗中傷に負けない強靭な精神力を身に着けるしかないのだ。