「オンライン・オピニオン」
UDAIDの解体
独裁者との対決
米国と国連
首脳の信頼を失った米
来し方行く末
カントリー・ロード
東電の責任変わらず
トランプは皇帝か
2711.USAIDの解体 2.27
今回の前書きは朝日新聞(2.26)コラムニストの眼、「USAID解体の実態、最も貧しい人々が命を落す」ニューヨーク・タイムズ、ニコラス・クリストフから
(前略)米国際開発局(USAID)を数十年間にわたって取材してきた私は、世界各地の取材先に連絡を取り、トランプ氏とマスク氏による解体の実態を探った。
ナイジェリアのソコトではUSAIDの支援を受ける緊急食料配布センターで、ペースト状の栄養治療食が底を突き、幼い子どもたちが飢えに苦しんでいる。「何千人もの子どもが命を落とす可能性がある」。USAIDの栄養アドバイザーだったエリン・ボイド氏は現地の状況についてそう語った。
ウガンダでのエボラ出血熱の流行は3都市に広がっている。同国政府は、これまでUSAIDが給料を払っていた医療スタッフに「愛国心をもってボランティアとして働き続けてほしい」と懇願した。
現地の医師によると、USAIDが機能しなければ、エボラ出血熱が拡大するリスクが高まり、米国民にも感染が及ぶかもしれないという。伝染病やパンデミックに対する防御の最前線にいるのは、堅牢な体制を持つUSAIDであることを再認識させられる。
私がこの二つの事例を挙げるのは、前者は人道的な価値観を、後者は米国の国益を象徴しているからだ。USAIDはこの二つを併せ持つ機関なのだ。
混乱の報告は世界各地から届いている。人道支援の恩恵を受けるのは主に女性と子どもであり、今起きていることの最大の被害者となっている。米ガットマッハー研究所によると、今回の援助の停止により、毎日約13万人の女性が避妊ケアを受ける機会を失っている。援助の凍結が3カ月続き、家族計画支援の利用が年内に再開されなければ、420万件の望まない妊娠が起き、妊娠と出産で8300人の女性が死亡するだろうと、同研究所は推定している。あなたはこう考えるかもしれない。「たしかに子どもが飢え死にしたり、母親が出産で死んだりするのは、あまりに気の毒だ。でも、他にどうすれば、マスク氏が言う『犯罪組織』の中にいる『詐欺師たち』を一掃することができるだろうか」と。
あいにく、マスク氏は今のところ、詐欺行為を1件も確忽していないようだ。唯一の違法行為は、トランプ氏が、自身に閉鎖する法的権限がないにもかかわらず、議会の承認を得て設立された機関を攻撃したことだろう。USAIDの解体は 多くの連邦法に違反している可能性があり、その中に合衆国憲法が含まれることは言うまでもない。
公平を期して言えば共和党議員たちは、彼らが無駄遣いだとする、確かに愚かしいように思える実例をいくつか挙げている。もっとも、その大半はUSAIDと一切無関係であることが判明している。
トランプ氏とマスク氏はその無駄遣いをさらに悪化させているようだ。USAIDの監察総監は、4億8900万ドル以上の食料支援が宙に浮いたまま放置され、腐って駄目になる恐れがあると警告している。USAIDのテロ対策担当職員は出勤しないよう命じられており、そのため支援がテロリスト集団に流れる危険性が高まっているとも、監察総監は付け加えている。
何にも増して、USAIDの解体は人類の悲劇である。すでにミャンマーとタイの国境地域で、1人の女性が援助の停止によって死亡したことが確認されている。USAIDが支援する病院で彼女の治療を続けられなくなったからだ。世界で最も貧しい人たちが、世界で最も裕福な人たちが下した決定によってすでに命を落としていることは、ほぼ間違いない。
USAIDへの攻撃について私は、米国の貧困層にとって生命線である「メディケイド」 (低所得者向け公的医療保険)に手を付けるための試運転ではないかと勘ぐっている。一部の共和党議員は、富裕層に減税する財源としてメディケイドを大幅に削減したいと考えている。
だからこそ、人道支援を守ろうと米国人が国際社会で声を上げることがとりわけ重要になる。人道支援は米国の利益と価値観が重なり合うものだからだ。読者からは、自分に何ができるかという貿問が絶えず届く。私は、地元議員やホワイトハウスに電話をかけ、USAIDを解体するのではなく、改革を働きかけるように伝えている。(以下略)
コメント:私にはトランプ、マスク(3回の結婚と離婚、13人の子ども。しかもかつては精神病患者。だからどうという事ではないが)、プーチンそしてネタニヤフが人間だとは思えない。動物だってもっと種の中で助け合っている。では何だろう。端的に言って、人間とは別の存在、即ち悪魔か、その手先ではないか。人間性を失い、己の金と権力の為に、他人の犠牲を顧みることも、その苦痛を想像することさえできない。
上記の記事と同じ頁に掲載されている寄稿の中で、仏人類学者のエマニュエル・トッドが、トランプとマスクにはキリスト教の信仰心はない、あるのは退廃的なデカダンスだけだと指摘している。あるとしても科学を否定するキリスト教原理主義(福音派)程度だろう。これではアルマゲドン(神と悪魔、現時点で言えば貧困層と富裕層、民主主義と独裁主義の間の最終戦争)がいつ起きてもおかしくない。それは民衆の蜂起、21世紀の革命という形を取るかもしれない。
トランプとマスクは、同じ富裕層でも、慈善に積極的だったビル・ゲイツや、己の精神の向上を追求したスティーブ・ジョブスと、人間的な価値では比べようもない。貧弱な精神は、まさに米国の生き恥と呼ぶに相応しい存在だ。残念ながら似たような人種が日本にもいる。ネット長者(前澤やホリエモン等、但し三木谷や孫は別)やメディアの闇の帝王、美容整形外科医、かつてのお笑いの頂点、かつてのアイドルの頂点等々である。金と権力に驕り、他の人権を踏みにじっても、何も感じない連中のことである。
関連記事:米国の敗北。トッド。
https://www.asahi.com/articles/AST2P20GBT2PUPQJ003M.html?iref=comtop_AcsRank_01
関連記事:マスクの効率化省の職員の1/3が辞職。改革に抗議。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6530596
2712.独裁者との対決 2.28
今回の前書きは朝日新聞(2.27)論談時評「権力を支えるもの、構造変えねば、次の独裁者が」政治学者 宇野重規より
「独裁者」の時代が終わりつつ あるのか、あるいは新たな始まりか。日々、世を騒がす出来事を見ていると、そのいずれなのかわからなくなる。
読売新聞の代表取締役主筆であった渡辺桓雄氏が昨年末に亡くなった。「ナベツネ」と呼ばれ、長く読売新聞に君臨した渡辺氏は、自らを「最後の独裁者」と呼んで いたという。かつて読売新聞の記者であり、プロ野球巨人の球団代表時代に渡辺氏と対立した清武英利は、氏を「矛盾の塊のような人」という。対談相手のジジャーナリストの魚住昭もまた、権力を監視するはずのジャーナリズムが、情報を得るために権力に接近し、やがてその一部となっていったことを、「民友社」の徳富蘇峰と比較しつつ批判する。
メディア文化史の山本昭宏は、学生時代に共産党に所属した渡辺氏が、組織内で権力を掌握する術を学び、やがて統治者の側に立つ「権力の思想」の持ち主となる一方、自らの戦争・軍隊体験に基づいて戦争に反対し、靖国神社を批判した両面性を指摘する。独特な「独裁者」を生んだのは、戦中派世代の時代経験であった。
元タレントの中居正広氏が起こした女性とのトラブルをきっかけに、フジテレビは社としてのあり方を問われている。フジサンケイグループ代表の日枝久氏もまた、人事権をてこに長らく同グループを支配したとされる。この問題を以前から報じてきたジャーナリストの中川一徳は、創業家をクーデーターによって追放して以来、33年にわたる長期政播が自由にものを言えない空気を蔓延させ情実人事が基本的な経営能力の欠如をもたらしたとする。ただし、新聞社とテレビ局が身内であるがゆえの癒苔は構造的で、同グループだけの問題ではない。
何か問題が起きると隠すことを試み、それが不可能になると関係者を処罰する。そして問題を生んだ組織の風土はそのまま温存される。あまりに見慣れた風景だが、そこで救済されないのは個人の「尊厳」である。被害に遭い、仮に補償を受けたとしても、人を傷つけ、排除する土台が変わらない限り、被害に遭う恐怖や不安はなくならない。フェミニズム理論の岡野八代は、存在を認められ、他者から大切にされてようやく人は自らの尊厳を感じられると説く。
こうしてみると、「独裁者」をめぐる問題は、特定の個人だけでなく、それを可能にする構造にあることがわかる。なぜ個人の「尊厳」を損なった状態が、そのままになっているのか。それを許したのは誰か。このことを問わない限り、「独裁者」の時代は終わらない。
米国のトランプ大統領はどうだろうか。国際関係史のマーガレット・マクミランは、ヒトラーらを素材に、強力な指導者を生むのは強烈な個性か、あるいは時代環境かを論じる。トランプ氏が訴求力を持つのも、既存の連邦政府への幻滅の広がりと、人々の懸念や怒りを代弁することに長けた彼のオ能の結びつきによる。しかし、国際ルールを破っても何の責任も問われないなら、それに続くものが出る。何十年も続いた現在の国際秩序のルールが崩れるのは一瞬かもしれない。
ユーラシア・グルーブのイアン・ブレマーは、「トランプはGゼロ世界の最大の受益者」であるという。グローバル・リーダーシップが不在なら弱肉強食の世界となり、世界の頂点に立つ捕食者のやりたい放題となる。相手国が民主主義か権威主義かを問わず、必要に応じて一対一で取引する米国第一主義は、Gゼロ世界と深く一致する。単独行動主義をとる米国に、周りの国は歩調を合わせるしかないのだろうか。トランプ大統領を「独裁者」にしてしまうか否かは、他の国々にかかっている。
民主化以来、安定した民主主義を実現してきたはずの韓国にも変調が生じている。昨年12月に突如「非常戒厳」を宣言した尹錫悦大統領が内乱の容擬で逮捕拘束されたものの、依然として激しい対立が続いている。朝鮮半島地域研究の木村幹は、互いに任期の異なる大統領と国会が分裂しやすい制度的問題に加え、かつての地域割拠的なボス政治から、進歩・保守のイデオロギーをアイデンティティーとする二大政党制への再編により、政治的妥協が難しくなったことを理由として指摘する。ここでは大統領の強大な権限が、むしろ対立と混乱の要因となっている。
かつて「一強」が言われた安 晋三政権であるが、官邸主導を支えた首相秘密官であった今井尚哉と政治学の牧原出の対談が興味深い。経済産業省出身の今井は政権内でむしろアンチ財務省の勢力と対抗し、第2次政権初日の靖国参拝に職をかけて反対したという。政権は決して一枚岩ではなかったが、長期化の要因としてスケジュール管理があげられている。強力に見えた政権内部のメカニズムについては、さらな検証が必 要だろう。
「独裁者」を生むのはやはり、外部の時代環境と内部の政治状況である。分断と不信こそが「独裁者」を創り出す。法哲学の安藤馨が、自分に好都合なら暴力の発動を歓迎する手続き軽視が法の支配と民主政を毀損すると強調しているたことを忘れてはならない。
一人の独裁者が退職しても、支えた構造がそのままなら次が現れる。温床となる分断を克服し、個人の「尊厳」を損なう恐怖や不安を除去するしか、未来への道は開かれまい。「独裁者」の命運は私達次第である。
コメント:宇野先生の言い分はその通りだが、ではどうすればいいのか、その方法論の言及はない。結論から言えば、最も重要なことは、大衆が十分な選択肢を持つことである。それでもなお、大衆が独裁者を選ぶのなら、それはいかんともしがたいことなのだ。後は反対派が精一杯、批判運動を展開し、厳重に政権の活動を監視するしかない。いかに気に入らなくとも、暗殺や暴動のような、暴力的な解決方法は許されない。反対派の武器は法律、とりわけ憲法でなければならない。
米国や日本のように、司法のトップ、即ち最高裁の判事を政府が決める仕組みであれば、裁判所の判断が政府寄りになるのは避けられない。これは明らかに制度上の欠陥だ(国民審査が茶番だと言うことは誰でも知っている)。その極端な例が、トランプ派が過半数を占める米国の連邦最高裁だ。トランプが議会、裁判所の双方を押さえたので、正当な手段では、追放の手立てがない強力な独裁者が出来てしまった。これは米国の民主主義にとっても、米国民にとっても極めて不幸な(民主主義の闇の)状況と言うほかはない。その結果、早くもやりたい放題。果ては自ら王冠を被ってみせて、半ば冗談にせよ、国王を宣言(滑稽な猿芝居)するまでに至った。
今回のいびつな権力構造の背景には、米国内での富裕層と貧困層のあまりにも大き過ぎる経済格差がある。同時に、支配層と被支配層の分断も進み、貧困層には上級階級に加わる機会が事実上失われている(高等教育には莫大な金が必要)ので、階級の固定化が進んでいる。そして自らの将来に、希望が見えないことを悟り、絶望した貧困層、被支配層の不満が爆発したのが、今度の大統領選の結果だと、私には思われる。
しかも大衆の味方だった民主党が、大衆の政党ではなく、知的エリートの政党と見なされ、大衆の選択肢から外されたことが、トランプ当選の最大の直接的理由となった。理屈では民主党でも、感情では共和党(というよリトランプ)がまさったのである。本来知的である民主党が、知的であるがゆえに大衆から敬遠され、大衆の負の側面、感情的、扇動的な面に入り込んだ、(富裕層の)トランプを支持することになったのは、皮肉であり、民主党には痛手となった。更に、マスクを見れば分かるように、知的な階層のトップでもあったシリコンバレーの大企業が、(トランプの御機嫌を取るために)非常識極まる判断や行動に走り始めている。
結局、トランプの当選は、経済的に追い詰められた米国の大衆の、やむを得ぬ選択であったのかもしれない。もしそうではない(前向きの選択だ)というのなら、トランプに投票した米国民に、現在の心境を問うてみるが良い。かなりの人数が、こんなはずではなかったと言うだろう。問題は何故、大衆にはトランプしか選択肢がなかったのかである。
今の米国(そして世界)の「悲劇」は、米国民が不毛な選択を半ば強いられたことが原因である。この悲劇が諸外国で繰り返されないようにする方法を、今や真剣に考えなければならない。最初にやること、できることは、暴走を続けている共和党政権と第一野党(民主党)の間に一線を引くと共に、政党間のパワーバランスを再調整することだ。野党には、沈黙している暇などないはずだ。しかもそれは日本でも同じことが言える。同時に日米のメディア(報道機関)は、本来の政権批判の役割りを果たさなければならない。特に米国では、ジャーナリズムがまともに機能しているとは思えない。振り返って日本を見れば、反自民党の第一選択肢は、野党第一党(=立憲)であるべきなのに、現実はそうなっていない。ポピュリズム的な印象のある国民民主の方が支持率が上回っているのである。ここに日本の民主主義の混乱が見られる。
また特に日本では、国民が参考にしている、有識者、コメンテーター、MCの質が、余りにもお粗末だ。知名度だけで採用を判断するから、タレントやアナウンサーにお鉢が回る。ましてそれが元お笑い芸人だったり、海外での学歴だけが売り者の若手だった場合、実際には、高校生程度の基本的な政治経済の知識も、一般常識でさえ不足気味の例がしばしば見受けられるのは残念と言う他はない。スタジオで向かい合っている市民の方が、よほどまともである。実例としては、有名野球選手の子息(知ったかぶりのお馬鹿さんに、たしなめられる程不愉快な事はない)。或いは元落語家や漫才コンビの悪声のコメンテーター(複数いる)。維新を立ち上げた元政治家、直ぐに自分のことをおいらという、大御所芸人がいる。とはいえ、出来ない、或いは向いていない仕事に、有名人を指名するのは、本人のせいというより、市民の知的水準を見くびった、放送局の責任でもある。そういう意味では、某メディアグループの頂点に立ち、情実人事を繰り返した人物の責任は重い。骨折入院とのことなので、しばらくは現場には出ないだろうが、未だに取締役の肩書は手放そうとしていない。新聞界なら、悪名高きナベツネがおり、日本のメディアがいかに異常な体制(ジャーナリズムにあるまじき超保守の独裁体制)であったかが、よく分かるような気がする。国民の選択の自由を事実上阻害するという意味では、政治家の世襲も論外だ。
広く国民の意見に耳を傾けることは当然だが、誰でも参加できる議論の場を用意することもまた、投稿欄を持つメディアの本来の役割りだろう。誰でも正論を述べる機会があるのと、ないのとでは、民主主義の性格も、存在価値も大きく変わって来る。冷静で根拠の明白な議論が行われれば、いかに感情や印象で判断しがちな大衆といえども、何が国益で、国民の利益かは、直ぐに気が付くはずだ。政党党首(N党)の肩書さえあれば、どんな非道・非常識でも許されると思っている政治ゴロが野放しにされている。彼に言いたいのは、発言には責任が伴うということだ。何でも後で間違ったで済ませられるのなら、それこそ警察は要らない。ところが現実の問題として、立花や元副知事等の悪意のある誹謗中傷が直接の原因で、複数の優秀な職員や議員が死んでいるのだ。ところが、取り返しがつかないことをしたという意識が斎藤知事を含めた者には全くない。その立花がこともあろうに、千葉県知事選で、言論の自由を言い出した。どの口が言うのか。もはや常人の神経ではない。精神鑑定が必要な段階だ。言論の自由の主張に最もふさわしくないのが、台所ごみのような言葉を並べるだけの、立花本人だ。その発言にはいかなる責任も感じられない。言葉の暴力がダブダブの背広を着て歩き回っているだけのことだ。
少なくとも、現状に気が付いているだけでも、米ロ両国よりはましな、我々日本の市民は、(トランプのように)大衆を扇動して実権を握り、その挙句、欧州全体を戦火に巻き込み、何千万という犠牲を出したナチスの愚を、絶対に繰り返しては繰り返してはならないのである。
平等な機会、理性的な議論、正確で色付けの無い情報の入手、しかも誹謗中傷と虚偽情報の禁止。それらが民主主義が本来の意味と役割を取り戻す前提条件でなければならない。しかもそこでは政や官による討論の監視や規制があってはならない。あくまで民が自主的に討論や情報提供の場を運営し、規制も自主規制でなければならない。管理者を公募して、国民が選ぶ方法もあるが、少なくとも討論の場は完全に非営利でなければならない。また討論の場は、複数ある方が望ましい。各政党が一つずつ、或いは省庁や組織が一つずつ持っていても良い。ともあれ、最低でも、保守と革新で、二つの広場は必要になるだろう。
数十年、一切の広告収入なしで運用してきた、吹けば飛ぶようなこのサイトにも、双方向の機能が必要だと思いつつも、それには相当な勇気を必要とする。反対意見と正面から向き合い、説得する為には、膨大な精神的エネルギーもいる。まして理論武装の為に多数の資料を調査する時間もない。結局、一方的な発信以上のものでも、それ以下のものでもなく、どこかで誰かが読んでくれていることを願うばかりのちっぽけな存在である。
(自分で自分の首を絞めるような)ポピュリズムがもたらす独裁政治こそ、衆愚政治の弊害そのものである。その衆愚政治の最たるものが、戦前のドイツであり、最近の斎藤知事の再選騒動であり、当選こそ果たせなかったが、石丸ブームだ。感情と印象が判断基準になり、理性的な判断力を失った人々の群れは、もはや市民の集団とは言えない。感情だけの集団が、世界の動向を左右するようになれば、それはもはや、破滅に向かって更新する、レミングの群れと変わらないのである。
我々理性を備えた市民は、福音派に代表される極右の思想と、英雄を待ち望むポピュリズムという、2つの大きな潮流に、全力であがらい、間違っても押し流されることのないよう、しっかり地面に足をつけて、常に前を向いていなければならない。でもそれはおそらく容易なことではないだろう。wtwができることは、そうした地道な努力を脇から応援することだけである。
多様性がなぜ必要かといえば、それが多くの選択肢を与えてくれるからだ。ロシヤの選挙のように事実上、選択肢が無い(競争相手は抹殺される)選挙では、そこに選択権があるとは到底言えない。選択肢が無ければ、それはもはや選挙ではないのである。
2713.米国と国連 3.2
今回の前書きは朝日新聞(3.1)の社説からです。
「米国と国連 憲章違反は否定できぬ」
主権国家は大小にかかわらず平等であり、領土や尊厳を力で奪うことは許されないー。開戦から3年を経て、多くの国連加盟国が堅持している国際世論を、重く受け止めるべきだ。
ウクライナ戦争をめぐり、国連の総会と安全保障理事会で、それぞれ決議が採択された。いずれも和平を求めているが、内容は大きく異なる。
総会決議は「ロシアによる全面侵攻」への非難とウクライナの領土保全などを明示しているのに対し、安保理決議はロシアの責任を棚上げする「中立的」なものだった。
総会を主導したのはウクライナと欧州諸国で、安保理決議を推進したのは米国だ。
トランプ米政権は、侵略国の責任と被害国の権利には触れない姿勢に終始した。その結果、安保理は従来の「米英仏対中ロ」から、「米中ロ対英仏」の構図に一変した。
シリアや北朝鮮問題などで紛糾してきた安保理が、ウクライナ問題で「紛争の早期終結」を探る意思を確認したのは無意味ではないだろう。
だが英仏など欧州勢がそろって棄権したのは米国不信の表れだ。トランプ大統領が頭越しにロシアと無原則な取引を結ぶのではと案じている。
そう疑うのも無理はない。トランプ氏は一方的に実利獲得をもくろむ施策を乱発している。イスラエル寄りの立場からガザの土地譲渡を求め、ロシアをかばいながらウクライナには資源分配を迫る。
通底するのは、紛争をめぐる強国の取引に弱者を従わせようとする思考であり、それがトランプ流の「力による平和」かもしれない。
国連総会で、米国はウクライナ・欧州案とは別に、安保理決議と同じ骨抜きの決議案を提示した。しかし多くの国の意向で国連憲章順守などを求める内容が米国案に加えられ、採択された。
安保理決議よりも、二つの総会決議のほうが国際社会の意思を鮮明に反映しているのは明らかだ。
米国はG7首脳会議の声明案でも、「侵略」などの文言に反対している。米欧の亀裂は2003年のイラク開戦時以来だが、今回は欧州域内での紛争だけに深刻だ。西側同盟の行方は、法の支配に基づく「自由で開かれたインド太平洋」づくりにも直結する。
安保理常任理事国ロシアが国連憲章を踏みにじった事実は動かない。憲章の順守を求める国際世論を基盤に、力ではなく、ルールが支配する秩序づくりに欧州も日本も本腰を入れる必要がある。そして、米国を共通の価値観に引き留める努力が欠かせない。
コメント:自我肥大のトランプを共通の価値観に引き戻す事は出来ない。何らかの力を使って言うことを聞かせるしかない。トランプが、横車を押して、無理難題を言ってきたとき、一番やってはいけないことが「長いものに巻かれる」ことだ。事の是非をはっきりさせ、非については、礼儀を尽くすが、一歩も譲らない。その姿勢がひいては相手(米国民)に道を誤らさせないことにつながる。トランプ・ゼレンスキー会談で、おかしい事はおかしいとはっきり言ったゼレンスキーは、トランプの何十倍も高潔で、筋が通っており、尊敬すべき大統領だ。大事な事は正義と倫理を見失わない事である。取り分け、世論形成に大きな影響力のあるメディアには、人と状況を見極める重大な責任がある。
関連記事:カメラの前で激しい口論。合意至らず。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250228/k10014735961000.html
コメント:どこに、自分に感謝しろなどと言う一国の代表がいるのか。品位を欠くにもほどがある。しかも(議会の同意を得て)実際にウクライナを支援してきたのはバイデンではないか。
関連記事:欧州から連帯の声。
https://www.asahi.com/articles/AST2X7X5GT2XUHBI00DM.html?iref=comtop_ThemeRightS_02
【注目記事】
・デモを報道しないメディア。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9a428b69371bb0fee1e9b4005867b06c790d4286
コメント:しかも立花も森喜朗も批判しない。何がタブーなのかさっぱり分からない。ワルはワルだろう。アルカポネを取り上げないのは、触らぬ神のつもりか。
2714.首脳の信頼を損なった米 3.2
今回の前書きは朝日新聞(3.2)の社説からです。
「首脳会談決裂 首脳信頼を損なう米の対応」
険悪化した首脳間の関係を修復し、支援をつなぎとめる――そんなウクライナの狙いは無残な失敗に終わった。原因をゼレンスキー大統領に帰すことはできない。ロシアの侵略を問題視せず、民主主義と法の支配を守る米国の歴史的使命に背を向けるトランプ大統領の責任こそ重大だ。
今後は、米国にウクライナ支援の継続を求める国際的な働きかけが重要になる。一方で、米国が手を引いた場合の対応策も、欧州や日本が想定すべき課題になりそうだ。
2期目のトランプ大統領就任後初めてとなったゼレンスキー氏の訪米では、ウクライナの希少資源に関する協定への署名が予定されていた。
だが会談では早々に見解の相違が浮き彫りになった。トランプ氏は米国が資源開発に関与することがウクライナを守るという考えを示したのに対し、ゼレンスキー氏はロシアを止める保証が必要との考えを表明。両首脳が記者団の前で激しく口論する異例の展開となり、会談は決裂した。
トランプ氏は会談後、SNSへの投稿で「平和への用意がない」とゼレンスキー氏を批判した。だが、誰よりも平和を望んでいるのは、国土を踏みにじられ、住民を虐殺されているウクライナの人びとだ。ロシアからの攻撃を封じる態勢を築かない限り平和は実現しないとするゼレンスキー氏の主張は当然だ。
そもそも国際法違反の侵略戦争を一方的に仕掛けているのはロシアの側だという基本認識が、トランプ氏に欠如していると言うしかない。
会談でトランプ氏は「米国への感謝が足りない」と口にした。米国を含む国際秩序全体の危機に目を向けずにウクライナを批判するのはおかしい。ゼレンスキー氏が「(米国は)海があって今は(問題を)感じていないが、将来的には感じるはずだ」と述べたのは的を射ている。
今回の決裂を喜んでいるのはロシアのプーチン大統領だろう。米国が支援を打ち切れば、ウクライナを従属させる目的が実現に近づく。米欧間の亀裂を広げるために、トランプ氏を一層取り込もうとするだろう。
欧州の国々からウクライナ支援の声が上がっている。
一方、石破首相が「感情をぶつけ合えばいいというものではない」と、双方に問題があるかのような見解を述べたのは理解に苦しむ。今回のトランプ政権の対応は、価値観を共有する同盟国としての米国の信頼性に大きな疑問を投げかけた。日本はより明確に米国への懸念とウクライナへの連帯を表明すべきだ。
コメント:TVの報道を見ると、議論の火に油を注いだのはバンスだ。ゼレンスキーに向かって、感謝の念が足りない、そこに跪いて憐れみを乞えと言わんばかり。こんな屈辱があるだろうか。尊敬の念も同情の念も全くない。西部劇ならすぐさま撃ち殺されても文句は言えない。そもそも、それでなくても各国で評判の悪いバンス(国務長官でもないのに)などを、その場に同席させたのが最大の間違い。
トランプは何でもディールに結び付けることが、米国を再び偉大にする唯一の方法だと信じているようだ。要は金銭的利益が全てということだ。しかしこの世の中には、人権や自由を守るための無償の戦いや支援活動がいくらでも存在している。血液の中には、名誉や評判など金銭には換算できない利益もある。しかも善意であればあるほど無償の行為も多い。米国だけがそれ(無償の行為)は嫌だと言うのは、無論自由だが、ならば国連で拒否権を振り回す資格があるとは思えない。
今我々が目にしているのは歴代最悪のアメリカ大統領と副大統領である。彼らは自分がこの会談で、米国が世界からどんな目で見られるようになったのかさえ理解出来ていないようだ。あるのは失望と軽蔑であり、彼らが望む希望と尊敬とは真逆の結果を、自らの暴言で引き寄せてしまったのだ。
言い換えれば、米国が二流国になるように、自らの足を引っ張ったようなものである。しかもそれがピンとこないほど、愚かで自己中なのだ。特定の個人の強欲(プーチン)や愚かさ(トランプ・バンス)が原因で、人類が滅びるようなことがあってはならない。人類の知恵と賢さが、彼らの愚かさを圧倒する事を願うばかりである。
関連記事:会談決裂。西側諸国が一斉にウ支持。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6531128
コメント:傍若無人な振る舞いで、米国は世界の指導者の地位を自ら投げ捨てた。
関連記事:米国の恥。民主党がトランプ批判。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6531061
コメント:TBSで松原も言っていたが、この会談は大惨事ではなく、むしろウクライナにとっては良かったのかもしれない。
関連記事:ゼレンスキーの服装に冗談。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6531019
コメント:ここでも自分やホワイトハウスに敬意を払えと言わんばかり。ようするにとことん相手を見下している。これではどんな交渉もうまくいきっこない。なりふり構わずへつらう者(故安倍首相)以外は。
関連記事:キーウ市民、彼を誇りに思う。
https://www.asahi.com/articles/AST313GXDT31UHBI01BM.html?iref=comtop_ThemeRightS_01
コメント:これが当たり前の感覚です。金の為ではない、人権とプライドと祖国を守る為の戦いだからです。むしろウクライナの方がロシアを併合して、全土がウクライナになった方が、ロシア国民も幸せになれるのではないか。
関連記事:英国は暖かい歓迎。ゼレンスキー。
https://mainichi.jp/articles/20250302/k00/00m/030/044000c
関連記事:トランプ流の外交に丸め込まれていないか。
https://toyokeizai.net/articles/-/861851
関連記事:プーチンとトランプ止めろ。ベルリンで大規模抗議デモ。
https://www.yomiuri.co.jp/world/20250302-OYT1T50045/
コメント:亡命ロシア人も参加。
関連記事:テスラ株急落。4割安。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6531065
コメント:マスク嫌われ、販売急減。ざまあ…。
2715.来し方行く末 3.5
50年近くもこの作業を続けた挙句、最近思うのは、必要な時間は余り変わらないが、作業が楽になったように感じるということだ。何百という記事の中から、どれが世界にとって、日本にとって、人間にとって、そして自分にとって重要かを判断することは、簡単に見えて、実は容易ではない。特に若い頃は難しい。というのは自分の価値観が定まっていないからだ。それが企業勤務の経験や、様々な人生経験を積んでゆくうちに、良くも悪くも少しずつ人格が形成され、判断基準が確立してくる。その結果、記事の重要性の判断に迷うことが少なくなる。言い換えればそれが歳の功であり、80歳になって未だに隠居もせずに、一日も休まずに毎日数時間PCの前に座り続けることの唯一の取り柄かもしれない。目も疲れるし、頭もぼんやりしてくる。腰も痛むし、運動不足にもなる。怖いものもなくなる(トランプだって年下)ので、口も悪くなる(遠慮が無くなる)。
この状況は、言い方を変えると、どんな出来事でも、情報でも、その意味と意義が一瞬で理解できれば、人生で迷う事も、失うものも、少なくなるということだ。残念ながら私は未だその領域には達していないし、一方で高齢化のマイナス面、短気、頑固、偏屈、或いは偏見もあるので、必ずしも真実や正義にたどりつけない場合もある。
自分でも、新聞記者や放送作家を目指したこともあるが、若くしてそんな職業についていたらどれだけ失敗していたかと思わざるを得ない。分別も忍耐力も不足し、世界と政治社会の基礎的な判断力さえないままに、失敗と悪評を重ねていたことだろう。
最近も知人に言ったことであるが、私の作業は、根気さえあれば誰でもできる。但しアウトプットが、読んで役に立つ、あるいは同感だと思ってもらえるかどうかは、正に編集者の努力と才能次第なのである。私は自分に才能があると思うほど鉄面皮ではないので、ひたすら努力するだけである。そしてその結果が思わしくなければ(多くの賛同を得られなかったら)それはひとえに自分の至らぬせいなのである。即ち失望と批判に耐える覚悟、或いは鈍感力も必要だ。
私はネットや印刷物の情報を右から左に流しているだけだが、少なくとも、手当たり次第ではない。意味の無い情報、もしくは自分の価値観とは相いれない情報を紹介することは出来ない。なぜならそれは読者の時間を浪費するばかりか、下手をすれば世論をミスリードすることになるからだ。
但しやっていることは、誰でも、いつでも出来ることに変わりはない。しかも別に私のように毎日PCにかじりつく必要もない。鍵は本質を感じ取る感性にある。その上で自分の意見や印象を平易な表現で伝える。スマホやネットの時代である。誰にでもその機会がある。多くのwtwの同類(素人による世評)が現れてくれれば、これに勝る喜びはない。
繰り返しになるが、自分自身が記者や作家でなくても、倦むことなしに、興味を持ち続ければ、やがて彼らの情報と主張の中の真実をくみ取ることができるようになる。それを知人や未知の人達に紹介することで、オリジナルの発言者を応援することにもなる。世論に働きかけることで、少しずつでも世間をましな方向に向かわせることにもなる(かもしれない)。
一人でも多くの人々の、そうした地道な努力だけが、フェイクニュースやSNSが暴走し、根拠なき誹謗中傷がはびこり、差別主義や分断、帝国主義が台頭する希望なき世界で、無名の市民に出来る、唯一の抵抗手段なのかもしれない。だから同志よ、希望を捨てるな、そして一人でも味方を増やそう。そうすれば、明日の世界と日本は、あなた方のものだ。
第97回アカデミー賞授賞式を見た。今回はNHKBSが放映。伊藤詩織のブラック・ボックス・ダイアリーのノミネートはめでたい。競合がガザの問題なので受賞できなくても仕方がないが、作品の価値には一切変わりはない。事実既に31カ国で受賞しているのだ。加害者の正体など、世界のメディアにかかればすぐに分かってしまう。安倍の下働きの記者は恥を世界に晒すことになるだろう。スタジオのコメンテーターからは評価の言葉が全くなかったことには驚いた。彼らは一体何に忖度したのだろうか。映画の世界にタブ―があってはならないのだ。それこそが表現の自由であり、授賞式に見る僅かに残った米国の良心なのである。
但し伊藤のファッションはいささか残念。また現地のインタビューアには、我々に馴染みのない中年女性よりも、真の映画ファンの町山智浩を起用した方が、もっと解説に奥行きと楽しさが出たのではないか。これはスタジオのメンバーでも同じである。また予想通り同通はない方が良かった。
関連記事:アカデミー賞候補作。
https://www.asahi.com/articles/AST2W26M2T2WUHBI00VM.html?iref=comtop_Topic_02
コメント:日本でも早々に公開せよ。公開しなければ差別、言論弾圧だ。
2716.もう一度リコールを 3.6
今回の前書きは朝日新聞(3.5)私の視点「軍事力に傾く日本政府 人間の安全保障に軸足を」 元国連地域開発センター上級研究員 高井克明から
安全保障には、国の安全保障だけでなく「人間の安全保障」がある。貧困や格差問題に取り組む国連開発計画が1994年に提起し、ノーベ ル経済学賞を受裳したアマルティア・セン氏と緒方貞子氏が共同議長を務めた「人間の安全保障委員会」によって2003年に具体化された。
人間の安全保障とは、「人間一人ひとり」に着目し、環境危機や貧困、差別などの脅威から包括的にすべての人々を守ることを基本理念としている。具体的には、紛争や災害などの恐怖からの自由、貧困や医療・教育などの欠乏からの自由、さらに人間らしく生きる尊厳の三つを確保することを指している。平和とは、単に戦争のない状態を指すのではないということが、この概念によって広く共有されるようになった。
(中略)
日本政府は長い間、人間の安全保障を外交の柱としてきた。日本主導で国連に「人間の安全保障基金」も設立し、拠出金で多岐にわたるプロジェクトが実施されている。自衛権の範囲内でしか軍事力を持てないからこそ、人間の安全保障こそ積極的な安全保障だと主張し、国連の常任理事国入りも狙った。
ところが近年の日本政府を見ていると、防衛黄の増大など国の安全保障の方に力点を動かしつつあるのではないかと心配になる。日本国憲法には、人間の安全保障を確保するための方策がちりばめられている。紛争や自然災害が多発する今、人間の安全保障の重要性がさらに増していると言えるだろう。軍事力を強化するのではなく、憲法を武器に、国内外で人間の安全保障をさらに広め、積極的に外交に生かして欲しい。
もう一件は朝日新聞の社説です。
(社説)百条委報告書 斎藤氏は責任を免れぬ
兵庫県議会の調査特別委員会(百条委員会)が、斎藤元彦知事らに対する元県民局長の男性の告発について、報告書をまとめた。斎藤氏による職員へのパワハラと指摘された行為や贈答品受け取りに伴う問題点を認め、男性の告発を「公益通報に当たる可能性が高い」とした。
知事とともに県民を代表する県議会が、公益通報の専門家の意見も踏まえ導いた結論は重い。男性を通報者と特定し、保護を欠いたまま調査を進めた県、とりわけ一連の対応を指示した斎藤氏は責任を免れない。百条委は厳正に身を処するよう求めた。どう応えるのか、対応が問われる。
男性は昨年3月、斎藤氏らに関する「七つの疑惑」を記した文書を一部の県議やマスコミに送付。自ら入手した斎藤氏が片山安孝副知事(当時)ら側近に調査を指示し、男性は5月、勤務中に公用パソコンを私用に使ったことなどを理由に懲戒処分された。
報告書は、「パワハラ行為と言っても過言ではない言動があった」、贈答品の受領は「個人として消費したととらえられても仕方がない行為もあった」とした。男性の文書送付は、マスコミなどを通じた「外部公益通報」に当たる可能性が高いと結論づけた。
特に問題視したのは県の初動だ。告発された斎藤氏が調査を指示し、同様に告発された片山氏が男性を調べた経緯も踏まえ、「不適切な対応に終始した」と批判した。
百条委は専門家の見解を集めた。政府の有識者会議の複数のメンバーや、実務に詳しい弁護士らが強調したのは、次のような点だ。
公益通報に該当するかは、中立・公正な態勢で慎重に調査すべきだ。内容の真実相当性も不正の目的の有無も、告発された当事者が判断することではない。通報者の特定はけっして許されない――。
男性の文書について、斎藤氏は早々に「事実無根」「うそ八百」と断じ、男性への処分も口にした。そうした知事の言動が、公益通報者保護制度をどれほど傷つけたか。今回の問題も一因に法改正案が閣議決定されたことにも、事態の深刻さがうかがえる。
百条委が設置された昨年6月以降、兵庫県では混乱が続く。告発した男性らが死亡。非公開の百条委会合の音声録音を維新県議が立花孝志氏に提供し、男性の社会的評価をおとしめる私的情報がSNSなどで拡散、百条委自身も誹謗(ひぼう)中傷にさらされた。
斎藤氏の今後の振る舞いとさらなる県議会の対応以外にも、問題は山積している。そのことも忘れてはならない。
社説原文:
https://www.asahi.com/articles/DA3S16162900.html?iref=pc_rensai_long_16_article
関連記事:大きな問題あった。百条委。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250304/k10014739571000.html
関連記事:斎藤知事、処分撤回せず。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6531442
コメント:往生際が悪すぎる。百条委員会の報告書に真正面から向き合えば、そんな事は言えないはず。自分で辞める気がないのなら県議会は再度リコールする必要がある。
しかし朝日新聞の社説で名指しで批判されるということは、ほぼ国民の総意でもある。彼としては最後まで言い張るしか無いのかもしれない。今度は彼の自死を心配しなければならないとは、何と言う厄介な問題児だろう。
2717.カントリーロード 3.7
参院予算委員会、最後の共産の小池と令和の山本の質問が圧巻でした。小池は学術会議に対する政府の対応、山本は能登災害で、馳知事のボランティア便りの無責任な対応と、政府の無関心を厳しく指摘していました。自衛隊は知事からの災害対応要請があれば過去一度も断った事はないと断言していました。ではなぜ馬鹿知事(失礼馳知事)は要請を出さなかったのか。そんな人間(元プロレスで失言も多数)が知事に相応しいのかどうか。しかし立憲も、国民民主も、維新も、こういう当たり前の質問が出て来ないようでは、政党を名乗る資格はないと思います。
参院質問ユーチューブ
https://www.youtube.com/watch?v=a0NmBvaRBdQ
今回の前書きは朝日新聞(3.6)福島季評、「ふるさとへの旅路、全て失い、自分はどこへ」作家 安東量子から
そこは、「まるで天国」だ。アメリカで長く愛されてきたカントリーソング「Take Me Home, Country Roads」(作詞・作曲:John Denver)がそう歌うのは、東部に位置するウェストバージニア州だ。アパラチア山脈に貫かれ、自然豊かで風光明媚(めいび)な山岳地帯として知られる。州の南部には19世紀半ばから開発された炭鉱地帯が広がる。一方、景観の美しさは、土地利用の難しさの裏返しでもある。炭鉱業が栄えた一時期を除き、経済的には恵まれない低所得地帯といわれる。
広大なアパラチア炭田の一部となるこの炭鉱地帯の一角、バッファロー・クリークで、アメリカの災害史に残る大洪水―それも人災―が起きたのは、1972年のことだった。山あいの谷を流れる細い川筋に沿って立ち並ぶ集落の上流には、炭鉱の鉱山ゴミで造られた、廃水をためておく巨大な貯水ダムがあった。それが雨で決壊、怒濤(どとう)の濁流となって谷筋の集落に襲いかかったのだ。荒れ狂う激流に直撃され、125人が亡くなり、谷筋にあった家屋の多くが消失、5千人の住民のうち4千人が住居を失ったという。住民の多くは、炭鉱労働で生活を成り立たせていた人々だった。
災害から1年後に現地に入った社会学者カイ・エリクソンが、「抜け殻」となった住民たちの様子を豊富な証言とともに記録している。この災害が歴史に残るのは、その規模のみならず、エリクソンが記した著書「EVERYTHING IN ITS PATH」の影響もある。彼は、この出来事を経済的、人的、物理的な被害や、あるいは、企業の過失責任の問題としてだけではなく、そこに暮らしていた人々にどのような意味があるのかを膨大な資料と証言から描き出した。
内容の大部分は、住民たちの言葉の引用を用いた災害と被災後の経験で構成されるが、アメリカの発展から取り残されてきたアパラチア地方の歴史と地域性の長い解説を前半に置く。開拓時代の雄大とも粗暴とも呼べる始祖たちの暮らし、厳しい環境との闘いと調和、狭いコミュニティーのなかの独特の人間関係、やがて、大地に眠る資源を利益に変えるために入り込んだ資本家による炭鉱開発と、暴力的とも呼べるほどに劇的な生活の変化。ダイナミズムに富む歴史を経て、豊かといえなくとも、安定した生活を営むことができるようになった、そう思っていた時に、災害は襲い、「すべて」を根こそぎ奪っていったのだった。
失ったものをひとつひとつ記載していけば、長大なリストになる。世代をさかのぼって来歴を知る人たちとの家族のような関係、あらゆるところに手を入れた住居、どこになにがあるか体の一部のように知っている土地との交流。バッファロー・クリークでは、自分が何者であるかを説明する必要は一切なかった。共に暮らす人たち、土地、気候、流れる時間、すべてが自分の一部としてなじんでいた。それを失った時、人々は、自分が何者であるかを支える基盤もまた同時に失ったのだった。(自分が何者であるかをあらわす「アイデンティティー」概念を提唱した心理学者のエリク・エリクソンは、著者の父親だ)
バッファロー・クリークの住民たちは、カイ・エリクソンらの協力もあり、炭鉱会社を相手取った訴訟に勝利したものの、多くは地元を離れた。その後は、アイデンティティーをもう一度獲得するための苦闘が長く続いたのではないかと想像される。
昨年、800ページを超える分厚い一冊の書籍が手元に届いた。原発事故からいまだ避難指示が解除されていない福島県浪江町津島にある赤宇木(あこうぎ)の人たちの手による「百年後の子孫たちへ」と題された記録誌だ。ずっしりと重い本をめくりながら、バッファロー・クリークを思い出していた。この本も、エリクソンの著書と同じように、地域の歴史を描くところから始まる。ついで、地理、産業、習俗、自然、団体組織、文化と続き、居住していた全世帯の紹介ページには、各戸ごと春夏秋冬の写真が付されている。最後には、原発事故から10年間毎月測り続けた、全87戸の放射線量測定報告を収める。地区単位でまとめられた各戸ごとの測定結果には、世帯主の名と上空から撮影した住居の写真が付されている。時間の経過にともなって低下していく放射線量のグラフが、断ち切られた時間を表しているようだ。人びとの暮らしが 主役だった場所を、いまや、無機質な数値が支配する。
表紙を開いたタイトルの下には、短い文章が添えられていた。「私たちは/どこから来て/どこへ行くのだろうか」。その文言は、冒頭で紹介した歌のサビにある「Take me home, to the place I belong (連れて行って、ふるさとへ、私のいるべき場所へ)」と重なって響く。確かに、そこに、「すべて」があったのだ、と。
それが天災であれ人災であれ、なじみの生活を突然失う時、私たちは、同時に自分の一部をも失う。そして、失ったものの代わりを探す、終わりのない旅へ投げ出される。自分は何者なのか、との問いを抱きながら、失う前には当たり前に存在した、自分がいるべき揚所を見つける、長い、長い道程が始まる。
コメント:ジョン・デンバーの歌は暗記するほど良く知っており、歌を聞くだけで北米の大自然の風景が眼前に浮かぶ。残念ながらジョン・デンバーは小型機の事故で若くして亡くなった。米国の映画で自然が主役だった映画には、ブラピのリバー・ランズ・スルー・イットがある。ある家族の3世代の歴史を綴ったものだ。
なお、ジブリのアニメのテーマソングにも使われたカントリー・ロードの出だしの部分はAlmost heaven West Virginia…である。但しそのアニメの「耳を澄ませば」は、こう言っては悪いが、印象の薄い作品だった。折角自宅の近くの、聖跡桜が丘が舞台だったにも関わらずである。
ともあれ、さすが作家は文章が巧みで、我々素人の遠く及ぶところではない。でもこの寄稿を紹介したのは、浪江町に起きた事を忘れてはならない、そしてそこには被害に遭い、生活を破壊され、故郷を奪われた人たちが居たことを忘れてはならないからである。
おりしも最高裁で当時の東電の幹部の刑事責任を問わないという判決が出されたことをTVで報じていた。建設時の安易な見通しが全ての原因であることは明白なのに、こうした一方的な判決が出る立法司法行政の在り方にこそ、問題の本質が潜んでいることを、痛感した。
関連記事:帰還者第1号。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6531610
関連記事:震災14年、関連倒産2064件。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6531585
関連記事:被災3県で移住増。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6531592
関連記事:最悪の原発事故なのに、責任一切問わず。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/389968
2718.東電の責任変わらず 3.8
今回の前書きは朝日新聞(3.7)から社説2件のご紹介です。
「原発事故無罪、東電の責任は揺るがず」
東京電力福島第一原発事故をめぐり、最高裁が、大津波襲来の予見可能性を否定する判断を示した。厳格な立証が必要な刑事裁判でのこととはいえ、釈然としない。刑事責任はこれで決着するが、東電には賠償や廃炉、安全最優先への重い責任があることを改めて確認する必要がある。
2011年の福島第一原発事故に関連し、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電の旧経営陣2人について、最高裁が検察官役の指定弁護士の上告を棄却した。2人の無罪が確定する。
主な争点は、10メートルを超える津波を旧経営陣が予見できたかどうかだった。指定弁護士によると、東電の現場は08年までに国の地震予測「長期評価」に基づいた試算で最大15.7メートルの津波を想定し、対策の工程表も作成。被告らが参加する会議で報告されたが、対策は先送りにされた。
だが、今回の最高裁の決定は、長期評価には「積極的な裏付けが示されていたわけではない」などと述べ、10メートル超の津波が襲来する現実的な可能性を認識させるような情報であったとは認められない、との判断を示した。
一、二審判決は、事故回避には震災前に福島第一原発の運転を止めるしかなかったと認定した上で、長期評価は信頼度が低く、運転停止を義務づけるほど津波を予見できたとはいえない、としていた。最高裁もこの見方を維持したといえる。
国家が個人を罰する刑事裁判は推定無罪が原則であり、厳密な立証が求められるのは当然だ。ただ、今回は検察審査会が「起訴すべきだ」と2度議決して始まった裁判でもある。最終的な結論はおくとしても、未曽有の事故の責任の所在について、審理が十分だったのか、腑に落ちる説明になっているか、疑問が拭えない。
そもそも地震など自然災害はすべてを正確には予測できない。原発事故のような深刻な結果をまねく場合には、常に最新の知見に基づき、見解が分かれる場合は安全側に立って対策に手を尽くすのが当然の務めのはずだ。
実際、日本原電の東海第二原発は、同じ「長期評価」に基づいて津波の対策を進め、水密化など事故回避策をとっていた。
今回の決定も、あくまで原発の安全神話が蔓延していた当時のリスク認識を踏まえた判断だ。経営者個人が無罪でも、東電の責任や事故の教訓を軽視していい理由にはならない。安全最優先に緩みは許されないことを、原発事業の関係者は銘記すべきだ。
コメント:天災だから仕方がないじゃないか。波の高さは10m迄と言われていたのだから仕方がないじゃないか。政府から原発作れと言われていたんだから、仕方がないじゃないか。なぜ自分達だけが責められなければならないのか…という恨み節が聞こえてきそうだ。正直、気持ちは分かる。私が東電の社員なら同じように感じるだろう。でも言い訳と情状酌量で、現状を肯定してしまったら、この辛い経験を前向きに次世代に生かすことなど出来なくなる。何が原因で、どうすれば良かったのかは、現在に至る過去を肯定してしまえば、うやむやになってしまう。しかも汚染土の処理、デブリの取り出し、核燃料の保管など、やるべきことは山のように残っている。しかもそれは結局国費=税金で賄われるのだ。だから冒頭のような責任転嫁が、現状から眼をそむける言い訳に使われれば、百害があって一利もないことになる。逆に自分に厳しければ厳しくするだけ、教訓は輝きを増す。それが、いやそれだけが信用の回復につながる、唯一の道でもある。その場しのぎの言い訳で逆境をしのいだ(最高裁判決)としても、自社に責任はないの一点張りの企業なら、そもそも反省もなく、従って経営方針の修正もない。そんな自浄作用もない企業には、危なっかしくて、誰も大きな事業を任せる気にはなれない。そこで、五輪でスキャンダルの山を築いた電通を思い出した。果たして電通は反省したのだろうか。
二番目です。
「斎藤氏の会見 知事の資質、改めて問う」
自治体の首長と議会がともに住民を代表する「二元代表制」の意義も、議会が設置した調査特別委員会(百条委)の重みも、公益通報者を保護する行政の責務も、我関せずという認識なのだろうか。
兵庫県の斎藤元彦知事らに対する元県民局長の男性の告発について、県議会の百条委による報告書が本会議で了承された。斎藤氏は指摘を受け入れない考えを示した。
看過できない点が、いくつもある。まず、報告書について「一つの見解」との認識を再三、強調したことだ。
首長と議会は車の両輪として、互いに牽制(けんせい)しバランスを取り合いつつ適切な行政を実現する。そのために、議会には百条委を通じた調査や首長の不信任決議が認められ、首長は議会の解散権を持つ。
百条委の結論は、多くの見解の一つではない。斎藤氏は「県民の皆さんがどう判断するか」とも語るが、知事自身が聞く耳をもたないと、二元代表制は機能しようもない。
報告書は、斎藤氏らが告発を知ってから男性の懲戒処分に至る一連の県の対応を「公益通報者保護法に違反している可能性が高い」としたが、斎藤氏は県の対応は適切だったとの主張を繰り返した。
斎藤氏は「最終的には司法の場で」との認識を何度も示す。百条委は「行政機関は法律に違反しなければいいのではなく、法律の趣旨を尊重した上で遵守(じゅんしゅ)することが重要」と批判。「組織の長や幹部の不正を告発すると、権力者が当事者にもかかわらず告発内容を否定し、懲戒等の不利益処分等で通報者がつぶされる事例として受け止められかねない」と危機感を示す。
そして、男性の処分に関する斎藤氏の発言も問題だ。
告発文書を入手した斎藤氏は側近幹部に調査を指示し、男性の公用パソコンからは私的な文書も見つかった。それが処分の理由の一つとされたが、百条委は処分を「告発者つぶし」と位置づけ、法の指針に基づき男性への救済・回復措置が必要だとした。
斎藤氏はそれを受け止めるどころか、男性の私的文書について、これまで使ったことのない、男性の社会的評価をおとしめる表現で説明した。
私的文書については、昨年秋の出直し知事選で斎藤氏を応援した立花孝志氏が演説やSNSで内容を拡散した。男性は昨年夏に死亡。自死とみられ、社会的評価がおとしめられた状況が続く。
斎藤氏の発言は、立花氏らの行動を助長しかねない。
改めて問う。斎藤氏は知事の資質を欠いているのではないか。
コメント:欠いているどころか、人間としても最低である。しかし、自分は県民に選ばれた(しかも二度も)正当な知事だと言い張り続け、治部の卑劣さを言い訳するしか、彼には残された道がない。一回目は正当に選ばれたものの、県民の期待を裏切って、議会からそっぽを向かれたのは何処の斎藤か。
しかも二回目の選挙では、今度は極めて卑劣な、選挙法にも違反するばかりか、公平性も、正義も欠く、(お涙頂戴迄含む)なりふり構わぬ選挙を展開した。ありったけの虚偽情報を汚い手段でばらまき、百条委員会の委員を脅迫し、日本中に怒りの感情が沸き上がった。根拠もない誹謗中傷、宣伝、斎藤の贔屓が、臆面もなく繰り広げられたのである。全て立花や代理店がやっとことと開き直るかもしれない。立花がしたことは、斎藤がした事とイコールなのだ。二馬力なら、当選した馬が責任を負うのである。
冷酷な身勝手さを一旦脇に置けば、選挙制度の不備を斎藤は体現して見せたに過ぎないのかもしれない。しかしそれが不正な選挙であったことにはいささかの変わりもない。だから絶対に二回目の選挙結果を受け入れる訳にはいかない。真実もなければ、冷静でもない(どうやれば斎藤には違反がなかったなどと県民が判断できるのか。無論立花の扇動演説の結果である)選挙だからだ。これを認めてしまえば、今後の日本の選挙は「理性的な市民の」民意は存在できない、印象操作と感情の怒号だけの泥沼と化す。
ナチス時代のドイツ、或いはトランプの米国のような国、即ち全体主義、独裁主義の国になれば、日本には二度目の闇が訪れる。
ちなみに、悪魔の申し子立花をこれ以上野放しにしてはならない。そうしないと日本ではもうまともな選挙が意味を成さなくなることを、検察は真剣に受け止めるべきである。明白な憲法違反がそこにある(人権侵害=個人攻撃、言論による脅迫、機会均等の否定)。日本の民主主義の為に立ち上がる、有意の検事が一人くらいいてくれても良いのではないだろうか。
2719.トランプは皇帝か 3.9
今回の前書きは週刊文春(3.13)町山智浩の言霊USA「国を救う者はいかなる法も犯さない」から
「大統領になったらウクライナ戦争を一日で終わらせる!」そう豪語していたドナルド・トランプは2月12日、ウクライナ停戦の仲介のため、ロシアのプーチン大統領と電話で会談したと発表した。でも……。
ウクライナがロシアに奪われた領土を取り戻せる可能性は低い、と付け加えた。なぜ?
トランプは言う。「ロシアは多くの土地を奪い、その土地のために戦い、多くの兵を失った」
犠牲を払ったからその土地をロシアに譲ろうっての? ロシアが勝手に攻めてきたのに? ウクライナ人もいっぱい死んでるのに? そもそもウクライナの領土をどうするかを当事国ウクライナ抜きでトランプとプーチンで勝手に決めるの?
「私はただ何百万人もの人々が殺されるのを止めたいだけだ」トランプは言った。自称「ディール(取引)の天才」らしくない殊勝なことを。
その後、トランプがウクライナ政府に、停戦後、ロシアから守ってやるから地下資源の半分を寄越せ、と要求する文書がリークされた。みかじめ料せびるヤクザかよ! 当然、ウクライナのゼレンスキー大統領は突っぱねたが。
2月18日、アメリカのマルコ・レビオ国務長官とロシアのラブロフ外務人臣が、サウジアラビアの首都リヤドで協議を行った。繰り返すが、当事国ウクライナ抜きで。
「ウクライナが招かれなかったって文句言ってるらしいな」トランプはフロリダの自宅での会見で言った。「そもそもウクライナは戦争を始めるべきじゃなかったんだ」
???? 戦争を始めたのはウクライナじゃない。2022年2月にウクライナに攻め込んだのは口シアのプーチン大統領だ。
「ウクライナは取引だってできたはずだ。ほぼすべての土地をロシアに与えてれば、誰も死なないですんだんだ」
ちょっと待て! それじゃ攻め込んだ者勝ちじゃないか!
サウジでの協議でロシア側が停戦の条件として要求したのはウクライナでの大統領選挙だった。ロシアの企みは、セレンスキーに対して親ロシアの候補を立てて、それを勝たせること。つまり2014年に「マイダン革命」で打倒されたヤヌコヴィッチ大統領みたいな傀儡政権を復活させたいわけ。これがいつものプーチンのやり方。ジョージア(旧グルジア)にも親ロシア政権を建てたし、ルーマニアの大統領選でもインフルエンサーを買収したネットエ作で親ロシア候補を勝たせた。
でも、その手口はもう通用しない。ルーマニアでは憲法裁判所が「外国の介人による選挙は無効」として大統領選がやり直しになり、ジョージアの傀儡政権は激しい反政府運動で揺らいでいる。
それはさておき、トランプは口シアの要求を受けて「ウクライナには選挙が必要だ」と言った。去年、選挙が行われるはずだったが、戦時下の戒厳令のため、延期された。
「言いたかないが、セレンスキー大統領の支持率はたった4%まで落ち込んでるそうだが」
4%つて数字はどこから?
たしかに開戦当初は90%だったゼレンスキーの支持率は長引く戦争で少しずつ低下している。それでも、現在は57%。 トランプの45%より高いのだ。
協議から外されたうえ、戦争を始めただの、支持率4%だの、さんざん言われたゼレンスキーもさすがに「トランプ大統領はロシアに作られた『偽情報空間』の中にいるんじゃないか」と呆れた。
これにトランプじいさん、ブチ切れて、自分が創設したSNSでゼレンスキーを「独裁者」と決めつけた。
「王様万歳」
「お笑い芸人ゼレンスキーは、アメリカを説得して3500億ドルの支援を受け、勝てない戦争、始める必要もなかった戦争、アメリカとトランプなしでは決着がつかない戦争に突入した」
「選挙で選ばれてない独裁者のゼレンスキーはぼやぼやしてると祖国を失うぞ。私はロシアとの停戦交渉に成功しているけどな。これはトランプにしかできないことだと世界が認めている」
「セレンスキーはあぶく銭を稼ぎ続けたいのだろうが、国はメチャクチャにされ、何百万人もが不必要に亡くなった。そしてそれはこれからも続く……」
「あぶく銭」稼ごうとして地下資源せびったのはあんただろ!「独裁者」というなら敵対者を次々に抹殺して25年もロシアに君臨しているプーチンのほうだし、トランプ自身がなりたいくせに。
「国を救う者はいかなる法も犯さない」
2月15日、トランプは突然、Xに投稿した。それはナポレオンの言葉だとされる。「国を救う指導者はどんな犯罪も許される」という意味で、自分は「法の支配」を超えた独裁者だという宜言だ(実は1970年の映画『ワーテルロー』でナポレオン役のロット・スタイガーが言ったセリフ)。
大統領ですら法の下にあるのに、いったい何様のつもり? 国を救うって何したの?
2月19日、その疑問に答えるようにトランプは投稿した。「渋滞料金は死んだ。マンハッタンとニューヨークは救われた。王様万歳!」
渋滞料金とはニューヨーク市内の交通渋滞を減らすために始まった通行料金。それを撤廃させると決めた自分を、王様と呼んで誉めてるわけ。
「アメリカは王国じゃありません」
ニューヨークのキャシー・ホクル州知事はトランプと法的に闘う意向を示し、州都市交通局は即日提訴している。
ところでトランプが撤廃させる渋滞料金は9ドル。たった9ドルで王様気取りか! トランプが何もしないから物価高が止まらないのに!
コメント:まず「停戦後、ロシアから守ってやるから地下資源の半分を寄越せ」という要求は変更されている。トランプが資源と引き換えに安全を保障するという約束をしなかったから、ゼレンスキーは怒って帰ったのだ。会談の決裂は一方的にトランプの責任であり、ゼレンスキーのせいではない。しかもロシアがウクライナを占領したら、米国に採掘権を与えると言って陽動作戦をしかけてきていた。そこでトランプがゼレンスキーに言った言葉は、米国人が資源開発でウクライナにいる限り、それが抑止力になるから、ロシアの侵攻を食い停められるはずだと語ったのである。ロシアが攻めて来るか、来ないかはロシア次第であり、それに米軍が武力で対抗するとは一言も言わなかった。これでは正にみかじめ料。取るだけ、取って何もする気はないと言っているに等しい。一国の代表が詐欺師まがいの説明。南洋の島国でもあるまいし、何と言う後進国だろう。
おかしなことをおかしいと指摘する勇気、それが真の言論の自由であり、民主主義を持続し、民意を推進する原動力となる。
トランプの暴言に右往左往している世界は、正に独裁者の思うつぼ。正視に耐えない醜態だ。
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コメント:ハマスとの直接協議に反発。ウクライナと同じ。
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もう一つは朝日新聞(3.8)社説「学術会議の法案 学問の自由脅かし、禍根を残す」
国の機関である日本学術会議を法人化する法案が閣議決定された。性格を大きく変え、広い視野から国や社会に貢献する機能を損ないかねない。禍根を残す「改革」だ。
■終わりの始まりか
学者を代表し、「学者の国会」とも呼ばれた学術会議の改組は、学問の自由を脅かすものとして、学者らは危機感を高める。梶田隆章前会長は「日本の学術の『終わりの始まり』になる」と警告する。
学問は、専門分野ごとに厳密な研究を長く積み重ね、自律的に発展してきた。一方で「知は力」だからこそ、政治は学問を意のままに操ろうとし、ゆがめた過去もある。
戦前の日本では政府が何が正しい学説かを決め、反する説を唱えた学者が排斥される事件が起きた。そして、ふつうの人々の精神的自由も奪われていった。
そうした反省に立ち、学問の自由を保障する憲法23条が尊重されてきた。真理探究や研究の自律性を維持するためには、政治の介入や干渉から自由と独立を守る必要がある。単に何を研究してもいいというだけの意味ではない。
地動説をはじめ、真理の探究は政治や社会の「常識」や思い込みと衝突してきた。今も、世界の科学者が認める人間の営みによる地球温暖化さえ、攻撃対象になっている。
学術は独立した自由な営みがあってこそ進歩し、問題の発見と解決法を提示して人類や社会に寄与し、科学技術力向上などを通じて国の発展にもつながる。
■国に資する改組か
法案では、学術会議は従来どおり「科学者の代表機関」とされ、政府に意見を述べる「勧告権」は維持される。
一方、内閣府に置かれる首相任命の「評価委員会」が点検して意見を述べる。会員候補の「選定助言委員会」が新設され、会員は首相任命ではなく、総会が選任する。業務を監査する「監事」は、会員以外から首相が任命する。
外部の意見を聞くことは必要だが、これでは幾重にも縛られかねない。政府は、法人化で独立性が高まると説明するが、「助言」であっても法律で定められれば尊重せざるをえず、かえって独立性がゆらぐ。予算は「政府が必要と認める金額を補助できる」とされ、財政面からも政府は学術会議を締め付けられる。
法人化された国立大学の改革で政府の締め付けが強まり、研究活動に支障が生じ、結局は研究力を低下させた失敗を繰り返してはならない。
各国のアカデミーと同様に学術会議に求められるのは、高い学識を持つ会員で構成され、政府から独立した立場で提言を行うことだ。時には政府に耳の痛い意見を述べることに存在意義がある。
自民党などは学術会議に、政府や産業界と問題意識や時間軸を共有した連携を求めてきた。直面する課題への提言は有益だが、中長期的な視点、政府や産業界と異なる観点、表面化していない問題の発見こそ求められる。その多様性を排してはならない。
■あやうい異論の排除
学術会議の改組は、菅政権による会員候補6人の任命拒否が発端にある。首相の任命を「形式的」とした過去の国会答弁から逸脱し、議会制民主主義を軽視するものだ。
政府は「総合的・俯瞰(ふかん)的」に判断したなどとして、いまだに理由を明らかにしないままだ。説明なく特定の学者を排除すれば、何をすれば政府に干渉されるのかわからず、臆測や保身のための忖度(そんたく)、自己規制を招きかねない。
任命拒否問題は脇に置いたままで自民党や政府が持ち出したのが、学術会議改革だった。これは単に論点をずらしたというだけではない。根底には、学術会議の軍事研究に対する姿勢への反発がある。
学術会議は2017年の声明で、戦争目的の研究を行わないとしてきた過去の声明を踏襲した。研究は時に意図を離れて軍事転用されうるという前提を確認したうえで、軍事研究と見なされる可能性のある研究について、「適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである」と注意喚起した。軍事研究は、学問の自由や学術の健全な発展と緊張関係にあると指摘する声明だ。
「軍事研究を禁じる学術会議の方が学問の自由を損ねている」との指摘は、本質も事実関係もはき違えている。
学術会議の意見は政策に沿わないこともある。国の予算で活動しながら政府方針に反する行為が気に入らないかもしれない。だが、お手盛りの審議会のように学者を政策のお墨付きに使うばかりでは、専門知を生かすことにはならない。「税金をもらっている以上、政府の方針に従うべきだ」との指摘は的外れだ。
学術会議の成り立ちには、学者が戦争に加担した反省がある。国際情勢の緊迫を名目に、学者も含めて国全体を結集させようとすれば、戦前戦中と同じ発想になりかねない。政府の「暴走」を防ぐためにも、時に異論も言う組織の保持こそ、国の「安全弁」として欠かせない。
コメント:ごもっとも。