「WTWオンラインエッセイ」
【第22巻の内容】
「ポケモンGOは危険」
「辺野古に見るアベスガの無理無体」
「相模原事件、政治も無関係ではない」
「週刊文春と鳥越」
「独裁者が徘徊する世界」
「都知事選の結果」
「ゾンビ閣僚とアベノミクスの死」
「本を読まない政治家」
「最悪の防衛相人事」
「なぜ改憲したいのか」
「空気を作る人々」
「天皇と日本人」
「無知の知」
「マッカーサーの言葉」
「JAL123便の悲劇」
486.ポケモンGoは危険。2016/7/23
ポケモンGOというゲームが世界的ブームです。任天堂の株価は6倍になりました。
クリントンが演説で取り上げたり、各国政府が対策に乗り出すという、もはやサブカルを超えた世界的な社会現象になっています。
これを見て思い出すのはドラクエブームです。子どもたちがTVの前に座り込んで、外に出なくなり、当時中堅会社員だった私も含めて、成人男子までこのゲームに夢中になり、家庭崩壊の危機まで招きました。
結論から先に言うと、お子さん、お孫さんには絶対に遊ばせないで下さい。極めて危険なゲームです。
それは内容が敵キャラを殺しまくるような殺伐なゲームだからでも、或いは描写に問題があるからでもありません。
登場キャラは、おなじみピカチュウなどのポケット・モンスターで、基本的に愛らしいキャラです。
内容も単純で、スマホの画面上で彼らを探しては、やっつけるというより、捕まえて点数を上げて、より高度なモンスターを探すというゲームです。
そんなゲームのどこがいけないのかというと、自宅に座っているだけではモンスターはやってこないからです。自分で歩き回って探さないとモンスターは画面に出てこないのです。
これはポケモンをどこに配置するかをメーカー側が位置情報としてアプリに与えておき、スマホの位置情報(GPSの現在位置)と重なったときだけ、画面に出てくるようにしているからです。
ポケットにしまっておいて、近くに来た時だけ教えてくれるようになっているかどうかは知りませんが、常時回線につなぐ必要があるとすれば、通信費は莫大になるし、スマホの位置情報をオンにして、しかも画面をつけ放しだと、見る見るうちに電池がなくなります。
スマホのカメラで自分の周りの景色を画面に出しておく必要があるという点が、二つの意味で危険なのです。
まず歩きながら探すという前提に問題があります。仮にスマホの画面経由で前方が見えたとしても、背後や足元まで見える訳ではありません。画面に集中すればするだけ、一層周囲への注意が疎かになります。
それでなくても歩きスマホの弊害が叫ばれているのです。画面に夢中になっていれば、後ろから車は来る、横から自転車は来る、前意を歩く年寄りにぶつかる、挙句ホームから足を踏み外すのです。
しかも相手がどこにいるか分からないので、探す楽しみがあって、その結果、ポケモンを探す為ならどこにでも行くようになります。
ゆえに地雷原の多い国では、政府が禁止していますし、墓地や宗教施設への侵入も問題視されています。
関連記事
http://toyokeizai.net/articles/-/127350
同
http://www.huffingtonpost.jp/2016/07/22/yasukuni-pokemon_n_11130912.html?utm_hp_ref=japan
ドラクエがビデオゲームに火をつけて、子供が外で遊ばなくなり、社会と断絶した彼らが成長して、非人間的な犯罪の一翼を担うようになったという悪例を思い出させます。
その点だけで言えば、このゲームはポケモン探し同士が、野外で情報を交換するので、思わぬ友達が増えると言われています。
メーカーがどうしても位置情報に紐付けたゲームを売りたいのであれば、周りに危険のない場所を特定し、それは車の入らない公園でも、テーマパークでもいいけれど、その施設がキャラの使用権を獲得して、ポケモンいますという看板を出せば良いのです。また事実上それしか対策はないと思います。
とうことは、逆にここにはポケモンはいませんという看板も必要です。私が看板のメーカーなら今すぐ製造を開始して一儲けするところです。どうせ任天堂はそこでもライセンス料を要求するとは思いますが。
その場合でも、ここではスマホ禁止ではなくて、この一帯にはポケモンは住んでいませんというのが正しい表示の仕方になります。子どもが分かる表示にすることが必要だからです。
言うまでもなく、学校、病院、駅などは禁止区域にすべきです。そしてメーカーがそういう場所を勝手に指定した場合は罰金にするべきです。砂丘や観光地の山道のような車が入らない道を除く一般の路上も禁止にするべきです。
そうでもしないと、死ななくても良かった子供たちが不慮の事故に会うという悲劇が必ず起きるでしょう。しかもその責任を取る気は任天堂にはなさそうです。すでに任天堂は、国会議事堂や官邸までも(勝手に)キャラを配置しているようです。
ゲームは面白ければ、すべてが許される訳ではないのです。もしそうならすべての賭博が解禁になるでしょう。賭博が禁止されているのは中毒性があり、個人の人格と生活と家庭を破壊するからです。
それは子供向けのゲームでも、同じことなのです。しかも中毒性の上に、交通、または通行上の危険性までがおまけについてくるのです。これは明らかに有害なゲームなのです。
このゲームの問題点は、開発者が社会的な影響を全く考慮していない点にあります。私はこれはITソフト産業に関わる人全体のモラルの問題でもあると考えています。
安全で楽しいゲームを開発するのが本来の役割なのに、いくら面白くても、危険で習慣性の高いゲームを開発するのは、言い換えれば事実上、危険ドラッグを開発しているのとあまり変わらないのです。
売れさえすれば善というのは20世紀型(今は21世紀)の古い資本主義の論理です。
一方、スマホの技術力には目を見張るものがあります。画面が高精細になり、メモリの容量も増えて、処理速度も向上し、いまやまさに掌に乗るコンピューターを私たちは手にしているのです。
でも道具が高性能であればあるほど、その使い方には高い知性とモラルと自制心が要求されるのです。
例としてふさわしいかどうか分かりませんが、それは原子力にも通じるものです。
今更遅いかもしれないが、自制心と分別のある男女にさえ勧められないのに、ましてその両方がない子どもたちにポケモンGoを与えることに、私は大反対です。
私は自分の孫たちが、このゲームを欲しがらないでいてくれる事を心から願っているのです。
487.辺野古に見るがアベスガの無理無体。2016/7/22
辺野古の和解プロセスが振り出しに戻りました。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072100803&g=pol
関連記事。強硬姿勢は納得得られない。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072100841&g=pol
仲裁裁判の和解条項で、協議で解決せよとの裁定が出て、両者がそれを受け入れました。翁長知事も問題を話し合いで解決する立場を堅持しています。ところが今回の官邸の暴挙。裁定の趣旨を踏みにじって、裁判を要求した官邸が、工事に着手し、裁判で喧嘩を売ってきたのです。
参院選で勝った余勢で、またもや自民党が無理を押し通そうとしているのでしょうか。だから私は他に政治を任せられる政党がないからという消去法で、自民に投票する人たちの気持が理解できません。だったら白票を投じて欲しいのです。マ仕方がないから、などという理由で選んでほしくないのです。結果的に安倍政権の暴走にお墨付きを与えてしまい、自分で自分の首を絞め、そのおまけに日本を滅亡の縁に追いやっているのです。
それが、ほかならぬ私たちの周りにいくらでもいる、真面目でおとなしい日本人なのです。政治家が嘘でごまかして、これだけ好き勝手にやっているのに、どうしてそれがお分かりにならないのか。私は本当に理解に苦しんでいるのです。
安倍政権の強権体質は、菅長官の体質なのかもしれません。でも平和日本に、いまさら時代錯誤の和製ゲッペルスなどはいらないのです。今回の改造で閣外にお引き取り願いたいものです。田原も下手に持ち上げるのはやめにしてほしいのです。安倍首相の懐刀どころか、国民を巻き込む爆弾番頭だからです。
自民きっての辣腕=むしろ幹事長向き、ですが、それは手段を選ばないから出来るのです。民主主義も立憲政治も、この人には何の意味もないようです。何でもありのスーパー黒幕なのです。菅研究のような本が出てこないのが不思議なくらいです。しかしいくら権謀術数に長けていても、政治家が政治家である大事な要素は欠けています。それは政治理念です。どうすればこのような特異な価値観の政治家が生まれるのか、近代日本政治史の7不思議の一つです。
しかしこの人が仮に首相になったとすればその力は半減するでしょう。影に隠れて動けるからこそ、好きなことができているのです。しかし、ダッカ事件の時に、選挙運動のために、離れてはならない官邸を8時間も留守にしたことを、世間やスコミが忘れても、私は忘れる訳にはいきません。深夜だったので、電車が使えないので高速を飛ばしたのかも知れません。パトカーが先導したのでしょうか。すべては闇の中です。
日本が急速に右傾化しているのは、一も二にもなくこの安倍・菅の二人三脚のおかげです。この二人が荒らしまわり、滅茶苦茶にしてくれた=財政問題だけでも気が遠くなる、日本の経済や外交、膨張した行政費用を元に戻すだけでも、国民にとって膨大な作業になるでしょう。
アベノミクスで高収入を謳歌している人たちは、資産を早く実物資産に換えた方が良いと思います。安倍政権はアベノミクスを今後も続けると公言しているのです。だからインフレになるのは時間の問題なのです。その時はあなた方の資産はきれいさっぱり紙くずになることでしょう。
だから消費増税があるとしても安倍政権の退陣が条件になります。そうしないと何回増税しても、全て政権が好きなように使ってしまい、増税の効果は相殺されてしまい、国民の生活どころか、財政も改善しないからです。日本は安倍・菅という放蕩息子を抱えた貧困家庭のようなものです。しかも子供たちはそれを食費(福祉)や学費(教育)ではなく、競艇(ODAや五輪)やパチンコ(防衛)に使ってしまうのです。もうひとつ極めて重要なことがあります。それは今後始まる可能性の高い民衆扇動です。それは既に始まっているのかもしれないのです。
関連記事。なぜ強権体質のエルドアンを守ったのか。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/07/post-5524.php
関連記事。日本は奴隷天国。民主主義を壊すコスパ第一主義。内田樹。
http://toyokeizai.net/articles/-/127350
488.相模原事件、政治も無関係ではない。2016/7/30
政府もメディアも、相模原の事件をすべて個人的な精神疾患と大麻のせいで片づけようとしています。しかしそれで再発が防げるのでしょうか。すべてを政府や行政のせいにするつもりは有馬s年が、すべてを個人の責任で片づけてしまうと、逆に類似の犯罪の防止にはならないと思います。無論この寺家に限って言っても、行政の対応には大きな問題が残ります。警察の警備はどうだったのか。市はなぜ容疑者を本解放したことを園や、警察に通報しなかったのか。行き過ぎた権利主義、自己責任主義がなかったのかどうか。
私は弱者を狙ったテロが今後も起きるだろうという暗澹たる予想をしています。原因を麻薬で片づけてしまうと、それが防止できないのです。死ななくても良い老若男女が命を落とすことになります。なぜなら社会的な風潮や世相に、問題発生の温床があるからです。今回の事件は自身が社会的弱者=社会不適応で解雇され、精神病院に強制入院、であるにも関わらず、そのうっぷんを正しく向けるべき相手、すなわち政府=国家権力や企業経営者、あるいは経済システムにではなく、手っ取り早く、自分に身近で、だから目障りで、自分より弱い者に向けたという事件だからです。後はすべてが逃避であり、自己正当化の言い訳です。これはISのテロと全く同じ精神的構造です。政府はその点を覆い隠そうと懸命です。社会に対する不満が原因なら、社会不安が起きると同時に、テロに対する恐怖感が増大してしまうからです。でもこう考えてみて頂きたい。犯人が主張するように、主義主張のための犯行なら、即ち個人の怒りがないのであれば、めった刺しにする理由はないのです。そもそも殺人で問題を解決しようという発想にもなりません。ではその怒りはどこから来たのか。そこに問題の本質があると私は考えています。
自分を劣悪な境遇に追いやったのは、今回被害者になった社会的弱者でないことは明らかなのに、そうは考えない。国や経済に責任はない、国は社会を良くするために弱者を抹殺せよと衆院議長に訴えています。これはまさにナチスの発想です。無論、本人は狂っています。だから凶行に及んだのですが、同時に、冷静に考える習慣も、分析能力もない、いわば無知がどれだけ恐ろしいかということでもあり、無知(と身勝手さ)が人間を凶器に変えるという点で、ISと共通しています。
この種の事件が個別で特殊な犯罪だと政府がいくら言い張ってみても、それは無理です。例えば、昨日はこんな事件がありました。児童相談所の次長が、うっぷん晴らしで鞄を中学生と見ればぶつけて歩いて、通報され、減給処分と書類送検になったという事件です。一歩踏み込めば傷害事件や殺人事件です。すなわち今我々が住んでいる現実の社会に、倫理観も正義感も欠如し始めていることに言い知れぬ不安を感じます。しかもこの倫理感と社会正義の欠如という点になると安倍政権は一役も二役も買っています。こういう風潮が当たり前になれば、これからもどんなに悲惨で異常な犯罪が起きても、少しもおかしくはないということです。相模原の事件をそうした社会現象と考えない限り、事件を防止することはできません。まして道徳教育がどうのという問題でさえないのです。
貧しくても、国民がお互いの存在を意識し、積極的に社会に参加していた昭和が懐かしい。今ではそれがありません。昨日のラジオ番組で、コメンテーターが、総活躍という言葉には問題がある、それには参加出来ない者、すなわち社会的弱者への風あたりというネガティブな面を含んでいるからだと指摘していました。そもそも総が付いた時に、政府のファシズム=全体主義的な性格を想像したのは私だけではないはずです。そういえば、今回も安倍首相の口からは社会的弱者の配慮という言葉は出てきませんでした。彼の思い描く理想的な日本には社会的弱者=お荷物、など存在していない、あるいは存在してはならないかのようです。それは植松容疑者と同じ価値観です。
今回の事件と政治の色合いが全く無関係だとは到底信じられないのです。ナチスの政策を礼賛する閣僚が続投するような政権なのです。戦車が進むように、常識も良識も踏みつぶして進む、安倍政権お得意の政治手法。国民はのど元過ぎればすぐに忘れる馬鹿な者たちでしかないと思い込む愚かさと身勝手さが感じられます。事件発生直後、外国のトップから弔問の電報が来てもなお、沈黙を守るという先進国のトップにあるまじき態度は一体何だったのでしょうか。これは国民の怒りや悲しみより、政権に対する影響を探ることを優先したという、動かしがたい証拠ではなかったでしょうか。ダッカのテロ対応=8時間の空白、に続く政府の失態ではなかったのでしょうか。
政権の存続がすべてであるような政党に、国をゆだねて安心していられるという神経が私には理解できないのです。選挙の都度、自民党を選んだ理由、すなわち他の政党よりよさそうだからという理由が、日本の現状を余すところなく言い当てています。しかも自民党の唯一のよりどころの経済が一向に上向かない。財政赤字も改善さえない。こと経済では不安材料ばかりなのです。年金の運用に失敗し、巨額の損失を出していながら、責任者は開き直っています。運用比率を変えるとも一言も言っていません。今の体制と判断力のままで、これらも進んでゆくと公言しているのです。これはとても恐ろしいことです。いくら損をしても一切とがめられないことを意味しているからです。政権の倫理観の欠如がここにも表れています。今の安倍政権のままなら、国民は安全と資産の一切を失うことははっきりしています。この国が、国民のための国なのか、選挙結果だけで国民が自民党に全面付託したと主張する政権のための国なのか、もう一度国民にお尋ねしたいのです。
安倍首相にも政府与党にも、ダッカのテロでも、相模原のテロでも直接の責任はありません。それははっきりしています。でもいずれの場合も、起きた事件への対応は決してほめられたものではありませんでした。しかも後者は危険人物を野放しにするという、行政面での手落ちもありました。これを一狂人の偶発的な事件だと片づけてしまえば、今後起きるであろう事件を未然に防ぐことはできないのです。ダッカでも年金でもそうですが、その場所しのぎの、臭いものにふたをするという安倍政権の常とう手段では、問題を根本から解決することにはならないし、非業の死を遂げた被害者たちの魂も浮かばれないのです。
・相模原殺傷犯、ヒトラー思想に感化 7/29
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160728-00000055-nnn-soci
(寸評:本件について、ナチス礼賛の麻生から意見を聞きたいものです。仮にそれが冗談だったとしても、政治家として言って良いことと悪いことがあります。欧米なら、ワイマール憲法に学べの一言で政治家声明は終わりです。しかも誰もが思いつくこの発言を、一切メディアは報道しようとしていません。それほど安倍政権が怖いのでしょうか。そうなるともはや独裁を超えた恐怖政治です。上から政権の圧力。下からは基本的な教養も十分でない感情的な若者たちの炎上。ネットを「悪用」したファシストの予備軍。彼らはいわゆる右翼より一層始末に悪いのです。なぜなら右翼なら一定のプライドと分別と論理があるが、彼らはそれがないからです。言うなれば火事場で騒ぐ群衆でしかないのです。しかも彼らは本も読まない。考える習慣がなく、議論の方法も知らない。これは国が明白なファシズムに進み始めていることの明白な兆候以外の何物でもありません。私が安倍首相なら直ちに衆院を解散し、また選挙で圧勝し、その勢いが憲法改正を推し進めるでしょう。今ならそれが可能です。一体日本の国民は、なぜこうも無気力で、無関心な民族になってしまったのでしょうか。経営者が絶対の権限を持つ金融資本主義の下で、反骨精神も、牙も抜かれてしまったのでしょうか。労組も全部御用組合になってしまったのでしょうか。そういう国家規模での思想の統制、発言の窮屈さ、常識の欠如が大規模に進められている中で、相模原の事件をとらえると、起こるべくして起きた事件であることも、首相のコメントがなかなか出なかったのも、それを指摘する声がなかったことも、得心がゆきます。私たちは今後この政府対応の微妙な時間差にも注目してゆく必要があります。相模原の事件は決して一狂人の偶然の犯罪ではなく、今後も類似の何かが起こるであろうことを示唆しているものです。それは安倍政権がそういうファシズムの雰囲気を作り出していることに少なからず責任があるのです。政権中枢部の二流の政治家を恐れているようでは、日本で市民意識など育つはずもありません。寄らば大樹=本当は大樹は国民であるべきなのですが、で、しかもジャーナリズムの精神を置き忘れた日本のメディアが、その傾向に一役も二役も買っているのは言うまでもありません。現在は精神面で言えば、戦時中の日本と全く同じ状況にあるのです。国会が開かれていないのは本当に残念です。最近の事件に対する政府の対応には、突っ込みどころが満載だからです。安倍首相は、相模原の事件での政府の無作為にも、警察の対応にも、一切触れていません。テロ撲滅をお題目にしてきた首相の政治的な背景が、実はテロの温床になっている。こんな皮肉な事態はそうざらにあるものではありません。しかし官邸は無論のこと、そのことにいち早く気が付いています。彼らは極めて狡猾であり、「大衆の口を封じる」動きは驚異的に早いのです。いささか古いが、これが村山政権なら、どう対応し、何を語ったでしょうか。それを、想像しながら、是非、いまの安倍政権の言動との違いを比較してみて頂きたいのです。未だにコメントも出てこない民進は、言及するだけ時間の無駄です)
・相模原の施設襲撃事件 7/28
他人の命を奪う権利が与えられたと思い込み、しかも反撃される危険の少ない弱い相手を狙って殺傷する。相模原の植松も、ISのテロリストも、その歪んだ価値観と身勝手さでは、何ら変わるところがありません。被害者はめった刺しにされていた。その所業のどこが安楽死なのか。自分の刹那的で悪魔的な欲望を満足させただけではないのか。患者の周囲が精いっぱい生かそうとしてきた努力を、自分勝手な価値判断で踏みにじったのです。障碍者はいなくなればいいとは、ナチスにおけるユダヤ人と同じではないか。一体どういう価値観の社会や国家なら、こういう歪んだ若者が出てくるのだろう。日本会議にも説明を求めたい。これはテロなのです。
何枚か見た犯人の写真には、反省も悲痛さもなく、勝ち誇ったような表情さえ浮かんでいました。そもそも本当の精神異常者は自首はしません。いま私たちがなすべきは、何故植松がこのような狂信的な悪魔的な思想に取り付かれたのか、その経緯を分析し、第二、第三の惨劇を未然に防ぐことです。自暴自棄の男が自殺願望から多数の生徒の命を奪った池田小学校の事件も、社会病理学の立場でもう一度見直す必要があるかもしれません。今回の事件では、政府の対応も、警察の対応も決して褒められたものではありません。防ぐ機会が与えられていたのに看過したからです。沈黙を守る安倍首相には、それらをきちんと国民に説明する義務と責任があります。
関連記事。重体入所者の親。絶対許せない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160727-00000106-mai-soci
・7/27
誰が何と言おうとも、相模原の殺人者には一寸の同情の余地もありません。言ってはいけないことですが、裁判で死刑判決が出れば、公開処刑にして欲しいくらいです。そうでもしないと被害者の家族はたまらないでしょう。でも絶対にそうはならないし、下手をすれば一定期間、収監されたあとで、また野に放たれる可能性さえあります。なぜなら精神病の前歴があるからです。
・植松の手紙。260名の殺害計画。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6208995
突然差別するようになった。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072600690&g=soc
犯人は衆院議長に殺害予告の手紙を出して、事情聴取も受けています。その結果、精神病の判定を受けて入院した後で、反省の言葉だけで解放されました。警察がその後追跡していたのかどうかもよく分かりません。果たしてその凶行に、解雇への個人的な恨みを、無力な者への殺意にすりかえる身勝手さがなかったと言い切れるのでしょうか。すべてのテロがそうであるように、自分より弱い、無抵抗のものに怒りをぶつけ、傷つけようとする。それが卑怯者の特徴であり、いじめの土台です。殺しを楽しんだのではないかというおぞましい想像さえ成り立ちます。今回ばかりは、罪を憎んで人を憎むなと言っても無理です。なぜなら無差別殺人であり、自分が神=実際は悪魔だった、になったつもりの傲慢な犯行だからです。
精神病の履歴があるから無罪になるでしょうが、それで誰が納得するというのでしょうか。精神病で全てが許されるという仕組み自体が間違っているのかも知れません。さもないと、かっとしてやってしまった事は、一時的な心神喪失、同情の余地ありで全てが許されることになります。しかも今回は執拗で強い殺意が感じられると医師が語っています。正義の為ではなく、怒りのための犯行であることの証拠です。しかも犯罪はその動機よりも、実際に成した行為とその結末で先ず評価されるべきです。心神喪失だろうが聖戦だろうが、殺人は殺人です。少なくも他の誰かの仕業ではないのです。また一生刑務所で服役と言っても、結局榊原のように社会に復帰してしまう可能性もあります。
相模原の大量殺人は、オームに続く、まぎれもない国内のテロ事件です。行政があてにできない以上、私たちは自分で自分の身を守る方法を考えなくてはならなくなりそうです。
関連記事。植松の標的。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%8E%9F%E6%AE%BA%E5%82%B7%EF%BC%92%EF%BC%96%E6%AD%B3%E5%AE%B9%E7%96%91%E8%80%85%E3%80%8C%E6%84%8F%E6%80%9D%E3%81%AE%E7%96%8E%E9%80%9A%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%82%92%E2%80%A6%E3%80%8D/ar-BBuSFyx?li=AA570j&ocid=spartandhp#page=2
知的障碍者と家族団体が緊急声明。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160726/k10010609921000.html
海外でも報道。
http://www.asahi.com/articles/ASJ7V5WMHJ7VUHBI020.html?iref=comtop_list_nat_n05
プーチン、ケリー-が弔意。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160726/k10010609691000.html
(寸評:肝心の安倍首相は何も語らず)
489.週刊文春と鳥越。2016/7/31
私(WTWの編集子)は民主主義も、社会常識も踏みにじり、一部特権階級だけを優遇する政治権力に抵抗し、同時に、国民の目から真実を覆い隠し、政権や既得権者に有利な情報だけを垂れ流す御用メディアを批判することに、残り少ない人生を捧げています。しかしながら、私は大多数の国民と同様、独自のニュースソースを持っていません。だから出来ることは複数の一般的な情報源の情報を比較し、また過去の情報との論理的な関係から、何が真実であるかを推測することでしかありません。
それでもこれだけ長い期間(半世紀)、これだけ数多くの情報に接していると、記者の姿勢や論調だけでも、その記事の信頼性を判断できるようになります。私は未だに駆け出しですが、編集者に必要な資質は、記者の傾向と価値観を把握し、記事が本物か、それとも偽物かを嗅ぎ分ける能力だろうと思います。そうした編集者の観点から判断して、最近一番あきれたのは、週刊文春の鳥越攻撃の記事でした。私は民進が長島のような右傾化した議員を推挙しては見たものの、他党の同意を得られずに、鳥越を持ち出した時に反対しました。なぜならリベラル派が担ぐべきは、これまで得票数で2位だった宇都宮しかないと思っていたからです。でも4党合意なら仕方がない。他に選択肢はないのです。上杉が出るのなら、もっと早くから準備すべきです。ここにも民進の身勝手さ、甘さが露呈したのです。岡田が急に代表続投を諦めたのも、都知事選が小池有利に傾いたことと無関係ではないと思います。
週刊文春の記事では、鳥越が学生を連れて別荘に行ったときに、女子学生にキスをして、淫行に及んだものの、果たせなかったというもので、それを現在のその女性の夫の告発という形で取り上げています。鳥越は無論否定しており、週刊誌も女性からの裏付けさえ取らずに、夫の証言だけで、第三者からけしからんの意見だけを集め、中でも一番大きな扱いが三百代言の定評のある橋下の意見だという始末です。事実は分からないにしても、仮にキスがあったとしても、それが悪ふざけである可能性がある上に、論調はレイプに及んだかのような書き方になっています。でも常識で考えて他の学生がいる前で、そんなことをすると思うのは無理があります。だったらとっくに告発されているはずです。この記事のポイントは、やはり選挙の直前の時期という点にヒントがあるとしか思えません。実は同じ週刊誌に小池を信奉する都議の音喜多(ハフポストに暴言を良く載せている)が、かつてレイプで検挙されたことがあるという記事もあり、なぜか増田だけは記事になっていないのです。
夫の言い分は、人格的に知事になるべきでないと思ったから告発したというものですが、そもそも夫なる人物がどういう人物か、とりわけその政治的背景も良く分かりません。裏付けのない=取る気もない、たった一つの証言だけが独り歩きしているのです。他の元学生の当時の目撃証言を取る努力さえ、怠っているのです。風聞と憶測の上に成り立つ攻撃と批判。ジャーナリストが絶対に避けなければならないことです。今回の記事は、風聞とデマの域を超えるものではないと断言できると思います。それは私が現場に居合わせたためでも、夫なる人物と面談したからでもありません。一重に週刊文春の記者の、情報に向き合う不誠実な姿勢から、我々の信頼に足る情報とは思えないと判断したからです。しかもその都政に及ぼす悪影響は甚大です。この誹謗中傷がなかったとしても、鳥越には苦しい戦いになるでしょう。でも選挙後も同じジャーナリストとして、名誉をかけて徹底的に戦うべきです。権力側に有利なように事実を歪曲するようなメディアが大手を振って歩くようでは、日本の民主主義は闇だからです。
本人に会って話さなくても、一度読めば、記者自身に品格が欠如していることが、その文章だけで分かります。憶測が事実であるかのように印象付けることに努力している様子も手に取るように分かります。問題はなぜそんなことをするのかという意図そのものにあります。選挙妨害以外には考えられないからです。誹謗中傷だとしたら、記者と週刊文春にはその責任を取る義務があります。なぜなら国民は、メディアという目を通してしか、世界を見ることが出来ないからです。そこでレンズが歪んでいたり、わざとピントを外したり、あるいはレンズに色がついていたりすれば、世界の真実の姿は分からなくなります。私たちには身銭を切って、政権の宣伝機関誌などを買っている余裕はないのです。
記者はなぜこの時期を選んで記事を載せたのかと問われて、文中でこう答えています。鳥越だってぎりぎりでの後出しじゃんけんじゃないかと。子供の口論しかできないような幼稚な記者の記事を読んでいるほど、私たちは暇ではないのです。
490.独裁者が徘徊する世界。2016/7/31
いささか古いネタで恐縮ですが、文芸春秋(月刊誌)の6月号に「独裁者が世界を徘徊している」という対談がありました。論者は保坂、佐藤、片山ですが、10ページにおよぶ同記事から片山の意見の一部をご紹介します。
片山「ヒトラーはワイマール憲法の中の(非常事態においては、大統領が個人の自由の不可侵権等を一時的に停止できる)という部分を使って政権の基盤を固めました。では、この(非常事態)あるいは(例外状態)とは何か。戦争や内乱のみならず、経済恐慌や対外危機といったものまで含んでいました。ヒトラーはこれらを過剰に言い立てて恐怖心を煽った。そしてその例外状態を解決できる唯一の人物として独裁者の存在を正当化したのです」
片山「民主主義の健全な運用には経済の安定が不可欠です。逆に言うと、経済が不安定な時代は(独裁)が生まれやすい。第二次大戦前のドイツや日本は、議会制民主主義が経済問題に対応できなくなったことから混乱が始まりました。世界的な不況が叫ばれる今、新たなる独裁が生まれる土壌は、確かにあるのです」
片山「そもそも日本では、独裁者というと、ヒトラーでしょう。一人で勝手に赤裸々に暴力的にやるのが独裁だと思っている。しかし、そういうイメージにこだわると、独裁の多様性を見失うことになります。社会から意見の多様性が失われたり、行政が法の通例に外れた行動を増やせば、それは独裁の萌芽です。21世紀の独裁は、ヒトラーの様なものではなく、独裁者の顔の見えない、雰囲気とか言語とかでやんわりと包み込むような形で忍び寄ってくるのでしょう。同調していないと、いつの間にか村八分のようにはじかれてしまう」
保坂正康 昭和史研究家
寸評:今の日本がまさにそれではないでしょうか。但し顔ははっきり見えています。
・田中角栄は報道抑圧せず。小沢。
http://jp.reuters.com/article/idJP2016072601002319
・安倍首相の目標、ナチスドイツと酷似。
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e5%ae%89%e5%80%8d%e9%a6%96%e7%9b%b8%e3%81%8c%e7%9b%ae%e6%8c%87%e3%81%99%e7%9b%ae%e6%a8%99%e3%80%81%e3%83%92%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e3%83%8a%e3%83%81%e3%82%b9%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e3%81%a8%e3%81%93%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%ab%e3%82%82%e9%85%b7%e4%bc%bc%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%81%9f%ef%bc%81/ar-BBuQLK5?ocid=spartandhp#page=2
(寸評:古館のワイマール憲法の特番は私も見ました。これがギャラクシー賞を取っている間は未だ日本のメディアにも一抹の期待が持てます。しかし誰がどういう育て方をすれば、安倍晋三氏のような政治家が生まれるのでしょうか。
旧首相官邸には幽霊が出るという噂があって、安倍晋三氏は就任後しばらくの間官邸に住むことを拒否しました。そして官邸を建て直しました。ホワイトハウスを建て替えたようなものです。しかもその新官邸には、いまは幽霊どころか、国民に実害を及ぼす魑魅魍魎=スガゴジラ、が住み着いているようです。
おそらくヒットラーも、安倍首相のように気の小さい人だったのでしょう。国のトップに一番必要な資質は、人格と度量です。何より国民の痛みを肌で感じることの出来る血の通った人間であることです。今の安倍首相にはそれらが殆どと言って良いほど感じられません。まるでロボットのようにその場限りの、耳ざわりの良い決まり文句を繰り返しているだけです。口は達者でも、誠意が感じられない。なぜなら選挙の公約ひとつとってみても分かるように、その行動は口とは裏腹で、言行不一致の見本のような御仁だからです。海外の人質事件やテロで亡くなった人たちに対する同情の気持を彼から感じることはできませんでした。国内でも、原発事故で未だに避難生活をしている人達は、あたかも存在しないかのようです。彼をトップに戴く、自民党の右翼の若手議員やネトウヨ、ヘイトスピーチの言動は、相模原の大量殺人鬼=ナチスのホロコースト、に通じるものを感じます。
権力を持つ者には逆らわずにすり寄るというのは自民党議員の手法=魂を売った河野太郎を含む、です。官位=閣僚の肩書、で子分を増やし、言う事をきかせるのは、安倍首相と菅長官のお得意の手口です。気勢を上げる自民党の右寄りの若手議員からはヒットラー万歳を叫ぶヒットラー・ユーゲントに似た雰囲気さえ感じ取れます。その番長格がマスコミにいんねんをつけた萩生田副官房長官です。
もうひとつ言えることは、菅、麻生=ナチスを評価、という価値観を共有する独裁・強権政治の側近=続投、が脇を固めていることです。彼らからも人間らしさを感じることは出来ません。これでは天皇が退位を口にされるのは無理もありません。フランケンシュタイン=パーツは人間だが精神を持たない、や知性を著しく欠いたロボットたちが支配する国など、誰だって住むのも嫌です)
491.都知事選の結果。2016/8/1
都知事選の結果はご承知の通りです。3人のうちで誰が選ばれても、それほどおかしくない状況でした。誰が選ばれても、少なくも舛添よりはましだという都民の気持ちだったでしょう。だから私は小池が勝ったことを不思議とは思いません。しかし圧勝という点に少なからず不安を感じるのです。僅差や小差なら、未だ都民の判断が信頼できるのです。ではなぜ大差だとまずいのか。それは石原が当選した時と同じで、候補者の主義主張、価値観や人柄をじっくり吟味した結果の投票だとは思えないからです。三人とも政策の差は殆どなく、人格面でもそれほど見劣りする人はいません。ということは、印象だけで、即ち声が大きくて、勢いのある候補者を選んだのではないのか。あるいは女性というだけで。
参院選で、国民は他に選択肢がないからという理由で、安倍政権の続投を許しました。だから安倍首相の言うように、国民が安倍政権に付託した、即ち全権を委任した訳ではありません。また岡田代表の言うように、野党に一定の成果があったわけでもありません。多少なりともあったとすれば、それは共産党が戦術を変えたからです。民進が支持されたからではないのです。民進は事実、議席数を減らしているのです。しかもいまさらのように民進内部では共産との協力を後悔する意見が強いと言います。それは身の程知らずもいいところであって、単独で選挙に臨んだらどうなったかを想像してみるべきです。私は自分たちを客観的に見ることも、国民の立場で考えることもできない民進は早く分裂してほしいと願っているのです。新緑風会だけで独立してくれないものか。保守と革新の寄り合い所帯で、特徴がはっきりしないからじり貧になっているのに、じり貧であることさえ認めようとはしていないのです。リベラルを装う保守ほど厄介なものはありません。看板と中身が違うのだから、国民をだましているようなものです。
民進の批判はさておき、都民は舛添以前の金遣いの荒い、倫理感の欠如した自民党都政に異議を唱えました。まして他の地方と較べればリベラル色の強い東京のことです。それが今回の都知事選の結果に反映しているのはむしろ当然です。女性の発言力が大きくなったということや、ヒラリーの善戦も影響していることでしょう。女性票も大きいが、自民党の支持者でさえ、小池に最多の投票をしました。いくら否定しても、伸晃の指導力がないことも、自民党の求心力の低下ももはや否定はできません。国政への影響は殆どないというのはあくまで安倍政権の強がりです。これが堤防に明いた小さからぬ穴であることは、自民党支持者自身が証明しているのです。
週刊文春の汚い個人攻撃があっても、鳥越は善戦しました。むしろ追い風になった気配さえあります。上杉は4位に入る望外の健闘ぶりです。しかし小池と増田となると、どう考えても増田の方が実務者としては上なのに、都民はそういう評価はしませんでした。声が大きくて、勢いがある方を選んだのではないでしょうか。何かを変えてくれるだろう、何かをなし遂げてくれるだろうという期待感が、この選択をさせたのでしょう。
でもそういう選択基準は、非常に危険な面を持っています。小池の信念、価値観、政治の経歴、それらを総合的に理解した上での投票なら、無論その一票には価値があります。でも、そもそも判断するに十分な情報を都民は持っていなかったと思います。いつから国民も都民も、自分の頭で考えることを放棄してしまったのでしょう。そもそも投票率が低いということは、国民が選挙に価値をおかず、一票ではどうせ変わらないという無力感と、そもそも候補者の比較検討が面倒だという気持ちから、権利放棄をしてきたのではないでしょうか。
印象だけで投票する。ということは、これまでの都政で、あれだけ煮え湯を飲まされても、未だに都民は学習していないということです。一番目立つ人に投票する。声が大きければ投票する。だから石原慎太郎が当選したのです。過去の言動を振り返れば、国政は愚か都政も任せられる相手ではなかった人にです。私は小池という人物がどういう政治家であるのかを十分理解しないまま、投票した人が多かったということが、将来の都政に禍根を残すことにならなければ良いがと懸念しているのです。
私の危惧は、情動的な都民の投票行動のほかに、小池本人に関する懸念もあります。私は都民に聞きたい。なぜあなたは小池に投票したのかと。おそらくまともな答えは返ってこないでしょう。そこには、参院選で他の政党よりましだから自民党に投票したと答えた国民に対するのと同じ懸念を感じるのです。理由がきちんと説明できないのであれば、鉛筆を倒して答案を選んだり、じゃんけんで勝ち負けを決めるのとあまり変わらないことになります。
私は小池がどこまで約束を守ってくれるか。今はそれだけが心配です。都民は知事には散々だまされ続けてきました。無論知事によっては、これという政策がなかったわけではありません。それでも当選前の約束は基本的に守ることが大前提なのです。せめて公約通りに、都議会のボス、内田を切ってほしい。かつて闇社会と関係があり、今でも金で都政を動かす人間であり、都議を自殺に追いやるような者に都政を委ねるようなことがあってはならないのです。自民党の金権政治を体現したような人物です。でも結局両者がどこかで妥協するのではないか。なぜなら小池は当選早々、都議会との付き合いをスムーズにしたいと言い出しているからです。
関連記事。ネットでドンの存在が知られるようになった。猪瀬。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/07/31/naoki-inose-ikegami-tochijisen_n_11284986.html?utm_hp_ref=japan
自民党の意向に逆らう気概のある政治家であり、腐った都政を刷新してくれるだろうという受け取り方を都民はしたことでしょう。しかも本人も崖から飛び降りたと言っています。ならば自民党の対抗軸として機能してくれるだろうと期待する都民が大勢いるはずです。でも残念ながらその保証はありません。なぜなら小池は、東京でアベノミクスを実現すると言ったことがあるからです。都民はある程度の覚悟をしておいた方が、失望は少ないと思います。いつ何時、またどのような形で安倍政権と妥協するのか、私はそこに大きな関心と不安を感じているのです。少なくとも都民は、その時が来たら、声を大にして新都知事に苦情を申し立てるべきなのです。
関連記事。小池圧勝。
http://www.tokyo-np.co.jp/senkyo/tochiji2016/
関連記事。自民支持5割が小池に。
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016073100175&g=elc
関連記事。石原の敵失を池上が指摘。
http://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/%e6%b1%a0%e4%b8%8a%e7%84%a1%e5%8f%8c-%e5%bd%93%e9%81%b8%e3%81%ae%e5%b0%8f%e6%b1%a0%e6%b0%8f%e3%83%90%e3%83%83%e3%82%b5%e3%83%aa%e2%80%a6%e5%8e%9a%e5%8c%96%e7%b2%a7%e7%99%ba%e8%a8%80%e3%80%8c%e3%81%97%e3%82%81%e3%81%9f%e3%81%a8%e6%80%9d%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%a7%e3%81%af%e3%80%8d%e3%81%a8%e7%9b%b4%e7%90%83/ar-BBv4jAr?ocid=edgsp#page=2
関連記事。核武装ありうるという人が都知事となっていいのか。鳥越。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/07/31/torigoe-shuntaro_n_11285530.html?utm_hp_ref=japan
・小池を圧勝させた都民の怒り。醜悪な自民都連の嫌がらせ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47510
492.ゾンビ閣僚とアベニミクスの死。2016/8/2
・石破、閣外へ。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160801-00000096-nnn-pol
安倍首相の独壇場、閣僚指名の茶番劇がまた始まりました。これは彼が政治を仕切るときの唯一最大の武器です。私は石破を買いませんが、さすがに安倍首相よりはましだと思います。石破は、自民党の総裁選で本当は勝っていたのに、国会議員の票は2倍にカウントするなどの、取って付けたようないかがわしい後出しの演出で敗れました。彼が代表なら、日本の経済も、憲法違反も、これほどひどい状態にはなっていなかったでしょう。石破が地方創生相などをやってみて、彼にとっても国民にとっても、良かったことはありません。同じ事は河野にも言えます。二人とも、政治家にとって一番大事なものを人身御供として差し出してしまったからです。それは政治的信条です。
良く考えてみて頂きたい。岸田と塩崎を除けば、安倍が首相でなくなった時に、自分の足で立てる閣僚が何人いますか。個人としての魅力も、政治家としての存在感もなく、安倍内閣だからその地位にいられるだけの人達です。そういう人達にまともな政治を期待することが出来ないことは誰にでも分かる理屈です。彼らにできることは、ひたすら安倍首相のご機嫌を伺うことだけです。ご意見することなど滅相もないことであって、ということは安倍内閣には自浄作用は期待できないということでもあります。強い自民党が良いのか、ある程度は自浄作用のある自民党が良いのか。国民にとってどちらがプラスであるかは言うまでもありません。いくら強くても価値観と政策で間違えればそれまでだからです。
企業で言えばイエスマンだけを周りにおいたワンマン社長=ソニーや日産の経営者のように、のようなものです。しかも独裁経営の結果としての、腐敗と破たんの実態が、次々に明らかになっているのです。
安倍内閣の閣僚にできることは、安倍首相の神経を逆なでしない範囲で、どうやって自分の信念を通せるかですが、それがなんとか形になっているのは岸田と塩崎だけです。麻生に至っては、ももともと国民のことなどなんとも思ってはいない人なので=ワイマール-憲法発言でもそれは明白です、安倍と価値観を一つにする同じ穴のむじなです。残りの閣僚はただのゾンビ=動く死骸、です。
ゾンビには温かい血が通っておらず、私が私がで見栄を張り合うことしかできません。基本、見識も、展望も、指導力もないので、できることは少ない。政策は官僚に作文させてそこに乗っかるだけ。そして安倍首相よりさらに過激な発言をすることで、首相の歓心を買うことです。国民にとって彼らが有害無益の存在であることは、彼らがどこを向いて仕事をしているかをみれば一目瞭然です。
信念も理念もないのだから、最初から首相に助言も諫言もできません。もともとそんなことをする気もありません。下手にそんなことをすればうるさがられて首が飛ぶのがおちであり、首がなければいかにゾンビでも困るでしょう。
しかも皮肉なことに民進党を含む野党の中にも、思考能力の欠落したゾンビが多数徘徊しています。あまつさえ、橋下のように公約違反で現場から去らざるを得なかった者までが、安倍首相に胡麻をすることで復活を狙っています。もはやこの国は悪者とゾンビが入り乱れた、百鬼夜行の状態にあって、正常な神経と、良識を備えた一般市民が安心して暮らせる国ではなくなってきています。
安倍首相の経済政策は失敗しました。安倍政権の唯一の足掛かりである経済政策、いわゆるアベノミクス=そもそも自分の名前を政策につけるのはいかがなものか、は外国の経済の専門家や学者からも失敗だと指摘されています。市中に資金を供給して、金回りを良くしようとした黒田総裁の意図まで間違っていたとは思いませんが、そこで大きな読み違いがあったことも事実です。金融政策だけに頼った結果、資金は必要なところには還流せず、予期していないところに溜まりました。まず融資先がないので、市中銀行に溜まり、それを吐き出させようとして、マイナス金利を導入したものの、これが欧米と同じようには機能しなかったのです。結果、市中銀行の採算が悪化しただけで終わったのです。
また円安による企業の為替差益は、大企業の内部留保に使われました。なぜ設備投資や従業員への還元に回わされなかったのか。それは企業がアベノミクスをあまり信用しておらず、自社の存続を最優先にして=誰だってそうですが、安全策を取ったからなのです。事実、現在に至るまで実態の伴った景気の回復には至らなかったことは、GDP(4-6月は僅かに改善)の低迷がはっきりと物語っていますし、企業の対応がむしろ正しかったことを示唆しています。
こう考えてくると、安倍首相の言うトリクルダウンなるものが、いかに無理な発想であるかが分かります。さらに言えば、それを政権は承知のうえで、国民を納得させる、というより、騙す言い訳として使われただけではないのかという憶測も成り立つのです。無理無策に限りなく近い、あなた任せの経済政策の結果、結局必要なところ=中小企業と国民、には資金は回ってはいきませんでした。中小企業の倒産件数がそれを裏付けています。
企業は政府の思惑通りに動いてくれず、安倍政権の金融緩和の掛け声に及び腰でした。だから主として為替差益で得た利潤でも、それが円安という、いつまた動くかわからない要素の不安定な利益であるがゆえに、将来の変動に備えて内部留保として備蓄してしまったのです。企業活動に伴う営業利益であれば、彼らも安心して整備投資に回したことでしょう。これは企業がアベノミクスを信用していない結果だったとも言えるし、万事慎重な日本企業の自衛策だったとも言えます。
しかも安倍政権は、国民の大事な虎の子の年金基金の半額を、不安定な株氏投資に振り向けるという暴挙までやってのけました。無論のこと目的は年金基金を増やすことよりも、株式市場を活性化し、企業の収益を上向かせることにありました。すなわち国民の資産を国民に断りもなく、自身の経済政策のためにリスクにさらし、企業の収益を最優先したのです。案の定、昨年度は5兆円を超える運用赤字を出しました。しかも理事長は、謝罪はおろか、今後も同じ方法を続けると公言しているのです。専門家どころか、反省することさえ知らない人に、巨額の運用を任せるのは、背筋が寒くなります。
安倍政権は金融政策で打つ手がなくなり、財政に手を付け始めました。でもその前に金融政策が行き詰まったこと、アベノミクスが間違っていたことを素直に認めるべきなのです。この嘘をつき続ける、あるいは不正直であることは、安倍首相の大きな特徴です。肝心の所得や可処分所得の拡大に基づく内需の拡大こそ最優先なのに、そこは未だに手つかずです。だから今回の政策も失敗することが予め予想されるのです。
しかも財政出動、即ち大規模な公共投資の拡大は、規模が大きいだけに、大きなリスクを伴います。それはインフレです。インフレがなぜいけないかというと、今手元にある1万円札が千円、場合によっては百円の価値しかなくなるからです。給与が1/10になったら誰も生活できません。国民がコツコツ貯めてきた貯蓄の結晶である国債も紙くずになるのです。
同じ人が担当していれば同じ過ちを繰り返すのです。だから政権も経済の担当も、変えなければいけない時期に来ているのです。そうしなければ、発想の転換ができないので、抜本的な見直しも、方向転換もできず、じり貧に陥るだけだからです。
ここで消費増税を強行すれば、自民党の政権自体が持たなかったでしょう。しかも民進は野田元首相の愚策を、政党の責任として背負い込んだがゆえに、その後の動きに大きな制約が出来ました。消費増税反対と言えなくなったからです。しかも原発にさえ反対していません。民進が再生するためには避けて通れないことがいくつかあります、その一つは野田を切ることです。元首相が間違っていたことを党として認めることです。野田元首相は、国会質問の安倍の温情で、やっと生き延びさせてもらっているだけなのです。さらに考えれば、自民党としては野田を民進党内に置いておく方が有利だと判断したのかもしれません。そうなると安倍政権のしたたかさが際立ちます。民進などは所詮、安倍政権の掌で踊らされているということになるからです。そんな野党第一党しかなければ、日本の政治が健全な均衡を取り戻すことなど、夢のまた夢です。まず変わるべきは野党なのかも知れません。
複数回の禁じ手で始めた黒田の金融政策も、打つ手がなくなりつつあります。アベノミクスで撃つ矢も、三本目はどこかに消えてしまいました。経済再生政策に企業が全く乗ってこなかったからです。そして財政出動などは最初から矢には入っていませんでした。ということは、アベノミクスが失敗したので、これから方向転換すると、安倍首相自らが宣言しているのと同じことなのです。伊勢志摩サミットでの首相の失態を持ち出すまでもなく、外国からも日本の経済政策は見切りがつけられています。そうして経済政策が破たんした後で残るものは、秘密保護法、安保法制、マイナンバー、消費税、国内外のテロの脅威、天文学的な金のかかる五輪、中ロからの圧力、沖縄の基地。いずれも負の遺産ばかりです。これで良く国民は文句を言わないものです。唯々諾々と独裁政治に従う羊のような国民。それこそが外国から見た時の、日本の最大のミステリーではないでしょうか)
関連記事。日本は財政金融政策の実験場なのか。
http://jp.reuters.com/article/column-forexforum-tohru-sasaki-idJPKCN10B0HZ
493.本を読まない政治家。2016/8/4
長岡の花火を生中継で見ました。最近では外国の花火もかなり日本に近付いたと思っていましたが、日本は更に先を行っていることが分かりました。1尺玉が空中に直径300mの完璧な球体の花を咲かせ、それが10個も横一列に並ぶシーンは圧巻です。色合いも多彩で、外国の追随を突き放すものです。日本が世界に誇る技術の一つです。
安倍首相の内閣改造。世耕経産相は早速原発再稼働をぶち上ました。今まで陰で安倍首相を支えてきた人が、論功行賞で表舞台に出てきたものでしょう。おかげでますます安倍政治の暴走が極端なものになります。頭でっかちで民意から遊離した人達は、国民から見れば一番の厄介者なのです。安倍首相が自分で後継者として稲田を推薦するのは勝手ですが、大臣修行として防衛大臣を担当させるのはいかがなものか。相手は網タイツの女王なのです。中国もそのタカ派ぶりにあきれるような人です。戦争体験も、実戦のなんたるかも分からくて、ただタカ派さというのは、極めて危険なのです。戦争はビデオゲームではなくて、実際に血が流れ、人が死ぬのです。そこのところが全く分かっていない者に任せてはならない職務なのです。党則を変えてでも首相続投をといち早く言い出した、あからさまなごますりに徹した二階が幹事長になりました。日本の政治の病状は悪化する一方です。それに、そもそも日本は安倍晋三氏の私物ではないのです。
自分と価値観を同じくし、しかも自分より弁が立つからという理由だけで、後継者に推挙する。公職を修行の場にするとは、非常識も極まる。日本の安全保障を託せられるような人物でないことを、仮に安倍首相が知った上での配置なら、有事には自分が陣頭指揮をとることを考えているのかもしません。そうなると素人の上に素人を重ねることになり、一層悲惨です。有事を想定すれば、中谷の方が遥かに信頼できました。あるいは安倍首相は、有事には制服組に判断をゆだねるつもりかもしれません。そうなると一層危険です。なぜならシビリアン・コントロールを自ら投げ捨てるようなものだからであり、そうなると民主政治三権分立も、立憲政治も有名無実になってしまうからです。安倍首相は、金正恩のように、先軍政治でも目指しているのでしょうか。
自分の権力温存だけを優先し、国民のことを考えられないような首相の手から、一日でも早く日本を国民の手に取り戻さないと、近い将来、日本全体が大変なことになりそうです。私は安倍首相が殆ど本を読まない人であると断言できます。なぜなら、語彙が少ないということもあるけれど、それよりものの考え方が硬直しており、幅も奥行きもなく、柔軟性もないことが、その何よりの証拠だからです。麻生がこれと全く同じです。ここで話題は書物に移ります。
人として生まれたからには、死ぬまでに読まなければならない本が何冊かあります。無論読書の傾向は時代や社会の変化によって変わるものですが、それでも時代を超えて読み継がれる本もあります。昔は岩波文庫の100冊の本がありました。東大生(私は違います)はこれを在学中に読むことが通例でしたが、今はどうなんでしょうか。但し岩波文庫自体が、旧仮名遣いの上、印刷の品質が悪く、とても読み難い本だったという記憶もあります。同じ文庫でも新潮の方が新仮名遣いで、遥かに読みやすく、また時代に即したものが多かったように思います。岩波文庫が読みにくいことは、挑戦し甲斐があるということだったのでしょうか。
岩波の百冊には文学、思想、芸術、科学とあらゆる分野の本が含まれていますが、全て古典です。但し古典がその古い文章表現にも関わらず、今でも読まれているのは、単に読めば有益であるからではなくて、読んで面白いからです。もし私に機会が与えられれば、21世紀の若者が読むべき100冊の本を選定してみたいところです。なお百冊読めばそれで十分でないことは言うまでもありません。日本人なら読むべき司馬遼太郎の作品でさえ、全作品となれば、それだけで100冊くらいになるでしょう。ここで話は人生に移ります
私がサラリーマンの宿命である定年制度により、やむなく現役を引退してから数年が経ちました。最初はすることがなくて、昔やっていたアーチェリーを始めたり、天体写真を再開したりしましたが、いずれも趣味の域を出ませんでした。退職の日のために、現役時代から準備をしていなかったこともあり、他の人達のように、ハッピーな第二の人生というわけにはいきませんでした。唯一現役時代から始めた、趣味ともライフワークともつかぬ粗末な時事エッセイを、今でも一つ覚えの日課のように続けているだけです。
私は人間が労働しなくなった時、そして本を読まなくなった時に、人生が終わると思っています。人間は死ぬまで働くように、また学ぶように出来ています。なかでも農業、林業、漁業などに従事する人は、自然と付き合っているせいか、健康で気持ちもおおらかな人が多く、眼鏡をかけている人さえ少ない。そうやって一生懸命働いて、最期はピンピンコロリが理想の人生であり、農業をしていた家内の父親)(義父)がまさにそうでした。
そこに自分をあてはめると、今更第一次産業に従事するだけの体力も知識もありません。だから晴耕は無理なので、せめてできることは雨読くらいです。確かに読書と思索から、なんらかの経済的価値を生み出せれば、少なくもそれで、他人のお役に立てれば、それに越したことはありません。でもそれが叶わなくても、自分自身が、少しでも昨日よりはものの分かった人間になり、少しでも充実した人生を送ることが出来れば、それでやむなしとするしかないのではないでしょうか。趣味を実益に結び付けることが出来るのは、アマチュアでもトップクラスの一握りだけだというのは、無視できない現実なのです。
ご近所の有識者は、リタイアした者には、教養がある(今日用がある)ことが大事だと言っています。何かしらすることがあって、それが今日と明日を生きるための張り合いになるからです。それは地域のボランティア活動でもいいし、自身のための創作活動でも良い。たとえそれが自己満足で終わったにしても、それでも何もしないよりは良いのです。私の場合は、結局一冊の本を出すこともなく(自費出版には百万単位の費用が必要であることが分かったので)、社会に認められることもなく、いつのまにかひっそりと(清貧の)人生を閉じる。多分それが私の一生でしょう。従って、私の一生を端的に表現すれば、遠吠えする痩せ犬、または老犬です。
話を読書に戻して、私がいま心掛けているのは、文学は一通り終わったものとし、自然科学も一応の基礎ができ、素人なりに先端の理論と技術を及ばずながらもフォローしているものとして、残る社会科学の分野です。若いころはあれほど関心がなかった政治や経済に、いまは尽きぬ興味を覚えています。
18歳の若者が政治に興味がないのはむしろ当然なのです。なぜなら自分でもそうだったからです。社会科学を、自分に密接な存在として、仕組みやいかさまをを理解できるのは、長い人生経験と社会人の経験によるものです。だから昔は関心さえなく、また知識も十分ではなかったが、今なら、政治家の言い分のどこがおかしくて、いかなる価値観を持っていて、またどこに私心が潜んでいるかを見抜くのは、それほど困難なことではありません。それは、彼らより私の方が年長であり、ということは、その分だけ人間がどういうか考え方をする生き物であるかを、彼らよりも理解できるからです。
私はいま複数の本を並行して読んでいますが、その中には福岡伸一推薦のワインバーグ著「科学の発見」と、池上と佐藤の共著「希望の資本主義」があります。後者を読むと、TVの解説番組でおなじみの池上でさえ、かなり深く勉強していることが分かります。そうでなければ的確な指摘などできようはずもないのです。私も今まで敬遠してきた「資本論」をいよいよ読まなければならなくなりそうだという予感がしています。そしてもう一冊が、次回のエッセイで少しご紹介したいと思っている岩波新書、「貧困大国アメリカ」です。
この本は有名なので、すでにお読みの方も多いと思います。私が遅れていたと言えばそれまでですが、今これを読むことに大きな意味があります。なぜなら日本に限らず、企業が雇用を通じて従業員の生殺与奪の権利を持ち、自由競争の名のもとに、その権利が濫用されているからです。その結果、経営者と従業員の収入の格差が際限もなく拡大し、低所得者層では人間的な生活さえ保障されなくなってきているからです。
貧しい者は、生活の質でも教育の内容でも、富裕層と大きな差をつけられており、それゆえ貧困層から這い上がることが全く不可能になりつつあるのです。大学を出るだけでも数百万の費用が掛かる。生活費を入れればもっと多い。今思えば私の両親は良くそういう面倒を見てくれたと思います。今更のように感謝の気持ちになりますが、その結果、ひとかどの人物になれなかったことには申し訳なく思っています。ここで話はまた日本の政治・経済に戻ります。
いま安倍政権が補正予算で計画しているような財政出動も、その効果について精査され、定量的に把握されていない可能性が濃厚です。仮にそれが数字だけをブチ上げる、どんぶり勘定のばらまき予算なら、マイナスの効果の方が危険です。即ち専門家も指摘しているハイパー・インフレです。それは経済のど素人の私から見ても明らかです。なぜなら必要でないところに必要以上の金を突っ込めば、何が起きるかを予測するだけで良いからです。財政政策を有効たらしめるものは、この「必要性」です。必要なところにお金が回らなければ、結局それは使われません。使われなければ経済効果も生まれないのです。福島の復興予算も大きな部分が使われないままに残されています。土地買収等で問題があるとも聞いていますが、政府の見通しが甘くなかったと言い切れるでしょうか。
収入の伸びが抑えられているのに、教育費は鰻上りです。今や子弟の教育費用が、勤労者世帯にとって大きな負担になっています。即ち高等教育というものが、富裕層だけに許された贅沢になりつつあるのです。この一見平和な日本にも、米国の自由市場主義がもたらす、格差社会が目前に迫っているのです。米国よりましなのは皆保険制度があることくらいです。私たちは安倍政治のおかげで、米国型の非情な格差社会の渦中にいるのかもしれず、それは雀の涙のような一時金で低所得層をなだめれば済む問題ではないのです。なぜなら我々国民は、明日も、明後日も生きてゆかねばならないからです。
国民の所得増は企業からのしずく(トリクルダウン)で対応をと言っているような、経済も財政も良くお分かりにはならないような政治家に、日本をお任せしては駄目なのです。トリクルダウンを出すか出さないか、出すならどれくらいかは、すべて企業経営者の胸三寸に掛かっているのです。自由経済である以上、賃上げを強制することなど出来ないからです。こうしたいまの日本の状況が、国民のための抜本的な経済改革に着手しない限り、国全体が崩壊する可能性を、明白な形で示唆しているのです。
494.最悪の防衛相人事。2016/8/5
なぜ新鮮味のない内閣だと野党は言うのでしょう。とんでもないことが何食わぬ顔で行われているのに。民進の鈍感なことは今に始まったことではありません。そしてそんな民進を、国民のために命を張るより自己主張に重点がおかれ、安保法制の議論では新緑風会があれほど頑張っても、自分ではほぼ何もしなかったような、蓮舫のような人が率いるなどは考えられないことなのです。小池が勝ったことで、今がチャンスと思ったのかもしれません。女性が政治を動かす時代が来たと。でもそれは安倍晋三のうわべだけの女性活躍時代と変わりません。自分に従うから女性閣僚を登用しているだけなのです。メルケルもヒラリーも、小池でさえも、体を張り、政治生命をかけて戦っているから、国民や都民はそれを支持しているのです。きれいごとで何とかなると思っているようだが、それは我々が期待している、なりふり構わずに時の政権と戦う野党の姿とは重なりません。当たり前のことですが、重要なことは性別ではなくて、あくまで人物なのです。蓮舫では原発稼働も改憲も進んでしまう可能性の方が高いのです。自民にとっては大変御しやすい相手なのです。蓮舫が代表では、自民は喜び、国民は泣きを見るのです。ちなみに若手から玉木擁立論が出ていますが、彼は野党共闘には消極的で、民進内部の若手右傾化路線である可能性が濃厚です。今や民進は国民に取って要らない政党になりつつあるのでしょうか。シールズが参院選では野党の支援をやめて、解散したのはそれと何かしら関係があるのでしょうか。
今回の内閣改造で、安倍政権が一層タカ派への傾斜を強めています。独裁政治の基盤の仕上げに入っているのです。二階、稲田、茂木、世耕の登用がそれをはっきりと物語っています。中谷前防衛省が辞任会見で涙。一応ご苦労様と言いたい。国会の答弁でも、自分の説明を自らが信じていないように見受けました。安倍政権の3つの良心のひとつが消え、最悪とも言える選択が取って代わりました。極右の思想に懲り固まった、人生経験も余裕もない大臣の誕生です。
自我肥大が進むのは本人の勝手ですが、愚かな宰相の自分勝手な人事が、全く無用な国際間紛争の火種になることは看過できません。これから起きることは誰にでも容易に想像がつきます。それでなくてもきな臭いこの時期に、中朝との対立が一層先鋭化するでしょう。話し合いによる平和的な紛争解決からは一層遠のきます。そしてそれに続くのが際限のない軍備の拡大であり、その結果としての増税と福祉の削減です。一般的に自民党の右傾化した女性閣僚達は教条主義的であり、譲歩も歩み寄りも出来ません。だから男性の右翼より一層始末が悪いのです。櫻井よしこが防衛相になったようなものです。そこに最初に気が付いたのは中国でした。
ヒトラーも最初は民主的な手続きで権力の獲得に努めました。そしてワイマール憲法の拡大解釈で独裁体制を確立し、あとは一気呵成でした。その結果どれだけ多くの人が無残に死んだことか。一独裁者の歪んだ思想と価値観がもたらした世界的な悲劇です。一人の悪魔が現れた時に、それが突然降って湧いたわけではありません。ヒトラーは地道にこつこつと地盤を固めていったのです。ヒトラーの野心を見抜くことなく、全権を託したのは、思考力と批判力を失った当時のドイツ国民でした。無論そうなるように慎重に、かつ意図的に誘導したのはヒトラー自身です。これってどこかの国の首相と、どこかの国民にそっくりだと思いませんか。
緊急事態条項(明治憲法では非常大権)から、憲法改正の突破口を作るというのは、ヒトラーと同じ手口です。これが第一の嘘。しかも自分で改憲を望んでいるのに、それが自民党の党是であるかのように説明しています。それが第二の嘘。自民党では歴代首相をはじめ、反改憲勢力が主流であり、それゆえ70年の間、平和な日本が続いてきたのです。そうでないと思われるのなら、自民の古参議員に聞いて見られるとよいのです。彼らの憲法尊重の姿勢は、半右翼の民進の現執行部などは、足元にも及ばないほどです。安倍の個人的な野心なのに、議論が必要だと言い換えていることが第三の嘘です。世論調査では、改憲そのものに国民の半数以上が反対しているのです。仮にそれが現政権下では、という条件が付くにしてもです。議論が必要だとは言っていないのです。そもそも条件付きの世論調査自体、設問に意図を感じさせるものです。現政権下でなければ改憲を認めろと、改憲の方向に誘導しているからです。
そしてWTWは予言します。政権の飼い犬であるNHKが、これから世論調査をするでしょう。その中には改憲の議論が必要かという設問もあるでしょう。無論、多数は議論が必要と答えるに違いないのです。但し、改憲が必要だと思うかと言う聞き方なら、違う答えが出るでしょう。これは本来は不必要である議論が始まることを意味しています。その結果、議論を踏まえたという言い訳だけを元に、自民党の多数決で改憲の発議がなされるでしょう。その手法は安保法制の時と同じであり、一言で言えば体裁を整えたごり押しなのです。
安倍首相は絶対に民意に言及しません。見て見ぬ振りどころか、完全に無視の姿勢です。安倍首相の民意無視は今に始まったことではなく、安倍政権設立当時から一貫して変わりません。そのくせ政治への無関心だけは狡猾に利用してきました。9条改正は無論のこと、非常時に個人の権利をはく奪できる緊急事態条項を一度でも認めてしまえば、そこで日本の民主主義も平和憲法もおしまいなのです。行政が非常時必要なことは、全て現在の憲法で可能であり、それは311でも熊本地震でも証明されています。戦争でさえ、今の憲法で対応できるのです。逆に一度緊急事態条項を認めてしまうと、それは災害時にではなく、国際関係が緊張しているときに、「こちらから」戦端を開くときの言い訳に使われる公算が極めて高いのです。だからそれは一見、当たり前のように見えて、実は非常に危険な憲法改正案なのです。
【現平和憲法の第九条】
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
【明治憲法の第31条】
本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
(寸評:但しこれが発動されたことは一度もありません。それは歴代天皇がそれを行使するほど愚かではなかった事を意味しています。一方、この条項がなくても、独裁政権が可能であることは今の日本が証明しています。即ちあれだけの動乱の時代でさえ必要のなかった非常大権=緊急事態条項は、「双方にとって」全く必要のないものなのです)
2016/8/9
稲田防衛相が尖閣に自衛隊を出すと言い出しました。今、絶対に言ってはならない一言です。相手は漁船とせいぜいが海警なのです。こちらが海保ならまだ分かるが、それでさえ自重すべき時期なのです。何を考えたのか、舞い上がったこの思慮を欠く大臣は、中国の挑発に乗れば相手の思うツボだという事が分からないらしい。せめてまず米国と相談しないと。独断専行もいいところです。多分安倍首相とは相談しているのでしょう。でも彼女の軽率な動きのどこに専守防衛とシビアンコントロールの理念が存在するというのでしょうか。まさに危険きわまりないし、中谷とは天地の違いです。居間のじゅうたんの上で戦車の玩具で遊ぶ晋三坊ちゃまと、戦闘機のおもちゃではしゃぐお嬢ちゃんなのでしょうか。安倍晋三と稲田の組合わせは、安倍晋三の超保守国家主義が仕上げの段階を意味しています。いま私たちは戦後の政治史でも、未だかつてないほどの、軽挙妄動で、その結果醜い政治の光景を目の当たりにしているのです。しかも彼らは世界がこの実態を理解できないほど馬鹿だとでも思っているようです。そして海外から批判されれば、内政干渉だと反論するつもりでしょう。ヒラリーが大統領になって、この二人のおバカさんに忠告するまで、この暴走は止まらないという事なのでしょうか。こんな浅はかな判断で、もし紛争でも起きたら、私はこの二人を絶対に許しません。政治も武装も、あなた方の玩具ではないのです。何千万という人の生命と生活が掛かっているからです。それに何ですか、あの閲兵式は。金正恩だってあんなみっともない歩き方はしませんよ。安倍政権に政治を託した人たちの気持が、私には未だに理解不能です。今と引き換えに、未来を売り渡したとしか思えないのです。
問題記事。
http://jp.reuters.com/article/inada-china-senkaku-idJPKCN10J0AC
関連記事。首脳間で打開検討。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016080801002076.html
495.なぜ改憲したいのか。2016/8/6
NHKは改憲勢力が2/3を占めたことから、国民が改憲に前向きだという見方を取っています。でも世論調査では少なくも安倍政権下での改憲への反対が過半数を占めています。NHKが勝手に民意を演出するのは、悪質な世論の誘導です。NHKによる、思想、信条の自由への挑戦です。
今日は広島の原爆の日です。慰霊碑の「安らかに眠って下さい。過ちは二度とくりかえしませぬから」の言葉がすべてを物語っています。
ところで最近では、安倍首相は自民党員でさえないと思うようになりました。これまでの自民党は、現在ほど衿持を失ったことはなかったからです。安倍首相を頂点に戴く「会派」は、大日本安倍党とも言うべき様相を呈しています。今私たちが野党に多くを期待できない以上、古き良き自民党を取り戻す努力、即ち良識とバランス感覚を持ち、歯止めの効いた保守政治の復活に向けて、未だ良心を失っていない保守議員たちを中心に、まともな保守勢力を再結集してゆく必要があるのではないでしょうか。かたや蓮舫議員が民進の代表選に立候補しました。リベラルな女性政治家には追い風が吹いているので、仮に代表にならなくても、相当良い線まで行くと思います。しかし彼女は自民党の改憲議論には積極的に参加すると言明しています。なぜなら民進の基本姿勢は改憲そのものに反対ではないからです。
昨夜の朝生はいよいよ憲法がテーマでした。自民の片山議員は、憲法に緊急事態条項がないこと事を問題視しているものの、しかも本人自身の言葉で、それが災害対策だけでなく戦争の場合にも適用されると言及しています。さらには(こともあろうに憲法で)ネットの情報を管理する必要があるとまで言いました。「政府が国民を管理したい」とはっきり言ったようなものです。国民のため、或いは平和主義、人権尊重といいながら、実際の自民党の改憲草案は、全く逆の方向を指し示しています。即ち片山以下の自民党議員は、今回もまた国民を騙そう、国民は騙せると考えているという事だと思います。
自民党が推進する改憲議論で一番大事なことは、改憲したいと自民党が言うのは何故なのか、改憲の意図はどこにあるのかを明確にすることです。そこだけはいかに議会で多数を誇る与党と言えども、都合よくすり抜けて通ることは許されません。この部分を徹底的に追及する事で、安倍首相の本音が浮き彫りにされます。その本音をもって、改憲の必要性の是非を、国民が判断するべきであって、改憲を発案する人達の本音を引き出すことが、野党とジャーナリズムの重要な使命なのです。
もっと言えば、片山議員やおおさか維新の言い分を聞いているだけ分かることは、政治権力の自由度を拡大したいという意図が垣間見えることで、それを明言しないことに、この両党の卑劣さを感じるのです。
ともあれいかなる案件であれ、議論に聖域があってはならないし、それが言論の自由の本質だと思います。そこで改憲論者が今後提起してくることになった(改憲勢力が2/3になったので)改憲の議論について、護憲派は改憲派に喧嘩を売られた形ではあっても、これを受けて立たねばならないのです。それが民主主義の基本だからです。その議論で護憲派が改憲派に最初に問うべき質問があります。それは現憲法のどこが不満で、それが何故不満で、それを変えることによってどうしたいのか、それが何故国や国民のためになると信じるのかを、徹底的に洗い出すことです。その議論の中で、少しでも国家主義と権威主義、基本的人権の否定、主権在民の否定、戦争行為の肯定の兆候が見えたその時は、護憲派が大規模な国民運動を展開して、改憲反対運動を全国に拡大しなければならないのです。ところがその先頭に立つべき最大野党自体が、改憲もやむなしという意見なので、これでは国民の護憲活動の中心勢力にはなり得ないという矛盾があります。
これまで安倍首相が個人的な価値観から好きなように日本政治シーンを演出できたことの最大の理由は、彼に従う、或いは従いたい権力志向の政治家たちに加えて、リベラルな勢力が全く組織されず、批判的な国民の代表たるべき野党には、求心力もなければ民意への配慮もないという八方ふさがりの状況に、リベラルな国民が置かれていたからなのです。今のままなら改憲はどんどん進みます。なぜなら批判勢力が対抗勢力として体を成していないからです。またそういうまとまった形にならないように、政権と政権を支持する行政機関が手を尽くしています。加えて野党が内部で分裂して、野党共闘にさえ反対している頭の堅い若手議員もいます。リベラル派の組織化ができるかどうかの一点に、日本の将来が掛かっています。政治に無関心でも仕方がないじゃないかと言っていられるような状況ではもはやないのです。
朝生で、自衛隊は否定したくないが、普通の軍隊にもしたくないというのが国民の気持だという田原の説明は、一応納得できるものだと思います。また青木が、日本国憲法は理想を体現したものだという言葉も納得できます。中でも冷静で論旨も明快なのは結局辻本でした。
理想のために努力することをやめて、現実との妥協を始めるところから堕落が始まるのです。自民党の草案では更に一歩踏み込んでおり、政権の権限を拡大して、国民の基本的人権を抑圧する(緊急事態条項、家族条項など)ことが出来るようにしたいという意図が明らかです。こうなるともはや憲法の理想も前文もへったくれもないという事です。9条どころか、本音として憲法の理念の全否定です。醜い本音だけが残されているのです。
自民党がこの議論で片山議員を出してきたのは、失敗だったと思います。この人が同党でべストの改憲論者なら、後は推して知るべしです。リベラルな国民がするべきはまず理論武装であり、次にそれを組織或いは集団の力として結集してゆくことです。憲法の問題は、もはや誰も避けて通ることは出来ないのです。
もうひとつ付け加えれば、田原は既成政党が全否定された小池知事の圧勝が怖いと言っていました。私もそれは自分のエッセイで指摘していますが、彼はそこにトランプの人気と共通するものがあるという認識です。であるならば、無責任、無関心で、それゆえ不毛な超保守政治の暴走に、いい加減ストップをかけるためにも、リベラル派の国民を結集する仕組みが絶対に必要なのです。言論・表現の自由と、集会・結社の自由、憲法が保障しているこれらの権利を、いまこそ国民の一人一人が実際に行使すべき時に来ているのです。
496.空気を作る人々。2016/8/7
私は常々、日本の保守的な政党、中でも最大与党の自民党の極端な右傾化、右傾化で悪ければ超保守化、国家主義化への傾向に警鐘を(うるさいほどに)鳴らし続けてきました。でももう一つ大きな要素があります。それは国民自身が持つ右傾化の傾向、というよりそれをあおる空気の存在です。それを時代の空気と言ってしまえばそれまでですが、それを当然のものと見るのか、それともそこに作為を感じて、危険な要素を感じ取るのかで、この極めて曖昧で微妙な点に、実は天地雲泥の差があるということなのです。
ところで70-80代の世代を高齢者で一括りにする事には反対です。彼らだって平等な国民なのであって、耄碌した年寄りの集団だと決めつけるのは悪質な差別です。問題は物理的な年齢より、精神の成長の度合いなのです。というのは政治家の中にも、精神的な老人が老若男女を問わず、沢山いるからです。しいて言えば70-80代と、50-60代という分け方でなく、多分団塊世代以前(段階を含む)と以降という分け方の方が、意味があると思います。両者の大きな違いは、戦争の体験、またはその記憶を濃厚に持っているか、そういう記憶が全くないかの違いでもあります。とりわけ戦後世代でも50-60代は、現時点で社会的にも高い立場にあることが多く、従ってその発言力が大きいという事も、時代の空気に影響していると思いますし、選挙における自民党の圧勝にも大きな力があったと憶測しています。但し本稿では、むしろ40-50代の中間管理職の男性の意見が、時代の空気に与える影響を問題にしています。
団塊以前の世代には大戦(含む原爆投下)という苦い、というにはあまりに悲惨な経験を、自らの体験や、身近な者からの話で(身に沁みて)学習しています。しかし同時に彼らは日本の経済復興に忙しく、自分の子供たちにその悲惨な記憶を伝える努力を怠って来たとも言えます。団塊以前、特に70-80代、即ち筆者の世代には、戦争の悲惨さを、映像や画像や文章を通じて、或いは親の口から直接学ぶ機会が、いくらでもありました。はっきり言えば、幼かった我々にとって、むしろ見たくはない情報を、これでもかというほど目にする機会がふんだんにあったのです。しかし経済が好転し、戦後の生活苦から脱した後に生まれた人達にとって、彼らより年上の者にとっては、時代が接近しているがゆえに過多でさえあった情報が急速に減少し、年上の世代が何かを語り継いだにしても、所詮それはまた聞きのまた聞きになっていきました。そのようにして、日本人の中の戦争の記憶は、急速に薄れ、風化しているのです。
一方で、戦時中に戦争推進派、即ち権力側に立っていた人たちの子孫にとって、戦争は悲惨な記憶というよりは、屈辱の歴史でした。なぜならそれが彼らの父親や祖父にとって屈辱的な敗戦の記憶だったからです。しかもそれは親類縁者や財産を失った=筆者の家族のように、人たちの記憶でもありませんでした。大戦を否定せず、肯定はしなくても弁護し容認する立場です。彼ら(の親、祖父たち)は終戦まで国内で生命や財産を温存し、一方で一般市民は、兵士として外地で戦死したり、空襲で命を落としました。だから戦争に良い思い出など、持てるはずもないのです。特権階級の戦争史観との大きな差があるのはこのためです。特権階級にとって、戦争裁判など言語道断であり、その後の外国の占領も堪えがたいものでした。従って彼らにとって占領軍の政策、中でも平和憲法は有り難いどころか、迷惑千万であって、いやいや呑まされた薬のようなものでした。しかもこの薬、実際には日本に、そして特権階級にさえも、大きな実益をもたらしたのです。それはその後の70年の平和と繁栄です。でも未だに明治憲法に固執する彼らにとって、平和憲法は、実際にはその意図でさえ理解できぬものであった可能性があります。
タカ派の論客桜井に至っては、憲法の前文はマッカーサーの言葉のコピペに過ぎない(だから無価値だ)とまで言い出しているのです。内容ではなく経緯だけを問題にしているのです。ならばあれだけ崇高な憲法を(しかも日本にとって良かれと思って起草された)、日本人が自分の手で起草できたとでも思っているのでしょうか。敗戦時の権力者の屈辱感が連綿とその子孫に受け継がれ、その怨念が具体的な形を取って現在によみがえったものが他ならぬ安倍晋三であり、安倍内閣なのです。
憲法改正の自民党草案なるものは、よくもこれだけ、理想もなければ、文章に品格もなく、矛盾に満ちた草案を書けるものだと呆れるようなものだと申し上げても過言ではないと思います。草案を書いた自民党議員(片山など)の頭の程度を疑いたくなるような立派な出来栄えです。現在の平和憲法より更に優れた、22世紀の世界がお手本に出来るような憲法にしたいというのなら未だ分かるが、自民党草案なるものは、明治憲法を焼き直して、それも悪いところだけを、それこそコピペした時代錯誤の内容です。私はこれを現在の憲法に置き換えることにいかなるメリットも見い出せません。検討開始の時点で、すでに改悪の方向に顔が向いているのだから、改憲の議論を始める気さえなれないのです。それは安倍首相の価値観に重大な疑義があることも意味しています。改憲騒動が安倍首相の個人的な趣味趣向でなら、首相が交代すれば、それで終わるのですが、ことはそう簡単ではなさそうです。それが新ネトウヨの存在です。
戦後の長い付き合い相手の米国が日本に与えたものには、民主主義政治や市場経済もありますが、最大にして無私、無償のプレゼントが平和憲法でした。そう考えてくると、ソ連に占領されていたらと思うとぞっとするのですが、米国が日本に与えた最大のプレゼントを今捨てなければならないというのなら、その理由を明確にする義務が安倍首相にはあります。時代にそぐわないというような漠然とした理由では不十分です。憲法の精神は世相の変化でころころ変えられるようなものであってはないのです。なぜなら憲法は国家権力が国民の権利を侵害しないように設けられたものだからです。端的に言うと、改憲したいという事は、国家のために国民が犠牲になれと言っているのと同じことなのです。しかも議論の相手が片山議員のような、まともな議論も出来ないような人ではなくて、論旨の明確な論者が必要です。もし中朝が攻めて来るから自衛隊を強化したいというのなら、なぜその時米国はあてに出来ないのか、なぜ紛争解決には武力行使しかないのか、また本当に中朝に侵略の意図があるのかまで、関係国に実際に尋ねるところまで突っ込んで、しかも秘密保護法などの脚色を交えずに、国民に説明する義務があるのです。いままで安倍政権がしてきたような、通り一遍の説明を際限もなく繰り返すという、国民の知能程度を馬鹿にしたような手法は、もはやここでは通用しないのです。それほど憲法改変というのは重大なことなのです。
本稿の前の方で、時代の空気ということを申し上げました。但しこの空気というもの自体に問題があります。なぜなら空気は決して国民の総意とイコールではないからです。前掲のTV番組の朝生「憲法」で、司会者がネットやツイッターで一般市民の意見を募集しました。回答を寄せた人たちは50-60代の男性で、しかもその殆ど全員が憲法改正派でした。ここに現代日本の空気と、民意の乖離が存在しています。世論調査では過半数の国民が改憲には反対なのです。ではなぜ50-60代の男性がほぼ全員自衛隊を軍隊に格上げして、中朝と対峙せよと主張するのか。それは彼らには戦争の経験と記憶がないからなのです。彼らには戦争はビデオゲームや映画の中の出来事でしかないのでしょう。実際に身内が死んだわけでも、家が焼けたわけでもないからです。
その団塊以前の世代の苦労も彼らには何の関係もありません。また全共闘のような社会主義の思想も全く持ち合わせていません。なぜなら国家権力の暴走、不条理や格差に身をもって戦う必要も経験もないからです。生まれた時から、日本では平等で、民主守護が正常に機能していると思っているからです。個人の経済格差も、努力と才能と機会の不足によるもの過ぎないと思っています。即ち先人たちが血と汗で勝ち取ってきた権利も繁栄も、当然のことだったのです。即ち現状肯定からのスタートなのです。荒廃しているから、貧しいから頑張ろうという現状否定からのスタートではなかったのです。しかも行き過ぎた個人主義の価値観が根底にあるのも特徴です。これは反面、奉仕や譲歩という言葉とは縁が遠いという事を意味しています。自分を中心とする狭い領域に閉じこもり、自分とその家族さえ安泰ならそれで良しとする生き方です。
一昨日の朝まで生テレビの現憲法に反対する意見の主張は、ある意味明快で、中国や朝鮮が日本の安全保障の脅威になっているときに、自衛隊を軍隊として認めないというはけしからんと言うものでした。確かに中国が尖閣に海警6隻、漁船250隻も出しているのは、悪質な挑発であり、国境侵犯に限りなく近いものです。北朝鮮が経済水域にミサイルを打ち込むなど、もはや戦争行為です。その無法な行動への怒りは、日本人が等しく共有するものでしょう。そういう時に、自衛隊が武力行使しないまでも、威嚇力になってくれれば、日本は中朝になめられず安心していられるだろう。その気持ちはよく分かるにしても、それこそがまさに軍拡競争の第一歩なのです。なぜならそこでは平和的な解決を願いそのための努力をするのではなく、力に力で対抗する(しかない)という立場だからです。
ここからが団塊以前世代と以降の世代で大きく違う所です。団塊以前は、どちらが先に発砲しようとも、一度発砲が起きれば、あとはひっちゃかめっちゃかで、もう手が付けられない。不毛な殺し合いが、どちらかが全滅するまで続くという事を、身をもって知っています。満州事変がそれだったからです。しかもそこから始まった大戦の結果、全滅したのは他ならぬ大日本帝国軍だったのです。何が防衛で、何が先制攻撃かでさえ、あとでいくらでも説明がつくのです。とにかく戦争を避けるためには、理由の如何を問わず発砲しないことに尽きるのです。そしてそれを徹底する有効な手段こそ、最初から銃を持たない(非武装、軍事力の放棄)ことであり、それを具体化したものが憲法9条第二項なのです。
40-60代の男性(特に大企業の管理職クラス)が時代の空気を作る主役になっている背景にはIT技術の発達があります。だからネットを使うことには慣れています。しかし彼らはまた日本の経済活動の主役でもある。従って彼らには政治経済社会世界を勉強する時間があまりありません。私の仕事のひとつはそういう「若い」世代に、あなた方の意見がすべてだと思い込んではならない、世界は広く、他の見方もあれば思想もある、だから自分の意見に懲り固まらずに、一緒に話し合い、一緒に考えようと語り掛けることなのです。それが私達の世代の使命でもあるのです。同じ危惧を抱く方には、是非ともこの「時代の(偽りの)空気を換えよう運動」への協力をお願い申し上げる次第です。
497.天皇と日本人。2016/8/9
天皇には義務だけがあって権利がないって知っていましたか。無論投票権もです。象徴天皇という枠にがんじがらめに縛りつけられ、生活の安定以外に、いかなる個人の自由も権利もない。むしろ悲惨な境遇だと私は思います。一切の自由がなくて、何が人間天皇ですか。ご自分には全く責任のない戦争の記憶と悔悟を、国見の身代わりになられて、一身に引き受け、重い思いを背負ってこられたのです。その姿勢は世界中で評価されています。中国もロシアでさえもです。
天皇は国が定めた国事行為以外に、いやそれ以上に、ことあるごとに社会的弱者に寄り添い、戦争責任を口にされてきました。いいですか安倍晋三君。平成天尾には戦争の責任など全くないのです。開戦当時は未だ子供だったからです。ところが戦後生まれの安倍晋三君が戦争での日本の正当性を肯定しています。自分が関与も記憶もしていないからと言いたいのなら、一度総括して、ドイツのように国としての歴史認識を統一すべきなのに、それだけは絶対に避けています。なぜなら、そうすれば戦争責任を、先勝国の裁判ではなくて、自らが認めることになってしまうからです。だから自民党は村山談話に猛反発したのです。そして所信表明であれだけ口ごもり、文脈も支離滅裂なものになったのです。
元首たる天皇が認めようとも、国民がいかなる反戦意識を持とうとも、そんなことは日本会議のメンバーになっているような人たちにはどうでもいいことなのです。何故なら彼らが守りたいものは国でも国民でもなく、ただ一つだけ、即ち自分たちの権力だけだからです。
言い換えると、明治憲法を蒸し返している安部自民党は、天皇も臣民も無視し続けて、その代わりに自分たちに都合の良い時だけ、天皇制を持ち出した日本陸軍と酷似しているのです。というより、日本の超保守派政治家による戦後民主主義に対する目に見えぬ水面下のクーデターが続けられてきた結果、それがいよいよ憲法改正、就中9条の変更と、緊急事態条項の明記という形で顕在化してきた、即ち政治経済行政における超保守派のクーデターの勝利宣言とも言えるものなのです。
誰もが天皇大尉に関して絶対に口にしないことがあります。それは天皇が退位をはっきりと口にされた時期です。それが参院選の直後だったことです。選挙の前には選挙に影響があってはならぬというお心遣いがあったと想像できるが、ではなぜ直後だったのでしょうか。私はそこに万感の意味を感じ取るのです。なぜなら今回の選挙結果には歴史的な意味があったからです。即ちこれでついに、戦後初めて国会で憲法改正の発議が可能になったからです。だから退位の意思の表明の時期をなるべく選挙の直後に行う。そういう形でしかご自分の意思を表すことができないからではないのか。多くの人が、私の見方が偏っている、それはこじつけだと言われかもしれない。でも私は天皇のお気持ちが、私の見方とそれほど大きく違ってはいないと思っています。それは私の一家が両陛下にお目に掛かったことがあるということが理由ではないのです。
今の日本の政治権力を握る人たちと、天皇。権力と象徴。それは我欲と他者への配慮の違いであり、逆に両者を人間性の観点で見れば、雲と泥ほどの違いがあるのです。最近になって日本人の評価が高まっているのは、天皇が代表されている、日本人の徳の高さが理由です。清潔、良識、公徳心、そして思いやり。そしてそれ等は何故か(与えられたという)憲法とは不思議にマッチするのに、好戦的な既得権階層、政治権力者とは全く異なるイメージなのです。時の政権を超越した日本人の徳の象徴として、天皇陛下の存在を理解しないと、日本という国は理解できないと思います。またその存在の有り難さを、今回ほど強く感じたこともありませんでした。
深代淳郎に代表される朝日の良心、天声人語は事実上消滅しました。現存するものは凡百のコラムと代わり映えはしません。私はいかに粗末で独り言のエッセイでも、それが現在のメディアに登場する人たちとの論旨が少しでも異なれば、それだけで、何らかの形で公開する意味があるのではないかと思うようになりました。混沌とした世界や日本の情勢の中に置かれて、一体どういう方向に進んだら良いのかさえ分からないのは、私だけではないと思います。しかも現状に留まることは出来ないのです。どちらの方向であれ、手探りででも進まなければならないからです。世界も日本も大きく動いているからです。その時に、羅針盤とまでは言わないが、方向を選ぶ時のヒントの一つにでもなれれば、WTWにとっては望外の幸せというものなのです。
関連記事。陛下のお言葉全文。
http://jp.reuters.com/article/japan-emperor-statement-idJPKCN10J0KX
498.無知の知。2016/8/10
昨日の長崎の平和祈念式典。長崎市長のスピーチは最高の出来でした。中でも「武力で平和にはならない」という言葉に感銘を受けました。いまや確実にその数を増やしている、超保守の武闘派の人たちに煎じて飲ませたい薬です。被爆者代表の最後の言葉も印象的でした。それはNagasaki must be the lastです。
最近、無知の知という言葉を強く意識するようになりました。ソクラテスの有名な言葉で、自分が知らないということから始まるというものです。自分は未だ何も知らない、勉強も足りない。とても人に意見を言ったり、批判したりする段階ではない。私もつくづくそう思います。謙虚さが、人間が一歩高い存在にするのです。分かり易く言えば、大人の階段を上らせる原動力になるのです。自分は他人より頭が良いと思い上がれば、勉強する気など起きないでしょう。無論他人の意見も聞く気にはなれないでしょう。
無知の知が決定的に欠けているのが、安倍首相を筆頭とする安倍政権の閣僚達と、メディアで自己主張(らしきもの)をする若手のお笑い芸人です。言い回しもことわざも、時には言葉の意味さえ分からないこともある。ならばこの際、麻生大臣をはじめ、メディアでタメ口発言をする人達にはに、大学検定程度の知能検査をお勧めしたい。結果は本人に通知するだけで結構です。その目的で、皆さんが無知の無知から、無知の知に昇格して頂くことです。某防衛大臣や、改憲草案担当の女性議員は、最高学府や弁護士資格があることを売りにしているらしいが、それを見ている、何の資格もない私たちが恥ずかしくなるほどの未熟さ、無知蒙昧ぶりは如何なものか。
自分は優秀だ、だから国民を指導する権限が与えられたのだと、その(ドヤ)顔にはっきりと書いてあります。ならばそれを分かり易い形で証明して頂きたいと思うのです。
これまで申し上げてきたように、いかなる理由があるにせよ、武器に手を伸ばした瞬間から戦争が始まりますし、戦争の本質は殺し合いです。自分が殺される、ぎりぎりの時まで武器には手を出さないという強い信念がなければ、平和は絶対に維持できません。いつ何時、いかなる後付けの理由で交戦が始まるかは、全く予測がつかないからです。中国の海警がいかに武装して尖閣に押し寄せようとも、海保には海賊に対抗する以上の武装は望ましくなく、しかも基本体当たり以上の方法は使えないと覚悟する必要があるのです。
防衛大臣を含む(本当になぜ中谷を代えたのか。これは安倍首相の最大級の失投であり、ことは日本の安全保障に直接関わるのです)日本の好戦的な人達は、必ずこう言います。ミサイルは待ってくれないと。だから日本に向かって飛んでくることが分かった段階で迎撃または反撃するべきだと。それも一度打ち上げられたらもう遅い、数分で日本の領空に到達するからです。とすれば、打ち上げの準備をしているときに叩くしか、有効な防衛手段はないという事になる。それは未だそのミサイルの標的がどこかも分からない段階だということです。ということは、先制攻撃しか、有効な自国の防衛はないことを意味しています。でもそれは自己矛盾です。
相手が手を出す前に相手を殴る。その野蛮な振る舞いには、子どもでも分かる一番大事なプロセスが欠けています。すなわち相手に日本を攻撃する意図があるかどうかの確認です。自分を殴るつもりがあるかどうか分からない相手に、こちらから手を出す。そこにはいかなる正義も存在できません。不安にびびる自分がいるだけです。現在の北朝鮮と同じことです。だから何が大事かと言えば、相手に侵略の意図があるのかどうかを、最後の最後まで探ることです。
この時代に、あからさまな領土領海の侵犯を意図する国がある事は考えにくい。南シナ海で中国が覇権の確立で動き回っているが、さすがに領海までは踏み込んでいない。公海での航行自由の原則は、等しくいかなる国にも保証されなければならない。さもないとすべての国が勝手な事を言い出して、世界中が滅茶苦茶になり、それが世界戦争に発展するかもしれない。だから世界の各国が寄ってたかって、中国の野望をくじく努力をする必要があります、前例を作らせてはならないからです。
現実に起こり得るのは、威嚇行動による離島の権利主張くらいでしょうし、それも国際裁判が大前提です。いま中朝露を中心に頻繁に起きている侵犯行為は、戦争行為ではなく、武力をちらつかせた威嚇行為です。ナイフをひけらかすチンピラと同じレベル(だから幼稚)なのです。なので、いま出来ることで、しかも大事なことは、相手が侵略行為に出るのか、それとも威嚇に留まるのかの判断の為の情報収集を、緊張感をもって続けることです。そのためには最新の情報収集技術と、時の政権の意図とは無関係に、冷静に運用するための、国民に選ばれた第三者機関が必要になります。そこではドローンを24時間飛ばして領空、領海を監視し、侵犯の映像を世界中に公開するようなことも考えられる。本当は、怪しい国には、超高空で地上撮影用の探査ドローンを飛ばしたいところですが、そうすれば領空侵犯という格好の攻撃の口実を与えることになるので、それは出来ません。結局、そこでは衛星が主役になるでしょうし、既に衛星による情報収集は始まっていると確信しています。
現在の入り組んだ複雑な世界情勢を、きれいごとの理想論だけで乗り切ることは、残念ながら出来ません。現実から目を背けても問題は解決できないのです。かと言って国家主義者のように、すぐに手を振り上げるという考え方もまた、全く現実的ではありません。22世紀は外国よりも更に狡猾でなければ生き残れないのです。なぜならどの国との間でも、信頼関係が大きく損なわれており、その現実から目を背けていては、平和を実現することが出来ないからです。信頼回復の努力が平和維持の最善の策であることは、言うまでもありません。同時に大事なことは、こういう混沌の世界であっても、フェアプレーだけは絶対の条件であって、それしか自らの正当性を担保する方法はないということです。それは情報を公開するということです。それが歴史の批判に耐えうる唯一の方法なのです。
先制攻撃は専守防衛の日本では許される戦術ではありません。人道的にも問題があります。なので、日本に出来るのは情報収集までです。また日本版CIAには武力攻撃に権限など絶対に与えてはならない(007も暗殺もご法度です)のです。即ち機密情報を扱うがゆえに、政権の単なる飼い犬ではなく、国民から選ばれた、冷静な判断力を維持できる組織でなければならないのです。現行の秘密保護法は、政権維持と行政による国民の管理だけに有利なように作られており、国民の為の情報収集機能とは到底言えない代物です。
仮に相手国に、侵略の意図がある事が確実に予想される事態に立ち至った時には、最初にするべきことがあります。それはやられたらやり返せとか、やられる前にやれではなくて、どうすればその侵略の意図を放棄させ、或いはくじくことができるのかの知恵を絞ることなのです。国家安全保障会議なるものがあるとすれば、それこそがその会議の主たる役目でしょう。直ちに戦端を開くのなら、そんな会議は元々いらないのです。またその会議は平和維持会議でなければなりません。分かり易く言えば、敵対する国との間であっても、何とか信頼関係を再構築する方法を考え出すことが、その会議の目的でなければならないからです。なぜなら、それが究極の戦争回避手段だからです。侵略ありき、報復ありきの会議であってはならないのです。ここでも武力行使を禁じた憲法9条の精神が生きてきます。仮に一触即発の緊張関係が出来てしまったとしても、戦国時代の武将には調略と言う手段で、衝突や消耗を避ける知恵がありました。何故22世紀にもなって、私たちは戦国以前の時代に戻らなければならないのでしょうか。
安倍政権はすぐに棍棒を振り上げるような原始人の内閣であってはなりません。自信過剰で自分の考えが絶対的に正しいとして押し通そうとする人ほど、実は勉強も足りていないことが多いのです。教養と知識と判断力に自信がないので、あとは筋が通らなくても突っ張るしかないという場合もあるでしょう。紛争があれば武力で対抗する事しか考えないということは、戦争以外の問題解決まで頭が回らないからではないのか。想像力が貧困であることほど、危険なことはないという一つの例でもあります。結局人間の度量が全てであり、リーダーの資質が大事だという、当たり前の結論に落ち着くのかもしれません。無知の知を知らない人は、国民に対しても謙虚ではない。だから一国のリーダーとしては向いていないと、私は思うのです。
・長崎原爆71年、核の傘脱却を
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016081090065703.html
・長崎平和宣言の全文。
http://mainichi.jp/articles/20160809/k00/00e/040/228000c
(寸評:全国民が読んでほしい)
499.マッカーサーの言葉。2016/8/11
少々前の池上のTV番組からの引用です。
東京湾の戦艦ミズーリ上での降伏調印式におけるマッカーサーの言葉、「流血と虐殺の過去から、より良い世界、人間の尊厳、自由、寛容、正義の完成を目指し世界が生まれてくることを、私は心から希望している」。この言葉には後で知った昭和天皇も感銘を受けたと伝えられています。なおこの言葉は、リンカーンの南北戦争の終結時の演説から引用されたとのことです。
この理念と精神が、私は平和憲法(マッカーサーの占領時に起草された)にそのまま引き継がれていると思います。明治憲法に戻れと叫ぶ日本会議(含む安倍首相)の人達や、自民党の改憲論者にこれだけの言葉が言えるとは思えない。なぜならこれは米国の民主主義のルーツに通じる言葉だからです。例えば、帝国陸軍がある国を占領した後で、このような言葉が出ることは想像しがたいのです。
私たちが平和憲法を守るという事は、世界のどこであっても、「人間の尊厳、自由、寛容、正義」を守るという意志を表明しているのです。振り返って、改憲論者の説明が心に響かないのは、そこに世界に胸を張って言えるような内容が感じられないからです。
21世紀になって、明治時代の日本人のアイデンティティを今更のように引っ張り出して世界に主張することに、いかなる意味があるのでしょうか。日本人は、現代の日本人であるからこそ、世界で評価されているのです。それが戦前の日本人に戻ることで、世界中から相手にされなくなる可能性の方が高いのです。
歪んだ価値観を持ち、閉鎖的で、非寛容。やがて自分と違う価値観の人の命は何とも思わなくなる。それが戦前の日本人、特に権力者のそれでした。しかもそれは現代なら、ISに通じる価値観ではないでしょうか。
一方で、私は悪しきグローバリズムを肯定するものではありません。現代の資本主義は、過剰な自由市場主義、利益至上主義の結果として暴走状態にあり、これを一言で言えば、経済大国による、経済小国に仕掛けられた、経済的な侵略戦争だと言っても良いと思います。
現在のグローバリズムが悪なのは、自由だけがあって責任がないからです。そこがコズモポリタン=世界市民、の概念とは大きく異なる点です。世界市民は、世界を活動の場としながらも、個々の地域の特性には充分な配慮を行い、その長所を活用しつつ、共通の価値観を模索し、世界規模での共通の理念と、それをベースにした教養を打ち立てようとします。そしてその時こそ、上記のリンカーンに遡る言葉が、貴重なキーワードになるはずです。
昭和天皇は戦後、日本中を回り、復興に立ち向かう国民を勇気づけました。昭和天皇と、平成天皇という平和を「象徴」する、偉大な存在を持てたことこそ、日本にとって最大の幸運であり、また唯一、日本が世界に胸を張れることです。
日本会議の人たちは、天皇を元首にと言いながら、その崇高な意思に従おうとしていません。だから彼らの言っていることは筋が通らないのです。唯一可能な解釈は、戦前の日本の軍事官僚がそうであったように、天皇を彼らの傀儡にしたいという歪んだ意図です。これこそ、戦前で言う不敬罪の極みです。しかも世界のどこからも共感は得られないのです。私たちは、改憲論者の身勝手で、時代逆行の価値観が日本中を覆うのを座視していてはならないのです。金権にまみれた日本会議の野望に、命がけで立ち向かう必要があるのです。
そこで私たちに出来ることは、リンカーンに遡る、日本の平和憲法の理念を、守り抜くことです。それだけが、日本を将来の国際的な摩擦と、その結果起きるであろう、不毛な戦火から守る唯一の「具体的な」、しかも「私たちに出来る」対策なのです。
500.JAL123便の悲劇。2016/8/12
31年前の今日、羽田発大阪行きのJAL123便の後部圧力隔壁が、伊豆半島の上空で破裂し、同機の垂直尾翼を吹き飛ばしました。油圧系統も破断し、ダッチロール状態に陥った同機を何とか操縦して羽田に戻ろうとしたコックピットの必死の努力も空しく、群馬の御巣鷹山に墜落しました。500人を超える航空機史上最悪の事故です。
その日私は同じ群馬県内のゴルフ場にいて、自衛隊の車両が高速道路を反対方向に走ってゆくのを見ていました。最近のNHKのBSアナザーストーリーが、日航機の事故を取り上げています。
原因が修理ミスである事は、現場に残されていた隔壁から、直後に分かっていたのですが、捜査は日米政府の厚い壁に阻まれ、結局訴追は時効になりました。その7年前の修理の後で、メーカー、JAL,国交省、どこのチェックにもひっかからなかった、杜撰な多重ミスが招いた事故でした。
またこの事故では遺族が主役でした。以前私が住んでいた家の隣家でも、親戚の方が事故に会われており、その家族が、小指が一本見つかったといっては現地に駆けつけるという話を聞きました。遺族にとっては、故人に会いたいという気持ちの方が事故の悲惨さよりもっと大事なことだったからです。番組でも、おなかの帝王切開の後だけで奥さんを特定したご主人もいたと、当時立ち会った看護師が涙ながらに証言していました。
人間は悪魔にもなれるが、神にもなれる。私はこの話を聞いて、そう思いました。
関連記事。慰霊登山。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160812/k10010632011000.html