「WTWオンラインエッセイ」
【第49巻の内容】
「日本は死んだふりをせよ」
「石破と前原」
「リベラルの受け皿がない」
「核の傘は必要か」
「ロヒンギャの悲劇」
「民進は解党せよ」
「救急搬送を節約するな」
「アベの不支持に変わりはない」
「田原の提案」
「Aアラート」
「沖縄と核」
「関ヶ原とダンケルク」
「スピナー」
「この世界の片隅に」
「経済的格差」
「疑惑隠し解散」
「大儀なき解散」
「ミニドローン」
「ポピュリズムとは何か」
「全体主義との関係」
961.日本は死んだふりをせよ。17/9/7
米朝の対立は、これまでは米中の対立でした。いまやプーチンがロシア軍の北への派兵を暗示する事態になっています。これは米朝の対決が、米ソの対決の様相を呈してきたという事を意味しています。そういう時に危ない地政学的位置にある日本が取るべき姿勢は、徹底した(但し偽りの)中立であり、とことん北(も米中ロ)を無視する(振りをする)ことです。そしてじっと時期を待つのです。またそうすることで、日本が紛争仲介の役割を果たす機会も来るのです。でも首相が安部晋三では、度量が小さくて、その役は荷が重いかもしれません。北にも、米国にも、言いたいことが山ほどあるのは、国民も同じです。でも実際にいつ、何を言うかは、また別の問題なのです。それが極東という特殊な地政学的位置にある日本という国の、代表になった人物が担う重い責任と宿命なのです。
962.石破と前原。17/9/8
9/6のBSフジの、石破と前原出演のプライム・ニュースを見ました。最近では最もまともな、見る価値のあるニュース特番でした。重要な政策についての意見を述べ合うもので、石破と前原の理念が明確に述べられていました。ここで大事なことは、この二人が、表面的な説明でその場を取り繕う、誰かの得意の常套手段を使わなかったことです。確固たる意思表明であり、政見放送でした。2時間があっという間に過ぎる中身の濃い番組で、保守的なフジなのに、他局に負けない内容になりましたが、それも出演者のおかげです。
ここでは両者の具体的な意見を個別にご紹介する時間的な余裕はありませんので、総体的な印象だけを申し上げます。それは石破がハードな保守、前原がマイルドな保守という事です。二人とも保守であることに変わりはないと言えば、それまでですが、例えば憲法についても、なぜ不要か(石破)、なぜ必要か(前原)がその根拠と共に説明されており、共に説得力のある説明にはなっていました。
無論安倍首相とその側近は超保守ですから、この二人とは全く異なる価値観です。この二人とも閣僚と幹事長の経験があり、年齢も近い。何より重要なのは、主張の論旨が一貫していることです。政治家にとって最も大事な部分です。という事は、(ここが大事です)安倍首相が他に適当な人がいないからと言う理由で消去法による選択の対象になってきた訳ですが、もうその必要はないという事です。無党派層が、自民党都政の余りの腐敗(お手盛り)と暴走にとことん嫌気がさして、都民ファにどっと移動した。でもそれは論理的な思考の結果というよりは、感情的な反発が大きかったのです。何故なら都民ファは、都議選でこれという政策も理念も提示していなかったからです。
ところがいざ蓋を開けて(実はその蓋も未だに完全は開いていないが)見れば、都民ファの都議達は、小池知事の私設応援団に終始しており、顔の見えない烏合の衆に過ぎないことが分かってきています。だから小池政治塾などを作って、再教育しなければならなくなったのです。はっきり言えば泥縄もいいところなのです
しかも事実上の代表たる小池知事が、歴史に向き合わず、関東大震災の反省を停止することで、超保守の体質を露わにして、メディアの顰蹙を買いました。
また都民ファは都民ファで、ファーストという名前を他政党で使って貰っては困るという無茶を言い出しています。だったらその苦情はまずトランプに言うべきなのです。排他的で余裕のない態度一つ取ってみても、この新政党(?)が、小池による、小池の為の政治集団、と言うよりむしろ、小池教のカルト集団かもしれないという疑念が強まるのです。
ということは、反自民で一旦は都民ファを選んだ都民、即ち国民の1割には、これから国政を担う(担わせたい)政党を選択するに当たり、選択肢がないという事になるのです。
繰り返しになりますが、前原は保守です。でも説明には筋が通っている。安倍内閣にはそれがない。筋も理念もないのです。ただ超保守の価値観があるだけなのです。そこに保守だが論理的な政治、という事は、これまでの自民党支持者にも、受け入れやすい民進になる可能性があるということです。
では元々が無党派層ではなく、リベラルな立場を維持してきた国民にとっての選択肢はあるのでしょうか。野田、岡田、蓮舫と迷走を続けて、相も変わらず腐敗した連合が横やりを入れるような民進に、とことん愛想が尽きているのです。しかも今度は代表が保守の前原です。となるとリベラルな国民には、棄権、もしくは敢えて白票を投じるしか、選挙での選択の余地がないのでしょうか。
民進が明確に保守に舵を切ったことで、リベラルな民意の受け皿がなくなった。これは深刻な事態なのです。
とすれば、思い切って対案を、しかも国民の手で打ち出さなければならない時期に来ているのではないでしょうか。
既存の政党の中から、意に添わなくてもどれかを選べという、無理な選挙だから、棄権も死に票も多くなるのです。55年体制を引きずることにもなるのです。
これというビジョンがあっても、資金もなく、政治や選挙の仕組みも良く分からない一般市民が、気軽に立候補することは事実上不可能です。ならば、選ばれた議員に国民の意見を代弁して貰うしか方法はないのです。本来、様々な価値観を反映している民意を、色分けで代表すべき政党なのに、利権と思惑に忖度まで入り込んできて、民意からかけ離れた政党の、政治になっているのです。更にそこに超保守の安部とか高村の個人的な価値観まで上乗せされるから、日本の政治がますますややこしく、恣意的で不健全なものになっているのです。
それもこれも、既存のあるものから選べという選挙の仕組みに問題があるのです。
そこで提案したいのが、一度議員に選ばれた後でも、ガラポン出来る仕組み、即ち国民が新党成立に直接関与できる仕組みです。問題があっても、議員を辞めよとは言いません。その代わり、自分でも確かにまずかったと思うのであれば、その後は、心を入れ換えて、国民の為に働いて欲しいのです。無論、主義主張を変えてもいいのです。
即ち、国民が身銭を切って、しかも絶対に当選不可能な選挙に出馬する代わりに、無所属、及び政党内でも反主流、そして離党の議員に働きかけて、民意を代表してくれる新たな政治団体か、せめて政策ごとの会派を作らせればいいのです。
それは議員が主役ではなく、国民が主役の、全く新しい政党政治の形です。またその場合は政党名、というより会派名もニュートラルであるべきです。
これは政権ありき、政党ありきの政治ではなく、民意ありきの政治への転換なのです。
そういうラジカルな発想も、いまの流動的な情勢なら可能だと思います。
どなたか「国民の為にものいう議員ネットワーク」設立準備会議(仮称)の音頭を取ってくれる人は出てこないものでしょうか。しかもそれがイデオロギーの濃厚な、例えば超保守の小池新党などであっては、絶対に困るのです。市民による、市民の為の団体であるべきなのです。
前述の番組に戻ると、前原は不支持の方が多いではないかと司会者が指摘すると、前原は、もともと民進の支持率は7%しかない。その中で4割の支持率を頂いたことは、むしろ有難いことだと述べていました。
実際に政策を実行するのは行政機構、即ち官僚なので、政治家はビジョンを語る事が本来の仕事です。だからこそ、そこには明確な理念と論理が存在していなければならないのです。石破と前原の二人の方が、少なくとも、その二つの要素を共に欠いている安倍首相よりは、遥かにましだと申し上げたいのです。
963.リベラルの受け皿がない。17/9/9
北の暴挙とそれが引き起こす国内の混乱を見ていて感じるのはデジャブ(既視感)です。それは映画シン・ゴジラです。無論今回の侵略者は北のミサイルです。手も足も出ないというところまで似ています。映画がもう一本できそうです。
民進はますます民意から遠ざかっています。これで支持率が上がればむしろもっと怖いことになります。
関連記事。前原、維新と連携の意向。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170908-00000081-jij-pol
関連記事。5人程度が離党検討。
https://this.kiji.is/278933098800121333?c=39546741839462401
なぜなら国民の選択肢に、反動的な保守と、保守しかなくなるからです。日本の正気を支えてきた、多数を占めるリベラル派の国民の行き場がなくなるからです。
主張はともかくとして、さすがに共産党では、その党名からしても選択肢としてはしり込みしてしまう。維新はその名前とは裏腹に、橋下の安倍盲従から始まって、極右の体質(こころほどではないが)であることが分かっている。
思えば国民は、政治を変えたいと願うたびに、新党と言う新党に裏切られ、騙され続けてきたのです。
そのもっとも最近の例が日本ファです。これまた若狭、細野、長島では右傾化路線は決まったようなものです。しかしその名前が、国民ファでなくて良かったのです。なぜなら実態が国家ファースト、もっと言えば小池ファーストだからです。
小池知事が朝鮮人虐殺問題回避の姿勢を打ち出した(しかも反省は愚か後悔もしていない)ことから、衣の下の鎧(本音)が見えてしまいました。しかも都民ファ自体が、全く得体の知れないブラック・ボックス化しています。
正体の分からない、しかも、議員に発言の自由もない政治団体などあってはならないのです。しかもそこに小池百合子の強権体質が透けて見えるのです。都民ファは都民が選んだ政党であり、小池の私的な組織ではないのです。小池にとっては、都民も国民もなく、有権者は自分の野心を実現する手段にしか見えていないのではないでしょうか。
かつて都民は右傾化しているが、少なくともはっきり口をきく(どころが独断専横の)石原慎太郎のリーダーシップに期待して、知事に選びました。そのリーダーシップ(強い主導権)を、今度は小池に期待したのです。ポピュリズムと言えば耳当たりは良いが、要は衆愚政治が続いているという現状自体は、少しも変わってはいないのです。宇都宮を知事に出来なかったことは返す返すも残念です。
メディアのリベラル潰しの執念と悪意は、留まることがないようです。権力と、権力を批判・抑制すべきメディとの癒着。それが日本と国民を泥沼に落とし、権力者の天国、国民の地獄を演出しているのです。
メディアが小池を遠巻きにしている(橋下に対してもその傾向)のは、メディア自体が底に右傾化した価値観を秘めているからではないのか。どこかで波長が合っている(共感=シンパシー)からでしょう。無論一部の例外はあって、そのリベラルなメディアとリベラルな論者達が、やっとの思いで日本人の良心を支えているのです。
日本の偏向したメディアは、山尾を叩いても、小池は叩かない。公的な発言より、私生活だけを問題にする。それなら、パパラッチやフライデーをするだけでいいので、楽なものです。記者は政治的な勉強をする必要もないのです。だから馬鹿でも出来る。少しでも根性があれば加計孝太郎を追うべきなのに、それは絶対にやらない。
国外に逃げている可能性も否定は出来ないが、少なくともそちらは半分犯罪者なのです。それをしないのは、相も変わらず安倍政権への忖度なのでしょうか。少なくとも山尾は犯罪者ではないのです。なお文春の最貧号だけは買う気がしません。結果的に安倍政権を持ち上げるような週刊誌を、誰が自分の金で買うというのでしょうか。
政治とメディアが、持ちつ持たれつで、そこに理念なき労働組合が加わる。批判など起きようもないのです。まさに権力者の為だけの、泥沼のような日本の政治と社会の状況。もはや維新など(保守反動政権を支援して何が維新ですか)と言う表現ではない、本物の市民革命が必要なところまで来ているのです。
ならば、事件とゴシップを追う記者ではなく、情勢の分析と批判を行う事を生業とする有識者とはどういう人でしょうか。それは朝のニュースショウや、昼のワイドショウに顔を並べる芸能人出身のえせコメンテーターの事でないことだけは確かです。そもそもそういう連中を選ぶという人選そのものからして、TV局の見識と知的レベルが分かります。しかもその情けない状況は、NHKでさえ例外ではないのです。
人気(=TV出演)が大事で、その為には主義も主張もない、スポンサーや局の言いなりの芸能人が、どうして世論の代表だと言えるのでしょうか。
そこにも有形無形の権力者の圧力が効いているのです。毒にも薬にもならないが、知名度が高く見栄えのするタレントだけを並べておけという声が聞こえてきそうです。その証拠に、まともな意見を主張として述べたタレントは次々に下ろされています。最近では石田純一の例もあり、鳥後だって姿を見なくなりました。
内心で右傾化したメディアと記者たちが、安部首相に代わる選択肢として、小池を選んだのではないか。即ち実は日本のメディアが大好きな政治家は、リベラルな政治家などではなくて、なるべく目立つ派手な、できればスキャンダルも満載の、独裁者タイプの政治家ではないのか。要は人気だけにしか関心がないのではないか。彼らのルールはたった一つ。それは出る杭を打つ。そしてその杭が出てくるのを待つだけです。
もっと言えば、そこに戦前のナチスの全体主義への傾斜の萌芽を見る事もできるのではないか。報道が意図的に作った民意です。しかもその日本全体の右傾化傾向に、前原が、自分でも意識せずに、一役も二役も買おうとしているのではないでしょうか。
広いアメリカなら、人種も宗教も様々で、人数も多い。そういう場合なら逃げ道もあれば。対抗勢力もある。それなのにトランプのような独裁者が出てきた。まして国土が狭く、全体がすぐに同質になりがち(しかも異端を排除する風潮も強い)な日本では、一旦全体が右に傾斜すれば一気呵成で、とどめようがなくなるのです。
安倍に小池に前原です。こちらはミカンが食べたいのに、りんご(しかも中身の腐った)ばかり並べられているようなものなのです。
今のまま、リベラルの受け皿のない状態が続けば、日本には遠からず戦前と同じ状態。即ち批判を封殺する全体主義の時代が来るでしょう。権力と格差、軍備優先。何のことはない。あれほど嫌っている北を見習っているのが、ほかならぬ日本だということにもなりかねないのです。
現状では、反自民の勢いだけで、都民ファを選んでは見たもの、少し後悔している無党派層にとって、選択肢がないのです。しかもそういう有権者の多いことが、なぜ前原には分からないのでしょう。という事はそういう人には日本ファ(全体主義)しかないとなると、これはもう日本の政治が暗黒時代になることを意味しています。
結局、民進が解体=発展的解消をするしか、民意の受け皿はないという「現実」に、国民が冷静に向き合う事から再出発しないと、日本の民主政治が全崩壊することになるでしょう。前原民進の幹部人事には新味も魅力もない。国民の代わりに自民と対峙してきたのは、前原でも枝野でもないのです。
自民が安部カラーの超保守、民進が前原カラーの保守、日本ファが小池カラーの超々保守。最も活躍した民進のリベラル派議員の姿は見えないのです。それはすなわち、前原が、結局は民意のことは意識していないことを意味しています。前原の個人政党に興味はありません。安部首相を引きずりおろすことは急務ですが、前原首相も小池首相も、こちらからはご遠慮申し上げます。
964.核の傘は必要か。17/9/10
・世界転覆宣言。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170909-00000054-asahi-int
コメント:観光地のガイドも核の宣伝ですか。なんとなく加計学園と政府の関係を連想します。要はプロパガンダと洗脳です。何ごともなく、何でもない、忘れてくれれば良いと。
金正恩にはなんとでも言わせておいて、仮に核ミサイルをぶっ放すとまで言い出したら、ハイハイそうですか、アンタも偉くなったねでやり過ごす。或いは完全に黙殺すればいいのです。メディアが取り上げるから頭に乗るのです。
それが広報のおばさんの性格なのか、言葉にも言い方にも品がない。それはすなわち金正恩も知性が欠けているという事でしょう。世界は一致団結して、半島の真の民主化を後押しするべきなのです。大切なものは金正恩などではない、北の国民だからです。朝鮮半島の(本当の意味での)解放は、朝鮮民族の手で成し遂げられるべきなのです。周囲の国々(含む中国、但し米国は周辺国ではない)は、騒乱の結果、とばっちりで飛んでくるであろうミサイルを、打ち落とすことだけに専念すれば良いのです。
ところで北のミサイル騒動で思うのは、米国は太平洋の反対側に自国の基地を置き、周辺国を従えて、自国の太平洋の覇権を守りたいらしいという事です。でも極東で有事になっても、なるべく自分の手は汚したくなない。だから(集団的自衛権で)、周辺国に盾になって欲しいと考えている。自衛隊にイージス艦を買わせたことが、その意識(地域の安定と米国による支配、但し防衛は肩代わり)の具体的な形なのかもしれません。
別の見方をすれば、それは米国が侵略戦争までは考えていない事を意味しているのかもしれません。しかし米国の権利は主張したいが、負担は最小限、または肩代わりさせたいという態度が、理性的な判断が出来る外国(または冷静な日本国民)から見ると、浅ましい行為だと思われても、仕方がないのではないか。
だから私は有事には米軍に多くを期待できないし、期待してもいけないと申し上げてきました。有事に日本を守るのは、憲法がどうであれ、まずは自衛隊であり、次に国民なのです。しかも最も恐ろしいことは、国の代表が、米国が日本を守ってくれるだろうというはかない希望に縋り付き、雲をつかむような空手形を握りしめていることです。架空の前提、虚構を盲信する盲従の人なのです。
具体的な例をあげれば、福島のトモダチ作戦の放射能汚染で、米軍が日本にどれだけ補償を求められているかご存知でしょうか。米国との間では、無償の行為等は存在しないのです。
二言目には頭の固い保守系の政治家は、米国の核の傘で守って貰うと言います。まずその発想が卑屈です。それを現実的だという学者もいますが、実は現実的でさえないのです。
まず言いたいのは米国の核の傘で守られている国がどれだけあるのかということです。NATOは米国を含む連合防衛体制であって、米国だけが守っている訳ではありません。一方でドイツには米軍(NATO軍ではない)の基地もある。しかし巧妙なことに、ドイツはそれを見て見ぬふりをしています。地位協定も日本のそれとは全然違います。ドイツの方がしたたかで、しかもここが一番大事な点ですが、米国と対等なのです。どこかの極東の国とはだいぶ様子が違うのです。
核の傘という表現は、先制後攻に関わらず、いつかはそれが使われることを前提にしています。でも核の応酬が始まれば、その瞬間に人類の歴史は終わるのです。地球の運命は、他の動物、昆虫、または生命に託されるのです。無論人類の後を引き継ぐ生命体は、放射能への耐性があることが前提です。
核兵器による恫喝と、その数ばかりを競う不毛な冷戦を終わらせたのは、より強い恫喝ではないのです。それはロシアのゴルビーの政治理念だったのです。だから我々(リベラルで冷静な国民)は、北の核を放棄させるための現実的な手段こそ、トランプによる恫喝などではなく、政治体制の、しかも北の国民自らによる変革でしかないと考えます。
ということは米朝の和平の条件には、相互が武力による侵略を放棄するとともに、米国が金王朝を承認し保護するという文が含まれていてはならないのです。というより、むしろ普通選挙と代表の公選制を義務付けるものでなければならないのです。
米国は日本の為に核などは使いません。日本には使いましたけれど=無論皮肉です。自分で持て余すような危険な兵器に頼らなくても、通常兵器でもかなりの事が出来るます。だから現代戦では核兵器はオプションにはならないのです。
それでもなお我々が北朝鮮から核を取り上げたいのは、それがテロ集団に渡る可能性がある(なぜなら北朝鮮が倫理観なき独裁国家だからです)からです。それだけはいかなる手段を使ってでも(超法規的に)阻止しなければならないのです。テロ集団には善悪の判断基準がなく、自制心もなければ、抑止力も働かないからです。
いかなる場所、民族、しかも理由があろうとも、絶対に核兵器の使用は認めない。それが世界市民、そして国連の目標でなければならないのです。だから安倍将軍いや安倍首相が核兵器放棄条約交渉を棄権する姿は、哀れでもあり、醜くもあるのです。また、だからこそ金正恩の恫喝発言が、世界中を不快にさせるのです。金正恩が吠えれば吠えるだけ、自由世界が持てる核を北朝鮮に向かって使いたくなる。それこそが恫喝であり、最悪のシナリオなのです。
金正恩は自分の言っていることの意味が分からないほど暗愚なのか、駆け引きの方法を知らないのか、それとも本当に狂っているのでしょうか。
965.ロヒンギャの悲劇。17/9/10
・ロヒンギャ難民。、至るところで拷問。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170909-00000068-jij-asia
関連記事。各国で抗議デモ。
https://www.cnn.co.jp/world/35107033.html?tag=top;subStory
コメント:いまこそスーチーが具体的な対策を指示すべきです。それともそこまで軍の鼻息を伺うしか生きてゆく道はないのでしょうか。それとも民主化を望んだ自国民の中に、他民族を排除する意図が潜んでいたのでしょうか。確かに国の代表はスーチーではないし、虐待行為は、過去散々私利を貪ってきた軍部の仕業です。それでもいくらかでも権力をもつ者が、残虐行為を見逃せば同罪です。
日本はバングラに、難民向けの食料でも物資でも即刻送るべきなのです。そういうことで世界の評価も変わってくるのです。しかし多民族に異常に鈍感なのが、どこぞの首相です。他人の事を重いやる能力に欠けているのではないか(含む官房長菅)。或いは自分の事しか関心がないのでしょう。外務大臣の河野も何をしているのでしょうか。
966.民進は解党せよ。17/9/10
・民進、離党に歯止めかからず。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170909-00000078-jij-pol
関連記事。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017090900369&g=pol
関連記事。前原民進が選挙で勝つ戦略。
http://diamond.jp/articles/-/141128
コメント:保守の前原民進からも離党するのであれば、更なる超保守という事になります。確かにそれでは党内でことごとく意見が分裂して、まとまらないのも当たり前です。しかも保守派の議員はモリカケ問題の追及にも殆ど関与していない。それほど保守的で右傾化しているのであれば、いっそ自民に移籍して貰った方が、少なくもこれ以上国民を騙さずに済むのです。
前原よりはリベラルな枝野が代表になれば、更に離党者が増えたかもしれないが、それでも少なくも有能でリベラルな民進の議員が留まる素地は残ります。そうすれば、なによりも、リベラルな国民にとって、受け皿があることを意味します。
性格があいまいでなく、労組の縛りもない、「国民の為の」リベラルな政党を誰かが作ってくれないものでしょうかその当面の党首には、江田でも良いと思います。
一方で、山尾の今後にも注目したい。メディアの悪意にめげているようでは一流の政治家にはなれないのです。今回のスキャンダルは乗り越えるべき試金石です。しかもこういう場合に女性は一方的に不利なのです。特に同性からの攻撃が厳しいものとなるでしょう。
一方、クライアントを守るのが弁護士なのに、私利私欲で足を引っ張るなど言語道断です。下心がなければ、打ち合わせにワインなどはいらないのです。職業上の信義則違反であり、法曹界から駆逐されても文句は言えないのです。
はっきり言って、私は小池百合子の躍進を阻止したい。豊洲は安全対策を講じて風評被害を一掃したいなどとは呆れます。一体どの口がそう言っているのか。巻き添えになった業者はどうすればいいのか。しかもなにより恐ろしいことは、メディアが小池の変節ぶりを報道も、指摘もしないのです。
今国民が本当に必要としているのは、安倍首相に代表される嘘つきでない、正直な政治家と、誠実で国民目線のメディアなのです。
967.救急搬送を節約するな。17/9/10
・救急搬送の,軽症者識別に2/3が同意。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170909-00000073-jij-pol
コメント:私の見方は違います。この対応は医療の現場の見方とは正反対だからです。医師は、まず救急車を要請して欲しいと必ず言います。脳梗塞などはただのめまいで始まることも多いのです。でも放っておけば命に関わる。初期対応が決め手であり、そこでは素人判断は禁物なのです。救急車が来てから、医療の経験のある隊員が見て判断するのなら少しはましかもしれないが、素人が自己判断し、しかも受信を抑制するなどはとんでもないことなのです。
これは悪質な行政費用の節約方法です。救急車を増やせばいいのです。他でさんざん無駄遣いしているのですから。何かあれば、誰にでも、しかもすぐに来てくれる。それは国民に対する最低限度の福祉でもあるのです。
日本の国民は良心的でおとなしい。でもそこに安倍政権が悪乗り(厚労相は首相の親戚です。何故塩崎のままにしておかなかったのか。安倍の親戚人事の悪しき例です)しているとしか私には思えないのです。
でも自制で、物言わぬ態度、権力に逆らわないことが、最後は政治権力が戦争を引き起こすまで増長させることもあることを、日本の国民は高い代償を払って学習していたはずです。自制は一見善か徳のようでいて、それに悪乗りする者(政権)がいれば、それは一転悪に(特に後世世代にとって)なるのです。
968.アベの不支持に変わりはない 17/9/11
・内閣支持が不支持を上回る。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20170910-00000034-nnn-pol
コメント:政府の宣伝、と言って悪ければ、提灯記事です。日テレ(読売)の調査で、しかもその差は僅か0.9%。他社の調査なら不支持の方が間違いなく多いでしょう。しかも安倍首相の支持ではありません。ここが重要なポイントです。
北への対応の反応を見ても、回答者に政権同調者が多いことを明確に示しています。モリカケ問題も何一つ解明できていないのです。省庁間で行き違いがあったとは、なんたる首相の言い草でしょう。最も悪いのはご自分自身ではないですか。確信犯もいいところで、部下が勝手にやりました、僕ちゃんは何も知らないと言っているだけなのです。この件については後の方でも述べます。
国会での追及の時間を与えず(国会開催要求の野党の憲法の権利を何だと思っているのでしょう)、自分の立場を補強するためだけに英首相(英国民には不評の)を招聘。ついでにトランプをおまけに付ければ、「悪だくみ」の国際バージョンです。
山尾のスキャンダルも、最初は自民党系の正体の分からない人物による誹謗中傷から始まり、その後で文春が加わりました。その背後に行政や民間を巻き込んだ悪意や陰謀がないと言い切れるでしょうか。
メディアが女性国会議員だけをやり玉にするのであれば、以前からどうしても納得できないことがあります。それは稲田と首相の関係です。稲田のこれまでのはしゃぎぶりは、自分が重要人物の特別な存在だという意識がなければ説明がつかないのです。それが例え男女の関係にまで発展していなくとも、度を過ぎた依怙贔屓は、感情的な要素がないと理解できないのです。昭恵夫人が黙っていたのも分かりません。
そういう某首相にも、いつか人生を全うする時が来るでしょう。その時はぜひとも、その脳を博物館に寄贈して頂きたい。自分だけは特別の存在で、何をしても許されると思い込むメカニズムを解明し、二度と独裁者が現れないようにしたいのです。
首相は、トマ・ピケティが来日した時に、日本には問題になるような経済格差はないと言い切りました。その時はさすがに驚愕しましたが、多分その考えは、今でも変わっていないのでしょう。だから経済格差は益々拡大し、富裕層と貧困層の二階級化が進み、貧困層は教育費にこと欠き、腐臭層、いや失礼、富裕層は豪華列車に殺到しているのです。
国民は首相に尽し、従うべきものであり、首相から施しを与えられるものなのでしょうか。アベノミクスは、企業が潤えば、それがトリクルダウン(まさに施し)となって労働者の生活も楽になる(はずだ)という(怪しげな)ロジックです。これほど国民と労働者の権利を愚弄した(沈黙する連合とはいかなる存在か)話はないのです。しかもトリクルダウンは実現していないのです。
まず企業自体が、金融拡大に依存するアベノミクスを信用しなかった。そんなものを宛にして、万が一コケたら眼も当てられない。そもそも日本の企業風土は独立独歩の意識も強い。だから政府の経済政策が失敗したときの保険として、内部留保を厚くし、トリクルダウンには後ろ向きだったのです。
その結果、国民の生活は苦しいままで、未だに実質所得は減り続けており、ゆえに一般消費も回復していないのです。しかもそれに触れることさえ首相は嫌がっています。責任のある麻生も口をつぐんだままです。それはアベノミクスの失敗(そもそも3本の矢とはなんでしたっけ)が本当の安部政権のアキレス腱だからです。
モリカケ問題は安倍首相の個人的な信用に関するスキャンダルです。だから学園の認可を白紙に戻して、首相が頭を下げれば、それで収まる話なのです。ただ首相独りが、自分のちっぽけな見栄の為に、意地を張っているのです。
一方で雲隠れしている加計孝太郎が、ビデオメッセージを出しました。そこで彼は混乱を詫びているのですが、その様子を見ていると、安倍首相への過度な権力の集中と、虎の名を借るキツネやタヌキが暗躍と暴走を繰り返し、行政機関に圧力を掛ける一方で、省庁も自ら特別待遇するという悪循環の構図が見えてくるのです。悪いのは加計でさえなく、結局は安倍独裁体制にあるのです。
だから安倍首相は知っていても知らない、というより、自分には責任がないと言い続けているのです。ならばもう一歩踏み込んでみませんか。即ち、自分は直接指示してない。そういう事があってはならないという事を、改めて指示もしている。しかしこの件が内閣の支持率に影響したことも事実である。だからこの際、思い切って首相の職を辞して、後任に託したいと言えば、責任を取ったとことになるし、男の美学にもなるではありませんか。後世の政治家としての評価も維持できるのです。
一方で、経済政策(集団的自衛権と共謀罪もですが)の失敗はそう簡単ではありません。後を引くばかりか、国民生活に直接影響するのです。国債発行も増え続け、国の借金は増加する一方です。出口政策を持たない日銀など、最早あってもなくていいような存在なのです。
政治(モリカケ)、外交(対中、対米)、経済(アベノミクス)その全てがうまくいっているとは到底思えません。だからこれ以上、国民にとって安部政権の続投を望む理由はどこにもないのです。ただ一つそれがあるとすれば、それは受け皿になる政党がないという理由です。だから小沢の二大政党制構想を潰した野田・前原・枝野・管・岡田といった二流の政治家たちを許すことが出来ないのです。
国民は他に選択肢がないから安倍内閣を支持して(消極的選択、消去法)いるだけなのです。でもそれはまともな意識の政権なら、これ以上はない屈辱なのです。官房長官がいくら横車を押し通そうと、印象操作に励もうと、国民は馬鹿ばかりではないのです。政治がどれだけメディアを抱き込もうとも、民意は安倍政権、と言うより少なくとも安倍首相にはない。それだけは断言できます。読売TVの調査結果も、安倍首相の支持率ではないからです。
ついでに悲観的な見通しを述べれば、前原民進が政権を取ることは絶対にないので、自民党内部での政権交代しか国民には期待が持てないということです。しかし石破が保守体質なので、リベラルな国民にとって、日本が住みにくいことに変わりはないということです。
共産党とは野党連合は組まないと、(頭の固い)前原が民意を無視した自己満足の発言を繰り返しています。それは諸悪のコン気の観すらある連合の意志でもある。それでは3補選で勝てる訳がないのです。自民の支持層は層が厚いからです。
そして、民進では誰がその結果責任を取るつもりなのでしょうか。山尾の離党は意外にも正解なのかもしれません。幹事長の引責辞任が今から決まっているようなものだからです。
私が小池新党なら共産と連合を組みますが、小池百合子が極右の体質なので、相手が公明とならともかく。これ(小池―小池連合)だけはないでしょう
969.田原の提案
週刊朝日 2017.9.22号 田原総一朗のギロン堂 17/9/12
【私の安倍首相への提案の真相と、米国の「拒絶」】
7月28日の正午から、官邸で安倍首相と1時間以上会った。1階のホールでマスメディァの記者たちに問われて、「首相に、思い切って政治生命をかけた冒険をやらないかと提案したのだ」と説明した。その内容を記す。米国のトランプ大統領や中国の習近平国家主席、ロシアのプーチン大統領などと自由に話せる政治家は、日本には安倍首相しかいない。そして北朝鮮のミサイル連発により、下手をすると大戦争になりかねない危機が迫っている。
だから、安倍首相が訪米してトランプ氏と会い、時間をかけて事態の切迫について話し、トランプ氏がどういう条件ならば金正恩委員長と対話できるのかをとことん問い、とことん説得する。最終条件ではなく、対話を始める条件だ。そして、トランプ氏が条件を示せば、次に習近平氏とプーチン氏に会う。韓国の文在寅大統領にも会う。説得が難しいのはトランプ氏であって、トランプ氏が条件を示せば、他の首脳を承諾させるのはそれほど難しくはない。そして日本を含む5力国がそろったところで、安倍首相は北朝鮮に飛んで金正恩氏を説得する。つまり新たなも力国協議を始めるのだ。
このことを安倍首相に提案し、安倍首相はそれに強い関心を示した。8月3日に内閣改造が行われ、河野太郎氏が外相となった。そこで翌日に河野氏に会い、安倍首相への提案を話すと、河野氏は強い賛意を示し、8月17日にワシントンで行われた2+2でのティラーソン国務長官との個別会談で、メディアでは報じられなかったが、時間の大半を費やして新たに6力国協議を設けることを説得したようだ。ところが、ティラーソン国務長官は承認せず、6力国協議を拒んだという。河野氏は、懸命に説得したようだが、受け入れられなかったということである。日本の政府首脳は、米国の思惑がつかめなくて困惑しているようである。
その後に、北朝鮮はミサイルを連発し、さらに9月3日には、広島に落とされた原爆の10倍の破壊力を持つという水爆の実験を行った。日、米、韓の政府首脳、そしてメディアは、許し難い暴挙だと怒っているが、金正恩氏は、それを格好の挑戦の的だととらえているのではないか。
米国は6日、北朝鮮に対する追加制裁の決議案を国連安保理の全理事国に配布し、11日の採択を目指しているようだ。ヘイリー米国連大使は、北朝鮮に対するもっとも強力な手段であると強調している。'決議案の柱は、石油・液化天然ガスの全面禁輸や、北朝鮮からの労働者の受け入れ禁止、繊維製品の禁輸などだ。金正恩委員長の在外資産凍結、渡航禁止も盛り込まれている。
確かにこの制裁が行使されれば、北朝鮮は致命的なダメ.ージを被ることになるが、ロシアのプーチン大統領は7日の安倍首相との会談で、はっきり「制裁は解決策にはならない」と言い切った。中国は全面否定ではないが、「圧力は解決策の半分でしかない」と表明している。中口が反対すれば制裁決議案は採択できない。そのとき、米国はいったい、どうするつもりなのか。
もし米国が北朝鮮に武力行使すれば、韓国と日本が少なからぬ被害を受ける。その前に、米国が日本に集団的自衛権の行使を求めてきたら、安倍首相はどう対応するのか。武力行使を避けるには、どのような方策があるのか。難しくはあるが、日米韓は懸命に考えなければならない。
970.Aアラート 17/9/13
前回の北のミサイル発射、即ち北海道上空通過の時に、いつもは公邸には泊まらない首相が、なぜか公邸に泊まっており、発射の20分後には記者発表。無論偶然にしては出来過ぎているので、ミサイル発射の可能性が限りなく高いという情報を、自衛隊からも、米軍からも得ていない限りこんなことはできません。
ミサイル実験を、Jアラートの実験(しかもまた一部で失敗)も兼ねて、全てを自分の政治的パフォーマンスに利用したと見るのが自然です。
Jアラートが東北と北海道だけ、と言う事はコースも事前に想定していなければ出来ません。だったらほかにする事が山ほどあったでしょう。何より一番肝心なイージス艦で迎撃しないのか。攻撃ではなく、ミサイル攻撃を防御するためのイージス艦だろう。それとも事故を起こすしか能のない、あの高価な玩具は、トマホークで「先制攻撃」することしか出来ないのか。
無論北のミサイルへの対応についても、日米間で事前と当日を含めて、話し合いがあったに「違いない」。そして迎撃はまかりならん、今は迎撃すべきではないと米軍から釘を刺されていたに「違いない」。アラートと、こぶしを振り上げる事しか、安倍首相には許されていなかったのではないか。
こうなると最早猿芝居です。しかもどのメディアも政府の愚策を批判していない。その方が核を積んでいないミサイルより遥かに恐ろしいのです。それは、「本当の」有事に、国民が接する情報は、政府にとって都合の良い情報だけになることを意味しているからです。今回の官邸とNHKの動きを見ていると、その悪夢がいつか必ず現実のものとなることを想像させるに十分だったのです。最早印象操作どころではない、情報操作が大手を振って行われるのです。
むしろ今回の実験では、首相は寝ているところを叩き起こされて、寝間着のまま寝ぼけ眼で官邸に駆けつけるという方が未だ真実味(リアリティ)があったでしょう。それなら、まだしも私達臣民は、ああ首相は大変ですねと言う事も出来たでしょう。でもその代わりにまたもや色の黒い三太夫と一緒になって三文芝居を見せられたのかと、げんなりしているのです。
更にあのあざといNHKの報道姿勢、独自の情報収集はなし。官邸発表を右から左に流す大本営発表に終始。いや笑止。専門家も一人だけ。せめて野党からもコメントを取るべきでしょう。ほかの全番組を中止して、2時間以上も特番を汲んだ意気込みを誰に見て貰いたいのか。無論それは首相にでしょう。官邸とNHKだけは、少しも意外性も動揺もなく、「立派に」、国民への通報と報道の義務を果たしたという「姿勢」を示しつつ、ついでに北への怒りも演出して見せたという事なのでしょうか。
でもこれは非常にまずいことなのです。疑問はたった一つ。そんなに確信と時間の余裕があるのなら、自衛隊が(指をくわえて)見ていたのかです。例え打ちもらしても、迎撃すればその方が余程国民へのアピールにもなり、重要事態である事を、身をもって証明できたでしょう。そういう、ある意味まともな対応がなかったことについて、色の黒い番頭氏からは、一言も説明はなかったのです。質問する記者さえなかったとすれば、その方が余程重大です。
迎撃をあおるつもりはないし、米軍が「キチンと」自衛隊の行動もコンロトールしている(チームワークなら勝手に暴発は出来ない)と見るべきでしょう。そこには安心感もあるが、不安もあるのです。米国に取っては未だに対岸の火事だからです。
一方で、いかに迎撃とは言いながら、自衛隊は実弾でミサイルを撃つというのは刺激が強すぎる。だから結果として撃たなかったことは、それはそれで仕方がなかったのかもしれない。でも一言は必要です。即ち日本は自主防衛の権利として、必要な措置を講じる権利があると北に宣言するだけでいいのです。
それにつけても、昨日も申し上げたように、日本の安全保障上の最大の問題は、安倍首相という存在そのものにあります。有事に国民の安全より自分のパフォーマンスを優先するような首相とそれおヨイショするようなメディアを、信用してくれと言う方が無理なのです。
しかももっと言えば、安倍首相は、御自分が米国はもとより、多くの国で余り信用も評価もされていないという「現実」に、なぜもっと謙虚になれないのでしょうか。私が外国の元首なら安倍首相を転がすのはいとも簡単です。何故ならどんな時に、何を言うかは容易に想像できるからです。しかもスキャンダルにまみれており、国民の信用を失っていることも、政権が長くは保たないことも分かっています。即ち国の代表が外国から足もとを見られているのです。外国にそう思われていることに気が付いていない(自分は世界のVIPだという妄想)のは、安倍首相だけなのです。
だから日本とロシアの交渉が、日本に有利どころか、対等に進むことも、あり得ないのです。しかも相手は世界が一目を置く名うての政治家なのです。
北のミサイルは好きに打ち上げさせておけばいいのです、なぜならそれは「日本にとってゆゆしき事態」ではないからです。北提供の対米宣伝用の打ち上げ花火であって、日本はその観客にもカウントされていないのです。世界から軽く見られている首相の退陣と交代は、もう一刻の猶予もならないところまで来ているのです。
それでも同じ日本人として、一つだけ、アドバイスします。それは安倍首相が、振り上げたこぶしを下ろして、(事実はそうではなくても構わないから)北のミサイルには対応できる自信があるが、挑発行為は無視する(但し被弾には対応する)と「冷静に=ここはパフォーマンスでも良い」宣言するだけでいいのです。その一言で、安倍首相に対する世界の評価は一変するでしょう。でもそれは安倍首相には出来ないことでもあるでしょう。
自分の名誉(というより見栄)を何よりも大事にするような首相なら、日本にとっても、日本の国民にとっても、有害無益(失礼)な存在なのです。Jアラートより先に、Aアラートが出されるべきなのです。
関連記事。北、制裁決議を断固拒否。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017091201079&g=int
関連映像。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170912/k10011136891000.html
971.沖縄と核 17/9/14
最近WTWではNHKの報道姿勢の批判を続けています。安倍首相がどう言った、こう言ったから始まる政府寄りの報道姿勢が、余りにも鼻につくし、独立した、国民による国民の為の報道機関というイメージは、全くと言って良いほど感じられないからです。それはBBCはもとより、米国の三大ネットワークと比較するだけで、お判り頂けると思います。しかも不味いことに、内容が伴わないのに、体裁だけは公共放送だから、その報道姿勢が結果的に世論に大きな影響を与えるのです。
NHKが政権を批判しない限り、国民も政権を批判しない。これは良く考えると結構怖いことなのです。朝夕のNHKのニュースが民意を支配(或いは左右)し、結果的に安倍政権を支えているのです。
一方で社会番組、或いは報道特集では、一転、民放では真似の出来ない番組も作ります。文化番組では磯田の英雄たちの選択もあります。NHK特番の背景には膨大な過去の情報、即ちアーカイブスの存在があります。取材能力も高い。最近では、戦後特集のインパール作戦失敗の番組があり、これから述べる沖縄の核の番組もあります。
当番組では、沖縄には一時1300発の核があったことを明らかにしています。誠に不思議なことは、とんでもないスクープとも言えるのに、メディアも有識者もこれという反応を示していないことです。それがどうしたと言わんばかりですが、逆にそうした無反応、いや「無反動」こそ、NHKが意図し、期待したものかもしれないのです。
言い変えれば、国民の核アレルギーへの免疫づくりとして、官邸了解の下で放送が「許可」されたのではないかと憶測することも不可能ではないと思います。国民が大騒ぎするような番組を官邸が報道させるとは思えない。なぜなら、籾井会長の時代ではあれ、首相の発言を紹介している最中に横やりが入り、その場でアナウンサーが謝罪するという場面を見たこともあるからです。これ以上はないという放送・報道への介入であり、圧力でした。その当時と同じ官房長官が今でも長官なのです。それを考えると背筋が寒くなります。
この番組は、最近公開された資料と、かつて沖縄に駐留していた米兵の証言に基づくもので、信憑性が極めて高いものです。1300発のミサイルは、冷戦時代に中ソに向けられたもので、ではそれがなぜ沖縄かといえば、当時はICBMの技術が発達していなかったので、オネストジョンなどを、仮想敵の近くに置く必要があったからです。そして沖縄で戦略爆撃機に積んで出撃すれば数時間で中ソを攻撃できるのです。グアムからではそうはいきません。だからベトナム戦争の時にも核はあったと思うのが自然です。しかも後で述べるように、今でも「それ」はあると思う根拠があります。
ではなぜ今、機密情報が公開されるのかといえば、それは兵器の技術が格段に進歩しているからです。北は、広島型の10倍の威力の水爆を開発したとはしゃいでいるが、何十年も前に沖縄に配備されていた核は、既に70倍の威力があったのです。しかもそれが1300発です。破壊力には途方もない差があったし、今でもその差は超え難いものがあるのです。
北が、米国の本土に届くミサイルが出来たと宣伝しても、米軍も米国民もそれほど驚いてはいない。何故なら、北の核兵器等、米国から見れば、おもちゃ同然だからです。余りうるさく言うので、手持ちの兵器のすす払いを兼ねて、迎撃演習でICBM打ち上げてみたらやはり成功した。そんな程度の反応なのです。金正恩の焦土作戦は絵、それも漫画だが、米国の言う焦土作戦は現実なのです。
いまなぜ沖縄の核が公にされたのかと言えば、無論ICBM発射基地(サイロ)が米国に山ほどあって、直接それで世界中のどこにでも核爆弾を届ける事が出来る上に、ミサイル原潜が世界の海に遊弋している。核爆弾を搭載したステルス爆撃機はいつでも発進できる。無論似たようなことはロシアもしているわけで、いまでも核抑止力でバランスを取るという、多極的な冷戦は未だに終わったわけではないのです。
沖縄返還に際して、核抜きを強く要求した佐藤首相も結局(核付の)密約を認めた。返還を優先したからです。一方で新聞記者と外務省の女子職員が糾弾、逮捕された。結局のところ米国に押し切られたわけで、おそらくその時を境に、日本は核の傘で守られているという奇妙な言い訳が大手を振って歩き始めたのではないか。沖縄に核が「仮に」あったとしても、それは日本を守る為の配備だという、苦しい説明です。
そしていまでも、沖縄には核がある。そう信じるべき根拠があります。それは民主党の鳩山政権の時に、沖縄から基地をなくしたい、せめて県外に移したいという公約をした時に、鳩山由紀夫が、米国と話し合った途端に、意見を翻したことがあったからです。しかもその公約違反が、その後の民主党の凋落の原因の一つにもなったのです。
これは私の憶測ですが、その時鳩山は米国からこう言われたのではないか。「本州に基地を移すのは構わないが、そうなると、沖縄の核兵器も本州に移すことになるがそれでも良いのか」と。
現自民党政権も沖縄の基地を必死に守ろうとしている。地位協定も他国に比べると著しく不平等です。それでもなお沖縄に基地を残すことを、政府が言い張り続ける理由はたった一つしか思いつかない。それが沖縄の核の存在です。
しかもそこには絶妙なレトリック(言い回し)がある。沖縄に核があれば、それが日本侵略、或いは攻撃への暗黙の抑止力になるというものです。日本には非核三原則がある。その中に「持ち込まない」があるが、米軍の基地なら、国内にあっても治外法権として言い逃れが出来る。しかもそれが日本の安全保障にもなるという都合の良い理屈です。そのうえで、せめて本土ではない(これは沖縄には大変失礼な事なのだが、本土の人間の本音がちらちら見えるからこそ、沖縄の人は一層反発しているのではないか)という事を、非核三原則の言い訳にしているのではないか。
ということは結局日本には核がある。だがおそらく韓国の米軍基地に核はない。中国にあまりに近すぎるからです。しかし日本に核兵器があれば、既に核武装している中国はともかく、北はおちおちしていられない。なぜなら米国と未だに交戦状態にあるからです。そのうえ、事実上、「日本」から核ミサイルが飛んでくる可能性を否定できないとなれば、必死になって核開発をすることになるのです。
ではなぜ、中国の核に守って貰おうとしないのか。そこに北の最近の行動を読み解くカギがあると思います。即ち、それは習近平の潔癖さです。習近平は独裁者です。しかもその基盤を着々と進めている。それでも私は少なくともトランプはもとより、プーチンよりも評価しています。一つには政治と行政の汚職に対する厳しい姿勢があります。
次に、しかもこれが何より凄いのは、後継者を公選で決めようとしていることです。無論大統領選挙のようなことを考えている訳ではなく、数名の候補者から選ぶのでしょうが、そこには直接民主主義への希望の光がかいま見えるのです。ところが金正恩にはそれがない。兄弟さえ、自分お権限を守る為に暗殺することを辞さない。自分の王朝を守ることにしか関心がないのです。それは最早人民共和国でさえないのです。
習近平が金正恩を嫌っていることは金自身にもよく分かっている。だから一度たりとも中国には行っていません。下手に行けば暗殺されかねないと疑っているからです。中国を敵に回した以上、自力で核開発するしかない。無論、中国の代わりに、同じく国境を接するロシアが色気を出していることはご承知の通りです。
という事は、中国に問題解決を任せるというトランプの方針には無理があるということです。力で何とかしたのなら、より粗暴なロシアに頼む方が未だましなのです。中国は、金正恩は嫌いだが、自分で手を下すことも出来ない。また統一で朝鮮半島が自由主義国になるのも避けたい。となれば解決は一つしかないのです。金正恩を退任させ、東西のバランスの中でうまく立ち回れるような人物を後釜に据えることです。即ち政権交代です。
面白いことは、いま北が一番頼りにしているのは、実は米国だという事です。北の出している条件は、核を持つことと、金王朝の安堵です。だから6か国協議では、核開発は脇においてでも、どうすれば北の政権を交代させ、民主的な(共産党の一党独裁であれ)政府と体制に移行させられるのかを、議論するべきなのです。そこで非合法な手段を使うかどうかも
議論の俎上には乗るでしょう。
しかもその前にするべき事があります。それは日米韓のトップが、国民に支持される人物に交代することです。民意を代表していないトップの決定など、いつ覆されるか分からないからです。まして米国と日本の代表は、そろそろ政治生命の余命がつきそうになっているのです。
なおお読みなったかもしれないが、週刊朝日に掲載された、田原総一朗の提案を紹介します。日本政府も努力はしたと述べられていますが、ではなぜ相手にされなかったのか。某首相が国際舞台で評価されておらず、あれだけ金を使っても交渉の相手にもされないのはなぜか。ということは人間的にも余り信頼されていない可能性があるのではないか。とりわけ依存しているトランプこそ、本音は別にあるのではないか(適当に相手しておけばいい)。仮に信用もされず、したたかでもない人物が首相だとしたら、日本に将来は無いのではないか。そういう視点が田原のコラムでは欠けているように思います。
関連記事。田原の提案。
http://wtw.xsrv.jp/indexsekai969.html
関連記事。対北朝鮮で当事者能力ない日本。幻に終わった対話の提案。
http://diamond.jp/articles/-/142175
972.関ヶ原とダンケルク 17/9/15
今日は映画の話題です。
まず邦画の「関ヶ原」です。主役は岡田准一で役どころは石田佐吉(光成)、敵役は当然徳川家康(役所広司)です。原作は司馬遼太郎とあるが、原作を読んだ人が、果たしてこの映画から、どれだけ原作を思い出せるでしょうか。「坂の上の雲」ほど長くはないが、それでも文庫本で3巻あり、それを2時間に詰め込むのだから無理もあったでしょう。
その結果、司馬文学で一番大事な抒情性がかなり薄くなっています。但し、戦闘シーンは邦画ではあまり見られない程、リアルに出来ています。しかも処刑シーンを含めて、凄惨さは最小限度に抑えられています。戦の場面で、槍を構えた雑兵同士がもみ合うシーンでは、獅子奮迅でも、スマートでもなく、押し合いへしあいしている様子が、多分、実際の戦もこんなものだったのだろうと思わせるものがあります。
私達が知っている史実には忠実ですが、女忍者との感情の交流などは原作にはないものです。朝ドラ「ひょっこ」の有村架純が早くもヒロインで登場しています。大作なので有名俳優が多数共演しています。原作と雰囲気が違うので、感動と言うほどのものはないが、見て損したと思うほどでもありません。可もなく不可もなく、という所でしょう。最大の不満は、佐吉が、何故そうまでして半分狂人のような秀吉に尽くさねばならないのかという疑問が残るという点でしょう。
次は洋画の「ダンケルク」です。何故題名がDunkirkなのに、ダンケルクなのかという疑問があります。映画の中でも(ちゃんと)ダンカークと発音していました。
言うまでもなく、第二次大戦のノルマンディー上陸作戦以前に、ドイツ軍に海岸線まで追い詰められた英仏軍の退却劇です。監督が徹底的にリアリティにこだわった結果、実写がふんだんに使われています。いわゆるCGらしいシーンは殆どありません。また戦争映画ですが、流血シーンも殆どありません。
これは70oのモノクロで撮影した「史上最大の作戦(ロンゲスト・デイ)」と同じ手法です。戦争の凄惨さを過度に描かずに、むしろ淡々と事実を並べることで、戦争の悲劇と不条理を間接的に訴える手法です。同じノルマデンディー上陸作戦を取り上げた映画に、トム・ハンクスの「プライベート・ライアン」がありますが、こちらの映画は悪い意味でもリアルでした。
撤退作戦である以上、船が必要です。海岸(砂浜)の上空にはドイツの軍用機が舞っています。敗走兵の数は3万と見積もられていたが、実際には30万以上でした。そんな人数を運べるだけの数の艦艇が英軍にはありません。兵士たちは砂浜に列を作ってひたすら乗船の順番が来るのを待ちます。しかし遠浅の砂浜なので大型の船は接岸できない。従って1本しかない桟橋を破壊されたら、それまでです。
歴史映画では、事実をベースにすることがお約束ですが、史実だけをエピソードとして並べるだけでは散漫になって(史上最大の作戦のように)ストーリー展開としては弱くなります。そこで「ダンケルク」では、観客を飽きさせないように、三つのストーリーを縦軸に編み込んでいます。
第一のストーリーは、戦場からやっとの思いが海岸まで逃げてきた、仲間のいない英国の兵士と、海岸で一緒になったフランスの兵士が、何とかして帰還船に潜り込もうと四苦八苦する話です。二番目は、英国政府から徴用され、ドーバー海峡を越えて英国兵の救助に向かう遊覧船の船長一家の物語です。最後は、燃料の少ないスピツトファイア戦闘機で、英国の退却船を、ドイツの戦闘機や爆撃機から守ろうとするパイロットの話です。リアリティにこだわる監督は、空中戦のシーンでは実機を飛ばしています。
この映画では戦争の恐怖を音響で表現しています。鋼鉄の船体を突き抜ける銃弾の金属音。戦闘機の機関砲の腹に響く低音。艦砲射撃の音では座席が揺れます。なので大きな音が苦手な人は耳栓を持参した方が無難です。私も映画館には必ず持参しています。音楽はなく、背景には、チクタクという時計の音が流れます。
そのうち様々な批評が出るでしょうが、私の印象は、敗走する側から描いたという点でユニークな戦争映画であり、思い入れと脚色を極力排しながら、英国人の勇気を称える映画になっていると思います。おそらくアカデミー賞の候補にはなるでしょう。
戦争の悲惨さ、戦い、或いは逃げ惑う人間の醜さ。時に示される勇気と思いやり。
剥き出しの人間性の浅ましさは、敗走シーンで如実に表れます。それは戦争の持つ悲惨さ、醜さでもあります。
それにつけても思うのは、南方戦線で日本軍が絶望的な戦いを強いられたときには、退却さえ許されなかったという事です。応援はおろか、補給さえない。退路は想定されていなかったのです。
兵士を消耗品と見るのか、国民と見るのか。帝国陸軍は前者であり、英国軍は後者だったのではないか。だからこそ、負け戦のダンケルクの撤退劇を、救出劇と見なして一つの勝利だとチャーチルは評価したのです。ここで起きるのは、ならば日本軍だったらどうしただろうかという素朴な疑問です。実際にどうしたのかは後で述べます。
自民党政権は、第二次大戦の総括を意図的に避けてきました。その結果、もし現在の自衛隊のどこかに、旧日本帝国軍の思想が受け継がれているとしたら、それは由々しき問題だと思います。安部も小野寺も、自衛隊のトップも、この映画を見るべきなのです。退却さえ許されず、無念の内に死んでいった多くの兵士の事を思い出すきっかけになると思うからです。靖国に、謙虚な気持ちもなく、形ばかりの参拝をするよりは、遥かに意味のあることだと思います。
そして満州では何があったか。形勢不利と見た関東軍は、自分たちが最初の列車に乗り込み、或いは戦場を離脱し、しかも後から敵が追って来れないように橋を爆破したのです。でもその先には逃げる手段のない、多くの開拓民が取り残されていたのです。自分達だけがいち早く逃げ、市民には逃げ道さえ残さない。それが帝国陸軍の正体なのです。
だからこそ、日本の国民は戦争放棄と武装放棄を明記した平和憲法を支持してきたのです。そこには多くの国民に、生々しい戦争の辛い思い出があったからです。ところが戦争の悲惨さを、祖父(岸)から聞くこともなく育った某首相は、武装を正当化し、それを自由に使えるようにするための、憲法改正に躍起になっています。戦争を知る者にとって、誰が本当の非国民かは言うまでもないのです。
上記の二つの映画に共通して言える事があります。それは戦争とは、所詮格好の悪いものであり、勝っても負けても良い事はないという事です。それを西部劇で証明して見せたのがクリント・イーストウッドの、「許されざる者」でした。撃ちあいや殺しあいが、いかに虚しく、惨たらしいものかを端的に表現した秀逸な作品です。この映画も、央安倍内閣には是非見てもらいたい映画です。
関連記事。憲法70年。まっとうな筋道に戻せ。朝日社説。
http://www.asahi.com/articles/DA3S13131646.html?iref=comtop_shasetsu_02
973.スピナー 17/9/16
今日の前書は、息抜きを兼ねて、政治や業界とは余り関係のないお話です。
私も職業人生の大半は、サラリーマンとして過ごしました。サラリ―マンとは勤め人、または勤労者を指す、上から目線の言葉です。略してリーマンと言われることもあります。
サラリーマンは、通常大きく二つに分類されます。大学で経済や法律を学んで入社する事務系社員と、理工学部出身の技術系社員です。理工系の事務屋もいますが、文科系の技術者は多くはないでしょう。但し、コンピュータ・サイエンス、特にシステムエンジニアに関しては、理数系だけでなく、文科系(経済・経営工学など)の出身者も数多く見受けられます。私もかつてはその一人でした。
事務屋の仕事は、身体より、頭と手を使うデスクワークです。典型的な例が、経理、会計、宣伝、広報、総務などです。おおざっぱに言えば、接客業の営業も事務屋です。一方で、技術者でも開発や設計ばかりではありません。製造現場の工場も、技術者のテリトリーでしょう。
事務屋のデスクワークは、労働疎外を引き起こしやすい分野です。しかも文房具については、それが日常の道具でもあるので、勢い関心が高くなります。
小はシャープペン、消しゴムから、大はコピー機からコンピュータまで様々な文房具、事務機があります。その中で、なぜかいま流行っているものが、役に立たない事務用品。いわば暇潰し道具です。ストレス解消ツールです。今回はそのいくつかを実物の写真と共にご紹介します。
最初の写真は、スピナーです。スピン、即ち回すだけのもので、それだけが目的です。なぜこのようなものが世界で流行るのか、その理由は未だに分かりません。中心部の丸い部分を親指と中指でつまんで、角の部分を人差し指ではじき、どれだけ長く回転が続くのかを競います。机の上に水平に置いたまま、指で弾いても構いません。
軸の周りに小さいベアリングが入っているので、回転時間は結構長く、短いものでも90秒、普通の製品では3分前後、最も長いもので7分弱というところです。回転の摩擦が小さく、周辺重量が重い方が、回転が長持ちするだろうことは、誰にでも想像がつきます。なお市販されているものの多くは中国製で、価格も500-700円といったところです。
何事も究めずには気が済まない日本の中小企業が、限界に挑戦しました。ベアリングを改良した結果、12分を達成したとのことです。その代わりコストも掛かり、売値は17万だそうです。誰が買うのか知りませんが、暇潰しには高すぎます。
写真の上段のものは、角が3つあるもので、左はアルミ合金、中央はLEDが点灯するもの、右はただ回るだけのものです。下段左は、角が二つの真鍮製で重量があります。中央は赤と青のイルミネーションが点灯します。但しイルミネーションを内蔵した製品は、電池交換は出来ません。だから使い捨てです。下段右の製品は、殆ど円形ですが、この中では一番長く(6分近く)回りました。なるほど回った。でもそれがどうした?と言いたくなりますが、実はどうもしないのです。
お次はサイコロを8個つなげたようなブロックです。個々のブロックは隣のブロックとヒンジでつながっており、展開したりまとめたりします。名前はインフィニティ・キューブで価格は500円です。ややずっしり感もあります。但し出来る形は限られます。
三番目はフィジェット・キューブと言う名前の製品です。これはサイコロの5面(底には何もない)に、いかなる機能も果たさないスイッチやノブを配置したものです。トグルスイッチはシーソ−するだけです。円盤は回転するものと、スライドするものがあります。5つのポッチは、クリックするものとしないものがあります。考え中に何となく指先でいじるもので、これに近いものはエアー・キャップ(プチプチ)でしょう。そう言えば昔、万年プチプチという製品もありました。キューブの価格は1000円です。
集中する時や、ストレスを開放する時に為の小道具なら、使うのは事務屋に限る必要もないでしょう。今日の雑学でした。
関連映像。スピナー。
https://www.buzzfeed.com/jp/yuyayoshida/handspinner?utm_term=.bxnK8ElXe#.hpAD2Q5XK
関連記事。インフィニティ・キューブ。
http://xn--u9jziobw442azgd.net/0706_infinity_cube/
関連映像。フィジェット・キューブ
http://xn--q9jb1h748y.com/?p=5105
関連映像。無限プチプチ。
https://www.youtube.com/watch?v=fnPpJqZG6eg
974.この世界の片隅に 17/9/17
アニメの「この世界の片隅に」がビデオ・リリースされました。劇場で見損なったので、早速レンタルして見ました。のん(あまちゃん)の吹き替えが評判になりましたが、それは主役のすずの性格に能年の性格がアーバーラップするものがあったからだろうと思います。キャラも背景も、高畑勲のかぐや姫を連想するようなパステル調です。広島で育ち、絵が得意で、苦労も、深く考える事もなかったすずが、親が決めた呉の、海軍の職員に嫁ぎます。夫は人が良くまじめです。
戦争は庶民を巻き込み、国民の生活も、日増しに厳しくなってきます。軍港である呉への空襲は日ごとに苛烈さを増し、すずも負傷します。そしてとうとう8/9に山の向こうにきのこ雲が立ち昇ります。
戦争の悲惨なシーンは最小限度にし、恨みも悲惨さも極度に抑えられています。だから、「戦争を知らない世代」にも受け入れられ易いのではないかと思います。
この映画はクラウド・ファンディングで資金を調達しています。なので、エンドタイトルに出資者の名前が並びます。多分この映画で最も重要なのはこの部分ではないでしょうか。
即ちこれだけ明確な「反戦」映画に、ヒットするかどうかも分からないのに、大勢の人達が投資したのです。結局ヒットしたので出資者には何らかの見返りがあるのだろうと想像しますが、仮にヒットせずに、投資が戻ってこなくても、この大勢の投資者は、騙された、損したなどとは思わなかったのではないでしょうか。
私はそこに日本人の平和に対する強い思いを感じるのです。
絵がジブリの画風に似ていることと、何よりこの映画が、高畑監督の「火垂るの墓」を連想させずにはおかない作品であることを思えば、安倍政権と日本会議こそ、この映画を見るべきなのです。
975.経済的格差 17/9/17
大雑把に言えば、3割の国民は貯金がなく、年収が300万以下です。子供の貧困率も高い。経済格差が広がっていることは誰でも知っている。でもその実態は誰も知らない。なぜなら政府も、諸官庁も、その点については極力触れないようにしているからです。
例えば、庶民の月収が30万として、ならば富裕層はどのくらいか。100万なら中堅企業の部長クラスで、大したものとは言えない。おそらく少なくも月収200-300万、多くが500万と-1千万の間、即ち年収5千万から1億だと思います。
いかに家族が多くても、月に500万は使いきれない。では余った金額はどうなるのか。金融相に何度再投資され、さらにそれが利潤を生むのです。しかも彼らは節税のプロです。これは富裕層にとっては好循環なのですが、収入がぎりぎりで、ハンド・トゥー・マウスの生活を続けている我々庶民には、再投資の余裕などなく、一度、けがや病気でもすれば、収入より支出が上回る、負のサイクルに落ちることになります。ぎりぎりの人が増えれば増えるだけ、消費が減るのは当然なのです。しかも使える人が、減った分をカバーすることはないのです。なぜなら一人が消費できる量は決まっているからです。必要以上の消費は不要な支出です。従って少数の人を、使い切れない程富裕にするよりも、例え少なくても、全体を底上げして、まともな生活水準をまんべんなく全体にいきわたらせる方が、全体の消費は増えるのです。
貧困層を中間層に引き上げ、中間層にはもっと生活に余裕を持たせる。富裕層の使いきれない分はカットする。それが日本経済を、デフレから救い出すことにもなり、富裕層だけでなく、日本全体を好景気に、また好循環にするのです。
その為には、少なくとも支出が収入を上回ることがなく、健康で安全で後ろめたくもない生活を送れるだけの、収入(と支出の)仕組みを考える事です。与えるという意識の生活保護ではなく、国民としての取り分、ベーシック・インカムの方が良いのです。この二つは似たように見えても、施しと権利の違いが大きいのです。胸を張って使えるものか、そうではないのかでは天地の違いがあるのです。そういう意識と構造の切り替えが、結果的に国民全体の消費を増やし、GDPを上げ、国全体を豊かにするのです。
経済格差があって良い事は一つもないのです。その最たるものは、底辺を中心に、社会に不満が鬱積することです。しかも資産が偏在することから、投資が少数者の判断に依存するので、経済が滞るのです。しかも給与が減り、可処分所得が少なくなるから、消費が減って、消費不況になるのです。小泉政権時代に、経済担当の閣僚だった竹中平蔵が、格差がある方がやる気を出すので経済が活性化する、そもそも無能な者が、有能な者にただ乗りするのはけしからんという無茶苦茶な理屈を言い出して、格差政策を実行して、その結果何が起きたか。活性化は愚かデフレになったのです。しかも未だに経済界に居座っていて、自分は正しかったと言い続けるばかりか、諮問委員でありながら規制対象の企業(パソナ)に籍を置いていたこともあります。最近では加計学園の検討委員で、委員会の判断は正しかったことを言い立てるなど、もう学者どころ人間としても害虫レベルです。
アベノミクスの本質も格差拡大にあります。従業員は企業のおこぼれをもらえという、これ以上勤労階層を馬鹿にした政策はないのです。しかも金融拡大で景気を支えるという政策自体が、完全に行き詰まっており、しかも出口は見えないのです。これ以上、日本の経済・財政を、安倍、麻生、黒田、竹中らに任せておいたら、本当に日本は沈没するばかりなのです。モリカケは政治家(しかも国のトップ)が友人の為に便宜を図ったという汚職であり、倫理的な問題というより、もはや立派な犯罪なのです。即ち特捜の案件ですが、なぜか特捜は動きません。アベノミクスは、全国民が影響を受ける、更に重要な問題なのです。一日でも勤労階級を早く政策を転換させる必要があり、安倍政権が退陣する必要はここにあるのです。しかもこの経済政策の「失敗」を最終的に負担するのは、既に一人当たり1千万近い借金を背負わされている国民、一人一人なのです。
ついでに言いたいのは、安倍政権が強行成立させたカジノの問題です。貧困層の生活を直接脅かす競馬・パチンコ・麻雀といったギャンブルの存在です。何故庶民がギャンブルに走るのかと言えば、それが浮世の憂さを忘れるための、刹那的な娯楽であり、あわよくば苦労せずに金が手に入るかもしれないという、一挙両得を期待させるからなのです。そもそもギャンブルに依存するような生活は、既に破たんしているのであって、たまにはギャンブルでも楽しむかという付き合い方は、富裕層の発想です。
貧困層はギャンブルで破滅する。でもギャンブルで破たんした富裕層の話は殆ど聞きません。だからカジノを含むギャンブルは、底辺の経済生活をさら圧迫するだけの仕組みなのです。政府の描く総合リゾートなるものは、結局のところ、富裕層による富裕層の為の特権的なレジャー施設に過ぎず、日本の観光収入に取ってプラスかと言えば、決してそうではないと思います。それは訪日客に、訪日の理由と目的を尋ねてみれば、すぐに分かるのです。カジノの構想は、日本の観光の本質とは相いれない、現実から遊離した構想なのです。という事は巨大な施設を作っても、いずれ廃墟になることを意味しています。実際にそういう例が海外でもあるのです。それも、ギャンブルにおける麻薬性と自滅的な人間の心理という、不健全でダークな要素が無視されているからです。
日本では公金を横領してまで、ギャンブルにつぎ込んだという話をよく聞きます。その理由は本人がギャンブル依存症だからではなくて、もっと切実なものがあるからです。即ち、もっと儲ける為でも、楽しみたい為でもなく、手っ取り早く穴埋めしたい、負けを取り戻したいからなのです。スリルを味わうという気持ちの余裕などないのです。
でも確実ではないから(リスクを伴うから)ギャンブルが成立するのであって、そこに確実な利益を求めるという行為に矛盾があるのです。あり得ないはずの確実性を信じるが故に、結果的に100%破綻することになります。勝ちに上限はなく、負けには下限があります。だから手持ちの資金が底をついて、賭けるものがなくなるまで続けるのです。そこになんらかのスリルがあったとしても、それは負ける時の冷や冷やするようなスリルだけなのです。
そのあたりの心理や仕組みを、萩生田、安倍といったカジノ推進派は分かっていないのです。儲けるためではなく、負けを取り戻すために賭けのです。だからこれは引き際の無い、中毒性の高い破滅型の娯楽であり、その為の産業なのです。もっと言えば、私はいまのゲーム・ソフト産業も中毒を期待しており、現金を掛けないものの、人間性の負の側面に依存した不健全な業界だと思います。掛け金で経営する代わりに、ソフトの代金とオンライン課金で稼ぐ構図です。習慣性に期待しているという点では、両者に変わりはないのです。
安倍政権は、不健全極まる、あってもなくてもどころか、無い方が確実に良いカジノ法案を強行採決することで、将来、多くの自己破産の、中には自殺を含む犠牲者を、構造的に量産することを約束したようなものなのです。
これはギャンブルというものが持つ基本的な性質なのです。たまに運を試すというくらいに気持ちに余裕のある人間なら、他にいくらでも、しかも健全な娯楽はあるし、そちらを選ぶでしょう。
合法的ギャンブルは、賭け事を唯一の娯楽とし、あるいは勝つことを夢見るような心の貧しい(失礼)、或いは荒んだ人達を構造的に作り出し、顧客(利用者)となる多くの人の生活を破壊するだけに留まりません。なぜなら、カジノという新産業で働く、即ちそこで糧を得る人間も作り出すからです。一見景気が良いように見えても、何一つ生産することのない産業です。それは旅館業を含む、観光業に近いと思うかもしれません。でも旅館に泊まったからといって、明日から生活に困る、或いは路頭に迷うという事はないのです。
関連記事。孤独死、地域の独自対策進む。貧困層の拡大で増加。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170916-00000021-mai-soci
コメント:憲法は生存権を保証しているのに、政府は福祉の負担ばかりを言い立てています。他には税金を全く使っていないかのような口ぶりです。税収の7割を福祉に使っでもいいのです。消費した費用が、税として還流されるからです。
976.疑惑隠し解散 17/9/18
最初に訂正させて頂きます。以前BSフジのプライム・ニュースをフジサンケイ・グループとしてはまともな番組だと「うっかり」紹介してしまいましたが、それはその時にたまたま石破と前原が出演したからであって、その跡のゲストが櫻井よしこ、加藤厚労相と続くに及んで、超保守の体質に変わりはないと思うようになりました。なのでリベラルな国民が見るのは時間の無駄だと思います。
ところで強引な解散に打って出る安倍首相。北朝鮮の状況を見れば、解散どころではないのに、どこまでも自分の立場だけを優先する自己中ぶりは幼児以下、もはや病気です。ところでなんで内閣支持率は読売しか公表しないのでしょうか。それが安部政権の解散の唯一のよりどころなのです。しかも自民、民進、国民ファ、維新を含めて全部保守っておかしいでしょう。それともリベラルは全員共産党に入れよとも言うのでしょうか。
関連記事。自己保身解散。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20170917-00000032-ann-pol
関連記事。公明、解散容認の構え。
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO21237030Y7A910C1PE8000/?dg=1&nf=1
関連記事。戸惑う地方。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170917-00000058-mai-pol
関連記事。諸刃の安倍特区。国なぜ隠す。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201709/CK2017091702000115.html
関連記事。日朝首脳会談から15年。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201709/CK2017091702000123.html
国会を3カ月も開かず、開くと思ったら解散。国会での審議も質疑もなし。結局半年近くも国会の機能を停止させる。これが民主主義政治の国の首相のすることでしょうか。
孔明を含めて、右傾化した野党には何も期待できません。ならば私たちが、自分の手で何ができるかを、真剣に考えなければならないのです。
今回の衆院選が、独裁者から国民の手に民主政治を取り戻す。最後のチャンスなのです。
977.大儀なき解散 17/9/19
加計理事長はどこに消えたのか、また誰もその行方を探せない(探そうとしない)のは何故でしょうか。ぞの一方で、実にタイミングよく、山尾を幹事長の座から追い払えたのはなぜか。週刊文春に質問したい。本件の基本的な情報は誰からもたらされたのか、またそれは何故今なのか。前川のキャバクラ事件と読売の報道を思い起こして頂きたい。後をつけてみると面白いことが分かるぞと、誰が誰に耳打ちしたのか。
安倍首相が疑惑を逃れ、五輪まで首相職にしがみ続けるために、国や地方行政があらゆる情報や便宜を、忖度の名のもとに提供しているとしたら、日本はもはや法治国家でも国民主権の国でもありません。権力者は法を犯しても罰せられることはなく、記憶にないで済んでしまうが、一方で。権力を批判し、逆らう者は、ありとあらゆる手段で抑え込み、駆逐する。とりわけその傾向が顕著なのは官房長官です。安部政権の為に、手段を選ばない人物だからです。
更に、大本営発表のNHKの存在があります。まさに政府御用達の、公共ではなく、国営の放送局。もはやNHKの料金と国税の不払い運動が、いつ起きてもおかしくない状況にあるのです。
安倍首相を擁護し、かばうような一連の動きの中で、行政が一役買っていないと誰が断言できるでしょうか。そして、行政の長は安倍首相です。仮にではあっても、自身の依怙贔屓の責任逃れのために、関連行政機関を動員し、忖度させているとしたら、それこそ戦後政治で最大の政治的腐敗で在り、国民の負託に対する裏切り行為なのです。
それはもはや私物化で済まされる問題ではないのです。日本の司法も行政(警察)も、報道機関も、ある特定の人物の権力維持のために使われるというのは政治の暗黒状況です。
逆手を取って言えば、今こそ憲法の改正が必要なのかもしれないのです。それは自衛隊を合憲にする為ではありません。首相と最高裁判事とNHK会長を公選制にするためです。多数の議席を背景にした政治の暴走と不正を、どこかで食い止める仕組みが必要なのです。そして国民が独自に政治家を訴追できる仕組みです。
安倍首相の口先だけに騙されるとしたら論外ですが、皆が皆、物言わぬ国民でもありません。少数ながらリベラルなメディアも残っています。いま日本という国がその形を留めるために必要としているのは、既存の政権に万事お任せする人たちや、盲目的に自民党なら間違いがない(どこが)と思っている人達ではなく、政治を変えないと日本は駄目になるのではないかと思い始めている人達です。おかしいことをおかしいと感じるだけ常識を、抑え込んでしまわない人達なのです。
ところで簡単な予言をしてみます。また北がミサイルを撃ってくる。今の政府は次の政府が決まるまでは暫定政府として機能するでしょう。でも外国は3か月しか在籍しなかった大臣に驚くことでしょう。日本はなんちゅう国かと思うでしょう。
核弾頭ではなく、通常弾頭を装備し、或いはダミーを積んだミサイルが誤って国内に落ちて山火事でも起こしたとします。すると安倍首相は何と言うでしょうか。Jアラートは出した。逃げない国民が居たのは残念だと言うでしょう。即ち、どう考えても咄嗟の役に立つとは思えない(しかも誰もそれを批判しようともしない=ホリエモン以外には)Jアラートは、政府の言い訳の為にあるのです。ミサイルが飛んできたら、政府に打つ手はないので、どうぞてんでんばらばら(てんでんこ)に逃げておくれやすと言っていると同じなのです。
内閣改造で支持率が若干ながら改善した。普通ならこのまま最低でも年末まで行けるはずだった。でもとにかく国会を開きたくないという首相の強い思い=首相職を続けるより、家族の名誉が大事、がある。自民党内部でも、もはや安倍政権はそう長くは持たない、なぜならモリカケ問題を回避する方法がないし、これ以上国会を引き延ばすことも出来ないから。かといって国民は都合よく忘れてくれそうもない。ならばポスト安部を念頭に、早く見切り発車した方がよい。さもないと都議選の惨敗と国政選挙で繰り返すことになる。ならば選挙は野党が虫の息の今しかないという思惑があったとしか考えられないのです。
そこで利害が一致した。安倍首相にとっても、選挙の結果によっては、続投の芽が全く無い訳ではない。そして伝家の宝刀を「自分の為に」抜いたのです。この一連の自民党の動きの何処に、国民や民意が存在しているというのでしょうか。
人間としてあまりに不完全(よく言えば未完成)で正義感も責任感もない人は、決して首相などになってはいけなかったのです。その結果21世紀の日本に、6年間の民主主義の空白(即ち独裁政治、但し第一次安倍内閣を除く)が出来てしまったのです。
私は籠池も、加計も、むしろ安倍(腐敗)政治の犠牲者だと思っています。特に加計理事長は、もはや出たくても、出られない状況に追い込まれていて、一種の軟禁状態も限界に達しているはずです。
今回の選挙は何を問う選挙なのでしょうか。まさに自民党の為だけの、大義の無い、解散と選挙ではないでしょうか。
関連記事。透ける疑惑隠し。朝日。
http://www.asahi.com/articles/DA3S13138662.html?iref=comtop_shasetsu_01
関連記事。大儀より加計隠し。西日本。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/politics/article/359458/
関連記事。公明党も懸念。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017091700490&g=pol
関連記事。山本一太、解散に懸念。首相は説明責任。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201709/CK2017091802000137.html
関連記事。訪米の帰国後に判断。臨時国会くらい開けと前原。
http://www.asahi.com/articles/ASK9L5SNKK9LUTFK009.html?iref=comtop_8_01
978.ミニドローン 17/9/19
小さい頃、原っぱでラジコン機を飛ばしている大人を見て、とても羨ましかったことがある。われわれ小学生はと言えば、紙飛行機(グライダー)か、せいぜいがゴム動力の飛行機(木と紙)を飛ばすのが精いっぱいだった。それでさえ、翼の取り付け角度がうまくゆかずに、一方向だけに急旋回したり、重心の取り方や、翼のカーブがいい加減で、すぐに墜落することも多かった。紙と木でできているので、墜落すればまさにクラッシュ。たとえ修理できても元通りになることはなかった。
ラジコンのほかに、Uコンというものがあり、これは一方の翼の端に、2本のワイヤーを取り付け、ワイヤーの反対側の端についたハンドルで、機体の向きを(但し上下のみ)を操作し、自分を中心にして円状に飛行させるものだった。そのほかにラジコンは積まず、尾翼に導火線を仕掛けておき、一定時間飛行したら、尾翼が跳ね上がって、飛行を中止し、ゆっくり落下してくるという仕組みもあった。これはコントロールと言うより時限飛行だ。Uコンの原理は、今ではゲイラカイトのコントロールに使われている。
当時に限らず、現在でもラジコン機、特にエンジン機となれば、ヘリは論外としても、固定翼機でも、費用と複雑さで、到底子供の手の届くようなものではない。そこでしばらくして登場したのがニッカド充電池であり、その後のリチウムイオン電池である。乾電池の代わりに容量の大きい充電池が普及し、ラジコンカー、ラジコン飛行機の動力がレシプロエンジン(音もうるさかった)から電気モーターに移行したのである。祖知れラジコンカーが一気に普及したのである。
昔もラジコンカーはあったが、ごっついガソリンエンジンを積んだもので、子供の手に負えるようなものでなかった。でも充電池とモーターと、軽いプラモデルの車体を組み合わせた、ラジコンカーが登場したことで、レースも様変わりして、子供たちの参入も容易になった。それ以前にミニ四駆がある。既成のサーキットに自分の車体を持ち込み、軌道から電気を供給して、結構な速度で走るミニカーのブームである。我が家の倉庫には子供が遊んで置いていったミニ四駆が今でも残っている。但しラジコンカーはそれよりはレベルが高い。
今は子供の趣味と言うかホビーは、ビデオゲーム(主にスマホで)が主流だが、自分でも初期のドラクエを何版かクリアしてみて、結局ラスボスを倒しても、満足感はなく、虚しさだけが残ったという記憶がある。その観点で言えば、自分で組立てて、改良し、操縦するラジコンやミニ四駆の方が、遥かに想像力と創造力、そして科学の基礎を学ぶのに役立つと思う。
自分でも、ラジコンカーを何台か試したのだが、電気モーターは結構トルクがあって、その分発進時の動きが唐突なので、コントロールが難しい。そこで今は、動きがより緩慢なフォークリストで練習中である。それに慣れたら、戦車に移行する計画である。但し反射神経に自信がある訳ではないので、ラジコンカー・レースにはあまり興味はない。
話を飛行機に戻すと、成人し、結婚して郊外に引っ越した当時、周囲が畑だったので、念願のラジコンカーを飛ばそうと思い立ち、初心者向けのラジコン機を購入した。無論電動機である。既製品なので、最初から飛ぶように設計されている。だから直ちに飛び上がり、安定した飛行に移るが、模型とは言え、飛行機は飛行機。時速40キロくらいは出るので、とりわけ反射神経に問題の多いこちらでは、コントロールが間に合わない。あっという間に電柱に衝突して、その余りにも短い一生を終えたのであった。
その時からラジコン機は諦めていたのだが、最近になって、4つローターの付いたヘリ、いわゆるドローンが登場すると、また(悪い)虫が騒ぎ出した。4つのプロペラがついているのだから飛行も安定するはずだ。しかもヘリの本質はホバリングにある。で性懲りもなく購入したが、これまた失敗とあいなった。
何が問題かというと、リモコンの左右前後レバー(ラジコンカーなら左右だけ)で姿勢を安定させることが至難の業なのだ。右に傾くので、左に向かせようとする左に一気に滑り出す。これが4方向で起きるのだから、手も頭も大混乱だ。しかも飛行機は(鳥も魚も)3次元で動くので、上下方向もコントロールしなければならない。これがまた加減が難しい。上昇させようとすると、ビューンと飛び上がって、天井や木の枝に激突する。あわてて下降させれば、地面に叩きつけられる。これでは機体も、こちらの神経ももたない。で、諦めた。
諦めたつもりだったが、ごく最近、画期的な、時代を変えるようなドローンがあるという記事を読んで、またよろめいた。いつまでも凝りないのだが、これが本当に最後だと自分に言い聞かせて、アマゾンで注文したものの、その後防災訓練だ何だと忙しかったので、1ト月ほど放っておき、今日初めてスイッチを入れてみた。
箱の中には、本体と充電用のUSBケーブル以外には何もない。箱に絵が描いてあるのに、リモコンさえついていない。、ネットのサイトのURLを記した紙片がついているだけ。これで7000円は高いと思ったが、気を取り直して、スマホでQRコードを読んで、指定のサイトに飛び、ソフトをダウンロードした。そのソフトも英文表記だ。
一応充電してある本体の電源スイッチを入れ、スマホをリモコン端末に見立て、とりあえず上昇の矢印を押してみた。すると勢いよく飛び上がったので、一瞬ひやりとしたが、天井から1mのところでピタリと静止したではないか。これまで充電式のミニコプターも何機か試しているが、何もしないのに、空中で静止できたのは今回が初めてだ。内蔵のセンサーとコンピューターでコントロールしているのだろうが、そんなものは、これまでの模型には無かったものだ。とにかくまだ操作方法も良く分からないので、空中で捕まえて、電源スイッチを切るという原始的な方法で対処した。
関連記事。
http://japanese.engadget.com/2017/08/31/cheerson-cx-of/
このCX-FO(エフオー)は、スマホとWiFiで接続している。ドローンにはカメラが登載してあり、常時スマホに画像を送ってくる。スマホでその映像を、静止画、或いは動画として記録することができる。究極の自撮りが出来る。飛行時間もリモコン到達距離にも、制限はあるはずだ。問題点は、追ってご報告したい。他にも似たようなミニドローンが半額ぐらいで出ているが、当方では試験していないので自己責任でお願いしたい。いずれにせよ、以前なら夢のような機能が手軽に手に入るようになったことだけは確かなようである。7千円で買える最高の大人の玩具である。
979.ポピュリズムとは何か 17/9/20
私はポピュリズムとは単純に、衆愚政治の事だと思っていました。トランプを見ているとそうとしか思えないからです。でも多分それだけでは、十分な理解ではなく、トレンドを見誤る恐れもあるので、最近のベストセラー、水島治郎の「ポピュリズムとは何か」民主主義の敵か、改革の希望か、中央公論新社、から一部を引用して、一緒に勉強させて頂きたいと思います。
但し今回は同書の冒頭部分(第一章)のみのご紹介です。また、あくまで私が個人的に関心を持った説明部分の抜粋です。本書は詠みやすい新書ですので、原本をお読み頂くことを強くお勧めしたいと思います。
安倍首相と、自民党が信用を失い、日本でもポピュリズムが拡大する素地が出来つつあると思います。それが日本の未来にとって、良い事なのか、悪いことなのかを見極めたいと考えています。
大阪維新の会は、丹保におけるポピュリズムの顕著な例として、本書でも取り上げていますが、私の見方では、反自民、反民主で票を集めたものの、正体が親自民(橋下、松井)であることが分かって(という事はポピュリズムはまやかし)、少なくとも大阪以外では支持者が減っているという理解です。
その代わりに台頭してきたのが都議選で圧勝した小池知事の新党です。この新党をどう評価するかこそが、今の日本の国民にとって、最大の関心事のはずです。
しかも疑惑隠しの大義の無い解散のせいで、投票日までは1カ月しかないのです。
じっくり考える時間も、準備する時間も、国民にも野党にも与えない。それが安倍首相と自民党の卑劣な戦術です。私達に残された時間は多くありません。私が連日、それほど短くもないエッセイを書き連ねているのも、それが少しでも反自民、反権力のキャンペーンの足しになれればという思いからなのです。
私たち国民の一人一人が、小池新党が形を現す時に、ポピュリズムの本質を正しく理解して、米、英、仏で起きたような、ポピュリズムによるネガティブな反動や混乱を最小限に抑え、何が真に国民の為の政治体制なのかを真剣に考える必要があるのです。
なお今回の紹介の目的は、ポピュリズムとは何かを定義し、理解することにあります。
【以下引用】
「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる」
近年、先進各国でポピュリズムと呼ばれる政党や政治運動が躍進している。現代の日本では「大衆迎合主義」や「人気取り政治」とも説明されるポピュリズムであるが、特に民主主義の先進地域とされるヨーロッパで、ポピュリズム政党の伸長は顕著である。
これらのポピュリズム政党は既成政党を非難するとともに、外国人や移民の存在を問題視する排外主義的主張、EUに対する真っ向からの批判、メディァを活用して人々に直接訴える政治スタイルなどによって既成政党とは明らかに異なる存在感を示しており、従来の政党政治に飽き足らない無党派層の支持を集めることに成功している。
イギリスでEU離脱を問う国民投票で離脱賛成票が過半数を占め、イギリス独立党の年来の主張が、国民投票という劇的な形で果たされたのである。
本維新の会が2012年の総選挙で、自民・民主両党を厳しく批判して躍進した。
またアメリカ合衆国では、公職経験のないトランプが共和党の大統領候補者に名乗りを上げ、既成政治を正面から批判するとともに、メキシコ移民やイスラムを敵視する手法で瞬く間に支持を拡大し、大方の予想を覆し、ヒラリー・クリントンを下して当選を果たし、世界に強い衝撃を与えた。
21世紀の世界は、あたかも「ポピュリズムの時代」を迎えたかのようである。
本書の目的は、この現代世界で最も顕著な政治現象であるポピュリズムを正面から取り上
げ、解明を試みることである。
特に本書を通じて提起したいと考えているのは、ポピュリズムとはデモクラシーに内在する矛盾を端的に示すものではないか、ということである。なぜなら、本書で示すように、現代デモクラシーを支える「リベラル」な価値、「デモクラシー」の原理を突きつめれば突きつめるほど、それは結果として、ポピュリズムを正統化することになるからである。
現代のデモクラシーは、自らが作り上げた袋小路に迷い込んでいるのではないか。
本書が、「ポスト・デモクラシー(デモクラシー以後)」の時代に突入したといわれる現代における、「デモクラシーの逆説」の問題と解決の糸口を明らかにできれば幸いである。
ポピュリズムは民主主義(デモクラシー)と両立しがたい、一種の権威主義的な政治運動という印象が一般的には強い。
このような印象は、日本に限られるものではない。そもそも近年の各国におけるポピュリズム勢力の出現と伸張についても、「リベラルな政治秩序への挑戦」「デモクラシーの存立を危機にさらすもの」という懸念が投げかけられることが多い。確かにその排他的な主張、リーダーと支持者の垂直的な関係、群衆の情念に訴える政治手法などは、デモクラシーを脅かしかねないものを含んでいるとされる。
かつては、既成の政治エリート支配に対抗し、政治から疎外された多様な層の人々、すなわち農民や労働者、中間層などの政治参加と利益表出の経路として、ポピュリズムが積極的に活用された。
このように見ると、ポピュリズムとデモクラシーの関係は一筋縄ではいかないことがわかる。むしろポピュリズムの持つ「二つの論理」を理解することが、ポピュリズムの功罪を理解するうえで重要だろう。かつて多様な層の人々の「解放の論理」として現れたポピュリズムが、現代では排外主義と結びつき、「抑圧の論理」として席巻しているのである。
二つの定義。
第一の定義は、固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイルをポピユリズムととらえる定義である。なお日本では、新聞をはじめ、「指導者が大衆に直接訴える政治」の意味に用いることが多い。
第二の定義は、「人民」の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動をポピュリズムととらえる定義である。すなわちポピュリズムとは、政治変革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層(および社会の支配的な価値観)を批判し、「人民」に訴えてその主張の実現を目指す運動とされる。変革を目指す勢力が「人民」を「善」とする一方、エリートは人民をないがしろにする遠い存在、「悪」として描かれる。
この点で、フランスの思想家、トドロフの指摘は興味深い。彼によれば、ポピュリズムとは伝統的な右派や左派に分類できるものではなく、むしろ「下」に属する運動である。既成政党は右も左もひっくるめて「上」の存在であり、「上」のエリートたちを下から批判するのがポピュリズムだ、というのである。
本書では、「エリートと人民」の対比を軸とする、政治運動としてのポピュリズムの定義を採ることとしたい。なぜなら、現在、世界各国を揺るがせているポピュリズムの多くは、まさにエリート批判を中心とする、「下」からの運動に支えられたものだからである。
次に、この定義を前提としたうえで、ポピュリズムの特徴を考えてみよう。
ポピュリズムがその主張の中心に、「人民」を置いている。ポピュリズム政党は、自らが「人民」を直接代表すると主張して正統化し、広く支持の獲得を試みる。
ポピュリズムにおけるその「人民」の要素の一つは、「普通の人々」である。政治エリートやメディア、高学歴層などの「特権層」と異なり、むしろ「特権層」によって無視されてきた「普通の人々」が、ポピュリズム政党の念頭に置く「人民」である。これらの人々は、発言が取り上げられることは少なくとも、実は多数を占めるサイレント・マジョリティ(沈黙する多数派)であり、ポピュリズム政党は、その意見や不満を代弁する政党であると自ら主張する。そもそもポピュリズムにおける理解では「普通の人びと」には「健全な人間理解」が備わっており、腐敗したエリート層の発想に勝る。
そのように見ると、各国のポピュリズム政党が標的とするのは、民主主義それ自体というよりは、代表者を通じた民主主義、すなわち代表制民主主義(間接民主主義)である、ともいえる。代表制の枠内で議論するよりも、代表制そのものに対する反発が、ポピュリズムの根底にある。ポピュリズム政党は、代表者=政治エリートが市民の要求を無視し、自己利益の追求に専念している、と批判する。
近代デモクラシーには二つの説明(解釈)、すなわち「立憲主義的解釈」と「ポピュリズム的解釈」がある。立憲主義的解釈は、端的にいえば、法の支配、個人的自由の尊重、議会制などを通じた権力抑制を重視する立場であり、「自由主義」的な解釈といえるだろう。他方、ポピュリズム「民主主義」的要素を前面に出す立場である。
この区別は、カノヴァンのデモクラシーの二つの区分にも対応する。彼女は「実務型」のデモクラシーと、「救済型」のデモクラシーの二つのデモクラシーを分ける。
実務型のデモクラシーにおいては、ルールや制度の設定を通して紛争の解決を図ることが重視され、政治家や官僚らによる、日常のルーティン的な政治行政手続きが中心を占める。これに対し救済型のヂモク'ラシーにおいては、主権者たる人三の活動を通して、「より良き世界」を目指すことが必要とされ、制度やルールを超えた人民の直接参加が重視されるという。
デモクラシーにこの「実務型」と「救済型」の「二つの顔」があるとすれば、どちらの要素もデモクラシーにとっては欠くことができない。
このようにポピュリズムとデモクラシーの関わりを見てみると、ポピュリズムはデモクラシーを否定するものというよりは、むしろその一つの重要な側面、すなわち民衆の直接参加を通じた「よりよき政治」を積極的に目指す試みと、密接につながることが分かる。
【引用終わり】
本書では、上掲の第一章「ポピュリズムとは何か」に続いて、南北アメリカの現状、欧州の極右政党、テロとイスラム、スイスの国民投票、イギリスのEU離脱、グローバル化と特権階層の定義などが、順次分析の対象となっています。
ここで特筆すべきは、ナチス(ヒットラー)が出てこないことです。思うに、それはテーマが全体主義ではないからでしょう。一方、文中ではポピュリズムの重要な要素だと述べている割には、カリスマについての分析もあっさりしたものです。
ということは、誰がリーダーであるかより、ポピュリズムの本質と、現在社会の特徴との関係こそが、著者の最大の関心事なのだろうという予測が成り立ちます。
この程度の紹介でポピュリズムを決めつける(定義する)のには、忸怩たるものもありますが、私もここで立ち止まっている訳には行かないので、先に進みたいと思います。
大正デモクラシーがそうであったかどうかは別にしても、その後大衆に迎合する政治家がいたというより、一貫して強権政治の連続ではなかったか。しかも今でも戦前と同じ強権政治が、形を変えて続いているのではないでしょうか。
歴代自民党は、大企業、省庁の権益、富裕層に偏重してきました。選挙の時だけ、出来ぬ公約を並べて見せたのですが、最近ではその公約を自分で覆すことさえ平気になっています。嘘も方便内閣に成り下がったのです。
という事は、今回のエッセイの結論としては、この「宿便」のような政権を国民の体の外に一旦押し出すために、ポピュリズムという劇薬(と言うより下剤)を使う必要があるのかもしれないということです。
そしてその受け皿は、私としては、少なくとも自民よりはましな民進ではないかと思います。他に将来、政権を担えるような政党がないからです。共産党は常に、国民の側から正論を述べる野党で在ってくれれば良いと思っています。という事は「民進が大衆受けするようなアピール・ポイント」を、なりふり構わず(ここが一番大事なところです)展開するしかないという事なのです。
それもしない、野党共闘はしない=何という身の程知らず、というのでは、民進を選ぶ理由がないのです。何故なら政権の基盤づくりの機会を自ら放棄しているからです。一体国民に、民進の何を、いや何処を支持せよと言うつもりなのでしょうか。これでは今回の解散は、自民党にとって最善の選択という事になります。
但し、安倍政権を倒したその後は、我々日本の国民に馴染みやすいものは、ポピュリズムより、やはり知的レベルの高い(エデュケイトされた)市民を中核とする、二院制を基盤とした、代議員による議会政治でしょう。そして、そこに出来るだけ多くの直接的民主主義の要素(例えば首相とNHK会長の公選制)を組み込んでゆくことではないかと思います。
980.全体主義との関係 17/9/21
昨日ご紹介した「ポピュリズムとは何か」から、大衆の熱狂的な支持を背景に、ナチスとヒットラーが台頭したという歴史的な事実に、思いを馳せない人の方が、むしろ少ないと思われます。
但し同書では、全体主義に関する記述は注意深く避けられており、現在のドイツでは、ナチスの経験から、ポピュリム政党の進出が制限されていると述べるに留まっています。
ということは、我々の最大関心事、即ち現代日本にはポピュリズムが台頭する素地や傾向があるのかどうか、またそれがあるとしたら、いずれそれが全体主義に発展する危険性があるのかどうかを吟味する当たって、同書だけでは不十分であることを示しています。
そこで今回参考にするのは、NHKEテレの「100分で名著」の、アーレントの「全体主義」です。
第一次大戦の敗戦で疲弊したドイツに、大衆社会が生まれました。同番組では大衆と市民を明確に区分しています。大衆とは食うに困るほどではなく、しかしこれという目標を持たずに、政権から与えられるのを待つ(自分が気に入ることを言ってくれるのを待つ)人たちのことだと述べています。即ち政治権力にとってのお客さんであり、という事は、とりもなおさず、ポピュリズムがドイツでは政治の方向性を決定する最大の力になっていたという事です。やがてそのうねりが、ワイマール憲法の勝手な解釈を許し、ヒットラーに無制限の権限を付与することになるのです。
この第二次大戦前のドイツの政治状況と、現在の日本のそれが実によく似ているのです。当時のドイツの大衆は、政権に何かを要求するのではなく、お任せでした。自民党にお任せしてきた日本の国民と同じです。武力行使を可能とする集団的自衛権、武装強化、秘密保護法、現代の治安維持法である共謀罪、そして憲法改正案の中に、どさくさ紛れで滑り込ませようとしている緊急事態法。そうした一連の政府の動きが、ヒットラーが独裁体制を確立していった政治姿勢に酷似しているのです。
でもそうした自民党の戦前回帰、右傾化傾向に対して、現在の日本の社会が、戦前のように、万事お任せの大衆社会だとしたら、ドイツや日本を徹底的に破壊した独裁で、しかも無責任な政治が復活しないとどうして断言できるのでしょうか。
アーレントの「全体主義の起原」では、「大衆は共通の利害で結ばれてはいないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する固有の階級意識を全く持たない。彼らは普通の時代には政治的に中立の立場を取り、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足しているのである」と述べています。
これはまさに、最近までの、特に安倍政権下の日本国民の姿ではなかったでしょうか。それが都議選で、自民党政治と安倍首相に厳しい眼を向けるようになった。という事は、国民の半数を占めるいわゆる無党派層が、大衆から市民への一歩を踏み出し始めたのかもしれないのです。
党内で充分も吟味せずに、首相のその場の思い付きで発せられる甘言、言い換えれば口車。即ち守れるという裏付けも、その気さえもない公約。それに乗って(乗せられて)、なんとなく与党に投票する。或いは投票所に行く手間さえ省く。
しかもいざ蓋を開けて見れば、公約は果たされていないのに、国民は抗議も批判もしない。サイレント・マジョリティーと言うよりは、羊の群(自分で考える事を放棄しているので)のような日本の大衆。
日本のポピュリズムは安部支持ではなく、安倍不支持の方向に天秤が傾いているのです。。都議選では、長年騙され続けてきた国民(都民)が自民党に反旗を翻しました。モリカケ問題が、全く進展していない現在、改造内閣以外に、安倍政権を評価しなければならない理由は何もないのです。
今回の選挙では、日本が大衆社会(マス・ソサエティ)なのか、それとも市民社会(シビル・ソサエティ)なのかを見極める事が、極めて重要です。「100分で名著」では、大衆社会を、これ以上何を要求したら良いかはっきりしない人たちの社会と定義づけています。
この日本は市民社会だ。だから理を尽くして説明すれば、分かってくれるはずだ、等といくら言ってみたところで、大前提(市民社会)が間違っていたら、お話にならないのです。民進の甘い独りよがりで終わり、後に残るのはは選挙に落ちた民進党員だけなのです。
自分勝手な期待を止め、紳士的に振る舞うのも止めにして、反安倍、反自民だけを旗頭にして、なりふり構わず、一人でも多くの野党議員の当選を図る。その覚悟がないようなら、国民がこれ以上、民進に関わるのは時間の無駄なのです。
選挙は時の運であってはならないのです。周到に、ち密に準備されるべきもので在り、そこでは小沢の知恵が役に立つはずなのです。
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