「WTWオピニオン」

【第70巻の内容】


「憲法改正の真実」
 

1370.「憲法改正の真実」18/11/22-30

2冊の対談集をご紹介しただけで、WTWの学習が終わるわけではありません。誰でも手に取れる市販の本を題材にした、現代政治の分析と批判は、改憲の議論に踏み込んでゆきます。

これだけ国民が改憲、特に安部政権下での改憲には否定的になっているのだから、よもや安倍首相は改憲を強行しないだろうとか、外交で忙しいのだから、議論を先延ばしにするだろうという観測に、根拠はありません。彼は必ず在任中に改憲を国民投票に掛けようとするでしょう。何故なら、改憲こそは彼の政治的悲願であり、そこに至る道のりで、反対する民意を踏みにじりながら、数々の問題法案(安保関連法、秘密保護法など)を強行採決してきたという積み重ねがあるからです。

だからこそ、我々市民(国民)も、間違っても国民投票で安倍改憲案などに一票を投じる事のないよう、理論武装する必要があります。私は、この国民投票は、参院選と同時に「なにげに」行われるのではないかと推測しています。安倍首相が日本と国民の害になるような事をするはずがないというのは、余りにも甘い見通しなのです。安倍政権に任せておけば安心という根拠のない期待感こそ、官邸が躍起になって国民にすり込もうとしている「誤った」先入観なのです。WTWは安倍政権成立以来、この先入観と闘い続けて来ているのです。

今日から始まる憲法の勉強の最初の教科書は、「憲法改正の真実」樋口陽一、小林節、集英社新書です。

今日は同書の前書きを紹介します。

樋口:なぜわれわれ二人がこうして語り合おうとしているのかということについて、最初にはっきりさせておきましょう。異常な法秩序に突入したこの状況と、その状況下で成されようとしている憲法改正を、法の専門家である私たちが、黙って見過ごすわけにはいかないからです。

小林:はい。2015年9月19日の未明をもって、日本の社会は異常な状態に突入しました。この日、可決した平和安全法制整備法と国際平和支援法、そう名づけられた戦争法案は、明白に憲法に違反しています。
この違憲立法によって、最高法規である憲法が否定されてしまった。今回、日本の戦後史上はじめて、権力者による憲法破壊が行われたわけです。
私たち日本人は、今までとは違う杜会、異常な法秩序のなかに生きている。そして今度は憲法を否定した当の権力者が、憲法を改正しようとしている。この事実を私たちは深く受け止め、この状況をいかに打破するかを考えなくてはなりません。

樋口:立憲主義の破壊という事態がいかに深刻なものなのか。つまりは国の根幹が破壊されつつあるのです。
今回の安保法制は、自国の識会で議論をはじめるより先に、安倍晋三首相がアメリカ合衆国の識会で「夏までに成立させる」という約束をしてきたものです。主権者・国民の前で識論をはじめる前にアメリカに対して法の成立を誓って帰ってきた。このこと一つをとっても、立憲主義とともに民主主義も死んでいる。

小林:おっしゃるとおりです。

樋口:今回、小林先生と議論することになる<立憲・民主・平和>の三つが、いつでも予定調和するわけではありません。
ナチスは大衆の喝采を動員し、<民主>をもって<立憲>にトドメを刺しました。<立憲><民主>の先進諸国の繁栄は、<平和>とは相容れない、軍事力に依存した植民地支配の上に成り立っていたりもします。
私たち日本人は戦後70年あまりのあいだ、<立憲・民主・平和>という、この三つの価値を同時に追求してきました。それを支えてきたのが、日本国憲法です。
しかし、今、その日本国憲法を「みっともない憲法」と公言してきた人物を首班とする政権か基本価値を丸ごと相手どって、粗暴な攻撃を次々と繰り出してきています。
「粗にして野だが卑ではない」という表現で、ある人物を好意的に描いた城山三郎さんの作品がありましたが、その言い回しを借用すれば、あまりに「粗にして卑」としか言いようのない政治の情景を私たちは目にしています。それに対しては、法の専門家である我々が、市民とともに、抵抗していかなくてはならない。

小林:その認識に私も完全に同意します。法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている。
奪われてしまった民主主義を奪還すること、破壊されてしまった憲法を回復すること、壊されつつある日本の社会を守ること。そのための長い闘いがはじまっているのです。

樋口:そう、長い闘いになるでしょう。

小林:ここではあえてマスメディアがつける枕詞を借りて乱暴にまとめると、樋口先生は
「護憲派」の泰斗、私は「改憲派」の重鎮だと言われてきた憲法学者です。
しかしながら、憲法第九条改正論についてどのような見解をもとうが、憲法を破壊しようとする権力に対しては、護憲派も改憲派もその違いを乗り越えて、闘わなくてはなりません。

樋口:おっしゃるとおりです。

小林:なぜなら、憲法を守らない権力者とは、すなわち独裁者だからです。(編者注:その通りです)
憲法が破壊された国家で、静かに独裁政治がはじまりつつある体制下に私たちは生きている。この国の主は、我々国民なのですが、その主という資格が今、奪われようとしている。私たちは侮辱されている。なめられているのですよ。

樋口:そんな状況の今、自民党は「憲法を改正したい」と言っている。しかし、2012年4月に公表されたあの改正草案は憲法と呼べる代物ではない。(編者注:その草案作りに関わったのが片山さつきです)

小林:しかも自民党がもくろむ改憲は、「壊憲」なのです。
そのことを我々国民は直視し、総力を挙げて、きわめてまともな日本国憲法を保守しなくてはならない。そのための知的な武装を準備するために、今日、私は樋口先生の前にいるわけです。

樋口:この憲法改正によって、この国の形がどのように変えられてしまうのか、その真実を明らかにする義務が私たち憲法学者には課せられています。

小林:幸いにして先生は憲法学者として誰もが認めないわけにはいかない立場におられ、国民主権や基本的人権など、いわゆる市民革命によって近代的な憲法の基礎的な理念を生んだフランスに研究の軸足を置いておられる。
私は、かつて「改憲派の自民党プレイン」でした。が、今は右も左も関係なく、共闘の戦線を広げていて、私の話に耳を傾けてくれる人が確実に増えています。
この二人の対話なら、すべての国民に届く言葉で「憲法改正」の真実を伝え、日本の危機的な状況を突破する道筋を描けるのではないか、いや描かなくてはならない。そういう気持ちで、今、ここにいます。

(編者注:以下続きます。この本は2016年3月に出版されました。
その後、安倍首相は9条はそのままで、自衛隊を追記する案を打ち出しています。でもそれは憲法の目的とは相容れないものです。憲法に書くべき内容ではないからです。しかも、自民党の基本的なスタンスは少しも変わっていないのです。
自民党の改憲案=壊憲案は自衛隊の明記だけではなく、様々な角度から、国民の権利と自由を奪い、義務だけを強調する意図で起案されています。むしろだからこそ自民党は憲法を変えたいのです。
緊急事態条項はその顕著な例です。一時的かどうかは別にして、首相が自分の判断で憲法を停止し、国民の生殺与奪の権利を握る事を可能にする条項だからです。それは国家権力を縛るどころか、国民を縛ることが目的であり、憲法の精神、目的とは真逆の条項であり、だからこそ憲法に書かれてはならないのです。
どの独裁者も最初にすることは憲法の否定と破壊です。ヒトラーしかり、エルドアンしかり、習近平しかり、そして安倍首相しかりです。国家権力=自分、を縛る法律など邪魔だということです。
11/22時点で、公明党も通常、臨時国会での憲法発議はあり得ないと言っています)


憲法の勉強の第二回です。(今回も)いささか長いのですが、誰にでも(自民党議員でも)理解できる内容です。

「憲法を破壊した勢力の正体」
小林:さっそく具体的な議論に入りたいと思います。日本の社会は憲法という最高法規が
踏みにじられ、「無法」と言ってもいいような状況に突入しています。
憲法九条を無視した安保法制を立法したばかりではありません。たとえば、安保法制が可決され国会が閉会した後、臨時国会開会の請求が野党からあったにもかかわらず、自民党はこれを無視しました。これも憲法五十三条を破る行為です。
与党・自民党は憲法に違反するということに、もはやなんの躊躇もないようです。そのうえ、彼らはその憲法の改正まで視野に入れている。

樋口:このような異常な状態を導き、改憲まで考えているという自民党の政治家たちは一体、何者なのか。改憲の是か非かを問う前に、見ておかなくてはならないことがあります。
憲法の改正を議論する際には、順番があります。前提抜きで単純に〇か×かという諏論からはじめてはなりません。そもそもどんな必要があって、どんな政治勢力が、なにをしたいために、どういう国内的・国際的条件のもとで、どこをどう変えたいのか、それによって費成も反対も分かれる。これが憲法問題の本来の講論の仕方です。
つい先ごろある会合で京都から見えた「ママの会」の女性が、憲法改正一般、改憲一般というものはないのだ、という言い方でそのことを言い当てていて、感服しました。

小林:最近の国会の風景をご覧になっていてお気づきのように、我が国与党の国会議貝の多くは、「そもそも、憲法とはなにか」という基本的な認識が欠如しています。
安保法制について言えば、歴代の政権が積み重ね、継承してきた憲法の解釈を、たかが一内閣の閣議決定ごときで、勝手に変更しても構わない、あるいは、憲法違反の立法を行っても差し支えないという、我々から見たら、異常としか言いようがない感覚の持ち主だということが判明しました。

樋口:つまり、彼らには憲法というものの概念、コンセプトそのものに対する基本的な共通認識がないということですね。

小林:自民党との付き合いは、30年あまりになりますが、そのとおりだと残念ながら申し上げるしかありません。
ここは樋口先生と私との立場が決定的に違うところではありますが、憲法は道具だと私は考えています。 つまり我々主権者、国民が幸せに暮らすために国家権力を管理するマニュアルが憲法です。あるときに憲法を制定したとしても、時代が変わり、変更の必要が生まれたときには、国民の総意をもとに微調整していけばいいではないか、という考え方を私は主張してきました。ただし、念のため、ここで釘を刺しておきます。現時点では、憲法改正は断じて行うべきではない。あの思いつめた人たちが、どこへ憲法をもっていってしまうのか、本当に不気味です。だから体を張って抵抗しているわけです。

「近代憲法とはなにか」
小林:驚くべきことは、国政を担う彼らが、近代憲法とはなにかについて、まったくと言っていいほど理解を示さない、理解できないということです。

樋口:なるほど。

小林:憲法とはなにか。せっかくだから、読者に向けて説明をしておきましょう。
法律は国家の意思として国民の活動を制約するものです。しかしながら、憲法だけは違いますよね。国民が権力に対して、その力を縛るものが憲法です。憲法を守る義務は権力の側に課され、国民は権力者に憲法を守らせる側なのです。

小林:そもそも憲法とは、ヨーロッパなどで王政と対抗する過程で、はじめて出てきた法の概念です。絶対王政の時代には、国王が「朕は国家なり」と我が物顔に振る舞うばかりで、国民が王を統制する術はありませんでした。
晟初にドラスティックに人民が王権に対抗したのが、アメリカの独立戦争です。イギリス国壬による圧政をはねのけ、戦争に勝ったアメリカの指藤者たちは、王政しか経験がない人々ですから、ジョージ・ワシントンに、新生アメリカの王様になってくれと提案をした。ところが、ワシントンは、国王になることを拒否して、民主国家を建国したのですね。ただ、組織である以上、統治の責任者が必要です。選挙で選ぶ任期つきの大統領職を設けることになったのですが、その際、大統領も人間ですから、間違いも犯す不完全な存在であることが、人々の意識にあがった。そこで、できあがったのが世界で最初の成文憲法、アメリカ合衆国憲法です。
つまり、権力者たる生身の人間を管理するという目的が、憲法の起源にあった。
外交や戦争の宣言、そして官職の任免や賞罰までも、大統領の一任ではなく会識で決めている。そして、立法が「庶民」だけでなく大統領をも拘束する。「庶民」に対して「気に入らなくとも法で決まっていることだから従え」という江戸時代の日本とは違う法秩序がアメリカにあること、「法の支配」「法治国家」というものを「航米目録」の著者は理解していたのです。

「国民を縛りたがる議員たち」
小林:そうした理念、例えば法の支配や立憲主義について、何度、説明しても、理解してくれないのが自民党議員たちです。それだけでなく「権力者だけを管理する憲法でいいのか。国民を縛らなくていいのか」としつこいくらいに質問が飛んでくる。
私は、憲法と権力の関係について、「権力というものは常に濫用されるし、実際に濫用されてきた歴史的な事実がある。だからこそ、憲法とは国家権力を制限して国民の人権を守るためのものでなければならない」という話をしたのです。自民党の憲法観は、ずれていますよ、と指摘したのですね。
ところが、それに対し、自民党の高市早苗議員が、「私、その憲法観、とりません」といった趣旨の議論を議場で展開しはじめたわけです。おい、ちょっと待てよ、その憲法観をとる、とらないって、ネクタイ選びの話じゃねえんだぞ、って話です。

樋口:内輪の勉強会での本音ならまだしも、国会の場で臆面もなく、そんなことを言うと は、あきれます。

小林:私に向かって、彼女は講義めいた話をはじめました。あなたは権力を制限するとい う憲法の「制限規範」的な側面ばかり強調するけれど、これからの憲法には領土の保全、独立統治というものを確保するために、「国家に新たな役割を担ってもらう授権規範的な要素も幾らかは必要」「授権規施的な考え方が自民党の草案(第一次草案)のなかに入った」と言ったのです。しかも、自信満々に、ですよ。お前、誰に向かってモノを言っているんだ、と思いましたよ。
この主張は、間違いだらけです。自民党が草案に入れる、入れないの問題ではなく、憲法には「制限規範」と「授椎規範」の両方の側面がそもそも、備わっている のです。
国会が立法権だけを、裁判所が司法権だけを、そして内閣が行政権だけを行使できるのは、憲法によって宣言された限りの権力を主権者・国民から「授権」されているからです。これが憲法の「授権規範」的側面です。「授権」と言っても、「それしか」授けないよ、という「制限」つきの意味です。この高市議員の主張が問題なのは、自民党の憲法観の間違いが、ここににじみ出ているからです。この論調は、権力に対して無限に「授権」し、国民を「制限」するのが「新たな憲法」の役割だという方向に転化しかねない。

樋口:国家に与えられている権力は、国民の権利や自由、基本的人権を侵害しないという「制限規範」に縛られた条件つきなのです。そういう認識が彼らにはないのです。

「なぜかくも日本国憲法を憎悪するのか」
小林:鍵は、やはり、世襲識員たちです。自民党内の法務族、とりわけ改憲マニアとも言うべき識員のなかには世襲議員が多いのです。実力派の議員が落選し、自民党の憲法調査会には、二世どころか、三世、四世といった世襲議員と、不勉強なくせに憲法改正に固執する改憲マニアだけが残ってしまった。
これがなにを意味するかと言えば、現在、自民党内で憲法について集中的に考えている議員たちのほとんどが、戦前日本のエスタプリッシュメント層、保守支配層の子孫とその取り巻きであるという事実です。

樋口:戦前のエスタブリッシュメントの子孫と言えば、安倍首相などは、まさにその典型ということになりますね。

小林:そうです。彼の母方の祖父、岸信介なんて、大日本帝国のもとで戦争したときの最高責任者のひとりです。武官の最高責任者が東條英機ならぱ、文官の最高責任者は岸信介じゃないですか。

小林:自民党とのつき合いのなかで知ったことは、彼らの本音です。彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は、国家が一丸となった、終戦までの10年ほどのあいだだった、ということなのです。普通の感覚で言えば、この時代こそがファシズム期なんですがね。

樋口:しかし、彼らの思う素晴らしき日本は、見事に戦争に負けました。その事実を直視できないから、ポツダム宣言をつまびらかには読んでいないと公言する三世議員の首相が登場してしまう。

小林:はい。そういう自民党世襲議員のなかに、旧体制下の支配層たちの「敗戦のルサンチマン(怨恨)が脈々と受け継がれ、アメリカに「押しつけられた憲法」を憎悪するという権図になっているのでしょう。彼らにとっては明治憲法が理想なのですよ。
しかし、日本国憲法は、一般の人々にとっては救いでしたよね。戦争に負けて、新憲法を押しつけられたと彼らは言うけれど、一般の人にとっては悔しくもなんともない。日本国憲法のもと、人権が保障されるようになったし、平和で豊かで良かったなというだけのことですよね。
(編者注:自民党の改憲議論がいかに感情的、かつ懐古的なものであって、民主主義の理念も、正当な理論的根拠もないことが、理解できます。ついでに自民党の二世議員がいかに不勉強かも。以下続きます)
関連記事。自民の改憲案提示が困難な状況に。
https://this.kiji.is/438297487791195233?c=39546741839462401



今日は憲法の勉強の第三回です。


「民主と立憲はときに対立する」
樋口:ところが、戦後になると、議員達の意識が変化します。主権者たる国民に選ばれた我々が一番偉いのだという認識になり、立憲主義という言葉が形骸化してしまった。ここで大事なポイントが出てきます。主権者である国民に選ばれた国会議員なのだから、識員を制限するものは何もない、というロジックが教えるのは、民主主義が立憲主義を破壊するのに使われる危険がある、ということです。
民主主義、デモクラシーとは、人民(デモス)の支配(クラチァ)、つまり人民の支配です。突きつめれば、一切の法の制約なしに人民の意思を貫き通す、これが<民主>のロジックですね。一方、立憲主義とは「法の支配」です。ここでは、国会のつくる法律を指すのではなく、国会すらも手を触れることのできない「法」という意味がこめられています。
その<立憲>のロジック、つまり「法の支配」を貫徹すれば、人民が多数決で決めたことを否定するような場合もある。
つまり、選挙で選ばれた識員たちは、民主主義に基づく権力を握っています。その権力まで憲法が制限するのかどうか、という大きな問いも出てきてしまう。民主主義と立憲主義は、同じ方向を向いているときもあれぱ、ぶつかってしまうときもあるのです。

小林:立憲主義は時代遅れだという安倍首相の発言は、人民に選ばれた俺たちを優先しろ、ということでしょう。民主主義で選ばれた我々を、憲法が制限するのはおかしい。立憲主義など民主政治のもとでは価値がない、と言わんばかりですから。

小林:民主的に選ばれた権力なのだから、任期のあいだは好きなようにやらせろ、というのは大阪の橘下徹前市長がよく使うロジックでもありますね。

「立憲主義の軽視で起きたナチスの台頭」
樋口:ところが、ここが大事なのですが、民主主義だけでは、社会は不安定になるし、危うい方向にも向きやすい。

小林:そうそう!

樋口:世界でもっとも有名で、かつ重要な例を挙げれば、ナチスドイツの登場の仕方です。

小林:麻生太郎財務相は2013年にこんな発言をしましたね。「(ドイツの)憲法はある日、気づいたらワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」。確かに学んでいますね、自民党。

樋口:だから戦後の西ドイツは、憲法の保障する価値をひっくり返してはならないという考え方を法制度化しました。「自由の敵には自由を認めない」という考え方です。
ワイマール憲法のもとで、民主主義が暴走し、憲法の基礎を成していた基本的人権が破棄され、ドイツ民族の優位といったイデオロギーが跋扈するようになった。立憲主義を軽視すると、そういったことが起きてしまうのです。
人民の名において非人道的な支配をしていた旧ソビエト速邦・東欧圏というものもありました。イラクのサダム・フセインも国民投票をすると100%近い支持を得ていたけれども、あれも独裁です。
世界的な流れで見て言うと、<民主>だけで進んでいっても、全体主義に転化したり、独裁を招いてしまう。過去30年ほどのあいだに立憲主義は急速に見直されてきているのです。もちろん、もっぱら立憲主義だけでも国民不在になってしまいますので、実際には、<民主>と<立憲>のあいだで、その中間にどうバランスをとるのかが大事です。

小林:明治憲法や明治憲法がお手本にしたプロイセン憲法は<立憲>ではあったけれども、民主主義としては不完全でした。だから、立憲主義だけがあれば良い、というものではない。これもまた当たり前の話ですね。

「民主主義を利用しつつ、破壊する自民党」
樋口:ただ厄介なんですよ。時として安倍政権は、国民をおだてつつ、あなた方の直接民主主義を大切にするんだという口ぶりになる。

小林:つけくわえさせてもらえば、いまだかつて国民の過半数が憲法改正を望むという統計上の資料を見たことないですよ。よくそんなことが言えますね。

樋口:もちろんてす。そのうえで言いますが、ここで彼が言っているのは絶対民主主義の正しさなんですね。絶対民主主義とは、多数派が支配的に振る舞って良いという民主主義です。

小林:多数派だったらなんでもできるという絶対民主主義は、非常に危ない。民主的な決定プロセスはもちろん大事ですが、そのプロセスを経たとしても、たとえば憲法に書かれた人権を踏みにじるような結果にならないとも限らない。そこに歯止めをかけるのが立憲主義です。

樋口:さらに問題なのは、安倍首相の態度や発言、行動が一貫していないことです。民主主義を持ち上げた後、国会をも徹底的に軽視し、民主主義の破壊を行っている。
(編者注:ここまで議論しないと、憲法を論じたことにはならないのです。いかに自民党の改憲論議が底の浅いものであるかが分かります。以下、続きます)


憲法の第4回です。

「ないがしろにされる国会」
樋口:自民党の国会軽視は数限りなく続いているので、例を挙げれぱキリがないのだけれど、内閤総理大臣席から野党議員に対して「早く質問しろよ」(2015年5月28日)、「どうでもいいじゃん」(8月21日)と野次を飛ばした事件があったではないですか。

小林:前者は民主党の辻元清美議員、後者は蓮舫議員の質疑のときの野次ですね。
首相は陳謝にもなってないような陳謝をして、世間的にも、野党のほうが馬鹿みたいにムキになって、と笑い話のような形ですまされてしまいましたが。

樋口:その首相の野次で思い出したのが、戦前の帝国議会で政府委員席から「黙れ」と言った陸軍省の役人の事件です。これは大問題になりました。帝国議会の権威をなんだと思っているのかと。
国会は国会議員のものであって、日本国憲法にも、内閣総理大臣や閣僚は院が求めたら出席する義務があると、書いてあるわけですよ。出席する義務がある首相は、院に呼ばれたら、議事を進めるのではなく、議員たちから問いつめられる立場です。問いつめられる側が、早くやれ、早く質問しろと議事進行を促した。

小林:早く質問しろという首相の野次は議事進行発言していることになる。

樋口:小さなことのようで、これは権力分立という大原則を破っているのです。立法府において行政側の人間が、勝手に議事を仕切る権利はない。
戦前のケースでは、陸軍省の副課長級の役人の発言でした。これが大問題になったのですが、今回は一国の首相の発言だったにもかかわらず、笑い話で終わっている。帝国識会の時代のほうが、緊張感をもって政治をしていた。
それにくらべて、今は、議員もメディアも、みんな鈍憾になっています。
(編者注:あの野次こそ、首相の本音であり、国会軽視、女性蔑視なのです)

「もう独裁政治ははじまっているのかもしれない」
小林:自民党側も、それを良いことに民主主儀の原則を自分たちの都合で使ったり、無視したりしている。

樋口:そうなのです。先ほど、立憲主栽と民主主義のバランスが重要だとお話ししまレたが、その両極の中間のどこに自分たちの政治のあり方を置くのかは、各国それぞれ異なっています。それぞれの国で、国民が知恵を出し合い、歴史や社会的な条件を踏まえて、両極の中間のどこかに均衡点を見つけるわけです。その均衡点は、それぞれ国によって違っていて構わない。
あえて不正確を承知で大ざっぱに言えば、真ん中よりも<民主>のほうに均衡点を置いてきたのがフランスです。ナチスの台頭を反省して、はっきりと<立憲>のほうに自分の立ち位置を定めているのが旧西ドイツ、現在のドイツ連邦共和国です。

小林:私が学んだアメリカは、ドイツほどではないけれども、<立憲>のほうに寄っています。

樋口:そのように、<立憲>と<民主>のあいだのバランスの取り方は、各国それぞれで良いのです。
しかし、立憲主義を民主主義のロジックによって否定しておきながら、民主主幾をも放棄しようとしているのが、今の自民党なのです。
立憲主義という「法の支配」も、民主主義という「人民による支配」も否定して、今進んでいるのは、自分たちに都合の良い、「法で」「人民を支配」する政治。それを自民党はやろうとしている。

小林:立憲主義と民主主義、そのどちらもが存在せず、そのように権力が恣意的にその力をふるうことができる政体をなんと呼ぶのか。これは恐ろしいですよ。それを独裁政治と言うのでしたよね。
我が国の近隣にも、独裁政治を行う国家は存在します。まさかこの日本についてこんなことを言う日が来るとは思わなかったのですが、金ファミリーが支配する北朝鮮と、日本は変わらない状態に近づいているのです。

樋口:そんな体制を目指す勢力が推進する改憲にのるのか、のらないのか。そこを有権者には冷静に考えてほしい。
(編者注:本書はこの言葉に尽きると思います)

小林:「改憲派」の私にとっても、それは自明のことですね。そんな人々による改憲は絶対に阻止しなくてはなりません。
(編者注:以下次号に続きます)


憲法の第五回です。

「自民党憲法改正草案を読み解くことの意義」
小林:いよいよ2012年に自民党が公表した憲法改正の第二次草案の中身について、考えていきたいと思います。憲法としてあまりに不完全な草案ですから、あちこち手直ししてくるでしょう。しかし、この草案を読み解くことには意義がある。自民党がこの国をどうしたいのか、どういう社会を構築しようとしているのか、どんな価値を理想として見ているのかということが、しっかりと映しだされているからです。
まず、根本的におかしいのが、国家権力と国民の関係が逆転していることですね。改革案では、国民に憲法尊重義務を課している。近代憲法としては、この時点でアウトですよ。

「自民党草案は「いにしえ」への回帰」
小林:改憲マニアの世襲議員たちは、戦前の明治窟法の時代に戻りたくて仕方がない。だから、まるで明治憲法のような古色蒼然とした草案を出してきた。旧体制への回帰こそが、この草案の正体です。

樋口:この草案をもって明治憲法に戻るという評価は、甘すぎる評価だと思うのです。明治の時代よりも、もっと「いにしえ」の日本に向かっている。明治憲法への回帰どころではない。慶安の御触書ですよ。

樋口:ひとつ挙げておきたいのは、ポツダム宜言の文言です。ポツダム宣言の第10項には、日本が約束させられたことのひとつとして、「日本国政府ハ日本国国民ノ間二於ケル民主主義的傾向ノ復活強化二対スル一切ノ障碍ヲ除去スヘシ」と書いてある。
連合国側は、ファシズム期以前の日本に民主主儀的な流れがあったことをきちんと知っていたということです。それは大正デモクラシーだけではなく、その前には自由民権運動があり、幕末維新の時代には「一君万民」という旗印で平等を求める勒きもあった。それどころか、全国各地で民間の憲法草案が出ていた。

「個人から人へ」
小杯:ここからは、具体的な条文を取り上げて考えていきましょう。私が一沓、まずいと思っているのは、「個人」という概念がこの草案では消されてしまっているという問題です。

(日本国憲法)
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

(自民党「日本国憲法改正草案」)
(人としての尊重等)
第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変更になっているという点も要注意ですが、最大のポイントは「個人」としての尊重から「人」としての尊重に変わったというところです。

樋口:同感です。わずか一語の変更ですが、非常に大きな問題をはらんでいます。
私はよく学生への講義で言っていました。「日本国憲法で一番肝心な条文をひとつだけ言えと言われたら、十三条だろう」と。すべての国民が「個人」として尊重されるということが憲法の要なのです。

小林:ここで言う「人」の意味は「犬・猫・猿・豚などとは種類の違う生物」といった程度の、本当に軽い存在としての「人」です。それぞれに個性をもつ「個人」として尊重されるのと「他の動物よりは上」といった程度に尊重されるのとは大いに違う。
自民党の改憲マニアとつき合ってきて嫌だったのは、「個人の権利」を常に否定したがるという彼らの性癖ですね。彼らは、とんでもない理屈で「個人」という言葉を排除しようとする。
自民党の改憲マニアに言わせると、「日本国憲法に個人主義がもちこまれたせいで、日本から社会的連帯が失われた。だから、個人主義を排して、社会の土台をつくり直すのだ」ということだそうです。
改正草案十三条は、「個人」から「個」を削除することで、彼らの願望を実現しようとしていますね。
しかし、世界の成文憲法の歴史というのはアメリカ独立宣言からはじまります。端的に言えば、人は人として生まれただけで幸福に生きる権利があり、幸福とはそれぞれが異なった個性をもっていることを否定せずにお互いに尊重しあうことで成立します。
その幸福の条件を国家は侵害するな、というのが憲法の要です。

樋ロ:アメリカ独立宣言に続くフランスの人権宣言でも、共同体の拘束から解放された自由な個人を主体とする、個人の権利だからこその「人」権なんですよ。

樋口:家族をはじめとする共同体のなかに置かれた「人」という表現を打ちだすことによって、共同体から自由な「個人」を捨てた。これは根の深い問題なのですよ。

小林:ところが、草案全体を通じた「ポイント」として「天賦人権説に基づく規定振りを全面的に見直」すという意図を明らかにしているのです。

樋口:つまり、今の憲法は「西欧かぶれの天賦人権ぷりでよろしくない」と言っている。

小林:それと同時に、すべての人、一人ひとりが生まれながらにして権利をもっているという考えを、きっぱり捨てていますからね。
なにかの間違いではないかとあきれるのですが、これが自民党の本音です。天賦人権説については、自民党の片山さつき講員が、ツイッターでさらに明確な補足説明をしています。
「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなた何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました(2012年12月6日)」(編者注:本件は私も承知しており、その時から片山が大嫌いになりました。収支報告書などより更に根の深い問題です。本当に頭が良いわけではなく、口先だけの人間なのに、自分は特別な存在であるかのように錯覚する思い上がり=驕り、があります。有害議員です)

「権利には義務が伴う」は本当か?
小林:それと同時に恐ろしいのは、彼らが国民に多くの義務を課そうと躍起になっていることです。自民党の勉強会では、こんな話を議員たちからたびたび聞きました。「国民は、権利ばかりを主張して、公のためを考える気持ちを忘れている」「国会議員には、憲法擁護義務などという面倒なものもある」。

樋口:憲法擁護義務というのは、国会識員というのは権力者であって、国民と同じ土俵に乗っているわけではないのですから、当然のことなのです。

小林:彼らに言わせると、それが「不公平」なんですよ。それで、国民はもっと「公の秩序」に従うつべきではないか、と言うのですね。「公」にまつわる事柄を実行する俺たち権力者に従え、国民はいちいち「権利」などを主張するな、ということになりかねない。

樋口:つまり、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚」しろと、国民に迫っているわけです。しかし、これは根底から間違っています。
憲法における「権利と義務」は、そういった代償的な関係にはないのです。
権利をもつのは、国民です。義務を負うのも、自民党は国民だと言っている。それでは、権利をもっている人と義務を負う人は同じではないですか。我々、国民はもともと人権をもっていて、それを尊重する義務は国側にある。「国民は権利を持っているのだから、国に対する義務も負うのが当たり前」という論理は成立しない。

「日本国憲法が国民の権利主張を暴走させた」は嘘
樋口:それに、そもそも、日本国憲法が国民の権利の暴走を許しているという言説も明らか間違っているのです。憲法が国民に保障するすべての権利には、自制を求める内在的な枠組みがあるのです。

小林:日本国憲法でも、十三条の前に、十二条があるわけです。
<日本国憲法>
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
すべての権利は濫用してはいけません、すべての権利は公共の福祉に従わなければならないと、ちゃんと書いてある。
私はシンポジウムで櫻井よしこさんが講演しているのを、偶然にも三回ほど開いているのですが、例によって、「権利はたくさんあるけれども、義務が伴わなければいけませんよね」と聴衆に語りかけるわけですよ。「権利と義務のバランスを取り戻さなければいけませんね」と論じていて、みんな「うん、うん」とかうなずいているわけ。
だから、あるとき、その櫻井さんの後で登壇した私がこう言いました。「第十二条というのがあるのをご存知ですか」と。これは「総論」と呼ばれるもので、そこで定められた制約は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利」すべてにかかるんです。いちいち、権利を定めた条文に、馬鹿みたいに義務なんか添えなくても、ちゃんと好き勝手するなと書いてありますから、嘘を教えないでくださいと。そしたら、櫻井さん、顔面蒼白で言葉がなくなりました。
(編者注:ゴーンは自分は好き放題やっていたのに、社員を契約と規則でがんじがらめに縛っていました。社員の不満は頂点に達していたのです。同じことをしているのが自民党政権です。自分は好き勝手にやって、規則も法律=特に憲法、がないも同然なのに、国民には改憲を通じて、締め付けを強めようとしているからです)
(以下続きます)



憲法の勉強の第6回は、緊急事態条項です。

「緊急事態条項の正体」
樋口:緊急事態条項を憲法に書きこむのは、世間で言われるようなソフトな「お試し改憲」ではないのです。この条頂が憲法にくわえられると、相当、厄介なことになる。国家が国民の権利を取りあげ、協力という義務を課すようになる。つまり、「前近代」の国家に逆戻りです。

小林:震災対策うんぬんという議論が報道では主流ですから、緊急事態条項とはなにか。ごくごく簡単に言えば、これは大災害、内乱やテロ、戦争という緊急事態に日本が直面したときに、平時とは異なる権力の行使を認めるという条項です。
そして震災の翌年に出された自民党の憲法改正草案(第二次草案)には、「緊急事態」を扱う第九章(九十八条・九十九条)が新しく提案されたのです。「緊急事態」の章は、日本国憲法はもちろん2005年の自民党第一次草案にもなかったものです。

小林:国家緊急権それ自体は重要な概念です。必要ないとは言い切れない。国家というのはなんのためにあるかというと、主権者、国民大衆の幸福を増進するためのサービス機関 なのですから、緊急事態に際しては、通常のチェックス・アンド・バランシズのプロセスを省いてでも、危機に対応する権限を国家に与えることは必要です。しかしながら、緊急事態条項を憲法に書きこむことについては、反対の立場をとるようになりました。国家緊急権が必要だとしても、憲法に書きこむのか、そうでないのか。それがこの問題の一番のポイントだと思うのです。

樋口:フランスの緊急事態法の話に戻って言えば、法律を根拠にしたものであって、憲法に基づくものではありませんでした。フランス政府は今回それを憲法に取り入れようとしていて論争の種になっていますが、今までのところは、ほとんどの緊急事態について法律レベルで対処してきた。国家緊急権を憲法化するかどうかは、あやふやな議論でやってはいけないことなのです。
国家緊急権というのは、権力の暴走を防ぐために手足を憲法で縛っているところを、緊急のときだけ解いてしまおうとするものです。これは、立憲主義の根幹に関わる、痛みを伴う議論のはずです。
私自身の立場を言えば、国家緊急権を憲法化することについては一貫して反対です。憲法で国民の自由を保障し、緊急時の対応を定めた法律による自由の制限制眼が例外的にありうる、という大きな枠組みを維持すべきです。憲法自身に国家緊急権を書き込むと、原則と例外が、対等に並ぶことになってしまうでしょう。

「危機への備えは法律の整備で」
小林:災害に際して、中央の政府の権限を強化したところで、被災地の状況は把握できない。状況を把握できない政府に判断を委ねても、時間がかかるし、間違いも起こる。生死の間際にある人々をそれでは救うことはできない。災害時に必要なのは、中央の権限を強化することではなく、自治体の首長に権限を委譲しておくことなのだと。さらに言えば、災害が起きてから、あわてて中央で対策や立法を練っていても問に合わない。

樋口:憲法に書きこんでおいても遅すぎるわけですよ。より良い対策を講じたいのならば、伊勢湾台風の対応の反省として、すでに災害対策基本法が1961年に制定されているのですから、こういう種類の法律の内容を必要に応じて、見直していけばいいわけです。

小林:震災の支援活動を行った弁護士たちも、現状の方法で対応できたと言っていました。大切なのは実用的な法律の整備です。東日本大震災で、国家緊急権の憲法化を狙うというのはまやかしです。(編者注:安倍首相も自民党も、災害のことはどうでもいいのです。戦争が起きた時に、全権を掌握し、国民の資産と生命を国家が管理し、国家総動員体制を作ることが目的でしょう)

樋口:災害以外の危機についても同じ構図です。テロなど国内で起きた暴力について対応するには、警察法の「第六章緊急事態の特別措置(第七十一条〜第七十五条)」がすでにあります。外国からの攻撃については、武力攻撃事態国民保護法が2004年に施行されています。危機に対応したいのなら、これらの法律の内容を見直せぱ良い。
それ以前の問題として、実は日本政府自身が多分に緊張をつくり出すのに「貢献」してきたのではないかということは、我々が忘れてしまわないうちに事実に即して確かめておく必要があると思うのです。尖閣諸島の問題しかり、です。

小林:緊急事態条項を憲法に書きこむべきだ、という善意の憲法学者の主張は、手足を解かれた権力が発揮する巨大な力に対する楽天主義の産物です。

樋口:そのとおり。

小林:要するに、自民党が緊急事態条項の新設に躍起になっているのは、「掩たちの好きにさせろ」と言っているのに等しい。
自民党の改正草案の緊急事態条頂では、緊急事態であると認定するのが内閣そのものでしょう。そして、認定してしまえば、内閣(つまり首相)は法律と同一の効力を有する政令を制定できる。つまり、内閣が「はい、これから緊急事態!」と決めてしまえば、それだけで、立法権は内閤のものになる。さらに、首相は財政上必要な支出を自由に行うことができるようになり、国会が排他的に握っている予算承認・拒否権という「国の財布のひも」も首相が預かることになる。さらに、首相は地方自治体に対して、あたかも部下に対するように指示を発する権限も有することになる。
しかも、緊急事態の宣言を、百日を超えるときには、「百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない」と規定されていますが、ドゴール時代のフランスでも誘惑が働いたように、一度、手にした「万能の権力」をすぐに手放す気になるかどうか。しかも、今のように与党が過半数を超えているときに緊急事態の宣告を行えば、次の選挙が行われるまで何度でも延長は可能で、権力はフリーハンドでやりたい放題です。

小林:要するに、この緊急事態条頂は、内閣が緊急事態であると認定した瞬間に、三権分立と地方自治と人権保障を停止するという、大変、危険な条項なんですよ。つまり、これは日本国憲法そのものを停止させ、独裁制度に移行する道を敷くのと同じなんですね。
(以下続きます。次回は家族の問題です)


法の勉強の第7回は家族、新自由主義、個人の権利です。

「憲法に持ち込まれた道徳は日常も縛る」
樋口:「家族を尊重せよというのは道徳」でしょう。憲法に道徳を持ち込むことの危険性は、いろいろな角度で指摘できると思います。一種の思想統制の根拠となっていく可能性もある。

古林:法と道徳を混同するな、というのは近代法の大原則ですよ。

小林:その憲法に道徳的な規定を盛りこんだら、どうなるか。たとえば放蕩息子か馬鹿な借金をつくったとき、親がそんなことは知らんと、現在なら言えます。連帯保証人になっていなければ。しかし、「家族なのに親が息子を助けないとは、公序良俗に反する。憲法違反だ」とやられたら、どうします。家族尊重の義務が憲法に入るとはそういうことです。

小林:離婚の自由すらなくなるかもしれません。結婚という人生のなかの大きな決断が失敗だと分かったときに、離婚して新しい人生を再開させる。そんな当たり前の自由が、この草案では否定される可能性があるのです。
家族の尊重だけをとっても、こんな具合です。不用意に、道徳的なものをあれもこれも、憲法に盛りこんだら、もうなにがなにやら、日常生活のレベルでも混乱が広がることは必
至です。

樋口:明治憲法の実際上のブランナーを務めた法制局長官・井上毅の有名な言葉があります。「およそ立憲の政において君主は臣民の良心に干渉せず」。
19世紀後半の欧米の近代国家の通念を明治時代の人はちゃんと学習していたんです。

小林:樋口先生がおっしゃるように、自民党が、明治憲法下の日本がもっとも狂乱していたいまさにあの戦争後半の10年間くらいの社会を理想としているのは確かですね。
全体主義が支配し、一部のエリートーそれは、今の三世議員、四世誰員の祖父たちでもあるでしょうが、彼らが国民を支配していた。その時代を指して、自民党は「昔は良かった」と繰り返している。

小林:そこに道徳が絡んでくる理由としては、そうしたノスタルジーだけでなく、彼らが陰に陽に支援を受けている、日本会議の存在もあると思いますよ。山谷えり子議員も、もちろん安倍首相とそのお友達、衛藤晟一議員や亡き盟友、故・中州昭一議員もみんなそうですが、日本会議の議員連盟「日本会議国会議員談話会」のメンバーですね。
櫻井よしこ氏は、日本会議系「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表です。

小林:日本会議というのは、第一次安倍政権が大はしゃぎでやった教育基本法の改革などを支援してきた。保守強硬路線の人々が、みんなそこでつながっているという団体です。その前身のひとつに「日本を守る会」というのがあって、これは生長の家などの宗教団体の連合会だった。靖国神社や国柱会も入っていますよ。神社本庁、後は石原惧太郎の支持団体だった霊友会とかね。

「復古主義と新自由主義の奇妙な同居」
樋口:改正草案の前文には「国と郷土」「和」「家族」「美しい国土と自然環境」「良き伝統」という言葉を日本らしさの強調として並べ立てた…。

樋口:競争至上主義を徹底して、世界で一番、企業が活動しやすい国にするという、安倍政権の目標と似通ったものが、全文にも、22条の変更にもストレートに反映しているのです。このことの重要さをいち早く内田樹さんが読み取っていて、その慧眼に私も感服したのです。

小林:新自由主義なんていうものは、本当にごく一部の人たちだけが儲かるシステムです。例えば労働市場を自由に、ということで派遣業が儲かれば、あの竹中平蔵氏が会長をつとめるパソナなどの利益が上がるだけです。労働者には何の得もない。
新自由主義のような馬鹿げた方針を憲法の前文に書き、復古的な美辞麗句でごまかしていたら、この国は滅びますよ。

小林:最大の問題は、自民党の議員たちが平然と「個人」の「個」をばさっと削ったことにあると私たち二人の認識は一致しています。
この「個人」が消された、という問題に、この草案の点検のまとめとして、最後に戻っていきたいのですが、なぜかと言うと、憲法からこの「個人」を消そうという自民党の意識と、無残な前文とが深いところで結びついている気がするからです。

樋口:私もそう思います。おそらくこういうことではないですか。
日本国憲法の要は、おっしゃるように「すべて国民は、個人として尊重される」という十三条の条文です。これは権力が勝手なことをしてはいけないという、中世以来の広い意味での立憲主義が、近代になって凝縮した到達点です。個人が自由に、それぞれの個性を発揮して生きていく。そういう社会の基本構造をつくり支えるのが、憲法のもつべき意味、だということですね。

小林:個人がそれぞれ個々の幸福を追求することを権力は妨げてはならない。それが立憲主義です。
ところが、この改正草案では、経済活動の自由を最大限に保障する代わりに、個人の心の自由という非常に大切な領威を、一見、善意に満ちた道徳的なスローガンによって、踏みにじっている。
(編者注:これも大事なポイントです。保守強硬派と同じ価値観を持たない者は、国民でも人でもないと言っているのに等しいからです)

樋口:しかも、グローバル化を推進し、新自由主義に基づく政策を続けるうちに、個人が個人として生きていくことがとてもつらい社会をつくってしまったことを反省せずに、それを憲法前文で国是にしようとしている。
競争の末に勝ち組に振り落とされた弱い者も幸福追求ができるよう、社会権というものを深める方向でこれまで考えてはきたけれど、新自由主義的な憲法観が全面化されれば、崩れてしまう。そんな状況下では、個人は個人であることのつらさや寂しさに耐えられない。そこで起こるのは、集団の温かみに救いを求めるということですね。

小林:でも、もともと自生的にあった集団や社会的基盤は、新自由主義によってすでに壊されている。だから、さっき言った復古主義の偽の癒しの言葉、「美しい国土」「家族」といったスローガンが、人々の支持を得ていく。そういったものは、すでにおおかた破壊されているからこそ、そうしたスローガンが人の心を打つ。そういう構図です。
新自由主義と復古主義をつなぐものは、個人の自由を否定する権威主義です。この三つが同居する改正草案前文は、キメラのように不気味です。
(編者注:以下、明日の最終回に続きます。それにしても安倍首相の精神は、爛れ切っています)


憲法の勉強の第8回は、知る義務についてです。次回はいよいよ「憲憲改正の真実」の最終回です。


小林:今の安倍政権を眺めると奇妙な構図が浮かんできます。この本の冒頭で問題提起したことですが、与党・自民党は、憲法を擁護する義務を放棄しています。
安保法制があのような強硬な形で、議事録に採決の様子も描写できないようななかで可決された。あるいは、国会議員の四分の一以上が求めたにもかかわらず、臨時国会が開かれなかった。安倍政権下でのこの国のありようというのは、まさに憲法停止状態に陥っている。要するに、自民党は憲法を否定し、体制を静かに転覆した。憲法擁護義務のある権力者が
憲法を擁護せず、違憲立法まで行うこの状況は、クーデターと言っていい。

樋口:安倍政権の場合は逆に、権力を掌握して独裁的に国会運営をして、実質的に憲法停止状態をつくってしまうということになっている。

小林:普通のクーデターならば打倒される側である権力者が、みずから権力を用いて体制を破壊している。とても奇妙な構図です。しかし、やっていることは憲法の停止と、その憲法下にある体制の転覆である点は変わらないわけです。

「憲法制定権力者としての国民の自覚」
小林:連合国が事実上、憲法制定権力を行使して、日本国憲法ができて、名義人は日本の国民大衆になった。幸い、とても良くできた憲法をもつことになった。だから、憲法制定権力を握った連合国による押しつけ憲法で構わないんですよ。国民主権と人権尊重と平和主義を基本理念とする日本国憲法は、私たち一人ひとりが幸福の追求ができるように書かれた立派な憲法なのだから。
しかし、この立派な憲法の制定過程で、ひとつ重要な問題が残されてしまいました。名義人である国民大衆は、自分たちで憲法制定権力を行使したわけではないから、憲法をつくったという実感がないのだということです。
実感がないから、押しつけ憲法だと言われるとそうかなと思うし、安倍政権による憲法破壊も、なんとなく見過ごしてしまいそうになる。

樋口:日本についてはご指摘のとおりだったのであり、だからこそこの70年あまり、この国はこの憲法を試行錯誤のなかで運用し、自分たちのものになるようにしてきました。しかし、政治に参加する「市民」としての意識をみんなでさらに強化していかなければ、この難局は乗り切れません。

小林:逆に言えば、憲法を反故にしたこの政権を倒さないと、我々が本当の意味での憲法制定権力者になれないんですよ。
私たち一人ひとりが幸せになるためのサービス機関としてつくった国家権力機関が、もし誤作動したら、一時的に国家権力機関のトップにいる人たちを首にすることもできる。
もちろん、国民が憲法の書き換えだってすることができる。私たちは、政治に参加する「市民」だと樋口先生はおっしゃいましたが、もっとはっきり言えば、私たちには革命権がある。違憲政府を倒す運動、この憲法奪還の運動が成功すれば、はじめて我々国民が革命を体験することになりませんか。

「憲法を奪還し、保守する闘い」
小林:我々の憲法を奪還し、保守していくためにどういうことをするべきなのか。
ヒントになるのは樋口先生の「知る義務」という言葉です。国民の「知る権利」という用語は定着していますが、国民の「知る義務」というのは新鮮です。

樋口:国民の「知る義務」という言葉が私の口からはじめて出てきたのは、秘密保護法問題についての取材を受け、「秘密保護法は知る権利を侵害する」と答えたときのことです。これは、もちろん基本の論点です。でも、さらに私はこう述べたのです。「同時に、この秘密保護法というのは、『知る義務』を国民が行使することをも妨げる」と。
「知る義務」という言葉で私が言いたかったのは、我々の公共の杜会を維持し、運営していくために必要なことを「知る義務」が国民にはあるということです。
もちろん、普通の国民に危険を冒してまで秘密を探れということはできません。たとえば、戦闘的なジャーナリストに、そういうことをしてもらわなくちゃいけない。それはまさに、我々の「知る権利」を代行してくれるわけです。
ところが、仮に、そうやって体を張って「知る権利」のために尽くしてくれる人がいたとしても、受け手の国民一人ひとりが関心をもたなければ、公共の社会の維持に資することはできませんね。
しかし、現実にはたとえば、沖縄返還で日米にどういう密約があったかを知るよりも、西山太吉記者と女性事務官との間柄のほうが注目される。

小林:沖縄返還に際して日本がアメリカに大金(裏金)を支払うという政府間密約があったという重大な事実よりも、外務事務官と不倫関係だったんじゃないかなどという憶測ばかりが新開を埋め尽くした。

樋ロ:しかし、国民の側が本来、知るべきだったこと、興昧関心をもつべきだったこと、つまり権力者のあり方をチェックして、本当にこの社会は正常なのかを判断していく材料にするべきだったことは、そこではないわけです。我々、国民の側が知るべきことを「知る義務」を怠った結果が、あのきわめて嘆かわしい状況だった。

小林:この国で起きていることについて知らなければ、正しい投票ができない。今の国民が「知る義務」を果たすかどうかで、この先、何十年か、あるいは数百年も続く、体制が決まってしまう。その緊張感がもっと必要です。
(編者注:WTWが、誰でもとっくに知っている(はずの)解説を、長々と連載しているのも、知る義務を全うしたいためです)
関連記事。衆院憲法審、野党欠席で開催へ。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018112801088&g=pol
関連記事。自民、改憲案、今国会提示断念へ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181128-00000094-mai-pol
コメント:油断は禁物です。一旦安心させた後で、いきなり強行採決をして、国民の寝首を掻く(おそらく参院選と同時の国民投票)。それが某政党の常套手段だからです。


樋口と小林の「憲法改正の真実」の最終回です。

「虚偽の愛国心と真の愛国心」
樋口:ここで、明治の先達がどのように国民に立憲政治への参加を呼びかけていたかをご紹介しましょう。権力に対して緊張感をもって政治を行っていた明治の政治家からこそ、「立憲主義の危機」に直面する我々は学ぶことが多いのです。
竹越典三郎という、ジャーナリスト出身で賀族院議員にもなっている人物です。その竹越が明治三四年に出版した人民読本という本があるのです。明治立憲政治を担う次なる世代の子供たちに読ませたいとつくった「読本」です。次の国政選挙から投票権が満18歳以上に拡げられようとする今の今、ぴったりするではありませんか。
その、第四章「虚僑の愛国心」には、こう書いてある。
「何事にても我国民の為したることは是なりとするが如きことあらば、これ真正の愛国心にあらずして、虚偽の愛国心なることを忘るることなかれ」

小林:すごいなぁ。つまり「自分の国の人間がしたことは、すべて正しいなんて言うのはインチキの愛国心の成せる業だ」と言っているんですね、「そんなことをしていると、他国に向き合うときの国民の信用や威信を傷つけてしまうから、愛国的な行為ではないのだ…」と、これは、もう、少年、少女よりも、どこかの国の総理大臣に読ませてあげたい。明治時代の書物とは思えないですね。今の日本のことを言っているようです。

樋口:この本に、日露戦争という大きな国民的体験をはさんで1922年に刊行された大正版があり、その第九章には、こうあります。つまり、国家の政治が、個人を生存、進歩させるという目的から外れたときには、その国家の過失を真の愛国心をもつ者ならぱ、積極的に警鐘を嶋らして、是正させるようにしなければいけない。このような行為こそが愛国的な行為である。

小林:これは、まさに私たちがやろうとしている闘いのことですよ。

樋口:さらに続けますね。国家について非難しないことを愛国心と呼び、こうした無批判の状態に乗じて、利益を得ようとする者がいるのが恐ろしいことなのだ、と。こう言っています。

小林:国家の過失をきちんと非難するのが真の愛国だという指摘、本当にそのとおりです。国家や家族への愛を憲法で押しつけようとする現代の政治家とはまったくレベルが違う。愛などというものを法によって国民に強制すべきではないのです。

樋口:放っておくと権力というものは、「愛国心」や「忠義」を上から押しつけてきますよ、ともこの著者は言っています。しかも、その強制によってなにをねらっているのか。誰がそこに乗じようとしているのか。そこに着目しなくてはなりません。そして、次が実に示唆的です。ときに大衆が愛国心や忠義の押しつけをやると警告しているのです。

小林:それはすごい。大衆による愛国心の押しつけというのは、増補版の10年後のファシズム期の日本を予言したようでもあるし、安倍批判をしたらネットで大炎上するといった事態を、100年前に先取りしているとも言えますね。

「新自由主義が憲法前文に登場したら」
樋口:そうですね。おそらくここが今回の闘いの鍵になると思います。
私たちはすでに、安定した社会の基盤を新自由主義によって自民党が破壊し、その被害者である国民の心にあいた穴を偽装の「復古」主義で埋めようとしていると分析しました。美しい国土、家族、伝統、和といった復古的なスローガンが、偽の癒しとして機能している。
つまり、新自由主義が、ゆがんだナショナリスティックな感情を喚起している。
しかも自民党の改正草案の前文では、その新自由主義を国是として憲法価値にまで高めている。その路線を進めれば進めるほど結果としてさらに排外主義的な風潮に拍車をかけることになるでしょう。その構造についてもっと警鐘を鳴らさなくてはなりません。
そして、私たち専門家がこうして分析した本当のことを伝え、市民に「知る義務」を果たしてもらうには、「言論の自由」が残っているうちが勝負です。
このまま、もし日本が専制的な社会になり、軍事という価値が社会の前面に出てくれば、自由の価値は切り下げられ、切り捨てられていきます。

小林:しかも、自民党が強化したい軍事力は、日本国のためでなく、「米軍の二軍」になるためのものです。
「戦後レジームからの脱却」と言いつつ、対米従属は強化し、そのくせ国民に対しては戦後の自由の価値を否定して、東アジア的な専制をねらう。この体制が定着しないうちに、憲法を奪還しなくてはなりません。

「対論を終えて」
『主権者としての心の独立戦争』 小林節
私は、アメリカで学んで29歳で帰国し、30歳から日本で大学の教壇に立ち憲法学を担当してきた。
アメリカでの研究生活で、私は人格が変わるほどの影響を受けた。第一に、人間は皆、先天的に個性的で、その自分らしさが尊重されているときに幸福を感じるものだと学んだ。だから私は、国家が各人の個人としての尊厳を踏みにじることは許(赦)されないという確信を抱いて生きている。第二に、私は個人の尊厳が保障された社会を維持するために、別格の実力を託された国家権力者たちは常にそれを濫用しないよう手続き・ルールを順守しなければならないという確信も抱いている…。
樋口先生の学識の深さは言うまでもないことであるが、なによりも、その「立憲主義」に対する惰熱に感動させられる。今、我が国は、文字通り立憲主義の危機に直面している。この戦いは、私たち日本国民に意識の変革を求めるもので、短期間では決着のつかない主権者としての心の独立戦争のようなものである。
この先数回の国政選挙が決定的に重要なものになる。そして、最悪の場合には、私たちは憲法改正の是非を問う国民投票に直面することになる。そのためにも、私たちは、今、政権の側から提案されている「憲法改正」が実は「憲法改悪」であるという「真実」を知らなければならない。

『あらためて「憲法保守」の意味を訴える』 樋口陽一
小林節と、私は土台を共有している。その土台とは、立憲主義についての私たちの共通理解に他ならない。
それは第一に、権力は制限されねばならぬという基本枠組みにかかわる。形式こそ専制に枠を課す自由の防壁だという意味での、その形式の大切さである。安倍政権が突き進んできた政治の手法のひとつひとつが、この意味での立憲主義に対するあからさまな挑戦としか言いようのないものだった。
共通の土台の第二は、近代立憲主義がその形式を通して達成しようとしてきた実質内容にかかわる。言うまでもなく人権であり、さかのぼって「個人」を社会の価値の源泉とする考え方である。この点でも、都合によっては「欧米と価値を共有」と口に出す人々が、現実の言動によってそのことを裏切ってきた。なにより、2012年に公にし、次の選挙に向けてそれに対する注目を首相みずから国民にあえて促しはじめている改憲草案が、「すべて国民は、個人として尊重される」という現行十三条の「個人」を消し、「人」に差し替えてしまっているのだから。
日本国憲法にとってだけでなく、立憲主義という、人類がともかくも手にした共有財の土台を保守することが緊急の課題なのだ。
私が今「保守」というキーワードに託したいことを言いつづめて表現すれば、次の三つになろう。
第一は、人類社会が普遍的なるものを求める歴史のなかで曲折を経ながらつみ重ねてきた、その知の遺産を前にした謙虚さであり、第二は、国のうち・そとを問わず他者との関係でみずからを律する品性であり、第三は、時間の経過と経験による成熟という価値を知るものの落ち着きである。
今私たちをとりまくのは、そのような「保守」とはあまりに対照的な情景ではないか。
もはや東西の文化に学ぶものなし、と言わんばかりの「日本は日本」という内への屈折、国の内外を問わず「あちら側かこちら側か」を決めつけて「決める政治」を求める性急さ、戦後70年の自国史を支えてきた基本法を「みっともない憲法」と呼んで国民の矜持を傷つける政治の最高責任者。そういうなかで「改憲ぐせをつける」とまで言う政治勢力に基本法を左右させて良いのか。自分自身としてなにができるか。読者とともに問い続けてゆきたい。

(編者注:9回に分けてもなお、全体で250頁ある対話集の、ごく一部を紹介したに過ぎません。安倍首相が政治生命を賭して打ち出している改憲論にはいかなる正当性があるのかを、彼は未だに我々国民が理解できるような形で、或いはロジカルには説明していないのです。だからこそ、安倍政権下での改憲に反対の国民が過半数を占めているのです。もっと言えば安倍首相はそんなに悪いことはしないだろうという、雰囲気の過信は、狡猾な官邸による演出であり、いかなる理論的な根拠もなく、従って危険極まりないものなのです。私達は安倍政権が国民に嘘を吐き、如何なる証言や証拠があろうとも、臆面もなく白を切るシーンを、さんざんみせつけられているのです。改憲の説明だけは正直に話すと期待する方がどうかしています。それでもなおネトウヨと同じように、無条件で安倍首相を信用するというのなら、もはやまともな判断力と常識を備えた人間とは言えません。自分で考える事のないロボットと同じです。そして改憲こそが、安倍首相の国民総奴隷化政策の総仕上げの集大成の事業なのです。彼は一体、日本と国民をどこに引きずっていこうとしているのか。私達はそれを政治家と自分に、不断に問い続ける義務があるのです。それは、子孫にファシズムの国を残さないためなのです。小林節、樋口陽一という二人の学者が、そうした私達の努力の方向を照らす灯台になってくれることを、私は期待しています)