「WTWオピニオン」
【第71巻の内容】
「尊王攘安」
「立憲民主の立ち位置」
「権力と新聞」
「多数決を疑う」
1371.尊王攘安 18/11/22-30
・大嘗祭違憲、220人が12月提訴へ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181130-00000194-kyodonews-soci
関連記事。火消し急ぐ政権。
https://www.asahi.com/articles/ASLCZ532PLCZUTFK00V.html?iref=comtop_8_04
コメント:14億もする建物を作り、祭事が終わればすぐに壊すことを何とも思わない宮内庁や官邸の感覚こそ異常としか言いようがありません。1憶程度の予算で行うべきだという秋篠宮の意見の方が国民感情には明らかに近いものがあります。来るべき東京五輪でも(ついでに大阪万博でも)同じようなこと(壮大な無駄遣い)が起きる可能性があります。安倍政権の下では。政府=安倍政権にとって税金は、湯水の如く使うためにあるようなものらしい。経済感覚がマヒした安倍首相に、財政改善など出来るはずがありません。なぜなら彼から真面目に取り組む意志は全く感じられないからです。まさに国の放蕩息子です。
尊王攘夷であるはずの長州藩(山口県)が、天皇の意向に背く改憲を言い立て、国会で多数を占め、その結果、落胆した平成天皇は退位を申し出ました。もはや政府は、長州藩の為の幕府に成り下がっているのです。
我々国民は今こそ、錦の御旗を押し立てて、国民の為の尊王攘夷(夷はトランプと米国)、打倒安部将軍(長州幕府)ののろしを上げるべきではないか。しかも麻生大臣は副総裁として、英王室(ウイリアム王子)のジャパンハウスオープニング来訪に喜々として参加しているのです。ならばもっと自国の皇室を大事にしたらどうなのだろう。我々国民はあの仏頂面を国会で見せられるのには、もう飽き飽きしているのです。
自民党の保守政党の看板は隠れ蓑であって、実態は右翼でさえなく、戦前のファシズムと独裁がその本質ではないのか。どんなに野党や国民が反対しても、ロクに審議もせずに法案を強行採決。この強権政治の何処に、議会制民主主義や、立憲政治が存在しているというのか。だから麻生がナチス礼賛(欧米でこれをやったら一発でアウト)の発言を性懲りもなく繰り返しているのでしょう。ならばウイリアム王子にもそう言って見ればいいのです。さぞかし興味深い反応が返ってくることでしょう。
いずれにしても、秋篠宮の意見表明は、安倍内閣(偽保守政党)にとって、大きな打撃になることだけは間違いないと思います。天皇家は二代に渡って、安倍将軍に異議を申したてたのです。それこそが異例の事態であり、しかも国民は皇室の味方なのです。
・大嘗祭違憲、220人が12月提訴へ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181130-00000194-kyodonews-soci
関連記事。火消し急ぐ政権。
https://www.asahi.com/articles/ASLCZ532PLCZUTFK00V.html?iref=comtop_8_04
コメント:14億もする建物を作り、祭事が終わればすぐに壊すことを何とも思わない宮内庁や官邸の感覚こそ異常としか言いようがありません。1憶程度の予算で行うべきだという秋篠宮の意見の方が国民感情には明らかに近いものがあります。来るべき東京五輪でも(ついでに大阪万博でも)同じようなこと(壮大な無駄遣い)が起きる可能性があります。安倍政権の下では。政府=安倍政権にとって税金は、湯水の如く使うためにあるようなものらしい。経済感覚がマヒした安倍首相に、財政改善など出来るはずがありません。なぜなら彼から真面目に取り組む意志は全く感じられないからです。まさに国の放蕩息子です。
尊王攘夷であるはずの長州藩(山口県)が、天皇の意向に背く改憲を言い立て、国会で多数を占め、その結果、落胆した平成天皇は退位を申し出ました。もはや政府は、長州藩の為の幕府に成り下がっているのです。
我々国民は今こそ、錦の御旗を押し立てて、国民の為の尊王攘夷(夷はトランプと米国)、打倒安部将軍(長州幕府)ののろしを上げるべきではないか。しかも麻生大臣は副総裁として、英王室(ウイリアム王子)のジャパンハウスオープニング来訪に喜々として参加しているのです。ならばもっと自国の皇室を大事にしたらどうなのだろう。我々国民はあの仏頂面を国会で見せられるのには、もう飽き飽きしているのです。
自民党の保守政党の看板は隠れ蓑であって、実態は右翼でさえなく、戦前のファシズムと独裁がその本質ではないのか。どんなに野党や国民が反対しても、ロクに審議もせずに法案を強行採決。この強権政治の何処に、議会制民主主義や、立憲政治が存在しているというのか。だから麻生がナチス礼賛(欧米でこれをやったら一発でアウト)の発言を性懲りもなく繰り返しているのでしょう。ならばウイリアム王子にもそう言って見ればいいのです。さぞかし興味深い反応が返ってくることでしょう。
いずれにしても、秋篠宮の意見表明は、安倍内閣(偽保守政党)にとって、大きな打撃になることだけは間違いないと思います。天皇家は二代に渡って、安倍将軍に異議を申したてたのです。それこそが異例の事態であり、しかも国民は皇室の味方なのです。
1372.立憲民主の立ち位置 18/12/2-3
どういう形を取るか分からないし、時期も未定ですが、今後、平和憲法の擁護と民主主義の実現のために、国民の意識改革、言い換えれば静かな市民革命が始まるでしょう。政権と御用メディアが、いかに安倍首相は国の為に努力しており、首相に相応しいかを力説しても、目の前にこれだけの経済格差がそびえている以上、現政権が正しいと言い抜けることには無理があります。
国民の不満が爆発する最大の理由は経済格差でしょう。それと、官と民への法の不平等です。しかもそれは、安倍政権が憲法の理念と民主主義の根幹、即ち自由と平等を蹂躙してきた結果であり、併せて財政問題を放置してきた結果なのです。
腐敗した政治家と官僚がはびこる政府側が、いかに安倍政権の妥当性を国民に説こうとも、目の前にある「格差」を正当化することは出来ません。国民の不満が、革命、またはドラスティックな変化を、不可避なものにするでしょう。外国人を奴隷化する入管法で、国内で増える外国人労働者から、火の手が上がる可能性も否定できません。人間はそう長い間、理不尽な抑圧には耐えられないからです。
一方で、WTWが危惧しているのは、腐敗した労働組合の存在です。市民運動の足を引っ張る公算が高いからです。そうなる前に、心あるジャーナリストは、連合を含む労組の実態を暴いておく必要があります。自身の存続が最大の存在理由になっている農協と同じような、旧態以前の、硬直化し形骸化した労組は、従業員の御荷物以外の何物でもないからです。
ところが労組の解体を、自民党は喜ばないでしょう。何故なら安部政権は連合を手なづけて、その意見を取り入れているという説明で、法案の強行採決を押し切ってきたからです。連合批判、連合解体に待ったをかけるのは、他ならぬ自民党でしょう。
しかも市民は野党にも期待は出来ないのです。市民の味方を名乗りつつ、実は自党ファーストの野党が、むしろ市民運動の行く手に立ち塞がるからです。それくらいなら、自民党のリベラルな議員と組んだ方がましなのです。立憲民主の自我肥大症状の最たるものが、枝野による、次の首相は枝野発言です。
私が枝野と山尾を信用していないのは、この二人が、口では草の根からの民主政治を謳いながら、市民運動には殆ど興味を示していないからです。せめて代表が長妻になり、江田を共同代表に招くくらいのことをしないと即戦力にはならないと思います。
リベラルな国民の先頭に立つべき労組と野党が、むしろ自民党以上に、市民運動の阻害要因になる。それが日本の政治の、皮肉な現状だと思います。
・立憲が内閣不信任案。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6305462
コメント:どうせ否決です。だから時間稼ぎ以上の効果はありません。そんなことよりも、もっと大事なことがあります。それは立憲の議員は身を粉にして、もっとマスコミや集会に出て、民意を吸い上げながら反自民の世論を作り上げてゆく事です。偉そうに構えて理屈だけ述べていても、誰もついてきません。そうした教条主義、あるいは原理主義的な態度が、枝野、山尾、蓮舫の最大の欠点です。
米大統領選で何故民主党が敗れたのかさえ理解出来ていないのではないか。敢えて説明しますが、米民主党は、高度な教育を受けた中産階級、即ちエリート向けの政党だと思われて、労働者から見放されたから、トランプが棚ぼた式に政権を手に入れたのです。
現状の日本では、気持ちの上では共産党の方が立憲よりも国民に近いのです。しかも最近の若者には容共などいう言葉は通用しません。真に国民主体の、保守本流の政党を作れば、右傾化した選挙民も取り込む事が可能になります。
本来は保守本流であるべき自民党は、極右でさえなく、ファシズムの政党に堕落したのです。それは皇室との関係を見ても明らかなのです。
自民党が劣化した原因は、いうまでもなく安倍晋三の独裁です。しかもメディアは独裁と言わずに一強と言う。そこにも「忖度」が働いているのです。
野党第二新党の党首には小沢、共同代表に志位、幹事長には江田が良いと思います。それは立憲を除く野党連合です。一度、二大野党を作ってから、統合すればいいのです。ところが国民民主は出自(小池の希望の党)が悪すぎて、核には出来ません。人材がいくら良くても、政党の理念がずれていれば存在理由はないのです。自民党の政治的な狂気は、安倍を「取り除く」まで、なくならないと思います。従って党内野党には期待できません。国民が進次郎に期待して肩透かしを食ったことでもそれは明らかです。ならば国民が自ら、自分達の為の政党を作るしか、日本に民主主義を取り戻す方法がないではありませんか。
1373.権力と新聞 18/12/1-6
今日から始まる新連載は「権力と新聞の大問題」望月衣塑子、マーティン・ファクラー、集英社新書、です。今回の本は、ささやかながら情報発信側に身を置く自分にとっても、大きな関心のあるテーマです。憲法の次は、民主主義の第4の権力、報道の問題です。
「はじめに」 望月衣塑子
いま日本は、岐路に立っている。そして、日本の新聞も岐路に立たされている。私は官邸の記者会見に通い続けて安倍政権の動きを注視する日々を送る中で、そう強く感じている。このままでは危ないという危機感が日増しに強くなっている。
第二次安倍内闇は、安倍一強と呼ばれるように権力を把握し、安保法制、特定秘密保護法、テロ等準備罪という名の共謀罪など、国家権力による統制を強める法律を数の力によって打ち立ててきた。こうして安倍晋三首相の悲願である窟法改正に向かってずんずん突き進もうとするのを、私たちは黙って見ているわけにはいかない。「もはや自分たちを止める者はだれもいない」とでも言わんばかりの政権に、日本の新聞を姶めとするメディアは「待った」をかける力があるのだろうか。(編者注:入管法も2日の審議で強行採決しました)
第二次安倍政権になって特にメディア・コントロールを強化してきた。メデイアのトップとの頻回な会食や、情報操作を行う一方、高市早苗総務相(当時)による停波発言、放送法四条の撤廃を打ち出すなど、アメとムチを巧みに使い、政府にとって都合のいい報道をメデイアが“忖度”していくよう促している。
「それでは真のジャーナリズムとは言えないよね」
対談中、マーティン・ファクラーさんに何度も言われた。ファクラーさんはニューヨーク・タイムズ日本支局長を始め、20年以上、日本を拠点にしてアメリカや世界各国の取材に飛び回り、権力とジャーナリズムの関係性を問い続けてきた国際的なジャーナリストだ。
今回、ファクラーさんと対談して、安倍政権とトランプ政権のメディア対応には共通点がいくつもあることがわかった。政権に批判的なメディアに陰に陽に圧力をかけるというのがそのひとつだ。ところが、日本のメディアがそれに屈し、萎縮してしまっているのに対し、アメリカのメディアは、ジャーナリストとしての闘志を燃やし、トランプ政権に毅然と立ち向かい続けている。アメリカのジャーナリスト魂はトランプ政権になったことで、再びその闘志に火がついたように見える。
ベトナム戦争を分析・記録したアメリカ国防総省の機密文書の存在を暴露したワシントン・ポストの社長と編集局長を描いた映画「ペンタゴン・ペーパーズ」/撮高機密文書は空前のヒット作となり、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストの販売部数は過去最高の売れ行きだという。
「日本の新聞も、本当は安倍政権に立ち向かう力を十分に持っている」
日本の記者をずっと見てきたファクラーさんはそう言った。実際、新聞報道をきっかけとして巻き起こった森友・加計疑惑は安倍政権に大きな打撃を与えている。その後も財務省の公文書改ざん、自衛隊の日報隠蔽、厚労省の裁量労働制のデータねつ造など、新聞などのメディアによる調査報道が活気づけば活気づくほど、安倍政権の支持率は下がっている。
インターネット時代の到来という新たな社会の枠組みの中で、新聞は何を伝えるべきか。ジャーナリストの使命とは何か。今回、ファクラーさんとじっくり話し合ったことで勇気と希望を持つことができた。
ネット時代のいまだからこそ、真のジャーナリズムとは何かが問われている。記者が市民とともに、日本のジャーナリズムの在りようを少しずつ変えていくには、不断の努力が必要だ。そして、その努力なくして、日本を民主主義国家たらしめることは不可能であることも、改めてファクラーさんから教えていただいた。
多くの読者の方々にとって、この本がよりよい社会を形作っていく、希望と夢と力を与えてくれるための一助となることを願ってやまない。
「新間は安倍政権に屈したのか?」
望月:いま日本の新聞やテレビを始めとしたマスメディアを取り巻く状況として、まずふたつの問題があります。ひとつは、一部のメディアは政権をチェックするという役回りより、政権とともに力を肥大化させていること。もうひとつは、インターネットによる惰報が広く国民に伝わるようになったことで、新聞の存在意義を読者に感じさせる力がかつてより弱まっていることです。
新聞を含む大手マスメディアは、政権をチェックしようという意識が弱体化しているばかりでなく、その中から、むしろ政権に寄り添うような報道を続けるメディアや記者も出てきました。(編者注:今になって出てきた訳ではありません。読売、産経などはむしろ一貫して自民党支持です)
ファクラー:世界的に見ると、どの民主主義国家においても、政権がメディアに対して圧力をかけようとするのは珍しいことではありません。政権を運営するうえで、現政権に不都合な報道ができるだけ行われないように、メディアへの惰報操作をしようとするのはよくあることで、トランプ政権だけでなくオバマ政権でもそういうことをしていました。ただアメリカのメディアはトランプ政権に対してもオバマ政権に対しても、そうした力や情報操作に屈しないで報道するのがジャーナリズムであるという基本姿勢があります。
日本は戦後、五十五年休制が長く続いていたおかげで、与野党の馴れ合いと、政権とメディアの馴れ合いという構造の中で報道が行われてきました。政権交代はあったにせよ、基本的に民主党政権までは、政権とメディアの関係性は、その延長線上にあった。つまり、権力による圧力や情報操作に屈しないジャーナリズムが育ちにくい環境だったと思います。
望月:そこに第二次安倍政権が出てきて、日本のメディアの体質に乗じて、意図的なコントロールが始まっているということですね。
フアクラー:第二次安倍政権は、従来の政権とは違い、メディアへの情報操作をしたり、特定のメディアに強い圧力をかけたりして、メディアがまるで政権の広報のような靱道をすることが起こり始めました。(編者注:特にNHKの、しかも報道局の姿勢に、それを強く感じます)
ファクラー:政権を取材する記者が、どういう姿勢で取材対象に向き合っているか。その点で、私が長年、日本のジャーナリズムを見てきて強く感じているのは、「アクセス・ジャーナリズムと調査報道」についてです。
アクセス・ジャーナリズムとは、権力に近い側に寄りそって取材し情報を得ること。アメリカでは「アクセス・チャンネリズム」という言方もします。その一方にあるのが調査報道や市民型ジャーナリズムです。メディア独自の調査を丹念に積み上げ、現場の取材を重ねること、それらによって、そのメディアなりに確証を得た事実を報道し、問題提起をしたり社会に訴えたりする。これは、そのメディアが責任を持って調査報道をするという意味で、「アカウンタビリテイ・ジャーナリズム」という言い方もされます。
そして、日本では、このふたつのうち、アクセス・ジャーナリズムのほうが非常に強くて、 調査報道や市民型ジャーナリズムが非常に弱い。これが日本のジャーナリズムの大きな問題だと思います。記者が政府関係者などと良好な関係を築き、そこで惰報をもらって報道する。たとえば、記者クラブが仕切っている会見では、多くの記事がそれで成り立っているので、政権が発表した内容通りの記事ばかりになる。つまり、政権に都合のいい記事になりやすいのです。
そうしたアクセス・ジャーナリズムの中で、政府関係者が意図的に記者に流した惰報をそのまま記事にする記者がたくさんいます。そのリークは政府に都合のいい報道をさせるためのものです。それに易易と手を貸してしまうのは真のジャーナリズムとは言えません。
(編者注:以下続きます)
権力と新聞の第二回です。
「森友・加計疑惑以上に政権に都合の悪い問題を報じなかった新聞」
望月:森友学園・加計学園疑惑は新聞各社それぞれ調査報道に力を注いで大きく報じましたが、同じ時期に起きたフリージャーナリストの伊藤詩織さんが警察に「性的暴行を受けた」と訴えた事件についての新聞報道は、まさに時代に追いついていない、大手新聞の旧体質そのものでした。詩織さんが勇気を持って顔と名前を公表して記者会見をしたというのに、新開各紙はそれを大きく報じようとはしませんでした。
実はこの問題は、「モリカケ」疑惑と同じように、安倍首相や麻生太郎財務大臣に食い込んでいた人物が当事者だったので、安倍政権を揺るがすような問題に発展しても不思議はありません。詩織さんが告発したのは、元TBSのワシントン支局長でした。告訴状は受理され逮捕状が出たのですが、なぜか逮捕執行直前に取り消しになりました。彼は幻冬舎から『総理』という本を出し、「総理にもっとも食い込むジャーナリスト」として一躍有名になった人です。
紹局、彼は不起訴処分となり、詩織さんは検察審査会に不起訴不当の申し立てをし、同時に記者会見を開き、カメラの前で自らの顔を出し被害を訴えたのです。
ところが、新聞各紙の記者が会見に出席したにもかかわらず、大手各紙は記事にしませんでした。東京新聞は私の同瞭が取材に出向き、翌日、一段見出しのベタ記事で掲載されました。朝日新聞は、この問題に強い関心を持っていた記者が後日、やはりベタ記事でしたが掲載しました。大手紙では他に毎日新聞が後日、やや大き目に報じました。
ファクラー:その背景には、やはりアクセス・ジャーナリズムが潜んでいる感じがしますね。司法記者クラブ側が検事や検察審査会の側に対して「一度不起訴になった件を大きく掘り起こして大きく報じるとアクセスに亀裂が入りかねない」という忖度がきっとあるんでしょうね。日ごろから記者たちは検察が言ったことをそのまま記事にするわけでしょ。その情報やリークの裏に何があるかをほとんど調べようとはしないで。
望月:大手メディアの趨勢は、やはり検察の「不起訴相当」という判断には、あえて異を唱えないという空気があります。
望月:詩織さんのことも、結局、ニューヨーク・タイムズやBBCがしっかり報道しているのに、日本の大手メディアは報じようとしない。それで、どういうことになるかというと、やっぱりネットが大騒ぎになっているわけです。「海外の大手メディアが報じているほどの一大ニュースなのに、なぜ日本の新聞やテレビなどのマスメディアは何も報じないのか」「総理のお友だちの問題だからメディアは報じないんだ」「結局、付度マスコミじゃないか」という声が噴出しているんです。
そんなふうにネットが大変なことになっているのは、もちろん各社の記者も知っているので、その後に始まった民事裁判には足を運んでくるんです。それで各新聞社の紙面には書かれていないけれど、デジタル版には記事が掲載されるという状態になっているわけです。ネット社会の中では、みんなが問題意識を持っているのが明らかなことでも、新聞として正面から取り上げないというのは、やはり日本の新聞が時代に追いついていないと言われても仕方ないと思います。
ファクラー:ここは非常に大事なポイントですね。ネットとかソーシャル・メディアによって社会に変化が起きたということです。いままでのニュースに見られなかったような透明性がそこにあって、取材のプロセスまでが多くの人たちに見られるようになりました。いままでは、取材した記者が紙とペンで全部書いて、自分の記事を打って、それをニュースとして発信していくという形しかなかった。それがさまざまなところから、いろいろな形で発信されたものをだれもがすぐに見られるようになりました。そういう変化が起きているのに、新聞が昔のままのスタイルで書いていることをいったいだれが読もうとするのでしょうか。 特にネットに慣れ親しんでいる20代、30代の人たちは、昔のジャーナリズムが続けてきた一方通行の情報発信には価値を見出していません。メディアから読者へ、メディアから国民へと一方的に送られてくるパターンにはもう満足できないのです。双方向のやりとりをするツーウェイの情報交換の形もあるし、複数の人たちがSNSで意見交換をする方法もあるわけです。
(編者注:以下次号に続きます)
権力と新聞の第三回は記者クラブの存在です。
「記者クラブという日本的な横並び」
ファクラー:私が記者として日本で取材をするようになって、もっとも驚いたのは公的機関や 業界団体など、各組織ごとにある記者クラブの存在です。これは実に日本的なシステムです。明治時代に初めて記者クラブが作られたときは、取材に非協力的な帝国議会に対抗するという目的がありました。それは、ある時期までは意義のあるものだったわけですが、やがて主要メディアの既得権益を守るための存在になっていったと思います。
日本の場合、この記者クラブこそが、さっきから何度も言っているアクセス・ジャーナリズムの主要舞台となっています。いつも当局の発表を待って、それを伝えるだけの受け身なジャーナリズムを生み、権力に都合のいい情報だけを国民に伝える役割をしてしまいがちなのです。
その体質は非常に排他的で情報を寡占的に得て、クラブ内の横並びや談合体質を生みやすい。その結果、どのメディアも均一で似たような内容の報道しかしなくなってしまいます。
「閉鎖性を加速する記者クラブ」
ファクラー:国民の知る権利と報道の自由のためには、記者クラブは少なくとも、もっとオープンな場所にするべきですよね。十数年前、私がウォール・ストリート・ジャーナル日本支社の記者だったとき、銀行・金融政策担当でした。日銀の福井総裁の記者会見に出たいと思って日銀の広報に申し込んだら「こちらではなく記者クラブに許可をもらってください。幹事社は日経ですので、そちらへどうぞ」と言われました。不思議なシステムだなあと思いながら日経の幹事の人に頼んだら「ダメです」と言うんです。
望月:え? ウォール・ストリート・ジャーナルの記者に日経の記者が「日銀総裁の会見には出ちゃいかん」って言ったんですか?
ファクラー:当時、世界第二位の中央銀行がそんなメディア対応をしているなんて信じられませんよね。幹事にそう言ったら「じゃあ出てもいいけど、質問はしないでください」と言うのです。これまた驚きました。記者が取材に行って何の質問もしないなんて、中学生の社会見学でもあるまいし、ありえないですよね。それで日銀に掛け合ったら「いや、うちが管理してるわけじゃなくて、あくまでも記者クラブのほうでやっていることなので」と取り合ってもらえないのです。
要は、日銀がメディア対応に介入しなくてもいいように、日銀の都合のいいように記者クラブがメディアをコントロールしているということですよね。取材対象の顔色を窺いながら記者クラブを平穏に運営して、ほとんど当局が発表した通りのことを書こうとするわけです。
そういう記者クラブの体質は、その後の東日本大震災のときもまったく変わっていませんでした。
「望月攻撃で炎上するメディア」
望月:アメリカのブライトバートは、トランプ政権の御用メディァとして有名ですが、最近、もしかしたら産経新聞は「日本のブライトバート」になりつつあるんじゃないかと思います。安倍政権寄りの報道を続け、官邸の会見でも、かならず慰安婦問題で韓国を批判して、中国の動きについて過敏な反応をして問題視しています。新聞として独自な個性を持っているのは、ある意味、明確で評価できるんですが、メディアとしてちょっとどうかという面もあります。
たとえば、産経新聞は夕刊をやめて、そのぶんネット戦略に力を入れています。具体的には、ネット右翼に受けるようなことをじゃんじゃん書いて、アクセスを稼ごうという手法です。私に関することで言えば、「官房長官の記者会見が荒れている! 東京新聞社会部の望月記者が繰り出す野党議員のような質問」というふうに批判記事を書いて、そこに賛同する人たちのアクセスが集中していくわけです。
ネット時代の新聞のあり方についての話で言うと、産経のこういう手法もひとつの形なのかもしれません。ネット右翼相手のビジネスに特化して、もうそれ一本で生き残ろうというマーケティング戦略にも見えます。私に対する攻撃的な記事もそのひとつでしょう。
だから、たとえば「望月記者の質問に『それは金正恩委員長に聞いてきたら?』と菅官房長
官の神対応」などというバカげた記事がどこかに出ていると聞かされても、そういうのはもう見ないで無視するようにしたんです・
望月:ウィキリークスとスノーデンの事件はふたつとも世界中が大きな衝撃を受けましたね。アメリカだけでなく、海外の政権やメディアにも激震が走りました。まず、ウィキリークスを見て驚いたのは、元ハッカーの高度な情報通信技術をもってすれば、政府の最重要機密を匿名で告発するサイトを作れてしまうということです。
スノーデン事件は、本にもなったし映画にもなったから、日本でも有名になりましたが、NSAが、あらゆる人の個人情報を収集し監視するためのシステムを作り上げようとしているというとんでもない事実が明かされました。電話での通話やメール、ネットなど、世界中のあらゆる通信経路を通過する情報のすべてをNSAが掌握しようとしている。そういう社会に私たちはいるんだということを突き付けられました。日本では、スノーデンの告発による警告をアメリカの話のように思っている人が多いけれど、実は他人事ではありません。
オリバー・ストーン監督の映画「スノーデン」にはアメリカの機関によって「マルウェア」という悪意のあるソフトが日本のインフラに仕込まれているという、日本の横田基地に駐在していた彼による情報が出ています。これは日本中に張り巡らされているインフラを含むコンピュータシステムを、すべて止めてしまう恐れのある非常に危険性の高いソフトです。それでも 日本政府は、この件をアメリカ政府に確認している気配がどこにもありませんでした。
「朝日新聞の逆襲」
望月:第二次安倍政権が「安倍一強」と呼ばれるほど強い権力を持つことができた理由のひとつは、メディアコントロールが非常に巧みなことです。安倍政権にとって都合のいい報道をしてくれるメディアには手厚く報いる一方、政権に批判的なメディアは攻撃しています。
具体的に言うと、安倍政権に好意的で、安倍首相のお気に入りと言われてきたメディアは、NHK、日テレ、フジテレビ、読売、産経。こういったところには、首相の単独インタビューも含めて快く取材に応じますが、それ以外の記者の質問にはまともに答えようとしません。
そのうえ、安倍政権は、はじめは政府に対して批判的だったメディアにも、アメとムチを駆使して味方につけてしまうという技も持っています。たとえば、かつて自民党に批判的だと見られていたテレビ朝日は敵対関係を解消させたと聞いています。そうやってメディアを手なずけたり脅したりして、安倍政権に都合の悪い報道が出ないようにしておく。そのおかげで、国民は「安倍政権には特に問題なさそうだから、とりあえず任せておこう」となって、支持率は安泰というわけです。
それが、安部政権の天敵と呼ばれる朝日新聞の調査報道をきっかけに起きた森友・加計疑惑によって、大きく風向きが変わりました。「安倍首相は夫婦そろって自分のお友だちに利権を与えていたのか」という国民の厳しい声が高まっていった。それでも安倍政権は、野党の失速のおかげもあって解散総選挙に勝って政権を維持しました。
森友・加計疑惑は、籠池夫妻が口封じのように延々と勾留されたまま,「悪いのは安倍夫妻ではなく維池夫妻」という政府による印象付けが強引に行われ、加計学園はおとがめなしで獣医学郡の開設が認められました。政府は安倍一強を盾に、まんまとこの問題の幕引きを図ろうとしたわけです。
ところが、そうはさせまいと朝日新聞は、問題迫及の手をまったく緩めませんでした。朝日のスクープによって明らかになった森友疑惑が、ちょうど丸一年たった2018年3月、朝日新聞は再びこの問題で安倍政権を窮地に追い込みました。財務省による公文書改ざんという大スクープです。
ファクラー:私たち日本外国特派員協会としても、森友疑惑のスクープを高く評価し、朝日新聞大阪本社社会部の吉村治彦さんと東京本社国際報道部の飯島健太さんに日本調査報道賞を贈りました。
(編者注:以下続きます)
権力と新聞の第4回です。
「政権のメディア掌握術」
ファクラー:日本の新聞各社を見て不思議だと思うのは、記者クラブというカルテル的組織に同席していながらも、実は横のつながりが弱いことです。新聞社同士で連携して権力と立ち向かうという場面があまり見られません。朝日新聞は朝日新聞のアイデンティティを持ち、読売新聞は違うアイデンティティを持ち、同じジャーナリストであるという共通のアイデンティティで横の連帯をするということがない。
日本のメディアは会社ごとに分断されています。その弱さを安倍政権がうまく利用している。読売新聞に特ダネをあげて、それを利用して朝日新聞を脅かすとかね。メディア同士にケンカをさせているわけです。政権がメディァを分断させて弱体化させている。そういう日本のメディアの構造的な弱さを感じますよね。
望月:それでいて、メディアのトップが安倍首相からお食事に誘われれば喜んで出かけていくんですよね。アメリカの大統領がニユーヨーク・タイムズのトップとしょっちゅう仲良く食事をしているという話はあまり開いたことがないですもんね。
ファクラー:あまり聞いたことがありませんね。
望月:安倍首相は第一次政権のとき、メディア対策がうまくいっていなかったという反省に立って、第二次政権ではメディア戦略に力を入れました。そのための人材をプレーンに迎え入れて、安倍応援団をメディアに広げていきました。
特にテレビをどう使うか。テレビ局をどうコントロールしていくかを重視しました。その中で象徴的なのが、安倍首相がテレビ朝日を政権側に取り込んだことです。そのキーマンと言われているのが、安倍首相のメディア戦略のブレーンのひとりと言われている幻冬舎の見城徹社長です。
見城社長は安倍首相と親しいと同時に、マスコミに豊富な人脈を持っています。その中のひとりがテレビ朝日の早河洋会長です。見城社長はテレビ朝日放送番組審議委員会の委員を務め、現在は委員長職にあり、早河会長にも強い影響力を持っています。
朝日新聞と系列関係にあるテレビ朝日は、かねてから自民党政権に対して、とかく批判的な立場でしたが、見城社長は安倍首相と早河会長の仲を取り持って両者を接近させるという役割を果たしたと言われています。安倍首相お得意のお食事会を見城社長、早河会長、菅官房長官というメンバーで度々開いて、早河会長をすっかり安倍応援団のひとりにしたと言われています。
その結果、それ以前はテレビ朝日の報道系の番組でコメンテーターとして活躍していたリベラル派の浜矩子さんや姜尚中さんといった安倍政権に耳の痛いことを言っていた人たちがテレ朝から排除されていきました。安倍政権批判の急先鋒と呼ばれていた元通産官僚の古賀茂明さんが「報道ステーション」の生放送中にI am not ABEと宣言し、テレビ朝日には一切お呼びがかからなくなったのは有名な話です。
これは私が古賀茂明さんから聞いた話ですが、「報道ステーション」の敏腕プロデューサーとして名高い女性が異動になってしまったり、しばしば安倍政権に辛口なコメントをしていた朝日新聞の恵村順一郎論説委員の降板も、同時期に決定したといいます。
テレ朝以外でも、TBS「NEWS23」では毎日新聞の岸井成格さんが事実上、解任され、NHKでは「クローズアップ現代」の国谷裕子さんも降板してしまいました。国谷さんは2014年に政府が集団的自衛権行使容認を閣議決定したとき、「非常に密接な関係のある他国が強力に支援要請をしてきた場合、これまでは憲法九条が大きな歯止めになっていたが、果たし て断りきれるのか」と菅官房長官に対しても鋭い質問を飛ばすジャーナリストでしたが、それが降板の一因だったとも言われています。
NHK、日本テレビ、フジテレビなどは、もともと安倍政権を敵に回すような報道はしない局でしたが、その中でも国谷さんのような気骨のある人がいるのは「テレビ局の良心」だったはずです。そういう拠点がどんどん崩れ、おまけにそこにテレ朝も加わる形になった。そして、朝日新聞と並んで安倍政権と距離を置いてきた毎日新聞と友好関係にあるTBSも安倍政権に批判的なことはあまり言わなくなっていった。こうして安倍政権によるテレビ掌握がさらに強まっていったわけです。
ファクラー:安倍政権は、そういうところが上手ですよね。マスメディアのトップさえ抑えてしまえば、現場の報道はどうにでもなると思っている。つまり、権力のある者同士が利害を一致させれば、あとは下に向かって付度の連鎖を生んで、自分の思うように周りが動く。そのために安倍首相はメディアのトップと毎晩のように会食をするんですよね。
望月:マスメディアといえども、ジャーナリズムであると同時に民間企業だから、その経営者としては、会社の利益を守るという務めもあると思います。ジャーナリズムだからと言って、なんでもかんでも権力と敵対しなければいけないという法はありません。ただし、メデイアのトップが、いつだれと会食をしても許されるとは思えません。
たとえば、2017年5月24日に安倍首相はテレ朝の早河会長と赤坂の料亭で会食しています。そこには篠塚浩報道局長と、首相番記者も同席しています。問題は、この日はどういう日だったかです。この翌日の5月25日、文科省の前川前事務次官による加計学園疑惑について「総理のご意向があった」という告発会見がありました。このときはすでに「週刊文春」の報道を始め「前川さんの告発記事が出るらしい」という情報が一気に駆け巡っていました。そんなときに自分の局の会長が三時間も四時間も安倍首相と飲み食いしていたというのを「首相動静」で見つけたテレ朝の記者は、どう思ったでしょう。「もしかして前川発言をどう報じるかを相談していたんじゃないか」と思われても仕方ありません。
「首相動静」というツイッター・アカウントやそのほかのツイッタ一投稿を見ると、いつだれと会食しているかというのがよくわかります。識者や財界人や芸能人と楽しそうに食事をしている写真があちこちでアップされています。国際政治学者の三浦瑠麗さんや山本一太参議院議員の名前が「総理!今夜もごちそう様!」というツイッター・アカウントにアップされているのを見ると、こういう人たちとネットワークを作ってるんだなというのがよくわかるんです。
望月:デイヴィッド・ケイさんは、記者クラブについても指摘していましたね。
「日本の『記者クラブ』制度はアクセスと排除を重んじ、フリーランスやオンラインジャーナリズムに害を与えているので廃止すべき」と言っていました。
それにしても、あの萩生田文書のときに驚いたのは、安倍政権がこんな無茶なメディァへの介入をしてきたというのに、テレビ各局が表立って政府に抗議も反発もしなかったことです。
これは総務省に電波法を握られているという構造的な問題も背景にありますが、こうしてテレビの選挙報道が少しずつおとなしくなっていったんです。そのうち「公正中立」を心がけて「賛成意見五人、反対意見五人」のようなVTRを作るのも次第に疲れてしまったのか、嫌気がさしたのか。とにかく、街頭インタビューなどの政治に批判的な報道そのものが選挙報道で見られなくなっていきました。
このころから「会杜は政府とこういう申し合わせのようなことをしているようだけど、そんなのはジャーナリストがやるべきことではない」という問題意識を持った記者たちが、テレビも新聞もフリーやネットも含めて横のつながりで勉強会を開いたり情報交換をしたりするという動きが出てくるようになりました。
メディア各社には「このまま政権に対して何も言えないのはメディアの自殺行為だ」という危機感を持っている人たちはたくさんいるのです。
(編者注:以下続きます。あと2回あります)
権力と新聞の第五回です。今回はWTWの理念や存在理由とも、関係のあるテーマです。
「財務省文書改ざんで見えてきた安倍政権の本性」
望月:森友・加計疑惑は、「安倍晋三とは、どんな総理大臣か」ということをまざまざと国民に見せつける役目を果たしました。安倍首相は、かねてから憲法改正が悲願であり、安保法制や教育基本法改正を推し進めるのは、この人の信念なんだろうと思って見ている人は多かったと思います。
ところが、そういう思想信条とはまた別に、森友・加計疑惑によって、もっと人間臭い部分で安倍首相の政治姿勢がどんどん浮き彫りになりました。自分の権力が強まると、自分が好きな人を集めて好きなように法律を作れるだけでなく、自分や妻のお友だちのために権力を使い、それを批判されても、身の回りの世話をしてくれる人たちが付度して片づけてくれる。国民や報道の自由は束縛したがるけれど、自分の妻は自由にさせすぎて持て余してしまう。それでまた目障りなマスコミやうるさい国民が騒ぎだしても、身の回りの人たちが一生懸命に火消しをしてくれるから、自分は日本国家のために信念を貫いて進んでいこう…。
安倍長期政権を望む人たちは「総理は小さい問題は気にせず、国家のために全力を尽くしてください。モリカケなんて、すぐ終わりますから」と思っていたかもしれないけれど、1年たっても終わるどころか、財務省文書改ざん問題まで発覚して、騒ぎが余計に大きくなってしまいました。
なぜ財務省の官僚は改ざんなどしたのか。この件の責任者だった人間として証言台に立った佐川前国税庁長官は「私以下、理財局の判断でやったこと」と、あくまでも「上からの指示は一切なかった」と言い張りましたが、どれほどの国民が信じたでしょう。加計学園疑惑で「総理のご意向文書はあった」という告発をした文科省の前川喜平前事務次官は、「あのような決裁文書の改ざんを役所の組織が自分たちの判断でやるはずがない。よほどの事情がないかぎり、刑事責任を問われるような不正はしないし、違法だとわかっていることに手を染めることはない。政治的な力が働いたとしか思えない」と喝破しています。どう考えても、安倍首相への官邸の意向が働いたとしか思えません。
ファクラー:それでもなお、安倍首相は「このような問題が二度と起こらないように徹底的に膿を出しきる」と他人事みたいな言い方をしていたところがすごいですよね。一応、「行政の長である私の責任です」とは言うけれど、「私がやらせたわけではないし私は悪くない」と言わんばかりでしょ。せめて「政府のためによかれと思ってやってくれたのだろうけど、よくなかった」とでも言えば、「安倍さんも、ちょっとは反省してるのかな」と思うけれど、「膿みたいな部下が悪いことをした」と言っているのと同じですよね。あれでは「本当の膿はだれだ」と突っ込みたくなりますよね。
ファクラー:日本の新聞も本当は政権に屈することなく闘う力を持っているはずなんですよ。
別に忖度する必要も屈する必要もないのに、わざわざそうしているように私には見えます。それは、国連特別報告者のデイヴィッド・ケイさんが日本に来たときの感想も同じようなものでした。
あのとき、総務大臣だった高市早苗さんがテレビ放送の許認可権を盾にテレビ報道に圧力をかけるような発言をしたことを問題視したデイヴイッドさんに、高市さんは会おうとしませんでした。
さらにNHKの会長も朝日新聞の社長もデイヴィッドさんに会いませんでした。アメリカやヨーロッパであれぱ、少なくともメディアの代表は彼に会って、せめて意見交換したり自分たちの報道の経緯や目的を説明したりするでしょう。彼は各国の言論の自由を守るために活動をしている人ですからね。
ところが、日本では政府の報道機関担当者やメディアのトップはだれも彼に会わない。これ
は、とても不思議なことでした。おそらく「会いたくない」のです。「会うと都合が悪い」ということがあるからでしょう。まるで「会って言論の自由について何かしゃべると政権ににらまれる」とでも思っているかのようでした。それが彼の目にも私の目にも、どうも萎縮して見えるのです。
望月:情報を伝える場合「AP通信によると」というふうに記事を書いておしまいだけれど、ネット・メディアの利点は、記事のネタ元や情報の発信源や日時を貼っておけば、読者がクリックひとつで知りたいことを掘り下げていけることです。
すでにどこかの新聞やテレビやその他のメディアが報じた情報でも、そのWebサイト上で初めて見る読者がたくさんいるわけです。そこで、Webサイトの強みである「文章量の制約はない」「このニュースが起きた時点までクリックひとつでさかのぼっていける」「このニュースに関連する惰報をどんどん読める」「リアルでわかりやすい画像や動画をすぐに見られる」ということを活用して画面を作る。そうなると、そのネタ元がどのメディアであるかということは、読者にとってあまり重要ではなくなってしまうのです。
つまり、かならずしも独自の取材で、他杜に先駆けてつかんだ一次情報を載せたわけではないのに、読者が知りたいことをわかりやすく丁寧に伝えてあげるだけで読者に支持される方法がネット・メディアにはあるわけです。「このサイトにアクセスすれば、私の興味関心があることはたいていカバーできる」という存在感を示せれば、その読者にとっては有用なメディアになれるのです。
(編者注:WTWはそれを40年にわたって続けてきました。但し発足当時は、電子メールしか情報伝達手段がなかったので、リンクを張ることは出来ませんでした、そこで、内外の新聞や雑誌を読んで、要約を作り、上司や社内に報告するという作業を、早朝出勤して毎日続けていました。
NY駐在になってからは、ニュースソースがNYタイムズやウォール・ストリート・ジャーナル、ワシントンポストやフィナンシャルタイムズになり、半日以上かけて要約し、電子メールで日本に送っていました。その要約は、関心があると手を挙げてくれた人たち=主に社内の関係者に、一斉同報していました。
ネット利用が普及してからは、ホームページを開設し、プッシュ型の情報発信から、プル型に変えました。情報を毎日、送って来られることを煩雑に感じる人もいたからです。
但しブログが普及しても、ホームページの形式を維持しました。ブログだと感想を書き込めるので、中には苦情もあるし、それにいちいち取り合っている暇はなかったからです。ホームページには炎上はないからです。
ホームページを開設して、最も便利になったのは、映像にもリンクが張れるようになったことです。これはネット・メディアだから出来る事で、新聞には出来ない芸当です。
ネットの情報サイトを運営する上で、一番大事なことは、ニュースの信ぴょう性です。デマやフェイク・ニュースを流せば、一度で読者から見向きもされなくなります。その為に、WTWでは重要なニュースについては、複数のソースを読み合わせ、事件が大きければリンクも複数張って、事実の報道に間違いのないように務めています。所詮、情報の中継に過ぎなくとも、伝聞そのものが虚偽だと、読者をミスリードしてしまうからです。正に本書で述べている公平性の追及です)
望月:官邸サイドは「インターネットと放送の融合を進めるにあたり、規制のレベルを比較的自由なネットに合わせるべきだ。そのために放送法四条を撤廃する」というようなことを言っていますが、ポイントはその四条に「政冶的に公平であること」という一文があることです。これを盾に萩生田文書のようにテレビ局にプレッシャーをかけてきたのに、今度はネットテレビをダシにして「AbemaTVのように気持ちよく安倍政権の政見放送をやらせてくれるテレビこそ国家のためのテレビだ」とでも言わんばかりです。
テレビ局側は当然、放送法四条の撤廃などという我が身に危険が及ぶことには反対していますが、安倍首相にすれば、モリカケで旗色が悪くなった安倍政権をテレビがこれ以上、追い込むような放送をしたり、憲法改正の邪魔をしたりしないように再びプレッシャーをかけているとも受け取れます。
ファクラー:安倍首相の頭の中には、アメリカの「フェアネス・ドクトリン撤廃」があるんでしょうね。1980年代後半にアメリカの放送局の「政治的公平性」に関する法的義務が撤廃されたのです。なぜそうしたのかというと、「多数のケーブルテレビ・チャンネルが誕生して、テレビが三大ネットワークの独占物でなくなった時代に、個々の局に政治的公平性を義務付けるよりも、自由なメディアを確保することのほうが、国民にとって真の公平を実現することにつながる」という判断があったからです。日本でも大手テレビ局による地上波の他に、BS、CS、インターネット放送が行われているこの時代に、「政治的公平」という放送法がそぐわないんじゃないかという考え方もあると言えばあるでしょう。
でもトランプ政権を見ると、フェアネス・ドクトリン撒廃のおかげでFOXテレビが大手を振ってトランプの応援団をして、三大ネットワークがフェイク・ニュース呼ばわりされるようになったとも言えます。
(編者注:WTWには事実や関連情報を伝えるという目的と、編集者の意見を伝えるという二つの目的があります。但し意見はコメントとして、明確に分けて掲載しています)
権力と新聞の最終回です。
「マスメディアは『中立』を目指す必要があるのか」
望月:「不偏不党」「公平・中立・公正」はマスメディアの基本と言われていますが、実際は安倍政権べったりのメディアが大手の中にすでにいたりします。マスメディアがネット・メディアと同時代に共存していく環境の中では、改めてメディアの客観性とは何か、公平性とは何かを考える時期に来ていると思います。
ファクラー:日本のメディアは「中立」と言いながら、当局が発表したことをそのまま書いて「この記事は中立です」と言ったりしますが、当局そのものは、決して中立ではないわけだから、中立な記事になっているとは言い難い。
大事なのは中立という建前ではなくて、公正です。だれが読んでも「この記事は公正である」という信頼性が必要です。政治的な立場がどうであろうと、事実として公正であるかということは左右などとは本来、関係がありません。メディアの客観性ということについても、大事なのはフェアネス、公正であることです。ある人にとって「これは喜ばしくない記事だ」というものであっても、「これは公正な記事である」というふうに、どの人からもちゃんと評価される記事でなければいけません。
真の中立や哲学的な意味での客観性というのは、本来的には、ありえません。記者が新聞の原稿を書くという作業自体が、実は主観的な作業ですからね。
この問題でもっともジャーナリストが心がけるべきことは、事前に結論を決めてしまってはいけないということです。「これはこういうことだ」という見方をしたまま報道してしまうと、まちがった結論に辿り着いてしまう危険があります。報道というのは、結論で始まるのではなく、質問で始まるのです。そういう質問や検証の末に自ずと辿り着く結論を読者は出してほしいと思っているのです。記者がどんな取材をして何を調べたのか、だれに何を聞いて、どこで何を見て、そして最終的にどんな結論を出すのか。それを読者はいちばん知りたいのです。
そういう結論が何もなくて、妙に客観的なことが書きっぱなしのように書かれているだけで「だから要するに何なの?」と思うような記事は読者にとって価値があるでしょうか。
望月:安保問題でも憲法九条の問題でも、半々に報道するだけで新聞の読者は納得するのか。これから国民的な議論が巻き起こっていくであろう問題について、「この新聞社はどう考えているのか」「この記者はどういう意見なのか」ということを読者は知りたいというのがいまの時代なのかもしれないですね。
昔のように中立神話を信じている人たちばかりではなくて、「じゃあ、あんたはどうなんだ?」という読者のニーズがあるんじゃないか。自由に発言して明確に意見を言うネット・メディアに慣れている人たちは「読売新聞としてはこう思います」「朝日新聞としてはこう考えます」「毎日新聞の〇〇はこう思います」ということを明示してくれるのを望んでいるのかもしれません。
ファクラー:半々に伝えるということが、読者にとってマイナスになるのは、たとえば、選拳に勝ったほうが明らかにウソをついている場合、そのウソを新聞がそのまま事実のように読者に伝えてしまうことです。政権は事実と違うことを言って政権を守ろうとすることがありますから、新聞はいつでもそれを疑って見ていなければいけません。もし疑問な点があったら、それを追及して、ちゃんと読者に伝えるのが新聞の役目です。
望月:半々という問題は、ちょうど国会の質問時間の変更の問題と重なる部分がありますね。いままでの国会は慣例によって野党に多く時間を割いて審議を重ねて与野党の合意に向かっていこうという姿勢があったけれど、今回、与党は「議席に応じて質問時間を決める」と数の論理で押し切ろうという姿勢に変わった。それが「半々」というふうになっていったわけです。
本来、権力の座にある政府与党が法案を出してくるということは、力のあるほうが力のないほうに対して「この法案を認めろ」と迫っているようなものです。そのときに野党や少数派の意見も聞いて吸収していくというプロセスこそが民主主義の民主主義たる所以だと思います。
そう考えると、新聞も「半々」「中立」ということだけを言っていると、政府の持っている力に押し流されていってしまう。政府は強い力を持っているのだから、少数意見も含めて政府案への反論をしっかり言える新聞でなければ、政府と反対の立場の人たちの声が国民に伝わらなくなってしまいます。政府が強い力によって権力の行使をすることをチェックできる機能を持つためには、中立神話よりもファクラーさんが言う通り、公正であること。それがメディアには大事だと思います。
ファクラー:「メディアに半々にしろ」ということは、メディアの主体性を否定するということです。みんなが言っていることをただ半分ずつ伝える。「与党はこう言っています」「野党はこう言っています」ということを伝えるだけならもうメディアは必要ありません。与野党のWebサイトを見ればそんなのはだれでもわかります。
新聞の存在意義は、そこに付加価値があるかどうか。つまり、「政府はこう言っているけれど、こういう疑問がある」「野党はこういう対案を出しているけれど、こういうマイナスがある」というふうに、もう一歩入り込んで読者に伝える。読者が見えていないところを取り出して見せてあげるのがメディアの付加価値だと思います。半々はだれでも見られますから、そこにはもうほとんど新聞の存在意義がないんです。
「文春砲を恐れる政治家たち」
望月:いま官邸を始め日本の政治家は、新聞よりもむしろ「週刊文春」の文春砲を恐れているところがあります。それは国民の反響が大きいからです。新聞が政府の疑惑を追及する記事を書いたときよりも、文春が政治家のスキャンダルを書けば、テレビは朝から晩までそれを追いかけて繰り返し報じます。それで小さな火種がどんどん大きな火事になって、政冶家の辞任や落選につながっていくのです。
文春の記者と話をして感じたのは、新聞と週刊誌の記者の感覚は同じ記者でもずいぶん違うということでした。週刊誌も安倍政権に手痛い批判をすることがあるけれど、同じように野党も批判するし、どちらのスキャンダルでも同じように書きます。それは当然としても、そのときに週刊誌が追及するのは政権自体とか政治家自体というよりも、スキャンダル性の追及を大事にしています。ワイドンョーも食いつきそうなネタを追及していきます。
新聞の場合は、食いつきがどうこうということではなく、社会的な問題意識や、国民の権利と権力のチェックということに主眼を置いています。新聞社や記者が考える理想社会と現実のギャップが少しでも埋まる社会にするためには何を書くべきか。社会に対して疑問を投げたり、政府への疑問を追及したり、それを国民に伝えるのが新聞記者の社会的使命だと思います。もちろん週刊誌には週刊誌の、新聞には新聞の、それぞれの役割があるから「いい悪い」という話ではありませんが、違いはあります。
ファクラー:どっちも両方あったほうがいいですよね。それぞれ別の角度から権力を監視しているわけですよね。国民の知る権利に関わる特ダネをつかんだときに、権力側にそれを潰されないことがいちばん大事なのです。
望月:政治家以外にも権力のある人はいるから、そういう力に負けないメディアであるということですね。たとえば、ニューヨーク・タイムズが大物の映画プロデューサーのセクハラについて大々的に書きましたが、あれがエンターテインメント系の新聞や雑誌だったら圧力をかけて記事を潰したかもしれませんよね。芸能系の記者は、彼のセクハラ、パワハラ行為を長い間、見て見ぬふりをしてきたけれど、ニューヨーク・タイムズはそんな圧力には負けない。それが本当のジャーナリズムのあるべき姿だと思います。
ファクラー:そういうふうに、いまの社会はだれもが声をあげることができます。そういう声があちこちからたくさんあがって、問題提起があったり情報提供があったりする情報社会の中で新聞はどうするのか。ニューヨーク・タイムズも朝日新聞も東京新聞も、そういう声の渦の中でどうやっていくのか。なぜこんなに多くの声がある中で東京新聞の声を聞くべきなのかということをアピールしなければいけませんよね。
そのひとつの存在意義としては、あまりにも声が多いと、どの情報が正しいかという惰報の判断が読者にとって大事になってきます。つまり、一種のフィルターを求めている人もまだたくさんいるのです。そこで既存の新聞が取材力を発揮してちゃんと調べて、「これが事実だ」 「これは事実じゃない」というゲートキーパーとしての役割を果たす。そういうニーズはまだまだあると思います。
(編者注:WTWに限らず、およそネットで情報を発信したり、或いは意見を伝えようとする人には、この本を一度、手に取って頂きたいと思います)
1374.多数決を疑う 18/12/8-10
「多数決を疑う」社会的選択理論とは何か、坂井豊貴、岩波新書、から序文をご紹介します。
「はじめに」
自分のことを自分で決めさせろという希求は、自分のことは自分で決められるはずだという期待に基づいている。この期待はそれが自分に可能だという、希望の発露の一種である。
こうした意思を「自分」でなく、「自分たち」に適用したとき、それは民主制(デモクラシー)を求める思考の基盤となる。伝統や権威、宗教や君主に任せるのではなく、自分たちで自分たちのことを決めてみせよう。どうせ決定は拘束を生み出すのならば、その決定主体は自分たちにしてみせよう。民主制には多様な制度形態があれども、その基本理念とは、およそこのようなものである。
だが自分で決めることと自分たちで決めることには大きな違いがある。一と多の違いだ。自分だけのではなく、自分たちの決定を行うためには、異なる多数の意思を一つに集約せねばならない。具体的にどう集約するかというと、多数決がよく使われる。
むろん単に意思を集約してもしょうがない。まともな情報がないなかで、また深く考えずに投票するのでは、自分たちでうまく決められていることにはならない。だからこそ政府は情報を公開すべきだし、表現の自由は大切だし、知ろうとすることや熟慮することも大事なわけだ。
だがこれらの諸条件がすべて満たされたとして、多数決は人々の意思を適切に集約できるのだろうか。
2000年のアメリカ大統領選挙を例に挙げよう。当初の世論では、民主党の候補ゴアが共和党の候補ブッシュに勝っていた。だが途中で泡沫候補のラルフ・ネーダーが立候補を表明、最終的に支持層が重なるゴアの票を喰い、ブッシュが漁夫の利を得て当選することとなった。多数決は「票の割れ」にひどく弱いわけだ。
多数決という語の字面を見ると、いかにも多数派に有利そうだが、必ずしもそう働くわけで
はない。とはいえそれは少数意見を汲み取る方式でもない。
おそらく多くの人は、多数決に対するそのような違和感を、どこかで感じたことがあるのではないか。その違和感を論理立てた言葉で説明すること。科学的な分析の姐上に載せてみること。それができれば、より優れた意志集約の方式を作れるはずである。またそうした方式作りの可能性を追求することで、何が不可能なのかも見えてくるだろう。
多数決が当たり前のように各地で用いられているわけだが、代替案はいろいろある。そのうちの一つがボルダルール。1位に3点、2位に2点、3位に1点というように、順位に等差のポイントを付け加点していくやり方だ。この方法は票割れ問題にとても強い。むろんこの「票の割れ問題」は定式化せねばならないわけだが、ボルダルールがそれに強いとは、ある建築工法が一定の耐震基準を満たすというようなものだ。
さて民主的でない投票(独裁者への対立候補が抑圧される・対立候補の支持者は投票できない等)はあるが、投票のない民主制はない。投票でどの方式を用いるかは、民主制の出来具合を左右する重大要素である。複数の候補者から一人の政治家を選出する選挙を例に、多数決という投票様式について更に考えてみよう。
多数決のもとで有権者は、自分の判断のうちごく一部に過ぎない「どの候補者を一番に支持するか」しか表明できない。二番や三番への意思表明は一切できないわけだ。だから勝つのは「一番」を最も多く集めた候補者である。そのような候補者は広い層の支持を受けたものとは限らない。極端な話、ある候補者が全有権者から「二番」の支持を受けても、彼らが「一番」に投票するのであればその候補者には1票も入らない。ゼロ票である。
多数決の選挙で勝つためには、どの有権者をも取りこぼさないよう細かく配慮するのは不利というわけだ。とにかく一定数の有権者に一番に支持してもらい、投票用紙に名前を書いてもらう必要がある。政治家だって生活がかかっているし、落選するのは辛い。万人に広く配慮したくとも、一番に支持してもらえないと票に結び付かないので、そうしにくい。その結果として選挙が人々の利害対立を煽り、社会の分断を招く機会として働いてしまう。
だがこれは政治家や有権者が悪いのではなく、多数決が悪いのではないだろうか。しかし多数決を採用しているのは人間である。多数決を自明視する固定観念が悪い。
社会制度は天や自然から与えられるものではない。人間が作るものだ。それはいわば最初から不自然なもので、情念より理性を優先して設計にあたらねばならない。
自分たちのことを自分たちで決めたいならば、自分たちでそれが可能となる社会制度を作り上げねばならない。これは単なる論理的必然である。
テーマは投票、より具体的には多数決の精査とその代替案を探索することだ。それに伴い本書では、このプロジェクトを約250年前に開始した主要人物の一人、ジャン・ジャック・ルソーによる投票をめぐる議諭を並走させ、物事を考える参照点として適宜用いる。これは社会的選択理論の萌芽にルソーが深く関係しており学問的な相性がよいこと、および彼が投票についてきわめて包括的な考察を与えていたという二つの理由による。
250年前とは人類史においてはつい先ほどのことだ。いまだルソーの議論は古びていないばかりか、近代的諸価値がときに羽毛のように軽く扱われ、また価値の過度な相対化がそれに拍車をかける今日において、新鮮でさえある。私たちは依然として、ポスト近代を語れるほどの近代には達していないのだ。
自分たちのことを自分たちで決めるためには、どうすればよいのか。これは思想的な問題であると同時に、技術的な問題である。250年前にはまだ萌芽したばかりであった社会的選択理論は今日、その問いへいくつかの明確な解答を与えられるようになった。以下、本文でそれらを記す。
(編者注:続きは次号で)
『多数決を見つめ直す』
「絶海の孤島での選挙」
ハワイとオーストラリアのあいだに位置している、赤道直下の太平洋に浮かぶ島国ナウルは、面積わずか三平方キロメートル、人口はおよそ一万人である。ようやく独立を回復したのは1968年のことだ。各国がナウルに深い関心を示したのはその島が快適だったからではない。良質なリン鉱石があったからだ。そして独立後のナウルはリン鉱石事業によって莫大な利益を上げた。その利益は国民全員に還元され、税金はゼロになり、政府は無軌道な投責プロジェクトを次々と開始した。当時ナウルの医療や教育は無料であった。
この時期に限っていえばナウルは夢のように快適であった。しかしそれは富を生み続けるリン鉱石事業があってこそのものだ。黄金時代は長く続かず、1990年代に資源が枯渇しはじめると、ナウルの夢は瞬く間にはじけ飛んだ。国家財政は破綻し、物理的インフラは朽ち果て、石油の輸入が途絶えた。ただし治安は安定したままで、社会秩序の維持は続いた。
その後の紆余曲折を経た近年、ナウルの経済は回復傾向にある。2011年にはGDP(国内総生産)の成長率がプラスに転じた。漁業権の販売や、新たな地層からのリン鉱石採掘などがそれを支えている。いずれにせよナウルの治安は安定しており、国政は民主的に運営されている。
米国にはフリーダム・ハウスという民主主義の調査団体があり、毎年、世界各国の民主主義の度合いを発表している。ナウルは「自由」「部分的に自由」「不自由」の三段階評価の.つち、長い問「自由」の高い評価を維持している。なお、2014年には195力国のうち日本を含む45%の88力国が「自由」で、残る30%の「部分的に自由」な国にはメキシコやフィリピン、25%の「不自由な国」にはロシアや中国などがある。ナウルには一院制の国会があり、20歳以上の国民が有権者で、三年に一度の選挙により議員を選んでいるが、そこでの選挙方式が非常に興味深い。日本のように一人の有権者が1名の候補者だけに投票する単記式の多数決ではないのだ。
ナウルの選挙方式は次のようなものだ。いま定数2名の選挙区に5名の候補者が現れたとしよう。すると各有権者はその5名への順位を紙に書いて投票する。そして「1位に1点、2位1/2点、3位に1/3点、4位に1/4点、5位に1/5点」の配点で、候補者は点を獲得する。その点の和が候補者の獲得ポイントとなり、上位2名が当選する。計算にはコンピュータを用いるが、ただの足し算であり、結果を出すのに時間はかからない。
この選挙方式は1971年からナウルで使われているもので、考案者で当時の法務大臣デスモンド・ダウダールの名を冠し、ダウダールルールと呼ばれている。ダウダールルールと多数決はかなり異なるが、多数決は「1位に1点、2位以下はすべて0点」と配点する方式だと考えれば比較しやすいだろう。つまり両者の何が異なるかというと、配点の仕方なわけだ。
有権者は、多数決だと2位以下へ一切の加点ができないが、ダウダールルールだとそれができる。また有権者が順位を決めやすいであろう上位では点差が大きくつく一方で、五十歩百歩で決めにくい下位では点差が小さくなる。こう考えるとダウダールルールの配点はうまくできている。
多数決という意思集約の方式は、日本を含む多くの国の選挙で当たり前に使われている。だがそれは慣習のようなもので、他の方式と比べて優れているから採用されたわけではない。そもそも多数決以外の方式を考えたりはしないのが通常だろう。だが民主制のもとで選挙が果たす重要性を考えれば、多数決を安易に採用するのは、思考停止というより、もはや文化的奇習の一種である。
(編者注:既にあるもの=既得権を含む、を無批判に受け入れる。それが日本人の避けがたい特質なら、今でも徳川幕府が続いていたことでしょう。保守政権だから安心安全という「固定観念」には、百害あって一利もないことは、安倍政権を見れば一目瞭然です。超保守政治の呪縛からの解放。それが独裁政治を終わらせるために、今の日本人にとって、最も必要なことではないでしょうか。以下次号に続きます)
書店で何気なく手に取った本が、書評で特に評判になってもいないのに、読んでみたら(自分的には)かなり面白かったという経験は誰しもあるでしょう。今回ご紹介している本「多数決を疑う」が、私たち真の民主主義を希求している国民にとって、当面の役に立つのかどうか、最終的に何らかの有用な情報や意見が得られるのかどうか、実は未だに分かりません。何故なら完読していないからです。無責任だと言われればそれまでですが、それでもご紹介する部分部分に関しては、示唆に富み、共感を得たからこその、ご紹介であることを、申しあげておきたいと思います。
今回はその第3回ですが、読みごたえがあるので、省略せずにお届けします。私見ですが、、今回は(我々)ノンフィクション分野に強い関心のある者にとって、教科書になるような文章(内容+表現)だと思います。
「多数意見は尊重されるか」
「多数決」という言葉の字面を眺めると、いかにも多数派の意見を尊重しそうである。だからこそ少数意見の尊重も大切と言われるわけだ。だがそもそも多数決で、多数派の意見は常に尊重されるのだろうか。
「はじめに」でも触れたひとつの反例を挙げてみよう。アメリカでは四年に一度、全米をあげての大統領選挙が行われる。選挙期間中は大々的なパレードや公開討論が行われ、街中でも一般家庭が支持候補の旗を窓に飾るなど、なかばお祭り騒ぎの様相を呈する。
アメリカには共和党と民主党の二大政党があり、大統領選では毎回、両党が接戦を繰り広げる。なかでも2000年の戦いは熾烈なものだった。共和党の候補はジョージ・W・ブッシュ、父親も大統領を務めた二世政治家のテキサス州知事だ。対する民主党の候補はアル・ゴア、
環境保護と情報通信政策に通じた当時の副大統顧である。
事前の世論調査ではゴアが有利、そのまま行けばおそらくゴアが勝ったはずだ。ところが結果はそうはならず、最終的にブッシュが勝った。この選挙は、票の数えミスや不正カウント疑惑など、それだけで本が一冊書けるほど問題含みのものだったが、ここでは次の点だけに注目しよう。
途中でラルフ・ネーダーが「第三の候補」として立候補したのだ。彼は、大企業や圧力団体などの特定勢力が献金やロビー活動で政治に強い影響力を持つことに対して、反対活動を長く行ってきた弁護士の社会活動家だ。政治的平等を重視する民主主義の実践家だといってもよい。1960年代には自動車の安全性をめぐって巨大企業ゼネラル・モーターズに戦いを挑み、勝利を収めたこともある。
ネーダーの立候補には、二大政党制に異議申し立てをする、有権者に新たな選択肢を提供するという意義があった。とはいえ二大政党に抗して彼が取れる票はたかが知れている。話題にはなっても当選の見込みはない。
ネーダーの政策はブッシュよりゴアに近く、選挙でネーダーはゴアの支持層を一部奪うことになる。ゴア陣営は「ネーダーに票を入れるのは、ブッシュに票を入れるようなものだ」とキャンペーンを張るが、十分な効果は上げられない。ゴアがリードしていたとはいえ激戦の大統領避挙である。この痛手でゴアは負け、ブッシュが勝つことになった。
特に難しい話をしているわけではない。要するに票が割れてブッシュが漁夫の利を得たわけだ。ゴアにしてみれば、ネーダーは随分と余計なことをしてくれたことになる。そもそもネーダーだって、一有権者としては、ブッシュとゴアなら、ゴアのほうが相対的にはマシだと思っていたのではないか。
避挙の開票に関する混乱ののち、2001年1月にジョージ・W・ブッシュは第43代アメリカ大統領に就任した。そしてその九月に、ハイジャックされた二機の飛行機がニューヨークの空をゆっくりと舞い、摩天楼にそびえ立つ世界貿易センター・ツインタワーに続けて突撃した。アメリカは同時多発テロの襲撃を受けたのだ。
ブッシュは報復とし一連の「テロとの戦争」を始め、アフガニスタンへの侵攻を開始した。さらに彼は自分の父親が大統領だった頃から因縁深い、イラクへの侵攻も開始した。開戦の名目は、イラクのフセイン政権がテロ組織に大量破壊兵器を渡す危険性があるというものだったが、フセイン政権はテロ組織と交流がないうえ大量破壊兵器を持っていなかった(そもそも 「イラク侵攻ありき」だった疑いが非常に強い)。
アメリカはフセイン政権を倒してイラクの民主化を試みるもののうまく行かない。少数派として抑圧されるようになったイスラム教スンニ派の武装集団は、その後イラクの一部を攻め落とし、奴隷制を認め誘拐や爆弾テロを行う大規模組繊ISILを設立、自ら国家と称するまでになった。フセイン政権による圧政から過激派による無秩序へと、前近代的に移行したわけである。
ゴアが大統領ならイラク侵攻はまず起こらなかっただろうから、泡沫候補ネーダーの存在は、その後の世界情勢に少なからぬ影響を与えたことになる。
ではネーダーは大統領選挙に安易に立候補すべきではなかったのだろうか。二大政党制のもとで「第三の候補」は立候補を慎むべきなのか。だが二大政党制とは、巨額の責金を必要とする二つの巨大な組織だけが選択肢を提供する政治形態である。選択の余地は狭い。閉塞惑を抱える有権者に、新たな選択肢を与えて何が悪いのか。
悪いのは人間ではなく多数決のほうではないだろうか。それは人々の意思を集約する仕組みとして深刻な難点があるのではなかろうか。
では具体的に難点とは何か。それを知るためには概念を明確化して突き止める必要がある。それはまた難点の少ない、あるいは利点の多い代替案を探すうえで欠かせないことだ。
多数決投票で「多数の人々の意思をひとつに集約する仕組み」のことを集約ルールという。多数決は沢山ある集約ルールのひとつに過ぎない。そして、投票のない民主主義はない以上、民主主義を実質化するためには、性能のよい集約ルールを用いる必要がある。
確かに多数決は単純で分かりやすく、私たちはそれに慣れきってしまっている。だがそのせいで人々の意見が適切に集約できないのなら本末転倒であろう。それは性能が悪いのだ。もし「一人一票でルールに従い決めたから民主的だ」とでもいうのなら、形式の抜け殻だけが残り、民主的という言葉の中身は消え失せてしまうだろう。投票には儀式性が伴えども、聞きたいのは神託ではなく人々の声なのだ。
さらにいえば、有権者の無力感は、多数決という「自分たちの意見を細かく表明できない・適切に反映してくれない」集約ルールに少なからず起因するのではないだろうか。であればそれは集約ルールの変更により改善できるはずだ。
多数決を含む集約ルールの研究は、フランス革命前のバリ王立科学アカデミーで本格的にはじめられた。主導したのは二人の才人、ポルダとコンドルセである。彼らの議論は200年以上前になされたものだが今なお斬新で、ことの本質を突いたものだ。本章ではボルダ、次章ではコンドルセの議論に関する事柄を主に扱っていく。
(編者注:多数決の閉塞感と無力感を抱えているのは、日本の国民でも同じことでしょう。ブッシュとゴアの関係は、そのままトランプとヒラリー・クリントンとの激戦にもあてはまります。サンダースがヒラリー-の票を奪った、またはその逆だったからです。イラク侵攻の時のブッシュのアドバイザーは、トランプのアドバイザーにもなった超タカ派で、自分の判断の責任を取らないボルトンなのです。政権の座に就いたブッシュ・ジュニアがしたことは、安倍政権の短慮で強引な政治姿勢に通じるものを感じます)