「WTWオピニオン」
【第78巻の内容】
「NHK批判」
「大衆の反逆」
1401.NHK批判。19/2/19-24
何故、安倍首相がこうも超法規的に好き勝手に振る舞い、告訴もされずにいられるのか。それは安倍首相が官邸の力を使い、自民党議員と官僚の幹部の首根っこを押さえ、明に暗に、政権の言う事をきかせている。或いは議員や官僚が自ら進んで首を差し伸べているからで鵜sその結果、安倍首相は押しも、押されもせぬ、戦後最大にして最悪の独裁政治家になれたのです。
だからどんなにメディアが騒ごうが、野党が攻撃しようが、どんな不祥事が勃発しようが、どこかのノータリンが馬鹿な失言をしようが、国会で当たり障りのない説明(言い訳)でその場をしのいでおけば、後は時間が解決(長期政権だから)するのです。
モリカケにしても、五輪相、厚労相の失言にしても、最近ではトランプのノーベル賞推薦にしても、不正統計でも、放っておけば「必ず」下火になるのです。最初に同じ話題に飽きるのはメディアであり、これはメディアが常に新規の話題を言う宿命にあるからでもあります。
何故孫あ理不尽が大手を振って透るのかといえば、それは自民党を支持する有権者の数が一番多いからです。ざっと言えば、岩盤を含めた自民党支持層が4割、野党(リベラル)が2割、残り4割が無党派層です。ということは、安倍政権や自民党政権を倒すには、自民党支持者の岩盤層に風穴をあける必要があり、無党派層に政治にもっと関心を持ってもらう必要があるということなのです。
民主政治のお手本のような米英で、相次いで民主主義の綻びが目立っています。ポピュリズムというよりも、最早衆愚政治というべき米国では、トランプのような破廉恥な大統領が誕生しました。英国では国民投票で決めたのに、大衆がブレグジットを後悔し始めています。
いま世界が直面しているものは、従来型の戦後「民主主義」の制度疲労です。その理由は割合簡単で、同じ一票の権利の有権者でも、十分に考えて投票する人と、えいやで投票する人がいて、後者の数が馬鹿にならないからです。対策から先に言うと、私は今後の投票では、下の方にアンケート欄を設けて、強制できないまでも、「何故あなたはこの候補者、または政党を選んだのですか」という問の回答の統計を取る事で、今後どのような選挙制度にするべきかのヒントを得られるのではないかと思います。
大衆は間違える。何故なら不完全で、不勉強の上に、自己チューだからです。従って、民意が常に正しいわけでもないのです。ではどうすれば民意を尊重しつつも、民意が理知的、理性的な判断になるように方向転換できるのか。それこそが私の(=WTWの)問題意識であり、ライフワークなのです。
・NHK組織再編で文化部も忖度へ傾斜か。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190222-00000087-asahi-soci
関連記事。異例の反論。
https://www.asahi.com/articles/ASM2Q5QZ0M2PUCVL030.html?iref=comtop_favorite_02
コメント:料金不払い運動を真面目に検討したくなりました。政権への不正な忖度が社会問題になっているこの時期に、忖度など日本には「存在しない」かのように、社会の木鐸たるべきNHKが逆に忖度の先頭に立つとは何事でしょうか。しかも公共放送を名乗りながら、事実上政府の影響下にある放送局が、国民から料金を強制的に徴収するというのも、思想信教の自由を束縛し、特定の政党の支持を国民に強要しているという意味で、明らかに憲法違反なのです。
政治の影響から報道と情報の自由を守る為に、国民は少なからぬ料金を自ら負担しているのです。ところがNHK内部の政権追従のおかげで、この基本理念が覆されているのです。政府の宣伝放送の費用を、政府は国民に負担を強いているのです。
議論が巻き起こったこの機会に、NHK職員と、「何もしない」経営委員、民主主義に後ろ向きな報道局長の報酬を、明細に至るまで公開して頂きたいものです。何故なら「国民」は利用者として、組織の情報の公開を要求する権利があるからです。ついでに言えば、嵩にかかったディレクター風情が、上から目線で提供する二流の娯楽番組も、国民は必要とはしていないのです。NHKの現在のシステムは、資本主義の国としても、民主主義の国としても、あり得ない異質の存在なのです。
政府がNHKを大本営発表に使いたいのなら、官邸の費用でやって頂きたい。籾井時代のNHKは悪夢でしたが、それがいま蘇ろうとしています。籾井や米倉(元経団連会長、故人)の人事を思い出すだけでも、安倍首相の政治姿勢を許すことは出来ないのです。
すべては秘書や官邸やNHKが(忖度で)勝手にやったことだから(直接指示していない)自分には責任がないとでも(いつものように)言いたいのでしょうか。それでは自分は組織の責任者ではないと自ら言っているのと同じことです。であるならば、まともな責任感のある正当な「責任者」に、直ちに交代してもらわないと、組織(この場合は国家)が成り立ちません。
安倍総裁が首相として座り続ける限り、こちらもモリカケの(政治)不正は絶対に忘れません。しかも天皇が退位を決意したのは誰のせいだと思っているのでしょうか。それは前回の参院選で、安倍首相が改憲を打ち出し、国民がそれでも自民党を支持したからです。それなのに、誰も頼みもしないのに、よくものこのこと皇太子の元に、(お説教しに)押しかけられたものです。
敢えて誰とは言わないが、政治的信念もなければ、プライドも正義感もない、世界に恥ずかしい人物が日本の現在の代表として、臆面もなく(なぜなら周囲の忖度は自分の責任ではないから)、続投しているのです。しかも自民党内では総理総裁分離論まで持ち上がっています。そうまでして安部首相を続投させたいとは何という腐り切った政党でしょう。安倍外交の、何処がうまくいっているというのでしょうか。くしゃおじさん(知らないだろう)の外相に至っては、国会の答弁拒否のふてぶてしい態度からして論外です。
・統計不正、官邸関与のメール存在。
https://www.asahi.com/articles/ASM2R5V5LM2RUTFK00B.html?iref=comtop_8_05
関連記事。官邸に頻繁に説明。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019022301002038.html
関連記事。黒田総裁も統計不正に加担か。
https://www.mag2.com/p/money/639594
1402.大衆の反逆。19/2/10-22
久しぶりに番組の紹介です。NHK Eテレ、月曜の夜(再放送は水)の「100分で名著」は以前取り上げた事もありますが、司会が、堀尾アナから落語の伊集院に代わって、対話のレベルが落ちただけでなく、無駄に騒々しいので、敬遠していました。しかし今回のテーマは、現在の日本の世相を鑑みるに、見過ごすことが出来ないものなので、敢えてご紹介することにしました。テキストは書店で入手できます。今回はその中から前書きのご紹介です。
『大衆の反逆』オルテガ
解説:中島岳志 評論家、東京工業大学教授
はじめに
過去の英知とともに生きる
今回、この『大衆の反逆』を通じてみなさんと考えたいと思っているのは、「リベラルと民主主義」という問題です。
著者のオルテガは、二十世紀を生きたスペインの哲学者で思想家ですが、彼は本書の中で、「大衆が社会的中枢に躍り出た時代」にあって民主制が暴走するという「超民主主義」の状況を強く危惧しています。そして、それと対置する概念として「自由主義=リベラル」を擁護しました。
第2回で詳しくお話ししますが、彼が言う「リベラル」とは、自分と異なる他者と共存しようとする冷静さ、或いは寛容さといったものです。大衆が支配する時代においては、そうした姿勢が失われつつあるのではないかというのが、オルテガの指摘でした。
「大衆」という言葉が使われていますが、これは一般的にイメージされるような階級的な概念とはまったく異なります。オルテガはまた「大衆」の対極にある存在を「貴族」と呼んでいますが、これもお金をもっている人や、ブルジョア、エリートといった意味ではありません。過去から受け継がれてきた、生活に根付いた人間の知。あるいは、自分と異なる他者に対して、イデオロギーを振りかざして闘うのではなく対話し、共存しようとする我慢強さや寛容さ…。そうした、彼の考える「リベラリズム」を身に付けている人こそが、オルテガにとっての「貴族」であったのです。
オルテガはこうした「貴族的精神」が、大衆社会の中でどんどん失われていると考えていました。そして、そのことによって、民主制そのものが非常に危うい状況になっていると指摘したのです。
そして、この問題を考えるときにオルテガが重視したのが、第3回で取り上げる「死者の存在」です。
私たちの社会には、過去の人々が失敗に基づく経験知を通じて構築してきた、さまざまな英知があります。それによって、私たちの行動や選択は一定の縛りを受けている。つまり、すでにこの世を去った「死者」たちの存在が、現代や未来に対する制約になっていると言えるでしょう。
そのことを、私たち人類は当然のこととして受け止めてきた。ところが現代―オルテガが生きた時代、ということになりますがーの大衆は、その死者の存在をまったく無視して、いま生きている自分たちが何か特権的な階級であるかのように考えている。そして、自分たちだけで何でも物事を決められるかのように勘違いしている。
そうした時代は非常に暴走しやすいというのが、オルテガの抱いた危機感だったのです。 これも第3回で詳しくお話ししますが、これはいまの日本で非常に大きな注目を集めている「立憲」という問題そのものだと思います。
民主主義と立憲主義は、元来どうしても相反するところのある概念です。民主主義とは、いま生きている人間の多数決によってさまざまなことが決定されるシステム。対して、たとえいまを生きる人間が決めたことでも、してはならないことがあるというのが、立憲というシステムなのです。いくら多数派に支持されようと、少数派を抑圧してはならないし、守られるべき人権を侵してはならない。それは「死者からの制約」があるからです。
そうした立憲主義の考え方を取り入れて、「死者とともに民主主義を行っていく」ことが、いわば文明の英知だったはずなのに、近代はその英知を投げ捨てていっている。これは暴走にほかならない、というのがオルテガの主張でした。
彼がこうしたことを考えたのは、その生きた時代と密接な関係があります。オルテガが活躍したのはいまからおよそ百年前で、今回取り上げる『大衆の反逆』が刊行されたのは1930年。これは、22年にイタリアでファシスト党が政権を取り、33年にドイツでナチスが政権に就く、そのちょうど合間にあたります。さらにその少し前27年にはロシア革命が起こるなど、まさに革命とファシズムの時代と言うべき時期でした。
そのさなかにオルテガは現代的危機を感じたわけですが、ではその「危機」が現在の私たちにとって遠い昔の問題かと言えば、そうではありません。むしろ私たちが生きるいまのほうが、問題はより深刻で、かつ精細な形で蘇ってきている。オルテガが「二十世紀がそぎ落とそうとしているもの」として危惧したことが、私たちの時代にはより根深い形で押し寄せてきているのだと思います。
この二十世紀前半の著作が、二十一世紀の私たちにとって非常にビビッドなものとして響いてくる。それは、私たちが民主主義の危機を感じ、オルテガが守ろうとした「リベラル」という概念が崩壊しつつあることを感じているからではないか。オルテガの言う「大衆」はいわば、そのときを生きている人間のことしか考えない傲慢な精神の象徴だったわけですが、いままた私たちはその「大衆」になろうとしているのではないか。そのことを意識しながら、自戒も含めて読み進めていきたいと思います。
関連サイト。
http://www.nhk.or.jp/meicho/
コメント:だから立憲民主がリベラルでない(保守本流)のかもしれません。ところで死者の民主主義という表現にはやや抵抗があります。我々は死者の全てに敬意を払っている訳ではないからです。英知と勇気をもって、命懸けで民主主義の実現に努力した先駆者、先達に感謝しているのであって、国家主義やファシズムを推進した人たちは、その結果から見て尊敬の対象外だからです。
・統計不正、解明進まず。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019020801002036.html
関連記事。過大な伸び率放置。勤労統計、参考値非公表。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201902/CK2019020802000296.html
コメント:最初の質問者が立憲の川内で本当に良かったのでしょうか。最初から枝葉末節に迷い込んでしまい、折角の証人喚問なのに全く要領を得ず、聞いている国民はちんぷんかんぷんでした。立憲なら誰でもという訳ではなく、予期せぬ馬脚を現したと思います。大串に代わってややましになりましたが、大事な質問です。それにしても小手先の嘘を繰り返す樋口理事長は明かに不適任です。第三者としての意識が無い以上、彼がいくら調査しても真実は出てこないでしょう。しかも厚労省の定塚官房長は悪しき忖度役人を代表しています。
・下がり続ける、労働分配率。
https://jp.reuters.com/article/cmpny-labour-idJPKCN1PX0KU
・都情報公開審査会、意見陳述10年間ゼロ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201902/CK2019020802000128.html
昨日、前書きを紹介した「大衆の反逆」ですが、先週から放映が始まって、初回の放映(再放送も)が終わったので、第一回の放送分を要約でお届けします。第二回は月曜の夜です。要約でも、文脈の為には、それなりの長さが必要なので、前後編に分けてご紹介します。
「大衆の反逆」オルテガ 中島岳志解説
第一回 大衆の時代(前編)
第一回は、著者であるオルテガという人物と、彼が生きた、そして『大衆の反逆』が書かれた時代を振り返ることからはじめたいと思います。
彼は、哲学者として象牙の塔にこもるのではなく、その研究を通じて現代社会をどう見るのかということに非常に関心のあった人だと思います。二十七歳でマドリード大学の教授になるのですが、学者が時評を書くことについて、一段劣った活動をしているかのように言われることがあります。しかしオルテガは、そうは考えなかった。
「自らの目の前で起きている事象をどう見るべきか」を伝えることによって、自分の思想を示すことができるという感覚があったのだと思います。「専門家は間違える」ということも、オルテガの主張し続けたことでした。それは「専門しか知らないから」です。人間は非常に複雑で、その人間によって構成されている社会もまた、複雑でややこしい。それを理解するためには、いろいろな角度からものを見て、考えてみる必要があると考えていたからこそ、研究の世界だけにこもらず、時評を書き続けたのではないでしょうか。
オルテガの若い時期の代表作の一つ『ドン・キホーテをめぐる省察』の中に、「私は、私と私の環境である」という有名な言葉が出てきます。「私」の本質は、そのほとんどが、私が選んだわけではないものによって成り立っている。たとえば、私が日本語を母語にしているのは、たまたま日本に生まれたからです。「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」。こうした考え方には仏教と重なる部分があると感じます。
さまざまなものとの出会いによって「私」を取り囲む環境ができていき、その環境との関わりによって「私」が構成されていく。ここには、自分の能力を過信することへの強い懐疑があります。これは、第4回でお話しする「保守」の考え方につながるものです。
もう一つ重要なのが、「遠近法」についての話です。「木を見て森を見ず」という言葉があるように、近づきすぎることで見えなくなるものがある。少し離れたところから、背筋を伸ばして全体を見つめると、複合的な要素が必要になることが分かる。だから「知」を得るには、常に歴史的な背景を踏まえ、長いスパンで全体を見渡すことが必要だという指摘です。これは、『大衆の反逆』の中にも登場する考え方で、オルテガの生涯における一貫した姿勢でもあります。
『大衆の反逆』が出版された当時、スペインは王政国家であり、軍事独裁政綴が続いていました。その中でオルテガは「リベラルな共和政」を唱え、知識人から成る政治結社「共和国奉仕集団」を結成するのです。独裁政治を克服し、意見の異なる他者と協議しながら秩序を構築していこうというのが彼の主張でした。その実現のために、自ら政治の世界に足を踏み入れたのです。第二共和政は成立間もなくから左右の対立を深め、政治的混乱を拡大させていきました。世界を席捲しつつあったファシズムの波に、スペインもまた飲み込まれていったのです。このことに、オルテガは失望しました。
オルテガは、右か左かという二分法を嫌いました。「これが正しい」と、一方的に自分の信ずるイデオロギーを掲げて拳を上げるような人間が、嫌で仕方がなかったのだと思います。そうではなく、右と左の間に立ち、引き裂かれながらでも合意形成をしていくことが、彼の思い描いた「リベラルな共和政」でした。しかし、スペインでそれは不可能と考えた彼は、代議士を辞職してしまいます。
内戦の激化とともに強まる自由主義への弾圧や、言論の自由の阻害に対して、真っ向から立ち向かうのです。
こうして見ると分かるように、オルテガは高みから「大衆」批判をした人ではなく、自身が指摘した「大衆社会がもたらした弊害」を是正するために、そのさなかに身を投じた人でした。その陰には、人間に対する信頼があったと思います。人間は捨てたものではないはずだという感覚、どこかで「何とかなるはずだ」と思っているような、ある種のオプティミズム(楽観主義)が彼にはあったのではないでしょうか。
だからこそオルテガは政治の世界に打って出たわけですが、そこに待ち構えていたのは、想像していた以上の「大衆の反逆」だった。それで彼は徹底的に迫害され、亡命せざるを得なくなった。それがオルテガの人生だったと思います。
私自身も、このオルテガの、象牙の塔にこもらないところ、ペシミズムに走らず、人間への信頼を捨てていないところに、とても共感します。
同時に、オルテガは「大衆に迎合しない」人でもありました。大衆とともにありつつも、自分自身はあくまで孤独であろうとし続ける。迎合はしないけれど、孤立もしない。そのバランスが、オルテガの独特なところだと思います。
オルテガが言う「大衆」とはどんな人間か。これは、「エリート対大衆」というような階級的な概念ではありません。では何かと言えば、近代特有の大量にいる人たちのことだ、というのがオルテガの考えです。
それも、「根無し草」になってしまった人たちであるというところがポイントです。自分が意味ある存在として位置づけられる拠り所のような場所のない人間のことです。自分が依って立つ場所がなく、誰が誰なのかの区別もつかないような、個性を失って群衆化した大量の人たち。それをオルテガは「大衆」と呼びました。
だから、単なる「庶民」とは大きく異なります。むしろ彼は「庶民の世界」を高く評価していました。決して裕福ではなく、学があるわけではない、けれど親から継いだ商売を何十年も真面目に営んで、それを後継者にしっかりと手渡したような人は、オルテガにとって「立派な人」なのだと思います。
自分の居場所をもち、社会での役割を認識していて、その役割を果たすために何をすべきかを考える人。それが、彼にとっての本来的な「人間」だった。近代人はそうではなくなり、「大衆」化してしまっている。そして、その「大衆」は、たやすく熱狂に流される危険があるというのが、「大衆の反逆」という問題設定なのです。
こうした急速な変化の背景には、十九世紀を通じて起こった、産業化による農村社会から工業社会への変動がありました。この変化によって、農家の次男、三男は食べていけなくなり都市に出るしかなくなっていく。一方で、工業化が進む都市部では大量の労働者が求められていたので、需要と供給がマッチし、都市に多くの人々が流入しました。
ドイツの社会学者テンニエスは、農村のような、地縁や血縁で人間が拘束されている社会を「ゲマインシャフト」、個人と個人の契約などによって成り立っている社会を「ゲゼルシャフト」と呼び、近代社会は必然的にゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ移行していくと述べました。進化していく社会の中では、ゲマインシャフトのような古き共同性はもはや必要とされていないと考えたのです。テンニエスはオルテガより少し年上、ほぼ同じ時代を生きた人ですが、オルテガとは正反対の立ち位置を取った人だと言えるでしょう。
(以下次号に続きます。因みに私のW大での専攻は社会学なので、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトはお馴染みの概念です)
「大衆の反逆」オルテガ 中島岳志解説
第一回 大衆の時代(後編)
この時代のことをより正確にとらえていたのは、二十世紀生まれの哲学者であるフーコーでした。農村から都市に出てきた大量の人たちは、そのままでは工業社会の労働者としては「使えない」人たちです。号令をかけたところでそれに従おうとはしないし、決まった時間、命令通りに同じ作業をおとなしく続けるという身体的技法がそもそも備わっていない。そのため、彼らに工場労働者、あるいは命令に従って動かなければならない兵士としてふさわしい身体的技法を身に付けさせることが、近代においては重要となってきた、と言うのです。
学校教育とは、従順さを植え付けるための装置であり、時間管理によって「命令者への服従」を教えようとしているのだ、というのがフーコーの見立てなのです。
そして、それは「個性の剥奪」でもありました。それぞれの人間がもつ感性や個性は、規律を重視する集団にとっては邪魔なものでしかなく、そういうものを奪い去っていくことが、実は近代教育の重要な命題だった。それも、結果としてたまたまそうなったのではなく、意識して個性のない人間をつくろうとしてきたのだ、とフーコーは言っているのです。
「みんなと同じである」ことを喜ぶ「平均人」
フーコーの言う「個性を奪われた人間」を、オルテガの言葉で言うならば「平均人」ということになるでしょう。自分の存在を意味づけられている共同体を失った人間、それこそが平均人というものである。そして、今日の平均人の特徴の一つは、他人の意見に「耳を傾けない」ことだと言っています。
今日の平均人は、世界で起こること、起こるにちがいないことに関して、ずっと断定的な<思想>をもっている。このことから、聞くという習憤を失ってしまった。その「他人の意見を聞く」という習慣をもたない平均人は、個性を失っただけでなく、「みんなと同じである」ということに喜びを見出し、快感を覚えるようになっていく、と言います。
こういう大衆が権力を握ったときに何が起きるか。平均人の凡庸な精神が、秀でた個性を積極的に抑圧していく、とオルテガは書いています。平均人は、ちょっと変わった人、能力をもった人の芽を摘んでいこうとする。自分の個性を発揮しようとすれば「平等」の名の下で抑圧され、個性が奪われていく。そういう時代がやってきたというのです。平等という名のもとで平均化が行われているという問題意識です。
「押し流される」時代の「慢心した坊ちゃん」
「私」は私と、私の環境からできているのだから、その「環境」なき人間は、揺るがない土台がなく、宙ぶらりんの虚構の生をむなしく生きているというのが、「大衆の時代」である現代の風潮なのだというわけです。いとも容易に押し流されているのは、そのためである。いまは風潮の時代であり、「自分はこうなのだ」という根っこや、自分を超えたものに対する畏敬の念がなく、周囲が「これがいい」と言えばすぐに流されていく。風船か何かのように、時代の波に抗うことなく、また別の風が吹いたらそちらへと流れていく。それが「大衆的人間」だと言っています。
オルテガは、人間は本質的に不完全なものであると考えていました。徹底的に不完全で、間違いやすく、誤認しやすい。だからこそ、そのことを理性的に把握する必要がある。真に理性的な人間とは、その理性に限界があることを理性的に把握できる人間である、というのが彼の見方なのです。
こんな強烈なことも言っています。
だからこそアナトール・フランスは、愚か者は邪悪な人間よりも始末が悪いといったのだ。つまり邪悪な人間はときどき邪悪でなくなるが、愚か者は死ぬまで治らないからだ。
ここで言う「愚か」とは、偏差値が低いとか知識がないということとはまったく関係がなく、あくまで自己過信のことです。自らの限界に気づかず、その能力を過信し何でもできると勘違いしている。自己懐疑の精神をもたず、「正しさ」を所有できると思っている。そして、そうした大衆の「正しさ」の根拠は何かと言えば、「数が多い」ことでしかない。それが何の根拠になるのかとオルテガは言い、彼らを自分が多数派だということにあぐらをかいている「慢心した坊ちゃん」と呼ぶのです。(編者注:安倍晋三と竹中平蔵を思い出します)
「自分のしたい放題のことをする」、それが大衆の性格になっている、とオルテガは指摘しているのです。
専門家こそが大衆の原型である
さらに、オルテガが面白いのは、この大衆の原型とは、いわゆる庶民ではなく「大学の中にいる専門家である」と言い出すところです。本来、世の中や人間というものは大変複雑で、理屈や論理では説明し得ないことがたくさんあります。だからこそ文学や芸術が生まれ、多彩な教養と文化が積み重ねられてきたのがヨーロッパという世界でした。
つまり、知識をもたない、いわゆる庶民階級ではなく、むしろ「専門の.ことしか知らない」ために複雑な思考ができなくなった人間、つまり専門家が社会をコントロールしようとすることによって、世の中に混乱が起きているのだというのです。行き過ぎた専門化のために、科学者たちが総合的な教養を失いはじめている。それによって、自分の専門自体をも見失ってしまうということです。
こうした人間こそが大衆の原型である、とオルテガは言います。そして、専門分野のことだけを見るのではなく総合的であることが大事だと強調するのです。
専門化によって失われた「教養」
総合的であろうとする人間ならば、自分の専門以外の分野や「知らない」ことに対して謙虚な態度を取るはずだが、そういう「知者」は近代にはいなくなった。実際にはほんの一部のことしか知らないのに、「俺は何でも知っている」と偉そうな顔をするような人間がはびこっていることを、彼は嫌悪したのです。
専門化が進み、幅広い教養が失われた時代。専門家ばかりで、教養人が少なくなっている時代。それが「大衆の反逆」の時代だというわけですね。専門家への皮肉を込めた表現だと思います。
(編者注:大衆は慢心していたかもしれないが、同時に権力者=資本家に搾取され、心理操作もされていたはずです。著者は古典的な学説をベースに考察を進めているので、解釈を鵜呑みにするわけにはいきません。オルテガがどの程度、現代人の参考になるかは、もう少し様子を見る必要があります。但し第二回の放送の内容の批評は、当該放送=2/12が終わってからにする方がフェアだと思います)
・首相、改憲は自衛隊員募集の為。
https://this.kiji.is/467274626826814561?c=39546741839462401
関連記事。憲法改正の記述抑制。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41134490Q9A210C1SHA000/
コメント:憲法を何だと思っているのだろう。馬鹿も休み休み(しかしこの馬鹿は休まないから始末が悪い)言って欲しい。憲法は隊員を募集したり、募集を拒否する為にあるわけではない。首相の個人的な趣向でころころ変えられるものでもない。国民の権利(基本的人権)を国の圧力から守る為に憲法があることも理解できていないらしい。そもそも憲法は何の為にあるのかという説明を首相がしたことはないと記憶している。彼にとって憲法とは、好き勝手に振る舞いたいのに、自分の手足を縛る邪魔者でしかない。だからこそ我々国民は憲法を死守しなければならないのです。日本が立憲国家である事も理解していない人物が一国の代表だというのは恐ろしい事です。これでは私達日本の国民は、外国に向ける顔がありません。単なるトランプの弟分でしかない上に、麻生、二階と並べると立派な三X鹿大将(知らないだろうな)の出来上がりです。一方、菅は悪代官、悪番頭です。官邸の記者会見で東京新聞の記者だけにあからさまな嫌がらせをしています。因みに自民党には自浄作用が期待できないことも、小泉進次郎の変節ぶりで、はっきりと分かりました。
・首相、悪夢の民主党政権。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190210-00010000-wordleaf-pol
コメント:正義感、倫理観が欠如した首相に言われたくありません。まるで安倍政権には、友人への巨額の優遇も、役人の違法な忖度も、情報の隠蔽も、国会での虚偽証言も、統計の不正もなかったかのような口ぶりです。27年に企業への賃上げ要請と共に、統計の見直しを麻生財務相が指示したことが分かっています。無論のこと、その中には毎勤統計も含まれており、こうなると閣僚による意識的、どころか積極的なアベノミクスの為の数字の改ざんが行われた可能性が極めて濃厚なのです。このどこがうっかりミスなのでしょうか。
「大衆の反逆」オルテガ著 中島岳志解説
第二回「リベラルであること」(前編)
保守=反リベラルではない
今回は、オルテガが「大衆の時代」を批判することによって守ろうとしたものについて考えたいと思います。
保守派として知られた批評家の西部遭がたびたび取り上げたこともあり、オルテガという人には「保守」のイメージがあります。しかし、オルテガは、「反リベラル」ではない。むしろ、保守的であるがゆえにリベラリズム―自由主義を徹底的に擁護した人物だったと言えます。
日本では、主に政局的な理由から、「保守」と「リベラル」はまるで対立するものであるかのように扱われてきました。その起源はおそらく、アメリカにあるのだと思います。アメリカは二大政党制ですが、一方の共和党は、「個人は国家を頼るな」「民間に任せればいい」という、マッチョな新自由主義の一小さな政府的発想。いわゆるネオコンです。対して民主党は、どちらかというと社会福祉に力を入れ、弱者に対する再配分を重視する。この二つの政党がそれぞれ「保守」「リベラル」のイメージで語られてきたのです。
一方、日本では98年に民主党が誕生。このとき、彼らは「リベラル政党」を自称します。このあたりから、「リベラル」が自民党に対峠するもう一つの勢力のようなとらえ方をされるようになり、「保守対リベラル」という構図が確立してきました。
しかし、本来のヨーロッパ的な文脈で言うと、この二つはまったく対立する概念ではありません。むしろ、そこには重なる部分が多く、保守こそがリベラルである、とも言えます。のちに触れますが、オルテガがリベラルに対立する存在としてとらえていたのは、いわゆる「保守」ではなく、ファシズムであり、社会主義でした。
(編者注:これが重要です、安倍政治は保守ではなく、むしろ全体主義に近いものです。以下で紹介する斎藤工の記事を参照願います)
リベラリズムは「最高に寛大な制度」
歴史を振り返ると、「リベラル」という言葉は、もともと「寛容」という意味から発生しています。
近代的な「リベラル」概念の起源は、十七世紀前半、ヨーロッパで起こった.三十年戦争にあるとされています。この戦争は、本質的には価値観をめぐる戦争でした。価値の間脳については、戦争をしても納論は出ず、人が傷つくだけである。ここに現われたのが「リベラル」という原則でした。
つまり自分と異なる価値観をもった人間の存在を、まずは認めよう。多様性に対して寛容になろう。自分から見ると虫唾が走るほど嫌な思想であっても、それはその人の思想だと受け入れることが重要だと考える。これが近代的「リベラル」の出発点なのです。
(編者注:安倍、小池ゆり子、枝野に共通するものがこの不寛容と排除の論理です。だから彼らは絶対にリベラルではないのです。また真っ当と言う言葉も嫌いです。まともなという正しい言葉があるからです)
この概念は言い換えれば、「あなたの信仰の自由は認めますから、私が信仰をもつことについてもその自由を保障してください」ということにもなります。ですから、必然的に「寛容」は「自由」という観念へと発展していく。こうして自由主義としてのリベラリズムが生まれてくるのです。
権力が万能であるかのように振る舞っているけれど、その権力自体を制限する原則が存在している、とオルテガは考えます。それは、過去から積み重ねられた経験知によってもたらされるものであり、その中核に存在するのが「リベラル」だというのです。
いくら多数派であり、大きな力をもっていても、リベラルの原則ー他者に対する寛容を崩してはいけない。いかに多数者がさまざまなことを決定するのであっても、その多数者と同様の考えや感じ方をもたない人の権利を擁護する余地をつくらなくてはならない。
オルテガは次のように述べています。
手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性、 これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局、<文明>というただ一語につきるのである。これらすべてによって、都市、共同体、共同生活を可能にしようとするのである。
「文明はなによりもまず、共同生活への意志である」との一文もあります。
自分と異なる他者と共存することこそが「文明」であり、そのときには手続きや規範、礼節といったものが重要になると言っているのです。対話の際にそうしたマナーやエチケットを欠いてしまえば、相手は気分を害して「こいつとは一緒にやっていけない」と思うかもしれません。
ところが、その重要な手続きや規範、礼節などを面倒くさがり、すっ飛ばしてしまうのが大衆の時代ではないか、とオルテガは言います。大衆は、そんな面倒なことをするよりも、さっさと多数派で決めてしまえ、多数者にこそ正しさが宿るのだ、と考える。「リベラル」の根幹にあるはずの、互いの自由を保障し、引き受けるという文明牲が大衆の時代に破壊されつつあることに、彼は警鐘を鳴らそうとしていたのだと思います。
次は、私のとても好きなくだりです.
敵とともに生きる、反対者と共に統治する、こんな気持のやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。反対派の存在する国がしだいに減りつつあるという事実ほど、今日の横子をはっきりとしめしているものはない。ほとんどすべての国で、一つの同質の大衆が公権を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させている。大衆は一団結した多数のこの人間たちを見たときー大衆でないものとの共存を望まない。
(編者注:まさに米国、英国、韓国、そして日本で起きている事です)
これは、とても重要な指摘だと思います。大衆の時代である現代、人々は自分とは異なる思考をもつ人間を殲滅しようとしている。自分と同じような考え方をする人間だけによる統治が良い統治だと思い込んでいる。自分と真っ向から対立する人間をこそ大切にし、そういう人間とも議論を重ねることが重要なのだ、とそオルテガは言うのです。。
現代では、そうした寛容性が著しく失われている。オルテガの言う「現代」は彼が生きた時代ですが、いまを生きる私たちの時代にも、そしていまの政治にも十分あてはまるものではないでしょうか。
「貴族」とは何かー敵とともに統治する
オルテガはしばしば「貴族」という言葉を使います。これは「大衆」と対立する概念ですが、「ブルジョア」といった特定階級や、単なる「エリート」を指しているのではありません。反対者や敵対者とともに統治していこうとする人間。それだけの勇気や責任感、指揮をする能力をもった尊敬に値する人間。そうした存在を、彼は「貴族」と呼んでいるのです。
だから、経済的に裕福ではない、いわゆる「庶民」の中にも「貴族」は存在する。自分の居場所をしっかりともち、他者と共存しながら社会の中で自分の役割を果たそうとしている人は、オルテガにとっての「貴族」なのです。誤解されやすいところですが、オルテガが言いたいのは「精神的貴族」「人格的貴族」ということなのでしょう。
さらに、貴族なる人間は真理の探求を欠かすことはないといいます。
平均人がもつ<思想>なるものは、本当の思想ではないし、それをもつことは教養ではない。思想とは、真理にたいする王手である。思想をもとうとする者は、そのまえに、真理を欲し、真理を要求する遊戯の規則を認める用意がなくてはならない。
つまり、自由主義の本質は、常に過去の経験知の中にある。それが他者に対する寛容であり、またそれを可能にするための儀礼や手続きである。現代のリベラリズムがもっている弊害を乗り越えるためには、そうした普遍的な構造をきちんとつかみ取らなければならない。それが歴史主義的な自由主義なのです。
(編者注:以下次号)
「大衆の反逆」オルテガ著 中島岳志解説
第二回「リベラルであること」(後篇)
パンを求めてパン屋を破壊する
自由主義の本質を、簡単に踏みにじってしまうのが大衆です。先に述べたように、自由というのは本来、歴史的に構築された秩序や規範、基礎的なマナーやルールに担保されているというのがオルテガの考えです。自由というのは、決して丸裸なものではなく、一定の制約の中に生じる自由こそが本質なのだと。
むしろ、伝統や憤習を破壊することは、「自由を担保してきた秩序」を破壊することであり、その結果、自由そのものの底に穴が空いてしまうのではないか。
その「自由を求めて自由を破壊する」大衆の姿を、オルテガは「パンを求めてパン屋を破壊する」という言葉で表現しています。
そしてオルテガは、こうした大衆が多数派という「正しさ」だけに依拠して社会を支配しようとしている状況を「超民主主義」と呼び、それが現代杜会の特質になっているのではないかと指摘しました。
本末の民土に義とは、あくまでも過去からの制約のもとに存在するというのがオルテガの考えでした。
つまり、過去の人たちが積み上げてきた経験知に対する敬意や情熱。かつての民主主義は、そういうものを大事にしていたというわけです。
ところが、平均人である大衆は、そうした経験知を簡単に破壊してしまう。過去の人たちが未来に向けて「こういうことをしてはいけませんよ」と諫めてきたものを、一多数派に支持されたから正しいのだ」とあっさり乗り越えようとしてしまうというのです。
オルテガの時代の百年ほど前に、フランスの政治思想家であるアレクシス・ド・トクヴィルという人が、同じことを言っています。彼はアメリカ社会を取材して『アメリカの民主政治』という本を書いたのですが、その中で、アメリカの民主義がそれなりにうまくいっているのは、教会や「〇〇協会」といった中間共同体、行政とは異なる人間同士の関係性が厚いことに理由がある、と指摘しているのです。
私がここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史は、いまやはじめて、じっさいに凡庸な人間の決定にゆだねられているように見えるという新しい社会的事実である。
大衆の熱狂が生み出す「偽りの夜明け」
そして、その大衆がどのようにして支配しようとしているかと言えば、暴力によってだというのです。
自分たちの言うことを聞かない少数者には、暴力をふるって従わせることで、社会を支配しようとする。ここでオルテガが念頭に置いているのは、ファシズムや共産主義だと思われます。
当時、ヨーロッパで影響力を広げつつあったサンディカリスム(組合主義)やファシズム。いずれもオルテガの目には、「多数派こそが正しい」と自分の意見を押しつけ、それ以外の人々を抑圧していく大衆の熱狂が生み出した暴走のように見えていました。のちのナチスによるホロコーストやスターリンの暴政などを予見しているようにも思えます。
彼が、共産主義やファシズムを、徹底して戦わなければいけない対象だと考えていたことが分かます。それは、そのどちらもが、一つの正解をみなで所有し、それに逆らう人間を抑圧していく体系だととらえていたからでしょう。
繰り返しになりますが、オルテガの考えでは、人間というのは誤りやすい、有限な存在であるのだから、判定の誰かが正しさを所有することなどできるはずがありません。だからこそ、考えの異なる者同士が議論し合意形成をしていくことが重要になる。しかし、当時のヨーロッパでは「議論の軽視」が急速に進んでいる、ともオルテガは考えていました。
オルテガは、議論は他者との共存においてもっとも重要なものであると考えていました。しかし、大衆にはそれに耐えうる力がない。その結果、議論することなく直接行動という野蛮な手段に出るのだといいます。直接行動の典型が暴力ですね。
言葉で税明するのではなく、暴力を最初の直接行動として実行することで、自分たちの「正しさ」を分からせようとする。従わない人間は牢獄に放り込んでいく。ロシア革命にしろナチスにしろ、やっているのはそういうことだと。それは「野蛮人の人憲章である」とも書かれています。
大衆は、自分と考え方の違う者を排除して、自分が正しいと思うことを押し進めるのが政治だと思っている。しかし、それは政治ではなく、文明に対する「野蛮人の垂直的侵入」に過ぎない、とオルテガは言うのです。
こうした状況を強く批判しながら、オルテガが守ろうとしたのは、やはり自由主義であり、民主主義でした。
政治的に共存への意志がもっとも高く表現される形式は、自由民主主義である。それは、隣人を考慮に入れる決意を極限まで推し進めたものであり、間接行動の原型である。
つまり彼は、大衆の時代を批判し、超民主主義の台頭に危惧を抱きながらも、自由主義や民主主義を諦めているわけではないのです。むしろ、自由主義、民主主義を徹底的に擁護しようとした結束、大衆の時代に抗わなくてはならないと考えたのです。
ちなみに、ここで間接行動という言葉が使われていますが、オルテガは直接民主制を信用していませんでした。人々が選んだ代表が合議して物事を決めていくという間接民主制によって、大衆のある種の熱狂を権力に伝えないための「緩衝」を置くことが重要だと考えていたからです。
国家とは根本的に暴力装置である
では、そんなオルテガが考える「あるべき国家像」とは、どんなものだったのでしょうか。このことを考える上で、彼は重要なことを二つ言っています。
一つは、ここまで見てきたような、大衆が多数派を支配する国家というものが、現代においてもっとも危険であるということ。そうした国家は、「社会のあらゆる部分ですさまじい威力を発揮する」と言っています。
オルテガが重視しているのは、自生的な秩序です。彼は「貴族」といった言葉を使うこともあって国家主義者のように見られがちですが、どちらかと言うと国家というものに非常に懐疑的な人だったと思います。
国家とは根本的に暴力装置であって、個人のさまざまな自由を抑圧する面をもつというのが、オルテガの基本的な見方です。大切なのは国家と個人の間にある中間的な領域であり、「隣家の人とうまくやっていく」自発的な共同性のほうが、国家よりも圧倒的に重要だと考えているのです。
(編者注:いまはなき仙谷元官房長官がこの言葉を使いました)
国家という危険な存在をうまくコントロールするためには、自生的な秩序をしっかりと保持していく必要がある。そう考えているから、オルテガは「大きすぎる政府」を批判するのです。これもファシズムや共産主義を念頭に置いているのでしょうが、何でもかんでも国家が介入するような政治を、彼は非常に嫌っていました。
かといって、すべてマーケットに任せればいいという「小さすぎる政府」を擁護しているわけではない。それもまた、オルテガにとっては「野蛮な精神」であり、やはりバランスを取ることが重要だと考えていたのだと思います。
だから、彼は警察権力に対しても懐凝的です。
警察権力が肥大化し、自由が抑任されることで、人々が国家に依存するようになってしまう。自分たちで秋序をつくっていこうという意志を失い、社会全体の自立性を損なっていく、ということです。
その観点から、ちょっとイギリス人を褒めるような、こんな文章も出てきます。
イギリス人は、国家が限界をもつことを望んでいる。
十九世紀はじめ、犯罪が急増したときに、フランス人はあわてて警察をつくったが、イギリス人は無秩序が横行するのは「自由の代償」だとして警察をつくらなかった、というエピソードを紹介したあとに続く文章です。オルテガが、国家に強い警戒心をもち、その「限界」を認識することが重要だと考えていたことが分かります。
それよりも大事なことは、他者と合意形成をしながら自分たちで秩序をつくっていこうという意志であって、その延長上に国家が据えられるべきである。それが、オルテガの考えでした。
国家の本来のあり方とは、人々の自生的な秩序によって均衡が取れた静かな状態であるとオルテガは考えていました。そして、そこにおいて擁護されるべきが「他者への寛容」を原則とするリベラリズム、自由主義である、と。 このように見ていくと、オルテガが守りたかったのは、やはり「リベラル」であった。だからこそ、それを破壊しようとする大衆政治を批判したのです。
(編者注:以下来週に続きます)
「大衆の反逆」オルテガ著 中島岳志解説
第三回「死者の民主主義」(前編)
「生きている死者」の存在
今回のキーワードは「生きている死者」です。
前回までにお話ししたとおりオルテガは、リベラリズムに基づいたデモクラシーを徹底して擁護した人物です。
死者たちはもうわれわれを助けてはくれない。過去の積極的な協同なしに、われわれは自分の問題一芸術であれ、科学であれ、政治であれーを、まさに現代の時点で解決しなければならない。
社会で多数派を占めているからといって、その人たちが勝手に何でも決めたり、変えたりしていいということにはなりません。過去の英知や失敗の蓄積の上に現在があるのだから、いま生きている人間だけによって、既存のとり決めを何でもかんでも変えていいわけがない。いくら多数決が民主制の基本とはいえ、そうした「限界」はもっていなくてはならない。
これはのちにお話しする立憲主義と密接にかかわる考え方だと思います。簡単に言えば、いかにいま生きている人間の多数派が支持しようとも、してはいけないとり決めがあるというのが立憲主義の考え方なのです。
自分たちの生きている時代は、これまでのどの時代よりも豊かですぐれているといううぬぼれをもち、だからこそ死者の存在を忘却してしまう。同時に、自分自身はさらにそれよりも上の存在であると考えている。こういう傲慢な感覚を、多くの人が抱いているのではないか、というのです。
(編者注:まさに某首相がこうした精神状態にあるのではないでしょうか)
そういう人々は、自分の力に対する過信があると同時に、その力に根拠がないゆえの不安に突き動かされ、暴力的になる。過去を見下し、無視するがゆえに不安になり、力に頼った権力政治を展開することになる。
蓄積されてきた過去のさまざまな経験が生み出してきたはずの制度や規範などが、「古めかしい」という理由でうち捨てられていく。その結果、暴力を含む直接行動によってすべてを単純化していくような熱狂が巻き起こる。それが民主主義の危うい側面であるとオルテガは考えていました。
人は後ろ向きに未来へ入っていく
過去に範を求めて、過去に向かって進むことによって前進するという、「遡行する前進」だと思います。フランスの詩人ポール・ヴァレリーの「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく」という一節が、このあり方をうまくとらえていると思います。
ご存じのように、手漕ぎのボートをまっすぐに進ませるためには、進むのと逆の方向を正視しなくてはなりません。人間の時間の歩みもそれと同じで、過去を直視することによってこそ、まっすぐ前に進んでいくことができるのではないか。
それがヴァレリーの言葉の意味するところです。
オルテガが言いたいことも、まったく同じでしょう。死者の問題というと、どうしても過去にこだわるような話としてとらえられがちですが、そうではありません。オルテガは、過去や死者と向き合うことによってこそ未来をまなざすことができる、そういう構造を説いているのです。
これと同じことを言っているのが、民俗学者の柳田邦夫です。
調査中に出会った一人の老人の言葉に柳田は感銘を受けます。それは「御先祖になるつもりだ」という言葉でした。
かつて日本では、「御先祖になる」という言葉が日常的に使われていた。「あなたはよい心がけだから、御先祖になりますよ」とか、子どもに対して「精を出して学問をして御先祖になりなさい」といった言い方です。そして人々は、「御先祖になる」ために、一生懸命善く生きようとしていたといいます。それはつまり、自分が死んだあとも、未来に仕事が待っているという感覚です。
柳田はこう書いています。
「御先祖になる」という言葉は、単に「過去の人たちを敬う」というものではない。そこに表れているのは、死んでからもこの世の中で一定の役割を果たし続けるという生のあり方であって、それは未来との対話、未来の他者との対話であるというのが柳田の発想なのです。
さらに、柳田がこれを戦時中に書いた背景には、「戦死者」の存在がありました。多くの若い男たちが兵士として戦場に行き、そこで亡くなっていく。未婚で子どものない彼らは親きょうだいが亡くなれば忘却され、永遠に「御先祖になることはできない」。柳田は、それでは駄目だ、この国はおかしくなってしまうといって、こう主張するのです。戦死者と養子縁組をして、彼らを「御先祖」とする子孫をつくらなくてはならない。そうしなければ私たちは、未来と語ることができなくなるだろう。
東日本大震災と「死者」の問題
私がこうした「死者」の問題について考えはじめたのは、東日本大震災がきっかけでした。
四月初めに掲載される原稿の締切が迫っていました。
記事は全国に配信され、もちろん被災地にも届きます。テレビで被災地の様子を見ていると、家や家族を失った人たちが、食い入るように新聞を読んでいるのが分かりました。その姿は、ただ情報を求めているというよりも、何か「言葉」を求めているように見えました。原発事故のゆくえも分からず、これから生活はどうなるのか、住んでいた家に帰ることができるのか、何もかもが不透明だった時期です。自分たちに何が起きたのか、それに答えてくれる言葉を人々が求めているように、私には思えたのです。
テレビで見た途方に暮れて立ち尽くしている被災者の姿。それが私には、自分の大切な人が突然いなくなくなったという「二人称の死」に、どう折り合いをつけていいか分からないでいるように映りました。なかには、目の前で大切な人が流されていった人も、手を伸ばしたけれど救うことができなかった人もいたでしょう。しかも多くの人は、お通夜やお葬式といった、その人が「死者」になっていく段階を踏むことさえできないでいた。人々は、「死者となった大切な人」の存在を、どう受け止めていいのか分からないという不安の中にいるのではないかと感じたのです。
死者と出会い直し、一緒に生きていく
私は、自分の体験をもとに「死者と共に生きる」という文章を書きました。大切な人の死は大きな喪失で、心の中にぽっかりと空いた穴に戸惑うけれど、死者はいなくなったわけではない。あとから必ず「出会い直し」がやってくる。その「出会い直し」を契機として、死者とともに生きていくことが、大切なのではないか。
オルテガを想起しながら書いたその文章は、被災地を含む全国の新聞に掲載され、驚くほどの反響を得ることができました。
(編者注:この章は講評が難しい。というのは、私も著者と同じ様に、死者と対話しながら毎日を送っているが、皆が皆、同じ感情を分かち合える訳ではないだろうと思うからです。それより、もう少し視点を引いて、個々の人生よりも、人間、或いはもっと広く歴史そのものから学ぶという姿勢を取るべきではないかと思います。これまで「人類」が犯してきた数々の失敗から目を逸らすことなく、そこから自分なりの原因と対策を学び取ることで、地球をより住みやすく、安全で幸福な惑星に出来るのではないか。さもないと、岸信介の衣鉢を次ぐ安倍晋三でさえ、死者から学ぶという意味では、正しい生き方だと主張するに違いないからです。なので歴史に相対する時には、心情よりも論理的であることの方が、重要であるようにも思われるのです。以下次号)
「大衆の反逆」オルテガ著 中島岳志解説
第三回「死者の民主主義」(後篇)
私の中にずっと引っかかっていたのは、「民主主義と立憲主義」の問題でした。法学上、あるいは政治学上も、この二つは相反するというのが基本的な考え方です。
つまり民主主義とは最終的に多数派によって決定されるという政治システム。一方立憲主義とは、憲法が権力を縛る、つまり「多数派の支持を得たからといっても、してはいけないことがある」という考え方です。仮に多数派が「言論を規制しろ」という主張をしたとしても、言論の自由は憲法で保障されているのだから、規制をすべきではない。
戦後日本の憲法学はどちらかというと、この相反する二つのうち、民主主義を優先させてきました。たとえば、高度な政治性をもつ国家の行為に関して裁判所は判断を避けるという「統治行為論」がそうです。民主主義が最上位にあることが前提だからこそ、立法府と立法府によって選出された内閣には最高裁判所より権威があると考える。だから、最高裁判所は「高度な」政治決定については憲法判断をしない。
(編者注:それが大きな間違いなのです。裁判所は、政権に忖度することなく、純粋に法理的な解釈を行うべきであって、政権が現実に、国民の総意を代表している訳ではなく、特に安部政権においては、民意の乖離が甚だ大きいのです)
民主主義が優先されていく中で、立憲主義は脇に押しやられてきました。しかし「死者」の問題について考えたときに、改めて私は「やはり立憲は重要だ」ということに思い至ります。「民主主義対立憲主義」という単純な構図になってしまうのは、この二つの主語が異なるということを見落としているからではないのか。
民主主義の主体はいま生きている人間、つまり「生者」。それに対して、立憲主義の主体は「死者」なのです。
立憲主義における憲法は、国民が権力を縛るためのルールです。では、そのときの「国民」とは誰なのか。立憲主義が前提としている国民は、生きている国民だけではない。その中には死者が含まれている。いや、むしろ死者が主役なのです。
(編者注:死者は黙して語りませんから、立憲主義の主体は「経験知」なのです)
いくら生きている人間が支持しようとも、してはいけないことがある。そして、その「してはいけないこと」を定めている憲法に、私たちは拘束され続けている。つまり、憲法を通じて、死者が私たちをガードし続けている、それが立憲主義というものなのです。
しかし、いまの日本には、自分は多数派に支持されているのだから何をしてもいいんだ、白紙委任されているのだと主張する政治家が少なくありません。そのように、立憲主義を忘れた民主主義、つまり多数者の見解だけによって正しい進歩が成し遂げられるという傲慢な発想こそが民主制を危うくするというのが、オルテガの思想なのです。
(編者注:これはその通りです)
過去と向き合わない進歩は無意昧である
オルテガはこうも言っています。
進歩した文明とは、困難な問題をかかえた文明にほかならない。(中略)問題が複雑になると、それを解決する手段もまた精密になってくることは、当然である。(中略)この手段のなかには文明の進歩にそのまま結びついた一つの手段がある。それは、その背後にたくさんの過去を、たくさんの経験をもつことである。つまりその手段とは、歴史を知ることである。さらに、過去と向き合わず、未来だけを見ている進歩は無意味だ、とも言っています。
「平凡であること」の非凡
チェスタトン『正統とは何か』
オルテガと同時代の作家チェスタトンが、ほぼ同じことを言っています。チェスタトンの言葉で、私の最も好きなものが以下のくだりです。
平凡なことは非凡なことより価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。
これこそが、まさにオルテガと共通する感性だと思うのです。非凡なるものとは何かと言えば、それは「平凡であること」を淡々と行えることだという。
たとえば、一人の八百屋さんがいたとします。親から継いだ八百屋を何十年も営んで、子どもをしっかりと育て、その子どもに店を継がせた。その人生は、平凡に見えるけれども、実はお客さんに店に来てもらうための会話術とか、商品を手に取ってもらうための並べ方とか、実にさまざまな経験知によって成り立っている。そうした日々を重ねた数十年の人生とは、まさに平凡の非凡ではないか、
というのがチェスタトンの感覚なのです。
一見平凡に見えることをきちんとすることの中に、人間の非凡さが存在している。この感覚は、庶民の英知を信頼し、そこに「高貴さ」を見出したオルテガのそれとまったく同じなのです。
チェスタトンは、民主主義についてもこんなことを言っています。
民主主義は、どういうわけか伝統と対立すると人は言う。どこからこんな考えが出てきたのか、それが私にはどうしても理解できぬのだ。伝統とは、民主主義を時間の軸にそって昔に押し広げたものにほかならぬではないか。(中略)何か孤立した記録、偶然に選ばれた記録を信用するのではなく、過去の平凡な人間共通の輿論を信用するーそれが伝統のはずである。
制約のなかに本質がある
繰り返しになるところもありますが、オルテガの思想の重要ないくつかの点について、もう少しお話ししたいと思います。
一つは「制約のなかに本質がある」という考え方です。すでに何度も出てきていますが、彼は「私は、私と私の環境である」と言いました。私は、私の環境を含めて「私」として成立している。だから「私」とはこれだ、と簡単に提示できるものではない。それは、人間の生そのものが環境からの「制約」を考慮することで成り立っている、ということでもあります。
その現代をうまく言い換えているのが、バウマンというポーランド出身の社会学者です。現代社会とは「クローク型共同体」だという言い方をしています。
観劇などの際、劇場に着いたらクロークで荷物やコートを預けますね。そして客席に入ると、観客は演じられる作品に悲喜こもごもの感情を同化させ、うれしい場面では笑い、悲しいくだりではみなで涙する、そういうある種の共同性が生まれる。
しかし、劇が終わってみながクロークルームに預けた物を受け取り、出口を出た瞬間、その共同性は消え去り、散り散りになる。現代の社会とはこれに似ているのではないか、というのです。
彼は「カーニバル型共同体」という言い方もしています。ネット的な言葉で言えば「祭り化する社会」ですね。断片化された熱狂が巻き起こって、一瞬すごい勢いで炎上するけれど、あっという間に忘れ去られていく。そういう「炎上」「祭り」でしか人々が結束できない。それが、バウマンの言うクローク型共同体であり、カーニバル型共同体です。そして、オルテガが直面していた「大衆の時代」も、まさにそういうことなのだと思います。
そんな時代の中で、私たちはどうやって新たな共同性をつくっていけばいいのか。
背筋を伸ばして遠くから物事を眺める
最後に、「遠近法的思考法」についてもお話ししたいと思います。彼は、時代を遠くから見ることが大事だ、と言っています。
もしあなたが自分の時代をよく見たければ、遠くからごらんになることだ。どのくらいの距離から見るか。きわめて簡単なことだ。クレオパトラの鼻が見えなくなるだけの距離から見ればよい。
現代社会を生きる人々は、明日の株価がどうとか、為替相場はどうかといった目先のことばかり追いかけて、近視眼的になりがちです。そうではなく、もう少し広く、遠くから物事を見ることが大事なのだと。
これを読んで思い出すのが、子ども時代、私が囲碁を習っていたときに、よく先生に「中島くん、背筋を伸ばして」と言われたことです。碁を打っていて局所的な攻め合いになると、どうしても体が前屈みになり、攻め合っている部分ばかりを見てしまうのですね。
でも、先生はそれではいけないという。部分的にその石を取れたとしても、その背後には相手の陣地が大きく広がっているかもしれない。だから「必要なのは全体を見るバランス感覚で、そのためには背筋を伸ばして盤面を見なければいけないよ」と言われたのです。
この言葉は、政治を含めさまざまなことに当てはまるような気がして、とても大事にしている教えです。みなが熱狂しているときほど、そこに巻き込まれず遠くから、百年、二百年という単位でものを考える必要があるのではないか。近くに寄りすぎることで、見えなくなるものがあるのではないか、と意識するようにしています。
(編者注:憲法は、現在の政権だけでなく、行き過ぎた大衆の判断や行動=超民主主義、にもブレーキを掛ける存在でもあると言えないでしょうか。以下次号)
「大衆の反逆」オルテガ著 中島岳志解説
第四回「保守とは何か」(前篇)
「保守」とは何か
人間は、不完全で有限な存在である
ここまでお話ししてきたことを踏まえて、オルテガという人をどう位置づけるべきなのか。他のさまざまな思想家や研究者の言葉を借りながら考えていきたいと思います。
何度も繰り返しているように、オルテガは「私は、私と私の環境である」と言い、「私」をある種の社会的な存在として位置づけて、近代の「裸の個人主義」を批判しました。近代的な理性によって設計的に進歩することができるという近代主義的な人間観に対して、ノーを突きつけている思想家です。
(編者注:言い換えれば謙虚であれということだと思います)
バークはオルテガより150年ほど前、18世紀を生きたイギリスの政治家ですが、フランス革命を厳しく批判しました。根本にあるのは人間観への不信です。
つまり、フランス革命を支えた啓蒙主義という考え方は、人間の理性によって完成された社会をつくることができる。だから未来に向けて頑張っていこうという思想です。人間の理性というものの、ある種の無謬性を信じ、それによる設計的な進歩を私たちの手でつくり上げていこうと考えるわけです。
バークが疑ったのは、その根本にある人間観でした。彼が言っているのは、「私たちの理性は完壁なのか」ということです。これは理性そのものを否定したり、理性を捨て去るべきだと主張したりしているわけではありません。
私たちは、理知的であればあるほど、あるいは理性的に世界や自分たち自身を見つめれば見つめるほど、自分たちの不完全性という問題に突き当たらざるを得ない。どんなにIQの高い人間でも間違いは犯すし、どんな秀才でも世界全体を正しく把握することなどできない。とするならは、不完全性を抱えた、間違いやすく誤謬に満ちあふれた存在であるということが、私たち有限なる人間の普遍的な姿ではないか、とバークはとらえるのです。
では、そのときに依拠するべきものは何か。裸の理性ではなく、むしろ裸の理性を超えたものの中に英知があると考えるべきだとバークは言います。つまり過去 長い間、多くの無名の死者たちが積み上げてきた集団的な経験知、良識、伝統、慣習といったものです。
同時に、バークは「神」という超越的な存在を重視しました。絶対者を念頭に置くがゆえに、私たちは自分の不完全性を意識し続けることができる。この超越的存在のまなざしが重要だというのです。
「永遠の微調整」を続ける
バークはまた、「復古」「反動」「進歩」のいずれの主義に対しても懐疑的でした。 彼はフランス革命を批判しましたが、単に「過去に戻れ」と言っているわけではありません。なぜなら、当然ながら過去の人間も不完全であり、過去には過去の問題があったはずだと考えたからです。たしかに「過去」という時間の厚みには意味はあるが、ある特定の時代に帰ればいいというものではない。その時代もまた不完全な人間社会なのだから完成などされていないということです。
たとえば、どれほどすばらしい社会保障制度があったとしても、何十年も前にできた制度をそのまま運用していては、人口構成などが違ってくるのでうまくいかない。その制度の趣旨を生かしていくためにはむしろ、変わらなくてはいけないというのがバークの考えでした。
一方で未来もまた、不完全な人間によって営まれるわけですから、絶対に社会は完成しない。世界では毎日、さまざまな問題が起こり続けている。それに永遠に対応し続けていくのが人間なのだ、と考えたのです。
そのときに範を求めるべきは、「過去」の厚みの中だという。それを踏まえ、多くの無名の人たちが積み上げた経験知に学びながら、漸進的な改革をしていこうというのが保守の発想です。「赤色」を一気に「青色」に変えるのではなく、その間にあるグラデーションの段階を、一つずつ踏みしめていこうとするのです。大切なものを変わらず守るためには変わっていかなくてはならないという発想なのです。
京都の老舗の人たちに話を聞くと、大切なものを守るために時代に応じて少しずつ変えていくことが、長く店を続けていくための大事なエッセンスなのだと感じます。もし室町時代からずっと同じことをしていたら、とっくに店は潰れていたでしょう。
私たちの「現在」は、膨大な過去の蓄積の上に成り立っています。私たちが担うべき改革のための作業は、その過去から相続した歴史的財産に対する「永遠の微調整」なのです。この「微調整」をずっと続けていくというのが、バークの思想のエッセンスであり、保守思想そのものなのです。
中間共同体と民主制
そして、よりはっきりとその流れを感じさせてくれるのが、第2回でお話しした、フランスの思想家であり政治家であるトクヴィルです。
彼はバークより少しあとの時代、革命後のフランスを生きた人です。バークは、革命後のフランスを「一部の人間による有害かつ不名誉な寡頭政治になるだろう」と予見しましたが、それは現実のものとなってしまいました。革命政府は、反対派を次々に処刑する恐怖政治の末、結果としてナポレオンの専制政治を呼び込むことになった。つまり、民主制の混乱と熱狂が独裁者を生み出した。それがフランス革命の帰結だったのです。
当初トクヴィルは、フランスが駄目になったのはナポレオンという愚かなリーダーを選んでしまったからであり、アメリカはリーダーが優れているから民主制が保たれているのだ、と考えていたようです。つまり、デモクラシーの本質はリーダーシップにあるという考え方を取っていたのですね。
ところが、当時の大統領であるジャクソンと会見するに至って、この考えは覆されます。ジャクソンは、奴隷に対する差別発言を繰り返し、マイノリティの隔離政策などを進めて支持を集めた人物。現代ポピュリズムの起源とも言えるような人で、トランプ氏が大統領に就任したときに、多くの人が彼のことを想起したといいます。
ジャクソンと会ったトクヴィルは、頭を抱えました。のちに著した『アメリカの民主政治』でも、彼のことを徹底的に批判しています。しかし、トクヴィルが偉かったのはここからでした。普通なら「アメリカは外から見ていたらうまくいっていると思ったけれど、そんなことはなかった」と結論づけて帰国してしまうところですが、そうではなく、自分の問題の立て方が誤っていた、と考え直すのです。
デモクラシーの本質はリーダーシップにあると思ったのだが、そうではないのではないか。アメリカ社会がうまく回っているのは、別の要素が働いているからではないか。そう発想を変えて観察を続けた末に、トクヴィルが気づいたのは「アメリカ社会は、国家と個人との間の中間領域が分厚い」ということでした。
アメリカは移民社会なので、みなが協同して何かをしようという意識が強く、「○○協会」といった共同体があちこちに存在する。なかでも一番の中心になっているのは教会で、しかもそこは宗教的な訓話を聞くだけの場ではない。小さな公共活動がいくつも生まれ、人々はそこで日々意見を交わし合い、合意形成を重ねているわけです。
こうした活動によって、人々の間に街に対する愛着や主体性が生まれる。そしてまた、自分と考えの違う他者を重んじ、合意を形成していくという日常的な鍛錬を通じた「心の習慣」が身に付いていく。それが健全な地方自治につながり、国全体の民主制を支えている。だから、こうした共同体、分厚い中間領域こそデモクラシーの核にあるものなのだ、というのがトクヴィルの指摘なのです。
マスメディアの発達が民主主義を破壊する
しかし、これは『アメリカの民主政治』に書かれている一部に過ぎません。全体を通して読むと、実はこの本には悲観的な見方が示されています。「うまくいっている」であろうアメリカのデモクラシーも、いずれ破綻するというのがトクヴィルの主張なのです。
その理由は、マスメディア支配の時代がやってくるからだ、とトクヴィルは言います。首都に拠点を置く大手のマスメディアが発展していくと、人々は中間領域に参加しなくなっていく。なぜなら、中間領域に参加するのは面倒だからです。そのかわりに、さまざまな情報を直接マスメディアから受け取ることによって政治家の動向などを知るようになり、中間領域は底抜けになっていくだろうというのです。
そうなったときに何が起こるかと言えば、多数者の専制だと。中間領域に参加せず、扇動的で画一的なマスメディアの情報だけを受容するような人たちは、多数者の欲望をうまくすくい取って代弁する政治家が出てきたときに、その甘い言葉に飛びついてしまう。さらに、その動きがメディアを通じて増幅され、いまでいうポピュリズムのような状況が生まれることで、デモクラシーは破綻に向かうだろうというのが彼の主張なのです。
そして多数者による専制の時代には、人々の自由が抑圧される、ともトクヴイルは書いています。この感覚は、まさにオルテガの大衆批判に直結していると思います。『大衆の反逆』が出版されるのは、『アメリカの民主政治』からほぼ一世紀後ですが、その百年近くの間に、トクヴィルが指摘したことが現実のものとなってしまった。その予見が正しかったことを、オルテガは示してみせているのです。
一方で、オルテガはただそれを嘆くだけの悲観主義者ではありません。彼は、それでもなお、大衆の根っこの部分には、かつて誰もがもっていた庶民性、彼の言葉で言う「貴族」の性質があるはずだ、大衆性に飲み込まれながらも、かつてのヨーロッパ的精神を共有している部分があるはずだと信じていた。
だから、彼は言論活動を決してやめませんでした。大衆社会を強く批判しながらも、マスメディアに登場し、大衆を相手にさまざまなことを書き続けた。大衆の中に、まだ庶民の英知が生きていると信じ、そこに向かって言葉を発し続けた。これが、私がオルテガを好きな理由の一つでもあるのです。
(編者注:僭越ながらWTWもその方向性です)
懐疑することを懐疑しないー西部遇『大衆への反逆』
日本でオルテガの存在にスポットライトを当てたのは、日本を代表する保守思想家である西部遭でした。私にとっては、さまざまなことを学んだ師匠のような存在です。
西部は、オルテガの姿勢に対するあつい信頼を綴っています。つまり、「大衆とともにあること」と「大衆から離れて独りで歩むこと」の両方を同時に実践したことを高く評価するのです。
"共に独り"でいることの緊張に堪えぬく精神、つまり大衆に迎合することも唯我に自閉する.こともない精神、それがオルテガのいう貴族、選良あるいは勝れた少数者たる、ことの条件である。この社会的階級でも政治的階級でもない階級、彼の表現によれば人間的階級としての貴族をほうむり去った後に、戦後、高度大衆社会がとりわけ日本において開花したのではないだろうか。
オルテガの著作に西部は、多数者の専制に対する警告を見出しています。そして、独裁とは必ずしも独裁者によってなされるものとは限らないとして、大衆が支配する現代デモクラシーの姿を「集団的独裁」と呼びました。少数者と対話しようとせず、異なる他者への寛容を失い、死著を殺してしまった、そういう時代が現代ではないか、と指摘するのです。
西部は、懐疑することを懐凝しないことが重要だと考えていました。疑うことを疑ってはならない。自己の存在をはじめ、あらゆるものを徹底的に疑う。それが実は健全なる何かをつかむことにおいて重要なのだ、と言うのです。
「自民族中心」の思潮こそ大衆主義の典型
西部は執筆の意図をにじませるような文章をいくつか書いています。
大衆を批判するのはますます強固なタブーとなりつつあるが、私はその禁忌にやすやすと従いたくはない。
もちろん、西部が言う「大衆」も、単なる階級的な概念ではありません。自己懐疑を失った近代人を意味しています
その大衆に寄り添ってみせるのが善良な知識人だという風潮があるけれど。自分はそれには従いたくない。大衆の中にある問題を突き刺し、示して見せることによってこそ、開けてくる世界があるのではないかと言っているのです。
(編者注:次号はいよいよ最終回です)
「大衆の反逆」の最終回です。
「大衆の反逆」オルテガ著 中島岳志解説
第四回「保守とは何か」(後篇)
西部の文章が書かれたのは1982年ですが、この年にいわゆる第一次歴史教科書問題があり、85年には中曽根首相(当時)が靖国神社を公式参拝、さらにその数年後には赤報隊事件が起こるなど、右傾化の動きが強まっていた時期でした。西部は、これに対しても徹底的に背を向けます。
大衆性という土俵において我が国が勝利を博しているという背景に立って、"日本主義"と呼べるような自民族中心の思潮が目立っている。これに歯止めをかけるためにも、そろそろ大衆化によって犠牲にされたものは何かと尋ねてよいであろう。自民族中心の思潮。それこそが大衆化、大衆主義の典型であるというのが西部の考えでした。
そして、ここでもやはりヨーロッパの徹底した懐疑主義について述べられています。その懐疑的精神に立った上で、ぎりぎりのところまで自分たちを、人間を疑い、問い詰めた先に、ようやく「日本という国をどう考えるか」という問いが立てられる。それを経ずして、安易に大衆社会の中で「日本」を礼賛し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と浮かれている人間を、彼は整茂していた。それが西部の考える保守という姿勢だったのだと思います。
数理経済学から保守思想へ
人間とは大変複雑な存在なのだから、数式によって人間社会を表すことなどできるはずがない。複雑なものを見るには、こちら側も複雑な思考をしなくてはならない。経済学だけでなく、もっと幅広い分野を学ばないと、人間社会の現象としての経済は解けない。西部はそう考えたのです。
そして、政治学から文化人類学、心理学に至るまで、あらゆる分野の本に目を通し、勉強しはじめます。オルテガを読んだのもその時期のようです。
その後、アメリカ、イギリスに留学。そのイギリスで、西部は保守思想の真髄に出会います。渡英前から保守というものに対する認識はあったけれど、イギリスの農村部で生活し、何百年も続いてきたであろう庶民の豊かな日常、受け継がれてきた祭りの様子などを見るうちに、「これこそが人間だ」と感じ、バークなどの著作を読みはじめたと言います。彼が三十代後半ごろのことですね。
そして、日本に帰ってきた西部が目にしたのは、自己懐疑の精神を失った大衆が権力を掌握する「高度大衆社会」でした。その中で、彼は自ら「保守」を選び取り、オルテガを語りながら、現代日本、とりわけ80年代の右傾化と言われる現象に対して強く批判を続けた。
西部は『大衆への反逆』を出版した五年後に東大を辞職します。背景にあったのは彼自身の学者不信でした。学内にいる学者たちが、いかに狭量な知識と権威によって守られた「専門家」であるか。それに対して西部は、オルテガと同じ「輪転機の上に立って」、大衆の中にある健全な庶民性のようなものに訴えかけていこうとした。だから大学を去り、自分で雑誌を立ち上げたりもしたのです。
私自身も、繰り返し西部から「時評を捨てるな、時事的なことを語り続けろ」と言われました。また、専門しか知らない人間のコメントはだいたい間違っている、文学や芸術を含めた人間に対する理解、総合的な知の中に身を置くことにょってようやく社会が見えるのだ、とも。
「起きている現象に目をつぶるな。勇気をもってコメントし続けろ」。この西部の言葉があったからこそ、いま私はさまざまな場で発言し続けているのです。
日本の「保守」と呼ばれる人たち
私は2013年に、『「リベラル保守」宣言』という著書を出版しました。対立概念のようにとらえられることも多い「リベラル」と「保守」が私の中で結びついたのは、やはり西部適、そしてオルテガがきっかけです。
はじまりは、大学に入った年に、初めて西部の『リベラル・マインド』という本を読み、強い衝撃を受けたことでした。この本の中で、西部は「リベラルと保守というのは一体のものである」という議論を展開しています。
ここまで何度かお話ししてきたことですが、保守の基本には自己をも徹底的に疑う、懐疑的な精神がある。自己に懐疑の念が向けられる以上、自分は間違えているのかもしれないという前提に立って発言せざるを得ない。そうすると、自分と異なる意見に耳を傾け、納得できる部分は取り入れながら合意形成をしていくことになる。だから、保守とはリベラルであらざるを得ないのだというのが、西部が書いていることでした。
では、いまの日本で「保守」と呼ばれる人たちの考え方はどうでしょうか。ここまでたどってきたような、保守思想の水脈に位置付けられてきたものとはあまりにも異なっています。他者と対話しようとしない、オルテガが言う「敵とともに生きる」ことなど想像もしないであろう、もっとも「保守」とかけ離れた人間が「保守」を名乗っている。自分と異なる意見に対し、レッテル貼りをしながら放言する、そんな人たちが「保守」と呼ばれている状況です。
さらには、あろうことか国会までが、そうした状況に陥っている。議論がほとんどなくなり、声が大きい人たち、多数派の人たちによって、すべてが強引に決められていく。こうした対話の軽視、リベラルな考え方の喪失こそ、オルテガの恐れた「熱狂する大衆」という問題だったのではないでしょうか。
同時に、私たち自身もまた、オルテガが批判したような「大衆」になってはいないか。いま『大衆の反逆』を読むことで、そのことも改めて問われているのです。
新たな社会的包摂をどうつくるか
「私たちは「大衆」になっていないか?」と問うことは、現代の社会において、新たな共同性、新たな社会的包摂をどうつくっていくべきかということでもあります。
そのことを考えるときに参考になるのが、アメリカの政治学者であるロバート・バットナムの論です。
彼は、イタリアの地方制度改革の進行について調べているのですが、北部と南部を比較したところ、圧倒的に北部のほうが改革がうまく進んでいるのだそうです。なぜなら、イタリア南部のような伝統的な農村社会は、ヒエラルキーが固定化されていて、なかなか議論が進まない。対して、北部のようなヨーロッパの都市部は、人々が集まって合議をする場、つまり国家と個人の中間領域が豊富に存在している。バットナムはこの中間領域を「ソーシャル・キャピタル」(社会関係資本)と見なし、それが分厚い社会は民主制がうまくいくという論を展開しています。
ボンディングとブリッジング
同時にバットナムは、それはただ「昔に戻る」ことではないとも言っています。
彼が提示するのは「ボンディング(結束)」と「ブリッジング(橋渡し)」という概念です。
ボンディングとは、たとえば町内会のような「昔ながらの絆関係」を指します。これは重要ではあるのですが、常に「包摂の中の排除」を伴うというのがバットナムの指摘です。
つまり、ムラ社会では、おとなしく年配者の言うことを聞く若者はかわいがられるけれど、「そのやり方はおかしい」と異を唱えるような人は村八分に遭う。従順であれば包摂されるけれど、そうでないと排除の対象とされるわけですね。しかも、町内会の中は水平関係ではなく、男性が物事を決定して、女性は裏方に回らされていたりする。こうした共同体しか存在しない社会は、やはりつらいのです。
そこでバットナムが提示するのが「ブリッジング」、つまり「橋渡し」という概念です。これは、一人が複数の共同体に所属している状態のことで、そうすることによって町内会に参加する日もあれば、スポーツサークルに行く日もあるし、また別の日はNPOでボランティアを-…というように、あちこちに顔を出すことができるわけです。逆に言えば、町内会のような特定のメンバーだけではなく、いろいろな人が出入り自由のオープンな共同体がたくさんあることが望ましいのです。
オルテガの言う「大衆の時代」を、落ち着いた、健全なデモクラシーが働く社会にするためには、私はやはり、社会的包摂が重要だと考えます。誰もが居場所をもち、生きがいを携えて生きることができる社会をつくり直す必要がある。しかし、その手法は単に「昔に戻る」であってはならず、ボンディングとブリッジングが併存する複合的なソーシャル・キャピタルを創出していく必要があるのではないか。それが、オルテガの思想を現代の社会政策に生かしていくための重要な指針ではないでしょうか。
(編者注:不正行為をものともしない政治権力の欺瞞と扇動、その結果としての大衆の暴走=全体主義、我民主主義を破壊する前に、その兆候をいち早くとらえ、どう立ち向かえば良いのか。2/23は別の資料で考えます)
関連記事。統計、部分入れ替え。首相秘書官が功労省に促す。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201902/CK2019022102000287.html
コメント:安倍政権は芯まで腐っていました、というより、今でも腐っています。目的の為には違法な手段を厭わない。その場限りの甘い言葉で国民をだまし、行政の現場では強権を発動して、国民にうむを言わせない。自分達の権利・権力は、政権の御用機関と化した検察と裁判所が結託して「忖度」でとことん守る(モリカケを見よ)。典型的な、というより最悪の独裁政治を目の当たりにしている事に、国民の全てが気が付かなければならないのです。
「国家と教養」批判
「教養としての社会保障」批判
「立憲は野党第一党の責任感が足りない」
「メディアに火の粉」
「追い詰められて、余裕がなくなってきた安倍首相」
「ごり押しする政治権力」
「同性婚と異性婚」
「五輪に国家総動員」
「スネオとジャイアン」
1392.「国家と教養」批判 19/1/21-23
1/19の朝日新聞の川柳にいわく、
「間違えば事件が事変になる照射」
「問われれば逃げ口上の調査中」
また同時期のオピニオン欄には、五輪の商業主義を批判して、人道上の問題もある暑い時期に開催するのは、米国の放送局の都合であり、しかも後には使えない施設が残る。ならば五輪を止めることも選択肢ではないかという投稿がありました。端的に言えば、金儲けの為にスポ―ツが利用されているだけだという指摘です。私もクーベルタン男爵の名前さえ忘れられているようなオリンピックでは、開催する意味がないと思います。
更に1/19の社説では、「転機のNHK、公共議論、今こそ」という題名でNHKを取り上げています。月160円の値下げで赤字決算というけれど、余剰金は1千億もあること。4K/8K技術で差をつけ、業務も拡大しており、NHKの影響力が強まり、民放との差が拡大していること。「報道機関として、政権との距離をいかに適正に保つかという長年の課題も残されたまま」、「NHKの元記者の手記に反論するも、具体的な説明はない。辺野古の埋め立てで、事実を伝えなかったと指摘されても、自主的な編集責任と繰り返すばかり。こんな姿勢で転機を乗り切れるだろうか。求められるのはうわべの言葉ではなく、視聴者の理解を得る行動である」と結んでいます。
因みに私は8K技術の実用化を急ぐ理由が全く理解できません。それより4K放送の長所を生かせる番組を充実させることが先決です。なお「いだてん」には大河という名前は相応しくありません。日曜日の朝9時からNHK4Kでも放映していますが、画面が暗いばかりか、色合いも不自然で、これが4Kなら誰も4K受像機は買わないと思わせる番組です。同じNHK4K番組でも空から見る風景とは全く別物です。同じ番組でもBSの放映の方が見やすいのです。何かにせっつかれように先走りしているが、技術の応用とコンテンツが追い付いていません。NHKは一体どんな亡霊に追いかけられているのか。また文化番組のリベラル度にくらべて、報道局の右傾化ぶりが目に余ります。小池報道局長はそろそろ視聴者の前に姿を現すべきです。その給与は安倍首相ではなく、我々国民が負担しているのですから。
ところで、日曜のタケシの座談番組で、一人の若者が、若者が低い給与しか得ていないのに、高齢者がため込んでいるのはけしからんという議論をしており、タケシが1円だって出すもんかと怒っていました。でもこの議論こそ、安倍政権と経営者や富裕層の思うつぼなのです。なぜなら、若者どころか、全ての勤労者の給与が上がらないのは、企業が余剰金を何兆円もため込んでいるからなのです。私の初任給は3万円でした。それでも当時は多い方だったのです。その中から、住宅ローンを払い、子どもを育ててきました。今後の生活についても、これという見通しがあるわけではありません。労せず大金を手にする富裕層とは、根本的に経済の構造が異なっているのです。
しかもこの若者の発言は、極めて危険な要素を含んでいます。なぜならそれは関東大震災で、朝鮮人への迫害が起きた時と同じ精神構造だからです。問題の本質を見極めようとはせず、一時的な不満を身近の弱者にぶつける事で、鬱憤を晴らそうとしているからです。これは政治や経済の問題から、国民の批判の目を逸らす、最も手っ取り早い方法、即ち仲間割れを誘う方法でもあるのです。
私も高齢者で、いつお呼びが掛かってもおかしくない年齢になりました。そこで、遺言を考えました。私が若い頃は「若者よ、書を捨てよ、街に出よう」という言葉がありました。五木寛之の「さらばモスクワ愚連隊」の頃の話です。しかし今は逆です。「若者よ、スマホを消して、新聞を読もう」というのが私の遺言になりそうです。
1/20のNHKの未来塾で、高橋源一郎が、憲法のいいところは理想を書くことができる事だと、学生に話していました。理想だから、すぐに実現できないこともあると説明していました。長谷部恭男(はせべやすお)も出演し、国の形には二つあると述べていました。その一つは今の日本のような「広場」であり、もう一つは企業、或いは中国のような、目標のための「組織」というものです。言う迄もなく、安倍首相が目指しているものは、後者(中国共産党)であり、そのための改憲です。
今回は「国家と教養」から、冒頭の一部を紹介します。一気に読んで感想文だけをと思っていたのですが、のっけから「えーッ」という内容の連続なので、方針を変えて、少し詳しく見てゆくことにしました。それにしてもかなり過激な内容なので、裏付けを取る必要はありそうです。
「国家と教養」藤原正彦 新潮選書 740円
第一章 教養は何故必要なのか、から。
バブルが1991年に崩壊しました。日経平均株価は4万円に迫り、東京の山手線内の土地価格でアメリカ全土が買える、と言われたほどのバブルでした。… バブルが弾けた後、人々はそれまでの不況のように、数年も待てば自律的に好況に転ずるだろうと高を括っていました。ところが…株価は1989年末のピークから三年足らずで半分以下にまで急落し、日本の土地資産はピーク後十年余りをかけて半分になりました。株と土地を合わせて1500兆円ほどの資産が日本から失われたのです。
「地価は下がらない」という神話にもとづいて、多くの土地は借金の担保となっていましたから、資金を貸していた銀行には不良債権が山のように積もり、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行などの大手銀行が次々につぶれました。株価低落で山一証券や三洋証券がつぶれました。GDP(国内総生産)は激減し、給料は減らされ、新卒学生にとって就職氷河時代と言われるほどの就職難となりました。
…この不況がそれまでの不況と本質的に違ったのは、不況克服という大義名分のもと、90年代後半から、日本大改造が始まったことです。戦後50年間の日本の繁栄を支え、「奇
蹟の復興」をもたらした原動力とも言える日本型システムを、バブル発生と崩壊の真因の分析もせぬまま、一気に葬り始めたのです。バブル崩壊と長びく不況ですっかり自信を失った国民の狼狽に乗ずるかのような、一気呵成の大改造でした。
キーワードは「グローバル・スタンダード」でした。それまでは穏やかな新聞と思われていた日本経済新聞が、アメリカ帰りのエコノミスト達に共鳴するかのように突然トーンを上げ始めました。成果主義を喧伝し、それまでの終身雇用を基本とした日本型経営や、日本型資本主義を、悪玉に仕立て上げ始めたのです。
…グローバル・スタンタードとは和製英語で定義は不詳ですが、内容はいわゆるアメリカ型資本主義、いわゆる新自由主義、いわゆる市場原理主義、いわゆるグローバリズムです。元を正せばシカゴ大学発の一学説です。…それは一口で言うと、規制を片端から撤廃し、ヒト、カネ、モノが自由に国境を越えられるようにすることです。具体的には巨大へッジファンドや巨大多国籍企業などが、世界中を股に、いっさいの規制なしに利潤(しばしば瞬間的利益)を追い求めることを可能にするものです。それは金融資本主義を完成させようとするものです。大企業や富裕層に有利、従って支配層に有利、ということでこれは西側社会ばかりでなく、ロシアや中国にも少しずつ広がっていきました。
…ムーディーズやS&Pといったアメリカの格付け会社が、日本の銀行や証券会社を格下げし始めました。世界最優良企業の一つであるトヨタ自動車までが、何と終身雇用制度を採っているという理由で大幅に格下げされました。力ずくで終身雇用をやめさせよう、自分達のやり方に従わせようとしたのです。
アメリカは得意の情報工作に加え、息のかかったIMF(国際通貨基金)を利用し、世界各国に対ししきりにグローバリズムを進展させるよう働きかけました。とりわけ世界第二の経済大国であり、アメリカの経済上の最大ライバルでもある日本が、グローバリズムとは対極的なシステムを採りながら、極端に強い体質をもっていることは、容認できないことでした。そこで日本の強みの源泉である体質を変えることが最優先事項となりました。アメリカの核の傘の下にいるという負い目を持っていて、終戦以来アメリカにとことん従順だった日本だから、うまく脅したりすかしたりすればどうにかなると算段していたことでしょう。
日本改造へのアメリカの強い意志と圧力は、その後も続きました。金融ビッグバン、郵政民営化、医療制度の改革、労働者派遣法の改革など、矢継早に大改革がなされました。これらのほとんどは、アメリカ政府が「年次改革要望書」や「日米投資イニシアティブ報告書」として日本に突きつけたものの実施にすぎません。この二つは日本国民に存在すら伝えられていず、あたかも首相直下の経済財政諮問会議や規制改革会議が討議のうえで決定したかのごとく報道されていました。日本政府はアメリカの要望を満たすため、この二つの会議の委員には新自由主義者を集めました。無論アメリカのための改革でした。
例えば三角合併解禁は外資が日本企業を買収しようとする時、現金を用意しなくとも自社株で買収できるようにしたものです。アメリカ企業は時価総額が桁違いに巨大です。…大手メディアは大改革を煽りながら、それらがアメリカ発という事実をひた隠しにしたと言ってよいほど報道しませんでしたから、国民は何も知りませんでした。2004年になって関岡英之氏が『拒否できない日本』(文春新書)で初めて暴いたものでした。
2005年、小泉純一郎首相による一方的な郵政解散の二ヵ月前、自民党の城内実議員が衆議院の委員会で、竹中平蔵郵政民営化担当大臣にこう質問しました。
「郵政改革について日本政府は米国と過去一年間に何回協議しましたか」
事前にこの質問だけはしないよう官僚から懇願されていたものを、城内実氏がアメリカの露骨な内政干渉に対する義憤から強行したのでした。これに対し竹中大臣は、「17回」と渋々答えました。露骨で執拗な内政干渉がなされたことを認めたのです。300兆円に上る郵貯や簡保に狙いを定めたアメリカが、いかに熱心に郵政民営化を求めたかを物語ります。
…郵政民営化とは、民営化され株式が公開されるのを待って、アメリカが三角合併で吸収合併するか主導権を握って300兆円の運用権を我が物にしようとしたものです。日本国民が汗水たらし営々と貯めた300兆円を、日本政府がアメリカに貢ごうとしたのが郵政改革だったのです。
実際、上場する時のゆうちょ銀行の社長はシティバンク銀行の元会長、運用部門のトップはゴールドマン・サックス証券の元副会長になっています。そして、保有する米国債は、ゆうちょ銀行スタート直後の2008年にはゼロでしたが、2018年には51兆円に増加しています。その間に日本国債の保有は159兆円から74兆円に減少しました。アメリカの欲する日本改造を、なぜか我が国の政官財と大メディアが一致して賛同するばかりか、その旗を振り、国民を洗脳し、ついには実現させてしまう、という流れは今も続いています。小泉構造改革をはじめ、消費増税、TPP(環太平洋経済連携協定)など国論を二分してよい改革を、大新聞が一致して支持する様はまさに壮観かつ異様です。
(編者注:以下次号に続きます。ところで、「拒否出来ない日本」は、裏付けを取る意味もあって、入手予定です)
フジ産経グループの調査では、内閣の支持率が上昇しているとのことです。厚労省であれだけの大問題があっても、国民はそれを政府の責任だとは思わずに、官僚が勝手にしたことだと思っており、モリカケ問題についても、同じような判断をしているからではないか。でもこの状況(或る意味で衆愚)こそまさに安倍政権の思うつぼなのです。私達は(与えられた)状況報告であっても、事の真相を正しく推測し、正確な政治判断を行うために、最低限度の教養を身に着ける必要があるのです。
関連記事。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20190121-00410200-fnn-pol
「国家と教養」の第二回です。次回が最終回です。詳しく紹介すると言ってはみたものの、読み進むと随所に違和感があります。著者には少なからず問題点がありそうなので、WTWとしては諸手を上げて推薦は出来かねると言わざるを得なくなりました。むしろ著者(藤原)の問題点は、保守層に対して一定の影響力を持っていることにありそうです。
…我が国の政治家も官僚もメディアも、そして国民も、1990年前後の冷戦終結を甘く見ていました。ところが世界の一強となったアメリカは、浮かれていませんでした。世界の激変の影響を徹底的に検討し、これからの世界戦略を練り始めました。国家戦略の要でもある大統領直下のCIA(中央情報局)や国防総省のNSA(国家安全保障局)は、冷戦後は自分たちの存在価値が低下すると考えました。CIAやNSAは冷戦終結後の生き残りの手段として、主たるターゲットを共産圏から経済戦略に切り替えました。
そして93年にはクリントン大統領がすでに進行していた「ジャパン・バッシング(日本叩き)」を大々的に展開しました。対日貿易赤字の主たる原因は、日本の家電や日本車ほど質の高い製品を作れないという自らの技術力不足にあるのに、それを棚に上げ日本叩きに走ったのです。
我が国ではここ20年余りの長期にわたってデフレ不況が続いていますが、これは経済統計の整った20世紀以降で世界最長のデフレなのです。世界金融史上ダントツに長いこのデフレの正体は、盟友アメリカが、経済上では庇護者から敵に変わったことに、日本人が気付かなかったための悲劇、と言っても過言ではないのです。
(編者注:米国が日本を搾取しようとしていることを、日本人が知らなかったというのは間違いです。下山国鉄総裁暗殺事件、田中角栄のロッキード事件などは、日本のトップの反米の動きを封じるために、いち早くCIAが非合法活動を行った結果であることは、つとに知られている事実でもあります。しかも私は90年代の日本叩きを、米国に居て、身をもって体験しているのです)
バブル大崩壊という災難につけこんだ新自由主義の強要は、ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)と呼ばれる、新自由主義拡大のための典型的テクニックだったのです。人々が呆然自失から正気を取り戻す前に、一気に体制を変えてしまうということです。
ショック・ドクトリンに関しては、チリの軍事クーデターが典型例です。1973年、アメリカは民主的に選ばれたアジェンデ政権をCIAを用いたクーデターにより倒しました。そしてその混乱に乗じ、ピノチェト軍事政権を立て、新自由主義の教祖とも言えるシカゴ大学教授ミルトン・フリードマンの弟子達(シカゴ・ボーイズ)を、経済政策担当としてチリに送り込みました。彼等は国営企業の民営化や福祉・医療・教育など社会的支出の削減などを行いました。初めの二年間ほど景気は回復しましたが、すぐに経済成長はマイナスに転じ、自由貿易によって国内製造業は壊滅、貧困率は前政権時代の二倍の40%となりました。
(編者注:少なくともキューバについては、米国に経済的侵略、自由主義による経済的支配の意図があったと思います。だからこそ、革命も起きたのです)
規制緩和により企業が、正規社員に比べ給料が半分以下ですむ非正規社員を増やしたため、非正規はバブル崩壊以降これまでに全雇用者の20%から40%へと倍増しました。
(編者注:規制改革が、国民生活に与えた負の側面を、小泉も、竹中も決して認めようとはしません。デフレについても、彼らと白川日銀総裁の責任には大きなものがあります)
非正規の若者はいつクビになるかも分らず、平均年収も二百万円になりません。そのため二十代での結婚が激減し、必然的に出産数もガタ落ちとなりました。少子化が大声で叫ばれると、「労働力」を補充するという理由で、実際は「安い労働力」を得るため、満を持していたかのように一千万人移民計画が登場しました。ヒト、カネ、モノが自由に国境を越える、という新自由主義が着々と完成を目指して力強く歩み始めたのです。
では我々はどのように有意義な情報を選んでいるのでしょうか。銀行員が融資先の会社の状況を調べるというような職業上の情報のようなものを除くと、通常は嗅覚により自分にとって価値ある情報を選択しているのです。
その嗅覚は何によって培われるのでしょうか。教養とそこから生まれる見識が大きく働いているのです。では、教養とは一体何か、ということになります。ところが教養というものの定義は余りに多く、人により千差万別と言ってよいほどです。
恐らく現在もっとも共有されている教養とは、「古典や哲学などの知識とそれらを通した人格の陶冶」というような概念だと思います。そういった従来の教養が、人類の歴史を通していかに偉大な力を発揮したか、そしてどうして二十世紀になって力を失って行ったかを、この後に続く第二・三・四・五章で見てみます。それらをふまえ、第六章で新たな教養について述べ、それがなぜ現代世界の人間にとってかつてよりも必要となっているのかを見てみたいと思います。
(編者注:それらの章は全部省略します。次号が最終回です。ちなみに本稿では省略していますが、随所に著者の自慢話が散見され、著書の人間性に少なからず疑問を抱かせるものです。著者の主張は「ある意味」では正論です。しかしその目線は、国民に教えてやる、自分は大衆とは違うと言わんばかりで、そこはさすがに櫻井よしこが評価するだけの事はあります。無論皮肉です。今、この本に時間を割いたことを若干後悔しているところですが、しかし740円の元は取らな いといけないので、良いところもあるのだろうと期待して通読するつもりです。どんな意見でも、意見は意見であり、それにも耳を傾けるのが民主主義というものだからです)
「国家と教養」の最終回です。そう言えば前作の「国家の品格」も、確か途中で投げ出したことを、思い出しました。バ―コ―ド教授のこの本は、読みやすい反面、結論が性急で、当中にあるべき理論的な裏付けが弱いという欠点があります。その結果、風呂屋(今はない)や床屋での談議に近いものがあります。従って、共産党を含むリベラルとは肌が合わないが、かといって今の米国一辺倒の自民党政治にも満足できない人向けではないかと思います。批判的に言えば、著者が衆愚と呼ぶ、国民のポピュリズムを、逆に当て込んでいるようにも思えます。
…教養が衰退した第一の理由は、現代人が、生存競争に勝つためにも、生活を豊かにするためにも役立ちそうにない教養などは、前世紀までの遺物でありヒマ人の時間潰しと、見下すようになったからです。
理由の二つ目は世界のアメリカ化です。20世紀アメリカでは、作家などの知識人はビジネスを知性の対極に位置するものととらえてきたのです。
第三の理由はグローバリズムです。ここ20年ほどでアメリカ発のグローバリズムが世界に浸透しました。一言で言うと規制なしの自由経済ですが、これは強欲資本主義を生み、2008年にはリーマン・ショックという激震を起こしました。本来なら、やはり適切な規制が必要と痛感されるはずですが、本場アメリカは懲りずにそれを続けようとしています。
新自由主義による格差拡大を分析したフランスの経済学者ピケティの『21世紀の資本』は、ベストセラーになりました。新自由主義に対する批判の声がヨーロッパを中心に世界中で、お膝元のアメリカでさえ渦巻いている証しと言えるでしょう。
人間にとって、利害得失に従うという生存本能から完全に脱却することは生物学的に不可能です。しかしながら、利害得失とは別の価値観を少なくとも重んずる人々を増やさない限り、永遠に同じことが繰り返されることになります。教養は本能を制御する力として大きな意味を持つのです。
(編者注:ここまでは同感です)
大戦後の唯一の勝者アメリカがばらまいた、新自由主義で、世界中の人々が激しい競争にさらされています。このような社会では、当面の競争に勝つのに役立たない教養、しかも身につけるには読書という多大の時間を必要とするものに、人々が目を向けようとしなくなったのは、自然の勢いと言えるでしょう。
第四の理由は、二つの世界大戦です。アメリカと違い教養の伝統のあったヨーロッパ
で、850万人の戦死者を出した第一次大戦を防げませんでした。
…一篇の詩に出会っただけで、生き方が変わったり、志を立てたり、それを実現するために頑張ることが可能となったりすることもあります。また、歴史や文明や文化に関する本を読むことで、世界史の中における現代の立ち位置、日本の立ち位置、そして究極的には自分の立ち位置が少しずつはっきりしてきます。
立ち位置が確立されないと毎日見聞する社会現象を大局的に見ることができません。本を読まない人間は井の中の蛙と同じになります。井戸の外を一切知らなくても蛙は幸せな一生を終えることができるのかも知れません。しかし実体験だけで満足する人は、一度しかない人生をじっと井戸の中で暮らすようなものです。
実体験は疑似体験により補完され、健全な知識と情緒と形、すなわちバランスのとれた知情形が身につきます。これこそがこれからの教養であり、あらゆる判断における価値基準となります。別の言葉で言えば、あらゆる判断における座標軸が形作られてくるのです。哲学を中心とした「生とは何か」を問うのがかつての教養で、「いかに生きるか」を問うのがこれからの教養と言ってもよいかも知れません。
(編者注:実存主義こそ如何に生きるかを問う哲学なのです)
人間は論理的に考えるだけでは、物事の本質に到達することは決してできません。『国家の品格』で詳述しましたように、実生活において、論理などというものは吹けば飛ぶようなものです。人を殺してはいけない論理も、人を殺してよい論理も、少しでも頭のいい人ならいくらでも見つけることができます。状況や立場や視点によっていくらでも変わりうる、変幻自在な論理などに頼ることなく、一刀両断で真偽、善悪、美醜を判断できる座標軸がぜひとも必要な所以です。教養という座標軸のない論理は自己正当化に過ぎず、座標軸のない判断は根無し草のように頼りないものです。 ありとあらゆる論理には出発点が必要で、この出発点の選択が決定的に重要です。これが間違っていれば、後の論理が正しければ正しいほど結論はとんでもないものとなるからです。教養すなわち知情形に欠けた人は、この出発点を正しく選べないのです。
(編者注:さすがにそれは違うでしょう。人は文系脳と理系脳の双方をバランスよく持ち合わせる事で、社会的存在になるのです。理系脳とは論理的思考のことです。しかも一刀両断こそが最も危ないことなのです。論理なき議論は感情論に堕するからです。ちなみに字が小さくて読みにくいのですが、著者の前作「国家の品格」への批判を、参考までに添付しました。「国家と教養」にも通じるものがあります)
関連記事。「国家の品格」批判。
https://blog.goo.ne.jp/takacriticizes/e/4ce004e915ef4b164f170b527ef596d9
同じく。
http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_10.html
…自己利益の追求は生物としての人間に備わったもので、何ら恥ずべきものではありません。 問題は、多くの人が利害得失という価値基準しか持ち合わせていないということです。
きちんとした価値基準を持たない国のリーダーは、個々の現象に目を奪われ、それらを貫く本質が見えませんから、大局観や長期的視野を持つことはとうてい不可能です。したがってすべての改革は小手先の対症療法とならざるを得ません。これなら世論の支持も得られそうだから、盟友アメリカにこう言われたから、中国や韓国にこう言われたから、波風を立てないためにこうしよう、となるのです。世論をうかがいつつ他国を右顧左眄しながら、日本をリードするより他なくなります。堂々たる価値基準をもつこと。すなわち教養を蓄積することが国のリーダーには決定的に重要です。
間違ってとんでもない独裁者を選んだらそれまでです。そこで我が国は、先進欧米諸国にならい民主主義国家となりました。民主主義国家では一人一人が十分な教養をもたねばならない。民主主義国家ではリーダーは選挙を通じ国民によって選ばれます。残念なことに、この方法によっても、適切な人を選ぶことは至難の業です。立候補者の教養、見識、力量などについては、学歴や経験を見ても、とうてい分りません。選ぶ人が自ら、教養をもっていないと判断できないのです。
すなわち民主主義国家では、政治を司る人も、選ぶ立場の国民一人一人も、十分な教養をもつこと、成熟した国民になることが不可欠なのです。19世紀までは、例えばドイツのように、一群の教養エリートにすべてをまかせておけば万事よかったのですが、残念なことに歴史上、いかなる国家も成熟した国民という状態に到達したことがありません。これまでのすべての民主主義国家は、古代ギリシアから現在に至るまで、例外なく衆愚政治国家でした。
(編者注:これも言い過ぎです。例外はあります)
一言で言うと民主主義とは、国民の未熟を考えると、最低の政治システムなのです。ただ、フランス革命前のブルボン王朝、清朝、ヒットラー、スターリン、毛沢東、北朝鮮などを考えると、絶対王政や独裁制や共産制よりはまだまし、というレベルにあるのです。
現代社会の病いの本質は、世界的規模での民主主義の浸透に、各国国民の教養がついていっていない、という不合理にあったのです…。
(編者注:段々馬鹿々々しくなってきたので、以下は省略します。国民は未熟で、民主主義は最低の政治というのは、さすがに如何なものか。著者は、賢者にまつりごとを任せた方が間違いないと言いたいのでしょうが、どんな名君主でも神ではありません。また古代のように、神官のお告げでまつりごとを行う訳にもいかないのです。人間であるがゆえに、完全無欠の判断は出来ない。そこで任期を限定して被害を最小限度に留めようとしているのです。だからこそ、安倍首相の続投は民主主義を否定する行為なのです。三選を言い出した二階某は、見た目同様、オツムの中身も漫画チックです。一方、今どき、不要な世論調査をして、安部政権の支持率が僅かに上がったことを大きく宣伝するフジサンケイグループに至っては、二院制の理念さえ否定する、ジャーナリズムにあるまじき言動=世論操作、です。
現代の民主主義の根幹を、かくも不用意にまた軽率に否定する著者の心理は、私には理解不能です。この人は教壇に立って、一体何を教えていたのでしょうか。そもそも民意を反映しつつ、如何に衆愚を避けるかで考え出された方法が、二院制であることを忘れてはならないのです。とはいえ、日本では多数決の衆院と、良識の参院が同質化しており、「ねじれているべき」なのに、ねじれていないので、議院内閣制がまともに機能していないのです。
興味深いことには、米国ではそれが逆転していて、良識の府である上院がトランプを支持し、大衆の府である下院がトランプの暴走を抑えています。言い換えれば、著者の言う「衆愚」がトランプの暴政の抑えになっているのです。
全般として、この本は建前としては分かるが、私達=衆愚が、具体的にどうしたらよいのかは、示されていません。あるのは精神論だけです。また著者は、自分は衆愚でないと思っているようですが、どうもそこの所が怪しくて、ひょっとしたら大衆以下かもしれないのです。その矛盾が、この本の最大の問題点です。いずれにせよ、一億総玉砕的な、教授お得意の精神論で、現状を打開できないことだけは確かだと思います。百歩譲って、この本が言いたいことが、国民はもっと勉強して、頭を使えと言っているのであれば、確かにそれは否定しないが、だからといって、今更お前たちは衆愚だ、だから難しいことはインテリに任せろと言われても困るのです。馬鹿な国民の一人として、今更お前は馬鹿だと教えてもらっても、それだけでは何の足しにもならないのです。
むしろ、だからこそWTWは毎日、世界の情報から、私達=国民、大衆、衆愚、にとって真実とは何か、どう判断し、どう行動すれば悔いなく人生を終えられるのかを、日々手探りしているのです。安倍政治の問題点を根気よく追求し続けているのです。この作業で最も大事なことは、それこそ「論者または編集者」の立ち位置です。国民と同じ高さの目線で、同じ地平線を見て語るのでなければ、話しかけても相手に届かないのです。しかも自分は国民に「教えてやる」ほど「偉くはない」のです。著者に欠けているのは、この無知の知なのです。
更に著者の一方的な決めつけで、日本の政治の景色が決定できるのなら、情報を発信する者としてこんな苦労はしないのです。
読後の結論として言える事は、この本の作者がどうこう言う前に、超保守で、ポピュリズム迎合の色彩が濃厚な事に気が付かずに、うっかり本書を手に取ってしまった私が悪かったということです。「国家」シリースの本を読む時間があれば、司馬遼太郎の本を一冊でも多く読む方が民主主義の精神に余程近づくし、またその方が遥かに面白いのです)
1393.「教養としての社会保障」批判 19/1/24-27
今日は口直し、でもないのですが、少し趣の変わった本を御紹介します。それは「教養としての社会保障」です。毎回申し上げているように、前書きを読めば、本の性格と目的が分かります。私が「国家と教養」でしくじったのは、前書きだと思って紹介を始めてみたものの、やけに長いと思っていたら、これが実は本論だったという、笑うに笑えない間抜けなエピソードがあるからです。前書きの無い本があるなんて、この時まで知りませんでした。
今回の本も要約は困難です。何故ならノウハウ本や解説本の場合、要約には殆ど意味がないからです。書けるとすれば感想文くらいです。但し前書きを紹介することで、内容が予測でき、著者の問題意識も理解できます。買うべきか否かの確かな「目安」になるのです。そこで今回はそうした観点から「教養としての社会保障」の前書きを、読者の購入のヒントとして御紹介したいと思います。いま厚労省はバッシングのただ中にあります。でもその中には、優れた人もいたことが分かりました。官僚への信頼を取り戻す瞬間です。
「教養としての社会保障」香取照幸 東洋経済新報社
はじめに〜この本を手に取ってくださった方へ
社会保障には様々な表情があります。
社会保障と聞いて、まず思い浮かべることはどのようなことでしょうか。
働き盛りの現役世代なら毎月の給与明細に記されている健康保険料や厚生年金保険料の額、転職をしたり求職中の人ならハローワーク、失業給付、職業訓練、病気がちの人なら健康保険、病院、医療費負担、高齢者であれば年金や介護保険、親の介護をしている人は要介護認定やケアマネージャー、ヘルパー、老人ホーム、子育て世代なら保健センターや児童手当、保育園、保活……、児童相談所なんてのもありますし、生活保護だって社会保障の一つです。個人だけではなく企業も人を雇えば従業員には社会保険の適用があり、企業も社会保険料を負担しますから、企業(法人)も社会保障に関係があります。
このように、ひとくちに社会保障と言っても、医療、介護、年金、子育て支援、地域福祉、雇用保障等々いろいろな制度・施策があり、また立場によって関わり方も違います。
「揺りかごから墓場まで」と言われるように、日本という社会で生まれ、育ち、生きていく中で、どんな人であれ、人生の様々な場面で必ず何らかの関わりを持つのが社会保障だと言ってよいと思います。
そんな、市民にとても身近なはずの社会保障ですが、制度の仕組みがどうなっているのか、とか、ファイナンスは、とか、そもそも社会保障の全体像ってどうなっているのか、という話になると、抽象的で話が大きすぎて何だかよく分からない、というのが普通の市民感覚でしょう。
そうなのです。結構身近なものなのに、制度としての社会保障となると、そもそも社会保障とは何か、どんな仕組みになっていてどう動いているのか、実はあまりよく分かってもらえてない。
社会保障が大切なのはなんとなく分かるけれど、では、どのような考えに基づいて組み立てられ、どんな仕組みになっていて、それが具体的に自分たちの人生や生活にどう活かされているのか、さらにこの国の経済や財政、社会全体にどんな関わりがあって、どんな影響を与えているのか。その全体像を理解している人は、専門に勉強している人や社会保障の世界で働いている人以外はほとんどと言っていいほどいないのが現実だと思います。
その専門家と言われる人たちでも、医療や介護の現場にいる人や社会保障の学者はどうしても給付を中心に考えてファイナンスのことは二の次になりがちですし、経済学者や財政の専門家は逆に負担とか効率性の面から考えるのでまずは無駄の排除、給付抑制を唱えがちです。
「日本は人口が減って少子化が進んでるんですよね。支える人が減って年金は大丈夫なの?.ずっとデフレで給与も上がらないのに、高齢化で毎年医療費は増えていて健康保険料もどんどん上がっている。ほんとにこれで将来の医療は大丈夫なの? 若い人の生活だって大変なんだし、格差や貧困だって大問題でしょ。女性活躍だ希望出生率だっていうけど、こんな給料じゃ結婚したくてもできないし、子どもが生まれたら仕事続けられないんじゃそもそも子どもなんて増えないよ。なんでもっと保育所つくらないの? 消費税も上げたはずなのになんで給付が減るの? 負担ばかり増やしてこの国の経済は持つの?そもそも経済が成長しないのに、今の社会保障の仕組みってこのまま維持できるの?」
いずれももっともな疑問だと思います。でも、この答えを探すには、社会保障の全体像、そして社会保障がこの国の経済や財政、さらに言えば政治とどんな関わりを持っているのかを知ることがどうしても必要になります。
社会保障の理解が難しいことの理由の一つは、制度がとても複雑でしかもスケールが大きいことにあります。社会保障の世界では毎年100兆円を超えるお金が動いています。日本のGDPの2割です。国家予算(一般歳出)に占める割合も5割を超えていますし、市民一人ひとりの生活はもちろん、企業経営や自治体財政、日本の経済全体とも大きな関わりがあります。全体を理解するにはあまりにも壮大で大規模、複雑至極です。詳しくは本文に譲りますが、制度の運営には国だけではなく、自治体や健康保険組合、民間の医療・福祉団体など、様々な組織が関わり、制度ごとにその関わり方も種々雑多で複雑です。
制度を設計・運営したり、時代に合わなくなった部分を修正したり、新しい制度や政策をつくる仕事をしている政治家や役人、制度や政策を研究している学者は、社会保障をマクロで見ています。長期的な視野に立って、経済の見通しや人口動向などマクロのトレンドを見ながら給付を考え、ファイナンスを考え、制度をより良いものにしていくにはどうしたらいいかを考えます。
他方で、社会保障と関わる市民一人ひとりが日々接しているのは社会保障のミクロです。医療、年金、介護、保育、あるいは毎月の給与明細に記されている社会保険料や税金。市民一人ひとりは自身の日常生活の場面々々で個別具体の社会保障と関わります。つまり、その人の置かれている立場や状況によって、見えている社会保障の風景はまったく違っているわけです。それも、社会保障の全体像を理解する妨げになっています。
社会保障の仕事に長年携わってきた私には、社会保障がなかなか皆さんに理解されていない現状に、とても歯痒い気持ちがあります。社会にとっても、市民一人ひとりにとっても、それこそ大人から子どもまで誰にとっても非常に大切な制度であるのに、なかなかその姿を正しく分かってもらえていない。とても残念です。
そこで、ペンを執ることにしました。できるだけ分かりやすく、一人ひとりの生活に関わるもの、という社会保障の基本をベースに、杜会保障の全体像、社会保障と経済や政治との関わりを「市民目線」で解き明かし、社会保障をある種の「一般教養」として理解していただこう、というのが、本書の主旨です。
まず、第一部では、社会保障とは一体どういうものなのか、この国の社会や経済、財政とどのようにつながっているのか、という基本のところを見ていきます。
社会保障は近代産業社会の誕生とともに生まれ、その発展とともに拡充されてきました。なぜ社会保障ができたか、どういう機能を持って誕生したのかを振り返ります。そして、我が国における社会保障の歴史と、長期不況や少子高齢化、人口減少に象徴される現在の日本の社会の現状について碓認した上で、社会保障とマクロ経済、社会保障と財政の関係について考えます。
次に、第二部では、日本社会が直面している課題とその解決に向けての道筋について考えます。
その前置きとして、まず、私たちはどんな社会を目指すのか、目指すべき社会の姿について考えます。現在の日本は、多くの人が、例えば、老後や介護、結婚、子育てなど、様々な場而で不安を抱える、不確実性が高い社会になってしまっていますが、その背景について考えることで、新たな日本社会の発展モデルの可能性について考えます。
最後に、第四部で、この国と国民のために社会保障に何ができるか、考えてみたいと思います。
日本社会が抱えている課題は、多かれ少なかれ先進諸国が等しく抱えている課題でもあります。さらに言えば、日本は少子高齢社会のトップランナーです。21世紀中盤には現在成長著しいアジアの国々はー中国も韓国も台湾もシンガポールも 現在の日本以上に急速な少子高齢化に直面することになります。
日本がこの課題をどう乗り越えていくのか、世界の国々が注目しています。
付章は提言です。本文の中で十分に触れることのできなかった社会保障改革の各論についての様々なアイディアの提示を試みます。
日本の社会保障制度は、大きな曲がり角に差し掛かっています。安心社会の基盤となり、社会経済の変化に柔軟に対応し、社会の発展・経済の成長に貢献できる社会保障制度の構築は、これからの日本にとって必須の改革だと私は考えています。
言うまでもありませんが、私たちの社会を構成しているのは一人ひとりの市民です。社会の進歩・発展の原動力は、構成員である市民一人ひとりの力にあります。市民一人ひとりが、自分の持っているいろいろな可能性・能力をどうやって発揮・実現するか、それを可能にする社会をどうつくるか、この国の未来はそれにかかっています。
社会全体の活力が自己実現を目指す一人ひとりの市民の営為によってもたらされるものだとすれば、個人の自由な人生選択と、リスクを恐れずに持てる能力を最大限に発揮する機会を公乎に保障する社会こそ、我々が目指すべき社会の姿です。
大げさに言えば、人類がその歴史において、個人の自由と選択を基本とする市民社会、資本主義社会を選択した理由は、まさにここにあるのだろうと思います。
そして、年金制度や医療制度を始めとする社会保障の諸制度は、市民一人ひとりの自立と自己実現を支えるための制度です。現代社会にあって、個人の自己実現を通じた経済の発展と社会の活力、そして市民生活の安定を同時に保障するサブシステムとして、人類が考え出したもっとも知的かつ合理的な仕組みであり、社会にとっても個人にとってもなくてはならない制度です。
本書が、私たちにとってなくてはならない社会保障と、その社会保障制度が置かれている現状について理解するための一助になれば幸せです。
2017年3月 香取照幸
(編者注:香取氏は元厚労省年金局長とのことです。私はこれくらい「美しい」前書きを読んだことがありません。なので、長文を顧みず、省略せずにご紹介しました。これは前書きの域を完全に超えています。首相や大統領の演説でも、これを超えるものはそう多くはないと思います)
要約は無理でも、気になった個所の部分的な紹介くらい出来そうなので、今日は「教養としての社会保障」の第一章から一部をご紹介します。
ところで何故いま私が、社会福祉を自分の次の勉強のテーマに取り上げたのかといえば、それは安倍政権が、社会福祉の費用を、必要悪であるかのように見なし、さまざまな局面で、重箱の隅をつつくように削減を図り、そのくせ、大企業や高額所得者の税制は優遇し、首相の友人には億単位で補助金を与え、富裕層はますます豊かになり、議員には様々な恩恵を温存し、防衛費用は青天井で増大させているからです。貧しい者はより貧しく、経営者や富裕層はますます裕福にという、福祉国家と真逆の方向に日本が動いており、日本の民主主義とその社会保障制度が危機的状況にあるという意識を持っているからです。ゆえに国民は社会福祉について基本的な知見を持ち、今後の政府との議論に備える必要があると感じているからです。
「教養としての社会保障」香取照幸 東洋経済新報社
第一章【系譜、理念、制度の体系】から
為政者が困窮する民を救うという行為は、古今東西、太古の昔から行われてきました。近代以前の社会にも救貧という考え方はありましたし、実際この種の救貧や施しのような行為はいつの時代にもどの国でも統治者は行っていました。では、現代の社会保障はこれらといったい何が違うのでしょうか。
社会保障の中心的な仕組みである社会保険制度は、19世紀ドイツの政治家、ビスマルクがつくったのが始まりと言われています。社会保険の原型はギルドの互助制度(養老制度)と言われています。弟子たちがマイスター(師匠)の老後の面倒を見るということを順々に繰り返してきた制度で、社会保険の仕組みはそれの近代版としてつくられたと言われています。
国家が担う制度としての社会保障は、産業革命を契機に生まれたとされています。産業革命によって社会は劇的に変わりました。飛躍的に生産力が高まり、工業化と都市の出現で急激に近代化が進んでいきました。産業革命後の社会では、農村から労働者として都市に移動してきた人々が過酷な労働と貧困に苦しみ、格差の拡大・富の集中、治安の悪化、衛生水準の低下など様々な社会問題が噴出しました。それを解決していくシステムとして登場したのが、社会保障制度です。
社会保障の考え方が生まれた背景には、マルクスとエンゲルスが唱えた社会主義思想の登場もあります。近代資本主義社会が形成されていく過程で、社会の公正が著しく害される。一方に資本家、他方に大量の賃労働者が生まれ、労働者階級、つまり階級という概念が生まれ、革命思想が伝播し、社会が不穏化する。資本家階級と社会保障制度の誕生にはそうした時代背景もありました。
社会保障が国家の機能として普遍的に位置付けられていくのは、第二次世界大戦後です。イギリスでは有名な『ベバリッジ報告』で福祉国家の理念が語られ、「揺りかごから墓場まで」のスローガンのもと、福祉国家への道を歩み始めました。日本でも、1950年に当時の総理府に設置されていた社会保障制度審議会から社会保障制度に関する勧告が出され、1961年に国民皆保険・皆年金が達成されました。
近現代国家の社会保障の機能をひとことで表現するとすれば、「民生の安定」ということになろうかと思います。民生の安定とは、国民の生活・生計の安定を守る、ということで、人々が生活に困ることなく安んじて生活できるようにする、ということです。
初期の資本主義、言わば剥き出しの資本主義の下で、資本家は労働者を生産手段としか考えておらず、翌日働くために最低限必要な休息以外はすべて労働に使うのが当たり前と考えていました。家に帰ってご飯を食べて寝る以外すべて労働時間という時代だったわけです。もちろん女性も子どもも働かせていました。
しかし、当然のことですが、労働者は生きた人間です。使い捨てにするようなことをしていると、労働力はすぐに枯渇してしまいます。それでは社会は持続できません。そのことに気が付いて、最初はイギリスで工場法ができ、まず年少労働に関する労働時間の規制が始まります。資本主義社会の持続可能性を考えても、一定の労働力が再生産できるようなルールがなければなりません。
社会は競争だけでは成り立たない。共感が「他者の目」を個人の中に内面化させ、そこに「常識・良心」が形成され、内なる道徳-自己規制としてのフェアプレイ=公正という行動規範が生まれるのだ、とアダム・スミスは、『諸国民の富』に先立って『道徳感情論』という書で述べています。
近代資本主義と民主主義という枠組みの中で、社会の安定がなければ資本主義も成長していかない、持続できない、という考えから、第二次世界大戦後に福祉国家の理念の下に生まれたのが現代の社会保障です。
社会保障のもう一つの機能は、民生の安定の延長線上にあります。社会の分裂を防ぎ、それを通じて社会の発展を支える機能です。
産業革命の後、資本家と労働者の対立が起こります。持つ者と持たざる者、富める者と貧しき者、労働者、農民と資本家。まさに「階級」が生まれます。そうすると社会が分断されていきます。富が一方に集中することで社会に亀裂が生じ、分裂が生まれます。
そのような状況下で社会の安定を図るためには、社会の分断を回避し、統合していくことが求められます。民主主義の理念からすれば、構成員の生命・生存と財産、基本的人権を守るということがなければ統治の正統性もありません。そこで、国家の機能として富の集中を是正し、所得の再分配を行って格差をなくし、社会の分裂を防ぐ。人々の生きる権利を保障し統治の正統性を支えるという意味で、社会保障のこの機能は社会の安定にとって非常に大きな意味を持っています。
そして同時に、所得再分配を通じて中低所得者層の所得の「底上げ」を行うことは有効需要を創出し、消費を支えます。経済成長の果実を広く国民に分配することで分厚い中間所得層が形成され、彼らの消費がさらなる経済成長を支えます。実際、第二次大戦後、1960年代の欧米諸国の経済発展は社会保障の充実と機を一にしていましたし、日本の高度成長もまた同じような形で実現されました。
さらにもう一つ加えると、社会保障は、近代化によって失われた社会=コミュニティーの相互扶助の機能を、国家が代替・補完するという形で生まれてきたと言えます。つまり、失われた相互扶助システムの代替が社会保障の機能ということになります。
産業革命によって、工場には大量の工場労働者が必要になりました。そこで、大量の農民を労働者として地域社会から都市に持ってきたわけです。結果として、多くの人々が、農村社会が持っていたインフォーマルな相互扶助のシステムから切り離されました。そういった人々は、賃金、と言っても必要最小限の僅かな賃金でしたが、それを対価に、故郷を離れて、いわば裸で都市で生活することになる。その居住地としてスラムが生まれます。
元気に働いているうちはまだいいのですが、怪我をしたり病気になったり、年老いてしまったら、誰も助けてくれる人がいない。これでは、社会の安定は保てません。そこで、社会全体のリスクを小さくする、近代社会になって失われた相互扶助の機能を国家が代替するという形で生まれてきたのが社会保障であると言えます。
このようにして、近代に生まれた社会保障は、社会の安定と発展を支え、社会の統合を保持し、統治の正統性を裏付ける機能を持つものとして、近代社会の発展をささえ、近代社会とともに発展してきたのです。
さて、今日、社会保障は国の大きな機能の一つになっています。動いているお金の規模を見てもそのスケールが分かります。生括万般に関わることですからその額は実に巨額です。日本では毎年100兆円を超えるお金が動きます。GDPの約20%に相当する額です。そして、それは私的市場でのやりとりではなく、国家の関与する制度の中で行われています。つまり、自由市場でお好きにどうぞ、という世界ではなく、一つひとつ制度をつくって、制度に基づいてお金を集め、制度に基づいて現金を給付したりサービスを提供したりしているわけです。
例を挙げれば切りがないほどの企業・団体が携わっています。そして、それを動かしているのは、それぞれに詳細に設計された「制度」です。結果、社会保障は壮大な制度の塊だということになります。
しかし、社会保障をきちんと理解するためには、壮大な制度の体系さえ頭に入れておけばよいということではありません。それは、いわば入口に過ぎません。制度を知らないと何も始まりませんが、制度が分かったからといって社会保障が理解できるわけではありません。
とにかく、100兆円超のお金が動いている。100兆円超のお金を国民から税金や保険料という形で集めて、それが現金の給付やサービスの費用として支払われ、世の中に出ていっている。
そのお金を年金や手当など現金で国民に給付するだけではなく、医療や介護、保育のようにサービスを提供している(これを「現物給付」と言います)わけです。こういったサービスは自治体が直接提供するものもありますが、多くは医療法人や社会福祉法人、民間企業など民間の主体が提供しています。なので、社会保障は医療や介護、保育といった産業を動かしているということにもなります。そしてもちろんそこには大きな雇用がありますし、医療や介護に関わる様々な産業分野ー医薬品や医療機器、介護機器、ヘルスケア・健康産業などなどもあるのです。
社会保障を少し動かすだけで、経済や雇用に少なからぬ影響が及ぶ。しかも社会保障の受益者は日本中にー都市にも地方にも、子どもも大人も高齢者もーいるわけですから、その影響は日本の津々浦々に及ぶ。つまり、地域経済にも影響します。
それだけではありません。医療や介護、保育などは日常の生活と密接に関わるものですから、制度がちょっと変わるだけで、人々の生活に与える影響は計り知れません。年金の受給額の変更や保険料の引き上げ、窓口負担の変更、などということになると、大騒ぎになります。それこそ国民の消費行動に影響を与えて景気が落ち込む、などと批判もされます。
(編者注:以下次号に続きます。正直に言うと、どこかでこの「正論」が破綻するのではないかといささか心配になってきています。政治や行政は、理屈やきれいごとでは収まらない面があるからです)
社会保障の勉強の第三回目です。この本にあまり時間を掛けたくなくなりました。なぜなら「費用を負担しているのは結局国民だ」という視点から、ともすれば著者が遊離して、大所高所の上から目線の話になりがちな点が、少々気になってきたからです。そこで、理想論はごもっともながら、詳述は今回限りとして、次回は駆け足で最後まで見て行こうと思います。この本が反面教師にならないことを願っています。
…社会保障全般を正しく理解するには、社会保障そのものだけではなく、経済システムや政治、社会全体についての一定の理解が必須だということになるのです。
社会保障全般を理解するには、まずマクロ経済に精通していなければならず、同時に人々の生活の部分、つまりミクロが分かっていなければならず、さらには政治を理解し、地域政策、地域経済が分かって、家族政策にも見識を持ち、さらには、国民のメンタリティーみたいなものも理解できないといけないわけです。
それを仕事としている役人にとっても全体を理解し論じることは大変なことですが、一方で、政策は国民の理解が得られないと実現できません。しかし、国民の多くは、例えば年金の受給額や保険料、介護サ−ビスの内容・保育所に入れるかなど、自身の生活に直接関係のあることには強い関心があっても、社会保障全般となるとほぼ関心がないという現実があります。
100人いれば100通りの社会保障の姿があるわけです。ですから、健康で病気もしてません、いい会社で働いて結婚して生活には何も不自由していません、という人にとってはほとんど何の関係もない、保険料を取られているだけの仕組みです。そういう人にしてみれば、「俺は誰の助けも借りないで、ちゃんと一人で生きている。誰にも迷惑はかけてない。それで高い保険料取られているのに、病院が年寄りのサロンみたいになっているのはなんだ、けしからん」ということになるわけです。しかし今は順風満帆の人でも、ひとたび何かあったときには必要になるもの、それが社会保障です。
日本にはいろいろな社会保障制度があって、様々な生活上のリスクに対応するいろいろな制度がある。自分が関わる制度はそれぞれみな別なわけですから、社会保障の中でも自分と関係のない部分のことには関心がない。他のところはどうでもいいと、こうなってしまいがちです。
結果、社会保障制度を変更するときに、国民全体の理解を得るのが非常に難しいということになります。例えば、年金制度改革にしても、保険料を払い終わっている高齢者は給付を受けるだけですから、給付が下がるとなったら怒る。生活が苦しかったときもちゃんと保険料を払ってきたのだから、予定通り支給してくれ、となります。ある意味当然です。
ところが現役世代にしてみると、そんなこと言ったって負担しているのは僕たちなんですよ、もういい加減にしてくださいよ。昔と違って高度成長しているわけじゃない。給与は上がらないのに毎年保険料が上がって大変なんですよ、となります。これも理解できます。
社会保障を理解する難しさはここにあります。制度を設計している側は、全体の様々なことを見渡して、社会的なコストはなるべく小さくし、サービスはなるべく充実させるという、相反することの最適解を求めて懸命に考えるわけです。
社会保障がなかなか理解されない理由について、二つの点を指摘したいと思います。
一つは「合理的無知」ということです。「合理的無知」というのは元々経済理論なんだそうですが、政治学、特に大衆社会での有権者の投票行動を説明するのによく用いられる概念です。
現代国家では、私たちは主権者であり有権者です。投票を通じて有権者としての意思を示します、正しい判断をするためには、公共の分野ー政治や経済について多くの知識と理解を求められます。しかし私たちの日常生活では他にも考えないといけないこと、やること、やりたいことはたくさんあって多忙です。時間は有限です。政治や経済の専門家でもない普通の市民、一般大衆である私たちには、わざわざ時間を使って頭を使って政治や経済の難しい話を勉強しても、選挙で行使できるのは一票で、結局は中身よりも知名度の高い候補が当選してしまいます。これでは、大事な私の時間を政治や経済の勉強に使う意味がない、自分の趣味や家族のことに時間を使う方が合理的、と考えて、あえて、つまり「合理的な選択」として小難しい政治や経済の話には関心を払わない、無知のままでいる、という選択をする。これが「合理的無知」と言われるものです。
合理的無知ということがある限り、社会保障のようにミクロとマクロに大きな乖離のある制度は、そもそも理解を求めること自体にかなり無理がある、という宿命を背負わされています。みんながみんなインテリじゃないからね、ということになってしまうのです。
(編者注:ちょっと待てよと言いたくなります。これでは「国家と教養」の藤原教授と同じです。即ち国民=無知=衆愚という見方です。いまどきの若手のお笑い芸人でさえ、関心のある者は政治の基本的な仕組みくらい理解しています。しかも政治家や行政官が倫理観を喪失し、無知をさらけ出している昨今にあっては、インテリという言葉には殆ど意味がない、というより、大衆の方がインテリジェンスが高い場合も多いのです)
本題からはちょっと離れますが、合理的無知が広まると、もう一つの問題が生じます。人々=一般大衆は政治や経済、それ以外でも何らか専門知識を必要とする事柄について、自分で考えること、判断することを事実上放棄しています。そうすると、全体を見る、ということのないまま、他のみんながそう言っている(らしい)ことを短絡的にそのまま鵜呑みにするようになります。
社会不安と合理的無知が支配するようになると、空気を察知したアジテーターが「悪いのはこいつだ」とか「こんなのやめちまえ」と火をつければ、燎原の火のように、人々は一気に雪崩を打ってそちらの方向になびいていく。最近の世界を見ているとあちこちでそんなことが起こっているように思います。
もう一つ指摘しておきたいのは、教育の問題です。別に文科省を批判するつもりもないのですが、日本の公教育では、社会保障について、それがなぜ社会にとって必要欠くべからざるものであるのか、きちんと教えていないように思います。もっと言えば、社会保障が依って立っているこの国の社会の仕組みや価値観、理念、哲学といったものをきちんと教えていないので、社会保障を理解するための共通の認識があまり形成されていない、ということがあると思います。
社会保障は、その国の社会の有り様によって制度のつくり方が違ってくるものです。アメリカのような自己責任の社会では、医療保険も年金保険も基本はみんな民間で、市場取引で行われています。他方、日本やヨーロッパのような福祉国家と言われる国では、憲法に生存権・社会権が基本的人権として規定され、その権利を保障するために政府が大きな役割を果たしています。
つまり、その国をつくっている根本の価値観や理念、哲学が分からなければ、社会保障の制度だけ教えても、その意味するところ、本質は理解できない。残念ながら日本の教育はそこのところをきちんと教えていないように思います。社会保障が何によって支えられているのかを、ちゃんと教えていないということです。
スウェーデンの学校では、社会保障が社会にとって必要不可欠である理由を社会の成り立ちに遡って教えています。非常に簡単に言うと、人は一人では生きていけない、人は誰でも「何者か」でありたい、意味のある人でありたい、社会というのはあなた自身のものでもあり、あなた自身のことであるということを教えています。法律と権利、あなたと他者、あなたと家族、コミュニティーと人々の役割、教育、子ども、結婚、離婚、障害者、老人など、身近なところから順々に社会の様々な姿を教えた後に、つまり、社会の全容を理解した上で、政治の仕組み、そして最後に社会保障について学ぶシステムになっています。それが、社会保障の重要性についての国民の合意形成の下地になっています。北欧諸国の投票率は国政選挙で85%、低いと言われる30歳末満の若者でも75%になります。高い税負担についての合意も、ここから形づくられます。スウェーデンの中学校で使われている社会科の教科書は日本でも翻訳が出版されています。ぜひ一度お読みになることをお勧めします。
日本には残念ながらこういうしっかりした体系性のある教育がない。それがないから、社会保障についての国民理解も非常にふわふわしたもので、関心も希薄です。そこが、私のように長く社会保障行政に携わってきた者からすると、寂しくもあり厳しいと感じるところです。
(編者注:今回の紹介で説得力があるのは最後の部分だけです。この本は、最初読むとなるほどとなるのですが、読めば読むほどに、国民が優秀な官僚と対峙する時に、十分に注意しなければならないことを示唆しているように思えてきます。「美しい」精神論=そういえば美辞麗句は安倍首相の常とう手段でもあります、は口車と紙一重だからです。
いま高齢者に支払われている保険金の原資の60%は、(決して少ないとは言えない)保険料を税金以外に、払ってきた勤労者の「積立金」だと著者自身が述べています。10%が運用益、30%は税金からの補助だと言っています。
でも一度故労省の金庫に入れてしまえば、他の金との区別がつかなくなるにしても、基本は勤労者の積立金であり、いつの間にか、国が「払ってやっている」という意識が強くなります。国にはその運用を任せているだけなのに、出資者=被保険者の意向が無視されかねないのです。
そうした勘違いの最悪の例として、年金資金で音楽ホールや美術館などのハコモノをぼこぼこ作ってはOBの天下り先にし、しかも収入がないからと言って、二束三文で叩き売って、その責任は誰も取らなかったという例があります。
この事件を言い変えると、この本で述べている建前=理想的な官僚の姿勢、と、厚労省が実際にしてきたこと、即ち本音との間には、天地の開きがあるということになるのです。外務省では、外交交際費で、ワインどころか、競馬馬まで買った例がありました。
しかも現在でも、安部政権の要請で、年金資金は、堅実な資産運用どころか、リスクの大きい株への投資比率を際限もなく増やしており、私はこの一点だけでも、麻生大臣を許すことができません。無論片棒を担いでいる厚労省もです。なぜならそれは彼らのお金ではないからです。アベノミクスの後押しをするのは、基金の目的や趣旨ではなく、明白な「反則行為」なのです。
しかも年金にしても、健康保険にしても、100%の給付ではないのです。年金の場合は支払った金額と支払った期間で厳密に算定されています。即ち退職前に高給を得ていた経営者や幹部は、年金も高額が支給され、退職時に僅かの給与しか貰っていなかった者は、年金も、雀の涙なのです。故に多くの人にとって、年金だけで生活するのは事実上不可能なのです。健康保険の場合は、必要な費用を負担していると言っても、給付が多ければ、保険料も多くなります。
いま現役世代が支払っている年金保険料が、そのまま右から左に高齢者に支払われるという説明が、意図的な合理的無知なのではないか。徴収した資金は、支払ってきた現役世代の将来の給付の原資として、大事に積立ておかなければならないものです。だからこそ、徴収時期と、徴収対象、そしてその金額をきちんと区別して管理していないと、どれだけの運用益があったのかさえ、分からなくなる道理です。どんぶり勘定のうえ、便宜的な順送り方式にしてしまったがゆえに、若者の不満が高齢者に直接向けられることになり、それこそが政府と厚労省の思うつぼなのではないか。被保険者同士で争ってもらえばいいという考え方です。これは行政が自身の運用責任を薄めるために考え出したずるい方式ではないかと、私は憶測しています。次回は最終回です)
社会保障の最終回です。今回も、官僚の理想論(これが国民の理想論と一致しないとおかしい)にお付き合い下さい。
…社会保障は「自助・共助・公助の組み合わせ」と言われます。この自助・共助・公助は単に並列で存在しているものではありません。
@自ら働いて自らの生活を支え、自らの健康は自ら維持するという「自助」を基本として、
Aこれを生活のリスクを相互に分散する「共助」が補完し、
Bその上で、自助や共助では対応できない困窮などの状況に対し、必要な生活保障を行う公的扶助や社会福祉などを「公助」として位置付ける。
あくまで自助が前提です。自立した人同士がリスクを分散するための制度が共助であり、自助があるから共助があるのであって、自助のない共助はない、というのが基本的な考え方です。
救貧はいつの時代にもあった考え方です。現代国家では基本的人権として社会権が認められ、生存権という考え方が登場し、最低生活の保障は国の責任だとされていますが、考え方としては、困った人をお上(為政者)が助けるということは昔からありました。加えて、近代社会ではもう一つ「防貧」という考え方が生まれました。
困窮に陥ってしまってから助けるのではなく、困窮に陥る前に、困窮の原因となる出来事が起こったときに対処するための制度を予め用意しておく、ということです。現行制度では、医療保険や介護保険、年金保険、雇用保険などがそれにあたります
共助とは、一人ひとりが、本来なら自分の責任で解決するべきものだけれども、現実には誰もが一人では負いきれないリスクに遭遇することがあるし、それを全部一人ひとりの自己責任ということにしてしまうと個人の生活が破壊されるだけでなく、結局は社会全体が壊れてしまう危険性が大きいから、危険性を小さくするためにリスク回避を共同化する、ということだと思います。その考えを具現したのが、社会保険の仕組みです。
経済学的に言えば・社会保障は所得再分配です.お金をたくさん持っている人たちに負担を求めて、お金のない人たちに回す、そういうことです.今でも、新自由主義に近い考え方を持つ人たちは「俺の稼ぎを何で他人にくれてやらなきゃいけないのか」とか「あいつらは税金を払っていない、俺はこんなに税金を払っている、なのに何であいつらのためにばかりこんなに税金使うんだ」などと不平を口にします。
しかし現代社会においては、人間は一人ですべてができるわけではなく、社会全休が様々な形でお互いにつながっていること、ネットワークができていることで生きていくことができるわけです。完全に自給自足の生活をしようとすれば今日食べるものにも、飲む水にすら困るのです。そこに目を向けなければ、社会保障は理解できません。現実の問題として、社会とつながりを持っていなければ、人は一日たりとも生きていけません。ですから、社会が健全で安定していることが、たくさん稼いでいる人にとっても非常に重要です。だから、この制度があるわけです。
社会保障という形で、所得を再分配することが社会全体の安定につながるから、この制度がある。そこが社会保障という制度を理解するのにもっとも重要なポイントです。社会保障は、単なる所得の分配ではありません。
(編者注:まず「お上」が仕切るという前提がカチンと来ます。しかも日本型資本主義を前提にしています。しかし政府は共通事項を処理してもらうために「国民が雇用している組織や人」です。公僕という言葉が、官僚は大嫌いです。実は私も好きではありません。なぜならしもべという言葉が差別用語だからです。しかし明らかに雇用しているのは国民であって、お役人は業務を国民から預託されている「被雇用者」だという事実に変わりはないのです。
人間はこの世に生を受けた瞬間から、等しく幸福を追求し、平等な扱いをうける天賦の権利を有しているという理解=哲学、から、社会保障や福祉の問題に入っていかないと、このような偏った前提の議論になってしまいます。
そもそも富がどのように形成されたのか、それは何の為にあるのか、個人の所有権は何を根拠にしており、しかも制限はないのか等から、考察を始めないと福祉の精神が理解できないと思います。最大多数の最大幸福が民主主義の原点であることを忘れてはならないのです)
日本は国民皆保険、皆年金という制度をつくりました。これが日本の社会保険制度の最大かつ誇るべき特徴です。皆保険、皆年金というのは、私に言わせると奇跡のような制度です。1960年当時の日本のGDPは総額19兆円、一人当たりGDPはアメリカの5分のー、イギリス・フランスの4割程度に過ぎませんでした。国の豊かさとしては現在の十数分のー、今で言えばベトナムくらいの経済力で国民皆保険制度をつくり上げたということになります。
1961年というのは高度成長がまさに始まろうという時期です。社会保障は付加価値の分配ですから、それなりに社会が発展して豊かでなければつくれない制疫です。分配できる富の蓄積がなければ、やりたくてもできないからです。
しかし、日本は、そんなに豊かではなかった時代に、すべての国民に医療を保障します、老後生活を保障しますという皆保険・皆年金制度をつくろうと志し、そして実際に制度をつくりました。私は非常に立派な仕事だったと思います。決断した先輩たちはよくやったものだと本当に思います。
とはいえ、最初につくられた皆保険制度はとても簡素なものでした。国民健康保険は5割給付。入院は事前承認制で、投薬には剤数制限があり、給付期間の制限もありました。保険医療では十分な治療ができないから保険診療はしないという医者がいたぐらいです。それでも先人たちはこの制度をつくりました。
他方、見方を変えれば、このときだからつくることができたとも言えると思います。東京をはじめ、全国の主要都市を焦土と化した戦争が終わってまだ16年。復興の途上にあり、所得格差もまだ広がっていなかった。みんな貧しかった。だからこそ、つくることができたという側面があります。みんなが貧しかったために「お互いに助け合う」という考えがすんなりと受け入れられてできた制度でした。
そして、社会保障制度があったから、極端な所得格差を生じさせることなく、社会からの脱落者を最小限に止めながら、高度成長を社会全体で享受することができ、そのことがさらなる日本経済の成長を実現させた。そこを考えると、あの時代にいち早く皆保険・皆年金制度をつくった先人の先見性、社会保障制度が社会の分裂を防ぎ、格差の広がりを防ぎ、社会の安定と経済の発展を支えている、ということを理解できるのではないでしょうか。
低成長に喘ぐ社会の不安を解消し成長を実現するために、社会保障の機能はむしろ強くしなければならない、という議論に発展します。
(編者注:それなのに日本は経済格差でワースト5に入っているのです。低成長で「あえいでいる」のは中低所得者だけなのです)
今後20年から30年という期間が、労働力人口が減るのに高齢者は増え続けるというもっとも厳しい時代だということです。そこを乗り切れるかどうかが社会保障にとって一番の課題なのですが、これは社会保障だけの問題ではありません。
例えば、年金は現役世代が高齢世代を支える制度、世代間扶養の順送りの制度です。なので、支え手である現役世代が減ると大変だと言われるわけですが、しかしよく考えるとこの構造は年金だけの問題ではありません。日本社会全体の問題でもあります。
年金は日本社会・日本経済の鏡です。世の中にl億人の人口があったとして、そのうち何人が働いてそのl億人を支えるのかという話ですから、基本構造は年金と同じです。もし現役世代が負担に耐えきれず年金が潰れるときが来るとしたら、その前に日本経済が潰れているはずです。逆に言えば、日本経済が潰れない限り年金は潰れない。もっと言えば、年金を潰さないためには日本経済の破綻を回避しなければならないということです。
ではどうするか。端的に言えば、支え手=働く人を増やす、総人口に占める労働力人口の割合を増やす 増やせないまでもせめて低下させずに維持するーしかありません。とにかく、働いている人を増やす。働けるうちは高齢者にも働いてもらう、より多くの女性が働くようにする。若い世代をフリーターなどで無駄に使わないで、きちんとフルタイムで働いてもらう。要はそういうことしかありません。
(編者注:多分この見解も一面的に過ぎるでしょう。何故なら人口の減少を上回る生産性の向上こそが、現代資本主義の最大の目標でなければならないからです)
たしかに貯蓄は多いに越したことはないし、子どもにたくさん残すこともできますが、貯蓄が増えれば消費が減ります。老後の生活はすべて自己責任でということになれば、ますます過剰貯蓄が増えます。死んだ後に、驚くほどの貯蓄が残っていたということになれば、これは個人にとっても、経済にとっても壮大な無駄です。年金制度というのはこの無駄を少なくする効果を持っています。一人ひとりが老後の生活で必要なコストを社会全体で賄うことで、過剰貯蓄をもっとも合理的に小さくしようとしているのが年金制度です。実態としては、日本の高齢者は諸外国と比して過剰貯蓄の傾向が大きいのは事実ですが、年金制度がなければ、誰もが老後に備えてもっと過剰な貯蓄を始めますから、今以上に消費が減少し、経済はもっと大変なことになります。そんな愚かなことをしなくて済むように、年金制度があるわけです。
(編者注:高齢者の貯蓄の多くは、彼らが自身で老後の為に営々と積み重ねてきたもので、しかもその多くが退職金だと思われます。基本的に富裕層のような「不労所得」ではないのです。しかも著者は、経常的な収入の格差と、それがもたらす経済格差については一切言及していません。巨額の貯金どころか、巨額の資産を保有しているのは、高齢者ではなく富裕層なのです。日本の国民の収入は均一だという前提にそもそも無理があるのです)
人口高齢化と人口減少の問題を、もう少し見ていきます。今後、増加する高齢者人口の6割を都市部が占めるため、高齢化の問題が都市部で顕在化します。地方の問題は人口減少です。すでに高齢化の問題が顕在化している地方では、今後、高齢者すら減少します。都市部と地方では別の問題が生じるため、社会保障は二正面作戦にならざるを得なくなります。
地方では人口減少により、今後深刻な問題が生じることが予想されます。人口が減っていくと地域からどのサービスが消えていくかということです。人口が10万人を切ると街から映画館がなくなり、有料老人ホームの経営が苦しくなります。1万人を切ると病院や不動産屋がなくなります。4000人以下になると、八百屋、魚屋、肉屋、クリーニング店が苦しくなり老人福祉・介護事業が立ち行かなくなります。
少子高齢化の進行による社会経済システムの変容を踏まえ、人生90年を前提とする生涯を通じたトータルな所得保障のためには、雇用と年金をセットにした制度設計がぜひ必要です。「普通の人が普通に働いて普通に暮らせる」ために、雇用と年金は一体的に考えるということです。
日本国が潰れない限り公的年金制度は潰れません。年金制度の仕組みは働いている現役世代が生み出した付加価値を生産から退いた高齢者に配ることなので、積立方式でも賦課方式でも本質的には同じです。さらに付け加えると、マクロ経済スライドを導入したため、その潰れない仕組みがさらに強化されました。マクロ経済スライドとは、現役が生産する付加価値の範囲内で年金を給付するシステムですから、潰れようがありません。したがって、年金財政は心配ありません。
(編者注:心配です。素人が何を言うかと言われそうですが、むしろ現行の仕組みを基本から見直して、「負担を減らし」同時に対応を「より手厚くする」ことこそが、最重要課題だと思っています。著者の言う厚労省の政策≒マクロ経済スライド、では将来待っているのはじり貧だけだからです)
年金制度は潰れませんが、制度設計された当時から男性は15年、女性は20年近く平均寿命が延伸したという状況の変化に対応し、将来の年金給付水準を確保し、社会全体にとってよりよい年金制度とするためには、今以上に年金制度と雇用制度を一体とした制度改革が必要です。
マクロ経済スライドは、少子高齢化と人口減少を前提に、年金制度を持続可能とするための決断です。これによって年金財政は安定しましたが、年金給付額は少しずつ引き下げられていくため、ミクロで見ると年金による所得保障機能が縮小していくという課題が残ります。年金がある日突然なくなることは絶対にありませんし、生活できないほどの額になるわけでもありませんが、将来に向けて少しずつ給付額は下がっていってしまいます。
(編者注:下がっては困るのです。むしろ以前よりわずかでも豊かな生活を期待できなければ到底安心など出来ないのです)
スウェーデンでは、出生後概ね18カ月まで、ほとんどの女性は、両親手当と呼ばれる育児休業給付類似の所得保障制度による給付を受けて家庭で子育てが行われるのが一般的です。そして、18カ月を過ぎると今度はほとんどの子どもはプレスクールに入り、親は職場に復帰します。大事なことは親の選択で必ずどちらかのサービスが保障され、切れ目のない仕事と育児の両立が制度的に保障されているということです。
そもそも、保育サービスも育児休業(所得保障)も権利として保障されるべきものです。でなければ、働きながら安心して子どもを産み育てることはできません。
(あとがきから)最後まで難しい話にお付き合いいただいてありがとうございました。
この本は自分が霞が関の公務員として36年余仕事をしてきた中で感じたこと、考えたことを整理したものです。同時に、公務員生活の中で、様々な場面でお目にかかった多くの方々から、実に多くのことを学びました。なので、ここで書いてあることの多くは自分のオリジナルではありません。どこかで学んだこと、記憶に残ったことを自分なりに整理し、再構成しただけのことです。先人や現場から学ぶことはとても大事だと、今、改めて肝に銘じています。
この場をお借りしてみなさんに心からの御礼を申し上げます。
(編者注:私からは、社会保障関係の本で、初めて自分で手に取る気にさせてくれたことを感謝します)
1394.立憲は野党第一党の責任感が足りない 19/1/28
しばらく資料の紹介と解説はお休みを戴きます。とは言え、今回は前説が長くなっています。
世界はいよいよ風雲急を告げています。だからこそ、世界に後れを取らないためにも、来るべき参院選では、野党が存在感を発揮して過半数を取らなければならないのです。何故ならモリカケ問題や、最近では統計の改ざんに言及するまでもなく、日本の政治と行政が、目を覆いたくなるほどの制度疲労を起こしているからです。
野党が、与党に拮抗出来る力を背景に、政権批判能力を一層高めておかないと、安倍政権の更なる右傾化と暴走が拡大し、日本の民主主義(平和と国民の権利)が足もとから崩れるのです。民主主義の崩壊は、政治から正気が失われることを意味しており、政治から正気(正義感、倫理観、人権意識)が失われると、近未来の日本の経済や安全保障で、重大な問題が発生しかねないのです。
関連記事。政府統計信用できないが79%。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40537280X20C19A1MM8000/
関連記事。参院比例投票先、自民が40%。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190127-OYT1T50089.html?from=ytop_main6
コメント:ならばなぜ内閣支持率が上がるのか全く理解できません。誰にでも分かる問題の本質(=人権と正義を軽視する、独裁自民党支配下の行政組織の腐敗)も理解できないようでは、これは本当に衆愚の国です。米国民を批判するどころではありません。大坂が勝ったので、ええじゃないかと浮かれているのでしょうか。
関連記事。山梨県知事に与党新人。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019012700500&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
コメント:初戦敗北は痛い。それにしても、なぜ排除の論理の党首が野党第一党のリーダーなのでしょうか。野党第一党が教条主義を振り回して、野党連合を弱体化しているとしたら、リベラルな国民は堪ったものではありません。それに立憲のというより、枝野の選挙軽視の姿勢は以前と余り変っていないようです。沖縄知事選で勝ったのは自由党であり、立憲ではないのです。
野党第一党であれば、お高く留まって正論を述べるだけでなく、もっと国民=大衆の懐に飛び込んで、脚で稼いで、汗水流してアピールしなければならない立場にあるのです。現状のままでは、先は見えています。それは民主党のヒラリーと同じ運命なのです。
しかもに前回、あれだけ期待されていた山尾が、個人的なキャンダル(報道は文春)であっけなく敗退したことを忘れているのでしょうか。自民党は選挙で勝つためなら、手段を択ばないことくらい分かっているでしょう。重箱の隅をつついて、あることないこと、メディアに流すだけで(警察も検察も与党には忖度)、あっけなく立憲はコケます。それは「大衆」が理屈ではなく、感情で投票するからです。情けないとは思うが、でもそれが現実である事を、野党は理解する必要があります。むしろ、その手法を逆手に取るだけのしたたかさが求められているのです。
小沢と手を結ぶことを拒絶し、剛直(愚昧な野田を選んだのも枝野です)というより、唯我独尊が、「今回も」野党の足を引っ張ることになる恐れが多分にあると危惧しています。それが山梨県知事選の率直な感想です。野党は参院選で負ける可能性が高いので、その時は責任を取って野党第一党の党首は交代すべきでしょう。但しその時に、もし女性党首という話になるのであれば、山尾では安倍政権と対等に戦う事は出来ません。安倍政権が嫌がる相手の方が良いのです。同じ女性議員なら、自由党の森裕子の方が人間的に上であり、立憲なら庶民的な辻元に人気がありそうです。選挙でも辻元をもっと使うべきだと思います。
それもこれもイメージと正論だけで戦おうという作戦(そもそも作戦があるとさえ思えない)に無理があるからです。安倍政治の不正やお手盛りに飽き飽きしている国民が、野党に求めているのは、政権が変っても、日本が経済的に安全だ、むしろもっと良くなるという安心感なのです。でもそれを与えようという努力もしているようには思えません。
社会党のように大衆政党になる努力を、なぜ惜しむのか、全く理解できないのです。皮肉な言い方になるが、枝野が相手なら、自民党も安心していられます。(大多数の)国民は実績のない口先だけの政党などに期待はしないからです。自民党が何もしかけなくとも、のらくらしている(現状維持という意味)だけで、相手が勝手に国民の共感と支持を失って、自滅してくれるからです。
何が保守本流でしょうか。そんなバカげたことをテーゼにすれば、国民は立憲など択ばずに、自民党内の若手や反主流派に投票すれば済む話です。
自民党が安泰だと思えば、(アベノミクスはぎりぎりの所迄来ており、いつ破綻してもおかしくないのにも関わらず、砂に首を突っ込むダチョウのように、国民は現実を見ようとしない)、日本経済が維持できると思い込む誤った理解で、株価は上がるでしょう。いま政治と経済の方向を転換しておかないと、近い将来とんでもない大破綻が起きるのに、与党、野党、国民の全てが揃いもそろって、危機感が余りにも薄いのです。おそらくその危機が最初に現実のものとなるのは、五輪バブルが崩壊した時でしょう。
関連記事。2019年に株価崩落を招く波乱要素。
https://toyokeizai.net/articles/-/262536
関連記事。トランプ、壁建設に固執。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201901/CK2019012702000138.html
コメント:某大統領の猿知恵では理解できないと思うので、何回でも書きますが、メキシコでは警察より強い麻薬組織を、CIAを使って撲滅し、米国への麻薬の流入を断ち切ること、メキシコ国内で産業を立ち上げて、違法な越境の必要性を減らすことの方が、遥かに有効であり、両国の互恵と繁栄に結びつくのです。そして経済が安定してきたら、(メキシコが望むのであれば)、米国の自治州にすればいいのです。排除の論理が結局失敗するのは、小池ゆり子や枝野幸男を見ていれば分かるはずです。拒絶ではなく共存と受容、同化が有効なのです。旧日本が台湾で成功し、朝鮮半島で失敗したのも同じ理屈です。人類の歴史で残ってきたものが、共存の文明であったことは、歴史を紐解いてみれば分かるはずなのです。
関連記事。十分な選択の手掛かりがない。東京新聞社説。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019012702000172.html
コメント:国民に選択の手掛かりを与えないのが自民党の手法です。増税実施に反対なら自民党に投票しろと安倍首相は言いました。選択肢等ではないのに、選択肢だと偽ったのです。ところがそれは今年「予定通り」実施され、国民の政権選択の根拠は無に帰するのです。安倍首相の一過性の言葉と約束は、紙よりも軽いのです。内容も誠実さもない自民党が血道を上げているのが、情報操作と世論操作であり、菅長官が安倍官邸に権力を集中できたのも、情報操作で成功したからなのです。
関連記事。世界中で台頭するポピュリスト権威主義者。個人独裁、似非民主制。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55320
コメント:日本は言うに及ばすです。
1395.メディアに火の粉。19/1/29
首相の施政方針演説では、今頃気が付いたかのように被災地を訪問した両陛下をほめちぎるところから始まりました。その手のひらを返したような言葉に、両陛下は喜ばれるどころか、おそらく居心地の悪い思いをされたことでしょう。なぜなら首相は、正に「その舌の根も乾かぬうちに」、消費増税と改憲を重ねて強調したからです。
関連記事。首相の施政方針演説。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201901/CK2019012802000255.html
また日本の景気は良くなっており、アベノミクスの成果だと自画自賛していました。しかしそれは事実誤認です。日本は未だにデフレの状態にあります。その原因は、富裕層以外の一般国民の消費者心理は改善していないからです。更にその原因は、将来の生活に不安があるからです。日銀が3%の物価目標も何度も訂正、結局、目標値にすることさえ諦めたことが、その何よりの証拠です。しかも将来仮に物価が上がったとすれば、そのときはインフレが心配だと専門家が言っています。日本経済は安定成長とは到底言えない、むしろ極めて不安定な状態にあるのですのです。安倍首相の言うような、手放しで喜べるような状況ではないのです。
そもそもなぜ業が膨大な余剰金を抱え込んでいて、しかもそれを離さそうとも、隠そうともしないのかを、お考えになったことがあるでしょうか。それは経営者がアベノミクスの効果と、日本経済の先行きを信用していないからなのです。超低金利に加え、日銀には国債を買わせ、年金資金には株を買わせる。そのどれひとつをとっても、、「正気の政府」なら考えもしない「禁じ手」であって、財政の反則行為なのです。経営のプロは、安倍首相の、こうした万事先送りの経済政策に、どれだけ無理があるのか、またそういう政策には後がないことを百も承知しています。だから万が一(クラッシュ)にそなえて、企業内に金をため込んでいるのです。それは、今の一時的な浮揚が、決して実体経済に基づくものではないからなのです。
景気が上向いており、日本経済の先行きが明るいなどという、間違ったメッセージを発信するだけでも、安倍首相の罪は重いと言わざるを得ません。でもいま安倍首相が本当に懸念しているのは参院選だと思います。しかもその心配を隠すだけの知恵があります。心配だと言えば、それだけで自民党の支持率が下がるからです。そこが自民党のしたたかなところでもあります。それに引き換え、んな予兆でも平気で無視するのが、ノーテンキな立憲民主です。
米国の下院選で大敗したトランプを見れば、安倍首相が、明日は我が身だと思わないはずがないのです。しかし米国の民主党と立憲の大きな違いは、これが安倍政権の暴走を食い止める最後のチャンスであり、どんな手を使ってでも、与党に過半数は絶対に取らせないという固い決意(と熱意)が欠けている点です。だから私は立憲、特に枝野を信用できないのです。野党第一党として、いつでも先頭に立って質問できればいいというものではないのです。立憲はもはや枝野個人の所有物ではないのです。
しかも野党は厚労省の問題だけで、安倍政権と戦えると思っているようです。せめてもう一度、モリカケ問題を掘り起こして、「検察」に国会で捜査の経緯を証言させ、行政(役所)がここまで腐敗してしまったのは、役所に忖度を暗に強制してきた自民党と安倍政権の「成果」であるという点を突っ込まないと、国民は納得しないでしょう。それをしないと、今国会でもまた、安部政権の不正追及は、共産党に頼らざるを得なくなるでしょう。
ところで、昨夕(1/28)のBSTBSの報道番組1930は痛快でした。野党の主だった論客を集めており、司会者が国民民主と自由党の統一会派で、両者に主張のずれがあるとフリップで説明を始めた途端、国民民主の原口が怒りだしたからです。原口の言い分をまとめると「消費増税反対でも原発廃止でも、両党の基本方針は同じだ。しかも立憲と国民も、衆院では統一会派を組んで一緒に戦っている、国民も自由も立憲も、元は同じ民主だったのだ。このどこが野合だというのか。TBSが朝ズバで責められたので、そういう見方しか出来なくなったのではないか」と指摘しており、溜飲が下がる思いでした。国民民主に原口がいたのを忘れていました。生放送なので、全部放映されました。同席は辻元、穀田、森裕子でした。
また同日の夕刻のテレ東の報道番組には、田原と小沢が出演していましたが、ここでも(いささか頼りない)司会者が、国民と自由の統一会派には大義がないという意見もあるがと言い始めた途端、今度は田原が激高し、大義など言い出す奴にろくな奴はいないと机を叩きました。
この二つの出来事で、私がメディアに言いたいことは、TBS、テレ東はリベラルな放送局なのに、なぜ野党の統一会派を揶揄するのかという点です。それとも立憲だけが正当な野党だとでも言いたいのでしょうか。でもそれこそが少数意見を軽視し、抹殺する態度ではないのか。
立憲が野党で最も支持率が高いのは事実です。でもそれが即、枝野の価値観をそっくりそのまま国民が呑まなければならないということにはならないのです。立憲が一番強力な野党だから支持する者もいるのです。自民党支持イコール安倍政権支持ではないことを思い出して頂きたい。自民党の支持者が最大多数なのは、自民党が政党として力を持っているからなのです。
一方、安倍政権に批判的な国民は、野党が一団結して安部政権に立ち向かう事を強く望んでいます。だからこそ、司会者がそういう国民の意志を無視して茶化すようなことを言えば、原口や田原が怒るのは当然なのです。メディアが国民の立場に立つのであれば、枝野が何故共闘に反対なのかをこそ追及すべきなのです。一方枝野は自分の信念を国民に分かるように説明し、国民の理解を得るべく努力する「義務」と「責任」があるのです。
いずれも生番組ならではのハプニング・シーンでしたが、なるほどメディはこういう形で自民党に利しているのかと改めて思いました。枝野をいさめるのがメディアのあるべき姿なのに、逆に反枝野を外野でおちょくるとしたら、それはまさに自民党の望むところなのです。それは安倍政権、中でも菅官邸のメディア戦略がうまくいっていることを示しています。そんな操り人形のようなメディアに国民が振り回されている時間はないのです。我々国民が最も警戒しなければならないことは、メディアが独断で貼るレッテルをそのまま信用しないことです。立憲だけが本物の野党だなんて、とんでもない話なのです。参院選までもうあまり時間がありません。立憲はもはや枝野の私党ではないのです。枝野代表とメディアの自覚と猛省を促す次第です。
【気になる記事】
・陛下、国会開会式でお言葉。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190128-00000547-san-soci
コメント:NHKは中継したのでしょうか。私が見た時は、のっけから安倍首相の演説が始まっていました。参考までに、全文は下記のサイトで。
https://news.nifty.com/article/domestic/government/12145-175434/
・政府、辺野古で新たな護岸工事。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190128-00000046-kyodonews-pol
コメント:何がなんでも工事強行。でも何のために、誰のために。
・プーチン、安倍との関係、重視せず。
https://this.kiji.is/462521968191751265?c=39546741839462401
関連記事。北方領土引き渡し反対が77%。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019012800936&g=int
コメント:安倍首相の対ロ外交パフォーマンスは、ものの見事に失敗しています。単に政府がそう言わないだけです。
・フクシマ、小児の被ばく、実は深刻レベルだった。教授の説明と本音に違い。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201901/CK2019012802000122.html
1396.追い詰められて、余裕がなくなってきた安倍首相。19/2/11
・首相、改憲は自衛隊員募集の為。
https://this.kiji.is/467274626826814561?c=39546741839462401
関連記事。憲法改正の記述抑制。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41134490Q9A210C1SHA000/
コメント:憲法を何だと思っているのだろう。馬鹿も休み休み(しかしこの馬鹿は休まないから始末が悪い)言って欲しい。憲法は隊員を募集したり、募集を拒否する為にあるわけではない。首相の個人的な趣向でころころ変えられるものでもない。国民の権利(基本的人権)を国の圧力から守る為に憲法があることも理解できていないらしい。そもそも憲法は何の為にあるのかという説明を首相がしたことはないと記憶している。彼にとって憲法とは、好き勝手に振る舞いたいのに、自分の手足を縛る邪魔者でしかない。だからこそ我々国民は憲法を死守しなければならないのです。日本が立憲国家である事も理解していない人物が一国の代表だというのは恐ろしい事です。これでは私達日本の国民は、外国に向ける顔がありません。単なるトランプの弟分でしかない上に、麻生、二階と並べると立派な三X鹿大将(知らないだろうな)の出来上がりです。一方、菅は悪代官、悪番頭です。官邸の記者会見で東京新聞の記者だけにあからさまな嫌がらせをしています。因みに自民党には自浄作用が期待できないことも、小泉進次郎の変節ぶりで、はっきりと分かりました。
・首相、悪夢の民主党政権。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190210-00010000-wordleaf-pol
コメント:正義感、倫理観が欠如した首相に言われたくありません。まるで安倍政権には、友人への巨額の優遇も、役人の違法な忖度も、情報の隠蔽も、国会での虚偽証言も、統計の不正もなかったかのような口ぶりです。27年に企業への賃上げ要請と共に、統計の見直しを麻生財務相が指示したことが分かっています。無論のこと、その中には毎勤統計も含まれており、こうなると閣僚による意識的、どころか積極的なアベノミクスの為の数字の改ざんが行われた可能性が極めて濃厚なのです。このどこがうっかりミスなのでしょうか。
・首相の石破外しに、石破が不快感。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019021000285&g=pol
コメント:「狭量」な安倍首相は危機感と猜疑心の塊になっているようです。対ロ交渉もうまくゆかず、米朝協議でも蚊帳の外。今後ますます追い詰められて、余裕がなくなれば、ますます過激な言動が増えることでしょう。
・米朝会談、日本孤立化。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190210-00010000-jij-kr
コメント:しかも何千億という北の支援費用は日本と韓国が負担させられるのです。拉致問題も片が付かないのに。それもこれも、安倍首相が愚かで(外交の)交渉能力がないためなのです。
・安倍政権に麻生リスク。
https://toyokeizai.net/articles/-/265066
1397.ごり押しする政治権力。19/2/15
・世界中で台頭するポピュリスト権威主義者。似非民主主義、個人独裁。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55320
・総雇用者所得が増えたのは女性や非正規の就労数が増えたから。賃金は低下した。野口。
https://diamond.jp/articles/-/193897
コメント:全くその通りです。安倍首相の主張は間違っており、だからこそ景気の実感もないのです。
・平成は日本人に無常を教えた。バブル崩壊、原発事故、そして次の非常識。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/02/post-11694.php
コメント:政権与党の果たしたネガティブな役割もまた少なからず。
・勤労統計、2015年に首相秘書官に説明。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190214-00000060-kyodonews-pol
関連記事。元秘書官答弁拒否。
https://this.kiji.is/468717706852090977?c=39546741839462401
関連記事。不景気の統計一つで好景気。ツイッター。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019021400682&g=pol
・安倍首相の改憲理由に与党から疑問。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019021400673&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
関連記事。事実曲げ改憲説く首相。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019021402000160.html
・総理は小学6年生の息子以下。枝野。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/edano_jp_5c654c62e4b0aec93d3bc55c?utm_hp_ref=jp-homepage
・日米関係に不穏な空気。
https://toyokeizai.net/articles/-/265540
コメント:安倍首相が人気を回復する劇薬があります。それは反トランプです。
・マイナンバーカード、全病院で保険証に。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41217110T10C19A2SHA000/
コメント:お断りします。そもそも国民の意見も煮詰まらないうちに開発を強行し、巨額を投じたのに何度も失敗したいわくつきのシステムです。しかも実施したのは、歴代総務大臣でも最も見劣りする高市です。普及が1割に留まる理由を調べもせずに、使用拡大を強行するのは、原発や沖縄問題にも通じる、国民軽視の行政の危険な体質です。データの一元化で得をするのは、国民の管理を強化したい政府だけなのです。身分証明書は、運転免許証やパスポートで十分であり、納税ナンバーを含む自分の個人情報を病院に教える必要性を感じません。
・取材の自由への干渉。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201902/CK2019021302000141.html
コメント:国会で菅長官が真実ではないことを何度も聞くからだと息巻いていましたが、だったらその場で否定すれば済む話だし、記者の質問を側近が遮ったのも事実です。しかも東京新聞だけです。安倍が終われば菅も終わる。しかしいつまでも居座るのは、問題閣僚の続投と同じです。しかも今のように番頭が極端に右傾していれば猶更です。
・ローラCM降板なし。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190213-00556594-shincho-ent
コメント:結構と存じます。沖縄基地反対と言っただけで、国民を色分けするなど、官邸(=安倍首相)は何処まで思い上がれば気が済むのでしょうか。官邸の鼻息をうかがう(これが忖度の正体)企業も企業です。国民が雇用者、官房長官(首相も)は使用人なのです。分をわきまえて欲しい。・首相、改憲は自衛隊員募集の為。
・首相、悪夢発言の撤回拒否。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190212-00000015-asahi-pol
関連記事。国会で火花。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019021200491&g=pol
コメント:今の安倍政治こそ悪夢以外の何ものでもありません。NHKニュースで小沢が言った「もう一度悪夢を見てもらわないと」が秀逸でした。
・安倍首相、スマホ持たず。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019021200912&g=pol&utm_source=top&utm_medium=topics&utm_campaign=edit
コメント:iPadはお持ちのようなので、議場のPCやタブレット禁止を解除願いたい。
・日産、22%減益。曲がり角。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41174470S9A210C1MM8000/
関連記事。通期では半減。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019021201002450.html
コメント:ゴーンは食い逃げですか。ソニーの出井、ストリンガー、平井とさも似たりです。日本丸を傾けているのは自分達なのに、傾いているのは地平線の方だと主張する安倍、麻生も同じ穴のむじなです。スピードが出過ぎていればスピードメーターをいじる事を辞さない。グラフを見栄え良くするためなら、統計の数字に手心を加えることを何とも思わない。この二人は、自分達の権限と既得権を守る為なら何でもありのようです。治外法権どころか、痴害呆賢なのです。
・斎藤工の主演映画が公開危機。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6313610
コメント:日本はいつから政府の政策を批判し、それに反対する「表現」が許されなくなったのか。五輪に反対すれば非国民なのか。これでは戦時中と全く同じ、全体主義(これが安倍政治の実態)ではありませんか。
・リーマン以来の円高局面が到来。
https://diamond.jp/articles/-/193752
コメント:これでアベノミクスはおわりです。マイナス金利で、金融で打つ手がなく、新産業育成も出来ていないからです。何がクールジャパンですか。2020年はオリンピックよりも、日本経済の破綻で記憶される年になる恐れもあるのです。
1398.同性婚と異性婚。19/2/15
・LGBT結婚式、受け入れ式場増加。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6313867
関連記事。一斉提訴。
https://www.bbc.com/japanese/47223423
コメント:人生の伴侶に同性を選んでいけない理由はない。配偶者である以上、経済的権利、法的権利で、異性の配偶者との間で差をつける理由もまた見当たらない。但し婚姻、即ち血縁の連鎖(家系)を前提にした戸籍のシステムは、同性婚を想定していないこともまた事実である。今まで続いてきた血統が、そこで途絶えるからである。しかもそれは(古い)家制度を否定すれば済む問題ではない。DNAの継承の問題、もっと言えば、人類の存続の問題とも無関係ではないからだ。
雑学の権威、山田五郎はラジオ番組で、同性婚は誰も損する訳ではないからいいではないかと語ったが、ことはそれほど簡単ではない。
人生を共にする伴侶を自由に選ぶ権利が保証されなければならないことに異論の余地はない。そして異性婚も同性婚も、別世帯を構える事に変わりはない。しかしながら、戸籍という観点に立つと、婚姻届けに判を押すだけで問題が解消する訳ではない。なぜならそこには事務手続きを超えた生物学的な『不合理性』が内在しているからだ。
結論から先に言えば、同性婚を異性婚のシステムに無理矢理当てはめる事に無理があるのだ。血縁を前提にしない、しかし自然で無理のない同性婚向けのルールやシステムを新たに作り、異性婚のシステム(現行の制度)と共存させる事が解になると思う。
更に、またこれからも大多数を占めるであろう異性婚には、DNAの継承と子孫を残すという重大な意味と目的がある。ゆえに、今後どれだけ同性婚が増えても、それは未来の人類の自主的な選択である以上、仕方がないが、同時に従来の婚姻のシステムもまた十分に尊重され、保護されなければならないのである。
端的に言えば、事実上同一の権利を保障し、差別を撤廃する一方で、異性婚と同性婚を『区別』(差別ではないことに注意)する事で、逆に世間が受け入れ易くなるのではないか。
しかも子供という存在が、戸籍でも結婚でも、大きな要素であり、それはしばしば結婚の目的でもあるからだ。子供の誕生は、異性婚が前提になっているのである。
但し同性婚でも養子を迎える事は出来る。但し、その場合でも子供には選択肢がなければならない。子供の精神的な発育に暗い影を落とすことがあってはならないのである。一方で、それが温かい環境なら、孤児にとってはむしろ前向きな選択肢になり得る可能性もないとは言えない。いずれにしても養子縁組には、子供に対して最大限の配慮がなされなければならない。
同性婚を容認する条件は、同性婚の人たちにも、異性婚と同性婚は、制度をどう変えようとも、『生物学的』には絶対に同じものではないことを率直に認めてもらうことだ。また、権利としては対等であることを前提にしつつ、結婚はどうあるべきかという価値観については、あくまで個人の思想の自由に任されるべきだということだ。
もう一つ言っておきたいことは、この微妙な問題は、暴走をしないように注意が必要だという点である。即ち、いくら双方で気が合ったにしても、近親婚は避けるべきだという事だ。なぜならそれはDNAを傷つけるからである。
ついでに言わせてもらえば、LGBTの差別より、遥かに多くの人類が関係し、深刻な影響のあるものが、人種差別、性差別の問題である。膨大な人数の類が、そうした差別で苦しんでいることを忘れてはならない。ということはLGBTの問題も、差別の問題だと考えれば、解決の糸口が見つけやすくなるのかもしれない。
1399.五輪に国家総動員。19/2/17
2/13のNHK歴史秘話ヒストリアが、トラック島の悲劇を取り上げていました。米軍の空襲で40隻もの徴用船が海に沈みました。しかも、トラック等を拠点にしていた戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊は、米軍の急襲を警戒して、いち早くトラック島を脱出しており、縦割り命令系統で、避難命令も出ないままに、民間の輸送船だけが無防備のまま島に取り残されたのです。
当時、民間の船舶は乗組員ともども軍に徴用されました。船会社が徴用に反対でもしようものなら、ただでは済まなかったでしょう。お国のため、聖戦の為なら、どんな無理でも、理不尽でも、押し通された時代だったのです。
でもちょっと待って下さい。当時のその状況は、いまの日本とよく似ていないでしょうか。五輪の為なら、超過予算を含む膨大な国家予算が強行される。採算としては赤字になる事は巧妙に伏せられており、その点に言及するメディアはありません。五輪を批判する者は非国民と言われかねない風潮が、政府主導でいつの間にか出来上がっています。マラソンの時には、全都民が沿道に出て日の丸を振れと言わんばかりなのです。
無償のボランティアがTシャツと引き換えに募集され、彼らに何が起きようとも、それは自己責任とされています。これでは徴用船の時代と変わりません。NHKはわざとらしい「五輪威発揚」ドラマを制作し、政府の宣伝にあい務めたものの、意に反して(当たり前です)、中途半端な歴史ドラマに、国民は関心を示しませんでした。ざまあみろと言いたいところです。
これと同じ様な、官民を問わぬ中央官庁への「忖度」が、中央と地方と問わず、日本中で蔓延しています。自民党議員は安倍首相にすり寄らなければ、公認さえ受けられない。安倍首相を公然と批判すれば、有名無形の嫌がらせを受け、党内での政治生命はありません。そのくせ自分を盲目的に支持する者は、不正行為も黙認する。こうした政治家と官僚の処遇にこそ、安倍首相の狭量さが如実に表れています。国を含む大きな集団を率いる器の持ち主ではないのです。
国民が選んだ政治家なのに、首相の私兵であるかのように人事権を乱用する。自分が天皇にでもなったつもりなのでしょうか。この安倍独裁政権を支えているのが、何をやっても訴追されない悪番頭と悪代官の面々です。
民間の官に対する忖度は、天下りと行政指導くらいだったのが、今や安倍首相の不正行為に加担した人たちの受け皿になるところまで行っています。ところが企業の本音は、安部政権の(根拠のない)経済政策など全く信用しておらず、税の優遇を背景に、せっせと内部留保をため込み、アベノミクスの破綻に備えているのです。
そもそも忖度とは、気遣いや配慮という「良いの意味でした。範囲を広げても、斟酌、推量、空気を読むというくらいの意味でした。ところが安倍政権のおかげで、言葉の意味が全く違ってきてしまっているのです。今や忖度と言えば、なりふり構わず、法を逸脱してでも、権力にすりより、安部晋三におべっかを使う意味になってしまったのです。
安倍政権が卑劣なのは、過剰な追従による違法行為(悪事)が露見した途端、自分は関係がないと開き直ることです。忖度を事実上「強要」しておきながら、それが露見したら無関係を決め込む。その後で待っているものは、尻尾切りです。但しここで追い詰められた官僚が裏切って、自白でもされれば面倒なので、奥の手を使う。即ち行政権力を行使して、「悪いようにはしない」のです。その典型的な手法が、検察に「忖度」させて、不起訴に持ち込むことです。そしてほとぼりが冷めたころを見計らって、ポストを用意する事です(柳瀬秘書官を見よ)。
戦時中の全体主義と軍部独裁政治、批判を許さない強権政治と人権の侵害を、二度と現在の日本で繰り返させないこと。それがWTWの悲願であり、戦争で全てを失った亡き両親に対する唯一の孝行なのです。
関連記事。マイナス金利3年、見えぬ出口。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6314081
関連記事。統計不正、支持率響かず。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019021501178&g=pol
コメント:日本人が倫理感と正義感をどこかに置き忘れた国民に成り下がったという見方も出来るけれど、国民を責める前に、彼ら(=我々)には選択肢がないことを認識する必要があります。観念論の枝野が首相になる図は想像出来ません。何故なら国民は立憲民主が考えているよりも、遥かに現実的なものの見方をするからです。悪く言えば、ないものねだりで、しかも寄らば大樹の陰の、敗者・弱者の思想かもしれないが、そういう大衆が、どうすれば「大儀」の為に腰を上げてくれるのか、それを見極める為に、素人なりに、大衆とは何かという勉強を始めています。
1400.スネオとジャイアン。19/2/19
2/18の衆院予算委員会で、立憲の大串議員の質問に対して、安倍首相が自席から野次を飛ばしました。何と言ったのか。「(立憲は)選挙で勝ったのか」と言ったのです。大串は「選挙で勝てば、何をしてもいいという態度だから、国民から批判されるのだ」と切り返しました。後で首相は言い訳をしていましたが、大串が紹介した統計不正に関する国民の川柳が相当に応えたようです。心外だったということは、自分が国民から支持されていると本気で考えているらしい。
因みに標語を募集したのは野党ではありません。総務省です。
関連記事。総務省謝罪。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190218-00000109-kyodonews-pol
関連記事。統計不正、納得できないが78.9%。映像。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20190218-00412296-fnn-pol
コメント:内閣支持率も低下。
それにしても衆院予算委の統計に関する立憲と安倍首相の応酬は、未だかつてないほど真剣(=緊張)な展開となり、見ている国民にとってラッキーでした。立憲民主の小川と逢坂の追及は、国民の心に響きました。安倍首相も、これまでになく早口でまくし立てていました。国会の討論はこうでなくてはなりません。因みに共産党はミスキャストで迫力ゼロ。自民党の山本元大臣(舌禍)に至っては登壇する理由さえ分かりませんでした。
ノーベル賞の推薦者は50年公開できないというルールが本当に存在するのであれば、なぜ非推薦者本人であるトランプがそれをばらしたのか。無論自分の不人気を挽回する為でしょう。しかしこれで、候補者の資格は間違いなく失ったでしょう。しかも推薦者に大恥をかかせた。安倍首相は、世界に対しても、国民に対しても、面子を失いました。そろそろ安倍首相は言えない本音を言うべきです。「僕ちゃんも、好きでトランプと付き合い、支持してるわけではない。窮状を察してくれ」と。そうすれば国民の同情票が少しは入るでしょう。これはジャイアンがスネオにDVを行使しているのと同じ構図です。国民としては、スネオもジャイアンもトップになって欲しくはないのです。長いものに巻かれることしか出来ない(そのくせ弱い者には強く出る)政治家ではなく、内外のいかなる理不尽にも敢然と立ち向かう勇気と見識を備えた、人望のある代表を期待しているのです。
・加州司法長官、直ちに提訴。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/02/post-11713.php
関連記事。非常事態宣言不承認に拒否権。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190218-00000027-kyodonews-int
・在日米軍基地、本土と比べて負担が大きすぎる。沖縄県民の88%。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/okinawa_jp_5c6a6b0ce4b01757c36cefb6?utm_hp_ref=jp-homepage
関連記事。総務省が、沖縄県の審査申し出却下。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190218-00000124-kyodonews-pol
コメント:審査はしないのだから、委員会は必要ありません(委員長も石井国土相も)。
・脱デフレ、増税撤回は不可欠。
https://jp.reuters.com/article/interview-boj-iwata-idJPKCN1Q70B3
・ノーベル賞推薦。安倍首相が委員会に書簡。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019021801002080.html
関連記事。文書にトランプが感激。
https://www.asahi.com/articles/ASM2L549QM2LUHBI00X.html?iref=comtop_8_01
コメント:誰が考えてもおかしい。これでは日本の国民まで世界中から馬鹿にされてしまう。浅慮、短慮の首相は、少しは国の体面とプライドも考えて頂きたい。国民の全てが、金の亡者ではないのです。安倍首相派、目先の利益(=安倍首相の言う国益)の為に、長期の国益を損なっていることに、いつになったら気が付くのだろう。それとも一生、気が付かないのだろうか。安倍首相はいずれ、しかも間違いなく退陣するが、日本とその国民は、引退することは出来ないのです。
・トランプが5月に来日。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41395480Y9A210C1MM0000/
コメント:殿の御成り、ですか。情けない追従も行きつくところまで来たようです。ところで北の拉致問題ですが、前回の選挙の前に、自分が率先して取り組むと大見栄切ったのは何処のどなたでしたっけ。トランプに頼んだというが、ならばどこまで進展しているのか国民に説明できるのでしょうか。私は全く進んでいないように思えるのですが。しかもこれは本来、日本の問題でしょう。
この二人、もはや目くそ、鼻くそ失礼、米国の恥と日本の恥の関係です。しかも首相閣下は、今度は何をお土産に持たせるつもりなのか。米国民の心情を考慮し、トランプ後の米国の反動を考えると、いまトランプに「不必要に」深入りすることが、日本の将来にどれだけマイナスになるか(しかも言い値で買わされた武器の代金の決済を次世代に残して)、一度でいいからそのオツムで考えてみては頂けないものでしょうかね。それに国の予算は首相の小遣いではないのです。ハッキリ言って、私はこの首相ほど、無責任で政治モラルの欠如した政治家を見たことがありません。安倍首相の実父がこう言ったと伝えられます。あいつは子どもの頃から言い訳だけは旨かったと。
・デジタルマネーで賃金支払い。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019021801002157.html
コメント:一体厚労省は何がしたいのでしょうか。昔は、天下りを含めた製薬業界との癒着が問題になったこともあります。巨大な予算と、強大な許認可権が、不正の温床となる可能性が高いことは、誰にでも想像がつきます。しかもそこに目をつけて政権が乗っかり、持ちつ持たれつで、お前もワルよのうでは、国民が救われません。