「WTWオピニオン」
【第80巻の内容】
「太平洋戦争総括のヒント」
1406.太平洋戦争総括のヒント 19/3/5-3/11
大手メディアのネットサイトをいつものように閲覧していると、往々にして図書の推薦にぶつかります。そこで(半信半疑で)本の名前を書き留めて、本屋に行っていざ実物を手に取ると、買う気にならない本もあれば、パラパラと見て買ってはみたものの、後で若干後悔する場合もあります。前者の例としては「承認欲求の呪縛」があり、後者には「図解はじめて学ぶみんなの政治」があります。前者は自分の人生で体得した内容が多いこと、後者は対象が米国の小学生を想定しており、少なくとも我々(日本の成人男子)にとって1800円の価値があるとは思えないからです。但し、我々が知っているようで、実は正確には知らない米国や英国の政治の仕組みが分かるという意味では、全く無駄ではないと思います。偏向を極力排しており、革命や、全体主義、共産主義についての記述もあります。それでもなお、対象は小中学生(或いは主婦=失礼)だろうと思います。
そして今回ご紹介する本は、自分で選んだ本です。
日本では未だに大戦の総括がなされていないとはよく言われることです。一方で、反戦主義も、歴史修正主義も、感情的なプロパガンダが主軸になる事が多くて、我々団塊の世代(戦争を知らないお爺さんとお婆さん)を含む、現代の日本人にとって、大戦の総括と教訓、特にどうすれば戦争を避ける事が出来るのかという叡智、即ち最も重要な点が抜け落ちているように感じます。とりわけ自民党に代表される超保守の人たちは、戦争の悲惨な部分に蓋をしてしまいがちなので、秘話ボケした国民には一層実態が見えにくくなっています。国民が今のような無知のままでは、次世代に伝える内容もなく、三途の川を渡る日が来ても、戦災を受けた父母や祖父母に合わせる顔がないのです。
今回はいつものように前書きをご紹介します。
「あの戦争は何だったのか」大人のための歴史教科書 保坂正康 新潮新書
はじめに
「太平洋戦争とはいったい何だったのか」未だに我々日本人はこの問いにきちんとした答えを出していないように思える。
例えば、いくつかの象徴的なことを提示してみよう。
ひとつは夏の甲子園での八月十五日のセレモニー。正午のサイレンに合わせ高校球児たちが一斉に黙とうを捧げる。それは当たり前のように繰り返される「美しい光景」と評されている。しかし、平成に入って生まれた彼らが、本当にその意味を理解しているとは思えない。真剣に黙とうする彼らに同情してしまう。
また広島市の広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」という碑文がある。でも主語がない。原爆を落としたのはアメリカであるはずなのに、まるで自分たちが過ちを犯したかのようである。
戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られ、捉えられてきた。しかし私にいわせれば太平洋戦争を本質的に総体として捉えた発言は全くなかった。あの戦争とは何であったのか。どうして始まって、どうして負けたのか。圧倒的な力の差があるアメリカ相手に戦争するなんて無謀だと、小学生だってわかる。歴史的検証さえも充分になされていないのである。
これは、いわゆる平和教育という歴史観が長らく支配し、戦争そのものを本来の“歴史”として捉えてこなかったからだといっていいだろう。
その結果、日本人全体が、歴史としての「戦争」に対してあまりに“無知"となるに至ったのである。知的退廃が取り返しのつかないほど進んでしまった、と私には思われる。
現在、学生たちの多くがほとんど日本の近現代史を知らないことに驚かされる。聞くと、高校で日本史は学ばなかった者もいる。カリキュラムでは日本史は必修科目ではなく、選択科目になっているのだそうで、みな複雑な日本の近現代史は避けて世界史を選ぶのだとか。戦争のことをまるで知らないのだから。相手の言うことを理解した上できちんと反論する、あるいは共通の基盤をつくる、そうしたディスカッションができなくなっている。
確かに敗戦直後は、三年八ヶ月もの太平洋戦争が続いたこともあり、「ああいう苦しみは嫌だ。もう二度と戦争は嫌だ」という感情を拭い去れぬ時間帯があった。ただそれが十年経ち、二十年経ち、今に至るも、戦争はそうした反省色の濃い、形骸化した感情論だけで語られているのである。
また一方では、「新しい歴史教科書をつくる会」のような人たちが現れ、「大東亜戦争を自虐的に捉,えるべきじゃない」などと言い出している。しかしこれも、同じように感情論でしか歴史を見ていない。
例えば戦争体験者に「太平洋戦争とは何だったか」と聞けば、ある者は「南方の戦線に動員され、銃撃戦や飢えを潜り抜け命からがら生還した」と言うだろう。あるいは玉砕の戦場にいて「明日死ぬぞ、突っ込んでいくぞ」という修羅場にいた犠牲者もいれば、東京の大本営の一室で暖衣飽食しながら図面を引いていた指導者もいる。それぞれ百人百様の戦争があるはず。それが彼らにとって全てだったのだから当然だ。確かに彼らは実際の戦争の一端を知っているわけだけれども、それはあくまでも断片に過ぎない。全体として戦争で何が起こっていたかは誰も知らないのだ。
単に戦争体験を語ることと戦争を知ることは全く違う。それを取り違えてしまっている場合が多い。
本当に真面目に平和ということを考えるならば、戦争を知らなければ決して語れないだろう。だが、戦争の内実を知ろうとしなかった。日本という国は、あれだけの戦争を体験しながら、戦争を知ることに不勉強で、不熱心。日本社会全体が、戦争という歴史を忘却していくことがひとつの進歩のように思い込んでいるような気さえする。日本人は戦争を知ることから逃げてきたのだ。
ロンドンには、「戦争博物館」というものがある。ここには第一次世界大戦以降の戦争の歴吏が淡々と展示されている。ナチスドイツの制服や武器といったものまでもドキュメントとしてある。しかし、決して非難めいて陳列されているわけではない。また館の入り口には館長の言葉として、こう書かれている。「展示をしっかりとご覧下さい、全て現実にあった出来事です。そして後は自分で考えることです」と。
今改めて私は、太平洋戦争そのものは日本の国策を追う限り不可避なものだったと思い至っている。そしてあの三年八ヶ月は、当時の段階での文明論、あるいは歴史認識、戦争に対する考え方など、日本人の国民的性格が全て凝縮している、最良の教科書なのだ。
太平洋戦争を通じて、無限の教えを見出すことができるはずである。
現在の大衆化した杜会の中で、正確な歴史を検証しようと試みるのは難しいことかもしれない。歴史を歴史として提示しようとすればするほど、必ず「侵略の歴史を前提にしろ」とか「自虐史観で語るな」などといった声が湧き上がる。しかし戦争というのは、善いとか悪いとか単純な二元論だけで済まされる代物ではない。あの戦争にはどういう意味があったのか、何のために310万人もの日本人が死んだのか、きちんと見据えなければならない。
歴史を歴史に返せば、まず単純に「人はどう生きたか」を確認しようじゃないかということに至る。そしてそれらを普遍化し、より緻密に見て問題の本質を見出すこと。
すでに遅きに失しているかもしれない。しかし、我々は何のためにこの時代に生きているのか、この国は何か、と考えるとき、太平洋戦争を考えないで逃げていては決して答えは出ないだろう。今がその最後のチャンスではないかと思う。
コメント:この本が最初に出版されたのは2005年です。そして今は当時とは比較にならな程、政治が一層右傾化しています。310万の戦争犠牲者の内の240万人は海外で命を落としています。戦争を知っている世代の評論家の中では、半藤利一とこの保坂正康が、際立った存在です。
「あの戦争は何だったのか」の2回目です。
冒頭の「職業軍人への道」は割愛させて頂きます。
「国民皆兵」の歴史
太平洋戦争開始時、日本の軍人や兵士は陸海合わせて総計で約380万人いた。そして終戦前年の昭和19年には、その数、何と800万人にも膨れ上がっていた。当時の日本の人口が約7500万人だったから、十分の一以上の国民が兵士となっていたことになる。
その兵士全体の内、職業軍人の数は陸軍の場合およそ5万人ほどと推測される。つまりそのほとんどが徴兵によって採られた一兵卒であった。
日本国民全体に兵役の義務が課せられたのは明治22年、大日本帝国憲法発布に伴って徴兵令が改正されたことによる。「満17歳より満40歳までの男子はすべて兵役に服するの義務がある」と。それまでの微兵令には、免役条項が多く徴兵逃れが数多く出ていた。それを山縣有朋が抜本的に改正し、文字通り国民皆兵の徴兵制を完成させた。
「開戦に至るまでのターニングポイント」
太平洋戦争開戦直前の日米の戦力比は、陸軍省戦備課が内々に試算すると、その総合力は何と1対10であったという。米国を相手に戦争をするに当って、首相、陸相の東條英機が、その国力差、戦力比の分析に、いかに甘い考えを持っていたかが今では明らかになっている。1対10という数字自体もだいぶ身びいきがなされて出された数字だったが、データをもとに軍事課では、戦争開始以降の日本の潜在的な国力、また太平洋にすぐに動員できる地の利も考慮すれば、1対4が妥当な数字だと判断し、改めて東條に報告がなされた。束條はその数字を、「物理的な戦力比が1対4なら、日本は人の精神力で勝っているはずだから、五分五分で戦える」、そう結論づけてしまった。
「日本はなぜ無謀な戦争を始めたのか」、「責任は誰にあるのか」、太平洋戦史を顧みるに当って、まずはこのあまりにも単純な疑問を考えていきたい。
さて太平洋戦争の歴史を語る際、どの時点から検証していくべきか、迷うところである。「高度国防国家」の考えが生まれた第一次大戦後の大正期か、陸軍の暴走が始まった昭和6年の満州事変か、あるいは昭和8年の国際連盟の脱退時からか、いろいろ考えはあるだろう。しかし、本書はあえて二・二六事件から始めたい。二・二六事件というテロが、明らかに時代の空気を歪ませてしまったと思うからだ。
テロという暴力が、軍人・政治家はもちろんのこと、マスコミ、言論人たちも、そして日本国民全体の神経を決定的に麻痺させていった。私にはこの“暴力に対する恐怖心"が、日本を開戦への道へと一気に突き進ませていったように思えてならないのである。
テロは、何も「二・二六」が始めてではなかった。それに先立つ四年前、「血盟団事件」、それに「五・一五事件」が、日本を震憾させていた。「五・一五事件」では、海軍士官と陸軍士官候補生、農民有志らにより首相の犬養毅が惨殺された。にも拘らず、当時の一般世論は加害者に同情的な声を多く寄せていた。
年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠牲となるのも覚悟の上、農民を貧しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがために立ち上がった」と涙ながらに訴えると、多くの国民から減刑嘆願運動さえ起こった。マスコミもそれを煽り立て、「動機が正しければ、道理に反することも仕方ない」というような論調が出来上がっていった。日本国中に一種異様な空気が生まれていったのである。
どうしてそんな異様な空気が生まれていったのか、当時の世相を顧みてみると、その理由の一端が窺える。第一次世界大戦の戦後恐慌で株価が暴落、取り付け騒ぎが起き、支払いを停止する銀行も現れていた。追い討ちをかけるように、大正12年には関東大震災が襲う。国民生活の疲弊は深刻化していたのだ。昭和に入ると、世界恐慌の波を受けて経済基盤の弱い日本は、たちまち混乱状態になった。
「五・一五事件」の前年には満州事変が起きていた。関東軍は何の承認もないまま勝手に満蒙地域に兵を進め、満州国を建国した。中国の提訴により、リットン調査団がやって来て、満州国からの撤退などを要求するも、日本はこれを拒否。昭和8年には国際連盟を脱退してしまう。だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視した傍若無人ぶりにも、国民は快哉を叫んでいたのである。戦後政治の立役者となった吉田茂は、この頂の日本を称して「変調をきたしていった時代」と評していた。確かに、後世の我々から見れば、日本全体が常軌を逸していた時代と見えよう。
またちょうどこの頃、象徴的な社会問題が世間を騒がせていた。憲法学者、美濃部達吉による「天皇機関説」問題だ。天皇を国家の一機関と見る美濃部の学説を、貴族院で菊池武夫議員が「不敬」に当ると指摘したのである。
しかし、天皇機関説は言ってみれば、学問上では当たり前の認識として捉えられていた。天皇自身が、側近に一美濃部の理論でいいではないか」と洩らしていたほどであった。しかし、それが通じないほどヒステリックな社会状況になっていたのである。
天皇機関説は、貴族院に引き続き衆議院でも「国体に反する」と決議された。文部省は、以後、この説を採る学者たちを教壇から一掃してしまう。続いて文部省は、それに代わって「国体明徴論」を徹底して指導するよう各学校に通達したのであった。「天皇は国家の一機関」なのではなく、「天皇があって国家がある」とする説である。
さらに「国体明徴論」は、「天皇神権説」へとエスカレートしていった。天皇神権説とは、昭和12年5月に文部省から刊行された『国体の本義』という冊子に符合する考え方であった。何やら、今の北朝鮮の態に似ていなくもない。『国体の本義』は、中等学校の多くで副読本としても使われ、高等学校、軍関係の入学試験では必読書ともされた。こうした天皇神権説の浸透が土壌にあり、この時代、狂信的に「天皇親政」を信奉する軍人、右翼が多く台頭してきたのであった。
「天皇親政」信奉者の彼らは、軍の統帥部と内閣に付託している二つの「大権」を、本来持つべき天皇に還すべきである、と主張した。天皇自身が直接、軍事、政治を指導し、自ら大命降下してくれる「親政」を望んだのである。「二・二六事件」を起こした青年将校たちも、そうした論の忠実な一派であった。
「大善」をなした青年将校たち
昭和十年前後、天皇親政を唱える軍人たちの間でよく使われた言葉があった。「大善」、「小善」という二つの言葉である。 天皇に忠を尽くす際には、「大善」と「小善」、二種類の行動の取り方があるというのだ。「小善」は、軍人勅諭に書かれてある通り天皇に忠実に仕えること。そして「大善」とは、「陛下の大御心に沿って、"一歩前に出て"お仕えすること」。彼らにとっては、もちろん「大善」の方が優位であると考えられていた。
しかし、それは裏を返せば、自分たちで勝手に天皇の心情を察して、天皇のためになることなら何をしてもいいという解釈になる。たとえ、天皇の大権に叛くことでも、大きな意味で「大御心に沿っている」のなら、それも許されるとした。「二・二六」での青年将校たちの決起は、彼らにしてみればまさに「大善」となる行動であった。
「二・二六」を語るには、この頃の軍内にあった二つの派閥について押さえておかなければならないだろう。二つの派閥とは、天皇親政を急進的に望む「皇道派」と、もう一つは「統制派」である。
「統制派」は、日本の喫緊の問題は国家総力戦に見合う高度国防体制を作り上げることであり、それには合法的に軍部が権力を手に入れ、国家総動員体制、"統制"経済体制にしなければならぬ、との考えを持つ者たちであった。統制派の者たちは陸軍上層部に多く、非合法活動を徹底して排除した。対ソ戦よりもむしろ中国制圧に比重を置く実利的な考え方を持っていた。代表的な人物として教育総監の渡辺錠太郎、陸軍省軍務局長の永田鉄山などがあげられよう。
それに対して皇道派は、陸軍士官学校を卒業したばかりの、原隊付き勤務にあった青年将校、二十代半ばから三十代の血気盛んな若者が多かった。「今の腐敗した日本は天皇の意に沿う国家ではない」と、理想的な国家を作るためには非合法活動も辞さない、「大善」を信奉する者たちであった。元陸相の荒木貞夫、元参謀次長の真崎甚三郎らがリーダーとなり、青年将校たちを焚きつけていた。天皇制打倒を説く共産主義国家のソ連を目下の敵とした。
統制派と皇道派の二派がはっきりと対立の姿勢を見せ始めるのは、昭和七年の頃である。人事をめぐって反目は次第に激しく、感情的になっていく。そして昭和十年八月、ついに事件は起こった。真崎が統制派の陸軍幹部による人事で要職から外されたことをきっかけに、皇道派将校たちの怒りが頂点に達した。怒った将校の一人、相沢三郎中佐が、白昼堂々と陸軍省軍務局長室に乗り込み、軍刀で永田鉄山を斬殺したのである。
この相沢の行動が呼び水となり、一気に他の皇道派将校にも火をつけた。東京・麻布にあった第一師団歩兵第一連隊、第三連隊、近衛師団歩兵第三連隊などの将校、下士官、兵士およそ1500人によるクーデターへとなっていったのである。
本書で押さえておきたいのは、むしろ「事件」後の影響力である。内大臣秘書官長の木戸幸一による『木戸幸一日記』には、「事件」時の天皇の発言としてこう書かれている。「今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり」と。 天皇は、気丈にも「断固、討伐」を言い続けたわけだが、肉体的恐怖は想像を絶していたとも思う。
なぜなら岡田啓介首相以下、六人の要人たちが狙われ、その内、内大臣の斎藤実は47ヶ所も拳銃や機関銃を撃ちこまれている。高橋是清蔵相は撃たれた上に左腕を切られた。教育総監の渡辺錠太郎は夫人の前で惨殺され、という具合に、「天皇親政」の大善を理由にして、三人が虐殺された。三人とも機関銃で撃たれたあと、滅多切りにされ、それは酷い光景だった。
そして以後、「二・二六」によって刻みつけられた"テロの恐怖"はあらゆる場面、至るところで影響力を及ぼしていくことになる。事実、右翼団体員による海軍大臣米内光政の襲撃計画などといったテロ未遂、またそれに見せかけた脅しなどは、その後もよく起こっている。 後に「三国同盟」反対を公言し、右翼に狙われていた海軍次官の山本五十六は、いつ殺されるかわからないからと、金庫の中にひそかに遺書をしまっていたという。
そして、"テロの恐怖"が広がったのをいいことに、軍はそれを巧みに利用していく。「軍のいうことを聞かなければ、また強権発動するぞ…」と、暗に仄めかすのだ。そうすると政治家たちはみな近衛のように腰が引けてしまい、軍に対して何もいえなくなってしまう。軍の強硬な発言の裏に「暴力」があると、怖れをなしてしまったのである。昭和七年の血盟団事件に端を発する"恐怖の連鎖"の極点としての「二・二六」、それは日本が開戦に至るまでの一つの大きなターニングポイントとなった。
もはや誰にも止められぬ「軍部」
青年将校の決起自体は失敗に終ったわけであるが、結果的に「二・二六事件」は、彼らが訴えていた通りの「軍主導」、とくに「陸軍主導」による国家体制の方向へと進ませることになった。岡田啓介首相も襲撃されたが辛うじて難を逃れ、その後は外相だった広田弘毅が首相となった。その際、「軍部大臣現役武官制」が復活している。この「軍部大臣現役武官制」が、軍が政治にまで介入する"伝家の宝刀"となった。つまり合法的な暴力になったのである。「軍部大臣現役武官制」とは、現役の軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれないという制度である。
(編者注:以下次号。二・二六の青年将校たちの偏狭な価値観は、靖国参拝派の議員に通じるものを感じます。大善を(安倍首相への)忖度、暴力を内閣官房人事と読み替え、また当時の国民の熱狂ぶりに思いをはせるとき、安部政権下における現代の日本との奇妙な符合に気付かない訳にはいかないのです。文科省の右傾化も、戦前にそのルーツがあったことが分かります。天皇の軽視も最近始まったことではないようです。あまつさえ安倍首相に至っては、次期天皇に影響力を行使しようという野心が見え見えです。これでは岸信介の亡霊どころか、東条英機の再来です。あまりに興味深いので、つい前書きが長くなってしまったことを読者にお詫びします)
関連記事。
・安倍首相はエセ保守。籠池。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/yasunori-kagoike-interview_jp_5c7e2141e4b069b2129f2a0f?utm_hp_ref=jp-homepage
昨日の参院予算委を見ていて思ったのは、私が日本の次期首相になって欲しい人物は、男性なら大塚耕平、女性なら森ゆうこだということです。リベラルな印象だけで、実は中身は保守の、枝野幸男と小池ゆり子ではありません。一国の代表たるもの、見識と品位が求められます。無論、包容力と自信もです。そして何より正直なことです。私は開き直り内閣には飽き飽きしているのです。安倍政権では言葉(したがって約束も)には何の価値もないようです。
今回の深読み資料、「あの戦争は何だったのか」の第三回です。軍部の支配から、太平洋戦争開戦までの経緯が述べられています
もはや誰にも止められぬ「軍部」
大正2年までは予備役の者でも大臣になれると改正されていた。それが、「二・二六事件」をきっかけに、二度と同じようなことが起こらないようにするためと称して、軍の内情をよく把握している現役の将官のみが大臣に就く、と戻したのである。
つまり、軍の気に入らない内閣ならば、陸軍大臣、海軍大臣を出さなければいいのだ。そうしたら組閣ができず、その内閣は潰れてしまう。軍は意のままに内閣を操れることとなり、圧倒的な権力を持つようになった。
翌12年7月には、日本の支那北部派遣部隊が中国の華北で軍事行動を起こした。いわゆる盧溝橋事件である。それを戦端に、日本軍は一気に中国国内に侵攻、日中戦争として一方的に戦線を拡大させていった。
軍の勝手な行動に対して、近衛内閣は、日中戦争を止めさせるよう、政治的に働きかけた。しかし、中国の国民政府の指導者である蒋介石と外交交渉で和平を結ぼうと努力する度に、ことごとく軍部に潰されてしまった。
また「二・二六」後、軍内では粛軍人事が行われ、統制派の幹部たちが軍内の一切を牛耳るようになっていた。彼らの意に沿う者のみが重用されていった。
例えば、「二・二六事件」が起きた時、真っ先に「断固、叛乱将校たちを討伐すべき」と本省に電報を打ってきた人物が二人いた。仙台の第二師団長だった梅津美治郎と、もう一人が関東軍憲兵隊司令官の東条英機である。その後、この二人はこれを評価されて栄達していく。梅津は本省に戻り陸軍次官に、東條は関東軍参謀長となっている。彼らは、広い視野からの価値判断ができない者たちであった。
この時、軍にも見識を持ち備えた人材は各所に存在していた。例えば、昭和13年頃、アメリカの駐在武官をしていた山内正文。山内は駐在武官時代、「アメリカとなんか戦えるわけがない」と何度も本省に忠告してきていた。やがて、それが東條に煙たがられて外地ばかりを転任することになる。山内の後にアメリカ駐在武官に就いた磯田三郎、あるいはロンドンの駐在武官であった辰巳栄一など、いずれも国際的な視野を持つバランス感覚の取れた者たちである。だが、そうした人材は一切生かされず、中枢からすべて遠ざけられてしまっていた。
そしてもう一つ、「二・二六」は当時の日本のある状況に、大きな爪あとを残すことになる。それは「断固、青年将校を討伐せよ」と発言した天皇の存在である。天皇は、その後一切、語らぬ存在となったのである。まるで自らが意思表示することの意味の大きさを思い知り、それを怖れるかのように。
「大本営政府連絡会議」で決まった議案が「御前会議」で諮られる際も、「君臨すれども統治せず」と、天皇はより徹底して口を噤み、ただ追認するだけとなった。日米開戦が決まるまで、天皇は一貫して開戦に反対であったと思われるが、そうした意向も決して表に出すことはなかった。
あるいは開戦前の時期、もし天皇が「断固、戦争に反対する」と語っていたらどうなっていたか…。のちに天皇は『昭和天皇独白録』の中で、もし自分が開戦に反対したら、「国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない」状態になっただろうと言っている。
皮肉なことに天皇の神格化は「二・二六」後、ますます進んでいくことになる。天皇を神格化することで、軍部が「統帥権」の権威付けにうまく利用していったのである。
「皇紀2600年」という年
吉田茂のいう「変調した」日本は、昭和16年12月8日に至るまでの道を一気に突き進んでいくことになる。
軍部によって強引に進められた日中戦争は、12年12月までに上海、南京が陥落、その後も徐州、武漢と攻め落としていった。だが、蒋介石政府は、首都を重慶に移すなど、その都度戦線を奥へ奥へと引きずり込んでいく。日本は大陸の"点と線"を押さえるも、いいように"面"で翻弄されていた。また中国で戦いながら、北のソ連とも対峠し続け、14年にはノモンハン事件が起きている。戦線は泥沼化していく一方であった。
また国際連盟を脱退して以降、日本は、国際社会の中で完全に孤立化していた。その日本に手を差し伸べてきた国があった。ヒトラー率いるナチス・ドイツである。ソ連を牽制する意味から昭和11年、日独防共協定を締結。ところがドイツはそのソ連と不可侵条約を結び、その一週間後の1939(昭和14)年9月1日には、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発する…。日本は体よくナチス・ドイツにふり回されることになった。こうした「真珠湾攻撃」に至るまでの数年間で。私は昭和15年という年に、あえて語っていきたい。この年は変調した日本がピークに達した、非常に暗示的な主な年に思えるからだ。
昭和15年、この年は「皇紀2600年」に当った。「皇紀」とは、『日本書紀』に記載されている、神武天皇が即位した年を元年とする紀元をいう。日本各地で提灯行列が行われた。奉祝会が開かれるなどお祭りムードに沸いていた。それはまるで鬱屈した空気を払うかのように。11月10日には、宮城前で大式典が盛大に行われている。
(編者注:文脈の途中で恐縮ですが、私には東京五輪が、内政・外交の失敗、度重なる行政機構の不正行為、沖縄の民意の軽視どころか虫などの暴政、圧政から、国民の眼を逸らす為の“奉祝会”のように思えてならないのです。我々現代日本の国民が憂慮すべきは、政権が「自ら招いた」政治や経済の危機なのに、それさえ利用して、国民を間違った方向に誘導する恐れが多分にあることです。自身と与党に不利な案件については、虚偽証言や書類の隠蔽を厭わず、その場しのぎの美辞麗句で言い訳をしてしのげば、後は強行採決で押し切れば、何事もなかったことにしてしまえるからです。まさに民主主義とは対極の、こうした卑劣な政治手法を、しかも繰り返し使う事に、最早良心の呵責さえ感じなくなってきているのではないか。でもそれが意味するところは重大です。何故なら、不正な政治の先には、間違いなく破綻(デザスター)が国民を待ち構えているからです。ひいき目に見ても、国民は「不確実な未来」という地雷の上に自分達が立っているに気が付いていないか、或いはうすうす気が付いていても、敢えてその現実を見ないようにしているのではないかと思われるのです。なお「現代の翼賛会」のメンバーは、J党、K党、そしてT党です)
大式典の一ヶ月前、10月12日には、近衛首相によって「大政翼賛会」が結成されている。民政党、政友会など、当時の政党はこぞって解散して「翼賛会」に吸収されていった。つまり、国家危急の時、議会で討論して何か結論を出すなどと悠長なことをやっているのではなく、今こそ、「天皇への帰一の下、国民は一致団結して国を動かすべき」としたものである。「国民は臣民となり、全てが天皇に帰一した国家システム」が最終的に作り上げられたのだ。「皇紀2600年」の大式典は、こうした「天皇に帰一する国家像」を象徴するものであった。いわば、日本は理性を失った、完全に"神がかり的な国家"に成り下がってしまったのである 。
同じ年の少し遡ること九月、日本軍は北部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)に進駐している。ヨーロッパでドイツがフランスを制圧した状況を見計らっての軍事行動であった。
そしてその数日後、日本はいよいよナチス・ドイツとがっちりと手を結ぶことになる。イタリアも交えた三国軍事同盟である。これで反米英の姿勢と枢軸国への全面的な加担を明確にしたことにもなった。それは泥沼化するばかりの日中戦争に、その遠因があった。
南京、徐州、武漢三鎮.…・いくら都市を攻め落としても一向に埒のあかない戦局に、日本国中が疲弊感を募らせていた。軍部の指導たちはその理由を考えた。そして出した答えが「援蒋ライン」という考えであった.つまり、蒋介石政府がギブアッフしないのは、裏でアメリカとイギリスが軍事物資の援助を行っているからだと。
誰もが非難の矛先を求めていた。そんな中、軍部は「蒋介石政府を倒すには、まずアメリカとイギリスが行っている"援助のライン"を断たなければならない、悪いのは米英だ」と巧みに導いていったのである。反米英の感情は急速に根付いていった。九月に、日本軍が北部仏印に進駐したのも、この「援蒋ライン」を断つ目的が大きかった。
ヨーロッパでイギリス相手に快進撃を続けるドイツと手を結ぶのは、もはや自然な流れだったのである。15年の夏頃から「バスに乗り遅れるな」とのお題目が、陸軍内部、外務省のあちこちで聞かれるようになった。
もちろん「三国同盟」の締結に当っては、前首相で海軍大将の米内光政、海軍次官から速合艦隊司令長官に就いた山本五十六、海軍省軍務局長であった井上成美のように同盟反対を主張する良識ある海軍軍人もいた(もっとも海軍の中では強硬な同盟推進派の方が大多数であった)。
だが、日本を取り巻く"時代の雰囲気"が、それを許さなかった。ここでも「二・二六」以来の"テロの恐怖"が後を引いていたのだ。先にも書いたように山本は常に右翼に狙われていたほどだった。ごく一部の人間を除いて軍部には反論したくとも、言い出せない状況が出来上がったのである。そしていよいよ昭和16年、開戦の年を迎える。
(編者注:以下次号です。ところでDL法、私は反対です)
・ダウンロード違法化、差し戻しでも修正せず。
https://www.asahi.com/articles/ASM365PXNM36UCLV00D.html?iref=comtop_8_02
コメント:漫画家協会の言うように、原作のまま丸ごと複製のみを違法とするほうが正しい対応だと思います。一部だけでも駄目だとなると、一切の引用が出来なくなる(WTWも活動停止)と同時に、検閲強化の理由に使われる恐れ(政府批判の排除)が多分にあります。原作者、引用者(含む紹介者)、双方にとって不利益であり、ネット利用者にとっても情報が制限されることになります。
「あの戦争は何だったのか」の第4回です。(今回も)引用が長くてすみませんが、ここでは、我々の理解と異なる東條像が語られています。
「北進」か「南進」か
日独伊「三国軍事同盟」により、日本はイギリス、そしてアメリカとも対立する姿勢であることを明確にしたが、しかし、「やはりアメリカと事を構えるのは、あまりにも無謀だ」とする声もまだ根強く残っていた。特に外務省には、対米英強硬派が主流を占めつつある一方、米英協調派も存在意義を示していた。
これより前の昭和14年7月には、アメリカは一方的に日米通商航海条約の破棄を通告してきた。日本は、石油をはじめ多くの資源を輸入に頼ってきた国である。アメリカからの貿易統制は死活問題を意味した。
米英協調派は、何とか日米和解のための交渉が成らないかと、懸命の努力を開始した。15年11月、アメリカからウォルシュとドラウトという二人の神父が日米関係の悪化を憂い、首相の近衛に接触し「日米国交打開策」を持ちかけてきている。近衛はこれに乗り、神父たちの持ってきた「打開策」を元に、陸軍省軍事課長の岩畔豪雄らが中心になって「日米諒解案」を作成した。
「諒解案」は、アメリカと日本は太平洋を平和の地域にするとか、日本の国策をアメリカはある程度認める、あるいはアメリカの大統領であるルーズベルトと日本の首相、近衛が太平洋沿岸のどこかで、和解のための首脳会談を行うという含みももっていた。
昭和16年4月、海軍大将の野村吉三郎駐米大使を通じて、この「諒解案」はアメリカの国務長官、コーデル・ハルに渡されることとなる。そしてハルもこの「諒解案」を受け取り、日米交渉は実現間近にまでこぎつけるに至った。
しかし、ちょうどその時であった。折悪しく「三国同盟」の推進者、それに「日ソ中立条約」を締結したばかりの外相、松岡洋右がドイツやソ連を訪問して意気揚々と帰国してくる。勢いづいていた松岡は、この「諒解案」を一顧だにせず交渉を妨害する役を果たす。
それでも、とにかくこの「諒解案」がきっかけとなり、駐米大使の野村吉三郎と国務長官ハルとの間では、その後も接触が保たれた。日米和解の模索が始まっていくことになる。この交渉はのちに松岡を更迭して、本格的に行われるが、交渉自体は16年11月26日の「ハル・ノート」提出まで続いたのである。
この日米交渉が太平洋戦争に入っていく、一つの重要な流れとなっていった。こうした日米交渉の努力が進められていた一方、日本国内では、6月の「大本営政府連絡会議」で二つの軍事政策案をめぐって議論が白熱していた。日本がドイツの勝利に便乗して7月に南部仏印に進駐するか否か、つまるところ「北進」か「南進」かの問題である。
「北進」とは、対ソ戦を意味した。ヨーロッパでは驚天動地なことが起きていた。ソ不可侵条約」を結んでいたドイツが、約束を破りソ連に電撃侵攻(6月22日)したのである。三国同盟を結んでいる日本は、今こそドイツに呼応して束からソ連に侵攻すべきではないかとの主張であった。
一方の「南進」は、既に押さえている北部仏印からさらに軍隊を南下させようとする策であった。つまりは、そこにある石油が目標であった。八割近い石油をアメリカに依存している現状では、アメリカに生殺与奪の権を握られているのと同じこと。それを打開しようとの考えであった。
「北進」論者、「南進」論者とも、それぞれ強い拘りがあった。「北進」論者は、主に陸軍に多かった。もともと、陸軍はソ連を仮想敵としていた。伝統的な教育として、大陸北部を想定した戦術が多く教えられていた。特に満州に駐在していた関東軍は「北進」を強く主張した。一方の「南進」論者は海軍が中心であった。海軍の仮想敵は太平洋上のアメリカである。そして海軍が「南進」に拘るのにはもう一つ大きな理由があった。
軍艦は石油がなければ動かないではないかと…(これには大きなトリックがあった)。議論百出した末、最終的に日本の出した結論は「南進」であった。
しかし、「南進」と同時に、満州にも馬や兵隊、高射砲、戦車など二十個師団、約40万人を動員し、ソ連にも攻め込むようなポーズを取ることに決めた。いわば目くらましの二面作戦に出たのである。
しかし、実はこの目くらまし作戦をソ連はすっかり見抜いていたのである。日本で諜報活動を行っていたスパイ・ゾルゲのおかげであった。ゾルゲが、近衛周辺の人物から情報をとり、スターリンに日本の「南進」を報告していたからだ。その情報により、スターリンは軍隊を東部のシベリアにではなく、全て西部のヨーロッパ方面に向けることができたのであった。
逆転の発想「東條内閣」
かくして、日本が南部仏印に進駐したのは、7月28日のことであった。
そこで石油、錫などの資源を手に入れることはできたが、その分、手痛いしっぺ返しも食うことになる。「日本の南部仏印進駐を絶対に許さない」と、アメリカが「在米日本資産の凍結」、それに「石油の対日輸出全面禁止」を通告してきたのである。
にわかに事態は、風雲急を告げ始めていく。アメリカで日米交渉を続ける野村大使に、以後、ハルは徹底的に厳しい条件をつけるようになる。
「仏印からの軍隊の速やかな撤退」「三国同盟からの離脱」「中国から撤兵し、蒋介石政府を認めること」。この三条件を、ハルは終始一貫、変わることなく言い続けるようになった。しかし、日本にとってはどれも飲めない条件であった。
9月3日、アメリカの強硬な制裁を受け、急きょ「大本営政府連絡会議」が開かれている。そこで、現状を鑑みて三つの取るべき国策が決定された。
「米英に対して戦争準備を行う」、「これと同時進行して飽くまで日米交渉を続ける」、そして「11月上旬まで交渉を続けて、交渉の成果がない場合は米英に対して武力発動を辞せざる」と。
この議決は6日、「御前会議」でも決せられた。天皇はこの報告を聞き、驚くことになる。もちろん天皇にしてみれば、「戦争を辞せざる」事態などもってのほか、と思ったはずだ。だが天皇は、この時も自らの意思を発することはなかった。ただ、よほど耐えかねたのだろう。ある異例の行動に出た。やおら懐から一枚の紙を取り出し、それを読み出したのである。
「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」
それは明治天皇の御製であった。"できれば外交交渉で解決し、和平を以って収束させて欲しい"、そう意味を込めた、精一杯の意思表示であった。
しかし天皇の思いとは裏腹に、日米交渉は一向に好転しないまま、時計の針は9月、10月へと進んでいく。駐米大使の野村も何とか妥協の糸口を見つけようとしたが、ハルに譲歩の余地はまるでなかった。
陸軍大臣の東條をはじめ、「軍部」は、埒のあかない日米交渉に痺れを切らしていた。この期に及んでは、一刻も早く戦端を開くべきだと、強硬論一色に染まっていく。
10月4日、「大本営政府連絡会議」が開かれている。その場で東條は近衛に対して、「もう日米交渉は終わりである。9月6日の御前会議の決定通り進むべきだ」と詰め寄った。さらに恫喝するように「人間一度は清水の舞台から飛び降りるような覚悟も必要」とも。その言葉にカッとなった近衛は「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」と、投げやりに言い放つ。
近衛の力量では、もはや状況を収拾する限界を超えていた。東條との口論の12日後には、無責任にも内閣を投げ出してしまう。そして後継総理に収まったのは、陸軍大臣を兼ねた東條であった。
東條内閣が発表されると、国際社会に衝撃が走ったという。「一番の主戦論者が首相に就き、日本はこれで完全な“開戦準備態勢"に入った」と。アメリカ海軍は、太平洋艦隊に対し、いつでも出動できる準備を整えるよう命令をくだした。
しかし、国際世論の危惧に反して、東條は事を荒立てる様子ではなかった。海外メディアは訂正して、こう伝えた。「むしろ慎重に会議を行っているようである」。
近衛の後継者選びをめぐっては、内大臣の木戸幸一が裏で糸を引いていた。木戸はいわば天皇の相談役ともいえる側近の立場であった。木戸は、天皇の意を汲み、9月6日の御前会議で決まったことを白紙還元できるような内閣を作らなければならないと考え た。そして一つの賭けに出る 。一番の強硬論者である東條を首相に据えることであった。
東條は、とにかく天皇への忠誠心に篤い男であった。それをあえて利用しようとしたのである。木戸の報告を受けた天皇は、この時木戸にこう語ったという。「虎穴に入らずんば、虎子を得ずだね」
事実、東條は木戸に「陛下は、九月六日の御前会議の議決を白紙還元することを望んでおられる。もう一度、どんな可能性があるか探ってもらいたい。それが陛下の意志である」と告げられると、その通り白紙還元の方向を目ざすのである。
今まで通り日米交渉を継続する一方、東條は開戦回避が可能かどうか、今一度、陸海軍省の担当者たちに命じて、基本となるデータを全て出させることにした。
いったい石油の備蓄はどのくらいあるのか、他の資源はどうか、工業力はどうか、そして日米戦わば、その戦力差はどのくらいなのか…。
10月23日から30日までの間に、大本営政府連絡会議は「項目再検討会議」を開き、日本の必要とする物資、十数項目のデータの調査がなされた。
しかし、東條の下に集まってくる数字はどれも絶望的な数字ばかりであった。特に石油の備蓄はこのままだと、二年も持たないとの結論だった。
また、このデータが出されると、海軍の軍令部は「このまま油がなくなったら、日本はどうなるかわからない」と執拗に迫ってきた。
東條は、もはや抜き差しならぬ状況に追い込まれていた。
11月2日に開かれた「大本営政府連絡会議」で、東條を始めとする出席者たちはこう結論づけた。「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし、11月29日までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」と。
12月と期限をきったのは、石油の備蓄量を逆算して限界の日時であること、またその時期以降になると季節風で太平洋南方の波が荒くなり海軍に不利になると考えたからであった。戦争への歯車が、この時から確実に動き出すことになる。
まずアメリカに対して日米交渉の最終的な通告として「甲案」と「乙案」を提出することに決めた。「甲案」とは日本のこれまでの主張を譲れないとした強硬案。そして「乙案」は、「甲案」後の“落しどころ"として提出する、やや引き下がったものであった。「南部仏印から日本軍の撤退、その代償に蘭領印度(現在のインドネシア)での物資獲得の相互保障をする」といった南部仏印進駐前の状態に戻すとした内容である。
日本は野村大使の助っ人として三国同盟の調印をなした来栖三郎を全権大使としてアメリカに送り込み、まずは11月7日に「甲案」を、そして「乙案」を20日に提出した。
だが「甲案」「乙案」ともにアメリカは全面拒否、逆に、11月26日、日本に通称「ハル・ノート」と呼ばれる最後通牒を渡してきたのであった。
「ハル・ノート」は何のことはない、今までのアメリカの主張を繰り返しているだけの厳しい内容であった。
これを受け、11月27日の「大本営政府連絡会議」、そして12月1日の「御前会議」で、正式に対米英蘭開戦が決定したのである。
(編者注:以下次号。譲歩にならない譲歩でまとまる訳がない。日本政府と軍部の身勝手さ、甘さが見て取れます。そして紛争解決の手段として「戦争」が普通だった時代があったことを、我々は忘れてはならないと思います)
関連記事。滅びの40年、回避できるか。半藤一利。
https://jp.reuters.com/article/opinion-kazutoshi-hando-idJPKCN1QO050
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「あの戦争は何だったのか」の第4回です。今回は太平洋戦争の仕掛人の話題です。現在の統計不正問題も彷彿とさせます。
真の“黒幕”の正体。
さて、ここまで12月8日に至るまでの流れを概観してきた。それでは、あえて私は、誰が「日本を開戦に導いたのか」、その真の"黒幕"を名指ししてみたいと思う。
12月8日に至るまでには、いくつかの"重要な瞬間"があった。「三国同盟」締結の時、二人のアメリカ入神父が近衛周辺に接触してきた時、南部仏印に進駐した時、あるいは東條内閣成立の時、「甲案」「乙案」を提出した時……いろいろあるだろう。
だが、私は、10月4日に行われた「大本営政府連絡会議」に注目したい。東條に責められ、「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」と言い放ち、近衛が内閣を投げだした、この時、東條は近衛にこう詰問していた。「9月6日の御前会議の決定通り進むべきだ」と。前述のように9月6日に行われた「御前会議」では、10月上旬まで外交交渉を行い、それで決着がつかなければ「武力発動も辞せず」と決まっていたことを指して東條は言っていたのである。
注目してもらいたいのは、東條は、「9月6日の御前会議の決定通り進むべき」だとしかいっていないことである。決して「武力発動せよ、戦争しろ」と、直接的には口にしていないのだ。
東條はこの時点では、強硬な主戦論者であった。当然、一刻も早く戦争を始めたかったはずである。それは陸軍の「軍部」の総意を表すものでもあった。
でも、東條は、いや陸軍は、と言い換えてもいいが、「武力発動」はできなかったのである。太平洋戦争において「武力発動」ができたのは、唯一海軍だけであった。いくら陸軍が南洋諸島や東南アジアで「武力発動」をしたくても、海軍の護衛で運んでもらえなければ、始めようがない。
だから、10月4日の「大本営政府連絡会議」でも、東條は「9月6日の御前会議の決定通りに…」としかいえなかったのだ。「武力発動」の発言力を持たなかったからである。
戦後、東條の秘書官であった赤松貞雄は、この時の東條の心情を、「あの戦争は、陸軍が始めたわけではない。海軍さんが一言、"できないよ"といったら、始めることはできなかった。東條さんは、"海軍さんはどう考えているのか"、それを気にしていたんだ」
と、はっきりと述べている。
加えて陸軍は、海軍に対して「日中戦争」という負い目があった。もともとこの日中戦争は、軍部の強硬派が一撃のもとに中国を屈服させるという傲りから始めたものだった。海軍を無視して勝手に大陸で戦火を広げていった、それを「何を今さら」と、海軍に言われることに引け目を感じてしまっていたのだ。
そしてもう一つ押さえておかなければならないことがある。実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったということである。
そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマがあった。
1922(大正11)年、ワシントン会議において軍艦の保有比率の大枠をアメリカ五、イギリス五、日本三、と決められてしまった。その反発が海軍の中でずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮想敵国と見なしていったのである。昭和9年に加藤寛治海軍大将らの画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引に決めて、その後、一気に「大艦巨砲」主義の道を突き進んでいく経緯があった。対米英戦は、海軍の基本的な存在理由となっていた。
またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占めていく。特に昭和初年代に、ちようど陸軍で「統制派」が幅を利かせていった頃、海軍でも同じように、中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が就いていったのだ。「三国同盟」に反対した米内光政や山本五十六、井上成美などは、むしろ少数派であった。
私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たちだと思う。
特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守られていた昭和8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見書で「アメリカはアジア太平洋への侵攻作戦を着々と進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽にアメリカを支援している。それに対抗し、侵略の意図を不可能にするには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を図ることが絶対条件」と説いていた。いわば対米英強硬論の急先鋒であった。また弁が立ち、松岡洋右など政治家とも懇意とするなど顔が広かった。その分、裏工作も達者であった。そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過激な強硬論者であった。
昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、軍政の垣根を外して横断的に集まれる、「海軍国防政策委員会」というものが作られた。会は四つに分けられており、「第一委員会」が政策、戦争指導の方針を、「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指導、「第四委員会」は情報を担当するとされた。以後、海軍内での政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が牛耳っていくことになる。中でも「第一委員会」が絶大な力を持つようになっていった。
この「第一委員会」のリーダーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人であった。「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持っていくよう画策していたのである。
「第一委員会」が巧妙に戦争に先導していった一つの例として「石油神話」がある。首相に就いた束條が、企画院に命じて行わせた必要物資の調査では、海軍省も軍令部もその正確な数字を教えなかった。むろんここには陸軍と海軍の対立もあったが、そのために「項目再検討会議」では具体的な論議ができなかった。巧妙な罠を仕掛けていたのである。
この会議での調査報告では、その当の石油の備蓄量は、「二年も持たない」との結論であった。結局、それが、直接の開戦の理由となった。
しかし、実は、日本には石油はあったのだ。
実際に私は、陸軍省軍務課にいたある人物から、こんな証言を聞いた。
「企画院のこの時の調査は、実にいい加減なものだったんです。陸軍もそうでしたが、特に海軍側は備蓄量の正確な数字を企画院に教えなかった。海軍の第一委員会が"教える必要はない"の一点張りで、企画院は仕方なく、大雑把なデータから数字を割り出し、計算して出した結果なのです」
企画院という組織は独立した一官庁であったが、大蔵省、商工省など各省庁機関から派遣された者が寄り集まってできた機関であった。陸軍省、海軍省からも派遣されており、彼らの申告した根拠のない数字に基づいてデータが出されていた。
先の人物は、さらに面白い話をしてくれた。
「開戦前、アメリカに輸入を止められてしまい、石油がなく"ジリ貧"だというのは、一般国民でも知っていることでした。それでそんなに石油がないのならと、ある民間貿易会社が海外で石油合弁会社を設立するというプロジェクトが起こったんです。普通だったら、喜ぶ話ですが、軍は圧力をかけて意図的に潰してしまいました」
つまり、「石油がない」という舞台設定をしないと、戦争開始の正当化はできない。特に海軍は船を動かすことができなくなってしまう、というのが大義名分としてあった。それをうまく利用したのである。石油の備蓄量が、実際にどれだけあるかなど、いったい何人が正確に把握していただろうか。
開戦に至るには、実はそうした裏のシナリオが隠されていたのだ。そのシナリオを書いたのが、「第一委員会」だったのである。
彼らは巧妙であった。官僚として動くので、決して目立つことはない。責任がかからぬよう、うまく計画もされている。
なぜ彼らは戦争を欲したのか。満州事変、日中戦争と陸軍ばかりが表面上は国民に派手な戦果を誇っているのに海軍はいっこうに陽があたらない。アメリカ依存の石油供給体制を脱し、東南アジアの油田地帯を押さえて、不安のないようにしたい。軍縮条約から解放されての建艦自由競争で大艦巨砲主義に相応の自信をもったことなどがあげられよう。だが同時に時の勢いに流されたということも指摘できるように思う。
歴史の教科書にも書かれている「ABCD包囲陣」なるものがある。アメリカ、イギリス、中国、オランダによって、日本は輸入経路を閉ざされてしまい、石油がなくて仕方なく南部仏印に進出したということになっている。しかし、これも「第一委員会」が作り上げた偽りの理由付けにすぎなかったのだ。
現在、我々が理解する開戦の"歴史"は、「陸軍の暴走に日本は引き摺られていった」という構図である。戦後の「東京裁判」(正式名は極東国際軍事裁判)がいい例だろう。
A級戦犯に指定された28人の内、陸軍の軍人は15人、海軍はたった3人。その上、絞首刑となった7人は、広田広毅を除いては、全員陸軍軍人であった。「陸軍悪玉説」で納まってしまっている。
東條の秘書官だった赤松はこうも言っていた。
「あの戦争は、陸軍だけが悪者になっているね。しかも東條さんはその中でも悪人中の悪人という始末だ。だが、僕ら陸軍の軍人には大いに異論がある。あの戦争を始めたのは海軍さんだよ…」
太平洋戦争開戦について、最初に責任を問われるぺきなのは、本当は海軍だったのである。
(編者注:だからと言って帝国陸軍の蛮行は許されません。政権を投げ出した近衛にも責任がある。天皇の為なら軍部と対立すべきだったのです。今回の記述から我々が学習するのは、省益の為なら(国会での)偽証も辞さずという光景が以前にもあったという事です。しかもそれは、大戦前と同じ(軍事)官僚による、民主主義の否定と行政における、愚行・蛮行が、今後も繰り返される可能性があることを示唆しているのです。省益の為の「人災」が繰り返し起きないために、我々がしなければならないことは明白です。現代日本を支配している(省益或いは与党最優先の)似非民主主義の嘘と欺瞞を暴く事です。ところが、(政治家や官僚、経営者と異なり)今の日本の国民は、法治主義という手続きで手足を縛られています。ということは、従来の方法以外の、かつ合法的な手段で日本を変える必要があるという事です。静かで穏やかな意識の「革命」がその前提です。その為にも、戦争の記憶を引きずる我々世代のボランティア、言い換えれば平成の語り部が、現状の正しい認識を、国民に訴え続けていかなければならないのです。以下次号)
関連記事。法制局長官の発言、広がる波紋。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6316445
コメント:大戦前の官僚の姿がここにもあります。その延長線上には某首相の姿も見えています。
関連記事。東京大空襲、その時軍隊は。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201903/CK2019030802000137.html
関連記事。天皇即位で恩赦。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190309-00000002-asahi-soci
コメント:これ本当に必要ですしょうか。冤罪を糺す方が先でしょう。籠池だって一言で言えば冤罪でしょう。現政権は、都合の良い時だけ天皇を担ぎ出していないと言い切れるでしょうか。
「あの戦争は何だったのか」の第5回です。
「この戦争はなぜ続けるのか」 二つの決定的敗戦
12月8日、朝7時にラジオから流れてくる臨時ニュースで、日本の国民は初めて戦争状態に入ったことを知った。
その時、国民はみな歓喜に沸いたのである。アメリカに押さえつけられて背伸びできない鬱屈感があった。イライラした生活から一気に「胸のつかえが降りた」という解放感に満たされたのだ。
新聞は「ああこの一瞬、正に敵性国家群の心臓部にドカンと叩きつけたる切札である」と煽り立てた。あちこちで「万歳、万歳」の声さえあがった。
その感情の発露は、特に知的階層に多かった。
作家の太宰治は、開戦のニュースを聞いた時の感想を、こう書いている。
開戦の新聞号外を前に「万歳」の声があがった「しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな 私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ」
同じく作家の伊藤整は、もっと露骨に解放感を表していた。
「私は急激な感動の中で、妙に静かに、ああこれでいい、これで大丈夫だ、もう決まったのだ、と安堵の念の湧くのを覚えた」
この時の空気は「二・二六事件」に端を発した"暴力の肯定"で神経が麻痺していく感覚と似ているようにも感じられる。鬱屈した空気の中でカタルシスを求める。表現は悪いかもしれないが、"麻薬"のような陶酔感がある。
そして何もそうした感情は日本人だけに限らなかった。カントやワグナーを生んだドイツの国民とて、同じようにヒトラーに"しびれて"しまったのだから。あるいは戦後の日本だって、同じようなことが起きている。オウム真理教などに、いわゆる偏差値の高い大学を出た者がみな洗脳されてしまう。金正日が支配する北朝鮮も然りだ。みな裏に暴力の装置があり、それに押さえつけられた独裁政権下である。
無謀とわかっていながら、しかし誰も「ノー」とは言えず、曖昧なまま始まってしまった太平洋戦争。
(編者注:文の途中で恐縮すが、重要な点があります。それは独裁国家の特徴として、情報が統制されており、国民が内政・外交で、政府に都合の悪い情報から一切遮断されており、鬼畜米英を刷り込まれていたことです。国民に真実を伝えるべきメディアが、政府と軍部の宣伝部に堕していたことです。提灯記事を書かなければ大本営の発表から締め出されたのは、今の「菅官邸」の記者会見と同じです。当時の国民の意識が低かった、端的に衆愚だったと言う前に、今でも、政府の姿勢が戦中のそれと全く変わらない事の方が、遥かに深刻な問題なのです)
戦前のアメリカ海軍の予想では、日本が最初に攻撃を仕掛けてくる地はフィリピンだと、読んでいた。日本軍の標的はアジアの南方にあるはず。何よりフィリピンには、アジアにおける最大のアメリカ軍基地があったからだ。だから、日本がハワイに先制攻撃を仕掛けてきたと知った時、アメリカの軍事指導者は本当に驚いた。
まんまと奇襲作戦を成功させたのは、"賭博師"ともいわれた山本五十六の天才的なところであった。 空母に飛行機を搭載した機動部隊が、ハワイ沖、300〜400キロの地点に接近し、そこから爆撃機を飛ばす。爆撃機は低空で目標地に入って急降下爆撃をくわえた。第一次、第二次と二度の波状攻撃をかけ、停泊中の「アリゾナ」始め、アメリカ海軍の四隻の戦艦を沈めた。その他、湾周辺の飛行場を破壊し、3000人近い兵士をも殺害した。奇襲攻撃としては大成功だったといえよう。
アメリカへの留学経験もある山本は、始めから日米決戦が無謀であることを十分承知していた。
しかし、昭和16年7月の日本軍の南部仏印への進駐、それを受けてアメリカが発動した「在米日本資産の凍結」「日本への石油禁輸」を見て、もはや戦争が不可避であることを悟ったという。連合艦隊司令長官だった山本は、近衛に開戦となった時の見通しを聞かれて、こう答えていた。
「それは是非やれと言われれば初めの半年や一年の間はずいぶん暴れてごらんにいれる。しかしながら二年、三年となればまったく確信は持てぬ」
(編者注:当時の日本の閉鎖は、現在の北朝鮮の閉鎖に似たところがあります。しかしなぜ当時から、追い詰められた日本が、窮鼠となって猫にかみつくことを想定できなかったのか。軍事的な脅しだけで日本が米国に従うと思えばそれは傲りです。しかもそれは脅しであった、外交ではない。今のトランプの米国と全く変わらないのです。安部の日本とトランプの米国は、近衛の日本とルーズベルトの米国のデジャブなのです。また当時の政府=軍部には、嘘に対する罪悪感が全くありません。国民は従わせるだけの存在なのです。国民に真実を伝える必要も義務もない。これもまた安倍政権、トランプ政権と共通しています。安倍首相の場合、沖縄の辺野古移転反対の県民投票の結果をどう考えるかと国会で問われて、毎回、答えにならない答えを繰り返している。それを受け入れる国民が馬鹿なのか、それとも説明にならない説明が通ると思う首相=官邸が愚かなのか。安倍の常識は国民の非常識なのです)
その上で完成させたのが「真珠湾攻撃」作戦だった。彼はこうもいっていた。
「種々考慮研究の上、結局開戦劈頭有力なる航空兵力をもって敵本営に斬込み、彼をして物心共に当分、起ち難きまでの痛撃を加うるの外なしと考うるに立ち至り候次第に御座候」
先制の奇襲攻撃をしかけ、徹底的に叩いて打撃を与えることが重要であると。しかし、それ以上のことは何も語っていない。
実際に「真珠湾攻撃」は、その後に上陸作戦を展開しようとか、ハワイを制圧しょうとか、次に何をしようという戦略は全く考えられていなかった。
真珠湾より少し遅れて、陸軍上陸部隊はマレー半島、それに香港に侵攻していった。
こちらも、イギリス軍相手に大勝利を収める。
12月8日の夜、首相官邸では、陸海軍首脳の大祝宴会が行われていた。次々に舞い込む勝利の報に、東條英機は上気して「すぐに陛下に知らせろ、ありのままを報告しろ」と上機嫌だったという。
何かこの時の光景は、その後の日本軍の戦いを象徴しているように思えてしまう。「さて、その次にどうしようか」など、誰も考えようともしなかったのだ…。
一方アメリカでは、この日、在米日本大使館が大失態をおかしていた。開戦前にアメリカへ渡すはずの開戦通告書の手交を遅延させてしまったのである。
外務省本省が電報で送ったアメリカへの開戦通告を、在米日本大使館で正式文書にタイプするのに手間取り、真珠湾攻撃開始から55分も遅れてしまったのだ。在米大使館ではその重要な内容を理解しなかったがゆえに起きた不幸であった。
(編者注:失礼を承知で言わせて頂くと、この高級官僚の非常識と専門馬鹿さ加減も、モリカケトーケイの、官僚の国会答弁を彷彿とさせます)
結果的に、その55分の遅延は、アメリカ人に「日本に卑怯な騙し討ちをされた」、「ダーティ・ジャップ」との強い怒りを与えてしまう。他国のことには不介入とするアメリカのモンロー主義を変えて、参戦への理由付けにまんまと利用される結果となったのだ。
日本軍は、その後も破竹の勢いで進んでいった。
2月11の紀元節までにと期限を定めてシンガポール攻略を進める。続いて、現在のマレーシア、ベトナム、カンボジアとインドシナ半島を押さえていった。また海を越えてソロモン諸島やニューブリテン島のラバウルにまで入っていく。さらにマッカーサーのいるフィリピン基地も日本軍は制圧してしまう。マッカーサーは「アイ・シャル・リターン」の言葉を発し、オーストラリアで屈辱の日々を過ごすことになった。
こうして昭和17年4月までに、日本は東南アジアのほぼ全ての地域をその支配下に収めていったのである。
表向きの名目は、オランダやフランス、イギリスの植民地支配からアジア地域を解放する「民族の独立」を謳った。実際には、制圧地域には輸送船で次々に兵隊を送り、軍政を敷いていった。開戦当初の占領予定地は、これでほぼ手に入った。ではいったい次に取るべき
行動は何か:…・この段階になって初めて日本軍は頭を悩ませてしまったのである。
(編者注:以下次号)
関連記事。空襲から53人救った保母。
https://www.asahi.com/articles/ASM2W4DRPM2WULZU00M.html?iref=comtop_8_08
関連記事。東京空襲は核並みの被害。映像。
https://www.asahi.com/video/articles/ASM34578YM34UEHF005.html?iref=comtop_video_02
「あの戦争は何だったのか」の第6回です。申し訳ありませんが、今回と次回は長めです。読めば読むほど、現代日本の政治体制との類似性が気になります。だからこそ資料として使わせて貰っています。
“勝利”の思想なき戦争
開戦当初の占領予定地はほぼ手に入った。ではいったい次に取るべき行動は何か…。この段階になって初めて日本軍は頭を悩ませてしまったのである。
考えた末、指導者たちは、こう方針を決定した。地図を眺めて見るとアメリカ軍はフィリピン基地なき後、拠点をオーストライアに移していくはず…。ならばここを叩こうと。
ポートモレスビーとは、現在のパプアニューギニアの首都。当時はオーストラリア領であった。ここを叩くことによって、アメリカとオーストラリアの海上輸送路が断たれると考えた。
私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きな一つの理由がある。それは、「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。
当たり前のことであるが、戦争を始めるからには「勝利」という目標を前提にしなければならない。その「勝利」が何なのか想定していないのだ。
開戦時の日本の「勝利」とはどのような状態を意味したのか、私は徹底的に調べてみた。ようやくそれに値するだろうある報告書に気づいた。それは、昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争終末促進二関スル腹案」というものである。腹案には、こう書かれていた。
「蒋介石政府を屈服させる。その上でドイツ、イタリアと提携してイギリスを屈服させ、アメリカの継戦意思を喪失せしめる」
つまり、この腹案はこういうことである。日本は、極東にあるアメリカ、イギリス、オランダの根拠地を壊滅させて自存自衛体制を確立する。そしてイギリスは、ドイツとイタリアによって制圧してもらう。そうすると孤立したアメリカが「継戦の意思なし」というはず。その時にこそ、この戦争は終るのだ、と。
この腹案を読み、私は指導者たちのあまりの見通しの甘さにあきれ返ってしまった。ここに書かれている内容は、いわば全て相手の意思任せである。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するといった勝手な思い込みだけである。
日本がアジアに「自存自衛体制を確立」するというが、それは具体的にどういうことだろうか。蒋介石政府を屈服させるというが、これはどのような事態を指すのだろうか。
そして、アメリカが「継戦の意思なし」ということは当のアメリカ政府と国民の、まさに"意思にかかっている"ということである。アメリカが「もう参った。戦争をやめよう」と提案してくるのは、イギリスが屈服した時だと本当に考えていたのであろうか。
この「腹案」の原案を作った軍務課の幕僚の一人に、直接、私は話を聞く機会があった。その時、彼も認めていた。「東條さんや、上層部の人たちの意見を集約してまとめたのですが、この案を書きながら自分でも調子いいなと思いましたよ」と。
日本はこういう曖昧な形で、戦争に入っていったのである。
(編者注:とは言え、著者の説明では、太平洋戦争開戦の理由が「受け身」なものであったということになります。戦略面で軍事官僚がほぼ無能であったことはひとまず措くにしても、開戦の直接のきっかけは、日本が既得権を守り、米国からの制裁を回避することだったという事になります。既に大陸で侵略を始めていたのだから、どんな説明も言い訳にしかならないでしょうが、少なくとも、米国占領は考えていなかったのではないか。さもなくば最初にハワイを占領していたはずです)
完全に裏をかかれた「ミッドウエー海戦」
本国内では、毎日のように「連戦連勝」と海外から勇ましい報ばかりがもたらされていた。そして、国中がそれに酔ってしまっていた。
しかし、そんな昭和17年4月18日のこと、寝耳に水の反撃を受けることになる。東京を中心に、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸とアメリカ軍による初の本土空襲を受けたのだ。
B25爆撃機、16機による奇襲攻撃だった。太平洋上から飛び立った爆撃隊は、空襲後も2400キロメートル飛行し続け、中国東部の飛行場に着陸するという大胆な作戦だった。
この空襲で民間人を含む50名が死亡している。軍部は、改めて高射砲の無力さを痛感することとなった。
何より勝ち戦に浮かれていた中の不意討ちに、ショックは大きかった。特に、山本五十六は、皇居近くにも爆弾を落とされたことに非常な責任を感じ、恐縮してしまっていた。
山本は新たな作戦を強く主張するようになる。
「日本海軍は、ポートモレスビーなど遠くに行き戦っている場合ではない。アメリカが日本の本土爆撃の拠点としようとしているハワイ周辺、太平洋上に浮かぶ島々の飛行場基地を叩いておくべきである」と。
山本の構想では、日本とハワイの中間に位置するミッドウェー島をまず押さえておけば、当分は太平洋西部の制海権を固められるはず、との考えであった。加えてこの海域に太平洋艦隊の空母を誘いだし一気に叩くという計算もあった。
山本には真珠湾攻撃の作戦を成功させたという強味があり、軍令部でも山本の意見を無視することができなかった。こうして「ミッドウェー作戦」が進行していくことになる。
だが、実は「ミッドウェー作戦」は完全にアメリカ側に読まれていたのだ。
真珠湾攻撃を受けて以来、アメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将は、日本軍がこの後どうやって攻めてくるかをシミュレーションするように日本通のレイトン情報参謀に命じていた。レイトンは自分が日本の軍令部総長だったらどうするかと、常に考えをめぐらせていた。そして彼は一つの結論を出した。
「真珠湾での成功体験から日本軍は必ずまた同じ戦法を取って来るだろう。また日本本土に航行可能な距離にある太平洋上のアメリカ軍基地を攻撃目標に定めてくるはず。それはミッドウェーであろう」
また実は、この頃、日本側の暗号通信は全てアメリカ軍に傍受され、筒抜けになっていたのである。日本軍がミッドウェーにいつ攻めてくるか、その日付ばかりか攻撃開始の時間まで、正確に見抜かれていたのだ。
6月5日、午前6時、日本の連合艦隊の持つ主要空母の内、4隻も動員し、南雲忠一司令官が率いる機動部隊はミッドウェーに臨んだ。
と、突如、高度上空から多数の爆撃機が急降下してきたのである。機動部隊は度肝を抜かれるばかりで、反撃をなすすべもなかった。
空母三隻「赤城」「加賀」「蒼龍」は大破し、のち沈没、辛うじて沈没を免れた「飛龍」も手痛い打撃を蒙り、友軍により撃沈された。搭載機約320機も失い、戦死者は3300名に上った。太平洋戦争が始まって以来、初めての惨敗となった。
また、連合艦隊の持つ主要空母四隻を失ってしまうことにもなり、それは、後々まで影響を残すこととなる。
(編者注:米空母が迫っているという情報、即ち索敵が遅れ、雷撃機から戦闘機への換装が間に合わず、迎撃が出来ずに、甲板上の標的になったことが敗因だということは、広く知られた事実です)
その日、東京の軍令部では、満を持した作戦が成功することを確信し、祝宴を張る用意もすっかり整っていたという。後は戦勝の報を待つのみであった。敗北など考えてもいなかった。しかし、いくら待っても「作戦成功」の報告がもたらされることはなかった。
さて「ミッドウェー海戦」で特筆すべきは、敗戦の報を受けた後の海軍軍令部の対応である。敗れたことをひた隠しにしたのであった。「大本営発表」では、「米航空母艦エンタープライズ型一隻及びホーネット型一隻撃沈、彼我上空において撃墜せる飛行機約120機。(中略)我方損害、航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破、未帰還飛行機35機」
と、国民にウソの報告がなされた(これが「大本営発表」の最初のウソであった)。そして国民はもとより、いかに手痛い損害を蒙ったかを陸軍にも教えない、さらに天皇にも正確に伝えることをしなかった。
(編者注:安倍政権のアベノミクスの成果発表と同じです)
ミッドウェーで生き残った者たちは日本に戻ると幽閉状態におかれた。故郷との連絡も許されず、入院していた者は病室のカーテンさえ開かせてもらえなかった。
「ミッドウェー海戦」での赤城飛行隊長の淵田美津雄も、負傷して基地に戻り、幽閉された入院生活を送らされていた。彼は真珠湾攻撃にて第一次攻撃隊長として名をあげた、英雄でもあった。そんな彼が、あまりの拘束ぶりに「我々を犯罪者なみに扱うのか」と思わず激怒したほどであった。
ちなみに淵田は、戦後、牧師となってアメリカを布教して歩く生活をしている。アメリカで「真珠湾の時のパイロットだった」と、かなり有名になるのだが、彼にクリスチャンになってアメリカに行く決意をさせたのは、この時受けた仕打ちに原因があった。軍への、そして日本への不信感を募らせ、信仰の生活に入るようになったのだ。
こうして「ミッドウェー海戦」は、それまで快進撃できた日本の大きな曲がり角となったのである。
(編者注:以下次号)
関連記事。東京大空襲から74年。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190309-00000067-asahi-soci
関連記事。沖縄県民投票を尊重が68%。
https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019031001001553.html
安倍首相が自らの名前を年号に加える事に熱心だと週刊新潮が伝えています。部と三は使えないから、安か普でしょう。ならばいっそのこと、安普とでもしたらいかがか。アンプとなればオーディオマニアも喜ぶことでしょう。同時に最も不埒な、稀代の悪首相として、長く国民の記憶と記録に残る事でしょう。
「あの戦争は何だったのか」の第7回です。
「ミッドウェー」に引き続き、日本はこの時期、もう一つ決定的な敗北を味わうことになる。「ガダルカナル攻防戦」である。
山本五十六の進言によって進められた「ミッドウェー海戦」であったが、それと同時並行的に、海軍は、先にも述べた、アメリカとオーストラリアを分断する計画、「MO作戦」も進めていた。その前線基地として、フィジー、サモア諸島の北西1000キロ、ソロモン諸島のほぼ南端に位置するガダルカナル島に飛行場の建設をしていたのである。
飛行場建設のために設営隊2500名と警備隊150名が島に派遣されていた。
飛行場は8月5日、設営隊による突貫工事の末、何とか完成にこぎつけるに至った。
ところが、その2日後の7日未明、隊員たちが起きてみると、海上を海面が見えないほどアメリカ軍の艦艇が埋め尽くしているではないか…。
アメリカ海軍の総攻撃であった。そして夜も明けきらぬ内、2万あまりの海兵隊が上陸を開始してきた。
アメリカは、やはりこのガダルカナル島が、ミッドウェー島と同じく日本の前線基地として"要点"となることを充分読んでいたのだ。そして飛行場の建設具合を常に偵察していた。
一方、島にいた日本兵はほとんど抵抗もできず、後方のジャングルに逃げ込むのが精一杯であった。設営隊員は武器さえ持っていなかった。
前線となるガダルカナルの飛行場が奪取されたとの報を受けた大本営は、早速、グアム島にいた一木支隊に、第一次派遣隊として出動を命じている。
しかし、大本営では事態を重くみていなかった。攻撃してきたアメリカ軍の正確な数字を精査することもなく、たまたま通りかかったアメリカの偵察機が飛行場を見つけ、攻撃を仕掛けてきたにすぎないのだろうと高をくくった。一木支隊の派遣隊はわずか1000名にすぎなかった。1000名は上陸して飛行場を攻撃するが、全滅するのにわずか一晩もかからなかった。
「派遣隊全滅」の報告を受け、大本営は未だ何かの間違いだろうと考えた。今度は、一木支隊の残りの1500名、それに続く川口支隊の三個大隊に出動を命じた。今度は4000名近い兵力であった。しかしそれも時間の問題で、すぐに総崩れとなる。
だがそれでも大本営では「行った連中が弱いからだ」と、責任を現場に押し付けていた。そして二度、三度と同じような編成を繰り返すだけであった。
(編者注:現在の官僚組織に通じるものを感じます)
そんなことが数限りなく続けられ、結局、大本営がガダルカナルを諦め、撤退するまでには半年もかかってしまう
その間、つぎこまれた兵士は、陸軍約3万600人、海軍約4700人、その内、戦死者は、陸軍約2万800人、海軍約3800人。次々に部隊を上陸させるが、輸送船は撃沈され、武器弾薬はおろか食糧もなかった。戦死者の内、餓死者は1万5000人と推定されている。ガダルカナル島は、「餓島」と呼ばれた。
ガダルカナルの攻防戦が始まって5ヶ月後の12月、参謀本部作戦部長の田中新一が東條に「もっと兵隊を送りたいから、また輸送船を出してくれ」と何度目かの要請をしていた。この時、さすがの東條も呆れて、陸軍省軍務局長の佐藤賢了とともに「お前たちは何度も"今度は大丈夫だから船を出せ"というが、どういう戦略で、どう計画を立てているのか。これ以上、ガダルカナルで犠牲者を出すようだったら、お前とはもうこの世では会うことはないぞ」とすごんだ。すると、その場で田中も「ふざけるな!」と、いい返し、殴り合いの乱闘になったという…。
それほど、大本営は混乱し、また無為無策であったのだ。戦略を立て直そうなどと考えることもなく、いってみれば"下手な博打打ち"のように「もう一度、もう一度」と同じ手を繰り返すだけであった。
(編者注:日本の景気刺激策と同じです)
私は、8月の段階でガダルカナルに上陸した一木支隊で奇跡的に生き残った何人かの兵士から話を聞いたことがある。彼らの話から、いかに無謀な戦いに駆り出されていたか痛感できた。
アメリカ軍の攻撃で部隊が総崩れとなると、何とか生き残った者は、みなバラバラにジャングルに逃げ込んでいくしかなかったという。指揮系統などなく、すぐにみな統一の取れないゲリラ兵のようになっていった。当然、補給など望むべくもなく、野生の豚や牛を殺して飢えを凌ぐしかなかった。しかし、豚や牛を食べられた頃はまだよく、しだいに食べるものがなくなる。トカゲやヘビ、ミミズ、雑草と何でも食べた。-
生き残った誰もが、そうしてジャングルの中を、痩せ細った体で目だけギラギラ光らせ、うろうろしていた。そうするしかなかった。
もはやアメリカ軍と戦闘らしい戦闘をする余裕もなかったという。アメリカ兵は、自分たちの基地の近くに日本兵が来ても、慌てるわけでもなく、悠然としている。なぜなら、たとえ日本兵が銃を一発でも撃ってきたとしても、すぐにアメリカ兵はそれ以上の銃弾を撃ち返すことができた。圧倒的な戦備の差があり、日本兵が撃ってこないことはわかりきっていたからだ。
小隊長であったという人物からは、こんな話も聞いた。ガダルカナルでは不思議なことがあったという。
ジャングルに逃れていった者たちは、みな夜中に行動することが多かった。闇に紛れて何人かの仲間と行動していると、必ずそこを狙い澄ましたようにアメリカの爆撃機が来て爆弾を落としていく。密林の中でレーダーが感知できるわけもない、まして声を聞きつけて狙ってくるなどということもないだろう、どうして居場所がわかってしまうのか、みな頭をひねっていた。念のために声もひそめて話すようにしたが、それでもやっぱり狙われてしまう。
戦後になって、どうして居場所がわかったのか、ようやく判明したという。何とガダルカナルのジャングルの中、全地域に、マイクロフォンが仕掛けられていたのである。どんな小さな声で話していてもマイクに声が拾われてしまい、居場所がすぐさま基地のアメリカ軍司令部に筒抜けになってしまうというのだ。
「その時は分りませんでしたけど、今考えれば、全くレベルの違う国と戦っていたんだなぁと、つくづく思いますよ…」。そう語ってくれた。
ガダルカナルから全面撤退がようやく決まったのは、昭和17年12月31日であった。撤退は、ラバウルの基地から駆逐艦が夜陰に乗じて三度にわたり着岸し、1万人を超える日本兵を引き上げさせた。この撤退作戦だけは、いく度かのアメリカ軍の攻撃を受け何人かの犠牲は出たものの、大なる損害もなく成功した。
2月9日午後7時の「大本営発表」では、こう発表された。「ソロモン諸島ガダルカナル島に作戦中の部隊は、昨年8月以降、引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃さいしつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」。
これは「撤退」ではなく、飽くまで「転進」だと、大本営の参謀たちはくだらない言い換えにのみ拘っていた。
誰も発しなかった「問い」
昭和17年という年を年表で概観してみれば、空母同士が交戦した「珊瑚海海戦」や、「ソロモン海戦」、「ポートモレスビー攻略戦」など、散発的な衝突はいろいろと見られる。だが、それらはいわばまだアメリカと"五分と五分"が保たれていた戦いであった。
しかし、「ミッドウェー」と「ガダルカナル」の二つの戦場での決定的な大敗は、この戦争のターニングポイントといえた。
昭和17年5月までは、日本は東南アジアをあっという間に席巻してしまうほどの勢いだった。それが、ここに来て急にエンストしてしまったのだ。
この時の日本の軍事指導者には、考えるべきことが多くあったと思う。ここでそれを確認しておこう。
例えば、もし「ミッドウェー海戦」で戦争を終結していたら…。もちろん、これはありえない歴史上の「イフ」である。しかし、吉田茂がひそかに和平工作を模索しているなど、その時点で全く可能性がゼロだったとは言い切れない。
「戦争を終結させる」とはいわない、なにせまともに「戦争の終結」像すらも日本の首脳部は考えていなかったのだから。でも、せめて"綻び"が出始めた昭和17年末の段階で、「このままの戦い方でいいのか」、あるいはもっと単純に「この戦争は何のために戦っているのか」と、どうして立ち止まって、誰も顧みなかったのか。
(編者注:一度決めたら、反省も修正も絶対にしない安倍政権と酷似しています。モリカケが安倍家と関係ないと一度言ってしまった以上、何が何でもそれで押し通す。如何なる証拠も証言も全部なかったことにする。辺野古の工事も、あれだけ県民が明確に反対の意志を示しているのに、絶対に止めようとはしない。統計不正では、隠蔽の指示をしていないと言ってしまった以上、それで押し通す。事実を認めず、前言は訂正しない。頭が固いというより、頭が悪いのです)
一般の国民には、ほとんど正しい戦況は知らされていなかった。「軍政」に携わる将校とて、100パーセント正確な戦況は伝えられてはいなかった。知る立場にあった唯一の者たちは、「大本営作戦部」のエリート参謀たちだけである。
本書の第一章で見てきたように、大本営に集まってくる人材は、日本のトップ・エリートであった。それが、この体たらくである。
(編者注:官邸に集う秘書官もトップ・エリートです。以下次号)
関連記事。有権者にも知識と能力を。
https://www.newsweekjapan.jp/hatta/2019/03/post-5.php
コメント:この理屈は、民主政治が衆愚政治の様相を呈しているので魅力的ですが、一方でエリート専制の危険性も併せ持ちます。どんなに優れた人間でも万能ではない上に、人には自分の運命を自分で決める権利があるからです。それでも(投票時に)自分が、自分(と他人の)将来を決定しているという自覚は、最低限度欲しいものです。そこでWTWが提案している方法は、投票用紙の余白に、なぜ自分がこの候補者に投票したのかの備考欄(マルバツで良い)を設けて、投票前に一度立ち止まって考える機会を作ることです。但し備考欄は十分に中立なものでなくてはなりません。
「あの戦争は何だったのか」の紹介は今回で一旦、中断とさせて頂きます。飽きたからではなく、私は何故(安易に)戦争に突入したのか、政治に安全装置がなかったのか、或いはそれがあってもなぜ機能しなかったのかに関心があり、開戦後の軍部の個々の作戦ミスには余り関心がないからです。本書は、書店で一度手に取ってみて頂くようお願い致します。
それでは「あの戦争は何だったのか」の第8回です。
私はこれまで、太平洋戦争中に戦争指導者たちが行ってきた「大本営政府連絡会議」を始め、様々な会議の資料をずいぶん当ってきた。しかし、一度として「この戦争は何のために続けているのか」という素朴な疑問に答えた資料、あるいは疑問を発する資料さえ目にしたことがない。
彼らが専ら会議で論じているのは、「アメリカがA地点を攻めてきたから、今度は日本の師団をこちらのB地点に動かし戦わせよう」といった、まるで将棋の駒を動かすようなことばかりであった。それで二言目には、「日本人は皇国の精神に則り……」と精神論に逃げ込んでいってしまう。物量の圧倒的な差が歴然としてくるにつれ、彼らは現実逃避の世界に陥っていくしかなかった。
資料に目を通していて痛感した。軍事指導者たちは"戦争を戦っている"のではなく、"自己満足"しているだけなのだと。おかしな美学に酔い、一人悦に入ってしまっているだけなのだ。兵士たちはそれぞれの戦闘地域で飢えや病いで死んでいるのに、である。
(編者注:自己満足、それは某首相も同じです)
挙句の果てが、「陸軍」と「海軍」の足の引っ張り合いであった。
この頃から、両軍お互いの意地の張り合いが、目に付くようになっていく。バカげたことに、それぞれが自分たちの情報を隠しあってしまう。
「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っていたのではない。陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦っていた……」などと揶揄されてしまう所以である。
陸軍と海軍の意地の張り合いは、「大本営発表」が最もいい例であろう。大本営「陸軍報道部」と「海軍報道部」が競い合って国民によい戦果を報告しようと躍起になっていた。やがてそれがエスカレートしていき、悪い情報は隠蔽されてしまう。そして虚偽の情報が流されるようになっていく。「大本営発表」のウソは、この時期からより肥大化が始まる。
(編者注:虚偽の情報は安倍政権でも同じです)
仕方ないのかもしれない、この当時、東條に向かって「東條閣下、この戦争は何のために戦っているのでしょうか」などと意見するような者がいたら、たちまちのうちに反戦主義者として南方の激戦地に転任させられてしまうのがオチである。
(編者注:籠池の幽閉を見よ)
危機に陥った時こそもっとも必要なものは、大局を見た政略、戦略であるはずだが、それがすっぽり抜け落ちてしまっていた。大局を見ることができた人材は、すでに「二・二六事件」から三国同盟締結のプロセスで、大体が要職から外されてしまい、視野の狭いトップの下、彼らに逆らわない者だけが生き残って組織が構成されていた。
(編者注:試しに閣内でアベノミクスを批判して見ればいいのです。ハイパーインフレになってからでは遅いのです)
昭和17年の頃の日本は、愉えていえば台風が来て屋根が飛んでしまい、家の中に雨がザーザー降り込んできているのに、誰も何もいわない、雨漏りしているのに、わざと見ないようにして、一生懸命、玄関の鍵を閉めて戸締りなどに精をだしている……、そんなようなものだった。
だが、そうした組織の"体質"は、今を顧みても、実は、そう変わらないのかもしれない。昨今のNHKの、海老沢勝二元会長をめぐる一連の辞任騒動や西武グループの総帥、堤義明の逮捕劇など見ていると、当時の軍の組織構造と同じように見えてしまう。あれだけ大きな組織の中でワンマン体制が敷かれ、誰も彼に意見できず、傲慢な裸の王様の下、みな従順に飼い馴らされてきたのだ。そして、危機に直面すると、何の具体策もない精神論をふりまわす。
ここで対照的に、この時期のアメリカの様子も見ておくことにしよう。「真珠湾攻撃」がアメリカ国内に与えた影響力は、それは計り知れぬほど大きかった。「リメンバー・パールハーバー」「ダーティ・ジャップ」がスローガンとなり 日本への憎悪は国中を動かしていった。"暴力への恐れ"で国内が一致した日本とは全く対照的に、自発的に国民の力が結集されていったのである。
「真珠湾」後すぐにアメリカで発行された戦時国債には、誰もが競って買いに殺到した。軍には、大学が閉鎖してしまうぐらい、志願兵が集まった。当初、日本の軍部では、アメリカが本格的に反攻に出てくるのは昭和18年の後半からだと予想していた。平時態勢から戦時態勢に切り替わり、戦車や戦闘機など戦備の生産をフル稼動しても、そのぐらいの時間はかかるだろうとの読みであった。しかし、その読みは全く甘かった。
兵力はもとより、銃器類、それに空母や駆逐艦など、昭和17年の終わり頃にはもう充分の戦時態勢に入っていたのである。
またアメリカ海軍では、トップの位置にあったキンメル太平洋艦隊司令長官が「真珠湾」の責任を取って更迭され、代わりにニミッツ大将がトップに就いた。太平洋、アジアの戦略責任者は、陸軍を率いるマッカーサー大将と二人体制となっていた。
司令長官に就いたニミッツ提督とマッカーサ一将軍は、早速、太平洋の戦略を考えた。そして「中部太平洋作戦」、別名「飛び石作戦」(あるいは「カエル跳び作戦」ともいった)案を作り出す。
マッカーサーはニューギニアからフィリピンへ北上していき、一方のニミッツはギルバート諸島、マーシャル諸島、マリアナ諸島へと分けて、日本の制圧している中部太平洋の島々を飛び飛びに攻撃していく。まさに「飛び石」作戦である。その道筋は「キングス・ロード」と呼ばれた。
日本の占領地域の要所、要所を落としていけば、補給路が断たれ、切り崩していける。ちょうどオセロゲームで駒をポイントに置けば、自然に黒から白へ全部、引っくり返っていくようなものだった。そして「ミッドウェー」「ガダルカナル」もその"要所"の一つであったのである。
ニミッツの、"要所"である地点を攻撃する方法は徹底していた。飛行場、司令部のある場所だけを狙って、草木一本も残らないぐらいに一週間ほどかけて徹底的に爆撃する。中枢機能を麻痺させておいてから、空母輸送船で大量の海兵隊を上陸させた。その代わり、戦略上"要所"に当らないと見切った地域には見向きもしなかった。
(編者注:今回で中断します。将来再度取り上げる事があるかもしれません)
【気になる記事】
・大阪クロス選、地方政治の私物化。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019031202000164.html
コメント:そして国政を私物化しているのが安部某(それとも坊=幼稚=だからある意味、分かりやすい=名誉欲と権力欲の亡者)です。
しかし、その大本営は、自分たちに都合の悪い状況を隠すことのみに汲々とし、決して自己省察などしようとしなかった。「戦争の目的は?」と聞かれれば、「自存自衛のため」などときれいごとを述べているだけであった。