「WTW映画批評」

【2005年】

「トランスフォーマー」
TVでスピルバーグが宣伝していたのでつい見たが、見る前に気づくべきであった。例の超合金の玩具トランスフォーマーのことである。むかし子供が小さいときに買って与えたあれである。原題を見るとトランスフォーマーズと複数形になっている。1万年前に謎の存在キューブがエネルギーを放ち、ある星が滅びたことがある。その後行方不明になっていたが、どうやら地球にあるらしいことが分った。これを追い求める2つのグループ。良いロボットと邪悪なロボットである。おりしもカタールの米軍基地に行方不明になった軍用ヘリが戻ってくる。、ところが着陸と同時に大変身。巨大で無敵な破壊機械になって戦闘機だろうが戦車だが叩きつぶして、基地は全滅だ。一方親に中古車を買ってもらった少年サムは、この車が自分の意志を持っていることに気がつく。キューブを求めつつサムを守ろうとするロボットと邪悪なロボットに軍隊が巻き込まれ、もう大混乱。誰が善玉かも良くわからない。ただただ破壊の連続である。無論特撮だが、これだけ長いシーンは珍しい。理屈ぬきに楽しめば良いのだろうが、見た子供はやはり暴力的になりそうな気がする。ジョン・ボイトが防衛長官役。地下基地の背景はフーバーダムだ。

「ハリー・ポッター不死鳥の騎士団」
主役のラドクリフ少年もすっかり青年であり、これからどう続けるのか製作者は頭の痛いことであろう。今回は正義の騎士団が鎧をまとい、馬に乗って大活躍する・・・話ではない。いとこ(?)の眼前で吸魂鬼(?)に襲われて撃退する為に魔法を使ったということで、ハリーは裁判にかけられる。ひそかに存在する騎士団という正義の魔法使いの組織がハリーをサポートする。しかし魔法省の大臣は臆病で、魔王の復活を認めることが出来ない。あまつさえ魔法学校に自分の腹心の残酷で頭の固い部下を送り込み、教育方針を無力化してしまう。ハリーは有志を募って密かに魔法の練習をする。そして、ハリーを追って、ついに魔王(なのだろう)が姿を現す。彼が欲しがっているのは学校の敷地の奥深く隠された予言の珠であった。全体として、とても小中学生が理解でき、楽しめるような内容とは言いかねる。もはや出演者もスート−リーも大人向けのそれである。こちらは前回も見ているので見ないわけにはいかない。ハリーの父親が決して善人ではなくいじめっ子だったなどというエピドードもある。なお、結局謎は解明されない。無論予測がつく程度のヒントは示されるわけだが。魔王と魔法で真っ向から対決する校長が頼もしく思える。なお魔王役は「イングリッシュ・ペイシェント」や「上海の伯爵夫人」のレイフ・ファインズである。

「ボビー」
ロスのアンバサダーホテルの2006年の一日を描く。しかしその日は特別な日だった。大統領選挙運動を展開中のロバート・ケネディー上院議員がその日、このホテルで暗殺されたからだ。これでもかという豪華な配役だ。アンソニー・ホプキンス、ローレンス・フィッシュバーン、デミ・ムーアや、なんとハリー・ベラフォンテまで出演している。この日に被弾した人達の一日を追いつつ、ケネディー議員の反戦思想を紹介してゆく。地味な題材だが、飽きない。推薦。なおアル・ゴア元副大統領の「不都合な真実」も、いささか長過ぎる部分はあるにせよ、こう温暖化の影響が顕著になって、台風の大型化、酷暑の夏など、身近に影響が出ている現在、教養としても見ておくべきだろう。大統領選挙で、フロリダの不明朗な集計結果がなく、ゴアが大統領になっていたら、石油利権と武器産業の代弁者のような某大統領に代わって、イラクの混乱もなく(本当の敵は911の真犯人であろう)、世界はもっと変わっていたかもしれない。但しマイケル・ムーアの「アホで間抜けな大統領選」は歯切れが悪くて、余りお勧めはできない。

「デジャヴ」
デンゼル・ワシントンが警官になり、フェリー爆破の事件を担当するが、過去からのメッセージに接して、過去に遡って惨劇を阻止すべく、奮闘する。時間旅行者につきもののタイム・パラドックスをどう解決すのかが見ものである。飽きさせない。ところでその他にビデオの寸評。「ゴーストライダー」は悪魔に魂を売って不死身になった男の戦いだが、そこそこには面白い。「ナイト・ミュージアム」は、ニューヨ−クの自然史博物館で、夜毎、恐竜やら蝋人形が動き出すというコメディ。ティラノザウルスは犬のように人懐っこい。「ハッピー・フィート」は歌は下手だがダンス(といっても殆どラップ)が上手なペンギンが南極を救う話。「上海の伯爵夫人」は盲目の元米国の外交官とロシアの元伯爵夫人のロマンスだが、真田がいわくありげな日本人で登場する。・・・と、見ても後悔はしないビデオは何本かあるが、「蒼き狼」 と「ハンニバル・ライジング」はお勧めできない。前者は反町がジンギスカンに扮するモンゴルとの合作映画だが、紙芝居を見ているように、現実感がない。後者はスプラッター(猟奇)度と、倫理観と常識の欠如が段々エスカレートし、もはやそこには残酷な中にも詩情があるレクター博士のイメージはない。残虐さだけが売りの単なる復讐劇だ。たまたま牛丼を食べながら見ていた私は、ことさら食欲がなくなった。フランスにいるハンニバルの日本人の叔母から日本の剣術を習うというあたりが、日本と関係があると言えば言える。ポスターの仮面は、日本の武者鎧の頬当てだ。

「バベル」
アカデミー賞は6部門でノミネートされたが、受賞は僅か作曲賞だけにせよ、ゴールデングローブ賞では作品賞を受賞した。作品の解説にもある通り、意志の疎通が、現代世界ではどれだけ損なわれているか、またそれにより個人の善意が、警察や行政の枠組みの中でどれだけ無視され、踏みにじられているかを告発する映画である。そう、これは娯楽映画ではない、久しぶりのシリアスなドラマなのだ。勿論、事実とはなんの関係もない。まさに虚構だから語れる真実もあるという作品だ。日本の女子高校生の描写など(いかになんでもあれだけ荒んでいるとは思わないが)注文を付けたいところは多々あるが、骨太のストーリーは揺るぎない。モロッコでヤギを飼って暮らしている一家がいた。狼に手を焼いており、知り合いの老人が銃を売りに来たので購入する。主人は外で働いているので、ヤギの見張りはローティーンの兄弟の仕事だ。しかし兄弟がは銃を試し撃ちしている内に、たまたま通りかかった米国人観光客の乗ったバスに弾丸が命中。乗っていたブラッド・ピットの妻、ケイト・ブランシェットに重症を負わせてしまう。ピットとブランチェットは、幼い息子の死を巡って、破局の寸前であった。幼い娘と息子をサンディエゴの自宅の、メキシコ人のベビーシッターに預けた出かけて来ていた。病院は遠く、とりあえずブランシェットをバスで近所の村に運ぶが、救急車は来ない。医者は獣医だけである。観光客の中には高齢で、暑さで倒れるものも出てくる。ついにバスは怪我人を残したまま、出ていってしまう。一方、自宅に残った兄弟は、子守のメキシコ人女性が息子の結婚式があるのに、子守の代わりが見つからないので、メキシコに一緒に連れてゆく。しかし、帰路、車の運転手が酒酔い運転で国境を突破し、3人は荒野に置き去りにされてしまう。話変わって、日本では、耳の不自由は女子高生(菊池稟子)は、母親が自殺してから荒れた生活を送っている。異性を求めるあまり、父親(役所浩司)を調査中の刑事にまで言い寄る。全裸のシーンもあり、体当たり演技で、アカデミー助演女優賞のノミネートもむべなるかなである。役所浩司が、ハンティングの礼にガイドに与えた銃が生み出す悲劇の連鎖。ドキュメンタリー・タッチのリアルな映像が見ている者を引き込む。見て愉快な映画ではないかもしれないが、少なくも損をしたとは思わないだtろう。推薦。 但し、日本のディスコのシーンでは、音楽と映像の乱舞で気分が悪くなった観客が出たという。不要な長いシーンなので、わたしは目をつぶっていたので助かったが、船酔い状態を起こしてまで映画を見ることもあるまい。ビデオが出てから見ても十分だろう。

「出口のない海」
並木(市川海老蔵)は、明治のエース・ピッチャーだったが、海軍に志願する。何かとライバル意識をもやす同期のマラソン選手も既に海軍に志願していた。戦局もおしつまり、人間魚雷回天の案が出され、乗員の募集があり、並木も応募する。訓練基地ではやはり野球選手だったという若い整備兵と親しくなる。操艦の訓練のシーンなど非常に興味深い。しかし回天は人力に頼る出来の悪い一人乗りの潜水艦だったらしく、操艦練習でも失敗ガある(これは伏線)。いざ出撃となり、4艇の回天を積んだ伊号潜水艦(艦長は香川)は、まず輸送船に遭遇。ところが、マラソン選手の一号艇は故障で中止。二号艇が特攻。続いて現れた敵艦隊に、いよいよ並木の3号艇が出撃となるが、これまた故障。不面目のうちに基地に引き返す。一途に国のために死ぬことを正義とし、死んで軍神になることしか人生に意味を見出せなかった若者達の短い人生が哀しい。思わず涙がこぼれる。市川海老増はNHKの武蔵では大根だったが、今回は好演。あとづけの反戦主義でもなく、無論国粋主義でもない描き方に好感が持てる。特選。

「日本沈没」
食い止める手段があるならさっさとやれと言いたい。パニック映画でもなく詩情のある映画でもない。映画の監督やプロデューサーになる人は、本を沢山読んで、人間や人生について深い洞察を持たねばならない。そうでなければ人の心を打つ映画は出来ない。

「ウルトラ・バイオレット」
人類とミュータントが対決するSFで、CGと実写をうまく組み合わせ、主役のミラ・ジョボヴィッチがこの世ならぬ美しさを見せる。

「16ブロック」
ブルース・ウィリスが年老いた足の悪い警官(刑事)になって、証人をマンハッタンの16ブロック離れた法廷に護送するという話。なんとその証人が悪徳警官を告発するものだったので、仲間の警官から追われて包囲もされる。証人を守りおおせる事が出来るのかどうかダガ、最後まで楽しめる。競演のモス・デフも良い味だ。個人的にはメトロのバスが出てきて、NY駐在時代を思い出した。

「カサノバ」
アクションでも現代劇でもないが、プレイボーイの元祖が真実の愛に行き着く話で、コメディ仕立てがうまくいっており、家族で楽しめる(かも)。ヒース・レジャーも「ブロークバック・マウンテン」とは違った軽い味を出している。

「マイアミバイス」
オリジナルのTVシリーズは軽い作品だが、今回は実写風の映像で、かなり重苦しくなっており、潜入捜査官の活躍にも余り思い入れが出来ない。しかも長い。

「海猿」
日本映画には珍しく、フェリーの沈没という大掛かりなテーマだが、ストーリーは明らかに「ポセイドン」と「タイタニック」のミックスで、まずその点が頂けないのと、とにかくやたらセンチメンタルで、話がドンドン進まないと言う邦画特有の古典的欠陥があり、非推薦。

「ワイルド・スピード3」
前作がからっとした軽い仕上がりだったが、今回は日本が舞台と言うので見てみたものの、米国の不良(高校生)と日本の不良が高速で競うと言うだけの映画で非推薦。ちなみに原題は、Tokyo Draftで、主人公がドリフト走行を日本で学ぶという設定だ。日本の自動車が世界で認められたのはうれしいが、日本の坂道はカーブが多くドリフト走行が必須だと言う背景があるのかもしれない。ちなみに日本の高校教師には柴田理恵が日本語で登場する。

「RV」
実はキャンピング・カーのことである。久々のロビン・ウイリアムスのコメディー。彼は最近シリアスなものばかりだった。ワーカ・ホリックのウイリアムスが家族サービスと仕事を兼ねて、LAからコロラドまでレンタカーのキャンピングカーで旅をする。その道中の話だが、最近のアメリカのコメディーと言うと、どぎついギャグが多い中で、まずは安心して見られる方だろう。ユタからコロラドに入ると景色が一変する。山と湖はまさに絵葉書のようで、米国駐在中に訪問しなかったことが後悔される。但しこのビデオ、レンタル店では余り期待していないらしく保有本数が少なかった。

「父親達の星条旗」
「硫黄島からの手紙」を見て、米国側から描いた作品も見なければ不公平だと思い、上映予定を見たら今日が最終日。平日の夜の最終回を見た。映像は共通部分が多い。日本版では殆ど米兵が出て来なかったが、米国版では日本兵が殆ど出て来ない。但し、日本版では省略された日本兵の手りゅう弾での自決の後のシーンが在る。日本版で省略したのは日本人の観客に対する配慮であろう。日本版と違って、上陸直後の海岸での日本軍の攻撃は熾烈で、米軍の苦戦ぶりは「プライベート・ライアン」のオマハ・ビーチに相当する。同じスピルバーグが関係しているからだろう。見えない敵に撃たれてバタバタと米兵が倒れる。どこから銃弾が飛んで来るか分からないという恐怖だ。しかも味方から誤射まで受ける。ストーリー展開は若い3人の兵士を中心にしたもので、すり鉢山を奪い取ったあとで、大隊の司令官が旗を立てろと命じ、それを見た米軍は大いに士気を高めるのだが、海兵隊の指揮官が、その旗を欲しいと言い出した為、大隊司令官は怒って、別の旗の掲揚を命じる。そのシーンをカメラマンが撮影して米国に送ったことから、これがあたかも硫黄島を占領したかのような宣伝にうってつけだと思われ、政治家が国債の宣伝の道具に使おうとする。3名は米国に戻され、米国中をキャラバンし、さまざまなセレモニーに担ぎ出される。しかし、実際に最初の旗を立てたのは彼らではなく、取り替えただけだと言うと、そんなことがばれたら国民がしらけてしまって国債が売れなくなると脅される。取り替えただけの兵士が英雄のように扱われるが、なかでもインディアン出身の兵士が良心の呵責と政府の欺瞞に耐えられず酒に逃避する。戦場では兵士は消耗品、内地では宣伝の道具だ。政治家も軍の上層部も、戦地の実態には関心もなく、兵士の気持ちにもお構いなしだ。戦争には英雄などいない、皆逃げ回っているだけだと兵士が語る。クリント・イーストウッドの怒りがモロに伝わってくるようだ。推薦だが、日本版と同時に見ることが条件。

「硫黄島からの手紙」
クリント・イ−ストウッドが日米双方の側から、硫黄島の決戦を描いた2部作の一つ。製作はイーストウッドだが、日本人が日本語で話、日本人が主役の映画である。小笠原方面の司令官に着任した栗林中将(渡辺謙)の活動を縦軸に、若い兵士(二宮)の戦争と日本軍部の姿勢に対する疑念を横軸として、硫黄島が占領されるまでを描く。2時間半は決して短い時間ではないが、途中で席を立つ者はおそらくいないだろう。イーストウッドは徹底した反戦主義者なので、描くものは戦争の非人間性であり、悲惨さである。画像はトーンを落としモノクロに近い表現にして、戦争の凄惨さをいくらかでも緩和している。従って、砲弾の炸裂する音はリアルであり、戦争のシーンはCGで迫力はあるが、「プライベート・ライアン」のノルマンディー上陸のシーンほどのリアルさ(と凄惨さ)はない。また日本軍は圧倒的に不利な状況に置かれつつも、実際には米軍を徹底的に悩ませたと言う部分の記述も欠落している。食料がなくなり、死体も食料にせざるを得なかった、また地雷を抱えて戦車の下に身を投げたという実話の持つすさまじさにまでは至っていない。但し米軍を善玉として描いていないのはフェアであろう。この映画は、外国人が作った日本の映画としては良く出来ていると思うが、この映画を見た人は、実際に硫黄島の守備隊に起きたことと、大本営という諸悪の根源への正しい理解を、史実から学ぶべきであろう。渡辺はすっかり国際スターになった感があるが、今回の役では若干上滑りな印象も残る。伊原が善玉で、中村獅童が悪役である。私は硫黄島と言うと沖縄の南方という誤ったイメージがあったが、小笠原諸島の一部であり、だからこそ、東京(=皇居)を守るため、守備隊が必死に戦ったのであろう。しかしその抵抗があまりに熾烈で、米軍の損害が大きかったため、米軍は本土上陸前に、東京を空から徹底的に叩いて焼け野原にしたのである。弾薬も食糧も補給しない、ただ死守せよでは極東の某専制国家と同じである。硫黄島の守備隊に撤退と降伏を許していれば、その後の何十万という市民の無駄な犠牲はなかったであろう。原爆投下もなかったかもしれない。国体を守ると言う口実で、国民を自分達の盾に使った政治家や軍部の上層部が、その挙句、神として某神社に祀られるなど、本来なら許すことはできないはずである。映画は推薦とする。最近の若者はあまり物を考えないようだが、たまには考えて欲しい。

「ユナイテッド93」
本論に入る前に、「ブロークン・フラワー」は、中年の独身男ビル・マレーの住まいに差出人のない手紙が届く。実は20歳になる息子がいて、一人で育ててきた言う内容だ。身にはいくらも覚えのあるビルは、米国中に探索の旅に出る。果たして彼は自分の息子に出会えるのだろうか、と言うだけの筋だが、結構最後まで見てしまった。十分に間を取るというか無言のシーンが結構あり、そんあ作りも欧州人が気に入って、カンヌ映画祭の特別賞を与えた原因だろう。独身も良いけれど、人間は基本的に家族を持つべきであると言っているらしい。ついでにリュック・ベッソンのアクション映画「アルティメット」。パリの13街区は無法者が集う犯罪の街であった。これに手を焼いた警察庁長官は凄腕の刑事を送り込む。同時に街で育った男が一人でボスに立ち向かう。ストーリー歯荒唐無稽と言えばそれまで、アクションが見せ場の映画だが、文句抜きで楽しめるのも事実。もはやアクション映画ではハリウッドは完全にお株を奪われた感がある。推薦。ところで本論。やっと最近になって911テロ関連の映画がリリースされ始めた。あまりに生々しい、痛々しい記憶が残る間は、到底映画には出来なかったということだろう。同時多発テロの4機の旅客機の中で、ニューアークから飛立った、このユナイテッド93便だけがが、なすすべもなく貿易センタービルやペンタゴンに突っ込んでいった他の旅客機と違った、際立った特徴があった。それは乗客が団結してテロリストに立ち向かい、途中で墜落こそしたものの、犯人達の目的を遂行させなかったことである。殆ど全員が無名の俳優で、普通の人たちの身に突然降りかかった悲惨な出来事に、ごく一般の人たちがどのように向かったかをドキュメンタリー・タッチで描いている。携帯電話が通じていたので、ある程度の事実は判明しているものの、本当はどのようであったのかは無論分からない。でも仮にそんな境遇におかれたら、この人達の10分の1の勇気でも持てたらと思う。推薦。

「アイス・エイジ2」
今回のマンモス、サーベル・タイガー、なまけものトリオは、氷河期が終わりに近づいて氷が溶け始め、洪水が来る危険性が日増しにつのるという状況から、住み慣れた土地を後に、伝説の大船を探しに旅に出るという想定である。そのストーリーはともかく、このシリーズの準主役はどんぐりを執拗に追うリス(の祖先)であろう。海に落ちたリスをとりまくピラニア(海にいたっけ)の大群にあわやと思いきや、ついにきれたリスは怪魚の群れを相手に獅子奮迅。だけど目を完全に座っている。と思えば、気がついたら巨大なドングリがある場所にワープ。こういうはちゃめちゃな映画も好きなので、一応推薦。しかし生意気を通り越したような哺乳類の子供達はひっぱたきたくなる。「トランスポーター2」ビデオ・リリース

「トランスポータ2」
主役のジェイソン・ステイサムは、ブルース・ウィリスの後継者の面目躍如だ。髪の薄いところまで似ている。今回は上院議員の子供の送迎などという仕事を頼まれたものの、麻薬シンジケートに雇われた殺し屋に誘拐されるというところから始まる。とにかくアクションの連続で、ストレスが溜まっている向きには丁度良かろう。リュック・ベッソンは後味の軽いアクションが得意だ。アリエネーシーンの連続だが、このような映画でリアルさを論じても始まるまい。悪役の女殺し屋にはこれもベッソン好みのガリガリのモデルが登場。全く好みではない。ひたすら楽しむ事を目的にした、うるさい事を言わない人に推薦。

「明日の記憶」
渡辺謙が主演と制作を担当。共演は樋口可南子。冒頭のシーンは2010年の状況から始まるが、ストーリー自体はその6年前、2004年から始まる。最後まで見た人は、是非この冒頭のシーンをもう一度見て頂きたい。広告代理店のやり手の営業部長、渡辺が原因不明の目まいや物忘れを頻発し、医者に見せたらアルツハイマーと診断される。病気の進行を遅らせる為の努力が始まるが、49才という若さなので、進行は速い。一人娘が出来ちゃった婚で結婚式を挙げることになり、挨拶を頼まれるが、原稿を置き忘れてしまう。顧客との会議も忘れて遅刻するなどの出来事が重なり、上司から退職を勧告される。奥さんは病院には入れないで、働きながら自宅で介護しようとする。しかし錯乱した渡辺の言動から、ついに破局の瞬間が訪れる。私も61才。渡辺が演じる49才はとうに過ぎたが、身体が丈夫でも、頭をやられたら人間おしまいで、生きている甲斐がない。しかしこの映画の価値と見どころは、自殺のような安易な解を否定するところにある。渡辺の演技はちょっと過剰気味だが、こういう役柄なら仕方なかろう。中高年はみるべし。病気を部下に告げ口されるなどという企業社会ではありがちなシーンもある。若年にも推薦

「Vフォー・ベンデッタ」
ベンデッタとは血の復讐のことらしいが、ナタリー・ポートマンが坊主頭で頑張る。英国の暗い未来社会を描くSFであるが、圧政に立ち向かう民衆という図式はともかく、ストーリー自体の起伏が少なく、面白い映画とは言い難い。

「レント」
ニューヨークの下街の、家賃(レント)も払えない貧しい若者たちの人生と悲哀を、歌で綴る映画だが、定番の感のあるゲイとエイズが主要なテーマで、日本人としては感情移入はしにくい。出演者の歌唱力があるのは認める。

「トゥー・フォー・ザ・マネー」
トム・クルーズの「エイジェント」も、スポーツ選手の話だし、またそういう時には大体がアメフットの話になる。私は力でおしまくる事が主な仕事のような米フットは今一つ親しみが持てないが、今回のこの映画は、おそらく非合法な賭も行われているであろう米フットの試合の予想屋の話だ。アル・バシーノが経営する予想会社に元米フットの選手、マシュー・マコノビーが入ってくる。全試合予想的中、8割的中等という能力を買われ、会社も本人も業績を延ばす。予想が当たれば歩合をもらうという仕組みだ。大物のギャングも客になる。これは自分の経験から、様々な条件を加味して計算して出した結果ではあったが、その内自信を失い、ついにはコインを投げるようになる。結果はさんざん。その内、パシーノの奥さんとの浮気の噂も出る。関心のない人には地味で退屈な映画かもしれないが、ようはパシーノとマコノビーの演技力を楽しむという事だ。マコノビーは、「コンタクト」で2枚目役をやったときはピンとこなかったが、今回の映画で役者としての成長を確認した。関心のある人にだけという条件付だが推薦。

「ステイ」
サム(ユアン・マクレガー)は精神科医であり、うつ病の若者ヘンリー(ライアン・ゴスリング)を診ることになる。ヘンリーの説明では、彼は両親を殺してしまったので、3日後の土曜日に自殺しなければならないという。一方サムには自殺未遂で画家の恋人(ナオミ・ワッツ)がいた。ヘンリーを診るようになってから、サムの身辺に奇妙なことが起き始める。ヘンリーには未来を予知する能力があるようなのだ。果たしてサムはヘンリーの自殺をくい止めることができるのだろうか。現代の幾何学的なニョーヨ−クを背景に繰り広げられるシュールな映像。観客は途中からちんぷんかんぶんになるが、その謎は最後には解きあかされるであろう。余程鈍くなければだが。果たして何人がこの結末を予測できるだろうか。意外性を買って推薦とする。ステイとは無論、ステイ・ウィズ・ミーという意味だ。

「ミュンヘン」
ミュンヘン・オリンビックで選手を惨殺されたイスラエルが、復讐を誓って一人また一人と刺客を放って暗殺を行うというストーリーで、スピルバーグの映画だからイスラエルよりは仕方ないにしても、主人公も後で言うように、アイヒマンのように逮捕すべきではなかったのか、また選手が射殺されたのもドイツ警察の強引な救出計画が裏目にでたせいではないのかという疑問が残る。テロの虚しさを描いてはいるものの、下手をすると復讐映画で終わってしまいそうなテーマだ。実話だというが、手違いによるヘマや、問題も出てきて、リアルと言えば言えるが、テロにテロで立ち向かう事は正しい方法ではないというメッセージにはなっていない。凄惨なシーンもあり、家族向きではない。後味も極めて悪い。当然推薦ではない。

「スーパーマン リターンズ」
私はスーバーマンの最終回がどうであったか忘れたが、とにかく一度生まれた星に戻っていたという設定らしい。それが再び育ての親の牧場に戻って来た時から話は始まる。無論デイリー・プラネットのクラーク・ケントに復帰する。今回のロイス・レインは既に結婚しており子供もなしている。今までの垢抜けないロイス・レインより、平凡なだけに今回の方が好感が持てる。スーバーマンには世界中で助けを求めるている声が聞こえる。縦横無尽の活躍が始まる。特撮の限界とも思える、墜落する旅客機の救助シーンを見るだけでも価値がある。今回の悪役は、前々回ジーン・ハックマンが演じたレックス・ルーサーが出獄したという想定でケビン・スペイシーだ。北極のスーパーマンの基地から盗みだした水晶を使って大西洋に陸地を作り、自分の王国を作ろうと目論むのであった。新たに大陸が出来れば海の水面が上がって他の大陸は水没するしかない。犠牲者は数知れずだ。特撮はかなり費用が掛かっていそうである。家族向け映画の豪華版というところだ。スーパーマンの孤独を叙情的に描くシーンもある。雑なアクション映画の域は完全に超えているので、推薦。

「男たちの大和」
1985年に鹿児島沖の300メートルの海底に沈没している戦艦大和が確認された。大和は建造してから3年戦ったのみで、最後は燃料を片道だけ積んだ特攻戦艦として使い棄てられる運命にあった。そうした大和に乗り合わせた若者たちの生きざま、死にざまを通じて、太平洋戦争とはなんであったのかを考えさせるという意味で一応成功している。主役は神尾という枕崎出身の水兵。これに下士官として同じ機銃班の班長の中村獅童、まかないの班長の反町隆史がからむ。艦内のいじめとかはどうでもいいが、まずは終戦から60年経った2005年。中村獅童の元班長が最近亡くなったので、その娘(実は養女)の鈴木京香が、大和の沈没場所まで連れて行ってくれそうな船を探していた。皆が尻込みする中で、仲代達也(晩年の神尾)だけが小さい漁船を出す。14時間も荒れた海を行かねばたどりつけない場所である。同行は15才の船乗り志願の少年だけ。しかしこの少年の演技は天才的だ。大和の最後の出撃前日、下士官や水兵達は最後の上陸を思い思いに過ごす。多くは家族との最後の別れだ。最近のCGに慣れた観客には不満なシーンも多いだろう。大和の映像が、主砲周りと機銃座だけというのも物足りない。ハリウッドに作らせたら、もっとなんとかなっていたかもしれない。「亡国のイージス」の方が艦内のシーンはリアルだ。しかしこの映画のテーマは戦艦を賛美する事にあるのではない。戦争と国のために死ぬ、或いは生き恥をさらす事という事がどういう意味かを問うているのである。ところで話変わって靖国参拝の件であるが、国の為に命を捧げた多くの兵士たちを祀る施設があってもそれは当然だろう。但し神道も宗教だから、そこで祀られる事を拒む人もいて当然だ。そういう事もあるので、本来なら無宗教の施設を作るべきである。また太平洋戦争は、中国を日本が侵略し、それに反発した列強諸国が石油を止めるなどして制裁を発動したところから始まったと記憶している。中国の侵略を命じたのは誰だったのか。陸軍の暴走を許す事も結果的には同罪なのではないか。降伏の時機を見誤り、一億総玉砕などと言って、自分達は防空壕に潜んでいたのは誰だったのか。そう言う人達は、まず国の為に死んだのではないのだから、死を悼む事はしても、祀る必要があるのだろうか。まして何百万もの民間人を含む「無用な」犠牲者を出し、その責任は誰にあるというのか。軍人ならもっと潔くあってほしいものだ。国民と国に災禍を与えた責任ははっきりしてもらわねば困る。そしてもう一つ、この映画は米国人も見るべきでをる。あの戦争で、どれだけ日本の国民が苦しんだかを、よく知るが良い。無差別爆撃などと良く言えたものだ。そして一つでも多すぎる原爆が2つである。そんな米国に隷属する事で、なんとか生き延びてきた我々こそ生き恥をさらしているのかもしれない。但し信念の為に命を棄てるという事には、十分に気をつけなければならない。命を粗末にするという事は、えてして他人の命も粗末にする事になるからである。オームや韓国の新興宗教の教祖を見ていると、金儲けには関心が高く、女にすぐ手を出すくせに、信念や信者の為に自分を犠牲にするつもりはさらさらないらしい。それだけを見ても、彼らがいかに偽物であるかが分かる。部下に死んで来いと命じて、自分は責任を取るつもりはない。そういう軍人や指揮官は偽物と言われても仕方があるまい。そうせずに硫黄島で玉砕した司令官こそ本当の軍人であろう。戦後の処理の終わっていない我々に課題は残されている。映画としての出来はともかく、考えさせるという意味で推薦である。

「ゲド戦記」
宮崎アニメも二代目か。でもこれまでのアニメも全部が全部優れものとは言えない。「平成狸合戦ぽんぽこ」しかり「耳をすませば」しかり。ともに私の住む多摩地区を舞台にしたものが外れであったというのは皮肉ではある。私は映画とは、まず第一に面白くなければならないと考える。次はどうなるのだろうと、身を乗り出すような映画でないと見る甲斐がないではないか。でもそれがアクションである必要はない。問題はストーリー(物語)性、舞台なら脚本の出来なのだ。「風邪の谷のナウシカ」と「天空の城ラピュタ」の物語性こそ、この2本を日本映画会の至宝とする理由である。トトロも、魔女宅も、見て面白いが、まあ中身はあまりない。哲学ではないが、ある種の主張は「千と千尋」にもある。・・・が、「もののけ姫」は難解さが原因で、空回りになっていた。「ハウルの動く城」には主張らしきものはない。前置きが長くなった。で「ゲド戦記」だが、主張のみの映画である。だから、子供には退屈だ。原作は読んでいないがこのようなストーリーなら、大作にはならないのではないか。実は最後のタイトルにもあるように、もうひとつ原作がある。「アシュナの旅」という題だと思うが、これは宮崎オリジナルの単行本になっており、私も読んだ。少年が何かを求めて旅をするという話だったと思う。かつて地上は竜と人間が暮らす土地であった。しかしあるとき、自由と光を求めて竜は西の国に去り、安定とは豊かさを求めて人間は東の国に住むようになった。ところが人間の国でしばしば竜の姿が見られるようになった。東の国の国王は善政をしく、優れた王であったが、その王子アレンは、不安と凶暴さと隣り合わせで、心に問題を抱えていた。東の国で疫病がはやり始め、動物から人間に広がり始めた。しかも国の力(運気)が落ち始めていた。アレンは突然、父王を刺し、魔法の剣を奪って逃走する。当方の途中、ハイタカに救われるが、彼は本当の名前をゲドと言い、魔法近いの頂点に立つ、賢人であった。彼は国の力がおちている原因を探す旅に出ていたのであった。最近は魔法使いの力が衰えてきていた。アレンは人買いにさらわれそうになって助けたテルーと再会するが、テルーは固く心を閉ざしていた。人買いなどの悪党達を支配しているのは、やはり魔法使いのクモ(魔女)であり、クモは不死を願って様々な卑劣な手段を使う。この映画のテーマは、人間は不死ではない、でも死があることによって生が一層大事なものになる、死をおそれ、不死を願う事が、人間に不安と陰をもたらすという主張である。こういう主張を学童や幼児に見せても、理解させる事自体無理である。それから、あいかわらず背景というか、風景のシーンは秀逸であるが、人物の描写はTVアニメ以下である。不安や恐怖の表情など見られたものではない。竜の質感も不十分だ。人間は線で輪郭を描いただけのお粗末なもの。これは特にピクサーのアニメなどみると痛感させられる。第一戦争はないし、ゲドも殆ど戦わない。ヒットしそうな主題歌はアカペラでヒロインが5番くらいまで歌うシーンがある。ヒロインを演じる声優が歌っている。アンケートではこの映画はみたい映画のナンパーワンだそうだ。少し考えさせられる映画をみたい、でも絵は下手でも良いという人向けのアニメである。推薦にはしない。なぜならこれは多分ヒットするだろうが、この程度の映画で日本の大衆はいいのだと制作者に思わせたくないからである。

「カーズ」
ピクサーはリアルな質感のアニメを沢山作ってきた。トイ・ストーリーやモンスターズ・インクなどである。その最新版の主役は車である。擬人化は子供なら誰でもやる事だ。木を人に見立てる時は枝が腕だし、車を人に見る時はフロント・グリルが口、ヘッドライトが目という具合である。今回の漫画映画ではフロントグリルの口はそのままだが、目はフロントウィンドウにしている。それだけに表情のつけかたも少し難しいものがある。大袈裟になるのだ。さて、ルート66沿いの街、ラジエター・スプリングスは、街をバイパスする高速道路40号が開通したおかげでさびれた街になってしまっていた。そこにロスのレースに出場する赤いレーシングカー(主人公)が迷い込んで来る。舗装道路を目茶苦茶にしてしまった彼は、街の判事に修復を命じられる。もともとこのレーサー、舞い上がった生意気な若造だった。そこに元弁護士の女性ポルシェ(うーむ、設定が苦しい)、実は元レーサーの判事、フェラーリ以外は認めないタイヤ屋のフィアット等。ここは目をつぶって、とにかく車の国の話だとわかりきるしかない。中でもナイスキャラは、なんといってもさびだらけのレッカー車だ。一番困ったのは、実は吹き替え版しか上映していない事だった。英語版の声優には著名なスターが顔を揃えてジョークをかますのが、楽しみだったのにそれがない。だったら字幕がなくてもいいから原語でみたいところだが、そもそもそんな日本人こそ少ないのだろう。そこで初めてお子さん達と並んで見る、漫画の吹き替え版となった。ひとつ驚いたのは、映像に出てくる、新聞記事、TV画面、そしてトロフィーの刻印など、完全に日本語になっている事だ。しかし後で気がついた。デジタル映像ならそれも容易に変更が出来るはずだ。パソコンのワープロ処理と同じ原理なのだから。でもやはり、遠くに広がる風景シーン、荒野に伸びるハイウェイ等、期待通りの映像の出来ばえで、これを見るだけでも価値がある。アニメはコンピュータ・グラフィックスの力を借りて、ここまで進歩してきたのだ。田舎のさびれた街で、1週間ほど滞在する間に、この若者(車だ、もう一度言うけれど)は大切なものを学ぶのである。・・・とまあ、当然ハッピーエンドだけど、2時間を超える映画は子供には少しきつそうだ。でも、エンドタイトルが始まっても、席を立ってはならない。楽屋落ちの場面が次々に出てくるからだ。アメリカ人なら家族で揃って見るだろう。でも日本では大人は基本的に漫画は見ない。そのくせ、電車の中ではレベルの低い劇画を読みふけっているのであるが。取りあえず推薦。但し対象が難しい。米国の漫画を理解出来る人向けとでも言おうか。いや今や私もご同輩の仲間入りをした高年者達が孫を連れて見に行くのに丁度良い映画なのかもしれない。

「クラッシュ」
アカデミー賞作品賞受賞作品。クラッシュとは当然の如く車の衝突事故のことであり、米国では日常茶飯事である。話の発端はLAで数台を巻き込む玉突き事故があり、黒人の刑事(ドン・チードル)が現場を訪れるところから始まる。しかしこの事故は、一人の刑事が(多分悪徳)捜査官に発砲したことが原因だった。黒人票を気にする白人の検事にブレンダン・フレイザー、その我が儘な妻(これも人種差別主義)にサンドラ・ブロック。しかし彼らがこの映画の主役ではない。主役は人種差別の意識である。さまざまな人種の様々な職業(自動車泥棒を職業と呼べるならだが)が入り乱れ、字幕なしで見たら絶対に理解できないだろう。物語のひとつの筋は自動車泥棒の黒人の若者2名である。またもうひとつは、車を制止されて、警官に妻のからだを触られても何も言えなかった黒人の映画監督とその妻である。またしょっちゅう強盗に入られるペルシャ人の家族という設定もある。LA警察を軸にさまざまな人生の断片が時に重なり合い、時に別個に進行する。こんな映画でハッピーエンドが可能なのかと思う。自分でも人種差別論者だと豪語するLA警察のベテラン警官にマット・ディロン。しかしストーリーを詳しく説明すれば却って興趣をそぐので、現物をみていただくしかあるまい。以前似たような設定で、スティーブ・マーチンが出ていたLAストーリーという映画があったが、こちらの方が良くまとまっている。今なお米国で根を張る人種差別に正面から取り組み、クールに描いている。もうほんの少しの理性さえあれば、悲劇を回避できたのにという印象を持つが、日本も段々そういう傾向が強くなり、老若男女を問わず切れやすい連中が増えている。他人事ではないのだ。クリスマスの2日間に起きた、クラッシュで始まり、クラッシュで終わる映画。特選。

「パイレーツ・オブ・カリビアン、デッドマンズ・チェスト」
前作ではジョニー・デップが、眼に黒い隈取りをして、善とも悪ともつかない悪党(やはりワルか)の船長を演じており、その怪しい演技が話題になり、あわやアカデミー賞候補かと思われたこともある。その怪演が見たくて、プレミアショウに脚を運んだのだが、結論から言って、今回は外れかなというところだ。デップ演じるジャック・スパロー船長に変わりはないが、ストリーの仕立てが良く判らないのである。ディビィ・ジョーンズという海底の闇の世界を支配する、幽霊船フライング・ダッチマンの船長に、スパローは借りがあるらしい。左手にしょっちゅう証文代わりの黒い斑点が現れる。その約束とは13年間ブラック・パール号を自由にしたら後100年はフライイング・ダッチマンで奴隷奉公をしなくてはならないとかそんなことらしい。海底から潜水艦の急浮上よろしく幽霊船が出現するシーンはともかくとして、ジョーンズにも弱みがあった。それは自分のゆかりの品物(?)を納めたチェスト(引き出し、衣装箱)を無人島に埋めてあるのだが、それを奪われると困るからである。しかもジョーンズは超巨大タコ、クラーケンを操って、船を次々に沈めている。一方ウィル(オーランド・ブルーム=ロード・オブ・ザ・リング)を捕らえた植民の新総督は、命と引き換えにスパローからコンパスを奪えと命じる。この魔法のコンパスは叩くだけで行きたい場所の方向を指し示すのである。後はひっちゃかめっちゃかだ。前総督などというものまで現れて、ついには3人が水車の上で互いに剣劇するというおまけまでつく。タコがしつこく何回も何回も出てくるは、海賊どうしの死闘もあるは、原住民に追いかけられるはで、アクションの連続の割には2時間半が長く感じられる。映画にとって、次はどうなるだろうという期待が一番大事だが、なぜかこの映画は、後は好きなようにしてくれという気分になるから不思議だ。しかも「さらばスパロー」等という思わせぶりな副タイトルさえついている。結論は非推薦。脚本の失敗。後で前作を見返してみたら、そちらの方が余程面白かった。しかしこの前作の中で、ジャックが、宝の洞窟で靴ひもの船長と剣劇をするシーンがあるがで、満月に照らされたジャックが一瞬ゾンビに見えたような気がするのだが、何故だろうか。下記は公式サイトである。

「MI3」
トム・クルーズ主演のアクション映画。MI1もMI2もぱっとしなかったので、あまり見る気はなかったが、勤務先でお触れが回っていたので、機会を捕らえて見ることにした。イーサン・ハント(トム・クルーズ)がバチカンに忍び込む時に使う黄色いバンが動機である。以前トム・ハンクス主演の無人島漂流映画「キャストアウェイ」で、フェデックスの飛行機が使われたのと対照的だが、宣伝はフェデックスの方が念入りだった。今回は単にトラックが使われたというだけのことてある。ミッション・インポシブルと言えば、あのラロ・シフリンのテーマ曲に載って、ダイナマイトの導火線が燃えて行くシーンがあまりに有名だ。TVが未だモノクロの時代に一生懸命見た記憶がある。「お早う、フェルプス君・・・このテープは自動的に消滅する」という例の奴だが、変装の名人マ-チン・ランドー、電子気機器のエキスパート、力持ちのレスラーに、美人(この女優の名前は忘れたらが、かなりも色っぽかったように記憶している)という設定だったが、この映画では有能なエージェント達が活躍はするが特に分業という形ではないようだ。今回はなんと所属する組織名が明らかにさる。IMFと言っても国際協力基金ではない。インポッシブル・ミッション・フォースである。ぎゃっである。テロリストに武器を売って荒稼ぎする男(アカデミー賞受賞のホフマン)を追跡していた女性エージェントが捕らえられ、救出に向かうものの頭に仕込まれたマイクロ爆弾で殺害される。リアルな死体が2回登場するが一度で良い。一方最近結婚したばかりのイーサンを中心に、黒幕をバチカンで誘拐するという大胆な計画が実行される。トム・クルーズの独り舞台で、とてもじゃないが人間では不可能な離れ業の連続だ。話変わって、場所も上海に変わって、謎の危険物質「兎の脚」を48時間以内に奪わないと新妻の命が危ない。おそらくふんだんに資金を投入したのでだろうが、迫力は十分。でももうちょっと画像をきれいに撮ってほしかった。見ていて飽きないことは事実で、これは映画における最大の評価ポイントである。従って一応推薦であり、今までのMIの中では一番良い。しかし、なんでこんな略号が生まれたのだろう。多分「T2」(ターミネイター2)あたりが原点だろう。なおアクション映画では必ずコミカルなシーンがあるが、今回はそれは全くない。

「シン・シティー」
ブルース・ウィリスの主演で、悪徳がはびこる街で老刑事が一人で巨悪に立ち向かうというストーリーだけならどうということはないが、私は読んだことはないが、米国のアダルト向けの過激な漫画を映画化した作品ではないかと思う。仁義も歯止めもない血みどろの残酷なシーンの連続なので、殆どがモノクロのシーンである。一応勧善懲悪ではあるし、ハッピーエンド(こういうのってハッビーエンドって言うのだろうか。単なる報復じゃないのか)を目指してはいるが、なにしろシーンの残酷さは、とても子供には見せらるようなものではない。無論ヌードもある。完全に成人映画、それも映画なんぞに左右されない自制心の旺盛な成人向けの映画だ。ではなぜ、非推薦にしないのかというと単純な理由。ひいきのミッキー・ロークが久しぶりに出演しているからだ。最初は判らなかったが、声と目つきで判った。極端なメークをしており、もともと小柄な彼が大男に化けている。こういう映画が頽廃的な映画と言うのだろう。それでも最後まで見てしまうのが、映画の麻薬的な怖さである。映画を余程見慣れた人以外にはお勧めは全く出来ない。

「喜びを歌に乗せて」
指揮者として成功した男が故郷の村に戻って、合唱隊を組織する映画だが、驚くのは外国人と我々モンスーン地帯の東洋人との価値観の違いである。これだから他国の人を理解するのは難しい。真面目な映画だが、結末はあまり納得できない。

「ナイト・オブ・ザ・スカイ」
珍しいフランスの航空映画である。登場する戦闘機は当然ながらミラージュ。しかしあの三角翼機はどう見ても不安定だ。いかにも軽いラテンの戦闘機パイロットが活躍するのだが、空撮札のシーンが美しいのは特筆したい。シーンの美しさにこだわるのはいささか古いが「風船旅行」以来のフランス映画の伝統的美点である。メカ的には、既に引退した空母クレマンソーを主役にした「頭上の敵」を思わせるが、こんな映画、誰も知らないだろうな。戦闘機ファンには、推薦はしないまでも、見るのも止めはしない。

「ダイヤモンド・イン・バラダイス」
ピアース・プロズナンは007役をしばらくやっていたが、今回は腕の立つ大泥棒だ。巨大なダイヤをまんまと盗み、FBIに追われる身の上である。カリブの島で引退生活をしていたが、そこに豪華客船がやってきて、もうひとつのタイヤを展示するという。食指が動かぬはずはない。こういうアクション・コメディーだと、えてして荒唐無稽になり勝ちだが、ある程度シーンもリアルに撮影しているので、嘘くささが少なくなっている。コミカルなアクション映画というのは多分一番楽し塗る映画のジャンルのひとつかもしれない。推薦。

「ポセイドン」
リメイクがうまく行く例は少ない。「荒野の7人」がその悪い例だし、そもそもパニック映画の古典「ポセイドン・アドベンチャー」にも本来ありえネェー2や3が作られたが、そのどちらも駄作であった。なんで2と3が出来たかというと、ポセイドン号がまだ船腹を上にして浮いていたからで、財宝などを狙う輩がもぐり込む余地があったからである。果たして今回のポセイドン号でそれが出来るだろうか。海難事故をテーマにした映画としてはタイタニックをしのぐ映画は当分できないだろうと思っていたのが浅はかであった。映画の技術はどんどん進歩しているのだ。超豪華客船、浮かぶ4星ホテルのポセイドン号に乗り合わせたのは、元NY市長の親子、親はカート・ラッセル、娘は「オペラ座の怪人」のエミー・ロッサム(今回はあまり可愛くはないぞ)だ。そこにからむのがギャンブラー(まだそんな職業があったとは)、船舶技師でゲイの年寄り、リチャード・ドレファス(なんという無理な設定だ)。ほぼ密航に等しいヒスパニック系の娘、そして前回同様子供連れの母親だ。余計な前置きはあまりなく、船の高さをしのく突然の高波に襲われる。津波なら警報があるはずだが、そうではないので警報はない。操縦室では必死に船の向きを変えようとするが当然の如く間に合わない。そう言えば、「ポセイドン・アドベンチャー」の時の船長は、レスリー・ニールセンだった。とにかく大晦日の夜中のバーティーの真っ最中に船は180度ひっくり返り、多くの犠牲者が出る。それでもなんとか浮いている。しかし技師によれば逆様になって浮いていられる船などないという。賭博士を先頭にした脱出組と、船長が指揮する全滅予定の居残り組に分かれる。船内からの脱出という点では同じだが、道具立ては全く違うし、特撮のレベルも全然違う。ようするにリアルだ。しかも論理的に脱出路が説明されている。片時も目を話せないという意味では、よくできたパニック映画と言えるだろう。脱出は当然の如く難儀を究め、犠牲者も出る。ハラハラ・ドキドキしたい人には一押しの映画である。カート・ラッセルが元消防士で、人命救助から市長になったという説明にはニヤリとする人もいるだろう。バックドラフトの消防士を想い出すからである。オリジナルの方が良いのは、「ザ・モーニング・アフター」の名主題歌があったことと、ジーン・ハックマンがいたことである。但し「ポセイドン・アドベンチャー」が今でも名作であることに変わりはない。

「3丁目の夕日」
原題についているAlwaysとはどういう意味でつけたのか分からない。Alwaysというと、私はリチャード・ドレファスとホリー・ハンターの山岳消防隊の映画(LDで所有。但し英語版)を思い出すだけである。原作は西岸(さいがん)良平のビッグ・コミックの漫画であり、私はその第一作を新入社員当時に読んだ記憶がある。アクションとスボーツばかりの漫画雑誌の中で唯一アト・ホームな漫画だった。やけに顔が大きくて丸っこい絵だったと記憶している。結論から言って、この映画はお勧めだ。主役の吉岡も、堤も明らかに演技過剰だが、二人の子役が相当に良い味を出している。とくに指輪のシーンは見どころだ。昔も今を人の心は変わらない。だからAlwaysなのだろう。人が人間らしさを失ったが故に連続して起きている酷たらしい事件をみるにつけ、今こそ、人間らしさを見直しす時に来ているのかもしれない。

「スタンド・アップ」
イリノイの鉱山で働く女性従業員に対するセクハラに対して、一人の女性の会社に対する訴訟の実話を描く。今から思えば恐るべきアナクロな話だが、結局今のような男女同権の米国も、こういう戦いがあって初めて出来上がったのだかと思わせる。主演のシャーリーズ・セロンの演技力は万全で、既に彼女はオスカーを別の映画で手にしているが、今回も候補となった。見ておいた方が良い映画ではあるが、刺激もそれなりに強く、家族向きではない。

「ウォーク・ザ・ライン」
主演女優賞作品。これはジョニー・キャシッュと、ジューン・カータ−の半生の実話であるが、ジューン役のリーザ・ウィザースプーンがプロ波に歌っているのがたしかに凄いと言えば言える。演技的にはセロンの方が上だとは思うが、本も木の歌手と言っても通用しそうだ。但し、ジョニー役のホアキン・フェニックスは元々、感じが暗い(「グラディエ−ター」の敵役)し、おそらくジョニー・キャッシュ本人もそうなのだろうが、とても感情移入できる相手ではない。60年代の歌が好きな人以外にはお勧めしかねる。たまたまた我が家にも、キャッシュが歌う題名となった曲のCDがあるが、なぜヒットしたのか正直言って良く分からない。

「ダヴィンチ・コード」
既に本がベストセラーになっているし、いまさら粗筋を隠しても始まらない。実在のルーブル美術館長、ソニエ-ルが、記号の解読を依頼した相手はハーバードの記号学の教授トム・ハンクスだった。面会予定の日に、ソニエールは何者かに射殺される。しかし彼は奇怪な方法でハンクスにメッセージを残したのだ。それはレオナルド・ダウィンチの作品が謎を解く鍵になる事を暗示するものであった。殺人の容疑者として追われる事になったハンクスに、パリ警察の女刑事ソフィーが助けを手をさしのべるが、彼女はソニエールの孫娘でもあった。ソニエールは秘密結社シオン修道院の総長であり、ある重大な秘密を守る事を目的とした修道院の幹部4名が次々に殺される。指令したのは、カソリックの極端な一派であり、手を下したのは狂信的な修道僧だった。警察の手を逃れながら、ダヴィンチが残したメッセージを追うハンクス等は、イギリスのテンプル騎士団が葬られている寺院に向かう。ダヴィンチの名画、最後の晩餐に描かれている謎の実物とは誰か。また描かれていてしかるべき聖杯がないのはどういう訳なのか。ハンクスは暗号を解読して、聖杯にたどり着けるのか。ジャン・レノが、ハンクスを付け狙うパリ警察の刑事役で、今回は悪役かと思えばそうでもなかった。3時間に及ぶ大作だが、原作を読んでいると、それでも省略さされている部分があることに気がつく。どらかといえばやはり本を読むべきだろう。しかし人間イエス、その方がどれだけ我々現代人に受け入れやすい概念であることか。また実際にマグダラのマリアの子孫を祀っている教会も南仏にはあるという。遠藤周作の「沈黙」を含む3部作を読んでいれば、受け入れ易い仮説だ。キリスト教のことはよく分からないが、三位一体という概念がまず一番分かりにくく、それはそもそも論理に無理があるからではないか。またそこには教会に都合の良い論理がないと断言できないのではないか。政治と結びついたとき、どんな宗教もおかしくなる。キリスト教会といえども例外ではあるまい。博愛主義を棄てて、非道と弾圧に走る。異端審問しかり、十字軍しかり。それをいえば、殺人を是認するイスラム原理主義も、もはや宗教とは呼べない。2000年前に、民衆を救おうとした一人の人間(予言者)がいた。秘蹟も行ったであろう。超能力は現代でもいくらでもある。そして今でも人々は、彼の教えをよしとするが故に、彼を慕い尊敬する。それだけで十分ではないか。

「チキン・リトル」
最近本当にロクな映画がない。ビデオ・リリースになった「蝉しぐれ」でも見るしかないが、このアニメはそれなりに楽しめる。チキンといえば、米国の子供が弱虫をからかうときの言葉だが、主人公のひよこはお父さん鶏(雄鳥か)と一緒に暮らしているが、なんとか皆に認められたいと思っている。丁度野球の試合があり、いつも三振するチキンはついにヒットを打つ。めげないで努力すれば、道を開けるという単純な話だが、こういうほのぼのした映画が最近少ないので、アニメでも推薦にしたくなる。空が落ちてくると騒いだというのは童話のテーマだが、実は本当に空から振って来たカケラがあり、それはUFOの窓だった。さて、地球のピンチにチキン達はどう立ち向かうのだろうか。人(鳥)の良いお父さん鳥のキャラが、いかにも米国の庶民にありそうなキャラで面白かった。

「プロデューサーズ」
ブロードウェイのメガヒット、トニー賞総嘗め、チケットも半年先まで買えないというミュージカルの映画化。確か日本の舞台でも上演されたはずだ。ネイサン・レイン、マシュー・ブロデリックという舞台のオリジナルキャストで、頭の弱い金髪美人にはこともあろうにあの武闘派、キル・ビルのユマ・サーマン。背が高いということが多分採用された大きな理由だろう。米国の映画俳優は、芝居やミュージカルに出たがるが、一つには彼らには歌って踊る才能があるからだ。これはまじめな芝居しか知らない、日本の俳優との大きな差である。マックス(レイン)は最近、新作のミュージカルを手がけたが、往年の栄光はもはやなく、初日で打ち止めになる始末。おばあさん達をたぶらかして、小切手を巻き上げて、なんとか生活している。そこに堅物の会計士リオ(ブロデリック)が現れる。彼が事務所の帳簿を見ると、ミュージカルがヒットした時より、ヒットしない時の方が実入りが多いことを発見する。マックスはリオを口説いて一緒にヒットしないミュージカルで一稼ぎしようと誘う。何しろ当たると困るので、最低の脚本を選ぶ。それは「春の日のヒトラー」というナチ・オタクが書いた本だった。これにゲイの演出家をかませ、失敗間違いないと思っていたのだが・・・。作詞、作曲がメル・ブルックスというのでまず驚き。あの渋いコメディアンにこんな才能があったのか。歌も結構聞けるものが多いからである。内容はドタバタとは言わないがドンチャンした内容で、汚い言葉も飛び交う。直感的に日本ではヒットしないかも知れないと思った。現地で相当ミュージカルを見た経験がないとついていけないセンスかもしれない。しかし、現地で散々苦労した身としては、字幕があるというのは本当にありがたい。リチャード・ギアが踊った「シカゴ」を見た人なら、問題なく受け入れらるだろう。推薦。但しミュージカルが分かる人向け。軽妙なセリフのやり取りを見る(聞く)だけも楽しい。プロデューサーズと複数形なのは、マックとリオの二人ともプロデューサーになるからである。

「ナルニア国物語、ライオンと魔女」
キャロル・ルイスの7部作からなる長編物語の初の映画化。第二次大戦が熾烈を極め、ドイツ軍機のロンドン空襲が激しさを増している頃、4人兄弟が郊外に疎開する。疎開先は哲学教授の広大な屋敷だ。この教授はキャロル自身のことを描いているようにも思える。広大な屋敷でかくれんぼをしている内に、幼い妹は隠れた衣装ダンスのコートの奥に雪一面の世界が広がっているのを見る。最初は信じなかった兄、姉もこの世界についに足を踏み入れる事となる。この世界はと魔法の世界。ドワーフやゴーレム、ケンタウロスの住む世界だ。ナルニア国(発音はナ−ニア)と呼ばれ、魔女が女王として政治で支配してからというもの、100年間冬が続いている。人間が来ると、彼らがこの国の王となるという予言があり、魔女はそれを警戒している。一方反乱軍は着々と準備を進めており、そのリーダーはライオンである。ビーバーや、狼や、ライオンが話をするシーンは実写と見まごう。特撮がここまで進歩して初めて可能になった映画かもしれない。2時間半はそれ程長くない。「ハリー・ポッター」と「ロード・オブ・ザ・リング」だけが英国の幻想映画ではないということだ。ファミリー映画だし、魔女に負けると石にされてしまうので流血シーンは少ない。一応推薦。

「コープス・ブライド」
ティム・バートンといえば、幻想的な映画やホラーを得意としていて、「エドワード・シザーハンズ」、「スリーピー・ホロー」、「ビッグ・フィッシュ」等があるが、アニメの「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」にはちょっとつていけない印象だった。このアニメも同じような趣向かと覚悟して見たが、確かに死後の地下の世界がテーマにはなっているが、もっと楽しく(?)出来ている。最後は少しホロリとするシーンもあり。ファミリー向けとして一応お勧め。

「ステルス」
近未来の戦闘機乗りと、更に進化した完全無人機とのつばぜり合いだが、無人機の人工頭脳が自分で判断するようになり、自分で勝手に標的を選んで攻撃しちゃうというのだから、困ったものだ。一方、有人のステルス戦闘機も、作戦行動中に、女性飛行士の戦闘機が事もあろうに北朝鮮に墜落してしまう。果たして彼女は脱出できるのか。とまあそんな話だが、戦闘機が飛び回る特撮もあり、荒唐無稽は分かっているが、それなりに楽しめる。

「イン・トゥ・ザ・サン」
スティーブン・セガールが、第二の故郷である日本を舞台に、やくざ相手に日本刀を振り回すという映画。どちらかというと山田洋二の時代劇より、香港や韓国の映画の影響が強い。日本人も多数出演し、寺尾聡も出ている。コロッケがコメディアン役で鼻をほじるシーンは頂けない。日本の風景をありのままに収録しているという点では「ラスト・サムライ」(なんだ、あの横浜港は)よりましだが、流血シーンが多すぎる事、ストーリーらしいストーリーがないので非推薦とする。

「マグニフィセント・フォー」
宇宙ステーションで強力な宇宙線を浴びた4名が、怪力人間、透明人間、ゴム人間(!)、火の玉人間になるという設定で、無論漫画がもとだ。荒唐無稽さに文句をつけるのは野暮というものだろう。善玉、悪玉に分かれての超能力比べという、分かり易い筋書きなので、暇つぶしに困ったらどうぞ。しかしマグニフィセントとくれば、こちとら、マグニフィセント・セブン(ユル・ブリンナー主演「荒野の7人」)の時代の人間だ。

「ハイド・アンド・シーク」
デ・ニーロが複雑な性格の精神科医を演じるということで終わってしまうきらいのある映画で、「シックス・センス」にも、「アザース」にも、「ビレッジ」にも、意外性では及ばないような気がする。

「釣りバカ日誌16」
初めて見たこのシリーズ。実は以前漫画週刊誌で原作を読んでいた。今回は沖縄で知り合ったボビーの軍艦に乗ってハワイにまで行ってしまうという想定だが、脚本に山田洋二が加わって入るのを見て、なるほどと思った。寅さん風の古いギャグ満載なのだ。しかし、漫画のハマサキは、スーさんこと鈴木社長に一応の礼儀を尽くす良識あるヒラ社員だが、この西田演じる主人公は、キャラのつかみどころがない。肝心の釣りに関しても、あまり思い入れが感じられない。という訳で、原作を読むことを勧めたほうが良さそうだ。

「単騎、千里を走る」
チャン・イーモウ(英雄、ラバース等)が高倉健に惚れ込んで作った映画。漁師のケンさんは、奥さんを亡くした時にそばにいなったことが原因で息子に愛想をつかされ、一人住まいだ。息子は結婚して東京に住んでいるが、息子の奥さんから、息子が入院したという電話が入る。ケンさんは見舞いに駆けつけるが息子(中井貴一が声だけ出演)は会おうとはしない。息子は中国で仮面劇の取材をしており、ただ一つ名人の「単騎、千里を走る」という舞と歌だけは収録できなかったことを残念に思っているという話を、奥さんから聞いたケンさんは、急遽、中国に旅立つ。通訳を交えて、名人のいる村を訪ねるが、本人は傷害事件で服役中だという。通訳には断られるが、外事局に頼み込み、刑務所に撮影の許可を申し込む。名人には会えたものの、ご本人は遠地にいる子供に会いたくて歌どころではないと泣き出す始末。ケンさんは、時間もないのでやむなくその息子を連れに辺鄙な村に向かうのであった。ケンさんキャラそのままという感覚の映画だが、ケンさんも年を取った。ケイタイが大活躍。名人がハナミズたらすシーンなどどうかと思う部分もあるが、基本的に人間の善意をテーマにした映画であり。泣かせる場面はチャン・イーモウも心得ている。手放しで推薦するほどではないが、見て損はしないだろう。

「ミスター・アンド・ミセス・スミス」
面白いといううわさを聞いて見に行く気になったが、どうやらそう言った人はアクション映画を見慣れていない人だったようだ。要するに、ブラッド・ピットも、アンジェリーナ・ジョリーも、秘密組織の殺し屋で(ジョリーは300人以上を消している)、お互いに正体を知らずに一目ぼれで結婚はして見たもの、ある時、共通の標的を狙うという事態になり、お互いの正体を知ることとなった。そこで仕事が大事な二人は、お互いを殺そうとつけ狙うが、裏の裏を読んで攻撃をかわしたり、いざという時にもなかなか踏み切れなかったりしている。そのうち双方の組織が、二人とも抹殺してしまおうと動き始めるのであった。見所は撃ち合いとカーチェイス。ストーリーは単純なアクション映画であり、お気に入りのスターが出ているというだけで見るのを、妨げる理由もなさそうである。

「シンデレラマン」 
ラッセル・クロウ(グラデイエンター)が伝説のボクサー、ジム・ブラドックに扮して、リングの上で叩く。最盛期を過ぎ、大恐慌のさなか、生活保護を受けるまでになったが、再起を果たす。共演はレネー・ゼルウィガー(ブリジット・ジョーンズの日記、コールド・マウンテン等)。大恐慌で、米国民ノ気持が落ち込んでいる時に、国民の勇気を引き出したとして有名なボクサーだそうである。アカデミー賞候補。家族で見ても問題はない。

「ハリー・ポッター、炎のゴブレット」
今回の作品は批評が難しい。俳優が年を取り、御伽噺の主人公は難しくなりつつあるということも、背景にあるのかもしれない。今回はついに劇中で犠牲者も出るし、もはや子供向けの映画ではない。事実、劇場でも子供が飽きてしうという雰囲気があった。さて、世界の3大魔法学校(アイルランド、フランス、ブルガリア)同士が対決するという競技会が開催される。参加できるのは各校1名である。それも年齢制限があり17歳以上だ。ハリー・ポッターは14歳(見た目はハイティーンにしか見えないが)で、当然応募の資格はない。ところが誰の差し金か、知らないうちに応募され、4人目の挑戦者として選ばれてしまう。この競技会は危険が伴い、命掛けの競技で知られている。勝ち残れば最大の名誉だ。3種類の最初の競技は、それぞれが選んだドラゴン(当然だが、火を吹き、空を飛ぶ)が守る、卵型の容器を奪うことだ。ハリーは空を飛ぶことは得意なので、善戦するが、危機一髪である。全体を通して、このシーンが一番見ごたえがある。そしてゲームが進むにつれ、なぜハリーが参加させられたかが明らかになる。そこには暗いストーリーがあり、この辺は大人向けだ。これまでこのシリーズを見てきた人は今回も見ないわけにはいかないだろう。しかし長すぎる。特にダンス・パーティーのシーンは全く不要である。ぎこちないティーンズのラブシーンも、見ていて楽しくない。マニア向けの映画なので推薦とはしない。なお来年3月公開予定の、ルイス・キャロル原作の「オルニア国物語」がどんな映画になるのか、気になるところだ。果たして「ロード・オブ・ザ・リング」を超えられるのかどうか。なおゴブレットとは杯の意味だが、ここでは投票の為に設置される花瓶大の杯蛾登場するだけで、ストーリー上では殆ど意味はない。

「ミリオンダラー・ベイビー」
アカデミー賞4部門受賞作品。予告編を見た限りでは、女性ボクサーの成功物語であるが、話はそう簡単ではない。フランキー・ダン(クリント・イーストウッド)は二流のボクシングジムの経営者兼トレーナーである。但しマネージャーとしては一流とはいえない。モーガン・フリーマンはかつてフランキーが育てたボクサーであるが、タイトルマッチを急ぎ過ぎた為、片目を失明して、今はジムの使用人として働いている。最近もフランキーが手塩に掛けて育てボクサーが、タイトル戦に固執したばかりに、恩を忘れてフランキーの元を去った。しかしフランキーのトレーナーとしての腕前は一流である。マギー(ヒラリー・スワンク)は貧しい家で育ち、13歳の時からウェイレスとして働き続け、ろくな教育も受けていない。今年31歳の彼女の夢は、女子ボクサーになることだ。フランキーの訓練を受けようと粘るが、すげなく断られる。フリーマンがとりなして、結局彼女は訓練を受けることになり、厳しい練習と持ち前の才能で、必ず1ラウンドでノックアウトするボクサーに成長することが出来た。そして待ちに待ったタイトル戦に臨む。相手は反則をいとわない、汚い試合で知られる相手だ。ということで、その後はここで書くわけにはいかないので、ビデオをレンタルして、なぜこの映画が受賞したのかを自分の目で確かめて頂きたい。最近これという映画がなかったので特選としておく。この機会にどういう生き方が本当の人生なのか、考え直して見るのも悪くはないだろう。

「シャル・ウィ・ダンス」
言わずと知れた、邦画のリメイク版洋画である、役所広司の演じた倦怠期のサラリーマンにリチャ−ド・ギア、草刈民代のダンサーにジェニファー・ロペス。ギアは離婚訴訟専門の弁護士で、弁護士でも地味な分野だ。奥さん(スーザン・サランドン=私の贔屓の女優の一人)との間にも問題はない。しかし人生に退屈したギアは、窓辺に立たずむロペスを見て、衝動的にダンス教室に入ってしまう。場所がシカゴという設定でなるほどと思う。ニューユークの地下鉄では外は見えないし、郊外電車はダンス教室の横など通らない。シカゴの高架電車が使われたのもむべなるかなである。ジャズダンズやブレークダンスの国、米国でもダンス(ソシアル・ダンスとは言わない、ボールルーム・ダンスである)はあるし、アステア・ロジャースを引き合いに出すまでもないが、今や社交ダンスは英国が本場ということになっているらしい。しかし、「シャル・ウィ・ダンス」の曲が流れると、ダンス教師が、主演はユル・ブリンナーで等と、とうとうと語り始めるが、まーしゃーないわな。もともと米国はハリウッドの映画だし、その前はブロードウェイの舞台ミュージカルだったんだから。ほぼ完全に日本の映画をなぞっているが、バレリーナだった草刈の持つ凛とした気品を、ロペスに求めるのは無理というものだろう。ギアとの心の交流にももっとしっとりしたムードが欲しいが、米国映画としては抑えた表現になっている。脇役も原作にかなり近い設定だ。但し文化の違いが一番出てくるのが夫婦の関係で、米国は完全な女性上位、亭主はあくまで低姿勢だ。日本の亭主関白は通じない。すぐに殺しだ、汚いセりフの応酬だという米国映画界にあって、こういう映画があってもいいじゃないかと思わせる。原作を大事にしてくれた監督にお礼を言いたいところだ。一応推薦。

「蝉しぐれ」
「たそがれ清兵近衛」、「隠し剣、鬼の爪」に続く、藤沢周平作品の3作目だが、今回の監督は山田洋二ではない。今回は強い山形弁はないものの、山形の庄内地方が舞台である。東北の小藩の、お家騒動に巻き込まれた下級武士の生き様を描く。牧助佐衛門(緒方拳)は普請組として、出水の時も農地を守り、農民の信頼も厚かった。一人息子の文四郎(市川染五郎)は、剣術の稽古に励み、免許皆伝になる。隣家の娘、ふくは同じく下級武士の娘であるが、文四郎に想いを寄せている。おりしも助佐衛門が藩の詮議を受け、身柄を拘束される。これは藩主の後継者争いに巻き込まれたがためで、結局詰め腹を切らされてしまう。ふくは江戸屋敷に奉公に上がることになり、藩主の側室になる。しかし他の側室と結託し、かつて文四郎の父親を死に追いやった筆頭家老が、今度は文四郎に誘いを掛けて来た。文四郎の幼馴染で、同じ道場仲間に、なんとふかわりょうと今田耕治が出演している。どうなることかと思たが、意外にバランスがとれていた。関西弁でも出たらぶち壊しに成るところだった。もともと染五郎自身、あまり強力なキャラではない。脇役をしっかり固めたのが正解で、なかでも緒方拳はさすがの演技力で、他を圧倒している。「鬼の爪」では悪家老だったのだから、今回の善良な武士の役作りと比較して見るのも興味深い。斬り合いのシーンは一応リアルには描いているが、鬼の爪の方がむしろ残酷な印象が強い。全体的に間の取り方が長く、冗長に感じる部分も少なくないが、東北の自然を準主役に据えているので、間が多いのも仕方がない野かもしれない。余韻を大事にすると言う姿勢に好感を持つべきだろう。宮沢りえ、松たか子と来て、今度のヒロインは木村佳乃だが、あまり派手な美人でないところが、返って適役かもしれない。推薦。

「ビヨンド・ザ・シー」
ケビン・スペイシー(「LAコンフィデンシャル」、「ペイ・イット・フォワード」)監督、製作、主演のボビー・ダーリンの一生の映画化である。スペイシーが歌い、踊るという思いがけない設定の映画であるが、ハリウッドのスターには歌えて踊れて、ミュージカルの舞台も勤められる人材が多いので、こういう設定もありなのだろうが、本人がどこまでやれるかと言う心配が残る。しかし「レイ」でも主演男優は自分でレイ・チャールスのナンバーを歌っていたし、いまどきクチパクの映画と言うのはむしろ少ないのかもしれない。最初に登場するのはおなじみ「マック・ザ・ナイフ」だ。かなりの曲数をこなすが、一応無難である。「ビヨンド・ザ・シー」は「ラ・メール」の英語版で、この映画の題名にもなっている曲だ。小さい頃、心臓リュウマチになり、余命短いと宣告されながらも歌手の道を歩み、サンドラ・ディーと結婚。アカデミー賞の候補にもなる。レイほど荒んだ人生ではないにしても、多少の波乱はある。私の場合は、音楽映画となると、どうしても採点が甘くなってしまうようだ。アステア、ロジャースの時代から、歌と踊りの映画というジャンルは、映画がエンターテイメントである以上、あってしかるべきだと考えているからであろう。

「世にも不幸な物語」
ファミリー映画だが、メリル・ストリープやダスティン・ホフマンも顔を出し、御伽噺としては面白く出来ている。一番の見ものはジム・キャリーの演技力だ。

「炎のメモリアル」
新米消防士(ホアキン・フェニックス)が成長する姿を描くパニック映画だが、映像迫力一つとっても、ストーリー展開の面白さをとっても、「バック・ドラフト」には遠く及ばない。

「真夜中の野次喜多」
現代と過去をごっちゃにしたりして、シュールな映像が珍しいが、ストーリーは野次喜多をヤク中のゲイに見立てるなど無理が多く、第一、話がクドクドと長過ぎる。観客の身になって、徹底的に楽しませることを目的にするのではなく、自分の価値観に埋没するという、日本の映画監督独特のわなに、これも見事にはまりこんでいる。この日本映画独特の弊害は「スパイ・ゾルゲ」や「北の零年」のような、まじめに作られた大作にすら見られる傾向であり、最近の山田洋二の作品と宮崎駿の作品だけが、僅かにこの弊害から逃れているようだ。

「チャーリーとチョコレート工場」
舞台はイギリスらしいが、無論架空の町である。チャーリーの家庭は貧しく、チャーリーの寝室のある屋根裏からは星空が見え、二組の祖父母は2台のベッドをつなぎ合わせて使っている。父親は工場の自動化でリストラされてしまった。家族の食事はキャベツのスープだけである。おりしも町の中心部にそびえる世界一のチョコレート会社が子供向けの懸賞を発表した。板チョコに隠された金色のカードを引いたものは、今まで誰も入った事のない工場に招待するというのである。チャーリーもなけなしのお小遣いで買うが無論外れる。懸賞に当たった子供の中には親に頼んで買占めをしてもらった者や、ファミコンのオタクなどろくな子供がいない。途中は省略するとして、チャーリーも付き添い一人とともに工場に招待されることになった。しかし迎えに出た工場のオーナー(ジョニー・デップ)は小さい頃父親に見捨てられて家出したと言う経歴の持ち主で、相当にエキセントリックな若者であった。工場を動かしているのは、南洋から連れてきた、皆同じ顔の小人だった。舞台セットのシーンが多いが、原作を英文で読んだ家族に言わせると原作にはかなり忠実なのだそうだ。原作がロアルド・ダールなので、シニカルなコメディになっている。しかしである。やはりこれは大人向きではない。

「銀河ヒッチハイクガイド」
かなり古典的といっても良い、イギリスのSFが原作で、映像化は無理だと思われていたものだ。でもSFはハリウッドでなければ出来ないというものでもない。ハリー・ポッターだって、昔の007もあるのだ。英国映画をおちょくってはならない。アーサー(なぜアーサーかと言えば、地球の人間だからである)が家で寝ていると、地響きがする。見ると周りをブルトーザーで囲まれており、バイパスを通すから、これから家を取り壊すと言う。そんな話は聞いていないと言うと、市役所の地下に1ト月前から掲示してあり、それを読まないほうが悪いという。工事が始まると、黒人の友人が通りかかり、一緒に来いという。彼の話では、銀河連盟が地球を通る4次元ハイウェイを通す事になったので、邪魔な地球が取り壊される(デモリッシュ)事になったから、逃げようというのだ。この友人なるものは元々ベテルギウスの惑星から来た宇宙人で、アーサーが命を救ってやったことがある。パジャマにタオルだけもったアーサーは、地球を破壊しに来た宇宙船(インディペンデンス・デイの直方体バージョン)に拾われて、ヒッチハイクを始める仕儀となる。図体が大きくて煩雑な事務処理と汚い詩が好きな種族から追われながら、彼らが2度目に拾われたのは銀座連盟のプレーボーイの大統領だった。そして彼らが探す羽目になったのは、全能コンピュータが、究極の質問の答えと引き換えに要求してきた特殊な銃であった。とこう書くと、いかに映像化が難しいかが分かるだろう。CGとはありがたいものである。ここでもふざけたデザインの宇宙人がたくさん出てくるが、そそういう観点ではスターウォーズの一作目(エピソード5)を思い出す。フィフスエレメントで見たフランス製(?)の宇宙人もユニークだったが、イギリス製の宇宙人はどうかというわけで、スターウォーズだけが宇宙人の専売特許ではないということが分かるだけでも面白い。全体のノリはモンティ・パイソンやミスター・ビーンのそれである。特撮ですごいのは惑星製造工場のシーンだ。SFファンならこれを見るだけも、映画館に行く価値がある。SFファンには推薦の一作。ジョン・マルコビッチが上半身だけの総督で出てくるシーンも、キモイが笑える。

「コンスタンティン」
キナヌ・リーブスが今回扮するのはエクソシストである。幼い頃から霊視能力の強かったジョン・コンスタンティンは、霊能力から逃れるために自殺さえ図ったことがある。またストレスの為に若い頃から喫煙量が多く、30才そこそこで、肺がんのために医者から余命は後1年と言われている。これはカソリックの教義なのだろうが、自殺者は地獄に落ちると決まっており、エクソシストになって、人間界に現れては害をなす小悪魔どもを地獄に送り返すという仕事を始めたのも、天国にゆく機会を得たいからであった。一流のエクソシストとして名を成すに至り、その結果当然ながらサタンの眼の敵となっている。一方ヒロインのレイチェル・ワイズは霊能力の高い警官で、双子の妹を自殺で亡くした。しかしその死因には納得できないものがあった。更にその一方、イエスが磔刑にあったとき、イエスを刺したといわれる槍(正確にはその穂先)が行方不明になっており、これを見つけたものは世界を支配する力を得ると言われている。それを探しているものが地獄にもいた。サタンの息子である。メキシコ人にとりついたサタンの息子は、ついに槍を発見し、強力なパワーを得て、人間界制覇の為に、とりつく相手(アンジェラ)のいる米国に向かう。米国で不可解な現象が頻発しはじめていた。いよいよ、ジョンとサタンの対決の時が迫る。というわけで、これは本来日本人にはあまりなじみのない世界だ。神とサタンが善と悪を支配し、その中間に人間世界がある。またどういう訳か天使(たとえばガブリエル)というのがあまり当てにできない中途半端な存在だ。以前、マット・デイモンとベン・アフレックのドグマと言う映画があり、かなり残虐な天使が登場したが、それに似たシチュエーションもある。但し今回の映画の方がドグマより分かりやすい。ジョンはヨハネに由来する名前だし、アンジェラはエンジェルだろう。どうやって落とし前をつけるのかと思っていたら一応なるようになるところが、メイド・イン・ハリウッドである。特撮もふんだんに使われており、地獄の情景も見所の一つだ。ヒロインのワイズはハムナプトラで最初に見たときに中近東系の出身かと思ったら、イギリスの俳優地う説明があった。しかし演技はともかく、個性が強いのでルックスは好みが分かれそうだ。面白ければ良いという私の無責任な判定基準からで言えば、お好きな方はご覧下さい、最後まで見られますということになる。

「アビエイター」
ハワード・ヒューズの反省を描くことにも、主役をデカプリオが演じることにも文句はないが、随所に無理が感じられて作品としてはバランスが悪い。神経症の主役という設定からして、感情移入し難い。アカデミー賞を受賞しなった理由は見れば分かるであろう。それに長すぎる。但しヒューズが作って、ジャンボのある現在でも世界最大の旅客機画博物館に現存しているので、もう一度飛ばす機械を与えるべきだろう。重量を軽くする為に木製だというところがやや心配ではあるが。

「マスク2」
前作オリジナルとは比べものにならない。そもそもジム・キャリーだから出来た破天荒さ、他の誰にも真似は出来ない。ストーリーもいい加減。

「セルラー」
要するにケータイのことである。クリス・エバンス(学生)はガール・フレンドをつなぎとめようと必死である。車で移動中に、誘拐されたので助けてほしいという電話がかかってくる。最初は冗談だと思ったが、指示に従い、ケータイを警察の持って行く。殺人課に行くよう指示を受けるが、電話がビル内で切れそう煮なり、あわてて外に出る。定年間近の警官ウィリアム・メイシーは一応誘拐されたという家に行ってみるが、主婦らしき女が出てきたので引き上げる。実はその家の本当の住人キム・ベイシンガーは、その日の朝、突然踏み込んできた男達に拉致され、場所もわからない物置に監禁されていたのだ。犯人達は、彼女の夫が持っている何かを狙っているらしい。電話はハンマーで叩き壊されたものの、部品をつなげて通じた相手がエバンスだったのだ。そのうち犯人達は子供を誘拐すると言い出す。それを聞いていたエバンスは学校に車を飛ばす。ありきたりのサスペンスと言ってしまえばそれまでだが、とにかく最後まで楽しめる。主役がベイシンガーである必然性はあまりない。しいて言えば、LAコンフィデンシャルで見せた、か弱そうな雰囲気(多分本人はか弱くなんか絶対にないと思うが)が有効だと思ったからだろう。いずれにせよ、映画は面白ければそれで良いのである。

「ネバーランド」
予備知識ゼロで見たが、結論から言って良い映画だった。推薦である。カバ−写真などから、もっと明るい映画かと思っていたが、かなりシリアスな作品であった。時は1903年、上流階級のジョニー・デップは、劇作家である。プロデューサーはダスティン・ホフマンだ。最近のジョニーの作品は自分でも認める出来の悪さで失敗した。しかし、役者も劇場も抑えており、何かもう一作書く必要があった。ジョニーは結婚しているが、子供はなく、夫婦仲も最近はギクシャクしている。彼はいつも想像の世界に浸っていて、それが妻の不満の元であった。しかし作家なら仕方ないところだ。事実をヒントにして書かれた本らしいが、見ている方は、途中でやっと、これはピ−ター・パンを書いた作家の話ではないかと気がつく。公園で出会った、父親を亡くした4人の子供たちと、その母親のケイト・ウィンスレット。子供達と遊んでやっているうちに、子供達はジョニーになつき、ジョニーは舞台のヒントを思いつく。筋は単純かもしれないが、泣かせるポイントはしっかり抑えている。ジョニー・デップはエドワード・シザーハンズから始まり、スリーピー・ホローの伝説などのオカルトものにその暗いイメージがぴったりだったが、カリブの海賊役の怪演でアカデミー賞候補にもなり、私のひいきのスターの一人だ。今回もほかのキャスティングは考えられない。私はアクション映画が好きではあるが、アクション映画だけが映画ではないのである。

「亡国のイージス」
よせばいいのに事前にオスギだかの批評を見てしまい、やめとけば良かったと、後の後悔先に立たずである。日本映画離れした日本映画ということで期待して見に行った。良いところから先に言うと、最後まで飽きないで見た。これは邦画では珍しいことである。背景のストーリーはほとんどないに等しいので、テンポは速いがナンデダロ−が沢山残ってしまうことと、論理に多少の無理があることが欠点だ。真田はイージス艦の先任伍長というのだから下士官では一番上という役どころか。真田が主役の映画である。たそがれ清兵衛やラストサムライの時と違って、変に声が甲高いのが気になった。最初多少のひっかけがあるが、それにこだわると後の話が出来なくなるので省く。佐藤は防衛庁の情報部の責任者で、韓国系の名前のテロリスト即ち中井が、イージス艦を占拠する計画があるというので、部下を潜入させていた。中井は米国が秘密裏に開発した強力な化学兵器を米軍から奪い、イージス艦のミサイルの弾頭にセットし、これで東京を狙い、日本政府が米軍の科学兵器の存在を公表しなければ、東京を破壊すると脅迫する。これに協力するのが副長の寺尾で、寺尾は防衛大の学生であった息子が、国とはなにかに悩んで自殺してから、中井の考えに同調するようになっていたのであった。のっとり犯達を残して退艦させられた真田だが、一人艦内に戻る。一方中井は、実は日本政府が要求を呑んでも東京攻撃をやめるつもりなど毛頭なかった。中井に舵を壊されたイージス艦は、東京湾深く突っ込んで行く。真田と潜入者は二人だけでどこまで戦えるのか。一方政府は、米軍の強力な爆弾で攻撃すればイージス艦ごと一気に毒物を焼き払えるということから準備を始める。中井の台詞では、日本は既に信念のない亡国、すなわち既に国ではないのだそうである。亡国というのは国を滅ぼすことだと思っていたが、違うらしい。艦内のセットの作りもよく出来ているし、役者も全力を出しているので、見ごたえのある映画にはなっている。ハリウッドに一部任せたそうだが、この程度の映画はハリウッドでは以前から作っている。邦画も、これで一安心せずに、今後もペースを上げて欲しいものだ。戦闘機も近づけぬというイージス艦なのに、なぜ戦闘機で攻撃するのかとか、朝鮮系と思われる女性兵士との戦いも、韓国映画のパクリで今ひとつ。背景の説明も十分ではない。しかし面白い映画を作ろうという意欲を買わないわけにはいかない。ただ一つ問題が、しかも、それも大問題があるとすれば、明らかに中井が演じているのは北朝鮮の造反軍人だということだ。この時期に、反朝鮮の、しかも日本が軍事力を持つことを肯定するような映画を作ることに、何らかの意図が働いていないことを祈るのみである。従って推薦は出来ない。ここがオスギと私の映画に対する見解の違いがある。

「カンフー・ハッスル」
荒唐無稽な映画は、むしろなるべく「アリエネー」方が面白い。時代は不明だが、多分香港で、斧頭会という暴力団が権勢を振るっていたと思いなさい。腰抜けの警察は当然のごとく頭が上がらない。そこに浮浪者の不良が2名、この会に入りたくてたまらない。しかしこのワルは本当のワルではなく、ただ金が欲しいだけだ。しかも少年時代に耳の不自由な少女を助けたという経歴があり、さらに、少年の頃いじめっ子にいじめられた恨みを晴らそうと行商人から怪しげな武道の入門書を買い、一位鍛錬に励んだこともある。これが多分主役。一方香港のダウンタウンというのかどうか知らないが、その名も豚小屋砦という汚い鉄筋のアパートがあり、庶民が因業な大家夫婦に搾取されながら、それでも元気に住んでいた。ここに目をつけたのが斧頭会だ。颯爽と乗り込んではきたものの、住民の腕の立つ住民に撃退される。再度来るが、今度は大家夫婦に叩きのめされる。実はこの大家夫婦、トンでもないカンフーの達人であった。集団で撃退された暴力団は、世界一という達人、実はステテコ姿のカトちゃんみたいな親父を引っ張り出して雪辱戦に挑む。この親父は自分の頭に向けて発射した拳銃の弾丸を頭に当たる前に指でつかんで止めるという怪人だ。いよいよ夫婦とオヤジとの決戦が始まるが、さすが大家も不利。そこでさきの青年が登場し、空極の拳法を使うときが来るのであった。映画は面白ければ多少のでっち上げなどどうでもよい。もともとフィクションなのだから。おそ松君のアレレのおじさんのように脚を回転させて、汽車より速く追跡するシーンも必見である。日本ではどうしてこういう抱腹絶倒の映画ができなのだろうか。推薦。

「宇宙戦争」
おなじみH.G.ウェルズ原作のSFであるが、宇宙戦争ならスペース・ウォーズとでも言うのかと思ったら、ウォー・オブ・ザ・ワールズだった。確かに宇宙空間に出て戦うわけではなく、一方的に地上を蹂躙されるだけなのだから世界戦争なのだろう。SFというより、ホラーに近いパニック映画である。トム・クルーズ(この際役の名前はどうでもいい)は、しがないガントリークレーンのオペレーター(港湾労働の一つ)である。ブルクッリンに小さな家があるが、奥さんと離婚し、ハイティーンの息子と小学生の娘(ダコタ・ファニング)がたまに泊まりに来るくらいだ。今回も2人の子供を預かったその夜、世界中が猛烈な磁気嵐に襲われる。ブルックリンにも激しい落雷があった。このために停電になり、電気製品は使い物にならず、自動車もコイルが焼けて皆、路上で動かなくなってしまう。わずかに修理工場にあった一台が動く状態だった。ブルックリンの路上に開いた穴を見に群集が集まって来る。とその時、地震とともに、アスファルトはめくりあがり、レンガ造りの教会には亀裂が走る。そして地中から現れたのは高さ100メートルにも及ぼうかという3本脚の巨大なマシンだった。マシンは青い光線を発し、これに触れた人間は瞬時に灰になってしまう。家に戻って子供達と、修理屋の車に乗って、離婚した奥さんの家を目指すクルーズ。しかし、やっとの思いで辿りついた奥さんの家はカラッポだった。地下室に避難していた家族は轟音で起こされる。外に出てみると旅客機が墜落して直撃を受けていたのであった。同行していたニュースキャスターが稲妻を撮影したビデオを見ると、稲妻ではなく、宇宙人がパイロットを送り込んでいる映像だった。宇宙マシンの破壊は続き、一家はフェリーの発着場にたどり着くが、そこは海を渡ろうとする群集の修羅場であった。クルーズ親子は奥さんの実家のあるボストンを目指す。何とか船に乗り込んだものの、海中からヌッと立ち上がる殺人マシン。船の転覆シーンもかなり迫力がある。途中で、かくまわれた家の主人のティム・ロビンスは、百万年も前から、宇宙人はこのときのために地中にマシンを隠していたと語る。今回の出演者の中ではロビンスが一番上手だ。宇宙人は人間を焼き払うだけでなく、捕らえて食料にもしている、また、彼らの赤い血管のような植物の、肥やしにもしている。軍隊が出動するが、宇宙人はバリヤーを張っているので、砲弾も届かない。ところで面白いのは大阪で日本人が3台倒したという話が出てくることだ。マシンのデザインはなんとなくETの宇宙船に通じるものがある。そうこうしているうちに、ついにクルーズと娘は宇宙人に捕らえられてしまう。なんと言っても一方的な戦いなので、人間様はひたすら逃げ回るだけである。宇宙人のデザインは丸顔のエイリアンというところか。マシンの三本脚は、更に先が3つに分かれており、安定を確保しているのである。その他にもいろいろと触手は揃っており、人を巻き上げたり、カメラで偵察したりと、しごく便利に使われている。偵察用の触手の動きはアビスのシーンを思い出す。圧倒的な破壊力を前に人類はなすすべもなく、勇気しか頼るものはない。SFなら他にも良い映画はあるが。パニック映画としてなら楽しめよう。

「スターウォーズ エピソード3 シスの復讐」
米国公開に遅れる事約1ト月だが、先々行ロードショウの初回を見たので、アマチュアの感想文としては多分一番早い方だろう。全6話が完結し、全体が一つの物語としてつながる、最後の環である。本作品は初回のエピソード3の前段なのだから、ファンなら物語の展開は予想がつくが、これ単独で見る人には分かりにくい部分があるかもしれない。スター・ウォーズ・ファンなら見逃すことは出来ない。ストーリーは、評議会議長(無論これがシスの暗黒卿であることは見る方は先刻承知しているが)がシスのドロイド軍団に誘拐され(即ち狂言だ)、これをオビワンとアナキンが救出に行くシーンから始まる。のっけから宇宙の戦闘シーンだが、手抜きはまったくなく、特撮の粋を集めた美しい映像は圧巻である。新しいメカも続々登場する。宿敵、ドュークー伯爵を倒して(アナキンがパワーアップしているので、エピソード2のような負け方はしない)、議長を救出はしたものの、もう一人のアンドロイドの将軍を取り逃がす。この将軍は殆どがメカであるが、心臓など、一部に人間のパーツも残っているのだ。しかし腕など4本もあって、4本のライトセーバーをぶん回して向かってくるのだから厄介だ。オビワンは戦闘機を飛ばすのは苦手ということは前作で分かっているのだが、アナキンの戦闘機がR2を翼に積んでいるのに対し、オビワンが積んで居るのはR4で、同型のロボットである。そんなことはどうでも良いが、R2は動きは鈍いが、前作で明かされたように短い距離なら飛行も出来るのだ。それはともかくとして、ストーリーの骨格は、いかなる背景でアナキンがダークサイドに引き込まれ、ダース・ベイダーに変身するに至ったかということであるためか、今回は説明のための会話のシーンが結構長い。アナキンは、密かにパドメと結婚しており、パドメから妊娠を告げられる。しかしアナキン(愛称はアニーだがダース・ベイダーをアニーと呼ぶ気にはなれない)は最近、パドメが死ぬという悪夢を見るようになった。彼は母親が死ぬ前にも同じ夢を見ている。ヨーダにも相談したが乗り越えろと言うだけだ。一方シスの暗黒卿すなわち議長は、ダークサイドの力を身につければ、死を阻止することすら可能だと言って、アナキンをダークサイドに誘う。議長の正体をアナキンから告げられたジェダイが、議長を逮捕に向かうが、アナキンの心変わりもあって、逆に倒される。議長はジェダイが反乱を起こしたとして、追討の指令を出す。また評議会で襲撃の犠牲者を装って、自ら皇帝の座につく。アナキンはジェダイを殺戮し始める。アナキンを追うオビワンは、溶岩の衛星でアナキンと対決する。ここで大怪我(片手と両足をライト・セーバー=サーベルのことである、で切られちゃうのである)をしたアナキンは、皇帝に救われ、いろいろと修理されて、お馴染みの生命維持装置の厄介になるわけである。皇帝はアナキンのパワーは自分をしのぐと漏らす。パドメは男児、女児を出産し、ヨーダとオビワンは養親を探して預ける。ダース・ベイダーは皇帝とともにデススターの建造を開始する。なお、なるほどと思った説明に、ヨーダがオビワンに、あの世に行ったオビワンのマスター、クワイ・ガン・ジン(リーアム・ニーソン)を呼び出して、不死の術を学ばせると言う話があり、これはエピソード4(即ち第1作)で、ダースベイダーと対決して、消えうせたオビワンの説明になっていると思った。非常に慎重に、エピソード3との間に矛盾がないように作られている。このこだわりが、ルーカスらしいところかもしれない。そのため、全体的にが説明が長くなっている感がある。砂の惑星、森の惑星、沼の惑星、雲の惑星の後の、今回はなんと洞窟の惑星と、火の衛星である。スターウォーズが映画界に与えた衝撃と影響の大きさは一向に衰えない。SF映画としても相変わらずトップに君臨している。アカデミー賞特別賞は確定だろう。但し私は万人には勧めない。世の中にはアクション映画が苦手な人もいるからだ。映画館から出る時の気分は、自分がダース・ベイダーになったよう、即ちいささか陰鬱なものであった。20年掛かりの偉業だから、生きている内に全作品が見られたことはやはりラッキーなのだろう。しかし、こうなると、エピソード3だけでもリメイクして欲しいような気がする。

「バットマン ビギンズ」
マイケル・キートン、ヴァル・キルマー、クリス・オドネルについで、4代目のバットマンはクリスチャン・ベイルだ。しかし顔の輪郭や、いつも口を半開きにしているところなどは、かなり違和感がある。顔の輪郭だけで言えば、マイケル・キートンが一番ピッタリだった。ストーリーの基本は同じ。ニューヨ−クをモデルにしたゴッサム・シテイは悪の栄える街である。億万長者のブルース・ウェインが、特殊兵器と体力で一人で悪に立ち向かう。今回はのっけに刑務所のシーンが出て、何でかと思ったら、刑務所で技を鍛えていたのだそうだ。飽き足らないブルースは、チベットの氷河にある秘密の道場に招かれて7年もの間修行し、武道を完璧にマスターする。その導師役がリアム・ニースンなので、スター・ウォーズみたいだ。何語とも分からない言葉をしゃべる、道場のトップが渡辺謙だが、あっけなく退場。この使い方はない。執事にマイケル・ケイン、良い警官にゲイリー・オールドマン、新技術を開発するのが、なんとモーガン・フリーマンと脇役は豪華だ。また懐かしいルトガー・ハウアー(ブレード・ランナー)まで登場する。今回のバットマンの最大の特徴はリアル感にある。生身の人間が格闘しているという感覚があり、ぶつかると痛そうだ。モノレールなどは、絶対セットなのだが、凄くリアルである。筋はともかくといってしまえば、実も蓋もないが、そこそこには楽しめるだろう。なお今回のバットマン・カーは装甲車を思わせるデザインで、武器も強化されている。前作のような荒唐無稽なビークルではなく、実際に高速道路できっちカー・チェイスもこなす。とにかく現実感のある演出と映像が、これまでの、漫画がベースのシリーズと大きく違う点だ。白塗りで気持ちの悪いジョーカ−や、ペンギンマンが出てこないだけでもましである。