「WTW映画批評」

【2014年】


【インディ・ジョーンズとクリスタル・スカルの王国】

1989年に「インディ・ジョーンズ、最後の聖戦」がリリースされてから
実に19年の歳月が流れ、その間に、スター・ウォーズの方はエピソードの
1,2,3が制作され、しかしマーク・ハミル(オリジナルのスカイウォー
カー)もハリソン・フォード(ハン・ソロ)も、もはや出演していません
でした。インディ・ジョーンズ・シリーズは終わったものと思っていたら
4月にラス・ヴェガスで読んだ新聞で、水晶の髑髏の完成が報じられ、6月の
上映開始。新聞にはハリソン・フォードが年齢を感じさせないという記述も
あり大いに期待していました。今日は一般公開前のプレミア上映で、その初回を
見てきました。

無論、詳しく書くのはマナー違反ですので、一部の紹介に留めますが、まず
感想としては、見た後は気分が高揚して元気になる映画です。故に見る事を
お勧めしますが、今までの全シリーズを見ている人のためのしかけも随所
にあります。時は1957年。米ソの冷戦が厳しく、FBIは赤狩りに
血道を上げています。ヘンリー・ジョーンズ2世、即ちインディアナ・
ジョーンズ博士は、軍の支援活動などから、大佐の称号も持ちながら
相変わらず大学で考古学を教えています。その彼がメキシコで発掘中、
突然ソ連のKGBの一団に拉致され、エリア51と思しき空軍基地の古い
広大な倉庫に連れて来られ、ある貨物を探すよう指示されます。それは
ジョーンズ博士も調査に関わった1947年のニューメキシコの怪事件、
ロズウェルの遺留品でした。箱を探して当てると中から出てきたのは、冷凍
保存さたアレでした。辛くもKGBの手を逃れたインディアナ(インディでは
ありませんぞ)は、原爆の実験場に迷い込み、あわや蒸発かという危機に
遭遇します。話変わって、大学を追われて去ろうとするインデイアナに、旧友
に頼まれたという少年(青年)が追いかけてきて、水晶の髑髏を見つけた友人が、
少年の母親(失われたアークでヒロインを演じたマリアンの再登場)と共に
捕らえられていると告げます。二人は救出の為に、ペルーからアマゾンに向かう
のでありました。執拗なKGBの追跡と、水晶の髑髏を戻すべき黄金の都の探索。
失われたアークや、魔宮の伝説を彷彿とさせるアクション・シーンの連続です。
今回の虫たちは、さそりと軍隊蟻です。

なおマヤ文明の本物の水晶の髑髏とは全く別物で、今回の髑髏は変に細長くて、
どう見ても人間の物のようには見えません。それもそのはず・・・・。あとは
見てのお楽しみです。しかしこの小道具、何故か出来が悪くて、軽すぎて
とても水晶製には見えない。アルミホイルのつまったプラスティックにしか
見えないのが唯一、最大の欠点です。そう言えば未知との遭遇もスピルバーグ
でしたね。

今は家族で見られる映画が少ないのですが、これはミイラこそ多数登場しますが
まず安心して見られる映画ではないかと思います。なんとヘンリー・ジョーンズ
3世など言う話もあります。ファン向けのサービスとしては、倉庫の一角に第一話
のアークが登場することや、流砂から引き上げるのにニシキヘビを使うというのが
あります。


【フィクサー】

アカデミー賞ノミネート最多映画(7部門)というので見ました。ジョージ・
クルーニー演じるマイケル・クレイトンは大手法律事務所で裏方(もみ消し役)
ばかりを長年担当するフィクサーだった。しかし、離婚や、賭博の借金など
生活は追い詰められていた。おりしも大手製薬会社の訴訟この弁護士事務所が
請け負っていたが、担当弁護士が農薬の実態に不審を抱き、原告側に寝返る
という事件が起き、クレイトンはその後始末を命じられる。製薬会社の
法務担当女性責任者(助演女優賞)は追い詰められ、ついに違法な手段も
いとわなくなってゆく。クレイトンにも身の危険が迫る。
ジョージ・クルーニーは主演男優賞を逃したが、そろそろ取らせたらどうか
という雰囲気もあったのではないか思います。米国映画のご他聞に漏れず、言葉
使いは汚いが、残酷なシーンもなく、最後まで飽きさせずに見せます。推薦。


「ゴジラ」2014/7/26
これまでで、最も巨大で強力なゴジラだ。これもお約束通り善玉である。悪役は、同じフィリピンの洞窟に休眠していたカマキリ型の巨大昆虫。ゴジラが長さ300mで、カマキリは身長90m。それなりのパニック映画には仕上がっていて、全ての怪獣映画がそうであるように、人間の主人公達は、渡辺謙を含めて、間近で呆然と見守るだけ。なお冒頭のシーンは、日本の原発が何者かに破壊され、メルトダウンが起きて立ち入り禁止になるというリアルな想定だ。ハワイが津波に襲われるシーンもある。但し、どうしても見ておくべき映画かというと、それはビミョーというところだ。ところで多分ゴジラの英語名はどなたも書けないのではないか。それはgodzillaである。これは個人的な意見だが、最初にgodが付くところに注目して欲しい。

「永遠のゼロ」2015/2/15
TVドラマ。私は何年も前に小説を読んで推薦書にした。映画も見た。その後でNHKの経営委員になった作者の百田が暴言を繰り返した後でも、作品は、作家とは別のものだと割り切っていた。百田が経営委員になったのも、安倍首相がこの小説を読んで感動したから(映画も見たと伝えられる)であって、これは最近では最も深刻な皮肉の一つと言える。というのは、この小説は、二つの正反対な捉え方が可能であって、おそらく作者と首相の見方は同じであり、それと私を含む多くの国民の見方とは真逆だからである。
私には、もはやこの作品は作者の手を離れて、一人歩き、或は独り立ちしているように思われる。この小説の映画には、作者の価値観が未だ色濃く残っているが、TVドラマの方には、読者側の価値観が強く影響しているように思われる。具体的に言えば、反戦がテーマではあっても、それよりも国の為に命を捧げたことが尊い(そこから靖国問題への安易な解釈に結びつく)というのが百田と首相の見方であり、人の命が一番大事だというのが私を含む多くの解釈だからだ。国を守るために戦うのが、どこが悪いというのが首相と百田の、何のための戦争かという大本の理念さえ考えようとしない開き直った見方だ。でも私を含む大多数はそうは考えていない。命が大事だ、だから戦争はするなというものである。この理解の違いには実は天地の違いがある。それは後藤さん殺害事件での、政府(=国)と、国民の反応の違いを見れば一目瞭然なのである。
作品の長さも質も、役者の演技という面から見ても、TVドラマの方が遥かに上である。主人公、宮部久蔵を知る高齢者の回顧のシーンに登場する脇役達も、これだけ渾身の演技は並のTVドラマでは見られるものではない。俳優たちの演技はもはや演技のレベルを超えている。私が二言目には戦争に向かうなと百回言うよりも、このドラマを一回見てもらうほうが、よほど説得力がある。三日目の最終回の最後部分では、もはや涙をこらえることができなかった。虚構ではあるが、生きたくても生きる事が許されない、主人公の宮部のつらい気持ちが見る者の胸に迫る。役者という仕事は、想像力と人間に関する深い洞察がなければ出来るものではない。主役としても、映画の岡田准一よりドラマの向井理の方が遥かに存在感がある。この小説を読む者、それを演じる者全てが、偶然のように生まれたこの小説から何を学ぶか。そこで人生観と人間の価値を問われている。

「アカデミー賞授賞式」2016/3/9<br />
アカデミー協会長の言葉だ。「…映画芸術科学アカデミーは映画の力をたたえます。映画は人々の精神をつなぐ普遍的な言語です。世界中の目が私たちに注がれているので、映画製作にかかわる私たちには責任があります。その責任とは、いかなる言葉も沈黙を強要されることがないように保証する責任であり、相異なる意見=オピオンも、個人的なあるいは専門的な攻撃の恐怖なしに分かち合う=シェア、ことを保証する責任です。そして表現の自由を守ることが私たちの責任なのです…」。
昨日=日曜の早朝の時事放談で片山善博が言った。「ホルムズ海峡が閉鎖されたら日本人の生活がパニックになる、だから武力攻撃を受けなくても、自衛隊は武力を行使できると安倍首相は言う。しかしペルシャ湾から石油が来なくても日本が滅びる訳ではない。この理屈はいつか日本が来た道でもある。集団的自衛権を閣議決定した後で、ゴルフボールを6インチ、また6インチと動かすようなもので、ルールに歯止めが利かなくなっている」。
また藤井裕久も言った。「集団的自衛権を日本は二度経験している。最初は明治時代の日英同盟で仮想敵はロシアだった。二度目は日独伊で、仮想敵は米国だった。そしていずれも実際に戦争になった。今回は日米の協定だが、仮想敵は中国。本当に中国と戦争をするつもりなのか。しかも集団的自衛権では、日本と全く関係のない、米国への攻撃でも、日本は参加しなければならない。集団的自衛権には絶対に反対である」
ところで昨日は国会前などで多数の国民が反原発の集会を行った。皆さんその事実を知っていただろうか。報道したのは時事と毎日だけ。NHKについては言うだけ無駄である。
メルケルが来日して脱原発を安倍首相に説くことになっているのに、一切の報道がない。…どころかNHKは官邸の発表をおうむ返しするだけ。一体日本のメディアは、どこまでジャーナリズムとしての責任を放棄すれば気が済むのやら。

「スティーブ・ジョブス」2015/3/16
ジョブスの1995年のインタビューは長らく失われたと思われていたのだが最近テープが見つかり、wowowが放映した。新しいコンセプトの製品を世に出すという事が、どれだけ重要な意味があるかを再認識させられる。一度製品化されれば、販売を増やすのは営業とマーケティングの仕事かもしれない。でもそれはメーカーの本質ではない。存在理由はあくまでモノづくり(Production)だ。私はたまたま、ジョブスを追い出した後のジョン・スカリー(元ペプシコ社長)がCEOをしていた時期に、NYで駐在し、新聞で報道されるその経営のひどさに呆れたことがある。その後、同じようなケースとして、技術者でない人たちが、ソニーを蹂躙して滅茶苦茶にしてゆくのを苦々しい気持ちで見ていた。まさに既視感(デジャブ)だった。
ジョブスを批判する人も多いが、そういう人達もこのインタビューは見てほしい。過度に気負う訳でもなく、自分を宣伝するでもなく、気取らない、率直な話し方で、ものづくりの理念を明確に説明している。インタービューアーがお粗末なので、愚かで失礼な質問が出るが、それでも頓着はしていない。ジョブスは即答せず、しばらく考えてから、しかし20年後の今でも完全に通用する答を出している。やはり天才だ。当時NeXT社を率いていたジョブスは、このインタビューの翌年、スカリーに政治的に追い出されたアップルに戻り、奇跡の立て直しを行い、米国で最も時価総額の高い企業に変貌させた。ジョブスは映画にもなったが、こちらは本物だから、迫力が違う。
そこで今日は、インタビューの中から、一つだけジョブスが語ったエピソードを紹介したい。「…ある人が、動物の中で最もエネルギー効率の良いものは何かを比較してみたことがある。人間は全体で下から1/3くらいのところにいることが分かった。トップ、即ち最もエネルギー効率の良い動物はコンドルだった。ところが賢明なことに、別の者が、自転車に乗った人間で比較し直してみた。その結果、自転車に乗った人間は、コンドルを遥かにしのぐダントツ一位だった。人間は弱い動物だが、道具を使うことが出来る。コンピュータもこうした道具であり,人間の能力を飛躍的に増大させるものなのだ…」
また彼は、パソコンが果たした大きな役割はコミュニケーションであり、今後10年(1995年起点)で、最も大きな変化は、ウェブによってもたらされるだろうと指摘している。ちなみに彼がアップルUで最も注意を払った機能はユーザーインタフェイスだった。当時は誰もマウスを重視せず、その低価格化にも関心がなかったと述べている。そしてiPhoneで、このインターフェイスは、指先での操作に発展する訳だが、ジョブスがマン・マシン・インターフェイス(一言で言えば使いやすさ)に拘ってくれたおかげで、世界中の人間がその便利さを体感しているのである。

「吉田松陰」215/4/27
NHKの大河ドラマ。前半の山場は吉田松陰の処刑。危ないシーンだがNHKは無難にまとめていた。井伊直弼には諸説あるが、ここでは悪役に徹しており、それはそれで仕方がないと思う。松陰が明治維新の精神的な礎になったことに間違いないからだ。ドラマとしては、今後久坂玄瑞(東出)を中心にした青春群像がストーリーを背負うことになる。しかし東出は大河の主役を背負うには未だ力量不足だ。しかも肝心のヒロインが好演はしているものの、花がなく、多分視聴率は上がらないだろう(現在史上最低の一桁台)。新たに坂本竜馬(伊原)も登場するが、全体的に俳優の粒が小さいのはいかんともしがたいところだ。今までそれと気が付かなかったが、こうしてみると、伊勢谷の存在感は重要だった。残るは大沢たかおだけだ。役者を生かしきれない脚本に問題があるのかもしれない。ドラマとしてのインパクトが小さい理由は、群像をテーマにしてしまったので、主役が誰かよく分からず、感情移入する相手が定まらないことだ。どの視聴者が、おにぎりを握っているだけの杉文が主役だと認識するだろう。むしろ吉田松陰の一生だけを取り上げた方が未だまとまりが良かったのではないか。総花で悪い方向になった例だと思う。大河という名前に寄りかかると、こういう作品が出来てしまう。

「敗北を抱きしめて」 2015/5/3
5/2のTBSの報道番組で、日本の戦後の復興を描く「敗北を抱きしめて」で、ピューリッツアー賞を取った歴史学者、ジョン・ダワーのインタビューがあった。いま、NHKの報道が政府寄りになっているので(僅かに解説番組だけが未だNHKの良識を留めている。報道局長は籾井ともども早く交代して欲しい。21時のニュースも、大越が変わってからは、まるで見る気がしなくなった)、いまTVのニュースとして信用できるのは、TBSとテレ朝(と東洋経済。ハフポストは堕落)だけになってしまった感がある。
ダワーは、日本が米国のミニチュア版になろうと躍起になっていると警告している。米国では最近、自国の戦争を美化する風潮があるが、ベトナムを初め、米国の戦争が正しかった訳ではない。戦争そのものが悪だとしている。米国には戦争で亡くなった人の名前を刻んだ石碑がある。しかしダワーが、沖縄の戦没者の碑を見て感動したのは、そこには軍人も民間人も外国人も、およそ沖縄戦で亡くなったすべての人の名前が刻んであったからだと語った。靖国が外国から批判されるのは、天皇の為に戦って死んだ兵士だけが祀られているからであって、そこに戦争の美化があるからだとしている。
戦争の意味を追い求め、戦争を愛国の歴史にする動きがあるとも言う。それが行き過ぎた愛国主義者たちによる今の安倍政権の姿勢だと指摘している。地球規模で自衛隊の活動を広げ、それを議会の合意もなく、首相が約束した。しかしそれが意味するのは自衛隊を中東で人身御供に捧げる代わりに、尖閣を米国に守ってもらうという事だと述べている。また防衛省OBが、掃海作業は命がけの戦争行為そのものであって、以前湾岸戦争の後、24人乗りの掃海艇で、アラビア湾で掃海作業に従事したが、全滅を覚悟して秘かに24個の棺を持って行ったと述べている。また地雷は金属に反応するので、掃海艇の船体は木材で作るのに、掃海艇を鉄で作れと国会で発言した議員がおり、造船会社のエンジニアが絶句していた。ようは戦争がどういうものかさえ分かってはいない、自民党の愛国主義者達がイケイケドンドンで暴走しているに過ぎないのだ。
なおもう一つ興味があったのは、戦後、全てを失った日本が奇跡的な復興を遂げたのは、国民に活気があったからであり、それは戦時中の抑圧から解放されたためだという指摘があったことだ。いままた安倍首相とその陰気な番頭は、国民に戦中と同じように報道規制などで圧力を掛けている。それは結局、日本人の活動意欲をそぐことにもなるだろう。

「寅さん」 2015/5/20
時々、寅さんのシリーズが思い出したように再放映されている。なんだかんだ言いつつも、ほぼ全作品を見た記憶がある。基本的にどの作品も粗筋は同じだ。寅さんの横恋慕が実らないというだけの話である。ところで私はどうしてマドンナ達が、一次的にせよ寅に好意を寄せるのかが全く分からない。女性というのは好奇心が強いので、変わったものに興味を持つ傾向があるのかもしれない。いかにものイケメンだと、警戒心が先に立つので、関心はあるが、まずそれを悟られまいと用心するのかもしれない。逆に笑わせてくれる者には警戒心を解く。それは自分が相手に対して完全に優位に立てる安心感なのかもしれない。お笑い芸人と結婚する女優がいる理由も分かる。
寅さんシリーズは、粗筋も、道具立ても、判で押したように同じだ。冒頭で放浪の旅から戻った寅は、柴又の叔父の家で、子供でも呆れるほどの無分別さを発揮する。しかも自分の身勝手さを棚に上げて癇癪を起こし、また飛び出してゆく。誰が見ても寅の方が悪い。画面のこちら側にいる観客としては、笑うより先に、親族に甘えるのもいい加減にしろと言いたくなる。毎回理不尽にもどつかれるタコ社長こそいい迷惑というものだ。
またいかに全国を歩くためとはいえ、テキヤという商売の設定にも無理がある。山田監督は何物にも囚われない自由人を描きたかったのかもしれないが、いかに渥美には口上が似合うと言っても、これでは観客は感情移入しにくい。それでもこのシリーズが未だに人気があるのはその価値観ゆえなのだ。ヤクザ映画が義理をテーマにしているとすれば、寅さんシリーズのテーマは人情だ。そして今ほど義理も人情も廃れている時代はないからである。
人情とは、言い換えれば思いやりだ。これに自己犠牲が加わると愛情だ。私は愛情と言う言葉が未だになじめない。輸入品のお仕着せの概念のような気がするからだ。自ら湧き出るという感覚も乏しい。人情という言葉の方が幅が広い。そしてそこには人間と社会の関係の原点がある。だからこそ、安倍首相と菅官房長官には、もう一度寅さんを見て欲しい。そうすれば原発にも、憲法にも、福島の人たちにも、五輪のばかげたスタジアムについても、おのずと正しい判断が出て来るかもしれない。安倍政権に足りないものは笑顔ではなく、涙なのだ。それを言っちゃあ、おしめえよ、結構毛だらけ、猫灰だらけ…

「ぽっぽや」 2015/5/21
浅田次郎の「鉄道員(ぽっぽや)」が再放映された。同じ題名のイタリアの歴史的名作映画がある。共に鉄道に一生を捧げた運転手の物語である。高倉健は、この映画でモントリオール映画祭の主演男優賞を獲得した。日本アカデミー賞作品賞も取っている。私は日本の映画史に残る名作だと思っており、アカデミー賞外国映画賞を取ってもおかしくない映画だと思う。最近のどぎついだけの映画(三池やタケシを含む)の監督たちに飲ませたい薬でもある。
私にとって、この映画は鬼門中の鬼門で、見る時は必ず独りで見ることにしている。大泣きしている姿など、とても家族に見せられたものではないからだ。クライマックスは、幼くして死んだ娘が訪ねてくる(お迎えに来る)シーンだが、この映画が心を打つのは、それだけではない。長年の勤務でも処遇や経済的に恵まれず、いわば「いいことなんかないっしょ」な人生でも、職務に命を捧げた人間の姿がそこにあるからだ。なお有名なシーンがある。それは、なんで生きているのかと、娘に問われた駅長の健さんが、「本当に、たまにではあるけれど、生きていて良かったと思う時がある。だから生きているのだ」と答える場面だ。私に限らず、多くの人がそう思っているのではないだろうか。
特殊技能しかない人間が、仕事に誠実に懸命に生きてゆく。私はそこに父(経理)や義父(農業)の姿を見るのである。時々投稿をくれる中学時代の同級生の父親は、川口で小さい鉄工所を経営しており、同級生が、自分は父親を誇りに思っていると作文に書いていたことも思い出す。
私はこのような箸にも棒にもかからない素人時評を毎日書いて、読者に迷惑をかけているわけだが、他の批評家と違って公務員を非難することはあまりない。それは現役時代にさまざまな局面でキャリアとノンキャリの官僚とつきあいがあり、彼らの職務に対する真摯な姿勢を眼のあたりにしていたからである。本省の人達でなくても、警察官、消防官、教師、医者など、現場の人たちでも、私はこれはどうかと思う人に出会ったことがない。私は公務員を必要悪だと見なしていない。確かに一部には、お役目に不相応な高額の退職金で転々とする渡り鳥のような高級官僚もいないとは言わないし、彼らが日本の為に役に立っているとは到底思えない。しかし基本的に彼らは優秀であり、善意であって、中から古賀や孫崎のような人も出てくるのである。
公務員の99%は、真面目に国や社会の為に黙々と働いている人たちであって、企業の中で苦労している民間の会社員(労働者と言う言葉は嫌いです)と全く同じなのだ。目的が利益ではないので、逆に迷うことは少ないはずだが、出世の問題が、時に公務員が持つべき価値観を狂わせることがないとは言えないことが残念である。
ところで鉄道員は今では民営(JR)だが、昔は国鉄で、鉄道員も公務員のようなものだった。似たような映画で以前、「喜びも悲しみも幾年月」という灯台守の映画があった。何年かすれば任地を転々とする公務員(会社員でも転勤はあるが)の宿命が、そこでも描かれていた。
真面目にひたむきに生きる人の姿は人の心を打つ。今の社会にも、そういう人達が少なからずいるはずで、だからこそ日本という国が保っているのだと思う。311の時にもそういう人達が現場の混乱を救ってくれた。今、日本が必要としているのは、金融で一獲千金を狙う人達や、米国支配下の資本主義体制で格差の拡大と、資産収入を期待する人たちではなく、地道に働く人たちであり、だからこそ、そういう人達にふさわしい職場と処遇を与えることが一番大事なのだ。それが日本を発展させてきた人たちであり、これからの日本を支えて行く人たちなのだ。そういう時に参考になるのは、アベニミクスではなくて、ピケティの資本論なのである。

「クライマーズ・ハイ」 2015/6/24
「クライマーズ・ハイ」という映画を再度見て、やはり良い映画だと思った。堤真一の代表作で、遠藤憲一も好演。テーマは御巣鷹山の日航機の事故を追う、地方紙の記者の奮闘を描いたものだ。作者の横山秀夫は「半落ち」や「64」等で知られる警察小説の巨匠だが、彼は上毛新聞の記者時代にこの事故に遭遇した。記者の信念と迷い、努力とプライドを活写した出色の新聞記者小説。横山の小説では警察内部の刑事のいがみあいが良く登場しますが、この小説でも同じだ。事故の悲惨なシーンは殆どない。事故を取材した記者がありのままに書きたいと主張するのを、全権の堤が、読む者や遺族の気持ちを考えよと諌めるシーンもある。
事故原因に迫り、99%確実で、特ダネ間違いなしと思われたのを、最後の1%の確信が持てないばかりに、発表を迷う。記者の名誉心と良心の葛藤。現代の新聞記者に、命がけで真実を追うこうした根性や信念が、果たしてあるだろうか。政権に圧力を掛けられれば、昔の記者なら、逆に発奮して一層批判の刃を鋭くした。記者のプライドが、権力者の介入といいなりを許さなかった。以前記者と話をした時も、辞表を懐に入れているのは普通だと言っていた。辞表どころか、暴力団の記事を書けば、命を狙われた。振り返って現代のサラリーマン記者は、正義と真実を追う、記者にのみ許された権利を放棄しているとしか思えない。映画にも登場する、通信社の記事に脚色を加えるだけの貰い記事で満足してはいないか。
WTWで取り上げる最近の記事は、通信社やヤフーが発掘した地方紙の記事には見るべき記事が多い一方、大新聞やNHKの記事の紹介が少ないのは、決してそれに目を通していないからではなく、既に通信社の情報が十分にカバーしているからなのだ。
もう一つ、日航機の事故で気になるのは、原因が圧力隔壁の破壊であることが明確なのに、メーカーがそれを認めなかったことだ。大阪で尻餅事故を起こし、その修理が不完全だったことが直接の原因であることは間違いない。ずたずたに修理されていた隔壁がそれを物語っている。何故全部交換しなかったのか。そこには、まあ、それくらいでいいだろうという安易さがなかったと言い切れるのか。そうしたいい加減さ、福島の原発の建設と運営でも見られなかっただろうか。最近ではそういうあいまいさといい加減さが新国立競技場の建設でも見られた。ま、そんなものでいいだろうと、誰が決めたのか。何故宇宙船のデザインでないといけないのか。日本的なデザインに何故しなかったのか。恐るべき、自民党政権の見識と品格の不足、横暴ぶりである。

「ディア・ハンター」2015/9/1
再放送で「ディア・ハンター」を見て、やはり良い映画だと思った。ペンシルバニアの製鉄所で働く普通の労働者(という事は社会的弱者)が、ベトナム戦争に出征し、地獄を経験して、また故郷に戻るという話だ。デジタル・リマスター版なので、とりわけ鹿狩りをする山岳地帯の風景が美しく描写されており、美しいテーマ音楽とマッチしていた。地獄のような戦場と鋭い対比を構成している。主演の、若き日のデ・ニーロや、クリストファー・ウォーケンも迫真の演技だ。ロシアン・ルーレットが何度も出てくるのはいささか無理があるとは思うが、基本的に反戦の映画である。
この映画で重要なことは、ベトナム戦争の結果、米国民の反戦感情が一気に高まったという事実だ。それは米国政府が推進したベトナム戦争を、米国民が否定したという事である。米国の推進する戦争が、必ずしも正義の戦争ではなかった。少なくも国民が支持するものではなかったのという事実がそこにある。アフガン然り、イラク然り。イラクの国民をサダム・フセインの圧制から解放したように見せているが、米軍の無差別攻撃で、途方もない数の市民が虐殺されている。しかも米国は未だに当時の映像を公開しようとはしない。
国民が反対しているのに、なぜ米国は戦争を始めたのか。世界の正義と平和の為か。世界の警察の役割を自ら進んで担っているからか。でもそれは本当の目的を隠すための言い訳として使われているように私には思える。もし世界の警察なら、中露の反対があったにしても、シリアの圧制を強く非難することで、その後のISの勃興を抑制する事も出来ただろう。米は未だにISやボコハラムとの戦闘には腰が引けたままなのだ。世界の警察ならこれはおかしなことだ。非難も攻撃もしなかったのは、シリアを攻撃しても何の得にもならなかったからではないのか。
百歩譲って、米国の戦争が資本主義陣営を守るためだったということを認めたとしよう。でもそれが紛争国の国民の自由と平和を守る為だと言われると、抵抗がある。米国も日本も決して平等で自由な、選択権の保障された国だとは思えないからだ。富と権力が偏在し、民主主義の理念とは程遠い不平等な国なのである。だからこそ、戦争を始める理由も、権力者の利害が優先すると思わざるを得ない。キューバ危機は、収奪していた米国資本をキューバが接収したことがきっかけであり、イラク戦争は米国の石油資本の利権が奪われた事が重要な要素だった。イラク戦争後、石油資本がいち早く利権を再設定したことでもそれは明らかだ。
第二次大戦も、軍部という権力者の為の、破れかぶれの自滅的で被虐的な戦争だったのに、当時の政治家や軍人が、その後国民に謝罪したという話を聞いたことはない。ただただ負けて悔しいというだけであって、その気持ちだけが戦犯を免れた岸から安倍に伝えられたのだろう。これでは政府が大戦を総括するはずもない。国民は今更のように、村山談話にどれだけ大きな意味があったかを、再認識する必要がある。70年談話でさえ、村山談話を否定することは出来なかった。日本会議や超保守系の女性論者の言動を見るにつけ、日本の国家主義者たちは、今もなおその思想が間違っていたとは思っていないらしい。という事は、私達は国内に、大戦でも懲りずに、好戦的な、戦争の火種になりかねない人たちを抱えているという事なのだ。安倍首相の無念さは、70年談話の棒読みの姿勢が端的に示している。本来なら、70年談話で(岸が刷り込んだ)自分の思いの丈を、思い切りぶちまけようと思っていたのに、周囲から、それをやったら自民党の命取り、国家主義が大嫌いな米国も承知しないと言われて、いやいや読みあげるから、砂をかむような、気持ちのこもらない演説になったのだ。それでも、内閣の支持率がやや持ち直したのだから、安倍も納得せざるを得ないのではないか。
しかし体質が変わらないという点では、保守政党だけでなく、メディアも同じである。戦争を始めるのは時の権力者であり、それを支持するのがメディアだという構図は現在でもそのまま温存されている。しかも人間的にも企業倫理的にも大きな問題のある会長が未だにNHKに居座っている。
帝国陸軍は、天皇陛下の為と称して戦線を拡大し、自国の兵士を無駄な死に駆り立てた。しかも終戦時には天皇の玉音放送を力で奪おうとした。そのどこに天皇への忠誠心があるというのだろうか。安倍首相も天皇制を支持するかのような口ぶりだが、両陛下の意向に絶対に従おうともしなければ、意図を解しようともしない。これでは不敬罪どころか国賊である。結局安倍首相の言う事は全てが言い訳であり、本音は別にあって、実は自分が国家の元首になりたいという事だけが真実なのではないだろうか。但し天皇家も、次世代になると終戦記念日にテニスをしているようなので、問題がないとは言い切れない。失礼を承知で申し上げれば、現代史のお勉強が充分とは思われない。これでは将来、即位した後で、象徴と言うよりむしろ飾りや傀儡として(失礼)安倍宰相の思うがままに利用されかねない。それは両陛下が望まれることは違うと思う。
次世代の手に平和憲法を無傷のまま手渡す。それが我々のような戦争の記憶の残る世代の使命なのだ。安倍首相のような国家主義者の思い付きの政策が大手を振ってまかり通るような国では、国の平和も、国民の自由も安全も保証できない。血気が盛んで分別のない若手の政治家や官僚が、領海の問題などを引き金に、自ら有事を引き起こしてしまう危険性さえある。戦後偶然のように日本人が手にした憲法。それは世界の平和遺産と言ってもよいものだ。それを堅持し、日本が本当の意味での民主主義の国となり、非武装中立を貫く。それが世界平和のお手本になる。そうなって初めて、後藤さんの犠牲も生きてくる。国家主義者の言う現実的な政策は、権力者にとっての現実的な妥協という意味でしかない。理想を掲げて、それに向かって自ら歩を進めない限り、いつまで待っても、望ましい世界が向こうから、自分でやって来ることはないのである。
この課題については、我々戦後世代が自らの手で目途をつけておかない限り、日本の将来で待つのは米国型の金融資本主義が暴走を重ねる格差社会であり、権力者にのみ有利な国なのである。その為には、選挙の投票率が5割以下という事態が、いかに異常な事態かを国民の一人一人がもっと強く認識する必要がある。その半数だけでも、リベラルを支持してくれれば選挙では勝てるのだ。世論調査は所詮選挙ではない。誰を代議員として選び、その判断を信頼するかは、選挙制度を通じてしか表明できない。しかし同じような選挙でも、米国では少なくも国の代表を国民が直接選べる。日本が米国に追随するのなら、まずここから真似しなければならないと思う。現在の日本の選挙制度では、代議員制の欠陥だけがもろに表れてしまっていて、民意を政治に反映出来る仕組みになっていない。そこに安倍政権の暴走も起因しているのである。

「TVドラマ」2015/9/2
私は自他ともに認める映画ファンで、趣味の段階を遥かに超えており、自分より優れた映画評論家は後にも先にも荻昌弘だけだと信じている(こういう大言壮語を世間では大風呂敷と申します)。だいぶ以前に亡くなった人なので、ご存じの方は少ないと思う。故人では、淀川長治、小森和子の名前が今でも挙げられるが、彼らはハリウッド万歳で、映画の社会的な意味の分析まではしない人達だった。
映画はそれこそ何千本見たか分からないが、TVドラマは小粒で映画のわき役としか思えず。余り見なかった。残業が多く、夜TVをのんびり見る時間などなく、劇場に行く時間もないので、映画ももっぱらレンタルビデオ(テープ)だった。子供時代は未だに家にTVがなくて、学友達が月光仮面の話題で盛り上がっていても仲間に入れてもらえずに悲しい思いをした覚えがある。
家にTVが来てからは、ローハイドやララミー牧場(無論モノクロ)などに熱中した。しかしTVを見る時間が増えれば、それに逆比例して確実に成績が下がり、故に私の人生で、TVドラマが役に立ったという事は一度もない。現在社会ならTVゲームの悪影響と同じものだろう。であるからこそ趣味(収入には結びつかない道楽)なのだ。自分の例でいえば、TVがない頃は優等生だったが(都内の学力模試で二位。一位は女子で、この時から女子が容易ならぬ相手であることを痛感)、その後急カーブで学力が後退したので、やはりTVやビデオゲームが子供たちを蝕み、白痴化に拍車をかけたことは間違いないと思う。それがひいては政治への無関心や、逆に思考停止で右傾化の温床にもなっているのではないか。青年よTV(とスマホ)を捨てて、街に出でよということだ。
退職して時間を持て余すようになって、真面目にTVドラマを見るようになった時に、最初にはまったのは刑事ドラマの相棒だ。水谷豊が嫌味たっぷりな杉下右京にぴったりだったこともある。映画やTV番組の王道は警察もの、即ち犯罪ストーリーである。これは小説でも全く同じだが、ミステリーが好まれるのは、それは人間が悪に関心があるからではなくて、非日常を求めるからだというのが私なりの解釈だ。
暇になったので、相棒の過去版を全部見たくなり、レンタルビデオ屋に日参して全部借りた。1か月以上かかり、結構な費用だった。それがきっかけで他のTVドラマにも興味を持つようになった。まずは定番のキムタクの異色検事ものの「ヒーロー」。そして医者ものでは私も通院した事のある総合病院を舞台にした「ドクターズ」。主演沢村一樹、ヒロインは比嘉愛未、憎まれ役は高嶋政伸が怪演。小栗旬と石原さとみの「リッチマン、プアウーマン」。NHKの日曜美術館を担当している井浦新が悪役。また堺雅人が長台詞で苦労した(悪徳?)弁護士の「リーガル・ハイ」。ヒロインは新垣結衣。堺と言えば倍返しの銀行員の「半沢直樹」。最近では佐藤健の「天皇の料理番」がある。更に近いところでは、阿部寛の「下町ロケット」が他の追随を許さない。なお「相棒」は最近めっきりつまらなくなった。ところでなぜ放送が終了した番組ばかり紹介しているのかというと、DVD化されているので、いつでも見られるし、むしろ現業で忙しい人にはDVDを借りてみる方が現実的だからだ。一巻借りてみて、つまらなければ、後は借りなければ済む話だ。
TVドラマと言えば、一般的にはNHKの朝ドラと大河だが、今シーズンは両方とも余り見る気がしない。ドラマで一番大事な要素は、続きが見たくなるかどうかに尽きるのだが、その気が起きない。特に大河「花燃ゆ」が視聴率で惨憺たる結果になっている。それはキャスティング、即ち俳優の起用で大きな間違いがあったからだ。伊勢谷が出ているうちは兎も角、東出昌大も高良健吾も、明らかに存在感が十分ではない。大河を背負うには力不足。これからの人材だ。現在放映中の「真田丸」では草刈正雄が気を吐いている。いささか常軌を逸した監督三谷幸喜の若者の現代言葉は行き過ぎを越えて聞き苦しい。現在の朝ドラ、「朝が行く」はヒロインに存在感があり、ディーン・フジオカがブレークした。二人の番頭役が出色。高橋英樹の大隈重信は違和感満載。朝の反抗期の娘はうざいったい。
一方バラエティ番組になると目を覆うばかり。同じようなタレントが集まって、同じような楽屋話を繰り返す。それを仕切る=MCと言うらしい、のは傍若無人な若手芸人たち。あれでよくゲストが席を立って帰らないものだと思う。彼らはそういう無礼なものに言い方は、視聴者にとっても不愉快なものだという事になぜ気が付かないのか。その証拠に、ぞんざいな口をきくタレントは、人気投票でも上位に来ない。
ここで本題。上記の国内ドラマは一応推薦だが、海外ドラマとなると、そもそも余り存在していない。特に私は韓流には全く関心がないので、海外の番組では深夜放送の自動車番組の「トップ・ギア」だけだった。この番組に比べると、国内の、カーグラフィックの番組は余りにも地味で、しかも独りよがりだ。トップ・ギアのキャストは自ら体を張っている。熱意が違う。日本車も公平に評価している。ドラマで唯一見たのは、NHKのシャーロック・ホームズの現代版、「シャーロック」だ。主演はベネディクト・カンバーパッチ。ワトッスンにはロード・オブ・ザ・リングのホビット役のマーティン・フリーマン。モリアーティ役を含めて、さすが英国の役者は存在感が違う。
もうひとつ気になったのが、深夜に放送していた「パースン・オブ・インタレスト」。コンピューター・ネットワークが個性を持ち、人間を助けたり、支配したりするというスト−リーだが、続きを見たいばかりに、衛星放送のAXNを契約した。そしてそのAXNで一番気になったのが今回推薦の「CSI,NY」だ。CSIとは犯罪科学捜査班のことで、実際にそんなものがあるのかどうかは知らない。このシリーズも人気番組らしく、ラスべガス編、マイアミ編、欧州編がある。お勧めはNY編だ。自分がかつて住んでいた場所だという事情もあるが、主演のゲイリー・シニーズは、トム・ハンクスのフォレスト・ガンプで、ベトナム戦で両足を失った軍曹を演じてアカデミー賞候補にもなった。渋いのでこわもての刑事役に向いている。このシリーズは残念ながらシリーズ9(即ち9年間)で終わった。なおこのドラマは決して家族と一緒に見る映画ではない。リアルな死体や司法解剖シーン満載だ。監督はアポロ13やアルマゲドンのブラッカイマーだ。

「亡国のイージス」2015/9/5
この中で、イージス艦こそ日本の専守防衛の具体的な形だと述べる部分がある。小説そのものは北朝鮮のスパイ(中井貴一)に踊らされて、海自の幹部(寺尾聰)がクーデターを起こすというストーリーで、日本には危機感が不足しているというのが、多分著者の言いたかったことらしい。一言で言ってこの作者も、百田の同類である。しかし妙にこのフレーズだけが記憶に残った。と言うより、本当にイージス艦の存在が専守防衛の決め手になるのであれば、そこを強化すれば(世界最強のイージス艦隊を持てば)、目的も明確でない上に、運用規則も分からず、しかも不平等な日米軍事同盟などより、遥かにましな抑止力にもなるのではと思える。

「007スペクター」2015/12/5
007の最新作スペクターを見た。いくら日本の映画やアニメが、クールジャパン等と言って得意になってみても、とてもではないが、日本の映画界が逆立ちしても、到底この映画には太刀打ちできそうもない。アクション・シーンの連続で、そこには無論特撮の技術の差もあるだろうが、何が違うと言って、一番大きな違いは、スケール感よりもリアリティだ。日本の怪獣映画を引き合いに出すまでもなく、日本の映画では、こうした現実感が決定的に欠けている。だからアクション映画でもSF映画でも、荒唐無稽な印象に終始してしまう。むしろのび太の未来を描いたアニメのドラエモンの方が余程リアリティがある。これは費用や技術の問題ではなくて、監督とプロデューサーの執念の問題だ。見る者の立場ではなく、作る者の立場から、まあこんなものでいいだろうという感じで、安直に作品を作って市場に出すのだから、ろくなものにならないのはむしろ当然なのだ。
但し海外の映画が皆優れているかと言えば、無論そうでないことは言うまでもない。凡作や駄作も多い。でも平均点ではやはり米英の映画の方が上だ。今回の007が特に優れているのは、それが本格作品を志向している点だ。それは手抜きや妥がないという事だ。奇をてらったところもないので、いかにもセットで撮影しましたという、作り物感がない。但し、映画は主観的な要素が強いので、見る人によって評価は異なると思う。従って自分の眼で見て、判断して頂きたい。
主演のダニエル・クレイグは007を演じるのは死ぬほど嫌だと言ったそうだ。それでも、今のところ彼以上の適役はなく、ショーン・コネリーを含めて歴代でも明らかにトップだ。ストーリーは、前作品のスカイ・フォールが下敷きになっており、M(ジュディ・デンチ)が死亡した後の後任にレイフ・ファインズが着任している。ファインズも年を取った。但し今回はMにも若干のアクション・シーンがある。TVシリーズのシャーロックにモリアーティ役で出演していた俳優が、この作品でも悪役で出演している。007の乗り物は定番のアストン・マーチンだが、今回は最新のスーパーカー版(5億円)だ。ゴールドフィンガーで登場した旧型のアストンも最後に登場する。日本の映画が、こういう映画を超える日、せめて肩を並べる日が、いつかは来るのだろうか。

「スタートレックの世界」2015/12/15
ナショジオと共にヒストリー・チャンネル(有料)をよく見るが、その中でスタートレックの世界という番組がある。やや荒唐無稽な要素のある、スタートレックという米国で人気のTVと映画のシリーズが、米国の科学の発展に少なからぬ寄与したという趣旨で作られた番組である。但し説明自体はかなりシリアスなものだったので、その中から一部を紹介させて頂く。
…最近の研究ではほぼすべての恒星が惑星を持つことが、探査機の観測から分かってきた。但し凍らない水の存在が生命誕生の条件であり、そうなると候補が絞られる。とはいえ、銀河系内だけでも、そういう惑星は無数に存在する。知的かどうかを別にすれば、地球外生命が存在する確率は極めて高い。その中には人間と同じような高度な知性を備え、他の宇宙生命とコミュニケーションを取ろうとする生命体もあることだろう。地球外生命の存在の確率を計算する有名な計算式があるが、その中で最も不吉なものは最後の変数。即ちその種族の存続期間である。だから複数の知的種族や文化があちこちで誕生したとしても、その存続する期間が重なっていないと交流の機会もない。
…生命が進化し、知性を持つようになると、異なる種族同士での争いが必ず起きる。人類の歴史も戦争と、武器の発達の歴史だった。このまま進めばいつか個人が核兵器を備えるようになるかもしれない。そうなればいかなる抑制力も働かず、人類と地球が滅亡するのは単に時間の問題になるだろう。<br />
…30年前、即ち1977年にボイジャーが打ち上げられ、初めて木星や土星の美しい写真を地球に送ってきた。そして今、それは太陽系の外縁部にあり、人類が作った探査機として、初めて恒星間の宇宙に向かって旅立とうとしている。ボイジャーには惑星探査の他にもうひとつのミッションがある。それはカールセーガンの監修で準備された、金メッキで保護されたレコード(アナログ)だ。レコードには地球の生物が立てる様々な音、動物の声、音楽、そして機械の音も収録されている。レコード再生の為の針も添えられている。宇宙の他の知的生命がこのボイジャーを見つけた時に、かつてどこか彼方の惑星に、探査機を飛ばして他の宇宙生命とコミュニケーションを取ろうとした文明が存在したことを知るだろう。
…現在の人類の科学力では恒星間飛行は不可能である。但し可能性はゼロではない。その方法は宇宙船の前方の空間を圧縮し、後方の空間を引き延ばして、前方に瞬時に移動するという方法だ。一言で言えばワープである。この方法ならアインシュタインの光速の原理に縛られることもない。家族が生きているうちに他の恒星に行って戻ってくることも可能だ。しかしこの航法には莫大なエネルギーが必要だ。例えば惑星一個分のエネルギーが必要になるかもしれない。いま人類にはそのようなエネルギーを入手する技術はないが、仮にそういう技術は可能になれば、それはそれで大きな問題を引き起こす。即ちそれは使い方を一歩誤れば惑星全体を破壊しかねないからだ。
…SETIなどで、他の地球外生命を探す努力は今も続いている。しかし人類が見つけるにせよ、彼らの方が先に人類を見つけるにせよ、両者が出会った時に何が起きるか。人類はいかに遠方であれ、新たな場所を発見すれば、必ずその地に行くという衝動を抑えることが出来なかった。なので地球外生命を発見した時に、うまくそれを保護して教育することが出来るだろうか。種族の違いが、国と国との争いになり、やがて戦争に発展するという歴史を人類は嫌と言うほど経験している。しかも今や人類は全ての生命を破壊できる力さえ持っている。争う事が人類の宿命なら、人類はやがて全滅するだろう。即ち存続期間がごく短いという事だ。人類に文明を教えた宇宙人と同じように、人類は自分より劣る生命体に接する事ができるのだろうか…。
何故セーガンが映像とは言わないまでも、せめて人類の写真をボイジャーに搭載しなかったのかは分からない。彼はアナログ趣味なのだろうか。ところで私はUFOの存在を信じている。それは自分で目撃しているからだが、その実体は未だに分からない。しかし何かが存在することだけは確かである。それでも種類が余りに雑多な上、その行動も常軌を逸しているので、少なくも人類が常識で付き合える相手では無さそうだ。その異質さが、人類の友人であるより、脅威である可能性が高い事を示唆している。一方で、エリア51の滑走路に、得意のジグザグ飛行の多数のUFOが着陸するシーンを目撃しているので、謎は深まるばかりである。自滅が予想されている種族を、宇宙中から観光に来ているのかもしれない。

「新・世界の世紀」2015/12/18<br />
12/20にNHKが放送予定の「新・世界の世紀」は再放送番組だが、ある人物をテーマにしている。その人物は第一次大戦後の不況にあえぐ国民に職を与え、国民の支持率は90%に達した。国民は彼に絶対的な権限、即ち独裁者の権限を与えたが、その後で迫害が始まった。その結果第二次大戦で世界の6000万人が命を落とした。その7割は一般市民だった。戦争を推し進めたのは、一重にヒットラーの制服欲が原因だった。何故国民は彼の独裁を許したのか。
世界中でナショナリズムが台頭し、政治の独裁化が進む今こそ、第二次大戦を引き起こした独裁者が、どのように権力を握り、世界を地獄に導いたのかを、21世紀にいる我々が自分達の眼で再検証する事に大きな意味がある。何度でも書くが、最近亡くなった野坂昭如の最期の警鐘、「いまの日本は戦前だ」という言葉を、私達は絶対に聞き捨てにしてはならないのである。

「スター・ウォーズ、フォースの覚醒」 2015/12/26
「スター・ウォーズ(SW)フォースの覚醒」をやっと見た。出だし部分だけでは、これがSWかと思いつつ、ハン・ソロのハリソン・フォードの登場で、にわかに実感した。旧6作と何が違うと言って、まず画面のスケール感だろう。砂漠に横たわる帝国艦隊の朽ち果てた巨大戦艦。主人公(女性)はそこから部品を取り外して生計を立てている。パドメ役だったナタリー・ポートマンと似ていなくもない。しかしこの若い女性の身元は明らかにはされていない。ただ者ではないことは後半で分かる。また彼女に付き従うドロイドは新型になっており、ころころ転がる球形の身体と、そこにどこでどうつながっているのか見当もつかない頭部が載っている。名前はBB8だ。以後お見知りおきを。
ところで一度、ダークサイドが支配する悪の帝国が滅んだ我らが銀河系だが、ダークサイドは完全には消え去ってはいなかった。それどころか、シディアス卿(皇帝)やダース・ベイダーの闇黒の思想を継承する強大な組織、ファーストオーダーが、帝国に代わって銀河系の支配力を強めていたのである。彼らが狙っているのはただ一人残った光の側のフォースの使い手、スカイ・ウォーカーだ。その居場所の地図を持っているのはBB8だけである。<br />
戦闘シーンに登場するのは、タイ・ファイターやストーム・トルーパーなど、帝国軍と同じキャラだ。トルーパーの兵士には辺境の惑星から子供をさらってきて、殺人マシンに仕立て上げている。その一人、黒人青年フィンは、市民の殺りくに抵抗して、ファーストオーダーから脱走を図る。ウォーズという題名が付くくらいだから、全編を通じて戦闘シーンの連続だが、これという目新しい新兵器はない。但しより強力になっている。但し漆黒の宇宙を背景にした旧作の戦闘シーンと異なり、地上での戦闘が主体なので、ミレニアム・ファルコンが青空に舞い上がる新感覚のシーンもある。随所に旧作で見たキャラやシーンがリニューアルして挿入されており、それも楽しみのひとつだ。
とは言え、やはりルーカス自身が監督をしないと、旧作で毎回楽しみだった、新しい着想が、今回の作品では希薄だという印象を受けた。惑星が崩壊するシーンなどのスケール感では、さすがに時代の差を感じさせる。でもファントム・メナスで登場したポッド・レースのような、こんなものもあるよ的な楽しみ方は限定される。あくまで旧作の下敷きを忠実になぞるという作り方で、それはそれで一つの見識だと思う。
それでもなお、この作品は確かにスター・ウォーズである。私も若い頃SWを見て育ったのですが成長(?)した人間だが、先日、米国で末期がんの患者の男性が、新作を死ぬ前にどうしても見たいという望みがかない、一般公開前の試写を見る事が出来て、満足して亡くなったという記事があった。私も本作には間に合ったものの、次作が見られるかどうかは、甚だ心もとない年齢になった。
但し、なにがなんでも次作が見たいかと言えば必ずしもそうでもない。なぜならスター・ウォーズは確かにスター・ウォーズでも、それは意外性(センス・オブ・ワンダー)に満ちたジョージ・ルーカスのスター・ウォーズではないからだ。
もうひとつの欠点は、新作の悪役にはインパクトがないことだ。もしこれがカンバーパッチなら、続きを観たいと思ったかも知れなし。でも彼は第三世代のスタートレックで、既に悪役を演じている。JJエイブラムスの作品には共通するものがある。確かに激しいアクションもあり、息を呑むような特撮シーンもあるにはあるのだが、映像が主役で、登場する人物が映像の脇役に退いてしまい、存在感が希薄になった事だ。キャラクターの心理描写が浅いので、その結果、観客がストーリーに引きずり込まれて、いつの間にか自分が登場人物と同じ感情をシェアするというところまではいかなかったのだ。即ちわくわくするような映画の楽しさが比較的少ない。ゆえにJJのSWはルーカスのSWを凌駕出来ていないのである。
観客をストーリーに引き込むことが出来る映画人こそ本当の巨匠であって、現存では、ジョージ・ルーカス、スピルバーグ、ジェームス・キャメロン、そしてリドリー・スコットだ。黒沢明を除けば、日本にはそういう一流映画人はいない。

「紅白歌合戦」 2016/1/1
紅白ブタ合戦の総括である。紅白の良いところは、今年の大衆音楽を、まとめてレビュー出来ることだ。特に女性歌手は緊張すると輝くが、紅白ではそれが特に顕著である。やはりここでも若い人が有利で、一番見栄えがしたのはAKBだった。
なおイノッチの司会起用は正解で、気負わない雰囲気が番組に普段着の印象を与えていた。いくらしょうゆ顔でも、歌って踊れるというのは司会者として大きな取柄だ。米国ならMCには必須の才能である。ちなみに紅組司会の有働は、背中の空いたドレスを着るのなら、背中に余程自信がないとお年を感じさせてしまう。
私は就寝時間が早いので、生では見ない。こういうときに録画機の早回し機能が助かる。いま早回ししながら原稿を書いている。<br />
最大の疑問はプロデューサーの価値観にある。日本の大衆の知的レベルをどう考えているのか見当がつかないからだ。但し良いところもある。それは視聴者を楽しませようという強い熱意と意欲が随所に感じられる点だ。
総合司会の黒柳は、考え方はまっとうでリベラルではあるけれど、紅白のステージ上では、奇抜な衣装とあいまって、ただの派手なおばさんに過ぎなかった。盛り立て役のバナナマンはいつものようにタメ口で、他にも選択肢はあるのではないか。
ステージに載せられるだけ載せて、数で勝負するのでは自民党と同じだ。NHKでないと聞けないという、歌の質で勝負すべきである。お祭りに振れば、大衆はいずれ飽きる。質を高めれば長持ちする。しかし中には自分の方がましだと思うような、本当に下手な歌手も相当いた。平均しても、音楽の質的なレベルではベテラン歌手(今井美樹や高橋真梨子など)を除けば、それほど高いとは思えなかった。新規登場のグループでも、これと思うものは(あくまで私から見て)殆どなく、新人、新曲の多かった演歌でも、これというものには出会えなかった。演歌部門では、細川たかしの登場でやっとホットするという状態だ。ベテラングループの中では、難しい歌ではあったにせよ、トキオの歌がかなり下手だったのには、びっくりポンだった。下手さでついにSMAPを超えたらしい。ちなみに美輪明宏のヨイトマケの歌は不適当な選曲だった。どうしても歌わせたいのなら、シャンソンでも歌わせるべきだろう。森進一の熱唱も今の若い人には違和感があると思う。更にオケも時々ずれているように感じた。最初に出たのが郷ひろみで、トリが松田聖子という配役に皮肉さを感じたのは私だけだろうか。要するに音楽の祭典なのに、肝心の音楽があかんかったという訳や。<br />
与えられたものに、あれこれ文句を言っても始まらないが、全体的な印象としては、(いつものように)紅白という名前に胡坐をかいているか、またはNHKという印籠をすぐに取り出す水戸黄門みたいだった。ちなみにプロデューサーが何を考えたのか、肥満体の男の裸が売り物(?)の明るい安村はステージ向きでも、茶の間向きでもない。彼を背景に歌わされた細川が呆れていた。プロデューサーが男の裸に格別の関心でもあるのだろうか。<br />
紅白いちばんの見どころはやはり「365日の紙飛行機」だった。昨年ならマッさんのテーマの場面というところだ。水木しげるの追悼も結構と思う。しかし水森が乗っていた鳥は、落ちたら命がないだろう。ダースベイダーは兎も角、BB8の登場にはちょっと驚いた。
一夜明けて(いや年が明けて)新春新企画で一番良かったのは富士山頂から朝日が昇る初日の出の中継だった。時間がちょうど朝食の時間帯だったこともある。なおコパによれば今年はこれと決意したら、実現するのだそうだ。ならば皆様と一緒にがんばりたい。私の決意は今更言うまでもない。政権の交代だ。

「4K版アラビアのロレンス」2016/2/25
TV放映の4K版「アラビアのロレンス」を見ました。我が家のTVは普通のハイビジョンですが、映像の色彩ときめの細やかさは最高でした。遠景の多い映画なので、解像度が高いとリアリティが全然違います。これほど砂漠を美しく捉えた映画はかつてなく、これからも現れないでしょう。いまアラブが混乱している時期が時期という事もあって、全人類が一度は見ておくべき世界の文化遺産です。主演のピーター・オトゥール(既に他界)の演技は、いま見ても粗削りですが、周りを固めるベテラン俳優の演技が凄い。演じる本人が眼前に姿を現したかのようなリアリティがあります。オマール・シャリフ(ドクトル・ジバゴ)はこの映画でデビューしたようなものだし、アンソニー・クイン、アレック・ギネスも脂が載っており、バリバリの現役でした。私は数十年前に封切を映画化の70mmスクリーンで見ましたが、人生経験を重ねた後でもう一度見ると、深い意味までも理解できます。機会があれば、皆様も是非、高精細スクリーンで早回しせずにご覧下さい。映画史上、不朽の名作です。
映画の話題ついでにもう一つ。私は猛烈な映画ファンで、NY駐在当時も字幕がないので半分く分からないまま、映画館には良く通っていました。マンハッタンの書店での映画スターのサイン会以外に、映画に直接関係する機会もありませんでした。ところが映画製作、というより脚本の一部修正に関与したことが一度だけあるのです。しかもそれはスピルバーグの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」です。二作目で、マーティーが成人して勤務する会社が日系企業で、その意地の悪い上司が日本人。しかもその名はフジツウです。どうやら脚本家には日本の人名と企業名の区別がつかなかったようです。しかしフジツウ氏が善人なら未だしも、嫌味な人物像だったので企業イメージが下がります。ましてその映画は世界中で見られているヒット作なのです。そこで私は本社にご注進し、法務部の指示を仰ぎました。結果、放置ということになりましたが、事務所から注意喚起の手紙だけは出すことにしました。丁寧な返事も貰いましたが、その結果がスクリーンにも反映されていました。第三作で、デロリアンの破壊された半導体チップを手に取った主人公が、これは日本製だ、日本製なら間違いないと語ったのです。まったくその場には不必要な台詞であり、CMのような一場面でした。無論それが私の手紙が原因だと断定することは出来ませんが、その可能性も否定できないと思っています。手紙の返事がスピルバーグからではなかったので、それだけが残念と言えば残念です。

「今夜も生でさだまさし」2016/2/29
毎月末放送の、「今夜も生でさだまさし」は録画で毎回見ていますが、生放送というところに実は最大のポイントがあります。録画での放送では、編成局の都合の良い、即ち自民党独裁政権に遠慮した、委縮した内容に編集されてしまう恐れがあるが、その「危険性」が少ないからです。そういう意味では鋏の入る余地のない国会中継がいかに大事かという事です。出演者にも視聴者にも負担の掛かる深夜番組ですが、NHKの番組の中で数少ない反戦、反権力の姿勢を堅持しており、高齢者、というより団塊の世代、というより国民として、心強く感じています。そのうち私もネタがあれば葉書を書きたいと思っています。それはそれとして、番組中しょっちゅう出てくるフリップに、歌まで出来ている、「意見には個人差があります」、という文があり、これはある意味、強烈な権力批判になっています。なんとなれば、安倍首相と金太郎飴の(ものを考える習慣のない)閣僚達には、絶対に言えない言葉だからです。政権の見解が全てで、言論弾圧の意思を隠そうともしない総務相は、自分の立場や職務さえ理解出来てはいないようで、公平を欠いているのは報道機関よりご自分の方です。しかもこれは明らかに公私(の意見の)混同でさえあります。自民党右派政権は、国民が自分達と同じ意見であるべきだという硬直した(そして思い上がった)考え方を持ち、意見の個人差など認めたくない人達なのでしょうか。がんばれリベラルな国民の星、さだまさし。それから無論、桑田佳祐も。

「シン・ゴジラ」2016/8/18
何か月ぶりかで劇場で映画を見ました。シン・ゴジラです。シンとは新の意味なのでしょうか。足を運んだのは、日本の特撮技術がどこまで進歩しているのかを確認したかったからです。確かに進化していました。今回ゴジラが暴れるのは、武蔵小杉と、最後の大暴れが東京駅です。ミニチュアの街を作って踏みつぶすという原始的な手法では、現代の観客は納得しません。CGがメインですが、徹底的にリアリズムに拘っています。潰される車両も船も、本物としか思えません。破壊されるビルのスケール感もリアルで、ミニチュアでは避けがたいクローズアップやピンボケがなく、ビルの破片が大きすぎたり、飛び散る速度が速すぎたりもしていません。
この映画を評して、エバンゲリオンを思い出すと言った批評家がいましたが、言い得て妙です。どこから来たのか、ひたすら進むだけで、何が目的なのか。破壊と人類絶滅の使徒なのか。冒頭のシーンで、目玉だけがやけに大きい不細工な怪獣が出てきて、這いずりまわるので、観客を馬鹿にしているのかと思ったら、実はこれが海に帰って2倍の大きさになって戻ってきます。水中なら自重で潰れて自滅するなどという御用学者(御用学者と言う表現が皮肉です)の説明も当て外れ。二度目の上陸では立姿になります。顔つきはハリウッドのそれではなく、オリジナルの日本のそれです。牙のかみ合わせが悪そうだなどというセリフもありました。
ただただ地上を突き進むゴジラに、首都圏であるにも関わらず自衛隊が攻撃をしかけます。お約束通り、銃弾もミサイルも、効果はありません、厚い皮膚に当たっては、金属音を立ててはね返るだけ。ゴジラ発生の原因は、各国の放射性物質の海洋投棄です。最初は口から放射能を吐いたりはしませんが、次第に体内にエネルギーを溜め込み、そのうちに炎どころか、背びれからもレーザー光線を放つ。東京駅周のビルも真っ二つ。ゴジラを動かしているエネルギー源は核融合反応なので、空気と水さえあればいい。しかも単性生物だから、放置すればどんどん増える。世界中が破壊されるのは時間の問題です。国連安保理は熱核兵器を使うという判断を下しました。どうする日本政府、どうする自衛隊。
冷却剤の投与方法にはいかにも無理がありますが、しかしそんなことを言っていたら、こういうパニック映画を楽しむことは出来ません。政府は対策本部を立川に移転するが、その時に、(私も使っている)多摩都市モノレールの基地が出てくるのが珍しい。また住民避難に政府があまり熱心でないのは違和感がありますが、これも国民軽視の現在の政府への皮肉なのかもしれません。
二本目の映画は、NHKBSが昨日放映した、「リバティ・バランスを撃った男」です。ジョン・フォードの名作で、私が自分の映画ベストテン(他には渚にて、ナウシカ、タイタニック、史上最大の作戦、スターウォーズ、アビスなど)に必ず入れる作品です。カラー全盛の時代に敢えてモノクロで撮影。ジョン・ウェインと、ジェームス・スチュアートの事実上最後の共演映画ではないか。悪役リバティ・バランスにはリー・マービン。これがシェーンのジャック・パランスだと冷酷すぎる。東部出身で、銃が嫌いな若い弁護士が西部の荒くれた町に来て、早撃ちの悪役と対決する。ただそれだけの映画です。私は学生時代に、この映画を、父親を連れて劇場で見ました。父親がリー・マービンのファンだったからです。今回改めて見て、かなり記憶と違っていました。しかもなぜかあの有名な主題歌があまり流れませんでした。今こういう詩情溢れる、重厚な映画があまり作られなくなりました。特撮と派手なアクションだけで、生身の人間が演じているというリアリティがありません。懐かしい西部劇と、古き良きアメリカを彷彿とさせる映画です。見て損はありません。銃の音が大きいが、45口径だから当然です。但しステーキの大きさが半端ではない。ヒロインには大人の美しさがあります。

「ローグ・ワン」2016/12/22
SF映画ファンとしては絶対に見逃せないのがスター・ウォーズです。ちょうど1年前にエピソード7が公開され、今月更に新作が公開されました。但し7の続編の8ではありません。エピソード7は、ルーカスが監督していなかったので、やはり違和感が残り、とくにハン・ソロのぐれた息子は、存在感というより存在理由が希薄で、異質の存在でした。今回のローグ・ワンは、シリーズの流れで言えば、エピソード3と4の間に位置する、サイド・ストーリーです。
出演者もシリーズとの共通点は余りなく、俳優としても見知らぬ顔ぶれです。ストーリーが重なる部分、即ち反乱軍の陣容には見知った顔がありますが、20年以上も前の俳優がそのままで出てくるのはおかしいので、似た俳優科CGだと思います。それが顕著に感じられるのが、一種だけ登場するレイアです。エピソード4につながるので、むろんダース・ベイダーも生きていて、過去最強、最悪のダース・ベイダーです。声優は無論同じですが、体格が大きくなったので、中身は違う人かもしれません。なお反乱愚の将校の魚頭の将軍のメイクは一層グロになっており、これは全く感心できませんでした。
時期的にはデス・スターが完成する直前であり、大雑把に言えば、デス・スターの惑星破壊装置を設計させられた科学者と、その娘の活躍を軸に、どうやってデス・スターの設計図を盗み出すのかというテーマです。しかも冒頭何の説明もなく、いきなり帝国軍に科学者が拉致されるシーンから始まるので、予備知識がないとチンプンカンプンです。画面としても、全編を通して暗いシーンが多く、シリーズのように、すっきりした映画にはなっていません。
但し、特に惑星を背景にした宇宙船同士の戦闘シーンは、これでもかというほど緻密でリアルで、間違いなく技術的に現代の最高峰にあると言えます。デス・スターの試運転(?)として、惑星上の都市が破壊されますが、その崩壊シーンもリアルです。
スター・ウォーズが初めて世に出た時、それまでSFと言えば流線型でピカピカの宇宙船が相場だったのを、流星形でもないし、汚しの入った宇宙船で、リアルな質感を演出していたことを思い出します。SFをアニメから実写、即ち現実の世界に置き換えることに成功したのも、スター・ウォーズの功績です。それから何十年も経た現在、宇宙背にしても兄弟は装置に内部や機器類の質化にしても、まさに現実の機械そのものの質感が見事に描写され、金属の質感と、乗り物の重厚感が伝わってきます。支える棒や釣っている線を消した形跡も殆ど感じられません。映画の題名のローグ・ワンというのは、反乱軍が帝国軍から奪った貨物船に勝手につけた名前です。なお今回、初めて東洋人が戦士の一人で登場し、カンフーと杖で帝国愚のストーム・トルーパーを斃しています。ちなみにこれまで武器はレーザー銃もしくはブラスターだったのが、どうやら硬い弾丸が飛ぶ銃に変更されたようです。ライト・セーバーを振り回すのはダース・ベイダーだけです。主演級の俳優質が少なくも私たちに全くなじみがないという点が残念と言えば残念です。せめてTVドラマの俳優を使ってほしかったところです。