「WTW映画批評」
【2017年】
「紅白ムダ合戦」 2017/1/2
去年の紅白、期待を遥かに下回る出来栄えでした。年々悪くなるのがこの番組です。しかも評判もあまり良くないようです。まず進行役が男女ともにほぼ機能しておらず、嵐を使うのなら全員で順番に対応させれば、負担も失敗も少なかったのではないか。プロデューサーはリハーサルをしなかったのでしょうか。最初から最後まで、カミカミの連続でした。
タモリとマツコの裏ストーリーは、ブラタモリを意識し過ぎて、舞台の裏側を巡るという発想が、紅白の華やかさと裏腹になっており、白けさせる原因の一つになっていました。逆境に置かれたわりには、二人とも)善戦していたので、ブラタモリ特別篇として独立して放送すれば、あれほどの違和感はなかっただろうと思わせます。ところでピコ太郎は出過ぎです。
観客席の真ん中にサブステージを作るという構想が、求心力という意味で全体のまとまりをぶち壊していました。歌の祭典なのに、良い歌をじっくり聞いたという印象が残りません。オスカー授賞式のように、思い出のコーナーを作るのは良いアイディアでしたが、ならば永六輔の歌をもっと紹介すべきでした。
思うに、NHKの制作チームの質が下がってきているのではないでしょうか。過去の番組の方が、ぎこちない部分はあっても、少なくとも制作側の熱意だけは伝わってきました。バラエティで一本筋を通すことができるのはNHKだけなのですから、不人気の歌手でも実力のある歌手や、地味でも質の高い音楽を提供するくらいの意気込みを見せて欲しかった。ビジュアルにこだわる過ぎて、もはや年に一度の歌の祭典でさえなくなっていました。
壮大なお金(しかも視聴者の)の無駄遣いです。多分それをNHKは理解できないし、理解しようともしないでしょう。メディアのアベノバブルです。反省の無い、自我肥大の伏魔殿。それがNHKなのでしょうか。率直な印象です。NHKでいらないものは報道部門と娯楽部門であり、文化部門だけ残せば十分ではないか。いやこれは新年早々、悪口雑言の数々、誠に失礼をば致しました。
「沈黙」2017/1/24
映画「沈黙」を見ました。3時間弱の大作です。内容が内容だけに、安倍首相が感想を問われて、沈黙、または絶句した気持は、むしろ分ります。と言うか、一般人ならそれが普通の反応だと思います。私も(なんと安倍氏も)学生時代に原作を読んでいますが、正直こんな筋だったっけという感じが先ずありました。しかし監督のスコセッシが22年間、肌身離さず英訳本を持ち歩いていたというのだから、原作を尊重していることだけは間違いないと思います。アカデミー賞の候補になりそうな作品で、可能性があるとすれば主演男優賞でしょう。テーマも筋も背景も、陰鬱の一言に尽きる重いテーマの作品ですが、先を知りたいというストーリーテリングの手法が生かされているので、最後まで見させる映画になっています。
島原の乱が収束して間もない頃、キリシタンの弾圧と、宣教師の追放が厳しさを増していました。何千人もの信者が拷問を受けて殺され、宣教師も追放や処刑されているといううわさがポルトガルの教会にも届いていました。そこで教会としても、これ以上宣教師を派遣する訳にはいかなくなっていたのですが、2人の若い宣教師、うち一人がこの映画の主役ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)が、どうしても日本に行かせて欲しいという願いを出します。そこで教会は最後の宣教師として二人を送り出します。二人はマカオで若い日本人キチジロウ(窪塚洋介)と会い、彼の手引きで九州に上陸します。二人の宣教師の目的は、彼らの指導者でもあったフェレイラ(ニーアム・リースン)が、棄教して日本人として住み着き、戻ってこないという話を聞いていたからです。宣教師なので、殉教はあり得ても、転ぶ、即ち棄教という事は想像もできないことだったので、会って真意を確かめたいと思ったのです。なぜフェレイラが棄教したのかが、この映画のポイントです。
二人は信者の村人の手配で、炭焼き小屋に潜んで、布教活動を始めますが、ある日、小屋の外に出ていた時に五島の村人に見られ、五島にも布教に来てくれと頼まれます。ロドリゴは五島でキチジロウに再会しますが、キチジロウは賞金と引き替えにロドリゴを奉行所に売り渡します。その時からロドリゴの獄舎での生活が始まります。キチジロウには家族を密告し、全員が処刑されたという経験があります。奉行所の手先でもあり、簡単に裏切るくせに、その赦しを乞うのです。命がけで信仰を守る人間ではなく、すぐに踏み絵を踏むような弱い人間の代表として、何度も画面に登場します。殉教者の美学も彼には無縁であり、自分可愛さにひたすら奉行所に媚びを売る人間です。
何とかしてロドリゴを転ばせようと企む、奉行所の井上筑後守(イッセー尾形=名演というよりは怪演)の策略で、ロドリゴがフェレイラと再会します。フェレイラと話し合ったロドリゴは、果たして信仰を捨てる(転ぶ)のか。また彼の人生は、そこで終わるのか。
日本人が多数出演しており、通訳の浅野忠信の英語は流ちょうです。浅野の役は最初、渡辺謙に話が来たものの、スケジュールが合わなかったと言われます。しかし渡辺ではあのいやらしい感じは出せなかっただろうと思います。この映画はれっきとしたハリウッド製ですが、それでも、服装や町の情景なども、少なくもラスト・サムライなどに比べれば、日本の映画と言って通るほどリアルです。
ポイントは、一にも二にも、映画の主題にあります。この映画が何を言いたいのかが、分からなければ、3時間が全くの無駄になります。
それでもこの映画を見た直後に何らかの感想が言えるのは、哲学か宗教を、少しでも学んだことのある人だけでしょう。だから安倍首相は答えられなかったのだと思います。一言で言えば、これは宗教と、信仰の映画であり、特に信仰が主要なテーマです。スコセッシは、自身がカソリックの信者でありながら、欧米ではおよそ考えられない神の存在を疑うという主題を取り上げました。同時に、信仰の本質と、奇跡や現世のご利益との関係にも踏み込んでいます。スコセッシの意図が理解出来れば、この長い映画を見た事が無駄にならないと思います。しかも画期的なことに、最後の部分で、仏教との違い(実はスコセッシの仏教の理解が完全とは言い難いにしても)の説明が登場します。因みに沈黙はこれが初めての映画ではなく、日本では1971年に篠田正浩が映画化しています。
信者が宣教師の目の前で拷問され、虐殺されているのに、神は手を下すは愚か、信者の悲痛な叫びにも答えようとはしない。そこにあるのは神の沈黙です。では神は信仰に対して、どう報いてくれるのか。それに答えようとするのが、原作であり、この作品です。但し、よくありがちな間違いは、イエス・キリストと神の違いです。イエスは神の子ですが、人間であり、神とは違います。
誤解を避けるために、更に一言付け加えると、遠藤周作もスコセッシもクリスチャンであり、作品中で神は死んだとは一言も言っていないのです。それは実存主義の概念であり、実存主義では神も天国も存在していません。この作品では、神は存在していますが、ただ答えないのです。
私はあらゆる(新興宗教や、カルトを含む)宗教が、この永遠のテーマにどう答えるのかを是非聞きたいと思っています。その答えを聞けば、この質問が、その宗教が本物か、それとも信者のカネ目当ての偽物なのかが分ける、リトマス試験紙になると思います。
この映画は、死ぬ前に見ておくべき映画のひとつです。というより、日本語を読むことのできる日本人なら、やはり原作を読むべきでしょう。
そもそも人間にとって宗教とは何なのか。それを考えさせる映画です。それは倫理も正義も平等も失われ、テロが無差別殺戮を繰り返し、金への欲望が人類を支配する、人間性も魂も荒廃しきったこの世界で、いま最も問われなければならない人類共通のテーマなのです。人殺しを正当化するような宗教(あらゆる聖戦を含む)は、信仰するに値しないことに、早く気が付い欲しいのです。
「ラ・ラ・ランド」2017/2/25
今年度のアカデミー賞候補作品で、タイタニックと並ぶ過去最多14部門ノミネートの「ラ・ラ・ランド」を公開初日の昨日見ました。以下は自分で言うのもおこがましいが、少なくともタレントの映画評などよりはいくらかましな、ラ・ラ・ランドの映画評です。
最近のハリウッド製ミュージカル映画と言えば、多分アニメの「アナ雪」であり、またその前は「美女と野獣」で、これもまたアニメでした。その他にブロードウェイの、「オペラ座の怪人」(ジェラルド・バトラー)と、「レ・ミゼラブル」(ヒュー・ジャックマン)の、それぞれ実写版の映画化がありました。今回の作品は、俳優が歌って踊る、現代のLAを舞台にしたミュージカルです。アクションやきわどいシーンは一切ありません。但し雰囲気としては「ウェストサイド」より、むしろ「シェルブールの雨傘」に似た印象です。それはご覧になれば、と言うより曲を聴けば分ると思います。
俳優が自分で歌って踊るのは当然としても(マイ・フェア・レディのヘップバーンはメリー・マーチンの吹き替えで、むしろその方が珍しい)、セブ(セバスチャン)役のライアン・ゴズリングがピアノを弾くシーンも吹き替えではありません。3ヶ月の特訓の成果とは言え、とても素人の域とは思えません。
監督は、若いドラマーと厳しい教師を描いた「セッション」の監督で、「セッション」で主演男優賞を取ったJ.K.シモンズもちらりと顔を見せており、一種の楽屋落ちになっています。
セブはジャズ・ピアニストで、いつか自分の店を持ちたいという希望を持っています。それはNYで言えば、ブルーノートのような店で、酒と食事も出すジャズ・クラブです。セブは正統派のジャズ志向で、現台風のアレンジは余り好きではありません。アルバイトでピアノ伴奏をしていたレストランでは、弾きたくもないクリマスソングをいい加減に弾くので、すぐに首になります。
相手役のミア役のエマ・ストーンには、ジャズと言えば、エレベーターの中のBGMで流しているケニー・Gの事だと思っていたという台詞もあります。私はNY在住当時にケニー・Gの存在を知って、ファンになり、CDを集めた記憶があります。本物のサックスは到底自分には無理なので、代わりにウィンド・シンセで時々演奏しています。無論とても他人に聞かせられるようなものではなく、こっそりと自分で楽しんでいるだけです。テンポのゆったりした、穏やかな曲ですが、それでもジャズです。
セブが店を出すには資金が必要です。そこに昔なじみのジャズマンがバンドの誘いをかけてきます。しかしそのジャズは現代風のものなので、セブには抵抗感があり、リーダーもそれは承知しています。それでもセブは妥協してバンドに加わる決心をして、一緒にツアーに出ます。全米ツアーに出れば1-2年は帰ってこれないのです。
一方ミアは何回応募しても、オーディションで認められないので、とうとう自分で脚本を書き、廃館となった映画館を自腹で借りて、一人芝居に挑戦します。しかし客の入りはさんざんで、失意から実家に戻る決心をします。
これから先は所謂ネタバレになり、見る人の興趣をそぐので、紹介は遠慮しますが、最後のシーンでは現実と想像が交錯するので、注意してご覧下さい。
なおセブが所属しているバンド、メッセンジャーズ(ジャズ・メッセンジャースはアート・ブレーキーが創設。今回はザ・メッセンジャーズという名称)のリーダー役は、グラミー賞10回受賞のジョン・レジェンドで、道理で歌も演奏も上手なはずです。
この映画の主役は、どのようなミュージカルもそうであるように、音楽であり、オリジナルの曲だと思います。ミュージカルではないが、やはり最多ノミネートだったタイタニックでも、曲が優れていたことが作品の成功に大きく貢献していました。ましてこの作品はミュージカルですから、曲が悪いと話になりません。ジャズがテーマですが、作品のテーマ曲には歌詞もついており、とても聞きやすい曲です。なお全般的に音量は大き目に設定されているので、前席で観る人は耳栓を用意した方が良いと思います。
なおLA・LA・LANDのLAは、歌のらららと、ロスアンゼルスのLAの両方に掛けた題名だと思われます。実際、ロスの賛歌にもなっています。多分それがアカデミー賞候補最多になった要素の一つのようにも思われます
更に蛇足ですが、ステージのミュージカルに与えられる、2016年度のトニー賞は「ハミルトン」(独立戦争直後の米国の財務長官という異色の設定)でした。ちなみに音楽のグラミー賞はアデルが受賞しています。なので、LA・LA・LANDのアカデミー賞の音楽賞受賞に期待が集まります。
主演のエマ・ストーンは、「スパイダーマン」の頃から大分印象が変わりました。私は以前の方が良いが、それをどう評価するかは観る人次第です。いずれにせよ、映画におけるミュージカルの価値の再発見を告げるという意味でも、特選映画である事に変わりはありません。
「89回アカデミー賞授賞式」2017/2/28
アカデミー賞授賞式では予想通り、トランプへの皮肉が満載で、期待していなかったが、クールにこなした司会が秀逸でした。メリル・ストリープを題材に、最も人気のない俳優に拍手をと言って笑いを取ったり、スクリーンにスマホのツイッターの画面を出して、#(ハッシュタグ)realDonaldTrumpにメッセージを打ち込んでみたりなど、いろいろな趣向がありますが、その直後に、バランスを取る為でしょうか、スターがツイッターに寄せられた自分宛の悪口を紹介するというシーンもありました。無論トランプとは違って皆笑い飛ばしていました。いずれNHKでもダイジェスト版を放送する(まさかトランプのシーンを全部カットしたりはしないでしょうな)と思うので、ぜひ見て頂きたい。ジョン・レジェンドが作曲賞と歌曲賞を取った「ラ・ラ・ランド」の「星空の街」を歌うシーンもあります。物故した映画関係者の思い出のコーナーで歌われたのは、ジュディ・コリンズがかつて歌ったボース・サイド・ナウで、物事には両面があるという歌詞も、トランプ政治への抗議ととれなくはありません。マイケル・J・フォックスとデロリアンも登場します。大本命のラ・ラ・ランドは作品賞を逃しました。しかもスピーチの後でです。プレゼンターのウォーレン・ビーティ/フェイ・ダナウェイの読み間違いというより、間違って主演女優賞のエマ・ストーンの封筒を渡した係り員のミスです。かなり白けましたが、全員でフォローしていました。沈黙も撮影賞を逃しました。ちなみに長編アニメは「ズートピア」でした。その受賞のあいさつで、恐怖より寛容をと訴えていました。この世界は安倍首相ご贔屓の森友学園の極右の教育方針とは真逆の世界でもあります。
なおStingの短い歌の後で、スクリーンにメッセージが出ます。それは以下のようなものです。これはCMではありません。
If I don’t have the moral courage to challenge authority… we don’t have journalism.
このメッセージを、私から日本のメディア関係者にも捧げたいと思います。
「シン・ゴジラの謎のラストシーン」2017/3/31
映画シン・ゴジラがDVDになりました。未だご覧になっていない方には、ご覧になることをお勧めします。荒唐無稽は承知の上です。チョー巨大なゴジラが都内を暴れ回るシーンがリアルです。ボール紙で作ったビルを、着ぐるみが踏んづけて歩いていた昔から、どれだけ特撮技術が進歩したかを確認するだけでも意味があります。ネタバラシをするつもりはありませんが、最後のシーンだけはどうしても気になるので、解説を試みました。
核攻撃の直前にゴジラの動きを止めることに成功した後で、動かなくなったゴジラの巨大な尻尾のクローズアップシーンが出ます。問題はボロボロになった尻尾のまわりに複数の人型がしがみついているのが見えることです。この骸骨化した人間のような代物は一体何なのでしょうか。無論映画では一切の説明はありません。
これはネットでも話題になり、諸説があります。ナウシカの巨神兵だと言う人もいます。なぜなら新ゴジラの監督は、ナウシカの巨神兵のシーンも担当していたからです。でも私はそうではないと思います。ゴジラ自体、地を這うしか能の無かった最初の形態から、次に立ち上がり、フェイズドアレイ・レーダーを持ち、複数のミサイルを同時にレーザーで撃ち落とすまでに進化します。そして強力な繁殖力を持ち、やがて世界中に広がるだろうという説明も出てきます。従ってこれらは人型に変化したゴジラだということになります。
その証拠に、頭蓋骨を観察すると、ギザギザな歯が並び、鼻孔も眼窩も無い異様な頭部であり、明らかに異形の存在です。DVDを見る機会があれば、是非確認してみてください。仮にこのまま続編が作られるとしたら、最早恐竜が暴れる映画ではなくて、ゾンビと戦う映画になるでしょう。しかも彼らは水か空気があればそれをエネルギーに変換できるし、レーザー光でビルを真っ二つにも出来るのです。
ところで、ゴジラと戦うのは自衛隊ですが、作戦全体の指揮を執っているのは官邸です。主役の長谷川が最後に言う言葉が印象に残りました。「政治家の責任の取り方は進退だ」というものです。その点だけは、我らが安倍首相も賛成されると思うのですが。そのようにハッキリと国会でおっしゃっていましたので。
そう言えば、ゾンビ映画のバイオハザードも最終章がビデオになりました。但しかなり陰鬱な映画なので、お勧めは出来ません。最近のビデオリリース作品の勧めは、記憶だけを移植して肉体の若返りを図るという「セルフレス」の方です。最後は感動ものです
ついでですが、映画の話題のついでに、宇宙戦艦ヤマトが第三世代に入り、2202になったのはご存じでしょうか。但し最早作画は松本零士ではないし、最近のアニメと比べると、絵が雑で、かなり見劣りするのが残念です</font>
「ブルース・ブラザース」2017/4/9
TVで昔の映画を上映することがあります。私も気になる作品は、以前に映画館やビデオで見た作品でも、記憶に残るものは再度見るようにしています。なぜなら以前見た時には画像が荒かったのに、現代のデジタル・ハイビジョンで見る映像はまるで別物だからです。その中でも、最近見て感動したのは「ブルース・ブラザース」です。主役のジョン・ベルーシは早くに亡くなりましたが、弟役のダン・エイクロイドは、その後、ゴースト・バスターズやドライビング・ミス・デイジーにも出演しています。べルーシの元フィアンセ役にはなんと最近亡くなったキャリー・フィッシャー(スターウォーズのレイヤ)が出演しています。
強盗で服役していたベルーシが仮釈放で出所し、教会の孤児院の税金を払う為に、バンドを再結成するというだけのストーリーです。しかし出てくるミュージャンが凄過ぎます。怪しげな牧師にジェームス・ブラウン、楽器屋の親爺にレイ・チャールス、安っぽいレストランの女将にアレサ・フランクリン。何気なく歌い出しても、ノリが全然違う。まさに鳥肌が立つ思いです。ソウルとR&B.侮るべからず。日本の最近のミュージシャンには味噌汁で顔洗って出直して来いと言いたくなります。
話は違うが、朝ドラのテーマ曲が、ミスチルから桑田になってほっとしています。前作では、「ばっかりじゃない」と歌う部分の歌詞がぎくしゃくして、どうにも聞き難くて仕方が無かったからです。
ブルース・ブラザースでは、パトカーを何十台も実際にぶち壊す(当時はCGも特撮もない)カーチェイスもあります。世界の映画ベスト10には必ず入れたい映画です。音楽の本質とは何かを考えさせると共に、自分でもやるなら、もっと真面目に音楽をやらないといかんと思わせる映画でもあります。
「ブレード・ランナー」17/6/28
NHKBSで放映された「ブレード・ランナー」を再度見ました。様々なバージョンがある映画で、SFと言っても、能天気な宇宙冒険物語ではなく、モンスターが登場する映画でもありません。むしろモンスターは人間自身という、陰鬱な未来を描いた映画です。それでもこれだけ長く見続けられ、SF映画の金字塔の一つになっているのは、単なるアクション映画ではなく、人間性という人類永遠のテーマに深く切り込んでいるからです。
人為的な遺伝子操作により、厳しい環境で働かせる事を目的にした、奴隷の人造人間の物語です。映像化が極めて難しいテーマでもあります。主演はスター・ウォーズやインディ・ジョーンズ時代のハリソン・フォードですが、未だ当時は彼の演技力も十分ではなく、むしろ人造人間役で共演したルトガー・ハウアーにとって代表作です。監督はエイリアンのリドリー・スコットです。
公害が極限まで悪化し、大気にもやがかかり、地上には酸性雨が降り続く2019年のロス・アンゼルス。青空などは全く見えない。いつも夕暮れのような薄暗い都市環境。古びた高層住宅も、人口の減少でガラガラ。そのくせ地上は人であふれている。その多くが日本人という設定で、日本語の看板が林立しています。飛行船の大画面に登場するCMはわかまつ(ビタミン剤)です。やる気と才能のある人間はとっくに宇宙に出てしまっています。まさに究極の貧民街でもあります。
宇宙で働くように作られた人造人間はたびたび反乱を起こし、人間にも犠牲者が出ている。そこで地球全体が人造人間の立ち入り禁止区域となり、発見次第射殺する命令が出ている。その処刑役がブレード・ランナーと呼ばれ、ハリソン・フォードは、中でも腕利きのハンターという設定です。
おりしも地球に入り込んだ4体の人造人間を排除する命令が下る。彼らはなんのために地球に来たのか。それは肉体的な性能は極限まで改良されているものの、大きな欠陥があるからです。それは4年というあまりにも短い寿命(耐用年数)です。見た目では分からない人造人間を区別するためには、質問をいくつかするだけで良い。感情的には不安定だからです。また成長期はないので、幼少期の記憶もありません。
関心のある方は本編をご覧頂くとして、再度この映画を見て思ったのは、こういう映画を見た後で、安部首相や麻生大臣、稲田大臣、菅長官などと、映画について話し合ったら、果たしてまともな議論になるかどうかです。<br />
安倍首相はスコセッシの映画「沈黙」を見た後、映画館の出口で記者から感想を問われて、一言もなかったと伝えられています。沈黙は宗教的な要素もあるし、難解な部分もあるので、分からないでもないが、ブレード・ランナーを見た後でも、やはりまともな感想は言えないのではないか。それなら首相どころか、国会議員としての資質も、問い直されてもやむを得ないのではないかと思うのです。但しあくまで仮定ですが。
もっとはっきり言えばIQやEQは大丈夫なのかという事なのです。麻生氏は未曽有の漢字が読めなかった。ナチスとワイマール憲法の関係も分かってはいなかった。北方4島の漢字が読めなかった北方対策担当大臣もいました。何故安倍政権の閣僚の知性が疑わしいかと言えば、それは国会で、子供騙しの言い訳に終始し、無責任な態度に終始しているからです。
でもそれが前川前次官なら大分様相が異なるではないでしょうか。なので私は出来れば政治の話題でなく、一般教養のテーマで安倍首相と話し合ってみたいのです。哲学として充分深いものを持っているのかどうかを確かめたいのです。なぜなら、人の上に立つ者は、それなりの知恵と人格、人間性が求められてしかるべきだと思うからです。
「君の名は」17/7/29
大ヒットアニメ「君の名は」がビデオになりました。東京の高校生タキと、岐阜の小さい街のミツハが、朝目を覚ますたびに入れ替わるという不可思議な現象が起き、お互いにその対応に追われます。対策として、お互いがもう一人の自分(?)に伝言を残すことで、混乱を抑えようとします。しかしある時点でこの入れ代わり現象が止まります。
一方この現象は空間だけでなく、時間も超えていることが分かります。というのは、タキが暮らす現代の3年ほど前に、ミツハが暮らす街に彗星の一部が落下し、住民500人のほぼ全員が犠牲になるという惨事が起きていたからです。しかもこの街には、千年以上前に、やはり大きな隕石の落下があって、カルデラ湖が既にあったといういわくもあります。
タキと(生前の)ミツハはお互いに会ってみたいという強い気持ちを抑えられず、名前も知らない相手に会うために、別々に旅に出ます。果たして二人はお互いに会う事が出来たのでしょうか。後は見てのお愉しみです。ともあれ、背景画が写真以上にリアルなので、聖地巡礼が起きました。この映画は、あまり先入観を持たずに見た方が楽しめると思います。興行収入で史上2位。なお我々の世代では、「君の名は」と言えば、NHKの連続ラジオドラマのマチコとハルキですが、映画を見れば、この題名にも納得がゆきます。
「関ヶ原とダンケルク」 17/9/15
まず邦画の「関ヶ原」です。主役は岡田准一で役どころは石田佐吉(光成)、敵役は当然徳川家康(役所広司)です。原作は司馬遼太郎とあるが、原作を読んだ人が、果たしてこの映画から、どれだけ原作を思い出せるでしょうか。「坂の上の雲」ほど長くはないが、それでも文庫本で3巻あり、それを2時間に詰め込むのだから無理もあったでしょう。
その結果、司馬文学で一番大事な抒情性がかなり薄くなっています。但し、戦闘シーンは邦画ではあまり見られない程、リアルに出来ています。しかも処刑シーンを含めて、凄惨さは最小限度に抑えられています。戦の場面で、槍を構えた雑兵同士がもみ合うシーンでは、獅子奮迅でも、スマートでもなく、押し合いへしあいしている様子が、多分、実際の戦もこんなものだったのだろうと思わせるものがあります。
私達が知っている史実には忠実ですが、女忍者との感情の交流などは原作にはないものです。朝ドラ「ひょっこ」の有村架純が早くもヒロインで登場しています。大作なので有名俳優が多数共演しています。原作と雰囲気が違うので、感動と言うほどのものはないが、見て損したと思うほどでもありません。可もなく不可もなく、という所でしょう。最大の不満は、佐吉が、何故そうまでして半分狂人のような秀吉に尽くさねばならないのかという疑問が残るという点でしょう。
次は洋画の「ダンケルク」です。何故題名がDunkirkなのに、ダンケルクなのかという疑問があります。映画の中でも(ちゃんと)ダンカークと発音していました。
言うまでもなく、第二次大戦のノルマンディー上陸作戦以前に、ドイツ軍に海岸線まで追い詰められた英仏軍の退却劇です。監督が徹底的にリアリティにこだわった結果、実写がふんだんに使われています。いわゆるCGらしいシーンは殆どありません。また戦争映画ですが、流血シーンも殆どありません。
これは70oのモノクロで撮影した「史上最大の作戦(ロンゲスト・デイ)」と同じ手法です。戦争の凄惨さを過度に描かずに、むしろ淡々と事実を並べることで、戦争の悲劇と不条理を間接的に訴える手法です。同じノルマデンディー上陸作戦を取り上げた映画に、トム・ハンクスの「プライベート・ライアン」がありますが、こちらの映画は悪い意味でもリアルでした。
撤退作戦である以上、船が必要です。海岸(砂浜)の上空にはドイツの軍用機が舞っています。敗走兵の数は3万と見積もられていたが、実際には30万以上でした。そんな人数を運べるだけの数の艦艇が英軍にはありません。兵士たちは砂浜に列を作ってひたすら乗船の順番が来るのを待ちます。しかし遠浅の砂浜なので大型の船は接岸できない。従って1本しかない桟橋を破壊されたら、それまでです。
歴史映画では、事実をベースにすることがお約束ですが、史実だけをエピソードとして並べるだけでは散漫になって(史上最大の作戦のように)ストーリー展開としては弱くなります。そこで「ダンケルク」では、観客を飽きさせないように、三つのストーリーを縦軸に編み込んでいます。
第一のストーリーは、戦場からやっとの思いが海岸まで逃げてきた、仲間のいない英国の兵士と、海岸で一緒になったフランスの兵士が、何とかして帰還船に潜り込もうと四苦八苦する話です。二番目は、英国政府から徴用され、ドーバー海峡を越えて英国兵の救助に向かう遊覧船の船長一家の物語です。最後は、燃料の少ないスピツトファイア戦闘機で、英国の退却船を、ドイツの戦闘機や爆撃機から守ろうとするパイロットの話です。リアリティにこだわる監督は、空中戦のシーンでは実機を飛ばしています。
この映画では戦争の恐怖を音響で表現しています。鋼鉄の船体を突き抜ける銃弾の金属音。戦闘機の機関砲の腹に響く低音。艦砲射撃の音では座席が揺れます。なので大きな音が苦手な人は耳栓を持参した方が無難です。私も映画館には必ず持参しています。音楽はなく、背景には、チクタクという時計の音が流れます。
そのうち様々な批評が出るでしょうが、私の印象は、敗走する側から描いたという点でユニークな戦争映画であり、思い入れと脚色を極力排しながら、英国人の勇気を称える映画になっていると思います。おそらくアカデミー賞の候補にはなるでしょう。
戦争の悲惨さ、戦い、或いは逃げ惑う人間の醜さ。時に示される勇気と思いやり。
剥き出しの人間性の浅ましさは、敗走シーンで如実に表れます。それは戦争の持つ悲惨さ、醜さでもあります。
それにつけても思うのは、南方戦線で日本軍が絶望的な戦いを強いられたときには、退却さえ許されなかったという事です。応援はおろか、補給さえない。退路は想定されていなかったのです。
兵士を消耗品と見るのか、国民と見るのか。帝国陸軍は前者であり、英国軍は後者だったのではないか。だからこそ、負け戦のダンケルクの撤退劇を、救出劇と見なして一つの勝利だとチャーチルは評価したのです。ここで起きるのは、ならば日本軍だったらどうしただろうかという素朴な疑問です。実際にどうしたのかは後で述べます。
自民党政権は、第二次大戦の総括を意図的に避けてきました。その結果、もし現在の自衛隊のどこかに、旧日本帝国軍の思想が受け継がれているとしたら、それは由々しき問題だと思います。安部も小野寺も、自衛隊のトップも、この映画を見るべきなのです。退却さえ許されず、無念の内に死んでいった多くの兵士の事を思い出すきっかけになると思うからです。靖国に、謙虚な気持ちもなく、形ばかりの参拝をするよりは、遥かに意味のあることだと思います。
そして満州では何があったか。形勢不利と見た関東軍は、自分たちが最初の列車に乗り込み、或いは戦場を離脱し、しかも後から敵が追って来れないように橋を爆破したのです。でもその先には逃げる手段のない、多くの開拓民が取り残されていたのです。自分達だけがいち早く逃げ、市民には逃げ道さえ残さない。それが帝国陸軍の正体なのです。
だからこそ、日本の国民は戦争放棄と武装放棄を明記した平和憲法を支持してきたのです。そこには多くの国民に、生々しい戦争の辛い思い出があったからです。ところが戦争の悲惨さを、祖父(岸)から聞くこともなく育った某首相は、武装を正当化し、それを自由に使えるようにするための、憲法改正に躍起になっています。戦争を知る者にとって、誰が本当の非国民かは言うまでもないのです。
上記の二つの映画に共通して言える事があります。それは戦争とは、所詮格好の悪いものであり、勝っても負けても良い事はないという事です。それを西部劇で証明して見せたのがクリント・イーストウッドの、「許されざる者」でした。撃ちあいや殺しあいが、いかに虚しく、惨たらしいものかを端的に表現した秀逸な作品です。この映画も、央安倍内閣には是非見てもらいたい映画です。
「この世界の片隅に」17/9/17
アニメの「この世界の片隅に」がビデオ・リリースされました。劇場で見損なったので、早速レンタルして見ました。のん(あまちゃん)の吹き替えが評判になりましたが、それは主役のすずの性格に能年の性格がアーバーラップするものがあったからだろうと思います。キャラも背景も、高畑勲のかぐや姫を連想するようなパステル調です。広島で育ち、絵が得意で、苦労も、深く考える事もなかったすずが、親が決めた呉の、海軍の職員に嫁ぎます。夫は人が良くまじめです。
戦争は庶民を巻き込み、国民の生活も、日増しに厳しくなってきます。軍港である呉への空襲は日ごとに苛烈さを増し、すずも負傷します。そしてとうとう8/9に山の向こうにきのこ雲が立ち昇ります。
戦争の悲惨なシーンは最小限度にし、恨みも悲惨さも極度に抑えられています。だから、「戦争を知らない世代」にも受け入れられ易いのではないかと思います。
この映画はクラウド・ファンディングで資金を調達しています。なので、エンドタイトルに出資者の名前が並びます。多分この映画で最も重要なのはこの部分ではないでしょうか。
即ちこれだけ明確な「反戦」映画に、ヒットするかどうかも分からないのに、大勢の人達が投資したのです。結局ヒットしたので出資者には何らかの見返りがあるのだろうと想像しますが、仮にヒットせずに、投資が戻ってこなくても、この大勢の投資者は、騙された、損したなどとは思わなかったのではないでしょうか。
私はそこに日本人の平和に対する強い思いを感じるのです。
絵がジブリの画風に似ていることと、何よりこの映画が、高畑監督の「火垂るの墓」を連想させずにはおかない作品であることを思えば、安倍政権と日本会議こそ、この映画を見るべきなのです。
「スター・ウォーズ、最後のジェダイ」17/12/16
「スターウォーズ、最後のジェダイ」を昨日の初日に見ました。ところで以前の7作品、デススターの設計図入手のエピソードの外伝「ローグ・ワン」を加えれば8作品の中で、一番衝撃的(印象的)なシーンと言えば、無論ダース・ベイダーが、ルーク・スカイウォーカーに言い放つ「ユー・アー・マイ・サン」でしょう。
「最後のジェダイ」では、『全ての映画』の中で、最高の興行収入の映画になりました。シリーズとして人気というだけでなく、SFアクション映画なのに、娯楽映画の枠を超えて、『感動』を与えてくれるという、数少ない、言い換えれば10年に一度の作品になっています。但し感動を得る為には、このシリーズをかなり深いレベルで理解し、登場人物(キャラクター)を熟知している必要があります。但しどの部分が感動的かは、ネタバレにつながるので、ここで申し上げる事は出来ません。申し訳ありませんが、間違いなく感動するとだけしか申し上げられないのです。
ネタバラシがなぜ犯罪行為なのかは、見る者の期待を踏みにじるからです。私は何百という映画の解説記事や、紹介記事を書いてきましたが、関心を掻き立てることはあっても、ストーリーを明かしたことはありません。なので、今回も「当たり障りのない」形での説明となります。
まず道具立てですが。ミレニアム・ファルコンは健在で、パラボラ・アンテナの形以外に変更はありません。前回からこれを活用しているのは、レイです。お供はチューバッカです。ファースト・オーダーの宇宙戦艦も、帝国軍の後の時代なので、進化拡大しています。かつて帝国軍で最強を誇ったのは、皇帝の全長は3キロの旗艦でした。今回はファースト・オーダーの軍艦中で、最強のドレッドノートがのっけから登場します。但し最高指導者スノークの旗艦は更に大形で、もはや形もデストロイヤーのような尖った三角形ではなく、B2爆撃機のような扁平な三角形です。
地上兵器では例の、のそのそ歩く象型のATATの後継機、今回はゴリラからイメージしたAT-M6が登場します。デザインしたのは日本人です。
主人公は前作から女性(レイ)になりました。前作で、初めて使うのに、ライト・セーバーを使いこなし、カイロ・レンと対等以上に渡り合ったことからも、ただの娘でないことだけは明白でした。前作の最後のシーンでは、ルークが隠遁する小島に、レイが上陸する所で終わっていました。無論今回はその続きが語られますが、それはドレッドノートとの戦闘シーンの後です。
レイはルークにジェダイとして反乱軍への参加を求めますが、ルークは耳を貸そうとはしません。それは何故かが、本作品の重大なテーマの一つです。ルークの生活スタイルが変わっていて、宇宙生物(家畜)の乳を呑み、海で怪魚を仕留めます。ルークは島で、レイにジェダイのフォースの本質を教え、その使い方を伝授するシーンもあります。
本作品の特徴は、リアリズムです。SF作品はともすれば荒唐無稽、即ち非現実的になりがちです。またそれが許される分野でもありますが、宇宙船内部の質感や戦闘シーンに、初めてリアリズム(現実感)を持ち込んだのが、他ならぬスターウォーズの第一作(新たな希望)でした。その精神は、本作品にもきちんと受け継がれています。だからこそ、この作品は正真正銘のスターウォーズなのです。
例えばこのようなシーンがあります。スノークの前に立ったカイロ・レンに、スノーク(相手の考えている事が全部分かるので、誰も攻撃できない。しかもダークサイドの最強のパワーを持つ)がこう言います。ダース・ベイダーに憧れて、そのヘンテコなマスクをいつまでかぶっているのだ。それは己の弱さを隠すためでしかないと叱責します。ダース・べーダーのマスクは焼けただれた顔を隠す為と言うよりも、呼吸器を兼ねていたのです。だからシューシューという音がしていたのです。またカイロ・レンはダース・ベイダーの孫でもあります。しかしその場でマスクを取った彼は、以後は素顔で戦います。即ちこの映画では心理描写がリアルなのです。そしてその点で、レイもカイロ・レンも好演しています。
それから、これも大事なことですが、全篇に渡り、キャリー・フィッシャー(レイヤ姫)が出演しています。ご承知の通り、彼女は昨年急逝しています。でも代役でも、CGでもないので、前作と同時に撮影したものと分かります。但し、外伝のローグ・ワンでは、若い頃の姿が必要なので、レイヤ姫はCGで登場しています。
マーク・ハミル(ルーク)も、本人が全篇出演してます。戦闘の舞台になる惑星にはこれまでさまざまな惑星(砂漠、沼、森、氷など)が登場しましたが、今回登場するのは塩の惑星です。反乱軍のスピーダーが疾走すると、白い塩が舞い上がって、下の赤色の地面が現れます。一説では本作品のイメージ・カラーは赤だそうです。
スターウォーズの伝統で、相変わらずメカは精密でリアルであり(無論CGが多い)、スケール(規模)も拡大しています。質感を含めて、メカに関する違和感は殆どありません。格納庫なども一層巨大化しています。細かいところでは、宇宙船の操縦席の回転でも、ぎくしゃく感はありません。宇宙人にも新顔が加わっています。今回は鳥のペットが加わります。
それでは皆様も、機会を見つけて、2時間半の映像をお楽しみください。推薦です。
「ナウシカ、ラピュタに続編を」18/2/2
TVドラマを含めれば、生涯で見る映画が何千本になるのかは想像もつきませんが、その本質はステージで俳優が演じるドラマにあることは変わりがなく、そう考えると、何千年も続いてきた、人類の娯楽の原点であることが分かります。虚構や実話のストーリー(お話)があり、それを実際の演技や、映像を使って観客に伝達する。その目的は、感動的な、或いは珍しいお話で、観客を楽しませることができるどうかです。即ちあくまで演技や映像の前に、ストーリー(筋書き)があるのです。もっと言えば原作者と、監督が観客に伝えたいものこそが、表現芸術の原点であって、範囲を広げれば、それは小説でも、詩でも、俳句でも、音楽でも同じことが言えるのです。
話が拡散しましたが、映画に戻ると、私の生活の一部になっている映画の中でも、スターウォーズと宮崎アニメは別格の存在です。SWについては、今更私が特に語る必要もないが、後者については、敢えて触れておきたいことがあります。
それは、宮崎駿には続編を作る社会的責任があるという事です。
私は幼児向けの一連の作品、「トトロ」や「ポニョ」にはさほど思い入れはないし、かといって神話や昔話をベースにした、「千と千尋」や「もののけ姫」、「平成狸合戦」、「かぐや姫」、或いは少女向けの「魔女宅」、または現代の青少年の生活を描いた「耳をすませば」にも、あまり関心はありません。問題はナウシカとラピュタに絞られるのです。この二本は映画芸術というよりは世界の文化遺産です。
但しジブリの作品なら、「火垂るの墓」も外せません。「この世界の片隅で」の原点に当たる作品で、安倍首相夫妻は絶対に見るべき作品です。これは泣ける映画ではなく、泣くべき映画なのです。
ナウシカは、人類の価値観と未来を問う、ディストピアを題材にした、壮大な人類の叙事詩であって、20世紀の人類の文化遺産です。しかも原作にはちゃんと続編があって、私も全巻を揃えていますが、その中には、なんと巨神兵とナウシカの交流までが描かれているのです。ナウシカの続編を、最新技術で作れば、日本が世界に胸を張れる作品になるでしょう。但しナウシカ自体が、未だに十分理解されているとは言い難いので、どれだけヒットするかは未知数です。でも間違いなく人類の文化遺産になるでしょう。
しかし宮崎駿も高齢化しているので、物理的な限界(特に時間の制約)があるでしょう。本来なら後継者たるべき息子の宮崎五郎も、ゲド戦記で大コケしているし、鈴木敏夫はつまるところ営業マンです。
但し、潤沢な資金があれば、ラピュタの続編なら誰にでも撮影できると思います。それもアニメではなく実写版が可能です。アニメの実写化では、宇宙戦艦ヤマトがあり、主演はキムタクと黒木メイサでした。余り期待はしていなかったが、結構これがまとまっていました。だからラピュタの続編もCGを多用すれば実写化が可能ではないかと思います。
ラピュタの大前提は飛行石の存在です。私がラピュタで最も印象的な場面は、鉱山の地下で、年老いた鉱山師が、落ちている石を割って見せると、一瞬青い光がさざ波のように広がるシーンです。その一帯の鉱石には、飛行石の成分が含まれており、上空にラピュタがくると石が騒ぐのだという説明です。このシーンには科学者の夢があります。
無論、重力を相殺するそんな物質があれば、人間も飛行に苦労はしない(多分UFOはその原理を使っている)でしょうし、非現実的ではありますが、映画ならそれが可能です。バズ―とシータが、巨木に抱かれて地球に近い軌道を漂う、巨大な飛行石を求めて、海賊(空賊)の高高度飛行機で旅立つ。飛行石があれば空中に巨大な都市を建設することが出来ます。宇宙空間を僅かな燃料で旅する事も可能になります。後はどのような展開になるかは、宮崎駿と神のみぞ知るです。
私がこの前書きで何が言いたいのかというと、今の日本の政治シーンを初め、あらゆる分野でまとまってきている、というより、小さく固まってきていることが気になるからです。既存の超保守の価値観が幅をきかせ、自由な発想も、飛躍もでき難くなっている。あまつさえ明治時代の価値観に戻ろうという動きさえある。世界中で進むナショナリズムの傾向は、より排他的で閉鎖的になり、ますます未来の可能性を狭めている。そこでは日本の未来も、世界の未来も、人類の発展も飛躍も望めないのです。
自由な発想の翼に乗って、思想と思考の翼をはばたかせる。それを可能にすることで、初めてこの閉塞感に満ちた現代社会から、人間を解き放つことができるのです。第二のルネッサンス、人間性の解放は、絵画や彫刻ではなく、映像芸術がその役割を担うのです。
「アカデミー賞受賞作」 18/3/11
第90回のアカデミー賞で複数受賞を果たした2作品が、劇場で上映されているので、鑑賞しました。以下はそのた感想文です。
「シェイプ・オブ・ウォーター」
アカデミーでは作品賞、監督賞、美術賞、作曲賞を受賞。舞台は1962年のアメリカ。アマゾの奥地で神のように崇められている不思議な生物が捕獲され、密かに研究所に持ち込まれます。研究所で清掃員をしている主人公は、幼児時期の虐待で声を失っています。この異生物は水棲なので、研究所ではタンクに閉じ込めているが、研究のために解剖されるという話を聞いた主人公(耳は不自由ではない)は、掃除婦仲間(2011年の助演賞オクタヴィア・スペンサー)に口止めをして、脱走計画を立てます。そこに生物の殺害を狙うソ連のスパイが絡んできます。
基本は研究所の警備主任との命がけの戦いです。1962年の設定なので、研究所も最新のそれとはかけ離れた、暗く、古臭い作りです。全体的に暗い雰囲気の中で、物語は進行します。同居している老人は、イラストレーターだが、解雇されました。生物は会話が出来ないので、主人公が手話を教えます。
ストーリーは、端的に言えば美女と野獣です。但し主人公は美女ではなく、しかも障碍者です。それでも不幸な環境にめげず、前向きに生きており、健常者と同じ感覚も備えているのです。但し結構あけすけなシーンもあるので、家族連れで見るような映画ではありません。また単純なSFでも、ホラーでも、おとぎ話でもありません。
この映画の主張は極めて明確だと思います。それは「差別」に対する渾身の抗議です。冒頭から異生物に対する度を超した虐待が始まりますが、「差別」はそこに留まりません。障碍者への差別、黒人への差別(だからこういう時代設定になっている)、老人への差別、ゲイへの差別、外国人への差別が全篇で渦巻いているのです。そこに権力の暴走が重なって、「差別という悪」が、人権は愚か、命まで粗末に扱うようになる。ここで観客は、差別意識と、異質なものへの嫌悪感が、戦争の原因でもあることに気付かされるのです。敢えてソ連のスパイ等という無理な要素迄入れたのも、戦争を連想させるためだと思います。
万人が見て、手放しで楽しめる映画ではありません。しかしホラーとも思える、気持ちの悪さだけを感じていたら、この映画を理解できないし、違和感しか残りません。ところがこの映画を、あらゆる差別に対する抗議と、障碍を抱えた無力な主人公が、目に見えない差別の悪に果敢に立ち向かって行くヒーローの映画だと考えれば、すべてが納得できるのです。
「スリー・ビルボード」
アカデミーでは主演女優賞、助演男優賞を受賞。
主演女優のフランシス・マクドーマンドが、授章式で、女性の候補者全員に起立させ、その数がいかに少ないかという、性差別に対する抗議をしたことでも話題になりました。マクド―マンドは「ファーゴ」で主演女優賞受賞、イェール大で修士号、監督のコーエンと結婚しており、トニー賞の受賞歴もあります。但し美女とは言いかねます。
ところで、まずこの題名が分からなかったが、ビルボードとは道路沿いの立て看板のことです。ミズーリ州のエビングと辺鄙な街の、しかも人通りの少ない道路に設置された巨大な三枚の看板は使う人も見る人もいませんでした。でも看板が遠くに見える家に住む主人公が、反抗期の娘を強姦、惨殺されるという事件の犯人逮捕のめどがついていないかったことから、車を売って、看板に警察に対する抗議文を掲載しました。そこから混乱の全てが始まります。
名指しで怠慢を指摘された地域の警察署長の気持ちが良かろうはずもなく、部下の警察官もいきり立ちます。やがてやり場のない怒り(と無知)が暴力事件に発展し、犯人捜しそっちのけの地域内でのトラブルに巻き込まれてゆきます。そこに、主人公と離婚して10代の女性と暮らす主人公の夫が一枚絡んできます。
監督が表現したかったのは、同じコーエン兄弟のファーゴやノー・カントリーでも見られたような、米国社会の底辺に流れる狂気と無知であり、非日常的な非条理が、一触即発で日常に潜んでいる事への警告だと思われます。映画を見た人はおそらく大半が結末には納得できないでしょう。でもこの映画の目的と主張を考えると、それもありかなと思えて来るのです。
スリルがあって楽しい映画だけが、映画ではありません。映画を見た後で、人間とは何か、ヒューマニズムとは何かを考えさせられる。それが娯楽映画と、人生映画(というのかどうかは知らないが)の違いです。前者は映画の楽しさを与えてくれます。後者は私たちの人生をより深く、また意味あるものにしてくれます。だからどちらも良い映画なのです。映画の良し悪しの判断基準も極めて簡単です。見た時間が、無駄でなかったと思えば、その映画は良い映画なのです。辛口の批評になりますが、日本の映画は、娯楽映画でも、人生映画でも、未だ遠くハリウッドには及ばないと思います。その最大の原因が監督のレベルの差だと思います。
但し「空海」(日本人の主役=染谷が中国語で話していたのが凄い)のように、費用を掛ければそれなりに見栄えのする映画も出来ます。なので日本はもっと映画に費用を掛けても良いと思います。そもそもクール・ジャパンなる代物に、どれだけ金を遣い、どれかけ成果を上げたのかを、政府は公表すべきなのです。都合の悪い事には口をつぐむのは日本の政府の特徴なのです。
更に芸能界におけるNHKという足かせも取り払うべきです。実力のある俳優(やアナウンサー)はNHKに出してもらう必要はないのです。
それにつけても最近の映像技術の発達には目を見張るものがあります。スーパーマンから始まる、一連のマーベル作品(はっきり言えばB級作品)でさえ、デザインから特撮映像まで、本当に良く出来ています。費用も掛かっています。それらもまた、見て楽しければ、良い映画なのです。
ところでワウワウで再放送があったので、昨年度の受賞作ララランドを見て、再度良い映画だと思いました。良い映画のもう一つの条件。それは何度見ても新しい発見があることです。二度見に耐える作品が良い作品なのです。ララランドの主役は二人ともプロのミュージシャンではありません。だから「本物」のミュージシャンが補強で登場するのですが、中でもジョン・レジェンドが劇中演奏する「スタート・ザ・ファイア」という曲が気になったので、楽譜を買いました。こと音楽に関しても、日本の映画は未だ遠くハリウッドには及びません。
生涯一映画ファンとして言えることは、ただ一言、「映画よ永遠なれ」です。
「万引き家族」 18/6/12
カンヌで受賞した「万引き家族」を見ました。家族という名前がついているが、とてもではないが、家族で観るような映画ではありません。また貧しいけれど、(世間的な意味で)幸せに暮らしている家族の映画でもありません。家族と言っても、これ以上はないという訳アリだらけの、寄せ集めの「家族」構成。万引きをするのは、収入が全く無いからというよりは、犯罪の概念が「一般人」とは異なるからです。店頭に並んでいる商品は、その段階では未だ誰のものでもないという「屁理屈」が、その一つです。
でもこの家族には、筋が一本貫かれています。それは他人を傷つけないこと、そして自分達自身が社会的弱者なのに、困っている人間を見過ごさないということです。現在の日本で、これが出来ている日本人がどれほどいるでしょうか。
とはいえ、学校にも通っていない長男(?)は、老店主が万引きを知っていて見逃してくれたことを契機に、やはり万引きは良くないのではないかと思い始めます。それでもなお、万引きはこの映画の主要なテーマではないのです。
今の日本の法律や福祉の仕組みでは救えない、最下層の人達の方が、気持ちの上では、フツーの人より遥かに人間的な場合もあり得るという事を、作者は言いたかったのではないか。法律の枠組みを超えたところで、むしろ、「楽しく」、「美しく」、「人間らしく」生きている者たちがいる。見た目はまともでも、心の中に闇をかかえている生き方と比べて、どちらの方が「優しく」、或いは「まとも」なのか。体裁だけ整えても心の結びつきのない、血のつながった家族と、他人同士だが、気持ちの上では強く結びついて、支え合っている「万引き家族」。どちらが本当の家族なのか。それを監督は言いたかったのではないでしょうか。
祖母役の樹木希林が、老衰で亡くなる前に、夕日に照らされながら、満足そうな穏やかな表情を浮かべます。後妻に追い出されたという暗い過去を引きずっていても、ほぼ犯罪者の家族しか持てなかくても、彼女は自分の人生を最期に肯定できたのです。
本当の人生とは何か、本当の人間同士の愛とは何か、更には本当の正義とは何かを、この映画は観客に執拗に問いかけ続けます。無論実話ではありませんが、これ以下はないというくらいの「負け組」が、それでも絶望だけはせずに、支え合って(いがみ合うシーンがない)、なんとか生きていこうとする。この荒廃した現代の日本の社会の中で、地位も能力も財産もない人間が生きてゆく事が、どれだけ大変かということも、この映画は問題提起しています。
振り返れば、果たして自分は彼ら以上に「正しく」、「人間らしい」生き方が出来ているのだろうか。今まさに、嘘がはびこる政治や官僚の世界、そして5歳の幼児を餓死させるような鬼畜の事件を目のあたりにして、この映画の持つ意味は、時期的に看ても、極めて大きなものがあります。これは単なる映画ではありません。体裁だけで、実態は不公平で、万引き以上の巨大な不正がまかり通る日本社会に対する、死に物狂いの「挑戦状」だと思います。
映像はそれほど美しくないし、アクが強くて、これでいいのかと思うシーンもあり、途中で帰りたくなるかもしれませんが、そこを我慢して見て頂ければ、最後には納得して頂けると思います。
但し、あくまでこれは個人的な感想です。人によって、見方や受け取り方が違うのは、今更申しあげるまでもないことと思います。
そこで思いつくのは、おなじみ教養と品格のない政治家でトップを争う、安部・麻生のお二人です。もしお二人が、なにがなんでも続投したいということであれば、この映画の感想文を書いて国民に示して頂きたい。こればかりは代筆は不可です。そうすれば、偽らざる価値観、正義感、感性、創造力、そして文章能力が、白日の下にさらされることになるでしょう。
以前、安倍首相が洋画の「沈黙」を見た後で、感想を記者から問われて、言葉がありませんでした。その時から、私は安部首相の基本的な教養を疑い始めました。それでも未だ、沈黙を見ただけましだと思っています。
もしAAコンビが、漫画しか読まないというのであれば、この映画の代わりに、感想文を書いて頂きたい映画は、「火垂るの墓」です。アニメだから見やすいと思います。
私達は無能ならともかく、まともな正義感や、人間らしい感情がない政治家が、日本を仕切っているとは思いたくないのです。だから、そうではないことを、ご両人は是非とも自分の言葉で、国民に分かりやすく示して頂きたいのです。
「ビデオ・リリ−ス 18年6月」
「8年越しの花嫁」
実話。朝ドラのリツ(佐藤)が活躍。但しヒロインの土屋は演技がイマイチである。最後に本人達の写真も登場。殺伐で虚無的な状況の現代にあって、人の善意を信じる事の大切さを問う作品。
公式サイト http://8nengoshi.jp/ 解説サイト https://eiga.com/news/20180703/1/
「15時17分、パリ行き」
仏の高速鉄道で起きたテロ事件に巻き込まれた米国兵士の実話。というより、本人が本人を演じているという驚異的な作品。監督はイーストウッド。あくまでリアルな画面作りにこだわった。但しこれもそっくりな仏首相は俳優が演じている。
解説サイト https://eiga.com/movie/88331/
「ダウンサイズ」
マット・デイモン主演。細胞を縮小して人間を13pにする技術が開発されたという想定。自然資源の節約にもなるし、経費も消費も少ないので、資産(あれば)の価値が千倍になる、しかしこのミニチュア世界でも、格差が生じている。かつてない発想なので、結末が気になって最後まで見てしまう。しかしベトナム人の年齢不詳で品のないヒロインは、リアルかもしれないけれど、見る者にはいささか辛いものがあります。
公式サイト http://downsize.jp/
全米ヒットの「ブラック・パンサー」はお馴染みマーベル・コミックの実写版だが、日本人にはなじみがなくてイマイチ。「パディントン2」は、イギリスの家族向け作品で、米国の映画のように汚い言葉が出てこないだけでも、安心して見ていられる。悪役のヒュー・グラントが最後に唄って踊る。一家の母親役はどこかで見た顔だと思ったら、「シェイプ・オブ・ウォーター」
のサリー・ホーキンスだった。推薦。公式サイト。http://paddington-movie.jp/