「オンライン・オピニオン」
2752.橋下批判 4.22
毎日のように情報を集めて、読みちらし、また書き散らしていると、著名人にも好き嫌いが出て来ます。関心のある人物の言動をメディアを通して見ていると、誰も表立って指摘しないけれど、やはりそれは違うだろう、それはおかしいと思うことが結構出てきます。当人と接点はないし、お互い一生見知らぬ仲で終わることも分かっています。インフルエンサーなどではない無名の私の批評など痛くも痒くもないでしょう。なので、目立つ人間には、称賛もあれば、非難もある(これを毀誉褒貶と申します)。それがネットハラスメント(=誹謗中傷と妬み)の大元ではないかと思います。
今日の人物批評は、御馴染みの橋下徹氏です。見た目では今どき流行らない刈り上げ頭が気になるが、むしろ問題は右傾化で凝り固まったその中身です。万博に50万人きたぞ、兆を超える経済効果が出るぞと大はしゃぎを始めた。でもそれが言えるのは、逆風の中でも、もうしばらく様子を見て欲しい、いざ開幕すれば必ずプラスの効果があると言って、国民に頭を下げてきた人間(そういう奇特な人がいればですが)だけでしょう。ところが橋下はそうはせずに、小ずるく立ち回って、万博とは距離を置いていたように感じます。
彼の論調でまず言えることは、その傲慢さです。究極の上から目線です。泉房穂との討論でも、失礼は度を超えていました。謙虚さのかけらもないということは、分かりやすく言えば、何様のつもりかという事です。年齢相応の分別が欲しい年齢だし、小僧でもあるまいし、突っ張るのは良い加減にした方が良いのではないでしょうか。しかも安倍の存命時には、見ている国民が恥ずかしくなるほど、安倍にすり寄っていた、その姿が忘れられません。
ところでもう一人は女性で、安倍昭恵氏です。さすがに人が悪いとは思いませんが、申し訳ないが、人並みの想像力と配慮があるようには、少なくとも私には思えないもです。一時、夫の立場を離れた独自の見解を持ち出して、期待もしたのだが、その後の展開はありませんでした。森友学園の名誉園長になった時から、本人の運命も財務省の運命も、何より籠池夫妻と赤木夫妻の運命が大きく変わりました。無論悪い方にです。配偶者を凶弾で失うというのはそうある経験ではありません。でもそれは統一教会のアコギな集金方法によるものです。しかも統一教会は未だに裁判で争う姿勢です。拳銃を撃ったのは犯人にしても、引き金を引かせたのは統一教会なのです。問題の根は、岸から続く安倍晋三の統一教会とのズブズブの関係にあり、それが犯人が安倍晋三を標的に選んだ理由なのです。
但しもう一つの大きな問題が森友学園です。たらればですが、仮に安倍昭恵が名誉校長でなければ、晋三が国会で大見えを切ることもなく、公文書改竄の問題も起きず、従って佐川から理不尽な命令が部下に下されることもなく、赤木氏も命を落すこともなかったでしょう。無論、昭恵に直接の責任はなく、周囲が忖度で動いた結果だが、それにしても、常識のある一般市民なら、同じ立場に立たされたら、相当に落ち込む場面です。それがあまり感じられないことが不思議なのです。自分という存在が、日本の政治史に、余り芳しくない1頁を付け加える事になったという点を、記憶しておいて欲しいと思わざるを得ません。
森友事件で感じる事はもう一つ、それは財務省という役所の存在です。森友学園では、国有地を安売りすることで国民に大損をさせたのに、その意識が感じられない。時の総理に、恥をかかせるわけにはいかないという一念だけが伝わってくる。だから国民に対する謝罪も反省もない。だって仕方がないじゃないかという開き直りしか見えない。無論、財務省の態度は、当時の財務大臣が、ゴーマンが背広を着て、中折れ帽子を被って歩いているような御仁だということとも大いに関係があることでしょう。
ついでに言わせて貰えば、週刊誌などでは、野田佳彦は財務省のいいなりの人形だと書かれています。官僚の下働きのような人間が、野党第一党の党首というのはどう考えても納得できない。ならば財務省は、政権が与野党どちらに転んでも問題がないという異様な政治環境が存在するのです。だから誰も(特にメディアは)財務省を批判しない(ザイム真理教の森永は亡くなった)。しかも野田の体質は、石破より更に右寄りで、権威主義的です。
与野党の批判能力に問題がある以上、財務省は自浄の機能を持つ必要があると思います。例えば、財源が不足気味になったら、「身体を張って」防衛費の削減を政府に要求するなどです。誰のための行政かって?無論国民の為の行政です。政府のためでも、省庁の為でもありません。省益しか念頭になかった役所が、国民の立場と目線で判断をするようになった時に、初めて官庁の中の官庁が生まれるのです。